経済学の巨人、リュエフとケインズから学ぶ―現代史のなかの経済理論―
権上康男

はじめに

  主要諸国における経済関連の公的歴史文書は今日、大半が20世紀末まで閲覧できる。しかしこれらの文書を利用した歴史研究は未だ部分的にしか進んでいない。そのために欧米先進諸国の現代経済史は、経済理論史を下敷きにして、次のようなイメージで捉えられていると言ってよかろう。まず、両大戦間期にケインズ主義が徐々に影響力を拡大する。第二次世界大戦後にこの理論に適合的な、戦時体制を多かれ少なかれ継承した、組織された経済社会が形成される。ケインズ主義はしかし、1970年代の長期不況を経て市場機能の強化を説くマネタリズムにその地位を譲る。最後に、マネタリズムと変動相場制に媒介されて経済のグローバル化が進み、経済社会は各種規制の緩和によって著しく柔軟なものへと改造される。

 このような、英語圏で生まれた経済理論に則して図式化された20世紀史の理解は、言うまでもなく歴史研究の必要を満たすものではない。本稿では、この図式から漏れた重要と思われる史実を掘り起こすとともに、経済理論と時代とのかかわりを問うことにしたい[1]

 とりあげるのは2人の理論家ジャック・リュエフ(1896-1978)とジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)である。ほぼ同じ時代を生きたリュエフとケインズは、一方はフランス、他方はイギリスという異なる文化圏を背景にもち、しかもアプローチも主張も互いに正反対であった。2人は経済、社会、政治を一体のものとして扱うことのできた、事実上最後の政治経済学者でもあった。ケインズは経済学に革命を起こしたと言われるように、着想の斬新さにおいてきわだっていた。一方のリュエフは、古典派から新古典派へとつづく経済学の古典理論に忠実であった。とはいえ、彼は単なる保守的な経済理論家ではない。彼には革新的な一面もあった。たとえば、1938年に大陸欧州の自由主義者たちとともに新自由主義(ネオ・リベラリズム)を立ち上げている。

 リュエフの名は大陸欧州諸国以外ではあまり知られていないが、20世紀を代表する経済学の巨人、ひいては知の巨人とも言える存在であった。彼はケインズと同じく、エリート財務官僚として職業生活をスタートさせている。しかしケインズとは違い、財務官僚としてのキャリアを全うしている。彼は官僚としての顔の他に、経済学者、哲学者、大学教授、EEC司法裁判所判事という4つの顔をもち、浩瀚な6巻本の著作全集を残している。主著は経済学と社会学にまたがる基礎理論に捧げられた2巻本の大著『社会秩序』(1945)である。

1. 価格メカニズムによる調整は、是とすべきか、非とすべきか 

 リュエフは国際連盟事務局に出向中の1928年秋に、ケインズとともにジュネーヴの国際高等研究院に招かれ、公開講演を行うとともに2人で議論を戦わせている。彼は当時34歳であった。その3年前に、イギリスで失業者が異常に多いのは失業保険制度に原因があるとする衝撃的な論文を発表し、彼の名はヨーロッパ中に知られていた。一方のケインズは、気鋭の革新的な経済学者として名声を博していた。この2人を、高等研究院の院長で産業革命史研究の大家ポール・マントゥーが対決させたのである。

 リュエフはロンドン駐在財務官の時代にもロンドンおよびケンブリッジで講演を行い、会場に来ていたケインズと論争している。1931年には、ケインズの求めに応じて『エコノミック・ジャーナル』誌(以下、JEと略称)に寄稿し、ケインズと激論を交わしている。

 第二次世界大戦が終結し戦後復興が始まると、西側諸国はケインズ主義一色に染まった。ケインズは1936年に『雇用、利子および貨幣の一般理論』(略称『一般理論』)を出版していた。この著作で展開された理論が、長期のデフレと大戦で経済が縮小均衡に陥っていた西側諸国の政策当局者たちの眼に、経済的繁栄と社会平和をもたらす救世主として映ったのである。1946年に、リュエフは時流に抗い、『一般理論』を全面的に批判した論文「一般理論にあらざる『一般理論』」を発表する。ただしケインズはその前年に没していた。

 リュエフとケインズの論争は価格メカニズムよる調整をめぐるもので、経済理論レヴェルのものであった。経済学の古典理論によれば、価格が自由に変動することによって調整がなされ、経済は均衡する。ケインズはこの古典理論を否定し、市場経済には、財政・金融面からの公権力の介入が必要であると主張する。これにたいしてリュエフは、自らの理論研究にとどまらず、前出の失業についての実証研究、およびフランスを中心とする西欧諸国の国際収支についての同じく実証研究にもとづいて、価格メカニズムはさまざまな障害を乗り越えて厳格に機能していると主張して、一歩も譲らなかった。

 リュエフはケインズによる理論構築にも重大な問題があると言う。たとえば『一般理論』においては、有名な流動性選好仮説以外にも、中央銀行が通貨の流通量を決めている、国内市場が各所でブロックされているなど、いくつかの暗黙の了解事項が存在する、と。もとより仮説や前提を設けることに合理的根拠があるなら問題はない。だが、合理的根拠がなければ理論の信頼性は失われる。リュエフによれば、ケインズが設定した仮説や前提にはそうした根拠がない。それゆえ彼は「『一般理論』は一般理論の名に値しない」と言い切る。ちなみに、ケインズと親しかったロンドン大学LSEのフリードリヒ・フォン・ハイエクも、後年(1966)に『一般理論』に重大な欠陥があることに早くから気づいていたと証言し、ケインズのこの著作を、「時事論説を『一般理論』と称した」と批判している。

 では、なぜケインズは強引と思える仮説や前提を多用したのか。リュエフのケンブリッジ講演を聴いたケインズが1931年5月20日付でリュエフに送った書簡のなかに、この疑問を解く手掛かりがある。ケインズはこの書簡で、リュエフの講演を理論面で高く評価した後にこうつづけている。「私が思うに、あなたは、諸構造はそれ自体で元の構造に調整されるとしていますが、私はこう考えます。あなたが当てにしている柔軟性は空想であり、われわれは柔軟性を当てにせずに機能し得る装置を構築しなければならない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、と」(傍点は引用者)。この言葉を敷衍すれば、ケインズは自らが構築しようとする理論に合わせて仮説や前提を設定した可能性も、あながち否定できない。

 歴史研究の側から見て興味深いのは、2人の主張が新しい時代への強烈な、しかも相互に異なる危機意識と不可分な関係にあったことである。先のJE 誌上の論争において、経済理論の範囲を逸脱した批判の応酬が行われている。リュエフはケインズをこう批判する。市場の管理という発想は「自由主義経済」と「管理経済」のいずれを選択するかという問題にかかわっており、「経済理論の観点よりも政治的観点から見てきわめて重要である」。なぜなら、それは「共産主義に似た『組織経済』の実践に必然的に向かう」からである。やや唐突と思われるので、別の視点から言い換えてみよう。市場経済においては、無数の経済単位(個人、企業、行政機関など)が価格の変動に日々刻々、反応して自由に行動する。その結果として調整がなされ、均衡が成立する。市場を管理することは、そうした自由な行動を制限するということであり、その行き着く先は権威主義経済=権威主義国家である。

 この批判にケインズはこう反論する。価格メカニズムによる調整は社会のさまざまなカテゴリー、なかでも最大多数を占める労働者に痛みを与える。それゆえ「不可能とは言わないまでも政治的、人道的に困難である」。さらに、リュエフが調整の好事例としてフランスの金本位制復帰にあげたのを捉えて、激しい言葉で応酬する。戦後フランスの混乱ぶりを見れば「調整が円滑に行われた好事例などとはとても言えない。自身がフランス人であるリュエフ氏が豌豆の鞘を剥くように容易なことを証明するのに、フランスの戦後史を引用するとは、何と物忘れの酷いことよ!」。しかしケインズは、「共産主義に似た『組織経済』の実践に必然的に向かう」という、自らに向けられた批判には沈黙している。

