はじめに
1 「酋長の娘」
2 「敗戦日記」の中の「南洋」(1)―渡辺一夫
(以上、本号)
3 「敗戦日記」の中の「南洋」(2)―高見順
4 「文明―未開」―不変の構図
おわりに
(以上、次号)
はじめに
2016年10月、沖縄に派遣されていた大阪府警の1機動隊員が、国頭郡東村高江の米軍用ヘリパッド建設に抗議する沖縄の人々に対して、「ボケ、土人が!」という罵声を浴びせかけた。この「土人」というもはや死語になっていたように思われた言葉を、20歳そこそこの機動隊員が使ったということに、多くの人たちは驚き以上の衝撃を受けた。戦前・戦中、「土人」という言葉は、主として、日本の国際連盟・委任統治領であった「南洋群島」や「南洋」(東南アジア諸地域)の現地民を指す言葉として広く使われていた。当時、「土人」とは、何よりも、「南洋の土人」を意味していた。その「土人」という言葉が、敗戦後70年も経って、亡霊のようによみがえって、沖縄の人々に対して投げつけられたのである。
この「土人」発言に触発されて、敗戦と「南洋」とがどうかかわっているのかということを、改めて考えてみたいと思う。
1 「酋長の娘」
敗戦後数年間、まだテレビ放送はなく(NHKがテレビ放送を開始したのは1953年)、ラジオの時代で、「ラジオ歌謡」といった歌謡番組が多かった。そんなラジオ番組などで「酋長の娘」という歌をよく耳にした。
私のラバさん 酋長の娘
色は黒いが 南洋じゃ美人
赤道直下 マーシャル群島
椰子の木陰で テクテク踊る
踊れ踊れ どぶろくのんで
この歌は、旧制高知高校生の間で歌い継がれていた「ダクダク踊り」の歌をもとにして、1930年に、演歌師・石田一松により歌曲化され、レコード発売されたものである。第一次世界大戦において、日本海軍がドイツ領であった赤道以北の西太平洋・ミクロネシアの島々を占領したのが1914年10月であるから、その約15年後ということになる。この15年の間に、歌にうたわれるほど「南洋」は日本人にとって身近なものとなり、その過程でこの歌に表れているようなステレオタイプ的な「南洋」観、「南洋の土人」像が形成されていったのである。
この歌の「私」のモデルになったのは、森小弁だという話がある。森小弁は1869年、高知・土佐藩の小禄の士族の家に生まれ、若くして政治に志して、同郷の政治家、大江卓や後藤象二郎の世話になった。しかし、しだいに「南洋」に関心を持つようになり、1891年、22歳の時に、一屋商会(田口卯吉がつくった南島商会の事業を継承した会社)に入り、天祐丸という小さな帆船で「南洋」に赴いた。森は、一屋商会の支店を開設するために、当時スペイン統治下にあったミクロネシアのトラック諸島(現、ミクロネシア連邦チューク州)に残り、その後、ドイツ統治期(1899-1914年)、日本統治期(1914-45年)を通して、トラック(チューク)諸島を拠点として商業活動などに従事した。その間に、森はトラック諸島・春島(ウェノ島)の首長の娘と結婚し、子ども12人をもうけた。森は1945年8月、日本敗戦の数日後にトラック諸島・金曜島(ポレ島)で死去したが、現在、その5世、6世の子孫は1000人以上にのぼり、モリ・ファミリーとしてチュークでは大きな経済力を持っているという(高知新聞社編『夢は赤道に―南洋に雄飛した土佐の男の物語』1998年、各所)。
こうして見ると、森小弁は「酋長の娘」の「私」のモデルにいかにも似つかわしく見えるが、その確証はないということのようである(『夢は赤道に』192‐193頁)。しかし、ここで問題としたいのはこの話の真偽ではない。
