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「世界史の眼」No.12(2021年3月)

今号では、島根大学教育・学生支援機構大学教育センターの鹿住大助さんに、MINERVA世界史叢書の『国際関係史から世界史へ』を書評して頂きました。また、小谷汪之さんの、「シリーズ「日本の中の世界史」後日談―『中島敦の朝鮮と南洋』―」の後半を掲載しています。

鹿住大助
南塚信吾責任編集『MINERVA世界史叢書③ 国際関係史から世界史へ』ミネルヴァ書房、2020年

小谷汪之
シリーズ「日本の中の世界史」後日談―『中島敦の朝鮮と南洋』―(下)

MINERVA世界史叢書の、南塚慎吾責任編集『国際関係史から世界史へ』のミネルヴァ書房による紹介ページは、こちらです。小谷汪之『中島敦の朝鮮と南洋』(シリーズ「日本の中の世界史」)の、岩波書店による紹介ページはこちらです。

今号で「世界史の眼」も12号を数えます。昨年4月にスタートして以来、1年間にわたり、毎月複数の論考を掲載してくることができました。読者の皆さまと投稿いただいた皆さまに、改めて感謝申し上げます。今後とも内容の充実を図って参ります。どうぞよろしくお願い致します。

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南塚信吾責任編集『MINERVA世界史叢書③ 国際関係史から世界史へ』ミネルヴァ書房、2020年
鹿住大助

 本書は、総論を含めて全16巻からなる「MINERVA世界史叢書」シリーズの第3巻である。シリーズ全体が巻号の順に発行されているわけではないが、本シリーズの「第Ⅰ期 世界史を組み立てる」では、『地域史と世界史(第1巻)』で世界史の空間認識・空間概念を論じ、『グローバル化の世界史(第2巻)』で時間軸上での世界の一体化の進行を論じている。本書が、19世紀半ばから検討を始めるのは、第1・2巻の内容をふまえて、一体化が完成し、地球規模で地域の概念が揺さぶられる帝国主義の時代以降の世界史を動的に描くことが念頭にあったからだと考えられる。

 19世紀半ば以降の時代とは、世界の一体化が完成に向かう時代であると同時に、この頃以降に出来上がった国民国家によってナショナル・ヒストリーが盛んに産出される時代でもある。本書が「序章」で記すとおり、この時代以降、世界史はナショナル・ヒストリーの並列、ないし寄せ集めのように考えられるようになった。本書はこの点に対して批判的であり、「関係」の視座から世界史の全体像を描き出そうとしている点に特徴がある。その「関係」も国民国家を主体とした二国間関係や複数国家間の国際関係ではない。また、描き出される全体像も、どこかの国民国家を「中心」とした静的構造からなる世界の「システム」ではない。世界史の時々の「傾向」が諸地域に「土着化」することで全体の歴史がつながりあって「連動」する、動的な世界史像の提示を目指しているのである。(※「土着化」や「連動」の概念については、南塚信吾『「連動」する世界史:19世紀世界の中の日本』岩波書店、2018年、をさらに参照されたい。)

 これは非常に困難な挑戦である。ある歴史における主体Aと主体Bとは○○関係(敵対、互恵、紛争など)にあり、それは○○という背景(社会・経済の制度や構造、思想など)があったからである、と言えば読者はイメージしやすい。ところが、本書が目指すのは、常に全体が振動したり圧力が転移したりしながら、ある面で収縮したかと思えばある面では膨張する「ゴム風船」のような全体(世界)を、風船の表面に現れる現象から描き出すことである。主体や関係、背景は、揺れ動く風船上に位置する点や線、面に過ぎない。言葉による歴史叙述で、このようなイメージを読者に与えることは容易ではない。また、読者の側も「覚悟して」読む必要があるだろう。本書の著者は、例えば近現代の日本がどのように順調に、あるいは挫折したりしながら時間軸上で線的に発展してきたのかを描こうなどとは考えていないのだから。一国の変動は風船上のある点で起こった膨張や収縮であり、風船全体の運動の一部なのである。

 なお、評者の専門は17・18世紀のフランス史であり、最近では、歴史教育や自らが大学で担当する「大学で学ぶ世界史」の授業研究をおこなうばかりで、19世紀後半以降の近現代史は門外漢である。評者には、本書が描き出す近現代世界の全体像を他書と比較したり、記述の正誤を含めた具体の点検をおこなったりして、本書を批判的に論評する能力はない。以下では、本書各章の概要を紹介し、評者なりに本書が提起する世界史像を評価することにしたい。

