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「世界史の眼」No.74(2026年5月)

今号では、南塚信吾さんに、「幕末に於ける対外認識―レザノフ事件とモリソン号事件の影響(その2)」をお寄せ頂きました。(その1)はこちらです。また、南塚信吾さんには、昨年みすず書房より刊行されたフィリップ・テーア『東欧の体制転換と新自由主義―1989年以後のヨーロッパ』の書評もしていただいています。

南塚信吾
幕末に於ける対外認識―レザノフ事件とモリソン号事件の影響(その2)

南塚信吾
書評:フィリップ・テーア『東欧の体制転換と新自由主義』福田宏ほか訳 みすず書房 2025年

フィリップ・テーア(福田宏ほか訳)『東欧の体制転換と新自由主義―1989年以後のヨーロッパ』(みすず書房、2025年)の出版社による紹介ページはこちらです。

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幕末に於ける対外認識―レザノフ事件とモリソン号事件の影響(その2)
南塚信吾

2025年12月1日掲載の(その1)より続く

 高野長英と同じく、渡辺崋山も、モリソン号への対応について幕府を批判した。崋山が、モリソン号の噂を聞いて1838年(天保9年)に書いた『慎機論』や、1839(天保10年)に書いた「事情書3部作」、つまり『初稿西洋事情書』、『再稿西洋事情書』、『外国事情書』は、広い国際的な展望のもとに、日本の鎖国的な政策を批判したものであった。

 崋山は伊豆の韮山代官江川英竜(海防論者として幕閣に入っていた)の依頼により、世界情勢を論じた無題の論稿を書いた。最初の稿は、のちに佐藤昌介が『初稿西洋事情書』と名付けたもので、過激なものであった。これを書き直したのが、のちに同じく佐藤によって『再稿西洋事情書』と名付けられたものであるが、これも激しすぎるというので受け取られなかった。そこで書かれた第三稿が江川に上申され、これを江川が『外国事情書』と名付けたのである。以下、崋山の「事情書3部作」の内容を比較・検討してみることにする。

***

 まず、『初稿西洋事情書』(以下『初稿』)は、「西洋諸蕃の事情を知るは、誠に今時の急務」であると始める。「西洋諸蕃の義は、一地球(世界全体)に拘り候間、只欧羅巴計(ばかり)にては申し尽し難く候」という。そして、事実上、世界史を論じていく。論点を整理して見ていくことにしよう。

(1)地球中(=世界中)、赤道以南の地は「恐るるに足らず」なので、以北を考えると、一般に、「南地のもの文華有之(これあり)、北地のもは武術有之」。

(2)地球上には、五大州があるというが、実際は欧羅巴・亜細亜洲、阿弗利加洲、亜墨利加洲の三洲であり、そのほかに亜烏斯答羅利(あうすたらりー)洲がある。このうち、欧羅巴・亜細亜洲は文物制度が最も進んでいる。「人道」はみな亜細亜洲から出ており、ヨーデン宗(ユダヤ教)、ヘイデン宗(仏教のこと)、キリス宗(キリスト教)、孔子はみなこの洲から出ている。ヨーデン宗、キリス宗は北漸し、欧羅巴では、ローマ、ギリシアを経て(=順番が間違い)、「今の各国瓜分(かぶん)の世」となった。その北の「韃靼」の地の民は強壮で、東は唐山(中国)を併せ、西はアラビア、欧羅巴を併せ、南はインドを併せ、モンゴルとなっている。このように「北狄(ほくてき)」が強いが、最近は同じく北の魯西亜が世界第一の大国となっている。しかし、「物極れば衰ふ」。むかし、払郎察(ふらんす)のボナパルテという者も西洋諸国を「打平げ」たが、魯西亜に負けてしまった。このほか、アラヒヤ、エチプト等はトルコに并(へい)せられ、印度はイギリス、フランスなどの地となり、唐山は満洲に併せられた。

(3)現在は、西洋が教政隆盛である。その理由は、教主が国王と並ぶ地位にあり、教主が「生殺之権」を持ち、国王が「予奪之権」(=官吏の任免権)を持つ。国王は「役」である。こうして国は「身を治(おさめ)、人を治(おさむる)を第一の任」と考え、「開土造士」(=開化・教育)を専らとする。国は学問・教育を進め、「造士の道」を盛んにする。学校が盛んなのは、ドイツとフランスで、それに次いでイギリスである。オランダも最小国であるが、学校が盛んである。

(4)このように「学術実践を以て天地四方を詳(つまびらか)に致し、人を育し国を広め候」ゆえに、「今は、地球中、一地も欧羅巴諸国の有に之無くは御座なく候。」ただ亜細亜だけがまだ欧羅巴の領地になっていないが、これとても唐山は魯西亜、ポルトガル、アメリカ、イギリスに脅かされ、ペルシア、アラヒヤ、印度、シャム、チャンパなどは、「西洋の領に之無くは之無し」という。結局、亜細亜では「其国を古来より失わざるものは」ペルシアと日本だけである(=ペルシアの理解は矛盾しているし、シャムもおかしい)。これは「誠に心細き事」であるが、知らなければ「井蛙(せいあ)に安んじ」てしまうことにもなる。

(5)現在、我国に「涎を流し」ているのは、魯西亜と英吉利である。今は「神風」に頼ることはできないから、「敵情を審(つまびらか)に仕る」他はない。魯西亜は「仁義を専ら」とし、「地続きの国を広め」、兎角「極寒不毛の地」を相望み、次第に「南下」している。英吉利は、「智略を専ら」とし、航海を頼み、海外諸地を略し、兎角魯西亜の先を潜るような動きをしている。そういう違いはあるが、二国とも「土地を開拓」することと、「人の国を奪取」ることが、非常に「妙」である。例えば、イギリスは北アメリカを取って民を移したり、新阿蘭(オーストラリア)を開拓している。フランス、オランダも開拓しているが、7分はイギリスである。このように「天地を一統」致し、表は「同仁の意思を称し」、みだりに兵力を使うことはない。そういうわけで、英吉利などを「夷狄(いてき)」などと軽んじていることは、誠に「盲人の想像」である。

(6)およそ「時変に従ひ、政を立」てるというのは、「古今の通義」である。日本についてこれを見ると、太古の代の日本は小さかったが、次第に地方を組入れて、太閤の征戦となった。その後、鎖国となり、ただ一国を治めるようになって、終に「海外の侮」を受けるようになった。西洋が怖ろしいからとて、「雷を聞きて耳を塞ぎ、電(いなずま)を忌(いん)で目を塞ぎ候」ことはいけない。西洋は、「万事議論、皆究理を専務と仕候」。「究理」の一つに、外国は日本の地誌をよく調べている。シーホルトは魯西亜の「学頭」に乞われている。

(7)西洋では、兵は「非常の備の奉公」をするだけで、「常の事を兼ね勤る」のであり、これによって政庁、教堂、学校等に多くの人を当てることができる。そのように、質素なのは、「皆人才を育し、学文を専に、実用専一に」しているからである。したがってこの後10年、20年は事無きをえるものの、「永世の策」がないと、亜細亜諸国は、一日も安じ申さず候。」

(8)「権を全地球に及ぼし候洋人は、実に大敵と申も余り有之」。故に、「なにとぞ此の上は、御政徳と御規模の広大を祈る」ところである。

 「井蛙」、「盲人の想像」、「永世の策」がないなど厳しい幕府批判であった。この『初稿』は、あまりにもはっきりとした幕府批判をしていたので、崋山は江川に送ることを断念した。しかし、前年の『慎機論』と合わせてこの『初稿』は、「蛮社の獄」において崋山に幕府批判の罪を問う材料となったものである。

***

 次に、『再稿西洋事情』(以下『再稿』)であるが、崋山は『初稿』で露骨に幕府批判をしたので、いくらか修正が加えて、改めて『再稿』を書いた。それは『初稿』と同じく、「西洋諸蕃の事情」を知るのは「実に今時の急務」であるとし、「西洋諸蕃の義は、一地球(世界全体)に拘り候間、只欧羅巴計(ばかり)にては申し尽し難く候」という。そして、事実上、世界史を論じていた。

(1)『初稿』と同じく、『再稿』も地球中、赤道以南の地は「恐るるに足らず」なので、以北を考えるとし、一般に、「南地のものは文華有之(これあり)、北地のもの武断有之」とするが、やがて「教化は次第に北に移り、英武の主は次第に南に移り」、天地が一変したという。

(2)『初稿』と同じく、地球上の欧羅巴・亜細亜洲、阿弗利加洲、亜墨利加洲などの区分を見るが、このうち、欧羅巴・亜細亜洲は人の素質も抜群である。『初稿』では「文物制度」としていたが、今度は「人」になっていた。そして、『初稿』にある「人道」ではなく「聖人」は、みな亜細亜洲から出ており、ヨーデン宗、ヘイデン宗、キリス宗、孔子をあげるが、『再稿』はここにマホメット宗を加えている。そして、インド、ペルシア、ナトリア、アラビア、エジプトに至る地方は、古代には「教化」が盛んであったとし、それはやがて、北方は韃靼に伝わり、西北では欧羅巴に伝わったとする。そして欧羅巴では、ローマ、ギリシア(=依然として順番が間違い)を経て「今の各国瓜分(かぶん)の世」となった。「韃靼」の地も教化が早く(『初稿』では「民が強壮」という)、東は唐山(中国)を併せ、西はアラビア、欧羅巴を併せ、南はインドを併せ、モンゴルとなっており、『初稿』と同じく最近は同じく北の魯西亜が世界第一の大国となっているという。しかし、『初稿』では「物極れば衰ふ」として、ボナパルテという者も魯西亜に負けてしまったと述べて終わっていたが、『再稿』ではその後1815年以後、西洋諸国は会盟し、今の静謐となる、が加えられている。半面、この間のアラヒヤ、ナトリア、エジプト、インド、唐山などへの言及は削除されている。

(3)『再稿』も西洋で教政が盛んなるは、教主と国王が位を同じくし、国王は「職役」なのだからだと述べ、この体制により、西洋は「造士開物(=教育と研究)之学校」を「政事之根本」と考えているという。そして学校が盛んなのは、独仏英などであるとしたうえで、『初稿』とは違って、西洋諸国は小国ではあるが、新知識を秘すことはなく、「ナチュール(=天意)」に背くことを嫌うということを付け加えている。それゆえ、風説(ニュース)を印刷するところがいくつもあり、新聞(新しい見聞)が諸国に広められている。西洋は、果断に事を行うが、これは「窮理」(物事の道理を窮める)から来ている。だから、諸国の政の改正が度々起こるという。

(4)『初稿』と同じく,この結果、ただ亜細亜だけがまだ欧羅巴の領地になっていないが、これとても唐山は北狄の有となっていたりして、結局、亜細亜では「古来独立」しているのは日本とペルシアだけであるとし、これは「誠に心細き事」であるという。『再稿』はさらに、唐山はキャクタやイルコーツカでロシアと交易をし、広東・マカオにて土地を貸して、ポルトガル、アメリカ、イギリスなどと交易をしている。そのほか、西洋はペルシア、アラビアに商館を置き、セイロン、インド、マラッカ、チャンパなどや、マリアナ諸島、フィリピン諸島、モルッカ諸島などすべてを「領」していると述べている。ここはより正確になっている。そして、これ以後が新しい。『再稿』は、我国は「途上遺肉」(=道に捨てられた肉)のようであり、「狼虎」(西洋諸国)がこれを顧みない筈がない。しかるに、我国は「知らざれば井蛙も安じ、小鷦(しょうしょう=小さなミソサザイ)も大鳥を笑ふ」のようになっていると警告した。

