芥川龍之介は1917年(大正6年)に発表した短編『西郷隆盛』において、「ウオルタ・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話」というものに触れている。そこでは、「およそ歴史上の判断を下すに足るほど、正確な史料などと云うものは、どこにだってありはしないです。誰でもある事実の記録をするには自然と自分でディテエルの取捨選択をしながら、書いてゆく。これはしないつもりでも、事実としてするのだから仕方がない。と云う意味は、それだけもう客観的の事実から遠ざかると云う事です。・・・ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話なぞは、よくこの間の消息を語っている。あれは君も知っているでしょう。」と出てくる。(『芥川龍之介全集』2、ちくま文庫、1986年、107ページ)
この短編『西郷隆盛』は、西南戦争を卒論で扱おうとする大学生と、一老人が、西郷隆盛が城山で戦死したことの真偽をめぐって対話をし、老人が、西郷がそこで死んだという決定的な証拠(史料)はないのだから、それは確定できないことであるとし、歴史はそのように史料で客観的に確定できないことが多いから、自分は歴史よりも文学を選ぶのだという話になっている。「ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話」というのは、「ウオルタア・ラレエ」が「客観的な事実」というものが何かが分からなくなって、その世界史の原稿を途中で破棄してしまったという話である。
この話を歴史の面から考えてみると、二つのポイントがある。
ひとつには、「正確な史料」などないのだ、「事実の記録」には人は「ディテエルの取捨選択」をするのだという記述から、この1917年の時点で、すでに歴史における史料の重要さ、その確定の難しさ、史料に入り込むバイアスということが、考慮すべきことになっていたということが知りうる。欧米の歴史学では、ランケの史料批判の方法が広がっていて、こういう考慮は当然のことになりつつあった。ただ、それを超えて「懐疑主義」的になるまでは行っていなかった。欧米の歴史学の分野では、管見の限りでは、フィッシャーの『ユニヴァーサル・ヒストリー概論』(1885年)などに、そういう「懐疑主義」にまで行く必要はないという方法論が述べられている。だが、文学や哲学の分野では、そういう「懐疑主義」はひろがっていたのかもしれない。アナトール・フランス『エピクロスの園』(1895年)のなかの「歴史」というエッセイに見られるような「歴史」への「懐疑主義」が広がり始めていたのかもしれない。『エピクロスの園』のなかの「歴史」において、アナトール・フランスは、「公平な歴史というものがあるだろうか」と問い、結局、「歴史は科学ではない。芸術である。歴史においては想像力によってしか成功できない。」と言っている(『エピクロスの園』岩波文庫、96-97)。芥川は、アナトール・フランスの影響を強く受けていたから、この『エピクロスの園』などを読んでいたとすれば、そこから懐疑主義を取り入れていたとも考えられる。芥川も、『西郷隆盛』の最後において老人に、「僕は歴史を書くにしても、嘘のない歴史なぞを書こうとは思わない。ただいかにもありそうな、美しい歴史さえ書ければ、それで満足する。」といわせている(『芥川龍之介全集』2、111ページ)。
もうひとつは、「あれは君も知っているでしょう。」といっている点である。「あれ」というのは、「正確な史料」などはないから「ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話」ということであろう。そうすると、当時たんにウオルタア・ラレエの名前だけでなく、またかれの『世界の歴史』だけでなく、かなり重要な内容が知られていたということになる。しかし、ウオルタア・ラレエの『世界の歴史』もそれが中途で終わったという話も、すでに日本に知られていたのかというと、管見の限りでは、見当たらない。ちなみに、ウオルタア・ラレエ自身について、当時どの程度知られていたのかを調べてみると、かれについては、夏目漱石の『倫敦塔』(1905年)という短編に出てくる。そこには、「階下の一室は昔しオルター・ロリーが幽囚の際万国史の草を記した所だと云い伝えられている。」と出てくる。だが、ここで「オルター・ロリー」がなんの説明もなく出てくるということは、すでに「オルター・ロリー」については、日本で知られていたということであろうか。ただし、漱石は、「オルター・ロリー」が万国史を途中で放棄したということは書いていない。
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さて、サー・ウオルター・ローレイは1614年に『世界の歴史』を書いている(いや途中まで書いた)1。17世紀には、神の摂理によって歴史を見るキリスト教的な「普遍史」に対し、合理主義的批判が始まってはいたが、まだその批判が対案を示せていない時代であった。そのような時代に、キリスト教の立場から書かれた世界史のひとつがこれであった。
