世界史研究所のウェブサイトにようこそ

世界史研究所は、2004年7月10日の設立以来16年間に渡って、世界史研究とそれにかかわる情報交換の拠点として活動して参りました。2020年4月1日からは、母体となっていた「歴史文化交流フォーラム」の解散に伴い、ウェブサイトでの活動を主とする研究所として新たにスタートしています。毎月1日に「世界史の眼」と題する論考・コラムを掲載している他、世界史に関する情報の発信・集積や出版活動に努めています。具体的な活動方針に関しては、こちらをご覧ください。また、世界史研究所が関与した書籍に関しては、こちらをご覧ください。

世界史研究所ウェブサイトに掲載の論考の著作権は、各著者に帰属します。無断転載はお断りします。引用に際しては、必ずURLを明記してください。

カテゴリー: お知らせ | 世界史研究所のウェブサイトにようこそ はコメントを受け付けていません

「世界史の眼」No.59(2025年2月)

今号では、小谷汪之さんに、「島木健作の満洲(上)―「満洲開拓政策」批判」をご寄稿頂きました。2回に分けての連載になります。また、南塚信吾さんには、連載してきた「世界史の中の北前船(その7)―薩摩・琉球―」をご寄稿頂きました。「その7」でひとまず完結となります。

小谷汪之
島木健作の満洲(上)―「満洲開拓政策」批判

南塚信吾
世界史の中の北前船(その7)―薩摩・琉球―

カテゴリー: 「世界史の眼」 | コメントする

島木健作の満洲(上)―「満洲開拓政策」批判
小谷汪之

はじめに
1 作家・島木健作の誕生
2 農民文学懇話会と大陸開拓文芸懇話会
(1)農民文学懇話会
(2)大陸開拓文芸懇話会
(以上 本号)
3 島木健作『満洲紀行』
(1)満洲の大日向分村
(2)「自作農主義」政策批判
(3)満蒙開拓青少年義勇軍勃利訓練所
4 『満洲紀行』に対する評価
おわりに
(以上 次号)

はじめに

 島木健作(本名、朝倉菊雄、1903-45年)は札幌に生まれた。父・朝倉浩は北海道庁の官吏であったが、日露戦争時に道庁の仕事で満洲の大連に出張し、そこで病没した。島木2歳の時である。母・マツは朝倉浩の後妻であったが、自分の生んだ2人の子を連れて朝倉家を出た。そのため、島木は兄・八郎と共に、貧しい母子家庭で育つことになったのである。

 島木は14歳の時に、高等小学校を1年で中退し、紹介してくれる人があって、北海道拓殖銀行の「給仕」(雑用係)となった。16歳の時には銀行を辞めて上京し、書生の職を探して医師宅や弁護士宅に住み込んだ。勤務の傍ら、「夜学は正則英語学校に通った。中等部の一番上のクラスに入れてもらった」(島木健作「文学的自叙伝」、島木『第一義の道・癩』角川文庫、所収、198頁)。しかし、翌年、「肺がわるいといふことで、帰郷するのほかないことになった」(同前)。札幌に戻ったその日の真夜中、激しい喀血があり、それきり寝込んでしまった。病気は肺結核だったのである。静養の末、18歳の時、援助してくれる人がいて、旧制私立北海中学4年に編入され、1923年、20歳で同校を卒業した。その後、上京して、帝国電燈株式会社に入社したが、同年9月1日の関東大震災により職場で負傷し、再度札幌に戻った。負傷が癒えたのち、北海道帝国大学図書館に職を得た。

 1925年、22歳の時、北大の職を辞し、東北帝国大学法文学部専科に入学、東北学連の学生運動に参加し、留置所に入れられる経験もした。翌年には、大学を退学して四国に渡り、日本農民組合香川県連合会木田郡支部の有給書記として、農民運動に加わった。しかし、1928年、日本共産党に対する大弾圧事件である「3・15事件」に連座して逮捕、勾留された。勾留中に肺結核が悪化し、1929年には、「再び政治運動に携はることはないと転向の言葉を法廷に述べ〔た〕」(「文学的自叙伝」202頁)。しかし、翌年有罪が確定し、大阪刑務所に収監された。そこで激しい喀血があり、刑務所内の隔離病舎に移された。

1 作家・島木健作の誕生

 1932年、刑期を1年残して仮釈放された島木は、当時東京・本郷で古本屋を営んでいた兄のもとに身を寄せ、その手伝いをしながら、療養に努めた。その結果、「可能な程度で農民のための仕事に身を近づけようと準備する迄になってゐたが」、1933年12月、病気(流行性感冒)に倒れ、断念せざるを得なかった(「文学的自叙伝」203頁)。そのような状況の中で、「長い長い間忘れてゐた文学的な表現で何か書いて見たいといふ欲求がママへがたい強さで湧いて来た」(同前203頁)。こうして書かれたのが島木の処女作「癩」で、1934年に発表されると、大きな反響を呼んだ。「癩」は基本的には私小説で、その主人公「太田」は島木自身とほぼ重なる。

 「太田」が収監されていた刑務所内の隔離病舎には「一舎」と「二舎」という2棟があり、結核の服役者は「一舎」に入れられることになっていた。しかし、「太田」は「共産主義者」ということで、その影響が他の服役者に及ばないように、「癩病患者」用の「二舎」の独房に入れられた。その隣の房には1人の「癩病患者」がいて、そのさらに隣の雑居房には4人の「癩病患者」がいた。「太田」は彼らの言動を観察する中で、彼らが旺盛な食欲を持ち、性欲も持っていることを知った。「癩」は「太田」の見たそのような「癩病患者」たちの姿を描いた作品であるが、そのリアルな描写が読む人に強い衝撃を与えたのである。

 「癩」は、1934年3月にナウカ社から刊行されはじめた『文学評論』の同年4月号に掲載された。ただ、掲載に至るまでにはいろいろな経緯があった。それまで出版界とまったく縁のなかった島木をナウカ社に取り次いだのは米村正一であった。米村はソビエト連邦(ソ連)で刊行されていたロシア語の経済書などの翻訳を通してナウカ社の社主・大竹博吉とは関係があった。他方、島木は香川県における農民運動を通して、日本農民組合香川県連合会の顧問弁護士であった米村と知り合った。二人の付き合いの中で、米村は島木に面と向かって、君には文才があるとよくいっていた。それで、島木は書き上げた「癩」の原稿を、読んでもらうために、米村の方に回したのである。「癩」の原稿は「米村正一の手から『文学評論』の発行者たるナウカ社の大竹博吉に手渡され、大竹は更に森山啓、徳永直の二人に、どんなものか読んで見てくれと送りつけた。森山、徳永はいずれも、これはいい作品だとして、『文学評論』に掲載することをすすめた」(高見順『昭和文学盛衰史 上』福武書店、1983年、286頁)。こうして、「癩」は『文学評論』に掲載され、島木は新進作家として華々しくデヴューすることができたのである。

 島木健作というペンネームは、「癩」を発表する時に、初めて使われた。その意味で、「癩」は作家・島木健作の誕生を印すものであった。

2 農民文学懇話会と大陸開拓文芸懇話会

(1)農民文学懇話会

 1938年7月、東北地方を旅行していた「太田」は旅先に転送されてきた一通の手紙を受け取った(島木健作『或る作家の手記』創元社、1940年、94頁。この作品は小説の形を取っているが、すべて島木の体験にもとづいている。したがって、「太田」は島木自身と重なる)。それは作家の「井口」からだった。「手紙の文面は、今度農林大臣のA氏が、農民文学に関係のあるものを呼んで懇談しようといふことになった。ついては君にも是非出てもらひたいと思ふ」というようなことであった。「太田はすぐに返事を書いた。自分の帰京はその頃までには難しからうと思ふから、残念ながら出席することは出来まいと思ふ」と(『或る作家の手記』94-95頁)。

 この「農林大臣のA氏」というのは有馬頼寧のことで、有馬の意を体して、「太田」に手紙を書いた「井口」は徳永直であると考えられる。それは以下の一文から推測できる。

彼〔太田〕は井口とは、三四年前に井口がある文学雑誌の編輯者だった関係から面識があるだけだった。彼は関西の方の農村の事情に通じてゐて、此頃ぼつぼつ農民小説を書きだしてゐた。(『或る作家の手記』94頁)

 「井口」についてのこの文章は「癩」の『文学評論』掲載に至る経緯に関説したものに違いないが、その内容からいって、「井口」は森山啓ではなく徳永直だったと考えられる(「井口がある文学雑誌の編輯者だった」というのは島木の思い違いであろう。徳永は『文学評論』の編輯相談役といった立場で、編輯者はプロレタリア歌人の渡辺順三であった)。『太陽のない街』(1929年)で知られるプロレタリア作家・徳永直がどのようにして有馬頼寧とつながりをもったのかは分からないが、徳永は1933年には「日本プロレタリア作家同盟」(ナルプ)を脱退し、実質的には「転向」していたから、こういうこともあったのであろう。

 有馬頼寧と農民文学作家たちとの懇談会は予定より遅れて1938年10月になって開かれたので、島木健作も出席することができた。その他の出席者は和田伝、丸山義二、打木村治など10名ほどであった。そこで、農民文学懇話会の結成、農民作家の大陸視察への派遣、農民文学賞の設立などについて話し合いが行われた(尾崎秀樹『近代文学の傷痕――旧植民地文学論』岩波同時代ライブラリー、1991年、272-275頁)。農民文学懇話会の発会式は1938年11月に行われ、島木健作など30名ほどの作家が参加した。

 島木は農民文学懇話会に参加した理由について、『或る作家の手記』の中で次のように書いている。

 このやうな会に出席することを承知した時の彼〔太田〕の気持はどのやうなものであったらう。それはただなんとなく勧誘に乗ったといふのでもなく、さういふ会のなかで何か一つ派手にやって見ようと思ったのでもなく、自分の文学をもって大いに政治に奉仕しようと思ったわけでもなかった。人として文学者として生きて行かうとするその頃の彼の気持なり態度なりの自然なあらはれにすぎなかったのである。(96頁)

 この曖昧模糊とした自己韜晦的な文章は、裏に何かを隠しているように感じられる。それは、おそらく、もっと政治的なことだったのであろう。これより2年前の1936年11月、思想犯保護観察法が施行され、島木健作はその対象者とされた。「偽装転向者」ではないかと疑われたのであろう。これにより、島木は1945年まで官憲の監視下に置かれることになった。そのような状況において、有馬頼寧を肝煎りとする農民文学懇話会に参加することは、いわば一つの政治的「保険」のような意味合いをもっていたのではないかと思われる。ちなみに、同じく思想犯保護観察法の対象者とされた高見順は戦後における伊藤整との対談で、次に取りあげる大陸開拓文芸懇話会に関説して次のように言っている。「大陸開拓文芸懇話会、あそこらへ籍を置いとかないと、ふん捕まっちゃうんじゃないかと、僕なんか特にそういう感じがして、いやだったな」(板垣信「大陸開拓文芸懇話会」『昭和文学研究』25号、1992年、85頁)。島木健作も同じような恐れを感じていたのではないだろうか。

 農民文学懇話会は後に日本文学報国会(1942年5月結成、会長は徳富蘇峰)に吸収併合されたことから分かるように、本質的に国策文学団体であった。

(2)大陸開拓文芸懇話会

 農民文学懇話会の結成から約3か月後の1939年2月、大陸開拓文芸懇話会が発足した。こちらは拓務省と満洲開拓に関心をもつ文学者の連携で結成された団体で、会長は岸田国士、委員は福田清人、田村泰次郎、湯浅克衛など6人であった。会員は伊藤整、丹羽文雄らに加えて、農民文学の和田伝、丸山義二など、そして「転向作家」とみなされていた島木健作、徳永直、高見順などで、全部合わせて29名であった。その事業としては、「大陸開拓に資する優秀文芸作品の推薦又は授賞」、「大陸開拓事業の視察並びに見学に対する便宜供与」、「大陸開拓文芸に関する研究会、座談会、講演会の開催並びに講演者、講師の派遣」などが掲げられていた(板垣信「大陸開拓文芸懇話会」、各所)。その点では農民文学懇話会と共通する面が多かった。

 1939年2月18日、大陸開拓文芸懇話会の最初の活動として、満蒙開拓青少年義勇軍の内原訓練所(茨城県水戸市)を1泊で訪問した。参加したのは岸田国士、福田清人、伊藤整、島木健作、高見順、田村泰次郎など、十数名であった。その夜開かれた「懇談会」における島木健作の様子を田村泰次郎は次のように伝えている。

島木はつねに日本農民の大陸進出に関しては、彼らの擁護者であり、その立案者と実行者に対しては監視者であった。私がはじめて彼を知ったのは、〔大陸〕開拓文芸懇話会仲間で水戸の内原訓練所へ見学に行って、一泊した時である。その夜、訓練所側のひとたちや、満州の現地から内地へ出張してきたひとたちと、懇談会があった。その席上で、一座の空気は、開拓民の生活の前途を希望的に肯定した上で、話しあいがつづけられたが、彼ひとりは開拓民の生活の前途は必ずしも楽観できないと、どこまでも喰いさがって、相手側を手こずらせた。その言説は理論的で、その理論はまた、綿密に現地の生活の実態を調べてあるので、相手側にとっては不意を衝かれた感じであった。度の強い、細ぶちの眼鏡を光らせ、幾分、身体を猫背にして乗り出すようにしながら、加藤完治〔内原訓練所〕所長に喰ってかかる島木の姿は、恰度、豹が獲物に躍りかかろうとする姿を思わせた。(田村泰次郎『わが文壇青春記』新潮社、1963年、35頁)

 この時、島木はまだ満洲に行ったことはなかったのであるが、満洲行の準備として満洲や満洲開拓に関する文献を広く読み、さまざまな知識を身につけていた。それに依拠して、満洲開拓についての楽観的な観方を批判したのである。

 大陸開拓文芸懇話会も後に日本文学報国会に吸収併合された。拓務省と連携した国策文学団体であったから、そうなるのも当然だったのであろう。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.59)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

世界史の中の北前船(その7)―薩摩・琉球―
南塚信吾

4.琉球と中国の貿易  

(1)進貢貿易

 薩摩の対中貿易は琉球の進貢貿易を利用して行われてきていた。これまで、薩摩の観点から琉球の貿易を見てきたが、改めて琉球の側から見直してみよう。

 国内での生産に恵まれない琉球王国は、15-16世紀には、東アジアの国際交易のネットワークの中心として栄えた。中国、日本はもとより、朝鮮、安南、シャム、スマトラ、マラッカ、ジャワなどと貿易を繰り広げていた(宮城61-69頁;新里他 1975 66-72頁)。

 だが、琉球王国は1609年(慶長4年)に島津の薩摩藩によって制圧された。独立の王国から、薩摩によって支配されるようになった琉球王国は、他国へ商船を派遣することを禁じられ、それまでのように東アジアの国際交易から利益をあげることはできなくなった(新里他 1975 77-81頁)。

 しかし、中国との進貢貿易は維持・継続された。琉球から中国へ貢使が派遣され、琉球産やその他の品物を貢いだり、販売したりした。お返しに中国から金銭や生糸が与えられた。薩摩藩は膨大な財政赤字を抱え、その立て直しにこの進貢貿易を利用しようとした。琉球は貿易のための資金に不足していて、薩摩から借り入れねばならなかった。琉球の進貢貿易に薩摩が積極的に介入したのは1631年(寛永8年)からであった。この年、薩摩藩は琉球の那覇湊(首里王府のある首里ではなく)に薩摩仮屋(かいや)と琉球在番奉行所を置き、進貢貿易を手中に置こうとした(徳永 2005 31-33頁)。琉球王国においては、国王の下に摂政と三司官が置かれ、その下に申口(もうしくち)と物奉行が置かれ、申口の下の鎖之側(さしのそば)が船の点検や外国使者の接待や那覇・久米村の行政監督をすることになっていたが、薩摩はその権力ルートとは別のルートを設けたのである(新里他 1975 89,102頁)

 1633年(寛永10年)に琉球王は、明の冊封を受け、中国より「琉球国中山王」として認められた。ここに、琉球は、中国との関係で、両属状態に置かれた。薩摩はそれを承認していた。そして同年、明からの冊封使船(冠船)が来た際、貢期を二年一貢と貢船二艘の制を認めてもらった(新里他 1975 89頁)。

 1639年(寛永16年)にポルトガルが追放されたのち、ポルトガルがもたらしていた中国産品の輸入が停滞した。そこで、薩摩は、琉球に中国から生糸、巻物、薬種などを輸入させることを幕府に請け合った。その後、1644年に明が滅びて、清が中国を支配するようになると、1663年(寛文3年)には、琉球と清朝との冊封関係が成立し、従来通り二年に一回の貢使派遣が定められた(上原 2016 19-25頁)。幕府と薩摩藩は、この冊封関係に基づく進貢貿易を介して唐物を輸入するために、琉球口を長崎口を補助するものとして位置づけた。

 琉球は、二面の貿易を行っていたわけである。対中国と対薩摩である。この時期、中国との進貢貿易では琉球は生糸・薬種などを輸入し、銀を輸出していた。一方、薩摩藩には中国から入手した生糸の他に、琉球産の砂糖や鬱金を輸出して、銀を輸入したのである。琉球では砂糖や鬱金は農民の労働によって生産されていたが、それへの統制が強まった。また琉球に銀は産しなかったので、薩摩との貿易で入手するか、長崎・大坂から直接入手した。実際には、琉球は貿易で利益を得ることはなかった。わずかに、朝貢使節や進貢船の船頭・水主(かこ)らが私的に品物を持っていって売り捌く利益が認められていたことがメリットであった(上原 2016 27-37頁)。

 しかし、琉球をめぐる薩摩藩と幕府の関係は単純ではなかった。琉球口貿易は幕府の直接的支配はなく、薩摩藩の裁量にゆだねられていたかのようであるが、一方で幕府の統制は長崎貿易の統制に伴い次第に強化された。他方、薩摩藩は琉球王国側からも絶えず抵抗に遭っていた。

(2)幕府の圧力 

 琉球口貿易に対する幕府の統制は1686年(貞享3年)から始まった。1685年に幕府は、長崎口での貿易輸入量を規制・縮小していたが、翌年にはこれは琉球口の貿易にも及び、幕府は薩摩への琉球口貿易品輸入量の減額を命じた。これは1688年(元禄元年)から琉球の進貢貿易にも影響して、その貿易額が削減され、中国へ渡す銀(渡唐銀)の量が減らされたり、毛織物輸入が禁止されたりした(徳永 2005 111―115頁;新里他 1975 91-92頁)。

 さらに、幕府は銀に代えて銅を使うようにしていたが、琉球の場合現地では銅も産しなかったので、大坂で入手した。そして、1698年(元禄11年)以後は、幕府は、銅とともに、俵物(煎海鼠、干鮑など)と諸色(昆布など)を輸出することに力を入れたが、これに合わせ、琉球でも俵物・諸色が輸出に使われるようになった。ただし、それは、私貿易品として船頭・水主(かこ)らが持ち出すものであった(上原 2016 44-46頁)。  

 18世紀になると、中国からの輸入品に変化が現れた。それは生糸輸入の減退であった。1710-30年代になると、国産生糸が出回り、販路が狭まって、中国からの生糸輸入に影響を及ぼしたが、1760年代に中国が朝貢国琉球に対してまで生糸輸出を制限するようになった(上原 2016 47頁)。このため、中国からの薬種輸入の意義が増大した。こうして、琉球の進貢貿易において、中国からの薬種輸入、中国への俵物・諸色輸出が支配的な形になってきた。しかし、幕府の干渉によって、これは円滑には動かなかった。

 財政難にあった薩摩は、なんとしても琉球の進貢貿易からの利益を拡大しようとした。1800年(寛政12年)、薩摩は、唐物の薬種・器材類の他領売り捌きの許可を幕府に願ったが、1802年に、幕府は、琉球の進貢貿易での薬種の輸入を厳禁し、唐物器材類の販売も薩摩藩内に限ることとし、他領での販売を認めなかった(新里他 1975 92)。そこで薩摩藩は長崎商法に頼らざるを得なくなった。薩摩藩主家豪は11代将軍家斉の岳父(家豪の三女が家斉夫人)としての権威をよりどころに、長崎の会所貿易に食い込んで、1810年(文化7年)には、紙、鉛、羊毛織など琉球の輸入産物を「琉球物産」として長崎で販売することを5年間にかぎり認めさせた(上原 2016 111頁)。これは進貢貿易で入手した唐物を長崎商法で販売する道を開いたことを意味した。このあと藩はさらに長崎商法を拡大するよう画策するとともに、琉球唐物を一括買い上げて藩の専売下に置こうとした。しかし、琉球側ではこれに容易に応じなかった。

(3)琉球の抵抗

 琉球は、東アジア世界の中で最も旺盛な通交・貿易を展開し、貿易こそが国家の維持と繁栄の鍵であった。

 そのような琉球を仲介とした進貢貿易は薩摩の思うようにはいかなかった。その理由の一つは、進貢貿易における進貢使節は慣例として使節者個人の私交易が認められていたことで、二つは、琉球から薩摩への貿易品輸送は商船を所有する商人(海商)が担ったことである。そして、進貢使節がもたらした私交易品はまさに抜荷であり、それを購入した海商は領内を始め江戸・大坂で販売する抜荷を行なっていた(徳永 2005 94-95)。これらは、琉球の王府の黙認する抜荷であった。唐物の一括買い上げはこういう慣例を脅かすものであった。加えて、琉球の唐物貿易は、王府に資金がないので、貿易に関係する役人や船方の負担のうえで成り立っていて、かれらに利益を還元せねばならなかった。したがって、琉球側は薩摩の買い上げには容易に応じなかった(徳永 2005 94-95頁;上原 2016 111-133頁)。

 結局、1819年(文政2年)には、琉球はついに薩摩藩による琉球唐物の一手買入制を認めさせられた。同時に、薩摩藩は琉球の救済を名目に、長崎で販売できる「琉球物産」の品を拡大することを幕府に認めさせた(上原 2016 134-142、158頁)。こうして薩摩は幕府に唐物の扱いをかなり任されたことになり、それを制度的に確定すべく、1826年(文政9年)に、琉球に「唐物方御座」を置き、琉球における貿易関係の事項はすべてこの座が扱い、決定をその琉球に下していく体制を整えた(上原 2016 162-167頁)。

 薩摩の支配のもと琉球は、本土から薩摩を経由して得られる昆布などを中国に輸出し、薬種など唐物を輸入して薩摩に引き渡すという立場に置かれたのである。

(4)薩摩の圧力  

 1827年(文政10年)から始まる薩摩藩での調所の財政改革は、琉球にとっては、まずは砂糖の作付け拡大要求として現れた。すでに奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島は、これを受け容れていたが、琉球は、百姓の負担増を理由に、なかなか受け入れてこなかった。しかし、1830年(文政12年、天保元年)にはついにこれを受け入れた。そして、琉球が輸出する砂糖の三分の一程度を薩摩藩が安く買い入れることとなった(上原 2016 173-203頁)。

 調所改革の今一つの重要なポイントは、対中貿易の拡大であった。しかし、琉球側から見ると、薩摩が対中貿易を強化することは、決して利益にはならなかった。つまり、慢性的に財政赤字の琉球にとって、対中貿易は十分な資金をもって行われていたのではなく、中国側も品物の質や量や値段を駆使して輸出を操作しようとしたから、薩摩が思うような量と質の唐物を琉球が獲得できないこともあった。また、関係役人や船頭は、身銭を工面して唐物を買ったり、俵物・諸色と交換に唐物を買ったりして、帰国後にそれを売って、ある程度の利益を得ることは黙認されていたが、薩摩の監督が厳しくなると、そういう利益は得られなくなった。そこで、抜荷に走る者が絶えなかった(上原 2016 231-237頁)。

