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「世界史の眼」No.72(2026年3月)

今号では、小谷汪之さんに、新たな連載「蓼科の近代史」の初回、「蓼科の近代史 Ⅰ(上) ―満洲開拓と戦後開拓」を寄せて頂きました。今後連載して参ります。また、多摩大学の桐谷多恵子さんに、昨年刊行された豊下楢彦『「核抑止論」の虚構』(集英社新書、2025年)を書評して頂きました。また、世界史寸評として、南塚信吾さんの「日本の自民党大勝を世界史的に考える」を掲載しています。

小谷汪之
蓼科の近代史 Ⅰ(上) ―満洲開拓と戦後開拓

桐谷多恵子
書評 豊下楢彦『「核抑止論」の虚構』

南塚信吾
世界史寸評 日本の自民党大勝を世界史的に考える

豊下楢彦『「核抑止論」の虚構』(集英社新書、2025年)の出版社による紹介ページはこちらです。

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蓼科の近代史 Ⅰ(上) ―満洲開拓と戦後開拓
小谷汪之

はじめに
1 茅野市域からの満洲開拓移民
2 敗戦前後の満洲開拓移民
(以上、本号)
3 戦後開拓
4 茅野市域における戦後開拓
おわりに
(以上、次号)

はじめに

 蓼科湖畔に下の写真のような「拓魂」の碑が建っている。

この碑の文面は次のとおりである。

   建立趣意

第二次世界大戦は敗戦の
烙印の下に終った。これ
迠、海外に雄飛せし同胞
は全て帰国し国土は荒廃
し食糧欠乏す、ここに有
志相諮り食糧増産の為入
植に決す、苦節十年の後
昭和三十五年竣工検査の
結果各自の所有となる。
時恰も観光開発の脚光を
浴びた当地はその施設の
中央に位し、各自よすが
を観光面に切り替え開拓
の努力は報いられて今日
に至る。この開拓用地は
湯川・塩沢・両財産区の
ものであったが、昭和二
十四年の緊急開拓措置令
により国が買収したもの
である。その概要を記し
児孫に傳う。

昭和六十三年七月吉日
  中山開拓農業協同組合
(誤字三カ所を修正)

 「拓魂」の碑というのは全国各地にたくさんあるが、その多くは、満洲開拓に送り出され、1945年(昭和20年)8月15日の敗戦前後、ソ連軍の侵攻や現地民の襲撃に遭って命を落とした約8万人の満洲開拓移民たちを悼む慰霊碑である。しかし、蓼科湖畔の「拓魂」の碑は、それとは異なり、敗戦後国策として推進された戦後開拓にかかわるもので、碑を建てた「中山開拓農業協同組合」は蓼科山南麓の長野県諏訪郡北山村湯川区(現、茅野市大字北山・湯川区)から蓼科高原に戦後開拓に入った人たちの開拓農業協同組合である。

 本稿では現在の茅野市域(諏訪郡の旧村名で言えば、永明村、宮川村、金沢村、玉川村、泉野村、豊平村、北山村、湖東村、米沢村。図1「茅野市域の村区分」参照)、特に北山村に焦点を当てて、この地域からの満洲開拓移民と戦後開拓の歴史を追ってみたいと思う。

1 茅野市域からの満洲開拓移民

 長野県は全国の都道府県の中で、満洲開拓移民を最も多く送り出した県である。当時の外務省の統計によれば、1945年5月現在で、長野県送出の一般満洲開拓団員は31,264人で、2位山形県の13,252人の2倍以上である。都道府県総計で220,359人の一般満洲開拓団員の約15%を占めている。ただし、これらの数値は渡満計画中の人数を含むので、実数とはいくらか開きがあるとされている(『満洲開拓史』満洲開拓史刊行会編、1966年、396~397頁)。

 『長野県満州開拓史 各団編』(長野県開拓自興会満州開拓史刊行会編、1984年)では、「長野県単独開拓団」が次の5類型に分類されている(開拓団名の前に付された年次は送出された年次を示している。1932年(昭和7年)に最初に送出された「第1次弥栄村開拓団」以降、年度にしたがって第2次、第3次というように表記された)。

(1)「全県編成開拓団」:「第5次黒台信濃村開拓団」など4開拓団
(2)「分村移民開拓団」:「第7次四家房大日向村開拓団」など12開拓団
(3)「分郷開拓団」:「第8次小古洞蓼科郷開拓団」など24開拓団
(4)「集合・農工・帰農開拓団」:「集合第1次康平長野開拓団」など11開拓団
(5)「報国農場」:「長野県農業会窪丹崗報国農場」など4開拓団

 これらの他に、満蒙開拓青少年義勇軍が3年間の現地訓練期間を終えて入植した「長野県単独義勇隊開拓団」(11開拓団)などを加えれば、長野県から満洲開拓に参加した者は4万人をくだらないであろうとされている(『長野県満州開拓史 各団編』)。

 この長野県全体から送出された満洲開拓移民の数と比べた時、現在の茅野市域から送出された満洲開拓移民はあまり多くないという印象を受ける。この地域からは第7次四家房大日向村開拓団(長野県南佐久郡大日向村の全村民の半数ほどが満洲に渡り、現地で大日向分村を形成した。伊藤純郎『満州分村の神話 大日向村は、こう描かれた』信濃毎日新聞社、2018年、参照)のような「分村移民開拓団」が送出されなかったこともその一因であろう。現在の茅野市域からの満洲開拓移民は以下の各開拓団に分散して参加していた。

(1)第5次黒台信濃村開拓団 7世帯
(2)第6次南五道崗長野村開拓団 4世帯
(3)第7次中和鎮信濃村開拓団 4世帯
(4)第8次張家屯信濃村開拓団 1世帯
(5)第8次富士見分村王家屯開拓団 8世帯
(6)第10次孫船八ヶ岳郷開拓団 66世帯
(7)第11次旭日落合開拓団 1世帯
(8)長野県農業会窪丹崗報国農場 1世帯
(『茅野市史 下巻 近現代・民俗』1988年、446~447頁)

 これらの中で、例外的に茅野市域からの開拓移民が多かったのは「第10次孫船八ヶ岳郷開拓団」である。この開拓団は、1939年、農林次官だった小平権一(諏訪郡米沢村出身。図1「茅野市域の村区分」参照)が諏訪郡町村長会などに結成を呼びかけた「分郷開拓団」で、諏訪郡の2市18町村から団員が集められた。入植地は満洲最北部、ソ連国境の町・黒河に近い訥謨爾ノモルで、入植時には219世帯(戸)、746人が在籍していた。その後、軍隊への現地召集などで団員が減少したが、敗戦時にも554人が在団していた(『長野県満州開拓史 各団編』356~365頁)。

 この「第10次孫船八ヶ岳郷開拓団」の団員のうち、66世帯(戸)が現在の茅野市域からの入植者で、その中には北山村出身の7世帯が含まれていた。その他の「長野県単独開拓団」には、北山村出身者はいなかった。ただし、「第3次瑞穂村開拓団」(1934年入植)には1世帯4人の北山村出身者が在籍していた(『茅野市史 下巻』446~447頁)。しかし、この開拓団は「第1次弥栄村開拓団」や「第2次千振開拓団」と同様のいわゆる「試験開拓団」(「武装開拓団」)の一つで、長野県を含む22県の在郷軍人会によって選抜された在郷軍人から構成されていた。したがって、この開拓団に在籍した北山村出身の1世帯も在郷軍人の世帯だったのであろう。その点では、1936年に広田弘毅内閣の下で満洲移民政策が本格化する前の初期的開拓団であった(『長野県満州開拓史 各団編』34~45頁)。

