書評:北村厚『20世紀のグローバル・ヒストリー 大人のための現代史入門』(ミネルヴァ書房、2021年)
木畑洋一

 先に『教養のグローバル・ヒストリー 大人のための世界史入門』(ミネルヴァ書房、2018年)という本を上梓して高い評価を得た著者が、その手法を引き継ぐ形で対象とする時代を20世紀から現在までに限定して著した本が、ここで取り上げる『20世紀のグローバル・ヒストリー』である。その手法とは、高校の歴史教育で用いられている教科書の内容にあくまで即しながら、著者なりの歴史像を提示していくというやり方である。参照された教科書は、前著においては「世界史B」(古代から現代までを詳細に扱う科目)の教科書であったが、本書では、それに加えて「世界史A」(近現代を中心に比較的簡潔に扱う科目)、「日本史B」、「日本史A」(BとAの違いは世界史と同じ)も参照されている。換言すれば、高校での歴史関係の教科書すべてを素材にしているわけであるが、それは、2022年から高校において新科目「歴史総合」が導入されるということに関わっている。従来の世界史と日本史を融合させる形で18世紀以降の歴史を扱うというこの新科目を見据えて、本書は書かれているのである。

 また前著と本書のタイトルがともにグローバル・ヒストリーという語を含んでいることから分かるように、著者が目指しているのは、グローバル・ヒストリーを意識した通史的叙述である。この点に関していえば、前近代についてもネットワークという考え方を適用して斬新な歴史像を提示した前著の方が刺激的であったとも感じられるが、本書でもさまざまな工夫が凝らされている。「はじめに」で著者が示している、グローバル・ヒストリーとして20世紀史を再構築する際のポイントは以下の5点であり、きわめて要を得ている。①人類共通の問題群を主軸にする、②国境をこえる関係性や結びつきを積極的に取りあげる、③地理的に広い範囲での歴史の動きを把握する、④大国よりもその周縁部に焦点を当てる、⑤「下からの」エネルギーに注目する。問題はこうした視点が貫徹した叙述になっているかどうかである。この内、③から⑤については、それなりに著者の努力がみられるものの(ただ③の広域性という視角は、前著においては非常に明示的に打ち出されていたが、本書ではそれほどでもないという印象をもった)、本書の「売り」となるのは、①と②ではないかと思う。それに関して例をあげてみたい。

 本書のプロローグ「20世紀前夜の世界」は、前著で著者が強調していたグローバル・ネットワークの完成についての議論から始まるが、そこで中心に据えられるのが、列強による植民地支配の拡大であり、さらにその支配を支えた人種主義である。人種主義は、上記の①にある人類共通の問題の一つであり、本書を貫く主軸の一つとなっている。著者は、1990年代初めのアパルトヘイト諸法の廃止に触れた個所で、「20世紀は人種主義の世紀だった。…人種主義が国家政策として公然と実施される時代はこれで終わった」と述べるのである。もとより人種主義そのものがそれで完全になくなったわけではないと著者は続けて論じるわけであり、このような形での20世紀論に評者は強い共感を覚える。

 また移民という問題も、「人類共通の問題」として重視されている。これをめぐっては、満洲国の建国後、日本が満洲移民を推進していく背景に、それまで日本人移民が多かったブラジルで強圧的な民族主義政策が開始されて移民が圧迫され始めたという要因も存在していたとの指摘が興味深い。これについての叙述に踵を接する形でナチ・ドイツのもとでのパレスチナへのユダヤ人移民問題を取り上げるといったところに、著者の巧みな工夫をうかがうことができる。

 ②の論点に関わる例としては、たとえば日露戦争とイラン立憲革命の関係をあげることができる。1906年のイラン立憲革命に日露戦争での日本の勝利が大きな影響を及ぼしたことは、これまでも教科書のなかで書かれてきたが、その様相を著者は簡潔ながら具体的に説明している。さらに、教科書ではお目にかかることはない指摘として、インドでのベンガル分割への反対運動に日露戦争が影響を与えた可能性が指摘されている。また、1960年代の世界の若者たちのカウンター・カルチャーと中国の文化大革命の同時性に着目し、前者への後者の影響に触れているところなども、印象に残った。

 こうした内容をもつ本書は、読みやすい文体で書かれており、教科書でおなじみのゴシック体による重要語句の強調も適度になされているなど、歴史教育のために使われるにふさわしい本になっている。ただ、注文したい点も若干存在するが、ここでは一点のみあげておこう。

 先に①から⑤というポイントを挙げたが、著者はそれに加えてあと二つの点を提示している。一つは、20世紀の世界史を10年毎に切り取る形で本書を構成するという点であり、いま一つは世界史と日本史の総合を意識するという点である。後者に関しては、ない物ねだりはいくらでもできるものの、本稿で指摘してきたような叙述など、工夫の努力がよく見られる。 

 一方、前者については、1930年代とか1960年代とか、確かに10年区分で議論をする意味がある場合も20世紀には多かったが、それでよいのかと思われる時期もある。たとえば1940年代である。これを一つの章にまとめてしまうと、1945年における第二次世界大戦終結の意味合いは、どうしても相対的に低められてしまうのではないだろうか。それは戦後変革の評価にも連動する。このことは、本書が念頭に置いている「歴史総合」での時期区分にもあてはまる問題である。「歴史総合」では、「国際秩序の変化や大衆化」という大項目と「グローバル化」という大項目とが、1945年ではなく、1950年代初めで区切られているのである。もちろんその区切り方を正当化する理由もありうるが、こうした点について何らかの説明が欲しかったところである。

 最後に一つ述べておきたいことがある。著者がこのような形で一書を著わすことができるというのは、日本の高校で使われている歴史教科書の中身がかなり標準化されていることの反映であるとも考えられる。叙述の中身にはそれぞれの特色が出されているとしても、頁数にせよ、用語にせよ、教科書がかなり似通ったものになっていることは否めない。固有名詞でも概念でも、従来の教科書で馴染みがないものは避けられがちであるし、頁数の制約のために叙述の密度も限られがちになる。本書は、そうした日本の教科書を素材にしながら、20世紀の世界史像をどこまで描けるか試した成果であるが、本書を読んだ上で、このような日本の歴史教科書のあり方自体を改めて問うてみることもできるのではないだろうか。

(「世界史の眼」No.22)

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