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「世界史の眼」No.76(2026年7月)

今号では、小谷汪之さんに、前号に引き続いて「蓼科の近代史」から「蓼科の近代史 Ⅱ(下)―諏訪鉄山と連合国軍俘虜たち」をお寄せ頂きました。なお(上)はこちらです。また、桜美林大学の辻村伸雄さんに、今年ミネルヴァ書房から刊行された、シンシア・ストークス・ブラウン(世界史研究所訳)『ビッグ・ヒストリー―宇宙誕生から始まった私たちの物語』を書評して頂いています。

小谷汪之
蓼科の近代史 Ⅱ(下)―諏訪鉄山と連合国軍俘虜たち

辻村伸雄
書評:シンシア・ストークス・ブラウン『ビッグ・ヒストリー―宇宙誕生から始まった私たちの物語』南塚信吾ほか監訳、世界史研究所訳(ミネルヴァ書房、2026年)

シンシア・ストークス・ブラウン(世界史研究所訳)『ビッグ・ヒストリー―宇宙誕生から始まった私たちの物語』(ミネルヴァ書房、2026年)の出版社による紹介ページはこちらです。

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蓼科の近代史 Ⅱ(下)―諏訪鉄山と連合国軍俘虜たち
小谷汪之

はじめに
1 諏訪鉄山の鉱床と鉱区
(以上、前号)
2 諏訪鉄山で働いていた人びと
おわりに
(以上、本号)

2 諏訪鉄山で働いていた人びと

(1)諏訪鉄山の労働者構成

 1944年4月、日本鋼管の子会社として日本鋼管鉱業株式会社が設立された。諏訪鉄山(諏訪鉱業所)はその傘下に入り、軍需会社法(1943年)に基づく軍需事業場に指定された。そのために、鉄鉱石の飛躍的な増産が要請され、徴用や学徒勤労動員や勤労奉仕などさまざまな形で、極めて多くの人々が諏訪鉄山で働くことになった(『諏訪の近現代史』611頁)。

 こうして、1944年8月の時点で、諏訪鉄山では以下のような人数の人々が就労していた(『諏訪の近現代史』612頁、『茅野市史 下巻』525頁。いずれも典拠は日本鋼管鉱業株式会社の社史であると思われるが、原本を見ることができなかった)。

表1 諏訪鉄山の労働者構成(1944年8月)

鉱山作業員
  鉱員          328人
  徴用工         221人
  臨時工          69人
建設作業員
  鉱員          339人
  徴用工         682人
 以上、総計 1,639人

 それ以外に、学徒勤労動員として、立命館大学採鉱冶金科の学生20人と旧制諏訪中学校(現、諏訪清陵高校)の生徒100人ぐらいが採鉱業務などに従事していた。それに婦人会などの日帰り勤労奉仕者を加えると、毎日2,000人以上の人々が諏訪鉄山で働いていた(『諏訪の近現代史』612頁)。

(2)「徴用」された朝鮮人たち

 『茅野市史 下巻』(525頁)には、朝鮮人の「徴用工」に関する以下のような記述がある。

徴用工には兵役に服さない諏訪地方壮年男子のほか、朝鮮半島から青壮年二〇〇名が強制的に徴用され、緑山温泉に収容されて働いていた。

 『諏訪の近現代史』(611頁)にも、次のように書かれている。

既に日本鋼管直営のころから兵役に服さない諏訪地方の男子の中から毎日一〇〇名ほどが徴用工として採掘作業に従事するようになっていた。[昭和]十八年[1943年]には、更に朝鮮人の徴用工二〇〇名ぐらいが緑山温泉に強制収容され、主として採掘現場での作業を担当していた。

 このように、表1の徴用工の中には朝鮮人の「徴用工」200人ぐらいが含まれていたとされているのであるが、この朝鮮人の「徴用工」という表現には注意が必要である。というのは、朝鮮人(当時の行政用語では、「半島人」)を国民徴用令(1939年)によって実際に徴用して、日本国内に「移入」したのは1944年(昭和19年)9月からだからである。したがって、1944年(昭和19年)8月時点の諏訪鉄山には、厳密な意味での朝鮮人徴用工はいなかったはずである。しかし、諏訪鉄山で多くの朝鮮人が働かされていたことは事実である。とすると、このような朝鮮人たちはどのようにして諏訪鉄山に連れてこられたのであろうか

 1939年(昭和14年)7月4日、戦争遂行に要する労働力を計画的に動員するために、「労務動員実施計画」が閣議決定された。「そしてそのなかに、日本内地の炭鉱等に配置するべき労働力の給源として朝鮮半島からの労働者八万五〇〇〇人分が計上されたのである。これが日本帝国による日本内地にかかわる朝鮮人労務動員政策の最初の決定である」(外村大『朝鮮人強制連行』岩波新書、2012年、42頁)。この1939年度の「労務動員計画」以降、毎年度ごとに労務動員計画が策定され(1942年度からは「国民動員計画」と改称)、動員するべき朝鮮人労働者の数が明記された。しかし、実際に動員された朝鮮人労働者の数は計画を下回り、1939年度で3万8,700人(1939年9月から翌年3月までの数)、1940年度では、計画の8万8,000人に対して実際の動員数は5万4,944人であった(外村前掲書、58,72,78頁)。

 1944年8月の時点で、諏訪鉄山で働いていた朝鮮人の「徴用工」というのは実際にはこの労務動員計画(国民動員計画)によって日本に連れてこられた朝鮮人労働者たちだったのであろう。ただし、労務動員計画によって朝鮮半島から日本に連れてこられたのではなく、「私的に」日本に移住していた朝鮮人も動員された。1943年(昭和18年)度の国民動員計画では、朝鮮半島から導入するべき労働者12万人以外に、日本内地在住朝鮮人労働者5万人の動員が計画されていた(外村前掲書、122頁)。諏訪鉄山で働いていた朝鮮人労働者の中には、このような日本内地在住朝鮮人もいたのであろう。

 このように、朝鮮人「徴用工」という表現には曖昧さがあるとしても、朝鮮人たちが諏訪鉄山で働かされていて、差別的な取り扱いを受けていたことは確かである。1995年6月に茅野市大字北山・糸萱公民館で開催された「諏訪鉄山を語りしのぶ会」において、かつて旧制諏訪中学校3年生の時に、学徒勤労動員によって諏訪鉄山関係の工事(花蒔から茅野駅までの鉄道敷設工事)で働いていた人が当時の想い出を次のように語っている。

 また、朝鮮の方々と一緒に働いていたわけです。時間をかけて長い石のノミで穴をあけるのに、まめが破れて血がしたたっていたけれども、それでも強制的に働かせられていた。

 また、発破(はっぱ)[ダイナマイト〕が爆発するときは鐘を鳴らして、我々中学生は早々と後方へ引き下がるわけですけれども、朝鮮から来た人たちはいっこうに下がらせていただけなくて、飛んできた石が頭や手にあたって、血が噴き出しているようなことも目撃いたしました。

 また、畑の中に種をとるために真っ赤になった大きな胡瓜かなんかあったのを、十七歳で徴発されてきたという我々と同じくらいか、あるいは一つだけ年上くらいの少年が、どうしても腹がすいていけないから胡瓜を食べたいということで、私がとってきて、その人にあげたところ、二十世紀梨を食べるように、むしゃぶりついて食べたのを今でも思い出します。(伊藤編『平和を今こそ』92~93頁)

 この「想い出」の最後に出てくる「十七歳で徴発されてきたという」朝鮮人少年は厳密な意味での徴用工だったのであろうか。それとも、労務動員計画(国民動員計画)によって日本に連れてこられた朝鮮人だったのであろうか。あるいは、日本内地在住朝鮮人だったのであろうか。

 朝鮮人「徴用工」たちには、金堀場に建てられた「飯場はんばと呼ばれる長屋があてがわれていた」(『諏訪の近現代史』612頁)。「飯場」の建物は1990年代半ばまで残っていたが、その後、取り壊された(茅野市八ヶ岳総合博物館『紀要』第18号、35頁)。ところが、『茅野市史 下巻』や『諏訪の近現代史』には、朝鮮人「徴用工」たちは「緑山温泉」に収容されていたと書かれている。この「緑山温泉」というのが何を指しているのか、調べてみたが分からなかった。『茅野市史 下巻』と『諏訪の近現代史』がともに依拠していると思われる原資料(おそらく、日本鋼管鉱業株式会社の社史であろう)に、朝鮮人「徴用工」たちは緑山温泉に収容されていたという記載があるのだろうが、これは原資料の誤記あるいは誤認のように思われる(特に、『諏訪の近現代史』は、朝鮮人「徴用工」の宿舎について、611頁と612頁で矛盾した記述をしている)。

 日本の敗戦後、朝鮮人「徴用工」たちは「博多へ引きあげていった」(『茅野市史 下巻』527頁)。博多から本国に帰って行ったのであろう。

(3)北山俘虜収容所の連合国軍俘虜たち

 1945年6月4日、激しさを増すアメリカ軍の空襲を避けるために、東京俘虜収容所(大森俘虜収容所)から247人の連合国軍俘虜が当時の長野県諏訪郡北山村に設置されていた東京俘虜収容所・第6分所(北山俘虜収容所)に移送された(伊藤編『平和を今こそ』52頁)。ただし、資料により、俘虜の人数に若干の異同があり、伊藤編前掲書でも、他の箇所では243人(アメリカ人57人,イギリス人55人、オランダ人91人、カナダ人34人、オーストラリア人4人、その他2人)となっている(40頁)。

 北山俘虜収容所は長尾根鉱床の付近にあったから、連合国軍俘虜たちはそこから標高にして数百メートル高い石遊場鉱区に坂道を登って通っていた。主要な作業は低品位の褐鉄鉱にコークスを混ぜて焼結する作業で、極めて高温の環境での作業であった。以前は、学徒勤労動員された旧制諏訪中学校の生徒たちが行っていたのだが、彼らに代わって、連合国軍の俘虜たちが焼結作業に就かされたのである。

 前述の「諏訪鉄山を語りしのぶ会」には、諏訪鉄山で働かされていた一人のアメリカ軍俘虜が参加していた(彼がこの会に招待された経緯については伊藤編『平和を今こそ』各所を参照)。彼の名前はアルフレッド・マックグルー(Alfred Mcgrus)と言い、1922年10月、アメリカ合衆国オハイオ州で生まれた。1941年1月、18歳でアメリカ陸軍に入隊、フィリピン、マニラ湾口の要衝コレヒドール島の守備隊に配属された。1942年5月7日、日本軍の攻撃によりコレヒドール島が陥落した時、日本軍の俘虜となった。その後、日本に送致され、東京俘虜収容所に収容されていたが、1945年6月4日、北山俘虜収容所に移送された。

 アルフレッド・マックグルーが記憶を頼りに描いた北山俘虜収容所の図によれば、収容所の矩形の敷地は高い塀(TALL FENCE)と空壕(DITCH)によって二重に囲われていて、四隅には照明が設置されていた。その敷地の中に、二棟の俘虜宿舎(POW BARRACKS: POW=Prisoner Of War)と一棟の米・英将校(AMER. & BRITISH OFFICERS)用宿舎が建っていた。BENJO(便所)は別棟で、門のそばには看守たちなど日本人用の宿舎(JAPANESE BUILDING)があった(伊藤編『平和を今こそ』53頁)。

 アルフレッド・マックグルーもこの収容所で起居しながら、諏訪鉄山・石遊場の焼結炉(スメルター[smelter])で「俘虜としての労働を強いられ、食糧難と戦い、のみしらみに苦しみながら、約五〇〇メートルの高低差、四分の三マイルの山道を[石遊場の]作業場に通勤した」(伊藤編『平和を今こそ』76頁)。

諏訪鉄山・石遊場の焼結炉(スメルター)

出典:マックグルー手書きの絵(伊藤編『平和を今こそ』97頁)
図中の英文:IRON ORE SMELTER SUWA PRISONS CAMP 

 1945年8月、戦争が終わると、連合国軍俘虜たちは横浜に集結して、帰国の途に就いた。北山俘虜収容所にいた俘虜たちも、同年9月6日、茅野駅から横浜桜木町に引き揚げた。アメリカ人54人、イギリス人55人、オランダ人89人、カナダ人25人、オーストラリア人4人、その他2人の計229人、1人病院送達であった(伊藤編『平和を今こそ』74頁)。

 アルフレッド・マックグルーはその引き揚げ時の様子を次のように語っている。

 トラックが朝早くに収容所に来ました。それは、九月六日でした。私は三番目のトラックに幸運にも乗ることができました。駅に着いた時、トラックから飛び降りて、それから列車に乗ろうとしました。誰も日本人は付き添っていませんでした。一時間以上そこで汽車が来るのを待ちました。汽車はいっぱい人がいたんですけれども、そこになんとか乗り込みました。汽車に乗っていた日本人の人たちはみんな自分たちを見てびっくりした様子でした。[中略]

 北山で、[俘虜たちのための救恤]物資が[米軍機B29によって]投下されたときに、別にチラシもありまして、そこに「戦争が終わった、今、アメリカ軍が横浜にいる」ということが書いてあったそうです。

 でも、自分たちが茅野から乗って行った汽車は、横浜までは行きませんでした。それで東京で汽車を降りました。どうやったら横浜まで行けるかと聞きました。小さな電車が、たった一台の電車が来ました。それから、乗れるだけその電車に乗って横浜まで行きました。(伊藤編『平和を今こそ』122~123頁)

 当時、連合国軍俘虜とかかわりを持つと、俘虜収容所関係者とみなされて戦犯容疑をかけられる恐れがあったので、北山俘虜収容所の俘虜たちも日本人に敬遠され、ほとんど自力で横浜まで行かざるをえなかったようである(伊藤編『平和を今こそ』123~124頁)。実際、北山俘虜収容所の所長だった人はアメリカ軍の横浜BC級戦犯裁判で有罪とされ、服役した(同、60頁)。

 それから約50年後の1995年6月、諏訪鉄山跡を訪れたアルフレッド・マックグルーは、最初、そこが俘虜生活を送った場所であると信じることができなかった。戦後50年の年月は周囲の状況をすっかり変えてしまっていたからである。しかし、マックグルーが描いた石遊場の焼結炉の絵が、当時旧制諏訪中学校4年生で学徒勤労動員されて焼結炉で働いていた人の記憶と一致したことから、そこがマックグルーの作業していた場であると確認された。また、マックグルーなどの俘虜たちは、夜間、フェンスの緩んだところから収容所の外に出て、付近の畑のジャガイモなどを掘り取って、食べていた。その畑の持ち主と出会えたこともマックグルーの記憶をよみがえらせた(伊藤編『平和を今こそ』100~103頁、147~148頁)。

おわりに

 諏訪鉄山は敗戦とともに一時閉山された。しかし、1948年、日本鋼管は諏訪興業株式会社を設立し、諏訪鉄山の採掘を再開した(1950年、同社は諏訪鉱業開発株式会社と改称)。社長には、日本鋼管鉱業株式会社の諏訪鉱業所(諏訪鉄山)・所長だった高野太治郎が就任した。1950年6月、朝鮮戦争が勃発すると鉄鉱需要が増大し、諏訪鉄山も活況を呈した。従業員は1951年の最盛期には150人を越えた。しかし、朝鮮特需が終わり、諸外国からの鉄鉱石輸入が盛んになると、諏訪鉄山の低品位の鉄鉱石は需要がしだいに減少して、1965年、最終的に閉山となった(『茅野市史 下巻』527~528頁)。