2 敗戦前後の満洲開拓移民

 1945年8月9日、ソ連軍が東、西、北の三方から満洲に侵攻し、それに呼応するように現地民が開拓村などを襲撃した。開拓民たちは南方に向かって避難したが、その過程で多くの死者が出た。『満洲開拓史』はその死者、未帰還(不明)者、帰還者を以下のように算出している(436~437頁)。

開拓団(928団)    死者67,680人 未帰還者9,550人  帰還者118,970人
義勇隊開拓団(102団) 死者3,200人  未帰還者1,000 人 帰還者17,800人
報国農場(74カ所)   死者1,120 人  未帰還者450人   帰還者3,200人

 これらの死者総計72,000人に未帰還(不明)者のうち死亡したと考えられる者6,500人を加えると、開拓団関係の死者は約8万人となる。これは敗戦時における満洲全体の日本人居留民死者約18万人の45%ほどにあたる。敗戦時における、在満日本人居留者総数は約150万人とされている(富田武『シベリア抑留――スターリン独裁下、「収容所群島」の実像』中公新書、2016年、104頁)。

 敗戦時の死者、未帰還者、帰還者の数を現在の茅野市域からの入植者がいた開拓団について見ると、次のようになる(敗戦時に在団していた人々に関する数で、応召者などを除く)。

(1)第5次黒台信濃村        死者967人 未帰還者91人  帰還者277人
(2)第6次南五道崗長野村   死者759人 未帰還者38人 帰還者332人
(3)第7次中和鎮信濃村    死者599人 未帰還者42人 帰還者351人
(4)第8次張家屯信濃村    死者690人 未帰還者17人 帰還者277人
(5)第8次富士見分村王家屯  死者189人 未帰還者2人    帰還者582人  
(6)第11次旭日落合開拓団   死者69人  未帰還者 0人    帰還者67 人
(7)窪丹崗報国農場       死者58人  未帰還者0人  帰還者207人
(『長野県満州開拓史 各団編』各所)

 (1)~(4)の「全県編成開拓団」における死者数が突出していることが分かる。もともと規模の大きな開拓団だったこともその一因であろう。

 現在の茅野市域からの入植者が例外的に多かった「第10次孫船八ヶ岳郷開拓団」の場合、敗戦時の在団者554人のうち、死者269人、未帰還(不明)者7人で、278人が帰還した(『長野県満州開拓史 各団編』357頁)。そのうち、茅野市域出身の66世帯の人々だけについて見れば、死者114人、未帰還(不明)者5人で、帰還したのは119人であった。さらにそのうち、北山村からの入植者7世帯では、死者3人で、帰還者は11人となっている(『茅野市史 下巻』447頁)。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.72)

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書評 豊下楢彦『「核抑止論」の虚構』
桐谷多恵子

 本書『核抑止論の虚構』は、核兵器の存在が戦争を抑止してきたという広く共有された通念に対し、その理論的前提と政策的実態の双方を精査することで、核抑止論が内包する不安定性を明らかにしようとする著作である。著者は序章において、映画『博士の異常な愛情』を引き合いに出し、核戦略が前提としてきた「合理性」が、いかに容易に狂気と隣り合わせのものとなりうるかを象徴的に示している。

 続く第1章では、内部告発者として知られるダニエル・エルズバーグの証言を手がかりに、核抑止論の中核をなしてきた「公式政策」そのものに鋭い疑問が投げかけられる。エルズバーグが強調するのは、米国が表明し、また広く信じられてきた、ソ連による第一撃を抑止し、仮に攻撃を受けた場合には第二撃によって報復するという核戦略が、「意図的な偽り」であったという点である。すなわち、そのような抑止政策が実際の意思決定において主要な目的となったことは「一度たりともなかった」とされるのである。著者はこの指摘を通じて、核抑止論が想定する透明で合理的な戦略像と、現実の政策運用とのあいだに横たわる深刻な乖離を浮かび上がらせる。

 第2章以降で著者は、核抑止論を支えてきた核戦略論の理論的前提を精査し、その内在的な問題点を明らかにしていく。核戦略論は、国家を一貫して合理的に行動する主体として想定し、相手国もまた同様の合理性に基づいて行動すると仮定することで、抑止の安定性を説明してきた。しかし著者が指摘するように、この前提は、危機状況における誤認や偶発、さらには組織内部の混乱や判断の分断といった現実の要因を著しく過小評価している。

 この問題が最も端的に示されるのが、第3章および第5章で論じられる、いわゆる「狂人理論」である。著者は、リチャード・ニクソン政権期の対ベトナム政策を取り上げ、指導者が非合理的で予測不能な人物であるかのように振る舞うこと自体が、相手国に譲歩を迫る戦略として構想されていたことを明らかにする。ニクソンは側近を通じて、「ニクソンは共産主義のことで思い詰めている。怒り出したら手がつけられない。しかも彼は核のボタンに手をかけているのだ――こうすればホー・チ・ミンは二日も経たずに和平を請い願って自らパリに出向くだろう」との認識を意図的に流布させたとされる。

 著者が強調するのは、このような「狂人」を演じる戦略が、抑止の信頼性を高めるどころか、むしろ核使用の可能性を現実のものとして相手に意識させる点にある。そこでは、理論上想定されてきた合理的な計算や安定した均衡は成立せず、個人の感情や演出に依存した、きわめて不安定な抑止関係が生み出される。核抑止論が前提としてきた合理性は、この段階で自ら放棄されているのであり、非合理性を装うことで均衡を保とうとする論理そのものが、深刻な危うさを孕んでいることが示される。

 さらに著者は、こうした「狂人理論」が突発的に生まれた発想ではなく、1950年代後半以降に蓄積されてきた核戦略研究の文脈のなかで形成されてきたことにも目を向ける。キッシンジャーやシェリング、エルズバーグらは、「非合理性の理論」を参照しつつ、核抑止や核開発競争が本質的に不安定な均衡の上に成り立っていることを理論的に検討してきた。しかし、ニクソン政権の具体的政策をいかに評価するかをめぐって見解の相違が顕在化し、最終的にはキッシンジャーのみが政権中枢で重責を担い、「狂人理論」を実際の政策構想として展開するに至ったのである。著者は、この理論がその後も各国の指導者によって参照されていく過程を描き、核抑止が制度ではなく、個人の演出や性格に依存する実践へと傾斜していったことを浮かび上がらせている。

 著者が高く評価するのが、第4章で論じられるゴルバチョフによる「新思考外交」の意義である。ゴルバチョフは、軍事的均衡を安全保障の中心に据える発想から、相互依存と理性に基づく国際秩序の構想へと視座を移し、核抑止論が当然視してきた前提そのものを相対化しようとした。さらに、レーガンとの間で締結された中距離核戦力全廃条約(INF条約)は、単なる軍備管理の成果というよりも、恐怖による均衡を合理的安定とみなす思考に対する実践的な問いかけであったと言える。かつてソ連を「悪の帝国」と位置づけたレーガンとの交渉は、「精神病理的な論理」に裏付けられた「核抑止論」の枠組みを超える政治的可能性を示したものとして、本書では積極的に評価されている。

 しかし、ジョージ・W・ブッシュ政権の発足と同時多発テロ以降、状況は再び大きく転換した。「ミサイル防衛」の強化とともに、「我々を防衛するために先制的に行動すること」が必要であるとする「先制攻撃論」が前面に押し出され、核兵器の使用可能性は現実的な選択肢として再浮上することとなった。