 2人の間で争われていたのは調整の是非である。ケインズは調整が政治と人道の両面から見て困難であるとし、既存の制度や慣行を変更しなくて済むシステム、すなわち公権力によって管理された市場経済の構築を選択する。しかしリュエフによれば、調整がなされず、経済の不均衡が放置された社会は存続できない。仮に調整を財政・金融政策によって先延ばしするなら、経済は危機に見舞われる。それさえ無視して調整をさらに先延ばしすれば、最終的に市場の暴力によって調整が強行される。それゆえ介入を可能な限り控えて経済を日常的なミクロ・レヴェルの調整に委ねるべきだと、彼は言う。

2. 国際通貨制度の政治経済学―至上命令と化したデフレの回避

 19世紀末に金本位制が主要諸国に普及したことにより、国際金本位制と呼ばれる非公式の国際通貨制度が成立した。この制度は第一次世界大戦を契機に消滅し、以後、再建されることがなかった。国際通貨制度は世界経済の基盤となるものであるが、そのあり方をめぐってもリュエフとケインズは真っ向から対立した。

 問題の淵源は第一次世界大戦にある。この大戦を通じて世界の金がアメリカ一国に集中し、他の諸国には通貨発行に必要な金の確保が難しくなった。アメリカがドルを大幅に切り上げれば金本位制のメカニズムにより金がアメリカから流出し、問題は解決する。だがその場合にはアメリカ経済がデフレに陥る。デフレを回避しつつ、国際通貨制度を再建するために考案されたのが金為替本位制である。この通貨制度は金と交換が可能な新旧2つの大国の通貨(ドルとポンド)を準備として各国が自国の通貨を発行する制度である。この制度の普及を主導したのはイギリスである。大戦後のイギリスにはもはや経済大国の面影はなかった。しかし他の諸国がポンドを準備として用い、イングランド銀行が金の国際的移動を「中央銀行間協力」の名のもとに管理できるなら、イギリスは基軸通貨国になることができる。金為替本位制はアメリカだけでなくイギリスにとっても都合のよい制度だったのである。

 このような大戦後の状況にすばやく反応したのがケインズである。彼は1920年代初頭から、金本位制への復帰はデフレを招くとして、通貨発行を金から切り離すべきだとする「修正金本位制」の側に立って論陣を張った。これにたいしてフランス政府は、イギリスが採用した国際通貨戦略(金為替本位制、金移動の国際管理)を「帝国主義」であるとして強く反発した。リュエフはこのフランスの主張―すなわち「通貨正統主義」―を、財務官僚と経済理論家の二重の資格で理論面から根拠づける役割を果たしていた。

 第二次世界大戦後も世界の金はアメリカに集中した。問題の構図は第一次世界大戦後と変わらず、再建された国際通貨制度も超大国アメリカの国民通貨ドルを基軸とする金為替本位制(いわゆる「ブレトンウッズ体制」)となった。この通貨制度は、デフレの回避とアメリカによる通貨覇権の掌握という経済的ならびに政治的要請を満たすものである。

 ところで金為替本位制には2つの重大な問題が伏在していた。第一に、第一次世界大戦後の復興が進み、仏、独、日のような主要諸国がドルやポンドを金と交換するようになれば、基軸通貨国の金準備が減少し金為替本位制は立ち行かなくなる。実際、1928年にフランスが金本位制復帰を宣言すると、イギリスからフランスへ金が流出し、ポンドが危機に陥った。イギリスはフランスに金の放出を迫っただけでなく金融制度の改革をも要求したが、フランスはいずれの要求にも応じなかった。「中央銀行間協力」は画餅に帰したのである。イギリスは結局、1931年に金本位制を離脱し、これを契機にデフレが世界に波及することになる。

 第二次世界大戦後にも同じことが繰り返された。主要な欧州諸国の中央銀行は1960年代に入ると、金の備蓄を始める。例外は安全保障上の理由からアメリカと事を構えるわけにいかない西ドイツ(および日本)だけであった。アメリカからの金の流出は増えつづけ、やがてドルならびに国際通貨制度が危機に瀕することになる。

 金為替本位制に伏在する第二の問題はこの制度がインフレ体質だったことにある。リュエフは1930年代初頭に、金為替本位制に特有のメカニズムが市場経済の自動調整を妨げてインフレを惹起し、国際通貨制度を崩壊に導くことに気づき、論文に発表していた。そのメカニズムとは、ごく簡単に言えばこうである。金為替本位制のもとでは、基軸通貨国の通貨(ポンド、ドル)は信用によって他の諸国に移転し、最終的にその地の中央銀行の準備に繰り入れられる。当該中央銀行は、この外貨を即座に流出元のロンドンないしニューヨークに送り、その地の銀行に預金する。それは預金収入を得るためである。それゆえ、流出した通貨は事実上、流出元にとどまったままである。その間に、流出先の銀行でも、流出元の銀行でも、通貨(預金通貨)が乗数的に発行される。問題の通貨はくり返し何度でも貸し出すことができるから、世界規模で通貨の発行増が生じる。金為替本位制は「本質的にインフレ的」なのであり、大恐慌前夜のブームには金為替本位制も一役かっていた、とリュエフは言う。

 1950年代末に復興を終えた主要諸国が通貨の交換性を回復すると、アメリカからこれら諸国へ大量のドルが流出し、世界にインフレの兆しが現れる。それと併行してアメリカからの金の流出も増える。状況は大恐慌前夜に酷似していた。事態を放置すればアメリカはドルと金との交換を停止せざるを得なくなる。この時、リュエフは金為替本位制に特有のメカニズムを講演や論文で説明し、金為替本位制を廃止して金本位制に戻さなければ世界経済は崩壊すると警鐘を鳴らした。彼の危機論は国際社会に大きな波紋を呼んだ。リュエフは次々と欧米の主要都市に講演に招かれ、彼の講演原稿はすべて世界の有力紙に掲載された。彼は時の人となったのである。

 しかし、アメリカの財務・通貨当局者たちによる危機の診断はリュエフと違い、楽観的であった。彼らによれば、ドル危機の原因はアメリカの国際収支の不均衡にある。アメリカが対外支払いを削減し、国外から資金の流入を図れば、危機は短期間で克服できる。ただし、その場合には在外ドルが減り、国際流動性(国際決済用の金融資産)が減少する。将来、発展途上国が工業化し、成長するようになれば国際流動性の不足が生じる。それゆえ国際協力によって予め新たな国際流動性を創設しておく必要がある。この議論は、経済成長には追加的な貨幣が必要だとするケインズの信用理論を国際領域に拡大適用したものだと言われる。

 リュエフもアメリカ側の立論にケインズの影があるのを見逃さなかった。彼は理論と実証の両面からこう厳しく批判する。アメリカの誤りは国際収支のメカニズムと金為替本位制のメカニズムを正しく理解していないことにある。数量データは、アメリカでも国際収支の自動均衡メカニズムが厳格に働いていることを示している。それなのに国際収支の不均衡が常態化しているのは、金為替本位制のメカニズムに、すなわちドルが信用を介して国外に大量に流出していることに原因がある。金為替本位制を廃止しない限りドル危機は解決しない。