問題は、「酋長の娘」という歌が戦後になっても戦前と何ら変わることなく歌い継がれていたということである。一例を挙げれば、山田風太郎は、1946年11月、但馬に帰省した折に出席した親類の結婚式の宴会で、腰に蓑を巻いた男が「私のラバさん」と歌い、踊るのを見た(『戦中派焼け跡日記 昭和二一年』小学館文庫、2011年、393頁)。その後も、いくつかの映画などに、「酋長の娘」を歌い、踊る場面が登場した。こうしたことは、敗戦を通しても、日本人のステレオタイプ的な「南洋」観、「南洋の土人」像に本質的な変化がなかったということを示している(ただし、現在ではこの歌の差別的な表現が問題とされ、放送禁止歌となっている)。
2 「敗戦日記」の中の「南洋」(1)―渡辺一夫
しかし、これは「酋長の娘」のような大衆歌謡の世界だけに限られたことではない。日本の近代的知性を代表するような人々においても、敗戦は「南洋」を見る目を考え直す契機とはならなかったようである。
戦争中、戦争に反対であったり、戦争に疑問を持っていたりしながらも、それを表立って表明することができなかった人々がたくさんいた。そのような人たちの多くにとって、敗戦はむしろ一種の解放であったから、敗戦そのものは大きな衝撃ではなかった。彼らにとって衝撃だったのは、敗戦を機に一変した日本社会の風潮や日本人の言動の方であった。
フランス文学研究者として著名な渡辺一夫は、戦後の1945年8月21日、妻と「善後策」を打ち合わせるために、妻子の疎開先である新潟の燕町に行った。8月26日朝、汽車で帰京した渡辺は、車中で見た「デモラリゼされた(士気喪失した)兵士逹の群。妄動する民衆」の姿に衝撃を受けた(渡辺一夫『敗戦日記』博文館新社、1995年、75頁)。渡辺は同日付の串田孫一宛手紙に、次のように書いている。
これからの僕逹の生活の困難を思ふ時、悄然ともします。汽車の中などで見聞するデモラリゼした人々狂ひ立つた人々愚昧を更に深める人々……これらを向ふにまはして生き且戦ふのです。カタルシスがもつと深刻だつた方がよかつたかもしれぬとすら思ふことがあります。それ程同胞諸氏はいけません。(『敗戦日記』104‐105頁)
敗戦時、東京帝国大学文学部助教授であった渡辺は、復員して大学に通い出した学生などを見て、彼らがこれからどういう生活を送ることになるのかと考えこむことがあった。そんな時、「ある学校の口頭試問で『天皇は陸海軍を統率す〔統帥す―引用者〕』という文句が、新憲法にあるのか旧憲法にあるのか判らぬ青年が沢山いたという事実」を教えられて、「非常に愕然」とした(渡辺「非力について」〔1947年9月23日付〕、『敗戦日記』200頁)。考える力を持たない青年たちがたくさんいるのではないかということに気づいた渡辺は、学生たちに向かって語るかのように、次のようにのべている。
考えないのが悪いなどとは申しませんが、考えないと大損になると申せましょう。学生諸君に向かって、僕は何も要求できません。しかし、今申したような大損になるにきまっているようなことだけはしないようにとは言いたいのです。その上で、恋愛もよいでしょう。ダンスもよいでしょう。そして、深遠な形而上学や詩歌も結構です。しかし、恋愛もダンスも「文化」の所産として練磨され得ますが、それ自体は決して文化の条件ではないのです。犬でも猫でも恋愛をしますし、ポリネシアの土人もダンスをします。そして深遠な形而上学や詩歌は、これを護り育てる地盤がなければ、いつでも抹殺され得るものであります。
これも恐らく、私と申す中老書生の泣言であります。その上に僕は、人間というものは自分の思いこんだことをなかなか棄てられぬと申しました。僕もそうなのでしょう。学生諸君もそうかもしれぬと思います。[中略]そう思う時、僕は、自らの非力を悟り、がっくりしますし、自分の思いこんだことをみつめて、ためいきをもらしてしまいます。
(「非力について」、『敗戦日記』201頁)。