* * *

 本書が対象とする時代は、19世紀半ばから1980年代までである。本書は「第Ⅰ部 帝国主義の時代」「第Ⅱ部 二つの体制の時代」「第Ⅲ部 脱植民地化の時代」の三部からなる。また、各部は10の章と7つのコラムからなる。本書は、約1世紀半の時代を通史的に隙間なく埋めて繋ぐのではなく、章ごとに特定の期間や地域に焦点を当てたりしながら、複数の国や地域に絡んで展開した世界史の全体像を描こうとしている。以下、各章の概要を紹介する。

 「第1章 アヘン戦争・明治維新期の世界史:一八四〇〜九五年」では、特に清朝と朝鮮、日本を取り上げながら、19世紀半ば以降の西洋諸国によるグローバル化によって東アジアの伝統的世界が変容し、緊密な関係を持つリージョンとなったことを指摘する。海外との接触、列強との交渉過程などが折り重なり、個々の国家を超え、西洋人に対する連帯を意味する地政学的な地域概念として「アジア」が登場した。また、東アジア世界は「条約締結、領土確定、戦争、そして植民地化が始まり、強い摩擦を伴う緊密な関係に転化した」のである。

 「第2章 二つのベルリン会議の時代」では、1878年、1884-85年の二つのベルリン会議に前後する時代、ユーラシア大陸とアフリカ大陸にまたがって緊張関係が転移していく様相を論じる。ある時期のヨーロッパの相対的平和がアジアやアフリカに緊張関係をもたらしたり、その反対の事態が起こったりしたことを、英独仏露の列強による地球規模での権力政治の展開とからめて描き出している。1880年代以降を列強による「アフリカ分割」の過程としてとらえるのではなく、現地民衆による「アフリカ大反乱」の時代として位置づけるべきとした上で、列強の関心がアフリカに向かった結果として「東アジアの束の間の平穏」がもたらされ、日本が立憲君主国の体制を整えたのだとする見解は興味深い。世界の帝国主義支配体制の下でのある地域での民衆運動が、別の地域における変革(近代国家化・後発帝国主義国化)を間接的に促進したのである。

 「第3章 『一九〇〇年』の国際関係と民衆」は、「パン・アフリカ会議」の決議文で起草者のデュボイスが「20世紀の問題はカラーラインの問題」と主張した1900年、その前後の世界を論じる。本章では「カラーライン」は人種集団の境界線を意味するのみならず、民族やエスニック集団、階級、ジェンダーなど、様々な分断を含む概念として理解し、それが「一九〇〇年」の世界で国家や地域を超えて発生・移転する様相を、植民地暴力や移民と管理などの観点から明らかにしている。「一九〇〇年」の世界で発生した戦争や隔離・殲滅を含む戦時暴力が帝国主義国・植民地に連鎖することによって、人種・エスニック集団のカラーラインが世界に作り出された。同時に、「一九〇〇年」の世界では、市民権をめぐる政治の領域と、都市問題・公衆衛生問題のような社会的領域との双方で進んだカラーラインの構築が、「平時」の移民政策を通じても現れてくる。「カラー」のみならず、階級とジェンダーの対立軸も含め、一体化した世界においてカラーラインの思想と実践が学習され、移転していったのである。

 「第4章 『第一次世界大戦』期の世界史」では、世界大戦を中心に1910年代の世界を論じているが、その視点は主にはアジアにおかれる。冒頭、「アジアの歴史を論ずるときにも『第一次世界大戦』を『画期』とすることが多いが、それは画期として適当なのであろうか」と疑問を投げかける。本章によれば、「日本による一九一〇年の韓国併合はアジアにおける新しい時代を画した」のであり、これ以降「アジアの人々は日本帝国の進出と戦うという時代に入った」ことが、アジアにおける世界史上の画期であった。第一次世界大戦はヨーロッパでの戦争として始まったが、1914年に日本が参戦して中国のドイツ租借地を攻撃したのは、それ以前からの大陸進出の延長線上にある。また、ロシア革命とウィルソンの講和綱領によって世界で「民族自決」への期待が高まり、東欧や中東、アフリカ、インドで民衆運動が「連動」する。しかし、非抑圧民族にとってはその期待を裏切る結果となった。東アジアでも「連動」が起こり、戦後の1919年に三・一独立運動や五・四運動、シベリアでのゲリラ抵抗が連続したが、これも1910年以降の日本の帝国主義的進出とアジアの民衆運動という対抗関係の上で起こったものであった。