 調所改革は、1830年代に入ると一層加速されたが、複雑な問題も抱えた。薩摩藩は、1834年(天保5年)に翌年から20年間にわたって、長崎での唐物の販売許可を幕府からとりつけ、これにより事実上、藩は長崎で自由に売買ができるようになった。だが、それは琉球から得る唐物の一層の増大を必要とするようになった(上原 2016 229頁)。同時に薩摩藩は、昆布と薬種の長崎を通さない抜荷を拡大させたが、1835年(天保6年)に新潟で抜荷摘発事件を引き起こし、それにより幕府が1836年(天保7年)に松前と薩摩に対して抜荷取締り令を出すことになった。   

 これは、琉球にも知らされ、中国との進貢貿易が厳しく取り締まられることになり、唐物の抜荷対策が強化された。渡唐船入港に際しての荷改め、積荷の保管、薩摩への積荷輸送などの過程で取り締まりが強化された。輸入された唐物はすべて唐物方御用掛で荷改めされることになった。例えば、中国へ行って帰ってきた渡唐人たちのもたらした積荷は、これまでは荷改めが済み次第、唐物方が独占的に取り扱う品を除いて、荷主に引き渡されていたが、今後は、荷主に引き渡されていた品のうち、個人的な使用物やお土産などを別にして、売却用に使われていた品は、当局に届け出ることになった。これは、貧しい渡唐人たちの収入源を押さえることになった。琉球では、唐物の輸入と薩摩藩への提供には、関係の役人や船頭の身を削るような貢献を必要としていたが、そのような犠牲をさらに強めることになった。こうして、琉球は唐物の御用改めを受けつつ長崎販売用に唐物を多く提供しなければならなくなった(上原 2016 278-286、293-296頁)。

 薩摩藩は御製薬方を創設し、自前の製薬をめざしたが、それには中国の薬種が必要であった。また、1846年(弘化3年)には幕府に上述の長崎商売差し止めを解除してもらったが、長崎商売を拡大するためにも、唐物の輸入の拡大が必要であった。だが、唐物の輸入拡大は琉球をさらに犠牲にするものに他ならなかった。このように琉球を踏み台にして拡大する薩摩藩の唐物商売に、富山の薩摩組が組み込まれることになったのである。1849年に、組として蝦夷の昆布の輸送を引き受けた薩摩組は、唐物輸入のために琉球で必要な蝦夷の昆布を北前船で薩摩へ輸送し、琉球から得られる中国の薬種を、薩摩藩で使う分を除いて、長崎や北陸方面へと運んだのである(高瀬 2006 55-56頁;深井 2009 88、208-209頁;上原 2016 319-320年)。

 だが、こういう形で進んだ薩摩組の昆布輸送は、1854年(安政元年)には終わった。同年、薩摩藩は昆布船の中止を通告して、薩摩組による薩摩への昆布回漕は終わった。日本から中国への昆布輸出量の変化はその後も増加したが、琉球からの昆布輸出は1854年以後(1857年を除いて)減少した。
https://honkawa2.sakura.ne.jp/0669.html

まとめ

 こうして、18世紀の初めには、北前船を介して、北は蝦夷を通して樺太、カムチャツカ、南は薩摩、琉球を通して中国へとつながる世界的な交易ルートができることになり、その重要な流通品が琉球の犠牲の上に得られる中国からの薬種と、蝦夷のアイヌの労働によって取られる昆布なのであった。そして、その昆布―薬種交易を仲介するのが、越中の売薬を背景に持つ薩摩組であり、種々の北前船であった。ここに松前口貿易と長崎口貿易と琉球口貿易が越中売薬を通して繋がったのである。

 なお、1854年以後の日本はますます世界的動向に巻き込まれていく。1853年には、アメリカのペリーが浦賀に来て、1854年に日米和親条約が結ばれて、箱館が下田とともに開港した。昆布は箱館から直接中国に送られ、蝦夷では中国向け輸出の昆布の生産が増加した。薩摩・琉球経由の中国貿易は衰退していった。富山の薬種輸入も、薩摩経由はなくなり、大坂経由に一本化された。北前船は開国以降、一層の発展を見せるが、それは蝦夷(北海道)と大坂の間を結ぶルートで発展した。こうして、1854年以後は、四つの口の議論とは別の舞台の上で、論じられる必要がある。

参考文献

上原兼善『鎖国と藩貿易―薩摩藩の琉球密貿易』八重岳書房 1990年(初版1981年)
上原兼善『近世琉球貿易史の研究』岩田書院 2016年
高瀬 保「富山売薬薩摩組の鹿児島藩内での営業活動―入国差留と昆布廻送―」所収北前船新総曲輪夢倶楽部編『海拓―富山の北前船と昆布ロードの文献集』富山経済同友会 2006年 (高瀬論文は、もとは柚木学編『九州水上交通史』日本水上交通史論集 第五巻 文研出版 1993に出たものであるが、『海拓』のために本人が加筆したので、それを使うことにする。)
徳永和喜「薩摩藩密貿易を支えた北前船の航跡―琉球口輸出品「昆布」をめぐってー」『ドーンパビリオン調査研究報告書』鹿児島県歴史資料センター 1992年3月28日
徳永和喜『薩摩藩対外交渉史の研究』九州大学出版会 2005年
新里恵二・田港朝昭・金城正篤著『沖縄県の歴史』山川出版社 1975年
深井甚三『近世日本海海運史の研究―北前船と抜荷』東京堂 2009年
宮城栄昌『沖縄の歴史』日本放送出版協会 1974年

(「世界史の眼」No.59)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

「世界史の眼」No.58(2025年1月)

2025年最初の「世界史の眼」をお届けします。今号では、米国の世界史研究者パトリック・マニングさんによる「世界の世論と国連改革」を掲載しています。マニングさんは、Contending Voices: Problems in World Historyと題されたブログに多数の論考を投稿されており、その中から本人の了解の上でここに翻訳掲載しています。また、南塚信吾さんに、連載中の「世界史の中の北前船(その6)―長崎・薩摩・富山―」をご寄稿頂きました。

パトリック・マニング(南塚信吾 訳)
世界の世論と国連改革

南塚信吾
世界史の中の北前船(その6)―長崎・薩摩・富山―

カテゴリー: 「世界史の眼」 | コメントする

世界の世論と国連改革
パトリック・マニング(南塚信吾 訳)

 1945年に第二次世界大戦の殺戮が終わった時、世界中に安堵感が広がった。そしてすぐ後に、平和を維持するために、国際連合が結成された。その二つの主要機関は、50か国全員が加わる総会と、15か国から成る安全保障理事会であった。15か国のうち、合衆国、イギリス、フランス、ソ連、国民党中国の5か国が常任理事国であった。5か国は、拒否権が与えられないのなら国連を組織することを拒否した。その拒否権というのは、望むなら安保理のいかなる動議をも拒否するというものであった。結果的に、この要求こそ、これまで75年にわたって由々しき要求であったのである。

 国連は、発足して以来新たに140か国のメンバーを受け容れた。そのほとんどはかつて帝国に支配されていた国である。国連総会は1947年に、イギリスの委任統治領(第一次世界大戦後につくられた制度)に導入された原則に従って、パレスチナの分割を提案した。パレスチナをユダヤ国家とアラブ国家に分割しようというものである。イスラエルは1948年に国連の参加国となったが、パレスチナの参加は何度も延期された。かくて、パレスチナとイスラエルの紛争は、他の長期の紛争と同じものになった。つまり、アルジェリアとフランス、ベトナムとフランス、ケニアとイギリス、アンゴラ(およびモザンビーク)とポルトガル、ナミビアと南アの間の紛争と同じになった。そして、イギリスとフランスは次第にイスラエル側につき、パレスチナ国家を認める決議には拒否権を行使してきた。

1.世界の世論

 テレビとデジタル・コミュニケーションのおかげで、世界の世論は社会変化を求めて大規模なデモによって自己を表現してきた。これらの大デモは大体は忘れ去られているかもしれない。しかし、それらは多文化主義の考えを打ち立てるのに重要な役割を演じた。この多文化主義の中で、それまでは孤立していたグループが、ジェンダーの平等やエスニックな平等や宗教的平等にと向かったのである。それらはまた帝国や植民地を終わらせることにも役立った。

 以下の例は、ひとびとがネイションや政治的意見の相違を超えて、いかに一緒になって、人間の諸価値について意見を表明してきたかを示している。

1989-1992年

 1989年2月に南アでネルソン・マンデラが牢獄から解放された。かれは、変化求めて、アフリカ中をまわり、それからヨーロッパとアメリカ合衆国へ行って、帰国した。そして彼は1994年に南アの大統領になった(注意しておくと、アメリカ合衆国は、1986-89年の間に、パレスチナ、ナミビア、南アの国家を承認する決議に拒否権を発動していた)。この間、1989年4月には中国で天安門デモが起きたが、その年の6月4日にはデモは中国政府と軍隊によって潰された。しかし、世界的なデモはよみがえって、中国での民主的改革や南アの政変を支援しただけでなく、東欧の体制転換やフランス語圏アフリカの諸国会議やソ連に代わってできた新しい国々をも支援したのであった。

 わたしは大西洋を回るツアーで、これらの民主化デモのいくつかを見る事が出来た。1991年の3か月間に、アメリカ合衆国、アフリカ、ヨーロッパの中の三か国を訪問して、社会運動への参加者にインタヴューをした。このツアーの後、1991年にソ連が崩壊した。しかし、アメリカ合衆国と他の常任理事国は、他の大国を受け容れて安保理のメンバーを拡大する改革を行うことを拒否した。

 わたしは民主主義の表現としてのデモを見た。つまり、人々が学校に行けることや、自分の望む分野で働くことや、その他の事を、政府が規制することへの大衆の反発としてのデモである。わたしはこのことについて、プラハでの労働組合の活動家であるわたしの父と議論をした。かれはそういう変化は、大きなグローバル権力とグローバル企業を持ち込むことになり、もっと経済統制をもたらすだろうと言った。たしかにかれは正しかった。1990年代にG7が世界貿易機関(WTO)を作り、自由貿易をすべての主要経済にたいして公的に拡大した。しかし、わたしもまた正しかった。ヨーロッパやアフリカのいくつかの国では政府はより民主的になり、国民は自分の考えるところを話し、大衆デモを行える経験を勝ち得たのである。

2003-2005年

 この時期、アメリカ合衆国は再び世界のことを指図しようとした。2001年から、アメリカ合衆国はイラクが「大量破壊兵器」WMDつまり核兵器を持っていると主張した。(アメリカ合衆国は国連安保理にイラク侵攻に同意し支援するように圧力をかけて、安保理は決して同意はしなかったとはいえ、アメリカ合衆国の計画に反対はしなかった)。2003年2月15日には6か国において、アメリカ合衆国のイラク侵略計画に反対する数百万のデモが広がった。抗議の広がりは、当初主なメディアが伝えていた以上に大きかった。主要メディアはロンドンとシドニーにのみ焦点を当てていたのだ。アメリカ合衆国は、大衆の意見にも拘わらず、突き進んで、3月20日にイラクに侵入した。戦争が続くにつれデモは下火になったが、戦後のアブグレイブ刑務所での捕虜虐待問題が明るみに出ると、ふたたび拡大した。イラクで多数の犠牲者を出したにも拘わらず、「大量破壊兵器」はまったく発見されなかった。

2011-2022年

 この10年の間に、世界の世論は、いくつかの重要な出来事に対する市民の反応として現れた。例えば、アラブの春である。これはチュニジア、エジプト、シリアその他アラブ諸国における国民的な蜂起で、民主主義を求めるものであった。このアラブの春は、世界中からの支持を集めたのだった。また、2020年5月25日にアフリカ系アメリカ合衆国人のジョージ・フロイドが警察によって殺された事件の後、抗議が全米に、そして世界中に広がった。そしてついには国連人権委員会の世界会議を開催させるまでになった。最後に、2014年には、ロシアがウクライナからクリミアを獲得したことへの非難が世界的な抗議となり、8年後にロシアがウクライナを全面的に侵略するといっそう抗議は広がった。

2023-2024年

 最近の歴史における最大の、そして最も一致したデモは、2023年10月7日にハマースがイスラエルを突如攻撃したあとに始まるガザ戦争への反対のデモである。「武力衝突―場所と事件 データ・プロジェクト」の研究によると、2023年10月7日から2023年11月24日までに、世界中で、親パレスチナの抗議デモが7000件以上あり、親イスラエルの抗議が850近くあった。下は、親パレスチナの抗議デモの分布である。

Data and image by The Armed Conflict Location & Event Data Project

 世界中の人々は、パレスチナ国家の正当性を尊重することを表明した。それは国連参加193か国のうちの140か国の旧植民地の独立にあたるのだとみなした。それは、独立と国民尊重と諸国間の平和への、世界的な呼びかけなのである。

 世界的なデモの高まり具合は、個々の出来事に応じて高くなったり下がったりするであろうが、パレスチナの独立を支持する声は、それが達成されるまで粘り強く続くであろう。

2.世界の新しい動き:国連と来るべき改革

 安保理の5つの常任理事国(特にアメリカ合衆国)に世界の諸問題への過度な影響力を与えさせてきた拒否権が終わりになる可能性は大いにあり得ることである。フランスは2016年以来、拒否権をなくすことに賛成してきている。メキシコもそうである。中国とロシアは、ある地域では拒否権の恩恵を受けているが、他の地域では、拒否権のない方が益することが多いかもしれない。

 実際のところ、国連加盟国の圧倒的多数は、5大国の拒否権を終わらせ、安保理にいくつかの常任国枠を設け、大陸ごとに中心国をそこに任命するという考えを支持している。これは国連憲章を少し修正することを必要とするが、国連総会が力を発揮してそういう変更をすればいいだけのことである。

 アメリカ合衆国とイギリスだけが依然として拒否権を守ろうとしている。昨年アメリカ合衆国はガザ戦争を終わらせようという国連決議に3回も拒否権を行使した。ついで、2024年3月にはパレスチナの国連加盟に拒否権を行使した。こういう立場は、パレスチナを外交的に承認しようという大勢に真っ向から対立するものである。パレスチナを承認した国はすべての国の80%にも達しているのである。ごく最近では、ヨーロッパでもアイルランド、スペイン、ルクセンブルク、アイスランド、スウエーデン、スロヴァキアがパレスチナを承認するようになった。

 戦争がほぼ一年も続いても、アメリカ合衆国政府(両政党も含めて)はイスラエルのガザ戦争に武器を与え支援し続けている。際限のない「交渉」によって、「ジェノサイド」が起きていることを認めず、停戦に向けて真剣な圧力をかけることもしていない。イスラエルは後退する気配も見せていない。イスラエルの首相ベンジャミン・ネタニアフがアメリカ合衆国を訪問した後、直ちにパレスチナとレバノンの指導者が暗殺された。さらに、ガザの病院や学校への攻撃が繰り返され、食糧や水が断たれていることは、イスラエルの戦争継続の決意をただもう再確認させられるだけである。

 指摘しておかねばならないのだが、現在のガザ戦争――イスラエルによって実行されているが、アメリカ合衆国の拒否権によって守られ、アメリカ合衆国の武器を供給されている――は、すでに世界裁判所において審査されているという事である。これは南アが国際司法裁判所に提出して、広い支持を集めている訴えに基礎をおいている。

 私の考えでは、世界の市民(そしてとくにアメリカ合衆国の市民)は、多数が支配し、大多数の意見を踏みにじる大国の拒否権をなくした国連という考え方に慣れるべきだと思う。そして拒否権のない世界においては、アメリカ合衆国は重要な国ではあるが、もはや世界の多数の意見を無視して国連に自国政府の意思を押し付けることはなくなるであろう。拒否権のない国連においては、決定は、大小を問わず、国々の連携関係によって行われるであろう。

 2024年9月22-23日にニューヨークで開催予定の「国連未来サミット」では、国連改革の問題がヤマ場に来るかもしれない。事務総長であるポルトガルのアントニオ・グテーレスは、このサミットの組織者として、安保理改革を強く支持している。もしこの改革がうまくいけば、どういう国々が世界のリーダーとして登場してくるのだろう。(これまでいくつかの国の熟練した外交官が重要なイニシアティヴを発揮してきたが、拒否権によって無視されてきた。)アメリカ合衆国は、もはや単にヨーロッパだけでなく、世界中の国と連携を打ち立てなければならなくなるのではないだろうか。そして、究極的には、アメリカ合衆国は、拒否権で支配するよりも、いくつかの点では敗北を受け入れなければならなくなるのではなかろうか。

(Contending Voices Global Opinions and United Nations Reform by Patrick Manning Sep. 4 2024) 

訳者注)9月に開かれた「国連未来サミット」では、マニングの期待していたような国連改革の動きは起きなかった。しかし、南塚とのメールのやりとりで、フィンランド大統領アレクサンデル・ストゥブが総会で、安保理改革に言及したことは、注目されると、マニングは言っている。

(「世界史の眼」No.58)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

世界史の中の北前船(その6)―長崎・薩摩・富山―
南塚信吾

3. 新潟抜荷事件と薩摩組

(1) 1836年新潟抜荷事件   

 薩摩藩の藩政改革を進める調所笑左衛門は、藩の中国貿易に期待をかけた。まずは、長崎での唐物売り捌きである。藩は長崎における唐物売り捌き(長崎商法)の許可を幕府から得ていたが、10年間の認可の期限が切れるのを機に、1834年(天保5年)に幕府にたいして期限の延長を願い出て、1835年には、その許可を1836年から20年間延長してもらった(上原 1990 209-211頁:徳永 2005 120-122頁;上原 2016 229頁)。だが、この審議に当たっては、薩摩藩の抜荷疑惑が幕閣にちらついていて、幕府は、抜荷の探索を進めた。とくに長岡藩の新潟での抜荷が怪しまれた。

 そして、1835年(天保6年)3月、幕閣(老中)から関係奉行に示された『風説書』は、①鹿児島はもちろん、薩摩藩内の島々において、唐船が寄港して抜荷が行われている。➁抜荷品は、越後あたりに送り込まれ、売り捌かれている。③抜荷品はまた、琉球国物産に取り混ぜて長崎で売り捌かれている。③薩摩藩は、琉球国の島々において、唐だけでなく、異国船との貿易を沙汰している。④薩摩藩は、時々朝鮮に宛てて貿易船を派遣しているとの疑惑を指摘した。これには真偽両方が含まれていた。とくに④は事実とは認めがたいと言われる。だが、幕府の疑念は強まった。同年4月には勘定奉行土方出雲守の「言上書」は、薩摩の密貿易について、松前からの俵物や昆布が「新潟海老江」近辺において密売されて「直に」薩摩に廻っている場合と、薩摩が自藩の船を「外国之商船」に仕立てて松前江差に差し回して俵物などを買っている場合とがあると報告していた(徳永 2005 166頁)。また、同年7月には、長崎奉行久世広正らも「言上書」を幕府に差出し、長崎会所を悩ましている唐物抜荷が広がるのは、俵物抜荷が背後にあるからであり、俵物出産地を領する松前氏と、唐物抜荷の地を抱える島津氏に、その管理の徹底を求めた(上原 1990 211-212頁;上原 2016 267-280頁)。

 のちに老中水野忠邦が御庭番から江戸城内の切手番になっていた川村修就(ながたか)に命じて新潟をめぐる抜荷の実態調査をさせ、1840年(天保11年)に出させた報告書『北越秘説』によると、新潟では、薩摩の船は毎年6隻ほど来ていて、春は薩摩芋、夏は白砂糖、氷砂糖を運んできているが、その下積みとして、薬種や朱などを積み込んできて、公然と交易していた。藩当局もそれを了承し、薩摩船から運上を取り立てていた。この不正の唐物は奥羽や北国に出回っていた。そして最近また怪しげな薩摩船が新潟湊の近くに出没しているというのであった(徳永 2005 205-206頁;中野 2008 10-11頁;上原 2016 271‐272頁)。新潟は、薩摩への俵物・昆布の輸送の蝦夷地との中間点、薩摩からの唐物の輸送の受け入れ地点になるだけでなく、その抜け荷を隣国の越中、加賀、能登、信州、上州のみならず、江戸へも運ぶ供給拠点にもなっていたようなのである(深井 2009 248-252頁)。

 新潟湊では、廻船問屋が多数あって、大問屋と小問屋とが分かれ、大問屋も48軒に限定されていた。天保期には48のうち、25軒ほどしか活動していなかったが、その中でも、間瀬屋、小川屋、若狭屋、北国屋、田中屋などが知られている。船主には、喜兵衛や弥五左衛門や十兵衛など多くがいた。また豪商としては、小澤家や斎藤家が大きかった。新潟湊は北前船で栄えていたが、ピークは二つあって、一つは、元禄期で、これは米を大坂へ運ぶ北前船で栄えた時期である。二つ目は、江戸後期で、蝦夷と薩摩を結ぶ北前船の中継地として栄えた。この時期は、「蝦夷地交易と買い積みの時代」とも言われている。(https://actros.sakura.ne.jp/file12.html) 抜荷が関係するのは、この二つ目の時期である。

 さて、上の『風説書』や「言上書」が出た1835年の10月、薩摩の船が長岡藩村松浜に遭難する事件が起きた。上述の『北越秘説』によりつつ、事件を見てみよう。船は、薩摩湊浦の八太郎の持ち船で、八太郎が直乗船頭(船主が自ら船頭として乗船)で、雇われの沖船頭源太郎と水主4人が操船していた。だが、他に唐物抜荷仲買人が二人も乗船していた。これは北前船とは言えない薩摩の船であった。遭難船は、幕府の検分を受けることになっていたが、この船は、唐薬種、手織物などのご禁制品を多数積み込んでいたため、積荷を秘匿し、八太郎と仲買人二人も隠れ、通常の遭難と見せかけた。代官の検分も無事に終わり、積荷は、新潟へ運ばれ、そこから、越中、信州などへ売り捌かれた(徳永 2005 200-201頁)。幕府も、1836年末までは、抜荷の事実を知らなかった。

 そういう中で、1836年(天保7年)3月、幕府は松前、薩摩藩に俵物、唐物の抜荷取締令を出した。取締令は、松前・蝦夷地から煎海鼠・干鮑・昆布が薩摩・越後に抜け散っていて、長崎に入っていないことを指摘し、抜荷を厳しく取り締まるよう命じたものであった(上原 2016 278-279頁)。

 この直後4月には、「どういうきっかけか判然としないが」、幕府は新潟の事件が抜荷に関連していることを把握した。一説では、新潟で売り捌かれた唐物抜荷を仕入れた江戸の商人らから露見したという(中野 2008 7頁)。以後、江戸の評定所で取り調べが行われた。新潟側の抜荷の中心は、廻船問屋の若狭屋、北国屋、田中屋で、品物を購入した商人は、新潟の商人に加え、信州、富山、上州の商人や売薬商がいた。総勢50人余りが審問された。その結果、直接の関係者3名は病死していたが、首謀者は遠島や家財没収、江戸払いなどの刑を受けた。調べは4年後の1839年(天保10年)にようやく終結した(上原 2016 270‐271頁)。「村松浜難船幷唐物一件御裁許書」が関係者の裁きの全体を記録している(徳永 2005 196-200頁)。この時、新潟において抜荷の唐薬種を越中の売薬商も買い付けていたことが発覚し、処罰を受けた(深井 2009 196頁)。そのほか、関係者は信州松本・善光寺、越後高田、五泉、中条町などに広がっていた。しかし、薩摩側の船頭や唐物商人がどのように処分されたのかは不明である(中野 2008 7頁)。

 この事件の発覚を踏まえて、1836年6月、幕府は、薩摩藩に対して、1839年年(天保10年)以降長崎商法を停止する旨通告した。これにより薩摩藩は、長崎会所において琉球の進貢貿易を通して得られる唐物を売却する事が出来なくなった。1835年の土方の「言上書」以来幕府内部で議論されてきた件が、ここに決着したのであった(上原 2016 291‐296頁)。

 1836年以後の抜荷取り締まりは新潟港を取り締まる長岡藩、蝦夷の松前藩、そして薩摩藩に大きな衝撃を与えただけでなく、越中、信州、上州など関連した藩にも重大な影響を与えた。薩摩藩について言えば、1839年に薩摩の長崎商法で「琉球物産」の売り捌きが禁止されたことは、大きな痛手であった(上原 1990 247-248頁)。越中については、次に見てみよう。

(2) 新潟抜荷事件後の富山

 新潟で取引された唐薬種は、越中の売薬商も購入したのであるが、1836年以降幕府の取り締まりが厳しくなると、状況は変わった。新潟での抜荷摘発は、富山の船主や売薬商人たちに衝撃を与え、廻船を取りやめる例も見られた(深井 2009 196頁)。だが、新潟摘発後も薩摩船は、能登の輪島などへ寄港し、輪島の薬種は、富山の茶木屋清兵衛やもろ屋久兵衛が買い付けたという(深井 2009 249-251頁)。

 そういうこともあってか、新潟に代わって、抜荷は「越中富山」から出るようになったと言わる。上述の『北越秘説』は、抜荷摘発以後、新潟に代わって富山が拠点となって、北国筋、信州筋、関東筋へ中国からの薬種類、朱などが出回るようになったというのであった(徳永 2005 205-206頁)。だが、深井は、それでも薩摩組が「組として」抜荷をやったとは考えられないと言う。もちろん、個別に抜けに購入の道に走ったものは増えたかもしれない。「北国での越中抜荷船のもたらす抜荷品の重要性が一層高まり、越中抜荷廻船のある程度の増加を招いたのではないかとかんがえられる。」それでも、抜荷をした船は、越中の廻船全体の中ではごく一部にすぎないというのである(深井 2009 86-87頁)。

 しかし一部でも、そうした廻船は相当な利益を上げることが出來、じょじょに薩摩組の関与は深まっていった。薩摩組が廻船購入資金を貸与して昆布輸送船を確保しようとしたり、売薬商人自身が廻船を所有したりするようになったのである(深井 2009 196頁)。

 その例が、能登屋である。能登屋(密田家)は薩摩組の中心的存在であった。能登屋は1837年(天保8年)には、650石の長者丸、400石の栄久丸という二隻の北前船を所有していた。調所の支援を受けて、能登屋は長者丸という専用船を1833年(天保4年)に完成させていたのである。1838年(天保9年)にはもう一隻栄久丸級の船を購入していたが、この翌年には栄久丸を売却し、加えて長者丸が難破してしまうのである(徳永 1992 3頁;高瀬 2006 56頁;深井 2009 196-208頁)。能登屋は薩摩藩への昆布廻船を行う、中心的な売薬商人ではあったが、船の手配は容易ではなかったようである。能登屋は新潟での抜荷事件には強い関心を持っていたようで、裁きの全容の報告を受けていた(密田家文書)。

 長者丸と栄久丸両船の動きは、例えば次のようであった。1837年(天保8年)、栄久丸は船頭宇三郎の下で、越中―松前―薩摩と航海した。4月に越中を出て氷見で筵などを買い付け、8月に松前に着き、松前で昆布、干し鰯、笹目(干し鰊)などを仕入れ、その後薩摩へ4万斤あまりの昆布を運んだ。そして薩摩からの戻りに輪島に寄って、越中に戻った(高瀬 2006 47-49頁;深井 2009 205-206頁)。船頭平四郎の長者丸は、1839年(天保10年)には、以下のような廻船をした。4月に西岩瀬で米を積み、5月に大阪へ着いて富山御蔵役人に米を渡し、大坂で綿、砂糖その他を積んで6月に出発、7月に新潟に着いて、新潟行の荷物を問屋に届け、同じ7月に新潟を出て、8月に松前に到着、大坂からの荷物を降ろした。そして、ここで昆布を「5、6百石」程を積み込み、10月に、「東回り」(太平洋廻り)で薩摩へ向かった(高瀬 2006 49頁;深井 2009 206-207頁)。ただ、長者丸は、蝦夷から昆布を満載して東回りで薩摩へ向かう途中、遭難してしまうのである。これは後述する。

(3) 1840年第二回新潟抜荷事件  

 長岡藩の新潟では、『北越秘説』が出た直後の1840年(天保11年)11月に、ふたたび抜荷が発覚した。

 石見の北前船によって長崎を介さないで新潟港へ運ばれた唐薬種を、新潟の廻船問屋の小川屋などが買い取って販売していたことが露見したのである。ほかに、新潟の商人越中屋、出雲屋も関係していた。そして販路は、会津若松、酒田、鶴岡など東北に広がっていた。1841年(天保12年)になり、まず新潟町奉行所で取り調べが行われ、ついで江戸へ移された。これには、長岡藩の御用商人でもある廻船問屋の津軽屋と当銀屋に嫌疑がかけられたが、結局この二家は無関係であった。判決は1843年(天保14年)に言い渡され、関係者は、財産の部分的没収、江戸追放などの刑を受けた。今回の関係者には、高田や越中や信州のものは含まれず、逆に羽州鶴岡や酒田、奥州若松のものが入っていた。また、今回は、抜荷を運んできた薩摩船のいた長崎のものも処分されていた(中野 2008 12―13頁)。

 以上の二件の抜荷事件から分かるように、新潟湊は、薩摩・長崎などから、新潟湊を経て、内陸部の広い範囲にわたる抜荷流通ルートの拠点であった。また事件に関わった町人は、廻船問屋などの大商人から、中小商人、召使にまで及んでいることが分かった。こういう抜荷ルートと抜荷商人を支えていたのは、そのルートで出回る安価で良質な唐物を熱望する人々の存在であった(中野 2008 16頁)。

 新潟では、この他にも抜荷の事件があり、幕府は長岡藩が新潟湊の取り締まりをできていないとみなし、ついに1843年(天保14年)に、新潟湊の上知(あげち)令を出した。当初は酒田と新潟の二つの湊が上知されるはずであったが、将軍家慶の裁可に際しては、酒田が外され、新潟だけになった。これにより、新潟湊は幕府直轄となり、薩摩との交易・抜荷はできなくなった(上原 1990 249頁;徳永 2005 203-204頁;中野 2008 16―17頁)。

 この新潟抜荷事件では、薩摩藩からは処罰者は出なかった。しかし、薩摩は大きな打撃を受けた。おりから、1840年代前半、アヘン戦争後の時期、琉球、薩摩をめぐる国際関係は急変していた。薩摩藩としては、英仏船の寄港が増えたのでそれに対抗するためにも、また琉球を確保するためにも、藩財政を強化する必要をますます感じていた。そのためには「琉球物産」の販売が必要であった。

 その道の一つが長崎商法の復活であった。1839年に長崎商法を停止されてからも、藩は幕府に琉球保護などの名目で説得を重ね、ついに1846年(弘化3年)、長崎における「琉球物産」の販売の禁止が解除された。同年から5年間生糸と絹織物などの販売が許されたのである(上原 1990 250-264頁)。しかし、薩摩藩としては、もっと利益の上がる抜荷のための道を、新潟に代えて見出さねばならなかった。

(4) 1849年―薩摩組の転機  

 調所の改革が進む薩摩藩は、1844年(弘化1年)(上原は1842年としている)に琉球物産方に御製薬方を設け、その合薬を藩内で安価に病人に配ることとした。御製薬方の製薬掛は薩摩組が親しい鹿児島町年寄の木村与兵衛であった(1846年からは市来四郎)。調所や木村は、多くの薬種を必要とし、それを中国・琉球から得るために一層多くの昆布を必要とするようになった。すでに1846年(弘化3年)に、薩摩組仲間の能登屋の船頭又八が松前から北前船で昆布を鹿児島の能登屋などあてに無料で廻送したという記録がある(徳永 2005 164―165頁)。こういう実績の上に、1847年(弘化4年)、木村与兵衛からの働きかけで、薩摩組仲間の能登屋平蔵、船頭又八が昆布の廻送を引き受けた。又八は1847年、1848年に木村から資金の貸与を受け、蝦夷松前において昆布を仕入れて廻送し、鹿児島藩に昆布一万斤を献上し、残りも同藩で販売した。これは薩摩組としてではなく、能登屋(密田家)個人としての「私的な取引」であった(徳永 1992 8頁;高瀬 2006 56頁;深井 2009 208頁;上原 2016 319-320頁)。

 御製薬方は1848年(嘉永1年)から領内に配薬し始めた。このため、藩内で配薬をしていた京都、伊勢などの薬業者は、藩内での活動を「差留」された。しかし、木村に繋がっていた薩摩組仲間は従来通りの活動を認められた。そのお礼として、薩摩組仲間は、あらためて薬や布や昆布などを献上した(上原 1990 277-278頁;徳永 2005 170-171頁;高瀬 2006 45、55頁)。

 ただし、薩摩組仲間や組そのものが中国からの薬種の抜荷をしていたのかどうかは記録の上ではわからない。深井は、1849年(嘉永2年)以前に薩摩組が「組として」抜荷の唐薬種購入を行ったとは考えられないという。富山藩前田家が幕府からの処分を恐れていたからだと。ただ、中には、上述の神速丸のように、抜荷を購入・輸送したものはいたかもしれないというのである(深井 2009 86-87頁)。

 ところが、「ある時期を契機に薩摩の昆布回漕事業の事業主体に変化が見られ」、「昆布回漕の経営主体として売薬薩摩組が本格的にのりだした」(徳永 1992 7頁;上原 1990 277-278頁も)。つまり、1849年(嘉永2年)、昆布船廻送は能登屋平蔵、船頭又八から、「薩摩組」に引き継がれたのである。薩摩組から木村与兵衛にあてた書簡では、昆布の回漕は「当年より相改仲間共に而引請」ると述べていた。しかしこれは木村与兵衛の主導のもとに進められたものであり、木村から融資も行われるものであった(徳永 2005 169-174頁)。これは富山藩が容認するようになったこともあって、以後1854年まで6年間、薩摩組が「組として」責任をもって松前の昆布を薩摩藩に秘密裏に回漕することになった。又八が薩摩藩から借りていた金は、薩摩組が引き受けた。嘉永段階では、栄福丸と万徳丸、安政期には順風丸と神通丸が昆布を運ぶ北前船であった(高瀬 2006 55-56頁;深井 2009 88、208-209頁)。

 1849年までは昆布回漕は薩摩藩が主導していたが、この時点から薩摩組が主導するようになったと言ってよい。薩摩藩が御製薬方を設け、さらに藩内の売薬をも展開するような事態に対し、薩摩組は藩内での営業権を維持するために、薩摩藩が求める昆布回漕事業を強化したのである。1849年以降、船頭又八に代わり船頭松蔵の下で、栄福丸が昆布の回漕を担い、日本海(西回り)航路も太平洋(東回り)航路も使いつつ、薩摩組は松前と薩摩との間を行き来した(徳永 1992 8、10―13頁;徳永 2005 174-179頁)。1849年に調所が死去(自死)したあとも、これは続いた。1849年に、栄福丸は、献上分1万斤の昆布のほか、4万8000斤余りの昆布などを薩摩に運んでいた(深井 2009 261頁)。

 1852年(嘉永5年)の書状が、栄福丸船頭松蔵の動きの一例を証言している。これは、富山の鳥羽屋五左衛門らが、木村喜兵衛、木村与兵衛に宛てたものである。それによると、この年4月、松蔵には、蝦夷の松前で昨年通りに昆布を注文し、受取時期の土用までは時間があるので、越後の新潟へ往復し、土用に昆布を受け取って、御地鹿児島へ向かうように申し付けた。9月ごろにはそちらへ着くだろうから、例年のとおり藩に昆布を上納し、残りはこれまで通り「宜しく御執成し」下さるようにというものであった(上原 1990 275-276頁)。

 このように富山売薬商人やそれと連携した船頭たちによって海産物が薩摩にもたらされたとすれば、また彼らの手によって唐物薬種が北国へ移出されていたのでもあった(上原 1990 276-277頁)。では、唐物の運搬はどうなっていたか。これはあまりよく分からない。

 1849年(嘉永2年)以後は、富山藩の政策の変化もあって、薩摩組は「組として」抜荷を行うようになったわけであるが、1852年(嘉永5年)ごろとされる栄福丸松蔵の記録では、薩摩組は、蝦夷で購入した昆布を直接薩摩へ運んだ後、昆布を献納・売却して、帰荷として唐薬種を購入していた。薩摩組は唐薬種、繊維品、陶磁器などを購入していて、それらを新潟で売却していたという(深井 2009 261-268、279-288頁)。

