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「世界史の眼」No.34(2023年1月)

今号では、南塚信吾さんに、連載中の「「万国史」における東ヨーロッパ」の第二部その2をお寄せ頂いいています。II-(1)は、こちらに掲載されています。また、小谷汪之さんに、先号に論考をお寄せ頂いた山田篤美さんの近著、『真珠と大航海時代:「海の宝石」の産業とグローバル市場』を書評して頂きました。山田篤美『真珠と大航海時代:「海の宝石」の産業とグローバル市場』(山川出版社、2022年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

南塚信吾
「万国史」における東ヨーロッパ II-(2)

小谷汪之
書評:山田篤美『真珠と大航海時代:「海の宝石」の産業とグローバル市場』(山川出版社、2022年)

2023年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

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「万国史」における東ヨーロッパ II-(2)
南塚信吾

2. 西村茂樹編『校正万国史略』1872年(明治5年)~1876年(明治9年)

 千葉の下野の佐野藩の出であった西村茂樹(1828-1902年)は、親藩であった佐倉藩の堀田正睦との関係で、幕府の貿易取調御用掛に任じられた。安政3年(1856年)、伊豆下田にアメリカの総領事ハリスが来て幕府に開港を迫ったとき、茂樹の主、佐野正睦は、外交事務を取るようになり、茂樹らは、私的秘書として、外交の文書を取り扱うよう命ぜられた。茂樹は幼い時から儒学を習っていたが、嘉永4年(1851年)、24歳の時に、佐久間象山に師事して蘭学を志した(二五歳の時に親友木村軍太郎に学び始めたともいう―古垣光一『西村茂樹全集』第5巻 789頁)。だが、その後10年ほどして、文久元年(1861年)(35歳)から手塚律蔵の門に入って、蘭学のほかに英学を学んだ。廃藩置県ののち、佐倉に閑居して、翻訳業に専心する構えであったが、まもなく居を東京に移し、堀田家の隅に家塾を開いた。

 和蘭語を使った最初の訳書が西村鼎(後に茂樹)譯、袁惄(ウェインネ)著『百代通覧藳』で、原著はWijnne, J. A. Beknopt leerboek voor de algemeene geschiedenis, 3 vol., Gromingen, 1856である(原著は宮内庁図書室に所蔵という)。これは出版にはいたらなかった。次いで、和蘭語を使った訳書が『泰西史鑑』であった。『西村茂樹全集』第七巻のあとがきによれば、これは、ドイツのヴェルタ―の書Welter, T.B., Lehrbuch der Weltgeschichte fur Gymnasien und hoehere Burgerschulen, 3 vols., Munster, 1826-28をオランダのベルクが訳したものHandboek voor de algemeene geschiedenis voor gymnasien en opvoedingsgestichten, 1835(I,II), 1852(III)を翻訳したものという。そしてこのベルク訳は、慶応3年(1867年)ごろに友人の神田孝平より贈られたものであるという(第7巻 875―876)。これは、明治2年(1869年)から14年(1881年)にかけて翻訳、出版された。

 この間、慶応3年には『万国史略』を訳述し、明治2年(1869年)に『万国史略』として出版していた。これは、「万国史」と名のついた最も早い書であった。この『万国史略』はスコットランドのタイトラーのAlexander Fraser Tytler, Elements of General History, Ancient and Modern, Edinburgh(1.ed., 1801)の翻訳である。だが、これは古代ギリシア史までしか訳されていなかった。また歴史学の方法などを論じていた原書の序論は訳されていなかった。そこで西村は明治5年ごろから、この『万国史略』の校正を始めた。しかし、ウィンネやヴェルターの訳をしているうちに、新しい知見も加わったようで、作業は単なる『万国史略』の校正ではなく、ほとんど別のものと言っていいものになった。それが、明治5年(1872年)から明治9年(1876年)にかけて出た『校正万国史略』であった。

 なお、西村は、明治6年(1873年)に、福沢諭吉、中村正直、加藤弘之、津田真道、西周、箕作麟祥、箕作秋坪、神田孝平らと「明六社」を結成したのち、同年、森有礼に推されて文部省編書課長になり、教科書の編集・刊行に力を尽くした。明治13年(1880年)に、編書課と翻訳課を合わせて編輯局が作られると、その局長となった。やがて、明治18年に新内閣の成立によって官制改革があると、西村は、翌年、文部省を辞めて、宮中顧問官に任ぜられた。この後は、道徳教育のための活動をすることになる。

***

 『校正万国史略』の構成は以下のようである。

上古ノ史上

 人類ノ始 大洪水; 巴比倫(バビロン)、亜述(アッシリア);馬太(メジイ);埃及;以色列(イスラエル);腓尼基(フェニキイ);波斯ノ史

上古ノ史中

 希臘ノ史;馬基頓(マケドニア);亜歴山得大王

上古之史下

 羅馬ノ史

  

中古ノ史上

 東羅馬、比利敦(ブリテン)、仏朗克(フランス)、亜剌伯:摩蛤麦(マホメット)、回教ノ大教師(カリフ)など

中古ノ史中

 日耳曼、法蘭西、英吉利、東羅馬、西班牙、大教師国、土耳古、十字軍(第一次~第四次)ノ史など

中古ノ史下

 十字軍(ラテン帝国)、日耳曼、法蘭西(フランス)、英吉利、西班牙葡萄牙、魯西亜及ビ阿多曼(オットマン)土耳古ノ史など

  

近世ノ史一

 亜米利加ノ検出、意太利、日耳曼法蘭西ノ戦、教法改正、西班牙葡萄牙、日耳曼、呢特蘭(ネーデルラント)、法蘭西、英吉利ノ史

近世ノ史二

 呢特蘭、法蘭西、西班牙葡萄牙、英吉利、北部東部欧羅巴、魯西亜、瑞典ノ史

近世ノ史三

 西班牙国継ノ乱、欧羅巴諸国ノ史、七年ノ戦争、英法二国ノ戦、北亜米利加合衆部ノ独立、東印度、魯西亜波蘭、瑞典丁抹、日耳曼ノ史

近世ノ史四上

 法蘭西革命ノ大乱、欧羅巴ノ諸国法蘭西ヲ伐ツ、法蘭西人墺址利ヲ撃ツ、法蘭西国首領政治、拿破侖帝位二登ル、欧羅巴ノ諸国、拿破侖ノ敗

近世ノ史四下

 法蘭西、日耳曼、西班牙葡萄牙、意太利瑞西、欧羅巴北東、英吉利、希臘国ノ再興、比利時(ベルジューム)ノ自立、波蘭ノ乱、亜墨利加諸国、魯西亜ト土法英トノ戦、撒丁王意太利ヲ統一、普魯西墺地利、英国属地、合衆国南部ノ叛乱、普魯西法蘭西ノ戦

***

 構成に関する限りで、『校正万国史略』の特徴を整理しておこう。

  1. 歴史の起源は聖書に基づいて書かれていた。タイトラーの原書は全く聖書を脱していたので、聖書による創世の部分は別の本(例えばヴェルター)に拠っていたのではないだろうか。ギリシア以後は世俗史になっていた。実は、先の『万国史略』では、「上古」の始めにおいて、「天地草昧の初めにあたり、人類の状、果たして如何なるか、詳かに之を究めんとするは、容易に得べきことに非ず、吾儕今日に当り、太古の事を尋釋(じんしゃく)せんとするに、伝記の証拠と為るに足る者なし」と述べて、「大洪水」から「上古」の歴史を書くことを拒否していた(『西村茂樹全集』第9巻、9)。その意味では、『万国史略』はレベルの高い書であった。パーレイ的な万国史ではなかったので、早くに完訳が出ていれば、明治初期の「万国史」の様子は変わっていたかもしれなかった。
  2. ギリシア以降の世俗的世界の構成は、パーレイの本と違って、単なる各国史の並列ではなかった。時代区分を設定して、「人類の始」から「羅馬」の滅亡までを「上古」とし、「東羅馬」からを「中古」とし、「亜米利加ノ検出」からを「近世」としていた。時代区分はヴェルターにならったのかもしれない(ヴェルター『泰西史鑑』では、「上古」「中古」「近古」「近世」となっていて、「近古」を「教法改革」から、「近世」を「法蘭西革命の大乱」としていた)。
  3. こうした時代区分のなかで、各時代は各国の歴史の並列で構成していた。つまり、各時代を、フランス、ドイツ、イギリス、オスマン史を柱とし、そことの関係で周辺ヨーロッパの歴史も述べるという形をとっていた。さらにそこには各国の歴史とともに、諸国間の関係を間に入れていた。ちなみに「北部東部欧羅巴」という漠然とした概念はあったが、「北ヨーロッパ」「東ヨーロッパ」「西ヨーロッパ」という対比的なくくりはまだ登場していなかった。
  4. パーレイの「万国史」と比べて、ヨーロッパ中心であり、非ヨーロッパの記述が縮小されていた。アメリカ大陸はあるが、アジアは抜け落ちていた。その分、ヨーロッパ史の記述が詳しく、正確になっていた。そして、これまで見た「万国史」に比べ、「中古」以後の史実は豊富で詳しく、確実になっていた。

***

 さて、ヨーロッパの東部についての記述をみると、依然として、ポーランド、ハンガリー、ギリシアが中心で、ボヘミアがいくらか触れられるという具合であった。

(1) 「中古」における東ヨーロッパ

 10世紀において、日耳曼(ジエルマン)史との関係で、ハンガリーが扱われる。891年に斯拉窩尼(スラオニイ)の攻撃に直面した日耳曼王が匈牙利人を招いたが、その後匈牙利人は本国に還らず巴訥尼亜(パンノニア)に拠り、さらに日耳曼の地に侵掠するようになり、加魯胤(カロウイン)家の断絶を促進した。日耳曼が薩索尼(サクソニア)家の時代になっても、匈牙利人との争いに悩まされ、ようやく950年に匈牙利人を破って、安定したとされる(『西村茂樹全集』第5巻-以下略― 488-491頁)。年代がいくらかズレているが、事実関係はこの通りであった。

 同じく、日耳曼史の中で、15世紀のボヘミアの「黒斯(ヒュンス)の乱」が扱われる。ここではフスが巴拉克(プラーグ)大学の講師となり、「独り聖経を尊信」すべきことを教え、教法の会議で糾弾され、焚殺されたこと、それにたいし、波希米(ボヘミア)人が兵を起こしたことが、正確に記されている(544-555頁)。

