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<パンデミックと世界史>アンケート結果

世界史研究所では、2020年11月より2021年2月にかけ、<パンデミックと世界史>と題したアンケートを実施しました。対象は、世界史研究所に関係する歴史学を専門とする方々が中心です。現在進行中の問題でもあり、いまだに評価の難しい点もあったかと存じます。回答にご協力頂いた皆さまに感謝申し上げます。広く問題意識を共有する一助とするため、ここに結果を公表致します。

アンケート結果(pdfファイル、質問項目ごとに回答をまとめています)

アンケートの質問表(pdfファイル)

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世界史寸評
世界史の産物としての「核兵器禁止条約」

 核兵器の開発、実験、生産、保有、使用を禁ずる国際条約が2021年1月22日に発効した。この「核兵器禁止条約」は、2017年7月に122か国の賛成によって国連で採択され、今回、51か国の批准を得て、発効したものである。この条約は、1996年以来の人々の国際的な活動の産物であり、一つの「世界史としての歴史」を持つものと考えられる。

 イニシアティヴを取ったのは、科学者、法律家、医師のNGO組織であり、国連での審議・採択を推し進めたのは途上国を中心とする人々と日本の被爆者組織であった。こうした動きは歴史的には新しい動きである。考えれば、核兵器は、日本を含む世界史の産物なのであり、その兵器を禁止する動きも世界史の産物なのであるが、見方を替えると、それは世界史の中の強国の権力の産物であり、それを禁止する動きは世界史の中で権力から遠い人々の成果である。そして、核兵器を使った国も、使われた被爆国も批准しないという重大な現実を、世界史の問題としてどのように考えるか、世界史研究に課された新たなテーマである。

 ともあれ、一度は「核兵器禁止条約」のテキストを読んでみよう。日本語では、外務省による「暫定訳」しかないのだが。

(S.M.)

条約全文

英文テクスト:https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000433137.pdf

条約の邦訳にはいくつものヴァージョンがある。例えば、

外務省暫定訳:https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000433139.pdf

ヒロシマ平和メディアセンター訳 :http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=73528

※世界史に関わる情報を随時「世界史寸評」として掲載します。

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「世界史の眼」No.11(2021年2月)

今年2本目の「世界史の眼」をお届けします。

世界史研究所では、歴史教育に関しても関心を持ち取り上げて参りました。今号では、日高智彦さんに、長く高校で教鞭を取られた松本通孝さんの『一世界史教師として伝えたかったこと―歴史教育の「現場」から見た50年』を書評して頂きました。また、小谷汪之さんには、「シリーズ「日本の中の世界史」後日談―『中島敦の朝鮮と南洋』―」と題して、2019年に刊行された『中島敦の朝鮮と南洋』に新たな知見を加えて頂きました。今号では、その前半を掲載します。

日高智彦
書評:松本通孝『一世界史教師として伝えたかったこと―歴史教育の「現場」から見た50年』(Mi&j企画、2020年)

小谷汪之
シリーズ「日本の中の世界史」後日談―『中島敦の朝鮮と南洋』―(上)

松本通孝『一世界史教師として伝えたかったこと―歴史教育の「現場」から見た50年』(Mi&j企画、2020年)のAmazon.co.jpにおける販売ページは、こちらです。小谷汪之『中島敦の朝鮮と南洋』(シリーズ「日本の中の世界史」)の、岩波書店による紹介ページはこちらです。

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書評:松本通孝『一世界史教師として伝えたかったこと―歴史教育の「現場」から見た50年』(Mi&j企画、2020年)
日高智彦

 本書は、1967年より青山学院高等部の教師として世界史の教育と研究に携わってきた松本通孝が、半世紀以上に及ぶ取り組みの中で「伝えたかったこと」を軸に既発表論文を編集し、解題を付して一書にまとめた「自分史」である。

 構成は、以下のようになっている。

はじめに

第1章 高校生に近現代史を学ばせたい

 1節 1973年―「現代史」「現代社会」構想の立ち上げ

 2節 1980年代の歴史教育を取り巻く情勢と「近現代史教育研究会」の立ち上げ

第2章 自国中心主義に陥らないように―比較史の視点

 1節 「自国史」と「世界史」

 2節 「正答主義」をどう克服するか

第3章 日本における世界史教育の源流

 1節 万国史から世界史へ

 2節 フランス革命はどのように書かれて来たのか

第4章 生徒とのキャッチボール―生徒の歴史意識をどう育むか

 1節 授業内容・方法の工夫、史資料を授業に生かす

 2節 「世界史通信」発行の試み

第5章 「歴史総合」とこれからの歴史教育

 1節 世界史未履修問題が発した諸問題

 2節 これからの歴史教育―「歴史総合」を考える

エピローグ

松本通孝 文献リスト

 各章はおおよそ時系列順に並んでいる。各節は、既発表論文が資料として配置され、冒頭に解題が付されている。分量としては資料が本書の大部分を占めるが、必ずしも時系列順ではなく、一部省略もあり、著者の松本以外の文章もある。本文はあくまで解題の方なのである。よって本書は、著者の世界史教育論の形成・発展史としても読めるが、そのようなプロセスを経てきた著者が現在の到達点から再構成した「自分史」として読むべきであろう。

 第1章では、まだ現代史が(研究対象としても教育内容としても)重視されていなかった1960年代後半に教師となった著者が、「世界史」と「日本史」を統合した「現代史」を勤務校の必修科目として立ち上げ、それをきっかけに知り合った他校の教師たちとともに近現代史教育研究会を設立するプロセスが扱われる。『歴史学研究』370号(1971年)の特集「国家権力と歴史教育」を批判した「歴史学研究月報」136号(1971年)の論考などの資料からは、著者が「現代史」を、(A)「生徒達の歴史意識、現状認識」を出発点とし、これにはたらきかけるものとして、(B)政府の文教政策による上からの統制に対する批判として、(C)官製の研修会ではなく自主的な「他流試合」を重ねながら、構想・実践したことが理解できる。

 50年が経ち、今や学習指導要領によって「「世界史」と「日本史」を統合した「現代史」」である「歴史総合」が設置され、実施されようとしている。これに対し、上記3つの特徴をもって実践してきた「現代史」を、著者は「今から振り返っても正しかった」と、自信を持って対置しているようにみえる。後に第5章に関する評でも触れるように、たしかに著者の試みは、「歴史総合」に取り組もうとする者にとって「役に立」つだろう。ただし、著者がもっとも重視する「生徒達の歴史意識、現状認識」について、具体的にどう把握していたかは不明である。例えば、資料②(1971年)では生徒のレポートを分析しているのだが、そもそものレポート課題が現代史学習・・の受けとめを問うていることもあってか、生徒の現代史認識そのものは実はほとんど俎上に載せられていない。権力が現代史教育を直接に行おうとする状況にあって、学校における現代史教育が欠如することの危険性はそのとおりだろう。ではどう危険なのか、生徒の認識の具体的な把握と分析なしに、前例のない「現代史」で教える内容の構成はできなかったはずなのだが。資料②では、当時の生徒を「確かに何かを求めてはいるが、彼ら自身ではなかなかつかみ得ず、混とんとした状態に留まっている」と評しているが、これは若き日の著者自身のことではなかったか。

 このような著者に、第2章の時期から変化が訪れる。この章では、1982年に設立された比較史・比較歴史教育研究会に参加するなかで、この会のスローガンでもあった「自国史と世界史」という問いを自身の実践的課題に昇華していく様が扱われる。著者にとって、日本の戦争と植民地支配の捉え方が東アジア諸国において異なることを、歴史教育の国際交流の場で、生身の人間の発言として知った衝撃は大きかったようである。重要なことは、この歴史認識のちがいについて、(本章のタイトルは「自国中心主義に陥らないように」ではあるが、)歴史認識が一般的に・・・・帯びがちな自国中心主義の問題として済ませず、世界史的に形成された重層的な支配―従属関係の刻印と捉えた上で、支配者側の・・・・・歴史認識の課題と受けとめたことにあると評者は読んだ(資料⑧「歴史教育と「国民の戦争責任」」、1991年)。

 こうして、歴史認識の西洋中心主義が克服すべき課題となる。かつてフランス革命期の農村における「変革主体」を研究テーマとしていた著者が、ここでいう「変革」の西洋中心主義的な意味を問い直し、東欧史の視点から授業を再構成した。その成果が、資料⑨(「「正答主義」克服の試み」、1986年)である。「ポーランド分割とフランス革命」というテーマの実践において、ある生徒は、西欧=「華やか」で東欧=「暗くてじめじめ」という「偏見」を自ら問い直している。「正答主義」の克服というとき、その射程には、(a)ただ一つの正解を求める歴史学習への姿勢(試験のための暗記、教わることを鵜呑みにすること、教師が学びとってほしいと考える価値観の押しつけ・誘導など)だけでなく、(b)そのように身につける歴史認識が帯びている偏見や歪みと、それらに刻印される歴史的な権力的支配構造を問い直すことが含まれているのである。

 資料⑨は、「[座談会]歴史学と歴史教育のあいだ」(『歴史学研究』553号、1986年)において提起された、歴史教育における「正答主義」という論点への応答として書かれたものである。ここでの「正答主義」は、(a)の問題として論じられていた。しかし、後の1990年代半ばに、(a)の克服を目指すものとして出てきた藤岡信勝らの「歴史ディベート」は、(b)を問い直すどころか肯定するものであったことで、結局(a)の問題も克服できなかったわけである(資料⑩、2009年)。著者の実践は、「正答主義」論に(b)を立てることで、この陥穽を批判的に乗り越える可能性を先取りしていたといえよう。実は著者自身は、解題においても「正答主義」を(a)の問題として論じ続けているが、評者は著者の実践を「二重の正答主義」論として、世界史教育論史における重要な問題提起であったと受けとめている。

 第3章では、1990年代より取り組んだ、明治以降の外国史教科書の研究が扱われる。著者にとっては、自らの仕事をその「源流」にさかのぼりながら相対化する意味を持っただろう。1節の解題では、これらの研究で「伝えたかったこと」を、「その時々の政府の方針と歴史教育との関係」とし、「文教政策の意図を見抜く力を、私達教師の側が持つ必要がある」「政府主導の「正答主義」に対して、どのような距離を置くか」と問いかけている。重要な指摘である。だが、明治・大正期の外国史教科書を丹念に読み解いた諸資料からは、外国史認識がいかに自国史認識に規定されるか、すなわち、世界史を学べば自動的に自国中心主義を克服できるわけではないことなど、より多くの示唆を得ることができる。その上で、フランス革命記述の変遷を扱った2節では、「近代化」の負の側面が明らかになった現在において、革命の理念を「弱者」の側から問い直し、フランス革命の今日的意義を生徒と教師が学び合う授業案として提案している。これまでの研究の成果を実践として具体化した資料⑮・⑯(2012年)は、著者の仕事の集大成に位置するものであり、本書の白眉である。

 資料⑮・⑯に至るまでには、世界史の教育論や内容について研究するだけでなく、授業方法についても試行錯誤を繰り返してきた。第4章は、著者が「生徒達の歴史意識、現状認識」にはたらきかけようと取り組んできた授業日誌や教科通信などの試みを扱う。本章の諸資料を読むと、著者が世界史教育を、教科書などの制度的枠組みに依存することなく、生徒と「キャッチボール」しながら、ものの見方や考え方を現実の世界の動きのなかで見直す方法として構想していたことが分かる。

 その上で、「伝えたかったこと」を「「ゆとり」教育の是非」としている。「ゆとり」の名のもとに導入された各種の文教政策は、入試制度改革を伴わず、「観点別評価に見られるような教師の仕事をいたずらに増やし」、教育現場のゆとりをむしろ奪っていった。この改善なしにアクティブラーニングを謳っても、豊かな学びに結びつくことはなく、授業は画一化するのではないか。どんな授業方法がふさわしいかは、あくまで「担当教師一人ひとりが考えるべきこと」(資料⑰、2011年)であり、そのためには「教師の創意を保障するゆとり」が必要だ、と主張する。政策提言として異論はないが、仮に「ゆとり」が保障されたとして、教師が発揮する「創意」が「正答主義」を克服するとは限らないだろう。本章の諸資料は、むしろ「創意」の具体的な方向性を示唆しているように思うのだが、あくまで「保障」を主張するところが著者らしい。

 最後の第5章では、2018年の第9次学習指導要領改訂によって新設された科目「歴史総合」を中心に、これからの歴史教育の方向性について論じられる。2006年に、必修科目の「世界史」が受験対応等を理由に開設されない高校があることが問題となって以降、地理歴史科教育の改善に向けた議論が巻き起こった。著者は、これまでの研究と実践をふまえた「教師の創意を保障するゆとり」の観点から、「現在の「日本史A」「世界史A」は廃止して、世界と日本の近現代史を扱う「現代史」」の創設を説いた(資料㉑、2008年)。新設された「歴史総合」はまさにそのような科目であったが、しかし著者は、これに危惧を表明する。「近代化」「大衆化」「グローバル化」という概念で近現代史を把握しようとする方法は、政府見解を書かせる教科書検定を通じて、近代化賛美の自国中心・自国礼賛史観を従来以上にもたらしかねない、というのである(資料㉔、2017年)。

 著者の危惧には首肯できる。ただ、現実の政治状況において、「現在の「日本史A」「世界史A」は廃止して、世界と日本の近現代史を扱う「現代史」」が科目として創設されれば、ここで危惧されるようなことは、「現代史」を政府の文教政策による上からの統制に対する批判として実践してきた著者ならば、予想できたのではないか。たしかに、通史学習ではなく、「近代化」等の概念を用いて現代的な諸課題の形成と展望を学ぼうという「歴史総合」の方法は画期的ではあるが、現行科目においても追究されていて然るべきことであるし、著者自身もそのように実践してきたのではないか。例えば、本書所収の諸資料で論じられている「国民の戦争責任」や「フランス革命と「弱者」」といった視点は、「近代化」概念による歴史把握が近代化賛美の自国中心・自国礼賛史観に陥らないための切り口に他ならないだろう。著者は本書を通じて、むしろ「歴史総合」の危惧を克服する可能性を描いたのである。

 それをふまえた上で、「自分史」の結びに、今後の歴史教育への危惧を述べていることの意味を受けとめたい。エピローグの冒頭、2015年に卒業生から届いた「自分たちが高校の頃に歴史の進歩として習ったいろいろなことや価値観が、最近はいとも簡単に次々に否定されてきているように感じます」との旨の年賀状が紹介される。この「(元)生徒達の歴史意識、現状認識」を受けとめるがゆえに、「現代史」で追究してきた、「今から振り返っても正しかった」とする「価値観」が、「歴史総合」において「否定され」る危惧を検討せざるを得なかった、ということではないか。それは、著者が今なお「(元)生徒達(=「市民」)の歴史意識、現状認識」と「キャッチボール」しながら、世界史教育について考えを問い直し続けていることを意味する。「世界史教師」とは職業名ではなくそのような存在のことを指し、「現場」とは制度的枠組みではなく「キャッチボール」にある―これこそ著者が、「一世界史教師として伝えたかったこと」だったように思われる。

 著者は、先の年賀状をきっかけとして、卒業生有志との「世界と日本の歴史を共に学ぶ読書会活動」を続けているという。今後も、末永くお元気で、「現場」からの声を発信していただきたい。

(「世界史の眼」No.11)

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シリーズ「日本の中の世界史」後日談―『中島敦の朝鮮と南洋』―(上)
小谷汪之

はじめに

1 玉置半右衛門と玉置商会

2 渋沢栄一の「製藍会社」

3 田口卯吉の南島商会

(以上、本号)

4 南洋貿易株式会社(南貿)

5 第一次世界大戦とヤップ島

6 関根仙太郎の生年月日と生地

おわりに

(以上、次号)

はじめに

 シリーズ「日本の中の世界史」の一冊として刊行された小著『中島敦の朝鮮と南洋』(岩波書店、2019年。以下、「本書」とする)にかかわって、一つ心残りなことがある。それは、「本書」の本筋からはちょっと外れるが、関根仙太郎という人物の経歴にかんすることである。本書の第二刷を出した時には問題の所在に気づいていたのであるが、第二刷での修正という制約のために直しきることができなかった。

 関根仙太郎は明治時代の中頃に「南洋」に渡り、50年近くを「南洋」に生きてきた。彼は、1935(昭和10)年か36年に、最終的に日本に帰国したものと思われるが、その関根を、雑誌『南洋群島』の記者が東京「向島寺島なる氏の寓居」に訪ねて、インタヴューを行った。その冒頭で、関根は次のように語っている(以下、引用文中の〔 〕は引用者による補足。漢字には、適宜ルビを付した)。

 私は十五の歳に、玉置半右衛門たまおきはんえもんと云う人に従って鳥島へ渡りました。玉置氏は東京府からこの鳥島を二十箇年間無償で借り受け、信天鳥アホウドリの巣から羽毛を採取し、それを欧州に輸出していたものです。その仕事を手伝って居る中に、翌年小笠原島の母島に移る事になり、そこでは藍の会社で働いていましたが、丁度その頃東京に南洋で貿易をする会社が出来、しかもそれには、かねて知っていた依岡省三氏が関係している事を聞いて急いで帰朝、その会社へ入れて貰った様なわけです。この時私は十七の歳でした。(関根仙太郎「南洋群島の五十年を語る」『南洋群島』3巻、3、4号〔1937年〕。『南洋資料 第473号、南洋群島昔話 其の一』〔1944年〕に再録。同書、1頁)

 この関根の話の中には、1890年前後(明治20年前後)の日本における「南進」のさまざまな動きが凝縮された形で詰まっていて、きわめて興味深い。ただ、「本書」刊行後に見ることのできた一資料に照らしてみると、関根のいっている自分の年齢には疑問がある。

1 玉置半右衛門と玉置商会

 関根仙太郎は、「十五の歳に、玉置半右衛門たまおきはんえもんと云う人に従って鳥島に渡り」、アホウドリの羽毛の採集に従事した、といっている。この「玉置半右衛門たまおきはんえもんと云う人」は小笠原諸島、鳥島(伊豆諸島の鳥島)、沖縄の南大東島など、日本南方の島々の「開発」に主導的な役割を果たした人物としてよく知られている。

 玉置半右衛門は1838年、八丈島に生まれ、大工をしていたが、1861年、徳川幕府が小笠原開拓民を募集した際、それに応募して、小笠原に渡った。しかし、翌年、生麦事件が起こってイギリスとの対立が激化したため、幕府はイギリスが触手を伸ばしていた小笠原諸島の開拓を断念し、玉置も小笠原から退去した。その10数年後の1876(明治9)年、明治政府は小笠原諸島の領有を諸国に通告し、開拓民を小笠原に送った。その時、玉置も小笠原に渡り、内務省小笠原出張所仮庁舎建築などの公共事業を請け負うなどした。しかし、その後、小笠原出張所との関係が悪化したこともあって、玉置はアホウドリの捕殺に着手した。アホウドリの羽毛が欧米で高値で売れることに目をつけたのである。ところが、小笠原にはアホウドリがあまり飛来しなかったので、次に玉置はアホウドリが大量に飛来する鳥島に狙いをつけた(アホウドリの羽毛は横浜の外国商社を通して欧米に輸出されていた)。

 1880年代の日本では、初期的な「南進論」が盛んになっていて、その先駆者の一人に横尾東作(1839-1903年)という人物がいた。横尾は仙台藩士で、はじめ儒学を学び、後に英学を修めた。幕末の政争の中では、語学力を生かして幕府側の外交工作の一端を担い、最後は、榎本武揚の下、函館五稜郭で「官軍」と戦った。

 横尾はその後さまざまな職に就いたが、1887(明治20)年、当時逓信大臣だった榎本武揚の支援を受けて、硫黄島の探検に乗り出した。船は逓信省灯台巡視船の明治丸を使わせてもらった。この硫黄島探検には当時の東京府知事、高崎五六の他、依岡省三、鈴木経勲つねのりなど多くの「南進論者」が同行した。この時、玉置半右衛門とその配下12人は、鳥島で下船することを条件として乗船を認められた。11月1日、横浜港を出港した明治丸は、5日に鳥島に到着し、玉置らはここで下船した。約100日分の食料や資材を携行したということであるから、最初から鳥島に長期に滞在するつもりだったのである。その目的はアホウドリを捕殺して、羽毛を採集することであった。

 他方、明治丸は11月10日に硫黄島に到着したが、とても植民できる所ではないとして、直ちに横浜港に帰ることになった。途中、鳥島で玉置半右衛門らを乗船させるはずであったが、波が高く、接近が困難だったため、彼らを鳥島に「置き去り」にしたまま横浜に帰港した。12月15日、東京府は玉置らの救援のために、船を鳥島に派遣したが、その船で帰京したのは玉置他一名のみで、残りの11人は鳥島に残って、アホウドリの捕殺を続けた。

 翌1888年、玉置は「鳥島拝借御願書」を東京府に提出し、3月、内務省から鳥島の10年間無償「貸渡」を認められた。同年、玉置は56人の人夫を鳥島に送り込み、アホウドリの捕殺を本格化させた(以上、平岡昭利『アホウドリを追った日本人』岩波新書、2015年、10-20頁)。

 以上のような経緯を考えると、関根仙太郎は、1887年に鳥島に残留した11人のうちの一人だったのかもしれないが、おそらくは1888年に鳥島に送り込まれた56人の人夫たちのうちの一人だったのであろう。この時、関根は15歳だったといっているが、これは数えの年齢だと思われるので、満年齢で言えば13歳か14歳ということになる。「本書」(第一刷)刊行時にはあまり気にならなかったが、今思えば、いくら明治中期とはいえ、これはちょっと若すぎるように感じられる。

 関根は、翌年にはもう、鳥島から小笠原に移ったのだが、その理由について、関根自身は何も語っていない。推測するに、アホウドリの捕殺という仕事に嫌気がさしたからではないかと思われる。アホウドリの捕殺は、すぐには飛び立つことのできないアホウドリを棍棒で撲殺するという野蛮な方法で行われていたからである。それに、鳥島におけるアホウドリの捕殺は出稼ぎ労働によっていたから、年に3分の1の人夫が交代するほど島への出入りは激しかったということである(平岡昭利『アホウドリと「帝国」日本の拡大』明石書店、2012年、77頁)。

 玉置半右衛門は、この後、一年間に約40万羽のアホウドリを鳥島で捕殺しつづけ、1902年の鳥島大噴火によって人夫120余名が全滅するまでに、総計約600万羽を捕殺した(鳥島大噴火の時、玉置一家は東京に住んでいて無事であった)。1933年には、アホウドリの捕殺が禁止されたが、それまでに、鳥島では総計約1000万羽のアホウドリが捕殺されたとされている。そのために、鳥島のアホウドリは絶滅寸前にまで至った(平岡『アホウドリを追った日本人』、22頁)。玉置半右衛門による鳥島の「開発」とはこのようなものだったのである。

 1900年、玉置は沖縄県の無人島、南大東島の開拓に乗り出した。沖縄県から30年間の開拓許可を受けた玉置は、八丈島の島民たちを中心に人夫を募集し、23人を南大東島に派遣した。派遣団の団長は当時玉置の大番頭だった依岡省三であった。人夫たちは玉置商会の小作人としてサトウキビ栽培に従事したり、製糖場の労務についたりした。その後、玉置は、島中にサトウキビ運搬用のトロッコ網を張り巡らし、病院や商店や学校を設立するなど、島が独立の経済単位(アウタルキー)をなすようにした。島だけで通用する貨幣(玉置貨幣)の発行も行い、島内のすべての勘定をこれによって行わせた。このように、玉置商会の経営方法は開拓民たちの生活を全的に支配する「封建的」なもので、南大東島は「玉置王国」と称せられるほどであった。

 1910年、玉置半右衛門が死去すると、その3人の息子たちが玉置商会の事業を継承したが、経営不振に陥り、1916年には南大東島における事業を東洋精糖に売却した。

2 渋沢栄一の「製藍会社」

 関根仙太郎は、前出のインタヴューで、鳥島から「小笠原島の母島に移る事になり、そこでは藍の会社で働いていました」と言っているが、この「藍の会社」というのは渋沢栄一が設立した「製藍会社」のことである。明治期、日本の藍生産はインド産の藍、いわゆるインディゴに押されて衰退していた(徳島県を中心として栽培されていた藍はいわゆる蓼藍たであいで、タデ科イヌタデ属の一年生草本)。インディゴに対抗するために、小笠原の藍(山藍。トウダイグサ科の多年生草本)に最初に目をつけたのは竹内万二郎という人物で、竹内は実際に小笠原で「山藍」の「開墾」(植栽)に着手したが、中途で挫折した。この竹内の「書記」であった今川粛という人物が小笠原藍作の見込みについて詳細な調査を行い、その復興を渋沢栄一に計った。それに応えた渋沢は、1888(明治21)年3月、「製藍会社」の「創立」を東京府に願い出て、4月に認可された。「同社の目的は日本藍製造の改良を図るが為に小笠原島産藍の蕃殖を其第一着手とし併せて其製藍を販売する」ことにあった。「製藍会社」は資本金10万円の株式会社で、一株100円であったが、株式は一般には公開されず、株主の多くは渋沢の知友であった(『靑淵先生六十年史 第二巻』龍門社、1900年、199頁;『渋沢栄一伝記資料 第十五巻』渋沢栄一伝記資料刊行会、1957年、316-317頁)。

 「製藍会社」が何時から実際に小笠原で「山藍」の「開墾」(植栽)を始めたのかはよく分からないが、関根仙太郎は1889年には小笠原に移り、「製藍会社」で働くようになったのである。今川粛の調査によれば、当時小笠原の「山藍」の植栽地は父島に5町7反歩、母島に1反歩余りだったという(『靑淵先生六十年史 第二巻』、200頁)。関根が母島に行ったのは、母島における「山藍」の植栽地を拡げる仕事に従事するためだったのであろう。

 しかし、「製藍会社」は「着手後〔旱魃や暴風雨など〕数多の困難に遭遇し」、「到底前途の見込立たざるを以て明治二十五〔1892〕年八月二日の〔株主〕総会に於て解散を決議」した。その間に「製藍会社」が「開墾」した土地は「四十八町歩余」であった(『靑淵先生六十年史 第二巻』、204-205頁)。

3 田口卯吉の南島商会

 こうして、渋沢栄一の「製藍会社」は5年足らずで解散したのであるが、関根仙太郎はそれ以前に、「東京に南洋で貿易をする会社」ができたことを聞き、「製藍会社」を辞めて、東京に戻り、「その会社へ入れて貰った」。この「南洋で貿易をする会社」というのは、田口卯吉が1890(明治23)年に設立した「南島商会」のことである。

 1889年末、「南進論者」であった田口卯吉は当時の東京府知事、高崎五六から、東京府に交付されていた士族授産金を利用して、小笠原諸島の開発に当たってほしいという依頼を受けた。田口は一度は断ったが、小笠原開発ではなく、「南洋諸島経略」に当たるということで依頼を受諾した。翌1890年、田口は東京府に交付された士族授産金のうちの約45,000円(『本書』38頁で、4,500円としたのは誤りであった)を元手に、南島商会を設立し、90トンほどのスクーナー型帆船天祐丸を購入して、「南島巡航」に出ることになった。5月15日、天祐丸は横浜港を出港、「南洋」に向かった。天祐丸には、田口の他に、船長の宮岡百蔵、書記役の鈴木経勲など15名が乗り込んでいた。関根仙太郎もそのうちの一人で、この時、関根は17歳であったと語っている。これも満年齢にすれば15歳か16歳ということになり、今思えば、はるばると未知の「南洋」まで行くにしては、ちょっと若すぎるように感じられる。

 天祐丸は当時スペイン統治下にあったグアム島、ヤップ島、パラオ諸島を経て、ポナペ島(現、ミクロネシア連邦ポーンペイ州)に到着した。田口らはポナペに一か月ほど留まり、交易に従事した。ポナペ島には南洋交易拡大の可能性があると判断した田口は、ポナペに南島商会の支店を置くこととした。この時、関根仙太郎は他の二人と共にポナペ支店員に任命され、ポナペに残ることになった。これが関根の長い南洋生活の始まりであった。

 このように、関根仙太郎はわずか3年ほどの間に、玉置半右衛門のアホウドリ羽毛採集事業所(後の玉置商会)、渋沢栄一の「製藍会社」、田口卯吉の南島商会と、当時の「南進」の動きを代表する会社を渡り歩いて、「南洋」とのかかわりを深めていったのである。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.11)

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