 これを受けて、オバマ大統領は核の「先制不使用」に言及し、「核なき世界」を目指す姿勢を打ち出したが、その構想は十分な支持を得られず、その後の国際政治は「第二の核時代」と呼ばれる状況へと移行していく。第6章「核の復権」が論じるのは、まさにこの局面である。それまで核兵器は「存在すること」によって抑止を担うと理解され、その意味で「核兵器の役割が縮小」も語られてきた。しかし現在では、中小規模の核保有国の増加により、地域紛争の文脈で核兵器が使用される危険性が現実味を帯びている。

 この「第二の核時代」においては、仮に核兵器が使用されたとしても必ずしも「人類絶滅」に直結するとは想定されず、地域的優位を追求する国家にとっては「体制の存亡をかけた戦争」という文脈で計算されうる。大国による核の威嚇も、かつてほど自動的に抑止として機能するとは限らないとされる。こうして従来型の「核抑止」は効力を弱め、核兵器は使えない兵器から使用を想定せざるを得ない兵器、つまり使える兵器へと位置づけが変化しつつある。その象徴が、「低出力核兵器(戦術核)」の開発である。こうした情勢のもとでは、原子力発電所さえも攻撃対象となりうる現実が浮かび上がる。本書は、このような現在進行形の核をめぐる状況を理論的に論じている。

 本書の強みは、核抑止論を外部から規範的に否定するのではなく、その内部論理を丹念に検証することによって、理論と現実の乖離を可視化している点にある。本書後半において著者は、核抑止論の不安定性が過去の理論的問題にとどまらず、現代の国際政治においても繰り返し現れていることを示す。第7章では北朝鮮やイスラエルの事例を通じて、核兵器の保有が地域の安定をもたらすどころか、むしろ緊張と不確実性を恒常化させてきた実態が描かれる。第8章で検討される「トゥキュディデスの罠」をめぐる議論もまた、大国間競争を歴史的必然として捉える単純化が、軍事的緊張を過度に自然化してしまう危険性を孕んでいることを示している。

 さらに第9章では、「トランプの傘」という表現を用い、拡大抑止が特定の指導者の性格や演出に依存する構造的脆弱性が浮き彫りにされる。核抑止が合理的計算に基づく安定した仕組みであるという前提は、ここにおいて再び大きく揺さぶられる。著者が示すのは、核抑止が制度としてではなく、個々の指導者の判断や感情に左右される実践として機能してきた現実である。

 本書が繰り返し問いかける核抑止論の虚構は、理論的検証や政策史の分析にとどまらず、核兵器をいかに人間的に考えるかという根源的な問題へと読者を導く。評者自身、13年にわたり55回に及ぶ聞き取りを重ねてきた広島の被爆者・切明千枝子氏は、核兵器の存在が核戦争を防ぐとする核抑止論について、「信じられませんね」と静かに語った(2025年6月26日、切明氏自宅での聞き取り)。切明氏はまた、「やっぱり、あくまでも核兵器廃絶ですね。なくしてほしいですね」と断言し、核兵器を保有し続ける限り、いずれ使用への誘惑が生じること、そして現在地球上に存在する核兵器の破壊力は、広島で経験された被害をはるかに超える規模の惨禍をもたらしかねないと指摘している。

 私たちは、核戦争を実際に体験させられた被爆者たちの言葉を通してこそ、核兵器を抽象的な戦略や理論の対象としてではなく、人間の生と死に直結する問題として考えることができるのではないだろうか。核戦争を経験していない世代にとって、その現実はしばしば想像の外に置かれてしまう。本書『核抑止論の虚構』は、そうした想像力の欠如に抗い、核兵器をめぐる思考を理論の内部から崩しつつ、人間的な問いとして回復させる重要な試みである。そして、核抑止の「虚構」が再び現実政治の言説空間を規定しつつある現在、本書は核兵器をめぐる理論的枠組みを再検討するための基準点を提示する重要な研究成果である。

(「世界史の眼」No.72)

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世界史寸評
日本の自民党大勝を世界史的に考える
南塚信吾

1)世界的な保守化・右傾化の流れ       

 2026年2月8日の総選挙で、高市自民党が歴史的な大勝利を収めた。これは実は最近の世界的な保守化・右傾化の傾向が日本にもやってきたという事ができる。

 保守化・右傾化とはなにかということは、必ずしもコンセンサスがあるわけではないが、筆者は①ナショナリズム、「伝統的」価値観、「・・・ファースト」、反移民、②力の政治、軍事力重視、③議会制度軽視、④メディア等の自由規制、⑤多様性の否定を内容とする政治傾向と考えておきたい。これは要するに、「反リベラリズム」と言ってもよい。単に反新自由主義ではなくてリベラリズムそのものへの反動である。

 こういう政治傾向は21世紀になって西ヨーロッパ、東ヨーロッパ、ロシア、イスラエル、南北アメリカに見られていて、それがついに日本にも及んできたということができる。ハンガリーの場合はオルバーン、アメリカ合衆国の場合はトランプ、日本の場合は高市である。とくにオルバーンは、「非リベラル・デモクラシー」を主張し、西欧のリベラリズムを批判し、ネイションや家族やキリスト教を強調して、ヨーロッパ内やアメリカに静かな影響を及ぼしている。日本では、①と②を内容とする保守化・右傾化が進んでいるという事ができる。

2)新自由主義によるグローバリゼーションの諸問題

 なぜこういう保守化・右傾化が生じたのかという原因は、特に論じられていないが、筆者は、1990年以降進展した新自由主義によるグローバリゼーションの生み出した諸問題がその原因であろうと考えている。その諸問題というのは、①格差、経済的弱者、②人の移動による価値の変容、③ナショナルな枠組みの動揺(国家財政危機、国民経済停滞)などである。

 これらの問題を、保守・右翼が救い上げているのである。そして、保守・右翼は、それを単に反新自由主義ではなくてリベラリズムそのものの問題と捉えるようにと訴えているのである。1980年代ならば格差、経済的弱者は、社会主義がすくい上げるはずであるが、いまやそういう社会主義は弱体化しているのである。

 世界的に見て、こういう諸問題を抱えていない国はないほどである。アメリカ合衆国の場合、ラストベルトなどの労働者にしわ寄せがきていたが、グローバリゼーションによるアメリカ経済全般の空洞化が深刻であった。先のオルバーンのハンガリーの場合、1990年以後の新自由主義によるグローバリゼーションのもとで、外国資本の流入の反面、農村部が疲弊して深刻な社会・経済的困難を抱えたのである。日本では、②の中の外国人問題や、③の経済的停滞などが切実な問題である。

3)ポピュリズム

 では、保守・右翼はどのような方法で人々に訴えているのだろうか。それは、基本的にポピュリズムという方法を活用しているという事ができる。

 ポピュリズムとはなにか、これに諸説があるが、筆者は、一般大衆の感情や不満に訴え、大衆からの人気を得ることを第一とする政治思想や活動と考えておきたい。冷静な事実に基づいた論理的な議論をしないで、感情や印象や不満感に訴えるのである。イメージ、感情、第一印象が大切になる。

 これは、1980年代から広がったポストモダンの考え方の影響といってもいい。言葉と事実との関係を疑い、言葉自体を現実と考えるポストモダンは、フェイクニュースを生み出す素地を準備し、2016年のブレグジット問題やトランプ大統領就任あたりから、「ポスト真実」を一人歩きさせた。そこにポピュリズムの広がる余地が生まれたのである。

 実は、21世紀の世界を見てみると、各地で政治がポピュリズムで覆われている。西ヨーロッパ、東ヨーロッパ、アメリカ合衆国、ラテンアメリカなど、広く見ることができる。その際、政府与党を批判する勢力がポピュリズムを利用して伸びているケースと、与党自体がポピュリズムを駆使して支配しているケースがある。前者はヨーロッパの英仏独などに見られるが、後者はアメリカのトランプ、ヨーロッパのハンガリーなどのほか、各途上国に見ることができる。ハンガリーのオルバーンの場合、ハンガリー・ナショナリズムとキリスト教を掲げて、選挙で圧倒的な勝利を収めてきた。

