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「世界史の眼」No.8(2020年11月)

今年4月にスタートした「世界史の眼」も第8号を数えます。この間、ご承知のように、私たちはCOVID-19による世界の大きな変化を目撃してきました。今号では、北海道有朋高校通信制課程並びに小樽商科大学で教鞭を取られている吉嶺茂樹さんに、こうした中で大学生が感じた生の声をご紹介いただきました。また、南塚信吾さんには、神川松子と測機舎をめぐる連載の第4回をお寄せ頂いています。

吉嶺茂樹
教職を目指す大学生は、今般のCOVID-19問題をどうとらえたか

南塚信吾
神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その4)

世界史研究所でも、今号の吉嶺さんの論考を始め、COVID-19問題の世界史的意味を探るべく、さまざまに準備を進めております。

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教職を目指す大学生は、今般のCOVID-19問題をどうとらえたか
吉嶺茂樹

1. はじめに

 今般のCOVID-19問題は、図らずもグローバル経済の問題点や、日本社会に内在していた様々なレベルの問題を顕在化させた。教育現場でも、唐突な一斉休校指示と、しかし、にもかかわらず「新しいセンター試験」を日程通り実施すること(このことが現役生と既卒者との学習機会の著しい不均衡をもたらすことに対する配慮は一切無い:試験自体を少し遅らせる二回目程度では問題解決には全くならない)等々である。社会全体でも、5~6月などの時期には、医療従事者への一方的な差別的発言(海外では賞賛はされども蔑視されることなど考えられない)、いわゆる「自粛警察」や帰省者の実家への張り紙など枚挙にいとまが無い。筆者も教育現場で毎日机やドアノブを消毒しながら、いわゆる「エッセンシャルワーク」の名の下、レジ打ちで毎日毎日、罵詈雑言を浴びせられて心が折れそうだ、と電話してくる勤労生徒たちの顔を思い起こしているところであった。

 さて、そんな筆者が、今年度春学期、ZOOMによる遠隔講義を使って、大学生に外国史を教えることになった。元々はビジネスマンを育てる大学で、教職を目指そうという学生に外国史や日本史を教え始めて10年近くになっていた。なお筆者自身は、通信制高校に勤務していて、遠隔教育については、7年前から国の研究指定を受け、全国唯一の遠隔教育による単位認定までを行う実験をしていた。i但し筆者自身、研究当時はこういう形で全国的に遠隔教育が広範に行われるような事態を想定したことも無かった。4年間行った研究指定の報告書も、はっきり言って「誰も読まなかった」。ところが「図らずも」遠隔教育に対するスキルを持っていたため、講義の実施自体はほぼスムーズに大きなトラブルも無く終えたのであるが、その限界や問題点が改めて理解できたというのが正直なところである。

 本稿では、しかしそうした、筆者が感じた技術的・制度的な問題では無く、これまた「図らずも」「遠隔教育を強制的に受けさせられる羽目になってしまった」学生たちの声に耳を傾けてみようと思う。例年受講生も数名で、家庭的にやっていたのだが、今年は今回の状況もあったのか、公務員志望が多く、受講者数も25名となっていて、昨年度から継続履修している学生自体が目を丸くするというような状態であったことを付記しておく。

2. レポート内容その他について

 教室に学生を集めてのテストが実施できないため、レポートなどによる成績評価が奨励された。筆者の外国史でのレポート課題は次の通りでであった。

 次の資料を二つ読んだ上で、次の2点について書いてください。(1600字以上)

A 藤原辰史「パンデミックを生きる指針」

https://www.iwanamishinsho80.com/post/pandemic

B メルケル首相の国民にあてたメッセージ(ドイツ大使館メッセージ)

https://japan.diplo.de/ja-ja/themen/politik/-/2318804

(1)(本講義が教職課程の外国史であることを踏まえ、外国史<近現代史の通史>を学んだ上で)

 4月以来の、自分の身に起こっている事態を、皆さんは教育現場で言語化して話す必要にたぶん置かれます。そこで、20年後の中学生や高校生に、どのように語りますか。口語体でも文章形式でも良いので書いてください。

(2) 4月以来の皆さんにおこった事態に対する思いの丈とか感想とかを聞かせてください。

の二つである。遠隔の講義だったので、学生の表情や講義中の雰囲気などが画面越しではわかりにくい。どのくらい書いてくれるかなと心配であったが、それは杞憂であった。彼らは彼らなりに自分の身に降りかかっていることを言語化し、冷静に判断し、時に「正しく怒っていた」。以下は、学生たちの言葉からである(適宜内容を変えない範囲で表現を改めた。文責はすべて筆者にある)。

2-1 「20年後の中学生や高校生に、どのように語りますか。」

 多くの学生は、現在のニュースや新聞報道、ネットの情報などから自分の周りで起きていたことを伝えようとしていた。その中で、いくつかのレポートが印象に残った。

2-1-1 「似ていること、違うこと」

 「…当時私は、北海道の大学に通っていて、有数の観光地である小樽でアルバイトをしていましたが、客の8割以上が中国人観光客だったため、バイト先も閉鎖になりました…入国制限によって、今まで賑わいをみせていた街から人が居なくなりました。…部活動が制限され、授業の開始が一ヶ月延期され、そして人生初のオンライン授業が始まりました」「…私は宮城県の出身で、当時宮城で暮らしていましたが、もう震災前の生活には戻れないことを知っています。一見復興したように見える街にも、たくさんの傷が残っています…おそらく、小樽の観光業に関わる人にも、そしてこの国に生きている人たちにも、たぶん同じです…」。

 (吉嶺コメント)東北の震災を経験した学生が、「似ていること、違うこと」と称して、「普通の生活ができなくなること」の意味を考えたレポートである。実際、小樽の状況は深刻であった。筆者は、オンライン講義だったが、高校の職場の都合上、札幌から小樽まで通って大学の教室から遠隔授業を行っていた。その帰り道、人通りの全くなくなった、土産物店がすべてシャッターを下ろした小樽運河沿いは、片側三車線の道路に全く車が無く、「ゴーストタウン」の様相を示していた。

2-1-2 歴史教員を志望している学生が、実際に教科書や資料でどのような図版を用いたら今の状況が伝わるか、という観点から考えたレポートである。

 「…教科書には、『様々なモノ(街の彫刻や、庭に置かれている置物やその他いろいろなもの)』がマスクをつけている写真、…ウイルスの顕微鏡写真、マスク・アルコール等々の在庫切れの写真、ソーシャルディスタンスをみんなが守っている写真(郵便局の外まで受け取りの列にみんなちゃんと並んでいる!)…を使ったら良いんじゃ無いでしょうか。」「なるべく、生徒に『考えてもらう』事によって想像してもらうのが良いんじゃ無いかと思います」

 (吉嶺コメント)このレポートには他にも、「…こうやって、歴史の教科書には、ある史実を伝えようとする写真が考えて使われるという事を改めて自分で考えてみて、ちゃんと教えようと思うようになりました。時間の使い方が重要ですね…」という記述がある。この学生の指摘によれば、「探求すること」が「歴史の勉強を面白くすることは間違いない」。問題はそういう学校現場の活動を後押しするような「入試問題」が出題されていくことであろう。大学入試センターも含めて、である。

2-1-3 自分の身の回りから外へ向けて現状を考えたレポートである。

 「皆さんは、家で過ごすことは好きですか?一人で過ごすことが好きだという方も少なくないと思います。でもそれが1ヶ月、3ヶ月、半年…と続いたらどうでしょうか。それも自主的では無く、国に指示されるのです。Stay Homeと称して…」「…コロナウイルスは、生活様式をがらっと変えました。…通勤通学の方法も変わり、大学は通学の必要がなくなり、オンラインになりました。…通学しなくて良いのは楽ですよね(そう思いますよね)。でも、違うんです。皆さん、体育をケガなどで見学するときにレポート書かされた経験はありませんか?それをほとんど全部の教科でやらされるんです。当時の大学生は命とか経済的な面もですけど、落単の危機にもさらされたと私は思っています(笑)。」「…ジャニオタはコンサートに行けず、世の中のカップルは、デートはおろか会うことも許されず(隠れて観光地にいった芸能人は糾弾され)、コロナ別れという言葉がはやりだし、髪の毛が伸び放題、プリン状態の髪色の人が増え、セルフカット・セルフカラーで自分の技術に落胆する人が増えました(あっ、私のことか<笑>)でも私がこれを皆さんに話していると言うことは、私は生き抜いたと言うことです…」。

 (吉嶺コメント)彼女は毎回の講義感想に実にユニークなコメントをしてきた学生である。他の学生とは少々違う観点から、切れ味鋭い「20年後の高校生への『拝啓…』で始まる手紙のようなもの」という実に面白いレポートを提出してきた。

2-2 「現状に対するあなたなりの思いの丈や感想を書いてください」

 この課題には、外国史(近現代史が中心である)の通史学習を踏まえた、実に様々な、それも長文のコメントが寄せられた。中には5000字を超えるものもあり、総じて「自分の身に起きていることを今、このときに言語化(コトバ化)して残しておきたいという意欲が感じられた。

2-2-1 中国からの留学生のレポートである。少し長くなるが引用したい。

 「先生は3月から7月に起きていることを書きなさいと言いましたが、私は1月の時からもうコロナとの闘いを始めたので、1月から書きたいと思います。…誰も世界で何千万人の感染者が出ることが想像できませんでした。私は武漢が封鎖される初日も、友達からなにを食べに行こうと誘われました。行ったのは家の近くのデパ地下でした。…」「…SARSも大丈夫から今回も大丈夫だと思っていたのでしょうか。そしてその日の夜で、地元に第一例の感染者が報告されました。それにも関わらず、街でマスクをする人がまだ少なかったです。周りで親にマスクをさせるのに苦戦していた若者がたくさんいました。なぜSARSも経験していない若者はマスクを重視しているのに、経験がある大人は重視しないのかを考えるのがなかなか面白いです。そのあと、私は受験のため日本に来ました。…」「…その後SNSを見たら、最初の時とのすごい差が感じました。最初の時、政府を批判する人が大勢いました。しかし時間が経つに連れて、みんなが納得したように見えました。…」「…二週間前、私の地元に新たな感染者が出ました。地元の通知を受けて、他の省が接触者である友達を検査して感染が判明された日、地元のニュースではまだ新増感染者0人と書いていました。…その結果、次の日に町を緊急封鎖したが、二週間で感染者が400人以上になりました。当然、政府のせいばかりじゃなく、マスクが普通に安く売っているがマスクもしなくて集まっていた人々もこういう結果になった原因の一つです。…私たちは一体コロナから何を学んだのが、私は未だに分かりません。しかしこれは中国だけでもないです。」「人は銅を以て鏡と為し、以て衣冠を正すべし。古きを以て鏡と為し、以て興替を見るべし。人を以て鏡と為し、以て得失を知るべし。こういう言葉を話す人こそ貞観の治ができるのか、私たちができるのは本当に衣冠を正すだけのレベルでしょうか。」

 (吉嶺コメント)彼女の戦いは1月から始まり、日本で大学に入学したらオンラインだった、という現実であり、その戦いに対するなんとも言いようのない感情を何度か講義コメントに書いてくれた。貞観政要の「三鏡の教え」を書くことのできる大学一年生が日本にどれくらいいるのか良くわからないが(彼女はしかも地方の出身である)、以て範とすべきであろう。中国嫌い、とか韓国大嫌いとか書いている人々がどのくらい隣国との関係史を知っているか、ということである。ちなみに貞観政要は明治天皇も元田永孚に進講させている。元田永孚は元熊本藩士、教育勅語の選定に深く関わった人物として知られている。

2-2-2「私の本音はこうです」

 「私がコロナによる影響を身に染みて感じたのは、高校の卒業式でした。例年は、保護者はもちろん在校生も参加して、オーケストラ部による演奏で入場するのですが、今年は卒業生だけで、入場曲もCDの音楽という寂しい卒業式になりました。それから、樽商で授業が始まるまでの間、これでもかというほど日々怠け、遊んでいたので、3から5月はそれほど深刻に受け止めていなかったのが本当のところでした。しかし、大学の授業が始まってからは、とにかく忙しかったです。家にいるのに忙しく、授業前の自分の生活ぶりを妬ましく思っていました(笑) SNSなどでも全国の大学生が課題の多さに疲れている情報をよく目にします。疲れているのは大学生だけではなく、小中学生の子供を持つ全国のお母さん方もだと、小4の弟、そして私の母を見ていて感じました。午前授業のために昼食を用意しなければならず、給食の恩恵を改めて感じているようでした。こうして、この状況のなかで、強く感じたことが一つあります。他者に配慮する、全員で協力するなんてことは無理ということです。メルケル首相も安倍総理もおっしゃっていますが、実際、全員が全員、今を生きるのに必死だと思います。他人の命を守るよりも、自分の家庭のトイレットペーパー、マスクの充足の方が大事に決まっています。そう思えるようになるのは、このコロナによる状況が歴史として認識される頃なのではないかなと。これは、あまり世間的には理解してもらえないと思うのですが、国民は今の状況を気にしすぎな気がします。絶滅危惧種に人間が入ってもおかしくないのではと。あと100年後にはコロナでなくとも必ずみんな死んでしまうのだから、とりあえず、旅行させてくれ、コンサート開催してくれというのが私の本音です…。」

 (吉嶺コメント)筆者は、彼女が卒業した高校に以前勤務しており、そうした気安さもあって、毎回のコメントも大学の教員では無いからか、かなり正直な感情を提出してきてくれた。今回のレポートも、「私の本音はこうです」というタイトルであった。

3. おわりに

 過去に行っていた遠隔授業の研究を通じて、その長所と短所を筆者なりに理解した上で、今回大学の講義を行うこととなった。やはりできることとできないことがあるというのが、当たり前ではあるがレポートで確認できた。ただ、前述したように、彼ら学生は、自分の身に降りかかった(彼らのせいではない)状況にどうやって対応するか、試行錯誤をしていて、それは教員も一緒なのだなということが分かり、安心した、という感想もあった。さらにWHOや中国政府の対応を攻撃的に批判するものがもっと多いかと思っていたが、問題はそういう矮小化できるものでは無いという記載が多くて少しほっとしている(ゼロでは無いですが)。政治に対して正しく怒ることが必要だし、投票というのはそういう意思表示なのだということを改めて考えた、というコメントも多かった。彼らがこの経験をどのようにこれから生かしてくれるのか、楽しみに見たいと思う。遠隔講義を15回行った経験から言うと、ほとんどの学生はきわめて真面目に前向きにこの事態を乗り切ろうとしていた。毎回欠席はほとんど無く、時間5分前には続々と「ピンポン」とZOOM待合室のドアが開いた。年度途中から出席を止めた、レポートを提出しなかった学生が5名いたが、それぞれ理由のあることであり、内向きの理由では無い。学生とのこうした関係性を遠隔形式で作ることができると確信できたことが、今回のCOVID-19対応の最大の収穫かもしれない。

註 i https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kenkyu/htm/02_resch/0203_tbl/1296100.htm

(「世界史の眼」No.8)

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神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その4)
南塚信吾

4. 「測機舎」 

 玉屋商店に「23か条」の要求を拒否されたのち、3月18日、細川善治、三上綱男、松崎茂雄らと志を同じくする者13人は「宣誓書」を作成した。それは、今なお因習の久しき資本家が「労務者を蔑視し人格を認めない」のは頗る遺憾であるとし、自分たちは永く資本家に酷使されてきたが、ここに「独立自営を画策」し、「資本主義を排し純然たる労務者主義を樹て、最後の勝利を収めんことを期し、鞏固なる団体を作る」ことにしたと述べていた。こういう団体は、「欧米諸国すら未だ多くその例を見ざる新組織」であるので、自分たちは決死の覚悟であると断言していた。「宣誓書」に署名したのは、細川善治、三上綱男、松崎茂雄ら優れた技術者たち11人で、その他に鹿子木直ら見習い2人が加わっていた(松子『測機舎を語る』42-44頁;鹿子木『いのちの軌跡』76-77頁)。これはいわば血判書であった。松子はのちにこれを「互いの血を以て結び、肉を以て綴った誓約書」であるとしたうえで、「資本主義工場の圧迫と搾取とに目覚めたる新進気鋭の労働者の一団が、真と義を求めて進み出た生々しい労働者階級解放の第一声」なのだと言っている(松子『測機舎を語る』44頁、51-52頁)。「宣誓書」作成時には、細川らは西川の家に出入りしていたようであるから、ひょっとして、松子を通して、社会主義の「吐息」が吹き込まれていたのかもしれない。「欧米諸国すら未だ多くその例を見ざる新組織」という認識は他からは入ってきそうもないからである。

 そのうえで、13人は、新工場の「統帥者」として末三に参加を要請した。3月21日に「推戴書」を作成して、末三に渡し、「貴殿を新設工場の統帥者として推戴」すると表明した(松子『測機舎を語る』45-46頁)。末三は迷った。だが、兄弟や友人からの強い反対があったにもかかわらず、結局末三はこれを受けいれた。末三は、「森林の経営も向上の経営も根本においては一つである」との信念の上に、台湾での「地方人との折り合いの良かった実績」と「7年半の窮乏生活」があるから、何とかやっていけると考えたようである(松子『測機舎を語る』12-13頁;45-47頁;鹿子木『いのちの軌跡』75頁によれば、松子の強い後押しがあったようである)。

 早速、末三を含めて同志14人が、出資しあって資金を作った。西川(1480円)、細川(276円80銭)、三上(250円)、松崎茂雄(300円)、以下、150円や100円や60円や20円で、合計3086円80銭であった。組合員たちは玉屋時代には労働者であったから、貯えもなく、皆は財布の底をはたいて出資したのであった。もちろんこれでは、測機舎の建物や機械設備の購入には不足したから、西川の親戚の太宰銀行から1万円の融資を受けた(鹿子木『いのちの軌跡』78-79頁;松子『測機舎を語る』47-48頁は出資金合計1700円というが、間違いか)。この資金によって、港区麻布笄町(こうがいちょう)に48坪ほどの工場兼住宅を買い求めた。2月以降、4月に至るまで、すべての準備は、13人が玉屋に籍を置きながら進めた秘密の工作であった。末三が関与していることも、秘密のことであった(松子『測機舎を語る』12-13頁;49-51頁)。

 こういうひそかな準備が進められて、4月16日、ついに測量機械の製造販売をする組合組織「測機舎」が生まれた。5月には、末三が入舎することが発表された(松子『測機舎を語る』75-78頁)。この測機舎は一般の会社とは異なり、資本主義と労使関係を否定して、労働者生産者協同組合という形をとった。1920年6月に定められた「規約」の要点を整理するならば、以下のようになる。

  1. 「本組合は、労務出資者をもって組織する」が、「必要ある場合には金銭出資者を加うる」ことができる。
  2. 金銭出資は一口の金額を10円とし、主体となる労務出資は「一事業期の出勤日数を160日」として一人平均800口とする。労務出資口数と金銭出資口数を合わせて総出資口数とする。
  3. 労務出資者は一定の技術を持った成年とされる。労務出資者は五口以上の金銭出資を持つこととされる。
  4. 金銭出資には、年7%の利息が払われる。労務出資者には毎月給料が払われるほか、労務出資口数に応じて、剰余金の配当が払われる。
  5. 金銭出資者の資格は審査され、金銭出資口数は総口数の5分の1に制限される。
  6. 各事業期の収入から支出を引いた利益金からさらに固定資本の償却や繰越金などを引いた純利益金は、出資の口数に応じて、配当として配分する。
  7. 組合の経営の責任者は総会で選ばれる理事5人で、うち1人が互選で理事長となる。
  8. 総会の議決には労務出資者および金銭出資者のうち、500口以上を持つものに等しく一票が与えられる。

(規約の全文は松子『測機舎を語る』55-64頁)

 この規約は、民法の「組合」の規定(第667条~第688条)にそって作られていた(樋口『労働資本』47-48頁)。だが、民法は、労働出資と金銭出資の相互関係については規定していなかった。測機舎の規約のポイントは、労働の出資を柱としながらも、労働と資本の出資を等しく認めていることである。そうすると、金銭出資と労務出資の口数の計算の仕方が決められていなければならない。金銭出資に対しては、年率7%の利息が払われるほか、年間の純利益から12%の配当が払われることになっていた。労務出資については、毎月の給料のほか、年間の純利益から給料4か月分の配当が支払われることになっていた。こういう条件の下で、労務出資の口数をどう決めるか。労務出資の場合、年間の給料額を平均1200円としているから4か月分の給料は400円で、総額1600円。これが金銭出資の場合の7%プラス12%、計19%に相当すると考えると、1600円を0.19で資本還元して、8400円余り。これにいくらかの調整をかけて労務出資額を8000円とする。一口が10口だから、労務出資口数は800口ということになる。これが2に出てくる数字である。数字はさておいても、この「規約」は資本の機能を抑え、労働する者の価値を活かす論理をしっかりと持っていたのである。

 最初の理事5人は、西川末三のほかに誰であったか、明確には分からないが、おそらく細川善治、三上綱男、松崎茂雄の3人は入っていたと考えられる。理事長は西川が選任された。こうして測機舎は船出をした。

 松子によれば、これは、工場労働者自ら工場を管理経営する労務出資の生産協同組合であった。搾取者も被搾取者もない組織であった。このような組織を松子はさらに次のように特徴づけている。

「工場建築物やその他工作機械、製品あるいは諸般の設備に至るまですべて、何人の独占でなく、測機舎の事業に従事せる組合員全体の共有物であります。それゆえ組合全員はおのれの工場建築物の中において、おのれの仕事に従事するのであります。従業中監督せらるべき要もなければ、また監督すべき人もおりません。ただ従業員各自が各責任を負うて自らを治め、おのが工場を守って行くのであります」(松子『測機舎を語る』53-54頁)。

 これは玉屋との労使関係の教訓を生かしたもので、「労働者統制」的な理念をさらに超えた「生産組合」の理念を体現していたわけである。これは日本最初の生産組合といわれている。こういう労働者生産協同組合方式は、20世紀初めのヨーロッパではかなり広がっていたようである(樋口『労働資本』45頁)が、日本ではこの測機舎が最初で、その後1930年ごろにいくつもできることになる(松子『測機舎を語る』55頁)。それにしても、労働者生産協同組合という理念はどこで学んだものだろうか。

 この測機舎の組織理念は、「ロバート・オーエン」に学んだものであると、のちに松子は述べている。

「その往時ロバート・オーエンが労働階級の向上と幸福のために労働問題の理想を掲げて世界の労働界に一大警鐘を与えましたが、百年後の今日祖国フランス(=イギリスの誤り)を遠く離れた極東の日本においてわが測機舎が労務出資の生産組合として生まれ、・・・欧米諸国にもその比を見ざる好業績を挙げているとは、地下に眠れる氏の霊はいかばかりか満足するでしょう」(松子『測機舎を語る』 73-74頁)。

 測機舎の経営理念には、松子の思想が大きく反映していたといわれる。のちに鹿子木はこう述べている。「彼女(松子)は社会主義や女性解放運動の実践から遠ざかったが、労働者階級への親近感と同情まで捨てたわけではなかった。測機舎が組合組織で労務出資者をもって組織するという旗を掲げたとき、夢の一端が実現するという喜びがあったのではないか」(鹿子木『いのちの軌跡』103頁)。

 では、松子にせよ末三にせよ、いつどのようにして「ロバート・オーエン」の思想と実践を学んだのだろうか。ここで「 」を付けたが、上の引用で松子はロバート・オーエンの「祖国フランス」と言っていることに関係がある。これは単なる間違いなのか。それとも、フランスの社会主義者の影響もあったから「祖国フランス」が出たのではなかろうか。そういう疑問がある。ともかく、松子の思想の源泉を探らなければならない。

(続く)

参考文献

西川松子『測機舎を語る』測機舎(私家本)、1935年

西川末三『測機舎と共に』(私家本)、1968年

鈴木裕子『広島県女性運動史』ドメス出版、1985年

鹿子木直『いのちの軌跡』朝日カルチャーセンター、1994年

樋口兼次『労働資本とワーカーズ・コレクティブ』時潮社、2005年

測機舎技術史編集委員会『輝きの日々―測機舎技術へのレクイエム―』測機舎技術史編集委員会、2012年

(「世界史の眼」No.8)

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