はじめに
1 石川達三のパラオ行
(以上、本号)
2 パラオの真珠産業と「南進熱」
おわりに
(以上、次号)
はじめに
第一次世界大戦後の1922年に日本の国際連盟・委任統治領となった南洋諸島、特にパラオは真珠産業(真珠貝採取業と真珠養殖業)を通してオーストラリアやニューギニアなど「南方」と深く結びついていた。
オーストラリア西海岸やニューギニアとオーストラリアの間のアラフラ海における真珠貝採取業(貝殻が高級ボタンや螺鈿、装飾品などの素材になる)に日本人が初めて雇用されたのは1883(明治16)年で、オーストラリアの真珠貝採取船の船長ミラー(Captain J.A. Miller)が来日して、37人の漁民と雇用契約を結んだ(リンダ・マイリー、19頁)。これを皮切りとして、和歌山、愛媛、広島、沖縄などから多くの人々がオーストラリアに渡り、1900年代初めには、3000人ほどの日本人が真珠貝採取業に雇用されていた。彼らの多くはオーストラリア西海岸のブルームとケープヨーク半島最北端トレス海峡の木曜島に集住していた(図版1。山田篤美、124-125頁)。1931年からは、パラオのコロール島を根拠地とする日本の真珠貝採取船が直接にアラフラ海などに進出し、パラオは「世界最大の真珠業根拠地」となっていった(同、126頁)。
他方、真珠養殖業では、1922年、御木本真珠がいち早くパラオのコロール島に真珠養殖場を開設した。1935年には、本稿の主題となる南洋真珠株式会社が同じくコロール島に白蝶貝(シロチョウガイ)を母貝とする真珠養殖場を設立した。白蝶貝はパラオでは産しないので、アラフラ海などの白蝶貝を輸入しての事業であった。
こうして、真珠産業を通して「南方」と深く結びついていたパラオでは、1930年代には、「南進熱」と呼ばれるような民衆的状況が生まれた。しかし、それも日米開戦(1941年12月8日)が迫っていたころには行き詰まりの様相を濃くしていたようである。
本稿では、そうしたパラオの真珠産業と「南進熱」について、石川達三の『赤虫島日誌』(1943年)などを通して見ていきたいと思う。(以下、引用文中の〔 〕は引用者による補足)
1 石川達三のパラオ行
1941年5月19日、ブラジル移民を描いた「蒼氓」で第一回芥川賞を受賞した作家、石川達三は「はっきりした目的」もなく、ただ「何か南方に惹かれる一種の欠陥のような性格」に導かれるままに、「南方」への旅に出た。サイパン島、テニアン島、ヤップ島を経て、6月6日、パラオのコロール島で下船した。「はっきりした目的」もなくといっても、パラオにはそれから一か月以上滞在したのであるから、何か目的に近いものはあったのであろう。石川はこの南方旅行の記録である『赤虫島日誌』に次のように書いている。
弟は三十一であったろうか三十二になろうか。パラオに住んでもう八年である。妻子は南洋の生活に疲れて内地に静養に帰り、彼はいまひとり
住居 の不自由さである。私が南洋旅行を計画した理由の一つは、彼がどんな風にして暮らしているのか、その様子を見たいからであった。彼は白蝶貝〔シロチョウガイ〕を海にひたし、その胎内に真珠を育てている。ちかごろはこの群島のはずれの方の小さな無人島に作業場をこしらえて、月曜から土曜日まではそこに泊まりこんで、三万匹の貝を養っているというのだ。凡そ人間ばなれのした仕事だ。そして、それがしきりに私の好奇心をそそるのだ。(52頁)
この石川達三の弟は石川伍平といい、南洋真珠株式会社の社員として、パラオで真珠養殖の仕事に従事していた。石川が書いているように、南洋真珠の真珠養殖は白蝶貝(シロチョウガイ)を母貝とするもので、御木本幸吉が事業化したアコヤガイ(阿古屋貝)を母貝とする真珠よりも大粒の真珠がとれる。ただし、その分だけ養殖には技術的に難しい面があった(山田篤美、243-245頁)。この白蝶貝による真珠養殖に先鞭をつけたのは藤田
石川達三の弟、石川伍平はこの南洋真珠のコロール真珠養殖場に勤務していたのであるが、月曜日から土曜日までは「〔パラオ〕群島のはずれの方の小さな無人島」にこしらえた「作業場」で真珠養殖の作業を行っていたということである。この「無人島」にはダニの一種である「赤虫」が多かったので、「赤虫島」と呼ばれていた。赤虫島はコロール島の南のウルクタベール(ウルクターブル)島南端の湾奥にあった(図版2。ただし、赤虫島を特定することは、今日、困難であろう)。
