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「世界史の眼」No.80(2026年11月)

本号では、今年刊行された書籍の書評を2本掲載しています。千葉大学の酒井啓子さんに、細谷雄一『危機の三十年―冷戦後秩序はなぜ崩壊したか』(新潮選書、2026年)を書評して頂きました。また、島根大学の鹿住大助さんに、ジュリオ・ボカレッティ(今西康子訳)『水の世界史―文明・国家・グローバル社会はいかに作られたか』(白揚社、2026年)を書評して頂いています。

酒井啓子
書評:細谷雄一「危機の30年」

鹿住大助
≪書評≫ジュリオ・ボカレッティ著、今西康子訳『水の世界史:文明・国家・グローバル社会はいかに作られたか』白揚社、2026年

細谷雄一『危機の三十年―冷戦後秩序はなぜ崩壊したか』(新潮選書、2026年)の出版社による紹介ページはこちら、ジュリオ・ボカレッティ(今西康子訳)『水の世界史―文明・国家・グローバル社会はいかに作られたか』(白揚社、2026年)の出版社による紹介ページはこちらです。

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書評:細谷雄一「危機の30年」
酒井啓子

 リベラル国際秩序はもとより、国際秩序そのものが終焉の危機に瀕していることは、国際政治研究者の間のみならず、現実に国際政治の舞台で活躍する政治家の間でも、認めざるを得ない点である。2026年初めにカナダのマーク・カーニー首相が「ルールに基づく国際秩序」は終わったと明言したのがその一例だが、なによりもリベラル国際秩序の推進役であった米国自体が、トランプ政権が成立して以降、国際秩序の破壊者となっている。

 こうした国際秩序が崩壊した現代国際政治をどう読みとくか、という大きな課題は、現在、おそらくほとんどの国際政治研究者にとって、その頭を悩ませている問いであり、タフな「頭の体操」となっていると言えよう。その分、多くの研究書、解説本が近年刊行されている。中西寛氏、飯田敬輔氏ら日本国際政治学会理事長経験者の国際政治学の第一人者が編んだ『漂流するリベラル国際秩序』(2024年、日経BP)や、上智、一橋大学で教鞭をとった国際政治学者、納家政嗣氏が編んだ『自由主義的国際秩序は崩壊するのか』(2021年、勁草書房)などがその代表的な著作である。国際政治、社会科学系の諸学会はいずれも学会を挙げてこの問題に取り組む傾向がみられ、日本政治学会は2026年前期の年報の特集テーマを「リベラル国際秩序の揺らぎ 再考」としている(https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480867520/)。

 本書もまた、そうした問題意識に取り組もうとする意欲作であり、著者はイギリスを中心とした国際政治史を研究する国際政治学者である。メディアのみならず、政府に対するアドバイザー的役割も果たすなど、第一線で活躍している。

 『漂流するリベラル国際秩序』や『自由主義的国際秩序は崩壊するのか』などの先行研究が多くの議論を米中関係や安全保障論に集中させているのに対して、本書は、著者の専門に即して、外交史から議論を起こす。その特徴は、戦間期のヨーロッパ国際政治を描いたE.H.カーの有名な著作『危機の20年』をモデルにし、その視角を援用して現代国際政治を論じている点である。

 世界大の戦争後のユートピア的国際認識とリアリズム的国際認識が二項対立的にせめぎあうなかで、ユートピア観の行き過ぎに対する揺り戻しのような形で世界が剥き出しのリアリズムに傾斜、それが危機的状況を生んだ、というカーの戦間期国際政治分析に倣って、著者が論じるのは、唯一残った自由主義陣営の勝者としての超大国アメリカがリーダーシップを取る国際的平和維持、国際協調、という冷戦後の世界が、トランプ政権のもとでのアメリカの一国主義、プーチンのウクライナへの軍事侵攻といった形でリアリズム政治に転換していった過程である。ポスト冷戦期の1990年代から2010年代末にかけて、「西側諸国においてはユートピアニズムが浸透し、平和と国際協調を楽観的に想定」し、アメリカの優越性を前提とした「民主主義」「新自由主義」「グローバリズム」の時代となるという、「西側諸国」にとっての「光」の時代だったが、そのユートピアニズムこそ、カーが批判した「レッセフェール思想がイギリスを越えて普遍的な原理として拡散していった現実」が、今現在に至って再びグローバルに拡大し、歪みをもたらす根源であった、とする。

 冷戦期から冷戦後にかけての流れを論述するにあたり、どのように欧米ロシアの各国首脳たちや知識人たちの間で国際協調の試みが進められてきたか、その記録を丹念になぞるところが、外交史研究者としての腕の見せどころだろう。その過程で、冷戦末期の自由主義圏で拡大した新自由主義、レッセフェール資本主義が、冷戦の終焉に際して「新自由主義のイデオロギーの勝利」と映り、旧共産圏における敗北主義的な認識を与えたと論じる。そこに、その後の旧ソ連圏と西側諸国の緊張の背景を見る指摘は、興味深い。

 本書の後半は、主としてウクライナ侵攻に至る過程の分析に半分以上が費やされており、特に冷戦後「NATOの東への拡大」という懸念がどのようにロシア側に抱かれたか、それをヨーロッパ側がどのように払拭しようとしたか、あるいは実質的に進めたか、について、政治指導者とその周辺の知識人の言説から分析している。そこでは、「ソ連が解体したことによってウクライナをめぐる問題がソ連という国内問題から、ヨーロッパの秩序全体に直結する国際問題へと変貌」したことが、見て取れる。言語的制約からロシア語、ウクライナ語などの現地語資料が用いられていないのは残念だが、ヨーロッパ、特にドイツ、イギリスの一次資料が幅広く分析材料として用いられている。

 米ロ、EUといった国際政治の主要アクターに焦点を絞った国際政治分析としては、わかりやすく、読みやすい。ただ、中東諸国を中心とした「非西側先進国」を専門とする評者としては、著者のグローバル・ノース中心の「国際政治」分析の視点には疑問に感じる点が少なくない。

 最大の問題は、本書が「ポスト冷戦時代の国際政治の諸問題を俯瞰」し、「これからの世界の行方を展望」するとしながら、ポスト冷戦期あるいは冷戦期の非欧米・非旧ソ連圏の、いわゆるグローバル・サウスでの国際的変動については、全くといっていいほど触れていない点である。国際政治のありかたを大きく変動させたのは、9.11とその後の米国の「対テロ戦争」だと評者は認識しているが、それについての論述は全くと言ってよいほど、ない。著者は、ユートピア的国際協調に赤信号がともったのはロシアのウクライナ侵攻だとしているが、それ以前にイラク戦争で欧米の亀裂が生じ、また「アメリカの戦争」の非合法性が露呈したといった側面について、無視している。アメリカが国連決議なしにイラクに軍事侵攻して政権交代を強要したことは、プーチンのロシアがウクライナに侵攻する以前の、他国に対する国家主権侵害を武力行使によって行った事例であることは、疑いがない。ロシアが「現状変更」型だとすれば、イラクの政権を武力で「変更」したアメリカもまた、「現状変更」型であるはずだ。

 そもそも本書は、国際政治が欧米の大国の政策決定者によって左右される、という古典的国際政治の枠組みで議論を進めているため、グローバル・サウスでの事象についての理解はかなり単純である。たとえば冷戦終結によって、「永劫に続くと思われていた世界における対立の数々が驚くほど短い期間に収束していった」としている。確かに、ソ連のアフガニスタンからの撤退はそうかもしれない。東西対立が融和に向かうのと並行して、ソ連軍がアフガニスタンから撤退したからだ。とはいえ、その後アフガニスタンで内戦が深刻化し、ターリバーン政権の登場につながったことを考えると、「対立の数々が収束」とは到底言えない。また、イラン・イラク戦争の終結は、もともとそれが冷戦の代理戦争ではなかったため、その終結には異なる理由を考慮する必要がある。

 根幹を辿れば、グローバル・サウスの国々にとって冷戦の東西対立は、往々にして植民地支配期の対外関係を反映している。たとえば、湾岸アラブ産油国は英国植民地下で国家として成立した後、英撤退後は英国に代わってグローバル・パワーの役割を継承した米国に庇護を求め、米国を必要とし続けてきた。またアラブ諸国は1950年代以降イスラエルとの対立関係が理由で反米政策をとってきたが、その結果としてソ連の支援を仰ぐ必要があった。冷戦にすべての紛争、対立の原因があったわけではなく、それ以前のロシアを含むヨーロッパの非ヨーロッパに対する帝国主義的支配に根本的原因があったからこそ、冷戦後も非欧米諸国においては紛争が絶えないのである。

 本書には、そうした視点は反映されていない。本書は、「民主主義や新自由主義の思想の拡大は、中国やロシアのような権威主義体制の諸国にとっては安全保障上の脅威と映る」とまとめているが、権威主義体制をとる非欧米諸国すべてが「民主主義」を理由に反米の立場を取っているのではなく、米国による「植民地的支配」こそが「安全保障上の脅威」と認識されている。イランと米国の対立は、その好例であるが、本書の議論の立て方では、イラン戦争の構図は説明できない。

 一方で、単純に冷戦に原因を帰するのではなく、冷戦以前の帝国のありかたを巡る歴史研究が現代の国際政治を把握するために重要であるとの議論は、近年少なからずさかんである。国際政治研究の分野でも、『旧ソ連圏の分離紛争』(名古屋大学出版会、2026年)を上程した松里公孝氏のように、パトロン国家(ロシア)、ホスト国家(ウクライナ)、分離主義主体(ドンバスなど、ウクライナのロシア系住民地域の分離主義者)と、異なるレベルの国家・準国家間関係を分析することで、より精緻な議論を確立しているものもある。それらの研究と比較すると、本書は、特に後半において、ウクライナ問題を結局プーチンの覇権意識、旧ソ連圏に対する領土的拡張主義に原因を帰する短絡的な理解に終わっている点で、物足りなさを禁じ得ない。

 最後に、本書が土台としているE.H.カーの「危機の20年」議論だが、すでにカーを読み直す試みは、最近複数なされている。佐藤史郎・三牧聖子・清水耕介による『E.H.カーを読む』(ナカニシヤ出版、2022年)はその代表的な著作だが、本書で一切触れられていない。本書は、カーの議論の前提に「ユートピアニズムとリアリズムの二項対立」を置きつつ、前者に対するカーの批判的姿勢を強調している。そしてそれに続いて第二次大戦後にはモーゲンソーなどのリアリズム国際政治学者が影響力を持ち、冷戦後に再びユートピアニズムに振れる、という揺れを指摘する。一方で、佐藤・三牧・清水は、カーの議論が必ずしも二項対立ではなく、むしろ「国際連盟を通じた国際秩序変革への希望を捨てて」いない(三牧、「「危機の20年」の国際政治観」(年報政治学Ⅰ)、2008年)ばかりか、ポスト実証主義的な側面もみられる、としている。上述した本書のグローバル・ノース中心視座に関しても、『E.H.カーを読む』の三牧は、カーが導き出した結論として「英米の政治家と知識人がうたいあげる「平和」は、自分たちにとって都合のよい国際秩序を神聖化し、劣位の国に押し付ける、強者のユートピアニズムである」と述べているが、こうしたカーの「読み方」を前提とすれば、ユートピアニズムであれリアリズムであれ、グローバル・ノースのみに焦点を絞る本書のような議論こそが、カーによって批判されるのではないだろうか。