 日本の場合、高市総理がポピュリストであるかどうかに議論はあるようだが、自民党はうまくポピュリズムを使ったといえる。女性首相、対中国強硬姿勢、積極財政、移民問題など、イメージ、感情、第一印象に訴えたのである。

4)SNSの役割―ポピュリズムが活用

 ポピュリズムが事実に基づいた冷静で論理的な議論をしないで、感情や印象や不満感に訴える際に、最も広く容易に使う手段がSNSである。SNSを活用したポピュリズムは「デジタル・ポピュリズム」ないし「テクノ・ポピュリズム」と言われる。

 2000年代から広がり始めたSNSは現役世代においては公的情報を入手する日常的な手段になっていて、テレビや新聞はマイナーになっている。そのSNSには、「フィルター・バブル」(自分と同じ意見や趣味のものばかりになり、異なる意見や趣味が見えなくなる現象)や「エコー・チェンバー」(閉鎖的な情報空間内でコミュニケーションが繰り返され、自分の意見や思想が肯定されることによって、それらが世の中一般においても正しく、間違いないものであると信じ込む現象)や「アルゴリズム」(ユーザーの興味や関心に合わせた投稿が表示される仕組み)と言われる効果がある。これらの効果を熟知した人員や企業が選挙事業を請け負う。また、「アテンションエコノミー」で生きる企業が選挙を利用する。こられに多額の選挙資金が投下されるのである。

 これは国境を越えた世界的な動きである。とくに2016年あたりから、SNSは「カオスの仕掛け人」によって操られるようになった。

 今回の選挙では、メディアを使った政治に日本の自民党は本格的に参加した。自民党は何億と言われる資金を選挙に投下したと言われるが、SNSや関連企業とどういう関係にあったかは、不明である。これは今後解明されていくと思われるが、ある野党党首は、「カネの多寡によって発信できる情報に差が付くのはどうなんだ」という疑問を提起している。ともあれ、自民党は見事に世界的な動きに乗っていたわけである。反面、非ポピュリズム勢力はSNSの活用に乗り遅れたのである。

 このように今回の日本での自民党の大勝は、近年の世界史の動きの一環として考えていく必要がある。

参考文献

「高市一強 衆議院選関連You Tube分析」『毎日新聞』2026年2月17日

山腰修三「SNS政治への転換―「カオスの仕掛人」の実態 可視化を」『朝日新聞』2026年2月18日

南塚信吾「『ポスト真実』の魔術を超えて―「考える人」を取り戻す」南塚信吾・小谷汪之・木畑洋一編『歴史はなぜ必要なのか―「脱歴史時代」へのメッセージ』岩波書店 2022年

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「世界史の眼」No.71(2026年2月)

今号では、藤田進さんに「新たな「ガザ占領」―トランプ米大統領のガザ戦争停戦協定がもたらした新たな「ガザ占領」の危機」を寄せて頂きました。また、奈良大学の高橋博子さんに、今年刊行された桐谷多恵子『被爆者・切明千枝子さんとの対話:私たちの復興をめざして』(彩流社、2025年)を書評して頂きました。また、山崎が、佐原徹哉『極右インターナショナリズムの時代-世界右傾化の正体』(有志舎、2025年)を紹介しています。

藤田 進
新たな「ガザ占領」―トランプ米大統領のガザ戦争停戦協定がもたらした新たな「ガザ占領」の危機

高橋博子
『被爆者・切明千枝子さんとの対話:私たちの復興をめざして』(彩流社、2025年)

山崎信一
文献紹介:佐原徹哉『極右インターナショナリズムの時代-世界右傾化の正体』(有志舎、2025年)

桐谷多恵子『被爆者・切明千枝子さんとの対話:私たちの復興をめざして』(彩流社、2025年)の出版社による紹介ページはこちらです。また、佐原徹哉『極右インターナショナリズムの時代-世界右傾化の正体』(有志舎、2025年)の紹介ページはこちらです。

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新たな「ガザ占領」―トランプ米大統領のガザ戦争停戦協定がもたらした新たな「ガザ占領」の危機
藤田 進

1 トランプ米大統提案の「ガザ戦争終結に関する20項目計画」

2023年10月、ハマースがイスラエル軍のガザ撤退とイスラエル獄中のパレスチナ人解放を求めて開戦し、「ハマース殲滅」を唱えるイスラエルがガザ全土占領とパレスチナ人追放を目ざして長きにわたったジェノサイド戦争は、2025年10月トランプ米大統提案の「ガザ戦争終結に関する20項目計画」にイスラエル・ハマース双方が合意したことでひとまず停戦に至った。10月10日ガザ戦争停戦協定第一段階がスタートし、イスラエル占領軍の撤退、人質の釈放、ガザ住民への緊急支援物資の搬入等々が取り組まれるとともに、ガザ南部へ強制移動させられていた多くのパレスチナ人家族が北部の自宅を目ざして戻りはじめた。たどり着いたガザ北部はイスラエル軍に徹底的に破壊されつくしており(図1)、すべてを失った人々は町を埋め尽くしたゴミの山のそばに掘立て小屋を建てて住みはじめた(図2)。

図1
2025年11月初旬のガザ市東部シュジャーイーヤ地区の破壊された建物群(Credit: Nir Elias/Reuters)
図2
2025年12月10日、ガザ市のごみの山の隣に立てた掘立て小屋の住人. (Video by Abdel Qader Sabbah.)

2 停戦後もガザに居座り、ガザ分割占領をはかるイスラエル軍

 ところで、ガザ戦争停戦協定第一段階でイスラエル占領軍が撤退したのは、ガザの一部地域からだけだった。(図3)にみるように、ガザは停戦協定に基づいて「イエローライン」と呼ばれる境界線で二つに区切られ、イエローラインの東側のガザ全土の52%は、段階的に撤退することになっているイスラエル占領軍が現時点においてとどまる地域とされた。

図3
イエローラインによるガザ分割

 イエローラインを示す標識はないので、住民には実際にはどこが境界線なのか分からず、またイエローライン地域内にはパレスチナ地区や住民が存在するので、人々がこれまで通りに進んでいくと、境界線を越えてイスラエル支配地域に立ち入ったとしてイスラエル軍によって射殺されるという事態が持ち上がり、ガザ地区の半分が排他的イスラエル軍支配地域になってしまったことを示していた。

 ガザ中部のハーン・ユニス地方もイエローラインによって分割され、バニ・スヘイラ地区はイスラエル支配地域内に組み込まれてしまった。だがバニ・スヘイラ地区が分断されたことを明示する境界線があるわけでなく、人々がそれまでのようにバニ・スヘイラ地区に立ち入ってイスラエル軍に銃撃され死傷する事件が起きはじめた。戦争中イスラエル軍によって23人もの家族が殺された後ハーン・ユニスで避難生活を送っており、今回の停戦協定発効の一週間前にイスラエルの空爆で兄も殺された3人の子供の父親であるハーレド・ファルハート氏(35歳)が、ハアレツ紙の記者に次のように語った「その道は通れるようになるだろうと思っていたら、翌日にはそこで誰かが撃たれていたりする。誰もがそのようなことを通じて、あそこには占領軍がいるのだと分かるのです。」