 つぎに、魯西亜及び阿多曼(オットマン)土耳古史の中で、魯西亜の始まりが書かれるとともに、阿多曼(オットマン)土耳古の自立(1299年)が述べられ、それが14世紀末に東へ拡大した様が書かれる。そして、布爾加利(ブルガリ=ブルガリア)、塞爾維(セルウイー=セルビア)、襪拉幾(ソラキイ=スロヴァキア)の地を攻めて、さらに匈牙利に向うが、洪約(ホンヤツト=フニャディ)の軍に止められたことが記されている(553-554頁)。ブルガリアなどが「万国史」に出て来るのはこれが初めてであろう。

(2) 「近世」における東ヨーロッパ

 15世紀になって、「亜米利加ノ検出」が始まる時代は、ヨーロッパの大きな変動の時代であり、阿多曼土耳古の拡大の時期であった。その中で、索利曼(ソリマン)第二は、ロードス、マルタを落とし、さらに匈牙利に進撃した。そして1526年、沐哈克(モハツク)にて匈牙利軍を破り、さらに維也納(ウインナ)を囲むまでになったことが書かれる(562頁)。

 17世紀に入り、加特力教(=カトリック)と新教の対立が「三十年の大乱」(1619-1648年)を引きおこすが、そのきっかけとなった地として、波希米と摩拉維(モラウイイ)の民心が信教を支持したことが記される(586頁)。 

 この30年戦争が終わった後、北欧において波蘭・魯西亜戦争(1654-55年)、波蘭・瑞典戦争(=「大洪水」)が起きるが、その記述の中で、初めて波蘭の建国とその後の王朝の歴史が紹介される。「波蘭人は斯拉窩尼(スラヴオニイ)の民族なり」という位置づけが出て来る(600頁)。    

 この17世紀の末に、匈牙利が墺太利に継承されるが、その経緯が、詳しく語られている。オーストリアの皇帝がトランシルヴァニアのカトリック化を図るのに反対したハンガリー人は、多結犂(タケリ=テケリ)を大将として反乱を起こした。これを機にオスマン帝国はハンガリー人と共にウイーンを攻めてこれを包囲(=第二次ウイーン包囲)するが、波蘭の支援を得て、1687年これを破り、この後、ハンガリーは蛤不斯堡(ハプスボルグ)の支配するところとなったという具合である(606-607頁)。

 スペイン継承戦争、七年戦争の後の18世紀において、ポーランドの歴史が詳細に描かれてくる。まず、1733年の波蘭の王位をめぐる魯西亜、仏蘭西らの争い(=ポーランド継承戦争)が述べられたあと(622頁)、「魯西亜波蘭の史」という節が置かれ、そこでは、他国との戦争によって治世を正当化する必要のあった魯西亜の加他隣(エカテリーナ)が、波蘭に攻め入り、その寵臣スタニスワフ・ポニャトフスキを波蘭王として波蘭に勢力を扶植していくところから、その動きに反対するポーランド貴族らの抜爾(バール)連盟の抵抗を経て、ついに波蘭が分割されるまでが描かれている。その際に、魯西亜が波蘭に攻め込んだことに怒った土耳古が魯西亜と戦ったが破れたことが述べられ、そうして勢いを増した魯西亜が1773年(=1772年の誤り)に普魯斯(プロイセン)および墺地利とともに波蘭議会を脅かして、波蘭を分割(=第一次分割)したとされている(635-637頁)。オスマン帝国の動きも入れてポーランド分割を論じているのは、これまでにない論じ方であった。

 さらに、ポーランド分割の説明が続く。ロシアの威権支配を怨む波蘭人が、波蘭の「自主」を謀って立ち上がったが、波蘭の中に魯国を崇奉する魯国党もいて、結局1793年に魯普二国により波蘭はさらに分割された(=第二次分割)。これにたいして、哥修士孤(コシューシコ)を将とする「独立」の運動が起きたが、魯普墺の三国が大軍を送ってこれを破り、1795年に波蘭を最終的に分割し、「波蘭国遂に滅ぶ」ことになったという(642-643頁)。

 この間の記述もほぼ正確で、しかも、波蘭人の目線から見ていて、出色である。なお、「自主」や「独立」という用語が使われていることも注目される。

(3) 「近世」後半における東ヨーロッパ

 「近世」の後半は「法蘭西革命の大乱」を持って始まる。「革命」という言葉を最初に用いていることは注目したい。この「革命」は「君権」に対して「民権」を伸ばそうとするもので、「国民」の「自主」を主張するものであったと見ていた(644頁)。 

 そういう「法蘭西革命」の時代に生じた墺地利での1848年の政変に関連して、匈牙利での民乱が論じられる。3月、維也納の民が乱を起こし、首相墨的爾昵(メテルニク)を追放し、皇帝は国民に新制法を約束したが国民は満足せず、維也納は「書生と暴民」の「藪」となった。7月に斯拉窩尼人が巴拉克を奪い政府を立てた。そして墺地利国を助けて、同月には議会が開かれた。しかし、匈牙利人は自国の法律と政体を守ろうとして、墺地利と対立し、ついに墺地利は哥羅亜西(コロアシア)にこれを攻めさせた。この時維也納の民は「此軍行を阻遏せんと」した。そして10月、維也納は匈牙利人に「自主の政府」を立てることを許した。1848年12月にフランツ=ヨーゼフが帝位に就くと、ハンガリーを攻撃し、ついに魯西亜の助けを得てこれを敗北させた。こう記述されている。ここでは、ウイーンの市民がハンガリーを支援したこと、魯西亜の援軍があったこと、民の視線が考慮されていることなど、注目すべき記述である(674-676頁)。

 「自立」を図った国として「希臘国の再興」が扱われる。「希臘は中古の時より土耳其の属国と為り、久しく回教の圧政を受く。」「国民」はたびたびトルコの管轄を離れようと謀ったが、その度にうまくいかなかった。だが、1821年に兵を挙げて、翌年独立を宣布した。しかし、スルタンはエジプトの墨非麦阿里(メヘメトアリ)を動員して、希臘を攻めた。ここにイギリスのカニングは露仏と会議して希臘支援に乗り出し、1827年にナバリノの戦いでトルコエジプト軍を破り、翌年希臘が独立して、加甫侍斯多利(カポディストリアス)が大統領となった。だが、かれは1831年に暗殺され、国内は不安定になった。そこで列強は巴威略(バイエルン)王の子の阿多(オットー)を希臘王に推し、彼のもとで学校が建てられ、律書が作られ、「民の開化」が進んだ(686-687頁)。これまでも「万国史」においてはギリシアの独立は注目されてきたが、今回は、イギリスの動きも加えられて、ギリシア独立の記述が充実してきた。

 続く「波蘭の乱」では、1830年と1862年の反乱が扱われている。「波蘭は既に滅亡すと雖も、其民常に本国を再興するの志を懐けり。」そして1830年11月、「洼消(ワルシャワ)の民、乱を作して、魯国に叛く。」この中で、露西亜との和議を提唱するものがあったが、「国民」の意は、ロシア軍を追い払い「自立」を復すことであった。そこで、波蘭の「長老平民共に」ロマノフを拒絶することを決議し、1831年2月に、公然と兵を挙げて魯国に敵対した。波蘭軍は善戦したが、ついに9月に敗北してしまった(689頁)。  

 だが「波蘭の民は其の愛国の心、年久しくして、益堅く、常に時を俟て、快復の業を興さんと欲す。」1862年2月、露西亜軍がポーランドに於いて、「教育を受けたる少年と、愛国心の深き少年」を徴兵しようとしたのに、少年等が反発して、蜂起が起きた。波蘭人は、今度は山林に隠れ、電線や鉄道を攻撃して魯西亜軍を悩ませたが、11月には敗北した。その後、魯西亜は、波蘭人にカトリックを禁じ、母語の使用を禁じて、「愛国心」を消滅させようとした(690頁)。国民や少年など、国王以外の目線が打ち出されていることが注目される。

***

 このように西村の『校正万国史略』では、時代区分をしたうえで、ロシア史、ドイツ史、オスマン史との関係で、ポーランド、ハンガリー、ボヘミア、ギリシア史などが論じられる。その中で、洪牙利は、初めはドイツ史の「攪乱分子」といった扱いであったが、やがては「自立」と「民権」のための「闘士」という扱いに変化していったと言える。一方、ポーランドは、大国の「犠牲者」として描かれている。ポーランドの滅亡と快復の熱意は、明治の日本の雰囲気に合ったのであろう(レザノフ事件以来、日本の対外認識はロシア方面から進んだので、東ヨーロッパにも「東」から接近しているのである)。

 『校正万国史略』では、飛躍的に事実関係が豊かに確実になってくる。そして歴史を見る観点も政治権力者だけでなく、「国民」「人民」の観点が挿入されていることが注目される。

(続く)

(「世界史の眼」No.34)

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書評:山田篤美『真珠と大航海時代:「海の宝石」の産業とグローバル市場』(山川出版社、2022年)
小谷汪之

 本書の著者山田篤美は本書に先行して、『真珠の世界史:富と欲望の五千年』(中公新書、2013年)を上梓し、真珠の歴史を広い世界的な視野と長い歴史的射程において描き出している。例えば、日本の場合をとってみれば、縄文遺跡から発掘された真珠から御木本真珠が世界を席巻するまでが扱われ、ペルシャ湾の大真珠産地については、ギルガメシュ叙事詩に描かれた真珠採りから、インドの仏教文献に出て来る真珠やイスラム世界における最高の宝石としての真珠が取り扱われている。そのうえで、16世紀以降の20世紀初めまでのヨーロッパにおける「真珠バブル」を「真珠狂騒曲」と捉えている。

 それに対して、本書は「大航海時代」特に16世紀に焦点を当てて、真珠の「グローバル市場」が形成されていく過程とその構造を明らかにしようとしたものである。

 この真珠の「グローバル市場」形成の契機になったのは、三つの大「真珠生産圏」(真珠の漁場、真珠採取地、真珠集散地の複合体)の形成あるいは発展であった。一つは南米ベネズエラ・コロンビア北岸(カリブ海南岸)で、二つ目はペルシャ湾岸、特にアラビア半島側、三つめはインド亜大陸とスリランカ(セイロン島)の間のマンナール湾岸である。これら三つの地域は、16世紀、スペインとポルトガルの進出に伴って、大「真珠生産圏」として発展し始めた。そして、これらの地域産の真珠がインド西海岸(アラビア海岸)のゴア(ポルトガルのインド総督府所在地)を「ハブ」として結びつき、真珠の「グローバル市場」を形成していったのである。

