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「世界史の眼」No.64(2025年7月)

今号では、小谷汪之さんの「湯浅克衛の朝鮮と満洲(上)―「植民地文学」の変質」を掲載しています。次号と併せて全2回の連載です。また、野村真理さんに、鶴見太郎『ユダヤ人の歴史:古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』(中公新書、2025年)の書評をご寄稿いただきました。さらにパトリック・マニングさんのブログに掲載された「帝国対民主主義の今日―ガザの危機」を南塚信吾さんに翻訳していただき、ここに掲載します。

小谷汪之
湯浅克衛の朝鮮と満洲(上)―「植民地文学」の変質

野村真理
書評:鶴見太郎『ユダヤ人の歴史:古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』中公新書、2025年

P・マニング(南塚信吾訳)
帝国対民主主義の今日―ガザの危機

鶴見太郎『ユダヤ人の歴史:古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』(中公新書、2025年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

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湯浅克衛の朝鮮と満洲(上)―「植民地文学」の変質
小谷汪之

はじめに
1 「カンナニ」
2 天皇制国家による思想・言論弾圧
3 「移民」と「先駆移民」の間
(以上、本号)
4 満洲移民村歴訪
5 『長篇小説 鴨緑江』
おわりに
(以上、次号)

はじめに

 湯浅克衛(本名、湯浅猛。1910‐82年)という作家を知る人は今では少ないであろう。ただ、幼・少年期を過ごした朝鮮にこだわり続けた異色の作家として、その功罪を含めて、検討に値する作家だと思う。

 湯浅は香川県の善通寺に生まれた。父親は地元の製缶工場に勤めていたが、湯浅の幼年期に解雇され、その後は植民地・朝鮮の日本軍・守備隊員として、朝鮮各地を転々とした。1916年、父親が朝鮮総督府の巡査試験に合格して、水原で巡査としての勤務に就いた。水原は当時の京城(現、ソウル)の南35キロメートルほどに位置する京畿道の中心都市である。18世紀末にはその地に華城が建設されて、水原は城壁に囲まれた城郭都市となった。朝鮮王朝は当時首府を水原(華城)に移すことも考えていたという。父親の水原赴任に伴い、湯浅は水原尋常小学校に入学した。1922年には同小学校を卒業して、当時の名門校・京城中学校に進学した。湯浅は1年生の時には水原から汽車で通学していたが、通学時間がかかり過ぎるので、2年生からは寄宿舎に入った。

 京城中学校では、後に「名人伝」、「弟子」、「李陵」など漢籍に材をとった作品で有名になる中島敦と4年間同級であった(中島は4年修了で卒業し、第一高等学校に進学した)。湯浅の回想記によれば、湯浅は二度、中島に助けられたということである。一度は3年生の時で、数学が嫌いな湯浅は数学の時間に教科書で隠しながら『改造』を読んでいた。『改造』といえば、当時の代表的な「左翼雑誌」である。湯浅は盗み読みしているところを数学の先生に見つかり、危うく停学になるところであったが、中島が間に入って京城中学校の「図書室監禁」2週間で決着したという。もう一度は4年生の時で、湯浅の寄宿舎の机から谷崎潤一郎の『痴人の愛』が見つかり、この時も停学処分になりかかった。しかし、中島や舎監長の先生の尽力で寄宿舎の「図書室監禁」1週間で済んだという(湯浅克衛「敦と私」、『ツシタラ 3』3‐4頁。『ツシタラ』は文治堂書店版『中島敦全集』各巻の付録)。これらの出来事があったのは、湯浅が15、6歳の時であるから、湯浅は一方で『改造』を読みながら、他方では『痴人の愛』を読むといった、ちょっと風変わりで早熟な文学少年だったのであろう。

 1927年、湯浅は京城中学校を卒業して東京に出た。翌1928年には早稲田第一高等学院に入学した。当時の早稲田第一高等学院は修業年限3年で、修了すれば早稲田大学の学部に無試験で入学できた。しかし、湯浅は、1929年、「近代文芸研究会」事件に連座して、早稲田第一高等学院を退学させられた。京城中学校時代に『改造』を読んでいた湯浅は早稲田で「左翼」的なサークル「近代文芸研究会」とつながりを持ったのであろう。湯浅は退学後の数年間、それ以上の学歴を求めず、「文学修行」に専念していたようである。

1 「カンナニ」

 湯浅克衛の処女作「カンナニ」は『文學評論』の1935年4月号に掲載された。島木健作の「癩」が『文學評論』に掲載されたちょうど1年後である。その時、湯浅はまだ25歳であった。しかし、「カンナニ」の『文學評論』掲載にはいろいろと曲折があった。

 『文學評論』に掲載された「カンナニ」は、水原の日本人巡査の息子で小学校5年生の龍二と彼より2歳年上の朝鮮人少女・カンナニ(李橄欖。普通学校夜間部5年生とされている。普通学校は朝鮮人子弟のための小学校)との間の幼く淡い恋情を描いた小説のように見える。ただ、それだけではなく、この小説は植民地支配下に置かれた朝鮮の人々の生活や感情、そして朝鮮人と日本人植民者の間の関係などについて、少年の目―それは小学校入学以前から中学校卒業まで10年以上を朝鮮で暮らした湯浅の目と言い換えることができる―を通してリアルに描いた作品として興味深く読むことができる。

 龍二はちょっと前に偶然知り合ったカンナニとすぐに仲良くなった。だが、一緒にいても、「何と話しかけたらいゝか、わからなかつた。すると、カンナニが[朝鮮語で]『お前タンシン・巡査スンサ・ドリ』と云つた」。「そして、不審氣な龍二の顔に、今度は日本語で『巡査の子と遊んぢやいかん』父が云つたよ」と続けた。龍二はこう応えた。
「どうしていけんのぢや」
「父は日本人大嫌ひ……[2字伏字、憲兵]一番嫌ひ、巡査、その次に嫌ひ。朝鮮人をいぢめるから、惡いことするから―」
「巡査は惡いことはせん、巡査は惡いことをしたり、いぢめたりする奴を退治する役ぢや。[後略]」
 龍二はいつしようけんめいにカンナニを説得しようとした。けれども女の子は淋し氣に笑つたまゝ乘つて來やうとはしなかつた。
 私の家でも―とカンナニは云ふのである―……[2字伏字、家を]潰された。持つてゐた田畑はいつの間にか「××」[伏字か? 復元版「カンナニ」では、「新しい地主」]のものとなつてゐた。そんな筈はないから刈入れをしてゐたら、巡査がやつて來て父をらうやに入れ、父がやつてゐた書堂は、惡いことを子供等に教へるからと……[伏字、内容不明]戸を釘づけにしてしまひ、子供等を……………[5字伏字、無理やりに]普通學校に入れてしまつた。
(池田浩士編『カンナニ・湯淺克衞植民地小説集』インパクト出版会、1995年、に復刻された『文學評論』版「カンナニ」503‐504頁。伏字の箇所は復元版「カンナニ」によって補填。復元版「カンナニ」については後述。)

 この時代には、このような文章を発表するだけでも大変なことだったであろう。それは、『文學評論』版「カンナニ」の末尾に、徳永直の筆になる、以下のような「附記」があることからも分かる。徳永は『文學評論』の編輯相談役のような立場にあったから、「カンナニ」掲載の可否について、編輯長・渡辺順三から判断を求められたのであろう。

(附記、「カンナニ」は、作者から半年餘も預かつてゐた作品であつたが、その性質上、却々なかなか發表に困難であつた。こんかくも無惨な姿で編輯者に推薦した次第であるが、なおこの後半は「萬歳事件」が扱はれてゐる。「カンナニ」の作者は後半を別に構圖を改めて書くと云つてゐるから、またいづれ讀者の眼に觸れる機會があると思ふ。一言作者及び讀者へのお斷りを兼ねて―徳永直)
(池田浩士編『カンナニ・湯淺克衞植民地小説集』に復刻された『文學評論』版「カンナニ」519頁)

 このように、『文學評論』版「カンナニ」では、原「カンナニ」における「六」から末尾までの400字詰原稿用紙46枚分がすべて削除されている。この部分では万歳事件(3・1朝鮮独立運動、1919年)が扱われていて、これでは、とうてい検閲を通らないと考えた徳永がこの「後半」部分をすべて削除したのである。

 池田浩士編『カンナニ・湯淺克衞植民地小説集』7‐49頁収載の復元版「カンナニ」(戦後、徳永によって削除された部分をすべて復元したとされるもの)の末尾には、万歳事件の渦中に、カンナニが日本人植民者によって殺害されたということが示唆されている(ただし、この復元版は、元原稿が失われていたため、湯浅が10年前の記憶のみにもとづいて作成したもので、原「カンナニ」そのものかどうか疑問の余地がありうる)。

 徳永はさらに、日本人の高等小学校生や小学校高学年生が朝鮮人の一少女に性的暴行を加えている場面の一部など検閲で問題になりそうな箇所を多く削除している。徳永はこれらの削除によって「無惨な姿」になった「カンナニ」でもなお、『文學評論』に掲載するに値すると考えたのであろう。その判断が間違いだったとは思わないが、『文學評論』版「カンナニ」と復元版「カンナニ」では、読後の印象が微妙に異なるのも事実である。もし、復元版「カンナニ」の「後半」が原「カンナニ」の「後半」と同じだとしたら、原「カンナニ」は優れた「植民地文学」だったということができる。