敗戦後の青年たちのものを考えようとしない風潮を憂慮し、自らの「非力」にためいきをもらす渡辺の心意はよく分かるが、恋愛もダンスも文化の条件ではないことを説く文脈で、「犬でも猫でも恋愛をしますし、ポリネシアの土人もダンスをします」という一文が出てくるのにはどうしてもひっかかる。犬猫の方はどういうことなのかよく分からないが、ダンスというと「ポリネシアの土人」を連想することにひっかかるのである。
渡辺は第一高等学校の学生時代にピエール・ロティ(Pierre Loti)のLe Roman d’un spahi,1881(直訳すれば、『あるシパーヒーの物語』。シパーヒーはペルシャ語・トルコ語で兵士の意。イギリスやフランスの植民地軍の兵士、特に傭兵もこう呼ばれた)を読んで「強烈な刺激と深刻な影響」を受け、その十数年後の1938年に同書を『アフリカ騎兵』(白水社)という訳書名で翻訳、刊行している。それは、こんな「物語」である。
ジャン・ペーラルはフランス中央部の高地セヴェンヌ地方の貧しい農夫の息子だった。彼には「許嫁」と言ってもいい娘がいたが、20歳の時、兵役により入営し、アフリカ大陸西海岸のフランス植民地、セネガルに派遣された。フランス軍の駐屯地はセネガル河が大西洋に注ぐ河口の町、サン・ルイにあった。ジャンはフランス軍の騎兵として、セネガルの南に位置するギネア地方などへの遠征に従軍した。しかし、戦闘のない時には、サン・ルイの地で放恣な生活に耽り、「黒人」の娘と同棲するようになった。ジャンの5年間の兵役がもう数カ月で終わろうとする時、サン・ルイのフランス駐屯軍はセネガル河を遡上して、アフリカ大陸内陸部に遠征することになった。その地の「黒人の大首領」・「ブゥバカール・セグゥー」が暴虐を極めているとして、討伐することになったのである。「ブゥバカール・セグゥーの國」に最も近い屯所まで進軍した時、ジャンなど12人の騎兵が斥候に出された。しかし、「ブゥバカール・セグゥー」の別動隊の待ち伏せに遭い、ジャンなどほとんどの斥候兵が戦死した。これより前、ジャンの家郷では、ジャンの「許嫁」が他の男と結婚式を挙げていた。他方、フランス軍を襲撃した「ブゥバカール・セグゥー」の本隊は撃退され、彼自身もフランス軍の銃弾に倒れた。こうして、「ブゥバカール・セグゥーの國」は崩壊した。
『アフリカ騎兵』の「後記」に、渡辺は次のように書いている。
後年同じ著者の他の作品を讀んでも常に見出された「現世のはかない營みの隙間から折あらば低く高く響いて來る永劫無や死滅の呼聲」が、『アフリカ騎兵』に於いては、アフリカの灼熱された不動の大氣の中にも、物質のやうに壓力のある烈光の中にも、硬い沈默を乘せてゐる砂漠の上にも、著實に又執拗に囁き、或は喚くのを感じ、当時の僕は異常な嚴肅さに擊たれ新しい感傷の波にもまれたやうに記憶してゐる。(『アフリカ騎兵』432頁)
日中戦争が泥沼化していく時代に、このようなロティの著書を翻訳、刊行したということは時局に対する渡辺の姿勢を示しているのであろう。
渡辺はロティの「他の作品」も読んだと書いているから、その中には、『ロティの結婚』も含まれていたに違いない。小説『ロティの結婚』の主人公は「イギリス海軍少尉候補生」とされている「ロティ」―作者と同じ名前だが―である。ロティは乗艦がポリネシアのタヒチ島に寄港した時、しばらくタヒチに滞在し、マオリ族の少女「ララフ」の魅力にとらわれて、「結婚」するという「物語」である。
『ロティの結婚』には、例えば次の一文のように、タヒチの人々が歌とダンス(ウパ・ウパ)に興じる姿がしばしば出てくる。
一千八百七十二年といへば、パペエテ[タヒチ王国の都、パペーテ]の最もすばらしい時期の一つであつた。こんなに多くの祭や、踊りや、饗宴の催されたことは未だかつて無かつた。