「南米カリブ海真珠生産圏」

 南米カリブ海のベネズエラ・コロンビア海岸では、16世紀スペイン人が進出する以前から、現地民によって真珠の採取が大規模に行われていた。そこにスペイン人が目をつけたのであるが、そのきっかけとなったのはコロンブスが第3次航海で真珠を持ち帰ったことであった。その後、多くのスペイン人が南米大陸に向かい、真珠の採取業に乗り出した。スペイン王室もそれを後押しし、個人事業者の真珠採取業への自由参加を認めていた。

 真珠採取は数メートルから10数メートルの海に潜り、海底の岩に付着している真珠貝をはぎ取るので、その労働力としての潜水夫の確保が最も重要であった。16世紀前半では、潜水に慣れていたバハマ諸島の現地民が主として使役されていた。彼らはしばしば「奴隷化」されていたので、著者はこれを「先住民奴隷制水産業」と特徴づけている。その後、16世紀後半になると潜水労働力が不足し、アフリカ人奴隷が潜水夫として使役されるようになった。「先住民奴隷制・黒人奴隷制水産業」の形態をとるようになったのである。

 南米大陸産の真珠はスペインのセビリャに送られ、さらにヴェネツィアを中継して、ヨーロッパやアジアの各地に広がっていった。

「ペルシャ湾真珠生産圏」

 1498年、ヴァスコ・ダ・ガマの船団がインド西海岸(アラビア海岸)のカリカットに到着して、いわゆるインド航路を切り開いた。その後、多くのポルトガル人が喜望峰周りでインドに向かい、インド西海岸に要塞や商館を建設していった。1507年、後にポルトガルのインド総督となるアフォンソ・デ・アルブケルケはペルシャ湾口のホルムズ王国を征服した(その後いったん放棄し、1515年に再征服)。それは「ペルシャ湾真珠生産圏」の支配を目指すものであった。

 ペルシャ湾は世界最大の真珠生産地で、特にアラビア半島側に多くの真珠漁場が存在した。中でも大きな漁場はバハレーン島であった。潜水夫は主としてペルシャ湾地域に居住するアラブ人であった。ペルシャ湾の真珠採取業では、真珠採取船は何カ月間も帰港することなく、真珠をとり続けた。そのために、潜水夫の多くは出漁中の家族の生活費として、船主などから前金の形で金銭を借りることが多く、その債務に縛り付けられていた。著者はこれを「債務隷属制真珠採取業」と呼んでいる。

 16世紀、ポルトガルはホルムズ王国を征服することを通して、この「ペルシャ湾真珠生産圏」を支配することができたのである。ただし、ポルトガル人はスペイン人とは違って、自ら真珠採取業を営むということはしなかった。あくまでも、既存の「真珠生産圏」の上に網をかけるようにして支配したのである。

ペルシャ湾産の真珠はホルムズからイラクのバスラを経由して、西アジア・北アジアやヨーロッパの各地に送られるとともに、インド西海岸のゴアを経由してインド内陸部にまで運ばれた。

「マンナール湾真珠生産圏」

 1520年代、ポルトガルは南インドとスリランカ(セイロン島)との間のマンナール湾に進出した。そのインド側沿岸にはカーヤルという町があり、真珠の大きな集散地となっていた。1530年代には、この地のヒンドゥーの真珠採り潜水夫がいっせいにキリスト教に改宗するということがあった。1542年、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが教皇庁から派遣されて、マンナール湾の改宗キリスト教徒の保護や布教の任務に就いた。ザビエルは1944年まで約2年間マンナール地方に滞在した(途中一時帰国。1949年には、日本に赴任)。ザビエル以降、イエズス会の宣教師は教勢を拡大することよりも、キリスト教に改宗した真珠採り潜水夫を囲い込むことに力を注いだ。それによって真珠を獲得することができたからである。

 1560 年、ポルトガルはマンナール湾のスリランカ側に位置するマンナール島を獲得し、ここに要塞を築いてマンナール湾一帯の行政中心地とした。これによって、ポルトガルは「マンナール湾真珠生産圏」を支配下に収めることができた。

 マンナール湾では、春先と秋口の数カ月間、真珠の大規模採取が行われた。これには、キリスト教徒潜水夫、ヒンドゥー潜水夫、ムスリム潜水夫など極めて多数の人々が参加し、大きな一時的居住地が形成された。

 マンナール湾産の真珠はチェッティなどのヒンドゥー商人によって、インド亜大陸各地に運ばれるとともに、ゴアを経由して世界各地にも搬出された。

真珠「グローバル市場」の特質

 本書の眼目は、16世紀、真珠の「グローバル市場」がゴアをハブとして世界各地にスポーク(輻)を伸ばすという形で形成されたということを明らかにする点にある。

 「グローバル市場」というと、オランダとイギリスが壮烈な抗争を続けた香辛料貿易などが念頭に浮かぶが、この場合は香辛料がアジアからヨーロッパへと一方的に搬出されるという形をとった。「グローバル市場」というと、このような非西欧世界から西欧への一方的な物資の流入というイメージが湧きやすい(例えば、新大陸産のジャガイモやトウモロコシ)。しかし、本書における真珠の「グローバル市場」はそれとはまったく異なり、世界中のさまざまな地域的市場が複合的に結びつき、真珠がその間を多方向的に動くという形をとっていた。

 真珠の「グローバル市場」のハブであるゴアには、南米カリブ海産の真珠がリスボンやセビリャを経由して持ち込まれ、ペルシャ湾産の真珠はホルムズを経て、マンナール湾産の真珠はインド亜大陸の陸路・海路によってゴアにもたらされた。その他にも、インドネシア・フィリピン海域の真珠(これはアコヤ貝真珠ではなく、シロチョウ貝真珠)や中国(トンキン湾)産の真珠がマラッカを経由してゴアに運ばれていた。

 ゴアには、ジャイナ教徒のバニアン商人、南インドのチェッティ商人などのインド商人だけではなく、中国やミャンマー、タイ、マラッカ、ジャワ、モルッカなどからも商人が集まっていたので、真珠はこれらの商人たちによってインド各地や中国、東南アジアなどに運ばれていった。また、ゴアにはアラブ商人、ペルシャ商人、アルメニア商人、ユダヤ商人などもいたので、真珠は彼らによってメソポタミア、トルコ、カフカス地方などにも運ばれた。

 真珠を求めたのは主としてアジアやヨーロッパの王侯貴族や富裕層だったが、アジアではヨーロッパよりも真珠が高く売れたという。そのこともゴアを起点とする「ハブ・アンド・スポーク交易」形成の一因と考えられる。

 このように、本書の功績は、真珠を素材として、非西欧世界から西欧へと一方向的に商品が流れるのではない「グローバル市場」の存在を明らかにしたことにあるということができる。

(「世界史の眼」No.34)

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「世界史の眼」No.33(2022年12月)

今号では、『真珠の世界史 – 富と野望の五千年』(中公新書)の著者でもある山田篤美さんに、「なぜ真珠は歴史研究で看過されてきたのか」と題して論考をご寄稿頂きました。また、南塚信吾さんには、「<font color=”#EF93B6″>世界史寸評</font><br />ウクライナ戦争への新たな見方」を寄せて頂いています。

山田篤美
なぜ真珠は歴史研究で看過されてきたのか

南塚信吾
世界史寸評 ウクライナ戦争への新たな見方

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なぜ真珠は歴史研究で看過されてきたのか
山田篤美

はじめに

 古代ローマのプリニウスは、『博物誌』第9巻において「貴重品の中でも第一の地位、最高の位が真珠によって保持されている」(中野定雄他訳)と記し、最後の巻にあたる37巻では「純粋で単純な産物に戻ることにして、もっとも高価な海の産物は真珠であり、地表にあるものでは水晶であり、地中にあるものではアダマス(ダイヤモンド)、スマラグドゥス(エメラルド)、各種の宝石、そして蛍石の器である」(同)と述べている。この後、プリニウスはシナモン、琥珀、乳香、象牙、べっ甲など様々な高価な物に言及し、「あらゆる創造の母なる自然に幸あれ。そしてローマ人のうちで、わたしのみがあらゆるあなたの顕現を賛嘆したことを心に留め、わたしに仁慈を賜わらんことを」(同)と締めくくっている[1]

 一方、10世紀前半のスィーラーフ出身のアブー・ザイド・アルハサンは『中国とインドの諸情報―第二の書』の中で次のように述べている。

 インドと中国の海は、「海中に真珠と竜涎香あり。その岩礁に宝石と黄金の鉱山あり。その海獣の口に歯牙あり。そこに生育する植物に黒檀、蘇芳木、ラタン、沈香木、竜脳香、ニクズク、丁香、白檀、その他のすべての良質の美味な香料類あり……かくの如くに、その海の神の恩恵は余りにも多すぎて、その一つひとつを数えあげることは誰にも不可なり」と譬えられている(家島彦一訳、()の文言を優先して掲載)[2]

 興味深いのは、プリニウスもアブー・ザイド・アルハサンもさまざまな貴重な交易品を列挙する中、真珠を冒頭に置いていることだろう。このように古今東西の一次文献をひもとくと、真珠が重要視されていることを示す文言に出会うことは少なくない。

 それにもかかわらず、真珠は歴史研究の多くの分野で見過ごされてきた。特に次の二つの点で看過されてきた。第一に、ヨーロッパ人やアジア人などほとんどの民族が追い求めた高価で希少な交易品としての真珠の意義である。第二に、真珠のとれる海域の経済的重要性である。天然真珠時代、真珠はどこの海でも採れるわけではなく、むしろ真珠が採れる海域は限られていた[3]。別の海域への真珠貝の移植は早くから試みられたが、真珠貝は生育条件が難しいため、それほど成功しなかった[4]。つまり真珠の採れる一部の海域が真珠の海として存在し続けてきたのである。真珠が希少で高価な品ならば、その真珠を育む海域は富の生まれる場所といえるだろう。それゆえ沿岸部や遠方の政治勢力などがその真珠の海に進出し、海域支配を試みてきたことは想像に難くない。しかし、そうした視点から真珠の海の経済的重要性や地政学的重要性が論じられることはほとんどなかった。こうしたことをふまえ、本稿では真珠看過の理由について考えてみたい。