2 天皇制国家による思想・言論弾圧

 「カンナニ」が『文學評論』に掲載された1935年頃には、天皇制国家による思想・言論弾圧が頂点に達しようとしていた。それは日本帝国主義による中国大陸侵略の拡大と軌を一にするものであった。その過程で、多くの人たちが「転向」をよぎなくされた。

 島木健作は1928年の「3・15事件」に連座して禁固5年の刑に服し、肺結核の重篤化に伴い、翌年に「転向」を表明した。島木は1932年、刑期を一年残して仮釈放されたが、1936年11月、思想犯保護観察法が施行されると、島木もその対象者とされた。治安維持法違反で有罪とされ、仮釈放された身だったからである。

 「3・15事件」後も厳しい弾圧が続けられたが、特に1933年には多くの衝撃的な事件が起こった。同年2月、「蟹工船」などの作品によって知られる作家・小林多喜二が検挙され、築地署において拷問により虐殺された。6月には日本共産党幹部の佐野学と鍋山貞親が獄中で「転向」を声明したため、その後、日本共産党員の「転向」が続出した。

 同じ1933年、高見順も、「日本プロレタリア作家同盟」(ナルプ)・城南地区の「責任者」として、治安維持法違反の容疑で検挙された。高見は「一年間起訴留保処分」を受けたが、半年後に不起訴となった。高見が「転向」を表明したからであろう。しかし、思想犯保護観察法が施行されると、治安維持法違反の容疑で検挙されたことのある高見はその対象者とされ、月に一度、東京・千駄ヶ谷の保護観察所に出頭することを義務づけられた(高見順『対談 現代文壇史』筑摩叢書、1976年、185、213、283‐284頁)。

 徳永直は、このような思想・言論弾圧の状況下、政治と文学の関係をめぐって、政治を優先する蔵原惟人らと対立して、日本プロレタリア作家同盟を脱退した。これは実質的な「転向」といってもよいであろう。

 同時に、「左翼雑誌」に対する弾圧も強化された。1936年、島木健作の「癩」や湯浅克衛の「カンナニ」を掲載してきた『文學評論』は、出版元・ナウカ社の社主・大竹博吉がソ連のスパイ容疑で逮捕されたことによって終刊となった。「左翼」系作家の作品発表の場が次々と消滅していく中、1936年3月には、武田麟太郎らによって文芸誌『人民文庫』が創刊された。編集長は本庄陸男で、湯浅克衛もこの雑誌に多くの文章を寄稿した。この雑誌も警察に睨まれていたようで、1936年10月25日、『人民文庫』に関係していた作家たちが新宿の喫茶店・「大山だいせん」に集まっていたところを、警官隊に踏み込まれ、本庄陸男や湯浅克衛、田宮虎彦、田村泰次郎、高見順などが検挙された。ただ、本庄と湯浅以外はその夜のうちに釈放され、本庄と湯浅も数日後には釈放された。この『人民文庫』も1938年には廃刊をよぎなくされた。

 このような思想・言論弾圧状況の中で、湯浅克衛の文学にも、大きな揺れが起こってきた。湯浅の「カンナニ」など初期の作品は植民地朝鮮における朝鮮人や日本人植民者の生活を、自身の少年時の体験を通してリアルに描くところに長所があったのだが、しだいにそれが薄れていき、観念的で国策文学的な方向に傾いていったのである。

 湯浅の文学におけるこのような揺れは、思想・言論弾圧とともに強化されていった思想・言論の国家統制にも関係することであった。1939年2月、大陸開拓文芸懇話会が拓務省の後ろ盾で結成された。国策としての大陸開拓に資する文学を目指すというのがその目的であった。自ら望んでかどうかは分からないが、朝鮮体験の豊かな湯浅も大陸開拓文芸懇話会に加わり、その中心をなす6人の委員の一人となった。その後、湯浅は日本と朝鮮との間をしばしば行き来して、しだいに朝鮮において重要な位置を占めるようになっていった。朝鮮文壇では、朝鮮語で書かれた作品の発表が困難になり、朝鮮人作家も日本語(当時の表現では「国語」)で書かざるをえなくなった。

3 「移民」と「先駆移民」の間

 湯浅克衛は、「カンナニ」に見られるような朝鮮人の生活や感情に対する関心をしだいに失い、朝鮮や満洲に在住する日本人の問題に関心を集中させていった。その一環として、朝鮮や満洲への日本人移民を主題とする作品やルポルタージュを多く発表するようになった。

 朝鮮への日本人移民の問題をテーマとする最初の作品は「移民」(『改造』1936年7月号)である。山陰地方の貧しい小作人・「松村松次郎」は東洋拓殖株式会社(東拓)による朝鮮への移民の募集に応募して朝鮮に渡った。日露戦争が終わって5年後の1910年のこととされている。しかし、東拓が用意した入植地は朝鮮北部の山間の荒れ地であった。「松次郎」は最初はがっかりしたが、25年の「年賦」を東拓に納め終われば、この3町歩ほどの土地が自分のものになると考えて気を取り直した。「松次郎」と妻の「いや」は朝早くから働き、田畑を少しずつ整備していった。そんなやさき、「いや」が肺を病み、苦しんだ末に死んでしまった。「いや」を家や田畑のよく見える小高い丘の上の墓地に葬った時、「松次郎」はこの地以外に自分の故郷はないと思い定めた。それで、付近の朝鮮人農民たちと親しく交わった。朝鮮人農民たちも「松次郎」を信頼し、彼の燐家の娘を後妻とするよう勧め、「松次郎」もそれを受け入れた。こうして、「松次郎」は朝鮮人社会の中に溶け込んでいった。「松次郎」が死んだ時には、朝鮮人農民たちの手によって「さながら貴人の葬式」のような葬祭が行われた。

 この作品は、いろいろと批判の余地はありうるとしても、少なくとも、朝鮮人農民たちと日本人入植者との交流を対等に近い形で描いている点で、国策文学的とまでは言えないであろう。

 他方、満洲への日本人移民を最初に扱ったのは「先駆移民」(『改造』1938年12月号)で、これは、1933年に拓務省によって東北満洲に送り出された第二次武装移民団にかかわる事実を踏まえた作品である。この第二次武装移民団は「」地域に入植したので、その入植地は「千振ちぶり村」と称された(付図の③)。第二次武装移民団も、第一次武装移民団(1932年送出。入植地は永豊鎮で、弥栄村と称された。付図の②)と同様に、全国の在郷軍人から成る移民団で、現地の武装勢力との戦闘を想定していた。これら二つの移民団は「先駆移民」と呼ばれていた。

 「先駆移民」という作品は、この第二次武装移民団が置かれていた状況を大枠として、その中に一人の「左翼崩れ」らしき団員・「黒瀬陸助」を造形して、彼の他の団員とは異なる言動を描いたものである。その最後の部分では、この200人足らずの武装移民団が4000人ほどの「匪賊」に取り囲まれ、籠城状態になる。救援を求めるために「密使」が送られるが誰も帰ってこない。「匪賊」に捕まり、惨殺されたに違いない。その時、「黒瀬陸助」が6人目の「密使」として名乗りを上げ、送り出されるが、それから5日経っても帰ってこない。「黒瀬陸助」の生死は不明のままだが、救援部隊が到着し、第二次武装移民団は救われる。

 この作品で、湯浅の関心はもっぱら日本人移民たちの動向に限られ、日本人の入植に抵抗する満洲人や在満朝鮮人たちはすべて「匪賊」として扱われている。その点で、まさに国策文学というべき作品である。このように、「移民」(1936年)と「先駆移民」(1938年)の間に湯浅の揺れの境目を見ることができる。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.64)

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書評:鶴見太郎『ユダヤ人の歴史:古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』中公新書、2025年
野村真理

 本書の図0-1「ユダヤ人が拠点とした都市間ネットワークや移民の動き」を見ればわかるように、彼らの足跡は世界各地におよび、3000年にわたるユダヤ人の歴史を語ることは、ほとんど世界歴史を語るに等しい。私の場合、近現代ヨーロッパの歴史であればほぼ頭に入っているが、同じヨーロッパでもそれ以外の時代や、ヨーロッパ以外の地域の歴史となると断片的な知識しかなく、その知識も、大昔に高校世界史を学んで以後、どこまでリニューアルされているか怪しい。たとえば本書の第2章第2節「イスラーム世界での繁栄」を読むにあたって、ササン朝、ウマイヤ朝、アッバース朝とはどのような王朝であったかと、ヴィキペディアを読み始めたりしようものなら、新書一冊を読み終えるのにとんでもない日数を要する。この点、著者の鶴見氏は「まえがき」で、「本書は、世界史やユダヤ教に関する予備知識なしでも通読できるように書かれている」(iv)と謳っているが、実際、いちいち細かいことを気にしなければ、予備知識がなくてもそれほどストレスを感じることなく通読できるように配慮ある書き方がされており、この点、見事というしかない。

 またユダヤ人は、古代の一時期を除き、彼らが活動した大半の地域においてマイノリティであり、その地域の歴史の規定者ではなかった。著者は、歴史は諸状況の「組み合わせ」の変化であるととらえ、マイノリティであるユダヤ人の歴史の見どころは、彼らが与えられた組み合わせに対し、いかにみずからを「カスタマイズ」することに成功したか、あるいはカスタマイズに成功したがゆえに、その組み合わせが変わったとき、いかなる悲劇に見舞われたかを検証することだという。歴史社会学者ならではの(?)「組み合わせ」や「カスタマイズ」という語が目新しいが、それによってユダヤ人の歴史の新しい語り方が示されたわけではない。これまで職業歴史家が「諸関係」とか、「適応/変容」その他の語を用いて語ってきたことと内容的には同じである。しかし、それを「組み合わせ」や「カスタマイズ」ということで、著者は一般読者に対して読書のハードルを下げることに成功した。ほかにも意図的に口語的表現を織り交ぜ叙述を軽くするなど、高校生にも読める本にしようとする著者の工夫が感じられる。