 こうしたカーの多面性に光を当てる議論に対して、本書がどのような応対をするのか、興味がそそられるところである。

(「世界史の眼」No.80)

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≪書評≫ジュリオ・ボカレッティ著、今西康子訳『水の世界史:文明・国家・グローバル社会はいかに作られたか』白揚社、2026年
鹿住大助

 本書は、人が定住生活を始めた約1万年前から現代までの人類史を、水をめぐる制度の変遷として叙述したものである。人類史を気候科学・環境科学の知識で裏打ちし、歴史的出来事や諸制度の誕生と変化を語り直そうとする野心的な著作である。

 表紙カバーに記載された略歴によれば、著者のジュリオ・ボカレッティ氏は、ユーロ・地中海気候変動センターの科学ディレクターを務めるほか、気候科学の博士号を有し、マッキンゼー・アンド・カンパニーのパートナーとして持続可能性および資源生産性向上に関する取り組みを主導し、世界的な環境保護団体であるザ・ネイチャー・コンサーバンシーの水分野の最高戦略責任者でもあったとある。また、気候変動に関する政府間パネルの報告書なども執筆しているようだ。地球規模での気候変動に注目が集まるようになって久しいが、ボカレッティ氏は研究者であると同時に、その変動に対処しようと活動する人物でもある。

 本書の邦題は『水の世界史:文明・国家・グローバル社会はいかに作られたか』であるが、原題はWater: A Biographyである。直訳すれば『水の伝記』であるが、その意図は著者が原著を出版した2021年に、自身が運営するサイトに記している。

 “無生物である物質に対して「伝記」という言葉を用いているのは、そう経験するように、水が私たちの社会生活と切り離せない存在だからだ。
 洪水が問題になるのは、私たちの都市の家々がそれに巻き込まれるからである。嵐は、私たちの生産活動の円滑な進行を妨げる。干ばつは、私たち土地から生産物を得る能力を脅かす。水の物語とは、実のところ私たち自身についての物語なのである。”[1]

 本書が扱う「水」とは、液体としての水だけを指しているわけではない。「水」は地球の気候そのものであり、固体・気体・液体の三態で地球上の至る所に循環しながら遍在することで、あるいは、時と場所によってはそれが極端に多かったり、少なかったりすることで、自然環境や人間の社会生活に極めて大きな影響を与えてきたのである。

 一方で、人間の側でも様々な仕組みで「水」に対処しようとしてきた。本書の「序章」は、中国における長江三峡ダムの建設から叙述が始まる。人間はテクノロジーの進歩により、自らを自然から解放し、環境を作りかえ、運命を思い通りに支配してきた、という物語で人類史が語られることがある。著者はこれを誤りであると指摘する。「水の物語は、科学技術の物語ではなく、実は政治の物語なのだ」(16-17頁)と著者は主張する。著者の目的は、「流動する水に囲まれながら社会の組織化を目指す人類の営みの中から、相互依存関係で個人を結び付けて水環境に対処しようとする諸制度が生まれた」(17頁)というテーマで人類史を描くことである。古代国家の形成も、ローマ法も、共和主義も、リベラリズムも、水と人間との関係を抜きにしては理解できない、というのが著者の中心的な主張であろう。

 本書は気候科学と歴史を接続し、水と政治制度の関係から人類史を再解釈する壮大な試みである。本稿ではまずその議論を整理したうえで、世界史叙述としての可能性と限界について検討したい。

* * *

 次に、本書の内容を紹介する。本書は全体で4部・21章からなる。約500頁の大著であり、トピックも多岐にわたっている。ここでは各部分のかいつまんだ紹介となること、一方で、著者の主張を明らかにするためにはある程度の文量が必要であることもお許しいただきたい。

 「第1部 端緒」では、まず、地球上の生命・気候を支配する水の物理的性質と、人類による定住農耕の開始、人工生態系の誕生を論じる。農耕の開始によって、人類は「ファウスト的取引」(34頁)を行った。水は一箇所にとどまり続けることなく動く公共財(レス・プブリカ)であり、自ら動かないことを選択した人類は、水の変化に対応して周囲の環境を改変せざるを得なくなった。

 降雨量の変化や、河川の増水、干ばつといった変化に対応するため、メソポタミアの古代国家は河川の流量を管理したり、灌漑を用いた農業や貯水施設を整備したりする方法を編み出した。シュメール諸都市には、水路網が設けられ、上流に位置する都市国家が水の供給を支配することで、下流の都市国家の支配をおこなう関係性もみられた。また、古代エジプトでは、ナイル川を利用した農業によって繁栄しただけでなく、河川輸送によって食糧輸送を円滑におこない、さらには往来する船に通行税を課してその収入を干ばつ・不作対策の食糧貯蔵の財源に充てるなど、河川を軸にした経済活動の組織化がみられた。

 ところが、紀元前1500年頃から太陽からの放射エネルギー量の減少にともない、氷河が拡大し、高緯度地域が寒冷化するとともに、東アフリカ、アマゾン川流域、カリブ海地域が乾燥化した。地球の水循環が大きく変化したのである。これにともない、エーゲ海、地中海東岸、西アジア一帯が12世紀にかけて300年以上にわたる長期の干ばつを経験した。その結果、ヒッタイトやエジプトなど近東地域の古代帝国が弱体化し、海の民の侵入などもあって崩壊した。

 古代ギリシャ世界も同様であり、南下してきたドーリア人がアカイア人に取って代わり、ミケーネ文明が崩壊した。しかし、紀元前9〜8世紀には再び農業生産力が高まった。ギリシャ特有の地質(峡谷、ドリーネ、地下水路、クレバスなどによってあちこちに水が流れる)の影響もあって、谷間の至る所に独立した都市国家、ポリスが形成されたのである。古代ギリシャのポリスの社会、国家権力を形作り、政治制度を生み出したのは水と人間の関係が再構築された結果であった。

 古代ローマといえば都市の水道橋や水路網で有名であるが、ボカレッティ氏によれば、古代ローマはその広大な領域に見合う規模で水資源の統合的管理をしたことがなかった。基本的にはローマ市民権は私有財産制度に根ざしており、国家がその権利を侵害することがないように保護されていた。水は個人的所有の範囲内に閉じ込めることができないものであったが、私的土地所有に根ざす農業で用いる水のすべてが公共物であるとも言い難かった。

 結果として、古代ローマは、大規模な灌漑施設の整備や治水事業によってではなく、地中海全域にまたがる交易インフラ(港湾施設や河川交通路)や市場の整備によって、局所的な降水量の変動に対処し、全体に食糧を行き渡らせたのである。「こうした仕組みがあるからこそ、ローマという国家は、全体としての供給量しか保証されないランドスケープのもとで、個々の市民の財産権を軸に政治体制を維持していくという芸当ができたのだ。この驚異的なシステムこそが、十九世紀まで西洋で最も広大な領土を支配した国家の興隆を支えていた」(128頁)のである。

 「第2部 収束の一千年」では、中世から近代にかけて、共和制政府や商業資本が水利構造物に投資し、領域国家が形成され、国家による水管理が展開されていく過程が描かれる。

 西ローマ帝国崩壊にともない、ローマの諸制度も消滅した結果、ヨーロッパの河川舟運が衰退したり、畑作地帯が牧草地や沼地に変質した。また、6世紀には中央・北ヨーロッパの湿潤化・寒冷化に対し、地中海地域の乾燥化がみられた。食糧生産力が急激に低下し、森林が勢いを盛り返したのである。結果として、ヨーロッパの水ランドスケープ(地理的環境)は大きく変化した。

 さらに、領土の断片化も水ランドスケープの変化に影響を与えた。教会や皇帝が普遍的な権力を主張したものの、強力な行政国家は不在であり、水は分断された領主の支配下にあった。また、河川での事業に対する課税権を修道会や司教に認めて統制を試みるなどした結果、河川の共同管理は困難になっていた。政治的な土地支配の細分化が進んだ結果、訴訟が多発するようにもなった。

 こうした問題に対処するため、ローマ法に再び注目が集まった。13世紀イギリスのマグナ・カルタにも水の管理に関する条項が追加されたように、「普遍的」ルールとなって河川利用をめぐる紛争解決のための法体系が誕生したのである。ローマ法の再導入は水資源の支配にも大きな影響を与えた。ローマ法では、航行可能な水路は全体のものであり、支配権は国家(皇帝)が握っていた。結果として、領主や都市が水運に利用可能な運河を整備したりしても、その利益は誰もが享受できるものとなり、紛争も皇帝の権威によってしか解決できなかった。その後、都市では共和政体や商人階級が出現し、民間による水インフラへの投資資金調達の必要性から金融システムが発達したり、自由主義の思想もうまれていったりしたのだが、ここでは詳細を割愛する。

 1648年のウェストファリア条約は、近代主権国家の成立点として語られている。ボカレッティ氏はこれを「人民支配から領域支配への移行」であったと評価し、「こうした政治的進化は、社会と水の関係に重大な影響を及ぼした」と指摘する(195頁)。ひとつは動員できる経済力の増加によって大規模な河川インフラ構築が可能になったこと、もうひとつは、社会全体の利益と個人の権利の両立は困難なままであったが、土地と水を含む領土を支配する国家が、水の問題と向き合わざるを得なくなったということである。水の物語が国民国家の物語となったのである。「領域の支配圏を主張する強力な領域国家と、直接的な国家介入よりも民間活動を重視する経済との緊張関係が、近代社会における水管理の最重要課題になろうとしていた」(196頁)。

 ヨーロッパの水ランドスケープを離れ、異例の発展を遂げたのがアメリカ合衆国である。人々の生活は自由主義の社会に委ねられていた。一方で、アメリカの水ランドスケープは個人の力で対処できるレベルをはるかに超えていた。至る所に民間企業の運河・河川開発会社が出現したが、州境をまたぐインフラ開発の問題に直面して、連邦主義が後押しされることになった。こうした中で国家の水管理を担う最重要機関となったのが水路網開発の主力となったアメリカ陸軍工兵隊である。アメリカでは国家権力は水ランドスケープの工学技術(エンジニアリング)として表出した。エンジニアリングへの誇りは、南北戦争の分断を乗り越え、統一を呼びかける演説にも表れた。ゲティスバーグでのリンカーンの有名な演説の前に、エドワード・エヴァレットは次のように語った。「気候の境界を越えて流れる大河が、自然の産物や工業製品の交換を促し、奇跡を生み出すエンジニアの腕前が、東部と西部を隔てる山脈の壁を取り払ってきたのです」(213頁)。19世紀、民間企業の隆盛の時代を経て、新たな強力な国家が水ランドスケープの主要な開発主体となっていったのである。

