「万国史」における東ヨーロッパ I-(1)
明治期「万国史」における「東ヨーロッパ」(その1)
南塚信吾

はじめに

 明治期には、欧米で書かれた世界史を翻訳・紹介した「万国史」がつぎつぎと出版され、それが日本にとって国外の情勢を知る重要な情報源となっていた。「万国史」というべき歴史書は、明治初期から日露戦争前までほとんど毎年と言っていいほどに出版され、合計30篇ほどが出されている[1]。その中で、ヨーロッパの東の部分についても、われわれが驚くほど多くの情報が入っている。

 明治期の「万国史」を見ると、今日「東ヨーロッパ」と考えられている地域の歴史は、西欧と線引きされ区別されることなく扱われている。しかもその扱われかたは、明治期の中でも少しずつ違ってきているようである。時々の日本の実践的問題に即して東ヨーロッパの違った地域に強い関心が向けられてきている。そして、一定の時期から「東ヨーロッパ」というまとまりで考えられるようになるのである。

 では、「万国史」において、ヨーロッパの東部の歴史はどのように扱われ、その扱われ方はどのように変化し、いつから「東ヨーロッパ」としてまとめて考えられるようになったのか。当時の日本の人々の世界史像の中で、「東ヨーロッパ史」はどういう位置を占めていたのだろうか[2]

 考えてみれば、「東ヨーロッパ」の扱われ方だけを限定して検討することにどういう意味があるのだろうかという疑問も出るはずである。それぞれの「万国史」の全体的特徴を論ずべきではないか。もちろんそうである。しかし、今回は、それぞれの「万国史」の全体的特徴を明らかにするためにも、あえて筆者が多少とも専門にしてきた「東ヨーロッパ」に限定して、そこから全体を見直す視点を探りたい。

Ⅰ パーレイ的「万国史」の中で:明治初期の文部省教科書

 江戸期に比べ明治期に入って世界への日本の関心は急速に拡大した。「開国」した日本は世界の中のどこへ行くべきか、必死の模索が続いたのである。明治の初期には、世界への関心はどこかに集中して向けられていたというよりも、まさにグローバルに世界各地に向けられていた。そこに「万国史」の必要性があった。

 知られるかぎりで、「万国史」と名のついた最も早い書は、西村茂樹『万国史略』1869年(明治2年)であろう。西村の『万国史略』はスコットランドのAlexander Fraser Tytler, Elements of General History, Ancient and Modern, Edinburgh(1.ed., 1801)の1866年版の翻訳であるが、序論と古代ギリシア史までしか訳されていない。序論は歴史学の方法などを論じていて、レベルの高い書であったが、本論としてはローマ帝国までしか訳されなかった。したがってここでは本書は取上げない。

 明治政府のもとで文部省が設置されたのは、1871年(明治4年)であった。そして、1872年(明治5年)に学制が発布され、新しい学校制度が発足した。これに合わせるように、明治4年から8年にかけて、文部省を中心にした人々によって「万国史」と言うべき書が出されていた。それは、寺内章明訳編『五洲紀事』、文部省篇『史略』、師範学校編『万国史略』、田中義廉『万国史略』、牧山耕平訳『巴来(パーレイ)万国史』であった。それらは、寺内が抄訳し牧山が完訳したアメリカのグードリッチ(ペンネームはパーレイ)の本を何らかの形で参考にしたものであった。原書はSamuel Griswold Goodrich(Peter Parley), Universal History: on the Basis of Geography, Boston(1ed. 1837)である。パーレイの本は、幕末には日本に入っていたようで、1867(慶応3)年に、福澤諭吉が軍艦受け取りの使節として再びアメリカへ出かけた時、パーレイの「万国史」も購入してきているという。明治の初期にはパーレイの本を中心に日本の世界史認識が始まったものと言うことができる。

 では、それらにおいてヨーロッパの東部はどのように紹介されていたのだろうか。

1. 寺内章明訳編『五洲紀事』紀伊国屋源兵衛 明治4年(1871年)

 この本は「万国史」とは称していないが、内容は「万国史」そのものであった。「五洲」というのは、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、オセアニアの五つの「洲」という意味である。これはグードリッチ(ペンネームはパーレイ)の本[3]などに拠りつつ、「他書」をも参照しながらまとめられたものである。パーレイの本は、なお聖書的な要素を残すとはいえ、気球で地球を回るような世界史で、ヨーロッパに偏ってはいなかった。アジアからオセアニアまでを回りながら、各地、各国の歴史(寺内はまだ「歴史」という言葉を使っていなくて、単に「史」と言っている)を縦に述べて、それを並べたものであった。

 寺内章明の訳した『五洲紀事』は、亜細亜洲や阿非理加(アフリカ)洲については十分なページを割いていたので、その点は注目すべきであるが、パーレイの原著のように徹底して世界地理をなぞるように全洲をめぐっているわけではなく、アメリカとオセアニアは扱っていなかった。その分、欧羅巴は詳しかった。では、そこではヨーロッパの東部はどのように描かれていたのだろうか。

 ヨーロッパ洲は、
  巻三 希臘紀
  巻四 羅馬(法王国、以太利諸国)(附 拿破里(ナプルス)、威内薩(ウエニス)、熱那(ビノア)、撒丁(サルデニア)、多加納(トスカニー)
  巻五 土耳其トルコ紀、西班牙・葡萄牙紀、仏蘭西紀
  巻六 日耳曼・墺太利・普魯士・瑞西紀(附 匈牙利ハンガリー)、魯西亜紀(附 波蘭ポーランド)、嗹馬デンマーク瑞典スウェーデン諾威紀ノルウェー、和蘭・比利時紀、英吉利紀
という構成であった。それぞれが、古い時代(上古)から近年まで国ごとに縦に歴史が述べられる形式をとっていた。ヨーロッパは東西の区別なく、国ごとの構成であった。

 ヨーロッパ東部では、希臘と匈牙利と波蘭がくわしく扱われていた。

 ギリシアについては、古代希臘の歴史にはじまって近代まで書かれていて、その最後に希臘の独立が扱われている。そこでは、土耳古に400年間「奴隷」の如く制馭されていた希臘の「人民」が、1821年から「大義を唱へ兵を挙げ」、英仏露の応援を受けて、1829年に「独立」国となったことが書かれている。ギリシアの独立は注目すべき出来事であったようである(巻三―50)。このギリシア独立の経緯は今日においても通用する記述である。  

 用語に注目すると、すでに「独立」という言葉が使われていたが、この時、ギリシアは独立ではなく、自治国となったのである。『五洲紀事』では「人民」は国民の意味でも、民衆の意味でも使われている。ちなみに、『五洲紀事』は佛国「革命」や「民権」という概念も使っている。

 ハンガリーの歴史は日耳曼・墺太利・普魯士の歴史の「附」として扱われている。そしてまとまった項が設けられていて、そこにはこのように出てくる(巻六の三と六)。

 「人種は許多の野民に成りて元より一ならずと雖も、其の祖先実は匈奴種に出で、上古亜細亜の北辺より漸次(しだい)にアルタイ山を超えて移り住せしものなり。蓋し紀元450年代匈奴の酋長阿的拉(アットラ)汗・・・欧州の内地に縦横し、嘗て東羅馬を脅して其歳貢を要し、更に以太利に入て殆ど西羅馬を陥るに及び、偶々(たまたま)病で路に死し、是より其の種人永く此の地に止まり、匈牙利と号して、常に抄掠を事とし、風俗強悍にして、久しく王国に昇らざりしが、紀元一千年代に至り、士提反(ステフェン)始て王位に即き、爾後数百年間頗る強威の一国と称せられしに、紀元一千五百六十年代、終に墺太利に併せらる。」(巻六の一三)