周知のように、ローレイは、エリザベス女王(在位1558~1603年)の廷臣で女王の寵愛を受け、イギリスの植民地政策の先頭を切っていた。しかし、かれは「スペインのスパイ」であるというので、1603年に告発され死刑の判決を受けたが、国王ジェイムズ(在位1603~25年)は最後に恩赦を与え、かれをロンドン塔に幽閉させた。かれはここに1603年から1616年までの13年間を過ごすことになる。まさにこのロンドン塔に幽閉されているときにかれは『世界の歴史』を書いたのである。1616年に釈放されてすぐにかれはギアナへ遠征に出かけたが、これもスペインとの関係を疑われて、1618年にふたたび逮捕され、裁判なしに処刑が決定され、執行された。
かれの『世界の歴史』は全部で4巻からなり、第一巻は、世界の創造、アダムとエバ、「ノアの洪水」、ノアの子孫による地球の植民と最初のネイション、政府のはじまりなどからなり、第二巻は、出エジプト、モーゼの律法、イスラエルの初代王(ダビデ、ソロモンなど)、第三巻は、ペルシア帝国、ペロポネソス戦争、ギリシアからなり、第四巻は、マケドニア王国、ポエニ戦争、マケドニアとローマの戦争で終わっていた。さらに二巻を書いて近代までを扱うはずの予定であったが、第二次マケドニア戦争のところで急に終えてしまっていた。
それは、古い歴史から新しい歴史への「移行期」の産物であった。かれは文書に依拠しようとする一方、神の摂理をも明らかにしようとしたのである。ローレイの『世界の歴史』は、イギリスのみならずヨーロッパにおいても、時間と空間の双方において世界史というべきものが目指されるなかで、本格的な世界史としては、最も早い著作であるとしばしば言われる。ローレイの『世界の歴史』は完全に聖書に忠実な「普遍史」ではなく、キリスト教の世界からすると、ある意味では「問題作」であった。ローレイは、聖書に基づいて世界史を論じているが、すべての論点について、諸説を突き合わせており、事実上、聖書にそのまま基づく「普遍史」に深刻な疑問を呈しているのである。かれは史料を重視したから、史料をコピーさせたり、借り出したりして、書いたという。これはルネサンスを経た時代の合理的な思考の表れであり、「普遍史」の「危機」の現れでもあった。その意味で、この本は重要な意味を持っている。
かれが『世界の歴史』を途中で放棄した理由はいろいろと考えられている。通説によれば、かれの後援者でかれを救い出そうと努力していた若きヘンリー皇子が1612年に没したので、ローレイは落胆し、さらに二巻を書いて近代までを扱うはずの予定を放棄してしまったといわれる。たしかにそれは、皇子に捧げられていた。しかし、他にも説があり、定説はない。
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さて、このローレイの『世界の歴史』はいつどのように日本に入り、芥川らの読むところとなったのだろうか。明治期には欧米の世界史がつぎつぎと翻訳され、「万国史」などとして出版されていたが、筆者がこれまでに見た限りでは、ローレイの『世界の歴史』が紹介されたのは、アメリカのジョージ・フィッシャーの『ユニヴァーサル・ヒストリー概論』2(1885年)を通してではなかったかと考えられる。かれは1852-54年にドイツへ行って、神学を学ぶとともに、歴史研究の方法を徹底的に学んでいた。かの本は、ランケ以後のドイツ史学の方法を学びつつ書かれた世界史で、19世紀の欧米での「世界史」の形成の一つの頂点をしめしている。これは日本にも紹介され、大きな影響を与えることになる。長沢市蔵『新編万国歴史』1893年(明治26年)はその要訳であった。ランケやブルックハルトの世界史が未だ紹介されていない日本において、このフィッシャーの世界史は、19世紀末のヨーロッパでの「世界史」をその方法と構成において最も忠実に日本へ伝えたものであった。フィッシャーは、ランケにならって史料の重要さを説くが、この史料の重要性を考えるあまり、歴史に「懐疑的」になることも批判していた。
興味深いことにここで、ウオルター・ローレイの『世界の歴史』の話が出てくるのである。ローレイがロンドン塔に幽閉されて、『世界の歴史』を執筆していたとき、牢獄の中庭で大騒ぎが起こった。かれが、その騒ぎに関係した人たちから聞いたところによると、その説明にはあまりに多くの矛盾があって、本当のところを確認することができなかった。そこで、かれは、このような狭い場所に起きている出来事さえ確定できないのだから、この広大な世界という舞台に起きていることを描くということは無駄なことではないかと考えた、というのである。それは懐疑的すぎるとフィッシャーは言うのである。
これはひょっとしたら、芥川龍之介が『西郷隆盛』(大正6年)において述べていた話のネタなのかもしれないと思ってしまう。しめたと思って調べてみると、フィッシャーの本の抄訳である長沢市蔵『新編万国歴史』ではこの史料論のところが翻訳されていないのである。とすると、芥川は夏目漱石から学んだのだろうか。あるいは東京帝国大学文学部で学んでいるときに英語で読んだのだろうか。そこでの大塚保治の美学講義で語られていたのだろうか(小谷瑛輔氏のご教示)。さらには、かれのよく通った漱石主催の「木曜会」での話題だったのだろうか(木村英明氏のご教示)。今のところ、これは疑問のままにしておくしかない。ともかく、芥川龍之介『西郷隆盛』の中には、世界史がうごめいているのである。
注
(「世界史の眼」No.4)