月別アーカイブ: 2020年8月

『人口と健康の世界史』が刊行されました

ミネルヴァ世界史叢書8『人口と健康の世界史』(責任編集 秋田茂・脇村孝平)が刊行されました。構成は以下の通りです。

 序章
第Ⅰ部 人口の世界史―「人口転換」論を超えて
 第1章 狩猟採集社会の人口学的分析
 第2章 近代に向う人口と環境
 第3章 近世日本の人口戦略
 コラム1 梅毒
 第4章 アイルランド大飢饉
 第5章 ジェンダーとリプロダクションからみる中国の人工史
 第6章 現代アジアの少子高齢化
第Ⅱ部 健康の世界史―「疫学的転換」論を超えて
 第7章 疫病と公衆衛生の歴史
 コラム2 ペスト
 第8章 工業化・都市化と結核
 第9章 ハンセン病の社会史
 第10章  精神医療の歴史学とその射程
 第11章  眠り病と熱帯アフリカ
 第12章  コレラと公衆衛生
 第13章  フィラリアの制圧と20世紀日本の熱帯医学
 第14章  「帝国医療」から「グローバル・ヘルス」ヘ
 コラム3 感染症対策におけるCDCの大きな存在感

今日のパンデミックを考えるにぴったりの世界史です。

ミネルヴァ書房の紹介ページはこちら

カテゴリー: お知らせ | コメントする

「世界史の眼」No.5(2020年8月)

「世界史の眼」も第5号を迎えました。木畑洋一さんには、今年出版された、パトリック・マニングのA History of Humanity(『人類の歴史』)を紹介して頂きました。南塚信吾さんには、神川松子と測機舎に関する論考をお寄せ頂きました。今号より6回に分けて連載する予定です。

木畑洋一
新刊紹介:人類システムの鳥観図―Patrick Manning, A History of Humanity: The Evolution of the Human System, Cambridge: Cambridge University Press, 2020

南塚信吾
神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その1)(全6回の予定)

コロナ禍は未だおさまらず、今までにない夏を迎えています。また長い梅雨が続き、水害に見舞われた地域も多くあります。皆さま、どうぞお気をつけてお過ごし下さい。

カテゴリー: 「世界史の眼」 | コメントする

新刊紹介:人類システムの鳥観図―Patrick Manning, A History of Humanity: The Evolution of the Human System, Cambridge: Cambridge University Press, 2020
木畑洋一

 パトリック・マニング氏の名前は、世界史研究所にとっては馴染み深い。近年世界史研究を牽引してきたマニング氏は、アジア世界史学会を強力に支える力となってきたし、氏の著作『世界史をナビゲートする――地球大の歴史を求めて』は世界史研究所の南塚信吾所長と渡邊昭子さんによって邦訳され、2016年に刊行された。同書の紹介は、旧世界史研究所ニューズレターの第27号で木村英明氏によって行われている。

 そのマニング氏による壮大な世界史の鳥瞰図が、ここに紹介する『人類の歴史』である。『世界史をナビゲートする』において、世界史に迫る上でのさまざまな切り口や方法を論じた氏が、その豊かな素養(大学では自然科学を学び、研究者としてはアフリカ史、経済史を専門とし、さらに人類学、人口学、言語学なども修めたという)を生かしながら、自らの世界史像を提示した成果が本書である。以下、本書の議論をごくかいつまんだ形で紹介してみたい。

 本書執筆に当たっての著者の動機はきわめて鮮明である。現在人類は、環境の劣化、社会的・経済的不平等という、自然との関係、社会関係での危機に直面しているばかりでなく、それに対応していくための知の不足という文化的な危機をも抱えている。こうした三つのレベル(生物学的、社会的、文化的)での危機を乗り越えていくためには、人類がシステムとして過去にどのような変化を経験してきたかを問う必要がある、というところから人類史への著者の問いかけが始まるのである。ここでいう人類システムとは、環境との間での物質のやりとりを行う開かれたシステムであり、外的・内的影響力によって変化する歴史的・適応的システムである。『世界史をナビゲートする』においてマニング氏はルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィの開放システム論を紹介しながらも、歴史家によるその適用はこれまで大きな成功を収めていないと述べていたが、本書では自らその枠組みを分析の基本に据えているのである。

 本書での議論の対象となる時代は、7万年前からである。第1章で問題意識や方法を述べた後、第2章では400万年前から7万年前までを取り上げているが、それは第3章以降の前提となっている。7万年前頃に急な変化が生じ、人類システムが始まるのである。その変化とは、言語(speech)の獲得である。他人とのコミュニケーションを可能にするシンタックスをもった言語は、人類にとっての最初の社会制度(social institution)であったと著者は言う。言語を共にする共同体の形成、さらにそうした人々の移動によって、それ以降の人類史は進んでいくことになる。その際、著者が重視するのは、特定の目的のために人々が形成する制度(institution)であり、またそうした制度を伴う人の移動(migration)である。

