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「世界史の眼」No.55(2024年10月)

今号では、南塚信吾さんに「世界史の中の北前船(その4)―長崎・薩摩・富山―」をご寄稿頂きました。また、藤田進さんに、ガザ戦争を扱った「2024年6月8日ヌセイラート難民キャンプにおける住民大虐殺」をお寄せ頂きます。

南塚信吾
世界史の中の北前船(その4)―長崎・薩摩・富山―

藤田進
2024年6月8日ヌセイラート難民キャンプにおける住民大虐殺―4人のイスラエル人人質救出と引き換えのパレスチナ住民230人の殺害
(掲載準備中です。しばらくお待ち下さい)

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世界史の中の北前船 その4―長崎・薩摩・富山―
南塚信吾

1. 対中国貿易

 北前船は、船主、船頭、知工(ちく)、表(おもて)、片表、親司(おやじ)、若衆(わかいしゅう)、炊等(かしき)から構成されていた。船頭が最高責任者で売買も差配した。船主が船頭になる直乗(じきのり)もあった。知工は事務長で、荷物の受け渡しを管理し、経理を司った。表は航海士、親司は水夫長、若衆が一般の水夫で、炊等は雑用をする水夫見習であった(牧野 1979 66-68頁)。ある湊で買い込んだ品を別の湊で高く売って利益を得ながら、下ったり(大阪から北国へ向かう)上ったり(北国から大坂へ向かう)したのである。これを買積みという。そして、その売買を指揮したのが、船頭であった。

 19世紀の初めには北前船は以下のような買積み活動をしていたと考えられる。

《下り》
 北前船は大坂で冬を越す。春になると、周辺でできる綿製品や京都でできる呉服や京焼などを積んで出発する。瀬戸内海を西進し、神戸、岡山、広島の諸港で綿製品や塩を買入れる。下関を経て、関門海峡を通って、日本海側に出る。島根の境(鉄)や石見(石見焼きと石州瓦と)や出雲(木綿と木材)で特産物を買入れて、北上する。能登半島の輪島では漆器を買い入れる。岩瀬では薬を仕入れる。新潟では鉄を売って米、むしろを買う、酒田では米や紅花などを買い入れる。途中で、高く売れる品を売りさばいていく。こうして夏に蝦夷に着く。松前の会所を経て、松前、箱館、江差などの港に入り、持ってきた品物を売りさばく。松前藩の入用なものを除いて、商人は、各自の「場所」へ持ち帰って、アイヌとの交易で、肥料用ニシンや昆布を入手する。

《上り》
 松前、箱館、江差の港に入った北前船は、肥料ニシンや昆布などを仕入れて、秋口になると南下する。途中、酒田や新潟ではニシンを売って米を仕入れ、岩瀬ではニシンや昆布を売って薬などを仕入れる。能登では漆器などを仕入れる。そうして下関に戻る。ここではかなりの昆布を降ろし、大坂など瀬戸内各地の市場情報を入手する。それから、広島、岡山、神戸などで肥料用ニシンを売ったり、大阪で売れる品を入手する。そして、晩秋から冬に大阪へ戻り、ここの問屋を通して米や肥料用ニシンや昆布や各地で買った特産物を売りさばく。そして大坂で冬を越す。

《長崎》
 一方、下関で降ろされた昆布などは、別の船で長崎に運ばれ、会所を経て、中国に売られ、代わりに生糸、薬種などの唐物を買い入れる。この唐物は、大阪の道修町(どしょうまち)へ運ばれ、そこの問屋から全国に販売される(植松 2023 89-90頁を参考に加工した)。

 こういう物流の中で、長崎へのルートは対中国貿易として重要であった。

(1) 長崎貿易

 南方の中国への輸出入は基本的に長崎を経由した。1633年、35年、39年の幕府の指令により、ポルトガルなどとの貿易と人の往来が制限され、ついに長崎のみにおいてオランダと中国との交渉が認められるに至っていた。その長崎支配の中心は長崎奉行で、その下に町年寄を筆頭とする地役人の組織があった(荒野 2013 220-225頁)。これが「長崎口」であった。

 長崎貿易においては、中国からの薬種や雑唐物(紙、羊毛識、生糸、絹織物)などの産品と交換に、日本からは銀が輸出されていた。だが、銀の国内産出が減退した結果、17世紀中頃から銀に代わって銅が輸出された。しかし数年間好調だったこの銅輸出も17世紀末には頭打ちとなり、銅を補うために俵物・諸色海産物が登場した。海産物の中国向け輸出は少なくとも1660年代に始まっていたという。俵物は、煎海鼠(いりなまこ)・乾鮑(ほしあわび)・鱶鰭(ふかひれ)の三品で、諸色海産物は昆布、鯣(するめ)、所天草、鶏冠草、寒天などであった。このうち実際に意味を持っていたのは、煎海鼠、乾鮑、昆布の三品であった。これら三品のうち、中国向けで最も重要な産品が昆布であった(菊地 1994 185-189頁;上原 2016 44頁;函館市地域史料アーカイヴ)。

 長崎貿易は幕府が貿易のすべてを管理する幕府の官営商業であった。中国との貿易については、1688(元禄元)年、幕府は貿易を管理するために長崎郊外に「唐人屋敷」を建て、翌年から5000人近くの中国人(唐人)をここに収容し、出入りを厳しく制限した。ついで、1698(元禄11)年、幕府は銅輸出の陰りを踏まえ、海産物の乾物(俵物と諸色)を中国向けの貿易品として指定し、海産物の貿易体制を公式に打ち立てた。この年、幕府は俵物支配役と俵物総問屋を置いて各地から俵物を集荷する仕組みを整え、長崎には奉行所の監督の下で貿易の事務を扱う長崎会所を置いた。18世紀にはいると、銅輸出は停滞し、俵物・諸色の需要がますます高まった。中国ではとくに風土病のためにヨードを含む昆布への需要が大きかったのである(荒野 1988 99頁;神長 2022 54―55頁)。

 このように管理された長崎貿易に対して抜荷(密貿易)が横行し、1686-91年、1704-10年、1720-31年と頻発していた。抜荷とは、幕府によって管理された長崎貿易を通さない貿易がすべてそうであった。それは主に長崎の下層住民を中心にして、長崎沖で、中国船を相手に行われていた。扱われる品は、中国からの生糸、紗綾(さや=絹織物)、薬種といった唐物と、蝦夷からの俵物・諸色であった。このうち、生糸、紗綾などの品質が悪化し価格も高騰すると、薬種や荒物などが増えた。抜荷に対して、まず、幕府は唐物の輸入を管理しようとした。とくに唐薬種はそうで、幕府は享保年間(1716-35年)に、長崎に入った唐薬種をすべて大坂に集荷させ、そこから問屋を通して全国に売り捌く統制体制を整備した。しかし、18世紀半ばには、このルートを経ない不正の唐薬種が出回った。唐薬種は長崎から大阪へ回らず、一部が長崎で売られたり、大坂の問屋が幕府の了解を得ずに勝手に各地へ売り払ったりした(荒野 1988 67-112頁;上原 1990 97-103;161-165頁)。これは薩摩が長崎を経ずに唐薬種を売りさばくもので、薩摩藩営の密貿易(抜荷)であった。一方、俵物・諸色の抜荷については、幕府は、取り締まりをさらに強化し、1785(天明5)年には会所の下に長崎俵物役所を置き、この役所が俵物や諸色を各地から直接集荷するようにした。同時に幕府は各地に俵物巡見使を派遣して抜荷を厳しく取り締まった(菊地 1994 186頁;神長 2022 55頁)。北前船の多くは、蝦夷から大坂へ俵物や諸色を持ち込んだが、大坂と長崎を経ないで、直接薩摩へ持ち込む場合も現れ、ここでも抜荷は消えなかった。

(2) 薩摩藩と琉球

 この長崎貿易と直接競合する関係にあったのが、薩摩藩の支配する琉球を経た対中貿易(進貢貿易)であった。

《琉球口》 
 琉球は、1609年(慶長14年)に薩摩の島津氏に制圧されて以来、17世紀の前半に、島津氏の直接支配を受けながら、明と徳川幕府の両方に朝貢する地位を確定していた。その中で、島津氏は琉球への渡航やキリスト教国の船の寄港禁止など「海禁」の体制を整備した(荒野 2013 150-152頁)。これが「琉球口」であった。

 薩摩藩も琉球王国もともに財政難にあった。薩摩藩は、財政難を乗り越えるために、安易な方法として、琉球などを犠牲にした。まず、薩摩は、琉球や奄美諸島で産する黒糖から藩の収入を得ようとした。とくに黒糖は奄美諸島に特化させて、琉球から切り離し、島津の直轄とした。つぎに、1631年(寛永8年)以後、琉球王国が中国と行う進貢貿易に積極的に介入して、生糸、巻物(織物)、薬種など唐物を入手した(荒野 1988 140-145頁;上原 2016 19-23頁)。藩は、琉球貿易に必要な経費の半分を負担し、対中貿易による利益を自分のものにした。

 しかし、薩摩藩・琉球と幕府の関係は微妙であった。そもそも輸出も輸入も長崎以外での取引は抜荷であったが、幕府は琉球と中国の進貢貿易は容認していた。とくに生糸と薬種の輸入を確保しておきたかった。ただ、幕府は薩摩が琉球を通して行う対中貿易と国内販売の品目と数量を制限し、長崎貿易に一本化しようとした。また薩摩が、生糸などを除いて、琉球貿易で輸入した品を他領で販売することを禁止した(菊地1994 189-190頁;上原 2016 35-42頁)。

 だが、18世紀にはいると日本国内で生糸や絹織物の生産が広がり、18世紀後半には中国産の生糸の質が低下すると、琉球貿易で入った生糸などの市場が縮小し、薩摩にとっての利益も上がらなくなった。この貿易不振に対する対策の一つが、輸入品の生糸から薬種などへの転換であり、いま一つが、銀や銅での支払いに代えて、俵物や昆布をあてることであった。俵物や昆布が長崎を経ないで、薩摩から琉球を経て中国へ輸出されるようになった。そういう抜荷が広がったために、上述のように幕府は1785年(天明5年)、俵物と昆布を長崎会所が独占的に仕入れる体制をうちたてたのである(上原 2016 44-48頁)。幕府は、琉球口を長崎口を補完するものとして組み込もうとしたのである。しかし、薩摩藩はそれに対抗し、琉球王国も独自の貿易を追求しようとした。

 こうして幕府は薩摩藩、琉球王国、そして長崎会所の間で、やり取りをしながら、統制された長崎貿易体制を維持しようとしたが、綻びは各所にあった。その最大の問題が抜荷であった。薩摩藩は様々な形で抜荷を行ったのである(徳永 1992 5頁)。

コラム:平岩弓枝は、1787年(天明7年)に新潟で薩摩の抜荷が摘発された事件を巡って、『はやぶさ新八御用旅(四)北前船の事件』という興味深い小説を書いているが、この抜荷摘発は確認できない。

《薩摩藩と琉球》
 薩摩藩は、秀吉の九州征伐、江戸城修復の手伝い、参勤交代などによって、おおきな財政赤字を抱えていた。それを緩和するために、琉球王国が中国と行う進貢貿易で得られる生糸や薬種の販売から利益を得ようとした。

 琉球口の進貢貿易で輸出する物産では、長崎口と同様、18世紀にはいると、銅が不足し、かわりに昆布が重視された。しかし、輸出用の昆布はどのようにして薩摩が入手し、それが琉球に運ばれたのか。それは海商たちの抜荷によるところが大きかった。海商たちは大坂や下関で蝦夷から来る昆布を買い取り、それを琉球へ運んだりした。大阪の問屋を通さずに買い付けたのである(上原 1990 178-182頁)。  

 一方、中国からの輸入では、唐薬種が中心であった。1780年代から、薩摩は、琉球に入る唐薬種も含めた薬種を、長崎へ持ち込まず、大坂などで販売していたが、そこには抜荷の薬種も入る余地があった。また、琉球王国自身も直接大阪へ売ろうとしたり、抜荷を認めたりしたので、薩摩は琉球と幕府の双方に対応しなければならなかった。幕府は不正品の流通を絶つべく1803年には長崎から大坂などへの流通の管理を強化した(上原 1990 169-177頁)。

幕府と薩摩藩の争いは続いたが、薩摩藩は、1792年のロシア使節ラクスマンの根室到来以来の北方の危機を材料に、南方での政策転換を求め、ついに1810年(文化7年)に長崎貿易に割り込み、翌年には5年期限ではあるが、生糸、絹織物の外に唐物販売権の数量増加(8品目)を幕府に認めさせた。その後1818年(文化15年、文政元年)にはさらなる増加(3品目)を3年期限で勝ち得て、1825年(文政8年)には琉球口の公許唐物免許品は合計16品目となった。これには長崎貿易の主力品である薬種も加わっていた(深井 2009 69頁;上原 2016 186-188頁;徳永 2005 118-120頁はやや違う)。同時に、薩摩藩は琉球に対しては、朝貢貿易で入手した唐物の一手買い入れを求めた。琉球側は、中国との貿易は、渡唐役者(中国貿易に携わる役人)や船主たちが貿易から得られる儲けの一部を得られる形で行われているので、薩摩による一手買いはその儲けをなくすという理由で、これを拒否した。しかし、薩摩は強硬にこれを求め続け、ついに1819年に強行した(上原 2016 130-133頁)。

 19世紀の初頭から始まる藩の改革は、財政赤字を補填するために、藩内の農民負担を増加したり、奄美諸島の黒糖を買い上げたりしたが、琉球を経由した中国貿易は薩摩藩にとって藩財政を建て直す重要な事業であった。それは、長崎商法の拡大と、唐物の一手買いによって進められたが、この間に薩摩藩は天草の豪商石本家を取り込んで、同家の資金力で借金をしたり、幕府その他を買収したりして、事を進めたのであった(上原 2016 142-157頁)。

 そして、薩摩は、文政期(1818-29年)以降、抜荷を推進していたようである。これが次に問題となる。

(3) 密貿易・抜荷

 1827年(文政10年)に調所笑左衛門が薩摩藩の財政再建を担うようになってから、対中貿易は促進された。調所は農民収奪を効果的にするために農政改革を行い、南島の黒砂糖の生産・流通管理を強化したが、もっとも頼りにしたのが、対中貿易であった。藩は従来の路線で、長崎での唐物の売り捌き品目と数量の拡大を求め続け、1825年(文政8年)に5年限りで許可品目が合計16品目になっていた(これは1829年には5年間延長となる)。同時に、薩摩は琉球での買い占めも強化し、1826年に、藩から人員を派遣して、琉球に唐物方御座を設置して、長崎商法で認められた計16品目の調達と、一手買入れを確実にしようとした(上原 1990 209-213頁;上原 2016 162―165頁)。 

 だが、薩摩にとっても利益の多かったのが、藩営の抜荷(密貿易)であった。琉中間の進貢貿易は幕府によって認められていたが、そこで薩摩の得た薬種など唐物は、長崎の会所での手続きをして、その後大坂などへ運ばれて売買されるのが、規則に沿った売買ルートであった。そのようなルートにのらない交易は抜荷なのである。薩摩は、進貢貿易によって得た薬種などの唐物を、長崎を経ないで、大坂のほか、新潟へ運んで、抜荷として売りさばいた。一方、この時期、薩摩藩は、なんらかのルートで蝦夷からの俵物などを密売買していた。

 肥前平戸藩主松浦静山が書いた『甲子夜話』に1826-27年の出来事が記されている。それによると、1826年(文政9年)、越前の蓬莱屋の持ち船寳力丸が3月に松前行き、そこから蝦夷地の三ツ石に入り、昆布を仕入れ、それから8月に松前を出て、9月に薩摩へ向かったが、長崎の松島沖で暴風雨に遭って、遭難したという(上原 1990 214頁)。これは、越前の北前船を利用して松前から昆布を薩摩へ直接運んでいたことを示すものである。ここにやがて新潟が重要な拠点となってくる。

 幕府が貿易独占のために行っていた長崎貿易に薩摩藩は対抗していたのであるが、このため長崎貿易に依存していた中国商人からは不満が寄せられていた。しかし、それでも薩摩が琉球をとおして抜荷する昆布は、品質が良く、しかも安価であったから、中国では広く流通していた(徳永 1992 4-5頁;徳永 2005 167―168頁)。

(4) 北前船薩摩へ

 この間じょじょに北前船が活躍するようになってきた。

 すでに述べたように、北前船が長崎まで行くようになって、長崎経由の昆布ロードが本格化したのは、1698年(元禄11年)という説が強い(北前船新総曲輪夢倶楽部、2006,88頁)。長崎の唐人屋敷を経由して、北前船が蝦夷からもたらす海産物が中国へ送られ、中国からは薬種などがもたらされた。

 ところが北前船が蝦夷の昆布を直接薩摩に運ぶようになったのはいつか。はっきりしない。量的にはっきりしているのは1799年頃からである。薩摩藩は、1804年頃から新潟の廻船問屋を介して、北前船で買い込んだ大量の昆布などを、琉球を通して中国で売りさばいた。あるいは、北前船は蝦夷で昆布を積んで薩摩まで行った。ただし薩摩で北前船は終わり、そこで積み替えて、薩摩の船で琉球へ運んだ。琉球は異国であり、また琉球への渡航は禁止されていたのである(読売新聞 1997 62-63、73頁)。北前船はここでは抜荷に関係していたわけである。

 昆布が薩摩へ運び込まれていた様を、松浦静山の『甲子夜話』が記録している。1826年(文政9年)3月、越前国丹生郡下海浦の蓬莱屋庄右衛門の持ち船寶力丸700石が、沖船頭喜右衛門以下9人で、蝦夷の松前へ行き、三ツ石で昆布を仕入れ、8月に出発した。西回り航路を取って、若狭国丹生浦(にうのうら)、但馬国柴山を経て、9月に薩摩へ向かった。しかし、薩摩の松島沖で嵐に遭遇して漂流した。そして清国に漂着したが、漁民に助けられて、1827年8月に生還した(上原 1990 213-214頁)。

このように、薩摩藩の密貿易には、越前のほか、越中、越後の北前船が関係し合っていた。越中の売薬がここに入ってくるのは、この後である。

参考文献

荒野泰典『近世日本と東アジア』東京大学出版会 1988年
荒野泰典編『江戸幕府と東アジア』吉川弘文館 2003年
荒野泰典他編『地球的世界の成立』吉川弘文館 2013年
上原兼善『鎖国と藩貿易ー薩摩藩の琉球密貿易』八重岳書房 1990年(初版1981年)
上原兼善『近世琉球貿易史の研究』岩田書院 2016年
植松三十里『富山売薬薩摩組』エイチアンドアイ 2023年
植村元覚『行商圏と領域経済』ミネルヴァ書房 1959年
淡海(おうみ)文化を育てる会『近江商人と北前船』 サンライズ出版 2001年
神長英輔「近世後期の蝦夷地におけるコンブ漁業の拡大」『新潟国際情報大学国際学部紀要』 第7号 2022年
菊地勇夫『アイヌ民族と日本人―東アジアのなかの蝦夷地』朝日新聞社 1994年
北日本新聞社編集局編『昆布ロードと越中 海の懸橋』北日本新聞社 2007年
幸田浩文「富山商人による領域経済内の売行商圏の構築―富山売薬業の原動力の探求―」『経営力創成研究』東洋大学経営力創成研究センター 第11号 2015年
越崎宗一『北前船考 新版』北海道出版企画センター 1972年
白山友正『松前蝦夷地場所請負制度の硏究』慶文堂書店 1971年(初版1961年)
徳永和喜「薩摩藩密貿易を支えた北前船の航跡―琉球口輸出品「昆布」をめぐってー」『ドーンパビリオン調査研究報告書』鹿児島県歴史資料センター 1992年3月28日
徳永和喜『薩摩藩対外交渉史の研究』九州大学出版会 2005年
平岩弓枝『はやぶさ新八御用旅(四)北前船の事件』講談社 2006年
深井甚三『近世日本海海運史の研究―北前船と抜荷』東京堂 2009年
牧野隆信『北前船の時代―近世以後の日本海海運史』教育社歴史新書、1979年
松浦武四郎『アイヌ人物誌』青土社 2018年
村田郁美「薩摩藩の動きから見る富山売薬行商人の性格」『人間文化学部学生論文集』第13号 2015年
読売新聞北陸支社編『北前船 日本海こんぶロード』能登印刷出版部 1997年
函館市地域史料アーカイヴ
  https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100050/ht004040