 「第5章 『一九三〇年』の国際関係と民衆」は、広野八郎の『外国航路石炭夫日記──世界恐慌下を最底辺で生きる』で描かれた1920年代末から30年にかけての出来事から始まる。広野が見たり、自ら経験したのは、世界恐慌下で苦境に立たされた労働者・民衆の生活であり、アジア・ヨーロッパ航路上で経験した帝国と植民地の関係であった。危うさを感じさせる世界が広野の前に広がっていたのである。1930年前後の世界はまさにそのような状態にあった。1920年代の「国際協調」路線は、1930年のロンドン海軍軍縮会議に結実したが、日本では海軍と右翼による既成政治打倒の動きが現れた。また、同年、ドイツ戦後賠償問題について第二回ハーグ国際会議で「ヤング案」が採択されたが、かねてから不満が大きかったドイツはナチスの拡大と再軍備に向かっていった。大不況下のアジアでは、列強による「開発」「工業化」の一方で、農民の貧困や不満が蓄積され、大小の反乱に繋がっていく。さらに、アメリカのニューディール、ドイツのナチズム、ソ連の一国社会主義、東欧の第三の道という不況への対応策が、それぞれの農民に与えた影響を論じている。

 「第6章 『一九四五年』の世界─東欧・中東・沖縄・シベリアの視点から─」では、第二次世界大戦の「終戦」に向かう1941年(大西洋憲章)から始まり、「冷戦」がユーラシア大陸全体で深まる1949年までを「1945年」の世界として扱っている。1945年のヤルタ会談ではヨーロッパの戦後処理についての合意がなされるとともに、米ソの間でソ連の対日参戦の密約が結ばれ、同時に極東の戦後処理についても基本的な合意があった。本章ではヤルタ会談直後にルーズヴェルトが中東を訪問したことに注目している。アメリカは戦後の石油資源の重要性に注目し、特にサウジアラビアとは緊密な関係を構築しようとしていた。こうして戦後の枠組みが連合国によって作り出されていった。以下、詳細な紹介は割愛するが、本章でも世界史の「連動」の観点から叙述を組み立てている。アジア諸国が日本支配から「解放」されると、中国・朝鮮をめぐって米ソの緊張が高まる。しかし、1946年にアジアの緊張関係が膠着すると、次に東欧とドイツに向かう。東欧・ドイツで「鉄のカーテン」が構築されると次には中東・バルカンに対立が向かう。このように「1945年」の世界では、米ソの対立関係の高まりがユーラシアの西から東にまたがる「連動」の中で進んだ。また、この「連動」は、中東の石油や東欧のウラン資源をめぐる利害と絡み合って起こっていることが本章を通じて指摘されている。

 「第7章 世界史における『一九五六年』─ベトナムとハンガリー─」では、1950年代半ばの冷戦の「雪解け」の延長線上で、1956年のベトナムとハンガリーで起こった出来事を論じる。ベトナムは54年のジュネーヴ協定によって一時的に南北に分断され、2年以内に統一のための総選挙実施が約束されていた。しかし、南ベトナムにはジュネーブ協定不参加のアメリカが支援するジエム政権が成立し、総選挙実施は見通せない状態になっていた。こうした中でベトナム労働党の政治局員であったレ・ズアンが1956年に「南ベトナム革命提綱」をまとめた。文書は、中ソ、および労働党中央の方針に従った「平和路線」を強調する一方で、ジエム政権打倒を目指す革命運動を南ベトナム人民が起こすというものであった。一見すると相矛盾する方向性が打ち出されたこの文書は、「精神」としてはその後の労働党の路線転換に直結し、「内容」としては当時の平和路線の拘束の強さを物語るものであったと評価している。一方、ハンガリーでは、56年のスターリン批判を受け、ハンガリー革命が起こる。改革派のナジ政府は、10月31日のソ連軍事介入決定を受けて、翌日にワルシャワ条約機構脱退とハンガリーの中立を宣言した。ナジのハンガリー中立は突発的なアイデアではなく、オーストリア中立化やソ連・ユーゴスラヴィア関係改善、平和五原則、などの流れをふまえて現れたものであった。本章では「ベトナムのレ・ズアンの試みと、ハンガリーのナジの試みは、[中略]「縄張り」の壁を高くした平和という当時の平和への挑戦的な試みとして通底するものをもっていた」と評価する。そして「1956年」は、「多くの可能性と選択肢があった時代」として世界史における意味を検討する必要があると指摘している。

 「第8章 『変化の風』のもとで─『一九六〇年』の国際関係と民衆─」は、英首相マクミランが1960年に南アフリカでおこなった「変化の風」演説が章の表題になっている。ただし、本章は「変化の風」演説が直接に示唆したアフリカ諸国・植民地の独立という変化だけを論じてはいない。コンゴやアルジェリアといったアフリカ諸国の独立は冷戦にからめとられ、60年代にはベトナムでも戦争が本格化していく。東西両陣営のイデオロギー的競合も鮮明になり、「明るい未来をもつ社会主義」イメージに対抗して、ロストウの「近代化」論が著された。さらに、60年代には核兵器が世界に拡散するのに対抗して、反核運動の連帯も広がっていく。こうした「1960年」の世界の変化と相まって、日本は日米安全保障条約の改訂をアメリカに認めさせ、後にアメリカから導入された「近代化」論の適用による経済成長路線を突き進むことになる。また、沖縄をめぐっては、核兵器搭載艦の帰港や通過を「密約」によって容認していた日本本土に対し、沖縄には日本の外交問題となることなく持ち込まれていた。安保改定も防衛地域を日本本土に限ることとし、その反対運動の連帯からも沖縄は排除されていた。日本は沖縄を「他者」として扱い、沖縄の側では植民地解放問題として沖縄問題を位置づけるという視角が生まれてくる。このように、日本の安保、沖縄問題は「1960年の世界」の中に位置づけられるのである。

 「第9章 世界史の中の『一九六八年』」では、世界的に社会運動が高揚した「1968年」の国際性と多様性を論じ、その世界史的意義を評価している。ベトナム反戦運動の国際連帯、テレビによる同時の情報共有によって世界で社会運動が高揚する一方、その目標や形態は先進国や東欧、第三世界の国ごとに文化・歴史に規定された多様性があった。その上で、「1968年」の世界史的意義を検討している。ベトナムの独立と統一の方向性を決定づけ、「植民地体制」を最終的に崩壊させただけでなく、先進国自身の「帝国性」への反省を促し、多文化主義が台頭することにつながった。「1968年」は「脱近代化」の進展において重要な意味をもつのである。また、「1968年」の運動を担った学生や知識層を「新しい変革主体」と位置づけるニューレフトが登場したこと、民衆の直接行動という直接民主主義的な方法が議会などの間接民主主義を補完するという民主主義の高度化を促したこと、「一九六八年」は政治的には「挫折した革命」であった一方で、「文化革命」として後世に影響を残したことを世界史的意義として評価している。

 「第10章 『長い一九八〇年代』の世界─社会主義の衰退とネオ・リベラル─」では、1979年の中越戦争とイラン革命を起点に、1990年代初めのソ連邦崩壊や湾岸戦争までを「長い1980年代」として扱い、その期間における出来事の「連動」関係を論じている。ベトナム戦争を前史として起こった中越戦争は、アジアナショナリズムと社会主義国に対する「信仰」を打ち砕くものであった。その影響は日本における「政界の右傾化」をもたらし、アジア重視の「全方位外交」の放棄と日米同盟路線への転換をもたらした。アメリカもアジアから後退し、アジア情勢は安定化しつつあった。しかし、次にはベトナムからイラン、中東へと焦点が移る。イラン革命は、イラン・イラク戦争とアメリカの介入をもたらしただけでなく、イスラエルと中東諸国の妥協と衝突、第二次スーダン内戦、ソ連のアフガン侵攻と「新冷戦」を生み出し、アフガン撤退後の「国際テロ」を準備することになった。社会主義拡大・イラン革命への警戒を契機として登場したネオ・リベラルは、イギリスやアメリカ、日本などで採用されただけでなく、構造調整プログラムとしてラテンアメリカやアフリカでも拡大し、これら地域におけるソ連の影響力低下をもたらした。残るユーラシアの社会主義も、アフガン侵攻後の「新冷戦」で追い込まれたソ連が「ペレストロイカ」を掲げ、経済危機から東欧諸国の「自立」「主権」を承認した結果、東欧社会主義は崩壊し、市場化・民主化の波がアジア諸国にも及んだ。最終的にソ連自体が崩壊に向かい、中東では「湾岸戦争」が起こる。社会主義イラクは消滅し、同年にソ連も崩壊したことをもって「長い1980年代」は終わる。

 以上、本書の10の章を概観してきた。なお、本書には「別の地域から見た全体像を提示(※序章)」するため、他に7つのコラムが収められているが、この紹介は割愛する。

* * *

 はじめに記したように、本書は「関係」の観点から、動的な世界史像を提示するものである。各章著者の叙述方法は異なるが、「1945年」や「二つのベルリン会議」など、その時代を象徴する年号や出来事を用いて諸地域が「関係」し合う中で形成される世界史の「傾向」を示し、その「傾向」を「土着化」した各国・各地域が「連動」することで新たな「関係」や「傾向」が生じる様相を描いていると言えよう。第2・4・6・10章の著者は、本書の編者である南塚信吾氏であり、序章で提示された世界史モデルをよく理解できる部分であるが、他の章もこのモデルをふまえて執筆されている。例えば、第3章では、帝国主義の戦争や隔離・殲滅を含む戦時暴力の「傾向」が、「カラーライン」による分断として各地に「土着化」し、政治・社会領域における人種・民族・ジェンダーなどの対立軸が世界中で現れてくるのである。第7章では、ベトナムとハンガリーという世界地図上では遠い地域が、「平和路線」という世界の「傾向」を、各地域の情勢に応じて「土着化」した結果、「壁を高くした平和」への挑戦としてレ・ズアンとナジの試みが生じたことが分かる。