従来の歴史研究の傾向

 真珠は時代をリードした著名な研究でなぜか見過ごされていることが多い。一例を挙げると、アンソニー・リードの『大航海時代の東南アジア』では真珠は交易品として論じられていない[5]。東南アジアの海域は、アコヤ真珠貝やクロチョウガイ、シロチョウガイなど今日の真珠養殖の主要な真珠貝であるピンクターダ属の発祥の海域と見なされている[6]。真珠貝の豊かな海域の交易研究でも真珠や真珠貝は看過されてきたのである。

 古代日本に目を向けると、『魏志倭人伝』には卑弥呼の後を継いだ壱与が中国に白珠五千孔などを献上したことが記されている。「白珠五千孔」はおそらく通糸連となった白い真珠と考えられる。天然真珠時代、真珠5000個はたいそうな量であった。それだけの量を集めるには多くの海人と真珠貝が豊富な海域が必要であるが、真珠が日本のどの海域で採取されたのかという観点から邪馬台国が論じられることはあまりないように思われる[7]

 こうした事例に見られるように、真珠や真珠の海域の重要性は十分認識されてこなかった。インド洋海域史や古代日本史だけでなく、西洋史や東洋史の多くの分野、グローバルヒストリーや近代世界システム論、海人研究などの民俗学の分野でも真珠は取り上げられていない場合が少なくない。

 その一方で、真珠の重要性を認識していた研究者も早くから存在する。日本で家島彦一が、真珠採集とそれをめぐる人間の動きがインド洋海域世界の歴史展開に大きな影響を及ぼした可能性を指摘し[8]、佐々木達夫はペルシア湾岸のジュルファル遺跡の交易港としての繁栄と真珠採取との関連性を議論している[9]。保坂修司は天然真珠時代のペルシア湾の真珠採取の実態を明らかにし[10]、筆者自身も『真珠の世界史』(中公新書)で真珠の重要性を論じてきた。最近では小谷汪之が「戦前パラオの真珠産業と『南進熱』」を発表し、南洋諸島における真珠産業を石川達三の著作などを通して論じている[11]。海外ではエンリケ・オッテのLas perlas del Caribe やR. A. ドンキンのBeyond Price; Pearls and Pearl-Fishingなどをはじめ、重要な研究は少なからず存在する[12]。2019年には近現代のインド洋世界の各海域の真珠史を扱った論文集Pearls, People, and Powerが上梓された[13]。近年、真珠史研究の隆盛の兆しもあるが、大勢として真珠が歴史研究で看過されてきたことは否定できないだろう。

真珠看過の理由

 なぜ真珠は重視されてこなかったのだろうか。それにはさまざまな理由があり、それらが複合的にからんでいるが、筆者自身は以下に述べる理由があると考えている。

 第一に、真珠という物品の特殊性だろう。真珠は高価で小さなモノであり、アジア社会では伝統的に金銀と交換されてきた換金商品であった。隠匿、密輸、過少申告が流通形態の主流を成し、真珠の売買では相対取引となる場合も少なくない。オリエント世界における真珠や宝石の相対取引では、取引税や関税を避けるため、売り手も買い手も一言も発せずに、特定の指を押すことで値段の交渉を行う「サイレント・バーゲニング」という手法もよく使われた[14]。こうした秘密裏の取引決済は、金銀などによる即決の現金決済が一般的で、領収書を残さない。つまり真珠の取引は、売り手も買い手も黙したまま、多くの金銀が密かに動くインフォーマルな取引であった。実証が難しい真珠や宝石の流通は、アーカイヴ・リサーチを重視する歴史研究から概して抜け落ちることになったと考えられる。

 第二の理由は、1970年代から80年代以降、歴史学の大きな潮流となった世界システム論などにおける農業や生活必需品重視の傾向だろう。ウォーラーステインの近代世界システム論などでは、主に農業に基づくヨーロッパ資本主義の発展というテーゼに基づいて、陸地に根差した農業生産や鉱山開発に関心が置かれる一方で、宝石やスパイスなどの「奢侈品」全般は重視されていない。ウォーラーステインは「奢侈品の交易は……大西洋世界の発展といった壮大な事業の背景としては弱すぎるし、そこから『ヨーロッパ世界経済』の生成を説明するのは無理だと思われる」(川北稔訳)と述べ、「長期的にみれば、奢侈品よりは基礎商品ステイプルの方が、経済活動をより強力に推進する」(同)と説明している[15]。このように経済発展の観点から奢侈品は過小評価されるようになった。農業重視は水産業の軽視の裏返しでもあるが、それは漁業が沿岸部の漁民が魚を釣って自分で食べる自営的で局所的な産業と見なされたからではないかと筆者自身は考えている。

 真珠看過の第三の理由は、従来の歴史研究が一国史研究であったことにも関係するだろう。一国史研究だと国民国家の中の陸地における歴史の様相をとらえた叙述となりやすい。そのため国と国の間の海域やその歴史は必然的に捨象されてきた。しかし、水産資源を生み出す海域があれば、国境とはかかわりなく、湾岸部の住民が海の富を享受する共通の漁撈文化を発達させたことは容易に理解できる。真珠史研究は沿岸部のどこか一地点だけというよりも沿岸部における漁撈文化の共通性や海域支配の在り方といった広域俯瞰で考える必要があるが、一国史研究ではその広域俯瞰がなされてこなかった。

 他方、近年の歴史研究では、海域を人間の活動領域の主舞台と見なす海域史研究が盛んになっている[16]。ただ、そうした海域史の領域では海域を移動の場とする海上交易や交易圏に主眼が置かれており、海から富を引き上げる真珠採取などの水産業についてはあまり関心が示されていないように思われる。

日本の真珠養殖業の発展が真珠の特徴を大きく変える

 こうした理由に加え、筆者自身が真珠看過のもうひとつの重要な要因と考えているのが、20世紀初めに日本人が世界で初めて成功させた真珠養殖業の発展が、真珠の価値、大きさ、色、形、生産方法、産地などを大きく変えたという事実が十分認識されていないことである[17]。言い換えると、今日、天然真珠を採取している国はバハレーンを除くとほとんど存在しないため、天然真珠時代の真珠貝の生態、真珠採取の在り方、生体物としての真珠の特徴を多くの歴史研究者が理解できなくなっていることにも要因があると思われる。

 まず養殖真珠の大量生産は、天然真珠の希少性を失わせ、価格を暴落させたため、それによって真珠は20世紀初めまで宝石として扱われてきた高価で希少な品であり、権威や富を示す威信財であったことが一般に忘れられてしまった。真珠史研究をしていると、真珠は宝石ですかという質問を受けることは少なくない。

 次に真珠養殖業は、真珠のサイズを大きくしたため、天然真珠時代の標準の真珠は二級品の小さな真珠と見なされるようになり、重要視されなくなったことが挙げられる。天然のアコヤ真珠は直径3ミリ程度から5ミリ台、6ミリ台が標準であり、直径1~2ミリのアコヤ真珠も「ケシ真珠」として商品価値をもっていた。遺跡の発掘調査などで真珠が出ても、小さな真珠は十分な考察の対象にならず、その後、行方不明になっている場合などもある[18]

 今日では真珠は直径であらわされるが、天然真珠時代、真珠はグレーン(0.05グラム)やカラット(0.2 グラム)などの重量で、しばしば合算されて示された。真珠をグレーンやカラットなどの重量で聞き、その真珠の大きさや価値を理解できる歴史研究者はどれくらいいるだろうか。ちなみに1グレーンの真珠は直径3.32ミリであり、1カラットの真珠は直径5.23ミリである[19]

 さらに、先述したように、かつては一部の海だけが真珠を生み出すことができたが、真珠養殖業における垂下式筏の発明によって、今日ではかつて真珠が採れなかった海域でも真珠が養殖できるようになった。そのため天然真珠時代には真珠の採れる海域は限られていたという事実が十分認識されておらず、真珠の採れる海域の希少性や経済的重要性、ひいては真珠の海が誘発した海域への進出やその支配の実態が見過ごされてしまったといえるだろう。日本人が発明した真珠養殖業があまりに成功したため、それが逆に天然真珠の重要性を曇らせてしまったといえるかもしれない。

 日本人特有の理由としては、日本人は伝統的に真珠や宝石よりも古い茶碗や陶磁器を好んできた歴史がある。こうした点はすでに16世紀のオランダ人リンスホーテンなどが指摘しているところである[20]

おわりに

 以上述べてきた種々な理由によって真珠は歴史研究では忘れられたテーマとなってきた。したがって、真珠を加えて歴史を見るとまた別の様相が見えてくる可能性がある。

 筆者自身は、貴金属とスパイスの観点ばかりから大航海時代が語られることに疑問があり、この時代に真珠を加えたいという思いをもっていた。それが研究動機となり、アコヤ真珠の採れるペルシア湾、マンナール湾(インドとスリランカの間)、南米カリブ海の三つの海域における16世紀史を長年研究してきた。大航海時代に真珠を加えた時、そこから見えてきたのはヨーロッパ人による水産業の重要性であった。南米ではスペイン人が先住民やアフリカ人を潜水労働に使役する奴隷制水産業を発展させており、真珠を介した大西洋奴隷貿易が16世紀前半にすでに形成されていた。マンナール湾岸ではフランシスコ・ザビエルらイエズス会がインドの真珠採り潜水夫を囲い込み、ポルトガル海軍も出動して彼らに真珠採取を行わせた。真珠採取の水産業は自営的で局所的ではなく、世界の諸地域を関連させるグローバルなものであった。宣伝めいた記述となり恐縮であるが、こうした研究成果をまとめた拙著『真珠と大航海時代』(山川出版社)がこの11月に発刊されたので、興味がある方はご覧いただければ嬉しく思う。

 真珠は歴史研究では人々が思う以上に見過ごされてきたテーマだった。したがって、真珠から歴史を見ると、あまり知られていない歴史的事象が浮かび上がることが少なくない。真珠史研究はまだまだテラ・インコグニータといえるだろう。真珠の歴史やその研究に関心を持つ人が増えてくれればと考えている。


[1] プリニウス(中野定雄他訳)『プリニウスの博物誌』(雄山閣出版、1986年)、第1巻415頁、第3巻1542頁。

[2] アブー・ザイド・アルハサン(家島彦一訳)『中国とインドの諸情報―第二の書』(平凡社、2007年)、85頁。

[3] 山田篤美『真珠の世界史』(中央公論新社、2013年)、8∼17頁。

[4] アレクサンダー・フォン・フンボルト(大野英次郎他訳)『新大陸赤道地方紀行』(岩波書店、2001年)、上巻164頁。

[5] アンソニー・リード(平野秀秋他訳)『大航海時代の東南アジア』(法政大学出版局、1997年・2002年)。

[6] 正岡哲治他「アコヤガイ属の系統および適応放散過程の推定」猿渡敏郎編『泳ぐDNA』(東海大学出版会、2007年)、24∼25頁。

[7] 山田『真珠の世界史』、27∼33頁。

[8] 家島彦一『海が創る文明』(朝日新聞社、1993年)、155頁。

[9] 佐々木達夫「ペルシア湾と砂漠を結ぶ港町」歴史学研究会編『港町と海域世界』(青木書店、2005年)、269~296頁。

[10] 保坂修司「真珠の海(1・2)――石油以前のペルシア湾」『イスラム科学研究』第4号(2008年)、1~40頁、第6号(2010年)、1~31頁。

[11] 小谷汪之「戦前パラオの真珠産業と『南進熱』(上・下)」及び「補遺」『世界史の眼』( 3月 | 2022 | 世界史研究所Reserch Institute for World History (riwh.jp)4月 | 2022 | 世界史研究所 Reserch Institute for World History (riwh.jp) )

[12] Enrique Otte, Las perlas del Caribe (Caracas: Fundación John Boulton, 1977); R. A. Donkin, Beyond Price: Pearls and Pearl-Fishing (Philadelphia: American Philosophical Society, 1998).