 変化の時代(7万年前~6万5千年前)を扱う第3章に続いて、第4章以降は次のように時期区分されている。

第4章(6万5千年前~2万5千年前:アフリカから現在のジャワ島方面やオーストラリア方面への人類の移動、言語をもつ共同体の拡大)
第5章(2万5千年前~1万2千年前:寒冷化の時代を経た後に移動範囲の拡大、アメリカ大陸へも人類の移動、生産活動の拡大とそのための共同作業の場workshopの形成)
第6章(1万2千年前~1千年前)これはさらに次の3期に分けられる。
  ① 1万2千年前~6千年前:農業、牧畜の展開、居住制度(town)の発達
  ② 6千年前~3千年前:宗教をも含むさまざまな共同作業の場の発展、大規模な移動
  ③ 3千年前~1千年前:諸制度(通貨、教育、軍隊、水利、宗教、帝国)の発達
第7章(1000CE~1600CE:移動に伴う病原菌の拡大、戦争などで人類システムは衝突・収縮、宗教でも亀裂など)
第8章(1600CE~1800CE:人類システムは成長軌道に復帰、商業の発達、植民地拡大、資本主義とそれに基づく帝国の拡大)
第9章(1800CE~現在:環境、社会・経済の現在の危機への道、脱植民地化)

 こうして現在までの人類システムの変化が論じられた後、第10章においては、同じく1800年以降の時期に即して、三つの世界的なネットワークが広がってきたことの意味が強調される。いずれも世界にひろがる、民衆文化、知、民主主義的言説という三つのネットワークである。その際著者が第9章に続いて脱植民地化の意味を改めて強調し、人類システムの主体としてかつて植民地支配の下にあった人々の役割を重視していることに注目したい。

 人類の歴史をこのようにたどってきた上で、著者は最後のところで、①成長は人類システムに必要か?②社会的不平等は人類システムに必要な側面か?③社会制度の作動はどのような形で統制されるべきか?という問いを読者に投げかけて本書を終える。著者は人類の将来についての予想を明言しているわけではないが、そうした問いに答え、本書執筆の前提となった現在の危機を克服していくための戦略を考えていく上で、本書のような形で人類システムの「進化」の様相を検討するといった知的営為が積極的な意味をもっていることが、本書からの強いメッセージとなっているのである。

(「世界史の眼」No.5)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その1)
南塚信吾

神川松子というと、日本の女性運動史の中では、いくらか知られた女性であろう。平民社と関係して、社会主義的な女性運動を担ったことで知られる。彼女は西川末三という人物と結婚して、台湾に渡り、帰国してからはロシア文学の翻訳などをしていたが、1920年に、二人はロバート・オーエンらの思想を取り入れた労働者の自主管理生産協同組合「測機舎」を樹立、ユニークな組合を成功させた。

これまでの女性運動史の中での神川松子研究についていえば、鈴木裕子の先駆的な研究をはじめとして、松子の社会主義への傾倒とその発言、社会主義者との交友が論じられてはいるが、彼女がどのようにして、どのような社会主義的思想を吸収したのかは問題にされていない。また、松子の結婚以後の測機舎時期は、「転向」として位置付けられ、ほとんど語られることはない。だが、ここには社会主義を実世界において具体的に生かそうという試みを見ることができるのではないだろうか。

一方、測機舎については、これまでは関係者の回想録が中心であったが、近年、樋口兼次が「ワーカーズ・コレクティヴ」の先駆けとして測機舎を扱う研究を出して注目される。しかし、これは逆に、測機舎以前の西川末三の経歴や、末三と結婚する以前の松子の経歴を見ていないのであり、突然あのような独特の組織が生まれたことになっている。台湾で「修行時代」を経験した西川末三は、松子の生き方に共感し、社会主義の面でも、女性の地位向上の面でも、松子を懐深く応援し、その中で松子と共にユニークな組合組織「測機舎」を作ったのである。

本稿は、松子の社会主義思想と末三の台湾体験の総合として「測機舎」を位置付けようというものである。そして結論を先走りして言うならば、測機舎は、いわば当時の「世界史」のある「傾向」が凝縮されている一つの姿と考えることができるのである。