 それは植民地帝国における開発においても同様であった。イギリスはインド支配の中で、インダス川流域の運河・ダム開発を積極的に推し進め、世界最大規模を誇る灌漑システムを構築した。地域の資源を搾取するだけでなく、自然環境に対する思想も変容を促すランドスケープ帝国主義の管理国家が世界に拡大したのである。人間社会は自然の力から切り離された、という幻想を持つようになり、国家は巨大プロジェクトによって大自然の威力を支配することが役割となっていったのである。

 「第3部 水の世紀」は19世紀後半以降、主には20世紀の近代国家と産業資本が地球上の水ランドスケープを大きく変化させたプロセスを論じている。

 この頃から顕著になってきた傾向は、第一に人口の爆発的増加であった。国家はこれに対応するため、例えばイギリス帝国はインダス川に続いて、ナイル川の開発に取り組むようになり、アメリカは国内西部の乾燥地帯での灌漑農業を積極的に推進した。農業生産性の向上という命題に対応するため、国家がますます大きな役割を果たすようになっていった。

 第二の傾向は、工業化の進展である。水(河川)は産業革命初期の機械の動力となっただけでなく、20世紀には水力発電を通じて膨大なエネルギーを供給し、世界各地の国家・産業の近代化に寄与した。ヨーロッパやアメリカだけでなく、日本の琵琶湖疎水のように、国家的事業として資金が調達され、水運・水力発電等の目的で大規模プロジェクトが推進された。

 そして第三の傾向は、国民の政治参加である。19世紀、国民の一部だけが政治に参加していた頃はまだ、水関連事業に大規模な投資がなされることはなかった。ところが参政権の拡大とともに、水インフラへの投資は政治と経済の問題となった。「これこそが、近代の水力国家の始まりだった。水力国家とは、交易に資するよう環境を変えるために、相当額の公的資金を投入できるほどの強い権力をもつ、公的な経済主体である」(273頁)。公的支出の判断のために費用便益分析の発想が生まれ、水を中心とした国家の発展を支えた。

 しかし、第一次世界大戦によって世界経済が打撃を受けた結果、ほとんどの国で国内や海外領土でのインフラ事業投資が減少した。一方で、戦後には二つの新しい主体が登場する。ひとつはレーニンのソビエトであり、もうひとつはムッソリーニのファシズムである。このどちらでも、水力発電による電化と工業化が推し進められ、自由主義諸国に対して社会に積極的に介入する国家のモデルが提示された。イギリスをはじめ、各国政府は福祉や水ランドスケープへの公的支出の増額により、市場経済を基本としつつも国家が積極的に社会的資源の再分配に関わる体制へと変化していった。

 20世紀前半のアメリカは、恐慌に喘ぐ一方で、水関連技術の輸出に乗り出す。アメリカは北米の水資源開発によって世界の穀倉となり、穀物を輸出するまでになっていた。また、ニューディール政策のもとで、テネシー川流域開発公社(TVA)に代表される大ダム建設や流域管理を推し進め、これを開発と近代化の標準モデルとして世界へ輸出した。水資源の乏しいアラビア半島の諸国がアメリカの支援を受け入れたが、未知の水源を掘り当てる代わりに、別の収入源として石油を発見した。中国も同様にアメリカの水関連技術を受け入れた。中国は1931年の淮河の大洪水により、深刻な被害を受けていた。中国はアメリカから小麦を購入するだけでなく、第二次世界大戦が始まるまで水関連技術の援助も受け入れることになった。

 戦後の東西冷戦下で、世界の水をめぐっても東西対立の構図が現れ、世界の水ランドスケープはより一層大きな変化を経験することになった。すでに産業化を達成している国も、植民地支配からの独立を達成したアジア・アフリカ諸国も、民主主義への忠誠を誓う代わりにアメリカから投資を受け、水資源開発を加速させていった。ソ連もまた、スターリンのもとでステップ地帯の緑地化という大規模なランドスケープ改造に乗り出し、新たに誕生した独立国にソ連型モデルを提示してみせた。しかし、旧植民地における反帝国主義独立運動を牽引したのは社会主義思想だったが、世界を主導する水資源開発手法はアメリカのそれであった。「アメリカ合衆国は、世界に向けて『水文学の司令塔』の役割を買って出た」(357頁)のである。

 ところが、20世紀後半になると、アメリカでは国内の水資源開発がある程度完了し、水への投資は魅力的ではなくなってしまった。また、中国やソ連での農業生産拡大を狙った水資源開発プロジェクトも失敗し、かえって経済的な停滞を招くようになった。1963年、イタリアのバイオントダムでの地すべり・溢水災害もあって、巨大ダム開発計画は停滞し、世界のエネルギー供給源は石油にシフトしていった。20世紀末、水主導型の開発は魅力を失い、インフラ整備、国家主導型開発、保護貿易主義などはすべて費用がかさむ誤った政策だと見なされるようになった。

 「第四部 フィナーレ」は、他のパートと比べれば叙述は短く、20世紀後半から21世紀の事例をいくつか取り上げ、水の物語の現在地を提示している。

 東西冷戦下でのエジプトのアスワン・ハイ・ダムとスエズ運河国有化をめぐる地政学的な駆け引き、ヨルダン川の流路をめぐるイスラエルとアラブ諸国の対立や、サウジアラビアの農業開発とニクソン・ショックに端を発する石油輸出国のカルテル結成など、「20世紀後半は石油経済、食糧安全保障、水インフラへの投資が複雑かつ密接に絡み合うことになった」(408頁)。陣営争いや国家による巨大プロジェクトへの投資の終了と新自由主義の台頭、食糧・エネルギー資源をめぐる国際的な利害関係などが結果、社会と水との関係は見えづらくなっていった。

 一方で、国際社会のアクターとして目に見えて台頭してきたのが中国である。輸出主導型の成長モデルによって著しい経済成長を遂げた中国は、国内のインフラ開発に莫大な投資をおこなってきた。「序章」でみた三峡ダムはその一つであり、世界最大のインフラとなったのである。そして中国は世界のあらゆる地域で投資をおこなっていく。海域の港湾開発や内陸部の河川開発事業、水力発電ダムの建設などに関与し、自らの成長に必要な物資輸送経路を確保しつつ、勢力圏拡大を狙う地政学的アプローチを展開していく。ボカレッティ氏は「二〇世紀がアメリカの世紀だったとしたら、二一世紀は中国の世紀になるのかもしれない」(416頁)と予見している。

* * *

 最後に、評者なりに本書の意義や限界、問題点を指摘する。

 ボカレッティ氏の議論は、カール・ウィットフォーゲルの「水利社会(hydraulic society)」論を想起させる。しかし本書は単純な環境決定論ではなく、水への対応の中で形成された政治制度に注目する点で、より制度論的な関心を有している。本書の叙述には、地球規模で循環する水の世界と、そこに生きる人間社会の政治制度との弁証法的関係という、一貫したモチーフがある。人間は今、極端な気候変動による災害や危機を経験している。そして水をめぐる国際政治は、そのパワーバランスのシフトチェンジを経験しつつあるのかもしれない。ボカレッティ氏が明示的に語ることはなかったが、水の循環が従来通りではないことと、地球規模での地政学的リスクの増大は連動しており、新しい政治や制度が生み出されつつあるのかもしれない。マクロな視点から水と人間社会の現在地を理解し、今後の世界を想像する上で、本書が提示するモチーフは思索を助けてくれるかもしれない。

 一方で、本書には大きな問題が複数ある。

 第一に、本書の叙述は、意図してか、結果としてかは不明だが、西洋中心主義的な構成になっている。本書の「水」が、それが著しく不足する地域も含めて地球全体の人間生活に及ぶ影響を与えているものである以上、本書は欧米に偏りすぎた物語であると言わざるを得ない。中国、東南アジア、インド、アフリカなど、諸地域は事例として登場することはあっても、物語の脇役である。水と人間社会との関係や政治制度は、ヨーロッパの歴史的展開とあわせて発展したのであり、他の地域ではみられなかったかのようである。本書の理論枠組みが世界史全体を説明するものとしてどこまで有効なのかについては大きな疑問が残る。

 例えば、内陸部の乾燥地帯、ステップに暮らした人々は水とどのように関わったのだろうか。その政治制度はどのように構築されたのだろうか。モンゴル帝国の事例を出すまでもなく、ユーラシア内陸部の動向は世界史に大きな影響を与え続けてきた。その存在すら叙述せずに世界史を語ることはできるのだろうか。

 近年、日本語訳が出版されたティルタンカル・ロイ氏の『モンスーン経済:水と気候からみたインド史』の方が、世界各地の地理的不均衡が、どのように地域独自の問題解決の取り組みを促し、その成長に繋がったのかを理解しやすいのではないだろうか。西欧近代国家による植民地統治という国家の物語に、インダス川流域の水インフラ整備を含めただけで満足してはならないはずである。

 同様に、京都大学出版会から刊行されている「講座 生存基盤論」シリーズの方が、温帯を中心とした先進国の生産性向上という近代主義的な命題に基づく物語に対して、熱帯圏の「生存」の有り様というオルタナティブをよりよく提示してくれている。工業化や農業生産力増強のためにランドスケープを作り替えた物語ではなく、自然と人間との共生や自然へのケアという異なる思想や価値観がよくあらわれている。

 第二の問題は、第一の問題とも関連するが、本書の観点に地理学的な発想が乏しいという点である。穿った見方をすれば、気候科学者には当然のことであって本書の中心的な叙述に据える必要がないのかもしれないが、地球上には様々な地理区分や気候区分、地形や土壌、植物の分布が存在し、それぞれに応じた人間の暮らし、それに働きかけながら営まれてきた生活がある。本書は、特に後半に進むにつれて、人間がいかなる政治制度や思想の下で強力な国家を形成・運営して水環境をどのように作り替えたのか、その変遷をマクロな視点で追うあまり、人々の生活様式から集団としての文化や社会が形作られ、それを維持・変化させようとする諸制度が生み出されるのかという視点を失っている。

 ほかにも、民俗学や考古学など、さまざまな学問分野が「水」と人間の関わりについて多くの知見を提示している。近年では、2024年に吉川弘文館から出版された『水と人の列島史:農耕・都市・信仰』も、日本列島における水と農業や宗教・世界観、都市形成などを知る上で示唆に富んでいる。こうした文献の方が、水と人間がいかに影響し合いながら暮らしを営んできたのかを理解できる。

 第三の問題は、「水の物語は、科学技術の物語ではなく、実は政治の物語なのだ」という繰り返し現れてくる本書のモチーフに、違和感や驚きがないという点である。その「当たり前」が世界史全体を通じて成立するのかを示そうとした点こそ本書の特徴であるならば、その評価は分かれるだろう。評者としては、これを読者に理解してもらうために、1万年前からの人類史を語る必要があったのだろうかという疑問が残った。