 いま、別荘地やゴルフリゾートとして知られ、鬱蒼とした山林の中に瀟洒な別荘や広大なゴルフ場などが広がる蓼科も、70年ほど前は鉄鉱石採掘場として、裸の山肌を曝していたのである。

(完)

(「世界史の眼」No.76)

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書評:シンシア・ストークス・ブラウン『ビッグ・ヒストリー―宇宙誕生から始まった私たちの物語』南塚信吾ほか監訳、世界史研究所訳(ミネルヴァ書房、2026年)
辻村伸雄

1. ブラウンの歴史的評価の準備が整う

 ついにブラウンによる初のビッグヒストリーの通史が邦訳された。これで彼女のビッグヒストリーに関する主要著作が出揃ったことになる。シンシア・ストークス・ブラウン(1938–2017)は長年カリフォルニア・ドミニカン大学(Dominican University of California。2000年にDominican Collegeから改称。Dominican Universityとは別の大学であることに注意)に勤めたが、2001年に同大の常勤職を退いた後、晩年の十年間に三度(みたび)ビッグヒストリーの通史を書き残した。

(1)単著『ビッグ・ヒストリー』(原書初版2007年・新版2012年、邦訳2026年)
(2)共著『ビッグヒストリー』(原書2013年、邦訳2016年)
(3)単著『ビッグバンからあなたまで』(原書2016年、邦訳2024年)

 2007年に初めて自分で書き上げた通史が本書である。

 2010年に同大は新入生に対しビッグヒストリーを必修化したことで注目を集めた。

 2013年にはデイヴィッド・クリスチャンとクレイグ・ベンジャミンと共著で大学生向けのビッグヒストリーの教科書『ビッグヒストリー』(邦訳は明石書店)を上梓した。これが彼女にとって二冊目の通史となる。

 この共著も入れると彼女にとって三冊目の通史であり、単著としては二度目の通史となる『ビッグバンからあなたまで』(邦訳は亜紀書房)が図らずも最後の著作となった。

 今回ブラウンが初めてものしたビッグヒストリーの通史が日本で刊行される最大の意義は、上記の既刊の邦訳二冊と併せて、日本語でブラウンの変遷を追い、彼女の仕事を評価するための基盤が初めて整ったということだろう。

 生きている人物は評価が難しい。これからの行動や著作によって評価が変わりうるからだ。対して、物故した人物は動かないので業績が固まっている。全生涯とその帰結を見渡した上で、歴史的に評価を行う営みは、その対象となる人物が没してから始まるのだ。

 今、私たちはブラウンが故人であるがゆえに、その生涯の到達点から過去の全著作を見渡すことのできる時点に立っている。すなわちビッグヒストリーに限って言えば、本書が初期、次に出た共著が中期、遺著が晩期のブラウンのスタンスを表していると見ることができる。

2. 「複雑さ増大の敷居」の良し悪し

 本書に見られる初期のブラウンの叙述が、中期・晩期のそれと明らかに異なる点は、宇宙史・地球生命史・人類史を貫く根底的パターンである「複雑さ増大の敷居」(thresholds of increasing complexity)を採用していない点にある。

 ハーヴァード大学で「宇宙進化論」(Cosmic Evolution)の名のもとにビッグヒストリーを講じた宇宙物理学者のエリック・チェイソン(Chaisson 2001)は、宇宙から地球を経て私たちに至る歴史には、「複雑さの増大」という一貫した傾向が見て取れることを指摘した(とはいえ、そのような一貫した傾向が見て取れる惑星を、私たちは地球以外に知らない点には留意が必要である)。

 これに触発を受けたクリスチャンは、米国のサンディエゴ州立大学でビッグヒストリーを教える際に、ビッグバンから今に至る歴史を区分けする目安として、「敷居」という時代区分を導入し、それは2008年に発売された彼のDVD講義『ビッグヒストリー―ビッグバン、地球上の生命、人間の台頭』(未邦訳)で公にされた。それを見たビル・ゲイツが感激し、ビッグヒストリー・プロジェクトが立ち上がるのである。当然、「複雑さ増大の敷居」は同プロジェクトの骨組みともなっている。

 このように、「複雑さ増大の敷居」はビッグヒストリーを教える上で便宜的に導入されたもの(教授法の一つ)であるが、その利点は、宇宙史から人類史に至るまでを一気通貫する統一的視座から語ることを可能にしてくれるところにあった。

 もちろんクリスチャンにせよ、ブラウンにせよ、このような統一的・一貫的視座を初めから持っていたわけではない。本書の「2012年版への序文」において、ブラウンが同書はビッグヒストリーに通底するパターンを提示していないと述べているのはそのためだ。

 ビッグヒストリーを人間史に自然史を付け足した以上のものにすることを望んでいた2000〜2010年代のビッグヒストリアンたちにとって、それを可能にしてくれる「複雑さ増大の敷居」は願ってもないものであった。かくて複雑さへの着目は一世を風靡する。

 とはいえ、「複雑さ増大の敷居」という時代区分に基づく限り、ビッグヒストリーを描く際の構成は、ある程度似たり寄ったりになってしまう点は否めない。“複雑性ブーム”がひと段落し、その恩恵ばかりでなく弊害も目につくようになった今日から見ると、そのブームに染まる前のビッグヒストリアンたちの著述に、むしろ個性や新鮮さを覚えるのだ。

3. 本書『ビッグ・ヒストリー』の構成

 本書はシンプルな二部構成となっている。

 第I部「時空間の奥行き」は、宇宙が始まってから、太陽と地球が生まれ(第1章)、生命が登場し、進化と絶滅を経て(第2章)初期の人類が登場し(第3章)、彼らが狩猟採集をもとにした高度な社会を営む(第4章)ところまでを描く。

 第II部「温暖な1万年」は、人類の一部がアフロ・ユーラシアで農耕畜産へと移行し(第5章)、最初の都市を建設し(第6章)、都市生活のもたらす苦悩に応じて救済型の宗教が出現し(第7章)、それと相まってアフロ・ユーラシアの大部分を包摂する通商網ができ(第8章)、並行して南北アメリカでも農耕文明が発達するさま(第9章)を描く。次いでモンゴル帝国などによるアフロ・ユーラシアの統合(第10章)、西欧諸国による二つの半球の統合(第11章)が工業化につながるさまを描き(第12章)、「成長の限界」に突き当たる今日の状況を見据えつつ将来を展望する(第13章)。

 第II部は概ね通常歴史の授業で扱われる範囲と重なっており、第I部はその前史に当たる。長らく教員志望の学生たちに歴史を教えてきたブラウンにとって、第II部は慣れ親しんだ内容だろう。対して、おそらくブラウンがもっとも勉強を要し、書くのに苦労したのは第1部であると思われる。本書が二部に分かれているのは、そういう実際的な理由からだろうが、今から見ると、素朴ながらも思い切った構成にも感じる。

 読み味としては、第I部の初めの2章については散漫な印象が否めないものの、第3章「ヒトの登場」に入ると、肩の力が抜けたのか筆の運びが変わってくる。第II部に至っては、ブラウンの世界史の講義を受けているような気がしてくる。そこに奴隷制や人種主義についての記述を端的に織りこむ手さばきは、米国の公民権運動史をもう一つのライフワークとしてきたブラウンならではのものだろう。

 それでは第I部と第II部を通読して見えてくるものは何であろうか。これは本書全体の意義に関わる話である。ブラウンが強調するように、私たちの世界と私たち自身を理解するためには文字記録のない歴史にも目を向ける必要があると言うならば、文字記録のない歴史(第I部)を見ることで文字記録のある歴史(第II部)に対する見方が変わらなければならない。それがないならば、両者を通観する必要はなく、畢竟、ビッグヒストリーなぞあってもなくても同じということになるからだ。

 これに対する著者の応答は、文字通りには「地球の物語とそこに住まう人間の物語を結合してみたときに私が見出したのは、人々が子孫を増やし続けようとして取る行動は、地球の環境とその生命体を深刻な危機に晒してきたということだった」(iii頁)ということになろう。とはいえ、ここで指摘されていること自体は、人間の歴史のみに着目した場合にも気づきうることであり、人間以前の歴史を持ち出す必然性や説得性に欠ける。

 よって評者としてはむしろ「地球はそこに生息するいかなる生命に対しても、長期的かつ永続的な条件を提供してはいない」(32頁)という地球生命史の現実を踏まえると、「地球が私たちに服従を強いる前に、この惑星と和睦する」(367頁)ことが不可欠なのだという点こそが、人間以前の歴史なくしては至れない認識であると指摘したい。

4. 〈環境と宗教の変化の連動〉は類書にない特徴

 次に、以上の背景と概要を踏まえた上で、本書の特徴を考えたい。結論から述べると、既訳の類書にはない本書の真の特徴は、「人間の歴史以降について、政治や経済、環境等に関する〝外形〟的な記載が中心で、思想や観念、宗教や世界観等の変化や革新についての論述がうすい」というビッグヒストリーへの不満(広井2021: 128)に応える内容を含んでいる点にある。というのも、本書は環境の変化に伴う意識や信仰の変化に随所で言及しているからである。評者にとってはそれが一番読んで面白い部分であった。

 例えば、地球は1万7000年ほど前から1万年前にかけて温暖化し、地表を覆っていた多くの氷河が解け、海水面が140メートルも上昇した。これに伴い、世界各地で海岸線と陸橋の水没が起こった。大規模な洪水は8000年前ごろまで続いた。人間の祖先は何千年もの間、洪水を経験し、それが数多の洪水神話に刻まれているというのである(92–94頁)。

 ブラウンは人間の主たる生業が狩猟採集から農耕畜産に移行すると、意識や信仰のあり方も変わったと言う。狩猟採集民は巨大な捕食獣に囲まれて生きており、その生活は不安定で恐ろしいものであった。そのような状況下では野生動物を鎮めることに焦点が置かれたが、農耕に移居する生活では生命そのものの源に敬意を表し、その助けを願うことに焦点が移った。精霊を崇めるアニミスティックな信仰から豊穣の地母神を崇めるような信仰への移行である。同時に人々は森林の伐採や野獣の家畜化について相反する感情を抱き、これで良かったのかと自らを疑うようにもなった。ギルガメシュ叙事詩やアダムとイヴの失楽園の物語には、そうした葛藤や嘆きが残響している(88、124、129–130、180頁)。

  ブラウンの筆はさらに「枢軸時代」と言われる時期の変化に説き及ぶ。人々が小さな農村を離れ、人口の集中する都市で暮らすようになると、新たな種類の宗教が現れた。都市はその繁栄期にあっても不安定で不公正であった。また都市の暮らしはそれ以前に住んでいた村の慣習に反する面があった。選民であっても、都市の暮らしに同化するのか、元いた村の慣習を守るのかという選択を迫られた。都市の中では満ち足りた生活をかなえることが難しいと悟った人々にとって、来世や天国など現世を超越した救済を約束する新たな宗教が慰めであった。何らかの宗教共同体に属することは、村での暮らしの特徴であった相互扶助の機会を人々に取り戻させた。世界各地で進んだ都市化は、それを補完する救済型宗教の普及と結びついていたのである(180–181、210頁)。

 本書では他の箇所でも宗教にふれているが、個人的に一番面白く、本書の読みどころと感じた部分は以上である。

 ちなみに当初、ビッグヒストリーの著作の多くにおいて、思想や宗教の扱いが薄かったのは、学問上の理由というよりは、今なおインテリジェント・デザイン論などが影響力を持つ米国にあって、新興のビッグヒストリーが知識人からの信頼を得るには、「科学の仮面をかぶった宗教」、すなわち疑似科学との印象を持たれないようにすることが先決であり、そのためには思想や宗教を強調しないほうが無難であるという政治的・戦略的判断が影響したと評者は聞き及んでいる。

 もちろん、事はそう簡単でなく、ビッグヒストリーの通史の多くが物質の組み合わせによる複合・複雑化や生物の身体的進化には注目しても、意識や精神となるとほぼ人間の話に終始し、生命史全体における知覚や意識、知性の進化には無関心になりがちな点を思うと、これは方法論的物質主義と人間中心主義の問題でもある。

5. 本書の学説史上の意義

 最後に、評者の研究関心の一つであるビッグヒストリーという分野の歴史ならびにその学説史の上から、本書の意義を二点挙げて終わりたい。

 一つは、ビッグヒストリーという名称は1991年にクリスチャン(Christian 1991)が『ジャーナル・オブ・ワールドヒストリー』誌上で提唱して以降、広まったものであるが、ビッグヒストリーの取り組みやそれに類するものは、それ以前にも以後にも世界各地に存在した。それらを掘り起こし、22世紀以降へ向けビッグヒストリーの思想史を再構築することが評者の研究課題の一つである。

 その点から見ると、本書ではビッグヒストリーの先駆者およびその業績として、マリア・モンテッソーリのコスミック教育(その中心となる著作は『人間の可能性を伸ばすために』として邦訳されている)、クライブ・ポンティング『緑の世界史』、ラリー・ゴニック『マンガ版 地球の歴史』(原題は本書にある通り『マンガ宇宙の歴史』)、エリック・シュルマン『時間の簡潔な歴史』(未邦訳)と複数のものが挙げられている点が参考になるし、シュルマンの著作以外は日本語でも読める。翻訳大国にいるありがたみを感じる次第である。

 もう一つは、一般に「産業革命」と呼ばれる変化を、ビッグヒストリーの中にどう位置づけ理解するかをめぐり、クリスチャンとブラウンの間には実に面白い対照と交錯が見られるが、そのことが本書によって日本の読者にも見えやすくなったということである。冒頭で言及した初期・中期・晩期の順に説明しよう。

 1)初期の段階では、クリスチャンもブラウンも「複雑さ増大の敷居」という時代区分を用いていなかった。

 クリスチャンは、『時間の地図』(未邦訳)において、西欧では18世紀から19世紀前半に近代に至る敷居がまたがれたとし、それを経済・政治・文化が三位一体をなす革命と捉えた(Christian 2004: 437–438)。「私たちはこの変容の真っ只中にいるため、その特徴を客観明朗に見てとることは難しい。ゆえに、それを記述するのに『近代革命』(Modern Revolution)という曖昧な呼び名でよしとしたい」(Ibid.: 335、評者訳)とクリスチャンは書いている。彼にとって産業革命はこのより大きな革命の経済面のみを指す語であり、政治面ではフランス革命が、文化面では科学的態度の普及がその変化を代表するものであった(Ibid.: 437–438)。

 他方ブラウン(本書第12章)によれば、1750年頃にイングランドで始まった、化石燃料、工場制度、製造経済への転換は、ヨーロッパ社会単独ではなくアフロ・ユーラシアと両アメリカの交流がもたらした地球規模の現象であり、それには前段としてアフロ・ユーラシアが統合され、次いで東西の半球が互いに結びつくことが必要であった。ゆえに、このように長い緩やかな変化を指すには「産業革命」よりも「工業化」(industrialization)という言い方が相応しいと言う。

 両者を比べると、ブラウンは工業化を通常より長い時間軸の中に位置づけ、クリスチャンはそれをより広範な社会の変化の中に位置づけたと言える。

 2)中期はクリスチャンとブラウンがベンジャミンを含め合同で大学生向け教科書『ビッグヒストリー』を作った時期である。ここで大事な前提は、クリスチャンがその前に「複雑さ増大の敷居」という時代区分を導入し、本書の改版時にはそれに従わなかったブラウンも、それを受け入れ、三人の共著がこの時代区分に沿って書かれたということである。