(「世界史の眼」No.55)

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「世界史の眼」No.54(2024年9月)

今号では、南塚信吾さんに「世界史の中の北前船(その3)―蝦夷とアイヌと昆布―」を、木畑洋一さんにクリシャン・クマーの『帝国 その世界史的考察』の書評をご寄稿頂いています。

南塚信吾
世界史の中の北前船 その3―蝦夷とアイヌと昆布―

木畑洋一
書評:クリシャン・クマー(立石博高・竹下和亮訳)『帝国 その世界史的考察』(岩波書店、2024年)

クリシャン・クマー(立石博高・竹下和亮訳)『帝国 その世界史的考察』(岩波書店、2024年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

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世界史の中の北前船 その3―蝦夷とアイヌと昆布―
南塚信吾

2.《場所請負制》とアイヌ

(1)「場所」―商人の漁業経営

 享保年間(1716-35年)から元文期(1736-1740年)に、蝦夷の支配体制が「商場知行制」から「場所請負制」へ移行したと考えられている。商場知行制は、もっぱら交易を中心としていたが、場所請負制は、交易權と漁業権をふくみ、むしろ漁業経営が中心となった。そうなると、商人の性質が変わってきた。商場知行制のもとでは、蝦夷の物産を上方に輸送する本州商人が主役であったが、今や、松前藩の公商で、漁業を経営することもできる商人(主として近江商人)が主役となった。そして商人たちは近隣のアイヌなどを使役して漁場を直接経営するようになった(菊地 1994 111-112頁;淡海文化を育てる会 2001 117頁;神長 2022 54頁)。

 享保年間に「場所請負制」が始まると、近江商人は、松前氏の給人から「場所」を請負い、漁場経営を任された。近江商人たちは自らの裁量で漁場を運営し、干鱈、干鰯、干鮑、ニシン、昆布、わかめなどを入手した。同時に、かれらは、「場所」につくられた交易所において、アイヌから毛革や金や海産物を獲得した。かれらは、獲得したものを松前氏に上納したほか、「荷所船」によって近江を経て京・大坂に送り、逆に日用品や米、衣類を買い入れて、アイヌとの交易にあてたりした(淡海文化を育てる会 2001  115頁)。アイヌの漁民たちから言うと、かれらは、採取した毛皮や昆布などを交易所に持ち込み、そこで「運上屋」の商人を通して、内地などから来た米や雑貨の交易用品と交換した。この様子は、小説ながら鳴海章『密命売薬商』(集英社文庫 2017年)にたくみに描かれている。

 すでに見たように、1698(元禄11)年、幕府は海産物の乾物(俵物と諸色)を中国向けの重要貿易品として指定し、海産物の貿易体制を公式に打ち立てていた。このとき、昆布も諸色として認められ、以後、昆布は重要な産品となっていた。輸出用の国際商品としてコンブが「発見」されたのである。1785年(天明5年)には、幕府は長崎の会所の下に長崎俵物役所を置き、俵物や諸色を各地から直接買い集める体制を強化した(神長 2022 55頁)。近江商人の商いはこれに繋がっていった。

 しかし、18世紀半ば以後、近江商人の独占状態に変化が起こる。多くの近江商人は商場知行制の流通制度に拘束され、運上金の引き上げに耐え切れず、場所請負制に乗ることのできた近江商人以外は、生き残れず、非近江系商人が台頭してきた。例えば、淡路出の高田屋嘉兵衛は箱館を拠点に活躍し、択捉までの航路を開拓した(淡海文化を育てる会2001 117頁)。こうして、さまざまな出身の商人が場所請負制に入り込んできて、18世紀の末までには、場所請負制が蝦夷地(北海道)全域に行きわたり、請負人によるアイヌ支配が確立した(荒野 1988 51頁)。

 18世紀末から19世紀初めにかけて北の隣人であるロシア帝国との緊張が高まると、1807年に、幕府は松前藩から東蝦夷地、次いで西蝦夷地を召し上げて直轄した。そして、対外的な緊張が弱まった1821年に、幕府は松前藩に蝦夷地を返したが、幕末の1855年には北辺防備のために蝦夷地をふたたび直轄にした(神長 2022 56頁)。こういう直轄化をとおして、「場所請負制」は強化されていった。 

(2) 昆布漁場 

 17世紀末に幕府が俵物と諸色を対中貿易の重要品目と指定し、昆布も諸色として認められ、こうして新たな輸出用の国際商品としてコンブが「発見」された後、18世紀から19世紀半ばにかけて、蝦夷地の各地でコンブの新漁場が開発された。

 18世紀の前半は、おもに近江商人の手によって箱館周辺で生産されたコンブが松前から敦賀や近江、ないしは瀬戸内海を経由して大坂に運ばれていた。18世紀半ばまでの松前昆布の産地はおもに松前地の吉岡(現在の渡島地方)から東蝦夷地のエトモ(現在の胆振地方)あたりであったが、1780年代前半(安永末から天明初)にはそれがミツイシ(三ツ石=現在の日高地方)まで広がった。1780年代に幕府が密貿易を取り締まるためにコンブの集荷を強化すると、産地はさらに広がった。18世紀の末には和人とアイヌのコンブ交易の場が蝦夷地の北の端まで広がった。

 19世紀前半の西蝦夷地では、トママイ(現在の苫前)とテシホ(現在の天塩)もコンブの産地として知られるようになった。東蝦夷地のコンブ業は18世紀の末にクスリ(現在の釧路)やアツケシ(現在の厚岸)に達していた。そして19世紀初めにはネモロ(根室)で高田屋がコンブ漁業をはじめて試みた(神長 2022 57-58頁)。

 7月ごろに漁場で採られた2メートルから3メートルの長さの昆布は、乾燥させて、長さを揃えて束にし、8-9月に場所に出され、場所の商人に買い付けられた。対価は、本土からの日常用品などの原物であった。

(北海道漁連)https://www.gyoren.or.jp/konbu/rekishi.html

(3) 労働力としてのアイヌ  

 「場所」では商人が近隣のアイヌなど使役して漁場を直接経営するようになった。場所の中核施設は運上屋であり、ここで支配人・通詞・帳役などが場所を管理した。場所の労働者はおもに番人・職人・漁民からなり、漁民としてはアイヌと、定住ないし出稼ぎの和人が働いた。

 18世紀末までの松前藩は、蝦夷地への和人の立ち入り(蝦夷地往住)を厳しく規制していたが、実際には遅くとも18世紀後半から多くの和人の出稼ぎ労働者が蝦夷地で漁業に携わっていた。厳しい取り締まりのなかでも、漁業の発展とともに和人の人口が増え、アイヌの人口が減っていった。そして、幕府による直轄が始まった19 世紀初めから、幕府は和人に対して蝦夷地への積極的な移住と出稼ぎを勧め、出稼ぎ労働者は東西蝦夷地ともにいちじるしく増えた。松前藩による支配が復活した後もこの傾向は続いた。その結果、和人地に近い蝦夷地ではアイヌ人口が激減した。和人との雑居を好まないアイヌたちの移住が一つの要因だが、和人との雑居による感染症の蔓延も大きく影響したのだった(神長 2022 60-61頁)。

 しかし、アイヌの人口が全体として減ったとはいえ、昆布獲りについては、冷遇されたアイヌの労働力に依ることが大きかった。アイヌは男も女も昆布獲りに働かされた。昆布を取るアイヌは、各「場所」に組織され、交易所で取り締まられていた。各漁場では、アイヌは、酋長(おとな)、小使(こづかい)、土産取(みやげとり)という役を置いて、共同体をなしていた。昆布獲りには、アイヌは、場所のアイヌ部落だけでなく山の方からも降りてきて、漁場近くの海岸に小屋を設けて働いていたという。アイヌが「漁業や昆布とりに雇われてよそに行く」こともあった(松浦 2018 66,299頁)。

 19世紀以前のアイヌにはそもそも季節ごとに生活の本拠地を替える習慣があり、蝦夷地の各地で多くのアイヌが春から秋にかけての集落(サクコタン)と冬の集落(マタコタン)を行き来していたが、和人による労働者としての使役が各地で広がった19世紀半ばにこうした習慣がほぼ消滅したという(神長 2022 62頁)。

 多くの場所でのアイヌの労働条件はきわめて悪く、「場所」を管理する和人たちから長らく暴力的な支配と差別的な扱いを受けていた。アイヌの労働に対する対価は不当に少なかった。場所での労働の対価としてアイヌに支給された賃金は最大でも和人の4 分の1だったし、和人がアイヌから海産物を買い取る場合は、同じ海産物でもアイヌからの買上げ価格は和人からの買上げ価格の3 分の1 だった。この時期のアイヌの生活には、日本製の商品が欠かせないものになっていたが、場所での和人との交易では、これらの商品の価格が不当に高く設定されていた(神長 2022 64頁)。

 このようなアイヌの労働力に支えられて獲られた昆布などは、どのように取引されたのか。

3. 蝦夷から見た交易

(1)「荷所船」

 松前藩は藩の内外に行き来する人と物を厳しく管理した。内地から蝦夷地へ来る船が入る港は、福山(松前の港)、江差、箱館に限られ、これ以外の港での交易を禁じられた。それぞれに「沖口番所」が設けられて、船舶・積荷・旅人の出入りが取り締まられ、規定の税が徴収された。密貿易はきびしく禁止されていた。さらに三港には、それぞれ問屋(商人)があって、他国よりの貨物、他国への貨物は、必ず問屋を通して売買することになっていた。問屋は貨物の売買を仲介し、売買代金の一定額を口銭として受け取った。そのほか、問屋は、船出が移入したり移出したりする貨物を沖口番所に届け出て検査を受け、沖口口銭(つまり関税)を船主から取り立てて、役所へ届けた。これらの問屋を松前氏が統括していたのである。奥蝦夷地へ往来する船も必ずこの三港のいずれに寄って、こうした手続きを経なければならなかった。こうして蝦夷地に入った貨物は、和人地で必要なものを除くと、蝦夷地の各「場所」に送られて、蝦夷交易用品として使われた(越崎 1972 16-17頁)。

 これに伴って、近江商人らの「荷所船」の動きも変化した。「荷所船」はこれまでは賃積みであったが、いまや場所請負人が船を所有して直接輸送したり、北陸の船主・船頭が松前・江差・箱館で自ら取引を行ったりする買積み船が登場してきた。ここに「北前船」の素地が生まれることになるのである。買積みというのは、運賃を取って依頼荷物を運ぶ運賃積みに対して、船主・船頭が、商い荷物を自ら買い込んで自分の船で運び売り捌くもので、相場の地域間格差を利用して儲けを得るのであった(菊地 1994 118,165-167頁)。 

 福山(松前の港)、江差、箱館の湊はこのあと繁栄を迎えるが、それぞれに違った役割を持っていた。松前は、船の出入りする湊としては、江差・箱館に劣るが、城下町として当初は沖の口改めを独占していた。場所請負制の下で発展した江差と箱館の間では、箱館が大坂、長崎向けの昆布の積出、江差が木材と鰊の積出で栄えた(菊地 1994 119-121頁)。逆に、内地から蝦夷地への移出品は、津軽、羽後、越後、越中などからの米、出羽大山、越後、大阪からの酒、敦賀、津軽よりの縄筵、瀬戸内海各地よりの塩、大阪などからの木綿その他雑貨類がおもなものであった(越崎 1972 16頁)。  

 やがて1850年代になって、越中の売薬行商人も蝦夷地に入り込んでくる。彼らは、近江の売薬商と競争しつつ、渡島、釧路など蝦夷地に入り込むのだった(植村 1959 129-131頁)。

   (菊地 1994 150頁)

(2) 北のルート

 ここで無視できないのは、北の交易ルートである。北の交易ルートには、二つのものがあった。一つは、西蝦夷地から樺太、山丹、満洲へとつながるもので、いま一つは、東蝦夷地から千島、カムチャツカへとつながるものであった。これらのルートは17世紀の初めには幕府と松前藩によって認知されていた。これらのルートは、松前藩の交易船が直接取引をし、そこには家臣も商人も入れなかった(菊地 1994 151-155頁)。山丹ルートでは宗谷が、千島ルートでは厚岸が松前藩の交易船が行く最果ての「商場」であった(菊地 1994 151-155頁)。

 山丹ルートは、松前から宗谷を経て、樺太の南端ノトロ岬の白主(しらぬし)に至り、樺太を経て、北方の黒竜江(アムール川)下流の住民である山丹(サンタン)人を通じて満州にいたる日満貿易のルートであった。樺太では、樺太アイヌが交易を担っていたが、山丹人が入り込むこともあった。やがて交易が広がるにつれ、1790年(寛政2年)に、このルートの会所は、宗谷から白主に移っていくことになる。そこでは、アイヌに漁法を教えたりした(白山 1971 863頁;菊地 1994 155-158、161-163頁)。このルートから「蝦夷錦」などの唐衣やラッコなどが入ってきていた。

 千島ルートは、千島アイヌに担われて、厚岸から南千島のクナシリを経てさらに北千島の占守(シュムシュ)、さらにはカムチャツカにまで至り、猟虎などをもたらしていた(菊地 1994 158-161頁)。ここにはロシア人も入ってきていた。大黒屋光太夫が漂流し帰国した後の1799年に、ロシア帝国の国策会社ロシア・アメリカ会社ができ、19世紀には、同社はアリューシャン列島、千島列島、ロシア領アメリカ(アラスカ)における毛皮や鉱物の採取の特権を与えられて、イルクーツク、カムチャツカ、シトカなどを拠点に活動していた。毛皮の入手には現地のアイヌとも接触していた。こうして、ロシア、シベリア、アラスカへの口は繋がっていた。

 やがて北前船は、この二つの北方ルートから運ばれた「蝦夷錦」その他の品を、昆布など蝦夷の物産と共に本土へもたらすのであった。また、のちに漂流した北前船の長者丸は、最後にはシトカから、千島列島を経て、帰国することになるのだった。

参考文献

荒野泰典『近世日本と東アジア』東京大学出版会 1988年
荒野泰典編『江戸幕府と東アジア』吉川弘文館 2003年
荒野泰典他編『地球的世界の成立』吉川弘文館 2013年
淡海(おうみ)文化を育てる会『近江商人と北前船』 サンライズ出版 2001年
植村元覚『行商圏と領域経済』ミネルヴァ書房 1959年
神長英輔「近世後期の蝦夷地におけるコンブ漁業の拡大」『新潟国際情報大学国際学部紀要』 第7号 2022年
菊地勇夫『アイヌ民族と日本人―東アジアのなかの蝦夷地』朝日新聞社 1994年
越崎宗一『北前船考 新版』北海道出版企画センター 1972年}
白山友正『松前蝦夷地場所請負制度の硏究』慶文堂書店 1971年(初版1961年)
牧野隆信『北前船の時代―近世以後の日本海海運史』教育社歴史新書、1979年
松浦武四郎『アイヌ人物誌』青土社 2018年

(「世界史の眼」No.54)

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書評:クリシャン・クマー(立石博高・竹下和亮訳)『帝国 その世界史的考察』(岩波書店、2024年)
木畑洋一

 帝国というものへの関心は、第二次世界大戦後における脱植民地化進展の結果薄れたと思われたが、冷戦の終結による東欧社会主義圏とソ連の解体以降高まりを見せ、21世紀に入ると、「アメリカ帝国」論の浮上によってさらに強まっていった。そして最近では、ウクライナ戦争やガザ戦争の勃発によって、帝国に関する議論は新たな盛行を見せている。

 この間、世界史のなかでの帝国の歴史を鳥瞰し、それがもってきた意味を論じようとする著作も、いろいろとあらわれてきた。すぐ頭に浮かぶすぐれた作品をあげてみただけでも、ロシア帝国史の研究者ドミニク・リーベン(『帝国の興亡』日本経済新聞社、2002)やイギリス帝国史の専門家ジョン・ダーウィンの著書(『ティムール以後 世界帝国の興亡1400-2000年』国書刊行会、2020)、ロシア帝国史のジェイン・バーバンクとアフリカ史のフレデリック・クーパーの共著(Jane Burbank and Frederick Cooper, Empires in World History: Power and the Politics of Difference, Princeton and Oxford: Princeton University Press, 2010)などがある。歴史社会学者としての仕事を積み上げてきた著者クリシャン・クマーによる本書も、そうした系列に連なる本である。

 本書は、時間的にみても空間的にみても多様な存在である帝国という政体の性格に、広い視野のもとで迫ろうとする試みである。限られたスペースでそれを行うことは至難の技であるが、本書はその課題に果敢に取り組んで刺激的な議論を展開している。

 本書は時間的には、二つの「裂け目」もしくは「分水嶺」(第一は紀元前1000年頃で世界宗教が登場してくる時期、第二は15~16世紀のヨーロッパにおける「発見の旅」とともに始まる征服と植民地化の時期)を設定しつつ、古代から現在までを対象としている(vii、以下カッコ内の数字は本書の頁数を指す)。一方空間的には、ヨーロッパに重点を置きつつも、それ以外の帝国にもかなりの関心を払っている。とりわけ中華帝国が詳しく扱われているのが特徴的である。

 時間的な議論に関して言えば、19世紀におけるいわゆる「帝国主義の時代」の画期性が等閑視されていることに、評者として不満をもつが、その点については後で触れたい。また空間的には、著者自身断っているように(viii)、コロンブス到達以前の南米の帝国やアフリカの帝国がほとんど扱われていないし、さらに評者としては、日本帝国にも今少しスペースが割かれて然るべきであったとも思うが、これらについての議論を求めるのは、ないものねだりの類であろう。

 ここで本書各章の内容を簡単に紹介しておこう。

 まず序文では、世界的な体験として帝国の歴史を扱う本書の意図が示され、二つの分水嶺と、「帝国移動」という概念とが紹介される。

 第1章「時間と空間のなかの帝国」では、二つの分水嶺の意味が論じられる。第一の分水嶺については、それ以前の旧帝国(エジプトなど)と異なり、この時代に生まれた「古典文明」時代の帝国(ローマなど)が、普遍主義的なイデオロギーを伴っていたことで大きな影響力をもった点が強調される。第二の分水嶺に関しては、その後に展開しはじめた「海外帝国」の性格に注意が促され、スペイン帝国に比べて軽視されがちなポルトガル帝国の重要性が再評価される。

 第2章「東洋と西洋の帝国の伝統」は、「帝国移動」概念を用いてローマ帝国の伝統を軸とするヨーロッパにおける帝国の系譜を論じた後、中華帝国の歴史をかなり詳細に論じる。その上で、西洋におけるローマ帝国とその後継者と同じような意味で中国は帝国だったのかと問い、それに肯定的な答えを与えている。さらにイスラームの帝国についても述べているが、中国に比べてその扱い方は軽い。

 「支配者と被支配者」と題される第3章では、帝国では国民国家においてよりも支配者と被支配者の関係が対立的であるとする通念への疑問が出され、両者間に対立も当然見られたものの、協力や共謀、実際的な妥協といった多様な関係が存在したことが説明される。

 評者の見る所では、本書の中心部分と言えるのは、次の第4章「帝国、ネーション、国民国家」である。本書の帯にある「多くの国民国家は帝国のミニチュアである」という印象的な一文も、この章から採られている(127)。この章で著者は、普遍主義的でマルチナショナルな帝国と均一性・均質性の達成をめざす国民国家との間の原理的な差異を前提としつつも、実際の歴史的様相においては帝国と国民国家の間に類似性が存在し、「帝国から国民国家へ」という変化の過程もはっきりしたものではないと主張する。その際著者が着目するのは、国民国家の内部の多様性(「国内植民地化」という考え方の援用など)であり、帝国の時代と呼ばれる時代が終わった後にも、アメリカやソ連が帝国的権力として存続していることである。現在の中国についても、それが中華帝国の姿を回復していることが指摘されている。

 それに次ぐ第5章「衰退と滅亡」では、帝国の衰退・崩壊をもたらした要因が分析される。ここでもまず中国の例が詳しく取りあげられ、清帝国を崩壊させた中心的要因が、ナショナリズムではなく清帝国を巻き込んだ戦争であったと主張される。その考え方は、第一次世界大戦を通じての各陸上帝国の解体、第二次世界大戦後の各海外帝国の解体(脱植民地化)にも適用され、ナショナリズムの意味が相対化されて「帝国のおもな解体要因は戦争だった」(177)という断言がなされるのである。

 本書の最後の部分である第6章「帝国後の帝国」では、それぞれの帝国が解体した後も、その影響がさまざまな形で世界に残ることが説明された後(ここで最も詳しく扱われるのはハプスブルク帝国である)、脱植民地化後の「逆植民地化」と著者が呼ぶ旧帝国支配地域への移民の問題が論じられる。さらに現在の世界において、ロシアやアメリカ、中国に加えて、EUについても帝国性の存続が指摘され、「混乱の度を深めていく世界において、帝国が何らかのかたちで、秩序にとって必要だと考える人も出てくるだろう」(241)という観測が述べられるのである。

 このような内容の本書は、かなりの包括性をもって世界史のなかの帝国を論じた研究として、重要な意味をもっている。なかでも、本書の中心的主張であると思われる帝国と国民国家の間の類似性や継続性という点は、それを著者ほど強調しすぎることには問題があるとしても、重要な議論であり、さまざまな研究の展望を開くものである。

 ただし、本書で提示されている帝国像、とりわけ第二の分水嶺以降の帝国像について、評者は大きな疑問を抱いており、その点を以下で述べてみたい。この疑問は、本書に関するものであるばかりでなく、本書が一つの代表例となっている近年の帝国史研究の全体的趨勢にも関わるものである。

 第一の疑問点は、帝国支配のもとで見られ、帝国支配の根幹をなした暴力性というものを、著者が過小評価している点である。帝国における暴力的契機についての著者の考えは、「帝国には暴力が入り込む余地があったが、帝国は暴力を引き起こすのと同じくらい、それを抑制する機能も有していた」(226-227)という一文に集約される。もちろん帝国支配のあらゆる局面が暴力でいろどられていたわけではないし、帝国支配の成立・存続に際しては同意・協力といった契機も必要であり、そうした行為による秩序の維持は重要であった。しかし、著者の帝国論においては、また近年の帝国論の多くのなかでは、この後者の側面が過度に前面に押し出されて、暴力的契機が後景に退けられるきらいがある。著者が重視するのが帝国における秩序であることから、内容紹介の最後で触れた一文につながる帝国支配評価の姿勢が生まれてくるのである。

 本書の第3章で支配者と被支配者の間の対立面が軽視されているのも、著者のこの基本姿勢のあらわれであり、植民地の成立や維持過程の節目節目で生じた対立やそれに伴う暴力が軽視される形で、帝国が論じられている。

 先に「帝国主義の時代」の画期性への着目が必要だったのではないかと記したが、暴力軽視の問題はその点にも関わる。この時代は帝国主義列強によって世界が分割され尽くした時代であったが、そこではヨーロッパで「平和」が続いていったのと対照的に、植民地世界では数多くの戦争(植民地戦争)が生じていた。本稿執筆時に続いている「ガザ戦争」でも見られる犠牲者数の極端な非対称性などを特色とするこうした戦争が頻発するなかで、世界史のなかの帝国は新たな段階に入っていったと評者は考えている。こうした植民地戦争は帝国を論じる上で重要な要素であるが、著者の議論のなかでは軽視されており、それと連動する形で「帝国主義の時代」における世界の変容も看過されていると思われる。

 第二の疑問点は、第5章における、帝国の衰退・滅亡要因の検討に際しての、ナショナリズムの位置づけ方である。前述したごとく、著者はナショナリズムが果たした役割を相対化しつつ、戦争(両世界大戦)による帝国支配国側の変化という要因を重視している。もとより、脱植民地化が実際に展開していた時期の議論に見られたように被支配側のナショナリズム、民族運動の力をもっぱら強調することは、バランスを失しており、帝国支配国側の要因を十分に考慮することは必要であるが、著者はそちらの要因を過大評価しているのである。しかも、本書ではそうした戦争要因の内実に踏み込んだ分析はなされておらず、「すべてのヨーロッパの大国が、戦争によって経済的、軍事的、心理的に疲弊した」(179)といった一般論が述べられるのみである。その一方で、戦争といっても、植民地支配の暴力性に対する形で被支配側が引き起こした独立戦争の意味(これは当然ナショナリズム評価に関わる)は軽視されている。

 このような問題をはらむ本書は、著者が何度か好んで引用しているニーアル・ファーガソン(イギリス帝国の歴史を称揚し、アメリカもそれをモデルとすべきであるとの主張を展開したことで知られる)に似て、支配する側からの視線で帝国の歴史をポジティブに描き、そうした帝国性をもつ国際秩序をこれからの世界でも追求していこうとする試みに堕しかねない危うさをもっている。豊富な内容をもつだけに、その点によく注意しつつ接するべき書であろう。

(「世界史の眼」No.54)

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「世界史の眼」No.53(2024年8月)

今号では、小谷汪之さんに「大連からの世界史(下)―大連の発展と中国人移住労働者―」を、また、南塚信吾さんに「世界史の中の北前船(その2)―松前とアイヌと昆布―」をご寄稿頂いています。「大連からの世界史」は今号で完結します。また、東京経済大学の早尾貴紀さんに、昨年刊行されたラシード・ハーリディー著『パレスチナ戦争―入植者植民地主義と抵抗の百年史』を書評して頂きました。

小谷汪之
大連からの世界史(下)―大連の発展と中国人移住労働者―

南塚信吾
世界史の中の北前船(その2)―松前とアイヌと昆布―

早尾貴紀
書評 ラシード・ハーリディー著『パレスチナ戦争―入植者植民地主義と抵抗の百年史』鈴木啓之、山本健介、金城美幸訳、法政大学出版局、2023年刊

ラシード・ハリーディー(鈴木啓之、山本健介、金城 美幸訳)『パレスチナ戦争―入植者植民地主義と抵抗の百年史』(法政大学出版局、2023年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

世界史研究所のメンバーが中心になって企画した『歴史はなぜ必要なのか』(岩波書店、2022年)が、『立命館アジア・日本研究学術年報』第4号(2023年8月)にて書評されました。とてもしっかりとした書評で、ありがたく受け止めました。下記に公開されていますので、ご覧ください。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ritsumeikanasiajapan/4/0/4_180/_pdf/-char/ja

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大連からの世界史(下)―大連の発展と中国人移住労働者―
小谷汪之

はじめに
1 夏目漱石「満韓ところどころ」
2 大連の油坊
(以上、前号)
3 中島敦「Ⅾ市七月叙景(一)」
4 清岡卓行『アカシアの大連』
おわりに
(以上、本号)

3 中島敦「Ⅾ市七月叙景(一)」

 中島敦に「Ⅾ市七月叙景(一)」という作品がある。第一高等学校『校友会雑誌』第325号(1930年1月)に掲載されたもので、「Ⅾ市」(大連)に関係する三題話といった趣の作品である。その三番目が大連港や大連の油房で働く「クーリー」(苦力)の話で、次のように始まる。

 〔大連の〕「港は七月の午後の日ざしにあえいで居た」。「トロッコのレールを避けて、埠頭倉庫の日陰に荷揚苦力が二三十人も、ゴロゴロと死んだ様になって眠って居た」。「その中に、たった一人起きて居る男が居た。彼は右手で瓜のかけらをもって齧りながら、〔中略〕さっきからボンヤリと陸の方を眺めていた」。「しばらくすると、埠頭事務所の入口の扉硝子が内側から開いて、恐ろしく背の高い痩せた苦力が一人、元気なく出てきた」。「瓜を喰って居た男は鈍い黄色い目を上げて、その男を仰いだ」。「?」、「駄目だったよ。とても」、「何処もか?」、「ウン」。「二人は互にがっかりした顔を見合せた」。「二人は、ぐったりして暫くの間動かなかった」。「背の高い方が突然立ち上がった」。「おい何処かに行こう」、「こんな所に居ても、仕方がないじゃないか」。「歩きながら一人は、もう一度心配そうにたずねた」。「お前、どうする気だ?ほんとに」、「分らんよ、どうにか、なるだろう」、「営口へでも行くか。歩いて。あそこなら少しはいいかも知れんぞ」。「一人は、それには答えずに、不機嫌そうな顔をして黙々と歩み続けた」。(『中島敦全集1』筑摩文庫、364-367頁)

 「クーリー」(苦力)たちは仕事を求めて大連市中をさ迷い歩くが、どこにも仕事は見つからない。その状況について中島は次のように書いている。

 此の地方の主要工業製品である豆粕や豆油が、近来、外国のそれに圧倒されてきたこと。殊にドイツの船などは、直接此の港から大豆のままを積んで本国の工場に持ち帰って了うこと。それに第一、肥料としての豆粕が、近頃はすでに硫酸アンモン〔硫安〕にとって代られて居ること。こんなことを彼等苦力が知ろう筈はない。七月に入ってから、このD市内の、バタバタ閉鎖して行った油房の最後まで残って居たS油房が昨日の朝閉じることになった時、彼等は全く途方に暮れて了った。彼等は早速沙河口の〔満鉄の〕鉄道工場や、硝子工場に行って見た。だが、空いて居る筈はなかった。彼等は、それで波止場に来た。だが、今は一年中で一番ひまな時であった。六月から十月迄、――之が此の港でいう所の閑散期であった。(『中島敦全集 1』筑摩文庫、367頁)

 中島のこの記述については、『満洲日報』の1929年の各号の記事に依拠したものであるとする指摘が出されている(安福智行「『D市七月叙景(一)』論―『満洲日報』を視座として」佛教大学国語国文学会『京都語文』、2001年)。『満洲日報』は1907年に満鉄初代総裁、後藤新平の肝いりで大連において発刊された『満洲日日新聞』の後身で、1927年に『遼東新報』を併合した際に『満洲日報』と改称された。『満洲日日新聞』(『満洲日報』)は満鉄の準機関紙的な性格の強い新聞であるが、当時の満洲においては有力な新聞であった。1935年、『大連新聞』を併合した際、『満洲日日新聞』という旧称に戻された。したがって、中島が資料として利用したとされる1929年の各号はたしかに『満洲日報』の名のもとに発行されていた。

 上引の中島の記述のうち、『満洲日報』の記事に依拠しているのではないかとされているのは主に次の二点である。(1)「特にドイツの船などは、直接此の港から大豆のままを積んで本国の工場に持ち帰って了うこと」、(2)「それに第一、肥料としての豆粕が、近頃はすでに硫酸アンモン〔硫安〕にとって代られて居ること」。(1)はドイツが大豆のまま大連港から本国に積み出し、ベンジン抽出法などの新技術で効率よく豆油や豆粕を製造するようになったということ、(2)は豆粕と同じ窒素肥料である硫安(硫酸アンモニウム)の使用が広がり始め、豆粕と競合状態になってきたということである。これら二点はたしかに『滿洲日報』1929年の各号に同様の記事が見られる。『満洲日報』は日本(東京)でも発売されていたから、中島が『滿洲日報』を購読し、これらの記事を見ていたということは考えられる。その場合、中島は植民地朝鮮の京城中学校を卒業後、第一高等学校に入学した後も満洲の政治・経済状況に深い関心を持ち、『満洲日報』といった一般の人が読まないような新聞を購読していたということになる。中島は、1925年、京城中学校4年の時の修学旅行で大連、奉天など満洲各地を旅行している。中島の満洲への関心はそこから芽生えたのであろう。

 しかし、1920年代末から1930年代、満洲の豆油・豆粕製造業が不振に陥っていることを指摘し、その原因として上記二点を挙げる文献は他にもたくさんあった。したがって、中島の記述の素材として、『満洲日報』以外の文献を考えることも可能であろう。

 中島の上引の文中、事実と大きく異なる箇所が1か所ある。それは、「七月に入ってから、このD市内の、バタバタ閉鎖して行った油房の最後まで残って居たS油房が昨日の朝閉じることになった」という個所である。これでは、大連の油房がすべて閉鎖されてしまったように読めるが、これはかなりの誇張である。当時、大連の油房が不況に苦しんでいたことは事実だが、1931年になっても、大連では52の油房が営業しており、その半数以上は大豆の破砕に水圧を用いる改良型の油房であった。また、豊年製油大連工場も稼働していた(満鉄商工課編「満洲大豆粕と其飼料化に就いて」)。

 中島は大連の「クーリー」たちの窮状を強調したくて、このような誇張を行ったのであろう。

4 清岡卓行『アカシアの大連』

 清岡卓行(1922-2006年)は大連で生まれ、旧制大連第一中学校卒業まで大連で過ごした。その後、東京に出て、第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部に進学したが、敗戦間近の1945年4月初め、大連に戻った。その時のことを清岡は次のように書いている。

〔大連は〕東京のある大学の一年生であった彼〔清岡〕が、抑えがたい郷愁にかられ、病気でもないのに休学して舞い戻った、実家のあった町、そしてやがて祖国の敗戦を体験し、そのあと三年もずるずると留まることになり、思いがけなくも結婚した町である。(清岡卓行『アカシアの大連』講談社、1970年、87-88頁)

 清岡卓行『アカシアの大連』は数年間の東京生活を間に挟みながら、20数年に及んだ大連での生活やそこでの思索を50歳近くなった清岡が回顧した作品である。ただ、その中に1か所だけ、この作品の全体的な基調音とは際立って異なる部分がある。それは清岡が中国人労働者の集住していた寺児溝という地域を訪ねた時の体験と、大連港において大きな円盤状の豆粕を船に積み込む「苦力」たちの姿を描いた部分である。清岡は次のように書いている。

彼は小学校の六年生頃、大連の東部にあった中国人の居住地、寺児溝の一部における惨憺たる有様を眺め、ほとんど恐怖に近いものを覚えたことがあった。それは、たまたま、その地区にある大きな材木置場の中の日本人の番人の家に遊びに行ったときのことであった。その家の男の子が、彼と同級生で、その誕生日の祝いに招かれたのであった。
 戸外で遊び廻っていたとき、彼は、中国人ふうの普通の家のほかに、崖から崩れ落ちそうになっている、掘立小屋のような家とか、風に吹き飛ばされそうな屋根に重たい石をいくつも載っけて、今にも潰れそうになっている家とか、そのほか貧困そのものの象徴であるような住居を、いろいろと沢山見た。山東から、芝罘チーフで、ジャンに乗って、直隷海峡〔渤海海峡〕を渡ってやってきている中国人の労働者、いわゆる苦力の多くはこのへんに住んでいるのだろうと彼は想像した。そして、共同便所にはいったとき、その壁の隅に「打倒日本」という文字がいくつか落書されているのを見て、もしかしたら自分はここで誘拐されるのではないかと不安を感じた。(『アカシアの大連』139-140頁)
 町の中を走っている電車にも、苦力専用のものがあった。それは寺児溝に通じていた。ほんの少し料金が安いその電車に、彼は小づかい銭を倹約するために乗ったことがあった。そのとき、苦力たちは一様に黙っていたが、車内に漂っている、汗臭く、エネルギッシュな、そして少し大蒜にんにくの匂いが混じっているような空気に、彼はいくらか圧倒されるような気持になったものであった。
 大連埠頭では、船に積み込むため、自動車のタイヤ程もある豆粕の円盤を何枚も、肩にかついで歩く苦力の姿がよく見られた。その光景は、いつまでも繰返される苦役のような感じであった。それが、日本人とは差別された実に安い報酬によるものであるということを、そのときの彼は知らなかった。(『アカシアの大連』140-141頁)

 この清岡の記述は彼が小学校6年生頃のこととして書かれているので、おそらく1930年代半ばの状況を示しているのであろう。

 前述のように、日露戦争後、遼東半島が日本の租借地となると、多くの中国人が仕事を求めて大連に流入した。彼らは大連港や油房の人夫、人力車夫、馬車夫などとして働いていた。1909~10年のペスト流行を機に、彼らをそれぞれの職種ごとに1か所に集住させることを目的として、民間の手で「クーリー収容所」、「人力車夫収容所」などが設営された。「クーリー収容所」は大連埠頭の荷役を一手に引き受けていた満鉄の子会社、福昌公司が経営する収容人員一万人の大収容所であった(「福昌公司 華工収容所」)。この収容所は壁に囲まれまさに隔離の状態にあった(水内俊雄「植民地都市大連の都市形成――1899~1945年」『人文地理』37-5、1985年、62、64頁)。この「クーリー収容所」には、大連港の荷役人夫だけでは無く、油房の中国人労働者も多く居住していたのであろう。「クーリー収容所」に隣接する「大連東部」は油房工場地区だったからである。

 しかし、その後も中国人労働者の流入は続き、大連の都市計画地域の外に、自然発生的に中国人労働者の集落ができていった。清岡がその悲惨さに「ほとんど恐怖に近いものを覚えた」と書いている「寺児溝」もその一つであった。寺児溝は「大連東部」地区よりさらに東南の海岸に近い崖の多い所である。それで、清岡が書いているように、「崖から崩れ落ちそうになっている、掘立小屋のような家」が多かったのであろう。寺児溝の人口は、1935年には、約24000人になっていた(水内前掲論文、64頁)。

 清岡が一度乗ったことがあると書いている「苦力専用」の電車というのは中国人労働者の就業場所と居住地域を往復する電車で、当時、「労工車」と呼ばれていた(水内前掲論文、65頁)。清岡によれば、そのうちの一つの路線が寺児溝まで通っていたということである。「苦力専用」といっても、少年清岡が乗れたのだから、日本人が全く乗れなかったということではないのであろう。

 「大連埠頭では、船に積み込むため、自動車のタイヤ程もある豆粕の円盤を何枚も、肩にかついで歩く苦力の姿がよく見られた」と清岡は書いている。これは人力あるいは水圧で大豆を破砕して豆油を抽出する在来型の油房で産出される豆粕で、大きな円盤状に固められていた。それで、「円糟」(「円粕」)と呼ばれていた。それに対して、ベンジン抽出法により産出される豆粕はバラバラで固められていなかったので「撒糟」(「撒粕」)と呼ばれていた(前掲『満洲大豆』、32頁)。大連埠頭では、1930年代になっても、「円糟」(「円粕」)を何枚も背負って歩く中国人労働者の姿がよく見られたのである。

おわりに

 大連における豆油・豆粕製造業は20世紀初めに始まり、第一次世界大戦期に急速に発展した。しかし、戦後の不況期に衰勢に向かい、大恐慌期には不振状態に陥った。だからといって、衰退しきってしまったわけではなく、1930~40年代にも豆油・豆粕の生産は続けられていた。

 本章で取りあげた3人のうち、夏目漱石は大連のきわめて初期の油房を観察していて、その記述は貴重ということができる。それに対して、中島敦が描いている状況は大恐慌期直前の大連である。まだ大恐慌の直接的な影響が及んでいるようではないが、大連をめぐるある変動を感じ取ることができる。ただし、大連の油房がすべて閉鎖されてしまったかのような記述は文学的潤色としても問題であろう。少年清岡は父が満鉄の技師だったから、南山麓という日本人用の高級住宅地に住んでいたので、大連の「恐怖をも誘う汚い部分」(『アカシアの大連』140頁)に触れることは少なかったが、寺児溝での体験や大連埠頭で働く中国人労働者の姿を通して、「植民地都市」大連における民族的矛盾にうすうす感づいていた。しかし、それを意識化することができたのは大学を休学して、大連に戻ってからであった。

(「世界史の眼」No.53)

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世界史の中の北前船(その2)―松前とアイヌと昆布―
南塚信吾

1. 蝦夷地における《商場知行制》 

 北前船は、蝦夷では松前において、南から運んできた品々を売りさばいて、代わりに昆布などを買い付け、それを南へ運んだ。では、蝦夷ではどのように昆布などが入手できたのだろうか。誰が、どこで、どのような方法で昆布が取れ、売られたのだろうか。それはアイヌの人々を抜きには考えられない。(本稿では、北海道全体を「蝦夷」とし、その中で松前氏を中心とする「和人地」と区別されたアイヌの地を「蝦夷地」と記すことにする。)