 もちろん、本書は膨大な時空間を扱っており、そこに記された事実には、これまで知らなかったことの方が多い。しかし、水と政治が切り離せないものであることは、およそ本書を手に取ろうとする人であれば、様々な経験を通じて理解しているはずである。農村部で生まれた評者には、「我田引水」をいかなる価値観や集団の規律・運営によって防止するか、ひとたび水不足が起こった場合に集団がどのように協議して問題解決をはかるか、大人たちの様子を見ていれば、それがムラの政治や制度・慣習を形作っていることに否が応でも気がつく。また、本書は都市と水についての叙述も少ないが、例えば水不足が起こった場合に都市の消費生活と農村部の生産労働にどのように水を分配するか、時代や地域、価値観などの条件に応じてどのように変わるのか、その事例を提示するだけでも十分だったのではないだろうか。

 恐らく、ボカレッティ氏は「水をめぐる地政学」の最前線で、水の持続可能性を担保するための調査をしたり、政府機関に提言したりする活動も経験してきたのであろう。勝手な想像ではあるが、筆者は地球規模で展開する水循環と近年のその大きな変動に対して、欧米の近代国家を中心とした世界規模でのインフラ投資から、中国へと物語の主体が切り替わるだけでよいのかという危機感を有しているのかもしれない。もし、その発露が本書であるのならば、水と西欧国家の歴史を分厚く語るのではなく、現在の水をめぐる国際政治上の対立現場などの先鋭的な事例を提示して欲しかったというのが率直な感想である。

 以上のような問題点はあるものの、本書は水を媒介として国家・国際秩序の形成を一つの視座から描こうとした野心的な試みであり、気候変動時代に人類史を再考するための問題提起となっている。環境学、歴史学、政治学などの成果を横断しながら読むことになる読者にとって、本書は多くの異論と議論を誘発する刺激的な一冊といえるだろう。


[1] https://giulio-boccaletti.medium.com/why-i-wrote-a-book-about-water-d11dd2c4a8f7(2026年9月29日確認)

(「世界史の眼」No.80)

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「世界史の眼」No.79(2026年10月)

本号では、小谷汪之さんに、 連載中の「蓼科の近代史」の続稿となる「蓼科の近代史 Ⅲ(下)―白樺湖の築造と京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』」をお寄せ頂きました。また、木畑洋一さんに、「書評:水谷智・馬路智仁・山田智輝編『トランスインペリアル・ヒストリー 植民地主義への新たな視座』(人文書院、2026年)」をご寄稿頂きました。

小谷汪之
蓼科の近代史 Ⅲ(下)―白樺湖の築造と京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』

木畑洋一
書評:水谷智・馬路智仁・山田智輝編『トランスインペリアル・ヒストリー 植民地主義への新たな視座』(人文書院、2026年)

水谷智・馬路智仁・山田智輝編『トランスインペリアル・ヒストリー 植民地主義への新たな視座』(人文書院、2026年)の出版社による紹介ページはこちらです。

ミネルヴァ書房より、世界史研究所の小谷汪之氏と南塚信吾氏のそれぞれの新刊が刊行されます。小谷汪之氏の『「辺境」からの世界史—「満蒙」と「南洋」』が10月に、南塚信吾氏の『世界史のなかの北前船—長者丸が漂流した19世紀』が11月に刊行されます。いずれも、日本史・アジア史を「世界史」の中で論じる意欲作です。手にとってお読み頂けますと幸いです。出版社による紹介ページはこちらとこちらです。

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蓼科の近代史 Ⅲ(下)
―白樺湖の築造と京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』
小谷汪之

はじめに
1 「鳥の城」の事件
2 池の平をめぐる「山論」
3 白樺湖の築造
(1)温水溜池としての白樺湖
(2)白樺湖築造における曲折
(以上、前号)
4 白樺湖の築造と「鳥の城」
5 「鳥の城」と「死の概念」
おわりに
(以上、本号)

4 白樺湖の築造と「鳥の城」

 白樺湖築造についての『陰摩羅鬼の瑕』の記述はかなり長く、詳しい。それは、白樺湖築造の経緯がこの小説の主題と密接にかかわっているからであろう。白樺湖築造と「鳥の城」の関係について、『陰摩羅鬼の瑕』では、「伊庭」元刑事の独白の形をとって、 次のように書かれている。

 鳥の城の住人は、多分貯水池造りには全く関与していない筈だ。目の前に湖が出来上がっていく様子を、窓越しに眺めていただけなのだろう。
 彼かの家は入村式をしていないと聞いた。 
 池の平に入植してきたのが何時いつ頃のことなのかは能く知らないが、その際も引受人を立てていないと云うし、然しかるべき手続き―勿論もちろん法的なそれではなく慣例としてのそれなのであるが―も、してはいないようだった。当然、鳥の城の住人は村役となることもないし、村の組にも入っていない。村の行事や寄り合いに顔を出すでもない。オテンマと呼ばれる村の公的な課役も免れていた[長野地方では、道や用水路の整備などのような村の共同作業をテンマ、オテンマといった。伝馬から派生]。
 そこは―鳥の城と呼ばれる建物とそこに暮らす住人達は―共同体から完全に孤立していたのだ。
(『陰摩羅鬼の瑕』248~249頁)

 このように、『陰摩羅鬼の瑕』において、「鳥の城」は白樺湖を最終的に自力で完成させた地域住民たちの「共同体」からは完全に孤立した存在であり、逆から言えば、「鳥の城」は、地域住民たちにとっては、単に異様で不可解な他所者にしか過ぎないものとされているのである。

 そこ[鳥の城]は村ではなかったのだ。
 行政区画上の所番地―住所のことを云っているのではない。共同生活体としてのムラの一員ではなかった、と云う意味である。
 ムラは一緒に生きる。一緒に死ぬ。
 単に結束しているのではない。運命を共有しているのだ。だから国が見放しても湖なんかを造ることが出来る。木場は先程、湖は地元民の努力の賜物たまものだと云うようなことを云っていたが、その物云いは土地の者の耳には別の聞こえ方をする。
 それは多分、ムラが決め、ムラの意思でムラとして行動したからこそ出来たことなのだ。村の共有林を伐採ばっさい売却して財源を確保し、村の若衆や男衆を労働力として成した事業―と云うことなのだろう。
 そうでなければ―個人や家単位に判断が委ねられていたのでは、幾ら利害関係が一致していたとしても意志統一は難しいし、財源も労働力も確保は出来ない。
(『陰摩羅鬼の瑕』247~248頁)

 白樺湖築造についての『陰摩羅鬼の瑕』の記述が長く詳しいのは、白樺湖を自力で完成させた地域住民の「共同体」(ムラ)の強固な団結力を強調するためであろう。それとの対比において、「共同体」(ムラ)から完全に孤立した「鳥の城」の異様さ、不可解さが際立って見えるようになるからである。

5「鳥の城」と「死の概念」

 『陰摩羅鬼の瑕』の主題は「死の概念」(1,121頁)なのであろうが、この小説の最後の方で明らかにされる「由良伯爵」家三代目の「死の概念」は極めて異様で不可解である。この異様で不可解な「死の概念」は「鳥の城」の異様さ、不可解さと深くかかわっているとされているようである。

 伯爵にとっては、
 生きることとは存在することなのだ。
 そして存在しなくなることが死ぬことなのだ。
 伯爵にとっての殺人とはつまり、人間をこの世界から消滅させてしまうことであり、そうでなければ人間の形を失わせてしまうことなのである。人間の形をして此の世に存在して居る以上、伯爵にとってその人は生きて居るのだ。
 生命いのちのあるなしは―。
 関係ないのである。存在するモノは総すべて生きて居るのだ。草も木も花も机も椅子も布巾ふきんも階段も、何もかも、生きて居る。
 机は、机として、生きて居る。
 布巾は布巾として生きて居る。
 机が壊れてしまえば、それは机としては死んだことになるが、木材としてはまだ生きて居る。燃えてなくなってしまった時―それは完全に死んだことになる。人間も―同様だ。
(『陰摩羅鬼の瑕』1,122~1,123頁)

 このような異様で不可解な「死の概念」が生まれる場は「鳥の城」のような異様で不可解な空間でなければならないというのがこの小説の構想なのであろう。「伊庭」元刑事は初めて「鳥の城」に入ったときの印象をこう語っている。

 ―そこは。
 化物屋敷だ。人なんか住んじゃいない。
 あの館は。[中略]
 そう、あの光景は。
 或る意味狂気の沙汰だ。[中略]
 鳥が。
 鮮明に思い出した。
 鳥が、到るところに鳥が。
「こう、屋敷中に、馬鹿みたいに鳥の剥製が並んでてな。鬼魅きみが悪いったらないのよ」
「屋敷中に?」
「ああ、それも百や二百じゃない。もう数え切れない程だった。俺も、一緒に行った同僚も、……すっかり吞まれちまった」
「呑まれた」
「場の雰囲気によ。だって、考えてみろ。剥製と云やァ死骸だろうが。それが何百と並んでいるんだぞ。鬼魅きみが悪いや。城みてェに立派だが中には鳥しかいないのよ。だから―鳥の城だったんだな」 
(『陰摩羅鬼の瑕』253~254頁)

 「鳥の城」に並べられている無数の鳥の剥製は、博物学者として少しは知られていたとされる「由良伯爵」家の二代目が金にあかせて世界中から掻き集めた珍しい鳥を、邸内に住まわせていた剥製師に剥製にさせたものということである(前述のように、「由良伯爵家」二代目は陰摩羅鬼を思わせる偽物の鶴の剥製を作らせたことが発覚して、博物学者としての経歴を絶たれ、三代目の成人を待って自殺したとされている)。

 「鳥の城」で生まれた「由良伯爵」家の三代目は、病弱だったこともあり、20年間「鳥の城」からほとんど一歩も出なかった。三代目は無数の鳥の剥製に囲まれて育ち、外の世界のことをほとんど何も知らなかったのである。それで、三代目はこれら無数の鳥たちを「生きて居る」ものと思うようになったということなのであろう。鳥(モノ)の形をとって此の世に存在して居る以上、それらの鳥(モノ)は「生きて居る」のだという三代目の「死の概念」は、「鳥の城」と呼ばれた「由良伯爵」邸のこのような異様で不可解な空間において形成されたとされているようである。

おわりに

 白樺湖の「建設当時には観光に利用する意図は全くなく、誰も今日のように観光で発展するとは思ってもみなかったようである」(『茅野市史 下巻』763頁)。それにもかかわらず、1950年代後半から、白樺湖一帯は観光地化し始めた。「八子ヶ峰から見る湖底に沈んだ音無川の川筋や、大門街道の道筋がはっきり確認できるほど湖水は澄んでいて、水没した白樺林の先が湖面に突き出て神秘的な美しさをたたえていた」(『茅野市史 下巻』763頁)という魅力的な景観が観光客を呼び寄せたのであろう。

 その頃から、貸ボート業が盛んになり、湖面には多くのボートが浮かぶようになった。ニジマス、ワカサギ、鯉の養殖も始まって、観光客を引き寄せた。湖岸では、農耕用の馬を農閑期に有効活用する観光馬車業が広まった。白樺湖周辺の山の斜面には多くのスキー場が開設され、1960年代のスキーブームに乗って、大勢のスキー客が訪れるようになった。

 観光客の増大に伴って、白樺湖周辺には大きな旅館やホテルなどがたくさん建設されていった。こうして白樺湖周辺はすっかり様変わりしてしまったので、もしそこに「鳥の城」が本当にあったとしても、もう「異様に目立つ」ということはなかったであろう。

 しかし、2000年代になると、白樺湖の観光業は衰退しはじめ、廃墟化する旅館やホテルが出始めた。白樺湖の観光開発は、主として、この周辺一帯の土地を所有している柏原財産区(北山村柏原区の単独財産区。財産区については、拙稿「蓼科の近代史Ⅰ―満洲開拓と戦後開拓」参照)によって行われてきた。その観光開発の方式が時代状況の変化に適応できなかったことも白樺湖観光業衰退の一因とされている。それに、国内観光業の不振やスキーブームの衰退が追い打ちをかけたのであろう。

 ところが、2020年代に入ると、白樺湖の観光業は復活し始めたようである。同じく茅野市大字北山にある蓼科湖周辺でも、一時、観光業の衰退が見られ、人影もまばらになったが、近年、同じような観光業復活の動きが見られるようである。コロナ禍や円安の急激な進行によって外国旅行に行く日本人が減少し、その結果、日本人観光客の国内回帰が起こったということなのであろうか。

(完)

(「世界史の眼」No.79)

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書評:水谷智・馬路智仁・山田智輝編『トランスインペリアル・ヒストリー 植民地主義への新たな視座』(人文書院、2026年)
木畑洋一

 世界の現況を反映する形で、最近帝国史研究が盛んになっているが、本書はその流れに一石を投じる野心的な論文集である。編者の一人水谷智氏は、2018年に刊行された、日本植民地研究会編『日本植民地研究の論点』(岩波書店)に寄稿した研究動向紹介「「間-帝国史trans-imperial history」論」で、「間-帝国史」という研究分野の確立に向けて取り組んでいることを宣明していた。その努力の一つの成果が本書である。「間-帝国史」という少々座りの悪い日本語でなく、国際的に研究が進んでいるトランスインペリアル・ヒストリー(以下TIHと略記)という言葉がそのまま用いられているが、適切な選択である。水谷氏の研究プロジェクト自体国際的な広がりをもって取り組まれており、TIH研究を国際的に主導するダニエル・ヘディンガーとナディン・ヘーという二人の研究者も中心的な筆者となっているのである。

 本書では、序章「「トランスインペリアル・ヒストリー(TIH)」とは何か」を編者3人が、第1章「トランスインペリアル・ヒストリー」をヘディンガー、へーの両氏が執筆し、TIHというアプローチが何を意味するかを解説している。重なりあうところが多いこの二つの章の内容を評者なりに少し強引にまとめてみれば(両章で提示された豊富な論点の内、省略しているものもある)、次のようになろう。

1)対象としての複数帝国:これまでの帝国史研究では多くの場合ある特定の帝国が研究対象とされていたが、TIHは一つの帝国で完結するのでなく、複数の帝国を同時に扱う。
2)新たな対象空間設定:複数帝国のはざまに置かれた地域や複数帝国を包含する空間など、これまでの帝国史研究で等閑視されてきた空間をも対象とする。
3)相互関係の動態的把握:TIHはさまざまな事象の相互関係を複数帝国にまたがって扱うが、その場合、対象の可変性に留意しつつ、動態的な把握を行う。
4)新たな比較の視座:これまでも複数帝国間での比較という作業は行われてきていたが、それはいわば静態的に行われるきらいがあった。TIHでは、相互認識や越境的な関係を重視した動態的な比較がなされる。
5)非国家的主体への着目:帝国運営に関わる国家的な主体以外のさまざまな人びと、とりわけ帝国の草の根の次元を構成する支配される人びとが重要な研究対象となる。
6)反植民地主義の重視:TIHは帝国支配に関わる事象も抵抗に関わる事象も扱うが、とくに反植民地主義とその運動の連関性が重視される。

 このようにTIHの方法論を展開した冒頭部分に、第Ⅰ部「異民族統治をめぐる<比較のポリティクス>」、第Ⅱ部「帝国の<はざま>における経験―移動・帰属・入植」、第Ⅲ部「トランスインペリアルな被支配経験―もつれあう抵抗と連帯」という三部構成の本論が続く。以下では、とくに部の区別にはこだわることなく、各章についての簡単な紹介を、TIHという方法との関連に注目しながら行っていきたい。

 第2章フロリアン・ヴァーグナー「リベラルな帝国とファシスト帝国の境界を曖昧にする」は、1893年から1949年まで存在した国際植民地研究所(ICI)に集って植民地支配に関わる「知の交換と産出に携わった」(81頁、以下頁は省略)人びとが、原住民社会についてどのような情報の交換をし、どのような方策で植民地主義を実践しようとしたかを検討する。ICIが関心を寄せたのは、植民地農村の協同組合や都市の手工業組合であり、それとの関連で、大戦間期には、イタリアのファシスト体制がとっていたコーポラティズムが着目された。こうした国際組織の研究は従来もなされてきたわけで、TIHとして行うとなれば、それなりの独自性が求められるが、コーポラティズムを推賞したインド(ポルトガル領ゴア)出身の経済学者フレッペル・コッタについての議論(96-97)などを除いて、残念ながら本章ではそれがうかがえなかった。なお、著者はICIと日本の関係(柳田国男もICIの日本人会員三人のうちの一人であった)にも注意を払っている。ヘディンガー、ヘーの両氏もそうであるが、日本帝国の問題を巧みに取り入れることができる外国人研究者をそろえているのは、本書の強みであろう。

 第3章ダニエル・ヘディンガー「ファシスト国際主義」は、『枢軸―ベルリン・ローマ・東京 1919―1946年』(人文書院、2025)の著者による、ファシズム運動の国際的連携をめぐる論考であり、イタリアのファシズムを中心として日本の汎アジア主義運動にも周到な目配りをした議論が展開されている。ここで示されているファシスト国際主義の構図自体はきわめて具体的であり、読者はその消長過程についてのイメージを抱くことができる。その反面、国際ファシズムという概念とトランスインペリアルという概念の間の関係については、分りにくさが残るという感が否めない。帝国主義とファシズムの間の関連に留意しつつトランスインペリアルという問題を追求するなかで、国際ファシズム運動がどういう形で位置づけられるのか、についての説明が欲しかった。

 第4章馬路智仁「≪帝国知翻案者≫の可能性」は、国際関係思想史家による、TIHへの思想史的接近についての方法的提言である。ここで提示される方法は二つで、一つは≪比較のポリティクス≫、今一つは≪帝国知翻案者≫である。≪比較のポリティクス≫は、歴史のなかで実践された帝国間の比較作業に迫る方法であり、そうした比較などの結果がどのようにその実践者の帝国構想のなかに織りこまれていくかを「翻案」という作業などに着目しつつ分析していくことが、≪帝国知翻案者≫としての対象に迫る方法である。著者がTIHとしてより可能性が大きい方法として提起するのが後者であることはいうまでもない。それぞれについて、具体的な事例が挙げられているが、共通して取りあげられているのが矢内原忠雄の帝国論であり、違いが説得的に提示されている。帝国をめぐる言説を展開し、さらに帝国運営の実際にも関わったさまざまな人びとについて、この方法を適用することは、確かにTIHに思想史的広がりを付与していくことになろう。

 第5章東栄一郎「入植者植民地主義」は、近年注目が深まっている入植者植民地主義論がイギリス帝国中心的視点を取りがちであることを批判してその是正が必要であるとしつつ、さまざまな入植者植民地主義の間の絡まり合いに着目するTIHとの組み合わせが重要であると説く。そして、その具体的事例として、著者の主著『帝国のフロンティアを求めて――日本人の環太平洋移動と入植者植民地主義』(名古屋大学出版会、2022)でも検討されている、アメリカに入植していた日本人がアジアに回帰して日本の植民地拡大に寄与していく問題を取りあげる。入植者植民地主義論とTIHという方法的視座を結びつけることがその双方を豊かなものにするのは確かであり、大きな可能性をもつ提言であると感じた。

 第6章鶴見太郎「三つの帝国のはざまで」は、シオニズムの生成と展開を、ロシア帝国、オスマン帝国、イギリス帝国という三つの帝国が競い合う空間のなかに位置づけていこうとする試みである。著者は強調しないものの、これはオーストリア・ハンガリー帝国やドイツ帝国も視野に入ってくる枠組みであり、TIHという方法の有効性がよく示されている。ただ、第5章との関連では、イスラエルがガザやヨルダン川西岸で見せている「入植者植民地主義」の様相が、章の最後のところで触れられてはいるものの、シオニストが経験してきたトランスインペリアルな空間の規模感覚の問題に回収されてしまっているようにみえるのは残念である。トランスインペリアルな関係性のなかで展開してきた「入植者植民地」の歴史が、現在パレスチナの地で集中的に発現しているという点に、今少し踏み込めたのではないだろうか。

 第7章増渕あさ子「日米帝国のはざまで」は、沖縄からハワイへの移民の子として生まれた比嘉太郎という人物に焦点をあてて、第二次世界大戦期の彼の行動の軌跡(米軍の一員としてのイタリア戦線での従軍、日系人強制収容所での戦争協力姿勢喚起のための演説活動、沖縄戦期における沖縄への駐留)に重点を置きながら、「彼の主体性や帰属/疎外の意識がどのように揺れ動いていたか」(244)を検討する。TIHは、複数の帝国の力が交錯したり、複数の帝国のはざまに置かれたりしている空間に生きた非エリート層の人びとの生き様を重要な研究対象にするというが、「沖縄人」であることを意識しながらハワイという「故郷」を重視しつづけた比嘉の姿を描いた本章はそのような方向性をよくあらわしている。そうした比嘉の人種意識が揺れ動いていたことについても的確な分析がなされており、近現代世界において重層的な形でひろがる人種主義の様相に迫っていくのにTIHがきわめて有用であることが示されている。

 第8章水谷智「トランスインペリアル・ヒストリーからみた反植民地主義」は、反植民地主義の主体となった人びとの、異なる帝国の境界をこえたつながりをたどるなかで、TIHの射程を浮き彫りにする試みである。評者も、イギリス帝国史研究のなかで、アイルランドのナショナリストとインドのナショナリストの関係の重要性などを指摘してきたが、水谷氏は、TIHはそうした一帝国内に限られた関係をこえた複数帝国間での反植民地主義の連動に迫るものであるとして、具体的素材として、インドのナショナリストと日本帝国の関係を扱っている。日本の汎アジア主義を支持するインド人ナショナリストもいたものの、植民地支配国としての日本を批判し、日本に支配される朝鮮の人びとに共感したナショナリストも多かったとして、その代表例として詩人タゴールを取りあげるのである。この事例研究は、TIHの意味をよく示すものとなっている。ただ、たとえばタゴールを取りあげるとなれば、日本帝国との関係だけでなく、フランス帝国との関係も問題となりうるわけであり(タゴールが朝鮮の人びとに「東方の燈火」という詩を送った1929年という年の重要性を著者は強調しているが、その年に彼は仏領インドシナを訪問し、ベトナム人と交流した)、より多面的な形でTHIの構図を追求すべきではないか、という感が残った。

 第9章山田智輝「請願と出版文化」は、第一次世界大戦期までドイツの植民地であったトーゴが、大戦後国際連盟のもと英仏間に分割されて委任統治領にされていくにあたり、フランスの統治下に入ることを嫌った人びとからイギリスの政府や経済界、さらに国際連盟に対してなされた請願活動を分析する。こうした植民地住民の動きは、TIHの対象として確かに興味深い。また「他帝国の近隣植民地を中心とする地域的な出版文化を活用」する(304)という点もTIHのアプローチに即する重要な着眼点と考えられる。

 第10章呉叡人「相互的な主体化への道」は、すでに公刊されている中国語論文の翻訳である。著者は、イギリス帝国、日本帝国、中国帝国との関係に留意しながら、台湾と香港の近現代史を、人びとの主体形成という問題に即して検討していく。それによれば、台湾での政治的主体の形成は日本による植民地統治下で起こったのに対し、住民に植民地協力者としての性格が強かった香港における主体形成は冷戦期、それも1960年代以降を待たねばならなかった。著者の議論はきわめて明快で、台湾と香港の間の周到な比較によって支えられているが、これをあえてTIHと呼ぶ必要があるのかという点については、疑問を覚えざるをえない。相互の連関や交流、さらには相互参照といった局面がさらに示されるのであれば、TIHの好例になるとは思われる。ただ、複数帝国のはざまに置かれた地域のすぐれた比較研究として、本章の価値が高いことは確かである。

 第11章中尾沙季子「抵抗の連帯か帝国の拡張か」は、パン・アフリカ主義の初期を先導したアメリカの活動家たち、とりわけブッカー・T・ワシントンが推進していた黒人に対する実業教育活動である「タスキーギ・モデル」のリベリアへの導入問題を中心として、章タイトルに示されるアフリカン・アメリカンとアフリカとの関係がはらむ両義性に迫る試みである。帝国的性格をもったアメリカのアフリカへの関心と、パン・アフリカ主義を担ったアフリカン・アメリカンの思想と行動が、どのように絡み合っていったかという問題はすこぶる興味深いが、著者自身が「おわりに」で触れているような諸点―ハイチがしばしば参照軸となった意味、「黒人」という人種概念の機制、日本の植民地支配への投影―をより詳しく論じていけば、TIHという方法をより生かしていくものになったであろう。

 このように、本書には、TIHの日本におけるマニフェストにふさわしい力作が並んでいる。全体を通して評者が感じたのは、TIHというアプローチを生かすことができる研究対象の選択が重要だという点である。少々乱暴に整理してみれば、中にはTIHを意識することによって初めて浮かび上がってくる研究対象(たとえば第7章)がある。一方、これまでもさまざまな形で議論されてきた対象にTIHを用いることで、新たな相貌が見えてくる研究対象(たとえば第6章)もある。さらに、従来もTIHに近い形で研究されてきたもののTIHを意識することで視野をさらに広げられる研究対象(たとえば第8章)もある。TIHの追求によって、さまざまな形での研究の開拓が見通せると思われるのである。そうした研究にあたっては、複数言語の必要などから、言語をまたいでの共同研究が必要であることは、編者たちが指摘している通りであるが、その実践例を本書がよく示していることを、最後に指摘しておきたい。

(「世界史の眼」No.79)

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「世界史の眼」No.78(2026年9月)

本号には、小谷汪之さんに、 連載中の「蓼科の近代史」の続稿、「蓼科の近代史 Ⅲ(上)―白樺湖の築造と京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』」をお寄せ頂きました。また、帝京大学の後藤玲子さんに、「「福祉への想像力」―書評:金沢周作他編『福祉の世界史』」をご寄稿頂いています。

小谷汪之
蓼科の近代史 Ⅲ(上)―白樺湖の築造と京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』

後藤玲子
「福祉への想像力」―書評:金沢周作他編『福祉の世界史』

金澤周作、帆刈浩之、松沢裕作、三浦徹 編『福祉の世界史』(有斐閣、2025年)の出版社による紹介ページはこちらです。

世界史研究所の木畑洋一氏の新刊、『イギリス帝国―支配と残影』(岩波新書 新赤版2123)が8月に刊行されました。氏のこれまでの幅広い研究を踏まえ、植民地帝国イギリスを、パレスチナ問題に代表される21世紀の現在まで残り続けるその負の遺産までを視野に入れて叙述しています。手にとってお読み頂けますと幸いです。出版社による紹介ページはこちらです。

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蓼科の近代史 Ⅲ(上)―白樺湖の築造と京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』
小谷汪之

はじめに
1 「鳥の城」の事件
2 池の平をめぐる「山論」
3 白樺湖の築造
(1)温水溜池としての白樺湖
(2)白樺湖築造における曲折
(以上、本号)

4 白樺湖の築造と「鳥の城」
5 「鳥の城」と「死の概念」
おわりに
(以上、次号)

はじめに

 京極夏彦の『陰摩おんも羅ら鬼きの瑕きず』(講談社文庫版、2006年)は白樺湖(長野県茅野市大字北山。湖面の標高約1,400メートル)の周辺を舞台とする小説である。「陰摩羅鬼」とは、もともとは仏典(蔵経)に出てくる妖怪で、『淸尊録』(宋代)のような中国の妖怪書を通して江戸時代に日本に入った。死亡直後の遺体の気が変じたものとされ、鶴のような姿をしているという。ただし、本稿では、この妖怪が問題なのではない。この小説に描かれた白樺湖築造にかかわる近代史が本稿の主題である。

 『陰摩羅鬼の瑕』の設定では、明治20年(1887年)、後に白樺湖が築造されることになる池の平の地(当時、長野県北佐久郡芦田村)に、「由良伯爵」家の初代が豪壮な洋館を建てた(1,152頁)。その40~50年余り後、「由良伯爵」家の三代目の時代に、この洋館で花嫁が結婚式の翌朝に死亡する事件が連続して起こるようになったというのがこの小説の筋立てである。

 池の平は蓼科山の西麓に広がる湿地帯で、いわゆる高層湿原に分類される。高層湿原というのは、枯死したミズゴケなどが泥炭となって大量に蓄積されて周囲よりも高くなったために、地下水が地表まで届かず、雨水のみによって維持されている湿原のことである。

 池の平からは音無川が南に流れ出し、芹ケ沢の付近で上川かみがわに合流する。上川は八ヶ岳連峰西側の冷山に源を発して、滝之湯川や音無川を合わせて西流し、茅野市域を時計回りに半円を描くように流れた後、流路を北西に変えて、諏訪湖の南端近くで諏訪湖に流入する。

 芹ケ沢から音無川を遡るように北上するのが大門街道で、白樺湖の西から大門峠を越え、旧中山道長久保宿西の落合追分で旧中山道に接続する。池の平の「由良伯爵」邸に行くには、中央本線茅野駅から芹ケ沢を経て大門街道に入るのが主要な経路と想定されているようである(図1「白樺湖関係図」参照)。ただし、中央本線が岡谷まで延伸され、茅野駅が開業するのは明治38年(1905年)であるから、それまではどういう経路で「由良伯爵」邸に行っていたのか作中に言及はない。

1 「鳥の城」の事件

 地元の人たちは「由良伯爵」家の豪壮な洋館を「鳥の城」と呼んでいた。この「お城」には漆黒の鶴(これは「由良伯爵」家の二代目が剥製師に作らせた偽物の鶴で、陰摩羅鬼を暗示しているようでもある)をはじめとして、無数の鳥の剝製が置かれていたからである。この「お城」で最初の花嫁死亡事件が起きたのは昭和5年(1930年)で、「由良伯爵」家三代目の最初の結婚式の翌朝に花嫁がベッドの上で死んでいるのを発見された。これを皮切りに、昭和9年(1934年)、昭和13年(1938年)と、「由良伯爵」家の三代目が次々と結婚式を挙げるたびに、結婚式の翌朝に花嫁が死体となって見つかった。昭和20年(1945年)、敗戦の年にも4度目の花嫁死亡事件が起こったが、連合国軍(米軍)の占領下でろくに捜査もできなかったらしいとされている。

 最初の花嫁死亡事件が起こったのが昭和5年(1930年)で、「今」から23年前のこととされているから、この小説の「今」は昭和28年(1953年)である。

 最初の事件があった時に、その捜査に当たった長野県警察部刑事の一人に「伊庭」刑事がいた。池の平の周辺に生まれ育ったらしい「伊庭」刑事は戦前の3件の花嫁死亡事件すべての捜査に加わった。しかし、日米開戦と同時に、長野県警察部を辞めて上京し、「工廠」で働いていた。戦後になって警視庁に採用され、5年間勤務した後退職して、「今」では東京で年金暮らしである。

 その「伊庭」元刑事の家に警視庁麻布警察署の「木場」という刑事が訪ねて来た。「木場きば」は「伊庭いば」と間違えられて、国家地方警察長野県本部からこの花嫁死亡事件について問い合わせを受けたので、「伊庭」のもとを訪ねたということであった。「木場」によれば、「今」、同じような事件が白樺湖畔の豪壮な洋館で起きそうだという。「由良伯爵」家の三代目が5度目の結婚式を挙げることになったからである。それを聞いて、「伊庭」は「だだっ広い荒野の外れに聳そびえる、石造りの建物」を思い出した。「伊庭」は少年時代に、「あれは御殿だ、お城だと聞かされていた」。「そんな立派な建物なのかい」と問う「木場」に、「伊庭」はこう答えた。「多少大袈裟おおげさかもしれないがな。そんな感じだ。こっち[東京]じゃ巨おおきい建物なんざ珍しくもないが、あの辺りにはない。だから異様に目立ったんだ」(『陰摩羅鬼の瑕』246頁)。

 この「木場」刑事の訪問がきっかけとなって、「伊庭」は事件の発生を未然に防ぐために、国家地方警察長野県本部に協力することになった。戦前の3件の花嫁死亡事件の捜査に当たった者が「今」の国家地方警察長野県本部には一人もいないというのがその理由であった(国家地方警察は1948年から1954年まで存在した過渡的な警察組織で、この小説の「今」である1953年はこの期間内に含まれる)。

 こういうことで、「鳥の城」には、国家地方警察長野県本部の刑事たちや「伊庭」元刑事だけではなく、某元子爵の息子という奇妙な自称探偵やそのお守役の鬱症状の作家、さらには怪しげな古本屋の主人などいわくありげな者たちが集まって、事件が起こるのを防ごうとした。しかし、結局、今回も同じような事件が起こり、花嫁は死亡してしまった。この件がどういう結末を迎えるのかということについては、『陰摩羅鬼の瑕』を読んでいただくとして、次節からはこの小説と白樺湖とのかかわりについて検討することとしたい。

2 池の平をめぐる「山論」

 白樺湖が築造されることになる池の平の地をめぐっては、南の柏原村と北の芦田村が江戸時代初期から争いを繰り返してきた。いわゆる「山論」(入会地抗争)である。南の柏原村は諏訪藩の領地内で、北の芦田村は小諸藩の領地内であったから、この争いは諏訪・小諸両藩の境界をめぐる争いでもあった。池の平周辺はちょうど分水嶺で、南流する川は最終的に諏訪湖にそそぎ、西流あるいは北流する川は最終的に信濃川に流入する。それで、諏訪・小諸両藩の境界になっていたのである。

 池の平をめぐる柏原村と芦田村の山論が史料に初めて現れるのは寛永14年(1637年)である。芦田村側の言い分によれば、この年、柏原村の庄屋弥兵衛が「麦草にて……材木をぬすみ切り候所を」、「芦田村の御鷹たか見の者が見つけ、材木を焼き捨て弥兵衛の馬二匹を取った」ということである。両村の山論は慶安3年(1650年)に再び起こり、芦田村の側は柏原村の者たちが「わがままに麦草御鷹たか山にて材木」を切り取ったとして、諏訪藩に訴えたが取り上げられなかったので、幕府に訴え出た。麦草(麦草平)というのは蓼科山南麓、池の平の東に位置する地域で、ここには小諸藩が鷹狩りに使う鷹のヒナを捕獲する鷹山があった。この鷹山の見張り役(御鷹たか見)を芦田村の者たちが務めていたのである。

 まだ幕府の裁許が出ていない延宝4年(1676年)、柏原村の者たちが麦草平で小屋掛けをして炭焼きをしていたところ、芦田村の者たち数百人が鉄砲6、70挺などをもって炭小屋を襲撃した。驚いた柏原村の者たちは逃げ出し、木炭2,000俵などが奪われた。翌、延宝5年(1677年)、幕府の裁許が下され、「小諸領申す所の屋しが峰[八子ヶ峰]境」を両村の村境とし、「諏訪領の者境越し立科山[蓼科山]の内に入るべからず」とされた。柏原村の側では、その後も芦田村との村境はもっと北であると繰り返し主張して争ったが、延宝の幕府裁許が変わることはなく、そのまま明治に至った(以上、『茅野市史 中巻 中世・近世』1987年、688‐693頁)。

 現在の地図を見ても、芦田村(現、長野県北佐久郡立科町)と柏原村(現、茅野市大字北山・柏原区)の境界はスズラン峠から八子ヶ峰に至る稜線上になっている。ただし、八子ヶ峰の西で境界が北に上がり、芦田側に食い込んでいる(図1「白樺湖関係図」参照)。これは、明治38年(1905年)、芦田村と北山村柏原区の間で、「芦田村字蓼科八ヶ野五、一五○ノ内、実測反別一○二町六反三畝一五歩」の土地を「四、一○五円四○銭」で北山村柏原区に売り渡すという売買契約が交わされ、明治45年(1912年)にその支払いが完了したので、この土地が北山村柏原区の所有地となったからである。「これが今日の白樺湖の一帯である」(『茅野市史 下巻 近現代・民俗』1988年、144頁)。ただし、白樺湖北部東側の一部の土地は芦田村の地籍(現、長野県北佐久郡立科町大字芦田八ヶ野)である。

3 白樺湖の築造

(1)温水溜池としての白樺湖

 前述のように、東京で隠居暮らしをしていた「伊庭」元刑事の家に警視庁麻布警察署の「木場」刑事が訪ねて来て、白樺湖畔の豪壮な洋館で事件が起こりそうだという話をした。その時の二人の会話の中で、白樺湖築造の目的や経緯が語られている。

 「伊庭」が池の平というのは「何もない処だぞと云うと、白樺湖があるでしょうと木場は云った」。「湖なんかなかったぞ」と「伊庭」がさらに言うと、「造ったんですよと木場は答えた」。それで、「伊庭」は、「そう云えば」と遠い記憶を思い起こされた。

 温水溜池造営事業を県と国が採択したのだと云うような話を聞いた記憶がある。国庫補助金も出るのだとか騒いでいたし、農林省の技師とやらが調査にも来ていたようだった。(『陰摩羅鬼の瑕』242頁)

 それで、「伊庭」は「木場」に尋ねた。

「そりゃ温水貯水池じゃないのか」 
「貯水池?さあ、俺は湖だと聞いたがね」
「いや、池の平ってのはあの辺一帯の水田の水源なんだよ。ところが音無川ってのは水温が低い。蓼科山から湧く水は、稲育てるには冷た過ぎるんだ。取り入れ口付近の稲はみんな水口みなくち立だちになっちまう」
「水口立ち?」
「実が付かないんだよ。黄金色の穂が垂れる時期になっても、青いまま突っ立っているわけだ。恒久的な冷害だな」
 そう。農家は困っていたのだ。少し気温が下がっただけで水田の半分近くが収穫出来なくなるような話も耳にした。そこで音無川を堰せき止めて池の平に温水用溜池を造ろうと云う計画が立ち上がったのだ。
(『陰摩羅鬼の瑕』243頁)

 白樺湖築造に関するこの『陰摩羅鬼の瑕』の記述は基本的には正しいが、もう少し詳しく年代などを入れると次のようになる。

 昭和13年(1938年)、北山村柏原区の総会で、水温の低い音無川を堰き止め、天日で水温を5度から10度上げるための温水溜池として、湖面面積36ヘクタールの貯水池を造成する計画が提起された。地元では、「北山村池の平耕地整理組合」が結成され、国や県に数度にわたって陳情を行った。その結果、「県営北山村他三ヶ村農業水利改良事業」として白樺湖の築造が行われることになった。「他三ヶ村」というのは、北山村より音無川・上川の下流に位置する米沢村、豊平村、永明村(1948‐1955年の間は、「ちの町」と称された)のことで、北山村を含むこれら4カ村の水田総計500ヘクタールに給水することを目的とする計画であった(これら4カ村の位置関係については、図2「茅野市域の村区分」参照)。この計画は国と県の承認するところとなり、昭和15年(1940年)3月、高さ11メートル、長さ70メートル、幅6メートルの堰堤築造工事が国の補助による県営工事として着工された。総事業費は24万円で、国から50%(補助金12万円)、残りは県30%(3万6000円)、地元70%(8万4000円)の負担とされた(『茅野市史 下巻』762‐763頁)。

 高冷地の多い長野県では、多くの川の水温が低く、そのまま水田に入れると稲の生育を阻害する恐れがあった。そのために、川の水を一度溜池に貯めて天日で水温を上げてから水田に給水するという方法が採られた。このような溜池は温水溜池と呼ばれ、長野県各地に広く見られる。『茅野市史 下巻』(685頁)には、現在の茅野市域にある18の温水溜池の一覧表が示されている。

(2)白樺湖築造における曲折

 こうして、白樺湖の堰堤築造工事が始まったのだが、順調には進まなかった。「伊庭」がこの「計画は頓挫とんざしたのだと思っていた。着工早早に戦争が始まっている筈だ。国が亡ぶかと云う戦いの最中に池堀りでもあるまい」と言うと、「戦後に工事再開して完成したんですよと木場は云った」。そして、「木場」はこう続けた

 何でもね、地元民が相当に苦労して造ったんだってェ話は新聞かなんかで読みましたがね。行政が手を引いた代わりに山の木ィ伐きって売ッ払って、それを財源にして近在住民自らが人足になって無休で工事やったとか―。(『陰摩羅鬼の瑕』243頁)

 この『陰摩羅鬼の瑕』の記述もほぼ正しいが、より詳しく言うと次のようになる。

 前述のように、昭和15年(1940年)に白樺湖の堰堤築造工事が始まったのだが、昭和19年(1944年)までに建設費のすべてを使い果たし、長野県は白樺湖堰堤築造工事を打ち切りとした。戦時の財政逼迫によることであろう。しかし、北山村柏原区の人たちはあきらめず、さらに必要となった建設費15万円を自ら負担し、労力は柏原区民と旧制諏訪中学校(現、諏訪清陵高校)生徒の労働奉仕に依拠して堰堤築造工事を続行した。旧制諏訪中学校の生徒たちが白樺湖堰堤築造工事に従事していたのは、学徒勤労動員によって諏訪鉄山(拙稿「蓼科の近代史Ⅱ―諏訪鉄山と連合国軍俘虜たち」参照)で働いていた旧制諏訪中学校の生徒たちの一部が白樺湖堰堤築造工事の方に回されていたからである(伊藤岩廣編『平和を今こそ―諏訪鉄山と捕虜収容所ものがたり』長野日報社、2009年、93頁)。「地元柏原区・[北山村池の平]耕地整理組合の熱意と努力、血と汗によって戦時下の諸困難をのりこえて」(『茅野市史 下巻』763頁)、白樺湖は戦後の昭和21年(1946年)になって完成に至った。しかし、堰堤からの漏水が激しかったため、昭和24年(1949年)には、堰堤の補強工事が県と地元有志の出資によって行われた(『茅野市史 下巻』763頁)。この補強工事については、柏原区民全員の賛同が得られなかったので、有志が代行組合を作って資金を調達したのである。こうして出来あがった白樺湖は今日なお、茅野市大字北山などの水田に水を送り続けている。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.78)

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「福祉への想像力」―書評:金沢周作他編『福祉の世界史』
後藤玲子

はじめに

 きわめてあたりまえのことだが,現に在る「福祉」は,だれかが,ここ,そこ,あそこで受けている福祉であって,概念としての福祉ではない.概念としての福祉がどこかに実在し,実際に観察されるわけではない.そうであるにもかかわらず,私たちはまたしても,福祉とは何か,を問う.そして,そのあるべく姿を問う.なぜか.おそらくそれは,目の前に苦しむ人がいるから,またしても現れるから.そして,いまある福祉のもとで,ひっそりと苦しむ人がいるおそれを,否定することができないからだろう.

 だれであろうと,福祉を必要とする人たちを,いつであろうと,どこであろうと,ほったらかしにはしない,そのためには,いったいどうしたらよいのだろうか.そんな祈りにも似た気持ちをもって本書を開いた.

1.豊かなケイパビリティ

 当初,本書から,縦・横の移動を自由に組み合わせながらゴールへと進んでいくボードゲーム(あるいは数学でいう格子経路)のような印象を受けた.その印象は,―各論考の独自性と完成度がきわめて高いこともあり―,小さな布地(キルト)を縦横に縫い合わせ,重ね合わせる壮大なタペストリーへと変わった.おそらく読み方に特定のルールがあるわけではないだろう.時系列的な流れをより全体的に俯瞰しようと,縦の「章」をつないで読むことも,福祉を支える背景思想をより総合的に理解しようと,横の「章」をつないで読むことも,許される.

 あるいは,索引を手引きとしながら,特定の項目を異なるキルトから拾い出し,異なる文脈をつなげることもできる.同種の主題を扱った論考(縦糸と横糸),ならびにコラムを重ね合わせて読み解くこともできよう.A.センの「ケイパビリティ(潜在能力)論」を専門とする私の脳裏にちらっと,「本のケイパビリティ」という語が浮かんだ.本書は実に多様な読み方を可能とする豊かなケイパビリティを備えた本である,と.

 例えば,「出入り自由な往来」に関心をもつ私は,「行き倒れ」の項目に眼を惹かれた.行き倒れとなった「無宿非人」を運ぶ駕籠は「町」の負担である一方,粥・薬等は幕府の負担であった(経糸3-5章「日本」),あるいは,行旅病人の救助については,救助地の府県が救助費用を負担することとされた(経糸4-6章「日本」)などの記述である.通常,保険と理解されることの多い医療保障のもつ公共性を示す貴重な断片である.

 経糸1-1章「先史時代」にも,人骨から単独歩行が不可能な外傷や病状を負った人への介護ケア(助け合い)が確認され,集団移動時には(被介護者自身の)個人搬送を伴ったと理解される,とある.これらは,現代,移動困難者の支援を行っている「同行援助」や「福祉有償運送事業」の担い手たち,NPO法人や市町村行政を勇気づけるに違いない.

 かくも豊かなケイパビリティを備えた本書であるから,異なる角度から書評が書かれるに違いない.より公平で中立的な本書の紹介は他に譲り,以下では,冒頭に記した筆者自身の関心と,経済哲学というバックグラウンドから,いくつかコメントするにとどめたい.

2.分析枠組み

 本書の分析枠組みは,次のようにまとめられる.

 まず,(1)本書の鍵となる「福祉」概念は,広く緩やかに,「人々が享受する,適切な生存・生活の質」,「適切ではないと判断された物質的・精神的な欠乏や不足や不安への対応全般」と捉えられる. 

 分析に当たって,本書は,(2)(福祉を担う)「人間集団の範囲と価値観,そして利用可能な手段を考慮に入れ」ながら,供給主体の複数性や「福祉の複合体」に着眼点を置く.

 叙述は,(3)対象の地域・時代の福祉を当時の概念や用語法を踏まえて描かれる.ただし,5つの時代区分,ならびに,四重のセーフティ・ネット(自助努力・助け合い・富裕者からの私的な慈善・公的な福祉)が,共通の「測り」(共通尺度)とされる.

 この枠組みのもとで,「各時代を代表する福祉の展開するひとまとまりの時空間」を「経糸」とし,「ある時期に広く共有された現象(宗教やイデオロギー,政治・経済的トレンドと福祉のかかわり)」を「緯糸」として,本書全体が編み込まれていく.

 本書の最大のメリットは,編者らがこのような分析枠組みを明示していること,それに呼応するように,他の論考が共通の枠組みと,類似した概念に依拠しながら,議論を進めている点にある.例えば,経糸5-7章「インド」には次の記述がある.「(特定カテゴリーの集団権益の保証から,権利に基づく個人の利益の保障へという変化は)チャリティ的なるものやインフォーマルな互助から,フォーマルな公的救済へと発展してきたものではない」,「(霊的な見返りを得たい人々の想い,社会奉仕活動により蓄財とのバランスを維持したい,政治的支持と引き換えに貧困対策を行う政府や政治家の利害,汚職のない公平な社会の実現を願う企業家など)異なる組織や個人の想い,思惑,利害が併存,対立し,時には絡み合うことでもたらされてきたのである」.

 とはいえ,すべての論考が共通の分析枠組みにすんなり収まっているわけでは毛頭ない.そもそも何を福祉と呼ぶのか,みなすのか.ここからそれぞれ論を起こし,その意味内容は一様ではない.「私的慈善」に対置する「公的福祉」を現わす言葉とする論考もあれば,端的に,「一般に社会的弱者への支援を福祉と呼ぶ」とする論考もある(経糸5-3章ドイツ).「どこで何があっても,すぐに緊急救援に駆けつける」活動こそを福祉の根幹だと認識していると指摘する論考もある(経糸5-6章イスラーム世界).「社会的救済機能を担った「福祉」はいわば普遍的な現象である」として,終始かっこつきのまま,「福祉」現象,「福祉」事情,「福祉」的活動を広く捉えようとする論考もある(経糸2-2章「ビザンツ帝国」,経糸2-1章西ヨーロッパ).「福祉」の語がまったく登場してこない―「慈善」はあっても―論考も少なくない.

 「慈善」については,おおまかな定義の一致があるように見受けられる.けれども,例えば,「慈善信託」のような事象には,給付型奨学金などの公益財団的な活動が入り込んでくる(経糸3-1章西ヨーロッパ,経糸4-1章イギリス,緯糸4-i(帝国主義・植民地主義)〔1〕イギリス).それらが教育・就労などの「機会の実質的平等」に資することは間違いない.あるいは,遺贈を託された行為主体の道徳性をめぐって,福祉と共通する困難さを内包していることも間違いない.だが,ときに生産性論理を超える価値や論理の追求へとわれわれをかき立てる福祉との間には,見逃すことのできない異質性があることは否めない.

 とはいえ,各論考は専門性の高い膨大な研究蓄積のもとに書かれているだけに,いずれも大変,興味深く,これらの異質性もまた,本書の統一性を損ねるどころか,むしろ編者らの意図をよりいっそう鮮明に浮かび上がらせることに成功しているといえるだろう.

3.障碍者福祉

 冒頭に記した私の関心から,もっとも興味深かったのは,障害者福祉に関する次のような記述である.「救済されるべき弱者は「条件つき」であった.例えば,生得の障害者は救済対象ではなく,排除の対象であり,彼らは最終的には殺害されるに至っている」とある(経糸5-3章ドイツ).「障害者を増やさない政策,それまで戦争障害者と労務災害障害者以外の,生得障害者を排除する論理にどう対抗するか」「「自立支援」という名のもとに個々人の努力を重視する政策ではなく,当事者に寄り添った公的支援をどのようにしていくのか」という問いかけは重要である(コラム5-②障害者福祉).

4.高齢者優遇

 儒教の思想で紹介された「ハンセン病患者への差別」と「高齢者優遇」とのコントラストが,上記の記述と響き合う(経糸1-3章中国).ハンセン病患者は罪状にかかわらず「定殺」(溺死の刑)とされる,対して高齢者は労役刑以上の罪を犯したとしても一般民衆と同じ手続きでは告訴されない,むしろ告訴により尊厳を傷つけた者の方に大逆不道の罪が適用される(言語的身体的虐待を行ったものも同様)という.これらをもとに,著者は,高齢者という弱者の立場は,一般の人々にとって,「自分ごと」として捉えやすいのに対し,疾病や障害,性差などは,「自分ごと」としては捉えづらいのでは,と問いを投げかける.

 宗教的な思想であれば,この難点を克服できるだろうか.宗教は,第三項を立てることにより,福祉の担い手と受け手の間にある非対称的関係性が,支配-従属,優位-劣位関係に転化することを食い止めてきたとある(緯糸2(世界宗教)〔2〕キリスト教,緯糸2(世界宗教)〔3〕イスラーム,経糸5-6章イスラーム世界など).富裕者はただ神に寄贈し,貧者はただ神から拝受する.神を挟んだ二者は,相互に比較不可能な存在として対等性を担保される.先に言及した「慈善信託」やワクフなどが,イギリスやイスラーム世界などで超国家的なしくみとして普及し,機能してきた(規模は大きいが組織化は進まない)一方,日本では根付きづらかった(行政的組織化がより強化であったが,「家」を超える贈与行為の規模はごく限られる)理由も,このあたりにありそうだ(経糸4-6章日本).

5.福祉供給主体の動機

 本書の重要な貢献は,福祉供給主体の動機について,コアとなるものを,さまざまな位相で,ほぼ体系的に網羅した点にあるだろう.例えば,「信託」の語は,国家間(宗主国と植民地など)や民族間(先住民と入植者など)の支配-従属,優位-劣位関係を律する倫理としても注目される.緯糸4-ii,トランスナショナル・ネットワーク[2]では,労働者インターナショナルの活動に献身したローザ・ルクセンブルクの言葉,「雲と小鳥と人の涙のあるところ,そこがすべてわが家である,と私には感じられます」が紹介される.さまざまな動機や目的で国境を越える,実に多様なネットワークの重層性と拡がりのあることが示唆される.ここには「自分ごと」かどうかを越える福祉の思想が潜まれているのかもしれない.残念ながら,今回は,これらの論考を十分に読み込むことができなかった.宿題としたい.

6.慈善と公的福祉

 本書の主題である慈善と公的福祉については,例えば,「民間慈善」対「権利」に関する「貧民救済論」(末広重恭)と「非貧民救済論」(肥塚竜)の論争が興味深かった(4-6章「日本」).前者は,民間慈善には「必要な人に届くとは限らない」不安定性があるため,むしろ,「救済を受ける権利」を全国民に確立すべきだと主張する.後者は,これを退けて,「裁判所に訴える権利」は全国民がもつといえるが,「救済を受ける権利」はそうはいえないと主張する.慈善については,「世の中には慈悲深い人もいればそうでない人もいる,法律で一定に制限することはできない」と流している(経糸4-6章日本).

 文字通り,すべての国民に,あるいは,すべての地球市民に,必要な人に必要なものが届くためにはどうしたらよいのだろうか.そう考えながら,頁をめくると,経糸5-5章アフリカの「底辺層は自らの生活世界の保護と拡充のために,多種多様な扶助のチャンネル(公的支援,市場原理の貸し出し,伝統的互助講の再編成版など)を自らの生活の必要に合わせて混淆させて,巧妙に対応していることがわかった」という言葉が眼に入った.

おわりに

 概念としての福祉を求める前に(そして,それを求めるためにも),ここ,そこ,あそこに在る(在った)個々の福祉をもっと学びとる必要がありそうだ.1つ1つのキルトを再度,丁寧に読み込みながら,本書との対話を継続していきたい.多くの問いとヒントを提示していただいたことに心からの感謝を表して,本稿の結びに代えたい.

(「世界史の眼」No.78)

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「世界史の眼」No.77(2026年8月)

本号には、世界史研究所創立期顧問、九十余翁の下村由一さんに、「「永遠の赤」の独り言―時間認識の成立と『資本論』」をご寄稿頂きました。(本稿が掲載されたまさにその時に、下村さんはご逝去されました。謹んでお悔やみ申し上げます。(8/2追記))

また、書評を二本掲載しています。静岡文化芸術大学の加藤裕治さんに、2025年に日本語訳が刊行されたユヴァル・ノア・ハラリの『NEXUS 情報の人類史』を書評して頂きました。また、稲野強さんに、今年日本語訳が刊行されたダリン・M・マクマホンの『〈平等〉の人類史―先史時代からアイデンティティ・ポリティクスまで』を書評して頂いています。

下村由一
世界史寸評「永遠の赤」の独り言―時間認識の成立と『資本論』

加藤裕治
書評:ユヴァル・ノア・ハラリ著『NEXUS 情報の人類史』上下 柴田裕之訳(河出書房新社、2025)

稲野強
書評 ダリン・M・マクマホン(東郷えりか訳)『〈平等〉の人類史―先史時代からアイデンティティ・ポリティクスまで』作品社(2026)

ユヴァル・ノア・ハラリ(柴田裕之訳)『NEXUS 情報の人類史』(河出書房新社、2025年)の出版社による紹介ページは上巻がこちら、下巻がこちらです。ダリン・M・マクマホン(東郷えりか訳)『〈平等〉の人類史―先史時代からアイデンティティ・ポリティクスまで』(作品社、2026年)の出版社による紹介ページはこちらです。

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