石川達三はコロール島では、弟の住んでいる南洋真珠の社宅に居候した。社宅は「六畳二室に台所と広縁とのついた、バラックのような狭い家であった」。南洋真珠の社屋と社宅は日本学術振興会が1934年にパラオに設立した熱帯生物研究所の隣にあった(図版2)。それで、石川伍平など南洋真珠の社員は熱帯生物研究所の研究員などと親しく付き合っていた(坂野徹、161頁)。そのうえ、石川達三はパラオへの船中で、熱帯生物研究所に赴任する「秋山さん」(本名、尾形藤治)と知り合いになっていた。その縁で、石川達三はコロール島では、特に「秋山さん」と親しくした。
「秋山さん」の研究テーマは「南洋の生物の腸内に寄生する寄生虫の研究」であった。空気銃を愛好する石川は、鴫、鷺、蜜吸(スズメ目ミツスイ科の鳥)、青蜥蜴などを打ち落としては「秋山さん」の所に持って行った。「秋山さん」はすばやく腸を切り開いて、寄生虫を調べていた。ある日、トキソーテス(鉄砲魚。スズキ目テッポウウオ科の魚)を捕獲するために、石川は「秋山さん」や弟や熱帯生物研究所の研究員たちと一緒に、南洋真珠の便所の下に行った。「便所は海のうえに突きだしている。水洗便所である〔海岸から10メートルぐらいの桟橋のようなものを海中に突き出して作り、その先端に便所を置いた〕」。「水の中を動いている魚を空気銃でうつ事は、この道の最高技術であろう」。夕方、石川らは「三匹の漁獲をもって引きあげた」(『赤虫島日誌』64頁)。
6月9日(月)、石川達三は、赤虫島に「見学がてらに遊びに行ってみることにした」。午前9時、コロール港を出航、同行は弟など南洋真珠の社員5人と現地民のワカキチ夫婦とクニイチ夫婦の四人で、土曜日まで六日間滞在の予定であった。船は満月丸という「十噸〔トン〕に足らぬ発動機船」で、「煙の輪を丸く吹きあげながら紺碧の水をたたえた島影のせまい水路をぬけて行った」。コロール島から赤虫島までは「珊瑚礁づたいに約二十哩〔約32キロメートル〕、三時間の航海であった」(『赤虫島日誌』84頁)。
「赤虫島は大きな湖のように島々に抱かれた湾の一番奥の方にあった。湾の水はリーフ〔礁〕の淡緑の色にふち取られて、静かな風景であった。島々はみな石灰岩質の高い岩壁にかこまれていて、岩壁には
会社の連中は二日目から作業にとりかかった。富岡君は潜水夫とワカキチとクニイチとを連れて附近の海に沈めてある白蝶貝の籠を引きあげて来た。針金づくりの籠のなかに平たい貝が七八枚きちんと並べてあった。この籠のなかで貝は二年も三年もかかって一粒の真珠をその胎内に育てる。作業場では脇田君たちが貝をひらいては長いピンセットで真珠の粒をつまみ出し、硝子皿のなかへ無雑作に五十も六十も投げこんでいた。
オーストラリアの方から買いこんだ白蝶貝は一時は三万匹に達したが、この海に在って何か原因不明の死を遂げて行った。水質が悪いらしいと言い営養不良だとも言うが、今では一万にも足らぬ数になってしまった。会社の事業は思わしくない。死んだ貝殻は作業場の軒下に風雨に晒されて煉瓦塀のように積み重ねられてある。ヤップ島では一枚の貝殻が一本の椰子の木と交換されるというのに、ここでは
釦 細工屋に売るのだという。この作業は私にはあまり興味がなかった。三年の日子を費やして一粒の真珠を作ることのばかばかしさと、その真珠を指輪にして美しさを誇ることのばかばかしさとが同時に感じられた。作業場の仕事をよそに、私は愛用の空気銃をもって干潮の砂浜を鳥を追うて歩きまわった。(『赤虫島日誌』98-99頁)
こんな状況でも、南洋真珠の社員たちはこの赤虫だらけの無人島で、月曜日から土曜日まで泊まり込みで作業を続けていた。それだけに、土曜日に満月丸が迎えに来るのが待ち遠しかった。6月14日(土)、「南洋とも思われないうそ寒い風が吹いて、時折は小雨がはじまるようないやな天候であった。帰りの船はきっと揺れがはげしいだろうと思われたが、誰一人として船出を見合わせようと言い出す者はなかった」(『赤虫島日誌』114-115頁)。一行は荒天を押して赤虫島を出発し、波しぶきを浴びながらコロール島に戻った。ただ、ワカキチ夫婦だけは留守番として赤虫島に残った。
(次号に続く)
参考文献
石川達三『赤虫島日誌』八雲書店、1943年。
坂野徹『〈島〉の科学者―パラオ熱帯生物研究所と帝国日本の南洋研究』勁草書房、2019年。
山田篤美『真珠の世界史―富と野望の五千年』中公新書、2013年。
リンダ・マイリー(青木麻衣子他訳)『最後の真珠貝ダイヴァー 藤井富太郎』時事通信社、2016年。
(「世界史の眼」No.24)