[13] Pedro Machado et al. eds., Pearls, People, and Power (Athens: Ohio University Press, 2019).

[14] François Pyrard, The Voyage of Francois Pyrard of Laval, trans. Albert Gray (New York: Cambridge University Press, 2010), vol. 2, pp. 178-179, note 1.

[15] I. ウォーラーステイン(川北稔訳)『近代世界システム(1)』(名古屋大学出版会、2013年)、32頁。

[16] 家島彦一『海域から見た歴史』(名古屋大学出版会、2006年)、1~7頁

[17] 日本の真珠養殖業がいかに真珠の特徴を変えたかについては、山田『真珠の世界史』、172∼191頁を参照。

[18] 筆者がある埋蔵文化財センターで体験したエピソードである。

[19] 真珠の重量と大きさについては、G. F. Kunz and Charles Hugh Stevenson, The Book of the Pearl (New York: Dover Publications, 1993), p. 328を参照。

[20] リンスホーテン(岩生成一他訳)『東方案内記』(岩波書店、1968年)、255∼256頁。

(「世界史の眼」No.33)

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世界史寸評
ウクライナ戦争への新たな見方
南塚信吾

 2022年10月22日、セルビア在住の旧友山崎洋氏を世界史研究所に迎えて、セルビアから見た現在のウクライナ戦争について話をしてもらう機会を得た。山崎氏は、ゾルゲの僚友であったヴーケリッチのご子息であり、さすがに情報の入手も一目置くべき所があった。氏との話で、日本のメディアなどでのウクライナ戦争についての言説には強調されない論点がいくつかあったので、それをまとめてみたい。おりから、日本でも寺島隆吉『ウクライナ戦争の正体』1,2(あすなろ社、2022年)や下斗米伸夫『プーチン戦争の論理』(集英社インターナショナル、2022年)などが、それに通底するような議論をしているので、それらを少し交えて整理してみたい。

 山崎氏が開口一番話したのは、日本のマスコミなどでのウクライナ情報がアメリカ一辺倒だということであった。ウクライナのゼレンスキーを英雄視し、プーチンを一方的に悪者扱いしているのは、驚きであるという。セルビアなどではもう少し是々非々の見方をしているというのである。そういう見方からすると、どうなるのか。

 (1) 山崎氏によれば、ウクライナ戦争は表面に現れた事象であり、実質的にはロシアとアメリカの第三次世界大戦だという。2004年の「オレンジ革命」や2014年の「マイダン革命」は、たんにウクライナ国民の民主化要求の表れと見るのではなく、そこへのアメリカの介入を見るべきである。アメリカの目標は冷戦後も残った共産主義体制の打倒である。オースティン米国防長官が、アメリカの目標はロシアの弱体化にあると述べたのは、そのことを意味している。アメリカが実質的に交戦国なのである。NATOのストルテンベルク事務総長は、NATOの加盟国が長年、装備、訓練、指揮に関してウクライナを支援してきたと言明しているではないか。こういうアメリカの対ウクライナ戦争については、キシンジャー、ブレジンスキーの役割を重視すべきである。ほぼこういう議論である。

 これに類する議論は、寺島氏や下斗米氏も行っている。とくに「マイダン革命」が問題になる。寺島氏は、アメリカの一貫した戦略の中で、今回の戦争は起きているのであり、2014年の「マイダン革命」はアメリカの仕掛けたクーデターであったという。のちにオバマ元大統領も認めているとおりである。ヌーランド前国務次官補も、アメリカが40億ドルも投じてきたと発言している。そしてその指令は当時のバイデン副大統領だったと、寺島氏は強調している。下斗米氏はもう少し慎重に多角的に議論しているが、趣旨はこれに通じている。氏はアメリカの対東欧、対ウクライナ政策を歴史的に検討し、アメリカの一貫した狙いを明らかにしている。その中で、ヌーランド発言などを確認したうえで、マイダン革命は、「米国と親NATO勢力が使嗾(しそう)した」、「クーデターまがいのマイダン革命」と位置付けている。100人以上の死者を出した2月の発砲事件についても、「ジョージア系スナイパー部隊」のやったことではないかと示唆している。

 (2) 山崎氏は、「NATOの東方拡大」について、こう指摘する。ロシアは、侵攻に先立ち、アメリカ政府に対し、「NATOの東方拡大の停止」を文書で約することを求めたが、アメリカは拒否した。バイデンが「イエス」と答えれば、戦争はなかったのではないかと。こう簡単ではなかったとは思われるが、「NATOの東方拡大」についての交渉の経過や、そこでの妥協の余地などについては、下斗米氏が詳細に検討して、クリントン政権に始まり、ブッシュJr.政権、オバマ政権が一貫して「東方拡大」を追求してきたことを明らかにしている。そこからは、米政権内部での意見の相違や、米ロの微妙なずれも明らかになっている。とくにジョージ・ケナンなどの批判などを挙げている。とりわけ、「旧ソ連」領の内部にまでNATOを拡大することに、プーチンは強く危惧していたこと、キシンジャーさえも批判していたことが指摘されている。

 (3) 山崎氏は、ウクライナ内部での「ネオ・ナチ」の力に注目している。ウクライナでナチス時代の記章やスローガンが見られるようになるのは、2014年の「マイダン革命」と呼ばれるクーデターの時からだという。「アゾフ大隊」などがそうだ。ネオ・ナチは、運動の暴力的な性格から、數に比して社会に与える影響が大きいというのである。そして、2015年のミンスク議定書は、過激派の準軍事組織とアメリカの反対によって、実現しなかったし、ゼレンスキーは和平を公約して当選し、就任後すぐにドンバスへ視察に赴いたが、過激派の武装集団に追い返され、対話はできなかったというように、過激派=ネオ・ナチの役割を強調した。「過激派の武装集団に追い返され」たという点は確認できなかったが、「ネオ・ナチ」については、寺島氏も、ネオ・ナチの「アゾフ大隊」などは2014年から登場したとしている。下斗米氏も、2014年の「マイダン革命」において、「反政府系の右派センターや「自由」など民族急進派、さらにネオ・ナチ勢力」が武力行使をして、政権を倒したとしている。また、就任当初は和平を目指したゼレンスキーがNATO加盟に舵を切ったのも、「民族右派やネオ・ナチの圧力」があったのだという。

 (4) 山崎氏は、東部ドンバスの問題に特に注目していた。いわく、2014年以後のドンバスでは、ロシア語が公用語の地位を奪われ、人口の2割を占めるロシア人は無権利状態に置かれたと感じ、ドンバスのロシア系住民の反乱がおこった。先述のように、2015年のミンスク議定書は、過激派の準軍事組織とアメリカの反対によって、実現しなかった。またゼレンスキーは就任後すぐにドンバスへ赴いたが、過激派の武装集団のために、対話はできなかったと。同じような議論は、寺島氏もしている。ドンバスへのウクライナの攻撃というのが実態で、キエフからドンバスへの攻撃は計画的であり、過激派集団によるものであり、その際、ドンバスでウクライナ軍と戦っていたのは軍人ではなく炭鉱労働者であったとしている。下斗米氏は、「マイダン革命」後、新政権が、ロシア語を公共圏から締め出したため、ウクライナ語が強制され、ロシア語話者が多い東部ドンバスの二州では親ロ派による武装反乱がおこったこと、また極右派の政権入りに、東部ロシア語話者地域の住民が猛反発して、一部は武装反乱に及んだことを指摘している。そして、下斗米氏は東部の停戦と安定化のためのミンスク合意に注目している。

 山崎氏が東部ドンバスに注目するのは、ユーゴスラヴィアにおいて難しい問題であった「民族問題」ないしは「マイノリティ問題」に通じるからである。このドンバス問題に限らず、氏は、アメリカにとってかつてのユーゴ紛争は今回のウクライナ戦争の「演習場」だったのだと考えている。以上のような山崎氏の、ユーゴ的な観点からのウクライナ戦争論は、日ごろ欧米や日本での議論に疑問を感じているものには、「してやったり」という感じのものであった。

 おりしも、11月18日に、森喜朗元首相が、「ロシアのプーチン大統領だけが批判され、ゼレンスキー氏は全く何も叱られないのは、どういうことか。ゼレンスキー氏は、多くのウクライナの人たちを苦しめている」と発言し、ロシアのウクライナ侵攻に関する報道に関しても「日本のマスコミは一方に偏る。西側の報道に動かされてしまっている。欧州や米国の報道のみを使っている感じがしてならない」と指摘したと報じられている。これはさっそく批判されているが、今回の山崎氏の話からすれば、的外れではないことになる。山崎氏の発言は欧米一辺倒の見方をただすきっかけになるかもしれない。

 なお、山崎氏との対話との関係で寺島氏や下斗米氏の著書をつまみ食いしてみたが、両書は日本での欧米よりのウクライナ観を相対化するのに必読の書であることを付記しておきたい。

(「世界史の眼」No.33)