 今のところ、薬種の抜荷につては、これ以上は分からない。

 以上のような抜荷は、薩摩組に大きな利益をもたらしていたが、1854年(安政元年)に薩摩藩は昆布船の中止を通告して、薩摩組による薩摩への昆布回漕は終わった。越中は、薬種の入手ルートの一つを断たれたことになった。そして、琉球の中国からの輸入は薩摩の長崎商法の枠内に制限された。

 この間、琉球は、薩摩藩の政策に翻弄されてきた。あらためて、琉球の視線から日中貿易を見ておかねばならない。

参考文献

上原兼善『鎖国と藩貿易―薩摩藩の琉球密貿易』八重岳書房 1990年(初版1981年)
上原兼善『近世琉球貿易史の研究』岩田書院 2016年
植村元覚『行商圏と領域経済』ミネルヴァ書房 1959年
幸田浩文「富山商人による領域経済内の売行商圏の構築―富山売薬業の原動力の探求―」『経営力創成研究』東洋大学経営力創成研究センター 第11号 2015年
高瀬 保「富山売薬薩摩組の鹿児島藩内での営業活動―入国差留と昆布廻送―」所収北前船新総曲輪夢倶楽部編『海拓―富山の北前船と昆布ロードの文献集』富山経済同友会 2006年 (高瀬論文は、もとは柚木学編『九州水上交通史』日本水上交通史論集 第五巻 文研出版 1993に出たものであるが、『海拓』のために本人が加筆したので、それを使うことにする。)
徳永和喜「薩摩藩密貿易を支えた北前船の航跡―琉球口輸出品「昆布」をめぐってー」『ドーンパビリオン調査研究報告書』鹿児島県歴史資料センター 1992年3月28日
徳永和喜『薩摩藩対外交渉史の研究』九州大学出版会 2005年
深井甚三『近世日本海海運史の研究―北前船と抜荷』東京堂 2009年
深井甚三ほか『富山県の歴史』山川出版社 2012年(初版1997年)
村田郁美「薩摩藩の動きから見る富山売薬行商人の性格」『人間文化学部学生論文集』第13号 2015年

(「世界史の眼」No.58)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

「世界史の眼」No.57(2024年12月)

今号では稲野強さんに、反軍演説で知られる戦前の政治家・斎藤隆夫について扱った「「鼠」が牙をむく時―斎藤隆夫の奮闘―」をご寄稿いただきました。また、南塚信吾さんに、連載中の「世界史の中の北前船(その5)―長崎・薩摩・富山―」をご寄稿頂きました。

稲野強
「鼠」が牙をむく時―斎藤隆夫の奮闘―

南塚信吾
世界史の中の北前船(その5)―長崎・薩摩・富山―

カテゴリー: 「世界史の眼」 | コメントする

「鼠」が牙をむく時―斎藤隆夫の奮闘―
稲野強

 戦前に活躍した漫画家の岡本一平が、その風采から「鼠の殿様」と綽名した弁護士出身の国会議員がいた。立憲民政党の斎藤隆夫(1870~1949〔明治3~昭和24〕年)である。かれは、鼠どころか、歯に衣着せぬ言論によって軍部の政治介入を舌鋒鋭く批判した「虎」や「狼」であった。その「正論」は、当時、軍拡に燃える軍部や軍部にすり寄る政治家をたじろがせた。

 今日でも、斎藤は「憲政擁護の闘将」(作家・大橋昭夫)として、国会議員の不祥事、体たらく、遵法意識の低さ、世界観の乏しさ、人権意識の低さ、を嘆き、あるいは批判する際にしばしば思い起こされる貴重な存在である。いや、「闘将」どころか、大橋は斎藤を「『立憲主義』の理想を堅持した大正デモクラシーの権化」とまで賛美する。また『北一輝』などの著作で知られる評論家の松本健一は、斉藤隆夫の評伝の副題に「孤高のパトリオット」とつけた。松本は、斎藤を、あるべき政党政治の道を模索することによって軍国主義時代のポピュリズムに抵抗したパトリオットであった、と捉えたのである。一方、丸山眞男も、斎藤を戦前の「親英米派=現状維持派」〔リベラル〕で「有名な聖戦批判演説をした」人物と評価している。

 斉藤は、苦学して弁護士になり、アメリカ・イェール大学留学を経て、兵庫県選出の衆議院議員となった(1912)。かれの経歴を見ると、第一次世界大戦後の1919年1月12日の議会では、当時所属の憲政会を代表して、国民思想に関する質問演説を行ない、民本主義の重要性を説いている。また軍縮の推進者で国際協調派の濱口雄幸首相のもとで内務政務次官に任命され(1929)、次の第二次若槻礼次郎内閣のもとでも法制局長官に就任している(1931)。こうした活動から、斎藤が自由主義者、国際協調主義者、民主主義者とみなされてきたことも当然である。のちに斎藤が、大政翼賛運動(1940)に対して鋭い批判を投げかけたのも、そうした一貫した政治思想の延長線上にあったと言えよう。

 さて、日本は、国際協調路線を歩み始めた1920年代初頭からわずか10年足らずで、中国大陸への野心をむき出しにする軍部の独走を許す状況を生み出し、満州事変(1931)、満州国建国(1932)、国連脱退(1933)へと国際的孤立への道を突き進んだ。

 そうした外交上にも危機的な状況の中で、斎藤は、満州事変以降急速に台頭する軍部の政治介入に真っ向から反対する数々の大演説を帝国議会で行った。それによってかれは日本憲政史上不朽の名を留めることになったのである。かれは多くの名演説を残しているが、その中で特に人口に膾炙しているのは、2・26事件(1936年2月)後における陸軍を中心とする「改革派」を批判した「粛軍に関する質問演説」(いわゆる「粛軍演説」)(1936年5月7日、第69議会)、「国家総動員法案に関する質問演説」(1938年2月24日、第73議会)〔同法案がナチスの授権案と類似していることを指摘〕、それに「支那事変処理に関する質問演説」(いわゆる「反軍演説」)(1940年2月3日、第75議会)である。これらの演説は、軍部にひれ伏し、及び腰になっている議員の中にあって、斎藤の存在感を際立たせるものであった。

***

 斎藤は、先に掲げた1940〔昭和15〕年2月3日の「反軍演説」が直接の原因で、同年3月7日に民政党を除名され、本会議でも懲罰動議にかけられ衆議院議員の議席を剥奪された。かれはすでに70歳になっていた。だが、かれは議会での演説の機会を奪われたものの、持ち前の反抗精神を失わなかった。例えば、かれは近衛文麿首相を中心に推進された「新体制運動」〔ファシズム体制の樹立を図る〕批判の書簡を3度も近衛自身に送りつけたのである(同年6月26日、8月9日、9月19日付)。また斎藤の『回顧七十年』によれば、かれは「来年の総選挙〔1942年4月30日〕までには1年2か月ある。次の選挙には、捲土重来必ず最高点をもって当選し、軍部および除名派に一大痛棒を加えねばならぬ。」と、言い放ち、相変わらず意気軒高なところを示していた。

 以下で紹介するのは、斎藤が、そうした折に書き溜めた数十の論考のうちの断片である。その断片を見るだけでも、日本の中国大陸進出に対する斎藤の批判が、余すところなく開陳されていることが分かる。斎藤は、翼賛体制の下で沈黙を強いられ、戦争に引き摺られていく国民の多くが抱く内心忸怩たる思いを代弁する役割を堅守し、自身の生命の危険を顧みることなく、軍部と親軍政治家批判をし続けたのである。 

 さて、件の論考のタイトルは、「天上より見たる世界戦争」(1942年11月)である。これが書かれた時期、すでに日本は中国大陸で軍事的劣勢に立たされており、また太平洋戦争は勃発からほぼ1年経っていた。

 斉藤は、ここで、今日から見ても小気味いいほどの日本の侵略主義・聖戦批判を展開する(以下のカッコ内の頁は、『斎藤隆夫政治論集―斎藤隆夫遺稿』からの引用頁である。また旧仮名遣いは新仮名遣いに改めた)。

 斉藤は、まず戦争の大義である「聖戦」思想の欺瞞性を暴く。

「天上より今日の世界を見渡して居ると色々の感想が起こる」(169頁)で始まる文章で、斎藤は、

① 戦争の勃発は、「結局は直接に国家を背負って戦争の衝に当る軍部の認識不足と云うことに帰着するのではなかろうか」とし(172頁)、日本の軍部が、敵対国との軍事力の決定的な差を認識していず、いかに世界情勢を見誤ったまま戦争に突き進んだか、を痛烈に批判している。

② 支那事変〔日中戦争〕に関しては、日本が「此の国力を揮って支那〔中国〕を侵略し日本の勢力を植え付けて以て日本の発展を図る。是が真の目的であって、是以外に唱えられて居るものは悉く虚偽仮装の口実に過ぎない」(173頁)、と日本の真の目的がアジア大陸侵略であることを看破する。

③ この戦争を日本は「聖戦と称している」(173頁)が、「聖と言う以上は少なくとも自己を犠牲として他人を救済することを意味するのであるが、凡そ昔から左様な戦争のあるべき訳はない。如何なる場合に於ても戦争は他国を侵略するか其の侵略を防禦するか。是が戦争の本質であって、是れ以外に戦争の本質は絶対にあるべき訳はない」(173頁)。「況んや支那人民は日本に向かって救済などを求めて居ないのみならず、日本の進撃に対して極力抵抗を続けて居る。此の事実を目前に見ながら聖戦などと云うことが口にせらるゝ義理ではない」(174頁)と、斎藤はここで戦争の本質を侵略と見なし、その最大の大義名分である「聖戦思想」を完全に否定し、却って日本に対する中国の「抵抗」の正当化すら容認している。

④ 中国の「抗日政策」に関しては、日本は、「蒋介石の政権を抗日政権と称して彼の抗日政策を非難し、之を戦争の理由として居るが、日本より見れば彼の抗日政策は実に怪しからぬと思われるかしれないが、蒋介石及び支那側から見れば抗日政策は当然のことである。なぜなれば支那は過去数十年の間に於て日本から侵略に侵略を重ねられて領土を取られ償金を取られたことは枚挙すべからざるものがある」(176頁)からだ、と述べる。ここで斎藤は、日清・日露戦争を念頭に置いたうえで被害者である中国が抵抗するのは当然だ、と歴史的経緯に照らしてその正当性を認め、日本の侵略主義を断罪するのである。

⑤ 「〔日本は〕現に日清戦争後の三国干渉にすら憤慨して十年間の臥薪嘗胆、以て復讐戦を決行したではないか。此の意気と勇気があってこそ初めて国家の独立と威信を保つことが出来るのである」(176‐177頁)と述べ、列強の領土的野心を論難する。一見すると彼の主張は、独立自尊の戦いを否定せず、むしろ愛国主義的ですらある。だが、かれは、列強の領土的野心と日本のそれを重ね合わせるのである。「之を思わずして独り蒋介石の抗日政策を否認するのは我が儘勝手の見方であって、世間には通用しない議論である」(177頁)、と。かれは侵略された側の抵抗権を認めることによって、ナショナリズムに捕らわれることなく、客観的な視野に立って世界情勢を見ているのである。

⑥ 「国家競争は正しく斯くの如きものであるから、蒋介石が支那国民に向って排日抗日の精神を打ち込むのは当然のことであって、〔日本が〕これを非難するのは間違って居る」(177頁)。「唯此の戦争を目して聖戦などと称して世上を欺き、何か日本が自国の利益を犠牲に供して仁義の戦争でも始めて居るが如く吹聴する其の偽善が〔自分は〕気に喰わないのである」(177頁)。

 そして、斎藤は日中戦争をこう総括する。

⑦ 「之を要するに大東亜戦争の目的は東亜民族を解放して彼等に独立と自由を与えるにはあらずして、東亜に於ける英米の勢力を駆逐し、之に依って日本が東亜の覇権を握り、東亜民族を隷属せしめて以て日本の発展を図る。是が真の目的であって、是以外に唱道せらるゝものは何れも偽善者の譫言に過ぎない」(185頁)と。