 寒さが増してきた12月、ハーン・ユニスの10歳と12歳の兄弟のパレスチナ人の少年が、負傷している父親のために薪を拾い集めるためにバニ・スヘイラ地区へ出かけて行っていたところをイスラエル軍のドローンに攻撃され二人とも死亡するという事件が起きた。イスラエル軍当局は、少年たちがイスラエル軍の近くで「不審な行動」をしている危険な存在だったと殺害の正当性を主張した。これに対してパレスチナの住民たちは、少年たちは生きるために人間として当然の義務を果たしていただけだと反論し、また先のファルハート氏は「少年たちは家族を助けようとしただけであり、イスラエル軍だって彼らが幼い子どもであることは分かっていたはずだ。だがイスラエル軍にとって最も重要なのは、例え子ども、女性、老人であろうとも境界線を越えることを決して許さないことだ」と語った。

 やがてイスラエル軍は、イエローラインの西側のハマース支配地域に黄色いコンクリートブロックを等間隔に設置しはじめた。ブロックで囲んだ新たなイエローライン地域をつくり、それを加えてイスラエル支配地域を拡大する(図4参照)。人々はイエローラインが西に向けて知らぬ間に移動するのを「翌朝目覚めると、黄色いコンクリートブロックや軍用車両が玄関先に置かれているのを見つけた」というようなショッキングな出来事を通じて実感した。

図4
イエローライン西側地域にイスラエル軍が据えた黄色いコンクリートブロック  (Source:Planet Labs PBC BBC)

3 イスラエル軍による人質遺体捜索作業を利用した「ハマース殲滅」の企て

残された人質の遺体回収を重視するイスラエルは、遺体がイスラエル軍支配地域のラファ一帯に広がるハマースの地下トンネル内にあると見当をつけていた。イスラエルは人質の遺体が返還されるまでは停戦合意時に約束されたガザ飢餓住民に緊急に大々的に届ける人道支援物資の搬入を許可しないとの圧力をハマースにかけて、ハマース戦闘員たちを地下トンネル内の遺体捜索作業にあたらせることにした。だがイスラエルの猛爆撃で現場が破壊されていたり、捜索場所を特定する目印がなかったりして遺体回収作業は困難を極めた。イスラエル軍はハマース戦闘員たちに困難な作業をやらせる一方で、地下トンネルを捜索して中に200名ほどいる戦闘員たちの殺害を企てた。11月26日、イスラエル軍がラファでのパレスチナ人戦闘員複数名の殺害と2名の拘束を発表したとき、ハマースが「イスラエルが停戦合意に違反してラファのトンネル内でハマース戦闘員を追跡し殺害している」と非難したのに対して、カッツ・イスラエル国防相はSNSのXに「イスラエル支配下のイエローライン地帯における最優先事項はトンネル網の完全な破壊である。トンネルがなければ、ハマースも存在しないのだから」と投稿して、非戦闘状態の隊員たちの殺害を正当化した。

4 パレスチナ人行方不明者の遺体回収作業

 ガザのパレスチナ人にとって、行方不明になった人々の遺体の発見・回収は切実な願いだった。イスラエルの爆撃が続く中で倒壊した建物の大量の瓦礫除去作業に必要な多くの救助隊員自身の殺害と大型重機の決定的不足によって遺体回収はほとんど進まず、1万人相当の行方不明のパレスチナ人が2年間も瓦礫の下に埋もれたままになっていた。その人々の遺体捜索・回収事業がようやく12月15日、ガザの民間防衛隊によって開始された。だが遺体回収作業は、イスラエル軍支配下の「イエローライン」地域内には近づけない上に、作業要員不足、瓦礫を取り除く大型シャベルカーはわずか1台、貧弱な遺体鑑定体制等々の困難な条件のもとで困難を極めた。

 最初に取り組まれたのは、ガザ市でイスラエル空爆の犠牲になったファーティマ・サーレムさんの家族総勢60人の遺体回収だった。サーレム家の人々は家があった北部ガザから子供たちを連れて一族全員でガザ市へ逃れ、市内に見つけた住民が退去して空き家状態になっていた雑居ビルで避難生活を始めたが、その矢先の2023年12月19日、イスラエルの空爆の標的にされて建物は崩れ落ち、中にいたファーティマさんの兄弟姉妹とその家族の全員が瓦礫の下敷きになった。それ以来ファーティマさんは「皆に会いたい、抱きしめて最期のお別れをしたい」との思いを抱きながら遺体が発見されるのを待ち続けていた。民間防衛隊は瓦礫の下からサーレム家の人々の遺体をすべて回収し、プラスチック製の遺体袋に遺骨を収納して、ガザ中部のデイル・アル・バラフの廃墟に築かれた集団墓地に移送した。ファーティマさんは墓地に埋葬される家族たちの遺体のそばに立って、2年間待ち続けた家族に最期のお別れをした。

5 ガザ住民への円滑な支援物資搬入を拒むイスラエル占領当局

 パレスチナ情報センターのウェブサイト2026年1月1日付は、エジプトと国境を接するラファの検問所における物流を管理しているイスラエルが、ガザに向けて送られてきた物資の国内持ち込みの可否を独自に選別する一方、禁輸扱いとなった物資は特定商人が輸入してガザ市場で販売するいわゆる「並行輸入方式」を採用していることを指摘した。イスラエルが禁輸扱いにした物資には、寒い雨期の季節の難民キャンプには欠かせない「発電機や雨や泥に強い金属製のテントの支柱」などが含まれており、それらを禁輸にした理由は「金属はハマースやその他の抵抗勢力が軍事目的に利用する可能性がある」からだという。また国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)ガザ支部所長代理のサム・ローズ氏は「人道支援団体が持ち込みを禁じられたものは発電機をはじめすべて市場で売られており、イスラエル、エジプト、パレスチナのそれぞれでビジネス上の利益が生み出され、イスラエルが保護する安全保障会社やその他の犯罪組織もそれらの利益の一部を得ている」ことを明らかにした。

 以上の指摘は、生存の危機に直面するガザ住民への国際的緊急支援物資の送付を妨害する組織的方策をめぐらせることで住民を餓死・病死に追いやろうとするイスラエルの企てを浮き彫りにしている。AP通信の分析データによると、ガザ住民に届けられた支援物資は停戦協定で合意された水準を大きく下回り、停戦の2025年10月10日から26年1月18日までの3カ月余りに体力の衰えたガザ住民の死者は481人、負傷者は713人に達した。また2026年になってから寒気のなか暴風雨でテントがちぎれ飛び、国連やパレスチナの報告によれば、約150万人が避難生活を強いられて少なくとも30万張りの新しいテントが緊急に必要となった。そうした中で1月1日、イスラエル当局はガザで活動する37の国際的NGOに対し、パレスチナ人スタッフの詳細情報を提供しない限り、60日以内にすべての活動を停止しなければならないと通告し、ガザ住民から重要な支え手を奪って更なる窮状へ追い込もうとした。

* * *

 以上に見てきたように、ガザ戦争停戦協定第一段階は求められていた「ガザ住民の危機回避」にはつながらず、イエローライン地域の設定というイスラエルのガザ分割占領を支えるシステムを生み出し、ハマースが求めたガザからのイスラエル軍撤退とパレスチナ人拘留者の解放の要求よりも後退したガザ占領の深化と思われる事態に立ち至った。イエローラインによるガザの分割構想はトランプ米大統領の娘婿のジャレド・クシュナーによるものである。支援物資が届かないガザ住民の飢餓・医療崩壊による死活状況は深刻度を増しているなかで、トランプ米大統領提案の「ガザ戦争終結に関する20項目計画」の第二段階の「平和評議会」が軸となっての「ガザの平和」構想の行方が不気味である。

(「世界史の眼」No.71)

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『被爆者・切明千枝子さんとの対話:私たちの復興をめざして』(彩流社、2025年)
高橋博子

 本書は著者の桐谷多恵子と被爆者の切明千枝子さんの13年間、55回にわたる対話から生まれた。年数・回数だけでなく、著者と切明さんが軍都ヒロシマ、そして戦後のヒロシマの在り方への疑問・問題意識が重なっているからこそ引き出される、切明さんの人生を辿ることができる。その問いとは「人間とはなにか」である(24頁)。

 切明さんは「私はね、戦争を通して、人間をやめたくなったんですよ」と述べ、「兵器を作って、ここまで殺し合うのは、人間だけじゃないですか。他の動物に対して恥ずかしいですよね。ほんとうに、人間ってなんなんでしょうね」と問いかける。

軍都広島

 「人間とは」という問いは抽象化された問いでもあり、また彼女の軍国主義日本と戦後の日本を通じて感じてきた具体的な体験からの問いでもある。

 「私たちは原爆で酷い目に遭いました。しかし被害の前に廣島が加害の街であったことを言わなければならないと思っています。軍都を生きてきた一人として背負うものがあります」とする姿勢に対して(46頁)、著者は「原爆の被害だけを発信するのではなく、加害の面から軍都としての歴史についても言及するべきだという切明さんの声は、歴史と向き合う勇気ある姿勢である」と述べる。

 「軍がのさばっていた時代」で体調不良の女学生が路面電車を利用したことにより学校で暴力を受けていたことなどの理不尽な体験や、その一方で服装が規制されていたなかでも、ささやかで密かなおしゃれをしていたことなどが語られる。

原爆体験

 アメリカによる広島への原爆攻撃当時、十四歳であった切明さんは、学徒動員で広島地方専売局の煙草工場で働いていたが、朝礼後足を痛めていたので病院に向かう途中、爆心から1.9キロの地点で被爆した。本書では自身の壮絶な被爆体験、また亡くなった友人を焼かざるを得なかった体験を語っている。また彼女の2人の従姉妹は生き残っても4・5日してから「高熱が出て、血を吐いた。歯茎からも血が出て、血便も続いて苦し」み、10日後には2人とも亡くなったという。さらに彼女自身が原爆症に苦しんだ体験が語られる。

 原爆投下から1ヶ月を過ぎた頃(1945年9月)になると、彼女の体調は著しく悪くなる。まず髪の毛が抜け始め、歯ぐきからの出血、血便が出て、身体に紫色の斑点が現れ、高熱に苦しめられた(74頁)。

 原爆症が現れた時、切明さんがどのような心境だったかというと「死ねば楽になれる」と思ったという。母親の看病で、急性症状については少しずつ回復していったという。原爆投下後の切明さんの心身に現れた症状について、本書ではかなり具体的ことが語られているが、冷静な筆致でありながら、切明さんの辛い体験が切々と伝わる。著者自身がさまざまな体験をしているからこそ、切明さんの原爆体験を受けとめ、伝えるための想像力があるのだと思う。

 原爆投下から1ヶ月たった頃には米軍は広島の残留放射線の影響を否定し、原爆症についての情報を軍事機密扱いにしていた。このような原爆投下当日以降も苦しむ人々の証言は、あまりにも重要である。

アメリカによる占領とその後

 本書ではアメリカによる占領期での切明さんの複雑な思いも語られる。1951年11月に開設された広島県児童図書館に希望して勤務したことで、子供の人権を大事にするアメリカの教育に触れる。

 ABCCについての体験は図書館での体験は対極的である。1948年ごろ交通事故に遭って亡くなった叔父の遺体をABCCから一晩預かりたいと申し入れられ、帰ってくると内臓がなかったこと、占領下で進駐軍には向かうことができず、叔母も了承せざるをえなかったことが語られる。

 切明さんは切明悟さんとの結婚、そして新たな教育を求めて1956年に立ち上げた「株式会社 東方出版」での出版活動によって、戦後一貫して平和・反戦そして差別問題に力を入れたてきたことがわかる(92頁)。

「私たちの復興」

 著者と切明さんとの「復興」に対する探究が興味深い。「原爆が投下される前の日常に戻れば「復興」になるのか」と問い、都市計画における「復興」と生活における「復興」との違いを問い、その上で「私たちの復興」という言葉にたどり着く。

 切明さんは語る。「大それたことではなくて、人間同士で絶対に殺し合わないこと。武器で脅しあったりしないで、お互いを信頼して、お互いに助け合って生きていくこと・・・」(182頁)。この言葉を著者は涙で受け止める。著者は「自己の悲惨な体験を、相手への「憎しみ」や「報復」で終わらせるのではなく、「二度と誰にもこのような思いはさせない」という利他性へと、長い年月をかけて醸成し昇華した思想こそ「広島の思想」の源泉ではないだろうか。(183頁)そして「大国の指導者たちが、利己性を露わにしている世界の現状の中で「力による平和」というジャングルの掟が跋扈(ばっこ)している」中で、「平和のうちに生存する権利」を訴える先頭に立つのが切明さんたちをはじめとする被爆者の方々である。しかし、残された時間はあまりにも短い」と述べる。

力による平和」への抗い

 アメリカの原爆攻撃と第二次世界大戦終了から80年にあたる2025年に、この2人の交流が本書にまとめられた意味は、大変深い。第二次世界大戦のような惨禍を繰り返させないどころか、戦後も核兵器に依存する体制や戦争は続いてきた。そして2026年の幕開けはアメリカのベネズエラ空襲と米軍特殊部隊デルタフォース投入による大統領誘拐である。危険な状態にいる人質を救出する作戦ではなく、就寝中の大統領夫妻を誘拐拉致するために米軍を投入しているのである。先住民の土地を接収することによって拡大し、中南米諸国を「裏庭」なる表現を使ってきたアメリカ合衆国。

 しかしこのようなアメリカ政府に対しても、アメリカに追随する日本政府に対しても、広島市はその責任を問うていない。それどころか公立学校の副読本から『はだしのゲン』や福竜丸の被災など米核実験についての記述を削除し、広島平和記念公園はパールハーバー国立記念館との「姉妹連携」を締結した。また新任職員はその研修に『教育勅語』を習わされる。

 著者は、まるで戦前の廣島に戻ってゆくかのような都市広島、そして長崎を対象に、その流れに抗う研究を続けてきた。本書を含めてそうした著者の研究姿勢、そして切明さんとの交流に励まされる。

 軍都広島の復活を「許す」と言うことは切明さんも著者も願うような「私たちの復興」を阻むということだと思う。アメリカの原爆を「許す」ということは力による制圧を「許す」ということだと思う。

 多くの読者が本書とともに「私たちの復興」をめざすことを願っている。

(「世界史の眼」No.71)

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文献紹介:佐原徹哉『極右インターナショナリズムの時代-世界右傾化の正体』(有志舎、2025年)
山崎信一

 2025年には、日本でも参院選で「外国人問題」を提起する政党が躍進するなどして、排外主義的主張が政治的に大きな影響力を得た。さらにこうした主張は、政府の政策にも取り入れられようとしている。社会、政治の「右傾化」は、そういう意味で日本においても感じられるものとなっているが、この「右傾化」を世界的な観点から分析しようと試みているのが、佐原徹哉『極右インターナショナリズムの時代-世界右傾化の正体』(有志舎、2025年)である。ただ、本書は2025年の日本の状況に触発されて執筆されたものではなく、著者の長期間にわたる研究をベースとしてそれを総合したものであり、刊行がこのタイミングとなったのは偶然だろうが、先見の明を示している。

 著者のこれまでの研究の中心は、民間軍事会社などを含む非正規軍(パラミリタリー)や、その暴力発現のあり方にあり、これまでにも『ボスニア内戦』(有志舎、2008年)、『中東民族問題の起源:オスマン帝国とアルメニア人』(白水社、2014年)などの優れた実証研究を世に出している。本書も同様に、バルカン各国語を含む豊富な史料に依拠している。

