月別アーカイブ: 2020年12月

田中一生『追想のユーゴスラヴィア』が刊行されました

わが国におけるユーゴスラヴィア研究の礎を築いた田中一生さん(1935-2007)の著作集『追想のユーゴスラヴィア』が、このたびかりん舎より刊行されました。田中さんが執筆した論考のうち、前著『バルカンの心』(彩流社、2007年)に収められていないものが、31編収録されいています。田中さんは、かつての世界史研究所で顧問を務められており、その縁もあり世界史研究所が編集を担当しました。

内容は、歴史に関する諸論考を収めた「第1部 ドブロヴニクと中世バルカン」、イヴォ・アンドリッチをはじめとする文学に関わる「第2部 アンドリッチとその時代」、美術や映画に関する論考からなる「第3部 ユーゴスラヴィアの芸術世界」、その他のエッセイを収めた「第4部 ユーゴスラヴィアを想う」よりなり、巻末に、「追悼 田中一生」と題して、田中さんと近しい関係にあった方々の追悼文を収めています。

かりん舎の紹介ページは、こちらです。

カテゴリー: お知らせ | コメントする

「世界史の眼」No.9(2020年12月)

「世界史の眼」第9号をお届けします。今号では、木畑洋一さんに、今年刊行されたO.A.ウェスタッドの大著『冷戦 ワールド・ヒストリー』を書評して頂きました。岩波書店の紹介ページはこちら(上巻下巻)です。南塚信吾さんには、神川松子と測機舎をめぐる連載の第5回をお寄せ頂いています。

木畑洋一
書評:O.A.ウェスタッド(益田実監訳)『冷戦 ワールド・ヒストリー』上・下(岩波書店、2020年)

南塚信吾
神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その5)

年末も迫り、気候も日々、冬を感じさせます。皆さま、どうぞ気をつけてお過ごし下さい。世界史研究所が再スタートした2020年は、激動の中に終わろうとしています。世界史研究所の活動にご関心をお持ちくださった皆さまに改めて感謝申し上げるとともに、今後とも、更に活動を充実させるべく努めてまいります。

カテゴリー: 「世界史の眼」 | コメントする

書評:O.A.ウェスタッド(益田実監訳)『冷戦 ワールド・ヒストリー』上・下(岩波書店、2020年)
木畑洋一

 冷戦という現代世界史にとってきわめて重要な対象について包括的に学びたいと思った時、日本語で参照できる本は意外に少ない。しかも、一人の著者が統一した視点のもとに、その著者なりの歴史像にそって冷戦史を描いた本となると、残念ながら日本人研究者の手になるものは思い当たらない。外国の研究者の本で邦訳のあるものとしてすぐ念頭に浮かぶのは、ジョン・ルイス・ギャディス『歴史としての冷戦 力と平和の追求』(慶應義塾大学出版会、2004年)であるが、冷戦を「長い平和」と形容したことからも分かるように、ギャディスの冷戦像はあくまでもヨーロッパ中心的である。そのような冷戦像に大きな疑問符をつけて、いわゆる「第三世界」と米ソの関係を詳細にたどることによって、新たな冷戦史像を提示してくれた研究が、O.A.ウェスタッド(佐々木雄太監訳)『グローバル冷戦史 第三世界への介入と現代世界の形成』(名古屋大学出版会、2010年)であった。その著者がさらに時間的に視野を広げ、空間的にもより包括的な形で冷戦像を提示した結果が本書である。翻訳にあたったのは『グローバル冷戦史』の邦訳にも関わった第一線の国際関係史研究者たちであり、益田実他編『冷戦史を問いなおす 「冷戦」と「非冷戦」の境界』(ミネルヴァ書房、2015年)の寄稿者でもある。

 時間的な視野の拡大は、本書の叙述が1890年代から始まっていることに示されている。冷戦の起源といえば、最大限遡ったとしても1917年のロシア革命、あるいはそれを生み出した第1次世界大戦までということが常識であろう。それを19世紀末、20世紀への世紀転換期に求める理由として、著者は二つの問題に着目する。一つは、「アメリカとロシアが強烈な国際的な使命感をみなぎらせた二つの帝国に変容していった」ことであり、今一つは「資本主義とそれを批判する者との間に存在するイデオロギー的な分断が先鋭化していった」ことである(上26、以下本書の頁をカッコ内に示す)。これは重要な着眼点であるが、評者としては、第1点目について、とりわけロシアに関しては留保したい。一方、第2点目の方は冷戦の起源論として確かに首肯できる問題提起である。そのことは、冷戦の性格についての著者の議論に関わる。