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「世界史の眼」No.32(2022年11月)

今号では、一橋大学大学院の倉金順子さんに、「日本における「食べ物の世界史」、の歴史」をご寄稿頂きました。また、南塚信吾さんに、連載中の「「万国史」における東ヨーロッパ」の第二部その1をお寄せ頂いいています。第一部の各論考は、1-(1)はこちら、1-(2)はこちら、1-(3)はこちらに掲載されています。

倉金順子
日本における「食べ物の世界史」、の歴史

南塚信吾
「万国史」における東ヨーロッパ II-(1)

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日本における「食べ物の世界史」、の歴史
倉金順子

はじめに

 「食」、それは人間の生活においてさまざまな意味を持ちうる。何よりも生命維持活動に必要不可欠である。また、料理の美味しさは味覚を通じて精神的な満足をもたらす。食事の機会は家族の団欒や社交の場ともなり、非日常と日常、すなわち「ハレ」と「ケ」とを区別する。食品は商品となり、売買されることで経済を支え、物質的な豊かさを生むこともできる。そして、2010年11月ユネスコ無形文化遺産に「フランスの美食術」などが登録されたのを契機に、「食」にナショナルシンボルとしてだけでなく、国際的に認可されたナショナルな文化価値としての意味付けもされる傾向も見られるようになった。2013年12月には日本の「和食」が、2022年7月にはロシアによる侵略を受けているウクライナの「ボルシチ料理の文化」が登録されたのも記憶に新しい。

 したがって、「食」に関する学問分野も、食生活、食文化、特定の食品、料理、外食産業、などといった研究対象も多岐に渡っている。人類学の分野においては、1980年代に人類学者のシドニー・ミンツが『甘さと権力』において、砂糖が外国由来の贅沢品からありふれた必需品へどのように変化したのか、また、特に英国での食文化や食生活にどのように影響したのかを紹介した[1]。ただし、歴史学の分野において研究されるのは、比較的最近のことであったようである。西洋史学者の南直人によると、アナール学派が20世紀になってから一般の人々の生活を研究対象とするようになったものの、当初は「食」に関しては研究するに値するテーマとみなされていなかった。1996年にアナール学派のジーン=ルイス・フランドランとマッシーモ・モンタナーリにより、ヨーロッパを中心とした古代から現代に至るまでの『食の歴史[2]』という論文集が刊行されてから、ようやく研究テーマとして注目されるようになったという[3]

 本稿では以下、「序説」的に、20世紀以降日本で出版されてきた書籍を対象として、「食」、その中でもとりわけ特定の食材および食品に関する歴史について、その変遷と傾向を追ってみたい。

はじまりは嗜好品、そして調味料の歴史

 あくまでインターネット上で関連したものを検索して確認できた中ではあるが、最も古い関連書籍は1975年に出版された古賀守の『ワインの世界史[4]』である。古賀は、他にも『文化史のなかのドイツワイン[5]』(1987年)など、ドイツやヨーロッパのワインについての著作があり、ワインの世界史・地域研究において日本では先駆者的存在である。

 ワインの次に登場したのは、1980年に出版された経済史学者角山栄の『茶の世界史:緑茶の文化と紅茶の社会[6]』である。角山は同書のあとがきにて、次のように語っている。

 民衆の日常生活のもっとも身近なものをつうじて歴史を見直す、いわゆる「社会史」「生活史」が最近西洋でも日本でも歴史家の関心を集めている。

(中略)こうした作業をつうじてはっきりわかったことは、近世ヨーロッパ資本主義の形成とそのグローバルな展開に、茶が想像した以上に大きな役割を演じたということである[7]

 角山は「日常生活のもっとも身近なもの」である茶について、文化としての側面のみならず、世界市場における商品としての側面にも目を向けた。1980年頃の時点ですでに、「食」とグローバルな経済史との関わりが描かれていたのである。それから5年後には、松崎芳郎による『年表茶の世界史[8]』(1985年)も出版されている。

 このように、1970年代頃以降、ワイン、茶といった世界中で親しまれている嗜好品の歴史に注目が集まりはじめたことが見受けられる。そして1980年代後半になると、リュシアン・ギュイヨの『香辛料の歴史[9]』の翻訳書(1987年)、砂糖に焦点を当てた前述のミンツ『甘さと権力』の翻訳書(1988年)、そしてR. P. マルソーフの『塩の世界史[10]』の翻訳書(1989年)と調味料の歴史が相次ぐ。なお、ミンツ『甘さと権力』や、イマニュエル・ウォーラーステイン『近代世界システム[11]』の翻訳者である川北稔は、『砂糖の歴史[12]』(1996年)も手掛けている。ミンツ、川北ともに、カリブ海におけるプランテーションの展開、奴隷制度、三角貿易、そしてイギリス産業革命と、砂糖を通じた近代以降のグローバルヒストリーを描こうとしており、そこにはウォーラーステインが提唱した「近代世界システム論」にもどこか通底するものが見えてくる。

 嗜好品の歴史に話を戻すと、ドイツ文学者の臼井隆一郎の『コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液[13]』(1992年)、マーク・ペンダーグラストの翻訳書『コーヒーの歴史[14]』(2002年)と、コーヒーもテーマとして取り上げられるようになった。

さまざまな食材・食品の歴史へ

 少し時代が進んで2010年代に近づくと、伊藤章治『ジャガイモの世界史 : 歴史を動かした「貧者のパン」[15]』 (2008年)を皮切りに、対象となる食材および食品の幅はますます広がる。これまでと同様にワイン、コーヒー、茶の歴史も扱われている[16]が、社会学者武田尚子の『チョコレートの世界史:近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石[17]』(2010年)や人類学者山本紀夫編著『トウガラシ讃歌[18]』(2010年)と、嗜好品や調味料についてますます取り上げられてきた一方、ダン・コッペルの翻訳書『バナナの世界史 : 歴史を変えた果物の数奇な運命[19]』(2012年)と、ジャガイモに引き続きバナナという特定の食品についても着目されている点が、注目に値する。

 なお、2012年には、原書房から「お菓子の図書館」シリーズ、2013年には「『食』の図書館シリーズ」が開始され、『アイスクリームの歴史物語[20]』や『パンの歴史[21]』をはじめとして、2022年10月現在合計84冊ものバリエーション豊かな「食」の歴史の翻訳本が出版されている。その中には食品だけでなく、『カレーの歴史[22]』(2012年)や『サンドイッチの歴史[23]』(2015年)、『ピザの歴史[24]』(2015年)など、料理の歴史も取り上げられている。また、今年2022年には『昆虫食の歴史[25]』も出版され、ロシアによるウクライナ侵略に象徴されるような今後も起こりうる世界規模の食糧危機に際し、近年注目されはじめている食材にも焦点を当てているのは、時代を反映しているようで大変興味深い。

おわりに

 以上、食材および食品について、過去約50年間の主に和文の関連書籍の出版の歴史をたどってみたが、嗜好品からはじまり、香辛料、特定の食材および食品、そして料理と、その対象の重点化や拡大といった相応の傾向を示すことができたと思う。特に2010年以降出版数の増加が顕著になっていることを最後に強調しておきたい。筆者の考察に基づくならば、これは、ユネスコ無形文化遺産に「食」に関連する項目が次々と登録されるようになった時期と重なっており、多少なりとも影響があったはずである。

 食材・食品の数だけ歴史があり、その多くが一つのナショナル・ヒストリーにとどまらないグローバルなヒストリーを展開していることは明白である。しかしながら、一方で、それぞれの著者の興味・関心を含む現在地を起点として、色眼鏡を通して映った「世界」においての歴史として語られがちではないだろうか。さらに言うならば、それぞれの著者の仮説に到達するまでの歴史を書き上げていく試みとなっているのではないだろうか。ともすると、例えば角山が『茶の世界史:緑茶の文化と紅茶の社会』を書き上げた上で言及したような、「近世ヨーロッパ資本主義の形成とそのグローバルな展開」を出発点に考えるという前提ありきとなっていないだろうか。食べ物の世界史と向き合う際は、常にそのような点を意識する必要がある。


[1] シドニー・W. ミンツ著、川北稔・和田光弘訳『甘さと権力―砂糖が語る近代史』平凡社、1988年。(Mintz, Sidney W, Sweetness and Power: the Place of Sugar in Modern History, New York: Penguin Books, 1985.)

[2] J―L.フランドラン、M.モンタナーリ編、宮原信、北代美和子監訳『食の歴史 I-III』藤原書店、2006年。(Montanari, Massimo; Flandrin, Jean-Louis, eds. Histoire de l’Alimentation, Fayard, 1996.

[3] 南直人著『食の世界史:ヨーロッパとアジアの視点から』昭和堂、2021年、i-ii頁。

[4] 古賀守著『ワインの世界史』中央公論社、1975年。

[5] 古賀守著『文化史のなかのドイツワイン』鎌倉書房、1987年。

[6] 角山栄著『茶の世界史』中央公論社、1980年。

[7] 角山、前掲書、222-223頁。

[8] 松崎芳郎著『年表茶の世界史』八坂書房、1985年。

[9] リュシアン・ギュイヨ著、池崎一郎・平山弓月・八木尚子訳『香辛料の歴史』白水社、1987年。

[10] R. P. マルソーフ著、市場泰男訳『塩の世界史』平凡社、1989年。

[11] I. ウォーラーステイン著、川北稔訳『近代世界システム――農業資本主義と「ヨーロッパ世界経済」の成立(I-II)』岩波書店、1981年。

[12] 川北稔著『砂糖の歴史』岩波書店、1996年。

[13] 臼井隆一郎著『コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液』中央公論社、1992年。

[14] マーク・ペンダーグラスト著、樋口幸子訳『コーヒーの歴史』河出書房新社、2002年。

[15] 伊藤章治著『ジャガイモの世界史 : 歴史を動かした「貧者のパン」』中央公論新社、2008年。

[16] 例えば、以下のような書籍が挙げられる。

山本博著『ワインの世界史』河出書房新社、2010年(その後改題、加筆修正され、『ワインの世界史:自然の恵みと人間の知恵の歩み』日本経済新聞出版社、2018年)。

ジャン=ロベール・ピット著、幸田礼雅訳『ワインの世界史:海を渡ったワインの秘密』原書房、2012年。(Pitte, Jean-Robert, Le désir du vin à la conquête du monde, Fayard, 2009.)

山下範久著『教養としてのワインの世界史』筑摩書房、2018年。

ビアトリクス・ホーネガー著、平田紀之訳『茶の世界史:中国の霊薬から世界の飲み物へ』白水者、2010年。

小澤卓也著『コーヒーのグローバル・ヒストリー:赤いダイヤか、黒い悪魔か』ミネルヴァ書房、2010年。

旦部幸博著『珈琲の世界史』講談社、2017年。

[17] 武田尚子の『チョコレートの世界史:近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石』中央公論新社、2010年。

[18] 山本紀夫編著『トウガラシ参加』八坂書房、2010年。

[19] ダン・コッペル著、黒川由美訳『バナナの世界史 : 歴史を変えた果物の数奇な運命』太田出版、2012年。

[20] ローラ・ワイス著、竹田円訳『アイスクリームの歴史物語』原書房、2012年。

[21] ウィリアム・ルーベル著、堤理華訳『パンの歴史』原書房、2013年。

[22] コリーン・テイラー・セン著、竹田円訳『カレーの歴史』原書房、2013年。

[23] ビー・ウィルソン著、月谷真紀訳『サンドイッチの歴史』原書房、2015年。

[24] キャロル・ヘルストスキー著、田口未和訳『ピザの歴史』原書房、2015年。

[25] ジーナ・ルイーズ・ハンター著、龍和子訳『昆虫食の歴史』原書房、2022年。

(「世界史の眼」No.32)

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「万国史」における東ヨーロッパ II-(1)
南塚信吾

II 多様な「万国史」の中で:明治14年まで(1870年代) 

 整備された文部省と明治5年(1872年)に出された学制のもとで「万国史」が積極的に出版された。明治6、7年から明治14年の政変までの時期は、それまでに支配的だったパーレイ的な見方とは違った「万国史」が出て来た。明治14年以後は「文明史」的な「万国史」で一色になるので、明治6年から14年までの時期は、パーレイ的でもなく「文明史」的でもない「万国史」が登場する非常に面白い時期である。

1. 作楽戸痴鶯訳編『万国通史』文部省 明治6-7年(1873-74年)

 まず最初に取り上げたいのは、作楽戸痴鶯訳編の『万国通史』である(これは国会図書館デジタルコレクションにある)。本書はイギリスのヘンリー・ホワイトの『普遍史概説』(Henry White, Outlines of Universal History, Edinburgh, 1853)の翻訳と思われる。なお、ホワイトは、この前にElements of Universal History, Edinburgh, 1848も出していて、岡崎は『万国通史』はこちらの本の訳だとするが、定かではない。ホワイトは、ケンブリッジのトリニティ・カレジでB.A. ハイデルベルクでM.A. とPhDを取っていた。

 作楽戸痴鶯(さくらど ちおう)は、山内徳三郎の筆名である。山内徳三郎(やまのうちとくさぶろう)(1844年-没年未詳)は旧幕臣で、幕府直属の旗本伊奈氏家臣の山内徳右衛門(1802年-1868年)の四男として京都で生まれた。徳三郎の長兄に山内作左衛門(1836年-1886年)、その下の兄に山内六三郎(のちの堤雲)(1838年-1923年)がいる。徳三郎は、長崎に遊学する前、19歳の時(おそらくは慶応元年(1865年))作左衛門について樺太へ旅している。徳三郎は、長崎遊学で医学者のアントニクス・F・ボードウィンに学んだが、その意図は医学の修行というより語学と化学の習得に主体があったようである。徳三郎はのちに医学ではなく、鉱山の調査開発の技師、地質学者としての道を歩むことになる。徳三郎がどのような経緯で『万国通史』の翻訳をするに至ったのかなどについては不明であるが、他の訳に、『西洋英傑伝』全6冊(明治8年)もある。

最後列中央の長身の人物が徳三郎

出典:森望:「幕末志士たちの解剖学講義」 | 解剖学ひろば (anatomy.or.jp)

 『万国通史』の構成は、上古史を除くと、次のようである。

中古史

第一篇 野蛮の入寇より帝国の滅亡に至る

第二篇 暗世中欧羅巴形勢の事

第三篇 中古時代有名なる各国の事

    東羅馬;日耳曼國;以太里國;西班牙國;欧洲北方國住民;佛國;不列顛島峡

近代史

第一篇 第一章 宗教改革の事

    第二章 宗旨改革同時代他の改革の事

第二篇 第一章 1688年の革命に至るまで大不列顛國の事を記す

   (第二章「革命後のイギリス」と第三章「第一革命までのフランス」が訳されていない。)

第三篇 第一章 日耳曼國の事を記す

    第二章 以太里國及び西班牙半島の事を記す

    第三章 ニーセルランドの事を記す

    第四章 魯西亜國及び北方諸國の事を記す

第四篇 第一章 東方諸国の事を記す

    第二章 亜墨利加の事を記す

    第三章 輓近欧州動乱の事を記す

 英語の原書と突合せたところ、歴史の初めについては、原書では「聖史」として聖書的に「創世」からローマ帝国までが述べられているが、訳者は専ら宗教に関することで「怪奇」なことも多いので、これを省略するとし、東方の諸国の歴史から述べ始めている。また、1688年革命(名誉革命)後のイギリスの歴史と「第一革命までのフランス」の歴史が訳されていない。しかし、この時期の普遍史としては、この『万国通史』は質の高いものであった。史実の記述の正確さのほか、これまでの万国史とは違って、ネイション単位の縦の歴史の並列ではないことが特筆される。

 ヨーロッパ東部で扱われているのは、ハンガリー、ポーランド、ボヘミア、ギリシアであるが、各国羅列的には出てこない。時代ごとに他の地域との関係で東部のヨーロッパが扱われている。

◎中古史

 ヨーロッパの東部が出て来るのは、中古史からである。ここでは、ハンガリー、ボヘミア、ポーランドが出てくる。

≪ハンガリー≫

 まずは、中古史第一篇「野蛮の入寇より帝国の滅亡に至る」のところで、野蛮の一つとして「アッティラ」と「ハンガリー」が出て来る。曰く、「フンス(フン族)の王にして威武を轟したるアッチラと云う猛将」がハンガリー、魯西亜の過半、北方の日耳曼におよぶ國を領していたが、これに足りずさらに東ローマの領地までも入手した。その後、西羅馬を得ようとして、ハンガリーのペストに「府」を構えたところで「暴死」したとある(中編上 28-31頁)。つぎに中古史第三篇の第二章「日耳曼(ゲルマン)國」のところでは、シャルルマーニュの死後、ドイツにダニューブ川近隣の人民が乱入してきたが、この人民は「ハンスの子孫」と察せられたため「ハンガリー人」と呼ばれたと出て来る(中編中 33頁)。フン族の王アッティラがハンガリーを作ったという説を採っているわけである。

 1400年代になって、ハンガリーとヲーストリアとは婚姻によって、ハンガリー国王の位がヲーストリア人の手に落ちた。ヲーストリア人はその領土を自国のなかに混合しようとしたが、ハンガリー人は頑固にこれを拒否した(中編中 41-42頁)。ハンガリーの国王がハプスブルク家から継続的に出るようになるのはモハーチの戦のあった1526年からであるが、15世紀にも二代ほどあったので、これは間違いではない。

≪ボヘミア≫ 

 同じく「日耳曼國」のところで、1273年にハップスビュルグハプスブルク)のルドルフが、ドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝)となったあと、ボヘーミアを攻めて、その王ヲットカルと戦闘、彼と和して、その地の領有を認め、それゆえルドルフはオーストリア、スチーリア、カリンシア、カルニヲラを領有したことが出て来る(中編中 37-38頁)。つぎに、ロクッセンビュルグ(ルクセンブルク)家のシギスモンドが1410年から1437年まで帝位にあった時のことが書かれる。この時、プラハのヤンハウス(ヤン・フス)と言う者ウイクリッフの主意を主張し初めて「宗旨改革」(宗教改革)の源を日耳曼國中に発した。シギスムンドはコンスタンツ会議にフスを呼び出し、これを処刑した。だが、これはボヘーミア本国に聞え、フス派は「暴烈の戦闘」を起こした。しかしこれはシオギスムンドに抑えられたとある(中編中 44-45頁)。ボヘミアについて詳細が書かれ、ヤン・フスのことが紹介されるのは、本書が初めてであった。

≪ポーランド≫

 第三篇第四章「魯西亜國及び北方諸國」のところでは、中世のポーランドの歴史が述べられる。ロシアの一州となったポーランドというスクラボニック(スラヴ人)の国は、ドイツ帝国の一部になったたが、14世紀初めのラジスロース(ラジスラス)四世のときに独立国となり、1333年から1370年のカッシミルゼグレート(カジミエシュ大王)は、領土を広げ、また 国内の状態を改めた。「此の時国民正に奴隷とも云ふべき卑陋の形態に陥りし時に投じ貴族意を恣にし獨立の權を示し殆んどポーランド國をして滅亡せしめん形成あり」。そこでカジミエシュ王は「貴族を威を取挫き」国民が安心できるようにしたというのであった(中編下 18-19頁)。これまでの万国史ではポーランド分割のことしか書かれていなかったが、本書では、ポーランドの歴史の重要な時期がきちんと押さえられている。

◎近代史

 近代史においては東部のヨーロッパについての記述は充実する。とくにハンガリーとポーランドが注目されている。

≪ハンガリーとトルコ≫

 近代史第一篇第一章「宗教改革」のところで、ドイツ、フランスが宗教改革によって混乱している機を狙って、トルコが日耳曼國を襲撃してきた。その中で、1531年、トルコの首長「第二世ソリマン」(スレイマン2世)がロードス島を奪い、さらにフランス国民に扇動されて「ヲンガリー國」に侵入して之を押領し、さらに大軍をもってウインナを包囲した。これに際し日耳曼國内では宗教による対立をしばし押さえ外的に対抗する約が成立、これを聞いて、シュルタン(スルタン)は兵を引いた(下編上 18-19頁)。

≪三十年戦争の発端としてのボヘミア≫

 第三篇第一章日耳曼國の節において、三十年戦争が論じられる。そこで、ボヘミアの位置が、正確に論じられている。宗教対立の中で、「新教徒がプラグユー(プラハ)に於て帝室の執政等に為したる所業」が「三十年の戦争」の発端となった。対して、旧教徒は維也納(ウイーン)の城門に集まった。1619年にフリードリッヒ2世が帝位に着くと、ボヘミアとモラビヤの二国はハプスブルクを捨てた。1620年にウ井センビルグ(ホワイトヒール 白山)にて両軍が戦い、旧教徒軍が勝って、ボヘミアとモラビヤは再びオーストリアに附属することになったという具合である(下編中 3-5頁)。

