月別アーカイブ: 2021年12月

「世界史の眼」No.21(2021年12月)

今号では、南塚信吾さんに、「『世界婦人』の伝える世界情報」を寄稿して頂きました。また、木村英明さんに、林忠行著『チェコスロヴァキア軍団−ある義勇軍をめぐる世界史』を紹介して頂いています。

南塚信吾
『世界婦人』の伝える世界情報

木村英明
文献紹介 林忠行『チェコスロヴァキア軍団−ある義勇軍をめぐる世界史』(2021、岩波書店)

林忠行『チェコスロヴァキア軍団−ある義勇軍をめぐる世界史』(2021、岩波書店)の出版社による紹介ページは、こちらです。

また、「世界史寸評」として、木畑洋一さんの「歴史総合の教科書を執筆して」を先月掲載しております。併せてご覧ください。

カテゴリー: 「世界史の眼」 | コメントする

『世界婦人』の伝える世界情報
南塚信吾

 『世界婦人』という新聞は、福田英子によって1907(明治40)年1月に創刊され1909(明治42)年7月まで、2年半にわたって、始めは月に2回、のちに1回のペースで発行された日本初の社会主義女性新聞である。わたしは神川松子の仕事を調べていてこの新聞に出会い、その視野の広さに驚いたのだった。それで改めてこの新聞を読み直してみた。幸い、労働運動史研究会編の『明治社会主義史料集』別冊(1)として『世界婦人』が全部収録されている。

 『世界婦人』は『新紀元』のあとを継ぐものと考えられていた。『新紀元』は、1905(明治38)年10月に平民社が解散させられたあと、11月から翌(明治39)年2月まで出ていたキリスト教社会主義の立場の新聞で、木下尚江、石川三四郎。安部磯雄、片山潜らが中心であった。

 『世界婦人』は、「女子をして最も自由なる天地に於て其の眞使命を自覺せしめ」、諸般の革新運動を鼓舞し開拓すること」を目指した(福田英子「發刊の辯」)もので、基調としてはキリスト教社会主義の立場に立っていた。ではなぜ、「世界」婦人なのか。「發刊の辯」にはそれは書かれていない。しかし、『世界婦人』の創刊を予告した『新紀元』最終号の記事は、こう言っている。『世界婦人』は婦人の世界的解放を成就せんことを以てその使命となす。故に『世界婦人』は先ず専ら世界的思想を婦人社会に注入するに勉むべし。『世界婦人』は此の脚地に立ちて、世界の政治問題、社会問題、宗教、教育、文学の諸問題を報導し、論議し、研究する、と(『明治社会主義史料集』別冊にある宮川寅雄の解説)。婦人の自覚は世界的視野でのそれが求められ、「世界的婦人」の出ることが期待されていたのである。それゆえに『世界婦人』は、婦人解放に関連する世界中の情報を提供していた。

 雑誌を主宰したのは福田英子であった。経営上福田を助けたのは、石川三四郎であり、寄稿したのは、二人のほか、安部磯雄、幸徳秋水、堺利彦、木下尚江、神川松子、片山潜らのほか、二葉亭四迷、板垣退助など、思想的に幅広いメンバーであった。福田英子をとおしてこの雑誌は田中正造とも密接な繋りを持っていた。

 では、『世界婦人』は、婦人解放に関連するどのような世界中の情報を提供していたのだろうか(本稿では、当時の用語に従い、「婦人解放」という表現を使うことにする)。『世界婦人』の全号の中から婦人解放に関する世界の情報を拾い出してみたい。ほぼ毎号、本文か「海外時事」という欄に諸外国の女性の動きについての情報が載せられていた。

 もちろん各号に載った福田英子、木下尚江、石川三四郎。安部磯雄、幸徳秋水らの論稿においては、時々海外の主題が含まれていた。たとえば、『世界婦人』16号では、幸徳秋水は「婦人解放と社会主義」と題する巻頭論文において、アメリカの「無政府党の領袖」エンマゴールドマン(エマ・ゴールドマン)を引いて、「婦人解放の第一着手は婦人をして社会主義を知らしむるにあり」と論じていた。