 まず、本書の章と節の構成を挙げる。

序章 極右勢力の世界的な台頭
第一章 カウンター・ジハード主義とは何か-サイバー空間で続くユーゴスラヴィア継承戦争
  第一節 ヴァーチャル空間の十字軍戦士
  第二節 西欧とセルビアの極右思想の共鳴作用
第二章 ジハード主義とムスリム諸国の右傾化
  第一節 ジハード主義の思想的展開
  第二節 ジハード主義の結節点としてのボスニア
  第三節 伝統的宗教勢力の保守化
第三章 我々はヨーロッパ人種だ!-欧米の極右運動と「入れ替え論」
  第一節 極右の国際テロ・ネットワークとフランス新右翼の思想
  第二節 新たな人種主義の登場-フランス新右翼思想の新大陸での展開
  第三節 反ユダヤ主義の入れ替え
第四章 ブルガリアの新自由主義経済政策と極右勢力の台頭
  第一節 ブルガリアの新自由主義
  第二節 体制変動後のブルガリア政治
  第三節 ブルガリアの極右勢力
第五章 バルカン・ルート-奴隷化される難民たちと新たな特権階級
  第一節 西欧における都市政策の破綻とイスラムの犯罪視
  第二節 難民流入とシェンゲン体制の危機
  第三節 難民の犯罪化と人種主義の制度化
  第四節 新たな身分制社会への道
終章 正解の右傾化の正体
補論 シリアのアサド政権の崩壊から分かったこと

 第一章では、反イスラムのカウンター・ジハード主義を分析の対象とし、それが、ヨーロッパ各地の極右の国際的なネットワーク構築の核となっている点を述べている。第二章では、イスラム圏におけるジハード主義をその思想的系譜を分析し、カウンター・ジハード主義とジハード主義の構造的類似性を指摘している。第三章では、極右思想が、土着性を超えて普遍性を獲得し国際的なネットワークとるメカニズムに関して述べている。また、極右とリベラリズムの親和性を指摘する。第四章では、ブルガリアを例に、社会主義からの体制転換後の新自由主義的「ショック療法」を背景として、社会格差の拡大、経済の衰退、国外への人口流出、政治腐敗の構造化が起き、それが反グローバル化を掲げる極右の台頭とどう関係したのかを分析している。第五章では、2015年の「欧州難民危機」を背景に、極右の伸長を移民の増加だけを原因としては論じられないとし、人種差別が制度化される背景には、極右と新自由主義に依拠するリベラルの利害の一致があると指摘している。また、巻末の補論では、2024年秋のシリアのアサド政権崩壊とジハード主義者の背後にトルコ、ウクライナが存在することを述べている。

 本書の分析の対象は、多岐に渡っているが、そうした多様な対象の一つの焦点となっているのが、バルカン地域の状況である。第一章ではセルビアの極右イデオロギーの展開が、第二章では、ボスニアにおけるイスラム主義の展開が、そのものとしてもかなりの紙幅を割いて分析されている。また、第四章ではブルガリアを中心に体制転換後の社会、政治の変化を扱っており、バルカン地域に関心を持つ本紹介の筆者にとって非常に興味深いものでもあった。

 終章で明快に述べられているが、本書は、結論として、扱われている諸テーマは相互に結びついた複合的なものであり、その背後にグローバル資本主義の存在があること、リベラリズムに代わり極右思想が今やグローバル資本主義にとってシステムの維持のためにもっとも適合的なイデオロギーとなったことこそが、世界的「右傾化」の本質であると指摘する。

 本書に従えば、「右傾化」とはグローバル資本主義システムの自己防衛と自己存続の過程そのものであり、今後もこうした傾向が強まってゆくということであろう。その点からすれば悲観的にならざるを得ないが、ただ、それ故に、著者があとがきで述べるように、「システムから排除される人々と、なんとかシステムに踏みとどまっている人々が協力して、負の流れを逆転させることである。連帯という言葉の意味は今後ますます重要になるであろう。」という言葉に重みを感じる。

(「世界史の眼」No.71)

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「世界史の眼」No.70(2026年1月)

2026年最初の「世界史の眼」では、木畑洋一さんに、今年刊行された小倉充夫『民主主義の躓き 民衆・暴力・国民国家』を書評して頂きました。また、米山宏史さんに、松本通孝『一世界史教師として伝えたかったこと-「私の授業」-生徒とのキャッチボール-』を評して頂きました。また、世界史寸評として、油井大三郎さんに「高市首相の台湾有事発言の時代錯誤性を批判する」を、吉嶺茂樹さんに「アジア世界史学会(AAWH)第六回ドーハ大会 参加記」をお寄せ頂きました。

木畑洋一
書評:小倉充夫『民主主義の躓き 民衆・暴力・国民国家』(東京大学出版会、2025年)

米山宏史
松本通孝『一世界史教師として伝えたかったこと-「私の授業」-生徒とのキャッチボール-』(Mi&J企画)から学び、受け継ぐこと

油井大三郎
世界史寸評 高市首相の台湾有事発言の時代錯誤性を批判する

吉嶺茂樹
世界史寸評 アジア世界史学会(AAWH)第六回ドーハ大会 参加記

小倉充夫『民主主義の躓き 民衆・暴力・国民国家』(東京大学出版会、2025年)の出版社による紹介ページはこちらです。また、松本通孝『一世界史教師として伝えたかったこと-「私の授業」-生徒とのキャッチボール-』(Mi&J企画、2025年)のamazon.co.jpのページはこちらです。

世界史研究所は、2026年も更なる活動の充実を図って参ります。どうぞよろしくお願い致します。

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書評:小倉充夫『民主主義の躓き 民衆・暴力・国民国家』(東京大学出版会、2025年)
木畑洋一

 日本を代表するアフリカ研究者として、数々の研究を積み重ねるとともに、すぐれた後継者たちを育ててきた小倉充夫氏が、『自由のための暴力 植民地支配・革命・民主主義』(東京大学出版会、2021年)という挑戦的な論文集を出版してから、わずか4年の間を置いただけで、これまたきわめて刺激的な著作である本書を世に送り出した。いずれもA5版で300頁になんなんとする本であり、現代世界を見通していく上で鍵となる問題について、著者が全力で取り組んでいる様相をよく示している。そこでの視角の中心を占めるのは、二著のタイトルに共通してあらわれる暴力と民主主義という問題だといってよいであろう。そして、暴力や民主主義を論じるに際しての著者の立場の特徴となるのは、前著の副題に出てくる植民地支配という要因にあくまでもこだわるという点である。アフリカ研究者としての著者の強みがその点で十分に発揮されるわけであり、それがこれらの本の価値を高めている。

 このことは、本書について特に言えるであろう。民主主義がいかなるものであり、あるいはそれがどのようなものと考えられ、現代世界においてどういった様相を呈しているかについては、実にさまざまな検討がなされてきている。とりわけ、近年になって各国で民主主義の危機が叫ばれるようになってからは、『民主主義の死に方』といったセンセーショナルなタイトルを掲げた本などもあらわれるように、民主主義についての議論はかまびすしいものがある。しかしそのほとんどの場合、検討の対象となるのは、欧米の「先進国」や日本であり、韓国や台湾など独裁体制から民主主義的体制へと劇的な変化をとげた国々も着目されることがあるものの、それ以外の国、とりわけアフリカ諸国の状況はごく付随的にしか扱われない。それに対して、本書ではアフリカの経験が大きな比重を占め、とりわけザンビアの事例が随所で詳しく論じられる。