 さて、世界歴史を語るに等しいといっても、古代から現代まで、それぞれの時代でユダヤ人が経済的にそれなりの影響力を持ち、また彼ら自身の文化が発展をとげた地域というのはあり、その地域の時系列的移動に対応して、本書は、第1章の主たる舞台は歴史的パレスチナ(現在パレスチナと呼ばれている地域と区別し、オスマン帝国時代に大シリアの一部と認識されていたパレスチナをさしてこの語を使用する)、第2章は西アジア、イベリア半島、ドイツ、第3章はオランダ、オスマン帝国、ポーランド、第4章はロシア/ソ連を含むヨーロッパ、第5章はパレスチナ、アメリカと、ユダヤ人の歴史を語る書物ではほぼ定番といえる構成をとっている。

 そのさい本書の特徴は、著者が専門とする近現代ロシア/ソ連にかかわる記述が手厚いことだ(第4章第2節と第3節、第5章第1節)。20世紀はじめのロシア帝国は、現在の国名でいえばリトアニア、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、モルドヴァその他をカバーし、1900年の時点で、世界のユダヤ人人口の約半数に相当する520万人がロシア帝国に暮らしていた(175頁および図4-1)。古代の歴史的パレスチナを発祥地とするユダヤ人は、ローマ帝国時代に帝国の支配がおよんだ現在のフランスやドイツへと居住地域を広げるが、十字軍時代に迫害の激化に押されて東進を開始し、ヨーロッパのユダヤ人人口の重心は、16世紀にはポーランド・リトアニア国の版図へと移動した(第3章第2節)。日本は『アンネの日記』が最もよく読まれている国の一つであり、ホロコーストに対する関心は低くはないと思われるが、推定600万人にのぼるホロコーストの犠牲者の多くが、アンネが生まれたドイツではなく、上記の520万人から出たことはどの程度知られているのだろうか(図4-4)。ロシア帝国末期のウクライナ南部や、現在のモルドヴァの首都キシナウ(キシニョフ)でのポグロム、ロシア1905年革命後のユダヤ人の政治参加や、1917年のロシア革命後、内戦期のウクライナで猖獗をきわめたポグロムと「想像の民族対立」(202頁)など、一般読者に対し、これら520万のユダヤ人の歴史への着目を促したことの意義は大きい。

 しかし、そうであればこそ、新書という紙幅の制限があるにしても、520万のユダヤ人のうちの300万人以上が暮らした両大戦間期ポーランドの記述には少々不満が残る。著者、鶴見氏が本書でも、他の諸論考でも繰り返される持論は、シオニストにおいて、1917年のロシア革命後の内戦期ポグロムとパレスチナのアラブ人によるユダヤ人襲撃との観念的同定が、彼らにアラブ人との共生の可能性に見切りをつけさせ、アラブ人に対する彼らの態度を敵対的な方向で過激化させたということである(250頁)。だが、それをいうのであれば、両大戦間期ポーランドの「想像」ではない少数民族としてのユダヤ人が体験した迫害とナクバ(イスラエル建国の年1948年に起こったパレスチナ人の虐殺、追放/逃走)とのねじれた関係にも踏み込んでほしかった。というより、踏み込まなければ、提供される歴史的知識は偏ったものとなる。

 第一次世界大戦後に独立を回復したポーランドは、本書にも書かれているとおり(216-217頁)、人口の3分の1をウクライナ人やユダヤ人その他が占める多民族国家であったが、「ポーランド人のポーランド」を希求してウクライナ人の民族的権利要求を弾圧し、経済活動や大学等におけるユダヤ人差別も苛烈だった。ポーランドにとってユダヤ人は、できればどこかに出て行ってほしい人々であり、ここに、ユダヤ人のパレスチナ移住を促進したいシオニストとユダヤ人を排除したいポーランド国家とのねじれた利害の一致が生じる。パレスチナでは、1920年、1921年、1929年、1936年から39年と、ユダヤ人やパレスチナを委任統治するイギリスに対してアラブ人の襲撃が規模を拡大しながら続いたが、ポーランドで活動する修正主義シオニスト(252頁)の青年組織ベタルのメンバーに対し、ユダヤ人国家の設立を阻害するアラブ人やイギリスと戦うための軍事訓練を提供したのはポーランド軍だった。ウクライナ人によるテロ行為の頻発など、両大戦間期ポーランドの少数民族問題の先鋭化を身に染みて知る修正主義シオニストは、将来のユダヤ人国家で発生が予測されるアラブ人問題をけっして過小評価してはいなかった。そのさい修正主義シオニストが模倣したのは、民族の浄化を志向するポーランドの排他的ナショナリズムであり、1948年のナクバにおいて、修正主義シオニストの軍事組織イルグン(252頁)やベダルのメンバーは、ユダヤ人国家となるべき土地にいるアラブ人に対して民族浄化を率先した。現在のイスラエルでネタニヤフが率いるリクードは、修正主義シオニズムの系譜に連なる政党である。

 大型書店に行くと、ウクライナ・コーナーとパレスチナ・コーナーがあり、パレスチナ・コーナーに本書が平積みしてあった。数多の学術賞の受賞に輝く鶴見氏の知名度の高さもあり、よく売れているようだ。ウクライナにしても、ユダヤ人にしても、その歴史に注目が集まるきっかけが戦争というのは複雑な気持ちだが、ユダヤ人については陰謀論めいた「トンデモ本」も少なくないなか、本書のような堅実な歴史書が一般読者の手に渡るのは、ユダヤ人の歴史研究に携わる者の一人として喜ばしい。鶴見氏の記述に注文をつけたが、本来、ポーランドのユダヤ人の問題は、ポーランド史の研究者によってきっちりと探求されるべき事柄である。しかし、日本にはポーランド史を専攻する研究者は少なく、ましてユダヤ人の歴史の専門研究者となると数えるほどしかいない。本書の若き読者のなかから、東欧・ロシアの520万ユダヤ人の歴史に興味を持つ人が現れるようにと願ってやまない。

(「世界史の眼」No.64)

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帝国対民主主義の今日―ガザの危機
パトリック・マニング(南塚信吾訳)

新しい帝国―合衆国とイスラエル

 第二次世界大戦後、帝国は徐々に消滅してきた。140カ国が植民地支配から独立を勝ち取った。しかし、帝国を築く2つの動きがあった。イスラエルは1948年の独立以来、パレスチナ人を追放し、抑圧し続けた。1980年までにイスラエルは帝国となり、中東を支配しようとしてきた。一方、アメリカ合衆国は、1981年のロナルド・レーガン政権以降、核兵器の増強、多くの国での戦争、イスラエルとの緊密な同盟関係によって、「西洋文明」の夢を掲げつつ、過去の帝国を再び確認してきた。イスラエルとアメリカ合衆国はともに、植民地支配の廃止を支持する強い民主主義の伝統を持っていたが、多数派になることはできなかった。

 イスラエルと米国の指導者たちは、特に2000年以降、中東における産軍支配を目的とした戦略で一致してきた。米国はさらに、世界的な支配も追求してきた。米国は国連への参加を徐々に縮小し、安全保障理事会での決議の拒否権行使を除いては、ほとんど参加しなくなった。一方、イスラエルは主に、パレスチナ人を抑圧しているとの非難を否定するため、国連に残って活動を続けてきた。

 ジョージ・W・ブッシュ大統領の時代、この二つの同盟帝国はそれぞれより強硬な措置を講じ、世界における優位性を主張した。米国はニューヨークとワシントンでの9・11テロ攻撃の後、イラクとアフガニスタンへの侵攻を行い、イスラエルはガザでの反乱に対する抑圧を強化した。

 米=イスラエル同盟は、政治的・社会的な不平等を強化し、税金を秘密裏の攻撃や終わりのないプロパガンダに流用している。米国は環境改革を無視し、一方イスラエルはパレスチナ人への対応において「環境アパルトヘイト」と非難されている。

 それでも、米国とイスラエルにおいて、民主的かつ反帝国主義的な勢力が権力を掌握する可能性はゼロではなかった。

グローバル・デモクラシーとその戦略

 グローバル・デモクラシーの運動は、脱植民地化と国民レベルでの平等を目的としている。つまり、各国家の自由と、国家内におけるすべての人の権利である。国連の南アフリカにおける多数派政府樹立に向けた長期的なキャンペーンは1992年までに成功したが、パレスチナ国民の国家の樹立に向けた長期的なキャンペーンは未だ成功していない。ただし、パレスチナは138カ国から承認されている。

 国連において、各国代表は、各国と世界の福祉に関する広範な合意と関心を築きあげ、それには環境改革への広範な要望をも含ませている。彼らは、米国と他の4カ国が拒否権によって安全保障理事会の行動を阻止する拒否権の廃止を求めている。グローバル・デモクラシーと提携して大国になろうとする野心的な国々がある。それは、中国、ロシア、トルコ、フランスであり、そして時折インドが含まれる。

