シリーズ「日本の中の世界史」後日談―『中島敦の朝鮮と南洋』―(上)
小谷汪之

はじめに

1 玉置半右衛門と玉置商会

2 渋沢栄一の「製藍会社」

3 田口卯吉の南島商会

(以上、本号)

4 南洋貿易株式会社(南貿)

5 第一次世界大戦とヤップ島

6 関根仙太郎の生年月日と生地

おわりに

(以上、次号)

はじめに

 シリーズ「日本の中の世界史」の一冊として刊行された小著『中島敦の朝鮮と南洋』(岩波書店、2019年。以下、「本書」とする)にかかわって、一つ心残りなことがある。それは、「本書」の本筋からはちょっと外れるが、関根仙太郎という人物の経歴にかんすることである。本書の第二刷を出した時には問題の所在に気づいていたのであるが、第二刷での修正という制約のために直しきることができなかった。

 関根仙太郎は明治時代の中頃に「南洋」に渡り、50年近くを「南洋」に生きてきた。彼は、1935(昭和10)年か36年に、最終的に日本に帰国したものと思われるが、その関根を、雑誌『南洋群島』の記者が東京「向島寺島なる氏の寓居」に訪ねて、インタヴューを行った。その冒頭で、関根は次のように語っている(以下、引用文中の〔 〕は引用者による補足。漢字には、適宜ルビを付した)。

 私は十五の歳に、玉置半右衛門たまおきはんえもんと云う人に従って鳥島へ渡りました。玉置氏は東京府からこの鳥島を二十箇年間無償で借り受け、信天鳥アホウドリの巣から羽毛を採取し、それを欧州に輸出していたものです。その仕事を手伝って居る中に、翌年小笠原島の母島に移る事になり、そこでは藍の会社で働いていましたが、丁度その頃東京に南洋で貿易をする会社が出来、しかもそれには、かねて知っていた依岡省三氏が関係している事を聞いて急いで帰朝、その会社へ入れて貰った様なわけです。この時私は十七の歳でした。(関根仙太郎「南洋群島の五十年を語る」『南洋群島』3巻、3、4号〔1937年〕。『南洋資料 第473号、南洋群島昔話 其の一』〔1944年〕に再録。同書、1頁)

 この関根の話の中には、1890年前後(明治20年前後)の日本における「南進」のさまざまな動きが凝縮された形で詰まっていて、きわめて興味深い。ただ、「本書」刊行後に見ることのできた一資料に照らしてみると、関根のいっている自分の年齢には疑問がある。

1 玉置半右衛門と玉置商会

 関根仙太郎は、「十五の歳に、玉置半右衛門たまおきはんえもんと云う人に従って鳥島に渡り」、アホウドリの羽毛の採集に従事した、といっている。この「玉置半右衛門たまおきはんえもんと云う人」は小笠原諸島、鳥島(伊豆諸島の鳥島)、沖縄の南大東島など、日本南方の島々の「開発」に主導的な役割を果たした人物としてよく知られている。

 玉置半右衛門は1838年、八丈島に生まれ、大工をしていたが、1861年、徳川幕府が小笠原開拓民を募集した際、それに応募して、小笠原に渡った。しかし、翌年、生麦事件が起こってイギリスとの対立が激化したため、幕府はイギリスが触手を伸ばしていた小笠原諸島の開拓を断念し、玉置も小笠原から退去した。その10数年後の1876(明治9)年、明治政府は小笠原諸島の領有を諸国に通告し、開拓民を小笠原に送った。その時、玉置も小笠原に渡り、内務省小笠原出張所仮庁舎建築などの公共事業を請け負うなどした。しかし、その後、小笠原出張所との関係が悪化したこともあって、玉置はアホウドリの捕殺に着手した。アホウドリの羽毛が欧米で高値で売れることに目をつけたのである。ところが、小笠原にはアホウドリがあまり飛来しなかったので、次に玉置はアホウドリが大量に飛来する鳥島に狙いをつけた(アホウドリの羽毛は横浜の外国商社を通して欧米に輸出されていた)。

 1880年代の日本では、初期的な「南進論」が盛んになっていて、その先駆者の一人に横尾東作(1839-1903年)という人物がいた。横尾は仙台藩士で、はじめ儒学を学び、後に英学を修めた。幕末の政争の中では、語学力を生かして幕府側の外交工作の一端を担い、最後は、榎本武揚の下、函館五稜郭で「官軍」と戦った。

