月別アーカイブ: 2020年9月

『国際関係史から世界史へ』が刊行されました

ミネルヴァ世界史叢書3『国際関係史から世界史へ』(責任編集 南塚信吾)が刊行されました。構成は以下の通りです。

序章 国際関係史から世界史へ
第Ⅰ部 帝国主義の時代
第1章 アヘン戦争・明治維新期の世界史
第2章 二つのベルリン会議の時代
第3章 「1900年」の国際関係と民衆
コラム1 朝鮮から見る-1900年
第Ⅱ部 二つの体制の時代
第4章 「第一次世界大戦」期の世界史
コラム2 東アジアから見る-1917年
第5章 「1930年」の国際関係と民衆
コラム3 越境する地下活動のネットワークと植民地警察
第6章 「1945年」の世界-東欧・中東・沖縄・シベリアの視点から
コラム4 朝鮮・台湾から見る-1945年
第7章  世界史における「1956年」-ベトナムとハンガリー
コラム5 スエズから見る-脱植民地化と冷戦の交錯
第Ⅲ部 脱植民地化の時代
第8章  「変化の嵐」のもとで-「1960年」の国際関係と民衆-
コラム6 シャーリー・グレアム・デュボイスの軌跡
第9章  世界史の中の「1968年」
コラム7 東欧から見る-1968年
第10章  「長い1980年代」の世界-社会主義の衰退とネオ・リベラル
おわりに-冷戦後の時代

ミネルヴァ書房の紹介ページは、こちらです。

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「世界史の眼」No.6(2020年9月)

「世界史の眼」No.6をお届けします。今号では、以下を掲載します。

小谷汪之
書評:油井大三郎『避けられた戦争―1920年代・日本の選択』(ちくま新書、2020年)

藤田進
書評:イアン・ヴォルナー/山田文訳『壁の世界史 万里の長城からトランプの壁まで』(中央公論新社、2020年)

南塚信吾
神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その2)

コロナウィルスに加え、連日、厳しい残暑が続いています。みなさま、どうぞ体調にはお気をつけてお過ごし下さい。

※世界史研究所のURLが、「https://riwh.jp」に変更されました。なお、旧URLからもアクセス可能です。

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書評:油井大三郎『避けられた戦争―1920年代・日本の選択』(ちくま新書、2020年)
小谷汪之

 本書は、1920年代、具体的にはヴェルサイユ(パリ)講和会議(1919年)から満州事変(1931年)までの時代に、日本にはその後の破滅的な戦争を避ける機会あるいは可能性はなかったのかという問題を追求しようとしたものである(本書評では、本書からの引用文中の漢数字をすべて算用数字に変えた。引用文中の〔 〕は引用者による補足)。

 この問題意識から、著者は、①ヴェルサイユ講和条約(1919年)、②ワシントン条約(1921年)、③1924年の米国移民法、④中国の国権回復運動、⑤張作霖爆殺事件(1928年)、⑥ロンドン海軍軍縮条約(1930年)、⑦満州事変(1931年)、に焦点を当てる(これらのうち、①~⑤がそれぞれ本書の第1章から第5章をなし、⑥と⑦が第6章をなしている)。これらの節目となる時期に、現実に行われたのとは異なる選択(「オルターナティヴ」の選択)が行われていたならば、破滅的な戦争は避けられていたのではないかというのが著者の歴史への問いかけである。

 この現実の歴史とは異なる「選択肢=オルターナティヴ」がどのようなものであったのかについて具体的に書かれているのは、主として、中国との関係の部分である。第4章「中国の国権回復と米英ソ日の対応」では、イギリスが1925年の5・30事件を契機に中国全土に広がった英貨ボイコット運動に直面して、中国の国権回復運動に理解を示すようになったのに対して、日本があくまでも中国における既得権益に固執したことについて次のように述べられている。

 国民軍革命〔国民革命軍?〕が北京に入城して、中国統一を実現するのは1928年6月のことで、吉野〔作造〕がこの論文を発表した時点〔1927年1月20日〕では、まだ北伐は途上であり、武漢に政府を移動させたくらいの状況であった。それでも、吉野は国民党政府が早晩中国を統一すると予測して、日本政府に対して〔国民党政府の〕承認を提唱したのであり、先見の明があったと評価できるだろう。
 もし、実際に、日本政府が、早い段階で、国民党政府を承認し、国権回復運動に前向きに対応した場合には、日貨ボイコット運動も沈静化し、満蒙権益の一部を残す交渉も可能だったのではないだろうか。(187-188頁)

 しかし、実際には、日本は、国民革命軍に追われて北京を退去、本拠地である奉天(現、瀋陽)に向かった張作霖を奉天直前で爆殺してしまった(1928年6月4日)。これが河本大作など関東軍の一部将校による謀略的行為であったとしても、その結果、張作霖の息子、張学良を国民政府に合流させることになり、日中全面戦争の伏線となった。第5章「山東出兵と張作霖爆殺事件」では次のように述べられている。

 関東軍の暴走の背景として、日本の満蒙利権の死守の考えが、当時の田中〔義一〕内閣や河本〔大作〕などの関東軍幹部に共有されていた点も重大であった。それは裏返すと、国民党政権による中国統一を否定的に、ないしは日本にとって不都合なものと考えることに繋がっていた。(234頁)
 〔他方〕、吉野〔作造〕は、国民党による中国統一が実現した暁には、満蒙の支配は早晩中国本土(ママ)に返還されるのが筋と主張していたのであった。このように、中国の国民党政権を中国の正統政府として承認し、不平等条約の改正や一部利権の返還などが当時の日本政府によって、行われていれば、満蒙利権の一部を継続させて、関東軍などの暴走を抑止する可能性はあったのではないだろうか。(235-236頁)

 以上のような分析を通して、著者は日本が破滅的な戦争を避ける可能性があったのは、次の二つの時期だとする。

 「第一のチャンスは、1925(大正14)10月の北京関税特別会議から第一次若槻〔礼次郎〕内閣が崩壊する1927年4月までの第一次幣原〔喜重郎〕外交の対中政策にあった」(289頁)。この時期は、アメリカやイギリスが対中不平等条約の改定や一部利権の返還に応じる方向に政策転換した時期であり、日本も、「中国の国権回復運動に一定の譲歩を行うことによって、中国の排日運動を緩和させ、満州利権の一部を中国との交渉で確保する可能性はあったのではないか。英国が、漢口や九江の〔イギリス租界の〕返還に応じて、香港を確保したように。そうすれば、関東軍による暴走は事前に抑止できたと考える」(291頁)。

 「第二のチャンスは、1930(昭和5)年5月に、日本が中国の関税自主権を承認した新関税協定を締結した時期である。この協定の締結に続いて、満州利権の一部留保の交渉をする可能性である。この場合は、田中内閣のもとで発生した済南事件や張作霖爆殺事件の後であり、排日運動は満州にも及んでいたので、合意の可能性は、第一のチャンスに比べると、もっと低かったかもしれないが、ゼロではなかったであろう」(291-292頁)。

 以上が本書の概要であるが、本書の特徴をなすのは歴史(過去)の様々な時点において、現実に行われた選択の他に、別のどのような「選択肢=オルターナティヴ」がありえたかを追求するという方法である。「歴史にもし・・はない」というのは巷間に流布した俗説であるが、歴史に「もし」を追求するのは、歴史認識が現在を通して未来を見据えるものだからであろう。未来に向けて、現在ありうる様々な「選択肢=オルターナティヴ」を、歴史(過去)(に照らして秤量しようとするのが歴史認識の一つの方法であるとするならば、歴史(過去)に「もし」を追求することが重要な意味を持ってくるのである。

 本書をこのような歴史的思考実験と評価したうえで、ちょっと引っかかった点を指摘しておきたい。それは、本書評中の何か所かの引用文に出てくる「満蒙権益の一部を残す交渉」、「満州利権の一部留保の交渉」といった文言である。確かに、満蒙利権(満州利権)をすべて放棄すると言ったら、軍部や財界だけではなく、一般国民からも激しい反発が起きていたであろう。したがって、一つの「オルターナティヴ」として、「満蒙権益(満州利権)の一部留保」の線で中国側と交渉するということがありうるということになるのであろうが、そこには何か引っかかるものがある。旨く説明できないが、植民地主義的利権の一部を確保するための交渉、という点にどうしても引っかかるのである。

 最後に一点だけ。本書29頁と41頁に、「賞金」という言葉が出てくるが、これはやはり「償金」(indemnity)とするべきだと思う。

(「世界史の眼」No.6)

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書評:イアン・ヴォルナー/山田文訳『壁の世界史 万里の長城からトランプの壁まで』(中央公論新社、2020年)
藤田進

 「不法入国者は殺人者と強姦魔だ」。この中傷発言とともに2016年米大統領選に出馬したドナルド・トランプは、「メキシコとの国境に堅固で均質な壁を建設して不法入国を阻止し、われわれの仕事を中国とメキシコから取り戻す」との公約を掲げて没落する白人中産階級や失業に苦しむ白人貧困層、白人差別主義者らの支持をつかみ大統領選を制した。公約の「堅固な国境の壁」の建設は議会の反対や様々な混乱に直面して遅々として進まぬなか、2019年2月トランプは非常事態宣言を発して大統領権限で国防総省予算から費用を捻出して壁の建設を強行しようと企てた。

 「全長3200㎞、数十億㌦規模の米墨国境の壁建設を米大統領が繰り返し命じることが鬱屈した有権者のある種の心の支えになっている。それは、われわれの文明の行く末が論じられる際には、どこかにこの壁の問題がつねに潜んでいるということだ」。そう憂慮する建築家でデザイン批評家のイアン・ブルナーは、そもそも「壁」とは何かという根源的な問いを発した。彼は「新石器時代前期の終わりからの1万年間に人類が定住したほとんどの土地には境界を示す何らかの建造物があった」ことに注目し、古今東西の様々な壁についての発掘調査報告や多岐にわたる参考文献にあたって知見を深めるとともにみずから現場を訪れて「壁」を観察し考察するという作業に取り組んだ。本書はその作業の成果であり、人類史において壁がどのような意味と役割を発揮してきたかを論じている。第1章「差異の発明」は本書の核心部分であり、以下ではこの章を中心に見ていくことにする。

 パレスチナのヨルダン川西岸地区にあるイェリコの城壁は世界最古の城壁である。考古学・人類学の発掘調査によれば、その出現は紀元前8300年にさかのぼり、城壁があったイェリコは、ユダヤ丘陵地帯のふもとにあった泉のそばにつくられた集落を備えた世界最古の町でもあった。人類はイェリコの町がつくられたずっとあとの時代まで狩猟採取生活段階にあり、町の住民と城壁の外側の遊牧民との違いは壁の有無だけでほとんど区別はつかなかったはずなのになぜ両者を分ける壁が築かれたのかは謎であった。だがこの謎は1980年代の発掘調査によって解けた。イエリコ城壁の内側に高い尖塔があったことが発見され、この尖塔の影が一年で最も日の長い日に太陽が沈むと城壁内の集落全体に重なったであろうことが天文学的・地形学的計測によって割り出された。その結果、イェリコの城壁は防御のためではなく、人を感動させ招き寄せる儀式に使うための建物だったとの説が有力となったのである。紀元前8000年代の地層には激しい戦争の形跡が見られず、最初の壁がつくられた時代に埋葬された人物が当時としては長寿だったことからも、イェリコの城壁が比較的平和な時代に建造され、人を遠ざける要塞ではなかったとの説が一層有力となった。著者はそれらの発掘調査の成果を踏まえて、イェリコの壁は「“われわれ”と“彼ら”を分ける差異の概念」とともに「“われわれ”と“彼ら”がともにいるという考え」をも生みだしたというように理解した。

 著者は次に、長らく史実とされてきた旧約聖書におけるイェリコの町占領と城壁崩壊の記述について検討している。『ヨシュア記』第6章における「イェリコの占領」の記述はこうである。

 ヨルダン渓谷に到着したモーセの後継者ヨシュアに率いられたイスラエル人の軍勢は、神の命令に従って契約の箱をかつぎ、カナン人が閉じこもる防壁で囲まれたイェリコの町を包囲し、7日目に城壁が奇跡的に崩壊してイスラエル軍は町を侵略し、ユダヤの神の怒りを恐れて従った内通者のラハブの一族を除く城内のすべての者たちを殺してカナンを征服し、約束の地におけるユダヤ王国を実現した。

 しかし発掘調査によって、紀元前8300年にできたイェリコの城壁は紀元前3000年にはすでに崩れて消えており、イスラエル十二支族がカナンの地を奪った紀元前1500年頃のイェリコには町も何も残っておらず、また地層には戦乱の形跡も見当たらないことが判明している。したがってイェリコ陥落の記述は史実ではなく、『ヨシュア記』の第2-7章はあとから創作されたと考えられている。

 『ヨシュア記』の成立はカナン征服のはるか後のバビロン捕囚期(紀元前597-578年)においてである。ユダヤ王国滅亡後バビロンに連れ去られたエルサレムの祭司たちが、ペルシャ国王の命令でユダヤ王国没落にいたる以前のモーセ五書の歴史全体の要約・再解釈作業に取り組む(紀元前538-458年)なかで『ヨシュア記』は編纂された。同書において、モーセの法(神の教えと戒め=律法)が不信仰者を罰する<法>として据えられ、異民族との結婚や異教信仰を受け入れたイスラエル人は「混血階層」として「ユダヤ人」から排除され、そしてカナン人やヱビス人、ヒビ人などセム系民族はカナン征服時に絶滅させられる等々が記述され、また同じ時期に編まれた『エゼキル書』には、神に選ばれたユダヤの民が囚われの身でエルサレムへ戻るのを待つ間に憎しみを向ける対象として「ゴグとマゴグ」という神に敵対する邪悪な存在が記述された。「ユダヤ人の伝統と言語がかつてなく脅かされている時期」(著者のことば)に編纂された両書は、モーセの法を破ったユダヤの民に試練を与えつつ他の諸民族と切り離して「ユダヤ民族」を確立して滅ぼされたユダヤ王国を復活させる意図を示していた。

 『ヨシュア記』において律法が人を裁く<法律>とされ、「イスラエル人」以外の民族は絶滅させられる描写には“われわれ”を脅かすものは壁を設けて排除するとの意志が表れている。

 イスラエル占領下の現在のイェリコを訪れた著者は、1万年にわたりパレスチナで実際に暮らし続けたカナン人、モアブ人、エブス人、古代ヘブライ人、アラブ人などの子孫にあたるパレスチナ住民たちが、「ユダヤ民族」思想を体現したイスラエル国家がユダヤ人入植地を守るために設けた隔離壁・防衛フェンスによって土地を奪われ日々の生活を暴力的に弾圧されている現実を目にした。彼はその光景に、古代イェリコ城壁に見出した「われわれと彼らが区分をまたいでともにいる」という平和状態が、「不公正に対する正義の勝利を示す寓話」(著者のことば)が築いた「イェリコの町を囲む堅固な壁」という空想の産物によって打ち破られているのを感じている。

 次いで著者は、南北アメリカ大陸の先住民には壁がなかったことを取り上げている。人類学者によれば、北アメリカ先住民の生活習慣において壁が意味をなさなかったのは、多くの先住民間の戦争は決まった季節に短期間の小競り合いをする程度の儀式的なものであり、従って集落を壁で囲むことも攻撃者を撃退する仕組みも必要なかったのだという。

 だがその状態は、西欧国家が対外進出を拡大する17世紀にマサチューセッツ湾にプリマス植民地が出現したことで一変した。1621年11月、力が弱く数でも劣る入植者たちが土地を浸蝕されて敵意を抱くマサ―チュセッツ族の首長から威嚇メッセージを受け取ると、指導者のスタンディシュは先を尖らせた板壁の巨大な正方形の防御柵を築いて武装部隊を配備した。その後に交渉のため首長を夕食に招き閉じ込め刺し殺した後に、周囲の森に待機するマサチューセッツ族の兵士たちを殺して首をはねた。集落を包囲する壁とそれにともなう戦争はこのような形で出現し、多くの先住民族はこの事件に恐れをなして周辺地域から逃げ出し、マサチューセッツ族とナラガンセット族は完全に消え去ってニューイングランド全体がヨーロッパ人入植地として利用できるようになった。

 ユダヤの聖書における「ゴグ・マゴグ」の脅威は新約聖書の『ヨハネ黙示録』に受け継がれており、ハルマゲドン(終末の決戦場)にキリストの町を包囲する軍勢としてそれがあらわれるとの予言は多くのキリスト教徒の信じるところとなった。ハルマゲドンの後に到来するとされた「新しいエルサレム」の建設を新大陸において試みたピューリタンのキリスト教徒植民者たちは指導者の指示に従って、抵抗する異文化世界の住民を「ゴグ・マゴグ」に見立ててこれを殲滅した。著者はここに、「ゴグ・マゴグ」に端を発する「“われわれ”を脅かす“彼ら”の脅威から守らなければならない」というロジックを駆使して民衆をみずからの利益に向けて組織・動員する国家の時代の指導者の戦略を見出しており、彼らが築く「壁は権力の付属物であり政治の道具である」ことを認識している。アメリカや世界の他の多くの場所で排他的な感情が高まって有形無形の壁がつくられている理由を見出している。

 しかし一方で著者は、壁が軍事的役割を余り果たさなかった点に注目している。紀元1世紀ローマ皇帝ハドリアヌが「野蛮人のカレドニア人」の襲撃を遮断するため巨大な「ハドリアヌスの長城」を築いて多数の守備隊を配置したものの外敵の襲撃を軍事的に食い止めることはできず、むしろ壁をはさんでローマ軍兵士とカレドニア人が接触して交流を深め、また非ローマ人に一定の条件のもとでローマ市民権を認めるローマ帝国の寛容政策がローマ文化にあこがれる被征服民のローマ軍外人部隊やカレドニア人を引きつけたことがむしろ国境の安全につながったこと、また中国の万里の長城は北方・南方民族の侵略を防ぐ軍事的防衛ラインとしてよりも、城壁の多くに交易所を設けて遊牧民と農耕民族の相互交易をつかさどる役割を果たしたことが中国王朝の安全をより良く保つたことを指摘している。さらに19世紀末以降米墨国境における中国系メキシコ人やメキシコ革命勢力の越境阻止固めに出動したパーシング指揮下のアメリカ国境騎兵隊は不法越境者との銃撃戦で危険にさらされた多くの中国系メキシコ人を保護してアメリカに連れ帰り、彼らを砂漠地帯での軍事施設建設作業につかせた後「パーシングの中国人」としてアメリカに定着させるというようなことも起きている。

 だがそのような分断のゆるい壁の時代は終わり、いま世界は多数の壁で遮断され、「冷戦の時代」が戻ってきたみたいだと著者は言う。そこには、1980年代以降新自由主義経済体制の全開で、中東、東欧・バルカン、アフリカ、中南米で資源、金融・サービス、兵器輸出で莫大な利益を収めてきたグローバル資本とそれを擁護する国家権力が、それらの地域での「民主化」運動の高まりでみずからの利益が損われるのを危惧する状態がからんでいる。彼らは「イスラム・テロリズム」、「文明の衝突」、「反民主主義の高まり」等々の説明によって「われわれの安全が脅かされている」というロジックをつくりあげ、歴史的・文化的・宗教的つながりを維持して暮らしてきた地元住民同士の民族的・宗教的衝突を煽動したうえで多数の軍事的境界線や隔離壁を築いて軍事介入し自己の利益を守ろうとすることにより住民の生活破壊や難民化を引き起こしているというのが真相である。

 「現在は壁の時代であり、人びとがその背後にある物語を信じるのをやめないかぎりは、壁の増殖がつづくのを食いとめるものは何もないように思われる」。これが著者の結論である。そして壁によって翻弄されているわれわれの現状を変えるには、「壁なしで栄えたあらゆる場所のこともまた研究しなければならない。壁の不在をたどること、それには壁の存在をたどることよりもさらに大きな価値があるのかもしれない」との希望的ことばを残して本書を終えている。

(「世界史の眼」No.6)

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神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その2)
南塚信吾

2. 西川末三と台湾

 西川末三は、1883年1月27日、栃木県下都賀郡壬生町の下級藩士(足軽)であった父正順と母タキの三男として生まれた。1902年9月、東京帝国大学農科大学林学実科に入学、1905年7月に卒業した。ちょうど日露戦争が終結し、8月にはポーツマスで講和会議が始まるという時期であった。卒業後、末三は9月に、農科大学助手となり、06年12月、農科大学の台湾演習林の主任として台湾へ行った。なお、長兄一男は宮城控訴院長、大審院判事、次兄順之は松本高等学校長で、末三の弟は、東京帝国大学を出て医者になっていた(鈴木『広島県女性運動史』51頁。付記するならば、一男の息子はアメリカ文学研究の西川正身、その息子が歴史学の西川正雄、ともに東京大学教授だった)。

 すでに日清戦争の結果、1895年の下関条約によって、日本は台湾を中国に「割与」させていて、1897年に東京帝国大学がその台湾に実習林をつくる計画をたてていた。大学は、1902年に台湾総督府から現在の南投県鹿谷郷鳳凰山から玉山一帯の区域を実習林として獲得し、04年に接収作業を終えていた。そして、同年10月から現在の竹山鎮に実験林臨時事務所を設置し、06年12月に23歳の西川末三を初代の主任として赴任させたのであった(この点については、以下を参照 https://www.facebook.com/414514448656884/posts/672151709559822/)。

 1907年8月、東京帝国大学は、西川末三が台湾において造林の仕事と樟脳の生産を手掛けたので、徴兵を免除してほしいと、文部大臣に申し立て、10月に徴兵免除の通知を受け取っていた(これについては以下を参照https://uta.u-tokyo.ac.jp/uta/s/da/document/a9bf35c8faec566d6e709c672b162881)。

 さて、末三は、大学(駒場)時代に神川松子の兄登と同級生で、松子が日本女子大学に入って上京して登と住んでいる市ヶ谷の家に遊びに行き、そこで松子と知り合ったという。松子が青山女学院に移ると、兄妹は渋谷の道玄坂に一室を借りて住んだ。そこへも末三は行って、松子としだいに意気投合するようになった。この登という松子の兄は、東京帝国大学を卒業すると、広島に戻り、一時役人となったが、すぐに退職し、父の遺産を受けて、書画骨董や茶を楽しんで悠々自適の生活を送ったという(末三『測機舎と共に』5頁;鈴木『広島県女性運動史』51―52頁)。

 台湾から一時帰国した(おそらく補充兵教育のため3か月ほど帰国したのであろう)末三は、1908年11月に広島から東京へ戻ってきた松子に長年のプロポーズを受け入れてもらい、09年の4月か5月に結婚した。この結婚には末三の長兄も次兄も猛反対したという。しかし、二人はまさに机ひとつの家財道具で結婚した。広島で結婚式を挙げて、披露宴もせずすぐに5月8日に台湾へ向かった(鈴木『広島県女性運動史』52―53頁。この間の経緯は、末三の記憶とは少し違いがある。末三は、06年2月に台湾に赴任したあと、1か月ほどして補充兵教育のために赤羽にあった近衛工兵大隊に入営せよとの令状を受け取り、3月末に帰京、6月末まで入営したという。そして、除隊後、登、松子とともに広島へ行き、松子の母や妹たちと会って、台湾へ帰った。その後、赤旗事件ののち、出獄した松子は、末三に渡台したいと申し越してきて、09年に台湾へやってきたのだという。末三『測機舎と共に』5、6、8頁。しかし、次の新聞記事によれば、松子は6月8日以前に台湾に行かねばならず、その他の日付も含めて末三の回顧はやや怪しい)。

 さて、松子の渡台を受けて、1909年6月8日の『東京朝日新聞』は「無罪出獄せし元女子大生神川松子は断然社会主義を捨てて台湾に渡り人の妻となれ居れり」と報じた。だが、果たして、松子は「断然社会主義を捨て」たのだろうか。ここで問題なのは、鈴木が、この新聞報道を松子の「転向」を報じたものとして書いていることではなかろうか(鈴木『広島県女性運動史』44頁)。鈴木自身は、松子が「転向」したとは断定していないようだが、鈴木の研究をふまえた吉田は、「転向」説を採用しているのである(吉田「新しい女」80頁)。この問題はのちに検討することにしよう。

(上は、末三の最初の住処、下は、「生蕃と松子其他」とある。共に末三『測機舎と共に』より)

 一方の末三は、「海国男児! よろしく海外に雄飛すべし。台湾は我領土である。第一歩をこの地に印してさらに南海に活躍すべきものである」と勇み立って台湾に向った。しかし、行ってみると、大学の実習林は「縦貫鉄道から十里も奥で、蛮地七分の未開地」であった。領有僅か十年では、総督府も森林経営の方針を確立していなかったという(末三『測機舎と共に』13-14頁)。

 台湾における末三の最初の住処は、ジャングルの中の掘立小屋に近いものであったようだ。末三は、「土人部落」から一里ほど上った山の中腹にやや平坦の土地を見つけて、そこに「竹の柱に竹の屋根、竹の床」という台湾山中独特の小屋を作った。隣近所もない一軒家であった。結婚してこの住居が改善されたのかどうかは分からない。また、マラリアも蔓延していた。「二か月に三度程」悩まされたという。医者も薬もなく、風邪熱さましのキナエンで耐えた。三度三度の食事に窮したこともあった。言葉も通じない現地人(台湾人)の間で、現地人を使って作業し生活することは、容易ではなかったはずである。加えて、末三が「土人」「生蕃」と言っている台湾の先住民族も活かさねばならなかった。山中を歩き回るときには「生蕃」に案内してもらうが、末三は「生蕃」を恐れたが、かれらに助けられたとも回顧している。末三はこの台湾時代を「7年半の窮乏生活」、「大切なる試験時代」「鍛錬時代」「修行期間」と言っている(末三『測機舎と共に』11、14、20)。そのうちの4年間は松子と一緒だったわけである。それでも二人は台湾の生活を充実させたようである。1909年5月に始まる台湾での二人の生活について知れるところは少ないが、松子は、台湾で、末三との間に1男2女をもうけた。長男は誠幹であった。

 女性運動家として活動してきていた松子は、あまり家事は得意ではなかったらしい。それでも家事も少しはできるようになったが、食事も10分足らずで終わり、さっさと書斎に入って本を読んでいたという。「男女同権」が口癖であったようだ。1910年6月に大逆事件が起き、翌年1月に親しかった菅野スガや幸徳秋水が処刑されたとき、松子は、自分も東京にいたら処刑されていたかもしれないと言っていたという(鈴木『広島県女性運動史』53―55頁)。松子は、結婚後は社会主義から離れ、ロシア文学研究に没頭したと言われる。事実、親しかった菅野スガも、処刑される直前に堺利彦夫妻に送った手紙では、「松ちゃんは今何処に居るでせう、便りはございませんか」と書いているほどで、松子はかつての仲間との連絡を途絶えさせていた。それでも、松子には常に尾行がついていたという。松子は、のちに「どうした風の吹き回しか、今から丁度25年前、私の心機は一転しまして家庭の人となりましてからは、おそまきながらやや女らしい気持ちになりまして、ご飯を炊くことも覚えましたし、あるいはまた子守唄を歌うことも覚えまして」と語っている(松子『測機舎を語る』238;大木「神川松子論ノート」24頁)。しかし、これは松子が家庭人に成り切ったということを意味するものではない。

 末三は、造林の仕事には優れた腕を発揮したようである。1909年に、海外での移植は難しいと言われていた吉野杉をはじめて台湾に植林、それを成功させた(今日中国・台湾では日本からの杉を柳杉【りゅうすぎ】と称している)。そういう具合にして、5万7千町歩の山林を整備したのだった。いまでも「西川末三古道」と言われる道が残っている。「大学演習林の苦力は台湾全島中模範的なり」と言われたという(松子『測機舎を語る』12-13頁)。

演習林事務所

(西川柳杉歩道・西川末三古道と呼ばれている)

 しかし、たびたび風土病に悩まされていた末三が、ついに肝炎を引き起こしたので、1914年6月、やむなく一家は帰国した(このあと、末三は1940年と1965年に台湾を訪れ、かつての実習林を視察、かつての同僚の台湾人たちに歓迎されている(https://www.lib.ntu.edu.tw/gallery/promotions/20141105_TreeRings/1902.html)。

(続く)

参考文献
著書
西川松子『測機舎を語る』測機舎(私家本)、1935年
西川末三『測機舎と共に』(私家本)、1968年
鈴木裕子『広島県女性運動史』ドメス出版、1985年
折井美那子・女性の歴史研究会編『新婦人協会の人々』ドメス出版、2009年

論文
鈴木裕子 「広島の生んだ最初の女性社会主義者・神川松子の生涯」『広島市公文書館紀要』第3号(1980年3月)
鈴木裕子 「再び神川松子について」『広島市公文書館紀要』第6号(1983年3月)
大木基子「神川松子論ノート-「婦人公論」の寄稿を中心に-」『高知短期大学 社会科学論集』第46号(1983年9月)
吉田啓子「「新しい女」以前の「新しい女」といわれた神川松子」『名古屋経済大学 人文科学論集』第90号(2012年11月)

(「世界史の眼」No.6)

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