ソローという人は刑務所に入っていたのはたった一日で、森で暮らしたのもわずか二年だけだったのですか。生涯の半分は森で暮らし、半分は刑務所に入っていたのかと思っていましたよ。これは私の作り話ではない。彼の生まれた国でも漠然とそのように思っている人がいると聞いたことがある。『森の生活』と「市民的不服従」が彼を代表する作品だからである。そして作品を読むことで現代文明と社会を批判する孤高の人という像ができていく。いまのここに満たされない、それを補ってくれる憧れをともないながら。ソローにとって刑務所の一晩はとびきりの一日であったのだろうか。彼にとって森の生活は、そうでなかった日々とくらべ根本的に大切だったのだろうか。ソローの一日を市民的不服従の一日で、また森の生活の日々で代表することは、ソローの生活に即して考えるときふさわしいことでない、と私は思うようになっている。彼の市民的不服従の劇的な時も、森の生活という異空間・異時間も、当然ながら日常的な日々に支えられていた。あるいはそれらと併存なしにはありえなかった。だが、私たちがこの世界にある、という点から考えるとき、併存でよしとするというところでとどまっていられないように思える。もう一歩踏み込む必要があるのではないか。
その小道を歩く前に、特別な一日であったとふつう考えられている市民的不服従の日を、まず素描してみよう。氷河期にできたウォールデン湖のかたわらにソロー(一八一七~六二年)が行ったのは、一八四五年早春であった。小屋を作るために背丈のあるマツを伐り、棟上げは隣人・友人に手伝ってもらったとしても、小屋は自ら作り、夏至を過ぎた七月四日にそこへ移る。ほぼ一年後の七月下旬のある夕方、修理に出していた靴を受け取るため、ウォールデン湖からコンコードの村へ歩いていた。通りで地方治安官・収税吏・牢の看守を兼ねていた サム・ステープルズに呼び止められ、ここ数年間の人頭税の支払いを求められた。「もし金に困っているなら、ヘンリー、俺が支払っておこう」とステープルズは言った。また人頭税が不当に高いと思っているなら、町の行政委員に引き下げてくれるよう自分が掛け合ってもいい、と提案してくれた。しかしソローは、自分は考えがあって払ってこなかったのだから、いま払うつもりはない、と答えた。ステープルズはそれでは自分はどうしたらよいかと尋ねると、その職務が好きでないなら、辞職することもできる、とソローは言った。ステープルズはその案を受け入れる気になれなかった。「ヘンリー、もし君が払わないのなら、刑務所に入ってもらわなければならないよ。」「いつでもいいよ、サム。」「じゃあ、来てくれ」と言って刑務所に連れて行った。ソローが人頭税を払ってこなかった理由は、「国の人口の六分の一が奴隷である」こと、そして「私たちの国の軍隊が侵略軍になろうとしている」こと、つまり政府が奴隷制を認め、メキシコと戦争を行なっている(メキシコ戦争は一八四六年から四八年)からであった。
ソローの家族は奴隷制の問題に関心を抱いていた。母親シンシア、姉ヘレン、妹ソフィア、知人のプルーデンス・ウォードといった女性たちは奴隷制反対の活動をしていた。コンコードを訪れる奴隷制反対の活動家は、その晩、ソローの母親の下宿にとまるのが常であった(ソロー家は父親の営む鉛筆製造業のほか家庭的な下宿屋も営んでいた)。当時ニューイングランドの著名な奴隷制廃止論者で、ソローの母の食卓に座ることのなかった者はひとりもいなかったと言われている。
ソロー逮捕の噂はたちまち村中に広がった(当時、住民たちは人口二千人ほどの自分たちのコンコードを町よりも村と呼んでいた)。母親はそれを聞くと、刑務所に駆けつけ、噂の真相を確かめると家に戻り、家族に知らせた。サム・ステープルズはその晩しばらく外出していたが、帰宅すると、娘のエレンが、留守中に誰かがドアをノックして、「ソローさんの税を支払うお金がここに入っています」と言いながら包みを手渡した、と報告した。娘の話を聞いたときステープルズはちょうど長靴を脱いで、火のかたわらに腰かけていたので(コンコードは北海道の南部ほどの緯度である)、わざわざ靴をもう一度はき直すつもりはないと言った。ソローはその晩は刑務所で過ごし、翌朝、釈放されればよいと思ったのだ。
誰が税を払ったのかは、はっきりわかっていない。ソロー家に同居していたおばマリア説が有力である(ソロー家はおばたち、時にはおじ、そして下宿人がいて、つねにいわば大家族であった)。ソローは母親には自分のやり方に口出ししないという約束を取り付けていたかもしれないが、おばマリアはそういった約束に拘束されていないので、介入し、税を払った可能性が高いわけである。それ以来定期的に、おそらくソローが死ぬまで、彼女か他の人が前もって彼の税を払ったため、こうした事件は二度と起こらなかった。
翌朝、ステープルズは釈放しようとしたとき、ソローが刑務所を出たがらないことを知り、びっくりした。一刻も早く出所したいと望んでいない、これまで出会ったただ一人の収監人だった。実際、ソローは釈放されることに怒っていた、とステープルズは言う。逮捕されれば自分が反対してきた奴隷制度に町の人々の注意を向けることができ、それこそが納税を拒否した目的であった。おばマリアが税を払ったとき、彼女は彼の作戦の肝心な点を台無しにしてしまったので、うれしくなかった。しかしステープルズは「ヘンリー、あんたが出ていかないなら、追い出すつもりだよ。もうここにはいられないんだ」と言い、ようやくソローは折れた。
この出来事は、その後、町の人々の記憶からすぐに消えてしまうというものではなかった。町の多くの人々がソローのこの行為に関心を持っていたのである。牢に入ろうとした本当の理由を知りたかった。そこで一年半後、ソローは町の人々のそうした関心にたいして説明するため原稿を作り、一八四八年一月二十六日、コンコード文化協会で講演した(当時は、講演は冬期が多かった。また、講演というけれど、リーディングで原稿を読むものであった)。題は「政府との関係における個人の権利と義務」だった。ソローはその場で、聴衆が耳を澄まして聞いていることを感じる。それで三週間後、町の他の人々が聞けるように、講演の続きを行なった(以降、ソローはこの講演をどこにおいても行なっていない。このときのコンコードだけであった)。
のちに市民的不服従として知られるようになるこのエッセイには後半、読者(あるいは聴衆)にとって不思議な、忘れられない一節がある。《私が投獄されたのは、修理に出していた靴を受け取りに靴屋に向かう途中でした。朝、牢から出されると、この用事を済ませることにしました。そして修理してもらった靴を履き、私に案内してもらうのを待ちかねていたハックルベリー摘みの一団に加わりました。馬具がすぐに付いたので、三十分後には二マイル離れた最も高い丘のひとつにあるハックルベリーの草原に私はいました。そこには州はどこにも見えませんでした。》ソローはコンコードのどこにハックルベリーが育っているかを誰よりもよく知っていた。そして女性や子供たちからなるハックルベイリー摘みの一団の「隊長」だった。ハックルベリーの最盛期は、もう少し時期的に後らしい。しかしこの記述は、ソローをずっと読んできて私は、修辞ではなく事実であったように思う。ソローは政治的行為の一日に、このように距離を置きながら原稿を閉じてゆく。
それとこの出来事が含む忘れられない側面について触れておかねばならない。ソローを一晩刑務所に入れたサム・ステープルズは、ソローのもっとも大切な隣人のひとりであった。ソローはステープルズの土地を測量したとき(ソローの職業は測量士であった)、エマソンを巻き込んでじつに劇的な哄笑で終わる素晴らしい一場面を作り出す(引用しようとすると長くなってしまうので、ウォルター・ハーディング『ヘンリー・ソローの日々』をぜひご覧いただきたい)。また死の床にあったソローを見舞い、「これ以上満足した一時間を過ごしたことはありません。これほどの喜びと安らぎを湛えて死んでいく人を一度も見たことはありません」とエマソンに告げたのは、ステープルズだった。そのステープルズとの関係の中でソローの政治的行為を象徴する市民的不服従が生まれた。市民的不服従の底にあったのは、憎しみではなく、礼節、共同の空間の存在であった。