 しかし、『世界婦人』は、「海外事情」などの欄を設けて、そこで種々の海外での婦人解放にかんする情報を豊かに載せていたのである。この視野の広さには驚くほかはない。

 以下、どのような情報を載せていたのか、ジャンルに分けて「タイトル」だけを紹介しておこう。(・)は『世界婦人』の号数を示す。

1. 婦人労働(者)について

 「健脚の女丈夫」(英の郵便居局長)(5)、秘密印刷に従事する一日本婦人(ロシア)(11)、米国の婦人労働(14)、仏国の婦人労働、女子議員の職業―フィンランド(15)、仏国の婦人労働者(23)、アイスランド婦人の覚醒(27)、阿蘭(オランダ)婦人の訴願(29)、伯林(ベルリン)の婦人労働者(29)、婦人労働者同盟(英)(2)、英国の婦人労働協会(28)、英国婦人労働組合大会(30)、女子の裁判官(米国)(17)など。

 とくに婦人売買や女中問題などについて、

 婦人売買禁止列国大会(1)、下婢組合と下婢の権利(豪州)(7)、世界の女中問題(11)、英国女中団体(30)、家内労働者組合(14)など。

2. 婦人の運動 

 英国婦人の示威運動(2)、マンチェスターに於ける婦人問題大会(2)、英国婦人の覚醒(3)、独立労働党と婦人運動(3)、婦人達の擾動(英)(4)、女子教員の運動(16)、独逸の婦人運動(20)、英国女子の政治運動(22)、英国曼市に於る婦人示威運動(マンチェスター)(28)、萬國婦人大会(アムス)(28)、印度婦人団体(29)、滿洲の女馬賊(2)、流罪婦人の悲劇―シベリア(30)など。

3. 婦人参政権問題について

 英国婦人の選挙権運動(1)、豪州における婦人の勢力(選挙権)(2)ナイチンゲール女史と選挙権問題(5)、維納(ウイーン)通信―選挙権問題(5)、墺太利(オーストリア)の光景―普通選挙法可決(6)、英国婦人選挙権運動(7)、那威(なうるうえい=ノルウエー)と女子選挙権(16)、世界に於ける婦人選挙運動(21)、英国婦人選挙成行(25)、婦人参政権運動(英国)(26)など。

 これに関連して、婦人と議会に関するものとして、

 最初の婦人代議士、イギリス、フィンランド、ニュージーランド(12)、仏国婦人と議会(15)、芬蘭(フィンランド)国会(26)、香港議会における婦人問題の勝利(7)など。

4. 婦人と社会主義について 

 万国社会主義婦人会議(ドイツ)(16)、今週のすつっとがると=万国社会主義婦人会議(府人の万国的活動、ツェトキンスの働き振り、大会の花形役者ロザ・ルキセンブルグ、勇ましき武者振り、印度婦人の活躍など)(18)、英国の「教会社会主義者」(22)、欧州の社会主義者(22)、婦人社会主義者ルエーラ・ツッイニング(25)、墺國社会民主主義婦人大会(30)、婦人の社会主義観―シカゴ(31)など。

 これに関連して、婦人と革命という観点から、

 婦人は男子よりも革命を好む(7)、芬蘭の女子革命家(17)、露国革命婦人メリー・スピリドノヴワ(26)など。

5. 世界的に知られた婦人個人について

 マダム・ローラン略伝(3)、スノウデン夫人の演説(3)、ストウ略伝(4)、黄梁の一夢(烈婦ルイ、ミシェルを懐ふ)(5)、ルイ・ミセルの記念像(16)、「ヂァンダーク」略伝(24)、米国のプリマドンナ、ノルヂカ女史(35)、北米のプリマドンナ、イームス女史(36)など。

6. 婦人の教育について

 女子は学術に適せざる乎(15)、義務教育の延長(19)、英国女学生の光栄ある成功(26)、独逸に於る女子高等学校(29)、独逸婦人の勝利(30)、西洋文学と婦人の功績―帆雨棲主人(35)など。