 日本は、日露戦争以来、帝国主義列強からのアジア解放をスローガンにして武力による対外進出を正当化してきた。斎藤は、日本の帝国主義的野心は、列強と何ら変わることなく、日本はアジアの国土を蹂躙し、ただアジアの人々を隷属させるだけだ、と断言するのである。

***

 最近の『朝日新聞』の記事で、論説委員の有田哲文は、「斎藤のような代議士がいたのは戦前日本のデモクラシーが誇っていいことだ。しかし斉藤しかいなかったことは、この国の汚点であろう。」と嘆いている。確かに当時多くの国会議員は軍部と自ら進んで結託し、あるいは軍部になびき、その圧力に屈し、「大政翼賛体制」を支持していた。また国民の大半も、国家の有形無形の暴力に脅え、沈黙を強いられ、体制に順応して行かざるを得なかった。だが、その一方で、表面化されなかったとは言え、国民大衆の民主主義的な運動が、戦時下であっても脈々と続いており、陰から斎藤を励まし、支えていたことは、改めて確認しておく必要がある。

 そのことは、斎藤が、太平洋戦争真っ只中の1942年4月30日に実施された第21回衆議院総選挙〔翼賛選挙〕に非推薦で立候補し、執拗で徹底的な選挙妨害にあいながらも、トップ当選を果たし、議席を回復したことによっても裏付けられていると言えよう。

 戦時体制下において、厳しい思想的・政治的弾圧・監視が日常化している中で、斎藤を支援する民衆がいたことも、また十分「誇っていいこと」である。

〔参考文献〕

草柳大蔵『斎藤隆夫―かく戦えり』文藝春秋、1981
斎藤隆夫『回顧七十年』中公文庫、1987
『斎藤隆夫政治論集―斎藤隆夫遺稿』(復刻版)新人物往来社、1994
松本健一『評伝 斉藤隆夫―孤高のパトリオット』東洋経済新報社、2002
大橋昭夫『斎藤隆夫―立憲政治家の誕生と軌跡』明石書店、2004
松沢弘陽・植手通有編『丸山眞男回顧談』下、岩波書店、2006
保坂正康『昭和史の教訓』朝日新書、2007
伊藤隆編『斎藤隆夫日記』上・下、中央公論新社、2009
森まゆみ『暗い時代の人々』朝日文庫、2023
有田哲文「日曜に想う」『朝日新聞』朝刊(2024年8月11日付)

(「世界史の眼」No.57)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

世界史の中の北前船(その5)―長崎・薩摩・富山―
南塚信吾

2.富山の売薬と薩摩組

(1)富山売薬の始まり

 富山藩は、1639年(寛永16年)に100万石の加賀藩から分封してできた10万石の小藩である。越中国の中の婦負(ねい)郡を中心にした藩で、その東西は加賀藩領であった。

 富山売薬を代表する反魂丹(はんごんたん)が登場した経緯については、諸説があるが、有力なのが1683年(天和3年)に岡山の医師が富山藩主前田正甫(まさとし)に献上した時であるという。そして貞享年代(1684-88年)には富山藩内で一般に使われるようになった。

 反魂丹が全国に行商されるようになるのはなぜか。諸説があるが、もっとも知られているのが、元禄3年(1690年)に藩主正甫が江戸城に参勤していた折、他の大名の腹痛に反魂丹を勧めて腹痛を恢復させたという話である。この話を聞いて、他の大名も自藩への反魂丹の販売を希望したというのである。こうして、遅くとも享保(1716-1735年)年間には、富山売薬は全国的に展開したと言ってよい。富山売薬は、江戸時代にあって、藩の領域を超えて全国的な広い行商活動をしていたのである。富山売薬の行商圏は、まず中国、九州へ、ついで日本海沿岸地域、近畿、奥羽、関東へ、そして松前・蝦夷へ広がった。

 富山の売薬は、得意先に薬を詰めた箱や袋を預けておいて、年に1、2回訪問して、使用した薬の代金を回収し薬の補充を行うという、配置売薬の方式を取っていた(先用後利という)。売薬行商人が行商に出掛ける時期は、とくに決まってはいなかったが、大体は春と(晩)秋に1回ずつ、年2回巡廻していた。これを春廻り、秋廻りと言った。享保以後進展する商品経済の中で、全国の町や農村の住民の間での薬需要が高まり、富山売薬は全国的に受け容れられたのである(以上は、植村 1959 49-50、59-60、64頁;村田 2015年 252頁;幸田 2015 50-52頁)。

 博物館だより (city.toyama.toyama.jp)

 貧乏な富山藩は売薬商人が藩外に出て行商することを積極的に奨励した。藩からの正貨流出を防ぎ、他領からの正貨流入を促進するために、元禄から享保にかけて(1690-1730年ごろ)の時期には、藩外に出て自由に行商をすることを許可する「他領商売勝手」の触れを出していた(幸田 2015 51頁)。

(2)「組」の結成

 売薬が全国的に広がるにつれ、薬売り仲間が売薬地域ごとに集まって、売薬の相互協力や規律を決めあうようになった。そういう集団が「組」であるが、組の結成の理由については、あまり議論がされていない。わずかに村田が、一定の議論をしている。それによると、組の結成の理由は、①他国で行う行商に必要な鑑札をまとめて申請できること、➁行商人の増加や行商圏の拡大に伴い、管理・運営を個別で行うことが難しくなったこと、③富山藩としても、まとまった組織からの上納金を得て、その組織に保護と独占権を与えるという形で行商人を統制できたことが理由としてあげられている。各「組」は、それぞれに「示談定法書」というものを定め、自律統制を強固にしていた。

 かくて、明和期(1764-1772年)ごろに、薬売りは日本全国を行商先ごとに「組」に分けて、関東組、九州組、美濃組などを作った。最初は18組、文化年間(1804-1818年)には20から21組、安政期(1854-60年)には22組ができた。1853年(嘉永6年)におけるその分布は、下の地図の通りである。分布は、関東・畿内など、領国的な支配が強くなく、経済活動の盛んなところに多く、九州・中国・東北など領国的な支配の強いところには多くはなかった。なお、1人脚(ひとりあし)というのは、一年に二回りとして、2000~2500軒くらいの顧客の規模である(植村 1959 166-167頁;村田 2015 251頁;高瀬 2006 39頁)。

出典 植村 1959 67頁

 この「組」の結成は、富山藩が反魂丹(はんごんたん)役所を設けて、薬売り全体を統括しようとしたのと、時期的には一致していたようである。反魂丹役所の設立時期は、二説あって、明和期(1764-72年)か文化・文政期(1804-30年)ごろと言われているが、組は反魂丹役所に届け出て、認めてもらい、藩から特権を授けられたのである(植村 1959 237;村田 2015 249-251頁;幸田 2015 57頁)。一方、「組」は、行商をする当該の藩にたいして冥加・運上を納入して、藩内での売薬行商を求められたのであり、「組」においては組の規約「仲間示談書」があり、行商人の行動を厳しく取り締まっていた(高瀬 1993 39頁;幸田 2015 56―57頁)。

 売薬が広がるにつれ、1760年代には安価な薬種が求められるようになった。薬種の仕入は、仲間組合ならびに富山藩において厳しく制限されていた。富山平野ならびに近隣地域には、売薬の薬種や原料はほとんどなかったため、領外から仕入・調達するしかなかった。外国産の原料薬の仕入は、すべて富山の薬種屋を経由して買入れなければならなかった。宝暦期(1754―61 年)頃になると、藩は薬原料を富山の薬種問屋(茶木屋、中屋、油屋、能登屋など)が指定した仲買人を通して売薬商人に配給した。この薬種問屋が薬原料の運送・調達 ・保管の機能まで持つようなっていた(幸田 2015 52頁)。

 反魂丹の主原料である木香(もっこう)、黄苓(おうごん)、胡黄連(こおうれん)、縮砂(しゅくしゃ)、乳香(にゅうこう)、爵香(じゃこう)、相実(きじっ)、青目白(りゅうのう)、牛黄(ごおう)などは、中国やその南方方面からの輸入品であった(幸田 2015 52頁)。例えば、乳香は中国産、爵香は中央アジア、ヒマラヤ地方や中国に産する爵香鹿から取れ、牛黄は中国のほか、インド、ペルシアなどにいる山羊や牛から取れるものであった(植村 1960 118頁)。つまり、反魂丹は、中国からの薬種から作られると言っても、さらに探ると、広くアジア世界からの薬種をその中に詰め込んでいることになる。

 このような唐薬種は、長崎会所を通じて輸入され、入札商人の手を経て大坂船場の道修町周辺の薬種問屋(に納められた後、富山の薬種屋に運び込まれた。これが正規のルートであった(幸田 2015 52頁)。しかし、このルートで仕入れられる薬種は高価で、富山売薬や薬種商には経営上障害であった。「享保年間以降に進展する商品経済」は町人や農民の薬需要を増加させていたので、より安価な薬種が求められた。したがって薬種の入手にはそういう正規のルート以外のいろいろな道が使われていた(深井2009 189-190頁)。

(3)薩摩組

 上のような「組」の一つに薩摩組もできていた。薩摩組は、1783年(天明3年)には13人脚、1801年(享和1年)に22人脚、1816年(文化13年)に26人脚であった(高瀬 1993 39頁;上原1990 274頁;徳永 2005 148-149頁―植村 1959 166頁は少し違った数字を示している)。秋田組に次いで小さな組であった。九州についてみると、薩摩組のほかに「九州組」もあった。これは薩摩を除いた九州全域を対象とする大きな組であった。薩摩組は小さくても独自の組でなければならなかったわけである。

 薩摩組の売薬を取り仕切ったのは、能登屋(密田)、宮島屋(金森)、鳥羽屋(高桑)などの帳主であった(高瀬 1993 39、42頁)。中心は、宮島屋(金森)と能登屋(密田家)である。このうち密田家は、1662年(寛文2年)に能登から富山へ移住してきて、能登屋と号した。密田家は、売薬を主な業として発展し、得意先は薩摩のほか、紀伊、讃岐、阿波、京都、大坂に広がっていた。同時に密田家は、富山町人としても地位を高め、1690年(元禄3年)には、富山町年寄の仲間入りをしていた。薩摩組に入って、天明年間(1781-89年)には、薩摩組の仲間の内で、三人脚を持って、組の筆頭であった。薩摩藩側との交渉に当たらなければならなかったが、藩権力と直接に交渉するのではなく、町年寄など仲介者を介して交渉した。とくに薩摩藩のたびたびの「差留」に際しては、その解除に動かなければならなかった。1830年代(天保期)には、400石積の中型船「栄久丸」と650石積の大型船「長者丸」を持つことになる(徳田 1992 3頁;富山市教育委員会 2001 61―62頁)。

 薩摩組は大きくなれなかったが、それは薩摩藩が頻繁に「差留」(=藩内での行商活動を禁止すること。差留については、幸田 2015 55―56頁)を行なったことにも関係している。藩では大きな顧客市場は見込まれなかったのであろう。関東や畿内では富山売薬に対する規制が相対的に弱かったが、九州|や奥中園、東北では藩の規制が相対的に強く、運上金や冥加金などによって、独占的に御免場所を許可されることが多かった。反面、そうした地域では「差留」による営業停止を受けることもしばしばであったのである(幸田 2015 54-55頁)。

 だが、薩摩組は他の組よりも富山藩にとって重要な組であった。上述の通り、薬種の入手は南からが中心であったが、正規の長崎―大坂ルートからの入手は高価で数量も限定されていた。だから、薩摩藩が鍵であって、薩摩組が注目されたのである。

