はじめに
1 「カンナニ」
2 天皇制国家による思想・言論弾圧
3 「移民」と「先駆移民」の間
(以上、本号)
4 満洲移民村歴訪
5 『長篇小説 鴨緑江』
おわりに
(以上、次号)
はじめに
湯浅克衛(本名、湯浅猛。1910‐82年)という作家を知る人は今では少ないであろう。ただ、幼・少年期を過ごした朝鮮にこだわり続けた異色の作家として、その功罪を含めて、検討に値する作家だと思う。
湯浅は香川県の善通寺に生まれた。父親は地元の製缶工場に勤めていたが、湯浅の幼年期に解雇され、その後は植民地・朝鮮の日本軍・守備隊員として、朝鮮各地を転々とした。1916年、父親が朝鮮総督府の巡査試験に合格して、水原で巡査としての勤務に就いた。水原は当時の京城(現、ソウル)の南35キロメートルほどに位置する京畿道の中心都市である。18世紀末にはその地に華城が建設されて、水原は城壁に囲まれた城郭都市となった。朝鮮王朝は当時首府を水原(華城)に移すことも考えていたという。父親の水原赴任に伴い、湯浅は水原尋常小学校に入学した。1922年には同小学校を卒業して、当時の名門校・京城中学校に進学した。湯浅は1年生の時には水原から汽車で通学していたが、通学時間がかかり過ぎるので、2年生からは寄宿舎に入った。
京城中学校では、後に「名人伝」、「弟子」、「李陵」など漢籍に材をとった作品で有名になる中島敦と4年間同級であった(中島は4年修了で卒業し、第一高等学校に進学した)。湯浅の回想記によれば、湯浅は二度、中島に助けられたということである。一度は3年生の時で、数学が嫌いな湯浅は数学の時間に教科書で隠しながら『改造』を読んでいた。『改造』といえば、当時の代表的な「左翼雑誌」である。湯浅は盗み読みしているところを数学の先生に見つかり、危うく停学になるところであったが、中島が間に入って京城中学校の「図書室監禁」2週間で決着したという。もう一度は4年生の時で、湯浅の寄宿舎の机から谷崎潤一郎の『痴人の愛』が見つかり、この時も停学処分になりかかった。しかし、中島や舎監長の先生の尽力で寄宿舎の「図書室監禁」1週間で済んだという(湯浅克衛「敦と私」、『ツシタラ 3』3‐4頁。『ツシタラ』は文治堂書店版『中島敦全集』各巻の付録)。これらの出来事があったのは、湯浅が15、6歳の時であるから、湯浅は一方で『改造』を読みながら、他方では『痴人の愛』を読むといった、ちょっと風変わりで早熟な文学少年だったのであろう。
1927年、湯浅は京城中学校を卒業して東京に出た。翌1928年には早稲田第一高等学院に入学した。当時の早稲田第一高等学院は修業年限3年で、修了すれば早稲田大学の学部に無試験で入学できた。しかし、湯浅は、1929年、「近代文芸研究会」事件に連座して、早稲田第一高等学院を退学させられた。京城中学校時代に『改造』を読んでいた湯浅は早稲田で「左翼」的なサークル「近代文芸研究会」とつながりを持ったのであろう。湯浅は退学後の数年間、それ以上の学歴を求めず、「文学修行」に専念していたようである。
1 「カンナニ」
湯浅克衛の処女作「カンナニ」は『文學評論』の1935年4月号に掲載された。島木健作の「癩」が『文學評論』に掲載されたちょうど1年後である。その時、湯浅はまだ25歳であった。しかし、「カンナニ」の『文學評論』掲載にはいろいろと曲折があった。
『文學評論』に掲載された「カンナニ」は、水原の日本人巡査の息子で小学校5年生の龍二と彼より2歳年上の朝鮮人少女・カンナニ(李橄欖。普通学校夜間部5年生とされている。普通学校は朝鮮人子弟のための小学校)との間の幼く淡い恋情を描いた小説のように見える。ただ、それだけではなく、この小説は植民地支配下に置かれた朝鮮の人々の生活や感情、そして朝鮮人と日本人植民者の間の関係などについて、少年の目―それは小学校入学以前から中学校卒業まで10年以上を朝鮮で暮らした湯浅の目と言い換えることができる―を通してリアルに描いた作品として興味深く読むことができる。