1.神川松子と平民社

神川松子は1885年(明治18年)4月28日に、広島市に広島藩士神川渉・サトの六女として生まれ、ミッション・スクールである広島女学校(現、広島女学院)で学んだ。負けん気で自由奔放な女学生であったらしい。1903年に日本女子大学に入学し、平塚らいてうと同学年であったが、すでに社会主義に関心をもっていた松子は、女子大の良妻賢母型の教育に合わず、1年で退学、青山女学院に入学しなおした(鈴木『広島県女性運動史』24頁)。どういうきっかけで社会主義に関心を持ったのか、興味のあるところである。このころのことを、松子は「私は生まれながらに女らしくない云はば大のお転婆娘で・・・短い袴を穿いて手織木綿の筒袖を着て肩をいからかして大道狭しと闊歩し」ていたと自ら回顧している(松子『測機舎を語る』237-238頁)が、社会主義との接点についてはなにも示唆していない。

この間1903年11月に平民社ができていた。松子は、在学中に大塚の平民社に出入りするようになり、幸徳秋水、堺利彦らと交流し、1904年1月に平民社によって「社会主義婦人講演会」が開かれるようになると、木下尚江らとともにそれに積極的に参加し、同年11月には、そこで初めて講演を行い、「真に一身を献じて社会の為に尽くすツモリ」であると語っていた。05年4月にも石川三四郎、堺利彦、木下尚江らに交じって、松子も「独身に対する我見解」と題して講演し、この腐敗した社会を救うために身を挺し、スイートホームの楽しさを捨てる覚悟であると述べていた。この講演会のことは、1905年4月23日号の『直言』に紹介され、「松子氏は青山学院の生徒にして年未だ二十歳に過ぎざれども」その告白は人々を感動させたという。これは「神川松子」の名前が文献上で最初に現れた機会であった(鈴木『広島県女性運動史』31-32頁;吉田「新しい女」79頁;『明治社会主義史料集』第1集『直言』、1960年、87頁)。

figure1

figure2

日露戦争が終わった05年10月、弾圧によって平民社が解散したあと、松子は、07年1月に福田英子、石川三四郎らによって創刊された社会主義婦人機関紙『世界婦人』を拠点に活動を続けた。女性の解放は社会主義によらねばならないとするこの機関紙は、世界各国における女性解放運動や社会主義運動についての情報を載せて、女性の解放を世界的な視野で論じていた。この雑誌には、安部磯雄、堺利彦、幸徳秋水をはじめ多くの男子社会主義者が協力していた。二葉亭四迷も「二葉亭主人」という名で寄稿していた。松子はここに木下尚江らと並んで、大小15本の文章を載せている。当初は詩が多く、詩に託して女性の解放を求めていたが、女性の自立をどう確保すべきかをめぐって、遠藤友四郎との論争を繰り広げる中で、いくつもの記事を書き、松子なりの女性解放の理念を整理していった。それが、「おこがましくも玉郎兄に」第九号(1907年5月)や「婦人解放管見」第十二号(6月)や「世界婦人の見地」第十九号(11月)や「口吻余滴」第二十一号(1908年1月)などであった。この論争の詳細は先達の研究に委ねることにして、この論争において、松子は、女性は「奴隷的境遇」、旧来の道徳、旧習慣を脱して、人としてまた女子として「自由の権利」を獲得するには、先ず「経済上の独立」を得なければならないと主張した。松子は、社会の変革が実現すれば女性も解放されるのだという考えに対して、社会変革の前に女性の自由の獲得が大事なのだと主張したのであった。そして、社会の革命は「我ら婦人の自覚より生ずる新生命の力」によってこそなされるのだと言うのだった。1908年1月の「口吻余滴」には、「我々が此世に生まれて来たのは、決して男子の玩弄物ならむがためではない。何処までも自己の個性を発展せしめて、人として将た女性として自己の価値を認めむと欲するにあるのだ」と書いていた。これが『世界婦人』上の松子の最後の論説であった。この間、松子は、『世界婦人』から世界の女性解放や社会主義についての多様な情報を得た一方、日本にある社会主義文献を読み、とくにフランス革命に強い関心を示していたという。世界的な視野をもつ女性活動家に成長していったのである。後年、松子は『青鞜』に集った平塚らいてうらの近代的女性=「新しい女」に先立つ「新しい女」であったと評価されることになる(このあたりの詳細は、鈴木『広島県女性運動史』38-43頁;吉田「新しい女」80-82頁;『明治社会主義史料集』別冊『世界婦人』)。

では、この時期に「日本にある社会主義文献」とはどういうものがあったのか、これは後に見ることにして、この時期に松子が関心を持った日本での社会主義の様子はどうであったのだろうか。今日からはこう見られている。