 本書の第1章「永続的な革命としての民主化」に、そうした本書の特色はきわめてよくあらわれている。著者は、「はじめに」で述べるように「民主主義は完成されることはなく、新たな課題を克服すべく絶えず発展してきたし、発展していくべきものと考えることができる」(5、以下カッコ内の数字は本書の頁数)という視点に立った上で、人々が民主主義に期待するものが時代によって変化してきたこと、その期待が既存の民主主義に対する挑戦の形をとってあらわれることを重視し、その具体例として西欧諸国における1968年前後の諸運動をあげる。代議制民主主義に疑問が投げかけられ、直接民主主義を追求する動きが台頭した時期として「1968」に注目することは、民主主義を論じる上でとくに珍しいことではない。ただ普通は、フランスの場合を軸に据えながら、「プラハの春」など東ヨーロッパも視野に入れてヨーロッパ諸国の状況を論じ、米国でのベトナム反戦運動や黒人の動きに言及し、日本のことにも触れる、といった形で議論が完結するのではないかと思われる。しかし本書の場合、そのような国々の検討を受ける形で「同時代のアフリカ」についての考察がなされるのである。

 1968年のアフリカといえば、多くの国々が独立直後であり、植民地主義からの完全な脱却と人々の生活水準の向上という二つの課題をかかえるなかで、それを実現するための体制を模索していた。代議制民主主義は、アフリカにおいては、それまでの植民地支配国がいわば遺産として残していった体制であったが、その形が問われるなかで、複数政党制を否定し一党制に向かう方向性が目立つようになった。アフリカ諸国のこうした変化は、従来、民主主義の後退、権威主義化の動きとして解釈され、欧米の「1968」とはベクトルが全く異なるものとして論じてこられたが、それが本書では、代議制民主主義の意味の問い直しという点で欧米の「1968」と同じ地平で検討されているのである。

 その場合に最も重要な検討対象とされているのは、ジュリウス・ニエレレが指導したタンザニアである。政治的独立後の課題に取り組んでいくためには、人々の団結を脅かす複数政党制は危険であり、一党制の方が現実に合うという議論をニエレレは展開した。こうした主張を、植民地支配に伴う人工的な境界線引きの結果作られた国家領域のまま独立したアフリカ諸国の状況を重視する著者は、肯定的に受けとめる。そして、「普遍的人権を保障する政治制度についてみれば、各政治共同体成立の経緯や社会経済的条件の相違に応じて、特定の時点における制度の選択には様々な可能性があると考えるべき」(52)であると、「1968」の文脈にアフリカ諸国を位置づける際の基本的視座が再確認される。「1968」のアフリカ諸国にどのような「選択の可能性」があったかについては、より立ち入った検討が必要であるという感は残るものの、こうした柔軟な視点はきわめて重要である。

 著者は、本書のタイトルとした「民主主義の躓き」をもたらしている要因として、サブタイトルにある民衆、暴力、国民国家という三つの要因を指摘し、それらは民主主義の内部に存在しているとしつつ、今紹介した第1章につづく三つの章でそれぞれに関する議論を展開する。この内、第3章「民主主義の暴力」と第4章「国民国家の民主主義」では、アフリカについての考察が議論の中心に置かれることになる。

 第3章で著者は、構造的暴力への反抗としての暴動や社会的分断がもたらした暴力にまず着目する。構造的暴力の最たるものは植民地支配であったし、植民地から独立して新たな国家を形成する歴史的経緯から社会的分断を免れがたかったアフリカ諸国についての検討が、まさにこうした議論の核となる。ここで著者は、自身がザンビアの首都ルサカで約20年の間隔をおいて行った社会調査の結果に拠りながら、若年齢層を中心とするアフリカの都市住民の存在態様と意識についての分析を行っている。

 第3章ではさらに、20世紀末にアフリカ諸国があいついで民主化(「第三の民主化」)を遂げて複数政党制が導入されるようになった後の、「民主化に伴う暴力」も注目されている。複数政党制のもとで選挙が実施されるなかで暴力が誘発されていったわけであるが、それについて著者は、第1章で扱われた独立直後の状況とは異なって、民主化を推進していった外部要因(欧米諸国の援助政策の変化など)も十分考慮に入れる必要があるとしつつ、さまざまな国の例に言及する。そうした考察を踏まえた上で、著者は、「植民地主義・帝国主義によって作りだされた対立を克服し、構造の歪みを解消する運動が今日いたるところで噴出している」(161)と、民主主義のもとでの暴力の歴史的背景に改めて注意を促し、民主化を論じる際にそうした歴史が忘却されることに警鐘を鳴らすのである。

 第4章で問題とされる国民国家に関しても、検討の中心はアフリカに置かれる。ここで評者が最も注目した文章は次のようなものである。「[欧米では]代議制の展開は階級闘争の歴史でもあった。ところが植民地では北ローデシアの例から分かるように、代議制をめぐる対立は優れて人種差別、異民族支配とかかわる問題であった。議会や選挙権の問題は民族解放の問題であり、生れつつある国家の主体は誰なのかという問題であったといえる。」(195)植民地支配を脱して民族解放を達成した国々は、支配国によって恣意的に引かれた国境線のもと、国民国家として多くの問題をかかえており、「国家の主体は誰なのか」ということを追求するなかで、民主主義の躓きを経験してきたのである。「近代国家における国民形成とは、支配的民族への同化の進行というのが実態であった。ところが良かれ悪しかれ同化の中核となるべきものが、存在しないか、自明でない場合が旧植民地には多い」(221)という指摘が、問題の核心をついている。そうした条件を生んだ植民地主義という歴史的背景の重みにここでも気づかされる。

 第3章にせよ第4章にせよ、著者が取りあげる論点は多岐にわたっており、ここでの評者による紹介はその一部をすくいあげたものにすぎない。著者は欧米における事例や民主主義論にも広く眼を配りつつ、アフリカの問題を位置づけているが、その豊富な内容はここでは扱いきれない。そうした第3章、第4章の内容と比べた場合、民衆という要因を対象とした第2章では、民衆・大衆に関する欧米での議論(ジョン・スチュアート・ミルやオルテガ・イ・ガセットなど)の丁寧な検討や、代議制民主主義を補いうる制度としてのくじ引き制の考察など、これまた豊かな中身をもつものの、話題が欧米の事例に集中し、アフリカ(さらに他の非欧米世界も)への言及がなされていない。これは、本書を通読した後、評者が最も不思議に思った点である。すでに紹介したように、著者はアフリカでの社会調査を通してアフリカ民衆の声に直接接する体験などをもっているわけであるが、その知見は第2章での議論に生かされなかったものであろうか。第5章「失われた確信と新たな試練」、終章「未完の民主主義」で、現在における民主主義の後退の様相、デジタル技術の進歩とも関わる未来への展望が、アフリカの事例をも踏まえながら語られていることからも、本書のなかでの第2章の特異性が目立つのである。

 最後はないものねだりの書評となってしまったが、そのことが本書全体の価値を下げるものでないことは、強調しておく必要があろう。グローバル・サウスの考え方や動向がさまざまな局面で注目されている今、アフリカを視野の中心に据えて、植民地支配下にあった歴史的背景を常に念頭に置きつつ、独立後の模索の過程から、冷戦終結に連動する「民主化」の様相を経て、21世紀の現在までの民主主義の変遷を論じる本書がもつ意味は大きい。著者は、あくまでも「民主主義の躓き」について議論しているわけであり、「躓き」から立ち直れば、民主主義の将来はまた開けるというのが基本的な展望であろう。ただそのためには、民主主義の状況を傍観する姿勢は許されない。「闘うしかないことを覚悟するところから希望の光が生まれる」(279)という本書を結ぶ一文の意味は重い。

(「世界史の眼」No.70)

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