7. 婦人の自由について

 文豪カーラエルと婦人自由問題(9)、土耳古(トルコ)婦人の自由(30)など。

 ここに見るように、婦人の労働、婦人の運動、婦人参政権問題、婦人と社会主義、それに婦人と教育が主なテーマであった。婦人解放は社会主義との関連でのみ実現されるという意識が強かったことを思わせる。また、婦人運動の組織化、婦人同盟の諸問題にも強い関心を寄せていた。すでに婦人売買や女中問題などにも関心を向けていた。そして、当時もっとも婦人解放の進んでいたイギリスを中心としつつ、フランス、ドイツ、オランダ、オーストリア、ノルウェー、フィンランド、ロシア、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ合衆国、あるいは、トルコ、インド、香港などに視野を広げ、滿洲やシベリアにおける婦人の状況にも関心を向けていた。『世界婦人』はこのような世界的な視野の元で、婦人の解放を考えてその2年半の生を終えたのであった。たしかに、婦人の自覚は世界的視野でのそれが求められ、「世界的婦人」の出ることが期待されていたことが伺える。そして婦人解放のために世界中で行われていることをすべて吸収して日本での婦人解放に生かそうという意気込みが見てとれる。世界史における重要な「傾向」が日本に「土着化」されようとしていた瞬間を見る事が出来る。この雑誌を中心に、当時の日本を含む世界における「婦人解放」の運動や思想の全体像がもっともっと研究されるといいのではないかと思った次第である。

(「世界史の眼」No.21)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

文献紹介 林忠行『チェコスロヴァキア軍団−ある義勇軍をめぐる世界史』(2021、岩波書店)
木村英明

 多くの人が、日本史や世界史の教科書ないし参考書で、「チェコスロヴァキア軍団」(以下、「軍団」)の名前は目にしたことがあるだろう。例えば日本のシベリア出兵の大義名分になった存在として、あるいはまたボリシェビキによる拙速なロシア皇帝ニコライ2世一家殺害の誘引の一つとして。しかしこのチェコスロヴァキア建国以前に姿を現した「軍団」が、なんのためにどのような経緯で組織され、第一次世界大戦とロシア革命期の混沌の渦中でいかなる活動を繰り広げ、その結果地域と世界の歴史に何をもたらしたのか、その詳細を叙述し、考察した日本語書籍はほぼ見当たらない。おそらく、これまでにもっとも多くの情報を提供してくれていたのは、同著者による『中欧の分裂と統合−マサリクとチェコスロヴァキア建国』(1993、中公新書)である。この前著では、初代大統領に就くことになるマサリクという個人を軸に、彼が世界をへめぐり、各国の政治状況、国際情勢と切り結びながら建国へと至る道のりが描かれていた。今回の著書は、独立国家創設を図るマサリクの切り札となる、しかし規模的には決して戦争の帰趨を決するような大兵団ではなかった「軍団」の活動を通して、チェコスロヴァキアという国が中欧に現実の姿を持つようになる過程、ならびに当時の入り組んだ世界史の形を巧みに浮き彫りにしていく。

 本書はプロローグとエピローグ、序章と終章に挟まれた全5章から構成される。文芸書を想起させるような、研究書としては独特な構成といえるかもしれない。まずプロローグで、著者はプラハのヴィートコフ丘にある無名戦士の墓を紹介している。そこに15世紀前半、フス派を率いて神聖ローマ皇帝軍と戦ったヤン・ジシュカの巨大な像がたち、その足もとに軍団兵士の遺骨も収められているからだ。ジシュカが19世紀以降のチェコナショナリズムにより神話化されたと書く著者は、両大戦間期において英雄視されていた「軍団」将兵の遺骨が1989年の共産党体制崩壊後になってそこに埋葬された経緯を叙している。社会主義期の歴史観を槍玉に挙げているのではなく、おそらく著書の冒頭部で単線的な語り=神話化に対する注意が喚起されているのだと思われる。著者は本書中で自らの叙述を何度か「物語」と呼ぶ。神々の趨勢を語る神話は批判を許さない非歴史的なものだろうが、人びとの来し方の物語は複線的であり、歴史であるだろう。エピローグは「最後に、軍団にかかわった人々のその後をたどって、この物語を終えることにしよう」と始められている。プロローグとエピローグが共鳴して、「物語」に隙のない枠を形作っていることが感じ取れる構成である。

 各章の内容については著者自らが序章で記しているのだが、以下に簡単に紹介しておく。

 序章では「軍団」の物語を始めるにあたって、ハプスブルク君主国(以下、「君主国」)中のボヘミアと上部ハンガリーの歴史空間、そこに住まう人びとの多言語性やナショナリズムの萌芽が語られる。また、「世界革命」と「世界戦争」の時代を歩んだ「軍団」を主人公に据え、「君主国」史と対ソ干渉戦争史を接合する形で整理するという本書の方向性が明示されている。

 第1章は大戦勃発を受けて、ロシア帝国領内のチェコ系・スロヴァキア系移民が、「軍団」のもととなる「チェコ・ドルジナ」(ドルジナはチェコ語で「従士団」の意)と名付けられた親ロシア義勇軍をキエフで結成したこと、またその軍旗の紋章の配列から、スロヴァキアがボヘミア諸邦の一つのように扱われていたことに触れている。この義勇軍は、近代ナショナリズムに基盤を置くチェコ系の体操運動「ソコル」の影響を受けていた。そして1916年に義勇軍は「チェコスロヴァキア狙撃連隊」と、初めてチェコスロヴァキアを冠する軍へ改称されたという。

 第2章は、大戦初期の「君主国」内に見るチェコ系政党と政治家の国内自治要求、それに対するロシアと結んだスラヴ帝国構想(ネオスラヴ主義)の議論を追跡する。前者の議論はボヘミア諸邦の「歴史的権利」に依拠していたため、スロヴァキアを含んでいなかった。並行して、パリとロンドンを軸足に独立運動を開始したマサリクの思惑が解説される。ロシアの帝政に批判的だったマサリクであるが、独立国家の領域についてはネオスラヴ主義者と同様に、スロヴァキアを含むものであったことが明らかにされる。そして1915年11月、「チェコ人在外委員会」の宣言で公式に「チェコスロヴァキア国家」の表現が使われたという。翌1916年2月頃には「チェコスロヴァキア国民評議会」(以下、「評議会」)が設立され、スロヴァキア人のシュチェファーニクが副代表として加わり、議長のマサリクを支えることになる。「評議会」は海外政府から認知を受けるようになるが、英仏ら協商国はまだ独立国家創設を支持しているわけではなかった。さらに、親ロシアの移民組織が独自に国民評議会設立を図るなど、この「評議会」内部にも路線闘争が起きた。アメリカ在住のチェコ系、スロヴァキア系それぞれの移民組織が結んだ「クリーヴランド協定」(1915)と「ピッツバーグ協定」(1918)にも触れられている(そこにはチェコとスロヴァキアの連邦化が約されていたため、独立後、両者の関係に火種を残すことになってしまった)。

 第3章は、1917年の二つのロシア革命に対応する「評議会」と「軍団」の動きが中心となる。2月革命は、ロシアにおいても「評議会」がマサリクの指導下にまとまることを促す契機となった。いっぽうでまたケレンスキーの臨時政府は、他国の地で祖国の軍と戦い、独立国家創設を掲げるチェコスロヴァキア義勇軍を快く思っていなかったが、「軍団」は独・墺軍に対するロシア臨時政府の7月攻勢下、ズボロフの戦いで名をあげる。その戦功の大小はさておき、両軍ともにチェコ系兵士多数であったことから、著者はこれを異国の地における内戦と呼び、革命戦争を象徴する戦いとしてのちに神話化されたと語る。また、この戦いにおける独・墺軍チェコ兵士の投降も愛国的行為という神話に昇華されたという。マサリクはこの機にロシア政府にたいし、「軍団」が「中央諸国と戦闘状態にある革命軍」であること、同軍が軍事的にロシア最高司令部に従うものの、政治外交面で「評議会」が責任を負うものと認めさせた。その後の10月革命とロシアの戦線離脱は、「軍団」にとって独・墺軍との戦場消滅という結果をもたらした。内戦に突入していくロシア国内で、「軍団」内部では革命軍への参加、あるいは反ボリシェビキ軍への合同と意見が錯綜する。マサリクの決断は、「軍団」の中立維持とフランスへの移送であった。ソヴィエト政権との間に「ペンザ協定」が結ばれ、武器携行の制限を受け、民間人としての移動が認められた。後続の章で、この協定への反発と「軍団」の反乱が語られることになる。

 第4章は「軍団」のシベリア横断とその反乱を取り上げる。ウラジオストクへ向けて東進を開始した「軍団」であったが、赤軍への編入を望むトロツキーの思惑、ドイツ人捕虜の帰還にとってその存在を障害とみなすドイツ政府の介入、さらにチェコ系、スロヴァキア系共産主義者による妨害行為などが絡み合い、遅々とした歩みを余儀なくされる。そうしたなかで、1918年5月には「軍団」とソヴィエト軍の衝突がチェリャビンスクで起き、「軍団」はチェリャビンスクを占拠してしまう。直後に開かれた代表者会議で、「軍団」はペンザ協定に背き、武装解除を拒否することを決め、反ソヴィエト反乱へと突き進んでいく。軍は長大なシベリア鉄道沿いに「チェリャビンスク・グループ」、「ペンザ・グループ」、「ノヴォニコラエフスク・グループ」の3つの部隊に別れて、それぞれを若い士官が指揮することになった(3人の若い士官はたちまちに少将へと昇進する)。各軍とも実戦経験に乏しい急拵えのソヴィエト軍を圧して進軍し、また反ソヴィエト勢力との協力関係も築き上げる。マサリクによる内戦への不介入、中立維持の指示は守られなかったことになる。