 横尾はその後さまざまな職に就いたが、1887(明治20)年、当時逓信大臣だった榎本武揚の支援を受けて、硫黄島の探検に乗り出した。船は逓信省灯台巡視船の明治丸を使わせてもらった。この硫黄島探検には当時の東京府知事、高崎五六の他、依岡省三、鈴木経勲つねのりなど多くの「南進論者」が同行した。この時、玉置半右衛門とその配下12人は、鳥島で下船することを条件として乗船を認められた。11月1日、横浜港を出港した明治丸は、5日に鳥島に到着し、玉置らはここで下船した。約100日分の食料や資材を携行したということであるから、最初から鳥島に長期に滞在するつもりだったのである。その目的はアホウドリを捕殺して、羽毛を採集することであった。

 他方、明治丸は11月10日に硫黄島に到着したが、とても植民できる所ではないとして、直ちに横浜港に帰ることになった。途中、鳥島で玉置半右衛門らを乗船させるはずであったが、波が高く、接近が困難だったため、彼らを鳥島に「置き去り」にしたまま横浜に帰港した。12月15日、東京府は玉置らの救援のために、船を鳥島に派遣したが、その船で帰京したのは玉置他一名のみで、残りの11人は鳥島に残って、アホウドリの捕殺を続けた。

 翌1888年、玉置は「鳥島拝借御願書」を東京府に提出し、3月、内務省から鳥島の10年間無償「貸渡」を認められた。同年、玉置は56人の人夫を鳥島に送り込み、アホウドリの捕殺を本格化させた(以上、平岡昭利『アホウドリを追った日本人』岩波新書、2015年、10-20頁)。

 以上のような経緯を考えると、関根仙太郎は、1887年に鳥島に残留した11人のうちの一人だったのかもしれないが、おそらくは1888年に鳥島に送り込まれた56人の人夫たちのうちの一人だったのであろう。この時、関根は15歳だったといっているが、これは数えの年齢だと思われるので、満年齢で言えば13歳か14歳ということになる。「本書」(第一刷)刊行時にはあまり気にならなかったが、今思えば、いくら明治中期とはいえ、これはちょっと若すぎるように感じられる。

 関根は、翌年にはもう、鳥島から小笠原に移ったのだが、その理由について、関根自身は何も語っていない。推測するに、アホウドリの捕殺という仕事に嫌気がさしたからではないかと思われる。アホウドリの捕殺は、すぐには飛び立つことのできないアホウドリを棍棒で撲殺するという野蛮な方法で行われていたからである。それに、鳥島におけるアホウドリの捕殺は出稼ぎ労働によっていたから、年に3分の1の人夫が交代するほど島への出入りは激しかったということである(平岡昭利『アホウドリと「帝国」日本の拡大』明石書店、2012年、77頁)。

 玉置半右衛門は、この後、一年間に約40万羽のアホウドリを鳥島で捕殺しつづけ、1902年の鳥島大噴火によって人夫120余名が全滅するまでに、総計約600万羽を捕殺した(鳥島大噴火の時、玉置一家は東京に住んでいて無事であった)。1933年には、アホウドリの捕殺が禁止されたが、それまでに、鳥島では総計約1000万羽のアホウドリが捕殺されたとされている。そのために、鳥島のアホウドリは絶滅寸前にまで至った(平岡『アホウドリを追った日本人』、22頁)。玉置半右衛門による鳥島の「開発」とはこのようなものだったのである。

 1900年、玉置は沖縄県の無人島、南大東島の開拓に乗り出した。沖縄県から30年間の開拓許可を受けた玉置は、八丈島の島民たちを中心に人夫を募集し、23人を南大東島に派遣した。派遣団の団長は当時玉置の大番頭だった依岡省三であった。人夫たちは玉置商会の小作人としてサトウキビ栽培に従事したり、製糖場の労務についたりした。その後、玉置は、島中にサトウキビ運搬用のトロッコ網を張り巡らし、病院や商店や学校を設立するなど、島が独立の経済単位(アウタルキー)をなすようにした。島だけで通用する貨幣(玉置貨幣)の発行も行い、島内のすべての勘定をこれによって行わせた。このように、玉置商会の経営方法は開拓民たちの生活を全的に支配する「封建的」なもので、南大東島は「玉置王国」と称せられるほどであった。