 ハンガリー人を匈奴の末裔とし、アッティラの子孫が匈牙利国を建てたとしているのは困りものだが、明治期の「万国史」にはしばらくはこういう理解が続くことになる。匈牙利が1560年代に墺太利に併合というのは誤りである。それにオスマン帝国が出てこないことが問題であろう。ちなみに江戸時代には、「翁加里亜(おんかりあ)」と言われていたが、この寺内から「匈奴」に由来するとして「匈牙利」が使われ、明治期をとおして、これが使われることになる。

 用語としては、『五洲紀事』では、すでにraceの訳語として「人種」という概念が使われていることに注目しておきたい。この時期に日本では「人種」はどのような意味で使われていたのか、調べる必要がある。ヨーロッパではThomas Keightley, D. Lardner’s Cabinet Cyclopedia: Outline of History, London, 1830.などは人種から論じ始めていたが、これは邦訳されていない。しかし、いわゆる人種論が出るのは、ダーウィン以降、1870年代である。

 ポーランドは、魯西亜紀の「附」として扱われている。そこではこう書かれている。

 「昔は甚だ富強の一国なりしが、千七百七十二年魯普墺の三国と戦て利あらず。土壌一旦之れが為めに削られ、同く九十五年再兵を其の兵を被り、当時人民皆死力を殫(つく)して、此と相争ひしと雖も、衆寡勢を殊にするを以て、遂に其の自主を立ること能はず。全く其の兼併する所となれり。此より国人皆魯西亜の暴政に軋せられ」た。(巻六の二十)

 ハンガリーに比べて、やや迫力がないが、いわゆるポーランド分割は明治期の日本人の強い関心を引いていたテーマであった。なお、魯西亜との関係で、セルビア人やブルガリア人やルーマニア人などが出て来ることはなかった。ギリシアの時と同じく「人民」の目線を持っていたことに注目しておきたい。「国人」はこの「人民」と同義で使われているようである。

 こういう具合に、ヨーロッパの東部では、ギリシアとハンガリーとポーランドが主に出て来るテーマであった。このような記述がしばらく受け継がれていく。アメリカのパーレイにとっても、日本にとっても、ギリシアは「独立」を獲得した例として、ポーランドは「独立」を失った例として、ハンガリーはヨーロッパを「攪乱」したアジア人として関心があったのであろう。ただ、パーレイの原書ではオーストリアの記述の中で、ボヘミアにも軽く触れられていて、そこは鉱山に富んで豊かな国だとしつつも、その住民の多くは「ユダヤ」で、「ジプシー」もたくさんいると記してあるが、この部分は訳されていなかった。

(続く)


[1] 「万国史」に関する主な研究は、松本通孝「明治期における国民の対外観の育成―「万国史」教科書の分析を通して」増谷英樹・伊藤定良編『越境する文化と国民統合』東京大学出版会、1998年、p.185-203;南塚「近代日本の「万国史」」秋田茂他編『「世界史」の世界史』ミネルヴァ書房、2016年;岡崎勝世「日本における世界史教育の歴史(I-1)―「普遍史型万国史」の時代―」『埼玉大学紀要 教養学部』第51巻(第2号)2016年;同「日本における世界史教育の歴史(I-2)―「文明史型万国史」の時代 1―」『埼玉大学紀要 教養学部』第52巻(第1号)2016年;同「日本における世界史教育の歴史(I-3)―「文明史型万国史」の時代 2―」『埼玉大学紀要 教養学部』第52巻(第2号)2017年。

[2] このテーマについては、筆者は2012年1月に千葉実年大学にて講義をしたことがあるが、文章にしていなかった。その後の知見もあり、改めて文章化しておきたい。

[3] Samuel Griswold Goodrich (Peter Parley), Universal History: on the Basis of Geography, Boston(1ed. 1837)の1871年版によったと寺内は書いている。

(「世界史の眼」No.24)

カテゴリー: コラム・論文 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です