「一九〇〇年前後から一九二〇年代前半までが日本における「初期社会主義」 の時期であるが、初期社会主義には、多様な人物がおりなす人間関係のおもしろさと可能性を秘めた未分化の思想状況があった。 そして、幸徳秋水、石川三四郎、安部磯雄、片山潜、大杉栄、神川松子、伊藤野枝、管野スガ、堺利彦、荒畑寒村等々、 思想との葛藤に生きる人間の魅力が人をひきつけて離さないものがある。 しかし一九二〇年代後半以降、星雲状態であった思想がそれぞれに分化し、分立した組織が確立し、ときとしては コミンテルン等の国際的権威により思想の独自的発展の契機が失われ、人間が組織に埋没しがちな状況となった」(石川捷治「社主義者における『性』と政治―日本の一九二〇〜三〇年代を中心として―」『年報政治学』2003年54号 163頁)。

 こういう魅力的な「初期社会主義」の真っただ中に松子は飛び込んだのである。

松子はいつからか確定できないが、東京朝日新聞に勤めていた二葉亭四迷に師事していて、かれにロシア語やロシア文学を学んだ(鈴木『広島県女性運動史』56-56頁は、1907年の『世界婦人』創刊前後かという。また『大阪平民新聞』の1907年10月20日号には、「神川松子氏、深く思ふ所ありて、此の頃某露国婦人につき専ら露西亜語の研究中」と記されているという。西川末三『測機舎と共に』(6頁)にある末三の記憶によると、松子は青山女学院での勉学中に、英語のほかにロシア語も学び、長谷川二葉亭に師事したのだという)。1908年6月に二葉亭四迷はロシアへ派遣される(1909年5月にベンガル湾で客死)が、出発の前に二葉亭四迷は昇曙夢に松子を紹介している(松子『測機舎を語る』240頁)。

しかし、松子は、まもなく、その6月22日の「赤旗事件」で、荒畑寒村、堺利彦、山川均、大杉栄、菅野すが、大須賀さと子などとともに検挙された。この「赤旗事件」というのは、神田の錦輝館で社会主義者たちが開いた山口孤剣(義三)の出獄祝いの際、荒畑らが赤旗を掲げて街頭に出て警察に捕まったという事件である。松子はのちに神野すがと共に神田署へ面会に行って捕まったのであった。裁判は8月18、22日に行われ、29日に判決が言い渡された。幸い、松子は菅野すがとともに無罪とされた。この時、松子は公判で堂々と論陣を張って、逮捕の不当を主張し、一躍有名になったという(<赤旗事件公判筆記> 『熊本評論』29号、1908年8月20日)。松子は拘留を解かれた後9月に広島に帰るが、11月には上京、柏木辺に落ち着いた。広島にいた間、および上京後の松子の行動はよくわかっていない(鈴木『広島県女性運動史』47頁は「不可解」という)。しかし、「29日間の独房生活」は、「彼女の心境に大きな変化を与えたに違いない」と、のちに末三は回顧している(末三『測機舎と共に』7頁。29日間の独房生活というのは不明)。

その後、09年に西川末三と結婚して、台湾に渡るのである(以上、より詳しくは鈴木『広島県女性運動史』11-47頁)。

【続く】

figure3
(9月に広島に帰った際、姉妹と撮った写真)

参考文献
著書
西川松子『測機舎を語る』測機舎(私家本)、1935年
西川末三『測機舎と共に』(私家本)、1968年
鈴木裕子『広島県女性運動史』ドメス出版、1985年
鹿子木直『いのちの軌跡』朝日カルチャーセンター、1994年
樋口兼次『労働資本とワーカーズ・コレクティブ』時潮社、2005年
折井美那子・女性の歴史研究会編『新婦人協会の人々』ドメス出版、2009年
測機舎技術史編集委員会『輝きの日々―測機舎技術へのレクイエム―』測機舎技術史編集委員会、2012年

論文
鈴木裕子 「広島の生んだ最初の女性社会主義者・神川松子の生涯」『広島市公文書館紀要』第3号(1980年3月)
鈴木裕子 「再び神川松子について」『広島市公文書館紀要』第6号(1983年3月)
大木基子「神川松子論ノート-「婦人公論」の寄稿を中心に-」『高知短期大学 社会科学論集』第46号(1983年9月)
吉田啓子「「新しい女」以前の「新しい女」といわれた神川松子」『名古屋経済大学 人文科学論集』第90号(2012年11月)
『明治社会主義史料集』第1集『直言』、労働運動史研究会、1960年
『明治社会主義史料集』別冊『世界婦人』、労働運動史研究会、1960年

(「世界史の眼」No.5)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする