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書評「教養としての歴史問題』

当研究所の木畑洋一さんが、『立命館アジア・日本研究学術年報』第2号(2021年)に、前川一郎編著、倉橋耕平・呉座勇一・辻田真佐憲著『教養としての歴史問題』の書評を執筆しています。

この書評は、こちらからお読みいただけます。書評対象の『教養としての歴史問題』の版元による紹介ページは、こちらです。

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「世界史の眼」No.17(2021年8月)

今号では、昨年末に、19世紀米国の作家・思想家であるヘンリー・ソローの日記を翻訳・刊行された山口晃さんに「世界史のかたわらでのヘンリー・ソローの存在」と題して、ソローとその日記について寄稿して頂きました。

また、連載中の『世界哲学史』シリーズの書評ですが、今号では第8巻と別巻を対象とし、完結します。

山口晃
世界史のかたわらでのヘンリー・ソローの存在

木村英明
グローバルに連結する哲学へ向けて(『世界哲学史第8巻』)

南塚信吾
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留責任編集『世界哲学史別巻―未来をひらく』ちくま新書、2020年

ヘンリー・ソロー、山口晃訳『ヘンリー・ソロー全日記 1851年』(而立書房、2020年)の紹介ページは、こちらです。また、筑摩書房によるシリーズ『世界哲学史』の紹介ページは、こちらです。

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世界史のかたわらでのヘンリー・ソローの存在
山口晃

 ソローという人は刑務所に入っていたのはたった一日で、森で暮らしたのもわずか二年だけだったのですか。生涯の半分は森で暮らし、半分は刑務所に入っていたのかと思っていましたよ。これは私の作り話ではない。彼の生まれた国でも漠然とそのように思っている人がいると聞いたことがある。『森の生活』と「市民的不服従」が彼を代表する作品だからである。そして作品を読むことで現代文明と社会を批判する孤高の人という像ができていく。いまのここに満たされない、それを補ってくれる憧れをともないながら。ソローにとって刑務所の一晩はとびきりの一日であったのだろうか。彼にとって森の生活は、そうでなかった日々とくらべ根本的に大切だったのだろうか。ソローの一日を市民的不服従の一日で、また森の生活の日々で代表することは、ソローの生活に即して考えるときふさわしいことでない、と私は思うようになっている。彼の市民的不服従の劇的な時も、森の生活という異空間・異時間も、当然ながら日常的な日々に支えられていた。あるいはそれらと併存なしにはありえなかった。だが、私たちがこの世界にある、という点から考えるとき、併存でよしとするというところでとどまっていられないように思える。もう一歩踏み込む必要があるのではないか。

 その小道を歩く前に、特別な一日であったとふつう考えられている市民的不服従の日を、まず素描してみよう。氷河期にできたウォールデン湖のかたわらにソロー(一八一七~六二年)が行ったのは、一八四五年早春であった。小屋を作るために背丈のあるマツを伐り、棟上げは隣人・友人に手伝ってもらったとしても、小屋は自ら作り、夏至を過ぎた七月四日にそこへ移る。ほぼ一年後の七月下旬のある夕方、修理に出していた靴を受け取るため、ウォールデン湖からコンコードの村へ歩いていた。通りで地方治安官・収税吏・牢の看守を兼ねていた サム・ステープルズに呼び止められ、ここ数年間の人頭税の支払いを求められた。「もし金に困っているなら、ヘンリー、俺が支払っておこう」とステープルズは言った。また人頭税が不当に高いと思っているなら、町の行政委員に引き下げてくれるよう自分が掛け合ってもいい、と提案してくれた。しかしソローは、自分は考えがあって払ってこなかったのだから、いま払うつもりはない、と答えた。ステープルズはそれでは自分はどうしたらよいかと尋ねると、その職務が好きでないなら、辞職することもできる、とソローは言った。ステープルズはその案を受け入れる気になれなかった。「ヘンリー、もし君が払わないのなら、刑務所に入ってもらわなければならないよ。」「いつでもいいよ、サム。」「じゃあ、来てくれ」と言って刑務所に連れて行った。ソローが人頭税を払ってこなかった理由は、「国の人口の六分の一が奴隷である」こと、そして「私たちの国の軍隊が侵略軍になろうとしている」こと、つまり政府が奴隷制を認め、メキシコと戦争を行なっている(メキシコ戦争は一八四六年から四八年)からであった。

 ソローの家族は奴隷制の問題に関心を抱いていた。母親シンシア、姉ヘレン、妹ソフィア、知人のプルーデンス・ウォードといった女性たちは奴隷制反対の活動をしていた。コンコードを訪れる奴隷制反対の活動家は、その晩、ソローの母親の下宿にとまるのが常であった(ソロー家は父親の営む鉛筆製造業のほか家庭的な下宿屋も営んでいた)。当時ニューイングランドの著名な奴隷制廃止論者で、ソローの母の食卓に座ることのなかった者はひとりもいなかったと言われている。

 ソロー逮捕の噂はたちまち村中に広がった(当時、住民たちは人口二千人ほどの自分たちのコンコードを町よりも村と呼んでいた)。母親はそれを聞くと、刑務所に駆けつけ、噂の真相を確かめると家に戻り、家族に知らせた。サム・ステープルズはその晩しばらく外出していたが、帰宅すると、娘のエレンが、留守中に誰かがドアをノックして、「ソローさんの税を支払うお金がここに入っています」と言いながら包みを手渡した、と報告した。娘の話を聞いたときステープルズはちょうど長靴を脱いで、火のかたわらに腰かけていたので(コンコードは北海道の南部ほどの緯度である)、わざわざ靴をもう一度はき直すつもりはないと言った。ソローはその晩は刑務所で過ごし、翌朝、釈放されればよいと思ったのだ。

 誰が税を払ったのかは、はっきりわかっていない。ソロー家に同居していたおばマリア説が有力である(ソロー家はおばたち、時にはおじ、そして下宿人がいて、つねにいわば大家族であった)。ソローは母親には自分のやり方に口出ししないという約束を取り付けていたかもしれないが、おばマリアはそういった約束に拘束されていないので、介入し、税を払った可能性が高いわけである。それ以来定期的に、おそらくソローが死ぬまで、彼女か他の人が前もって彼の税を払ったため、こうした事件は二度と起こらなかった。

 翌朝、ステープルズは釈放しようとしたとき、ソローが刑務所を出たがらないことを知り、びっくりした。一刻も早く出所したいと望んでいない、これまで出会ったただ一人の収監人だった。実際、ソローは釈放されることに怒っていた、とステープルズは言う。逮捕されれば自分が反対してきた奴隷制度に町の人々の注意を向けることができ、それこそが納税を拒否した目的であった。おばマリアが税を払ったとき、彼女は彼の作戦の肝心な点を台無しにしてしまったので、うれしくなかった。しかしステープルズは「ヘンリー、あんたが出ていかないなら、追い出すつもりだよ。もうここにはいられないんだ」と言い、ようやくソローは折れた。

 この出来事は、その後、町の人々の記憶からすぐに消えてしまうというものではなかった。町の多くの人々がソローのこの行為に関心を持っていたのである。牢に入ろうとした本当の理由わけを知りたかった。そこで一年半後、ソローは町の人々のそうした関心にたいして説明するため原稿を作り、一八四八年一月二十六日、コンコード文化協会で講演した(当時は、講演は冬期が多かった。また、講演というけれど、リーディングで原稿を読むものであった)。題は「政府との関係における個人の権利と義務」だった。ソローはその場で、聴衆が耳を澄まして聞いていることを感じる。それで三週間後、町の他の人々が聞けるように、講演の続きを行なった(以降、ソローはこの講演をどこにおいても行なっていない。このときのコンコードだけであった)。

 のちに市民的不服従として知られるようになるこのエッセイには後半、読者(あるいは聴衆)にとって不思議な、忘れられない一節がある。《私が投獄されたのは、修理に出していた靴を受け取りに靴屋に向かう途中でした。朝、牢から出されると、この用事を済ませることにしました。そして修理してもらった靴を履き、私に案内してもらうのを待ちかねていたハックルベリー摘みの一団に加わりました。馬具がすぐに付いたので、三十分後には二マイル離れた最も高い丘のひとつにあるハックルベリーの草原に私はいました。そこにはステートはどこにも見えませんでした。》ソローはコンコードのどこにハックルベリーが育っているかを誰よりもよく知っていた。そして女性や子供たちからなるハックルベイリー摘みの一団の「隊長」だった。ハックルベリーの最盛期は、もう少し時期的に後らしい。しかしこの記述は、ソローをずっと読んできて私は、修辞ではなく事実であったように思う。ソローは政治的行為の一日に、このように距離を置きながら原稿を閉じてゆく。

 それとこの出来事が含む忘れられない側面について触れておかねばならない。ソローを一晩刑務所に入れたサム・ステープルズは、ソローのもっとも大切な隣人のひとりであった。ソローはステープルズの土地を測量したとき(ソローの職業は測量士であった)、エマソンを巻き込んでじつに劇的な哄笑で終わる素晴らしい一場面を作り出す(引用しようとすると長くなってしまうので、ウォルター・ハーディング『ヘンリー・ソローの日々』をぜひご覧いただきたい)。また死の床にあったソローを見舞い、「これ以上満足した一時間を過ごしたことはありません。これほどの喜びと安らぎを湛えて死んでいく人を一度も見たことはありません」とエマソンに告げたのは、ステープルズだった。そのステープルズとの関係の中でソローの政治的行為を象徴する市民的不服従が生まれた。市民的不服従の底にあったのは、憎しみではなく、礼節、共同の空間の存在であった。

 ソローのこの一晩は、世界史における最初の市民的不服従と考えられている。それについての講演がたまたまなされ、のちにエッセイが掲載され残されたことで、この行為の姿が明確に表現されたことが、後押ししているのであろう。十九世紀中ごろの市民的不服従のこの出来事は二十世紀においてはインドのガンディーの南アフリカでの非暴力の行動、さらに合衆国のキング牧師の公民権運動の支えとなる。世界史におけるこの流れの意義は現在においてますます大切なものである。しかしソローやガンディーが何よりも考えた「この世界」は十分に顧みられてきたであろうか。つまり市民的不服従を行なった一日は、ソローの日々を代表する一日というよりも、そうではない一日をこそ、かれは自分の一日と考えていた、と私は思い始めている。本題に入ろう。

 この十数年、私は毎日ソローの日記を読んでいる。彼は二十歳の時からほぼ欠かさず二十年間ほど日記を書き続けた。二百万語。実に魅力的で楽しい日記だ。日記は部屋で書くこともあったが、野外の月光のもとで、あるいは焚火の明かりで書くこともあった。句読点はあったりなかったり、行変えも不ぞろいである。いくつか引用してみよう。ほとんどがこんな調子である。

《一月二日(一八四一年) 今日、一匹のキツネが自由な無頓着さで、湖を横切っているのを見た。彼が丘の尾根に沿って雪の上を足早に駆けるとき、私は日の光を浴びる彼の進みを距離を置いて追いながら、太陽がこれほど誇らしそうに、まっすぐ丘の斜面に差し、風と森が静かに共感していることはなかったように思えた。私は太陽と大地を、その真の所有者として彼に明け渡した。彼が太陽の輝きのなかを行ったのではなく、太陽の輝きのほうが彼について行くように思えた。彼と太陽の輝きのあいだに眼に見える共感があった。》キツネと太陽の共演に、観客のソローが加わっている。

《十月二十二日(一八五三年) 昨日、晩近く、ソフィアと母をボートに乗せる。片目の釣り人ジョン・グッドウィンが最近自分のボートで集めた流木を手押し車に乗せ、家に運んでいた。とても美しい夕べで、澄んだ琥珀色の日没が東の岸辺全体を明るくしていた。あの男の仕事はとても単純で直接的であり(もっとも、彼はほとんどの人から不道徳的な性格の持ち主とされているのだが)、冬用の薪を手に入れようとする気持ちは実によくわかるので、私には何とも魅力的であった。単純な仕事こそ私たちは愛することができる。それはまったく詩的である。》

 ソローはこのようにたびたび妹や母を自分で作ったボートに乗せ漕いでいた。ソローの好きな隣人のひとりグッドウィンは、母や妹から見ると、好ましい人物ではなかった。それをさりげなく並行して記入する日記は微笑ましい。枚数のことを考えると、ここで切り上げるべきなのだが、この日の日記は長く、次のような印象深い終わり方をしている。

《グッドウィンは変わることのない釣り人だ。この時期には小さなカワカマスの味をよく知っている。…何日間続けて釣りをするか、私などが言うのはおこがましい。しばらくのあいだほぼ毎日、たとえ雨でも彼は魚を釣っていた。外を見ると雨のなか、彼が籠と竿をもちオイルクロスのコートを着てゆっくりと歩いているのを見て私は驚いたことがあった。また先日は流れの真ん中で釣りをしていたが、その翌日は岸辺で釣っていた。そのときは一種の不思議な力に導かれ、私は彼のかたわらを漕いでいた。冬の餌用にヒメハヤを捕まえているのだ、と言った。私が二十ロッド離れると、二ポンド半の重さのあるカワカマスを持ち上げた。先ほど私に見せるのを忘れていたのだ。後で私に話したところによると、翌朝は三ポンドのを捕まえたそうだ。魚のいる池とカワカマスに関する委員を任命する必要があるとすれば、彼にその一人になっていただこう。彼の生はしっかりと大地に足をつけていて、評価するのが難しい。》ソローはこのようなとき、不思議な力に導かれそのほうへ漕いでいってしまうような人だった。ふだん使わない「委員」というような言葉を、このようなときに使い、その選定基準が他の人々のと違っている。

《十一月十八日(一八五七年) フラネリーは私が知っている最も大変な労働をする男だ。日の出前そして日没後も長い時間、彼は疲れを知らず、身体を使っている。そして結果は何とも陽気なのだ。彼はいつも元気だ。…たんに門が動かないだけでも、彼の喜びはその偶然にたいして湧き上がってきて、ふと口に出る言葉の中にそれがあふれているのだ。ただ勤勉であるというだけで、なんと多くを経験することだろうか。彼のふとした意見のなかにはしばしばきらめきがある。そして彼の声は本当に鳥に似ている。》門が動かないと、ふつう人は困ったと思う。大工さんを頼んで直してもらわねば。あるいは自分で直すにしても、いまやっている仕事が中断されるので困ったな、と思ってしまう。ところがフラネリーは直すことに無意識に喜びを感じてしまう。意見のひらめきが鳥の声に似ているとは、なんとも快い感受性。

 ソローの日記からの引用は楽しいのでやめられない。しかし結びへ入ろう。一八五八年十一月一日の日記を読みながら、私は不思議な方向へいざなわれていた。一八五八年十一月というと、ソローはあと三年半でこの世界を去る時期であった。彼にとって人生の晩年になる。秋も深まり、午後は短くなり、人々は家路に急ぐ。ソローはウォールデン街道の柵にもたれ、夕方の郵便が仕分けされるのを待っていた。そのとき彼はある根源的な思いに浸され、なじみのある十一月の夕べが再び巡ってきたことに気づく。そこには存在するというただそれだけの心地よさがあった。「私に求められている積極的な義務はきわめてわずかである、そういった状態である。」そして人間がこの世界にあることの深い意味を、日常生活の言葉で続ける。

《西の低湿地を通る長い鉄道の土手道、コオロギの鳴くのがほとんど聞こえない静かな黄昏、日没後だいぶたったころの地平線にできる雲の暗い層、郵便局へ行きそしてそこからローソクのかたわらの夕食へ足早に急ぐ村人たち、こうしたことすべてを私はかつて見なかったろうか。…本当は、私たちが真に深い教えを学ぶべきであることを、それらは示している。自然は古い綴り字教本のように、何度も何度もめくられるものなのである。私は完全に満足して、ずっとベンチに座っていた。想像される貴重なものや天国と引きかえに、私はこのなじみのある光景を代えようと思わなかった。》

 彼にとって根源的な思いとは、なじみある光景にほかならない。煙突から薪の燃える煙がゆるやかに立ちのぼってゆくのを見ると、ソローはかならずその下の炉辺、家庭の日常生活の営まれている姿を想像した。あの本当にゆるやかな柔らかい煙の広がり方に魅了される人であった。だからこそ薪になる木、枝、切り株、流木を拾い、集めることに喜びを感じたのであった。薪を割るときの身体のぬくもりもそれにつながっていた。基本のところに日常生活がある。ここで十一月一日のこの日記が閉じられていても、私は自分の晩年をも思いながら、この日の引用を自分のノートに書き写したであろう。

 しかし日記は、そこで閉じられず、唐突に次の数行が書き込まれている。《あなたが知っている現実のフレデリックは、ただ本で読むだけの人物の百万倍の価値がある。…そして朝、圧倒的な力でドアが叩かれる。これほどの客人はいない。私は家にとどまり、友を受け入れるであろう。》日記なので、脈絡はない。説明も一切ない。「圧倒的な力でドアが叩かれる」はどうやら、ヨハネ黙示録三章二十節からのようである。「見よ、私は戸口に立って、叩いている。だれかわたしの声を聞いて戸を開けるものがあれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をするであろう。」なぜここでキリストが?

 またフレデリックはメリーランド出身の元奴隷、奴隷制廃止運動家フレデリック・ダグラスの可能性がある。そしてソローは彼に複数回会ってきた。フレデリックは一八四五年自伝『アメリカ奴隷の生活を語る』を刊行したとき二十七歳で、さらに十年後の一八五五年には『我が拘束、我が自由』を刊行した。ソローの文の中の「ただ本で読むだけ」はそれに触れてのものであろう。

 一八五八年十一月一日の日記の中で圧倒的な力でドアをたたくのはキリストであった。このフレデリックがダグラスであるとすると、ドアを叩くのは黒人である。ニューイングランドのふつうのキリスト教徒にとって、これは考えられないこと、決して受け入れられないことであったろう。一方ソローはキリスト教および教会に対して距離を置き続けるが、キリスト本人に対してはかならずしも常にそうではなかった。聖書ほど読まれることの少ない本は珍しい、とさえ言う。

 十一月一日の日記のドアを叩く者は、キリストであったかもしれない。だが、ソローにとっては黒人フレデリックであったかもしれない。あるいはドアを叩くその響きのなかで、キリストと黒人が瞬間、瞬間入れ替わっていたのかもしれない。

 ソローは政治的行為にかかわったとき、ハックルベリー、スイレン、カイツブリなどそのときによって異なるが、かならず自然のものに触れた。触れずにはいられなかった。しかし一八五八年十一月一日は逆である。素晴らしい黄昏であった。ただ素晴らしいだけではなかった。慎ましい日常的な根源的な経験をしていると実感した。そのとき、ドアが叩かれていることを思った。「これほどの客人はいない。私は家にとどまり、友を受け入れるであろう。」受け入れ、共に食事をする。ソローにとっての政治的行為である。ソロー家には何人もの逃亡奴隷が立ち寄り、受け入れてきたのであるから、これは比喩ではなかった。しかし、なぜこのような静かな深い日常的な黄昏に、ソローはドアが叩かれていることに触れるのか。

 政治的行為の日の場合はハックルベリーやスイレンへの言及はわずか一言あるいは一、二行にすぎないのと逆の形で同じように、十一月一日では、行為への歓喜はわずか数行で終わり、先ほどの慎ましい根源的な日常生活について改めて深い記述へ戻ってゆく。いまの私にはこれ以上、わからない。しかしこれからもここにたたずむであろう。

《なんら新しいものを欲しない。私は年月を経た確かなものを十分の一だけ確保できれば、それ以外のすべての富をはねつけるだろう。ここから立ち去ると言った途方もない愚行を考えていただきたい。ここにはこれまでに私が持った、これから持つであろう、そしてこれまでと同じように友好的な、あらゆる友がいる。私は友人といさかいをおこしたことはなかった。一致が可能な心地よいものであった。私は友人たちとの関係において前へあるいは後ろへ一インチたりとも動こうとしないと思う。…最も短い距離をまわって帰り、家にとどまりなさい。…もちろんここには、あなたが愛しているもの、あなたが期待しているもの、あなたがそうであるもの、こうしたものすべてがある。ここにあなたの許嫁いいなずけが手に入れられるほど近くにいる。ここはあなたが想像することのできる最良のものと最悪のものがすべてある。あなたは他に何が欲しいというのか。》

 ふだんのソローに他ならない。悪しきものも良きものも含めて一つである。つまり一八五八年十一月一日は特別な一日であったが、ふつうの一日であった。世界史の流れのかたわらでこのふつうであり特別の日を、毎日生きる人がいた。それはまぎれもなく私たちの日々と地続きであった。

(「世界史の眼」No.17)

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グローバルに連結する哲学へ向けて(『世界哲学史第8巻』)
木村英明

 シリーズ『世界哲学史』の最終巻(別巻を除く)となる本書『現代・グローバル時代の知』では、20世紀初頭から21世紀に至るおよそ100年間の思想・哲学の模索が地球規模の広がりで扱われている。具体的には、「長い19世紀」が第1次世界大戦の惨禍によって終止符を打たれた近代の危機に端を発し、グローバリゼーションが地球の隅々にまで浸透した今現在に及ぶ時期の、西洋および非西洋の「世界」を思惟する多様な見取り図が示されている。

 しかし、周知のように、近代は手強い。本シリーズが古代、中世、近世、近代、そして現代と西洋近代の時間感覚に即して編まれていることからも明らかなように、西洋近代が作り上げた歴史観・認識の枠組みの外側に立とうとすると、いまだ人文科学の諸分野において、思考の不都合に直面させられる。本書では、この乗り越えがたい近代の桎梏を超えて進もうとする思索の数々を、各執筆者もまた、その困難さを誠実に抱え込みつつ紹介している。

 全10章中、前半の各4章は西洋哲学が自身の内部から批判的に、あるいは解体的に西洋思想に対峙していく動向に、後半5章は西洋の外にあって圧倒的なその思考体型の浸透力にさらされながら、独自に思惟することを求めたアジアやアフリカなどの哲学に焦点が当てられる。

 第1章「分析哲学の興亡」は、プラトン以降の西洋哲学の根幹にある二元論と向き合う。理解すること、すなわち「分かる」は「分ける」ことに直結していたとする筆者は、多元論にせよ一元論にせよ、「分ける」こと、すなわち二元論がもとにあると指摘する。哲学の科学化を目指した20世紀前半の「ウィーン学団」による論理実証主義も、ヒュームの法則同様、事実と価値・規範を峻別する二元論であった。しかし世紀後半に至り、このいわば「である」と「べき」の共通項として、認識主体(筆者は固有の態度を有する「パーソン」と名付けているが)を据える新たな探求が現れたことを紹介し、伝統的な分析哲学を脱する新たな地平を開示している。

 第2章「ヨーロッパの自意識と不安」は、世界大戦がもたらした西洋の没落の意識に、新しく登場してきた大衆による19世紀ブルジョア社会の更新(オルテガ)や、複製技術の進歩による19世紀芸術のアウラの剥奪(ベンヤミン)を対置して論じる。ただ、関連して触れられるフッサールの実証主義批判やハイデッガーの技術批判も含め、たとえばネット社会という身体性を欠いた大衆を抱え込む現代に、それらの議論がさらに展開可能性を有するかどうかは未だ不明と言わざるを得ないだろう。本章で扱われた20世紀前半のヨーロッパ思想を引き継ぐように、第3章「ポストモダン、あるいはポスト構造主義の論理と倫理」は、20世紀後半のフランス思想−おもにドゥルーズとデリダらの思索―を取り上げている。西洋的理性の基盤であった「Aは〜である」という同一性は、すべてが永続する差異化のなかに置かれて、いわば仮象のものへと転倒される。一方で、その要諦は差異による相対化にあるわけではなく、同一性と差異のダブルバインドを請け負う思考の緊張状態にあることが強調されている。デリダに依拠し、日本のゼロ年代の思想界を席巻した感のある「否定神学批判」、さらにメイヤスーによるダブルバインドの縮小・無化の議論は、ポスト構造主義後への展望を示して興味深い。

 ポストモダンがもたらしたいわゆる「聖典」の終わりは、かつてのさまざまな「本質」を弱体化ないし無効化する思想的、社会的ムーブメントに場を与えた。その最大級の一つが、第4章「フェミニズムの思想と「女」をめぐる政治」のトピックである「女性」だった。筆者はジェンダーをめぐる政治、特に現在のアンチ・ジェンダー・ムーブメント(日本の性教育をめぐる保守派の反発、ハンガリーのジェンダー研究禁止など)の問題から論を起こし、20世紀後半のフェミニズム思想の展開を辿る。フロイトの生物学的決定論である「解剖学的宿命」を否定するボーヴォワールの社会的決定論(「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」)においては、個々の女性の差異は想定されていなかった。裕福な異性愛の白人女性とは文化的・社会的に異なる場を生きる、70年代のブラック・フェミニズムや近年のポストコロニアル・フェミニズムの視野は、多種多様な「女」を浮かび上がらせてまさに世界哲学的と言えるだろう。

 20世紀の思想のフィールドで、特筆すべきものとしては批評の興隆がある。第5章の「哲学と批評」では、ものごとを語る言葉そのものが思考の対象となるこのジャンルが、聖典の解釈という新たな地平を哲学の未来に切り開いたことを明らかにする。欧米の脱構築批評の担い手が聖書の解釈学を底流に持つことはよく知られているが、筆者が主に焦点を当てるのは『コーラン』原典の訳者であり、言語学者にしてイスラーム神学研究の碩学井筒俊彦である。聖典語彙の意味論的分析から、イスラーム共同体内での「意味」の変容へと迫った井筒の批評哲学は難解だが、筆者の議論の道筋はたどりやすく、井筒読解の一助にもなるだろう。続く第6章「現代イスラーム哲学」は翻って、アラビア語では“ファルサファ・イスラーミア・ムアースィラ”となる“現代イスラーム哲学”が日本語で語られる以上、日本文化の一部でしかないと断じる(アラブ・ムスリムに向けて書かれたテキストですら、伝統的イスラーム学者によるそれと欧化主義者・オリエンタリストのそれの間には理解がほぼ成立しないという)。テキストの意味論的場も、イスラーム教の学習と祈りの実践も共有しない我々が日本語で読み語る限りにおいて、“ファルサファ・イスラーミア・ムアースィラ”は理解できないことを前提とすべきだというのである。グローバリゼーションの「世界標準」が英語思考に基づく欧米標準であるとしたら、そのもとで果たして世界哲学なるものにどのような実りが期待されるというのか、という鋭い問いかけが本章では突きつけられているように思われる。

 第7章の「現代中国哲学」では、中国古来の思想的伝統と西洋哲学の融合への歩みが紹介される。筆者は、両大戦間期に西洋哲学の論理学を知的背景に、中国思想の重要概念である「道」を論じた金岳霖の『知識論』、『論道』をその嚆矢としてあげている。ただ、戦後共産化した中国では哲学の探究は停滞し、西洋哲学の紹介の復活(=新しい啓蒙期)は80年代に入ってからのことになる。90年代以降はポストモダン思想の研究も始まったというが、筆者によれば「今の中国哲学思想界はまだ力を蓄積する段階」である。一方、アジアにおいて近代化の先陣を切ったと自負してきた日本の状況はどのようなものであったのだろう。第8章「日本哲学の連続性」では、西周によるphilosophyの訳語「哲学」の成立を日本哲学の起点に据えている。「理性」、「観念」、「実在」など、西の学術用語の訳出は787語に及ぶという。西が傾注した「理」をめぐる思索(「超理」、「実理」、「理外の理」を回すのは「物理」ではなく「心理」)は、アカデミズム哲学を確立した井上哲次郎に受け継がれる。彼の「現象即実在論」は現象と実在を表裏一体と考えて、「円融相即」と呼ぶような仏教色を帯びる。井上の教え子であった西田幾多郎も仏教の影響を受けつつ、実在を主観客観以前の知・情・意を一にしたもの、すなわち「純粋経験」と考えた。筆者はここに、日本哲学の連続性を見出す。

 さて、西洋近代哲学の大波が寄せるなか、前述のように中国の「道」、日本の仏教など、東アジアの哲学はそれぞれに模索を続けてきたが、東アジアに共有される思考体験があるとして、東アジア的な哲学はありうるのだろうか。第9章「アジアの中の日本」は、その問いに向き合う。近世の東アジア社会に共通する道徳理念には儒教があったが、西洋近代文化の衝撃にさらされた日本や中国が、西洋由来の論理学に対峙するにあたって支えとした思想伝統は、前述の西田や中国の牟宗三のように仏教であったようだ。牟宗三は新儒家の代表的哲学者とされながら、天台宗に密接に寄り添っていた。とはいえ、筆者によれば、実際のところ伝統的な思想文化へ向ける眼差しは、日本において読書人多数の関心を惹くものではなかった(中国では様相を異にするが)と、筆者は述べる。さらに、東アジア各地域では西洋に寄せる関心が突出して、互いに共通する面の多い思想的伝統や近代以降の歴史的経験に目を向けてこなかったと指摘する。共同の探究が今後に期待される所以である。

 最後に取り上げられるのはアフリカ哲学である。第10章「現代のアフリカ哲学」は、近・現代にアフリカ諸国が置かれた政治的状況の複雑な反映を描き出す。地中海文化圏に位置する北アフリカには、古代ギリシャ・ローマ期からその哲学的伝統の内部にあった。しかしサハラ以南においては、哲学の名の下に、植民地化以降の強制的な知育を想定せざるを得ない。筆者は、英語圏、フランス語圏、南アフリカに分けてアフリカ哲学の動向を紹介している。特筆すべきは、多分に政治性も帯びるようではあるが、伝統的な宗教、神話、言語などに伺われるアフリカに根ざした思考「エスノフィロソフィー」の展開だろう。例えば、ケニアで心・魂を意味する「オクラ」は英語の個人的なsoulとは別物で、共同体での責務に結びつくものだという。筆者は、アフリカ哲学が「西洋哲学に過剰に寄り添う時代」は終わったと結んでいる。

 本巻終章「世界哲学史の展望」はシリーズ全体の終章でもある。ここで筆者は、グローバル時代における“グローバルな哲学的知”の模索が目指す方向を提示する。「世界」が共通の生存基盤であると認めて、そこに住まう「魂」が情報を交換し思考を競い合い、思想的曼荼羅を作り上げること。その中には「離接的」なものと同時に「連接的」なものが含み込まれ、個々の人種や歴史、宗教、文化を超えた広い連結の可能性が示されるはずだと筆者は述べる。これは「世界史」や「世界文学史」の叙述を構想する際にも、きわめて示唆的な提言といえるのではないだろうか。

(「世界史の眼」No.17)

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伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留責任編集『世界哲学史別巻―未来をひらく』ちくま新書、2020年
南塚信吾

 この書評シリーズの開始に当たって、わたしは、次のように書いておいた。≪第一巻の序章「世界哲学に向けて」によると、これまで欧米中心に展開されてきた「哲学」という営みを根本から組み替え、より普遍的で多元的な哲学の営みを創出する運動が「世界哲学」として呼ばれ、展開しているという。生活世界を対象とする哲学、多様な文化や伝統や言語の基盤に立つ哲学、自然環境や生命や宇宙から人類のあり方を反省する哲学が、「世界哲学」の名のもとに行われようとしているというのだ。≫ そして、編者によれば、「たんに様々な地域や時代や伝統ごとの思索を並べ」ることは退けて、「なんらかの仕方で一つの流れ、あるいはまとまりとして」扱わないと、「世界哲学史」にはならないというのだった。私たちの取り組んでいる世界史といろいろと共通する問題がありそうであった。

 書評シリーズの終わりにあたり、ここでは、世界史を考えるうえで、あらためて世界哲学史と共通する問題がないか、あるいは参考にすべき方法がないかを確認するという趣旨から、「別巻」の第1章「これからの哲学にむけて」という座談会を中心に考えてみたい。

Ⅰ 「哲学」の組み替え

 これまで欧米中心に展開されてきた「哲学」の組み替えの試みがいろいろな時代において行われてきたという。世界史の観点から注目すべき論点をいくつか拾ってみたい。

 古代では、ギリシア哲学が哲学の起源だとされてきていることに対して、それを自明の事として受け止めないで、あるいはそれをたんなる偏見ととらえないで、なぜ後世にギリシア哲学が再評価されたのかを反省し、また古代の同時代の世界のいろいろな思考のワン・オブ・ゼムとしてギリシア哲学を位置づけなおすことが必要だと説かれている。ギリシア哲学を世界史のなかで「相対化」するということであるが、いろいろな時代のいろいろな事象について、こういう態度は必要だと考えられる。

 同じく、古代において、ヨーロッパの中の西と東を意識すること、そしてその東をとおしてさらにイスラーム文化圏を含むアジアを意識することが大事だと指摘されている。ヨーロッパのカトリック対イスラームという対立図式ではいけない。たとえば、「ギリシア文明はイスラームを通じて西洋に入ってきた」という際に、ヨーロッパの東であるビザンツを見ておかなければならないとされる。おそらく逆の事も言えるのであろう。古代に限らずこのような観点は必要であろうと思われる。

 中世についてみると、まずペリフェリーの意義が強調されているのが興味深い。9-12世紀を考える場面で出て来る議論で、ヨーロッパでも、イスラーム圏でも、東アジアでもかなり大きな政治支配ができて、いわば「中心」が出来る。するとそのペリフェリー(周辺)からユニークなものが出て来るというのである。「経済・政治では統一的な動きが見られましたが、文化的に見ると最先端のものはペリフェリーに現れてくる」と言われる。唐文化の周辺の日本で空海が出たり、キリスト教でもアイルランドやスコットランドに伝統が受け継がれて、それが中央に戻ってくるようなことがあったり、 イスラームも周辺に広がって、アンダルシアやブハラなどで先端的なものが出て来るというのである。「中心部で先鋭化しないような問題が周辺部で現れてきて、そこで問題意識が磨かれていく」とか、「中心部においてはいろいろな多様性が現れてくるけれども、周辺部のもっと個別性が強調される場面で、逆に普遍的なものに対する眼差しが現れてきた」という。 「別のものと出会う場所がなければ新しいことが生まれにくい、周辺部では異質なものに出会いやすく、思考が活性化されるという動きがあるのかもしれません。ですが、異質を生むためには中心が不可欠です。すべてが異質だらけだとそれができない。」このような興味深い議論が続くのである。だが、9-12世紀以外の時代でもこれは言えるのではないだろうか。

 中世末期のところで、イエズス会の意義が強調されている。この時期、イエズス会がもたらした情報は、エジプト、インド、中国などに聖書にも書かれていない「古い歴史」がある事をヨーロッパに知らせた。それだけではなく、「イエズス会の人々の世界観はまさに新世界であった」「イエズス会はカトリックの中にありながら近代性を持ち、デカルトへの影響も大きい」「近代の始まりにおいて、イエズス会の貢献度はかなり高かかった」というふうに、イエズス会の再評価が行われている。問題は、これをヨーロッパ中心で処理しないためには、さらに何を考えるべきかということであろう。イエズス会のもたらす情報がヨーロッパ中心の見方に繋がったのだというのでは、あまり意味はないように思われる。

 さて、近代に入ると、啓蒙主義が、ヨーロッパ以外の世界を排除していったという指摘が繰り返されている。「18世紀の前半ぐらいまでは、ヨーロッパでは中国の位置はけっこう高かった・・・。ところが、その後大きな変換が起きて、中国やインドはどんどん下に押しやられます。」「そういう構造が突然出てきて、ヘーゲルなどはそれを典型的に現しています。」「つまり、精神がある仕方で展開していく中で、中国のようなヨーロッパの外部はプリミティヴなものとして位置づけられていきます。聖書よりも古いものを何とか処理したかったのだと思います。」カントもそうだった。「啓蒙の構造の中で宗教が周縁化されていくと同時に、ヨーロッパの外部も貶視されていきました。」「理性の発現、精神の展開といった形で自立する図式・枠組み」ができると「その哲学史から外れる西アジア・中国などは当然、地位を失います。」という具合に。

 そして、歴史学との関係では、「わたしたちは世界哲学史において歴史を問題にしていますので、どのタイプの歴史叙述を念頭に置くかということは非常に大事です。その際に、18世紀に成立する歴史学をどこかで相対化する必要があると思います。18世紀には、中国を含めたヨーロッパの外部がきれいな仕方で位置づけられていきますが、当時の歴史学はそれを許し、それを哲学が取り込んでいきました。その全体が啓蒙という構造をなしています。」と言われる。

 たしかにアジアの「停滞論」は啓蒙主義に始まるが、それまでのキリスト教的「普遍史」に比べ、啓蒙主義がアジアに広い関心を持ち、世界史の中に位置づけようとしたという面は、歴史学ではむしろ強調されているところである。その上での「停滞論」であった。だがこの「停滞論」は単にアジアを「下に押しやり」それを「貶視」したのではないところが難しいところである。このあたりは、これは岡崎の言う「啓蒙主義歴史学」で論じられているところであり、哲学とのきちんとしたやり取りで、「そういう構造が突然出てきて」といった理解は正されていくことが望まれる。

 19世紀については「世界哲学史」は何を問題にしているのだろうか。先ず全体的な見方はこうであろう。19世紀は帝国主義の時代で、アジアがヨーロッパと「再接続」されて、高い緊張関係が生まれた。そしてヨーロッパが世界的に支配を拡大し、それへの反発として、イスラームでの原理主義が出て来る、あるいは、啓蒙と理性によって周縁に追いやられていたものがスピリチュアリズムという形で出て来る。そこにヨーロッパへの疑いが深まった。だが、ヨーロッパ自身では、哲学は「中途半端」なものになる。とくに「資本主義と科学技術が発達して世界を征服し、植民地支配で無謀なことをしたというだけでなく、哲学では連動する理念的な動きもあったのではないか」つまり、帝国主義を批判できない思想状況があったのではないかとされる。多分こういう全体の捕まえ方がされていると思わる。世界史としてもうなずける見方である。

 そういう中で、個別的問題としては、「古代の発見」という問題が指摘されている。「啓蒙・理性を重視したヨーロッパが向かった先はエジプトのヒエログリフやインドのサンスクリットであり」、ここに「古代の発見」があり、逆に「純粋なヨーロッパ性とはなにか」という問いも生まれたという。それが歴史主義の中で原理主義的な動きにもなっていくというのである。一方で、インド哲学や中国哲学は西洋的なフィロロギー、ヒストリーに改装されてしまったとされる。この点では、「再接続」されたアジアでの哲学的な問題がどう位置付けられるのか、聞きたいところである。

 最後に20世紀以降については、「世界哲学史」は何を問題提起しているのだろうか。20世紀以降には、「19世紀にピークを迎えたヨーロッパ的な文明に対する厳しい批判が展開され、人間自体をどう考えたらいいのかが問われてきました。」とされ、イスラミック・ターン、宗教の復権、「ポスト世俗化」、原理主義、ポストモダンといった問題が指摘されている。

 その上で、「20世紀における最大の問題は全体主義」で、「理性の行き着く先はファシズムではないか」と問題提起している。ここでは、イスラミック・ターン、宗教の復権、「ポスト世俗化」、原理主義、ポストモダンといった問題と、「理性の行き着く先はファシズムではないか」という問題とを統合的に論ずる場が欲しいところである。とくに、ポストモダンの議論が少し物足りない感じがした。その世界史的意義は何なのか。第8巻を見たが、議論が孤立している感があった。このシリーズの論者たちがその中で育ったから、あまりにも自明なのだろうか。

 最後に20世紀後の大問題が示唆されている。哲学は政治や科学技術と距離ができてしまったというのである。全体主義や大量破壊・大量虐殺がおきても、哲学は置いて行かれてしまった。「哲学に語る言葉はない」「哲学は関係ない」のだろうかと問われている。哲学ができることは一体何かというのである。翻って歴史学はどうであろうか。

 以上のように、個々の論点を見て行くと、世界史としても共に考えるべき問題が多々提起されていることが分かる。

Ⅱ 大きな方法の示唆

 では個々の論点を超えて、大きな方法的な議論で、世界史として学ぶべきところはないだろうか。『世界哲学史』第一巻では、こう言われていた。「たんに様々な地域や時代や伝統ごとの思索を並べ」ることは退けて、「なんらかの仕方で一つの流れ、あるいはまとまりとして」扱わないと、「世界哲学史」にはならない。やや具体的には、異なる伝統や思想に共通する問題意識や思考の枠組み、応答の提案などを取り出して「比較」することを目指す。その一つは、「比較」を歴史の文脈の中で検討することであり、もう一つは、二者か三者の間の比較ではなく、「世界という全体の文脈において比較し、共通性や独自性を確認」することである。その上で、「それら多様な哲学が「世界哲学」という視野のもとで、どのような意味を担うのかを考察するのだ。

 これを受けて、第8巻で、伊藤邦武は、「世界の哲学史の各時代におけるさまざまな様相に目を配り、単なる多数の文化や地域の哲学的伝統について、それらを並列的に列挙するのではなく、東西世界や南北世界の中に認めざるをえない、無数の断絶を確認するとともに、その断絶を超えて見出される交流や混合の実相にも光を当てて、それぞれの時代にそれぞれの哲学が独自のしかたで「世界哲学」たらんとした姿を、できるだけはっきりと描き出してみたいと努めてきた。」と述べている。

 たしかに本シリーズでは、このような意図はいくらか具体化されているようには見える。そういう努力には敬意を表さねばならない。しかし、「世界哲学史」のポジティヴな姿が示されたわけではない。そうではなくて、本シリーズの最大のメリットは、次のような「全体像の必要性」を認識しあったことにあるのではなかろうか。

 編者の一人である納富信留はこう言っている。≪「世界はグローバル化している」などと言いながら、本当に狭い世界・側面しか見えていません。・・・巨大なものを見る視点をある程度確保しなければ、完全に状況のなすがままになってしまう。・・・大きなものを見る視点、さまざまな角度からの多元的な視野・時間軸を持つことは、哲学でなければできないはずです。≫ あるいは、≪『世界哲学史』といって、なにか統一的な、網羅的なマッピングがあるわけではない。「ひとりが全部を見て上からなにか大きなことを言うことはできない。自分が持っている部分を持ち寄り、「ここはどうですか」「ここは使えますか」というような形でいろいろなものを味わいながら、シェアしていくというやり方でしか世界を語ることはできない。・・・しかし、「各自が部分を語るにあたり世界哲学の全体を意識して、それを語ることを目指す」必要がある。≫ そして、≪今回の企画にさいして、「世界哲学史の中で、あなたは自分の研究対象をどのように位置づけますか」という問いを投げかけた。」「いままでそういう問いを聞いたことがある研究者は一人もいなかったのではないか」。例えば、「近代のデカルトを研究している人は、「世界哲学史の中で、デカルトがやったことは何だったのか」とは考えず、「デカルトの『省察』の何ページ何行目にこういう議論があります」という話に終始していた。≫

 これは現在の世界史の直面する状況とほとんど同じであると言ってよい。

Ⅲ 危機感の共有

 『世界哲学史』からは、哲学の分野においても、歴史の分野と同じような「問題」が生じていることが分かる。最後に、両者に共通している基本的な「問題」を確認しておこう。

 一つは、哲学においても、古代、中世、近代という時代区分は動かないのだろうか。

 本シリーズはきっちりと古代、中世、近代という時代区分を柱にしている。とくに、本シリーズでは、中世が大きく扱われているが、ヨーロッパのキリスト教世界でつくられ始めた中世という概念は、ヨーロッパ以外の世界でも通用するのであろうか。中世の最後の時期を、ルネサンスや宗教改革や新しい世界の「発見」によってではなく、バロックの時代というとらえ方を提唱しているが、その普遍性は大丈夫なのだろうか。 

 二つには、ヨーロッパ中心を克服するという意識は分かるが、やはり、結果的には、ヨーロッパ哲学が柱で、アフリカ哲学などはその影に置かれていたり、ラテンアメリカの哲学はコラムで終わったりしている。イスラーム文化圏での哲学の扱いもやや期待外れの間が否めない。非西欧世界はやはり弱いと言わざるを得ない。これは世界史の場合と似ている。

 最後に、第8巻で伊藤が述べている二つのことは重要であり、そこには、哲学の危機感がにじみ出ている。まず、かれはこういう。我々人間は、一つは、地球環境などから、地球・宇宙について具体的な知を持ちつつある。同時に、人間・生命について、ヒトゲノムを通じて、具体的な知を持ちつつある。これに哲学はどう対応できるのか、というのである。歴史も同じである。

 かれはつぎにこう言っている。西洋はもとより、アジアの哲学やイスラームの哲学、さらにはラテンアメリカやアフリカの哲学を知るようになれば、それは一元論的な形而上学ではなく、多元的形而上学の世界として対応していかねばならない。それはすべての存在を貫通する普遍的な原理としてではなく、多様な隣接的関係、関連を通じて、全体として統一的に認識されなければならない。ここでは、単に多様性を認めるということだけではなくて、また多様なものを単に「比較」するというだけではなくて、「関連・関係」という方法が必要であるというのである。

 より普遍的で多元的な哲学の営みを創出する運動が「世界哲学」だというのは、こうしたことまでを指しているのであろう。これを見ると、「世界哲学史」においても方法はまだ模索中であるようだ。「世界史」を考えるものとしては、「比較」に次いで、「関係」や「影響」や「相互作用」や「連動」という面も考えたいところではある。こういう点を座談会では受けてほしかった。

(「世界史の眼」No.17)

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