 1910年、玉置半右衛門が死去すると、その3人の息子たちが玉置商会の事業を継承したが、経営不振に陥り、1916年には南大東島における事業を東洋精糖に売却した。

2 渋沢栄一の「製藍会社」

 関根仙太郎は、前出のインタヴューで、鳥島から「小笠原島の母島に移る事になり、そこでは藍の会社で働いていました」と言っているが、この「藍の会社」というのは渋沢栄一が設立した「製藍会社」のことである。明治期、日本の藍生産はインド産の藍、いわゆるインディゴに押されて衰退していた(徳島県を中心として栽培されていた藍はいわゆる蓼藍たであいで、タデ科イヌタデ属の一年生草本)。インディゴに対抗するために、小笠原の藍(山藍。トウダイグサ科の多年生草本)に最初に目をつけたのは竹内万二郎という人物で、竹内は実際に小笠原で「山藍」の「開墾」(植栽)に着手したが、中途で挫折した。この竹内の「書記」であった今川粛という人物が小笠原藍作の見込みについて詳細な調査を行い、その復興を渋沢栄一に計った。それに応えた渋沢は、1888(明治21)年3月、「製藍会社」の「創立」を東京府に願い出て、4月に認可された。「同社の目的は日本藍製造の改良を図るが為に小笠原島産藍の蕃殖を其第一着手とし併せて其製藍を販売する」ことにあった。「製藍会社」は資本金10万円の株式会社で、一株100円であったが、株式は一般には公開されず、株主の多くは渋沢の知友であった(『靑淵先生六十年史 第二巻』龍門社、1900年、199頁;『渋沢栄一伝記資料 第十五巻』渋沢栄一伝記資料刊行会、1957年、316-317頁)。

 「製藍会社」が何時から実際に小笠原で「山藍」の「開墾」(植栽)を始めたのかはよく分からないが、関根仙太郎は1889年には小笠原に移り、「製藍会社」で働くようになったのである。今川粛の調査によれば、当時小笠原の「山藍」の植栽地は父島に5町7反歩、母島に1反歩余りだったという(『靑淵先生六十年史 第二巻』、200頁)。関根が母島に行ったのは、母島における「山藍」の植栽地を拡げる仕事に従事するためだったのであろう。

 しかし、「製藍会社」は「着手後〔旱魃や暴風雨など〕数多の困難に遭遇し」、「到底前途の見込立たざるを以て明治二十五〔1892〕年八月二日の〔株主〕総会に於て解散を決議」した。その間に「製藍会社」が「開墾」した土地は「四十八町歩余」であった(『靑淵先生六十年史 第二巻』、204-205頁)。

3 田口卯吉の南島商会

 こうして、渋沢栄一の「製藍会社」は5年足らずで解散したのであるが、関根仙太郎はそれ以前に、「東京に南洋で貿易をする会社」ができたことを聞き、「製藍会社」を辞めて、東京に戻り、「その会社へ入れて貰った」。この「南洋で貿易をする会社」というのは、田口卯吉が1890(明治23)年に設立した「南島商会」のことである。

 1889年末、「南進論者」であった田口卯吉は当時の東京府知事、高崎五六から、東京府に交付されていた士族授産金を利用して、小笠原諸島の開発に当たってほしいという依頼を受けた。田口は一度は断ったが、小笠原開発ではなく、「南洋諸島経略」に当たるということで依頼を受諾した。翌1890年、田口は東京府に交付された士族授産金のうちの約45,000円(『本書』38頁で、4,500円としたのは誤りであった)を元手に、南島商会を設立し、90トンほどのスクーナー型帆船天祐丸を購入して、「南島巡航」に出ることになった。5月15日、天祐丸は横浜港を出港、「南洋」に向かった。天祐丸には、田口の他に、船長の宮岡百蔵、書記役の鈴木経勲など15名が乗り込んでいた。関根仙太郎もそのうちの一人で、この時、関根は17歳であったと語っている。これも満年齢にすれば15歳か16歳ということになり、今思えば、はるばると未知の「南洋」まで行くにしては、ちょっと若すぎるように感じられる。

 天祐丸は当時スペイン統治下にあったグアム島、ヤップ島、パラオ諸島を経て、ポナペ島(現、ミクロネシア連邦ポーンペイ州)に到着した。田口らはポナペに一か月ほど留まり、交易に従事した。ポナペ島には南洋交易拡大の可能性があると判断した田口は、ポナペに南島商会の支店を置くこととした。この時、関根仙太郎は他の二人と共にポナペ支店員に任命され、ポナペに残ることになった。これが関根の長い南洋生活の始まりであった。

 このように、関根仙太郎はわずか3年ほどの間に、玉置半右衛門のアホウドリ羽毛採集事業所(後の玉置商会)、渋沢栄一の「製藍会社」、田口卯吉の南島商会と、当時の「南進」の動きを代表する会社を渡り歩いて、「南洋」とのかかわりを深めていったのである。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.11)

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