來る夕べごとに眼もくるめくばかりであつた。―夜になるとタヒチの女逹は見る眼も彩なとりどりの花で身を飾つた。急調子の太鼓の音は、彼女らをウパ・ウパへと誘うた。―みんな髪を解き亂し、ムスリンの胴著はほとんど胴も露はのままに駈け寄って―氣の狂つたやうな淫逸な踊りが、往々にして明け方までつづくのであつた。(『ロティの結婚』125頁)
タヒチの女たちは手を打ち鳴らして、急調子の熱狂的な合唱歌の銅鑼の音に合はせた。―順番が來ると、女たちは銘々ひとしきりの舞踏をやつた。足取りも音樂もはじめの中は緩やかであるが、果ては氣も狂はんばかりに次第にその速さを增してゆき、やがて疲れた踊子が、突然銅鑼の音高い一打ちに踊を止めると、前よりは一層猥雜な狂亂の踊子がつづいてそれに踊り出るのであつた。(同、126頁)
『ロティの結婚』のこのような叙述から、渡辺は「ダンスに明け暮れるポリネシアの土人」というイメージを持ったのであろう。
しかし、そんなイメージとは裏腹に、『ロティの結婚』からは渡辺の言う「永劫無と死滅の呼聲」が響いてくる。というよりは、『ロティの結婚』は、著者である生き身のロティが2度のタヒチ滞在(1872年1-3月、6-7月)の中で、タヒチ王国の発する「永劫無と死滅の呼聲」を聴き取り、それを文学的に表現したものと言った方がいいであろう。
それは、フランスなど欧米列強の圧力によって、タヒチ王国が衰亡へと向かい、それとともにタヒチ的文化が荒廃していく響きであり、現実的には、肺結核など欧米由来の病気による多くのタヒチ島民の死の響きである。
『ロティの結婚』(94頁)にも出てくるように、1842年、タヒチ王国はフランスとの間に保護条約を結び、フランスの保護国となった。フランスによる圧迫に対抗するために、イギリスの介入を求めたが、イギリスが静観するだけだったので、タヒチ王国はフランスの強圧に屈服するほかなかったのである。タヒチの女王ポマレ4世(在位、1827-1877年)の時代のことであった。女王ポマレ4世は「文明に侵蝕されては潰滅してゆく自分の王國―賣淫の場所となつては頽廢してゆく自分のうるわしい王國を眺めなければならぬ憂鬱」にとりつかれていた(『ロティの結婚』148頁)。1877年、ポマレ4世が死去すると、その次子がポマレ5世として即位した。しかし、1880年には、フランスと併合協定を結ぶことを強いられ、タヒチはついにフランスの植民地となった。こうして、約90年続いたタヒチ王国は滅亡したのである。
欧米人たちの到来は「數年このかたこの不動のポリネシアに、かくも多くの未聞の變化と、豫想だもしなかつた新奇とをもたらした」(『ロティの結婚』73頁)。その一つが肺病という未知の病気の蔓延であった。女王ポマレ4世は何人かの男子を生んだが、「ちやうど或る季節に生ひ出でてその秋には朽ち斃れる熱帶植物のやうに、みな同じ不治の病氣で亡くなられた。/みな胸で亡くなられたのである」(同、31‐32頁)。女王ポマレ4世の孫娘の「姫君―タヒチの玉座の推定相續者」はまだ幼年であったが、「すでに世襲的疾患の徴候」を示していた(同、32頁)。この「姫君」も数年後には死去した。「ララフ」にも、「女王の息女のそれのやうな微かな空咳」が時々起こるようになった(同、128頁)。「ロティ」が「ララフ」をタヒチに置き去りにして、イギリスへ帰航する軍艦でタヒチを去った後、「ララフ」は生き方が崩れていった。タヒチにいる「ロティ」の友人からの通信によれば、彼女は「胸の病氣でだんだん弱つていつたのだが、火酒をあふりはじめたので、病勢は急に進」み、18歳で世を去った(同、280頁)。
もし、渡辺一夫が『ロティの結婚』から、このようなタヒチの発する「永劫無と死滅の呼聲」を聞きとっていたとするならば、渡辺はどうして「ポリネシアの土人もダンスをします」などと書いたのであろうか。
(次号に続く)
(「世界史の眼」No.66)