龍二はちょっと前に偶然知り合ったカンナニとすぐに仲良くなった。だが、一緒にいても、「何と話しかけたらいゝか、わからなかつた。すると、カンナニが[朝鮮語で]『お前巡査の子な』と云つた」。「そして、不審氣な龍二の顔に、今度は日本語で『巡査の子と遊んぢやいかん』父が云つたよ」と続けた。龍二はこう応えた。
「どうしていけんのぢや」
「父は日本人大嫌ひ……[2字伏字、憲兵]一番嫌ひ、巡査、その次に嫌ひ。朝鮮人をいぢめるから、惡いことするから―」
「巡査は惡いことはせん、巡査は惡いことをしたり、いぢめたりする奴を退治する役ぢや。[後略]」
龍二はいつしようけんめいにカンナニを説得しようとした。けれども女の子は淋し氣に笑つたまゝ乘つて來やうとはしなかつた。
私の家でも―とカンナニは云ふのである―……[2字伏字、家を]潰された。持つてゐた田畑はいつの間にか「××」[伏字か? 復元版「カンナニ」では、「新しい地主」]のものとなつてゐた。そんな筈はないから刈入れをしてゐたら、巡査がやつて來て父をらうやに入れ、父がやつてゐた書堂は、惡いことを子供等に教へるからと……[伏字、内容不明]戸を釘づけにしてしまひ、子供等を……………[5字伏字、無理やりに]普通學校に入れてしまつた。
(池田浩士編『カンナニ・湯淺克衞植民地小説集』インパクト出版会、1995年、に復刻された『文學評論』版「カンナニ」503‐504頁。伏字の箇所は復元版「カンナニ」によって補填。復元版「カンナニ」については後述。)
この時代には、このような文章を発表するだけでも大変なことだったであろう。それは、『文學評論』版「カンナニ」の末尾に、徳永直の筆になる、以下のような「附記」があることからも分かる。徳永は『文學評論』の編輯相談役のような立場にあったから、「カンナニ」掲載の可否について、編輯長・渡辺順三から判断を求められたのであろう。
(附記、「カンナニ」は、作者から半年餘も預かつてゐた作品であつたが、その性質上、却々發表に困難であつた。こん度かくも無惨な姿で編輯者に推薦した次第であるが、尚この後半は「萬歳事件」が扱はれてゐる。「カンナニ」の作者は後半を別に構圖を改めて書くと云つてゐるから、またいづれ讀者の眼に觸れる機會があると思ふ。一言作者及び讀者へのお斷りを兼ねて―徳永直)
(池田浩士編『カンナニ・湯淺克衞植民地小説集』に復刻された『文學評論』版「カンナニ」519頁)
このように、『文學評論』版「カンナニ」では、原「カンナニ」における「六」から末尾までの400字詰原稿用紙46枚分がすべて削除されている。この部分では万歳事件(3・1朝鮮独立運動、1919年)が扱われていて、これでは、とうてい検閲を通らないと考えた徳永がこの「後半」部分をすべて削除したのである。
池田浩士編『カンナニ・湯淺克衞植民地小説集』7‐49頁収載の復元版「カンナニ」(戦後、徳永によって削除された部分をすべて復元したとされるもの)の末尾には、万歳事件の渦中に、カンナニが日本人植民者によって殺害されたということが示唆されている(ただし、この復元版は、元原稿が失われていたため、湯浅が10年前の記憶のみにもとづいて作成したもので、原「カンナニ」そのものかどうか疑問の余地がありうる)。
徳永はさらに、日本人の高等小学校生や小学校高学年生が朝鮮人の一少女に性的暴行を加えている場面の一部など検閲で問題になりそうな箇所を多く削除している。徳永はこれらの削除によって「無惨な姿」になった「カンナニ」でもなお、『文學評論』に掲載するに値すると考えたのであろう。その判断が間違いだったとは思わないが、『文學評論』版「カンナニ」と復元版「カンナニ」では、読後の印象が微妙に異なるのも事実である。もし、復元版「カンナニ」の「後半」が原「カンナニ」の「後半」と同じだとしたら、原「カンナニ」は優れた「植民地文学」だったということができる。
2 天皇制国家による思想・言論弾圧
「カンナニ」が『文學評論』に掲載された1935年頃には、天皇制国家による思想・言論弾圧が頂点に達しようとしていた。それは日本帝国主義による中国大陸侵略の拡大と軌を一にするものであった。その過程で、多くの人たちが「転向」をよぎなくされた。
島木健作は1928年の「3・15事件」に連座して禁固5年の刑に服し、肺結核の重篤化に伴い、翌年に「転向」を表明した。島木は1932年、刑期を一年残して仮釈放されたが、1936年11月、思想犯保護観察法が施行されると、島木もその対象者とされた。治安維持法違反で有罪とされ、仮釈放された身だったからである。
「3・15事件」後も厳しい弾圧が続けられたが、特に1933年には多くの衝撃的な事件が起こった。同年2月、「蟹工船」などの作品によって知られる作家・小林多喜二が検挙され、築地署において拷問により虐殺された。6月には日本共産党幹部の佐野学と鍋山貞親が獄中で「転向」を声明したため、その後、日本共産党員の「転向」が続出した。
同じ1933年、高見順も、「日本プロレタリア作家同盟」(ナルプ)・城南地区の「責任者」として、治安維持法違反の容疑で検挙された。高見は「一年間起訴留保処分」を受けたが、半年後に不起訴となった。高見が「転向」を表明したからであろう。しかし、思想犯保護観察法が施行されると、治安維持法違反の容疑で検挙されたことのある高見はその対象者とされ、月に一度、東京・千駄ヶ谷の保護観察所に出頭することを義務づけられた(高見順『対談 現代文壇史』筑摩叢書、1976年、185、213、283‐284頁)。
徳永直は、このような思想・言論弾圧の状況下、政治と文学の関係をめぐって、政治を優先する蔵原惟人らと対立して、日本プロレタリア作家同盟を脱退した。これは実質的な「転向」といってもよいであろう。
同時に、「左翼雑誌」に対する弾圧も強化された。1936年、島木健作の「癩」や湯浅克衛の「カンナニ」を掲載してきた『文學評論』は、出版元・ナウカ社の社主・大竹博吉がソ連のスパイ容疑で逮捕されたことによって終刊となった。「左翼」系作家の作品発表の場が次々と消滅していく中、1936年3月には、武田麟太郎らによって文芸誌『人民文庫』が創刊された。編集長は本庄陸男で、湯浅克衛もこの雑誌に多くの文章を寄稿した。この雑誌も警察に睨まれていたようで、1936年10月25日、『人民文庫』に関係していた作家たちが新宿の喫茶店・「大山」に集まっていたところを、警官隊に踏み込まれ、本庄陸男や湯浅克衛、田宮虎彦、田村泰次郎、高見順などが検挙された。ただ、本庄と湯浅以外はその夜のうちに釈放され、本庄と湯浅も数日後には釈放された。この『人民文庫』も1938年には廃刊をよぎなくされた。
このような思想・言論弾圧状況の中で、湯浅克衛の文学にも、大きな揺れが起こってきた。湯浅の「カンナニ」など初期の作品は植民地朝鮮における朝鮮人や日本人植民者の生活を、自身の少年時の体験を通してリアルに描くところに長所があったのだが、しだいにそれが薄れていき、観念的で国策文学的な方向に傾いていったのである。