 国連以外では、グローバル・デモクラシー運動は、天安門、南アフリカと西アフリカ、東欧などでのデモのように、世界的なデモを通じて平等を支援する取り組みを行ってきた。真実と和解委員会は、数多くの国で紛争の解決を目指してきた。グローバルな大衆カルチャー、特にスポーツは、伝統の広範な共有を促進した。世界的なデモは、2003年のイラク侵攻に反対し、2020年にはジョージ・フロイドの記憶を偲び、差別撤廃を訴えた。特に強力な反対運動はジェノサイドへの反対であり、ごく最近ではイスラエルに対するジェノサイド訴追がある。

産軍の戦略

 推計によると、米国は2023年10月以降、イスラエルへの軍事援助を年間$200億以上増加させた。この間、米国は世界中に基地と艦隊を維持している。これには、2007年に設立されたアフリカ司令部が含まれ、これはアフリカと西アジアで定期的な攻撃を実施し、アラブや他の敵対勢力の機関を弱体化させるための秘密プログラムを維持している。

 イスラエルは植民地時代からパレスチナ指導者を暗殺してきた——この政策は2000年に拡大した際に、正式に発表された。2002年以降、米国は、パキスタンや中東だけでなく、アフリカにおいても、同様の暗殺を小規模ながら実施してきた。これらの標的殺害のほかにも、イスラエルの占領下パレスチナへの入植は、西岸地区の併合の基盤を築いてきた。このやり口に関連するイスラエルの宣伝活動は、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)に対する攻撃をでっち上げたり、米国議会議員がイスラエルの政策を支持するように政治献金をしたり、イスラエルの帝国主義を批判する者を「反ユダヤ主義」とレッテル貼りして歴史を改竄するまで多岐にわたっている。

 さらに、1980年以降のイスラエルの核ミサイル生産によって、100基を大幅に上回るミサイルが備蓄されるに至っていて、それらは主にテヘランを標的としている。

歴史の教訓―帝国の征服対世界戦争

 ナポレオン・ボナパルトは、1790年代の革命期フランスで最も成功した将軍として権力を掌握し、それから、世界支配の夢を抱いて帝国を築いた。彼は10年間その地位を維持したが、1814年にはその戦略は失敗した。それは、ヨーロッパのなかのあまりに多くの他の指導者たちや一般市民が彼に反対したためである。その後は、各国の統治者は、一度に一地域ずつ征服することによって帝国を拡大しようと試み、しばしば成功を収めた。

 イギリスとフランスは巨大な帝国を築き、ドイツ、日本、アメリカは世界大国となった。しかし、2つの大きな場合に、戦争が制御不能になった。第一次世界大戦では、大国間の戦争が莫大なコストを要したため、ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ロシアの各帝国が崩壊し、その植民地15カ国が独立を勝ち取った。第二次世界大戦では、ドイツ、日本、イタリアが主導した限定戦争が世界規模に拡大した。戦後、勝利した帝国もほとんどの植民地を手放さざるを得なかったが、パレスチナは例外であった(イスラエルは1948年にイギリスから独立したが、イギリスとイスラエルはパレスチナの独立を認めなかった)。

 イスラエルの現在の戦争——パレスチナを破壊し、中東を支配するための戦争——は、制御不能になり、世界大戦に発展する可能性が高い。グローバルな民主主義は、そのようなエスカレーションを阻止するために介入できるだろうか?

現在の争い

 2025年1月、停戦合意により、ガザの住民数千人が破壊された自宅の残骸に戻ることができた。人質交換が行われ、国連難民救済事業機関(UNRWA)が食料と物資の配給を実施した。しかし、数ヶ月後、イスラエルは停戦合意の第二段階を実施せず、UNRWAを退去させ、ガザでの食料と物資の配給をすべて停止した。イスラエルは3月18日にガザ爆撃を再開し、その後の2ヶ月間で5,500人が死亡したと報告されている。

 パレスチナ人が飢餓に直面する中、イスラエルと米国は「ガザ人道支援組織」という民間企業を設立し、5月26日からハマース反対派と分類された人々に対し、少量の水と食料を配布した。6月1日、フリーダム・フロティラ連合(=国際的な人権活動家のNGO)は、イギリス旗を掲げた船舶「マドリーン」に食料と医療物資を積んで、シチリアからガザへ向けて出航させた。乗組員12名には活動家のグレタ・トゥンベリが含まれていた。6月9日、イスラエル軍艦が同船と乗組員を拘束した。同様に、6月15日から17日にかけて予定されていた「グローバル・マーチ・トゥ・ガザ」は、カイロを経由してガザを目指す予定だったが、エジプトの治安部隊がグループを停止させ、解散させてしまった。

 6月12日、国連総会(UNGA)は、ガザでの停戦に関する新たな決議を採択した。この決議は、193カ国中149カ国の支持を得た一方、反対は12カ国(=米国、イスラエルなど)に留まりまった(これは、ニューヨークでの計画されていたガザに関する会議直前のことであった。この会議では、フランスとサウジアラビアが、いくつかの国にパレスチナを外交的に承認するよう促そうとしていたのだった)。

 6月13日、イスラエルはイランの原子力施設とテヘランに対して大規模な攻撃を仕掛け、科学者や将軍を殺害した。6月13日は重要な日であった。攻撃は、その日イタリアで開幕したG7会議の議題を揺り動かした。また「マドリーン」と「グローバル・マーチ」(=児童労働に反対する運動)に対するメディアの注目も途絶えさせた。さらにこれは、国連総会決議に対するイスラエルの反応であり、6月17日から20日にニューヨークで開催予定だった会議(=ニューヨークの国連本部で2国家共存による中東和平を目指す国際会議が予定されていた)を「延期」させた。しかし、最も重要なことは、イランへの爆撃によって、4月から続いていた米国とイランの核平和に関する協議が中断されたことである。ドナルド・トランプは、イランへの爆撃について、米国による海外での戦争に反対するという彼の長年の立場に反するにもかかわらず、突然、イスラエルを支持するよう迫られたのだった。

明日―民主主義か世界戦争か

 米国とイスラエルは現在、深刻な孤立状態に陥っている。G7加盟国と欧州諸国は、国内の反対意見の高まりを受けて、イスラエルの戦争から手を引きつつある。BRICS諸国(インドを除く)はイスラエルの攻撃に反対している。ラテンアメリカ、アフリカ、アジアの諸国における市民運動は、自国政府に対し、イスラエルにより強硬な姿勢を取るよう圧力をかけている。米国市民の世論はガザとイランへの攻撃に反対しているが、米国政府によるイスラエルへの支援はさらに強化されている。そして、6月22日、米国はイスラエルのイランに対する空爆作戦に参加した。トランプ大統領は、おそらくネタニヤフ首相からの迅速な行動を求める圧力に直面していたため、ナタンズ、フォルドゥ、イスファハンにあるイランの核施設に対する空爆を命じた。

 イラン攻撃において、トランプはガザのことを忘れてしまった。ジェノサイドによる民族抑圧と大国間対立との複雑な結びつきは、突然の変化の余地を多く残している*。実際、米国とイスラエルに対する真の反対は、イランの防衛からではなく、ジェノサイドへの反対とパレスチナの独立支持から来るのである。このような反対は、世界中で明確に表れている。それは公けのデモを通じてだけでなく、国連、G7、国際司法裁判所のような公式機関を通じても出てくるのである。

 私は、米国とイスラエルが最終的にはパレスチナの国家独立とイランとの平和を受け入れるだろうと信じている。その方法は、民主的な変化を通じてなのか、世界大戦を通じてなのかは分からない。いずれにせよ、ガザでの殺戮の全記録は、次第に国際社会から孤立する両「帝国」を、国際社会へ再加盟させることになるであろう。だが、これには、国際司法裁判所によるジェノサイドに関する判断を受け入れるだけでなく、グローバル・デモクラシーのより広範な原則を完全に受け入れ、大事にすることが必要となるであろう。

出典:
Patrick Manning, Empire vs. Democracy Today: The Crisis of Gaza
(Contending Voice 2025年6月24日)
https://patrickmanningworldhistorian.com/blog/empire-vs-democracy-today-the-crisis-of-gaza/

マニング氏から翻訳・掲載の許可を得てある。ただし、その後、本人からの連絡により、一部を修正してある。

*このところが不分明であったので、著者に意味を問い合わせたところ、ここでは、いくつかのことを指摘しようとしていると言う。その一つは、トランプはイラン爆撃に熱中してガザの事を本当に忘れてしまったのだという事。第二に、トランプは2セットの矛盾した目標を持っているという事。つまり、イスラエルの求めるようにガザその他のパレスチナ人を絶滅させることと、パレスチナの和平を実現すること、および、同じくイスラエルの求めるようにイランを破壊することと、イランの和平を実現することである。第三に、国連やその他の国が介入して来るかもしれないという事。とくに、ロシアと中国とパキスタンが(方法は不明だが)核兵器をイランに提供するかもしれない。こういうことがあるので、状況は不安定で突然変化が起こるかもしれないと言うのである。

(「世界史の眼」No.64)

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「世界史の眼」No.63(2025年6月)

今号では、2024年12月に逝去された伊集院立さんを偲ぶ特集を掲載します。松本通孝さんと南塚信吾さんに、伊集院さんを追悼する論考をお寄せ頂きました。また、本年刊行された、油井大三郎さんの著書『日系アメリカ人 強制収容からの<帰還> 人種と世代を超えた戦後補償(リドレス)運動』(岩波書店、2025年)を、上杉忍さんに書評して頂きました。

<伊集院立さんを偲ぶ>
松本通孝
伊集院立さんの想い出
南塚信吾
伊集院立さんの仕事を振り返る

上杉忍
書評 油井大三郎著『日系アメリカ人 強制収容からの<帰還> 人種と世代を超えた戦後補償(リドレス)運動』(岩波書店、2025年)

