5. 日本における「空想的社会主義」の理解
振り返るに、明治期において、ロバート・オーエンを含め社会主義はどのように紹介されてきたのだろうか。そして松子は社会主義文献とどのような接触をしたのだろうか。
明治に入って最初に社会主義について紹介しているのは、管見の限りでは、箕作麟祥『万国新史』(1871-77年)であろう。この中で、箕作は、1848年革命期の「ソシアリスム」を論じていて、サン・シモン、シャルル・フーリエ、コンデシラン、ルイ・ブラン、プルードンを紹介しているが、ロバート・オーエンもマルクスもそこには入っていなかった(世界史研究所編『萬國新史』、225-226頁)。
初期の社会主義を広めるのに貢献したのは、『六合雑誌』であった。『六合雑誌』は、1880年10月に小崎弘道,植村正久らが東京キリスト教青年会を起し,その機関誌として翌年に創刊したものである。『六合雑誌』は、社会主義運動への理解を示し,1898年に社会主義研究会が発足したのち,99年には安部磯雄が主筆となって、この研究会の機関誌的役割を担うようになった。そして1921年に廃刊されるまで、日清戦争後の社会主義運動に大きな影響を及ぼしたといわれる(『ブリタニカ国際大百科』)。広島時代、ミッション・スクールで学んでいた松子は、このキリスト教系の雑誌を読んでいたかもしれず、ミッション系の青山女学院在学時や、平民社に出入りしていた時期には確実に接していたのではないだろうか。
社会主義者の思想が初めて系統的に紹介されたのは、『六合雑誌』第7号(1881年)に載った小崎弘道 の「近世社会党ノ原因ヲ論ス」においてであった。この中で、小崎は、「社会説(社会主義思想)」には三つの種類があるという。一つは、宗教家もしくは哲学者たちの「同信同説」のものが集まって産業を共同にするもので、インド仏教やユダヤ教やキリスト教などに見られるが、「英国オーウエン氏の共産法」もここに入ると一言言及されている。二つは、現在の社会に不満でその改良を欲するもので、イギリスのトーマス・モアやフランスのフオリエー(フーリエ)、ルイ・ブランク(ルイ・ブラン)などがここに入る。そして三つ目は、当今の説で、「地面資本等各自の所有権を廃し、貧富貴賤の差別を滅し、各自其幸福を共有せんと図る」もので、カール・マルクスが代表であるとして、その説を詳しく論じている(『六合雑誌』第7号、106-107頁)。この小崎の論文は,日本で初めてマルクス主義に言及した論文と言われるが、日本の初期社会主義の社会主義像はこのような全体像を持っていたのである。
ロバート・オーエンについてやや具体的に紹介したのが、1891年の石谷斎蔵『社会党瑣聞』である。『社会党瑣聞』は、フランスやイギリスの社会主義者、つまりバブーフ、サン・シモン、シャルル・フーリエ、ルイ・ブラン、そしてロバート・オーエンらの経歴と運動を紹介して、とくにロバート・オーエンについては「英国社会党員ロバート・ヲーエン氏並にその主義の政社」という章を設けて、やや詳しく紹介していた。彼については、
「氏は自ら其資財を擲(なげう)ちニウ・ラナークと呼べる所に一の製造所を創立し、是に殖民の事業を初めたり。其主義とする所は、労働人を結合するの目的に出でたり。就中、労働者に向いて報酬の正しきと家計の整頓せざるべからざると、鰥寡(かんか)孤独を救恤(きゅうじゅつ)すべき事等、大に該社(=その会社)に益するところあり。」
と紹介していた(『明治文化全集』第 15巻、152頁)。ニウ・ラナークというのは、ニュー・ラナークの紡績会社のことで、オーエンはこの会社の社長をしていて、種々の改革をここで試みたのである。
日清戦争後の産業化の進むなか、1899年の『六合雑誌』222号に発表された河上清「英国社会主義の木鐸ロバート・オーエンを論ず」は、オーエンの経歴と社会主義思想をまとめて紹介したものであった。それは、オーエンが、ニュー・ラナーク紡績会社の社長として、労働者の賃金、就業時間、幼児労働禁止、福祉施設の整備、労働者への家屋提供、日用品提供などの改革を行い、会社の業績を上げたこと、それに倣い、政府にも労働時間制限、幼児労働の廃止などの労働者保護の政策を提言し、さらに無償の義務教育や、公衆図書館設置、貧者への住居提供などを求めたことを、述べていた。こうして、オーエンは「実行的社会主義者」であったとされる。その上で、かれの思想が論じられる。その柱は、労働者は使役するのではなくその「品性」を高めていくことによって生産も向上するという考えで、その「品性」を高めるにはそのための「境遇」(環境)が準備されなければならないという「品性養成論」であった。したがって、「国富」はそれ自体が目的ではなくて、「市民の高尚なる品性」を要請するための手段なのだという。このようにオーエンの思想を紹介したうえで、河上は、オーエンはどのような政治経済組織を考えていたのかを「論述」していないので、自分の解釈を述べるとして、オーエンは、自由競争による利潤を廃するために、貨物の費用は需給の均衡によるのではなく、生産費によるべきだとしていたのであり、自由競争を否定して、土地などの私有財産を廃し、「凡ての貨物は社会共同の所有」とすべきとしていたのだと述べた。では具体的にどういう組織によるのか。河上は、オーエンは、利潤をあげてそれを配当することを目的とする「キリスト教的社会主義」の創立した「生産組合」には反対であったという。では、オーエンは、自分の政治経済組織をどう作るかというと、「民権」によるのではなく、「地主資本主等より成れる議会政府」に思想の実現を求めたのだとし、これを批判していた(『六合雑誌』222号、15-25頁)。
この河上のオーエン理解は必ずしも正確ではなく、オーエンの「協同組合」については理解していなかった。オーエンは、「生産組合」に反対していたのではなく、ニュー・ラナークで労働待遇の改革をして生産を高めたあと、1820年ごろからは協同組合運動に関心を移し、生産と生活の共同化によって、資本主義の害悪に対抗しようとしたのである。永井義雄はこれを「協同社会主義」と呼んでいる(永井義雄『ロバアト・オウエンと近代社会主義』、6-7頁)。そして、アメリカにわたって、1826年には、インディアナ州に自給自足を原則とした私有財産のない共産主義的な生活と労働の共同体(ニューハーモニー村)の実現を目指したのである。しかし、河上はこの協同組合については語っていないのである。
とはいえ、この河上論文は広く影響を与えたといわれ、松子もこれを読んだはずである。のちの「測機舎」のことを考えると、松子はニュー・ラナークでの改革には共鳴したのではなかろうか。河上は、慶應義塾で福沢のもとで社会主義を知り、青山学院で社会主義とマルクスの勉強会を開いたりして、1897年、23歳のときに『万朝報』に初めて論文を出していた。松子が1904年に青山女学院に入ったときは、青山学院のそういう雰囲気が伝わっていたことと思われる(なお、河上は1901年にはアメリカへ留学していた)。
しかし、河上でさえ「協同組合」については語っていないということは、大きな問題である。河上らが紹介したロバート・オーエンの「ニュー・ラナーク」事業は、あくまでも労働者の待遇改善という政策であった。しかし、それは測機舎の一面ではあってもすべてではなかった。測機舎の特徴は労使関係を否定した「労働者生産協同組合」という側面である。では、松子らは「協同組合」については、どこで学んだのだろうか。それを探らなければならない。鍵はつぎにある。
自由民権運動の出身で、1880年には『万国史略』を出していて、その後社会主義に接近し、ジャーナリストとして活動していた久松義典は、著書『近世社会主義評論』(1901年)において、当時の社会主義理解を全体的に示していた。
その「序論」において、久松はこう述べている。
「そもそも社会主義は、19世紀の新産物なり。その起源に遡れば、フランスのルーソー・・・等先ず自由平等の主義を唱道し、イギリスにてはロバート・オーウイン協同作業の理を説き、ドイツのヘーゲル、フィヒテ、ラッサル等これを顕彰し、もって漸く(ようやく=しだいに)発達せしが、その広く世にあらわれたるは、1817年イギリス議会にオーウインが初めて社会的建議を提出し、1830年フランス、サン・シモンの新言論出で、尋(つい)でフオーリール(フーリエ)の新計画起り、蹶后(けつご=すぐあとに)フランス革命(1848年革命のこと)の破裂あり、新社会党ルイ・ブラン、カール・マルクスの運動あり、終に1872年ハーグに開きし萬國連合大会において、社会党は断然として無政府党と分離し、ここに現今の社会的民政主義の純団体を生ぜり」(久松『近世社会主義評論』、4頁)。
久松は、社会主義のルーツをルターまで遡ったり、ヘーゲルなどを社会主義の擁護者にしたり、不思議な議論を展開していて、当時の社会主義理解の状況を思わせる。本論で主に論じられているのは、サン・シモン、フーリエ、マルクスらの議論である。ロバート・オーエンについては、本論での議論はないが、この序論で述べられているように彼の位置づけは確かであった。
しかし、注目されるのは、久松はこの本の中の第22章に「フオーリール新案共同農場共同合宿所、一夫多妻、自由恋愛、人倫の大変動」という章を設けてフーリエの「新計画」を論じていたことである。すでに述べたように、箕作麟祥は『萬國新史』において、フーリエを紹介していたが、その内容は、「財本、労働、才智の三者により、世界万民を糾合し、・・・従来の政府、法律、習慣などをまったく一時に廃絶して、全世界を一の巨大な労働社中(=労働組合)となし、・・・各人たがいに労働を厭わずかえってこれを歓娯となすに至らしむべき説」を唱えたというもので、具体的ではなかった(箕作麟祥『萬國新史』、226頁)。日本でフーリエの思想がまとめて紹介されたのは、久松において最初ではなかろうか。ここで、久松は、「協同作業」とともに男女の関係の平等化についてもフーリエの説を詳しく論じていた。これは松子の注意を引かないはずはなかったと思われる。久松は、フーリエの「新案」は、「日用生活の旧習」を刷掃し、「人の労働と富の配分」においてできるだけ不平等を取り去り、あわせて、「家族の組織男女の関係」までも「根本的に革新」しようとするものであるとまとめている。そしてフーリエは、1600ないし2000人の農業者からなる共同農場(ハランクス=「ファランジュ」)を構想し、そこでは土地は社員によって共同で耕作され、日用の衣食の必要品は工場を作って製造され、社員は全員共同合宿所(ハランストーリー=ファランステール)に居住するという。そこでは、私有財産は全廃される。社員は、生産物の中から、各自の生活に必要な最低額を平等に取り、残りから「作業資本」を取り、残りの利潤を労働者に12分の5、資本主に12分の4、抜群功労者(才能)に12分の3を配分する。社員はその特性に応じて農工業の作業のうちの「一科」以上を執る。「何人も余分に労働するを要せず、不愉快なる仕事を執るに及ばず」。「自営自弁」である。またそこでは、役員職工の区別がなく、家事も共同合宿所のなかで行うので、男女の仕事が区別されることはない。そして、この共同体の中では、「男女の自由恋愛」は禁止されない(久松『近世社会主義評論』、100-113頁;久松については、猪原透「「自由民権」と「社会主義」のあいだ―久松義典の社会学研究をめぐって」『立命館大学人文科学研究所紀要』117号、2019年11月、367-397頁が参考になる)。このフーリエ理解はほぼ正確である(『世界の名著 オウエン、サン・シモン、フーリエ』、77-78頁参照)。
ここに労働者生産協同組合と共同体と男女平等をともに組み込んだ思想があったのである。ロバート・オーエンとシャルル・フーリエ、これが松子の中に埋め込まれた思想のルーツではなかったか。
このような本が出た後、松子は、台湾へ行き、1914年に帰るのである。その間に1910年に大逆事件が起き、社会主義者らは「冬の時代」を迎えるのであるが、1917年のロシア革命後、社会主義と共産主義への関心は強くなった。 とくに1919年はそういう関係の出版が集中して出た年であった。
リチャード・イリー『近世社会主義論』(1919年)には、その「総論」において、京都帝国大学の経済学者田島錦治が社会主義について一般的に論じていて、社会主義の最初の実例として「ロバード・オウェン」を挙げ、こう述べている。
「西暦1835年、英国の工業家ロバード・オウェン氏は、社会を改良革新するの策を講ずる目的を以て一社を創立し、名けて「各国民各種族の協会」と称したり。而して此の結社たる、政事上の改革を計りたるに非ずして、社会上の改革に重きを措きたるが故に、其論議は世上より社会主義の称を得、その結社は社会党の名を得来たれり。」
(総論は田島の筆による。そのあとにイリーの社会主義論が訳されている。リチャード・イリー『近世社会主義論』)
イリ―の翻訳である「本論」では、ロバート・オーエンの事業内容は書かれていない。しかし、バブーフ、サン・シモン、フーリエ、ルイ・ブラン、プルードン、マルクス、ラサールらの活動と思想がそれぞれに章を立てて詳しく述べられていた。とくにフーリエについていえば、かれの「ファランクス」と「ファランステール」の構想が詳しく説明されていた。「ファランステール」においては、人は「己の嗜好に従ひて自由に」職業を選択し、労働は人間を愉快し、婦人も労働を愛し、こうして「貨物の生産」は増加する。また、「ファランクス」においては、共同生活のなかで、無益な職務は廃止され、警察も、弁護士もいらなくなる。そこでは、農業が最も奨励さるべき職業となり、工業と商業は社会の必要を満たすだけに限定される。そして、「人は其の能力に応じて労働し、其の報酬は各人勤勉の度と、財能の多少と、資本の大小とに比例して適当に分配される」というのであった(イリー『近世社会主義論』97-104頁)。この時期までに「空想的社会主義者」がこれほどまで詳細に日本で紹介されていたことは、驚くべきことである。
しかし、この時期、社会主義への関心はロバート・オーエンやフーリエら「空想的社会主義者」を越えて広がっていた。例えば、松子とともに1908年の赤旗事件で捕まり入獄していた堺利彦は、入獄中に大逆事件が起きたので連座を免れ、事件後の「冬の時代」には雌伏して売文社を起こし、新旧の社会主義者を集め、雑誌『新社会』によってロシア革命の紹介を行った。そして1919年に山川均と『社会主義研究』を発刊し、1920年設立の日本社会主義同盟の発起人となっていた。かれは、この『社会主義研究』に幸徳秋水と共訳した『共産党宣言』を掲載していた。そのほか1919年には、河上肇が個人雑誌『社会問題研究』に、「マルクスの社会主義の理論的体系」を掲載し、その中に『共産党宣言』の部分訳を載せ、櫛田民蔵は『経済学研究』に、「社会主義及び共産主義文書」を掲載し、『共産党宣言』第三章を紹介していた。松子はこうした動きをしっかりフォローしていたはずである。
こういう社会主義への関心の広がりの中で、ロバート・オーエンには新たな関心も生じたに違いない。1920年の4月から翌年11月まで、河上肇は『社会問題研究』に9回 にわたって「ロバアト・オーウェン(彼れの人物、思想及び事業)」を連載した。これは、オーエンの自伝の基づいたもので、かれがアメリカに行ってニュー・ハーモニーの事業に取り掛かる前の、ニュー・ラナークを中心とした活動と政府への提言活動を扱ったもので、社会主義という観点からしっかりと分析した論稿であった。これはかなりな影響力を持ったといわれる。ただこの連載は、測機舎の発足と時を同じくしており、「参考」にはならなかったかもしれない。測機舎の規約ができる6月までには、河上はまだニュー・ラナークの改革の話までは書いていなかったからである(『河上肇全集』11、118-230頁)。
まとめるならば、1920年の測機舎の設立までの時期に、1920年に出た河上肇の論文は別として、松子はそれ以前の社会主義関係の出版物は目にしていたと思われる。とくに『六合雑誌』は、松子の眼に触れていたに違いない。そういう松子の周辺にいた末三とその同志たちは、ロバート・オーエンやフーリエの考えをなんらかのかたちで直接間接に参考にして、測機舎の組織を生み出したのである。
参考文献
『六合雑誌』
箕作麟祥『萬國新史』世界史研究所編、2018年
イリー、リチャード『近世社会主義論』(河上清訳、田島錦治補)法曹閣書院、1897年(明治30年)初版、1919年(大正8年)再販 原書は、Richard Ely, French and German Socialism in Modern Times. New York: Harper & Brothers, 1883.
久松義典『近世社会主義評論』文学同志会、1901年
『河上肇全集』11、岩波書店、1983年
『世界の名著 オウエン、サン・シモン、フーリエ』中央公論社、1975年
『明治文化全集』第 15 巻、日本評論新社、?
永井義雄『ロバアト・オウエンと近代社会主義』ミネルヴァ書房、1993年
(「世界史の眼」No.9)