 それでも、この教科書は章ごとに起草者が異なるため、よく読むと、起草者によるスタンスの違いが整合されないまま残っている(注)。

 この共著において、共通暦1000〜1700年を扱う第10章はクリスチャンが起草したものであるが、同章を読むと「第8の敷居のことは、あえて曖昧に近代革命と呼ぶことにする」(Christian, Brown & Benjamin 2013: 216=2016: 254、評者改訳)とあり、近代に至る変化を政治面・文化面も含めて多元的に捉えるスタンスは「敷居」導入後も保たれていることがわかる。

 これに続いて共通暦1700〜1900年を扱う第11章は、ブラウンが起草したものであり、そこでは「産業革命を第8の敷居と見なす根拠は、それが人間社会に引き起こした急速な変革にある。〔…〕この変革の基底にあるのは石炭と石油の燃焼である」と書かれている。敷居8の指すものがクリスチャンとブラウンで違うわけである。その上で、産業革命の本質を「製造・輸送・通信において、人力・畜力に代わり、化石燃料を系統立てて利用するようになったことを受けて起きた様々な変化」のことであるとブラウンが喝破し定義しているのは興味深い(Ibid.: 244=288、評者改訳)。

 ここには敷居8をあくまで政治・経済・文化の三重革命と捉えるクリスチャンと、そのうちの経済(産業革命)に焦点をしぼるブラウンとの違いが見て取れる。

 3)晩期はクリスチャンとブラウンが共に「複雑さ増大の敷居」の時代区分に則って自身の通史を書き改め、世に問うた時期であるが、ここまでに述べた違いと変遷を踏まえると俄然面白くなる。

 ブラウンは、遺著『ビッグバンからあなたまで』(原書2016年)において、敷居8を論じる際に工業化に焦点をしぼる立場は変わらないものの、同書第1章で敷居7を「農業の出現(有機エネルギー)」、敷居8を「工業化の出現(化石燃料エネルギー)」とし(Brown 2016: 12 =2024: 42、評者改訳)、同書第9章で農業を、同書第10章で工業化を論じる際に明らかにエネルギーを軸足に置いている。

 その上で、敷居8を論ずる第10章を「地球一体化 敷居8(1500–2000年)」と題し、本書『ビッグ・ヒストリー』においても人間史を描く際の軸であった地球一体化(globalization)を
 ステップ1 世界システム
 ステップ2 産業革命
 ステップ3 20世紀
の三段階に分け、工業化つまり産業革命をその中間段階に位置づけ直している(Brown 2016: Chaps. 9–10=2024: 第9–10章)。原点に立ち返り自身の史観を刷新したとも言えるだろう。翌2017年に彼女は世を去った。

 残されたクリスチャンは、ブラウンに感化されたのか、近著『オリジン・ストーリー』(原書2018年)において、敷居8を経済面(産業革命)に特化して捉える彼女の路線をさらに突き進め、そのエネルギー源たる化石燃料に着目してそれを「化石燃料革命」(fossil-fuels revolution)と呼ぶようになる。近代革命という大づかみながらも総体的な概念を捨て、エネルギー重視の立場を鮮明にしたわけである(Christian 2018: Chapter 10=2019: 第10章)。

 ところがそれが、なんでもエネルギーの流れに還元し、それをどう汲み出し管理するかが社会や統治のあり方を規定するならば、政治の役割や人間の主体性はどこに見出せるのかという批判(Hesketh 2021)を招くことになる。

 クリスチャンとブラウンは初期においてはそれぞれ比較的独立にビッグヒストリーを論じた。二人が協働する中期に入ると、ブラウンはクリスチャンの「複雑さ増大の敷居」を受容するとともに、その8番目の敷居を論じるに当たって経済面を重視し、晩期にはその根底にあるエネルギーに叙述の軸を置いた。ブラウンの中期から晩期にかけての変化を(当人の意識は別として)一番受け継いでいるのはクリスチャンである。こうした相互の影響も、本書を踏まえてこそ見えてくることなのである。

むすびに

 以上で明らかな通り、既存の訳書に本書が加わることで、それらの読み解き方は幾重にも広がり深まりうる。類書と読み比べながら味読されることをおすすめする。

 なお、カリフォルニア・ドミニカン大学の新入生向け必修科目がビッグヒストリーとは違う内容に変わってしまって久しいが、同大でビッグヒストリーを教えたい教員向けに行った夏季講習(summer institute)に参加した、フィリピンのホーリー・エンジェル大学(Holy Angel University)の同僚たちによって、ビッグヒストリー教育の火は受け継がれている。ホーリー・エンジェル大では毎年数千名の全新入生にビッグヒストリーの履修が義務づけられており、同大の受講生は今や、世界でビッグヒストリーを学ぶ大学生の一番大きな割合を占めている(Tsujimura 2025)。ブラウンが灯した火は今なお燃えつづけているのである。

 教科書『ビッグヒストリー』(邦訳は明石書店)の各章の起草者については、著者の一人であるクリスチャン教授にご教示いただいた。ここに記して感謝するとともに、後学のため共有する。
 序章:クリスチャン
 第1章:クリスチャン
 第2章:ベンジャミン
 第3章:ブラウン
 第4章:ブラウン、クリスチャン、ベンジャミン
 第5章:ベンジャミン
 第6章:ブラウン
 第7章:クリスチャン、ベンジャミン
 第8章:ベンジャミン
 第9章:ブラウン、クリスチャン
 第10章:クリスチャン
 第11章:ブラウン
 第12章:クリスチャン
 第13章:ブラウン、クリスチャン

参考文献

Big History Project: 現在のサイト(https://www.oerproject.com/Big-History)と教材は2026年7月28日に利用不可となり、同日以降は新しいサイト(https://www.oerproject.com/Big-History-Project)と教材に移行する。

Cynthia Stokes Brown Collection on the previous Dominican University of California website: https://scholar.dominican.edu/cynthia-stokes-brown-collection/ [カリフォルニア・ドミニカン大学の公式サイトは新ウェブサイト(https://www.dominican.edu/)に移行しており、旧サイト上にアーカイブされているブラウンのオンライン文庫はいずれ無くなるおそれがある。見られるうちに魚拓をとるなど保管をおすすめしたい。]

Brown, Cynthia Stokes (2016) Big History, Small World: From the Big Bang to You, Great Barrington, Massachusetts: Berkshire. [本には2017年出版と印字されているが、実際に出版されたのは2016年6月である。証拠として同年7月に刊行された国際ビッグヒストリー学会の会報Origins, Vol. VI, No. 7, p. 11 (https://cdn.wildapricot.com/56234/resources/Documents/Origins/Origins_VI_07.pdf)を参照のこと。]ブラウン、シンシア・ストークス (2024)『ビッグバンからあなたまで――若い読者に贈る138億年史』片山博文、市川賢司訳、亜紀書房。

Chaisson, Eric (2001) Cosmic Evolution: The Rise of Complexity in Nature, Cambridge, Massachusetts: Harvard University Press.

Christian, David (1991) “The Case for ‘Big History’,” Journal of World History 2 (2): 223–238.

Christian, David (2004) Maps of Time: An Introduction to Big History, 1st edition, Berkeley and Los Angeles, California: University of California Press [2nd ed., 2011].

Christian, David (2008) Big History: The Big Bang, Life on Earth, and the Rise of Humanity, 8 DVDs, The Great Courses, Chantilly: The Teaching Company.

Christian, David (2018) Origin Story: A Big History of Everything, London: Allen Lane. クリスチャン、デイヴィッド (2019)『オリジン・ストーリー 138億年全史』柴田裕之訳、筑摩書房。

Christian, David, Cynthia Stokes Brown and Craig Benjamin (2013) Big History: Between Nothing and Everything, New York: McGraw Hill. [本には2014年出版と印字されているが、実際に出版されたのは2013年8月である。証拠として同年9月に刊行された国際ビッグヒストリー学会の会報IBHA Members’ Newsletter(後にOriginsに改称), Vol. III, No. 8, pp. 2–3 (https://bighistory.org/Origins/Origins_III_08.pdf)を参照のこと。] クリスチャン、デヴィッド、シンシア・ストークス・ブラウン、クレイグ・ベンジャミン (2016) 『ビッグヒストリー――われわれはどこから来て、どこへ行くのか 宇宙開闢から138億年の「人間」史』長沼毅日本語版監修、石井克弥、竹田純子、中川泉訳、明石書店。

ゴニック、ラリー (1993)『マンガ版 地球の歴史――ビッグバンからアレキサンダー大王まで』武者圭子訳、心交社。

Hesketh, Ian (2021, December 16) “What Big History misses,” Aeonhttps://aeon.co/essays/we-should-be-wary-about-what-big-history-overlooks-in-its-myth

広井良典 (2021)『無と意識の人類史―私たちはどこに向かうのか』東洋経済新報社。

モンテッソーリ、マリア (2018)『人間の可能性を伸ばすために―実りの年6歳〜12歳』新版、田中正浩訳、青土社。

Novak, Philip (2015) “Big History at Dominican” in Richards B. Simon, Mojgan Behmand, and Thomas Burke eds., Teaching Big History, Oakland, California: University of California Press: 311–317.

ポンティング、クライブ (1994)『緑の世界史』上下、石弘之、京都大学環境史研究会訳、朝日新聞社。

Tsujimura, Nobuo (2025, November) “A Torch is Passed: In Remembrance of Ma. Rubeth Ronquillo-Hipolito,” ABHA Newsletter2, Asian Big History Association.

(「世界史の眼」No.76)

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「世界史の眼」No.75(2026年6月)

今号では、小谷汪之さんに、随時連載中の「蓼科の近代史」から、「蓼科の近代史 Ⅱ(上)―諏訪鉄山と連合国軍俘虜たち」をお寄せ頂きました。また、東京外国語大学の小野寺拓也さんに、昨年白水社から刊行された、マイケル・マン(横田正顕監訳)『ファシストたちの肖像―社会的〈力〉と近代の危機』を書評して頂いています。さらに、米山宏史さんに、本年刊行された、茨木智志『戦後教育改革期における高校社会科「世界史」の成立過程に関する研究』(風間書房)の書評をお寄せ頂きました。また、藤田進さんには、「世界史寸評」として、イラン戦争へのアラブ世界の見方を伝える「米・イスラエルが仕掛けたイラン戦争についてのアラブの論評(2026年3月23日 Palestine Chronicle編集長ラムジー・バルード)」の翻訳をお寄せ頂いています。

小谷汪之
蓼科の近代史 Ⅱ(上)―諏訪鉄山と連合国軍俘虜たち

小野寺拓也
マイケル・マン、横田正顕監訳『ファシストたちの肖像―社会的〈力〉と近代の危機』白水社、2025年。

米山宏史
書評:茨木智志『戦後教育改革期における高校社会科「世界史」の成立過程に関する研究』(風間書房、2026年3月)

藤田進 訳
世界史寸評 米・イスラエルが仕掛けたイラン戦争についてのアラブの論評(2026年3月23日 Palestine Chronicle編集長ラムジー・バルード)

マイケル・マン(横田正顕監訳)『ファシストたちの肖像―社会的〈力〉と近代の危機』(白水社、2025年)の出版社による紹介ページはこちらです。また、茨木智志『戦後教育改革期における高校社会科「世界史」の成立過程に関する研究』(風間書房、2026年)の出版社による紹介ページはこちらです。

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蓼科の近代史 Ⅱ(上)―諏訪鉄山と連合国軍俘虜たち
小谷汪之

はじめに
1 諏訪鉄山の鉱床と鉱区
(以上、本号)

2 諏訪鉄山で働いていた人びと
おわりに
(以上、次号)

はじめに

 戦前から戦後初めにかけて、長野県諏訪郡北山村(現、茅野市大字北山)には諏訪鉄山(諏訪鉱山)と総称される鉄鉱石採掘場が広く存在した。そこで産出された褐鉄鉱は茅野駅から専用貨車で中央線・横浜線を経由して、川崎の日本鋼管株式会社の製鉄所に直送されていた。『日本鋼管株式會社六十年史』(1972年、150頁)には、次のように書かれている。

 鉄鉱石については、鉱石自給の線に沿って可能なかぎり鉱山の開発を行った。そのおもな鉱山は、国内では諏訪鉱山、上岡鉱山[福島県富岡町]、中国では山東省金嶺鎮鉱山、江蘇省利国鉱山などであり、東南アジアではタマンガン鉄鉱山があった。

 諏訪鉄山(諏訪鉱山)は日本鋼管にとって国内の最も重要な鉄鉱山だったのである(伊藤岩廣編『平和を今こそ―諏訪鉄山と捕虜収容所ものがたり』長野日報社、2009年、26~27頁)。

諏訪鉄山の褐鉄鉱(長尾根鉱床跡)

出典:伊藤編『平和を今こそ』所載の写真版

 諏訪鉄山の褐鉄鉱は「鉄バクテリアや緑そう類もその生成に関係していると考えられる一種のしょう鉄鉱てっこうで、鉄分に富む温泉あるいは池水より[鉄分が]沈殿し、層状の地表鉱床をつくっている」(『茅野市史 別巻 自然』1986年、85頁)。しかし、鉄の含有率はあまり高くなく、「基準品位Fe四五%を確保することはむずかしかった」(諏訪教育会編『諏訪の近現代史』1986年、612頁。Feは鉄の元素記号)。そのため、基準品位まで鉄の含有率を上げるには、焼結炉でコークスと混ぜて高温で焼結することが必要であった(同上)。第二次世界大戦、特に太平洋戦争が始まると、日本は鉄鉱石や屑鉄の輸入が困難となったために、このような低品位の国内鉄資源に頼らざるをえなくなったのである。

 本稿では、この諏訪鉄山に焦点を当てて、その歴史とともに、そこで働いていた人々の姿を追ってみたいと思う。その中には、「徴用」された朝鮮人約200人やアメリカ、イギリス、オランダなど連合国軍の俘虜たち約250人も含まれていた。

1 諏訪鉄山の鉱床と鉱区

(1)金堀場鉱床

 諏訪鉄山は現在の茅野市大字北山の諸地域に広がる鉱床・鉱区の総称で、いずれも標高1,000メートルを越える高地にあった(以下の記述は「八ヶ岳総合博物館企画展 諏訪鉄山」茅野市八ヶ岳総合博物館『紀要』第18号所載、その他に拠る。各鉱床・鉱区の位置については付図「諏訪鉄山全体図」参照)。

 諏訪鉄山で最初に採掘が始まったのはかな堀場ほりば鉱床であった。現在、国道299号を走るアルピコ交通バスの麦草峠線(中央線茅野駅―麦草峠間)で茅野駅から麦草峠方面に向かい、茅野市大字北山の糸萱集落から糸萱大橋を渡って緩やかな上り坂を数百メートルほどいったところに「鉄山入口」というバス停がある。このバス停の西側、北にかけての一帯が金堀場鉱床であった。

 1937年、日本鋼管は諏訪鉄山の採鉱のために、諏訪鉱業所を設立した。同年、関東運輸株式会社の高野太治郎が日本鋼管・諏訪鉱業所の下請けとなって、金堀場鉱床で褐鉄鉱の採掘を開始した。金堀場鉱床の土地は外山とやま財産区(当時の北山村芹ヶ沢区・糸萱区と湖東村金山区・新井区・山口区・中村区・上菅沢区、合計7区の共有財産区)の所有地であった(『茅野市史 下巻 近現代・民俗』1988年、523,692頁)。財産区というのは、1889年(明治22年)の市制・町村制施行によって、それ以前に存在した村の多くが町村合併されて、町・村の下の区となったことに伴って作られた制度である。町村合併により、旧村(区)によって総有されていた入会地などの財産が町・村に移管されることに対して、旧村(区)の側から強い反発が起こった。財産区はそれに対応するために作られた制度で、これによって、旧村(区)の入会地が財産区の所有地として認められた(渡辺洋三「財産区の沿革と問題点」渡辺洋三編著『入会と財産区』勁草書房、1974年、所収。ただし、この時点では「財産区」という明確な呼称は使われていない)。財産区には、多数の区(旧村)の共有財産区とともに、一つの区(旧村)の単独財産区も設定された。外山財産区は7区の共有財産区であったが、この外山財産区の金堀場周辺の所有地が諏訪鉄山の採鉱のために「坪二円五〇銭くらいで買収され、当時の地価としては高価なものであった」(『諏訪の近現代史』610頁)。

 金堀場から糸萱集落までは石畳の道が敷設され、採掘された鉄鉱石はトラックで糸萱経由茅野駅まで運び出された。

 金堀場には、採掘事務所や診療所などが置かれ、諏訪鉄山の初期の中心であった。しかし、鉄鉱石埋蔵量が残り少なくなったため、1942年1月、諏訪鉄山が日本鋼管の直接経営となった頃には、諏訪鉄山の中心は後述の石遊場いしやすばに移っていた。

(2)長尾根鉱床

 「鉄山入口」バス停から西側の谷あいに入り、金堀場鉱床を越えて北東に1キロメートルほど登った所の尾根筋が長尾根鉱床で、独立した鉱床としては諏訪鉄山の中で最も規模が大きかった。1940年頃から採掘が始まり、諏訪鉄山の一つの中心的な鉱床であったが、敗戦時にはほぼ堀尽くされていたとされる。

 金堀場鉱床と長尾根鉱床は隣接していたので、合わせて金堀場・長尾根鉱区(あるいは糸萱鉱区)と称された(付図「諏訪鉄山全体図」参照)。

(3)石遊場鉱区

 石遊場いしやすばは広範囲にわたる鉱床の総称で、1941年頃から本格的な採掘が始まった。石遊場の中心地は、10年ほど前まで別荘会社「蓼科ビレッジ」の管理事務所があった場所(現在はアルピコ交通バス・麦草峠線の緑山バス停付近)で、その周辺に広がる鉱床群が石遊場と総称された。それで、石遊場は石遊場鉱区と称された。

 石遊場には、日本鋼管の現地事務所、鉄含有率を上げるための焼結炉20基、焼結された鉄鉱石をトラックに積み込むための設備である「万石まんごく」などの諸施設が設置されていた。1942年には、採掘された鉄鉱石を運ぶ索道(4.6キロメートルの空中ケーブル)が石遊場と芹ケ沢地区の花蒔の間に架設され、1944年には同区間に第2索道も掛けられた。花蒔から茅野駅まではトラックで輸送されていたが、1944年9月には、茅野駅と花蒔駅を結ぶ鉄鉱石輸送専用の鉄道(鉄山鉄道と呼ばれた)が敷設された(付図「諏訪鉄山全体図」参照)。しかし、この頃からアメリカ軍による空襲が始まり、全国的に鉄道網が乱れたため、「鉄山鉄道」はあまり役に立たなかったとされている(伊藤編『平和を今こそ』90~91頁)。

(4)明治鉱区

 明治鉱区は諏訪湖にそそぐ上川かみがわの上流部である渋川に沿った標高1,500メートルほどの地域に散在する鉱床群からなる鉱区であった。鉱床は渋川右岸の渋川温泉と左岸の明治温泉を含む地域に広がっていた。明治鉱区の褐鉄鉱は硫黄や燐の含有率が低く、諏訪鉄山の中では比較的良質な鉄鉱石であった。1941年頃から本格的な採掘が始まり、1944年には、明治鉱区から石遊場までの索道(2.9キロメートルの空中ケーブル)が設置され、明治鉱区で採掘された鉄鉱石はこの索道によって石遊場まで運ばれた(付図「諏訪鉄山全体図」参照)。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.75)

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マイケル・マン、横田正顕監訳『ファシストたちの肖像―社会的〈力〉と近代の危機』白水社、2025年。
小野寺拓也

 近年のファシズム研究では、定義や類型化、段階分けといった議論は低調である。「ファシスト・インターナショナル」論の近年最大の成果と言ってよいヘディンガー『枢軸』では、以下のように指摘されている。

 「枢軸に共有された歴史を見れば、「ファシズムの必要条件」や段階モデルの適用が、ファシズムのグローバル・ヒストリーにとってあまり生産的でないことがわかる。というのも、このようなチェックリスト、必要条件、典型性といったものは、その大部分がヨーロッパ中心主義的なものだからである」(ダニエル・へディンガー、清水雅大監訳『枢軸―ベルリン・ローマ・東京 一九一九――一九四六年』白水社、2025年、415ページ)。

 ファシズムを理念的にモデルしようとする試みは、へディンガーが指摘するようにヨーロッパ中心主義的であるだけでなく、偶発性や歴史的経緯を軽視することにも繋がりかねない。ファシズムという現象は「極めて偶発的な組み合わせ」によってもたらされたものであり、「意図的に再現できるものではない」(同書424ページ)からだ。パスモア『ファシズムとは何か』(原著は2014年刊行)による次の指摘は、そうしたモデル化にたいする歴史研究者の警戒感を端的に表している。

 「ファシズムの研究者とほとんど同じ数だけファシズムの定義がある。そして、それらのいずれが正しいかについての合意はない、という点だけを指摘しておこう。私見によれば、定義からアプローチするのは、そもそもそれ自体に欠陥を内在させているのである」(ケヴィン・パスモア、福井憲彦訳『ファシズムとは何か』岩波書店、2016年、9ページ)。

 その欠陥とは、「現実の運動や体制が持っていた豊かさや多様性」を「定義による特徴に合わせ」(同書27ページ)てしまう点にほかならない。

 そのため近年の研究では、ファシズムの一般的な定義(あるいはファシズムのミニマム・モデル)を求めたうえで各国のファシズムがそこからどの程度変化、逸脱していたのかを論じるのではなく、ファシズムとも権威主義とも保守主義とも明確に定義しがたい流動的な状況の中で、それぞれの国々や運動が自らの国々の文脈へとファシズム的な動きをどのように「翻訳」し、異なる文脈に位置づけ、あるいは違う形で表現していったのかを明らかにすることが目指されている。

 評者もこうした近年の動向に基本的に賛成である。本書は2004年に刊行された本格的なファシズム研究であり、ヘディンガーからは二世代、パスモアからは一世代近く前の研究となるが、「戦間期ヨーロッパ全体を考える上で発見的な意義を持つ枠組みを探究しているのに過ぎない」のであって、「多くの時代や場所に適用できるような一般的な定義を最初から追求することはしない」(34ページ)のだと、定義に慎重な姿勢を見せている。とはいえ権威主義を、その度合いが高くなっていく順番に「準権威主義体制」「準反動的権威主義体制」「コーポラティズム体制」「ファシズム体制」の四段階に位置づけているように、モデル化・一般化という方向性が強いことは否めない。評者としては、こうした類型化は戦間期の複雑な事象を理解する助けになるというよりは、その急進性を序列化することで「ナチ体制に比べれば穏健」といったようなかたちで、あまり建設的とは言えない予断を生む可能性が高いと考える。たとえば本書でも、日本についてわずかに言及はあるものの、日本は「下からの大衆運動も、準軍事組織も欠いていた」(64ページ)のであり、1931年以降の日本はファシズムの要素を含んでいるものの「コーポラティズム体制」であったと分類される。しかしこれでは、ドイツやイタリアから何を学習し(あるいは逆にドイツやイタリアが日本から何を学び)どのように急進化していったのかという視点は抜け落ちてしまう。

 ただしそれでも、理論化を過度に忌避することにも問題はある。評者がそう強く感じたのは、歴史教育の文脈においてである。周知のように高等学校では2022年度から「歴史総合」、2023年度から「日本史探究」「世界史探究」が始まっている。これらの科目の軸の一つに、「世界史と日本史を概念でつなぐ」という点がある。「近代化」「大衆化」「グローバル化」という三つの大きな概念、「工業化」「産業革命」「市民革命」といったさまざまな小さな概念を通じて、世界のさまざまな出来事を繋いでいくことが求められているのである。当然「ファシズム」もそうした小さな概念の一つになるが、いくらその定義が困難だからといって、また定義によって現実の多様性が見えなくなるからといって、教科書でミニマムな定義を示さないわけにはいかない。まずは歴史的事象を整理した上で定義は最後に行うという思考方法は、歴史研究者にとってはなじみのあるやり方かもしれない。しかし高校生が歴史事象を大づかみに理解する(あるいは高校教員がおおまかな全体像を示す)うえで、一定の定義は避けられないだろう。

 さらに「ファシズム」概念には、近年の新興右派や右派ポピュリズムなど、明らかに「ファシズム」と本質的な特徴を少なからず共有している現象をどのように理解するかという、「現代的な諸課題」もついてまわる。「ファシズム」という概念は戦間期に限定して使用すべきだというのが評者の立場であり、山口定が『ファシズム』で提唱した以下の「原則」はいまなお有効だと考えている。

 「『ファシズム』概念を現代史の分析や教科書の記述の中から追放しようとする動きには徹底してあらがうこと,しかし,いわゆる現状分析の一環としては,『ファシズム』概念はできるだけ使用しないように慎重に振る舞うこと,つまり,相手に対する批判と告発の中で『ファシズム』や『ファシスト』というレッテル貼りを行いたくなったときには,その言葉で言おうとした内容そのものをできるだけパラフレーズして表現すること」(山口定『ファシズム』岩波書店、2006年、ⅳページ)。

 だがそれでも、現代との相違点・共通点を考える上で、この概念を避けるわけにはいかない。そうした意味で、「ファシズムとは何か」という議論にはいまなお社会的重要性があり、それと取り組む上で本書には大きな意味があるだろう。

 本書ではファシズム運動と体制を、「極端なナショナリズム、権威主義的国家主義、階級闘争の超越の主張、政治・民族・宗教などあらゆる敵の浄化〔殲滅〕」、そして「直接行動の名の下の暴力」という五つの主要なイデオロギー的要素の結合という観点から定義する。多くの点で、現代の右派ポピュリズムと共通点を有することがここからも理解できるが、しかし相違点としてとくに重視せざるを得ないのが、五番目の「暴力」の問題だろう。ファシスト党の「黒シャツ隊」やナチ党の「突撃隊」のような政党所属の準軍事組織が路上でデモや行進、乱闘を行うというのは現代では考えにくく、「現代にファシズムが復活することはない」という主張の有力な根拠となっている。

 本書では、準軍事組織による活動の目的が三点挙げられている。まず、政敵を挑発して相手から暴力的反応を引き出すことを目的としており、そのことによって自らの暴力を「自衛」であると宣言すること。第二に、街頭で政敵を鎮圧することで、自分たちは「秩序」をもたらしているのであり「規律正しい暴力」なのだと主張すること。第三に、最後の手段としてクーデターを起こせるという選択肢を持つこと。このような準軍事組織の戦闘性や、それがもたらす同志的連帯感が、とくに若者を多く惹きつけた。本書で指摘されるように、ファシストの運動は伝統右派とは違って「ボトムアップ型」であり、自らを「人民の」運動と考えていた。権力の座につくうえで選挙を重視しており、その意味で大衆民主主義を基盤とする運動だった。こうした「草の根の暴力」は、大衆民主主義と相性が良かったのである。

 そう考えると、現代社会では路上での政治暴力にかわって、インターネットやSNS上での言葉の暴力が似たような役割を果たしていると考えることもできる。第三の点についても、2021年のアメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件を考えれば、決して無縁とは言えないだろう。他方で、第一次世界大戦という経験がなければ、暴力があれほど広範囲に共有されることも、ファシズムが急速に支持を集めることもなかっただろう。また、階級対立の激しさや、「赤の脅威」に対する「明らかな偏執狂」(145ページ)、容赦ない暴力行使などは、工業社会で労働者が社会の多数派を占めていたからこその状況であって、ポスト工業社会の現在とは質的に異なる。

 「歴史は同じようには繰り返さないが、韻を踏む」というマーク・トウェインの言葉にもあるように、つねに歴史にはこうした連続性と断絶という層が多面的に顔をのぞかせる。ファシズムが現代によみがえる可能性はあるのか。そのままのかたちではないとしても、別のかたちで登場する可能性はないのか。

 この点について、著者はやや楽観的である。「右派ポピュリズムは、移民の生活を不快にすることはあっても、ファシズムその他の包括的イデオロギーを生み出す可能性は低い。これらの急進右翼政党は憂慮すべき存在かもしれないが、ヨーロッパの「システム政党」がマクロ環境の変化に適応しながら市民の要求に応え続ける限り、ヨーロッパのファシズムは打ち負かされ、死に絶え、埋葬されたままである」(579-580ページ)。だが、現在のヨーロッパの政治状況は楽観を許さない。フランスでは、2027年の大統領選挙で、国民連合の候補が決選投票でも勝利する可能性が高いと報じられている。イギリスでは、2026年の地方選挙でリフォームUKが第1党に躍進を遂げた。ドイツでは、AfD(ドイツのための選択肢)が支持率で第1位になるばかりでなく、9月に行われるザクセン=アンハルト州議会選挙では単独政権の可能性すら囁かれている。議会に入り込みながら議会制度そのものを廃止し、基本法を形骸化し、「外国人のいない国」を実現したいという主張がAfDの政治家によって公然となされているにもかかわらず、支持率が低下する兆しはまったく見えない(Philipp Ruch, Es ist 5 vor 1933. Was AfD vorhat und wie wir sie stoppen, München, 2024)。既存政党が市民の要求に応えられていないという失望感が、あまりにも大きいのである。もちろん、日本の政治状況も他人事ではない。

 本書が投げかける「ファシズムとは何か」「ファシズムを支えたのは誰か」という問いは、著者が想定する以上に現代的な緊張をはらんでいる。刊行から20年以上が経った現在、著者が示す楽観は素直には受け入れがたい。もちろん、本書が詳述するように、第一次世界大戦の経験や階級対立の激しさ、準軍事組織による路上の暴力といった諸条件が今日そのまま再現されることはないだろう。そして、「ファシスト」という言葉が「もっぱら自分が嫌いな人々に浴びせかける不正確な罵倒語」(572ページ)に成り下がらないためにも、「ファシズム」という言葉を、現代の問題に安易に持ち込むことにも慎重でなければならない。その一方で、歴史が踏む「韻」の部分は見極める必要がある。戦間期とは違うかたちで、しかし類似の構造をもつ問題が生じる可能性があるからだ。「ファシズム」という概念を厳密に歴史的文脈に位置づけながら、同時に現代との連続性と断絶を問い続けること—その困難な作業に取り組む上で、本書は今なお重要な出発点となりうる。

(「世界史の眼」No.75)

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書評:茨木智志『戦後教育改革期における高校社会科「世界史」の成立過程に関する研究』(風間書房、2026年3月)
米山宏史