ソローのこの一晩は、世界史における最初の市民的不服従と考えられている。それについての講演がたまたまなされ、のちにエッセイが掲載され残されたことで、この行為の姿が明確に表現されたことが、後押ししているのであろう。十九世紀中ごろの市民的不服従のこの出来事は二十世紀においてはインドのガンディーの南アフリカでの非暴力の行動、さらに合衆国のキング牧師の公民権運動の支えとなる。世界史におけるこの流れの意義は現在においてますます大切なものである。しかしソローやガンディーが何よりも考えた「この世界」は十分に顧みられてきたであろうか。つまり市民的不服従を行なった一日は、ソローの日々を代表する一日というよりも、そうではない一日をこそ、かれは自分の一日と考えていた、と私は思い始めている。本題に入ろう。
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この十数年、私は毎日ソローの日記を読んでいる。彼は二十歳の時からほぼ欠かさず二十年間ほど日記を書き続けた。二百万語。実に魅力的で楽しい日記だ。日記は部屋で書くこともあったが、野外の月光のもとで、あるいは焚火の明かりで書くこともあった。句読点はあったりなかったり、行変えも不ぞろいである。いくつか引用してみよう。ほとんどがこんな調子である。
《一月二日(一八四一年) 今日、一匹のキツネが自由な無頓着さで、湖を横切っているのを見た。彼が丘の尾根に沿って雪の上を足早に駆けるとき、私は日の光を浴びる彼の進みを距離を置いて追いながら、太陽がこれほど誇らしそうに、まっすぐ丘の斜面に差し、風と森が静かに共感していることはなかったように思えた。私は太陽と大地を、その真の所有者として彼に明け渡した。彼が太陽の輝きのなかを行ったのではなく、太陽の輝きのほうが彼について行くように思えた。彼と太陽の輝きのあいだに眼に見える共感があった。》キツネと太陽の共演に、観客のソローが加わっている。
《十月二十二日(一八五三年) 昨日、晩近く、ソフィアと母をボートに乗せる。片目の釣り人ジョン・グッドウィンが最近自分のボートで集めた流木を手押し車に乗せ、家に運んでいた。とても美しい夕べで、澄んだ琥珀色の日没が東の岸辺全体を明るくしていた。あの男の仕事はとても単純で直接的であり(もっとも、彼はほとんどの人から不道徳的な性格の持ち主とされているのだが)、冬用の薪を手に入れようとする気持ちは実によくわかるので、私には何とも魅力的であった。単純な仕事こそ私たちは愛することができる。それはまったく詩的である。》
ソローはこのようにたびたび妹や母を自分で作ったボートに乗せ漕いでいた。ソローの好きな隣人のひとりグッドウィンは、母や妹から見ると、好ましい人物ではなかった。それをさりげなく並行して記入する日記は微笑ましい。枚数のことを考えると、ここで切り上げるべきなのだが、この日の日記は長く、次のような印象深い終わり方をしている。
《グッドウィンは変わることのない釣り人だ。この時期には小さなカワカマスの味をよく知っている。…何日間続けて釣りをするか、私などが言うのはおこがましい。しばらくのあいだほぼ毎日、たとえ雨でも彼は魚を釣っていた。外を見ると雨のなか、彼が籠と竿をもちオイルクロスのコートを着てゆっくりと歩いているのを見て私は驚いたことがあった。また先日は流れの真ん中で釣りをしていたが、その翌日は岸辺で釣っていた。そのときは一種の不思議な力に導かれ、私は彼のかたわらを漕いでいた。冬の餌用にヒメハヤを捕まえているのだ、と言った。私が二十ロッド離れると、二ポンド半の重さのあるカワカマスを持ち上げた。先ほど私に見せるのを忘れていたのだ。後で私に話したところによると、翌朝は三ポンドのを捕まえたそうだ。魚のいる池とカワカマスに関する委員を任命する必要があるとすれば、彼にその一人になっていただこう。彼の生はしっかりと大地に足をつけていて、評価するのが難しい。》ソローはこのようなとき、不思議な力に導かれそのほうへ漕いでいってしまうような人だった。ふだん使わない「委員」というような言葉を、このようなときに使い、その選定基準が他の人々のと違っている。
《十一月十八日(一八五七年) フラネリーは私が知っている最も大変な労働をする男だ。日の出前そして日没後も長い時間、彼は疲れを知らず、身体を使っている。そして結果は何とも陽気なのだ。彼はいつも元気だ。…たんに門が動かないだけでも、彼の喜びはその偶然にたいして湧き上がってきて、ふと口に出る言葉の中にそれがあふれているのだ。ただ勤勉であるというだけで、なんと多くを経験することだろうか。彼のふとした意見のなかにはしばしばきらめきがある。そして彼の声は本当に鳥に似ている。》門が動かないと、ふつう人は困ったと思う。大工さんを頼んで直してもらわねば。あるいは自分で直すにしても、いまやっている仕事が中断されるので困ったな、と思ってしまう。ところがフラネリーは直すことに無意識に喜びを感じてしまう。意見のひらめきが鳥の声に似ているとは、なんとも快い感受性。
ソローの日記からの引用は楽しいのでやめられない。しかし結びへ入ろう。一八五八年十一月一日の日記を読みながら、私は不思議な方向へ誘われていた。一八五八年十一月というと、ソローはあと三年半でこの世界を去る時期であった。彼にとって人生の晩年になる。秋も深まり、午後は短くなり、人々は家路に急ぐ。ソローはウォールデン街道の柵にもたれ、夕方の郵便が仕分けされるのを待っていた。そのとき彼はある根源的な思いに浸され、なじみのある十一月の夕べが再び巡ってきたことに気づく。そこには存在するというただそれだけの心地よさがあった。「私に求められている積極的な義務はきわめてわずかである、そういった状態である。」そして人間がこの世界にあることの深い意味を、日常生活の言葉で続ける。
《西の低湿地を通る長い鉄道の土手道、コオロギの鳴くのがほとんど聞こえない静かな黄昏、日没後だいぶたったころの地平線にできる雲の暗い層、郵便局へ行きそしてそこからローソクのかたわらの夕食へ足早に急ぐ村人たち、こうしたことすべてを私はかつて見なかったろうか。…本当は、私たちが真に深い教えを学ぶべきであることを、それらは示している。自然は古い綴り字教本のように、何度も何度もめくられるものなのである。私は完全に満足して、ずっとベンチに座っていた。想像される貴重なものや天国と引きかえに、私はこのなじみのある光景を代えようと思わなかった。》
彼にとって根源的な思いとは、なじみある光景にほかならない。煙突から薪の燃える煙がゆるやかに立ちのぼってゆくのを見ると、ソローはかならずその下の炉辺、家庭の日常生活の営まれている姿を想像した。あの本当にゆるやかな柔らかい煙の広がり方に魅了される人であった。だからこそ薪になる木、枝、切り株、流木を拾い、集めることに喜びを感じたのであった。薪を割るときの身体のぬくもりもそれにつながっていた。基本のところに日常生活がある。ここで十一月一日のこの日記が閉じられていても、私は自分の晩年をも思いながら、この日の引用を自分のノートに書き写したであろう。
しかし日記は、そこで閉じられず、唐突に次の数行が書き込まれている。《あなたが知っている現実のフレデリックは、ただ本で読むだけの人物の百万倍の価値がある。…そして朝、圧倒的な力でドアが叩かれる。これほどの客人はいない。私は家にとどまり、友を受け入れるであろう。》日記なので、脈絡はない。説明も一切ない。「圧倒的な力でドアが叩かれる」はどうやら、ヨハネ黙示録三章二十節からのようである。「見よ、私は戸口に立って、叩いている。だれかわたしの声を聞いて戸を開けるものがあれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をするであろう。」なぜここでキリストが?
またフレデリックはメリーランド出身の元奴隷、奴隷制廃止運動家フレデリック・ダグラスの可能性がある。そしてソローは彼に複数回会ってきた。フレデリックは一八四五年自伝『アメリカ奴隷の生活を語る』を刊行したとき二十七歳で、さらに十年後の一八五五年には『我が拘束、我が自由』を刊行した。ソローの文の中の「ただ本で読むだけ」はそれに触れてのものであろう。
一八五八年十一月一日の日記の中で圧倒的な力でドアをたたくのはキリストであった。このフレデリックがダグラスであるとすると、ドアを叩くのは黒人である。ニューイングランドのふつうのキリスト教徒にとって、これは考えられないこと、決して受け入れられないことであったろう。一方ソローはキリスト教および教会に対して距離を置き続けるが、キリスト本人に対してはかならずしも常にそうではなかった。聖書ほど読まれることの少ない本は珍しい、とさえ言う。
十一月一日の日記のドアを叩く者は、キリストであったかもしれない。だが、ソローにとっては黒人フレデリックであったかもしれない。あるいはドアを叩くその響きのなかで、キリストと黒人が瞬間、瞬間入れ替わっていたのかもしれない。
ソローは政治的行為にかかわったとき、ハックルベリー、スイレン、カイツブリなどそのときによって異なるが、かならず自然のものに触れた。触れずにはいられなかった。しかし一八五八年十一月一日は逆である。素晴らしい黄昏であった。ただ素晴らしいだけではなかった。慎ましい日常的な根源的な経験をしていると実感した。そのとき、ドアが叩かれていることを思った。「これほどの客人はいない。私は家にとどまり、友を受け入れるであろう。」受け入れ、共に食事をする。ソローにとっての政治的行為である。ソロー家には何人もの逃亡奴隷が立ち寄り、受け入れてきたのであるから、これは比喩ではなかった。しかし、なぜこのような静かな深い日常的な黄昏に、ソローはドアが叩かれていることに触れるのか。
政治的行為の日の場合はハックルベリーやスイレンへの言及はわずか一言あるいは一、二行にすぎないのと逆の形で同じように、十一月一日では、行為への歓喜はわずか数行で終わり、先ほどの慎ましい根源的な日常生活について改めて深い記述へ戻ってゆく。いまの私にはこれ以上、わからない。しかしこれからもここに佇むであろう。
《なんら新しいものを欲しない。私は年月を経た確かなものを十分の一だけ確保できれば、それ以外のすべての富をはねつけるだろう。ここから立ち去ると言った途方もない愚行を考えていただきたい。ここにはこれまでに私が持った、これから持つであろう、そしてこれまでと同じように友好的な、あらゆる友がいる。私は友人と諍いをおこしたことはなかった。一致が可能な心地よいものであった。私は友人たちとの関係において前へあるいは後ろへ一インチたりとも動こうとしないと思う。…最も短い距離をまわって帰り、家にとどまりなさい。…もちろんここには、あなたが愛しているもの、あなたが期待しているもの、あなたがそうであるもの、こうしたものすべてがある。ここにあなたの許嫁が手に入れられるほど近くにいる。ここはあなたが想像することのできる最良のものと最悪のものがすべてある。あなたは他に何が欲しいというのか。》
ふだんのソローに他ならない。悪しきものも良きものも含めて一つである。つまり一八五八年十一月一日は特別な一日であったが、ふつうの一日であった。世界史の流れのかたわらでこのふつうであり特別の日を、毎日生きる人がいた。それはまぎれもなく私たちの日々と地続きであった。
(「世界史の眼」No.17)