(5)『再稿』も、現在我国に交易を望んでいるのは、魯西亜と英吉利であるとし、今は「神風」に頼ることはできないから、先ず「敵情を審に仕る」他はないという。そして、両国の違いを指摘しているが、『再稿』との違いは、魯西亜が兎角「極寒不毛の地」を望むのは、「南移」の基を固めようとしているからであるとしている点であろう。また、二国とも「土地を拓き」、「人の国を蚕食」する事、非常に「妙」であるとするのは同じである。以下の記述は、『初稿』より拡充されている。イギリスは北亜米利加に人民を移し、フランス・オランダも土地を開いたが、イギリスに蚕食され、いまでは七分はイギリス領である。北アメリカは自立して「合衆国」と言い、「共治之政」(共和制)となった。イギリスは、「人之国を奪う」ことが巧みで、とくに印度は巧みにオランダから奪った。インドには他にポルトガルとフランスも「拠」っている。そのほか、アフリカ、アメリカ、アウスタラリーは、みな「洋人」の「巣穴」となっている。そして、『初稿』と同じように、英吉利などを「夷狄(いてき)」などと軽んじることは、誠に「妄人(盲人)の想像」であると批判した。

(6)このあとに『初稿』では、およそ「時変に従ひ、政を立」てるというのは、「古今の通義」であるとして、日本がこれに乗り遅れていることが書かれていたが、『再稿』では、それは消え、唐土や印度など古代の聖人のいたところは、その後の変化を知らず、「空疎無稽乃識」におぼれ、一国も残らず夷狄の地となったとされる。『初稿』では、それに対して西洋人は、「万事議論、皆究理を専務と仕候」とするが、『再稿』は、「物事之理を押窮(おしきわめ)」て、「教政補益を致」すので、教政が並びに盛んになって、いまでは「邪教(=キリスト教)」の至らないところはないくらいであるという。根本は「地球を審(つまび)らかに致、四方を弁じ、風俗を察し、政度を明に致」すことであるので、「掌中の物を見る如く」である。日本についてもそのように調べられている。「シーボルト」もいまではロシア政府に仕えていると重ねて指摘する。

(7)西洋の軍事についてみると、軍は陸軍と海軍に分かれている。軍人は、人口の100分の1か50分の1ぐらい。兵士は毎日軍装をして「場所」に出て「操練」を受けつつ「番」をしている。軍備に人を使うので、家の下僕は印度人、ネーケル人(=ニグロ 黒人)を使う。教育についてみると、学校には多くの人がいることを善治と考えている。故に国王の供(とも)の数は少ない。ひとえに、「人才を育」そうとするのである。それゆえに、「たとえ此後患(わざわい)之無く」とも、西洋は「漸進」の勢いにあって、「亜細亜諸国の備え忽(ゆる)がせにすべからず」と警告した。

 『初稿』ほどではないが、『再稿』も「井蛙」、「妄人の想像」、「時変」に遅れなど、依然、幕府批判をにおわせていた。崋山はこれを江川に送ったが、江川はこれを却下し、書き直しを命じた。

***

 こうしてできたのが、第三稿の『外国事情書』(以下『外国』)である。それは、前の二つの事情書の数倍の長さがあり、構成もガラリと変わっていた。

(1)『外国』は、『再稿』と同じように始める。「地球」上の五大州(アジア、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、アウスタラリー)のうちの亜細亜・欧羅巴州が最古より「教化」が進んでいた。その中でも古代「南方は尊く、北方は卑く」あったが、その後「教化」は南方から北方へと移動した。唐土の教えは満洲・蒙古などに入り、元や清になった。「如徳亜の教」(=ユダヤ教)が北へ行って邪宗(=キリスト教)になり、アラビアや印度の教えが「回回宗」(=マホメット教)やラマ宗になった。そして「モンゴル」とヨーロッパがさかえた。しかしモンゴルは東西に拡張したが、いまや英仏ポルトガルに「拠られ」ている。一方、ヨーロッパ諸国は、海外に広がり、四大洲諸国を「押領」している。今日、「独立」して「最古より一毫も汚瀆(うとく=けがれ)を受けざるもの」は世界中で「只皇国」のみになった。崋山はこれを、「誠に有難」きことであるとして終えている。『再稿』では、日本の「古来独立」のことはもっと後に出てきていた。

(2)次に『再稿』にはない新たな議論が入ってくる。『外国』は、上のように古今の間に大きな変化があったが、「大道」(人倫の道)に関してはどの国も「今は古に及ばない」という。しかし、「物理の学」(自然科学)に関しては、「古は今に及ばず」とする。「物理の学」の世界では、遅れて興った国がたちまちに文明化することが起こるのである。その例が、ロシアと合衆国であるという。ロシアは極北の国だが、ペートル(ピョートル)という英主が出て以来、道路や運河や都市や寺院を作り、産物を集め交易を始め、人民の教化に勤め、世界第一の帝国となった。また、ちかごろ北アメリカ州にイギリスから独立して、「レピュフレーキ」(=共和国)の「フルヱーニグテ・スターデン」(=合衆国)ができて、農業・工業を発展させ、「教・政・物理の学」を盛んにして、軍事力も整備して、急速に世界で最も富裕な国となった。しかも「ストームボート」(=蒸気船)といわれるものも持っているという。『再稿』では、ロシアやアメリカ合衆国への言及はあったが、「物理の学」とは違った文脈に置かれていた。

(3)以下も『外国』の新しい議論である。西洋諸国は「物理の学」(自然科学)を専らにして、「天地四方」(世界)をますます「審らか」にしてきた。そして、「一国を以て天下」とせず、「天下を以て天下」とし、領土を拡張しようとしている。イギリスなどは代表的である。国を安定させ、民を豊かにさせれば、「自張」(拡張)せんとするのは「自然の理」なのである。アジア諸国は「人性善良温雅」で、外観を飾るだけであるのに対し、ヨーロッパ人は表面は「謙遜礼譲」であるが、内面は「誇大」で、功利を基としている。それでも、世界の事情に通じているので、「了簡」は狭くないと考える。    

(4)さらに以下も『外国』の新しい議論である。西洋諸国は互に自らを拡張しようとして、八面みな敵になっている。そこで合従連衡をはかっている。それゆえ、国内の政治に勤め、内政・外交を「慎密」(=慎重で綿密)にしている。政体は三つに分けられ、独立国(君主国)、守盟国(従属国)、共和国である。宗教は、ヨーデン、キリステン、マホメットの三宗である。政治は、「養才造士」つまり教育を第一としている。教育の内容は、教道、政道、医学、物理学のほか、芸術、手職である。学校も、大学校、ラテン学校(コルレギーン)、小学校、幼学院、その他各種職業学校や、貧子院、女学院などがある。西洋諸国では、国王と並んで「教主」が対等の地位を占めている。キリスト教の教主は、上は国王から下は庶民に至るまで人倫五常の道を説き、君主をも諫める。それは我国の一向宗と似ている。政府の官僚は内外政に精励し、功を立てたものはほめたたえられる。軍事は、「武術学場」(=軍事学校)が設けられ、平時はそこで操練をうけている。こうして、諸国は「実政」に勤め、年々新領土や属領の獲得に相競っているので、「外患」も生じてくる。それ故、「世々権略之政」(=臨機応変の政略)も多く、「時勢の枢機」(時勢の動きの本質)を巧みにとらえることに長じている。世界がその害を受けるのは、十分に守りをしていないからだけではなく、ヨーロッパ諸国が「呑琢」(併呑)に奔競しているからなのである。たしかに西洋諸国のバランスのとれた説明になっている。

(5)『外国』は、西洋人の警戒すべき点を以下のように指摘した。西洋人は、忍耐強いが、仁も智も義もうわべだけで、信ずれば篭絡され、礼をもってすればへつらわれ、その行為も真偽がいろいろで、幻惑されてしまう。かれらはいったん「規画」すると目的の実現まで忍耐強く粘り続ける。イギリスがインドを征服し、オランダがジャワを占領したのもそうである。このように西洋諸国は、「深忍積思」をもってさまざまな規画を立て、実行しているのである。かれらは世界中に領地を持っていて、その地に「風説板行署」(新聞発行所)を作り、世界中の風説書を相互に取りかわして世界中の事情がわかるようにしている。かの国で歴史と言えば、地球中(世界中)の歴史のことである。こうして、西洋諸国は世界の事情について詳しい知識を持っているというのだった。『再稿』では、新知識を秘すことは「ナチュール」に背くという文脈で風説書が述べられていたが、ここでは違っているわけである。

(6)そういう世界知識の一つとして、西洋諸国は、日本についての知識も深めて来ているとして、『外国』は日本について論じたオランダやロシアでの情報を紹介している。中でも、ロシア人「レサノー」(レザノフ)に従って来た「クルウセン」(=クルーゼンシュテルン)の紀行を詳細に引用して、とくに蝦夷の事情をよく知らせていた。この紀行は『奉使日本紀行』として林宗訳で1828年に刊行されていたから、崋山は読むことができていたわけである。崋山は、「クルウセン」が紀行の、「蝦夷の北隅、ソーヤ岬・リーシリ島を検査」したおりに考えたことを下記のように記していた。

 まず、「クルウセン」は択捉を取るべしと言っていた。「「アニワ」(=エトロフ島のことか)を取て、之に拠らんことは、少しも難しきことあるべからず。此処の日本人は兵器の用意もなく、防守の慮(おもんぱかり)はなしと見たればなり。又此処を人に奪われたりとも、日本の政家(政府)の之を取返す手配は容易に仕難かるべし。」ついで「サカリン」(樺太)については、「日本人の「アイヌ」に遇する、甚だ仁愛を以て扱ふと見ゆ。是故に、此の地を治るは「アイヌ」に恩を施し、・・・恩愛も政法も怠りなくして治むべきなり。」そのうえで、「サカリン」は、そこに欧羅巴人の商館を置き、日本と交易をなすべきである、というのであった。このような日本についての記述は、『初稿』、『再稿』にはない記述である。

(7)『再稿』と同じく、『外国』も西洋諸国の内、「皇国に関係」しているのは、イギリスとロシアであるとしていたが、『再稿』とは違って、両国の地誌や歴史を非常に詳しく述べていた。すなわち、イギリスについては、その名称、領土、属領、宗教、政体、国内行政区分、国税、商船について、ロシアについては、その名称、領土、人種、宗教、政体、軍隊、国内行政区分が述べられた。そのうえで、『初稿』『再稿』と同じく、両国の違いが指摘されて、ロシアは陸軍に長じ、地続きの国を併呑したが、極寒で不利な地を占めている。南方に出ようとしているように思われるが、「仁義をしき事を称」しているのは、守りを固くするためである。一方、イギリスは海軍に長じ、沿革の地を併呑している。暖帯の利地を拓き、海峡の要地や航海に便利な島々を占領して、他国に先立って土地を占領して命名し、他国が併呑することを邪魔している。世界を征服する「大望」があるように見えると警告した。

 以上のような『外国事情書』は、鎖国批判の部分は削除されて、海外事情の説明になっていた。そして、外国勢力の危険性を知らせ、海防策ぐらいでは不十分であることを気づかせようとしたのであった(佐藤他校注 1971 21-22,18-42,66-72頁;佐藤編 1972 113-158頁)。

***

 これら「事情書3部作」において、崋山は、モリソン号の渡来の背景を探っていく中で、世界情勢を的確に把握していることを示した。それは西洋諸国を中心にしながら、アジア、アフリカ、アメリカにも目を広げていた。その中でも、とくに日本に迫ろうとしているロシアやイギリスについてその歴史を交えて、詳細に論じていた。

 しかし、このような論を立てた崋山は長英とともに、1838年5月に捕らえられ、12月に処罰された。これは広く蘭学者への弾圧であり、「蕃社の獄」として知られることになったが、崋山のような世界史認識が積み上げられることはなく、日本の対外認識の遅れをもたらしたことは、容易に想像がつく。

参考文献

Plummer, Katherine, The Shogun’s Reluctant Ambassadors; Japanese Sea Drifters in the North Pacific, The Oregon Historical Society, 1991

石山禎一・宮崎克則「シーボルトの生涯とその業績関係年表1(1796‐1832年)」『西南学院大学国際文化論集』第26巻 第 1号 2011年9月 155-228頁