 第5章ではロシアの戦線離脱を受けた連合国の東部戦線に対する対応、それに絡んで「評議会」と「軍団」の扱いが移り変わっていく軌跡が綿密にたどられる。まずイギリスは、「軍団」がロシアに留まり東部戦線の再構築に投入されるべきだと考えていた。他方、フランスは西部戦線でドイツの攻勢に備えるために、「軍団」のフランス移送にこだわった。独立国家成立後に外務大臣を務める「評議会」事務局長のベネシュは、「軍団」を手札に各国の利害の狭間で独立国家の可能性をかけた外交を展開することになる。4月には、ウラル以西の「軍団」をアルハンゲリスクないしムルマンスクに移動させるイギリス案にベネシュは同意したとされるが、翌5月に「軍団」の反乱が始まってしまう。西部戦線で苦戦する英仏軍の要請を受け、日本やアメリカは「軍団」救援を目的にロシアへの軍事干渉を決定し、著者の言によれば「軍団」は「連合国の前衛」となった。このような状況の変化を受けて、連合国の「君主国」にたいする政策も転換していく。チェコスロヴァキア独立には明確な支持の声が上がらなかったものの、英仏は相次いで「評議会」を国家の代表として承認する。また国際情勢の変化を映して国内でも、以前の「チェコ国民委員会」が7月に、スロヴァキア人メンバーは不在ながら「チェコスロヴァキア国民委員会」と改組され、チェコスロヴァキアを名乗る国家の現実味が増していく。この時期、チェコスロヴァキア人という言葉も新聞等の見出しにふつうに用いられるようになっていたという。国内組織は「君主国」内への残留にこだわる派もあったようだが、終章で述べられるように、ボヘミア諸邦で19世紀後半から育まれた政党政治は、異なる意見を調整し妥結点を見出すほどに成熟していた。1918年10月28日、チェコスロヴァキアは独立を宣言し、イタリアで戦っていた義勇軍の力を得て、上部ハンガリーのスロヴァキア地域も構想通り新国家の領土に組み込まれた。

 終章では、ロシアの「軍団」が内戦下で物資確保のために行った工場運営などの経済活動が紹介されていて興味ぶかい。国家独立後に「在露チェコスロヴァキア軍」となった「軍団」は、新たな祖国へ帰還するために、赤軍が攻勢を強めるシベリアを逆方向のウラジオストクへ向けて進み続けた。1919年10月に始まった正式撤退は、オムスクの反ボリシェビキ政権の崩壊もあって困難な道のりとなる。1920年4月には、「軍団」と日本軍の間で、当初の発砲がどちらからだったか曖昧なままに銃撃戦となった、いわゆるハイラル事件も起きた。最後の部隊がようやくウラジオストクを出港したのは、同年9月に入ってのことだった。「軍団」を舞台回しに語られた建国の物語の最後に、著者はその後の国家をみまうことになった、ドイツ系住民の追放問題や1992年末日のチェコとスロヴァキアの分離についても触れている。ナショナリズムを規定するのは国内要因以上に、それを取り巻く国際環境であるという指摘は、本書を通読した後で確かな説得力を持って迫る。

 国家成立後、両戦間期から第二次世界大戦を経て、戦後の社会主義期を各自各様に過ごした本書登場人物の生涯が簡潔に示されたエピローグは、胸に染みる。

 拙稿を閉じるにあたり、私事になり恐縮なのだが、一つのエピソードを紹介することを許していただきたい。30年近くもまえ、著者とわたしはスロヴァキア南西部のとあるお宅にお邪魔したことがあった。著者はチェコ語で、当時本国でもよく知られていなかった「軍団」の活動と建国の歴史を熱心に語られた。その家の、日本式に言えば小学校上級生程度だった少年は、この折の経験に忘れ難い印象を受け、大学で国際関係論を学び、現在は国際関係に特化されたNGOで活躍している。著者のグローバルな視野は、現実においてもグローバルに作用したのである。

(「世界史の眼」No.21)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする