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「世界史の眼」No.18(2021年9月)

今号と次号に分けて、小谷汪之さんの「ノモンハンからの世界史―二つの「満蒙」旅行記を通して―」を連載します。今号は(上)です。また、藤田進さんに、戸田三三冬さんの『平和学と歴史学―アナキズムの可能性』を書評して頂きました。そのほか、山崎がセバスティアン・コンラート(小田原琳訳)『グローバル・ヒストリー-批判的歴史叙述のために』を簡単に紹介しています。

小谷汪之
ノモンハンからの世界史(上)―二つの「満蒙」旅行記を通して―

藤田進
書評:戸田三三冬『平和学と歴史学―アナキズムの可能性』(準備中)

山崎信一
文献紹介:セバスティアン・コンラート(小田原琳訳)『グローバル・ヒストリー―批判的歴史叙述のために』(岩波書店、2021年)

戸田三三冬『平和学と歴史学―アナキズムの可能性』(三元社、2020年)のAmazonによる販売ページは、こちらです。岩波書店によるセバスティアン・コンラート(小田原琳訳)『グローバル・ヒストリー―批判的歴史叙述のために』の紹介ページは、こちらです。

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ノモンハンからの世界史(上)―二つの「満蒙」旅行記を通して―
小谷汪之

はじめに

1 飯塚浩二『満蒙紀行』(1)―アルシャン行

2 飯塚浩二『満蒙紀行』(2)―ホロンバイル草原行

(以上、本号)

3 村上春樹「ノモンハンの鉄の墓場」

おわりに

(以上、次号)

はじめに

 人文地理学者で当時東京帝国大学教授だった飯塚浩二(1906-70年)は、1945年2月初めから6月下旬まで、満洲国(日本帝国主義がつくりだした傀儡国家。1932-45年)と「北支」(中国北部)をほぼ五か月間旅行して回った。まさに敗戦(1945年8月15日)直前の時期であるが、彼の「満蒙」旅行は満鉄(南満洲鉄道株式会社)と国通(満洲国通信社)という物流と情報の二大会社のネットワークに乗った悠々たる旅であった。戦後、飯塚はこの旅行時の日記を整理して、『東京大学東洋文化研究所紀要』に7回に分けて掲載した(1953-67年)。飯塚死後の1972年、これらをまとめたものが『満蒙紀行』という書名で筑摩書房から出版された(『飯塚浩二著作集 10』〔平凡社、1976年〕5-472頁に再録。以下、引用等はこれによる)。

 他方、村上春樹は、1994年6月、ノモンハン戦争(当時の日本におけるいい方では、ノモンハン事件)の戦跡を見るのを主目的として、中国とモンゴル国を訪れた。同行者はカメラマンの松村映三だけであった。ノモンハン戦争は1939年5月から9月にかけて、満洲国とモンゴル人民共和国の国境線をめぐって、主として日本軍とソヴィエト連邦(ソ連)軍の間で戦われた本格的な戦争で、日本軍は約2万人の死傷者を出して完敗した(ただし、グラスノスチによる歴史的資料公開により、ソ連軍側の損害も多大だったことが判明した)。村上のこの旅行の記録は「ノモンハンの鉄の墓場」と題されて、村上春樹『辺境・近境』(新潮文庫)に収録されている(以下、引用等はこれによる)。

 本稿では、これら二つの「満蒙」旅行記を通して、かつての満洲国、ソ連、モンゴル人民共和国の三国、そして現在では中国、ロシア、モンゴル国の三国が交錯する地域、特にノモンハン戦争に関係する地域に焦点を当て、そこからどのような歴史が見えてくるかを考えてみたい。(以下、片仮名の地名はモンゴル語など中国語以外の言語の地名で、カッコ内はその中国語音写である。引用文中の〔 〕は引用者による補足など。)

1 飯塚浩二『満蒙紀行』(1)―アルシャン行

 飯塚浩二は、1945年2月6日、下関から釜山にわたり、京城(現、ソウル)を経て、9日に満洲国の首都、新京(現、長春)に到着した。南満洲各地の工場などを視察して回った後、3月9日、山海関を経て「北支」に入り、北京や張家口にしばらく滞在した。4月21日、北京を出発、古北口で長城線を越えて満洲国熱河省の承徳(熱河)に到着した。約14時間の列車の旅であった。4月24日、承徳から奉天(現、瀋陽)に行き、26日には、再び新京に入った。ここから飯塚の「興安地区」(興安省)の旅行、すなわち「満蒙」旅行が始まったのである。「興安地区」(興安省)は満洲国、ソ連、モンゴル人民共和国の三国が境を接するところであった(付図1参照。国境線はノモンハン戦争以前のもの)。

 5月2日、飯塚は新京―白城子間を結ぶ京白線で新京を立ち、途中哈嗎駅で下車して鐘紡の王府種牧場などを見学した後、4日に白城子に着いた。翌5日、白城子―アルシャン(阿爾山)―ハロル(杜魯爾)間を結ぶ白杜線で白城子から、興安に行った。興安はもともとは王爺廟という町であるが、満洲国時代に「興安各省の行政中心地」となり、こう呼ばれるようになったのである。翌6日朝、白杜線で興安からソロン(索倫)に向かったが、ソロンからは国境地帯に入るということで、車内で身分証明書の検査があった。ソロンでは満州国地方官吏(日本人)の出迎えを受け、「索倫旅館という中国式の素朴な宿屋に案内される」。夕食は、旗長(モンゴル人。「旗」は地方行政区)や旗公署参事官(日本人)らと中華飯店で「大きな食卓二つをかこんで、賑やかであった」。翌日には、「二頭曳きの鉄輪の大車」でソロンから40キロメートルほど離れた満洲屯を訪ね、屯長(モンゴル人)の家で一泊した。屯長の家は切妻造りの固定家屋と5、6軒のパオ(モンゴルの移動家屋)からなる複合家屋で、飯塚は包に泊まりたかったのだが、寒いということで固定家屋の方に泊まることになった。

 翌8日、ソロン(索倫)に戻り、午後の列車でアルシャン(阿爾山)に向かった。「先日は王府から白城子への道中で、いかにも大陸らしい無際涯な茫漠たる平面の連続に感心した」。しかし、アルシャンに向かって「興安嶺をここから先に懐深く入ってみると大したもので、いわば内地の神河内〔上高地〕を幅広くしたような素晴らしい景色である」と飯塚は書いている。アルシャンに着いたのは午後8時ころだったが、「阿爾山〔アルシャン〕には、満鉄が軍のためにサーヴィスして建てた近代的なホテルがある外はバラック〔兵舎〕ばかり」であった。「車内の鉄道地図によればこの先にもまだ軌道はあるはずなのだが、純軍用とみえ、われわれ『地方人』はここで足留ということになる」。この時点での白杜線の終点はハロル(杜魯爾)であるが、アルシャン―ハロル間は軍用鉄道になっていて、軍人以外の一般人は乗れなかったということであろう。

 飯塚は、翌9日朝7時に、列車でアルシャンを立ち、午後4時興安に戻った。夜は国通の興安支局長や興安省公署の参事官と会食した。「日本風の料理で、魚づくしのたいそうなご馳走だった」。

 アルシャンには短時間しかいなかったため、アルシャンについての飯塚の記述は極めて簡略で、アルシャンがノモンハン戦争に深くかかわる地であることについては全く言及されていない。アルシャンには日本軍(関東軍)の駐屯地があったから、ノモンハン戦争時には、度々ソ連機による空爆を受けている。日本軍の方でも、公主嶺に駐屯していた戦車部隊を新京―白城子―アルシャンと、飯塚の旅程と全く同じ鉄道路線で輸送して、アルシャンからノモンハン方面に進発させている。もっとも、この旧型の日本軍戦車は実際には何の役にもたたなかったのであるが。当時、天皇制政府や帝国陸軍はノモンハン戦争における敗戦を極力隠蔽しようとしていたので、飯塚はアルシャンとノモンハン戦争のこのようなかかわりを知らなかったのかもしれない。

 5月10日、飯塚は興安駅前からバスに乗って、西科後旗(科爾沁右翼後旗)に行った。西科後旗は興安とソロンの中間ぐらいに位置し、白杜線より北にある。旗公署で参事官(日本人)に迎えられ、午後は参事官の釣りに同行、夜は「今日の釣りの獲物を用いた中華料理の卓を囲む」。翌11日、飯塚は「せっかくここへ来たのだから」ということで、「中村少佐、井杉曹長の殉職の址を訪れ」た。中村大尉(殉職後、少佐に昇進)殉職事件とは次のような事件である。

 1931年6月、中村震太郎大尉(当時、参謀本部第一部作戦課兵站班所属)は大興安嶺東側地方の兵要地誌(軍事用地理情報)調査を命じられた。中村大尉は、東清鉄道昂々渓駅近くで旅館昂栄館を営む予備陸軍曹長井杉延太郎に同行を依頼するとともに、井杉を介してロシア人一人とモンゴル人一人を通訳などとして雇った。

 6月9日、中村大尉一行4人は東清鉄道で満洲里方面に向かい、大興安嶺山中のイルクト(伊爾克特)駅で下車した。兵要地誌調査を行いながら、馬で大興安嶺東麓にそって南下し、ソロン(索倫)を経て、7月初めまでには洮南に出る予定であった。しかし、その後、中村大尉一行の消息は絶え、7月中旬になっても洮南に到着しなかった。そのうえ、中村大尉と井杉予備曹長は中国兵によって殺害されたらしいという噂が広がった。それで、関東軍などが調査を行い、その結果、次のような事情が明らかになった。

 6月25日早朝、中村大尉一行はジャライド(扎賚特)付近を出発して蘇卾公府をめざした。蘇卾公府はソロンと興安の間に位置する集落であるが、張学良(当時、中華民国東北辺防総司令)配下の正規軍、屯墾第三団約600人が駐屯していた。中村大尉一行が蘇卾公府付近まで来た時、屯墾第三団員がそれを見とがめ、屯墾第三団長代理、関玉衡かんぎょくこう中佐が中村大尉らを尋問した。荷物検査も行われ、軍事地図1枚、日誌2冊などの書類が見つかったため、軍事スパイではないかと疑われた。

 6月27日午後10時頃、関玉衡中佐は部下の部将たちに「大車」一台と石油一缶を用意し、4人を東方2キロメートルほどの丘に連れて行って、銃殺せよと命令した。「大車」で目的地に運ばれた中村大尉らはそこで直ちに銃殺された。証拠隠滅のために、4人の死体は散兵壕内で石油をかけて焼却され、埋められた。

 この事件は日本国内でも広く知られ、反中国感情を激化させて、満洲事変(1931年9月18日勃発)の一因となったとされている。飯塚もこの事件についてはよく知っていたので、西科後旗に行った際に、そのすぐ近くということで、中村大尉らの「殉職の址」を訪ねたのである。あるいは、こちらの方が西科後旗に行った主な目的だったのかもしれない。いずれにしろ、この中村大尉殉職事件には陸軍(関東軍)による情報操作の臭いが付きまとっている。飯塚にもそれにのせられた面がありそうだ。

 5月11日、西科後旗から興安に戻った飯塚は、その夜、国通の興安支局の庭に建てられた包のそばで、国通興安支局長らとともに「成吉思汗料理に満腹」した。翌日と翌々日は興安でいろいろな人と会った後、13日に列車で白城子に行き、一泊した。

2 飯塚浩二『満蒙紀行』(2)―ホロンバイル草原行

 1945年5月14日早朝、飯塚は四平(四平街)とチチハル(斉斉哈爾)を結ぶ四斉線で白城子駅を立ち、チチハルに行った。チチハルからは別の鉄道路線で昂々渓駅に行き、そこで「国際列車」(旧東清鉄道)に乗り換えて、西の終点、満洲里に向かった。列車は午後4時15分に発車し、車中で一泊、翌15日午前11時に満洲里に到着した。20時間近い長旅であった。駅では国通の特派員が出迎えてくれ、一緒に興安水産の直営店という料理屋に行った。「純日本式の料理で中食を御馳走になってから」、国通特派員の案内で「馬車で市街を一巡した」。満洲里はソ連との国境の町で、ちょっと高いところからはソ連領内がよく見えた。

 飯塚は、翌16日には、興安水産の魚集荷用のトラックに便乗して、ダライノール(別名、ホロンノール)を訪ねた。大興安嶺西麓と満洲里との間の広大な草原はホロンバイル草原と呼ばれるが、それはホロンノール(ダライノール)とノモンハン近くのバイルノールを合わせた名称である。ダライノールに着いたのは午後7時ころで、この日は興安水産の出張所に一泊した。翌17日には、「五号漁場」に行き、揚がったばかりの鯉や鮒の生魚や塩漬け魚をトラックに積み込むのを見学した。ダライノールは琵琶湖の三倍を超える大きな湖であるが、水深は深いところでも4メートルほどということで、魚類の豊富な湖であった。ダライノールを含めて、この地方の漁業権は興安水産の独占であった。その後、魚を満載した興安水産のトラックで、満洲里の一つ東のジャライノール駅に行き、興安水産の事務所で「中国風の料理をゆっくりとご馳走になった」。ジャライノール駅からは「国際列車」(旧東清鉄道)ハルビン(哈爾浜)行きに乗り、夕方7時ころハイラル(海拉爾)に到着した。

 5月19日には、ハイラルの「旧城」を見に行った。正方形で、東西南北の壁の中央に門があり、十字形の道路が通っている、中国的な町であった。ハイラルはこの地方の商業の中心地で,隊商宿が軒を接していた。20日には、ハイラルから西に二駅戻って、ワングン(完工)に行った。「ハイラル河畔の草原に入ってもう少し遊牧民の生活をのぞいてみようというわけで」、ハイラル河を渡って、この地方の有力者の包を訪ねた。その後、午後6時発の「上り国際列車」でハルビンに向かい、翌21日午後3時にハルビン駅に到着した。一週間ほどのホロンバイル草原の旅であった。

 飯塚のホロンバイル草原行の記録を見ていても、気がつくのは飯塚がノモンハン戦争に全く触れていないということである。飯塚が「軍都ハイラル」と書いているように、ノモンハン戦争時にはハイラルに日本軍の司令部が置かれ、日本軍諸部隊はハイラルに集結して、そこからノモンハン方面に進発した。前にも書いたように、当時、天皇制政府や帝国陸軍はノモンハン戦争における敗北を極力隠蔽しようとしていたが、「軍都ハイラル」とノモンハン戦争の深いかかわりについては現地では隠しようもなかったであろう。飯塚はノモンハン戦争に触れることを、時局がら、意識的に忌避したのであろうか(戦後になってこの日記を公開した時には、そのような「用心」はもはや不要だったはずだが、加筆する気はなかったのであろうか)。

 このアルシャン行とホロンバイル草原行において、飯塚は日本の敗戦が間近いことを実感した。しかし、満洲現地の日本人たちは戦況の深刻さをあまり気にしていないように見えた。「当時の満州の日系以外の人々の間に、日本帝国最後の日はもう目にみえているというのに、日本人たちはどうしてああ平気でいられるのだろうと不審の声があったのは、五月にはすでに蔽い難い事実であった」。もっとも、それだから、飯塚は各地で歓待を受け、「たいそうなご馳走」になったりできたのであるが。しかし、旅行中に飯塚が世話になった人々、満洲国の日本人地方官吏や満鉄と国通の職員などで、1945年8月9日からのソ連軍の満洲侵攻によって命を落とした人は決して少なくなかった。例えば、興安の金澤特務機関長は飯塚に向かって、「満州国内に動乱が起こっても、邦人婦女子は興安地区で大丈夫引き受けます」と豪語していたが、「ソ連軍の侵入を迎えて戦線に散ったということである」。それどころか、興安から一駅白城子よりの葛根廟(チベット仏教寺院)付近では、日本人避難民がソ連軍や現地民に襲われ、約1000人の犠牲者を出した(「葛根廟事件」)。そのほとんどは「婦女子」であった。その他にも、興安付近では、興安東京荏原開拓団(東京品川、武蔵小山商店街の商人などの開拓団)の避難民約620人、興安仏立ふつりゅー開拓団(正式には、仁義仏立講開拓団。東京、乗泉寺の信徒たちからなる開拓団)の避難民約470人が命を落とした(満洲開拓史刊行会編『満洲開拓史』、1966年、430頁)。飯塚は、戦後になって旅行記を公開した際にも、「葛根廟事件」などについて全く触れていない。知らなかったのであろうか。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.18)

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文献紹介:セバスティアン・コンラート(小田原琳訳)『グローバル・ヒストリー-批判的歴史叙述のために』(岩波書店、2021年)
山崎信一

 セバスティアン・コンラートの手による本書は、さまざまな形で世に出ているようなもののように「グローバル・ヒストリー」を通史的に叙述したものではなく、歴史研究のアプローチ方法、あるいは歴史を見る視点として「グローバル・ヒストリー」を提唱し、その理論化を試みた著作である。いわば方法論としての「グローバル・ヒストリー」を探究する試みとも言えるだろう。著者のコンラートは、ドイツの歴史家で、日本を含む東アジア研究やドイツ植民地主義の研究を主たるフィールドにして研究を続ける一方、グローバル・ヒストリーの研究にも携わってきた。その成果が、2016年に原書が出版された本書となる。著者自身、外国史研究をフィールドの一つとし、また世界各国での生活経験を持ったことも、こうした関心の背景にあるだろう。

 本章は10章よりなっている。以下、各章の内容に関して概観してみる。第1章から第3章までは、本論に対する導入部分をなしている。「第1章 イントロダクション」では、本書の狙い、すなわちプロセスとしてではなく視点としてグローバル・ヒストリーを取り上げる点が説明され、ただしそれが万能ではないという点への留保もされている。また、国民国家を単位とする歴史叙述やヨーロッパ中心主義といった、従来の歴史学の方法論の限界の中から生まれたグローバル・ヒストリーを、「すべての物事の歴史」、「交換と接続の歴史」、「統合に着目した歴史」の三類型に分け、第三の類型に可能性を見出している。「第2章 「グローバル思考」小史」は、いわば世界史/グローバル・ヒストリーのヒストリオグラフィーであり、古代から現代までの世界史理解がどのように変遷してきたのかを、非ヨーロッパ世界におけるものやサバルタン研究などにも目配りしながらまとめている。ここでの重要な論点は、「世界史」における「世界」が書かれる時と場所に応じて形成されるものであるという指摘だろう。「第3章 競合するアプローチ」においては、5つの方法論、「比較史」、「トランス・ナショナル・ヒストリー」、「世界システム論」、「ポストコロニアル・スタディーズ」、「「複数の近代」論」を取り上げ、利点と限界の両面から分析している。これらはいずれもナショナルな視点を超克し、西洋中心主義を超えるという、グローバル・ヒストリーのアプローチとの共通性を持つものであり、競合的というよりは相補的でありうる。

 第4章以降が本論に相当するが、「第4章 アプローチとしてのグローバル・ヒストリー」では、この後の章において詳述されるこのアプローチの全体的な見取り図を提示している。グローバル・ヒストリーのアプローチは、接続とそれによる移転と相互作用を強調するのに加えて、さらに7つの方法論上の特徴(「ミクロな問題をグローバルな文脈に位置付けること」、「所与の空間を前提としない」、「関係性と相互作用への着目」、「内在的発展より空間的関係性の重視」、「歴史事象の同時性の強調」、「ヨーロッパ中心主義への批判」、「ポジショナリティの認識」)があることが示される。また、考察の対象が単なる接続ではなく、それによる統合や構造化された変容にも及び、グローバルなレベルでの因果関係の探究が重視されている。また、グローバル・ヒストリーのアプローチの実践例として、国民とナショナリズムの問題が簡単に分析されている。「第5章 グローバル・ヒストリーと統合の諸形態」では、構造化された統合に関して分析対象としている。統合を強調することにより、グローバル・ヒストリーがグローバリゼーションの歴史となるわけではない点、さまざまな因果関係の関係性に着目することで、構造の強調が個々の主体の営みを過小評価するのではない点、グローバル・ヒストリーの視点が16世紀以降、特に19世紀以降の分析に有用だとしても、そこにアプリオリに限定されるものではない点が議論されている。「第6章 グローバル・ヒストリーにおける空間」では、ナショナルな枠組みを超える戦略として、「大洋などのトランスナショナルな空間」、「人、もの、観念などの「追跡」」、「ネットワーク」、「ミクロストーリア」の4つの空間設定が提示されている。また、いかなるものであれ空間の構築性を理解する必要があり、グローバルな枠組みが特権的なのではなく、空間的尺度のひとつに過ぎないという点が強調されている。「第7章 グローバル・ヒストリーにおける時間」では、空間の尺度と同様、時間の尺度にも多様性や重層性があること、特権的な時間的尺度も存在しないという点を指摘している。全人類史に一貫した時間的枠組みを設定する「ディープ・ヒストリー」や「ビッグ・ヒストリー」に対しては、決定論的である点、自然科学的法則性を重視する点には陥穽があると指摘している。一方で共時性を重視することは新たな視点を開くものであるが、連続性を軽視することもできないとも述べている。著者によれば、空間的にも時間的にも、複数の尺度のバランスが必要だということになる。「第8章 ポジショナリティと中心化アプローチ」が対象とするのは、ポジショナリティ、すなわち歴史を叙述する立ち位置に関してである。ここでは、ヨーロッパ中心主義の脱却を志向することが、さまざまな○○中心主義の増殖をもたらした点が言及される。著者はポジショナリティに自覚的であるべきこと、それ自身が不平等と排除のメカニズムを持つ点も指摘している。幾分哲学的な「第9章 世界制作とグローバル・ヒストリーの諸概念」では、歴史家の「世界制作」としての歴史研究とそのもたらすものを対象としている。ここでは、近代社会科学の諸概念や術語の限界にも言及しながら、一方で非西洋的概念に開かれていることが、これまでの蓄積を無にはしないとも述べている。最終章である「第10章 誰のためのグローバル・ヒストリーか?-グローバル・ヒストリーの政治学」においては、グローバル・ヒストリーのアプローチの持つ限界にも触れている。歴史学が国民国家との密接な関係の中でそれに資する形で発展した一方、グローバル・ヒストリーはグローバリゼーションを支えるイデオロギーではなく、むしろそれを批判する視点を提供するものであると著者は述べている。さらに知のヒエラルキーの問題、英語のヘゲモニーの問題を指摘した上で、グローバル・ヒストリーの5つ限界(「接続性の特権化による過去の特定の論理の消去」、「移動や接続性への執着」、「権力の問題の無視」、「個人の役割の無力化と責任の問題の外部化」、「「グローバル」という術語による歴史の現実の単純化」)を挙げている。また巻末に、翻訳者による「誰のために歴史を書くのか」と題された解説が付されており、本書の背景、クロスリーやハントの議論との比較、本書の的を射た要約が述べられている。

 本書において一種の方法論としてのグローバル・ヒストリーを特徴づけようとする中、著者の非常に抑制的な態度が目につく。さまざまな限界を同時に提示し、また歴史を語る自らの立ち位置にすら批判的である。しかし、グローバル・ヒストリーを「歴史の見方」として、位置付けることは、疑いなく意味を持つだろう。とりわけ、個人史などのミクロヒストリーが、グローバル・ヒストリーとつながるという指摘は示唆的である。それは例えば、シリーズ「日本の中の世界史」(岩波書店、2018-19年)の各巻とも通底するものだろう。最後に、原書刊行から比較的短期間のうちに平易な翻訳を仕上げた訳者にも敬意を表したい。

(「世界史の眼」No.18)

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