3.薩摩藩の政策

(1)薩摩藩と薩摩組

 富山売薬は北九州と中九州へは17世紀中には入っていたようであるが、南の薩摩へはいつごろから入ったかは正確には分からない(高瀬 1993 38頁;上原 1990 273頁)。しかし、18世紀前半の享保年間(1716-36年)には入国していたようである(塩澤 2004 28頁)。徳永は富山売薬の活動が1781年(天明1年)には確認できるという。前述のとおり、1783年(天明3年)には「薩摩組」ができていたのである。薩摩組の「示談定法書」は1818年(文政元年)のものが知られている(徳永 2005 144頁)。薩摩藩は浄土真宗を禁じていたが、越中は浄土真宗の広がった国であった。それゆえ、薩摩組は、「越中の売薬」と自称する事を避け、「越中八尾の売薬」と称して薩摩藩内で商売をした(徳永 2005 146 頁)。

 のちに薩摩藩は琉球を通した進貢貿易からの利益を得るために、薩摩組に蝦夷からの昆布を運ばせることになるが、最初からそうだったのではない。

 薩摩組は、薩摩との輸送は西回り航路を使う北前船で薬を運んで、薩摩に届けた。ただ、当初北前船は、直接鹿児島まで薬を運んだのではなく、富山からの薬は、大坂行の北前船に積まれて、大坂まで運ばれるか、下関で降ろされた。その両地から別の船などで薩摩へ運ばれたのであった(高瀬 1993 42頁;徳永 2005 153-154、162-163頁)。やがてこの方式は変わってくるが、こうしたルートで薩摩藩内に運ばれてくる薬を、売薬商人が引き受けて藩内の町民や農民に家に配置して歩いたのである。薩摩組は薩摩藩の領域内をいくつもの区画(掛場)に分けて売薬をした。鹿児島城下などは宮島家が持ち、國分、都城などは能登屋が持った。

 薩摩藩は出入りが厳しかった。薩摩組はたびたび藩内での商いを「差留」された。薩摩は天明元年―3年(1781-83年)、天明7年―寛政元年(1787―89年),寛政11年―享和元年(1799-1801年)に薩摩組の入国を「差留」している。理由はあまり明確ではないが、正貨を藩外に持ち出させないように、藩財政を悪化させるから、などであった。これに対して、薩摩組は、「差留」を解除させるために金品を差し出した(こういう差留は薩摩に限ったことではなかった)(塩澤 2004 28-31頁)。

 こういう薩摩藩の厳しい政策の下でも薩摩組関係は、薩摩で唐薬種を入手した。富山藩にとって薩摩組の意味は、単に薩摩藩で薬を売るだけではなく、薩摩においてから唐薬種を入手する事でもあった。唐薬種の抜荷ではない入手ルートは、琉球から薩摩へきたものを、定められた量だけ長崎へ持ち込んで検査を受け、それを大坂に運んで、そこから陸路で富山へ持ち込むというものである。だが、量的にも、長崎を経ないという点でも、抜荷で運ばれる唐薬種は多かったようである。琉球から来た唐薬種を薩摩から富山へ運ぶ抜荷ルートはいくつかあった。一つは、薩摩から直接富山ないし新潟へ運ぶルートである。いま一つは、薩摩から長崎を通らないで大坂へ運び、大坂から川船で京都へ移し、京都から陸路の飛脚で富山へ運ぶルートである(深井 2009 220,222頁)。前者の場合はもちろん後者の場合も大阪までは、北前船が運んだのである。

 薩摩方面からの薬種の不法入手は、薬価の引き下げには期待されていたわけであるが、事の性格上、史料は残っていない。抜荷についての史料は極めて少ない。わずかに間接的に知る事が出来るにとどまる。たとえば、1818年(文政元年)の『薩摩組示談定法書』には、仲間が厳守すべき規定として、「彼地において出口不正の薬種は申すに及ばず、ご法度の品々何によらず、小分たりとも仲間一統に買取候儀は、決してあいなり申さず候事」というものがある。これは逆に、「出口不正の薬種」などが買い取られていたことを物語っていると考えられている。また、1821年(文政4年)には、長崎会所より唐物販売に関する嫌疑を受け、薩摩組一統が科料銀の支払いをよぎなくされていた(上原 1990 276-277頁;高瀬 1993 40頁)。

 最もはっきりしているのは、神速丸の事件である。1827年(文政11年)に越中放生津の七兵衛の船である神速丸が昆布を薩摩へ運び、帰りに抜荷の唐薬種を積んで難破するという事件があった。350石の神速丸は箱館で昆布や鰊などを買い付け、西回り航路で下り、下関から長崎沖を廻り、山川で取引をした。帰り荷に唐薬種などを買い、備中玉島で冬囲いをし、翌春に積み荷を越中東岩瀬に運ぶ途中、石州那賀郡(島根県浜田)で難破した。これは抜荷を薩摩・富山まですべて海上で輸送していた北前船の例である。神速丸は、船主や船頭の意思で昆布輸送などを行っていたのではなく、ある富山売薬商から依頼されて輸送を請け負ったものであった。これは薩摩組の依頼ではなかった(深井 2009 72-79,194頁)。

 だが、注意しておきたいのは、この時期、抜荷の唐薬種を購入することを、富山藩の意向もあって、薩摩組は禁じていたことである。だから、組として、組仲間として抜荷の薬種に関わることは自制していた(深井 2009 71頁)。やがてその姿勢は崩れるのだが、それは追って考えることにする。

(2)1832年「差留」解除と昆布

 薩摩藩では薩摩組に対して1826年(文政10年)に、四たび「差留」があった。この「差留」が1832年(天保3年)に解除されたとき、薩摩組は、鹿児島下町年寄の木村喜兵衛の仲介で、年々昆布1万斤と金200両を献納することで解除を得た(高瀬 1993 43―45頁;塩澤 2004 30頁)。この1832年前後という時期は重要で、この時から、薩摩組は新たな役割を演じることになった。

 すなわち、薩摩組は、薩摩藩内での売薬を求められるだけでなく、薩摩藩が琉球の進貢貿易から得た唐薬種を手に入れるために、北前船を駆使して、蝦夷松前からの俵物や昆布を直接薩摩へ運び込む役割を引き受けた。言い換えれば、薩摩組は、北前船を使って、辺境の松前と辺境の薩摩を結び付け、琉球口貿易と松前口貿易とを結びつけ、そうすることによって、東アジアの国際的な貿易ネットワークを成立させたのである(徳永 2005 160-161頁)。

コラム:植松 2023によると、この間1831年に、薩摩藩では、調所笑左衛門が蝦夷の昆布と中国の薬種との取引から一層の利益を得ようと、富山の薩摩組に近づいた。そして、彼らが一層多くの昆布を蝦夷から持ち込むよう説得し、薩摩組の中心である能登屋を動かした。そしてそのための融資をするところまで踏み込んだ。薩摩の船が蝦夷を行き来しては怪しまれるからである。この融資を使って、能登屋は長者丸という専用の船も建造した。こういう薩摩側の動きの中で、1832年の解除がなされたのであろうか。ただし、植松の描くこの間のことは、典拠は不明である。

 かくて、薩摩組にとって、1832年の「差留」解除に際しての約束以後、昆布の確保、輸送が大切な問題となった。組は支度金を渡してまで、昆布輸送の船を確保しようとした(高瀬 1993 54頁;深井 2009 195-196頁)。すでに文化年間(1804-17)に、北前船によって昆布を直接薩摩へ輸送し、帰りに抜荷の唐薬種を仕入れる越中の売薬業者がいたと考えられていて、文政期(1818-29)以降、薩摩の抜荷推進に伴い、彼らの活動が活発になっていたと言われる(深井 2009 86頁)。いまや、この動きが制度化されたのである。

 薩摩組にとって年々昆布1万斤と金200両を献納することは、かなりの負担であったはずであるが、利益もあった。薩摩組は、一万斤を超える昆布を持ち込んで、一万斤は献納したが、それ以外の数万斤は藩に買い取ってもらうことになったからである。それだけではない。実は、これらの船は、薩摩で薬種などを仕入れて、それを大坂でも販売していたと思われる(高瀬 1993 45頁)。北方口の蝦夷地から昆布を琉球口の窓口となる薩摩へ届け、帰りには琉球口から入る唐薬種を薩摩から大阪、あるいは新潟、輪島などにおろし、販売したのである。もちろんそこから越中へ運ばれたのである(深井 2009 221-222頁)。加えて、薩摩組の廻船は、途中の港で買積も行って、北前船の機能も保持していた。そして、天保期(1830年代)には、西回りだけでなく、東回り(太平洋廻り)も駆使するようになった。

 松浦静山が1832年(天保3年)に著した『保辰琉聘録』は、唐薬種が薩摩から新潟へ運ばれていたようすを記録している。「中華産は多く薩船にて越後の新潟其外へも回し、夫より専ら奥地へ送り、或は江都(江戸)へも内々は売出すか、然るゆゑ、都下にても中産存外に下価なる有り」(上原 1990 214-215頁;徳永 2005 192頁は『甲子夜話』としている)。新潟から江戸へも運ばれていたわけである。

 薩摩藩にとって、昆布積載の北前船は薩摩が積極的に招いた領外船であり、昆布購入の需要な手段の一つとなった。だが、北前船は昆布以外にも薩摩にとって役に立った。一つは、情報の入手であり、いま一つは、流通手段であった。日本海を自在に航行する北前船によって、北の松前や、天下の台所である大坂の情報を得、貿易品を流通させることができたのである(徳永 1992 2頁;徳永 2005 162頁)。こうして、北前船は世にいう「薩摩の密貿易」の担い手の一つとなりつつあった(徳永 2005 161頁)。

 薩摩藩と薩摩組の微妙な関係は、1835年以後、薩摩藩における調所の藩政改革と、新潟における薩摩の抜荷摘発を受けて、大きく変わることになる。

参考文献

上原兼善『鎖国と藩貿易ー薩摩藩の琉球密貿易』八重岳書房 1990年(初版1981年)
上原兼善『近世琉球貿易史の研究』岩田書院 2016年
植松三十里『富山売薬薩摩組』H&I 2023年
植村元覚『行商圏と領域経済』ミネルヴァ書房 1959年
植村元覚「近世富山売薬業の仕入れ」『富大経済論集』第6号 1960年
幸田浩文「富山商人による領域経済内の売行商圏の構築―富山売薬業の原動力の探求―」『経営力創成研究』東洋大学経営力創成研究センター 第11号 2015年
塩澤明子「近世後期における富山売薬商人と旅先藩―薩摩藩との関係を中心に」『史文』天理大学史学会 2004年3月
高瀬保「富山売薬薩摩組の鹿児島藩内での営業活動―入国差留と昆布廻送―」所収北前船新総曲輪夢倶楽部編『海拓―富山の北前船と昆布ロードの文献集』富山経済同友会 2006年(高瀬論文は、もとは柚木学編『九州水上交通史』日本水上交通史論集 第五巻 文研出版 1993に出たものであるが、『海拓』のために本人が加筆したので、それを使うことにする。)
徳永和喜「薩摩藩密貿易を支えた北前船の航跡―琉球口輸出品「昆布」をめぐってー」『ドーンパビリオン調査研究報告書』鹿児島県歴史資料センター 1992年3月
深井甚三『近世日本海海運史の研究―北前船と抜荷』東京堂 2009年
深井甚三ほか『富山県の歴史』山川出版社 2012年(初版1997年)
村田郁美「薩摩藩の動きから見る富山売薬行商人の性格」『人間文化学部学生論文集』第13号 2015年

(「世界史の眼」No.57)

カテゴリー: コラム・論文 | 1件のコメント

「世界史の眼」No.56(2024年11月)

今号では、9月に世界史研究所で行った、ダニエル・ウルフ著(南塚信吾、小谷汪之、田中資太訳)『「歴史」の世界史』(ミネルヴァ書房、2024年)の合評会の記録を掲載しています。また、木畑洋一さんに、「世界史寸評」として、「チャゴス諸島の主権をめぐる英-モーリシャス合意」をご寄稿頂きました。2022年4月に掲載した「世界史寸評」「国連地図のなかのチャゴス諸島」を受け、最新の状況を解説頂いています。

『「歴史」の世界史』合評会記録

木畑洋一
世界史寸評チャゴス諸島の主権をめぐる英-モーリシャス合意

ダニエル・ウルフ著(南塚信吾、小谷汪之、田中資太訳)『「歴史」の世界史』(ミネルヴァ書房、2024年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

カテゴリー: 「世界史の眼」 | 1件のコメント