 このようにして本書は動的な世界史像を読者に与える。その世界史像は、歴史の単線的な発展イメージでもなければ、球体の地球儀の表面上である点からある点へ向かうベクトルのような国際関係イメージでもない。世界それ自体がブヨブヨと波打ちながら活動する、歴史の時空間そのものである。このような世界史は「異様」だろうか。

 最後に、本書が提示する世界史像に刺激を受けて、考えるべき課題を二つ指摘したい。これは本書の「問題」や「欠点」ではなく、評者を含め、読者や歴史の研究者・学習者が、本書を読んだ後に自ら考えるべきことであろう。

 第一に、システム論的世界史との関係である。本書の序章では、「ナショナル・ヒストリーの寄せ集めではない世界史の方法として『世界システム論』が提起されているが、これは何らかの『中心』を設定し、それに対する『周辺』を設けるものであり、しかも全体の構成が『静態的』である」と指摘する。ウォーラーステインの「世界システム論」からイメージするのは、国際的な分業体制からなる世界である。中でも16世紀以降の資本主義的な近代世界システムであり、単純化すれば「周辺」部の原料生産・供給地から、「中心」部の先進工業地域に富が搾取され集積される階層関係のシステムである。これが唯一の世界システムとなって存在しているのが現在であり、「中心」「周辺」関係上で作用し合ったり、時代によって「中心」や「周辺」や「ヘゲモニー」が移動することはある。しかし、資本主義という構造を維持し続けようとする点ではオートポイエーシス的システムであり、構造に目を向ければ静態的に見える。また、資本主義近代から誕生した社会主義も、結果としては資本主義世界システムに包摂されていたと理解されている。

 一方で、本書が扱う約1世紀半の時代は、この社会主義が思想として誕生し、国家を形成し、さらに世界に「陣営」を形成する時代である。同時期、資本主義の構造は帝国主義のイデオロギーや暴力となって表出し、さらにはネオ・リベラルへと展開する。資本主義と社会主義の「関係」が世界に作り出した「傾向」によって、各地域の「連動」が起こる様相が本書の中に描かれている。緊張関係が次から次へと転移しながら、ある地域で均衡を生み出し、またある地域に移っていく。世界は無秩序も、唯一の世界帝国の状態も嫌い、均衡を生み出そうとしているようにも見える。このような運動は、システムに内在する自己再生・修復的な仕組みと考えるべきだろうか。あるいは、異なるシステムを生み出そうとする動きであったと理解すべきだろうか。あるいは、そもそも世界は「システム」論的に論じることができないと考えるべきだろうか。

 第二に、このような「ゴム風船」の世界史を論じることができるのは19世紀半ば以降のことなのであろうか。本書の扱う時代は、交通・通信のネットワークと技術の発達により、ヒト・モノ・情報のやり取りが活性化し、帝国主義による世界の一体化が完成する時代である。ある地域で起こった出来事は、やり取りの過程で薄められたり、変質したりすることなく、地球上の別の地域に短期間で転移する。その上で、各地域の状況に応じて「土着化」が図られる過程が存在する。

 それ以前の時代はどうだろうか。例えば、1492年のグラナダ陥落によるイベリア半島の緊張緩和は、次に地球上のどこの緊張を生み出しただろうか。コロンブスが到達した西インド諸島であれば「関係」を描きやすいだろう。一方で、東アジアにはどうか。その緊張緩和の直接的な余波は、かなり「遅れて」伝わったのであり、最初は「弱い波」であったかもしれない。

 21世紀の世界ではどうだろうか。グローバル化はかなりの強度をもって各地域の文化を「標準化」している。第9章が指摘するように、「1968年」から生み出された、社会における多様性の尊重、多文化主義という考え方も、多国籍企業によって採用されたり、過疎高齢化に悩む先進国の地方への人口還流政策やインバウンド観光振興の標語にも見られたりと、グローバルな価値として作用しているのが現状である。こうした状況にあって、21世紀の世界で「傾向」は、どの程度、各地域独自の「土着化」を引き起こすのだろうか。グローバルな「標準化」と、各地域への「土着化」の強度がある程度均衡していたのが19世紀から20世紀という時代の特徴であったのではないだろうか。

 以上のように、本書を読むと世界史への想像がかき立てられる。思い起こせば、学生時代から不勉強であった評者は、南塚氏のゼミで初めて江口朴郎の名前を知り、「ゴム風船」の話しを聞いた。最初、この世界史がよく分からず、「異様」だと感じた。システム論のように概念図でイメージしやすい歴史、『地中海』のように「大きな構想」を感じる歴史に惹かれがちであった。今でもよく理解できてはいないが、今では本書の世界史叙述に魅力を感じる。

(「世界史の眼」No.12)

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シリーズ「日本の中の世界史」後日談―『中島敦の朝鮮と南洋』―(下)
小谷汪之

はじめに

1 玉置半右衛門と玉置商会

2 渋沢栄一の「製藍会社」

3 田口卯吉の南島商会

(以上、前号)

4 南洋貿易株式会社(南貿)

5 第一次世界大戦とヤップ島

6 関根仙太郎の生年月日と生地

おわりに

(以上、本号)

4 南洋貿易株式会社(南貿)

 1890年12月、田口卯吉一行を乗せた天祐丸は「南島巡航」を終えて、品川港に帰着した。田口はその後も天祐丸で南洋交易に出ることを考えていたのであるが、士族授産金を利用した南島商会の商業活動には批判が強く、結局1891年、南島商会の全資産は東京府士族総代会に移され、南島商会は解散した。その後、東京府士族総代会は南島商会の資産を小美田利義に売却した。小美田はそれをもとに一屋いちや商会を設立して、南洋交易に乗り出した。1891年12月、一屋商会は天祐丸を再び南洋に派遣し、ポナペでは、関根仙太郎らを一屋商会の社員として採用した。

 ところが、1893年、一屋商会は清算され、その事業は1894年に設立された南洋貿易日置ひき合資会社に引き継がれた。しかし、関根はこの会社の社員にはならず、ポナペの現地人実業家、ヘンリー・ナンペイ(1862‐1927年)のもとで働くことにした。ナンペイはポナペ島キチ地区の大首長(称号はナニケン)の息子で、母方の祖父はイギリス人であった。ナンペイの父は、アメリカン・ボードがスタージェス牧師などの宣教団をポナペに派遣し、キリスト教新教の布教を始めようとしたとき、それに協力し、ナンペイ自身も若くしてアメリカに渡り、帰島後は新教の指導者として強い影響力を持つようになった。そのうえ、父から受け継いだ広大な土地を椰子林とし、コプラ(椰子の実の果肉)の生産で財を築いた。しかし、1898年、キューバ問題をめぐってスペインとアメリカの間に戦争(米西戦争)が起こると、ナンペイ一家はポナペ島の主市コロニアで幽閉された。関根仙太郎も行動を制約されたが、南洋貿易日置合資会社の長明丸に便乗して帰国し、東京のアメリカ公使館にナンペイ一家の救出を要請するなどした。米西戦争がスペインの敗北で終わると、ナンペイ一家は釈放されたが、関根はすぐにはポナペに戻らなかった。

 米西戦争に敗れて、キューバだけではなくフィリピンやグアム島も失ったスペインは南洋諸島(グアムを除くマリアナ諸島、ヤップ島、パラオ諸島、トラック諸島、ポナペ島、マーシャル諸島)の領有をあきらめて、南洋諸島をドイツに売却した。ドイツは、日本の商会や商人の活動に疑惑の目を向け、殆どの日本人を南洋諸島から追放してしまった。関根は1901年に横浜の村山捨吉によって設立された南洋貿易村山合名会社の社員になったのであるが、南洋諸島における陸上での商業活動を許されず、横浜と南洋の間を年に2回往復し、船上で取引をするという状態であった。しかし、1906年には、南洋貿易村山合名会社にポナペ島での営業が許可され、ポナペに支店が開設されて、関根が支店長になった。

 1908年、南洋貿易日置株式会社(合資会社を改組)と南洋貿易村山合名会社が合併して、その後日本の南洋貿易の担い手となる南洋貿易株式会社(南貿)が設立されると、関根は南貿ポナペ支店長となった。

 1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発、8月23日、日本は日英同盟を根拠としてドイツに宣戦布告した。日本海軍は南洋諸島に艦隊を派遣して、ドイツ領南洋諸島の占領を策した。そのうち、第一南遣枝隊(松岡静雄司令官)はマーシャル諸島ヤルート島を占領した後、ポナペ島に向かい、10月7日、第一南遣枝隊連合陸戦隊がポナペ島を占領した。その時、関根は通訳として、日本軍と現地民首長たちとの橋渡しをしただけではなく、その後の日本軍によるポナペ島統治にもかかわった。第一次世界大戦後の1925年1月、関根は南貿ヤップ支店長に転任となった。

5 第一次世界大戦とヤップ島

 本書(第一刷)刊行時には見落としていたことであるが、関根は、1925年7月、南貿ヤップ支店長として、「損害申請書(財産ノ損害)」2通を時の外務大臣、幣原喜重郎に宛てて提出している(国立公文書館アジア歴史資料センター、外務省文書、「一二八四 関根仙太郎」)。それには次のような事情があった。

 前に書いたように、第一次世界大戦が勃発すると、日本はドイツに宣戦布告した。当時、ヤップ島、パラオ諸島、ポナペ島、マーシャル諸島など南洋諸島の島々はドイツ領であったから、これらの島々にいた日本人はドイツによる迫害を受けざるを得なかった。特にヤップ島はドイツ領南洋諸島・西カロリン政庁の所在地だっただけではなく、ドイツが西太平洋に敷設した海底電信網の中心地として、極めて重要な島であった。ドイツは、1904年、オランダとの合弁のドイツ法人ドイツ・オランダ電信会社を設立、翌1905年には、ドイツ・オランダ太平洋通信網を完成させた。ヤップ島を中心として、東はグアム島(ここは1903年に開通したサンフランシスコからハワイ・ホノルルを経てフィリッピンのマニラに至るアメリカの海底電信線の中継地であった)、南はオランダ領インドネシア・セレベス(スラウェシュ)島のマナド(あるいはメナド)、西は沖縄周辺を通って中国の上海へとつながる海底電信網である。アメリカもグアムとマニラを結ぶ海底電信線に不具合が生じた場合には、グアムからヤップ島を経て上海に至るドイツの海底電信線を利用していた。1906年には、アメリカの海底電信線がマニラから上海まで延伸され、さらに、小笠原を中継地としてグアムと日本(川崎)を結ぶ海底電信線が日米共同事業(小笠原―川崎間が日本の工事分担)として完成した(以上、花岡薫『海底電線と太平洋の百年』日東出版社、1968年、79-80頁、73-76頁)。

 第一次世界大戦勃発時、ヤップ島にいた日本人は、南貿ヤップ支店長、柴田定次郎と社員6名およびドイツ・西カロリン政庁に雇われていた大工一家4人の計11人だけだったが、彼らは島外との連絡を禁止され、全員「嘗テ西班牙スペイン人ノ居宅タリシ陋屋ろうおくニ移サレ」た。その後、大工一家は妻の出産を理由として「自由ノ身」になったが、南貿社員7名は「厳重ナル監視ノ下」に置かれ続けた。パラオ諸島でも、同じように、南貿社員などがドイツ官憲によってマラカル島の外に出ることを禁じられた。しかし、「在留日本人ノ言ニ依レバ本島〔パラオ〕ニ於ケル独逸官憲ノ日本人ニ対スル態度ハ『ヤップ島』ノ如ク苛酷ナラザリシ」(国立公文書館アジア歴史資料センター、外務省文書、「一二八七 宮下重一郎」)ということである。ヤップ島の警戒は特に厳重だったということであろう。

 10月7日早朝、日本海軍第二南遣枝隊(松村龍雄司令官)の戦艦「薩摩」がヤップ島沖に姿を現すと、ドイツ側は南貿社員7名を、ヤップ島の首市コロニアの「北方約三里」(約10キロメートル)に位置する「ルヌー」の南貿分店に幽閉した。しかし、同日正午過ぎ、戦艦「薩摩」の陸戦隊がヤップ島を占領、ドイツ人たちの多くはドイツ・オランダ電信会社の施設や「仮無線電信所」を破壊したうえで、逃亡した(後に投降)。

 こうして南貿社員は解放されたが、この間、南貿ヤップ支店は大きな損害を被った。それでヤップ支店長、関根は損害の補償を求めて、「損害申請書」2通を外務大臣に提出したのである。これらの「損害申請書」は、もともとは、1920年に当時の南貿ヤップ支店長、柴田定次郎によって外務省に提出されたものであるが、何らかの理由で回答を得られなかったため、1925年1月に柴田に代わってヤップ支店長となった関根が改めて提出したのである。このうち一通の「損害申請書」によれば、日本がドイツに宣戦布告した翌日の8月24日、ドイツ人警吏が「土民兵」を指揮して、南貿ヤップ支店を襲い、「器具及備付ノ武器ヲ押収シ店舗ハ閉鎖サレ営業ヲ禁止セラレ」た。この日から10月7日に日本軍がヤップ島を占領するまでの44日間、南貿ヤップ支店は営業をすることができなかった。それで、その間の一日あたりの損害額を200円と見積もって、総額8,800円の損害補償を外務省に申請した。もう一通の「損害申請書」はドイツの軍艦コルムラン号のために押収された南貿所有の「艀ヶはしけ船」に関するもので、その間の「使用料並破損修繕費及付属品補給費」として、1,080円の損害補償を求めている(これらの補償金が実際に南貿ヤップ支店に支払われたかどうかについては、資料が残されていないため不明)。

 ヤップ島については、一つ付け加えておきたいことがある。第一次世界大戦後のパリ講和会議(1919年)において、アメリカはヤップ島の太平洋通信基地としての重要性に鑑みて、ヤップ島を国際管理下に置くことを主張した。それに対して、日本はヤップ島を日本の南洋諸島委任統治領に含めるよう主張した。この問題はワシントン会議(1921-22年)にまで持ち越され、結局1922年2月、ヤップ島を日本の委任統治領とするが、ヤップ島―グアム島間の海底電信線はアメリカに譲渡され、アメリカは海底電信線の維持、運用のために、ヤップ島に自由に出入りすることができるということで決着した(花岡『海底電線と太平洋の百年』85-86頁)。当時、ヤップ島はこれほど重視されていたのである。

6 関根仙太郎の生年月日と生地

 関根は、上述の「損害申請書」に、自己の生年月日を「明治参年〔1870年〕六月十四日」と記している。外務大臣に提出する書類に嘘は書かないであろうから、これによって関根の正確な生年月日を初めて知ることができた。この生年月日にもとづけば、関根が玉置半右衛門に従って鳥島に渡ったと考えられる1888年には、関根は数えで19歳(満では17歳か18歳)、南島商会に入社したのは1890年の5月より前であるから、その時関根は数えで21歳(満で19歳)ということになる。これは関根が前出のインタヴューの中で言っている年齢とはそれぞれ4歳違う。関根の記憶違いというには大きすぎる違いだが、何か理由があるのだろうか。それとも、関根が、極めて若い時から「南洋」とかかわって来たことを強調したくて、年齢を若い方にサバを読んだということにすぎないのだろうか(「本書」117頁の記述は関根の話にそのまま依拠しているので修正を要するが、そうすると字数が大幅に増えるため第二刷でも修正できなかった。心残りな点である)。

 関根の生地についても疑問がある。「損害申請書」に、関根は自らの本籍地を「東京市日本橋区中洲河岸拾號地、南洋貿易株式会社」と記している。関根は自己の生地につながるもともとの本籍を捨てて、南貿本社に本籍を移してしまっていたのである。本籍はどこにでも自由に移せるものであるが、これによって、関根の生地を知ることが難しくなった。そこには、もともとの本籍を隠蔽する何か特別な事情があったのであろうか(同じ1925年に、南貿パラオ支店がドイツによって被った損害の補償を求めたパラオ支店長宮下重一郎の「損害申請書」には、長野県小県郡のもともとの本籍地が記されている)。

 しかし、それにしても、「東京市日本橋区中洲河岸拾號地、南洋貿易株式会社」という本籍地は奇妙である。本籍地は地番のみによって表示されるもののはずだが、戦前には「南洋貿易株式会社」といった会社を本籍地とすることもできたのであろうか。ちなみに、現在、皇居の地番は東京都千代田区千代田1番で、この地番を本籍地としている人はかなりいるということである。ただし、「東京都千代田区千代田1番 皇居」という本籍地はありえない。

おわりに

 「今日まで約五十年の間、倦まずうまず撓まずたゆまず、南洋貿易のぬしとして活躍している〔関根〕氏は」、「鈴木経勲氏と共に国宝的存在と云う可きであろう」と、前出のインタヴューを行った雑誌『南洋群島』の記者は書いている(『南洋資料 第四七三号、南洋群島昔話 其の一』、1頁)。しかし、鈴木経勲の経歴がほぼ明らかなのとは異なり、関根仙太郎の経歴には分からない所が多い(鈴木については、「本書」37-40、80-96頁参照)。前に書いたように、関根は1935年か36年に「南洋」から帰国し、東京下町の向島に居をかまえていたのだが、その後どうしていたのかということは、没年を含めて分かっていない。また、今のところ、生地や幼少年期を知る手がかりもない。一庶民の人生の軌跡をたどることはなかなか難しいことである。

(「世界史の眼」No.12)

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