(1) 松前藩 

13世紀以降、アイヌの人々は、北はサハリンからアムール川流域の地に始まり、千島、蝦夷を経て、南は津軽・下北半島までを生産と生活の場とし、「交易の民」として活発な活動を行っていた。これに刺激されて、和人も蝦夷に流入し、道南と津軽の地は、アイヌ集団と和人の混在する境界の地として意識されていた。1457年(長禄元年)、渡島半島のアイヌの首領コシャマインの蜂起がおこり、圧倒的なアイヌの攻勢によって、和人はわずかに松前と天の川に集住することになった。この和人の中では、蠣崎氏が勢力を伸ばし、アイヌとの交易を独占する体制を作り、蝦夷地とは区別される「和人地」の原型を作っていった(荒野他編 2013 277―282頁;淡海文化を育てる会 2001 96-98頁)。

(荒野 2003 147頁)

 蠣崎氏は1593年(文禄2年)に豊臣政権より松前での船役徴収権(松前に入る船への徴税権)を認められ、蝦夷松前につき事実上大名領主権を与えられたが、1604年(慶長9年)には松前氏(1599年に蠣崎氏を改め松前氏)は徳川家康によって蝦夷松前での独占的な交易權を認められ、ここに松前藩が確定した。これ以後、松前氏以外のものは松前氏の許可なくアイヌとの交易ができなくなった。アイヌの人々は、交易品を松前城下に持ち込み一定の儀礼を踏まえて藩主に贈り物をし、藩主がアイヌに必要なものを贈るという関係が続いた。「朝貢」的な城下交易であった。アイヌと松前氏の間に何等の支配関係はなく、アイヌは旧来の風俗習慣を守り、コタン(部落)の自活を行ない、もちろん租税などは納めず、松前藩主と直接的なつながりはなかった。

 しかし、1630年代に「和人地」が確定すると城下交易は廃止され、交易は、和人地の外、つまり蝦夷地に設定された「商場(あきないば)」に限定された。松前氏は蝦夷地のアイヌとの通商や漁業をする縄張を「商場」として独占権利化し、アイヌとの交易の権利を「知行」として上級の家臣(給人)に分け与えた。この各地の「商場」において、松前氏の給人は、現地産物と内地産物との交易を行った。この利益が給人の封建給付となった。これを「商場知行制」と言った(白山 1971 9-10、17、31頁;菊地 1994 70-71頁;80-81;荒野編 2003 146頁;荒野他編 2013 283-285頁)。

 「商場」が設定されたのはアイヌが生活し生産をする場である河川流域の漁猟場の中であった。そこに知行主が毎年交易船を派遣して、アイヌと物々交換をした。これはアイヌの漁猟場を破壊することを意味し、アイヌは、特定の商場で特定の知行主としか交易ができなくなり、受動的な立場に置かれた(白山 1971 29-31頁;白山は商場知行制とのちの場所請負制とをはっきりとは区別していない)。

 これは、松前氏及びアイヌが徳川幕府の支配体制に組み込まれたことも意味した。こういう体制の下で、アイヌは次第に従来の生活・交易様式を続けられなくなった。とくにアイヌの交易相手が特定の商場知行主に限定され、交易の自由が奪われた。それへの反発として日高地方で起きたのが、1669年(寛文9年)のシャクシャインの蜂起であった。この蜂起が鎮圧されると、アイヌ社会は崩壊に向かったのである(荒野編 2003 148-149頁;荒野他編 2013 283-285頁)。

(2) 近江商人 

 「商場」において、松前氏の給人は、現地産物と内地産物との交易を行ったが、「商場知行制」のもとでは、知行主の武士(給人)は不得手な漁業経営をし、複雑化したアイヌ社会を相手に苦手な商業をせざるを得なくなった。そこで漁業経営と交易の権利を内地から来た商人に委ね、商人は一定の金額(運上金)のもとにそれを請け負った。実際に交易を主として請け負ったのが、近江の商人たちであった。

 そもそも松前に近江商人が着いたのは1588年(天正16年)と言われる。その後寛永年間(1624-44年)に集中的に近江商人が松前や江差に入った。建部七郎右衛門、岡田弥三右衛門(八十次)や西川伝右衛門などの近江商人は、はじめは松前城下に住んで、呉服、太物、荒物を商い、日常生活に必要なものを上方から仕入れて販売し、松前の物資を上方に売るという商いをした。やがて、かれらは「商場」を請け負ったのである。たとえば岡田家は小樽、西川家は忍路(オショロ)に「商場」を得た。かれらは自分の裁量で漁場を運営し、アイヌを使役して経営を行い、そこで獲れた干鱈(ひだら)、干鰯(ほしか=ほしいわし)、干鮑(ほしひ=ほしあわび)白子、昆布、わかめなどを、近江を経て京・大坂に送り、日曜品や米や衣料を持ち込んだ。松前氏にとっても商人は大事な存在であった。近江商人達は,「両浜組」という仲間組織をつくって,松前藩から,通行税の免除などの特権を与えられた(白山 1971 66-67頁に西川家の忍路の例あり;淡海文化を育てる会 2001 108-111;115頁)。こうした近江商人は、商場知行制の中で蝦夷地産物の商品化に道を開いた。

 近江商人らが「商場」での取引で内地へ送る荷は「荷所荷」と呼ばれ、それを運ぶ船を「荷所船」と呼んだ。「荷所荷」は松前から敦賀ないし小浜の港を経て近江へ運ばれた。そこから、京・大坂へさらに運ばれたわけである。「荷所船」には敦賀から石川の橋立にいたる地域の船主の船が雇われ、船乗りには北陸の船乗りが雇われた(牧野 1979 41頁;菊地 1994 117-118頁;淡海文化を育てる会 2001 121-127頁)。この「荷所船」がやがて北前船に取って代わられることになる。

(3) 昆布とアイヌ  

 松前の近江商人らがアイヌから入手したのは、干鱈、干鰯、干鮑、昆布、わかめなどであったが、やがてニシンや昆布や木材となり、とくに〆粕として肥料に使われたニシンと、中国向け輸出用の昆布が重要な産品となっていった。

 昆布の生育地は、南部・津軽地方の沿岸以北、主として北海道であった。また、昆布の採取は、おもに先住民族であるアイヌによって行われていた。「昆布」の語源は、やはりアイヌ語にあると言われている(函館市地域史料アーカイヴ)。

 日高の方では、アイヌは、昆布はカミサマのお髭だから取ってはいけないと言われていたという(「名勝襟裳岬」《風の館》)。昆布を商品として大量に取るようになったのは、和人が入ってからではないだろうか。

 1643年(寛永20)の『新羅之記録』には、「1640年(寛永17)6月13日、駒ヶ岳が突然噴火して大津波がおこり、百余隻の昆布取舟に乗っていた人々はことごとく溺死した」とある。ただし、『松前年々記』の寛永17年の記には、夏6月に「津波、商船の者ども並びに蝦夷人ども人数七百人死」と記され、松前家の記録である『福山舊記録』にも「津波、商船・夷舶夷船、船人数七百余人溺死」と記されている。文中の商船とは、昆布採取の出稼ぎ、あるいは商(あきな)いに来ている和人の船で、夷舶夷船は、アイヌの船(チップ)と解される。この両書とも和人、アイヌ合わせて七百余人溺死とある(『松前年々記』)。

 上の史料からは、昆布取りには和人、アイヌを含め大勢の漁民が船で乗り出して作業をしていたことが分かる。そこで取れた昆布は乾かして交易所へ持ち込まれ、商人を介して、松前に送られたわけである。

 昆布は長崎における対中貿易と関連していた。1698(元禄11)年、幕府は対中貿易における支払い手段としての銅の生産が減ったので、海産物の乾物(俵物と諸色)を中国向けの重要貿易品として指定し、海産物の貿易体制を公式に打ち立てた。各地から俵物を集荷する体制を整え、長崎には奉行所の監督下で貿易事務を扱う長崎会所が置かれた。このとき、昆布も諸色として認められた。俵物は、煎海鼠(いりなまこ)・乾鮑(ほしあわび)・鱶鰭(ふかひれ)の三品で、諸色海産物は昆布、鯣(するめ)、所天草、鶏冠草、寒天などであった。このうち実際に意味を持っていたのは、煎海鼠、乾鮑、昆布の三品であった。昆布は蝦夷の特産であったから、これ以後、蝦夷にとって昆布が重要な産品となった(菊地 1994 185-186頁;神長 2022 55頁)。

 荒野の言う松前口はこのように始まり展開していった(荒野 2003 146-149頁)。そして、このような昆布を提供するための蝦夷地と和人地の関係は、18世紀の前半、享保年間(1716-35年)から元文期(1736-1740年)以降、根本的に変化するのである。

参考文献

荒野泰典『近世日本と東アジア』東京大学出版会 1988年
荒野泰典編『江戸幕府と東アジア』吉川弘文館 2003年
荒野泰典他編『地球的世界の成立』吉川弘文館 2013年
淡海(おうみ)文化を育てる会『近江商人と北前船』 サンライズ出版 2001年
神長英輔「近世後期の蝦夷地におけるコンブ漁業の拡大」『新潟国際情報大学国際学部紀要』 第7号 2022年
菊地勇夫『アイヌ民族と日本人―東アジアのなかの蝦夷地』朝日新聞社 1994年
白山友正『松前蝦夷地場所請負制度の研究』慶文堂書店 1971年(初版1961年)
牧野隆信『北前船の時代―近世以後の日本海海運史』教育社歴史新書、1979年
函館市地域史料アーカイヴ
https://adeac.jp/hakodate-city/text-list/d100050/ht004040
『松前年々記』
https://jmapps.ne.jp/hmcollection1/pict_viewer.html?data_id=214242&shiryo_data_id=160688&site_id=SIM003BLA&lang=ja&theme_id=SIM003&data_idx=0

(「世界史の眼」No.53)

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書評 ラシード・ハーリディー著『パレスチナ戦争―入植者植民地主義と抵抗の百年史』鈴木啓之、山本健介、金城美幸訳、法政大学出版局、2023年刊
早尾貴紀

 本書は2020年に刊行されたRashid Khalidi, Hundred Years’ War on Palestine: A History of Settler Colonialism and Resistance, 1917-2017の全訳である。著者のラシード・ハーリディーはアメリカ合衆国生まれのパレスチナ人で、近現代アラブ・パレスチナ史の研究者である。そして本書の内容をまずは目次で確認すると以下のとおりである。

序章
第1章 最初の宣戦布告 1917~1939年
第2章 第二の宣戦布告 1947~1948年
第3章 第三の宣戦布告 1967年
第4章 第四の宣戦布告 1982年
第5章 第五の宣戦布告 1987~1995年
第6章 第六の宣戦布告 2000~2014年
終章 パレスチナ戦争の1世紀

 こうして見るとシンプルに通史的であること、各章がひじょうに明確に、1917年のバルフォア宣言(ユダヤ人国家建設への英国の支持表明)、1947年の国連パレスチナ分割決議(および48年のイスラエル建国宣言)、1967年の第三次中東戦争(西岸・ガザ地区の全面占領開始)、1982年のレバノン侵攻(難民キャンプの虐殺とPLOの追放)、1987年の第一次インティファーダ(被占領地からの抵抗運動)、2000年の第二次インティファーダ(オスロ体制の欺瞞への抗議)をそれぞれ起点とした、一般的な時代区分となっていること、が読み取れる。

 しかしそう書くと、よくある概説書とどう違うのかと思われる向きもあるだろう。しかし、本書は以下の3点において、比類のない書物となっている。

 1点目としては、著者がエルサレムの名門一家ハーリディー家(学者や法律家を輩出してきた)の子孫であることから、「曽祖父の叔父」の代からシオニスト(ユダヤ人国家推進者)らと直接の交渉があったり、以降それに抵抗するパレスチナ・ナショナリスト内で「伯父」など親族が重要な役割を果たしたりするなど、深くこの地の政治史に直接関わった家系をもち、それに関する私的な歴史資料への特権的なアクセスを得ていることが挙げられる。その史料は、ハーリディー家の私設図書館に収蔵されており、そこには当事者の日記や書簡などの非公式文書も含まれる。さらには生前に親族から直接聞いていた証言も本書を支える貴重な史料を構成しており、本書はオーラルヒストリーとしての側面も有している。

 序章は、曽祖父の叔父ユースフ・ディヤー・アル=ハーリディーが「シオニズムの父」テオドール・ヘルツルとやり取りをした書簡の分析から始まっており、すでにヨーロッパからの集団入植や土地の大規模購入が、先住民社会への壊滅的打撃を与える可能性について、緊迫した交渉がなされている。冒頭からその展開に引き込まれて読んだ。ヘルツルの『ユダヤ国家』は1896年の刊行、ユースフ・ディヤーの書簡、ヘルツルの返信は1899年。このやり取りの分析のなかに、本書の基底をなす「入植者植民地主義(セトラー・コロニアリズム)」の本質がすでに現れている。その点で、本書の起点は副題にある1917年よりも実際さらに20年は遡る。ともあれ、本書が他の誰にも書き得ない特別な性格を持っているのは、この特権的な史料アクセスによる。(とりわけ第1・2章)

 2点目としては、アメリカ合衆国へ留学し国連で働いていた父のもとで生まれた著者自身が米国で学び学位を取り、そしてレバノン侵攻を挟む時期にはベイルート・アメリカン大学で教員をしながらPLOの活動にもコミットし、その後また米国に戻って米国の大学で教授職を得ながら、PLOと国連や米国政府との交渉にも関わったといった諸経験が、本書の論述の随所に描かれている。その意味で本書は「自伝」という側面も持つ。ハーリディー家という名門出という事情に加えて、パレスチナ人として最初期の米国留学者である父を持つという僥倖も手伝い、PLOの古参の活動家たちが無知ゆえに軽視した米国の圧倒的なシオニズムに対する影響力を間近で冷徹に見極めるという、その世代では稀有な分析力を著者にもたらした。しかも1976年から83年という決定的な時期を家族とともに活動家としてベイルートで暮らしたことは、単なる米国の知識人ではなく、イスラエルによる攻撃の凄まじさ、PLOの過ちや内紛、周辺アラブ諸国政府や党派の脆弱さを、身を以て知る当事者という要素を著者にもたらした。

 その後著者は、米国やパレスチナで交渉の場に立ったりアドバイザーになったりしながら、PLOないし自治政府が苦境に追い込まれていく過程にも立ち会っており、本書にはそうした時代の証言という意味合いもある。(とりわけ第3・4・5章)

 3点目として、分析や論述の内容に関わって。「宣戦布告」という各章のタイトルから年代区分の最初の出来事を焦点化しがちだが、本書においては各章で最も深く注目するのはそこではない。1章では、1922年からの国際連盟のもとでのイギリス委任統治のもとで実質的に「委任統治」の理念を全く逸脱し、先住民のパレスチナ人を無視してシオニスト入植者のユダヤ機関のみに代表性と自治を認めたことが、すでにパレスチナ人の「追放」を前提とした入植者植民地主義の制度化であると指摘している。2章で最も紙幅を割いているのは、アラブ新興独立国の脆弱性(旧宗主国英国への依存と新覇権国米国への無知)と相互の対立とパレスチナの利用である。分割決議とナクバだけで語れる問題ではない。3章で繰り返し焦点化されるのは安保理決議242号の罠である。一見「1967年占領地からの撤退」を求めた文面でありながら、その真意の一つは分割決議を大幅に逸脱したイスラエル領「1948年占領地」(1949年休戦ライン)の自然化・固定化であり、もう一つは撤退のためにイスラエルとアラブ諸国との和平条約を促すことであった。すなわちイスラエルの存在をアラブ諸国に認めさせつつ、パレスチナ問題を消去する狙いがあり、実際これ以降、この決議242が中東和平を規定していく。

 4章では、いかにPLOがレバノン国民の反感を買い戦略的に失敗し撤退に至ったのかを、5章では、いかにインティファーダを担った被占領地内のパレスチナ民衆と在外指導部のPLOとが乖離していたか、そしてPLO指導部の判断の誤りと甘さでオスロ体制という壊滅的な罠(パレスチナ自治など実質皆無なままイスラエルは存在を承認され占領・入植も自在にできる仕組み)に陥ったのかを、6章では、第二次インティファーダでそのオスロへの抵抗の仕方において、PLOもハマースも勝ち目がないどころか逆効果しかない貧弱な武力に頼って自滅していったのかを論じている。総じて、自らも深く関与したPLOに対する批判は辛辣を極める。

 大きく3点、形式と内容から本書の特質を概観した。パレスチナ/イスラエル(シオニズム)の100年史を深く知るうえで、類書を見ない特異な書物であると言える。

 著者の論述に対して違和感を覚えたところを2箇所、触れておきたい。一つは6章の西岸・ガザの分断体制に至った経緯のところで、シオニズム・イスラエルの周到さと米国の影響力を訴える著者にしては、この分断の原因を、内部批判の誠実さとはいえ、PLOとハマースにのみ帰した論述は、分析として甘いと思う。著者は触れてはいないが、西岸地区ではイスラエルがハマースの議員と活動家をあらかた逮捕・一掃し、収監するかガザ「流刑地」送りにしたことからも、西岸地区=PLO支配の継続、ガザ地区=ハマースの封じ込め、という政治体制状の分断構図はイスラエルと米国が意図的に生み出したことである。「その手に乗らない」という抵抗ができなかった責任はパレスチナ側にもあるだろうが、分断体制の創出こそが、それ以降現在まで繰り返し続くガザ地区の封鎖攻撃を可能にしている以上、軽視はできない点である。

 もう一つの違和感は、終章のナショナリズムについての論述である。シオニズムを「血と土」を重視する中央ヨーロッパに由来するものとし、フランス革命やアメリカ革命を支えた自由主義の思想には反する、それゆえ現在のシオニズムも西洋民主主義の価値に反する、としているところは、フランス革命後のユダヤ人解放と市民社会化の失敗・挫折、排外主義的国民主義と反ユダヤ主義からシオニズムが生まれ出ていることを忘れてしまっている。現在のガザ攻撃においてネタニヤフ首相とヘルツォーグ大統領が揃って繰り返し「これは西洋文明を守る戦争だ」と欧米諸国に支援を求めていることもそこに繋がっている。

 またこのナショナリズム観と関わり同箇所において、シオニズムというユダヤ・ナショナリズムが生まれたことと、パレスチナ・ナショナリズムが生まれたことも、ともに「同様に偶然の積み重ね」であり、「入植者か先住者かといった違いは意味を持たない」という相対化をしているのは、著者が反論を予期しながら書いているとはいえ、やはり過度な短絡と感じる。イスラエルとパレスチナの相互承認と平等な共存を求めるためのレトリックという要素も認めるが、しかし著者自身のとりわけ序章・1章・2章の「入植者植民地主義」をめぐる周到な論述・分析を自ら無化させかねない性急さであると言わざるを得ない。

 最後に翻訳について。訳者たちの正確でかつ読みやすい翻訳を迅速に完成させ、大規模なガザ攻撃という事態のさなかに世に出されたことに感謝したい。一点だけ、本書の日本語訳タイトルは『パレスチナ戦争――入植者植民地主義と抵抗の百年史』であるが、直訳は『パレスチナ百年戦争――入植者植民地主義と抵抗の歴史』であり、「百年」の場所が主題から副題に移されている。訳者らで熟考した末に、よりシンプルな主題にしようという判断であろうが、主題だけを見た場合は、『パレスチナ戦争』(つまり副題まで見ないと「百年」が出てこない)よりも、やはり原書どおりに『パレスチナ百年戦争』のほうがよかったと私は思う。

(「世界史の眼」No.53)

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「世界史の眼」No.52(2024年7月)

今号では、小谷汪之さんに「大連からの世界史(上)―大連の発展と中国人労働者―」をご寄稿頂きました。今号含めて2回に分けて連載の予定です。また、南塚信吾さんに「世界史の中の北前船(その1)」をお寄せ頂いています。シリーズとして連載して参ります。

小谷汪之
大連からの世界史(上)―大連の発展と中国人労働者―

南塚信吾
世界史の中の北前船(その1)

世界史研究所の南塚、小谷、田中の各氏が翻訳した、ダニエル・ウルフ(南塚信吾、小谷汪之、田中資太訳)『「歴史」の世界史』(ミネルヴァ書房、2024年)が、7月10日に刊行されます。世界各地における「歴史」の捉え方と叙述のあり方を検討した大作です。ぜひご一読下さい。

ミネルヴァ書房の紹介ページは、こちらです。

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