 今年2026年は、戦後の高等学校社会科「世界史」の実施(授業開始)から77年目を迎えている。「世界史」の設置に関しては、その経緯などに未知の要素が多く、不明な部分が少なくない。そうした現状に対して、茨木智志氏(上越教育大学教授)が修士論文以来の多年にわたる「世界史」の成立事情に関する研究成果を集大成し、表記の大著を上梓した。本書の概要を紹介し、その研究成果を共有したい。本書の構成は以下の通りである。

  序章「本研究の課題と方法」
第I部「敗戦以後の外国史教育における歴史科から社会科への転換」  
  第1章「敗戦による歴史科外国史教育の変容」
  第2章「歴史科外国史教育から社会科外国史教育への転換の試み」
第II部「教育行政による社会科「世界史」の設置と対応に見る外国史教育から社会科世界史教育への転換」
  第3章「高校社会科「世界史」科目の設置とその意義」
  第4章「教育行政による社会科世界史教育への対応」
  第5章「教育行政による「世界史」学習指導要領の作成とその内容」
第III部「歴史教師・歴史研究者による社会科「世界史」への対応に見る外国史教育から社会科世界史教育への転換」
  第6章「高校での「世界史」授業における外国史教育から社会科世界史教育への転換」
  第7章「「世界史」準教科書における外国史教育から社会科世界史教育への転換」
  第8章「「世界史」大学入学試験問題における外国史教育から社会科世界史教育への転換」
  第9章「成立過程から見た高校社会科「世界史」成立の意義」
  終章「本研究のまとめと意義」

 本書は436頁からなり、序章と9つの章、終章を置き、全体を3部で構成し、第9章で第Ⅰ部~第Ⅲ部のまとめを論じている。

 序章「本研究の課題と方法」では、研究目的として、戦後の教育改革で成立した新科目「世界史」を歴史科外国史教育(「東洋史」「西洋史」)から社会科「世界史」教育への転換過程に位置づけ、「世界史」の設置理由と成立過程、実践方法、その特徴と意義、達成事項と今後の課題を総合的かつ実証的に解明することを挙げている。次に、通史的な一部の研究や個別な研究が存在するものの、戦後教育改革期に「世界史」設置を位置づけた全体的な考察がなされていないという先行研究の実情をふまえ、「世界史」の成立過程を日本側の史資料と占領軍の史料を併用して探究するとしている。

 まず「世界史」成立の複雑な過程の概略を確認する(1戦前の外国史教育(「東洋史」「西洋史」)、2戦後の外国史教育(「東洋史」「西洋史」)、3新制高校発足(1948年4月)後の社会科外国史教育(「東洋史」「西洋史」)、4社会科「世界史」教育(1948年10月、設置の発表、1949年4月、実施・授業開始、1952年3月、「世界史」学習指導要領の発行、4月、検定教科書の使用開始)。本書は、上記の複雑な「世界史」成立過程を、実に多様な史料の分析や聞き取り調査などを駆使し、緻密で実証的な論証を積み重ねて明らかにしている。

 第I部「敗戦以後の外国史教育における歴史科から社会科への転換」は、2つの章で組み立てられている。

 第1章「敗戦による歴史科外国史教育の変容」では、1945年12月、占領軍の「修身」「日本歴史」「地理」停止指令がすでに1944年7月、米国国務省で決定されていたこと(「日本:軍政下における教育制度」)、逆に外国の歴史や文化を学ぶための外国史教育を推奨し、米国を模範となる外国、次に民主主義国として連合軍加盟諸国を挙げていたこと(1945年9月22日、「降伏後における米国の初期対日方針」)、それに対して、日本の文部省は1945年11月、「国史教育ノ方針(案)」を省議決定し、神話の扱い方の変更のみで皇国史観の脱却を求めなかったことなどを戦後初期の日米の歴史教育観の齟齬として紹介している。また、文部省とCIE(占領軍の民間情報教育局)教育課との協議で「教科用図書委員会」が設けられ、「教科用図書委員会」を通じての文部省主導の「教科書改訂」構想を進めたが、占領軍による教科書発行の許可という壁を打破できずに挫折した。他方で、この委員会のもとに位置づけられた「歴史科専門委員会」のみはいち早く組織されて、文部省による国史と外国史の暫定教科書作成の後ろ盾となり、「歴史科専門委員会」が国史と外国史の暫定教科書の作成に取り組んだ。国史は、文部省が神話の記載に固執しCIEとの合意が得られずに頓挫したが、外国史教科書は、東洋史・西洋史ともに「近世史」以後を全面的に書き直し『暫定中等歴史一・二』(一は東洋史、二は西洋史)として発行された(1946年)。こうして「東洋史」「西洋史」は戦後も存続を果たした。第1章は、戦後直後の混乱期における歴史教科書の作成をめぐる複雑な経緯を詳述している。

 第2章「歴史科外国史教育から社会科外国史教育への転換の試み」では、1946年6月から文部省内の教科課程改正委員会がCIE教育課と協議しながら新しい教科課程の検討を進め、初等・中等教育を貫く社会科の導入を主張するCIEと日本史の通史的系統学習を重視する文部省側の対立がおこり、9月に妥協が成立したこと(第7学年から10学年=中学1年~高校2年までは統合社会科を、第11~12学年=高校1~2年で「人文地理」「東洋史」「西洋史」「時事問題」を開設する)、文部省ではなく若手の歴史研究者が「東洋史」「西洋史」の学習指導要領と教科書を作成し、「東洋史」では従来の中国王朝史にインドや中央アジアを加え、西洋の文化の受容による東洋の近代化を明記し、「西洋史」では西洋文明と民主主義を強調したこと、両者ともに教員の講義式・知識の暗記の歴史学習を厳しく批判し、学習活動の例として生徒自身が調べたり、発表したり、討論したり、報告書や伝記を作成する活動などを提示し、社会科としての外国史学習を志向していたことが考察されている。

 第II部「教育行政による社会科「世界史」の設置と対応に見る外国史教育から社会科世界史教育への転換」は3つの章で構成されている。

 第3章「高校社会科「世界史」科目の設置とその意義」では、「世界史」設置に関わった研究者、文部省の担当者の証言や回想の信憑性を検証したうえで、1948年4月の新制高等学校教科課程研究委員会の発足から、普通教育分科会での「世界史」を含む素案の作成と承認(5月18日)、「新制高等学校教科課程改正案」の文部大臣への提出(8月),「新制高等学校教科課程の改正について」の通達(10月11日)という「世界史」設置の決定プロセスを精査し、「東洋史」「西洋史」に代わる「世界史」の導入の経緯を詳論している。そして、「世界史」設置の意義として、1「国民の共通教養」の提供、2その後の世界史の探究の起点、3「世界史」という名称の普遍性を挙げ、「世界史」と併せて「国史」(1949年度から「日本史」)の導入が歴史科目を2科目に限定したいという意図と相まって「世界史」設置の直接的契機になったことに言及している。私は、上原専禄が同1948年に刊行した『歴史的省察の新対象』(弘文堂、1948年2月)で主張した国史・東洋史・西洋史の三区分の批判と世界史的観察方法の採用の必要性が後付けながら「世界史」設置の理論的な支柱とみなされたという著者の指摘に大きな感銘と深い示唆を得た。

 第4章「教育行政による社会科世界史教育への対応」では、1949年4月の「世界史」の実施から1952年3月の「世界史」学習指導要領の発行に至る時期における行政の「世界史」教育への対応を「世界史」教科書検定基準(1949年3月)や「高等学校社会科日本史、世界史の学習指導について」の通達(1949年4月11日)を分析して明らかにしている。何も準備が整わない状態での「世界史」実施=授業の開始にあたり、文部省が出した上記通達には、社会科歴史学習の目標達成のための留意事項として、社会科の一般目標との合致、現代社会の諸問題の意義の認識、歴史の発展の必然性の理解、歴史の進歩・発展の理解による社会発展に対する自己の責任と情熱、現在の社会・経済・政治の問題解決に必要な能力の発達、学習形態として一般社会科に準拠し、概説の学習に陥らない留意と生徒の自主的学習活動を刺激するための単元学習の推奨などが示されている。この通達は、文部省が高橋磌一(文部省で中学校「国史」教科書編集に従事、のちに歴史教育者協議会第2代委員長(1971~1985年))と協議して作成したとされるが、戦後の新教科 社会科の教育理念と「戦後歴史学」の学風が看取されて興味深い。

 次に、「世界史」実施後、「世界史」検定教科書の使用までの長く複雑な道のりが詳述されている。「世界史」実施初年度には、「世界史」の検定教科書もその他の準教科書も存在せず、教科書『西洋の歴史 (1)』(1947年発行)のみが存在した。そこで文部省は従来の歴史教育を容認し暫定的な措置を取り、「世界史」検定教科書の発行と旧来の外国史教科書(『西洋の歴史(2)』『東洋の歴史(1)』『東洋の歴史(2)』)の刊行をめざしたが、後者は実現できなかった。さらに、文部省は1950年秋、教科書出版3社の「世界史」教科書を公的な了承のもとで準教科書として発行させ学校で使用し、その後、「世界史」教科書検定基準(1949年2月、1950年11月に改訂)にもとづき検定教科書の使用が1952年4月にようやく開始された。「世界史」の実施から検定教科書の使用に至る3年間の試行錯誤のプロセスが著者の緻密な論証を通じて丁寧に記されている。

 第5章「教育行政による「世界史」学習指導要領の作成とその内容」では、「世界史」学習指導要領の作成の経過を検証し、その内容を詳細に分析している。1949年度の編集委員が「新学期に発表すべき試案」(要綱)の作成をめざしたが、東アジア情勢の変化(中華人民共和国の建国や朝鮮戦争勃発に至る東西対立)や米国内の事情(日本の歴史教科書に対する占領軍の責任回避)にともない公表を停止されたという。そして1950年度の編集委員(高校教員が4名、研究者が2名)が作業を受け継ぎ、1949年の暮れに大体の案を作成し、1950年9月に指導要領の中間発表(要綱)を通達し、実施から3年後の1952年3月に学習指導要領が発行された((昭和26(1951)年 )「中学校高等学校学習指導要領 社会科編I(a)日本史(b)世界史」、詳細は国立教育政策研究所教育研究情報データベースで同指導要領を参照)。著者は、「世界史」学習指導要領の「まえがき」(「日本史」「世界史」共通)、「I 世界史の特殊目標」、「II 世界史各時代指導上の参考目標および参考内容」「 III 世界史の参考単元例」を丁寧に分析し、「世界史」最初の指導要領(のちに「官報」で公示され、法的拘束力をもつとされるが当時は「試案」のまま)が「高い理想をもって、社会科としての世界史教育の実現を図るための学習指導の在り方を示そうと努めていた」「社会科「世界史」の出発点を象徴するものとなっている」として評価を与えている。同時に、欧米近代の民主主義の賛美=模範としての西洋、「アジア社会の後進性」、「先進」と「後進」を前提とした安易な比較、日本史を部分的に含みながらもヨーロッパ史と中国史を基本軸にした構成、その結果、東洋史と西洋史の枠をなくすはずの「世界史」、とくにその近代が東洋史と西洋史の峻別を主張している点など、様々な問題点を指摘している。「まえがき」では、教員が教科書記載の歴史的事実を頁ごとに講義することや生徒に歴史的事実の暗記を押し付けることを戒め、歴史的思考力の養成のための問題解決学習を求めていること、「学習活動の例」として「話し合い」「検討」「発表」「報告」「討論」「作文」などが例示されていることは、現在の「歴史総合」「世界史探究」の学習方法との親和性が認められる点で注目に値する。上記の内容が記載された背景には、この学習指導要領の作成に(2名の歴史研究者のほかに)4名の東京都立高校の教員が関わったことの意義と、当時の「初期社会科」の理念の影響があることを強く感じた。

 第III部「歴史教師・歴史研究者による社会科「世界史」への対応に見る外国史教育から社会科世界史教育への転換」は、第6章から第9章で組まれている。

 第6章「高校での「世界史」授業における外国史教育から社会科世界史教育への転換」では、教育行政が具体的な措置を講じないまま実施された「世界史」に対する教員たちの模索と苦労、生徒たちの受け止め、2名の教員(橘高信、上野実義)の意欲的な取り組みが詳論されていて興味深い。とくに、「世界史」実施から4年を経過した1952年になっても高校教員の間には「東洋史と世界史の分離」を希望する意見が少なくなく、「世界史」は、教えにくく、むずかしい科目と見なされ、若い教員ほど苦労したという記録や回想は、学習指導要領が掲げた「世界史」の高い理想と現場の意識の乖離を暗示している。それに対して、学習者の高校生にとって「世界史」への関心は高く、1952年の文部省の調査(308頁、表6-3-2)では生徒数43,193名のうち、「世界史」の履修率は71.1%に達しており(「日本史」65.9%、「人文地理」53.6%、「時事問題」22.0)、「世界史」が高校生に支持され期待された科目であることがわかる。上記のデータから察すれば、のちに「世界史未履修問題」がおこる(2006年)とは、予想さえできないであろう。

 「世界史」が教員には教えにくく、むずかしい科目でありながら、生徒には期待を集めた科目であったという一見矛盾した関係の中で良心的な教員が独自の授業実践を模索していた。その一人である橘高信(東京都立文京高校)が授業を、単元への導入、個人の学習、班の学習、学級全体の学習(発表と質疑)という段階的な発展学習として構想・実践していたことは、現代のアクティブラーニングの先駆けとも思われ、示唆に富む。他方、上野実義(広島大学附属高校)は、「西洋世界の発展を尺度」にして世界史を先史から現代までの6つに分け、「社会、経済、政治、宗教、文化」の5項目の中から各時代の特色を1つ選び、検討するという学習を通じて社会科としての「世界史」を追究した。橘や上野の構想と実践は、「世界史」の草創期の模索として再評価すべきであろう。

 第7章「「世界史」準教科書における外国史教育から社会科世界史教育への転換」では、「世界史」の実施後、未だ検定教科書が存在しない194951年度に活用された「準教科書」(30種50冊)について、その位置づけと資料的価値、発行状況や作成主体、準教科書における世界史の構成や学習の意味が幅広く考察されていて、多くの事実を学ぶことができる。準教科書は、位置づけや基準の曖昧さ、使用状況の情報量の少なさ、体系的な収集・所蔵機関の不在などの点で「世界史」教育史研究で未知な部分が多いという。戦前の「東洋史」「西洋史」検定教科書の執筆者が歴史研究の権威的人物であったことに対して、準教科書では40歳代を中心とする比較的若手の研究者であったこと、さらに、個人の高校教員や日教組近畿協議会などの組合団体、信濃教育会など地域の教育団体などが執筆の主体であったという事実に新鮮な感銘を受けた。新科目「世界史」への当時の人々の期待と課題意識などが強く感じられる事例である。また、「世界史」準教科書には、戦前・戦後の外国史教科書(国定・検定)とは異なり、多くの設問や学習課題を設け、参考文献が掲載されていたことも、生徒の自主的な学習を謳う社会科「世界史」学習の特色として興味深い。