湯浅の文学におけるこのような揺れは、思想・言論弾圧とともに強化されていった思想・言論の国家統制にも関係することであった。1939年2月、大陸開拓文芸懇話会が拓務省の後ろ盾で結成された。国策としての大陸開拓に資する文学を目指すというのがその目的であった。自ら望んでかどうかは分からないが、朝鮮体験の豊かな湯浅も大陸開拓文芸懇話会に加わり、その中心をなす6人の委員の一人となった。その後、湯浅は日本と朝鮮との間をしばしば行き来して、しだいに朝鮮において重要な位置を占めるようになっていった。朝鮮文壇では、朝鮮語で書かれた作品の発表が困難になり、朝鮮人作家も日本語(当時の表現では「国語」)で書かざるをえなくなった。
3 「移民」と「先駆移民」の間
湯浅克衛は、「カンナニ」に見られるような朝鮮人の生活や感情に対する関心をしだいに失い、朝鮮や満洲に在住する日本人の問題に関心を集中させていった。その一環として、朝鮮や満洲への日本人移民を主題とする作品やルポルタージュを多く発表するようになった。
朝鮮への日本人移民の問題をテーマとする最初の作品は「移民」(『改造』1936年7月号)である。山陰地方の貧しい小作人・「松村松次郎」は東洋拓殖株式会社(東拓)による朝鮮への移民の募集に応募して朝鮮に渡った。日露戦争が終わって5年後の1910年のこととされている。しかし、東拓が用意した入植地は朝鮮北部の山間の荒れ地であった。「松次郎」は最初はがっかりしたが、25年の「年賦」を東拓に納め終われば、この3町歩ほどの土地が自分のものになると考えて気を取り直した。「松次郎」と妻の「いや」は朝早くから働き、田畑を少しずつ整備していった。そんなやさき、「いや」が肺を病み、苦しんだ末に死んでしまった。「いや」を家や田畑のよく見える小高い丘の上の墓地に葬った時、「松次郎」はこの地以外に自分の故郷はないと思い定めた。それで、付近の朝鮮人農民たちと親しく交わった。朝鮮人農民たちも「松次郎」を信頼し、彼の燐家の娘を後妻とするよう勧め、「松次郎」もそれを受け入れた。こうして、「松次郎」は朝鮮人社会の中に溶け込んでいった。「松次郎」が死んだ時には、朝鮮人農民たちの手によって「さながら貴人の葬式」のような葬祭が行われた。
この作品は、いろいろと批判の余地はありうるとしても、少なくとも、朝鮮人農民たちと日本人入植者との交流を対等に近い形で描いている点で、国策文学的とまでは言えないであろう。
他方、満洲への日本人移民を最初に扱ったのは「先駆移民」(『改造』1938年12月号)で、これは、1933年に拓務省によって東北満洲に送り出された第二次武装移民団にかかわる事実を踏まえた作品である。この第二次武装移民団は「七虎刀」地域に入植したので、その入植地は「千振村」と称された(付図の③)。第二次武装移民団も、第一次武装移民団(1932年送出。入植地は永豊鎮で、弥栄村と称された。付図の②)と同様に、全国の在郷軍人から成る移民団で、現地の武装勢力との戦闘を想定していた。これら二つの移民団は「先駆移民」と呼ばれていた。
「先駆移民」という作品は、この第二次武装移民団が置かれていた状況を大枠として、その中に一人の「左翼崩れ」らしき団員・「黒瀬陸助」を造形して、彼の他の団員とは異なる言動を描いたものである。その最後の部分では、この200人足らずの武装移民団が4000人ほどの「匪賊」に取り囲まれ、籠城状態になる。救援を求めるために「密使」が送られるが誰も帰ってこない。「匪賊」に捕まり、惨殺されたに違いない。その時、「黒瀬陸助」が6人目の「密使」として名乗りを上げ、送り出されるが、それから5日経っても帰ってこない。「黒瀬陸助」の生死は不明のままだが、救援部隊が到着し、第二次武装移民団は救われる。
この作品で、湯浅の関心はもっぱら日本人移民たちの動向に限られ、日本人の入植に抵抗する満洲人や在満朝鮮人たちはすべて「匪賊」として扱われている。その点で、まさに国策文学というべき作品である。このように、「移民」(1936年)と「先駆移民」(1938年)の間に湯浅の揺れの境目を見ることができる。
(次号に続く)
(「世界史の眼」No.64)