大槻玄沢・志村弘強編 杉本つとむ他解説『環海異聞 本文と解説』八阪書房 1986年

木崎良平『漂流民とロシア』中公新書 1991年 

久米邦武『特命全権大使・米欧回覧実記』岩波文庫 1980年

佐藤昌介編『日本の名著 渡辺崋山・高野長英』中央公論社 1972年

佐藤昌介・植手通有・山口宗之校注『渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小南・橋本左内 日本思想体系55』岩波書店 1971年

佐藤信淵『西洋列国史畧』 https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0210/bunko08_c0210.pdf

宮永 孝「北米・ハワイ漂流奇談」(その1) 『社会志林』(法政大学社会学)60巻 2号 2013年9月

森永貴子『ロシアの拡大と毛皮交易』彩流社 2008年

(「世界史の眼」No.74)

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書評:フィリップ・テーア『東欧の体制転換と新自由主義』福田宏ほか訳 みすず書房 2025年
南塚信吾

 本書のドイツ語の原題は『古い大陸における新しい秩序―新自由主義の歴史』である。本訳書のタイトル『東欧の体制転換と新自由主義』から想像されるような1990年前後の「東欧の体制転換」に限られた議論をしているのではないが、議論の中心はそれには違いない。著者は、2010年からウイーン大学の教授で、2020年にできた「転換研究センター」の長を務める。

 本書の章立てを並べても話の構造は分からないので、訳者自身の読み方に従って、書評をしていきたい。

1.1989年以前

 本書は、1989-91年の前に、ヨーロッパの東西において、同じように新自由主義的な転換を迎える素地が準備されていたと主張する。つまり、西欧では、80年代に福祉国家の改革は失敗し、サッチャーのような改革派が新自由主義の方向を取った。一方、東欧では、80年代に国家社会主義の改革を目指す動きがあった。東欧諸国の人びとは、冷戦研究に長らく影響を与えてきた全体主義理論がいうようには、強制的に同質化され、おびえて暮らしていたわけではなく、社会主義の体制を改革しようという動きがあった。しかし、その改革はうまく行かず、結局、新自由主義の方向に動いていった、というのである。

 これは確かにそうだが、東欧では、ソ連のゴルバチョフが東欧支援を停止せざるを得なくなったことの影響、西側で作られた新自由主義の考えがIMFなどによって東欧に植え付けられた経緯などは、もっと考慮しなければならないのではなかろうか。

2.1989-90年代:新自由主義化の第一波     

 1989年にポーランド、ハンガリー、ブルガリア、チェコスロヴァキア、ルーマニアの諸革命、ベルリンの壁崩壊、そして1990-91年に東ドイツの終焉、ユーゴスラヴィアの解体、アルバニアの体制崩壊、ソ連の解体が起きた。本書はまず、このような諸変革によって単一民族の国民国家が形成されたという。それは19世紀後半以来の国民国家形成をいっそう推し進めた国民国家形成の新時代が到来した。単一民族化の原則はこれまでより強かったという。

 東欧の体制転換を本書は「革命」と捉えている。ただ、本書は、1989年は一貫して革命と言っているが、1989-91年全体では「大変革」と言ったり、「革命」と言ったりしていて、読者には混乱させられる。ともあれ、1989―91年は、当時においてはだれも「革命」とは言っていなかった、「革命」はあとから名付けられたのだという。

 諸革命の結果、ヨーロッパでは諸革命の本当の新しさはそれが非暴力的に展開され、「交渉による革命」として進められた点にある。この非暴力性はそれまでのどの革命にもなかったという。そういう革命はいかに展開したか。本書は、旧来の国家社会主義はまだ意味があって、体制内の反対派はその改革を考えていたが、それが実現しないうちに、新自由主義が支配的になっていったと見ている。  

 こうして、東欧での新自由主義化の第一波がやってきた。本書は、東欧のなかでも、中東欧諸国(ヴィシェグラード諸国)と南東欧と旧ソ連を区別している。中東欧では1989-90年に新自由主義化が始まり、南東欧とロシアでの新自由主義化は1990年代半ば以降という。この第一波で、民営化、規制緩和、市場化が行われるが、民営化について言えば、

 この時期には、国家が統制した企業の民営化と郵便・通信・エネルギーなどの民営化が行われた。評者から見ると、90年代初頭の東欧での農業の変革問題が重視されるべきなのではないかと思われる。ポーランドを除いた東欧での生産協同組合の解体、土地の私有化が持ったインパクトは大きかったはずである。

 本書は、東欧での変化は西側世界に種々の影響を及ぼしたという。とりわけ「市民社会」という概念は東から西へ伝播した例であると指摘する。だが、評者は、「市民社会」論は、新自由主義とともに、西から来たのではないかと思っている。

 しかし、総じて西は東の転換には無反応であった。東欧の転換は、「鉄のカーテンの東側だけで生じた文字どおり片面的な革命」であった。西の平和運動や環境運動の活動家たちは動かず、チャンスが活かされなかった。左派の知識人も東欧の革命に懐疑的だったという。その間に、自由は市場での自由になってしまって、種々の改革運動は消えてしまった。そして、西も東も新自由主義が覆うことになった。

3.2000年   

 本書は、2000年ごろに東欧には新自由主義化の第二波がやってきたと見ている。西から金融セクター、不動産への外資が広まり、老齢年金や健康保険などの民営化が行われた。中東欧全体に新自由主義が浸透して、民主化が成功し定着した。南東欧と旧ソ連諸国は新自由主義化の遅れを取り戻したとされる。

 ここで、本書は、新自由主義の四つのパターンを見ている。

  1. 福祉国家的な要素を残した新自由主義体制―ヴィシェグラード諸国
  2. 明確な新自由主義体制―バルト諸国と南東欧
  3. ネオーコーポラティズム型―スロヴェニア
  4. オリガルヒ型―旧ソ連諸国

 旧ソ連では国家資本主義の体制ができたが、それは、「権威主義体制の枠組みに合うように調整された新自由主義のハイブリッド」であったという。

 こういうパターンの違いはあったが、総じて、東欧では豊かな都市と貧しい地方の格差が拡大したことを本書は指摘している。

 だが、本書は、東欧諸国のEU加盟は、この格差を縮小するのを助けたという。2004年と2007年に中東欧、南東欧はEUに加盟したのである。EUは投資をして、東部を飛躍させ、新自由主義化の第二波による格差拡大を緩和させたというのである。ただ、旧ソ連諸国では大衆とオリガルヒとの格差は拡大した。

 ヨーロッパの東西で言えば、2008年までに、東のEU新加盟国は西の既加盟国の経済水準に近づいたとされる。ヨーロッパ全体が新自由主義の下で、経済成長をするようになったのである。その中で、1990年以後の新自由主義的改革の中で主に苦しんだのは、東欧では、高齢者と年金受給者、南欧(イタリアなど)では若い世代であったと、本書は指摘する。だが、本書は農村を見ていないようだ。

4.2008―09年:金融危機  

 本書は2008年のリーマン・ショックに始まる金融・株式市場の危機を、東欧における新自由主義の危機ととらえている。この危機の中で、西欧の投資家による資本の引き上げが興り、国家予算が危機に瀕してIMFが出動することになった。この2008―09年の危機は、EU新加盟国と旧ソ連諸国に、ドイツやオーストリア以上に強力な打撃を与えた。そして、このグローバルな金融・財政・経済危機はEU新加盟国の既加盟国との経済格差の縮小傾向を突然終わらせたのだった。

 この危機への対応を本書は次にように分類している。

  1. 国家支出増で対応―ドイツ、オーストリア、ポーランド、スロヴァキア
  2. 新自由主義型―バルト諸国、南東欧
  3. 場当たり的―ウクライナ
  4. 新自由主義からの離脱―ロシア「国家資本主義」ほか

 ただし、ロシアについては、新自由主義からの離脱と言っても、完全な離脱ではないとしている。チェコやハンガリーはどこに入るのだろうか。

 本書は、2008年以降、ほぼすべてのEU新加盟国は、既加盟国より深刻な不況に陥ったが、速やかに危機を克服したという。それに比べ、南欧諸国(イタリア、ギリシア)は回復が大幅に遅れた。だからイタリアでは、左右のポピュリストが台頭した。

 この際、東部ヨーロッパでは、危機への対応として、大規模な労働移民が起き、これが景気後退の影響を緩和したという。1990年代にはポーランド人の移民が多かったが、2008年以後は、ルーマニア、ラトヴィア、リトアニアなどからの移民が多かったのである。

 この危機が克服されるにつれ、EUをさらに東へ拡大するよう働きかけが行われた(誰によってかは明記されていない)。その例が、2014年のウクライナの「オレンジ革命」であったという。この時、ウクライナでは「民主的に選ばれた」大統領ユーシェンコはEU加盟を打診した。だが、EUは「距離」を取った。EUは無理解だったと本書はいう。ついで、2013-14年にウクライナでは「本当の意味での革命的な状態」がやってきた。この革命運動(マイダン革命―評者)によって、ウクライナでは「持続的な民主主義」が確立したが、しかし、クリミアがロシアに併合され、東部ウクライナが不安定になって、革命に悲劇的な結果をもたらしたと、本書は見る。だが、本書は、ウクライナのEUへの正式加盟の選択肢を排除すべきではないという。「国全体がヨーロッパに位置し、民主的に統治され、かつEUへの加盟を望んでいるのであれば、その国家を拒絶する説得的な理由は何もない」というのである。

 ここに著者の目線がはっきりと示されている。「民主的に選ばれた」とか「持続的な民主主義」が確立したというのは、どうだろうか。例えば、マイダン革命がアメリカの「関与」したクーデタであることは、オバマ自身が認めていることである。ともかく、新自由主義を東方へ広める動きは、停滞した。

5.2016年以後:新自由主義化の停滞 

 新自由主義が深刻な社会的・地域的格差を生んだ。そのために2016年に「反自由主義的転回」が起きた。本書は、新自由主義秩序によって特に悪影響を受けた人びとの反抗が反映したのが、2016年のイギリスのEU離脱(ブレグジット)であり、アメリカ大統領選でのトランプの当選であったという。ハンガリーのオルバーンは「非リベラル・デモクラシー」を唱えて、新自由主義に対抗し始めた。これらに見られるような動きによって、本書は、この時期までに新自由主義化は「停滞」し、まもなく新自由主義と大転換の時代は「終焉」を迎えたという。本書は「停滞」といい「終焉」というが、両者はあまりきちんと整理されていないように思われる。

 本書は、この2016年の「反自由主義的転回」によってもたらされた「一時代の終焉」がパンデミックによって改めて示されたという。パンデミックは新自由主義的グローバル化に根源的な批判を突き付けた。それは、一つには、自然への容赦のない搾取への批判であり、二つには、格差の拡大への批判である。

 本書は、2022年2月24日に始まるロシアのウクライナでの戦争は、「ウクライナに対してだけでなく、自由なヨーロッパ、西側、さらには1989年の諸価値に対する戦争」であるという。しかし、他の諸事件の場合の分析と違って、本書はこの戦争の始まる過程の分析をしていない。新自由主義を東へ進めようとしたことへのロシアの反発は考慮されていない。

 ともあれ、本書は、この結果、新自由主義的秩序はさらに弱体化され、新自由主義的グローバル化は「終焉」したという。ただ本書は、ヨーロッパの新自由主義化をポジティヴに評価し、そのマイナス面は改革で直せるという立場を取っているようである。

 このあと世界はどこへ行くのか。本書はこう見ている。

「ロシアや中国によって喧伝される多元的世界秩序は、寂肉強食や暴力、勢力圏を求めての武力闘争によって特徴づけられるものとなるだろう。これは、19世紀における帝国主義の時代への逆戻りとなるかもしれない。だからこそ西側は、ウクライナがこの戦争に勝利すべく文字通り全力で支援しなければならない。1989年における民主革命の遺産を守ることが重要である。」

 現在の世界の情勢を見ていると、「19世紀における帝国主義の時代への逆戻り」をしているのは、アメリカ、イスラエルではなかろうか。「1989年における民主革命の遺産」とは、新自由主義的グローバル化のことだろうか。しかし、それは「終焉」したと言っているはずであるが、まだ「守る」べき遺産なのだろうか。

