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「世界史の眼」No.16(2021年7月)

木畑洋一さんには、「世界史寸評」として、「ホブズボーム伝翻訳余滴」と題して、今月発売されるリチャード・J. エヴァンズによるホブズボームの伝記『エリック・ホブズボーム 歴史の中の人生』の翻訳から見えたものを紹介いただきました。

また、連載中の『世界哲学史』シリーズの書評ですが、今号では近代の2冊を対象としています。早稲田大学の弓削尚子さんに『近代I 啓蒙と人間感情論』を、一橋大学の黒岩漠さんに『近代II 自由と歴史的発展』を評して頂いています。

木畑洋一
世界史寸評 ホブズボーム伝翻訳余滴

弓削尚子
書評:伊藤邦武/山内志朗/中島隆博/納富信留(責任編集)『世界哲学史6―近代I 啓蒙と人間感情論』ちくま新書 2020

黒岩漠
伊藤邦武、山内志朗、中島隆博、納富信留『世界哲学史7 近代Ⅱ 自由と歴史的発展』(筑摩書房、2020年)

リチャード・J. エヴァンズ(木畑洋一監訳)『エリック・ホブズボーム 歴史の中の人生』上・下(岩波書店、2021年)の岩波書店の紹介ページは、上巻がこちら、下巻がこちらです。筑摩書房によるシリーズ『世界哲学史』の紹介ページは、こちらです。

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世界史寸評
ホブズボーム伝翻訳余滴
木畑洋一

 このほど(発売は本稿公開の数日後になるが)、リチャード・J. エヴァンズ『エリック・ホブズボーム 歴史の中の人生』上・下(岩波書店、2021年)という本を邦訳した。原書は800頁近くあり、非常に細かなこと(たとえば、ホブズボームが子供の頃急死した父が埋葬されたウィーンの墓地の墓石番号)まで書き込まれた伝記である。イギリス帝国史や国際関係史の気鋭の研究者5人との共訳で、よいチームワークのもと、翻訳作業を始めてからほぼ予定通りの2年間で刊行できた。本書に書かれていることの内、特に印象に残った点のいくつかは「訳者あとがき」に書いておいたので、ここではそれ以外で世界史に関わる問題を三つほど記してみたい。

 ホブズボームの仕事は、ヨーロッパ中心主義的であると言われることがよくある。筆者自身も、彼の「短い20世紀」論を批判して「長い20世紀」論を提唱する際に、それを中心的な根拠とした。とはいえ、彼の視野はヨーロッパに限られていたわけでは決してない。とりわけ、ラテンアメリカについて彼は強い関心を抱いており、一時期、彼は世界のなかで社会革命をめざす「人々の目覚め」がもっとも進んでいるのはラテンアメリカであると考えていた。それに対応して、ラテンアメリカの側ではとりわけブラジルにおいて、彼への関心、彼についての評価がめざましかった。ブラジルで彼の著作がきわめてよく売れたことはその指標である。たとえば、『資本の時代』は9万6千冊の売り上げがあり、『極端な時代』(邦題『20世紀の歴史』)は実に26万5千冊売れたいう(著作の出版、販売事情についての説明の詳しさも本伝記の特色である)。ホブズボームとラテンアメリカの関係について、筆者も漠然としたイメージはもっていたものの、ここまでとは考えたこともなく、これは本書に接して最も驚いた点の一つであった。

 次は、ホブズボームとアフリカの関係である。ホブズボームには『面白い時代 20世紀の人生』(邦題『わが20世紀・面白い時代』)という自伝があるが、そのなかでごく簡単な言及(「1938年にチュニジアとアルジェリアへの研修旅行に行くことができた」)ですまされている旅についての記述も興味深かった。ケンブリッジ大学在学中の1938年夏にホブズボームは調査旅行のための助成金をもらって、これら2か国(いずれもフランスの統治下にあった)の農業実態調査に出かけたのである。「数冊のノート」を埋め尽くす情報を収集することになるこの旅行を著者はかなり詳細に描いた上で、この旅が「財産を奪われた農村の貧しい人々に関心を抱いた最初の兆し」であったかもしれないと推測している。

 この調査旅行をホブズボーム自身重視していたことは、翌1939年に大学院での研究テーマを決めるにあたり、「前の年にすでに進めていた研究作業を踏まえた仏領北アフリカについての博士論文の研究構想を提出」した点にも示されている。しかし、すぐ後に軍務につくことになったため、彼はその研究にとりかかれなかった。実際に博士論文の準備を始めたのは戦後になってからであり、その時には「すでに結婚していたこともあり、長期間外国に出かけてしまうべきではない」と彼は感じた。そのためにイギリス国内で史料調査ができるテーマ(フェビアン協会の研究)を選んだのである。著者が指摘するように、アフリカへのホブズボームの関心は希薄なままに終わってしまったが、もしも彼の研究活動が仏領北アフリカ研究から出発していたら、北アフリカとサハラ以南のアフリカは大きく異なるとはいえ、アフリカとの彼の関わりや彼の描く世界像に変化が起こったかどうか、問いかけてみたくなる。

 ホブズボームの関心の中心にあったヨーロッパについては、ホロコーストに対する彼の姿勢が非常に気になった。自身ユダヤ人であり、親戚のなかにはアウシュヴィッツで殺された人もいたにもかかわらず、彼はホロコーストを正面から論じようとはしなかったのである。アメリカの歴史家アルノ・メイヤーが、『なぜ天国は暗黒にならなかったのか』というヨーロッパ史の文脈のなかにホロコーストを据えた本の原稿を彼に送ってコメントを求めた際、「この問題に向き合うことは心情的に非常に困難」とメイヤーに答えている。また、この伝記の読み所の一つは、『極端な時代』のフランス語訳遅延をめぐる顛末であるが、それに関わる部分では、フランスの歴史家ピエール・ノラがホブズボームの友人に対して、この本でアウシュヴィッツは一度しか取りあげられていないと指摘した、ということが述べられている。その友人も、ホブズボームはホロコーストについて「まるで関心を持っていない」と感じていたという。著者は、ホブズボームのように「巨視的かつグローバルな視野をもつ者にとって、ユダヤ人は(中略)戦争における犠牲者のごく一握りにしかすぎなかった」というこの友人の言葉を引くのみで、この問題についてのそれ以上の議論を控えているが、考えさせられる点であることは確かである。

 その他にも本書で気づく話題は数多いが、それらを頭の片隅に置きながら、ホブズボームの著作(幸いその多くは邦訳されている)をあれこれ読み返してみるのも一興であろう。

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書評:伊藤邦武/山内志朗/中島隆博/納富信留(責任編集)『世界哲学史6―近代I 啓蒙と人間感情論』ちくま新書 2020
弓削尚子

 18世紀ヨーロッパの「啓蒙の時代」。人間の理性こそ、社会の不条理や蒙昧を啓くと説かれ、「理性」はこの時代のキー・コンセプトとなった。これに対して、本書では、スコットランドのデヴィッド・ヒュームなどを中心に、人間の本性は理性ではなく感情であるという議論に目を向ける。理性だけでは、善悪の判断は不可能で、理性は人を懐疑的にし、自由な発想を奪うことすらある。相手の境遇に同情したり、言動や行為に共感することこそが人との交際を自然なものにする。理性主義の弊害を論じ、合理主義の陥穽を見抜く思想もまた啓蒙の一つの潮流をなしていた。

 理性よりも感情を――そのような声はユーラシア大陸の遥か東方でも独自に発せられていた。18世紀、清国の実証主義者である戴震は、当時、「体制教学」であった朱子学を批判した。朱子学は「理」という概念を「世界の根本概念」としたが、戴震が生きた時代には、為政者は「理」「天理」というものを国の支配のために都合よく解釈し、「情」を軽んじ、厳格な道徳主義が人びとを苦しめていた。戴震は、人びとが互いの「情」というものを推し量らなければ、「理」というものは成立しないと考え、「感情の哲学」を展開した。

 本書は、西洋の光が東洋の闇を照らし出すという発想で編まれているのではない。むしろ、西洋哲学に立脚した哲学史を反省し、西洋中心からの脱却を目指すという。ヨーロッパ、アメリカ植民地、イスラーム、中国、日本に生きた数々の思想家たちが「世界哲学史」という一つの舞台に登場する。本書を読んで、東西を越えた架空の哲学対話に興じるのは読者の特権だ。

 たとえば、戴震は、孟子の性善説をひきつつ、人は生まれながらにして善というよりも、自ら学び、人間としての成長が可能なるがゆえに善という。イマヌエル・カントは同世代の戴震にこう語りかけるのではないだろうか。

 「人は怠惰や臆病のせいで自ら未成熟な状態に陥ってしまう。そこから抜け出すことが啓蒙だと私は名づけました。自ら学び、人として成長することを善とする考えは、啓蒙につながりますが、感情だけでは権威や権力に盲従してしまいます。自分の知性を用いる勇気をもって立ち向かう。それには人間の理性というものがいかに必要か。」

 すると戴震は答える。

 「知性や理性というのは、人間誰しもがもつとお考えか?私はどんな人間でも、「恐れ」や「優しさ」といったさまざまな感情に出会うことで、学びの契機をもつと思うのです」。

 戴震は「悔いて善に従うようになれば下愚ではなくなるし、それに加えて学んでいくなら、日増しに智に近づく」と考えた。理性は感情の上位にあるのではなく、「感情の鍛錬を補佐するもの」という考えはヒュームにも通じる。一方、カントは果たして万人に通じる理性を語ったのかと疑問もわいてくる。

 より洗練され、完成した人間になるために感情や感性を重んじる姿勢は、18世紀の日本でも見られた。本居宣長は、歌や物語を学ぶことで多様な立場の人びとの心情を理解し、それが温和な人間という理想像へ導くとした。伊藤仁斎や荻生徂徠も、道徳をめぐる朱子学の理解に距離をおき、「人情」を知り、理解することの肝要さを説いた。人情に通じれば、他人の過ちにも他人の気持ちにも寄り添うことができ、「寛容」で「柔和」な人になれる。寛容の精神は、西洋の啓蒙思想の柱でもあるが、理性から踏み込むか、情から近づくか、方法は一つではない。

 西洋から東洋へ、という伝播ではなく、18世紀における東西の哲学の同時代性が紡がれていくおもしろさが本書にはある。他方、19世紀から20世紀初頭におけるイスラームの「啓蒙」、あるいは「目覚め」や「復興」を意味する「ナフダ」と呼ばれた思想が取り上げられていることも本書の価値を高めている。「近代思想の祖」、リファーア・タフターウィーは、西洋の「自然権」や「自然法」、「自由」や「平等」という概念を、ムスリムの宗教的、伝統的な理念の中に見出そうとした。19世紀半ばに生まれたムハンマド・アブドゥは、西洋の拡張主義をにらみつつ、「啓示と理性の調和」を希求した。読者の中には、明治期日本の「啓蒙思想家」を想起し、イスラームの「啓蒙思想家」との異同を読み取る者もいるだろう。

 本書は、「哲学という場において「世界」を問い、「世界」という視野から哲学そのものを問い直す試み」という。この姿勢が最も鮮明なのは、フランス政治思想の革命への契機をとらえる論考だ。18世紀半ばに七年戦争が勃発し、アジア・アフリカ・アメリカの植民地をめぐるイギリスとの戦いに敗北を喫したフランスでは、既存の枠組みを超えた新たな政治経済秩序体制が構想された。「啓蒙から革命へ」。近代主権国家・国民国家分立体制は、ここから世界的拡大を開始する。

 とはいえ、本書における西洋思想の考察の多くは、「西洋世界」にとどまり、グローバルな「世界」が感じられない。ヒュームは一神教の不寛容と迫害を多神教の寛容と対比させたというが、それ以上は深く掘り下げられない。ヒュームやアダム・スミスが説く「共感」の対象に、被植民者や奴隷がなぜ想定されなかったのかも気になる。トーマス・ジェファーソンらが説く自然権や人民主権というアメリカ独立の思想が、いかにフランスに影響を与えたのかを論じる論考が収められているが、D.A.グリンデ・Jr./B.E.ジョハンセン『アメリカ建国とイロコイ民主制』(星川淳訳 みすず書房 2006)などによると、「建国の父たち」は「インディアンの政府」を参照し、先住民の「民主主義」や「自由」概念から示唆を受けた。本書の読者は、むしろこうした考察が世界哲学史にどう組み込まれるのかということに関心をもっている。

 西洋において、「人」とは誰で、「世界」とは何を指したのか。哲学であれ、歴史学であれ、西洋近代に確立された学問体系をいったんエポケー(停止)するという作法が、世界史を論じるためには不可欠である。自戒をこめてそう感じさせられる一冊であった。

(「世界史の眼」No.16)

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伊藤邦武、山内志朗、中島隆博、納富信留『世界哲学史7 近代Ⅱ 自由と歴史的発展』(筑摩書房、2020年)
黒岩漠

 世界史とはいかなる試みでありうるのか。世界史を描くためにはどのような問題の設定の仕方が要求され、それをいかなる文体と構成のもとに表現すればよいのか。『世界哲学史』と題された思想史家たちの挑戦を前にするとき、歴史家が心に抱くことになるのはおおよそこのような問いであるにちがいない。19世紀を対象としたその第7巻の批評を書くにあたって、各章の多岐にわたる内容に分け入っていくのではなく、世界史という問いそのものをまず念頭に置くのは、私自身も歴史家の一人としてこの問いを抱き続けてきたからにほかならない。すなわち本評は、西洋中心的な哲学史から脱し、新たな世界哲学史を描かんとする者たちへの、歴史学者という立場からする遠くからの応答である。

 世界史というものを、たんなる情報の併記ではないかたちで構成しようとするのならば、おおよそ僕らは二つの視点に頼ることになる。異なる地域のあいで人物から人物、社会から社会へと伝わっていった事物や観念に注目する〈伝搬〉の視点と、異なる地域において直接的な因果関係は認められないもののどこか類似した文化形態や共通した社会関係に注目する〈構造〉の視点である。本書のなかでしばしば使用されている「共鳴」や「重なり合い」といった語彙は、この両方の視点をゆるく押さえようとするものだと言える。これらの語彙こそが本書を「世界哲学史」というかたちへと構成する仕方を示しているのであって、その試みが西洋中心的な視点から哲学史を解放できているのかという問題への解答もやはりこれらの語彙に関係することとなる。

 さて、「自由と歴史的発展」なる副題の付けられた第7巻では、「共鳴」や「重なり合い」といった語彙の具体的内容は、伊藤邦武氏による第1章においてあらかじめ示されている。本巻の編集者でもある伊藤氏は、自らの目標のために積極的に意志を発揮する「自発性の自由」、およびさまざまな目標のなかから無差別にいずれかを選び出す「無差別な選択の自由」という、デカルトにおける二種の自由の捉え方を持ち出す。そしてそれらの自由は、19世紀においてはそれぞれ歴史のなかに求められることとなったという。すなわち、ヘーゲルが典型である歴史的発展の哲学(第2章)と、時間的推移のなかでの偶然の積み重ねをみるダーウィンに顕著な哲学(第5章)である。アメリカ独立革命およびフランス革命に続く19世紀という時代は、まさにこの「自由と歴史的発展」の絡まり合いのなかにおのれの哲学を見出したというわけである。幕末・明治における日本の「文明開化」という観念もその一種として位置づけられることとなる(第10章)。

 しかし、それだけであれば西洋中心的な哲学史を脱したとは言い難い。日本の事例がそうであるように、そのような自由の観念は西洋からの輸入、少なくともその影響のなかで形成されていったことは周知の事実である。そこで本書は第三の自由を持ち出す。すなわち、自らの性質を自分の力で変更し、新たな自己へといたることを可能にする自由、「習慣形成」としての自由である。本書は、この自由にこそ新たな哲学史を描くための「共鳴」を見出そうというのだ。要するに、この「習慣形成」という契機こそがアメリカのプラグマティズム(第7章)だけではなく、フランスのスピリチュアリスム(第8章)、インドのベンガル・ルネッサンス運動(第9章)、あるいは日本の福沢諭吉らにおける「修身」概念にも見出されるというわけである。

 本書を世界史として構成する核がこのような自由の「共鳴」であるとするならば、それが西洋中心的な哲学史からの離脱の契機にもなっていなければならない。しかし、そのことは何を意味するだろうか。近代世界史を成立させているものとしての世界市場は、私たちが常日頃触れる学知の国際的な流通経路にも深く影を落としている。たとえば、どの地域の学者・思想家の名前をどれくらい挙げられるかという単純な問いにすら、個々の能力というよりもこの地政学的関係こそが解答するだろう。言うまでもなく、その関係の中心にあるのが「西洋」であり、それこそが西洋中心的枠組みを生み出している。だとすると、この知の流通経路に対抗するだけの概念的・構成的強度があるかどうかがここで試されているのである。本書の考察を読み終えて最後に残るのはこの点での疑問である。19世紀とは、まさにこの知の世界市場が新たに形成されていった時代ではなかったか。そしてそれはまた、20世紀の世界戦争と植民地戦争に繋がっていくものではなかったか。少なくともこの第7巻に関してはこの点をはっきりと構成的に組み込んだうえで、それとの関連のなかで自由の問題も考察し、「共鳴」といった語彙も用意するべきではなかったか。世界哲学史という試みに続き新たな世界史を描かんとする歴史家たちにこそ、これらの問いは残されたのである。

(「世界史の眼」No.16)

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