 アメリカ政府と西欧諸国政府の双方の専門家たちは、リュエフによる診断と対処法を無視した。わずかに大統領シャルル・ドゴールがリュエフに同調し、1965年2月、世界に向けて金本位制復帰を呼びかける声明を発表しただけである。だがドゴールも、国際的孤立を怖れて自らの声明に固執しなかった。かくてリュエフは孤立無援であった。とはいえ各種の情報源によれば、リュエフを支持する経済専門家は必ずしも少なくなかった。フランス大統領府だけでなくアメリカ政府の高官たちにも、また国際決済銀行の上級職員たちにも、リュエフの議論に共感する者がいた。リュエフの分析によれば、通貨覇権の維持に執着する超大国アメリカの世論とアメリカ政府に配慮し、彼らは自らの意見を公にできなかったのだという。

 リュエフによる危機の診断の当否は措くとして、その後の歴史に照らすなら、アメリカ政府の主張には分がなかった。同政府は結局ドル危機を自らの手で解決できず、1970年代初頭に金/ドルの交換制停止に追い込まれ、世界経済は長期にわたり深刻な混乱と不況に見舞われる。リュエフの預言は的中したのである。この一事は、歴史が形成される過程で経済理論(リュエフによれば「科学」)と、社会や政治がそれぞれどのような役割を演じるのかを、また両者の間に生じる齟齬が歴史に特有のダイナミズムをもたらすことを物語っている。

3. 自由主義の再定義と新自由主義の理論

 「長期的にみると、われわれはみな死んでしまう」―これはケインズが『貨幣改革論』(1923)のなかで用いたフレーズである。市場が均衡を回復するまで手をこまねいて待つわけにいかない、自由主義も経済学も短期の問題にこそ応えられねばならない、というのが言葉の含意である。まさに20世紀に登場した新しい課題の核心を言い当てた名言である。

 リュエフをはじめとする自由主義者たちがケインズの提起した課題に取り組むのは、第二次世界大戦前夜の1938年のことである。この年の秋にパリで、アメリカのコラムニスト、ウオルター・リップマンを迎えて国際シンポジウムが開かれた。出席者は仏、独、墺の有力な自由主義者たち26人である。5日に及ぶシンポジウムの主要な目的は、自由主義を再定義し、ケインズ的課題に応えられるようにすることにあった。当時の大陸欧州諸国に許された選択肢は事実上、ファシズムと社会主義しかなく、自由主義はまさに風前の灯であった。短期の問題に応えられない限り自由主義に未来はない―これがシンポジウムの出席者たちに共通する認識であった。討議の末に再定義された自由主義は、やがて「新自由主義」の名称で、大陸欧州諸国において市民権を獲得する。この新しいタイプの自由主義の誕生を理論面で支えたのはリュエフである。

 シンポジウムでは、自由主義は国家の介入、なかでも社会領域への介入を排除するものではない、とする点で出席者たちの意見は容易に一致した。それは当時流布していた夜警国家論で知られる19世紀の素朴な自由主義の否定を意味する。しかし問題は単純ではない。国家が介入すれば生活水準の向上に必要な効用の最大化が望めなくなる。では、国家の介入と効用の最大化との折り合いをどうつけるべきか。討議の過程でさまざまな意見が出されたものの、具体的な解決法を提示するまでには至らなかった。翌1939年に(新)自由主義者たちの国際的な結節点としてパリに「自由主義刷新国際研究センター」が創設される。具体的な解決法の検討はこのセンターの第一回セミナーにおけるリュエフの講演に持ち越された。

 リュエフはこの講演で独創的な新自由主義の理論を公にする。それは次の4項目に集約できる。①自由主義の本質は最大効用の実現ではなく、価格メカニズムが機能することにある。②自由主義のもとでも国家の介入は可能であるが、介入は価格メカニズムと両立するものでなければならず、また均衡財政の範囲内に抑えられねばならない。均衡財政の維持が必要なのは、財政赤字によってインフレが発生すれば介入の効果が失われるからである。こうした限定付きの介入は「自由主義的介入」と呼ばれる。③具体的な介入のあり方は経済理論(科学)から導かれた選択肢のなかから、民意を体現する政策当局が選ぶ。④自由主義者と多様な社会カテゴリー、なかでも労働者たちとの対話は可能である。むしろ対話は積極的に行うべきである。ちなみに、セミナーの会場には社会党系労働組合の指導者たちが出席していたが、彼らはリュエフが定式化した新自由主義を受け入れる意向を表明した。

 リュエフの新自由主義理論は第二次世界大戦後にさらに深められる。この深化した理論によれば、(新)自由主義は自然発生的なものではない。それは人間が長期の歴史を通じて漸進的に獲得してきたものであり、法制度によって守られるべきものなのである。リュエフは1958年の論文で、ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』の冒頭の一節を引用し、新自由主義についてこう記している。「人は自由なものとして生まれた。ところが、いたるところで鎖につながれている」。自由をルソーのように理解すれば、失われた自由を取り戻すには、人から自由を奪った障害物を取り除くだけでよい。だが新自由主義者はそうは考えない。自由は数千年の歴史を経て徐々に獲得されたものであり、自由は常に失われる危険にさらされている。「ルソーとは反対に、人は鎖に繋がれて誕生したのであり、人を鎖から解き放せるのは諸制度の進歩だけである」。新自由主義はまさしく「制度自由主義」なのである。

 大陸欧州では第二次世界大戦後に欧州石炭鉄鋼共同体と欧州経済共同体が創設された。欧州共同体は、すでに1928年に、リュエフ自身が構想していたものである。リュエフはこの共同体こそが制度自由主義としての新自由主義を具現するものであると言う。その理由を彼はこう説明する。2つの共同体の基盤をなすのは「共同市場」である。人、物、資本が国境を越えて自由に移動できるこの市場は、自由主義が目標とする完全な市場である。ただし、共同市場は閣僚理事会(石炭鉄鋼共同体の場合には最高機関)、委員会、裁判所という国家に似た諸制度と、それを運用するための法規類によって支えられている。

 かくて1938年のシンポジウムとリュエフによって定式化された新自由主義は、20世紀末にアメリカを介して普及した新自由主義とは異なる。それには3つの大きな特徴がある。第一に、最大効用の実現を絶対視せず、市場経済と社会との折り合いを重視する。ドイツではこのタイプの新自由主義を「社会的市場経済と呼び、またEUの基本法であるリスボン条約(2007)には「社会的市場経済」がEUの社会理念として規定されているが、その根拠はここにある。第二に、国家の介入を財政均衡の範囲内で容認する(介入自由主義、反インフレ主義)。第三に、自由を法制度の枠組みのなかに位置づけて保証する(制度自由主義)。

展望―グローバル化と21世紀の経済

 以上に紹介した諸事実は、英語圏で出版された文献類からすっぽり抜け落ちている。今日、一般に流布している情報には大きな偏りがあると見なければならない。こうした偏りを正す作業はひとえに歴史研究者の手に委ねられていると言えよう。

 ところで、リュエフ最晩年の1970年代に長期不況が発生する。これ以降、経済面から見た世界は大きく変貌する。国際通貨制度が変動相場制へ移行し、資本の国際移動が活発化する。資本の国際移動はやがて「金融自由化」の名のもとに制度化される。これにともない対外直接投資が急増し、発展途上国の工業化と旧社会主義国の市場経済化が進む。その結果、地球規模に広がる市場経済が存在感を増し、新たに「グローバル市場」、「グローバル経済」という用語が市民権を獲得する。有力な企業の多くが企業戦略の要にグローバル市場におけるシェア拡大を据えるようになるからである。グローバル市場を支配するルールは、市場原理主義とも言えるタイプの自由主義、「ジャングルの自由」に似た制度不在の自由である。

 国民国家の内部では、グローバル化する経済に経済社会を適応させるために国有部門の民営化、雇用・労働規制の緩和、法人税の引下げなどが実施される。この動きと軌を一にして経済のサーヴィス化や情報通信技術の発展と普及が進む。国家が果たしてきた所得の再分配機能は著しく低下し、所得格差や地域間格差が拡大する。かつて肯定的な評価をともなって語られた福祉国家も完全雇用も死語となる。一方、こうした新たな諸条件のもとでエネルギーや天然資源の消費が爆発的に増え、地球環境の破壊が加速する。ケインズやリュエフが活躍した国民国家と職業団体の黄金時代は完全に過去のものとなったかに見える。

 この間に経済学の中心はアメリカに移り、数学を重視する、多分に技術論に偏った経済学が主流となる。このために、21世紀の経済社会が直面している課題に正面から対峙し、独創的な処方箋を提示した政治経済学者は、筆者の知る限り現れていない。

 とはいえ政治経済学の伝統はEU諸国において生きつづけている。その根拠はEUが共同市場と単一通貨圏(ユーロ圏)を基盤にしていることにある。いずれも国家相互間ならびに国民相互間の「共同」や「協力」が基盤になっており、その社会理念は前述したように新自由主義(社会的市場経済)である。つまり、EUは変動相場制と「ジャングルの自由」の支配するグローバル経済への、いわばアンチテーゼなのである。

 このEUでは2007-08年の世界金融危機の後に、域内の金融部門にたいする監督と監視を強化するための機構改革が実施された。この機構改革の基礎になったのはジャック・ドゥ・ラロジエールを長とする作業班が作成した報告書である。ラロジエールは1970年代半ば-90年代初頭に、フランス財務省国庫局長、IMF専務理事、フランス銀行総裁を歴任した人物である。この報告書が作成された翌年に、筆者はラロジエールから聞き取り調査を行った。その折、彼はいかにも残念そうに次のように述懐した。

 フランス政府はブレトンウッズ体制崩壊後の国際通貨制度をめぐり、長期間アメリカ政府と秘密交渉を行った。交渉の場でフランスは、制度を柔軟なものに変えるにしても、一定のルールを設けてそれをIMFに監視させるべきだと主張した。これにたいしてマネタリズムで理論武装したアメリカ政府は、為替相場を自由に変動させれば各国に最適の成長が保証される、よって国際的な監視機関は不要であると主張し、譲らなかった。結局、アメリカに押し切られて変動相場制が公認され、IMFは無力化されてしまった。しかし変動相場制移行後の現実は、アメリカの説明とは裏腹に矛盾と混乱に満ちたものであった。

 ラロジエールは口には出さなかったものの、IMFが無力化されていなければ、世界の通貨・金融秩序は一定の規律のもとに置かれ、危機が発生しても酷いものにはならなかったはずだ、との思いがあったようである。グローバル経済の管理という発想は先年、来日してメディアを賑わせた『21世紀の資本』の著者トマ・ピケティにも見られる。自由は法制度のもとでのみ意味をもつというリュエフの考え方は、EUに、そしてまたフランスの識者たちによって確実に受け継がれているのである。

 最後に一点を確認しておこう。たしかに経済面から見た世界はここ40年間で大きく変化したし、マクロ経済の管理技術も洗練されたものになった。しかし変化は現象面にとどまり本質には及んでいない。経済は市場経済のままであり、市場経済に固有の矛盾は排除できないからである。それだけに、市場経済の何たるかに政治経済学の側から深く切り込んだリュエフとケインズ、この2人が直接・間接に戦わせた古典的論争は今日なお色褪せてはいない。


[1] この小論は拙著『自由主義経済の真実―リュエフとケインズ』(知泉書館、近刊予定)を、歴史研究者向けに圧縮して示したものである。典拠についてはこの単著の関係箇所を参照されたい。

(「世界史の眼」No.10)

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