≪トルコとハンガリー・オーストリア≫ 

 三十年戦争の後、オスマン帝国の第二次ウィーン包囲の歴史が書かれている。1648年のウエストファリア講和の締結後、匈牙利國に於て新教徒が墺太利の管轄に抵抗して、ルイ14世の仏蘭西からの支援も得て、「噴發」した。このとき、匈牙利とポーランドを「蚕食」していた土耳古國人が「墺太利の威權を壓服」しようとして、1683年、ケラーモスタハ(カラ・ムスタファ)が大兵を率いて匈牙利國を横行し、維也納(ウイーン)を取り囲んだ。ヨーロッパ中がパニックになった時、ポーランドの「勇敢不屈」のヂョン・ソバイスキー(ヤン・ソビエスキ)が日耳曼各国からの兵を集めて、土耳古を撤退させた。これに対して、今度は、日耳曼兵が匈牙利國内の土耳古兵を追い出そうとする。しかし、「不幸なる匈牙利國人一般の救助になるを得ず」。なぜならば、「此國の地方によりては、久しき以前より、土耳古國人之を占領したりしかば、此地方の匈牙利國人は、殆ど土耳古國人の風俗に化せられ、其國體を失なひたり」。「然れども土耳古の管轄外の地方に於ては、数多のプロテスタント宗徒ありて、其中一人も回々教に入る者なかりき」。そういう人たちは、テキリー(テケリ)という一貴族の元に土耳古に抵抗せんと兵を起こした。トルコがウイーンに迫ったので、墺太利はそういうハンガリー人と妥協せざるを得ないと考えたが、ソビエスキの勝利が見えると、墺太利の兵はハンガリーを攻めてこれを平定し、1685年にハンガリーの皇帝選挙権を奪い取り、匈牙利をハプスブルク家「累代の領地」と定めた(下編中 22-24頁)。1685年の話は、1699年のカルロヴィッツ条約の事ではないかと思われるが、ほぼ当時の勢力関係を正確にとらえている。

 次に、マリア=テレジアの皇位継承問題が扱われる。墺太利皇帝第二世フレデリッキが1739年に死亡したとき、其子は只一人の女「マリーゼルサ」(マリア=テレジア)だけであった。彼女が帝位に就くのにほとんどの所領(領邦)が反対し、彼女は匈牙利に「走った」。幸い匈牙利はマリア=テレジアを支持した。

「マリーゼルサは今や詮方盡き、外に依頼すべき手段なければ、乃ち匈牙利國に走り、一旦其身の禍を避けたりし・・・」。かくて、「従来久しくハップスボルク家と通交する地方に住居したるスッラオニック(スラヴ)及び洪牙利人をして、彼を援けんと噴發せしむるに至れり。」(下編中 33頁)。

≪ポーランド分割≫

 第三篇第四章「魯西亜國及び北方諸國」のところで、ポーランド分割が書かれる。

「是まで波蘭國の歴史は別に詳明の記載なけれども、元来此國は政體確実ならず、始終外國の關渉を受け、貴族は傲慢なりて、人民は其過酷なるに苦しみければ、漸次に國威衰微し獨立國たるの勢いを失なへることは瞭然たるべし」(下編中 67頁)。

 露土戦争(1768-1774年)に際し、ポーランドが分割された。その露土戦争について、こう書いている。18世紀の末、イエズス会にそそのかされてポーランド人のカトリックが、ロシア領になっているかつてのポーランド領に支配を及ぼそうとしたのを機に騒動が起きて、逃亡したポーランド人を追って、ロシアがオスマン領に侵入したことを機に、露土戦争が起きた。これは不明であるが、原書にもそう書いてある。そして、「此戦争の最中、即1772年に当りて魯墺普の三國一致して、此防禦なき波蘭國を割取せんと約し、各その本國に近き地方を分ちたりしが、獨り魯西亜は此時獅子の割賦を得たり。」という(下編中 68頁)。

 次いで、フランス革命に際してまたポーランド分割が行われた。

「佛朗西動亂(仏蘭西革命)の際に、此國再度の分割ありしが、是1792年なり。是時に嘗てコスキスコ(コシューシコ)なる者の指揮に随て此國の人民獨立戦争を起こしたるが、是亦残忍に壓砕せられし後は、此國の成立全く絶へたり。是即1794年なり。蓋斯く滅亡せしめし事をば、當時欧羅巴の人、誰有て咎めざる者なかりし」 (下編中 68頁)。

 だれもポーランド分割を咎める者はいなかったと批判している。それはウイーン会議でも是正されることはなかった。ウイーン会議でポーランド人は「其本國の特許風習を公然と保有することを許准せられしが、一度此國民謀反を企てけれども、1831年にワルソーを取られ、其鎮定に及びける後は、魯國は掠略地として之を所置せり」(下編中 69頁)。

 ロシア領ポーランドだけを詳しく書いているが、この時期の日本において、ポーランド分割は、強い関心事であった。

≪希臘≫

 近代史の終りの方、第四篇第一章東方諸国において、ギリシアが扱われる。

 ギリシアはオスマン帝国の支配下にあった。それは1500年代に土耳古には優れたスルタンが輩出したからで、領土をアジアとヨーロッパに拡大し、ヨーロッパのほうでは、「希臘全國且匈牙利過半も」領土となった(下編下 2頁)。

 そのギリシアの独立の過程が述べられる。「希臘國の都たるヂヤニナ(ヤニナ)國のパソー(パシャ)アリーテブレン(アリ・テベレン)なる者」、独立を企てたが、1822年に大敗した。然れども、騒動はまだ終わらなかった。「蓋希臘國の人民、多くは西教徒なりしを以て、土耳古の管轄を脱せんと希へるを以てなり」。土耳古政府は「麥西(エジプト)國のパソーの兵隊の援を以て」これを押さえんとし、残忍なる戦争を続けたので、「西方欧羅巴人の心を感動せしめ」「西教を奉ぜる人民にて且其昔文明名ありし希臘人の子孫の今モハンメンダン教を奉ぜる所の國に抵抗して、其獨立を謀るを援けんと奮發せり」。英国の艦隊を主とする艦隊が、ナワリーノにおいて勝利し、「パソー」の兵を撤去させた。そして1833年、希臘独立の商議が成って、「希臘はバワリアの公子オゾなるものを奉じて」独立國となった(下編下 8-9頁)。

 これまでの「万国史」以上に詳細な記述になっている。当時の日本においては、ギリシアの独立は強い関心を持って見られていたのである。

◎輓近欧州動乱

 最後に、フランス革命を含め、輓近欧州動乱を論じているところでは、東部ヨーロッパについては、1848年革命期のハンガリーが扱われている。佛朗西の動乱(フランス革命)、1830年の改革、1848年の動乱が述べられて、そのなかには、ソシアリスト、コンミュニストの登場などが出て来る。1848年については、ハンガリーを中心としてこういう記述が出てくる。

「墺地利亜(オーストリア)の所領に於て、此動亂の結果は尚一層不幸に陥れり。夫れ以太里(イタリー)は復容易に壓服せられ、又墺國政府の為す欺詐に由て、逐次に蠢食せられ、遂に其國の獨立を失なへるなりと、兼て痛心せる匈牙利(ハンガリー)國民の鋭意なる首謀者は、此機に投じて、其舊政體を恢復せんと企て、且帝都維也約(ヴィエナ)も一揆を醸もしければ、帝は奔て之が災を避けたり。是に於てクローチアの人民、其首長に從ひ、其の他墺國所轄の内に列したる、半開の人種等と共に、此一揆鎮壓の為に、其兵隊を編成し、乃維也約都を砲撃し遂に此都を降せり。然るに勇敢なる匈牙利國民は、尚抵抗して、未だ少しも畏縮せる色なきを以て、魯國の助勢を依頼し、遂に彼等をも壓服したり。此時其首謀輩は、數多鄰國の土耳古に脱走しけるを以て、魯西亜帝土耳古に之を交付することを要責せしけれども、英國政府の保護あるを頼み、土耳古政府は決然として、之に從うをなささりき」(下編下 53頁)。  

 この事実関係はほぼ正しい。オーストリア、イタリア、ハンガリー、クロアチア、そしてロシアとトルコ(オスマン帝国)の動きを相互に関係させて論じているのは、出色である。とくにクロアチアの動きが描き出されているのは、日本では初めてであろう。

 なおこの19世紀中頃において、ハンガリー以外のヨーロッパ東部は出てきていない。

  ***

 以上見てきたように、作楽戸痴鶯訳編『万国通史』においては、ヨーロッパの東部はこれまでの万国史よりもずっと多く詳しく正確に、しかも時代の動きに組み込まれた形で出て来る。主なものは、ハンガリー、ポーランド、ボヘミア、ギリシアであった。ボヘミアがしっかりと登場し、フス派の動きが書かれていたり、ポーランドの歴史が「分割」以外にも書かれていたり、1848年革命について諸民族の複雑な関係が書かれていたり、これまでのパーレイ的な「万国史」を超える記述が出てきている。

 この『万国通史』の特徴をまとめるならば、

  1. 原書の「聖史」を省略して世俗史として歴史を考えていた。
  2. ヨーロッパ史が中心であるとはいえ、さらに各国史的であるとはいえ、明治期最初のしっかりとした世界史でアジアなどもその範囲に入っていた。
  3. パーレイのような諸国の歴史の並列ではなくて、諸国間の関係を押さえ、また時代性を捕まえようとしていた。
  4. ヨーロッパの東部の歴史も西部の歴史の「付属」としてではなく、それ自体として直視していた。

 このような「万国史」はその後どのように受け継がれ発展させられたのであろうか。

(続く)

(「世界史の眼」No.32)

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『歴史はなぜ必要なのか-「脱歴史時代」へのメッセージ』刊行のお知らせ

世界史研究所の研究員が編纂、執筆に関わった書籍、南塚信吾、小谷汪之、木畑洋一編『歴史はなぜ必要なのか-「脱歴史時代」へのメッセージ』(岩波書店、2022年)が刊行されました。身近なできごとを題材に、私たちの暮らしが歴史の中で作り出されてきたことを解き明かそうとする意欲作です。

岩波書店の紹介ページは、こちらです。

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