 冷戦について、かつては資本主義と社会主義という社会体制をめぐるイデオロギー的対立を強調する議論が主流であった。しかし、社会主義圏の解体という形で冷戦が終焉を迎えて以降、冷戦下の東西両陣営の対立を権力政治的面からとらえてイデオロギー的側面を軽視する傾向が強まってきたという感がある。それに対して著者は、「冷戦は、そのイデオロギーの中心性とそれを信奉する人々の熱心さゆえに大半のものごとに影響をおよぼした」(下437)と、あくまでもイデオロギー的性格を重視する姿勢を崩していないのである。この点からみて、19世紀末から分析を始めることは的を射ていると考えられる。

 ただ、19世紀末から第2次世界大戦までの時期を扱った部分は、必ずしも多くなく、序章と終章を除く全22章の内、第1章と第2章の2章分のみである。本書を繙く前に評者が予想していたよりはるかに少なく、若干の不満が残った。

 しかし、第3章以降の冷戦史本体の叙述には、予想に違わずすばらしいものがある。ヨーロッパでの冷戦の展開についての記述は比較的オーソドックスであるが、前著につづき、非ヨーロッパ世界での冷戦の展開を、ヨーロッパと同列に目配りしながら、脱植民地化過程と関連させて議論する姿勢は他の追随を許さない。冷戦の最終的な終焉を示したソ連の崩壊について、「まさに脱植民地化の一つの事例であり、イギリスやフランスの帝国に生じたことを想起させるものだった」(下430)と論じていることには、我が意を得た感がした。個々の分析に立ち入る余裕はないが、例として、ソ連のアフガニスタン侵攻の前段階として、アンゴラややエチオピアの情勢を論じている点であるとか、冷戦終結時の東欧の変動にグローバルサウスの社会主義国の変容が先行していたとの指摘とかをあげておきたい。

 著者はもともと中国研究者として出発したが、本書でもその蓄積は大いに生かされている。たとえば第9章(上巻)の「中国の災難」という章は本書全体の中でも対象を最も詳細に描いている章である。一例をあげよう。文化大革命が始まる頃、毛沢東は杭州に滞在中ある講演のなかで、「諸君は徐々に現実と接するべきである。しばらくの間は田舎に住み、少々のことを学ぶべきである。・・・本物の分厚い学術書などを読む必要はない。小さな書物を読んで一般的な知識を少々身につければ十分だ」(上346)と語ったというが、この史料は、「筆者所有の謄写版複写」である(第9章注18)。

 また、インドの役割についてかなり詳しく論じられていることも重要であろう。

 本書の他のメリットとして、特に下巻におけるオンライン史料の活用・引用という点を最後にあげておきたい。本書は長期間を扱った通史であるが、細かな引用について丁寧な出典注がつけられている。たとえば、アメリカのジョージ・ワシントン大学にあるアメリカ国家安全保障アーカイヴでデジタル化されている興味深い史料も引かれており、評者は本書の叙述に導かれて原史料に入り込むということを度々行ない、学ぶこと大であった。

 こうした本書は、冷戦史を語る際にまず参照すべき本の一つであるといえよう。

(「世界史の眼」No.9)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その5)
南塚信吾

5. 日本における「空想的社会主義」の理解

 振り返るに、明治期において、ロバート・オーエンを含め社会主義はどのように紹介されてきたのだろうか。そして松子は社会主義文献とどのような接触をしたのだろうか。

 明治に入って最初に社会主義について紹介しているのは、管見の限りでは、箕作麟祥『万国新史』(1871-77年)であろう。この中で、箕作は、1848年革命期の「ソシアリスム」を論じていて、サン・シモン、シャルル・フーリエ、コンデシラン、ルイ・ブラン、プルードンを紹介しているが、ロバート・オーエンもマルクスもそこには入っていなかった(世界史研究所編『萬國新史』、225-226頁)。

 初期の社会主義を広めるのに貢献したのは、『六合雑誌』であった。『六合雑誌』は、1880年10月に小崎弘道,植村正久らが東京キリスト教青年会を起し,その機関誌として翌年に創刊したものである。『六合雑誌』は、社会主義運動への理解を示し,1898年に社会主義研究会が発足したのち,99年には安部磯雄が主筆となって、この研究会の機関誌的役割を担うようになった。そして1921年に廃刊されるまで、日清戦争後の社会主義運動に大きな影響を及ぼしたといわれる(『ブリタニカ国際大百科』)。広島時代、ミッション・スクールで学んでいた松子は、このキリスト教系の雑誌を読んでいたかもしれず、ミッション系の青山女学院在学時や、平民社に出入りしていた時期には確実に接していたのではないだろうか。

 社会主義者の思想が初めて系統的に紹介されたのは、『六合雑誌』第7号(1881年)に載った小崎弘道 の「近世社会党ノ原因ヲ論ス」においてであった。この中で、小崎は、「社会説(社会主義思想)」には三つの種類があるという。一つは、宗教家もしくは哲学者たちの「同信同説」のものが集まって産業を共同にするもので、インド仏教やユダヤ教やキリスト教などに見られるが、「英国オーウエン氏の共産法」もここに入ると一言言及されている。二つは、現在の社会に不満でその改良を欲するもので、イギリスのトーマス・モアやフランスのフオリエー(フーリエ)、ルイ・ブランク(ルイ・ブラン)などがここに入る。そして三つ目は、当今の説で、「地面資本等各自の所有権を廃し、貧富貴賤の差別を滅し、各自其幸福を共有せんと図る」もので、カール・マルクスが代表であるとして、その説を詳しく論じている(『六合雑誌』第7号、106-107頁)。この小崎の論文は,日本で初めてマルクス主義に言及した論文と言われるが、日本の初期社会主義の社会主義像はこのような全体像を持っていたのである。

 ロバート・オーエンについてやや具体的に紹介したのが、1891年の石谷斎蔵『社会党瑣聞』である。『社会党瑣聞』は、フランスやイギリスの社会主義者、つまりバブーフ、サン・シモン、シャルル・フーリエ、ルイ・ブラン、そしてロバート・オーエンらの経歴と運動を紹介して、とくにロバート・オーエンについては「英国社会党員ロバート・ヲーエン氏並にその主義の政社」という章を設けて、やや詳しく紹介していた。彼については、

「氏は自ら其資財を擲(なげう)ちニウ・ラナークと呼べる所に一の製造所を創立し、是に殖民の事業を初めたり。其主義とする所は、労働人を結合するの目的に出でたり。就中、労働者に向いて報酬の正しきと家計の整頓せざるべからざると、鰥寡(かんか)孤独を救恤(きゅうじゅつ)すべき事等、大に該社(=その会社)に益するところあり。」

と紹介していた(『明治文化全集』第 15巻、152頁)。ニウ・ラナークというのは、ニュー・ラナークの紡績会社のことで、オーエンはこの会社の社長をしていて、種々の改革をここで試みたのである。

 日清戦争後の産業化の進むなか、1899年の『六合雑誌』222号に発表された河上清「英国社会主義の木鐸ロバート・オーエンを論ず」は、オーエンの経歴と社会主義思想をまとめて紹介したものであった。それは、オーエンが、ニュー・ラナーク紡績会社の社長として、労働者の賃金、就業時間、幼児労働禁止、福祉施設の整備、労働者への家屋提供、日用品提供などの改革を行い、会社の業績を上げたこと、それに倣い、政府にも労働時間制限、幼児労働の廃止などの労働者保護の政策を提言し、さらに無償の義務教育や、公衆図書館設置、貧者への住居提供などを求めたことを、述べていた。こうして、オーエンは「実行的社会主義者」であったとされる。その上で、かれの思想が論じられる。その柱は、労働者は使役するのではなくその「品性」を高めていくことによって生産も向上するという考えで、その「品性」を高めるにはそのための「境遇」(環境)が準備されなければならないという「品性養成論」であった。したがって、「国富」はそれ自体が目的ではなくて、「市民の高尚なる品性」を要請するための手段なのだという。このようにオーエンの思想を紹介したうえで、河上は、オーエンはどのような政治経済組織を考えていたのかを「論述」していないので、自分の解釈を述べるとして、オーエンは、自由競争による利潤を廃するために、貨物の費用は需給の均衡によるのではなく、生産費によるべきだとしていたのであり、自由競争を否定して、土地などの私有財産を廃し、「凡ての貨物は社会共同の所有」とすべきとしていたのだと述べた。では具体的にどういう組織によるのか。河上は、オーエンは、利潤をあげてそれを配当することを目的とする「キリスト教的社会主義」の創立した「生産組合」には反対であったという。では、オーエンは、自分の政治経済組織をどう作るかというと、「民権」によるのではなく、「地主資本主等より成れる議会政府」に思想の実現を求めたのだとし、これを批判していた(『六合雑誌』222号、15-25頁)。

 この河上のオーエン理解は必ずしも正確ではなく、オーエンの「協同組合」については理解していなかった。オーエンは、「生産組合」に反対していたのではなく、ニュー・ラナークで労働待遇の改革をして生産を高めたあと、1820年ごろからは協同組合運動に関心を移し、生産と生活の共同化によって、資本主義の害悪に対抗しようとしたのである。永井義雄はこれを「協同社会主義」と呼んでいる(永井義雄『ロバアト・オウエンと近代社会主義』、6-7頁)。そして、アメリカにわたって、1826年には、インディアナ州に自給自足を原則とした私有財産のない共産主義的な生活と労働の共同体(ニューハーモニー村)の実現を目指したのである。しかし、河上はこの協同組合については語っていないのである。

 とはいえ、この河上論文は広く影響を与えたといわれ、松子もこれを読んだはずである。のちの「測機舎」のことを考えると、松子はニュー・ラナークでの改革には共鳴したのではなかろうか。河上は、慶應義塾で福沢のもとで社会主義を知り、青山学院で社会主義とマルクスの勉強会を開いたりして、1897年、23歳のときに『万朝報』に初めて論文を出していた。松子が1904年に青山女学院に入ったときは、青山学院のそういう雰囲気が伝わっていたことと思われる(なお、河上は1901年にはアメリカへ留学していた)。

 しかし、河上でさえ「協同組合」については語っていないということは、大きな問題である。河上らが紹介したロバート・オーエンの「ニュー・ラナーク」事業は、あくまでも労働者の待遇改善という政策であった。しかし、それは測機舎の一面ではあってもすべてではなかった。測機舎の特徴は労使関係を否定した「労働者生産協同組合」という側面である。では、松子らは「協同組合」については、どこで学んだのだろうか。それを探らなければならない。鍵はつぎにある。

 自由民権運動の出身で、1880年には『万国史略』を出していて、その後社会主義に接近し、ジャーナリストとして活動していた久松義典は、著書『近世社会主義評論』(1901年)において、当時の社会主義理解を全体的に示していた。

 その「序論」において、久松はこう述べている。

「そもそも社会主義は、19世紀の新産物なり。その起源に遡れば、フランスのルーソー・・・等先ず自由平等の主義を唱道し、イギリスにてはロバート・オーウイン協同作業の理を説き、ドイツのヘーゲル、フィヒテ、ラッサル等これを顕彰し、もって漸く(ようやく=しだいに)発達せしが、その広く世にあらわれたるは、1817年イギリス議会にオーウインが初めて社会的建議を提出し、1830年フランス、サン・シモンの新言論出で、尋(つい)でフオーリール(フーリエ)の新計画起り、蹶后(けつご=すぐあとに)フランス革命(1848年革命のこと)の破裂あり、新社会党ルイ・ブラン、カール・マルクスの運動あり、終に1872年ハーグに開きし萬國連合大会において、社会党は断然として無政府党と分離し、ここに現今の社会的民政主義の純団体を生ぜり」(久松『近世社会主義評論』、4頁)。

 久松は、社会主義のルーツをルターまで遡ったり、ヘーゲルなどを社会主義の擁護者にしたり、不思議な議論を展開していて、当時の社会主義理解の状況を思わせる。本論で主に論じられているのは、サン・シモン、フーリエ、マルクスらの議論である。ロバート・オーエンについては、本論での議論はないが、この序論で述べられているように彼の位置づけは確かであった。

 しかし、注目されるのは、久松はこの本の中の第22章に「フオーリール新案共同農場共同合宿所、一夫多妻、自由恋愛、人倫の大変動」という章を設けてフーリエの「新計画」を論じていたことである。すでに述べたように、箕作麟祥は『萬國新史』において、フーリエを紹介していたが、その内容は、「財本、労働、才智の三者により、世界万民を糾合し、・・・従来の政府、法律、習慣などをまったく一時に廃絶して、全世界を一の巨大な労働社中(=労働組合)となし、・・・各人たがいに労働を厭わずかえってこれを歓娯となすに至らしむべき説」を唱えたというもので、具体的ではなかった(箕作麟祥『萬國新史』、226頁)。日本でフーリエの思想がまとめて紹介されたのは、久松において最初ではなかろうか。ここで、久松は、「協同作業」とともに男女の関係の平等化についてもフーリエの説を詳しく論じていた。これは松子の注意を引かないはずはなかったと思われる。久松は、フーリエの「新案」は、「日用生活の旧習」を刷掃し、「人の労働と富の配分」においてできるだけ不平等を取り去り、あわせて、「家族の組織男女の関係」までも「根本的に革新」しようとするものであるとまとめている。そしてフーリエは、1600ないし2000人の農業者からなる共同農場(ハランクス=「ファランジュ」)を構想し、そこでは土地は社員によって共同で耕作され、日用の衣食の必要品は工場を作って製造され、社員は全員共同合宿所(ハランストーリー=ファランステール)に居住するという。そこでは、私有財産は全廃される。社員は、生産物の中から、各自の生活に必要な最低額を平等に取り、残りから「作業資本」を取り、残りの利潤を労働者に12分の5、資本主に12分の4、抜群功労者(才能)に12分の3を配分する。社員はその特性に応じて農工業の作業のうちの「一科」以上を執る。「何人も余分に労働するを要せず、不愉快なる仕事を執るに及ばず」。「自営自弁」である。またそこでは、役員職工の区別がなく、家事も共同合宿所のなかで行うので、男女の仕事が区別されることはない。そして、この共同体の中では、「男女の自由恋愛」は禁止されない(久松『近世社会主義評論』、100-113頁;久松については、猪原透「「自由民権」と「社会主義」のあいだ―久松義典の社会学研究をめぐって」『立命館大学人文科学研究所紀要』117号、2019年11月、367-397頁が参考になる)。このフーリエ理解はほぼ正確である(『世界の名著 オウエン、サン・シモン、フーリエ』、77-78頁参照)。

 ここに労働者生産協同組合と共同体と男女平等をともに組み込んだ思想があったのである。ロバート・オーエンとシャルル・フーリエ、これが松子の中に埋め込まれた思想のルーツではなかったか。

 このような本が出た後、松子は、台湾へ行き、1914年に帰るのである。その間に1910年に大逆事件が起き、社会主義者らは「冬の時代」を迎えるのであるが、1917年のロシア革命後、社会主義と共産主義への関心は強くなった。 とくに1919年はそういう関係の出版が集中して出た年であった。

 リチャード・イリー『近世社会主義論』(1919年)には、その「総論」において、京都帝国大学の経済学者田島錦治が社会主義について一般的に論じていて、社会主義の最初の実例として「ロバード・オウェン」を挙げ、こう述べている。

「西暦1835年、英国の工業家ロバード・オウェン氏は、社会を改良革新するの策を講ずる目的を以て一社を創立し、名けて「各国民各種族の協会」と称したり。而して此の結社たる、政事上の改革を計りたるに非ずして、社会上の改革に重きを措きたるが故に、其論議は世上より社会主義の称を得、その結社は社会党の名を得来たれり。」

(総論は田島の筆による。そのあとにイリーの社会主義論が訳されている。リチャード・イリー『近世社会主義論』)

 イリ―の翻訳である「本論」では、ロバート・オーエンの事業内容は書かれていない。しかし、バブーフ、サン・シモン、フーリエ、ルイ・ブラン、プルードン、マルクス、ラサールらの活動と思想がそれぞれに章を立てて詳しく述べられていた。とくにフーリエについていえば、かれの「ファランクス」と「ファランステール」の構想が詳しく説明されていた。「ファランステール」においては、人は「己の嗜好に従ひて自由に」職業を選択し、労働は人間を愉快し、婦人も労働を愛し、こうして「貨物の生産」は増加する。また、「ファランクス」においては、共同生活のなかで、無益な職務は廃止され、警察も、弁護士もいらなくなる。そこでは、農業が最も奨励さるべき職業となり、工業と商業は社会の必要を満たすだけに限定される。そして、「人は其の能力に応じて労働し、其の報酬は各人勤勉の度と、財能の多少と、資本の大小とに比例して適当に分配される」というのであった(イリー『近世社会主義論』97-104頁)。この時期までに「空想的社会主義者」がこれほどまで詳細に日本で紹介されていたことは、驚くべきことである。

 しかし、この時期、社会主義への関心はロバート・オーエンやフーリエら「空想的社会主義者」を越えて広がっていた。例えば、松子とともに1908年の赤旗事件で捕まり入獄していた堺利彦は、入獄中に大逆事件が起きたので連座を免れ、事件後の「冬の時代」には雌伏して売文社を起こし、新旧の社会主義者を集め、雑誌『新社会』によってロシア革命の紹介を行った。そして1919年に山川均と『社会主義研究』を発刊し、1920年設立の日本社会主義同盟の発起人となっていた。かれは、この『社会主義研究』に幸徳秋水と共訳した『共産党宣言』を掲載していた。そのほか1919年には、河上肇が個人雑誌『社会問題研究』に、「マルクスの社会主義の理論的体系」を掲載し、その中に『共産党宣言』の部分訳を載せ、櫛田民蔵は『経済学研究』に、「社会主義及び共産主義文書」を掲載し、『共産党宣言』第三章を紹介していた。松子はこうした動きをしっかりフォローしていたはずである。  

 こういう社会主義への関心の広がりの中で、ロバート・オーエンには新たな関心も生じたに違いない。1920年の4月から翌年11月まで、河上肇は『社会問題研究』に9回 にわたって「ロバアト・オーウェン(彼れの人物、思想及び事業)」を連載した。これは、オーエンの自伝の基づいたもので、かれがアメリカに行ってニュー・ハーモニーの事業に取り掛かる前の、ニュー・ラナークを中心とした活動と政府への提言活動を扱ったもので、社会主義という観点からしっかりと分析した論稿であった。これはかなりな影響力を持ったといわれる。ただこの連載は、測機舎の発足と時を同じくしており、「参考」にはならなかったかもしれない。測機舎の規約ができる6月までには、河上はまだニュー・ラナークの改革の話までは書いていなかったからである(『河上肇全集』11、118-230頁)。

 まとめるならば、1920年の測機舎の設立までの時期に、1920年に出た河上肇の論文は別として、松子はそれ以前の社会主義関係の出版物は目にしていたと思われる。とくに『六合雑誌』は、松子の眼に触れていたに違いない。そういう松子の周辺にいた末三とその同志たちは、ロバート・オーエンやフーリエの考えをなんらかのかたちで直接間接に参考にして、測機舎の組織を生み出したのである。

参考文献

『六合雑誌』

箕作麟祥『萬國新史』世界史研究所編、2018年

イリー、リチャード『近世社会主義論』(河上清訳、田島錦治補)法曹閣書院、1897年(明治30年)初版、1919年(大正8年)再販 原書は、Richard Ely, French and German Socialism in Modern Times. New York: Harper & Brothers, 1883.

久松義典『近世社会主義評論』文学同志会、1901年

『河上肇全集』11、岩波書店、1983年

『世界の名著 オウエン、サン・シモン、フーリエ』中央公論社、1975年

『明治文化全集』第 15 巻、日本評論新社、?

永井義雄『ロバアト・オウエンと近代社会主義』ミネルヴァ書房、1993年

(「世界史の眼」No.9)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする