コロナウィルスをめぐる先行きの不透明さの中、2021年が明けました。「世界史の眼」も第10号を数えます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
今号では、経済史家の権上康男さんに、「経済学の巨人、リュエフとケインズから学ぶ―現代史のなかの経済理論―」をご寄稿頂きました。現在の「グローバル経済」を考える上でも大変示唆に富んだ論考です。また、南塚信吾さんには、神川松子と測機舎をめぐる連載の最終回となる第6回をお寄せ頂いています。
コロナウィルスをめぐる先行きの不透明さの中、2021年が明けました。「世界史の眼」も第10号を数えます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
今号では、経済史家の権上康男さんに、「経済学の巨人、リュエフとケインズから学ぶ―現代史のなかの経済理論―」をご寄稿頂きました。現在の「グローバル経済」を考える上でも大変示唆に富んだ論考です。また、南塚信吾さんには、神川松子と測機舎をめぐる連載の最終回となる第6回をお寄せ頂いています。
主要諸国における経済関連の公的歴史文書は今日、大半が20世紀末まで閲覧できる。しかしこれらの文書を利用した歴史研究は未だ部分的にしか進んでいない。そのために欧米先進諸国の現代経済史は、経済理論史を下敷きにして、次のようなイメージで捉えられていると言ってよかろう。まず、両大戦間期にケインズ主義が徐々に影響力を拡大する。第二次世界大戦後にこの理論に適合的な、戦時体制を多かれ少なかれ継承した、組織された経済社会が形成される。ケインズ主義はしかし、1970年代の長期不況を経て市場機能の強化を説くマネタリズムにその地位を譲る。最後に、マネタリズムと変動相場制に媒介されて経済のグローバル化が進み、経済社会は各種規制の緩和によって著しく柔軟なものへと改造される。
このような、英語圏で生まれた経済理論に則して図式化された20世紀史の理解は、言うまでもなく歴史研究の必要を満たすものではない。本稿では、この図式から漏れた重要と思われる史実を掘り起こすとともに、経済理論と時代とのかかわりを問うことにしたい[1]。
とりあげるのは2人の理論家ジャック・リュエフ(1896-1978)とジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)である。ほぼ同じ時代を生きたリュエフとケインズは、一方はフランス、他方はイギリスという異なる文化圏を背景にもち、しかもアプローチも主張も互いに正反対であった。2人は経済、社会、政治を一体のものとして扱うことのできた、事実上最後の政治経済学者でもあった。ケインズは経済学に革命を起こしたと言われるように、着想の斬新さにおいてきわだっていた。一方のリュエフは、古典派から新古典派へとつづく経済学の古典理論に忠実であった。とはいえ、彼は単なる保守的な経済理論家ではない。彼には革新的な一面もあった。たとえば、1938年に大陸欧州の自由主義者たちとともに新自由主義(ネオ・リベラリズム)を立ち上げている。
リュエフの名は大陸欧州諸国以外ではあまり知られていないが、20世紀を代表する経済学の巨人、ひいては知の巨人とも言える存在であった。彼はケインズと同じく、エリート財務官僚として職業生活をスタートさせている。しかしケインズとは違い、財務官僚としてのキャリアを全うしている。彼は官僚としての顔の他に、経済学者、哲学者、大学教授、EEC司法裁判所判事という4つの顔をもち、浩瀚な6巻本の著作全集を残している。主著は経済学と社会学にまたがる基礎理論に捧げられた2巻本の大著『社会秩序』(1945)である。
リュエフは国際連盟事務局に出向中の1928年秋に、ケインズとともにジュネーヴの国際高等研究院に招かれ、公開講演を行うとともに2人で議論を戦わせている。彼は当時34歳であった。その3年前に、イギリスで失業者が異常に多いのは失業保険制度に原因があるとする衝撃的な論文を発表し、彼の名はヨーロッパ中に知られていた。一方のケインズは、気鋭の革新的な経済学者として名声を博していた。この2人を、高等研究院の院長で産業革命史研究の大家ポール・マントゥーが対決させたのである。
リュエフはロンドン駐在財務官の時代にもロンドンおよびケンブリッジで講演を行い、会場に来ていたケインズと論争している。1931年には、ケインズの求めに応じて『エコノミック・ジャーナル』誌(以下、JEと略称)に寄稿し、ケインズと激論を交わしている。
第二次世界大戦が終結し戦後復興が始まると、西側諸国はケインズ主義一色に染まった。ケインズは1936年に『雇用、利子および貨幣の一般理論』(略称『一般理論』)を出版していた。この著作で展開された理論が、長期のデフレと大戦で経済が縮小均衡に陥っていた西側諸国の政策当局者たちの眼に、経済的繁栄と社会平和をもたらす救世主として映ったのである。1946年に、リュエフは時流に抗い、『一般理論』を全面的に批判した論文「一般理論にあらざる『一般理論』」を発表する。ただしケインズはその前年に没していた。
リュエフとケインズの論争は価格メカニズムよる調整をめぐるもので、経済理論レヴェルのものであった。経済学の古典理論によれば、価格が自由に変動することによって調整がなされ、経済は均衡する。ケインズはこの古典理論を否定し、市場経済には、財政・金融面からの公権力の介入が必要であると主張する。これにたいしてリュエフは、自らの理論研究にとどまらず、前出の失業についての実証研究、およびフランスを中心とする西欧諸国の国際収支についての同じく実証研究にもとづいて、価格メカニズムはさまざまな障害を乗り越えて厳格に機能していると主張して、一歩も譲らなかった。
リュエフはケインズによる理論構築にも重大な問題があると言う。たとえば『一般理論』においては、有名な流動性選好仮説以外にも、中央銀行が通貨の流通量を決めている、国内市場が各所でブロックされているなど、いくつかの暗黙の了解事項が存在する、と。もとより仮説や前提を設けることに合理的根拠があるなら問題はない。だが、合理的根拠がなければ理論の信頼性は失われる。リュエフによれば、ケインズが設定した仮説や前提にはそうした根拠がない。それゆえ彼は「『一般理論』は一般理論の名に値しない」と言い切る。ちなみに、ケインズと親しかったロンドン大学LSEのフリードリヒ・フォン・ハイエクも、後年(1966)に『一般理論』に重大な欠陥があることに早くから気づいていたと証言し、ケインズのこの著作を、「時事論説を『一般理論』と称した」と批判している。
では、なぜケインズは強引と思える仮説や前提を多用したのか。リュエフのケンブリッジ講演を聴いたケインズが1931年5月20日付でリュエフに送った書簡のなかに、この疑問を解く手掛かりがある。ケインズはこの書簡で、リュエフの講演を理論面で高く評価した後にこうつづけている。「私が思うに、あなたは、諸構造はそれ自体で元の構造に調整されるとしていますが、私はこう考えます。あなたが当てにしている柔軟性は空想であり、われわれは
歴史研究の側から見て興味深いのは、2人の主張が新しい時代への強烈な、しかも相互に異なる危機意識と不可分な関係にあったことである。先のJE 誌上の論争において、経済理論の範囲を逸脱した批判の応酬が行われている。リュエフはケインズをこう批判する。市場の管理という発想は「自由主義経済」と「管理経済」のいずれを選択するかという問題にかかわっており、「経済理論の観点よりも政治的観点から見てきわめて重要である」。なぜなら、それは「共産主義に似た『組織経済』の実践に必然的に向かう」からである。やや唐突と思われるので、別の視点から言い換えてみよう。市場経済においては、無数の経済単位(個人、企業、行政機関など)が価格の変動に日々刻々、反応して自由に行動する。その結果として調整がなされ、均衡が成立する。市場を管理することは、そうした自由な行動を制限するということであり、その行き着く先は権威主義経済=権威主義国家である。
この批判にケインズはこう反論する。価格メカニズムによる調整は社会のさまざまなカテゴリー、なかでも最大多数を占める労働者に痛みを与える。それゆえ「不可能とは言わないまでも政治的、人道的に困難である」。さらに、リュエフが調整の好事例としてフランスの金本位制復帰にあげたのを捉えて、激しい言葉で応酬する。戦後フランスの混乱ぶりを見れば「調整が円滑に行われた好事例などとはとても言えない。自身がフランス人であるリュエフ氏が豌豆の鞘を剥くように容易なことを証明するのに、フランスの戦後史を引用するとは、何と物忘れの酷いことよ!」。しかしケインズは、「共産主義に似た『組織経済』の実践に必然的に向かう」という、自らに向けられた批判には沈黙している。
2人の間で争われていたのは調整の是非である。ケインズは調整が政治と人道の両面から見て困難であるとし、既存の制度や慣行を変更しなくて済むシステム、すなわち公権力によって管理された市場経済の構築を選択する。しかしリュエフによれば、調整がなされず、経済の不均衡が放置された社会は存続できない。仮に調整を財政・金融政策によって先延ばしするなら、経済は危機に見舞われる。それさえ無視して調整をさらに先延ばしすれば、最終的に市場の暴力によって調整が強行される。それゆえ介入を可能な限り控えて経済を日常的なミクロ・レヴェルの調整に委ねるべきだと、彼は言う。
19世紀末に金本位制が主要諸国に普及したことにより、国際金本位制と呼ばれる非公式の国際通貨制度が成立した。この制度は第一次世界大戦を契機に消滅し、以後、再建されることがなかった。国際通貨制度は世界経済の基盤となるものであるが、そのあり方をめぐってもリュエフとケインズは真っ向から対立した。
問題の淵源は第一次世界大戦にある。この大戦を通じて世界の金がアメリカ一国に集中し、他の諸国には通貨発行に必要な金の確保が難しくなった。アメリカがドルを大幅に切り上げれば金本位制のメカニズムにより金がアメリカから流出し、問題は解決する。だがその場合にはアメリカ経済がデフレに陥る。デフレを回避しつつ、国際通貨制度を再建するために考案されたのが金為替本位制である。この通貨制度は金と交換が可能な新旧2つの大国の通貨(ドルとポンド)を準備として各国が自国の通貨を発行する制度である。この制度の普及を主導したのはイギリスである。大戦後のイギリスにはもはや経済大国の面影はなかった。しかし他の諸国がポンドを準備として用い、イングランド銀行が金の国際的移動を「中央銀行間協力」の名のもとに管理できるなら、イギリスは基軸通貨国になることができる。金為替本位制はアメリカだけでなくイギリスにとっても都合のよい制度だったのである。
このような大戦後の状況にすばやく反応したのがケインズである。彼は1920年代初頭から、金本位制への復帰はデフレを招くとして、通貨発行を金から切り離すべきだとする「修正金本位制」の側に立って論陣を張った。これにたいしてフランス政府は、イギリスが採用した国際通貨戦略(金為替本位制、金移動の国際管理)を「帝国主義」であるとして強く反発した。リュエフはこのフランスの主張―すなわち「通貨正統主義」―を、財務官僚と経済理論家の二重の資格で理論面から根拠づける役割を果たしていた。
第二次世界大戦後も世界の金はアメリカに集中した。問題の構図は第一次世界大戦後と変わらず、再建された国際通貨制度も超大国アメリカの国民通貨ドルを基軸とする金為替本位制(いわゆる「ブレトンウッズ体制」)となった。この通貨制度は、デフレの回避とアメリカによる通貨覇権の掌握という経済的ならびに政治的要請を満たすものである。
ところで金為替本位制には2つの重大な問題が伏在していた。第一に、第一次世界大戦後の復興が進み、仏、独、日のような主要諸国がドルやポンドを金と交換するようになれば、基軸通貨国の金準備が減少し金為替本位制は立ち行かなくなる。実際、1928年にフランスが金本位制復帰を宣言すると、イギリスからフランスへ金が流出し、ポンドが危機に陥った。イギリスはフランスに金の放出を迫っただけでなく金融制度の改革をも要求したが、フランスはいずれの要求にも応じなかった。「中央銀行間協力」は画餅に帰したのである。イギリスは結局、1931年に金本位制を離脱し、これを契機にデフレが世界に波及することになる。
第二次世界大戦後にも同じことが繰り返された。主要な欧州諸国の中央銀行は1960年代に入ると、金の備蓄を始める。例外は安全保障上の理由からアメリカと事を構えるわけにいかない西ドイツ(および日本)だけであった。アメリカからの金の流出は増えつづけ、やがてドルならびに国際通貨制度が危機に瀕することになる。
金為替本位制に伏在する第二の問題はこの制度がインフレ体質だったことにある。リュエフは1930年代初頭に、金為替本位制に特有のメカニズムが市場経済の自動調整を妨げてインフレを惹起し、国際通貨制度を崩壊に導くことに気づき、論文に発表していた。そのメカニズムとは、ごく簡単に言えばこうである。金為替本位制のもとでは、基軸通貨国の通貨(ポンド、ドル)は信用によって他の諸国に移転し、最終的にその地の中央銀行の準備に繰り入れられる。当該中央銀行は、この外貨を即座に流出元のロンドンないしニューヨークに送り、その地の銀行に預金する。それは預金収入を得るためである。それゆえ、流出した通貨は事実上、流出元にとどまったままである。その間に、流出先の銀行でも、流出元の銀行でも、通貨(預金通貨)が乗数的に発行される。問題の通貨はくり返し何度でも貸し出すことができるから、世界規模で通貨の発行増が生じる。金為替本位制は「本質的にインフレ的」なのであり、大恐慌前夜のブームには金為替本位制も一役かっていた、とリュエフは言う。
1950年代末に復興を終えた主要諸国が通貨の交換性を回復すると、アメリカからこれら諸国へ大量のドルが流出し、世界にインフレの兆しが現れる。それと併行してアメリカからの金の流出も増える。状況は大恐慌前夜に酷似していた。事態を放置すればアメリカはドルと金との交換を停止せざるを得なくなる。この時、リュエフは金為替本位制に特有のメカニズムを講演や論文で説明し、金為替本位制を廃止して金本位制に戻さなければ世界経済は崩壊すると警鐘を鳴らした。彼の危機論は国際社会に大きな波紋を呼んだ。リュエフは次々と欧米の主要都市に講演に招かれ、彼の講演原稿はすべて世界の有力紙に掲載された。彼は時の人となったのである。
しかし、アメリカの財務・通貨当局者たちによる危機の診断はリュエフと違い、楽観的であった。彼らによれば、ドル危機の原因はアメリカの国際収支の不均衡にある。アメリカが対外支払いを削減し、国外から資金の流入を図れば、危機は短期間で克服できる。ただし、その場合には在外ドルが減り、国際流動性(国際決済用の金融資産)が減少する。将来、発展途上国が工業化し、成長するようになれば国際流動性の不足が生じる。それゆえ国際協力によって予め新たな国際流動性を創設しておく必要がある。この議論は、経済成長には追加的な貨幣が必要だとするケインズの信用理論を国際領域に拡大適用したものだと言われる。
リュエフもアメリカ側の立論にケインズの影があるのを見逃さなかった。彼は理論と実証の両面からこう厳しく批判する。アメリカの誤りは国際収支のメカニズムと金為替本位制のメカニズムを正しく理解していないことにある。数量データは、アメリカでも国際収支の自動均衡メカニズムが厳格に働いていることを示している。それなのに国際収支の不均衡が常態化しているのは、金為替本位制のメカニズムに、すなわちドルが信用を介して国外に大量に流出していることに原因がある。金為替本位制を廃止しない限りドル危機は解決しない。
アメリカ政府と西欧諸国政府の双方の専門家たちは、リュエフによる診断と対処法を無視した。わずかに大統領シャルル・ドゴールがリュエフに同調し、1965年2月、世界に向けて金本位制復帰を呼びかける声明を発表しただけである。だがドゴールも、国際的孤立を怖れて自らの声明に固執しなかった。かくてリュエフは孤立無援であった。とはいえ各種の情報源によれば、リュエフを支持する経済専門家は必ずしも少なくなかった。フランス大統領府だけでなくアメリカ政府の高官たちにも、また国際決済銀行の上級職員たちにも、リュエフの議論に共感する者がいた。リュエフの分析によれば、通貨覇権の維持に執着する超大国アメリカの世論とアメリカ政府に配慮し、彼らは自らの意見を公にできなかったのだという。
リュエフによる危機の診断の当否は措くとして、その後の歴史に照らすなら、アメリカ政府の主張には分がなかった。同政府は結局ドル危機を自らの手で解決できず、1970年代初頭に金/ドルの交換制停止に追い込まれ、世界経済は長期にわたり深刻な混乱と不況に見舞われる。リュエフの預言は的中したのである。この一事は、歴史が形成される過程で経済理論(リュエフによれば「科学」)と、社会や政治がそれぞれどのような役割を演じるのかを、また両者の間に生じる齟齬が歴史に特有のダイナミズムをもたらすことを物語っている。
「長期的にみると、われわれはみな死んでしまう」―これはケインズが『貨幣改革論』(1923)のなかで用いたフレーズである。市場が均衡を回復するまで手をこまねいて待つわけにいかない、自由主義も経済学も短期の問題にこそ応えられねばならない、というのが言葉の含意である。まさに20世紀に登場した新しい課題の核心を言い当てた名言である。
リュエフをはじめとする自由主義者たちがケインズの提起した課題に取り組むのは、第二次世界大戦前夜の1938年のことである。この年の秋にパリで、アメリカのコラムニスト、ウオルター・リップマンを迎えて国際シンポジウムが開かれた。出席者は仏、独、墺の有力な自由主義者たち26人である。5日に及ぶシンポジウムの主要な目的は、自由主義を再定義し、ケインズ的課題に応えられるようにすることにあった。当時の大陸欧州諸国に許された選択肢は事実上、ファシズムと社会主義しかなく、自由主義はまさに風前の灯であった。短期の問題に応えられない限り自由主義に未来はない―これがシンポジウムの出席者たちに共通する認識であった。討議の末に再定義された自由主義は、やがて「新自由主義」の名称で、大陸欧州諸国において市民権を獲得する。この新しいタイプの自由主義の誕生を理論面で支えたのはリュエフである。
シンポジウムでは、自由主義は国家の介入、なかでも社会領域への介入を排除するものではない、とする点で出席者たちの意見は容易に一致した。それは当時流布していた夜警国家論で知られる19世紀の素朴な自由主義の否定を意味する。しかし問題は単純ではない。国家が介入すれば生活水準の向上に必要な効用の最大化が望めなくなる。では、国家の介入と効用の最大化との折り合いをどうつけるべきか。討議の過程でさまざまな意見が出されたものの、具体的な解決法を提示するまでには至らなかった。翌1939年に(新)自由主義者たちの国際的な結節点としてパリに「自由主義刷新国際研究センター」が創設される。具体的な解決法の検討はこのセンターの第一回セミナーにおけるリュエフの講演に持ち越された。
リュエフはこの講演で独創的な新自由主義の理論を公にする。それは次の4項目に集約できる。①自由主義の本質は最大効用の実現ではなく、価格メカニズムが機能することにある。②自由主義のもとでも国家の介入は可能であるが、介入は価格メカニズムと両立するものでなければならず、また均衡財政の範囲内に抑えられねばならない。均衡財政の維持が必要なのは、財政赤字によってインフレが発生すれば介入の効果が失われるからである。こうした限定付きの介入は「自由主義的介入」と呼ばれる。③具体的な介入のあり方は経済理論(科学)から導かれた選択肢のなかから、民意を体現する政策当局が選ぶ。④自由主義者と多様な社会カテゴリー、なかでも労働者たちとの対話は可能である。むしろ対話は積極的に行うべきである。ちなみに、セミナーの会場には社会党系労働組合の指導者たちが出席していたが、彼らはリュエフが定式化した新自由主義を受け入れる意向を表明した。
リュエフの新自由主義理論は第二次世界大戦後にさらに深められる。この深化した理論によれば、(新)自由主義は自然発生的なものではない。それは人間が長期の歴史を通じて漸進的に獲得してきたものであり、法制度によって守られるべきものなのである。リュエフは1958年の論文で、ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』の冒頭の一節を引用し、新自由主義についてこう記している。「人は自由なものとして生まれた。ところが、いたるところで鎖につながれている」。自由をルソーのように理解すれば、失われた自由を取り戻すには、人から自由を奪った障害物を取り除くだけでよい。だが新自由主義者はそうは考えない。自由は数千年の歴史を経て徐々に獲得されたものであり、自由は常に失われる危険にさらされている。「ルソーとは反対に、人は鎖に繋がれて誕生したのであり、人を鎖から解き放せるのは諸制度の進歩だけである」。新自由主義はまさしく「制度自由主義」なのである。
大陸欧州では第二次世界大戦後に欧州石炭鉄鋼共同体と欧州経済共同体が創設された。欧州共同体は、すでに1928年に、リュエフ自身が構想していたものである。リュエフはこの共同体こそが制度自由主義としての新自由主義を具現するものであると言う。その理由を彼はこう説明する。2つの共同体の基盤をなすのは「共同市場」である。人、物、資本が国境を越えて自由に移動できるこの市場は、自由主義が目標とする完全な市場である。ただし、共同市場は閣僚理事会(石炭鉄鋼共同体の場合には最高機関)、委員会、裁判所という国家に似た諸制度と、それを運用するための法規類によって支えられている。
かくて1938年のシンポジウムとリュエフによって定式化された新自由主義は、20世紀末にアメリカを介して普及した新自由主義とは異なる。それには3つの大きな特徴がある。第一に、最大効用の実現を絶対視せず、市場経済と社会との折り合いを重視する。ドイツではこのタイプの新自由主義を「社会的市場経済」と呼び、またEUの基本法であるリスボン条約(2007)には「社会的市場経済」がEUの社会理念として規定されているが、その根拠はここにある。第二に、国家の介入を財政均衡の範囲内で容認する(介入自由主義、反インフレ主義)。第三に、自由を法制度の枠組みのなかに位置づけて保証する(制度自由主義)。
以上に紹介した諸事実は、英語圏で出版された文献類からすっぽり抜け落ちている。今日、一般に流布している情報には大きな偏りがあると見なければならない。こうした偏りを正す作業はひとえに歴史研究者の手に委ねられていると言えよう。
ところで、リュエフ最晩年の1970年代に長期不況が発生する。これ以降、経済面から見た世界は大きく変貌する。国際通貨制度が変動相場制へ移行し、資本の国際移動が活発化する。資本の国際移動はやがて「金融自由化」の名のもとに制度化される。これにともない対外直接投資が急増し、発展途上国の工業化と旧社会主義国の市場経済化が進む。その結果、地球規模に広がる市場経済が存在感を増し、新たに「グローバル市場」、「グローバル経済」という用語が市民権を獲得する。有力な企業の多くが企業戦略の要にグローバル市場におけるシェア拡大を据えるようになるからである。グローバル市場を支配するルールは、市場原理主義とも言えるタイプの自由主義、「ジャングルの自由」に似た制度不在の自由である。
国民国家の内部では、グローバル化する経済に経済社会を適応させるために国有部門の民営化、雇用・労働規制の緩和、法人税の引下げなどが実施される。この動きと軌を一にして経済のサーヴィス化や情報通信技術の発展と普及が進む。国家が果たしてきた所得の再分配機能は著しく低下し、所得格差や地域間格差が拡大する。かつて肯定的な評価をともなって語られた福祉国家も完全雇用も死語となる。一方、こうした新たな諸条件のもとでエネルギーや天然資源の消費が爆発的に増え、地球環境の破壊が加速する。ケインズやリュエフが活躍した国民国家と職業団体の黄金時代は完全に過去のものとなったかに見える。
この間に経済学の中心はアメリカに移り、数学を重視する、多分に技術論に偏った経済学が主流となる。このために、21世紀の経済社会が直面している課題に正面から対峙し、独創的な処方箋を提示した政治経済学者は、筆者の知る限り現れていない。
とはいえ政治経済学の伝統はEU諸国において生きつづけている。その根拠はEUが共同市場と単一通貨圏(ユーロ圏)を基盤にしていることにある。いずれも国家相互間ならびに国民相互間の「共同」や「協力」が基盤になっており、その社会理念は前述したように新自由主義(社会的市場経済)である。つまり、EUは変動相場制と「ジャングルの自由」の支配するグローバル経済への、いわばアンチテーゼなのである。
このEUでは2007-08年の世界金融危機の後に、域内の金融部門にたいする監督と監視を強化するための機構改革が実施された。この機構改革の基礎になったのはジャック・ドゥ・ラロジエールを長とする作業班が作成した報告書である。ラロジエールは1970年代半ば-90年代初頭に、フランス財務省国庫局長、IMF専務理事、フランス銀行総裁を歴任した人物である。この報告書が作成された翌年に、筆者はラロジエールから聞き取り調査を行った。その折、彼はいかにも残念そうに次のように述懐した。
フランス政府はブレトンウッズ体制崩壊後の国際通貨制度をめぐり、長期間アメリカ政府と秘密交渉を行った。交渉の場でフランスは、制度を柔軟なものに変えるにしても、一定のルールを設けてそれをIMFに監視させるべきだと主張した。これにたいしてマネタリズムで理論武装したアメリカ政府は、為替相場を自由に変動させれば各国に最適の成長が保証される、よって国際的な監視機関は不要であると主張し、譲らなかった。結局、アメリカに押し切られて変動相場制が公認され、IMFは無力化されてしまった。しかし変動相場制移行後の現実は、アメリカの説明とは裏腹に矛盾と混乱に満ちたものであった。
ラロジエールは口には出さなかったものの、IMFが無力化されていなければ、世界の通貨・金融秩序は一定の規律のもとに置かれ、危機が発生しても酷いものにはならなかったはずだ、との思いがあったようである。グローバル経済の管理という発想は先年、来日してメディアを賑わせた『21世紀の資本』の著者トマ・ピケティにも見られる。自由は法制度のもとでのみ意味をもつというリュエフの考え方は、EUに、そしてまたフランスの識者たちによって確実に受け継がれているのである。
最後に一点を確認しておこう。たしかに経済面から見た世界はここ40年間で大きく変化したし、マクロ経済の管理技術も洗練されたものになった。しかし変化は現象面にとどまり本質には及んでいない。経済は市場経済のままであり、市場経済に固有の矛盾は排除できないからである。それだけに、市場経済の何たるかに政治経済学の側から深く切り込んだリュエフとケインズ、この2人が直接・間接に戦わせた古典的論争は今日なお色褪せてはいない。
[1] この小論は拙著『自由主義経済の真実―リュエフとケインズ』(知泉書館、近刊予定)を、歴史研究者向けに圧縮して示したものである。典拠についてはこの単著の関係箇所を参照されたい。
(「世界史の眼」No.10)
では、発足後の測機舎の実際の動きを見てみよう。当時は測量機械のほとんどを輸入に頼っていたが、創業の目的は外国製品に負けない測量機械をつくるということであり、それを前代未聞の工場組織によって実現しようという理想を掲げて測機舎は生まれたのであるが、当初は生みの苦しみを味わうことになった。
港区麻布笄町の48坪ほどの土地にある工場兼住宅で新生の測機舎が動き始めた。階下の14坪の工場に機械室から火造室までが設けられ、二階は時によって事務室、会議室、製図室、あるいは寄宿舎となった。いずれも優れた技術者であった細川、三上、松崎らは狭い工場で創意を発揮して制作に取り掛かった。ただ一人の非技術者であった末三は事務と外交をすべて引き受けた。また、夫人たちは昼の弁当作りに立ち働いた(松子『測機舎を語る』96-99頁)。
あいにく、1920年に測機舎が発足してすぐにこの春には戦後不況が襲ってきた。理想の高い新しい組織がスタートし、高い技術力をほこる製品ができても、新興の工場の製品を買ってくれる市場もなく、苦しい立ちあがりであった。末三は測量機を担いで、売り込みに歩き回った。それでも初年は製品は売れず、機械の修理代がいくらか入っただけだった。組合員に給料は支払われることになってはいたが、実際にそこから支給を受ける人は少なく、みなが測機舎のために資金を残した。したがって、組合員たちの生活は苦しかった(松子『測機舎を語る』81頁;鹿子木『いのちの軌跡』82-86、88頁)。
融資を受けるはずの太宰銀行は倒産してしまった(鹿子木『いのちの軌跡』88頁)。松子は金策に走り回った。松子は、「借金苦」であったと、金策の苦しさを吐露している(松子『測機舎を語る』111-122頁)。1920年の測機舎の様子について、鹿子木は、松子の『語る』(96-99)をも基礎にしつつ、こう回想していた。
「松子夫人の金策の苦労は続き、末三氏は一人で外交から事務員、小使いまで兼任し、便所の汲み取り口の修繕までやってのけた。重たい機械や資材を組合員と市電に持ち込んだり、手車で運んだり。私たちも組合員としての誓約を守り、月に5円か10円の生活費でも文句ひとつ言わず夢中で働いた」(鹿子木『いのちの軌跡』109頁)。
この時期のことと思われるが、松子はこう語っている。「数年来専念してきたロシア文学研究もその他あらゆる私の趣味或いは欲望を抛って、測機舎の擁立――測機舎の目的貫徹のために腐心したのであります。而して常に泰然自若として従容迫らざる西川の後に従いて焦燥しながら、ある時は資金の調達に、ある時は販路の開拓に狂奔したのであります。「あんたのやうに気ばかり焦燥っても事業の大成は出来ぬ」と、西川はいつも落着いて私に忠告するのでありました。しかし騎虎の如き私の心は測機舎の危機に直面して、西川の云うが如く泰然自若としては居られませんでした。私は自分の力の及ぶ限りあらゆるチャンスを捕らえて測機舎の進歩発展に資せんとしました」(松子『測機舎を語る』143頁)。松子は自分の家の中の改革も断行し、節約にこれ務め、幼子たちに泣かれるほどであった。
1921、22年はおそらく「地獄」の日々であったことであろう。これが耐えられたのは、測機舎が同志的な結合に支えられた組合組織であったからであろう。舎員全員の頑張りにより、しだいにいくつか注文が入り、借金もすることが出来るようになった。そして、14坪の工場ではあまりにも狭いので、1921年には測機舎は渋谷区猿楽町(天狗山)に移転し、いくらか広い工場になった。しかし、1922年の8月には、測機舎の創立に多大な貢献をした細川善治が2年の闘病生活の末、36歳で死去した(鹿子木『いのちの軌跡』110-111頁)。
そこへ、1923年9月に関東大震災が襲ったのである。猿楽町の工場は無事であった。この大震災は測機舎には幸いし、「飛躍の契機」となった。東京市内では測量機メーカーはほとんど壊滅したが、測機舎は被害を免れた。しかも生産が軌道に乗り始めていたので測量機のストックは豊富にあった。したがって震災後の復興に際して測量機械の需要が激増すると、注文が殺到した。この際、末三は、価格を吊り上げたりせず、被災地の需要家には逆に一割の値下げをして「お見舞いの徴意」とした(松子『測機舎を語る』138-139頁)。「こうした正直さ、誠実さが、西川社長夫妻以下の我々が団結を保つ原動力となった」と鹿子木は回顧している(鹿子木『いのちの軌跡』120-123頁)。
このあと、こうした誠実な経営・営業と優れた技術によって測機舎は大きく成長していった。猿楽の工場も手狭になったので、1925年には、世田谷区三宿に新工場を建てて移転した。三宿では、670坪の敷地があり、地下一階、地上二階建ての鉄筋コンクリートの工場ができた。二階は娯楽室、集会場となっていた(鹿子木『いのちの軌跡』126頁)。ここで測機舎は業績を拡大し、全国的な測量機メーカーとなっていくのである。
『東洋経済新報』は、こうした測機舎の動きに注目した記事を載せた。1926年8月21日の同紙は、「生産組合『測機舎』の発展と其悩み」という記事を載せ、その成立から始めて現在の成功を紹介し、その独特の組織を特筆した。記事は、舎が資本家によってではなく、工場労務者自身が管理・経営する生産組合であることを詳細に説明し、その成立からの歴史を追って、西川末三の手腕を高く評価し、また舎の技術力の高さを評価して、現在の業績が目覚ましいものがあると称賛した。ただし、記事は、舎はいつまでこの組合組織を維持できるのか、将来的には、株式会社などの組織に変更せざるを得なくなるのではないかと危惧していた。これは優れた記事であった。
さて、1929年10月に始まる世界恐慌は、日本をも襲い、測機舎も一時は緊縮に努め、末三はいち早く手を打って、組合員の月給を5%削減したりした。しかし、他の経済界に比べれば被害は軽微であったし、すでにかなりの内部留保金も持っていた(鹿子木『いのちの軌跡』146-147頁)。1931年には業績は回復していた。この時期、『大阪朝日新聞』(1931年12月30日号)は測機舎について、次のように報道していた。
≪不景気をよそに栄ゆる我等の「工場」-協力の実は結ぶ、ボーナス三十五割、我国最古の従業員管理工場、東京世田ヶ谷の測機舎≫
「従業員が協力して経営する共同管理の工場で、不景気なこの歳末に平均三十五、六割のボーナスを分配したという耳よりな話—一般工場界が火の消えたような不振に四苦八苦している折柄、この羨ましい好話題を生んだ工場は、全国で最古の管理工場として知られている東京市世田ヶ谷町三宿の測機舎だ。」
「工場の組織は出資組合員二十五名、准組合員十七名が中堅となり、各自一切の責任を分担して、「我々の工場を盛り立てろ」との意気込みで健闘している、工場創立以来功労のある従業員は理事長西川末三氏を始め九人で、一万円以上二万円の出資者が八人、組合員が分配する毎月の給料は平均百十円内外、ほかの工場では見られない素晴らしい待遇に恵まれている、各組合員の共有となっている現在の工場資産は三十万円に達し、この外十一万円の純益積立金があるという状態だ。」
つまり、組合組織の利点が見事に発揮されているというのである。しかも新聞はこう続けている。
「一昨年以来従業員の工場共同管理が滅切り殖え、全国に三十余を算えるに至ったが、東京では星協力組合、中島鋳工場、五木田の丸一木工、砂町奥村などの各製材所があり、神奈川県鶴見にも吉野製材所があり、何れも昭和四年以来の経営でまだ創業時代にあるため、測機舎の如く好成績を挙げていないが、比較的好調をたどって「我々の工場」を盛り立てている。」
先駆的な測機舎に続いて、生産協同組合方式の企業が日本で次々と生まれていたことがわかる。中島鋳工場というのは、中島製鋼所(1930年1月創立)のことであろう。
そして、1932年からの高橋是清の財政政策により、緊急の公共土木事業が開始されると、測機舎はその独特の組織のゆえもあって、急速に回復した(鹿子木『いのちの軌跡』148頁)。1934年ごろには、1500坪の敷地と400坪の建物、分工場を加えて、百数十人の従業員を有する「日本第一等の測量機械工場」になった(松子『測機舎を語る』160頁)。
測機舎の新しい三宿の工場は、青山、渋谷から通じる大山街道から北へ上ったところで、三宿神社の先の、小高い丘の上にあった。その測機舎を中心に従業員の住宅が次々と新築された。当時としてはスマートな家がたくさん建ったので、地元の人はこれを「測機舎村」と呼び、先の『東洋経済新報』は「新しい村」と呼んだ。いずれも「敷地百坪内外、建坪三十坪前後」といった「至極好適な住宅」であった。「いはば測機舎という労働団体を中心とした一瞬美しい自由平等の村」が営まれていたのだった。松子は十数年前の「資本主義工場」時代の貧弱な生活に比し、従業員たちの生活はくらべものにならなかったと自負していた(松子『測機舎を語る』180-181頁)。これは、当時としては先進的な住宅資金貸出制度を測機舎が持っていたから可能だったのである。1926年に実施されたこの制度によると、「労務出資者にして一家を構え、かつ貸出額10分の5以上の金銭出資を有する者」は、3000円を限度として、年7分の利子で、貸付を受けることができた(松子『測機舎を語る』70-71頁)。これによって、測機舎の周りには、13軒のスマートな住宅ができたのである。
松子は、こういう平等のほかに、さらに別の平等についても指摘している。をれは、「各組合員の資本の独占の制限」であった。松子は、それは、測機舎への金銭出資を、一人につき2万円以上所有することはできないとする制限であったという。こういう規定はいつできたのか不明である。これは1920年の規約の第8条にある「各組合員の金銭出資額は資金総額の五分の一を超ゆることを得ず」を指しているのではないかとも思われるが、定かではない。現状は、一万円以上の金銭出資をする人が十人以上もいて、出資の平等が実現していた。だから「測機舎で働いて居る誰もが、漸次肥り得る可能性を持って居る」のだと松子は言っている。しかも、「こうした利潤の独占を防ぐために、西川が創案したことが、偶然にして労農ロシアの私有財産制、すなはち「法定及び遺言による相続は・・・死亡者の債務を差引いた相続財産の総額が一万ルーブルを超えない範囲内に於いて許されるのである」と略一致せるところは、共産主義国にあらざる一小労働団体測機舎が、はるかに労農ロシアに冠たるものがありまして、一種の愉快と満足とを感ずるのであります」と自慢していた(松子『測機舎を語る』182頁)。
1932年4月、測機舎の創業12周年を祝う会が開かれた。この会で、挨拶した末三は、1920年の「宣誓書」を読み上げて確認し、測機舎は、他の企業のように毎年の利益の増大を目指すのではなく、「利益を度外に置き、精神の結び付きである協力一致」を目指してきたのであり、「利益が皆無になっても心が固く結ばれて居れば我測機舎は決して滅びない」と断言した(これは最後に述べるが、今日でいうワーカーズ・コレクティヴの考えそのものであった)。その他多くの人の挨拶の後、最後に松子が挨拶して、こう述べた。測機舎は「偉大な使命を帯びて生まれた」のである。その使命とは何か。
「それは申すまでもなく、産業の独立―工場の自治、それでございます。言い換えまするなれば、横暴非道な資本家の重圧の下から逃れ出た新進気鋭の皆さんが、自ら産業の独立を標榜して、雄々しくも労働戦線に勇猛邁進された、偉大なる事実でございます。しかもこの事実は、行き悩んでいる現今の我労働界のために、大なる教訓となり、まつ有益なる研究資料であるとともに、我労働界に先づ第一に特筆すべき、異彩ある労働の収穫であると、私は信ずるのでございます」(松子『測機舎を語る』185、189頁)。
こういう松子の社会主義的な発言がなんら抵抗なく受け入れられていたようであるが、そのことは重要なことであった。末三をはじめ舎内外の人々はこういう理解を程度の差はあれ共有していたのであろう。測機舎という特異な組織をうらで思想的に取りまとめていたのが、松子であったことが推測される。そして実際、測機舎の経験は「有益なる研究資料」となっているのである。先の労農ロシアとの比較といい、ここでの労働戦線への言及といい、測機舎が創立後の苦境の時期を乗り越えたあとの松子は、舎の歩みを社会主義という視線から見続けていたように思われる。彼女は社会主義を捨て去ったのではなかった。
この12周年記念会の後、松子は社員の妻たちに積極的に働きかけた。そして、「測機舎婦人会」を作り、「婦人懇親会」を開き、社内給食を始めた。まず、1933年4月に「測機舎婦人会」を作った。それは、家族のものが集まって、各自の障壁を取り除き、相親しみ相助け合い、固い一団となって測機舎を表玄関からではなく、裏に回って台所の方から擁立しようという趣旨からであった。「組合員の夫人達は食事の世話から、或は資金の調達に、時には販路の開拓に粉骨砕身して働いた」。「測機舎の成功の陰には尊い測機舎夫人の力があった」ことを踏まえてのことであった。この「測機舎婦人会」の主催で「測機舎婦人懇親会」が翌5月に開かれ、会には会員と子供たちが100人も集まり、大いに楽しんだ。末三も挨拶し、各組合の家庭の人たちも測機舎の「心持ち」に共感してくれていることを「少なからず愉快に感ずる」と述べた(松子『測機舎を語る』212-225頁)。
さらに松子は今日の「社内食堂」の先駆けを作った。すでに測機舎設立時の苦しい時に「昼の弁当は一つの釜の飯を食べよう」と呼びかけ、社員の妻たちによる食事作りが行われていたが、1933年10月から昼の弁当を「婦人会」が組織的に提供することになったのである。毎日当番を決めて50-60人分の昼食を準備したのだった(松子『測機舎を語る』256-275頁)。婦人会にせよ、社内食堂にせよ、松子は、女性の生き方を具体的な測機舎の中で、向上させ変革しようとしていたのである。
このような特異な労働者の生産協同組合である測機舎は、まず、ロバート・オーエンの理想にどこか通じるものがあった。すでにみたように、オーエンはニュー・ラナークで労働者の賃金や労働環境を整備して、生産を高めただけでなく、さらに、協同組合を作ろうとして、アメリカにおいて、自給自足を原則とした私有財産のない共産主義的な生活と労働の共同体(ニュー・ハーモニー村)の実現を目指したのであった。
しかしオーエンだけではない。それは、フ-リエのファランステールの考えにもいくらか通じている。これもすでにみたように、共同農場「ファランジュ」では、土地は社員によって共同で耕作され、日用の衣食の必要品は工場を作って製造され、社員は全員共同合宿所「ファランステール」に居住するということになっていた。
測機舎はオーエンのニュー・ハーモニーやフーリエのファランステールほどの共同性を持ってはいなかったが、協同組合であるという点で、オーエンのニュー・ラナークよりは共同性が進んでいた。明確なことは言えないが、松子らは、オーエンやフーリエの思想を学んでいて、無意識のうちにそこから取り入れられるものを取り込んだのではないだろうか。
さて、1933年12月に末三と松子は趣旨を明記しない招待状を「近親知己及び測機舎関係者」85人に送った。集まってみると、これは末三50歳、末三の社会人生活30年、末三と松子の結婚25年を記念する会であった。ここには、末三の長兄の一男、次兄の順之も参加、ロシア文学の昇直隆らも参加して、それぞれお祝いのあいさつをした。とくに、昇は、松子がロシアの自然詩人として有名なブーニンの作品の翻訳をしていたが、「丁度数日前」ブーニンがノーベル賞を取ったことが新聞で報道されたと紹介し、25年も前にブーニンを理解し紹介した松子を褒め、彼女の名前も新聞で報道すべきだと述べた。末三の結婚や測機舎入りに反対していた長兄、次兄とも和解し、松子は「長い間心掛かりであった重荷を下ろしたような」爽やかな気分になったという(松子『測機舎を語る』226-250頁)。
測機舎は、1934年8月に合名会社に組織変更した。西川末三以下28人が合名会社の社員となった。変更の理由については、鹿子木は、組合組織では社会的に不便な点があることと、組合員個々の所有権等も法的な保証を得られないからであったという。樋口は、第三者との取引上の障害があったからだという。つまり、組合では法人格が得られないので、融資を受けるにしても組合を代表する個人が代行せざるを得なくなるからであった。いずれにせよ、法人格化されても、労働者生産協同組合の本質は不変であった(鹿子木『いのちの軌跡』151頁;樋口『労働資本』56-57頁)。
松子は1935年9月に『測機舎を語る』という著書を刊行した。それは検閲を考慮して測機舎が発行所となる私家本の形をとった。しかしこれは今日、日本最初の生産協同体・測機舎の歴史を知るための貴重な資料となっている。だが、松子はこの本の刊行の翌年1936年10月17日に、悪性リンパ腺肉腫のために逝去した。享年51歳であった(鈴木『広島県女性運動史』67頁)。松子は貧しい人や病気の人たちへの思いやりの大変厚い人であったから、その葬儀には会葬の人が絶えず、葬儀は一週間も続いたという(浅野豊和氏からの聞き取り)。
鈴木は、松子の生涯を次のように評価している。「初期社会主義運動への参加、結婚、ロシア文学の研究。測機舎創立というようにいくつかのふしめがあったが、松子の生涯を貫いたものは、“平民社の女性”として培われた”明治社会主義“の理想であり、思想であった」(鈴木、67頁)。先に見たように、鈴木は、1909年における松子の「転向」を断定してはいなかった。ここに見るような評価が鈴木の本音であるようだ。筆者も同じ見方をしていて、松子の初期の活動と測機舎での活動を切り離して考えるべきではないと考えている。
以上に見てきたように、測機舎は、ロバート・オウエンやシャルル・フーリエの社会主義思想を根本に持ったものであリ、ロシアのナロードニキ以来の社会主義思想や、ロシア革命のあとの「労働者統制」の実践にもなにがしかの影響を受けていたかもしれない。これらは松子の存在なくしては考えられなかったことであった。当時のいろいろな雑誌を見ればわかるように、世界の動きは積極的に紹介されており、社会主義についても様々な情報が入ってきていた。そういう中で、初期社会主義に入りこんできていたヨーロッパやロシアの社会主義思想という19世紀以来の一つの世界史の動きが、測機舎という存在に「土着化」したのであった。また組合運営における末三の忍耐強さと経営センスは、ほかならぬ台湾時代に培われたものであった。こういう意味で、資本の論理を抑え、労働者の価値を最大限に生かそうとした測機舎はまさに世界史の「土着化」に他ならないのである。
一方、このような測機舎の独特の組織は、その後の世界史の中では、第二次世界大戦後のユーゴスラヴィアにおける労働者自主管理につながっているともいえ、さらに最近では、ワーカーズ・コレクティブの考えにもつながってきているのである。1950年代のユーゴスラヴィアでは、国有企業ではあるが労働者が評議会を作って経営についての決定をし、自ら自主管理・実行をするシステムが樹立されていた。またワーカーズ・コレクティヴというのは、「働く者が集団を形成して労働と知恵を出し合い、資金を出し合い、集団で運営(経営)する事業体」で、「労働、出資、支配が三位一体となった働く人々による集団所有の事業体」である。その目的は、株式会社などのような「利潤極大化」ではなく、「集団を形成する仲間(ソサエティー)の協同目標」である。多くは、「生産協同組合」や「労働者協同企業」と呼ばれている。諸外国では早くから注目されていたが、日本では、1980年代から関心が高まってきている(樋口『労働資本』5-6頁)。本稿で見たように、1920年代の測機舎の組織、目的などはまさにこのワーカーズ・コレクティヴに他ならなかった。
忘れてならないのは、松子が測機舎において作った婦人会や社内食堂のことである。1920年まで世界の動きを学びながら女性解放のために戦ってきていた松子は、具体的な女性の生き方を測機舎の中で、向上させ変革しようとしていたのである。女性解放という面でも世界史の「土着化」の試みを見ることができるということである。
その後の測機舎は、軍の指示により1943年には株式会社になった。しかし、株式会社になっても、生産協同組合の要素を色濃く残した株式会社として存続した。確かに労務出資という概念はなくなり、組合員はたんなる持ち株労働者となった。しかし、株式会社になっても株主は労働に従事し、支配株主も存在しなかった。資本の支配に単純に順応することは潔しとしなかったのである(樋口『労働資本』58-59頁)。平等主義は続いていて、1963年に東京証券取引所市場第二部に上場するまで、会社には部長職、課長職などは存在しなかったという(浅野氏からの聞き取り)。 【完】
西川松子『測機舎を語る』測機舎(私家本)、1935年
鹿子木直『いのちの軌跡』朝日カルチャーセンター、1994年
樋口兼次『労働資本とワーカーズ・コレクティブ』時潮社、2005年
鈴木裕子『広島県女性運動史』ドメス出版、1985年
(「世界史の眼」No.10)