 次に、内容と構成に関しては、「内容の伝達を重視した準教科書」(世界史を1つにまととめたタイプと東洋史・西洋史に区分したタイプなど)や「単元にもとづいて構成した準教科書」など様々な構成が現れたが、西洋史を中心にして東洋史を融合・統合することに苦慮していたこと、そしてモデルとしての西洋近代が世界史学習の主軸になる起点が形成されたことを指摘している。それは、敗戦後のGHQの占領統治が続く中、模範としての西洋近代の大きさと、世界史を構成する作業の困難を示している。

 第8章「「世界史」大学入学試験問題における外国史教育から社会科世界史教育への転換」では、1949年度の「世界史」実施と、同年度に発足した新制国立大学の入学試験の関係を実証的に論じている。「世界史」は新科目であるため、1948年度の選択科目「東洋史」「西洋史」「国史」が受験科目となり、1949年6月に入試が行われた。文部省は「出題方針と問題例」を配付し、社会科の学力検査について、知識の記憶量や些末で特殊な専門的な事項の出題、従来の論文テストを避け、客観的なテスト(組み合わせ法、選択法など)の作成を指示した。また、「問題例」として3つの「テストすべき能力」(A 重要な概念および原則の理解、B データを正しく処理し解釈する能力、C 基礎的な知識や原則を応用する能力)を提示した。しかし、国立大学入試の実施後、全国の高校教員からは、入試とそのための暗記学習が「世界史の学習にわざわいしている」「世界史(学習)の発展にブレーキをかけている」という多くの批判が出されたという。これは、「世界史」実施の初年度からすでに「社会科としての「世界史」授業と入試の試験問題との乖離」が顕在化したことを意味し、現在に至る学校教育での授業と大学入試の関係・接続の困難を実感させる。翌1950年度入試では初めて「世界史」が入試科目になり(「東洋史」「西洋史」は1951年度入試まで残る)、文部省は大学側に「世界史学習上の重要概念(試案)」を「学力テスト出題の参考」として提示したが、高校側(学習指導要領も検定教科書も未発行状態)には提示されず、しかも挙げられた概念が極めて西洋史に偏り、「アジヤ社会発展の特殊性」などが含まれていたと指摘している。ここには、文部省と大学側、高校側との連携の不足、根強い西洋中心史観の刻印がうかがわれる。その後も文部省は大学入試に対する具体的な施策を重ね、1955年度入試対応として「客観テスト」と「論文体テスト」の併用へと方針をシフトさせるが、試験の形式面の改革が先行し、受験生に過重な記憶を強いる出題が後を絶たず、従来の知識偏重を助長する結果を招いたという。著者は「世界史」がその実施とともに大学入試に組み込まれ、「世界史」学習の内容を問う検討と入試問題の検討が別々になされ、教育の理想と入試の現実のはざまに立たされた「世界史」教員の苦悩が「世界史」実施直後に始まっていたと述べている。私は上記の事実を知り、小川幸司氏が名づけた「嫌われる“暗記地獄”としての高校世界史」「苦役への道は世界史教師の善意でしきつめられている」という言葉(『歴史学研究』2009年10月増刊号、のちに『世界史との対話(上)』地歴社、2011年に再掲)を想起し、2006年の高校世界史未履修問題の原点を垣間見たような印象を覚えた。

 第9章「成立過程から見た高校社会科「世界史」成立の意義」では、8章までの考察をふまえ、「世界史」新設の意義を総括している。「世界史」設置は、新制高等学校の発足に伴う新しい教育課程とその理念を実現するための教育的要請にもとづくこと、戦中・戦後直後(1945~1946年)の歴史科外国史教育から社会科「世界史」教育への転換には2つの課題(1歴史科の教育から社会科の教育への移行、2「東洋史」「西洋史」の外国史教育から「世界史」教育への転換)を内包したこと、しかも、社会科の外国史教育(「東洋史」「西洋史」)は形式的で内容が不十分だったため「世界史」教育への転換は一足飛びの飛躍が求められ、「世界史」の実施後、学習指導要領も検定教科書も未発行の「何もない状態」のなか手探りで授業がスタートした事実を再記している。現在の社会科教育・歴史教育が「世界史」の実施期にその目的、内容と構成、方法などを根本から検討していた取り組みに学ぶことが多いという指摘に強く共感した。

 終章「本研究のまとめと意義」では、各章の考察・分析の結果を再度紹介していて、本書の研究の全体像と到達点を理解することができる。従来、未解明の要素の多い「世界史」設置の具体的な経緯と意味をはじめ、敗戦後の外国史教育の状況、教育行政による「世界史」への対応、教員たちの授業づくりと実践、「世界史」の大学入試の諸問題などを一次資料や多数の教科書(準教科書を含む)、回想やインタビュー調査を通じて明らかにした著者の研究業績は極めて大きい。

 最後に、著者は、今後の課題として、当時の授業状況のより広範な追究、未見の準教科書の分析をはじめ、対象を広げ明治期以降の歴史教育、1950年代後半以降の歴史教育の探究を挙げている。本書の刊行を通じて、高校「世界史」の成立過程の諸問題が広く社会に理解されるとともに、著者の今後さらなる研究の進展を心から期待したい。

(「世界史の眼」No.75)

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世界史寸評
米・イスラエルが仕掛けたイラン戦争についてのアラブの論評(2026年3月23日 Palestine Chronicle編集長ラムジー・バルード)
藤田進 訳

2003年のイラク自由作戦の一環としてイラクで展開する米海兵隊(写真:USMC/ウィキメディア・コモンズ)

 3月22日(日)にイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は、世界の指導者たちに米イスラエルによるイランに対する軍事作戦への参加を呼びかけ、テヘランを世界的な脅威として位置づけた。

  「もし誰かが、なぜイランが文明の敵であり、世界全体の敵であり、危険なのかの説明が必要ならば、過去48時間以内にすでに入手できている」と、ネタニヤフはイスラエルの南部都市アラドのイランのミサイル爆撃現場を訪問した際に語った。

 数日前の3月17日、アメリカ大統領ドナルド・トランプはNATO同盟国が戦争に参加を拒否していることを批判し、その立場を「非常に愚かな誤り」と呼んだ。その後、3月20日には批判をエスカレートさせ、彼らが戦いから外れたことを「臆病者」と非難した。 こうした訴えーそしてその後の明らかな消極的姿勢―は、自制や中立に関する公式声明よりも、はるかに、多くのことを物語っている。

 しかし、誇大宣伝を信じてはならない。もしヨーロッパやアラブ諸国政府が、2月28日に開始された米イスラエル戦争が本当に成功する可能性があると信じたなら、多くの国はすでに参加していただろう。

 これは、ヨーロッパや中東の指導者たちが「これは我々の戦争ではない」と主張している中で、厳しい結論に聞こえるかもしれないが、歴史はまったく異なる物語を語っている。スペイン、オマーン、その他いくつかの例外を除き、西側諸国や親米アラブ政権は原則に基づいて導かれることはほとんどなかった。彼らの記録は、リスク、リターン、勝利の可能性によって形作られた計算された日和見主義的なものである。 彼らの現在のためらいを理解するには、時を巻き戻す必要がある。

 1990年から91年にかけてイラクがクウェートに侵攻した際、ワシントンは現代史上最大級の軍事連合を迅速に結成した。国際法の名の下に、国連安全保障理事会の明確な支持のもと、米国は介入を限定的な任務、すなわちクウェート解放として位置づけた。

 その枠組みが重要だった。ヨーロッパ列強や主要なアラブ諸国も熱心に参加した。この戦争は正当で勝てるものと見なされ、アメリカの指導のもとで中東における新たな「ポストソ連秩序」形成の基盤と見なされた。

  しかし2003年までに状況は変わった。アメリカのイラク侵攻はもはや侵略を覆すためではなく、それは「テロとの戦い」というレトリックに包まれた政権交代に関するものだった。今回は、特にフランスやドイツといった主要なヨーロッパ列強が公然と抵抗した。その時、アメリカ国防長官ドナルド・ラムズフェルドは異議を唱える同盟国を「旧ヨーロッパ」だとして一掃し、東欧のより従順な政府グループ、すなわち「新しいヨーロッパ」を高めた。

 1991年の正当性を再現できなかったため、ワシントンは「意志の連合」と呼ばれる、軍事的貢献は限定的だが象徴的価値を持つ国々を含む緩やかで政治的に構築された同盟をまとめ上げた。トニー・ブレア政権下のイギリスは最も著名なパートナーとなり、ワシントンの数十年ぶりに最も物議を醸した戦争にその運命を結びつけた。 しかし、それでもためらいは原則とは一致しなかった。イラクが侵攻され国家が解体されると、同じ国際的な関係者たちが—戦争を支持していたかどうかにかかわらず—迅速に動き、自分たちの影響力を確保しようとした。エネルギー契約が締結され、復興協定が配分され、外国政府が侵攻後のイラクの管理に介入した。戦利品の方が、それに先んじるリスクよりもはるかに魅力的だったようだ。

 アフガニスタンの戦争も同様のパターンを反映していた。9.11以降、米国は対テロと集団防衛の言葉のもと、NATOや数十のパートナー国を成功裏に結集させた。最盛期には50か国以上の兵士が参加した。再び、同盟国は任務が「正当化」され、調整され、戦略的成果が見込めそうな場合にコミットする意欲を示した。

 しかし、イラン戦争はこれらの保証を一切提供していない。 これは、中東における最近の米国主導の軍事作戦の中で最も非合理的で防御に乏しく、最も危険な戦争である。 イラクやリビアとは異なり、イランは孤立しているわけでも構造的に弱いわけでもない。人口は約9300万人、広大な地理的環境、そして長期的な対立を持続させる国内の軍産能力を持つ大きく結束した国家である。 イランは地域内外で標的を攻撃する能力を示しつつ、地域の同盟国やパートナーシップのネットワークを維持し、中国やロシアなどの主要世界大国との強い政治的結びつきを維持している。

  同様に重要なことは、信頼できる政治的枠組みが欠如していることである。国連の権限も、一貫した連合も、明確な最終目標もない。代わりに存在しているのは、衝動的な米国大統領とイランをはるかに超えた野望を持つイスラエル指導部との不安定なパートナーシップである。

 ドナルド・トランプは長年にわたり伝統的な同盟国間の信頼を損ない、世界の経済関係を不安定化させ、予測不能な統治を続けてきた。このような指導の下では、戦争は計算された戦略ではなく危険な賭けとなる。 

 欧州およびアラブ諸国政府にとって、問題はもはやイランに対峙すべきかどうかではなく、ワシントンがそのような対立の結果を管理できるかどうかである。ますますその答えは「ノー」である。

  ベンヤミン・ネタニヤフの目的は限定的でも隠蔽的でもない。これは単にイランの能力を無力化するだけの問題ではない。それは、最終的にはワシントンの最も緊密なアラブのパートナーさえも従属させ、トルコのような地域大国の自治に挑戦するような形で、中東地域の秩序全体を再構築することに関わっている。

 したがって、現在のヨーロッパとアラブ政権の距離を説明しているのは、抑制ではなく計算である。

 もしこの戦争が正当性、勝利の約束、物質的または政治的利益の見込みを持っていれば、馴染み深い連合はすでに形成されていただろう。 もしより予測可能なアメリカ政権――同盟を動員し、介入を法的正当性で隠す能力のある政権――が政権を握っていたなら、対応は異なっていたかもしれない。しかし、この戦争にはそれらが何も与えられていない。

  だから幻想は捨て去らなければならない。ヨーロッパは戦争を拒否しているわけではない。アラブ諸国政府も道徳的変革を遂げているわけではない。彼らはこれまで通りリスクを評価しているのである。

 そして今回の結論は明白である。彼らが戦争に加わらないのは、それに反対しているからではなく、失敗すると信じているからだ。

https://www.palestinechronicle.com/this-is-how-we-know-the-iran-war-is-failing-and-not-for-military-reasons/

(「世界史の眼」No.75)

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世界史寸評
オルバーン失脚の世界的影響―ハンガリー選挙をめぐる報道より(その2)
2026年4月12日―18日
南塚信吾

3.トランプ政権への影響はどうか   

 オルバーンの敗北は米国のトランプ大統領に大きな影響を与えたはずである。オルバーンは、トランプとは対外政策においても、国内の体制整備策においても、共通するところが多かった。またオルバーンはアメリカの右翼に相当なテコ入れをしていた。それらがなくなったのである。トランプは、オルバーンの勝利を願うメッセージを送り、選挙中にヴァンス副大統領をハンガリーに派遣したほどである。読売新聞は、これは内政干渉のそしりは免れないと批判していたほどである(『読売新聞』)。

 「極右の権威主義者ヴィクトル・オルバーンは選挙に敗れた」。「次は11月、議会にいるトランプの追従者たちや『MAGA』の過激派たちの番だ。冬が来る」(Kassam)というのが、一般的な反応であろう。   

 ただ、オルバーンの敗北にトランプはさしたるコメントは出していない。4月14日に、「オルバーンの敗北はあまり気にしていない。新しい首相のピーター・マジャールは好きだ。彼はいい仕事をするだろう」と述べた。オルバーンについては、「もっともヴィクターはよき友人だった」、「かれは移民問題を扱うのにいい仕事をして、人々が国に入ってきて国をだめにするのを防いだのだ」とコメントしただけである(Reuters, April 15, 2026:Hungary Today,April 15, 2026)

 NYT Intは、「トランプ運動は味方を失った」という記事で少し踏み込んだ見方をしている。曰く、オルバーンはアメリカの右翼に大きな影響を与えてきた。トランプとMAGAはDNAを長らく共有してきた。反移民、メディア抑圧、出生率低下への懸念など。スティーヴ・バノンはオルバーンの事を「トランプの前のトランプ」と称したほどである。トランプの支持者の多くはオルバーンを同志と考え、いろいろな考えの生みの親とみなしてきた。タッカー・カールソン(アメリカの保守派のコメンテイター)のインタヴューで見られたように、オルバーンからインスピレーション、多くの教訓をもらってきた。だが、いまや、オルバーンの敗北はアメリカの共和党と右翼に警報を鳴らしている。ロッド・ドレア(キリスト教右派の作家)は、オルバーンと同じことをしていては、2028年の選挙で負けると考えている。今度はかれの敗北から教訓を得るべきだ。とくに経済の停滞と腐敗という点で。次の首相のマジャルも保守主義者だから、保守が退潮したわけではない。オルバーンは、16年の支配の中で、国民との接点をなくしたのだ。そこを教訓とすべきだというのである(Browning)。

 さらに、オルバーンの失脚は、トランプのEU内での影響力にも影響を与えるという。オルバーンの敗戦はアメリカのトランプの欧州右翼との関係を危なくしている。オルバーンがトランプに近く、選挙前にもトランプや副大統領のヴァンスから応援を受けたにも関わらず大敗したことを受けて、欧州の右翼はみなトランプとの関係を再考している。とくにトランプのグリーンランド政策やイラン攻撃が不評であった(Adghirni)。

 このように、アメリカの保守派はオルバーンの敗北から、教訓を学ぶように迫られている。反面、民主党はマジャルの勝利から教訓を得るべきだという議論もある。

4.EUとの関係はどうか  

1)EU側の歓迎

 オルバーンの敗戦を最も歓迎しているのはEU指導部であろう。これまで、オルバーン政権がロシアに対するEUの追加制裁や、ウクライナへの900億ユーロ(780億ポンド)の追加融資に拒否権を行使したことを受け、オルバーン政権とEUの対立関係は新たな低水準にまで悪化していた。その後、オルバーン政権がEUの機密情報をモスクワに提供したとの疑惑が浮上し、ブダペストとブリュッセルの間の緊張は頂点に達した。こういう状況にあったから、EUはオルバーンの敗北とマジャルの勝利を歓迎した。

 フランスのマクロン大統領、ドイツのメルツ首相、スペインのサンチェス首相、ポーランドのドナルド・トゥスク首相、欧州連合(EU)のフォンデアライエン委員長らがマジャルの勝利を祝福することを表明した。フォンデアライエンは、4月12日、「今夜、ハンガリーで欧州の鼓動はより力強く響いている」と述べた。ただ、オルバーンと近い関係にあるとされてきたイタリアのメローニ首相は「友人のビクトル・オルバーン氏に対し、長年にわたる緊密な協力を感謝する」とねぎらいの言葉を投稿し、「今後も野党の立場から自国に尽くし続けるだろう」とした(「対立から結束へ」『朝日新聞』 2026年4月13日)。

 このように大体においてEUは歓迎しているが、マジャルはもろ手を挙げてEUに一体化するかどうかは不明である。かれはEUの対ウクライナ政策に全面的に賛成しているわけではない。マジャルはまた、EUの課す移民割り当てには反対し、国境のフェンスは維持することを公言している。かれの当面の狙いはオルバーンが民主的政治をしていないというので差し止められていたEUからの補助金を入手することである(Komuves)。

2)EU内のオルバーンの遺産

 オルバーンは、非リベラリズムを広めるため、国内では、研究機関としてドナウ研究所、教育機関としてマーチャーシュ・コルヴィヌス・コレギウムを作ったが、2022年にEUの中でも「MCCブリュッセル」というシンク・タンクを作り、ヨーロッパだけでなく世界中から非リベラリズムを研究する人を集め、発信していた。これはハンガリーのマーチャーシュから資金を受けていたが、マーチャーシュはハンガリーのMOLから資金をもらっていた。マジャルはこれらを解散すると宣言しているが、大統領のシュヨクが拒否するかもしれない。それに「MMCブリュセル」はかなりの人脈を作ってしまっている(Smialek)。それに、EU内には、ベルギーのデウェーフェル首相、ポーランドのナヴロツキ大統領、スロヴァキアのフィツォ首相、チェコバビシュ首相など、オルバーンに同調していた保守派が存在する。

 しかし、EUが少しは議論のできる場になったことは間違いなさそうである。

5.ロシアとの関係はどうか 

 オルバーンは、ロシアのプーチン大統領と関係が近く、EU加盟国の全会一致が必要な対露制裁やウクライナ融資などで再三、「拒否権」をちらつかせてきた。それゆえ、オルバーンの敗戦がロシアとの関係にどういう影響を与えるかが注目された。

 今回の選挙では、オルバーンを支持するロシアがSNSなどを通じて偽情報を拡散し、世論工作を仕掛けたと指摘されるが、これも内政干渉だと『読売新聞』は批判していた。

 ロシアへの影響という点では、オルバーンが負けても、ハンガリーとロシアとの関係が切れるわけではないだろうと言われる。エネルギー問題があるから、マジャルは「プラグマティック」に対応しようとしているし、ロシア側もそのようである(Nepszava Peszkov)。マジャルは現在80%をロシアに依存しているエネルギーの入手先を多様化すると宣言しているが、これには時間もかかるはずであり、「ハンガリーはモスクワと完全に手を切ることはできない」と考えられている(Flynn; Sonne)。

 また、ロシアのウクライナでの戦争について、ロシアのペスコフ大統領報道官は、選挙結果を受けてすぐに、「ロシアとウクライナの紛争の先行きとは何の関係もない」と主張した(「対立から結束へ」『朝日新聞』 2026年4月13日)

 ロシアも「プラグマティック」な関係で行こうと言っており、そういう関係がどうなるのか注目される。

6.ウクライナとの関係はどうか 

1)ハンガリー側から見ると

 ハンガリーとウクライナの関係はザカルパチアにいる16万人のハンガリー人マイノリティをめぐって、緊張しているが、オルバーンはそれを強調し、ウクライナのEU加盟への反対につないできた(Méheut)。マジャルもウクライナとの関係はウクライナ内のハンガリー人マイノリティの権利の回復次第だと言っている(Flynn)。マジャルは、ロシアへの傾倒が過ぎるのは批判したが、ウクライナ戦争については語っていない。またウクライナの早急なEU加盟には原則として拒否しているわけでないが、慎重だと観測されている(Méheut;Komuves)。

 Al Jajeeraは、反ウクライナだったオルバーンの敗北は歓迎している。というのは、トランプ―ネタニヤフ―オルバーン―プーチンと繋がっていた反EUの地政学が崩れたからである。この結果、ウクライナへの支援の障害が消え、イスラエルへの支援も消えたのだとみている。しかし、ハンガリーとウクライナの関係については、ロシアとのエネルギー問題があり、ウクライナの中のハンガリー人問題があるので、マジャルはウクライナを全面支持ではないだろうとみる。ただ、ウクライナへのEUの融資は認めるだろうと観測している(Ragozin)。

2)ウクライナ側から見ると   

 ウクライナのゼレンスキー大統領は、マジャルがオルバーン前首相と同様に、同国への武器供与やキエフのEU加盟手続きの迅速化に反対する姿勢を継続すると表明しているにもかかわらず、ウクライナはハンガリーとの協力を進める用意があると述べた。「我々は、両国の利益のため、そして欧州の平和、安全、安定のために、会談や建設的な共同作業を行う用意がある」というのである(Kassam)。 

 たしかに、キエフにとってEU内の最も頑固な敵がいなくなった。EUからの900億ユーロのローンが可能になった。しかし、マジャルはウクライナの全面的な味方ではなく、EU内の他の指導者にもそれ以上キエフを支持することには懐疑的な人たちがいる。マジャルは、ウクライナへの軍事支援の拡大には慎重で、特にEUの早期加盟については反対している(Flynn)。

 Al Jajeeraは、反ウクライナだったオルバーンの敗北は歓迎しているが、まだヨーロッパには、ベルギーのデウェーフェル首相、ポーランドのナヴロツキ大統領、スロヴァキアのフィツォ首相、チェコバビシュ首相など、オルバーンに代わるウクライナ懐疑派がいるという(Ragozin)。オルバーンがいなくなってもこれは変わらないだろうというわけである。

7.イスラエルとの関係はどうなる

 オルバーンの敗北がもたらす影響は、イスラエルのネタニヤフ首相と、同政権の欧州における立場にも直ちに影響を及ぼしている。オルバーンは、欧州連合(EU)内でイスラエルにとって最も信頼できる同盟国としての役割を果たしていた。オルバーンとネタニヤフの政治的関係は、国家主権の重視、移民への敵意、そしてリベラルな国際機関への反対といった、共通のイデオロギー的基盤に根ざしていた(Palestine Chronicle, April 13, 2026)。

 オルバーンの敗北が、即座にイスラエルに対するハンガリーの敵対的な政策につながるわけではない。マジャルは、ガザ問題やネタニヤフ自身について、まだ明確な立場を打ち出していない。だが、ハンガリーは、イスラエルを標的としたEUの取り組みに対して反射的に妨害を行うことはもはやないと見られており、ガザ問題に関するより強固な共同の立場や、より広範な説明責任を求める措置への道が開かれたとされている(Palestine Chronicle, April 13, 2026)。Plestine Chronicleは、イスラエルのネタニヤフを押しているオルバーンが消えたので、安堵している。EUとして動いてくれることに期待しているわけである。 

8.中国との関係

 中国との関係については、NYTなどは語っていなかった。実はオルバーンは「東」への強い関心を持っていて、リベラルの支配する「西」とそうでない「東」との間の架け橋をするのが、非リベラル・デモクラシーのハンガリーなど「中欧」であると主張していたのであった。

9.世界の保守派とリベラル派への影響はどうか

1)保守派の動き

 読売新聞は、オルバーンは、移民やEUやウクライナなどを「仮想敵」とし、敵意や憎悪をあおってきた。同様の手法はハンガリー以外の欧州にも広がり、ドイツやフランスなどで「自国第一」を掲げる排外的なポピュリズム(大衆迎合主義)勢力を伸長させてきた。オルバーンの退陣が、欧州の極右勢力の伸長の変調につながるかどうかを注視する必要があるとする(『読売新聞』)。

 オルバーンの敗北は世界的な保守の動きに大きな意味をもつ。フィデス政権は、ドナウ研究所とマーチャーシュ・コルヴィヌス・コレギウムに世界中の保守派を集めて、支援していた。いまやそれはできなくなるはず。オルバーンのもとでは、ブダペシュトは祖国の政府ではのけ者にされた世界中の保守派のデズニーランドとなっていた(Goldberg  April 14)。オルバーンは、アメリカの保守派と繋がりがあり、彼らを支援していた。例えば、アメリカのキリスト教保守派のドレアをドナウ研究所のフェローに受け入れていた。

 NYTの一コメンテイターは、少なくとも過去20年間、世界的に見てリベラリズムに対する右翼の敵には活力とエネルギーがあったが、今や、現代ポピュリストの先駆者であるオルバーンも、その権化であるトランプも落ち目にあるという(Goldberg April 14)。そうかもしれないが、それでも、ポーランドのナヴロツキ大統領、スロヴァキアのフィツォ首相、チェコのバビシュ首相は保守派であることは無視できないはずではなかろうか。

2)リベラリズムが学ぶべきこと。

 NYTは、オルバーンの敗北からリベラリズムが学ぶべきこととして、保守派のコメンテイターの意見を載せている。

 第一の教訓は、ポピュリズムが台頭する状況下にある西欧の民主主義は、ある種の不安を抱くアナリストが示唆するよりもはるかに強靭であるということ。権威主義的な動きを見せる指導者がいることと、実際に権威主義国家であることとの間には極めて重要な違いがあり、前者の状況から後者へと至る道筋は、「専制政治」と書かれたスイッチを単に切り替えるような単純なものではない。

 第二の教訓は、ポピュリズムに対する最善の政治的対応は、民主主義の危機を理由に、いかなるものであれ人々に既成体制への支持を求めるのではなく、ポピュリズムの具体的な政策要求に対処することにある。

第三の教訓は、冷戦後の秩序の危機は、いわゆる「ポストリベラル」を標榜する知識人とは無関係に存在しているということ。ポピュリズムやナショナリズムという現象は、大量移民、出生率の急落、脱工業化、そしてデジタル化に伴うアノミーという時代に対する有機的な反応であり、保守派の知識人たちはこの反動に便乗してはいるが、彼らが生み出したわけではない。

 最後に、反民主的あるいは非自由主義的になり得るのはポピュリストだけではない。EUというリベラルな政治的枠組みでさえ、時に「民主主義の欠如」に侵されているといわれる。官僚階級が世論を無視し、国家主権を蹂躙するのである。欧州にもリベラリズムの名の下に「ソフトな専制」を行ったり、人権と人間の尊厳に対する冒涜を永続させたりしている諸政府があり、それと同時にポピュリストのオルバーンもいたのである(Douthat)。

 以上がNYTなどの論評である。オルバーンの退場とマジャルの政権発足ののち、数か月して、今回の政変の意味がより明確になってくると思わる。その時の観測はどうなるであろうか。注目しておきたい。

参考文献

Orbán Defeated: Netanyahu Loses Key EU Shield as Europe Reopens Gaza Debate, Palestine Chronicle, April 13, 2026
Dmitrij Peszkov: Soha nem voltunk barátok Orbán Viktorral, Nepszava, 2026.04.14
Donald Trump: Orbán Viktor a barátom volt, Nepszava, 2026.04.14
Így fogadták Bulgáriában a magyar választási eredményeket, Magyar Nemzet, 2026. 04. 15
「強権にノー、EU回帰へ=対ロ融和見直し―ハンガリー総選挙」,『時事通信』 2026年4月14日
「ハンガリー総選挙、オルバン首相の与党敗北 16年ぶり政権交代へ」 『朝日新聞』 2026年4月13日
「オルバン氏の退陣で何が変わる? ハンガリー総選挙、3つのポイント」 『朝日新聞』 2026年4月13日
「対立から結束へ ハンガリーの政権交代、欧州首脳が次々に「歓迎」」『朝日新聞』 2026年4月13日
「ハンガリー選挙 欧州極右伸長の流れ変わるか」『読売新聞』2026年4月16日

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Adghirni, Samy & Kowalcze, Ramil, Orban’s loss hurts Trump’s standing in Europe, The Japan Times(以下JT), April 16, 2026
Bennhold, Katrin, Hungary’s Populist Paradox, New York Times, (以下NYT), April 14, 2026
Bottoni, Stefano, Orban’s Fall Is an Astounding Achievement, NYT, April 13, 2026
  (国際版に再録)
  Bottoni, Stefano, Orban’s fall is an astounding achievement, New York Times International Edition (以下NYT Int) , April 16, 2026
Breeden, Aurelien, Who is Hungary’s next leader? NYT Int, April 14, 2026
Broder, David, For Orban, Trump may be his ruin, NYT Int, April 10, 2026
Browning, Kellen and Goldmacher, Shane, MAGA Absorbs the Loss of Orban, a Kindred Spirit to Trump’s Movement, NYT, April 13, 2026
  (国際版に再録)
  Browning, Kellen and Goldmacher, Shane, Trump Movement loses a ally, NYT Int, April 15, 2026
Douthat, Ross , The Four Lessons Liberals Should Consider After Orban’s Defeat, NYT, April 18, 2026
  (国際版に再録)
  Douthat, Ross, What liberals should learn from Hungary, NYT Int, April 21, 2026
The Editorial Board, Here’s How to Defeat Trumpism, NYT, April 14, 2026
  (国際版に再録)
  The Editorial Board, How to Stop a would-be autocrat, NYT Int. April 15, 2026
Escritt, Thomas, Simon, Zoltan & Kasnyik, Marton, End of Orban era in Hungary, JT, April 14, 2026
Flynn, Daniel, Dysa, Yuliia & Bayer, Lili, Hungary vote removes Kyiv’s staunchest foe in EU, JT, April 15, 2026
Goldberg, Michelle, He Was ‘Trump Before Trump.’ Now He’s in Trouble. NYT, April 11, 2026
  (国際版に再録)
  Goldberg, Michelle, Orban was “Trump before Trump”. Now he’s finished, NYT Int, April 14, 2026
Goldberg, Michelle, What Orban’s Defeat Means for the Rest of the World, NYT, April 13, 2026
  (国際版に再録)
  Goldberg, Michelle, What Orban’s defeat means for the rest of the world, NYT Int, April 15, 2026
Higgins, Andrew, In Hungary, a populist lost his popularity, NYT Int, April 15, 2026
Jakes, Lara, 4 Takeaways From Viktor Orban’s Defeat in Hungary’s Election, NYT, April 13, 2026
Kassam, Ashifa and Garamvolgyi, Flora, Hungarian opposition ousts Viktor Orbán after 16 years in power, The Guardian, April 13, 2026
Kirby, Paul, Orbán era swept away by Péter Magyar’s Hungary election landslide, BBC April 184 2026
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Komuves, Anita, Once inspired by Orban, Magyar unseats him, JT, April 14, 2026
Landler, Mark , Orban’s Defeat Punctures Europe’s Far Right, but Also Offers It a Road Map, NYT, April 16, 2026 (Updated April 21)
Mead, Walter Russell, The Curtain Falls for Hungary’s Orbán, Wall Street Journal, April 14, 2026,
Méheut, Constant, Kyiv hopes its nemesis in the E.U. is gone, NYT Int, April 15, 2026
Ragozin, Leonid, Orban was defeated in Hungary, but Orbanism lives on, Al Jajeera, April 13, 2026
Simon, Zoltan & Escritt, Thomas, Vance picks fight with Europe over Orban in vote endorsement, JT, April 9, 2026
Smialek, Jeanna and Ryckewaert, Koba, Will Viktor Orban’s Legacy Lives On in Brussels, Even Without Him?  NYT, April 14, 2026
  (国際版に再録)
  Smialek, Jeanna and Ryckewaert, Koba, Populist vision lives on in Brussels think tank, NYT Int, April 16, 2026
Smialek, Jeanna, Orban Loss in Hungary Is a Big Moment for the E. U. Heres Why, NYT. April 13, 2026
  (国際版に再録)
  Smialek, Jeanna, New leader in Hungary may bolster E.U. unity, NYT Int. April 14, 2026
Sonne, Paul, Hungary May No Longer Be Putin’s Ally, but It Can’t Afford a Full Break, NYT, April 13, 2026
  (国際版に再録)
  Sonne, Paul, Hungary can’t afford a full break from Moscow, NYT Int, April 17, 2026