 本書では、多くの歴史的事象にかなり細かい周到な検討がされている。しかし、そういう検討がなされていない事象も散見される。それだけに、本書を素材にさまざまな議論をすることができそうである。

(「世界史の眼」No.74)

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「世界史の眼」No.73(2026年4月)

今号では、小谷汪之さんに、連載中の「蓼科の近代史」として、「蓼科の近代史 Ⅰ(下)―満洲開拓と戦後開拓」を寄せて頂きました。また、立命館大学の庵逧由香さんに、昨年刊行された林哲『朝鮮現代史論 解放一年史を問いなおす』(法政大学出版局、2025年)を書評して頂きました。また、世界史寸評として、南塚信吾さんの「アメリカ・イスラエルのイラン攻撃をどう考えるか―主要新聞の社説から―」を掲載しました。

小谷汪之
蓼科の近代史 Ⅰ(下)―満洲開拓と戦後開拓

庵逧由香
林哲『朝鮮現代史論 解放一年史を問いなおす』(法政大学出版局、2025年、511頁、6000円)

南塚信吾
世界史寸評 アメリカ・イスラエルのイラン攻撃をどう考えるか―主要新聞の社説から―

林哲『朝鮮現代史論 解放一年史を問いなおす』(法政大学出版局、2025年)の出版社による紹介ページはこちらです。

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蓼科の近代史 Ⅰ(下)―満洲開拓と戦後開拓
小谷汪之

はじめに
1 茅野市域からの満洲開拓移民
2 敗戦前後の満洲開拓移民
(以上、前号)
3 戦後開拓
4 茅野市域における戦後開拓
おわりに
(以上、本号)

3 戦後開拓

 1945年8月の敗戦時、中国、朝鮮、東南アジアなどに、民間人や軍人・軍属を合わせて約660万人の日本人がいた。そのうち約620万人が1947年末までに帰国した。在満日本人については、ソ連による日本軍将兵や一部民間人の「シベリア抑留」などのために帰還が長引いたが、約60万人とされるシベリア抑留者のうち、50万人近くが1950年末までに帰国した。しかし、1956年にシベリア抑留者の集団帰還が終了するまでの間に、約6万人のシベリア抑留者が死亡した。慢性的飢餓と酷寒という悪条件下での過酷な長時間労働、不衛生な収容所における赤痢や発疹チフスなどの感染病の蔓延、これらが多くの死をもたらしたのである(富田武『シベリア抑留――スターリン独裁下、「収容所群島」の実像』108~109頁)。

 敗戦直後の日本は食糧難に苦しんでいた。そこに海外から600万人以上の日本人が帰国することになったのであるから、食糧難が一層ひどくなることが予想された。それで、政府は1945年11月9日「緊急開拓事業実施要領」を閣議決定した。その「第一 方針」には次のように書かれている。

終戦後の食糧事情及復員に伴ふ新農村建設の要請に即応し大規模なる開墾、干拓及土地改良事業を実施し以て食糧の自給化を図ると共に離職せる工員、軍人其の他の者の帰農を促進せんとす(片仮名を平仮名に変えた)

 このように、「緊急開拓事業」は食糧増産と民間引揚者や旧軍人・軍属の帰農を目的としていた。その目標としては、100万戸の帰農、155万町歩の開墾を「概ね五ヶ年を以て完成すること」とされた。最初、入植地には旧軍用地や国有林野が充てられたが、1946年10月21日に公布された「自作農創設特別措置法」(同年12月29日施行)によって、国家が民有未耕地を強制的に買い上げることができるようになり、入植地の取得が容易になった。

 「緊急開拓事業実施要領」は、1947年10月24日の農林省議により「緊急」の文言が削除され、「開拓事業実施要領」となった。その目的からも食糧増産と引揚者等の帰農が削られ、「開拓事業を強力に推進して、土地の農業上の利用増進と、人口収容力の安定的増大を図り、以て新農村の建設に寄与することを目的とする」と改められた。敗戦後2年以上が経ち、「世の中は落ちついてきた」からであろう(戦後開拓史編纂委員会編『戦後開拓史』全国開拓農業協同組合連合会、1967年、40~42頁)。

4 茅野市域における戦後開拓

 大規模な戦後開拓は広い国有未墾地があった北海道や東北地方で多く実施されたが、長野県各地の高冷地でも行われた。その一例が八ヶ岳東麓の野辺山高原(標高1350メートル前後)の開拓である。1946年、長野県南佐久郡地方事務所は野辺山への入植希望者を募集し、長野県開拓増産隊南佐久支隊を編成した。これが、その後、野辺山の他のいくつかの開拓団と合併して野辺山開拓団となり、1948年には、農業協同組合法(1947年)に基づいて野辺山開拓農業協同組合に改組された。

 「緊急開拓事業実施要領」では、野辺山高原など高冷地の立地条件を無視した画一的な農業政策―米・麦や豆類の生産を主眼とする農業(穀菽こくしゅく農業。菽は豆類の総称)政策―が取られていた。そのため最初は開拓に困難が付きまとったが、後に政策が転換され、高原野菜の栽培と酪農に重点を移して成果をあげた(小谷汪之「高原野菜が生まれるまで―敗戦と野辺山開拓」南塚信吾・木畑洋一・小谷編『歴史はなぜ必要なのか―「脱歴史時代」へのメッセージ』岩波書店、2022年、所収)。

 1950年現在で、現在の茅野市域においては、次の五つの開拓農業協同組合が存在した(諏訪郡全体では22開拓農業協同組合、入植戸数341戸)。

(1)広見開拓農協(豊平村広見、標高1,100メートル)   1950年入植 14戸
(2)中山開拓農協(北山村蓼科、標高1,200メートル)   1950年入植 12戸
(3)池の平開拓農協(北山村柏原、標高1,500メートル)  1949年入植 6戸
(4)玉川開拓農協(玉川村南原山、標高1,000メートル)  1947年入植 42戸
(5)御狩野開拓農協(金沢村下原山、標高950メートル)  1947年入植 21戸
(『茅野市史 下巻』633頁)

 このうち、蓼科湖畔に前掲の「拓魂」の碑を建てたのが(2)の「中山開拓農業協同組合」である。ここでは、この碑文の内容を少し詳しく検討しておきたい。

 第一に、「この開拓用地は湯川・塩沢・両財産区のものであったが、昭和二十四年の緊急開拓措置令により国が買収したものである」という部分について。財産区というのは、1889年(明治22年)の市制・町村制施行に伴って旧来の入会地が再編成された際にできた特別地方公共団体で、旧来の入会権が財産区の土地所有権と認められた。財産区には、多数の区の共有財産区とともに、一つの区の単独財産区も設定された。現在の茅野市域でも、北山村湯川区の湯川財産区、北山村柏原区の柏原財産区、米沢村塩沢区の塩沢財産区など数多くの単独財産区が設定された(『茅野市史 下巻』690~692頁)。このうち、湯川財産区と塩沢財産区の所有地の一部が国家によって買収されて中山開拓農業協同組合の入植地とされたのであろう。ただし、「昭和二十四年の緊急開拓措置令により国が買収した」というのは誤りで、昭和24年(1949年)に、「緊急開拓措置令」といった勅令が出されるということはありえない。中山開拓農業協同組合の入植地は、前述の「自作農創設特別措置法」(1946年)によって国家が両財産区から買収したものと思われる。

 第二に、「苦節十年の後、昭和三十五年[1960年]竣工検査の結果各自の所有となる」という部分について。1958年、「開拓事業実施要領」は「開拓事業実施要綱」に改定された。この「要綱」には、「成功検査」という条項が設けられ、入植後、本州ではおおむね5年後に開拓事業の進展度を検査し、それに合格しなければ、入植地が国家によって買い戻されうることになった(『戦後開拓史』48頁)。中山開拓農業協同組合の場合、入植10年後の1960年に「成功検査」が行われ合格したので、各入植者に土地が払い下げられたということのようである(碑文中の「竣工検査」は「成功検査」の誤りであろう)。

 第三に、「時恰も観光開発の脚光を浴びた当地はその施設の中央に位し、各自よすがを観光面に切り替え開拓の努力は報いられて今日に至る」という部分について。この点について、『茅野市史 下巻』(635頁)には次のように書かれている。

中山開拓地(北山蓼科)は[昭和]三十年代後半に東洋観光事業株式会社などによるレジャー施設へ、池の平開拓地(北山柏原)は[昭和]三十年代前半に観光関係に用地を売却し、ホテルや別荘となって当初のおもかげはなくなった。

 「中山開拓地」(中山開拓農業協同組合入植地)のあった湯川財産区の所有地には、1952年、長野県の土地改良事業として蓼科湖が築造された。蓼科湖は、川の水を一時的に堰き止め、天日によって湖水の温度を上げてから下流に放流する「温水溜池」として作られたのであるが、蓼科湖畔から見える八ヶ岳連峰の秀麗な景観などによって、1950年代後半に入ると観光地化が進んでいった。湯川区(湯川財産区)は、昭和35年(1960年)、「当時トヨタ自販[トヨタ自動車販売株式会社]系の観光企業で[昭和]三十三年[1958年]創立の東洋観光事業株式会社に、高原の三温泉源と温泉および周辺の土地・建物などいっさい、約二〇七ha[ヘクタール]を観光開発用地として時価三億円で譲渡処分を行った」(『茅野市史 下巻』785頁)。その中には蓼科湖周辺の土地も含まれていた。それに伴い、蓼科湖の水面利用、養魚などの権利は蓼科観光協会に引き継がれたが、その後東洋観光事業株式会社に移された。そのような状況の中で、中山開拓農業協同組合の入植者たちも生業を農業から「観光面に切り替え」ていったのである。

 「池の平開拓地」(池の平開拓農業協同組合入植地)のあった北山村柏原区では、戦前の1940年に、同じく「温水溜池」として白樺湖の築造が長野県営水利改良事業として着工された。しかし、戦争の影響による紆余曲折があり、戦後の1946年になって竣工した。白樺湖で温められた水は今でも下流地域の水田を灌漑しているが、それとは別に、冷涼な湖畔では、1950年代、観光地化が進展した。『茅野市史 下巻』の上引の記述は、池の平開拓農業協同組合の入植者たちが土地を観光企業(デヴェロッパー)に売却したように読めるが、そうであったとしても、彼らの土地は柏原区(柏原財産区)の広大な所有地のほんの一部にしか過ぎない。柏原財産区の場合は、基本的には所有地を売却することはせず、財産区自体が貸ボート業やバンガロー建設などの観光開発事業を推進するとともに、観光企業と土地の賃貸借関係を結んで、ホテルなどの観光業を誘致したのである(蓼科湖、白樺湖の位置については図2「蓼科湖・白樺湖関係図」参照)。

 なお、他の三つの開拓地についていえば、「広見開拓地」(広見開拓農業協同組合入植地)は種馬鈴薯の栽培を主としていたが、土壌病害などのために離農者が出て継続困難となり、民間会社に売却された。「玉川開拓地」(玉川開拓農業協同組合入植地)は酪農を中心として高原野菜の栽培も行い、順調に経営を継続した(ただし、後に行政的には隣接する富士見町に編入された)。「御狩野開拓地」(御狩野開拓農業協同組合入植地)は高原野菜栽培を主として、水田も造成され、安定的な経営が行われるようになった(『茅野市史 下巻』634~635頁)。「御狩野開拓地」は、現在では、中央自動車道(中央道)の諏訪南インターチェンジのすぐ西に隣接する地域である。

おわりに

 満洲開拓に送り出され、苦難の末に辛くも帰還した人々の多くが故郷に再定住することができず、再び条件の劣悪な未墾地の開拓に取りくまざるをえなかった。

 本稿が対象とする地域について、この満洲開拓帰還者と戦後開拓入植者の関係を見ると、諏訪郡全体(22開拓農業協同組合)の入植者中、「満洲開拓者三八%、農家子弟三四%、一般転業者二五%、旧軍人三%の割合であった」(『茅野市史 下巻』633頁)。この地域でも、戦後開拓者には満洲開拓帰還者が多かったことが分かる。前述のように、諏訪郡北山村出身の満洲開拓者にも11人の帰還者がいたが、これらの人たちが中山開拓農業協同組合や池の平開拓農業協同組合に参加していたかどうかは文献が見つからず分からない。しかし、前出の野辺山開拓農業協同組合の場合は、満洲開拓帰還者がその中心となっていたことを確認することができる(前掲小谷論文)。

(「世界史の眼」No.73)

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林哲『朝鮮現代史論 解放一年史を問いなおす』(法政大学出版局、2025年、511頁、6000円)
庵逧由香

 本書は、在日朝鮮人の歴史家・林哲(Lim Chol)の朝鮮現代史に関わる18本の論考をまとめた研究書である。学術論文から人物評伝、訳書解説、書評、学術シンポジウムの記録、時事評など、多様な形態の論考が一部を除き時系列で掲載されている。しかしこれらからは、一貫して通底する問題意識を読み取ることができる。それはあえて端的に言えば、今日までなおも続く朝鮮半島分断の理不尽さに対する憤りと、再統一への強い希求、ではないかと思う。

 本書の目次構成は以下の通りである。(カッコ内の数字は初出年)

第1章 「解放一年史」再考 (書き下ろし、2025)
第2章 朝鮮人民共和国に関する若干の問題 全国人民委員会代表者大会(1945年11月)における議論を中心に(1986)
第3章 第二次大戦後の朝鮮における民主主義民族戦線(1982)
第4章 解放直後の朝鮮における「民主基地論」 統一戦線論を手がかりに(1993)
第5章 歴史をとおしてみる統一国家像 (1993)
第6章 朝鮮の「解放」と中国 (1996)
第7章 独立・統一・「進歩的民主主義」を求めて 夢陽・呂運亨の生涯(1998)
第8章 東アジア冷戦と朝鮮における政治的暴力の起源 解放一年史を中心に(2004)
第9章 済州島「四・三事件」における「暴力」(2002)
第10章 国際関係学による「場」としての東アジア (2009)
第11章 『朝鮮半島の分断構造』と『アメリカのディレンマ』を読む (1985)
第12章 国際シンポジウム「東アジアの冷戦と国家テロリズム」の旅 (2000~2002)
第13章 『現代朝鮮の悲劇の指導者たち』訳者あとがき(2007)
第14章 国際関係論と朝鮮現代史 (2012)
第15章 『朝鮮戦争の起源』訳者あとがき (2012)
第16章 「朝鮮戦争像」の根本的な転換迫る カミングスの『朝鮮戦争の起源』(2013)
第17章 安倍首相の「戦後七〇年談話」について 日韓条約五〇年の観点から (2015)
第18章 亡命運動家鄭敬謨先生の生涯と時代 (2022)
著作目録・解説(鄭栄桓)
あとがき・索引

 周知のように、朝鮮は第二次世界大戦中に連合国によって日本からの独立が明言されたものの、日本の無条件降伏(1945年)により、日本軍軍管区を境界(北緯38度線)として南北に分断され、米ソそれぞれの占領を受けた。それからわずか3年後に、南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国が、分断されたまま樹立されるにいたる。この3年間の朝鮮半島をめぐる国家建設運動や米ソ対立を含む国内外の情勢の変動は、非常に複雑かつダイナミックに急転しており、事象によっては事実関係の確認さえ困難な状況が長く続いている。南ではこの時期の研究は「解放前後史」と呼ばれ、本格化するのは1980年代後半からである。研究が特に立ち遅れた背景としては、朝鮮戦争(1950〜)を経て分断が固定化されて以降、南北が敵対国として互いを排除し合うことで分断体制を維持してきたこと、この時期の研究が南北の国家起源に関わる高度に政治的な問題をはらむが故にタブー視されてきたこと、などがまず挙げられる。

 筆者林哲は、「解放直後から一年の時期を分断状況の形成過程において最も重要視」し、1980年代初頭からこれに関わる研究論文を発表してきた。とりわけ建国準備委員会から朝鮮人民共和国(1945)、民主主義民族戦線(1946)へと続く流れを一連の「統一独立国家樹立運動」として把握し、その具体的な歴史像の実証的解明に力を注いだのが、本書収録の第2章から第5章である。筆者はこれらの国家樹立運動が「植民地下で展開された民族解放運動の文脈から理解される必要性」を強調しつつ、樹立すべき国家像の違いから左派・右派の対立が国際情勢をも巻き込み激化する中で、それでも持続的に追求された統一戦線形成の試みに特に注目している。当時、朝鮮人のだれもが分断された国家など想像もしていなかったが、世界的な冷戦構造の深化の渦中にあった朝鮮では、その実現が様々な要因によって妨げられてきた。筆者の「解放一年史」研究は、分断体制下で政治権力によって意図的に無視され、塗り替えられていった歴史の再構築の試みでもある。「筆者は数十年たっても当時示された朝鮮民衆の広範な統一戦線と進歩的民主主義論に支えられた基本意志と希望が、どうして現在に至るも阻まれてきたのかについて今日なお納得しがたい点が多い」(508頁)との筆者の言に、このことが凝縮されている。

 朝鮮「解放一年史」の具体的な展開自体、日本でもあまり知られていない。本書のために書き下ろされた第1章は、前提となる研究史や当時の状況、主要な用語の詳細な解説が書かれており、本書全体を読む上での手引きにもなっている。また巻末の鄭栄桓による解説では、時代背景や基本事項の丁寧な説明がなされている。

 本書を読みながら興味深かったのは、本書の論考のところどころで、筆者の在日朝鮮人としてのライフヒストリーが交錯して書かれている点である。1946年ソウル生まれの筆者は、朝鮮戦争の戦乱を避けて1952年に家族とともに来日した。来日当時の記憶や、日本社会における学生時代の体験の過程で筆者は、さまざまな「違和感」「疑問」を感じている。それらは朝鮮の分断状況に対する疑問であると同時に、いつまでたっても「朝鮮分断問題に対する認識が皮相的な理解に止まって深められていない」日本人の朝鮮に対する無知・無関心への警鐘にもなっている。確か2000年代に入ってからのことであったが、私は筆者の南北統一に関する講演会(於早稲田奉仕園)で、そのような場面に直接出くわしたことがある。それは、参加者の中のある日本人との質疑応答の場面だった。ある日本人の「統一、統一と言うが、南北で自由に行き来できるようにさえなれば、統一する必要はないのではないか」という質問に対し、筆者林哲は、「あなたがおっしゃる、自由に行き来できるというそのことがまさに、統一、ということなんです」と回答した。このやりとりは後に徐京植も、「(在日)朝鮮人と日本人との分断に対する認識のギャップ」の事例として紹介したことがある。

 筆者の分析の特徴として、朝鮮史の個別事象を深く分析しながらも、それらの性格を規定する時代時代の世界史の矛盾の在り方、その焦点としての東アジアの課題が、常に大枠として意識されている(特に第6章、第10章)。90年代に入りソ連をはじめとする社会主義諸国の崩壊により冷戦構造の枠組みは大きな転換を遂げ、もう一つの分断国家であったドイツは再統一された。しかし朝鮮半島の再統一は、少しずつ進展を見せながらも、いまだに展望さえ見いだせない状況が続いている。南北双方で国家の法統性が植民地期の民族解放運動を基盤にしているため、現在でも、1930年代以降の歴史について、南北で歴史認識を共有できずにいる。筆者が何度も強調するように、こうした状況の下での「解放一年史」研究は、大きな困難が伴わざるをえない。

 ただし一方で、本書は、筆者が長年研究会をともにしてきた「筆者よりずっと年下の友人たち」が「完成させてくれた」(あとがき)という。鄭栄桓解説のタイトルが「『解放一年史』の種火を受け継ぐ」とあるように、筆者の長年の問題意識が、次代の研究者に意識的に受け継がれようとしているのである。このような「協業に生きている精神こそが認識を発展させる鍵」(あとがき)という筆者の言葉が、本書刊行の意義をより重要なものにしている。

(「世界史の眼」No.73)

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世界史寸評
アメリカ・イスラエルのイラン攻撃をどう考えるか―主要新聞の社説から―
南塚信吾

 2026年2月28日、アメリカとイスラエルがイランを攻撃した。昨年6月のように核施設に限定した攻撃ではない。政治と軍事の中枢を狙った攻撃で、イランの最高指導者ハメネイを殺害した。この問題をめぐって、ネット上に登場した日本の主要新聞の「社説」「主張」を比較点検してみた。比較したのは、読売新聞(読売と略 以下同様)、朝日新聞(朝日)、毎日新聞(毎日)、日本経済新聞(日経)、産経新聞(産経)、東京新聞(東京)、北海道新聞(北海道)、信濃毎日新聞(信毎)、沖縄タイムズ(タイムズ)、琉球新報(新報)、京都新聞(京都)、神戸新聞(神戸)、西日本新聞(西日本)、上毛新聞(上毛)、神奈川新聞(神奈川)の計15社、各2月28日―3月3日の社説・主張である。このうち、読売新、毎、日経、北海道は二度にわたって社説でこの問題を論じていた。私は、昨年6月のイスラエルとアメリカのイラン攻撃についての各紙の社説などを比較して検討してみたが(本欄にもけ掲載)、それを受け継いだ形で、今回もイラン攻撃についての社説などを検討してみたい。論点は多岐にわたるが、以下では主な論点についてのみ、検討の対象とする。

 はじめに、読売を含め、ほとんどの新聞の社説は、この軍事攻撃を「暴挙」「蛮行」「無法」などと批判している。朝日と西日本は、「大国の横暴」だと批判し、北海道は、「史上まれにみる悪逆」と批判していた。昨年と違って、批判的な姿勢を見せていないのは産経のみであった。

1.国連憲章との関係について

(1)アメリカのイラン攻撃が国連憲章と国際法への明白な「違反」であると厳しく批判しているのは、読売、経済、毎日、東京、北海道、神戸、タイムズ、新報、京都、神戸、西日本、上毛、神奈川である。読売は、「またも国際法無視か」と厳しく批判する。京都は、先制攻撃に「道理がないのは明らかである」と言う。朝日は「違反」という言葉は使っていないが、国連憲章に反するとしており、信毎は、国際法を「無視」していると批判した。例えば、読売は、「国際法に違反する可能性がある攻撃を支持することはできない」と批判していた。とくに神奈川は「「私に国際法は必要ない」と公言してはばからないトランプ氏の行為は目に余る」と厳しい。北海道も同じである。これに対し、産経は、アメリカの攻撃は国連憲章や国際法への違反だという批判はしていない。その主張には、国連憲章や国際法はまったく問題にされていないのである。

(2)この問題は「自衛権」の有無に関係している。昨年6月のイラク攻撃の際に毎日が言っていたように、「国際法上、他国への武力行使が認められるのは、自衛権の行使か国連安全保障理事会の決議がある場合に限定されている。自衛権の行使は、攻撃を受けた後に反撃する場合や、差し迫った脅威があることが前提となるが、いずれにも当たらない。」昨年6月の攻撃の時、トランプ政権は決議どころか、軍事介入につき国連安全保障理事会に報告さえしようとしなかった。前回と同様今回も、安保理の決議などないわけであるから、アメリカに「差し迫った脅威」があったか否かが問題になる。これに関しては、読売、朝日、日経、信毎、北海道、タイムズ、京都、上毛が、イランからのミサイル攻撃は米軍関係者自身が可能性を否定していて、そういう脅威はなかったと論じた。北海道は、「米国に到達可能なミサイル開発」について米国防情報局は実用可能な開発は2035年までかかると評価している」と指摘する。読売は、トランプ政権は昨年6月のイラン空爆で、「核施設は完全に壊滅された」と作戦の成功を誇示していたはずだ。わずか8か月で脅威が復活したとすれば、当時の説明と矛盾する」と厳しく批判する。一方、産経は、当然のことながら、この点を問題にしなかった。

2.アメリカ議会の承認について

 アメリカの攻撃が米議会の承認を得ていない点からも不法な攻撃だとするのは、読売、東京、信毎である。中でも、信毎は、「攻撃は国連安全保障理事会の決議もなく、米国で宣戦布告の権限を有する議会にもはかっていない。攻撃に法的根拠はない。」と批判し、北海道は、「攻撃が米議会の承認を得ていなければ、法治国家としてもゆゆしき事態だ。」と警告している。

3.ハメネイ師殺害と体制転換について

(1)イランの最高指導者ハメネイ師の殺害について、朝日と北海道はこれを「主権の侵害」だと批判し、毎日は「不法な蛮行」と批判し、日経は「常軌を逸している」と批判し、神戸は「法の支配を無視」するものだと批判している。とくに読売は、ベネズエラの時のように、「意に沿わない国家指導者を軍事行動で排除する斬首作戦」をイランでも決行したことに、「驚きと憂慮」を禁じ得ないと批判した。

(2)アメリカとイスラエルが、イランの体制転換を扇動していることについては、読売は「主権の侵害」、北海道、新報は「内政干渉」、信毎、タイムズは「国際法違反」、京都は「主権と自決権を侵害するもの」として、厳しく批判している。やや変わった批判は、東京が体制転換は「難しい」とし、京都が「無責任」だとしている例である。いずれもイラン国内には現体制を批判する動きがあることは認めつつ、体制を決めるのは自国民だという立場から批判しているのである。例えば、読売は、「どの体制を選ぶかは、当事国の主権の問題である。軍事行動で体制転換を図るのは主権侵害にほかならない」と厳しく批判する。一方、産経は「今回の米軍などの攻撃は体制転換の狙いもあろう」と是認しているのが、例外的である。

(3)イランの国内体制について、信毎、京都、新報、上毛を除いて多くの社説が言及し、その脆弱さと経済危機に付け込んでアメリカなどが攻撃を開始し、体制転換を呼び掛けているとみている。読売は、「物価高などへの不満からハメネイ師退陣などを求めるデモが全国に広がっていた」、「イスラムを当地の基本とする体制は、存亡の瀬戸際に追い込まれた」と見ていた。日経は、「米国の制裁でイラン経済は疲弊し、昨年末から経済難に抗議するデモが起き全国的な反政府運動に至った」と、アメリカの制裁の影響を指摘する。また、イスラエルの攻撃の影響も指摘する。「一昨年来のイスラエルとの交戦もあり、イランは弱体化している」と。だから、イスラエルは今を「痛撃の好機」と見、「米国も1979年の在イラン米大使館人質事件以来イランと対立している」ので、イスラエルに同調したという。しかし、イランの国内体制を深堀したような議論はなかった。

3.核協議について

(1)イランとアメリカがイランの核開発について協議をしている時に、しかも次の会議が予定されている時に、アメリカが軍事攻撃に出たことについては、読売、朝日、毎日、日経、信毎、北海道、タイムズ、京都、神戸、西日本、上毛、神奈川は、いずれ厳しく批判をしている。その中でも、読売、朝日、信毎、西日本は、協議はしょせんアメリカなどの「時間稼ぎ」だったのだと非難している。外交を無視して軍事量に頼ったということである。

(2)イランとアメリカの核協議が一定の進展を見せていたにも関わらず、アメリカは協議を捨てて、軍事攻撃をしたとするのが、日経、毎日、東京、信毎、京都である。例えば、信毎は「仲介したオマーンは27日、イランが核兵器製造につながる高濃縮ウランを放棄する意向を示していると語っていた」という。京都も、「イランは核兵器製造放棄の意向で、仲介国オマーンも進展と評価していた」という。東京は、「イランは核交渉で譲歩する姿勢も示していたが、米軍の攻撃で決裂は必至。そればかりかイラン以外の非核保有国が、自衛名目に核開発を加速する懸念は高まる」とユニークな批判をしていた。北海道は、トランプはイランが協議を拒否したというようなことを言うが、「交渉の進展を望まないイスラエルの要求に同調するかのような米国の態度」は理解に苦しむと批判した。これに対し、産経はこの協議の進展を認めず、「イランに核兵器開発の意思があったのは明らかだ」と断じていた。

(3)アメリカはイランが核開発をするのはけしからんとしてイランに攻撃をしたが、これはイスラエルの核兵器保有を認めることと矛盾するとして、核の二重基準を指摘する新聞もあった。北海道は、「イランの核開発を認めない一方でイスラエルの核保有を黙認する態度は身勝手が過ぎるというほかない」と批判し、「親イスラエルの米国の二重基準」だと主張した。一方、読売は、北朝鮮を問題にして、トランプは、「北朝鮮の核開発には目を瞑って「核保有国」と呼び、現状を容認するかのような発言をするなど、二重基準が目に余る」と厳しい批判をしていた。

(4)イランの核開発については、産経がその「放棄」を求め、読売がその「停止」を求めていた。読売は、イランが「長年、透明性を欠く形で核開発を続けてきた責任」を問い、「核武装の意図を否定しながら、核兵器の材料に転用できる高濃縮ウランの製造を続け、自ら危機を高めてきた」と指摘する。日経は、イランが「不透明な核開発への疑念を晴らせずにいる」ことを指摘している。毎日は 「核兵器開発を疑われる高濃度のウラン濃縮活動を停止」せよと言う。一方、北海道は、「そもそもイランの核開発を制限する核合意の枠組みから一方的に離脱し、イランのウラン濃縮再開を招いたのは第1次トランプ政権だ」とアメリカの矛盾を指摘する。日経も「米欧など6カ国とイランは2015年にイランのウラン濃縮活動を制限する核合意を結んだ。この合意から18年に一方的に離脱したのが1期目のトランプ政権だ。・・・今に至る危機の素地をつくった責任の一端は、トランプ氏にある」とトランプの責任を問う。 

4.武力攻撃について

(1)なぜいま攻撃かと問いつつ、読売、日経、西日本は、中間選挙に向けてアメリカのトランプ大統領の支持率が低下傾向にある中、戦争の成果によって支持率を回復させようとしたのだと見ている。また、北海道は、「大統領の支持率が低迷する米国と首相が汚職疑惑を抱えるイスラエルに、関心をそらす狙い」があるのではないかと指摘している。

(2)イランへの攻撃はイランの軍事施設などと政府軍事関係者を狙ったという点ではすべての社説は一致しているが、攻撃が住民をも対象としたことには、すべての社説が一致しているわけではない。西日本、北海道、毎日、京都、信毎、神戸が住民への攻撃を取り上げている。とくに、北海道は、「小学校が標的となり多くの子供の命が奪われた」とし、毎日は、「今回の軍事作戦で約20都市が攻撃され、・・・民間人にも数百人の死傷者が出ており、南部の女子学校では100人以上が犠牲になったとされる」と批判している。

(3)イランは報復として、イスラエルへの攻撃のほか、近隣諸国にある米軍関係の施設などを狙った攻撃を行ったが、これについては、朝日、毎日、日経が、懸念を表明している。朝日は、「地域全体を巻き込む戦争に拡大させ」ないようにすべきだとし、毎日も「イランの混乱が周辺国に拡大すれば状況はさらに制御不能になる」。「すぐにやめるべきだ」と強く主張する。日経は、「報復の応酬」をくい止めねばならないという。アメリカの攻撃を受けたイランの自制を求めるのがほとんどである。

5.原油とホルムズ海峡について

 戦争がホルムズ海峡封鎖の可能性と世界の原油供給に及ぼす影響については、ほぼすべての社説がこれを懸念している。

 その中で、最もしっかりとした議論をしているのは、新報である。「イラン攻撃は世界と日本の経済にも大きな影響を与える。世界の石油消費量の2割、日本への原油の9割が通過するホルムズ海峡が事実上閉鎖された。日本国内の石油備蓄は254日分ある。ただちに不足しないとはいえ、価格の値上がりは避けられない。あらゆる産業に影響が出て、物価を押し上げる。」と問題を指摘している。同じように毎日も「ペルシャ湾・ホルムズ海峡は原油輸送の要衝だ。エネルギー供給を中東に依存する日本への影響も大きい。」「革命防衛隊がホルムズ海峡での船舶の航行を禁じたことで、原油や天然ガスの輸送ルートが事実上封鎖されたとの報道もある。」日経は、「衝突がペルシャ湾の航行や石油施設に影響する恐れから、原油価格には上昇圧力がかかる。世界経済の重荷になりかねない。」「エネルギー供給の停滞が深刻に危惧される。海運大手がエネルギー輸送の要衝であるホルムズ海峡の航行停止を決めた。原油や天然ガスの価格に上昇圧力がかかるなど市場が動揺し、世界経済の重荷となるリスクがある。」朝日は、「ペルシャ湾の出入り口ホルムズ海峡は、世界の海上石油輸送の約4分の1を支える要所だ。攻撃の欧州により、船舶の航行は事実上止まっている。この状態が長引けば、原油価格の高騰など世界経済に大きな打撃となろう。中東に原油の9割以上を依存する日本は、影響を免れない。約240日分の石油備蓄があるが、ガソリン価格の上昇も心配される。先を見通した冷静な対策が求められる。」

 これ以外の読売、産経、東京、北海道、タイムズ、神戸、京都、信毎は、比較的簡単に、ホルムズ海峡が封鎖されれば、原油価格が上昇し、世界経済に大きな影響を及ぼすだろうと警告している。

6.歴史の教訓 

 アメリカなどがイラクやリビアなどを武力攻撃しても、その後には混乱を招いただけであり、そうした歴史を教訓として学ぶべきであるという主張は、多くの社説が述べている。これは昨年6月の攻撃に際しても問われていた問題である。

朝日は、米英などがフセイン体制を倒した後のイラクは泥沼化し、北大西洋条約機構(NATO)軍が空爆し、カダフィ政権が崩壊したリビアはいまも内戦が続いているとし、「歴史の教訓に学ぶべきだ」という。毎日は、イラクでは2003年、米軍の侵攻でフセイン政権が崩壊した後、国内が大混乱し、アフガニスタンでも01年に米軍の攻撃で社会が混乱した。米国にとっては苦い教訓だったはずだという。日経は、「米国はイラクやアフガニスタンに軍事介入し後始末に苦しんだはずではないか。」という。新報は、「米国はかつてアフガニスタン、イラクで体制転換を目指し失敗した」と指摘。神戸は、「米国は2003年、大量の破壊兵器を隠し持っているとしてイラクのフセイン政権を打倒した」と批判、西日本は「米国は2000年代にイラクやアフガニスタンなどで起こした戦争を泥沼化させ、自国も痛手を被った苦い経験がある。トランプ政権は同じ過ちを繰り返すのか」と厳しい。

7.世界の反応

(1)「国際社会」(筆者はこの言葉は嫌いだが)の動きに注目しているのが、北海道、朝日、新報、上毛、西日本である。このうち西日本は「結束」して、アメリカ・イスラエルに「最大限の自制」を求めるべきだとし、北海道は両国の「暴挙を容認してはならない」としているが、朝日、新報、上毛は少し面白いことを言っている。

 朝日は、「法による秩序が力で壊される弱肉強食の世界に戻してはならない。国際社会は危機感を共有する必要がある。ただ、各国の対応は割れている。英国は「紛争拡大は望まない」と表明、フランスは交渉による解決を求めた。欧州連合(EU)は国際人道法の順守を訴えた。一方で、カナダのカーニー首相が米国支持を打ち出したのは、きわめて残念だ。ルールに基づく国際秩序の衰えを指摘し、大国の横暴に対抗する中堅国の結束を訴えたのではなかったか?」としている。

 上毛は、「イラン攻撃について、英国やフランス、ドイツなど欧州諸国も、関係国に自制を促したものの、米国などへの明確な批判を避けた。トランプ氏を刺激したくないとの本音や、第2次大戦下のユダヤ人大量虐殺を背景にしたイスラエルへの配慮がうかがえる」と欧州を批判する。

 新報は、「英、仏、独の3か国は共同声明を出し、イランによる中東各地へのミサイル攻撃を非難し、米国などと協力することで合意したと表明した」。しかし、「国際法違反が指摘されるロシアのウクライナ侵攻に対する姿勢」とは違っていて、これは「ダブルスタンダード」ではないかと迫る。

 それぞれに的確な指摘であるが、興味深いことに、「国際社会」(ここでは英仏独のこと)の対応についての見方が、三社で違っているようである。

(2)国連に期待する声は、極めて少ない。昨年6月との違いのひとつである。まともに論じているのは、毎日のみである。イランへの攻撃を受けて開かれた国連安全保障理事会では、米国やイスラエルを非難する意見が相次いだという。一方、グテレス事務総長は米国、イスラエルの攻撃とイランの報復を非難した後、「はっきりさせておきます。永続的な平和は、真の対話と交渉を通した平和的手段でのみ達成できます」と述べたと言う。

8.日本政府の姿勢について  

 日本政府に邦人保護の措置を求める点においてはすべての社説で異論はない。それ以外の点で日本政府に姿勢に対して、産経を除いて、読売を含めてすべての社説が昨年6月と同じような批判している。

(1)アメリカ・イスラエルの攻撃への評価を回避していると批判するのは、読売(2度)、日経、東京、北海道、新報、神戸、上毛である。日本はアメリカの同盟国であるから批判せよというわけである。タイムズは「暴挙に毅然とした姿勢を」と言い、神奈川は「無批判な対米追従」を改めよと言う。京都は「米国を批判もいさめもしないのは理解に苦しむ」、「米国に追従」するなと注文した。

(2)両国の暴走を止めよというのは、6社である。読売は「憂慮を伝えよ」、北海道は両国を「止めよ」、新報は両国を「説得せよ」、神奈川は「いさめよ」、毎日は「自制を働きかけ」よ、日経は「懸念を明確に伝え、緊張緩和を求めよ」という。

(3)停戦・平和解決・外交努力を求めるのは多い。読売、朝日、日経、北海道、神戸、東京、新報である。例えば、北海道は「責任ある平和外交を」、神戸は「外交交渉を」、上毛は「積極的な対話外交で」、東京「即時停戦を求めるべき」、読売は「事態の鎮静化を米国に働きかけよ」、新報は「国連憲章、国際法を遵守し、国際ルールの下に戻るよう説得すべきだ」と言う。

(4)イランに矛先を向けることによって、事実上アメリカなどを認めているではないかと言うのは、北海道である。すなわち、北海道は「イランに矛先を向けて、攻撃に一定の理解を示した」と批判している。

(5)日本政府の二重基準を指摘するものもある。神奈川は「法を顧みぬ振る舞いをただ座視して」いるだけでは、「ウクライナ侵攻を続けるロシアを批判できなくなる」とし、新報は、これまでロシアを「力による現状変更」だと批判してきたのに、おかしいと疑問を呈している。

まとめ

 今回の攻撃にはイスラエルのネタニヤフ首相のイニシアティヴの重要性が指摘されているが、イスラエルの責任を独自に問う声は意外にもほとんどない。戦争の遠因として、イスラエルの中東全域への「野心」も含め、イスラエルの責任についてはアメリカとは別にもう少し言及があってもよかった。昨年6月には、トランプのアメリカのイラン攻撃は、「イスラエルと一体化した軍事行動を急いだ場当たり的な対応との印象が拭えない」とし、米国はイスラエルに強い影響力を持つのに自制させず、イラン攻撃に加担したと批判した北海道新聞を始めいくつもの新聞がイスラエル批判を展開していたが、今回は静かであった。

 この戦争の影響として、ウクライナでの戦争やガザとヨルダン川西岸でのパレスチナ人のジェノサイドがどのようになるのかといった視線もほしかった。興味深いことに、朝日だけがトランプの提唱するガザの平和評議会に悪影響を与えると述べている。「中東、イスラム諸国がイスラエルの独善に反発することは必至だ。評議会は機能不全に陥りかねない」というのである。平和評議会にこれほどの重要性をもたせているのは、朝日だけである。

 また、この戦争が北東アジアに対して持つ意味を産経は次のように危惧している。イランとの戦争が長引けば、「米国の関与が手薄になり、中国や北朝鮮、ロシアが北東アジアで挑発的な行動に出る恐れもある」というのである。

 昨年6月には、朝日新聞が、「イラク戦争時から未解決な国際問題は実は、中東の混迷だけでなく、米国の暴走に対処するすべを世界が見いだせていない現実だ」と述べていたが、今回も見事にこの現実が露呈したのである。

 総じて、産経は日本の高市政権と同じ論調を取っていることが際立っている。すべてをイランのせいにして、イランの自制を求めている。昨年6月にはやや立場があいまいで会った読売は、今回は、きっちりとアメリカ・イスラエルを批判しているのが注目される。

 最後に一言。日本全体での意見分布という点では、おそらく新聞の情報を参考にする人は1割にも満たないであろう。圧倒的に多くの社説がアメリカ・イスラエルの攻撃を糾弾し、日本政府の姿勢を批判していても、SNSなどの情報による世論はそうではないだろう。このギャップをどう考えるべきだろうか。

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「世界史の眼」No.72(2026年3月)

今号では、小谷汪之さんに、新たな連載「蓼科の近代史」の初回、「蓼科の近代史 Ⅰ(上) ―満洲開拓と戦後開拓」を寄せて頂きました。今後連載して参ります。また、多摩大学の桐谷多恵子さんに、昨年刊行された豊下楢彦『「核抑止論」の虚構』(集英社新書、2025年)を書評して頂きました。また、世界史寸評として、南塚信吾さんの「日本の自民党大勝を世界史的に考える」を掲載しています。

小谷汪之
蓼科の近代史 Ⅰ(上) ―満洲開拓と戦後開拓

桐谷多恵子
書評 豊下楢彦『「核抑止論」の虚構』

南塚信吾
世界史寸評 日本の自民党大勝を世界史的に考える

豊下楢彦『「核抑止論」の虚構』(集英社新書、2025年)の出版社による紹介ページはこちらです。

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蓼科の近代史 Ⅰ(上) ―満洲開拓と戦後開拓
小谷汪之

はじめに
1 茅野市域からの満洲開拓移民
2 敗戦前後の満洲開拓移民
(以上、本号)
3 戦後開拓
4 茅野市域における戦後開拓
おわりに
(以上、次号)

はじめに

 蓼科湖畔に下の写真のような「拓魂」の碑が建っている。

この碑の文面は次のとおりである。

   建立趣意

第二次世界大戦は敗戦の
烙印の下に終った。これ
迠、海外に雄飛せし同胞
は全て帰国し国土は荒廃
し食糧欠乏す、ここに有
志相諮り食糧増産の為入
植に決す、苦節十年の後
昭和三十五年竣工検査の
結果各自の所有となる。
時恰も観光開発の脚光を
浴びた当地はその施設の
中央に位し、各自よすが
を観光面に切り替え開拓
の努力は報いられて今日
に至る。この開拓用地は
湯川・塩沢・両財産区の
ものであったが、昭和二
十四年の緊急開拓措置令
により国が買収したもの
である。その概要を記し
児孫に傳う。

昭和六十三年七月吉日
  中山開拓農業協同組合
(誤字三カ所を修正)

 「拓魂」の碑というのは全国各地にたくさんあるが、その多くは、満洲開拓に送り出され、1945年(昭和20年)8月15日の敗戦前後、ソ連軍の侵攻や現地民の襲撃に遭って命を落とした約8万人の満洲開拓移民たちを悼む慰霊碑である。しかし、蓼科湖畔の「拓魂」の碑は、それとは異なり、敗戦後国策として推進された戦後開拓にかかわるもので、碑を建てた「中山開拓農業協同組合」は蓼科山南麓の長野県諏訪郡北山村湯川区(現、茅野市大字北山・湯川区)から蓼科高原に戦後開拓に入った人たちの開拓農業協同組合である。

 本稿では現在の茅野市域(諏訪郡の旧村名で言えば、永明村、宮川村、金沢村、玉川村、泉野村、豊平村、北山村、湖東村、米沢村。図1「茅野市域の村区分」参照)、特に北山村に焦点を当てて、この地域からの満洲開拓移民と戦後開拓の歴史を追ってみたいと思う。

1 茅野市域からの満洲開拓移民

 長野県は全国の都道府県の中で、満洲開拓移民を最も多く送り出した県である。当時の外務省の統計によれば、1945年5月現在で、長野県送出の一般満洲開拓団員は31,264人で、2位山形県の13,252人の2倍以上である。都道府県総計で220,359人の一般満洲開拓団員の約15%を占めている。ただし、これらの数値は渡満計画中の人数を含むので、実数とはいくらか開きがあるとされている(『満洲開拓史』満洲開拓史刊行会編、1966年、396~397頁)。

 『長野県満州開拓史 各団編』(長野県開拓自興会満州開拓史刊行会編、1984年)では、「長野県単独開拓団」が次の5類型に分類されている(開拓団名の前に付された年次は送出された年次を示している。1932年(昭和7年)に最初に送出された「第1次弥栄村開拓団」以降、年度にしたがって第2次、第3次というように表記された)。

(1)「全県編成開拓団」:「第5次黒台信濃村開拓団」など4開拓団
(2)「分村移民開拓団」:「第7次四家房大日向村開拓団」など12開拓団
(3)「分郷開拓団」:「第8次小古洞蓼科郷開拓団」など24開拓団
(4)「集合・農工・帰農開拓団」:「集合第1次康平長野開拓団」など11開拓団
(5)「報国農場」:「長野県農業会窪丹崗報国農場」など4開拓団

 これらの他に、満蒙開拓青少年義勇軍が3年間の現地訓練期間を終えて入植した「長野県単独義勇隊開拓団」(11開拓団)などを加えれば、長野県から満洲開拓に参加した者は4万人をくだらないであろうとされている(『長野県満州開拓史 各団編』)。

 この長野県全体から送出された満洲開拓移民の数と比べた時、現在の茅野市域から送出された満洲開拓移民はあまり多くないという印象を受ける。この地域からは第7次四家房大日向村開拓団(長野県南佐久郡大日向村の全村民の半数ほどが満洲に渡り、現地で大日向分村を形成した。伊藤純郎『満州分村の神話 大日向村は、こう描かれた』信濃毎日新聞社、2018年、参照)のような「分村移民開拓団」が送出されなかったこともその一因であろう。現在の茅野市域からの満洲開拓移民は以下の各開拓団に分散して参加していた。

(1)第5次黒台信濃村開拓団 7世帯
(2)第6次南五道崗長野村開拓団 4世帯
(3)第7次中和鎮信濃村開拓団 4世帯
(4)第8次張家屯信濃村開拓団 1世帯
(5)第8次富士見分村王家屯開拓団 8世帯
(6)第10次孫船八ヶ岳郷開拓団 66世帯
(7)第11次旭日落合開拓団 1世帯
(8)長野県農業会窪丹崗報国農場 1世帯
(『茅野市史 下巻 近現代・民俗』1988年、446~447頁)

 これらの中で、例外的に茅野市域からの開拓移民が多かったのは「第10次孫船八ヶ岳郷開拓団」である。この開拓団は、1939年、農林次官だった小平権一(諏訪郡米沢村出身。図1「茅野市域の村区分」参照)が諏訪郡町村長会などに結成を呼びかけた「分郷開拓団」で、諏訪郡の2市18町村から団員が集められた。入植地は満洲最北部、ソ連国境の町・黒河に近い訥謨爾ノモルで、入植時には219世帯(戸)、746人が在籍していた。その後、軍隊への現地召集などで団員が減少したが、敗戦時にも554人が在団していた(『長野県満州開拓史 各団編』356~365頁)。

 この「第10次孫船八ヶ岳郷開拓団」の団員のうち、66世帯(戸)が現在の茅野市域からの入植者で、その中には北山村出身の7世帯が含まれていた。その他の「長野県単独開拓団」には、北山村出身者はいなかった。ただし、「第3次瑞穂村開拓団」(1934年入植)には1世帯4人の北山村出身者が在籍していた(『茅野市史 下巻』446~447頁)。しかし、この開拓団は「第1次弥栄村開拓団」や「第2次千振開拓団」と同様のいわゆる「試験開拓団」(「武装開拓団」)の一つで、長野県を含む22県の在郷軍人会によって選抜された在郷軍人から構成されていた。したがって、この開拓団に在籍した北山村出身の1世帯も在郷軍人の世帯だったのであろう。その点では、1936年に広田弘毅内閣の下で満洲移民政策が本格化する前の初期的開拓団であった(『長野県満州開拓史 各団編』34~45頁)。

2 敗戦前後の満洲開拓移民

 1945年8月9日、ソ連軍が東、西、北の三方から満洲に侵攻し、それに呼応するように現地民が開拓村などを襲撃した。開拓民たちは南方に向かって避難したが、その過程で多くの死者が出た。『満洲開拓史』はその死者、未帰還(不明)者、帰還者を以下のように算出している(436~437頁)。

開拓団(928団)    死者67,680人 未帰還者9,550人  帰還者118,970人
義勇隊開拓団(102団) 死者3,200人  未帰還者1,000 人 帰還者17,800人
報国農場(74カ所)   死者1,120 人  未帰還者450人   帰還者3,200人

 これらの死者総計72,000人に未帰還(不明)者のうち死亡したと考えられる者6,500人を加えると、開拓団関係の死者は約8万人となる。これは敗戦時における満洲全体の日本人居留民死者約18万人の45%ほどにあたる。敗戦時における、在満日本人居留者総数は約150万人とされている(富田武『シベリア抑留――スターリン独裁下、「収容所群島」の実像』中公新書、2016年、104頁)。

 敗戦時の死者、未帰還者、帰還者の数を現在の茅野市域からの入植者がいた開拓団について見ると、次のようになる(敗戦時に在団していた人々に関する数で、応召者などを除く)。

(1)第5次黒台信濃村        死者967人 未帰還者91人  帰還者277人
(2)第6次南五道崗長野村   死者759人 未帰還者38人 帰還者332人
(3)第7次中和鎮信濃村    死者599人 未帰還者42人 帰還者351人
(4)第8次張家屯信濃村    死者690人 未帰還者17人 帰還者277人
(5)第8次富士見分村王家屯  死者189人 未帰還者2人    帰還者582人  
(6)第11次旭日落合開拓団   死者69人  未帰還者 0人    帰還者67 人
(7)窪丹崗報国農場       死者58人  未帰還者0人  帰還者207人
(『長野県満州開拓史 各団編』各所)

 (1)~(4)の「全県編成開拓団」における死者数が突出していることが分かる。もともと規模の大きな開拓団だったこともその一因であろう。

 現在の茅野市域からの入植者が例外的に多かった「第10次孫船八ヶ岳郷開拓団」の場合、敗戦時の在団者554人のうち、死者269人、未帰還(不明)者7人で、278人が帰還した(『長野県満州開拓史 各団編』357頁)。そのうち、茅野市域出身の66世帯の人々だけについて見れば、死者114人、未帰還(不明)者5人で、帰還したのは119人であった。さらにそのうち、北山村からの入植者7世帯では、死者3人で、帰還者は11人となっている(『茅野市史 下巻』447頁)。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.72)

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書評 豊下楢彦『「核抑止論」の虚構』
桐谷多恵子

 本書『核抑止論の虚構』は、核兵器の存在が戦争を抑止してきたという広く共有された通念に対し、その理論的前提と政策的実態の双方を精査することで、核抑止論が内包する不安定性を明らかにしようとする著作である。著者は序章において、映画『博士の異常な愛情』を引き合いに出し、核戦略が前提としてきた「合理性」が、いかに容易に狂気と隣り合わせのものとなりうるかを象徴的に示している。

 続く第1章では、内部告発者として知られるダニエル・エルズバーグの証言を手がかりに、核抑止論の中核をなしてきた「公式政策」そのものに鋭い疑問が投げかけられる。エルズバーグが強調するのは、米国が表明し、また広く信じられてきた、ソ連による第一撃を抑止し、仮に攻撃を受けた場合には第二撃によって報復するという核戦略が、「意図的な偽り」であったという点である。すなわち、そのような抑止政策が実際の意思決定において主要な目的となったことは「一度たりともなかった」とされるのである。著者はこの指摘を通じて、核抑止論が想定する透明で合理的な戦略像と、現実の政策運用とのあいだに横たわる深刻な乖離を浮かび上がらせる。

 第2章以降で著者は、核抑止論を支えてきた核戦略論の理論的前提を精査し、その内在的な問題点を明らかにしていく。核戦略論は、国家を一貫して合理的に行動する主体として想定し、相手国もまた同様の合理性に基づいて行動すると仮定することで、抑止の安定性を説明してきた。しかし著者が指摘するように、この前提は、危機状況における誤認や偶発、さらには組織内部の混乱や判断の分断といった現実の要因を著しく過小評価している。

 この問題が最も端的に示されるのが、第3章および第5章で論じられる、いわゆる「狂人理論」である。著者は、リチャード・ニクソン政権期の対ベトナム政策を取り上げ、指導者が非合理的で予測不能な人物であるかのように振る舞うこと自体が、相手国に譲歩を迫る戦略として構想されていたことを明らかにする。ニクソンは側近を通じて、「ニクソンは共産主義のことで思い詰めている。怒り出したら手がつけられない。しかも彼は核のボタンに手をかけているのだ――こうすればホー・チ・ミンは二日も経たずに和平を請い願って自らパリに出向くだろう」との認識を意図的に流布させたとされる。

 著者が強調するのは、このような「狂人」を演じる戦略が、抑止の信頼性を高めるどころか、むしろ核使用の可能性を現実のものとして相手に意識させる点にある。そこでは、理論上想定されてきた合理的な計算や安定した均衡は成立せず、個人の感情や演出に依存した、きわめて不安定な抑止関係が生み出される。核抑止論が前提としてきた合理性は、この段階で自ら放棄されているのであり、非合理性を装うことで均衡を保とうとする論理そのものが、深刻な危うさを孕んでいることが示される。

 さらに著者は、こうした「狂人理論」が突発的に生まれた発想ではなく、1950年代後半以降に蓄積されてきた核戦略研究の文脈のなかで形成されてきたことにも目を向ける。キッシンジャーやシェリング、エルズバーグらは、「非合理性の理論」を参照しつつ、核抑止や核開発競争が本質的に不安定な均衡の上に成り立っていることを理論的に検討してきた。しかし、ニクソン政権の具体的政策をいかに評価するかをめぐって見解の相違が顕在化し、最終的にはキッシンジャーのみが政権中枢で重責を担い、「狂人理論」を実際の政策構想として展開するに至ったのである。著者は、この理論がその後も各国の指導者によって参照されていく過程を描き、核抑止が制度ではなく、個人の演出や性格に依存する実践へと傾斜していったことを浮かび上がらせている。

 著者が高く評価するのが、第4章で論じられるゴルバチョフによる「新思考外交」の意義である。ゴルバチョフは、軍事的均衡を安全保障の中心に据える発想から、相互依存と理性に基づく国際秩序の構想へと視座を移し、核抑止論が当然視してきた前提そのものを相対化しようとした。さらに、レーガンとの間で締結された中距離核戦力全廃条約(INF条約)は、単なる軍備管理の成果というよりも、恐怖による均衡を合理的安定とみなす思考に対する実践的な問いかけであったと言える。かつてソ連を「悪の帝国」と位置づけたレーガンとの交渉は、「精神病理的な論理」に裏付けられた「核抑止論」の枠組みを超える政治的可能性を示したものとして、本書では積極的に評価されている。

 しかし、ジョージ・W・ブッシュ政権の発足と同時多発テロ以降、状況は再び大きく転換した。「ミサイル防衛」の強化とともに、「我々を防衛するために先制的に行動すること」が必要であるとする「先制攻撃論」が前面に押し出され、核兵器の使用可能性は現実的な選択肢として再浮上することとなった。

 これを受けて、オバマ大統領は核の「先制不使用」に言及し、「核なき世界」を目指す姿勢を打ち出したが、その構想は十分な支持を得られず、その後の国際政治は「第二の核時代」と呼ばれる状況へと移行していく。第6章「核の復権」が論じるのは、まさにこの局面である。それまで核兵器は「存在すること」によって抑止を担うと理解され、その意味で「核兵器の役割が縮小」も語られてきた。しかし現在では、中小規模の核保有国の増加により、地域紛争の文脈で核兵器が使用される危険性が現実味を帯びている。

 この「第二の核時代」においては、仮に核兵器が使用されたとしても必ずしも「人類絶滅」に直結するとは想定されず、地域的優位を追求する国家にとっては「体制の存亡をかけた戦争」という文脈で計算されうる。大国による核の威嚇も、かつてほど自動的に抑止として機能するとは限らないとされる。こうして従来型の「核抑止」は効力を弱め、核兵器は使えない兵器から使用を想定せざるを得ない兵器、つまり使える兵器へと位置づけが変化しつつある。その象徴が、「低出力核兵器(戦術核)」の開発である。こうした情勢のもとでは、原子力発電所さえも攻撃対象となりうる現実が浮かび上がる。本書は、このような現在進行形の核をめぐる状況を理論的に論じている。

 本書の強みは、核抑止論を外部から規範的に否定するのではなく、その内部論理を丹念に検証することによって、理論と現実の乖離を可視化している点にある。本書後半において著者は、核抑止論の不安定性が過去の理論的問題にとどまらず、現代の国際政治においても繰り返し現れていることを示す。第7章では北朝鮮やイスラエルの事例を通じて、核兵器の保有が地域の安定をもたらすどころか、むしろ緊張と不確実性を恒常化させてきた実態が描かれる。第8章で検討される「トゥキュディデスの罠」をめぐる議論もまた、大国間競争を歴史的必然として捉える単純化が、軍事的緊張を過度に自然化してしまう危険性を孕んでいることを示している。

 さらに第9章では、「トランプの傘」という表現を用い、拡大抑止が特定の指導者の性格や演出に依存する構造的脆弱性が浮き彫りにされる。核抑止が合理的計算に基づく安定した仕組みであるという前提は、ここにおいて再び大きく揺さぶられる。著者が示すのは、核抑止が制度としてではなく、個々の指導者の判断や感情に左右される実践として機能してきた現実である。

 本書が繰り返し問いかける核抑止論の虚構は、理論的検証や政策史の分析にとどまらず、核兵器をいかに人間的に考えるかという根源的な問題へと読者を導く。評者自身、13年にわたり55回に及ぶ聞き取りを重ねてきた広島の被爆者・切明千枝子氏は、核兵器の存在が核戦争を防ぐとする核抑止論について、「信じられませんね」と静かに語った(2025年6月26日、切明氏自宅での聞き取り)。切明氏はまた、「やっぱり、あくまでも核兵器廃絶ですね。なくしてほしいですね」と断言し、核兵器を保有し続ける限り、いずれ使用への誘惑が生じること、そして現在地球上に存在する核兵器の破壊力は、広島で経験された被害をはるかに超える規模の惨禍をもたらしかねないと指摘している。

 私たちは、核戦争を実際に体験させられた被爆者たちの言葉を通してこそ、核兵器を抽象的な戦略や理論の対象としてではなく、人間の生と死に直結する問題として考えることができるのではないだろうか。核戦争を経験していない世代にとって、その現実はしばしば想像の外に置かれてしまう。本書『核抑止論の虚構』は、そうした想像力の欠如に抗い、核兵器をめぐる思考を理論の内部から崩しつつ、人間的な問いとして回復させる重要な試みである。そして、核抑止の「虚構」が再び現実政治の言説空間を規定しつつある現在、本書は核兵器をめぐる理論的枠組みを再検討するための基準点を提示する重要な研究成果である。

(「世界史の眼」No.72)

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