油井大三郎『日系アメリカ人 強制収容からの<帰還> 人種と世代を超えた戦後補償(リドレス)運動』(岩波書店、2025年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

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伊集院立さんの想い出
松本通孝

 2024年の年も押し迫った12月末、突然伊集院さんが亡くなられたというメールを受け取りました。奥様が亡くなられてから数年間、音信不通になっていましたが、やっと開通できたと思ったメールが、彼の他界のお報せでした。

 彼と私は、年は同じで、彼は一浪、私は一年留年しておりましたので、史学科西洋史で卒業年度は一緒でした。しかし学生時代の想い出は殆どありません。一つだけ、うろ覚えですが、そのころ存在していた東大歴研が明治100年をどうとらえるかというシンポジウムを企画した時、彼と二人でシンポジウムでの講演をお頼みするため、犬丸義一さんの家に依頼に行ったことがかすかに記憶に残っています。ただ、講演・シンポに関しては、まったく記憶がありませんので、彼がどのような役割をしていたかは不明です。

 その後、私は、高校の教師として歴史教育の方面に進路を決めましたので、以後のお付き合いは年賀状以外全くなくなりました。

 1970年代の半ば、私が高校の世界史教師として夢中になっていたころ、突然彼から電話がありまして、中村義さんらと中高生向けの人名事典を企画しているのだけど、教育現場の立場で協力してもらえないかとの誘いでした。歴史関係だけでなく、文学、科学、芸術、芸能、スポーツなどに及ぶ総合的な事典の企画でしたが、私は、自分の授業に絶対にプラスになると思い、二つ返事でお引き受けしました。2~3年かかったと思いますが、本当に楽しい編集委員会で、伊集院さんには本当に感謝しております。出来上がった本は、中村義ほか編『コンサイス学習人名事典』三省堂、1978年でした。中高生向けの事典でしたので、短い説明文の中にできるだけエピソードを盛り込むようにという方針で、これは、私が普段の授業で生徒たちに話す余談の貴重なネタになりました。伊集院さんには本当に感謝しております。

 それからしばらくして、1982年ころ、西川正雄さん、吉田悟郎さんらが中心となって比較史・比較歴史教育研究会が発足した時、私は事務局の仕事を手伝うという立場で参加しておりましたが、伊集院さんはその会のメンバーの一人で数回の東アジアシンポの報告者としても活躍されていたと思います。私は裏方でしたので、彼の報告は聞いておりません。シンポジウムの報告集を出すときにも、彼は中心メンバーの一人として活躍されていたと思います。

 時代的には併行しますが、1989年、99年に高等学校の学習指導要領が改訂され、社会科解体、世界史はAとBの教科書が作られるようになりました。この時は、三省堂から西川さんに依頼があり、高校現場から私を含め3名が編集執筆委員として参加することになりました。この教科書は、戦後史を3章立てにし(普通は2章)、しかも今までの西洋中心、中国中心の傾向を打ち破るため、大国の周辺からの叙述を狙った画期的な教科書でしたが、現場の高校の先生方には受け入れられず、結果的には失敗に終わってしまいました。この教科書で近代ヨーロッパを担当されたのが伊集院さんで、西川さんからの難しい要望に頭を悩ましていた姿を思い出します。

 その後も、西川グループの企画は続き、2006年には歴史学研究会編『世界史史料』全12巻(岩波書店)の刊行を開始し始めました。この企画は10年以上に及ぶ企画で、その途中で西川さんが病に倒れ、この仕事を引き継いだのが伊集院さんでした。この仕事は、直接的には各巻の責任者が執筆者への依頼、原稿集め等を分担するのですが、その総責任者が突然伊集院さんになったのです。彼の悩みはいかばかりであったことか、とにかく2012年7月、最後に残っていた第1巻の刊行が終わり、準備期間を含めると10年近くに及ぶ企画は無事終了しました。西川さん時代からの淡い希望であった、もし売れ行きが良かったら、高校生向けに本格的な史料集を出したいなーという夢は、いまだもって実現されていません。伊集院さんは、その後も高校の歴史教育関係の研究会に顔を出し、いずれ実現したいと思われていたと推察しますが、彼の遺志を継ぐ動きは、今のところ出てきていません。

 そのような中で、彼が晩年に取り組んでいたのは、明治以来の歴史教科書の系譜をたどる作業であったように思われます。万国史以来の日本における外国史の受け入れ、日本独自の歴史教育への道の探究に関心を持たれていたようです。それゆえ、歴教協の東京部会の例会にもたびたび顔を出されるようになり、帰る間際になって、ニコッと微笑みながら、難解な問題提起をされ、参加者の皆さんをけむに巻いて、私と一緒に新大塚の駅まで冗談を言いながら一緒に歩いたのが、最後になってしまったなーと、今さらながら残念に思い、彼の生前を偲ぶ次第です。

2025年4月

(「世界史の眼」No.63)

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伊集院さんの仕事を振り返る
南塚信吾

 伊集院立さんが、2024年12月に亡くなった。81歳であった。伊集院さんを偲んで、かれの仕事を簡単に一覧し、そのあと、わたしが一番興味を持っている「万国史」に関係したかれの論文の紹介をしてみたい。

1.伊集院さんの研究の歩み

 伊集院さんは、私と高等学校が同じ(かれが1年下)で、最後はともに法政大学にいたことから、なんとなく親しい間柄であった。かれは学生時代からファシズム、ナチズム、そしてとくにナチスの農民・農業政策に関心を持ち、地道な研究を続けてきた。かれの史料を重視した研究は他人を寄せ付けないものがあった。かれは、ナチスが権力を握った一つの重要な要素は、ワイマル期のドイツにおけるエリートに反発した大衆を巧みに捉まえたところにあるとみて、農民・農業政策の研究でもそれを根底においていたように思う。それと並行して、かれは西川正雄さんを助けるように、比較史・比較教育史の研究に伴走し、また、西川さんを助けて、世界史の史料集の編纂にエネルギーを注いできた(歴史学研究会編『世界史史料』岩波書店, 2006―2013年)。そのような伊集院さんは、2005年に発足した私たちの「戦後派第一世代の歴史研究者は21世紀に何をなすべきか」研究会では、新しい挑戦をしていた。それはドイツ国民国家を考え直す仕事であり、市民社会におけるエスニシティの問題の追及であった。後者はやや未消化であったが、いまから考えるとかれの最後の挑戦であったわけである。

 伊集院さんはまだやり残した仕事もあったのではないかと思われるが、われわれに課題を残していったのかもしれない。

 ご冥福を祈る次第である。

***

 伊集院さんの主な仕事の一覧は以下のとおりである。

1)ファシズムとナチスの農業政策

「ワイマル共和制からファシズムへの移行」『世界史における1930年代―現代史シンポジウム―』青木書店 1971年
「相対的安定期末のドイツ共産党党内論争」『階級闘争の歴史と理論』第3巻 青木書店 1980年
「ファシズムの台頭」『西洋の歴史―近現代編―』ミネルヴァ書房 1987年
「ナチスと農村同盟の地域支配1930-1932」 茨城大学教養部 『紀要』 (20) 1988年  
「ヴァルター・ダレーとヴィルヘルム・ケプラー 1932年ナチ党内における農業派と工業派の角逐」『史学雑誌』 第98篇(3号) 1989年  
「ナチスの農村労働者政策(1930~32年)」 『大原社会問題研究所雑誌』378号 1990年  
「ナチズム 民族・運動・体制・国際秩序」『講座世界史6 必死の代案』 東京大学出版会 1995年
「ドイツ農村の変容とナチス ―ポメルンにおけるナチスの農村労働者政策―」 『社会労働研究』(法政大学社会学部) 第44巻(第3、4号) 1998年  
「ライン農民協会とラインラント農業界の保守的統合―1919~1920年―」『社会志林』 51(3) 2004年  
「ラインラントの農民協会とドイツ革命」『社会志林』 50(4) 2004年  

2)比較史・比較教育

「世界史のなかのヨーロッパ史」 『自国史と世界史』未来社 1985年
「自国へのリアリズムと他国へのリアリズム」 『アジアの「近代」と歴史教育』未来社 1991年
Nationalgeschichte und Universalgeschichte: Zweites Symposium zur ostasiatischen Geschichtserziehung,Internationale Schulbuchforschung: Zeitschrift des Georg-Eckert-Insitituts für Internationale Schulbuchforschung,  12(2) 1990年  
「文禄の役における「自国史と世界史」〜東アジア歴史教育シンポジウムから〜」 第3回韓・日歴史家會議「ナショナリズム:過去と現在」2003.10. 2003年 
「近代日本の世界史教科書における東洋史と世界史の叙述:歴史教育と歴史研究」 『社会志林』 56(1) 2009年  
History Education and Reconciliation : Comparative Perspectives on East Asia, Peter Lang 2012年 

3)新領域を求めて

『国民国家と市民社会』 有志舎 2012年
  「ドイツ国民国家形成とドイツ語の歴史」
  「市民社会とエスニシティの権利」
『われわれの歴史と歴史学』 有志舎 2012年 
  「「市民革命」と東アジア世界」
  「私の歴史彷徨記」

2.近代日本の世界史・東洋史教科書

 伊集院さんの歴史学界への貢献は、もちろんナチスの農業政策のついての一連の仕事にあるのではあるが、狭い専門分野以外での貢献の一つとして、かれの比較歴史教育の分野での仕事を上げることができる。そのような仕事の一つとして、かれの「近代日本の世界史教科書における東洋史と世界史の叙述:歴史教育と歴史研究」(『社会志林』 56(1) 2009年) をとりあげて、明治時代の世界史教育の取り組みの分析における、その意味を考えてみたい。