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世界史寸評
オルバーン失脚の世界的影響―ハンガリー選挙をめぐる報道より(その1)
2026年4月12日―18日
南塚信吾

 2026年4月12日(日)に行われたハンガリーの国会選挙では、ヴィクトル・オルバーンの率いるフィデス(青年民主同盟)党が大敗し、ペーテル・マジャルの率いるティサ(尊敬と自由)党が地滑り的な勝利を得た。16年にわたって続いたオルバーン政権は終焉した。確定した結果によると、国会の議席199のうち、ティサは141議席を獲得し、フィデスは52議席にとどまった。

 一国の選挙がこれほど世界的に注目を浴びたのはまれであろう。この選挙は、ハンガリー国内だけでなく、アメリカのMAGA運動や世界中の極右勢力の強靭さを試す試金石として、世界中から注目された。彼らの多くはかねてよりオルバーンを模範として、その戦略を模倣しようとしてきたからである(Kassam)。 ニューヨーク・タイムズ(NYT)の国際版(NYT Int)やジャパン・タイムズ(JT)をみると、何度も全面を使ってオルバーン失脚の世界的意味を論じていた。オルバーン失脚の世界への影響はどうか。NYTとJTを中心に内外の報道を取り入れて議論を整理してみたい。

1.オルバーンはなぜ負けたのか

(1)オルバーンの敗因

1)経済不振と腐敗・縁故主義

 オルバーンの率いる右派ポピュリスト政権は、在任期間中、自らの権力を抑制していた権力分立の仕組みを着実に弱体化させてきた。具体的には、選挙法を自らの利益になるよう改正し、国内メディアの約80%を支配下に置くべく工作を行い、司法制度を再編した。(ガーディアン)16年に及ぶ長期政権を築いたオルバーンは、司法介入やメディア統制を通じ、権力を追求しつつ政敵を排除してきた(『時事通信』)。

 このように、オルバーンは、中央地方の政治・司法・文化の諸機関に自分の息のかかった人物を配置して、権力を固めたはずであるが、それでも選挙で負けたのである。

 その理由を読売新聞はこう伝えた。ハンガリーは、ロシア産エネルギーの輸入や、中国からの投資を頼りに経済成長を目指してきた。だが、国内総生産(GDP)成長率が2023年以降、3年連続で1%を下回った。1人あたりGDPはEU加盟国で下位にある。中露に依存し、国家管理を強化する手法が限界を迎えていたのは明らかだ。オルバーン体制で横行した汚職や縁故主義も、経済成長を妨げてきた要因といえる(『読売新聞』)。これは的を射ている。

 筆者の友人で、ハンガリーの著名な画家・イラストレーターであるフェレンツ・バンガが、2025年3月に日本へ来たときに、オルバーンの政治について聞いたことがある。かれは、①物価が高く、生活は苦しくなった。石油はあるが、とても高い。②小学校が教会に売却されて、半数は公立ではなく教会の経営になってしまった。だから教育が一面的になっている。③出版社がどんどんなくなり、経費を削減しようと、出版にさいしてイラストを入れなくなった。④身近にあった小さい商店が消えて、スーパーだけになった。⑤行政、メディア、教育・研究、病院などの管理職はすべてオルバーン派の人間になってしまった。⑥町には警官ばかりが目に付いてしまう。日本はとても少ないので驚きだ、などとオルバーンを批判していた。これが、ハンガリーの国民のレベルでの目線に近いだろう。

 要するに、経済と腐敗・縁故主義がカギであったようだ。ただ、この両者は因果関係にあったという指摘がある。政治での一党支配と家父長的な支配は、ハンガリーの19世紀以来の政治の伝統だから、それで批判が募ったということはない。そうではなくて、経済政策で、自分の周辺の人間に公的な金を流して太らせ、反面国民を貧困にした。特に中産階級が激減した(Bottoni)。

 これ以外に、アメリカのトランプ政権との絆が逆に作用したと指摘するものもある(Broder)。とくにイラン戦争はトランプ政権への評価を下げたようだ。

2)「ポピュリズムのパラドックス」 

 こういう国民を貧困にしたといった問題を、NYTはポピュリズムの問題として論じている。NYTは、ポピュリストがピープルの要求に答えられなかったのだという。「結局、右翼ポピュリズムのハンガリー人先駆者はポピュリストであることを完全にやめたのだ」。マジャルが批判したように、「オルバーンは何年もの間、ハンガリーの人々に関係する問題に注意を払ってこなかった。」「われわれは、かれが医療や教育や生活費について語るのを聞いたことがない」(Higgins)。

 オルバーンはプーチン(2019年)やトランプ(2016年)よリも早くに「リベラル・デモクラシーは盛りを過ぎた」と言った。しかし、かれは負けた。なにが起きたのか。それは政治の基本のことで、「選挙に勝つには人々に人気がなければならない」という基本が示されただけのことだ。日曜日に起きたことは、ハンガリー国民にイデオロギー的な地震や方向転換が起きたということではない。単に人間的なことである。国民は、しだいにおべっかと、大きな宣伝マシーンからの賞賛に甘やかされるようになった強いリーダーを倒したのである(Higgins)。

 オルバーンは「ポピュリズムのパラドックス」に陥って敗北したのだとする説もある。「ポピュリストのパラドックス」と呼ばれる、よく知られたパターンがある。一部のポピュリスト指導者は、「腐敗を一掃し、汚職と闘う」という公約を掲げて勝利を収める。しかし、一旦権力を握ると、彼らは汚職を防ぐための制度を徐々に弱体化させ、その汚職を利用して自らの支配を強固なものにしていくのである(Bennhold)。

3)政治家というよりは「興行主」

 最後に皮肉たっぷりの議論を「ウオール・ストリート・ジャーナル」が載せている。曰く、オルバーンを支持する米国の「オルタナ右翼」も、国際的なリベラル派のオルバーン批判者も決して、長年ハンガリー首相を務めた彼を真に理解していたわけではなかった。本当の独裁者であれば、自分の権力を脅かす選挙を回避あるいは制御する手段を見つけていただろう。オルバーンは結局、政治家というよりは興行主だった。移民、キリスト教、同性愛、世界主義的自由主義、国家主権にロシアなど、オルバーンはどこに熱い議論を巻き起こす争点があるかを知っていた。彼はそれを頻繁に強く刺激した。ナショナリスト的な保守派はそれを大いに喜び、世界主義的自由主義者は激怒した。その一方で、オルバーンは政治機構の構築に精を出したが、それは世界を変えることより、自分の権力を維持することを重視するものだった。

 過去16年の大半において、オルバーンの体制は機能してきた。彼が掲げた大義は、高齢化と人口減少が進むハンガリーにおいて、将来に不安を抱き、移民や文化的変容に脅威を感じる国民の共感を呼んだ。同時に、EUの世界主義的、脱国家的かつ脱歴史的なリベラル思想に対する彼の反対姿勢は、世界中で支持者を集め、それが彼の国内での地位強化に役立った。

 だが、オルバーンは建設者というよりエンターテイナーとして優れていた。広く称賛された彼の家族重視政策も、ハンガリーの人口減少を反転させることができなかった。有能な若いハンガリー人が西欧に移住する状況が続いた。汚職が広がる中、経済は停滞した。ハンガリー人はかつて旧ワルシャワ条約機構加盟国の住民の中でも最も裕福な部類に入っていた。だが現在では、ルーマニア人より貧しい。選挙区の恣意的な改定やメディア操作は、発想力に欠けるように見える指導部に対する国民の倦怠感の高まりを克服することはできなかった(Mead)。

 オルバーンもマジャルもイデオロギー的に大差がないことを考えると、このような見方もあり得るかもしれない。

(2)マジャルの勝因   

1)EUと縁故主義

 マジャルは、なぜ大勝したのか。鍵は、EUと縁故主義に主に求められている。マジャルは、ハンガリーとEUの緊張した関係を修復し、汚職を取り締まり、生活水準を引き上げ、長年放置されてきた公共サービスに資金を投入すると公約した(Kassam;Breeden)。マジャルは現在の体制とはきっぱりと決別すると断言し、とくに公的資金で私腹を肥やす連中は排除すると約束した(Goldberg April 13)と言われている。

 そのうえで、マジャルは独特の運動を繰り広げてきた。2年間にわたり、マジャルは急成長する自分の運動を全国の村々や町の広場、そして都市へと広め、長年にわたりハンガリーに蔓延していた縁故主義や汚職にうんざりしていたハンガリー国民を結集させてきた(Kirby)。私の友人で、元ハンガリー科学アカデミー総裁であった歴史家のベレンドUCLA名誉教授は、マジャルが全国の町や村を回って人々と直に接したことを重視している。もともとオルバーンは地方に強いはずであったが、そこを縁故主義や汚職を批判するマジャルに掘り崩されてしまったのである。

2)二つのポイント

 NYTの編集部はマジャルの選挙キャンペーンの二つのポイントを指摘した記事を載せている。

 一つに、生計に関する問題に焦点をあてたこと。ティサ党は、政府のサービスの非効率を批判、勤労家族の減税、医療の拡大、年金の増額、児童手当の拡大、学校の補助員の給料引き上げを公約、富裕税からの収入とEUからの基金で、これを賄うとした。数家族が国の半分を持っていると言われた。マジャルは、汚職問題を中心的争点とし、それとの関係で、ハンガリーの生活水準の停滞を取り上げたのだ。

 二つに、社会的進歩主義を採らなかったこと。マジャルは中道右派で勝利した。経済的には進歩主義だが、文化的には保守とは言わないが中道である。マジャルは、右派として愛国的シンボルを使った。国旗がその例だ。彼の名前も得している(=マジャルとはハンガリーのことである)。かれはナショナリストだと公言している。かれは農村部を回った。ウクライナのために軍隊や武器を送らないと約束した。LGBTQのデモには出なかった。移民については、オルバーンよりも厳しい規制を主張した。ハンガリー在住のアメリカの保守主義者ロッド・ドレアは、マジャルが勝ったのは、「少なくとも公的には、かれがオルバーンの支持するすべての事を受け入れたからである」という。マジャルは、不法移民に反対し、同性愛にも反対している。選挙は、中道右派と権威主義的右翼との争いだったのだ(The Editorial Board)。

3)「オルバーンでないこと」   

 マジャルの勝利は、イデオロギーや政策体系の故ではないとの声が強い。マジャルの勝利は、オルバーンとのイデオロギー上の隔たりを巧みに最小限にとどめつつ、自身の能力と誠実さに焦点を合わせたことにある(Mead)とか、マジャルは、オルバーンと同じような考えをする保守派であるが、かれはオルバーンほど好戦的でも断定的でもなく、自国ともEUとも仲良くやっていく「人間的な」ハンガリー人であることを約束したのだと言われた。そしてついには、マジャルは医療や教育やEU対策などについて詳しく語ったことはなく、かれの最大の強みは「オルバーンでないこと」だったのだ(Higgins)とされる。これがポイントかもしれない。

2.ハンガリーの国内政治はどうなる  

1)喜ぶ人たち

 『ガーディアン』は、オルバーンの敗北を喜ぶ国民の声を伝えている。「独裁政権や右派のイデオロギー、そういったものはすべて消え去り、私たちはより良い国を作るチャンスを得たのです」。「希望に満ちて、幸せです」。「これからの4年間が、過去16年間よりも良いものになることを心から願っています」。「今後4年間、ハンガリー国民は安全、平和、自由を享受でき、誰にも生活に干渉されることはないだろう」という声である(Kassam)。ハンガリーの地方都市に住むわたしの友人は、地方の文化の維持、育成に熱心に取り組んでいるが、彼は「これで、創造的な仕事ができるようになる」と喜んでいる。

2)そんなに喜んでいいのか

 たしかに、ティサ党が公約してきたように政府のサービスを効率化し、勤労家族の減税、医療の拡大、年金の増額、児童手当の拡大、学校の補助員の給料引き上げは実現していくだろう。富裕税を導入し、数家族が国の半分を持っているという汚職と縁故主義は一掃していくだろう。国民の生活水準の引き上げ、医療制度の改善も約束している。教育関係の改善も実行するだろう。また、対外的には、「同盟国からの信頼回復」や「脱ロシア産エネルギー」を目指し、EUとの関係改善に努めるとみられる。そして、オルバーンのように中国など「東」を重視するよりも、「西」へ回帰することを目指している。

 だが、マジャルはやはり保守派なのである。マジャルはかつてはオルバーンに刺激を受けた人物で、その後汚職問題などを機にオルバーンとフィデスに幻滅してそれを批判するようになった。しかし思想は保守なのである(Goldberg April 15)。マジャルは、難民受け入れには批判的である。また、LGBTQをオルバーンほど毛嫌いすることはないとはいえ、LGBTQには慎重である(Breeden)。対外的にも、ウクライナの「迅速なEU加盟」には反対の立場で、EUなどと一定の緊張関係が続く可能性はある(『時事通信』)。

3)もっと深刻に考える人もいる。

 「ハンガリーの今後の道筋は複雑なものである。フィデス党による経済界、メディア、行政、司法への支配は、広範囲かつ深く及んでいる」とみる人もいる(Kassam)。

 「オルバーンがいなくなってもハンガリーはまだむつかしい状態がつづく」とみるのは、選挙制度の問題があるからである。今回の選挙は独特の選挙システムのおかげである。ティサは投票の53%しか得ていないのに、議席は141も獲った。フィデスは49議席だが、43%も得ている。それだけ非リベラリズムの支持者がいるということだ。ティサの票には中道右派とリベラルと左派の票が混ざっているのであると言われる(Kisilowski)。

参考文献

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Így fogadták Bulgáriában a magyar választási eredményeket, Magyar Nemzet, 2026. 04. 15
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「ハンガリー総選挙、オルバン首相の与党敗北 16年ぶり政権交代へ」 『朝日新聞』 2026年4月13日
「オルバン氏の退陣で何が変わる? ハンガリー総選挙、3つのポイント」 『朝日新聞』 2026年4月13日
「対立から結束へ ハンガリーの政権交代、欧州首脳が次々に「歓迎」」『朝日新聞』 2026年4月13日
「ハンガリー選挙 欧州極右伸長の流れ変わるか」『読売新聞』2026年4月16日

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