 この論文の構成は以下のようである。

 Ⅰ 幕末日本の世界史認識・東アジア認識の転換
 Ⅱ 明治日本に於ける世界史教育と東アジア世界という歴史意識
 Ⅲ 歴史教育におけるアジア主義の中国認識と朝鮮認識
 Ⅳ 明治初期の東洋史教育と自前の教科書の作成
 Ⅴ 日清戦争以降の東洋史の教科書
 Ⅵ 戦後の世界史教科書における東アジア世界の問題
 Ⅶ 「東アジア世界」という考え方の意味について

この論文は明治以来東洋史教育が世界史教育の中でどのように芽生え、発展し、どのような問題を抱えたのか、そしてその克服のためのどういう努力がなされてきたのかを探る、意欲的な議論を展開している。東洋史教育と世界史教育との斬り結びがテーマである。その議論は戦後現代にまで及んでいるのだが、中心は明治期にあるので、本稿では明治期を中心に取り上げることにする。

 さて、伊集院さんは、日本における世界史教育は1948年から始まったのではなく、明治期から行われていたと言い、「万国史」の教科書を取り上げている。これはその通りである。ただ、このテーマについては、当時すでに岡崎勝世『聖書vs世界史』(講談社現代新書、1996年)と、松本通孝「明治期における国民の対外観の育成――「万国史」教科書の分析を通して」(増谷英樹・伊藤定良編『越境する文化と国民統合』東京大学出版会、1998年)が出ていたわけであるが、どうしたことか伊集院さんはこれらを見ていないようである。

 伊集院さんは、明治初期の万国史を中心とする世界史教育について、①欧米の成果を取り入れる形で、「万国史」として進められたこと、②この万国史は西洋の歴史であり、東洋史は含まれていなかったことを指摘している。その例として、ギゾー『欧羅巴文明史』やスウィントン『万国史要』が教科書として取り上げられていたことを挙げている。

 大きく言えばこれで間違いはない。しかし、岡崎さんや松本さんも指摘しているように、日露戦争までの明治期に限定しても、世界諸地域の歴史を並べるパーレイ風の万国史から文明の発展に貢献のあったヨーロッパを中心に見るスウィントン流の万国史へと変遷があり、前者においては、世界のあらゆる地域にそれなりの歴史が認められ、アジアの扱いもそれなりに意味のあるものであった。これが1880年代にスウィントン流の文明史的なものになり、アジアが後退していくのである。歴史の動きを主導するのは西洋で、それに関係のないアジアの国々は登場しなくなるのである。天野為之に言わせれば、「世界全体の発達に較著なる関係を及ぼさざるかぎりは」外されるのである。細かく見ると、伊集院さんの言うように「東洋史は含まれていなかった」というわけではない。世界全体の動きをリードする西洋の動きに関係のある限りで、アジアはピックアップされて世界史に組みこまれたのである。アジアに主体性がないという意味では、「含まれていなかった」のである。

 伊集院さんは、日清戦争前後にアジア主義が台頭して、世界史教育は変化したとして、万国史を離れて、東洋史という分野が自立してきたことをフォローしている。たしかにそうである。だが、これまた松本さんも指摘しているように、日清戦争前後のアジア主義の台頭を受けて、万国史においてもアジア・東方を重視した万国史を書くべきであるという強い動きが出ていた。万国史を東洋の拡大と西洋の拡大の二つの動きの総合と見るものであった。ここでは、西洋史の優位という姿勢はなくなっていた。だが、東洋の中で主導的な役割を演ずるのが日本であるという姿勢(それは日清戦争後には強化されたが)が込められていて、松本さんは、これを「日本盟主型」の万国史と位置付けている。この時期の万国史が、アジア主義的な要素を持っていたことを、もう少し見てもいいかもしれないが、ともかく、こういう西洋と東洋のせめぎあいのなかで世界史を考えるという万国史の方向を、伊集院さんがもっと注意しておいてもよかったのではなかろうか。

 伊集院さんは、日清戦争後の時期の教科書については、万国史を離れて東洋史の教科書を検討していた。そして、そこでアジア史と西洋諸国との関係を問題にしていた。いわく、日清戦争後の東洋史の教科書は、東洋史を中国史に集中させるのではなく、中国の周辺地域にも視野を広げ、東アジアだけでなく、南アジア、西アジアなどアジア全域に広がり、さらには、西洋諸国との関係においてアジア史を考えることの重要性を強調していたという。これは重要な指摘である。だが、実は、このような視角はこの時期の万国史の一つの特徴でもあったのである。

 日露戦争後には、歴史は、日本史・東洋史・西洋史に分けられて教育されていくことになる。このような東洋史と西洋史の関係、あるいは世界史の中での東洋史の位置づけという問題は、万国史に代わって「世界史」という方向で追究された。それが坂本健一や高桑駒吉らの仕事であった。ともに東京大学の東洋史の卒業であった。しかし、東洋史の教科書の分析という方向に進んでいた伊集院さんはこれに注意することはなかった。かれは東洋史の内部から世界史につながる契機がないか、その契機はどのようなものでありうるのかを探し続けたのである。戦前にはそれは見いだせなかった。そしてそれは戦後になって「東アジア世界」論として見出されることになるのだった。

 このように、世界に開かれた東洋史を求める伊集院さんの仕事は重要な問題提起であったわけであるが、万国史の流れから離れないでこれを追求した場合に、どういう成果が出ていたのか、大いに興味を掻き立てられる次第である。

(「世界史の眼」No.63)

 

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書評 油井大三郎著『日系アメリカ人 強制収容からの<帰還> 人種と世代を超えた戦後補償(リドレス)運動』(岩波書店、2025年)
上杉忍

 まず本著のタイトルに注目したい。

 「強制収容からの<帰還>」は、収容所からもとの家に「帰還」することを意味しているだけでなく、「自己の尊厳回復」の意味を持たせたくて<帰還>と表現したと著者は述べている。強制収容によって市民権をはく奪された彼らは、アメリカ白人社会への同化政策を押し付けられ、戦後「モデル・マイノリティ」と呼ばれるまでに「成功」したが、戦中・戦後のアメリカ社会の変容の過程を経て、自らのエスニック・アイデンティティに目覚め、黒人やメキシコ系さらに中国系、先住民、第3世界の人々との連帯を通じて米国における人権侵害に立ち向かう「自己の尊厳回復」を実現したのである。

 そして、「人種と世代を超えた」との表題は、人口の1パーセント以下しか占めていなかった日系人が、世界史的な意義を持つ「謝罪と補償」の要求運動に成功したのは、彼らが、世代や立場の違いに基づく日系人の内部対立を克服し、有色人マイノリティ、革新的白人だけでなく、保守的団体までをも含む広範な支持層との連帯を追求しつつ進められたからであることを強調する意図を示している。 

 著者が指摘するこの日系人の戦後補償(リドレス)運動成功の世界史的意義とは、不当な差別や抑圧を受け、その不当性を政府に認めさせ、謝罪と補償を実現した例は極めてまれであり、その後の世界に画期的な先例を示したことにあった。そして著者は「戦勝国である米国でさえ戦時中に行った不正に対して謝罪と補償を行ったのだから、敗戦国である日本は一層、外国人の戦争被害者に対する謝罪と補償に向き合うべきだ」と述べている。

 日系人の一括強制収容が強行された当初、日系人コミュニティーは、その指導的存在だった一世の多くが「敵性外国人」として拘束され、混乱に陥っており、排外的愛国主義の嵐の中で孤立無援の状態だった。本著は、その彼らが、このような世界史的意義を持つ政府による謝罪と補償の要求を実現させ「アメリカ市民」としての人権を回復しただけでなく、例えば、911事件直後のアラブ系やイスラム系の人々に対する排斥に対して毅然として抗議したことに示されているように、外国人の人権に対しても政府が責任を負うべきだとの主張の前面に立つ「トランスボーダーな人権感覚」を身に着けるまでに成長していく過程を追っている。

 従来日系人の強制収容とその終結過程の研究は相当程度丁寧に行われてきたにもかかわらず、リドレス運動とその成功の過程の研究は必ずしも十分でなかったとの問題意識から、著者は30年もの長きにわたってリドレス運動の研究に取り組んできた。しかし、本書ではこの運動だけを切り離して取り上げるのではなく、強制収容以後の日系人の歴史全体の中に位置づけることによって、その積極的な歴史的意義をよりドラマティックに描き出すことに成功している。

 リドレス運動の開始は「難産」だった。著者は、「リドレス運動への壁」として、日系市民協会が「収容」に協力したこと、「収容」を執行した戦時転住局が最後までその「強制性」を否定したこと、そして、日系人内部に深刻な分裂があったことなどの「壁」を例示している。特に、強制収用を「恥」と認識し、収容体験を語ることを封印して来た日系人のトラウマからの解放に長い時間がかかったことも「難産」の大きな要因だった。政府が求める同化路線に従い、モデル・マイノリティとして「成功」した日系人が、戦後冷戦下で赤狩り旋風が吹き荒れ反体制運動全体が圧殺される状況のもとで、アメリカ政府の「強制収容」という戦時政策の違憲性を告発し、謝罪と補償を求めることは極めて困難だった。

 しかし、なぜリドレス運動が開始され、成功までの道を歩むことができたのか。著者は、その成功の要因を次の4点にまとめている。第1にこの「収容」が当局の言うように暴民からの日系人の「一時避難」などではなく、憲法に違反する人権を侵害する「強制収容」であることを明確にしたこと、第2に西海岸で進められた戦後の日系人土地所有禁止住民投票を不成立に追い込んだことに象徴されるアメリカ世論の変化があったこと、第3に白人の強制収容反対派の支援があったこと、そして第4に、日系人三世が日系人コミュニティーの運動の主体として成長してきたことである。 

 本著は3部構成からなっている。第1部では、強制収容決定・実施のあと間もなく始まった中西部・東部への再定住の過程での、「分散的再定住」政策などによる日系人のアメリカ社会への「同化の試み」が検討されている。

 第2部では、日本の敗戦や日系人部隊の活躍による日系人に対する世論の好転を受けて、西海岸での日系人排斥行動が鎮静化したこと、戦中・戦後の西海岸における軍需産業の急成長に伴う社会変動、人種関係の重層化、人種間緊張とその緩和と並行して日系人の西海岸への再定住が本格化したことが論ぜられている。

 第3部では、強制収容から解放された日系人が、西海岸での就業構造の変化などの新しい環境の下で、女性を含めより有利な雇用の機会を得て「成功」し、「モデル・マイノリティ」と呼ばれるまでに地位を向上させたが、それは、強制収容体験を忘却させる効果もあったことが指摘されている。それにもかかわらず、日系人は強制収容の立ち退きの際に強制された不当な財産処分に対する補償要求や、一世の帰化権の実現などの運動に取り組み、ある程度成功したこと、そしてその過程で、強制収容体験の「封印」という制約の下でも、収容所への巡礼運動などを経て強制収容体験が語られ始め、日系人が独自の文化を放棄せず、アイデンティティを変容させたことが述べられている。そして、ベビーブーム世代の三世が、1960年代に多数大学に進学し、当時の黒人運動やベトナム反戦運動を自らの問題として受け止め、それに励まされて多くの日系人が従来の「同化路線」を克服し、アジア系アメリカ人としての自覚を強め、リドレス運動を開始し、ついに成功に導いた過程が描かれている。

 アメリカでは、第1次世界大戦参戦の過程で、非英語圏からのヨーロッパ系移民の「アメリカ化」を推進するため「ホワイト・エスニック」の存在を受容する文化多元主義が主張され、また1930年代に台頭したナチスに対抗するために、黒人やアジア系、ヒスパニック系、先住民をも含む有色人マイノリティのアメリカ社会への統合が語られ始め、人類学者の間では、それまでの同化主義に異を唱えるフランツ・ボアズの「文化相対主義」が広く受け入れられるようになっていた。そして、第二次世界大戦後、黒人公民権運動の洗礼を受け、有色人マイノリティをアメリカ社会の一員とみなす「多文化主義」が建前としては積極的に受け入れられるようになった。本著は、まさにそのような変化の中で日系人のリドレス運動が展開されたことに注目している。

 本著は、そのほか重要な問題を数多く取り上げており、学ぶ点が多いが、評者にとって特に印象深かったことを一つ上げるとすれば、リドレス運動の先駆けとなったのが、1930年代以来の反ファシズム運動の担い手だった「オールド・レフト」と呼ばれる人々だったことである。冷戦下の赤狩り旋風によって一時は窒息させられていた「オールド・レフト」が再び立ち上がり、1960年代の公民権運動・ベトナム反戦運動の中で成長してきた「ニュー・レフト」と呼ばれている人々との融合によってこのリドレス運動が担われたのである。

 近年では、黒人公民権運動を、1930年代からの「長い公民権運動」の歴史の中に位置づけてとらえなおす研究が有力になっているが、それと共通する現象がここでもみられることが印象深かった。冷戦赤狩りによる分断を乗り越えて、黒人解放運動は、今日、BLM運動という新たな段階を迎えている。

 次に、本著の論の進め方について一言ふれて結びにしたい。筆者はプロローグで、明確に論点を整理し、それに基づいて妥協なく徹底した研究史の渉猟・整理を行ったうえで、一部の隙も見せることなく、理路整然と論述を積み重ねている。それは、社会科学的歴史論述のモデルといえよう。本著が、とても分かりやすく、安心して読み進めることができるのはそのためである。同時に、著者は、文学作品や写真集・画集などを丁寧に紹介し、強制収容された日系人に寄り添い、そこから生み出される変革の芽を丁寧に取り上げ本論に編み込んでいる。本著からわれわれは、日系人の苦悩と喜び、誇りを読み取ることができる。

 そして最後に一言。本著を熟読することなくして、今後の日系人の歴史研究やその他の「補償運動」研究を前に進めることはできない。

(「世界史の眼」No.63)

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「世界史の眼」No.62(2025年5月)

今号では、前号に続き南塚信吾さんに、「北前船・長者丸の漂流 その2」をご寄稿頂きました。また、油井大三郎さんに、本年刊行された、藤本博・河内信幸編『ベトナム反戦運動のフィクサー 陸井三郎―ベトナム戦争犯罪調査と国際派知識人の軌跡』(彩流社、2025年)を書評して頂いています。

南塚信吾
北前船・長者丸の漂流 その2

油井大三郎
書評:藤本博・河内信幸編『ベトナム反戦運動のフィクサー 陸井三郎―ベトナム戦争犯罪調査と国際派知識人の軌跡』彩流社、2025年

藤本博・河内信幸編『ベトナム反戦運動のフィクサー 陸井三郎―ベトナム戦争犯罪調査と国際派知識人の軌跡』の出版社による紹介ページは、こちらです。

世界史研究所では、ガザ戦争の開始以来、パレスチナとガザの問題に関して多くの論考を掲載して参りました。必ずしも十分に報道されているとは言えないガザの現状に関して伝える、「アハリー・アラブ病院を支援する会ニュース・レター」の最新号を転載します。こちらよりご覧下さい。

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北前船・長者丸の漂流 その2
南塚信吾

1.捕鯨船にて   

 長者丸は1839年(天保10年)6月6日(旧暦4月24日)、マサチューセッツ州のナンタケットNantucket島から来た捕鯨船ジェームス・ローパー号(ゼンロッパ)に救助された。船長はオベット・キャスカート(ケツカルないしケスカ)、乗員は30人ほどであった。船巾22間、長さ70間の船であった。救助された地点は、東経169度、北緯33度、ミッドウエー諸島の近く、太平洋の真ん中であった(池田編 1968 22-24頁;室賀他編 1965 62-63頁;Plummer 1991b p.13,144)。すでに五三郎、善右衛門、金八が亡くなって、残りは船頭の平四郎以下七名であった。

ゼンロッパ号  『日本庶民生活史料集成』 22頁

 ゼンロッパ号では、一同は親切なもてなしを受け、体力も回復してきた。おかゆ状のものから順に普通の食事に移行し、食事には肉が提供されるようになった。また行水もする事ができた。そして、一か月が過ぎた5月中旬、7人は3艘の捕鯨船に分かれて乗ることになった。すなわち、六兵衛は船長「ジャイキ」の船へ、太三郎は「ボーシタ」の船へ、八左衛門と七左衛門は名前は不明だが別の船へ分乗し、平四郎、次郎吉、金蔵の三人はゼンロッパ号に残ることになった。これはゼンロッパ号以外の捕鯨船から申し出があったためであった。 

 この後、平四郎、次郎吉、金蔵の3人を乗せたゼンロッパ号は、捕鯨を続け、やがてハワイに着くまでの五か月の間に、クジラを八頭もしとめた。平四郎らはその際多少の手伝いをしたが、多くは手持無沙汰で、服を縫ったりして過ごした。10月中旬(陰暦9月上旬)、ゼンロッパ号は、「エギリス」領「サノイツ」(サンドウィッチ島つまりハワイ島のこと;『漂流人次郎吉物語全』では「サントイチ」;なおイギリス領というのは誤り)の「ウワヘ」(ハワイ島:当時は英語でOwyheeと呼ばれていた)の「ヘド」(ヒロ)に着船した。

 ここには現地人(土人)の外、広東人(華僑)もおり、アメリカの寺(教会)もあった。3人は、広東人の家に止宿した。3人は、これより日本国へ2、3千里もあると聞いている(『漂流人次郎吉物語全』18頁)。 

 六兵衛の乗ったジャイキの船は、乗員が34-35人で、クジラをこれまでに2頭、この後に4頭しとめた。そして、同じころ「サノイツ」の「ワホ」(オアフ島)に着いた。六兵衛が上陸して、広東人のパピユ(バビユ、パペーヨとも)という人物のところへ行くと、八左衛門、七左衛門の二人が先に来ていた。もう一つ太三郎の船も31,32人乗りで、クジラを6頭取った。この船は10日遅れて到着した。太三郎も六兵衛、八左衛門、七左衛門と同じところで過ごすことになった。そして、平四郎らも10月下旬(9月下旬)にはこの「ワホ」の4人のところへ合流することになる。

 ともかく、ここに7人はまた陸上に戻ったのであった。1838年4月に東岩瀬を出帆、11月に唐丹湊を出て沖に流され、5ケ月間海上に漂い、1839年4月(西洋歴6月6日)に捕鯨船に助けられて、その船中に5ケ月を過ごし、今や18ケ月ぶりに陸地に上がったのであった(池田編 1968 26-27頁;室賀他編 1965 70-72頁)。

2.ハワイでの長者丸の乗組員たち 

 ハワイに1839年10月中旬(旧暦9月上旬)に上陸したあと7人が10月下旬(9月下旬)に合流するまでの動きは、平四郎、次郎吉、金蔵の三人についてのみ、知られている(なお、ハワイなどの地名は『蕃談』や『時規物語』などで違って表記されているが、本稿では、原則として、初出を除いて、現在の地名を使うことにする)。

 ヒロ(ヘド)では広東人の家に止宿した。しかし、家人との折り合いが悪かった3人は、10月18日(旧暦9月12日)(『時規物語』は着後3、4日という。池田編 1968 41頁)ごろ、「ケツカル」船長に連れられて、ムマヲイ(マウイ)島のラハイナへ行った。ラハイナは、この時期、ハワイ王国の首府であった。ここには、広東人、イギリス人、アメリカ人、フランス人、「バンガラ人」(ベンガル人=インド人か)、イスパニア人がいた。

 3人は、「ケツカル」船長の友人であるアメリカ人「ミヒナレ」(ミッショナリー)のドワイト・ボールドウイン牧師の家に泊まった(『蕃談』では、牧師パラオイナンとある)。「ケツカル」船長は、牧師に3人を日本に送るよう頼んで、鯨漁に出かけた。エール大学とオーバーン神学校を卒業し、1835年からラハイナに来ていたボールドウイン牧師(1870年までラハイナに滞在する)は、日本人に興味を持って、日本の事を知りたがり、中国語と日本語の文字や、数字、お酒、食事、宗教などについて学んだりする人物であった。かれは三人を教会のミサに連れて行ったりした。この時、一行は初めてアメリカの婦人と子供を見たのだが、次郎吉は婦人は美しくしとやかで、その衣裳もきらびやかだったという。ここにいる間に、太三郎らがオアフ島(ワホ)に着いたことを知ったので、3人は「ミヒナレ」にオアフ島へ行けるようにしてほしいと頼んだ(Plummer 1991b p.142,145,150-151;Plummer 1991app.126-128;プラマー 1989 161頁)。

 ラハイナに数週間いたあと(『時規物語』では、14,5日いた後という。池田編 1968 41頁)、11月1日(旧暦9月26日)、3人はオアフ島のホノルルへ行った。ここで太三郎、八左衛門、六兵衛、七左衛門の4人と合流した。7人は久しぶりに一緒になった。太三郎ら4人は富裕な広東人商人パピユのところに宿を取っていたが、平四郎ら3人は、ラハイナのボールドウイン牧師の紹介した「ベイネム」(ハイラム・ビンガム)というハワイ宣教師団の中心人物である牧師を訪ね、かれの家の向かいにいる医者のG.P.ジャド博士宅に止宿した。ここで、数人のアメリカ人牧師と知り合った。

 ハイラム・ビンガム(1789-1869)は、1820年にアメリカからの第一次宣教師団の一員としてハワイに来ていて、団の中心人物で、聖書などを現地語に翻訳したりして、「宣教師運動の父」と呼ばれていた。G.F.ジャド(1803年生まれ)は、1828年に長老派教会の医療使節としてハワイに来ていて、医療支援に当たっていた(Plummer, 1991b pp.152-154)。

ワホ(ホノルル) 『日本庶民生活史料集成』 254頁

 ホノルルにいる間に、一行が、アメリカの軍艦に載せてもらって、ロシア、オランダを経由して長崎へ送り届けてもらうという話があり、そうなればフランスやイスパニアや「天竺」を始め広東にも行けると思ったこともあった(池田編 1968 43頁)

 だが、11月5日(旧暦9月30日―『蕃談』では旧暦10月23,24日ごろという)、一行の中心で、アメリカ人からも最も男らしくて誠実な人物と評価されていた平四郎が病死した。読み書きのできたかれは仲間から「ご老体」と呼ばれて敬意を持って親しまれていた。11月5日付の『ポリネシア誌』に出たレヴィ・チェンバレンの記事では、かれがこの日に発見された時、平四郎はすでに死後数日が過ぎていたという。そして死因は胃か腸の炎症ではないかという。このチェンバレンは、1822年に第二次宣教師団の一員としてやってきていて、宣教団の世俗的な問題を担当し、経理を扱っていた。宣教師たちから非常に尊敬されていたという。翌日ジャド医師によって検視が行われ、ビンガム牧師のもとで丁寧な葬儀が執り行われ、平四郎は棺に入れて埋葬された(Plummer 1991b p.146、154-156)(『漂流人』は平四郎の葬儀を比較的詳しく述べていて、棺を行列で山へ運んで土葬したという)。平四郎は日本に妻と子供五人を残して死んだのである。次郎吉が墓碑をカタカナで書いた。次郎吉は、十分な教育を受けていなかったが、好奇心と記憶力にすぐれ、いくらか文字が書け、英語とハワイ語を覚え、絵もうまく、何よりも力が強かった。プラマーは「スーパーマン」とさえ称している(Plummer, 1991b p.147;Plummer 1991a  pp.119-120)。このあと次郎吉と金蔵は、太三郎らのいるオアフ島の広東人パピユのところへ合流した。

 12月になって、八左衛門、六兵衛、七左衛門、次郎吉の4人は、パピユの弟「ジョン」という広東人に連れられて、マウイ島のラハイナにある「ジョン」の農場へサトウキビのしぼりを手伝いに行かされた((Plummer, 1991, p.157;「ジョン」は時にはパピユの甥とも言われる)。広東人は労働力を必要としていたのである。ここで1840年の正月も過ごし、アメリカ人やフランス人や現地人の正月の過ごし方を目にした(太三郎と金蔵の2人はオアフ島に残っていて、広東人宅で正月を過ごしていた)。そこからまたワイロク(ワイルク)というところへ連れられて行って、4人は、サトウキビしぼりや小屋作りのために3か月ほど働いた。1840年6月(陰暦5月)になって、オアフ島から軍艦が入港したとの知らせを聞いて、4人は、オアフ島へ帰りたいと頼んだが、「ジョン」は引き留めようとした。そこで逃げるように「ジョン」の家を去り、陸路を歩いたり、小舟に乗ったりしてラハイナを経てオアフ島のホノルルへ戻った。

 オアフ島にはフランスの軍艦が来ていた。一行は軍艦の見学はできたが、帰国のための乗船はできなかった。アヘン戦争が起きて、広東には行けないというのであった。たしかに中国の広州湾では1839年11月からイギリス海軍の清国船への砲撃が始まっていて、1840年5月からは本格的な戦争になっていたのである。広東などを経由して長崎へ行くことは不可能と考えられた。

 『蕃談』は次郎吉の言として次のように記している。

「サンイチ」にて風説に聞けば、広東は只今「オツペン(opiumアヘンか)」の一件にて「イギリス」と合戦最中にて、只今広東に往きては混雑して日本に帰る事には迚(とて)も至るまじとなり」(池田編 1968 301頁。これは『蕃談』に付けられた附録)。

 それでも6人はビンガム牧師とジャド博士に帰国を強く願い出た。アメリカの軍艦が来るのを待っていたが、来なかった。そのうち、ロシア領へ送れば帰国が早くできるかもしれず、「カムサツカ」(カムチャツカ)へ行く船があればそれに乗せようという事になった。この時、ビンガム牧師は2、3年前にアメリカからカムチャツカヘ渡り布教をしたことがあったので、カムチャツカの様子は分かっていた。また、3年前に早川村の船が漂着した時、乗員をハワイからシトカに送って帰国させたことも想起された。十数年前に越後早川村の船が漂着した時は、舟子の伝吉と長太らは「セツカ」(シトカ)経由で帰国したので、今回もその道で帰ることが考えられたのである。

 はたしてカムチャツカへ行くイギリス船が見つかった。アメリカの商人キャプテン・カータ(元船長)の周旋により、イギリス人船長センの船に便乗してカムチャツカに行くことになった。1840年8月3日(陰暦7月6日)、セン船長の貨物船「ハーレクイーン号」はホノルルを出港した。船は2本マストの2000石積みであった。カータは、オアフ島に店を持っていて、妻子同伴で船に乗り、雑貨、砂糖、メリケン粉などを積み込んでいた。総人数21人、他に長者丸の6人であった(プラマーは、船を世話したのはPeirce & Brewer社のH.A.Peirceであるという。ボールドウインは、モリソン号の例を見ると、一行は日本に帰っても温かく迎えられる可能性はほとんどないとコメントしている)(池田編 1968 39-54、246頁;室賀他編 1965 74-90頁;笠原96―99頁;プラマー 1991b 162頁)。

 こうして、6人は、1839年10月から1840年8月まで、計11か月を過ごしたサンドウィッチ諸島を去ることになったのである。

参考文献

室賀信夫・矢守一彦編訳『蕃談』平凡社 1965年
池田編『日本庶民生活史料集成』第5巻 三一書房 1968年
『漂流人次郎吉物語全』高岡市立図書館 1973年
笠原 潔「ハワイ滞在中の長者丸乗組員たち」『放送大学研究年報』 26号、 2009年3月、93-105頁
高瀬重雄『北前船長者丸の漂流』清水書院 1974年
プラマー、キャサリン『最初にアメリカを見た日本人』酒井正子訳 日本放送出版協会 1989年
Plummer, Katherine, The Shogun’s Reluctant Ambassadors; Japanese Sea Drifters in the North Pacific, The Oregon Historical Society, 1991a
Plummer, Katherine, A Japanese Glimpse at the Outside World 1839-1843; The Travels of Jirokichi in Hawaii, Siberia and Alaska, The Limestone Press, 1991b

(「世界史の眼」No.62)

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