戦前パラオの真珠産業と「南進熱」(下)
小谷汪之

はじめに

1 石川達三のパラオ行

(以上、前号)

2 パラオの真珠産業と「南進熱」

おわりに

(以上、本号)

2 パラオの真珠産業と「南進熱」

 1941年7月20日、後に独自の人類学者として著名になる今西錦司(当時、京都帝国大学理学部無給講師)を隊長とするポナペ島学術調査隊の一行がパラオに着いた。この調査隊は京都探検地理学会が派遣したもので、今西に近い京都帝国大学助手や学生などから構成される、きわめて若い調査隊であった。その一員に当時理学部学生だった梅棹忠夫がいて、この調査隊の記録である今西錦司編著『ポナペ島―生態学的研究』の「第四部 紀行」の執筆を担当した。梅棹は最初の寄港地パラオの状況について、「現在の、国内の盛り上がる強烈な南進熱の反映でもあろう。今や、この事情は全面的に表面化して、パラオ全島は勿論のこと、内南洋〔日本の国際連盟・委任統治領の南洋諸島を指す〕全体には、『より南に!』、『赤道を越えて!』の声が、外南洋〔日本委任統治領より南方、ニューギニア、ジャワなどを指す〕を目指して滔々と渦まいているのであった」と書いている(408頁)。パラオのコロール島の「とある街角の黒い板塀にも、朱の破線で筆太に傍線を施した扇情的なポスターが、『若人よ、立て、蘭印〔オランダ領インドネシア〕の陽は招く!』と呼びかけている」(409-410頁)。こうしたパラオの「南進熱」の推進力となった真珠貝採取業について、梅棹は次のように書いている。

驚くべき小船を操って、アラフラ海に真珠〔貝〕を求めてゆく多数の潜水夫たちが根拠地としているのも、このパラオの地であることを忘れてはならない。これらの船は、一般にダイヴァー・ボートとよび慣わされているが、昭和11年〔1936年〕頃には全盛に達し、所謂、「ダイヴァー景気」を現出するに至り、今コロールの町にある料理屋やカフェーなどの、殆ど全部がその時にできたものであるという。思えば赤道をへだてて目と鼻の先に、暗黒の大陸ニューギニアが横たわっているのである。ダイヴァーたちがもたらすニューギニアの諸種の情報、そしてそのお土産の極楽鳥など、せまい内南洋から溢れかかっている日本人の血を、どうして刺激しないでおこうか。〔中略〕われわれの会った島民公学校〔現地民子弟用の初等学校〕の校長先生は、談たまたまニューギニアのことに及ぶや、烈々として、ニューギニア進駐を語り、それに対処すべき教育の理想を語るのであった。(409頁)

 1939年1月、南洋庁ヤップ支庁の離島サテワヌ島から約7年ぶりにパラオに戻った土方久功ひじかたひさかつ―後に南洋の民族誌研究者・彫刻家として高く評価されることになる――はパラオ(コロール島)の変わりようにびっくりしたが、その一つが「ダイバー船」の多さであった。土方は次のように書いている。

それからマラカルの港の中は大小の舟船が沢山もやって居り、ことにアラフラ海に出かけるダイバー船が、ある岩山のかげに、あっちこっちに何十となくつながれているのでした。(土方久功「僕のミクロネシア」243頁)

 これらに出てくる「ダイヴァー」(真珠貝採取潜水夫)や「ダイヴァー・ボート(ダイバー船)」は、「パラオ小唄」にも歌われていた。

島で暮らすならパラオ島におじゃれ

北はマリアナ、南はポナペ

浜の夜風に椰子の葉ゆれて

若いダイバ〔ダイヴァー〕の舟唄もれる

波のうねりに度胸がすわりゃ

海は故郷パラオの王者

アンカ〔アンカー〕おろしてランタンゆれて

帰るダイバは人気者

海で暮らすならダイバ船〔ダイヴァー・ボート〕にお乗り

男冥利に命を懸けて

サンゴ林に真珠とりするよ

ダイバ愛しや舟唄歌う

 この「パラオ小唄」は、敗戦後、宮城県蔵王町北原尾地区に再入植したパラオからの引揚者たちの間で伝承されてきたものである(斎藤由紀、335頁)。パラオにおける真珠貝採取業の繫栄をしのばせるものであろう。

 石川達三は今西錦司を団長とするポナペ島学術調査隊がパラオに着く10日ほど前に帰京したのだが、梅棹忠夫と同じようにパラオにおける真珠産業と「南進熱」についての記述を残している。石川の弟、石川伍平も真珠養殖を通して一種の「南進熱」をもっていたようである。

北にグアムがあり西にフィリピンがあり、東にはウエエキ〔ウエーク〕島がある。世界の動乱のうちにあって、南洋群島は緊張している。しかし彼〔石川伍平〕は内地に職を求めて帰ろうとは言わない。むしろ、真珠の養殖にパラオよりも好条件をそなえているセレベス〔スラウェシュ〕島を覘っているのであった。それは彼のみならず、この街の商人たちのすべてが、ジャワとボルネオとニューギニアとを覘っているのであった。南進論はここまで来てはじめて実感をもって考えられていた。(『赤虫島日誌』78頁)

 梅棹忠夫が書いているように、当時日本国民の間では「強烈な南進熱」が盛り上がっていたといえるのかもしれない。しかし、それは実際には多くの人々の生活から縁遠い、非現実的な「夢」のようなものに過ぎなかったのではないだろうか。その「南進熱」が、パラオのような南方では、人々の生活そのものに根差す「実感」を伴っていたと石川達三はいうのである。「パラオに住む人たちがひとしく眼をむけているのは、赤道以南の島々、ジャワでありニューギニアでありボルネオである。ここでは日本の南進政策が、個人個人のものであった。彼等の個人的な野心のひとつ一つが南進であった」。しかし、同時に、石川は「南進熱」の行き詰まりのようなものも看取していた。石川は「コロールには一種沈滞の空気がみなぎって」いるように感じた。その「一つの原因は国家的なものであった」。パラオの人たちの個人的野心の「はけ口を堅く閉ざしているものは現在の国際関係である」(『赤虫島日誌』119頁)。太平洋戦争勃発に先立つ、フランス領インドシナやオランダ領インドネシアにおける国際関係の緊張、それによって日本の南進政策が行き詰まり、パラオに「一種沈滞の空気」を生み出していると石川は感じ取ったのである。それに比べると、まだ学生であった梅棹忠夫のパラオにおける「南進熱」の観察はいささか一面的であったといえるであろう。

おわりに

 1941年12月8日、日本がアメリカ・イギリスに宣戦布告し、太平洋戦争が勃発すると、パラオの真珠産業は致命的な打撃を受けることとなった。パラオを根拠地とする日本の真珠貝採取船が、日本と交戦状態に入ったオーストラリアの西海岸やアラフラ海に出漁することは不可能になった。真珠貝採取業に雇用されていたオーストラリア在住の日本人潜水夫などはオーストラリア政府によって強制収容所に入れられ、戦争が終わるとそのほとんどが日本に強制送還された。パラオでの真珠養殖業はオーストラリアからの白蝶貝の輸入が途絶えたため、事業継続が困難になった。御木本真珠はすでに1940年にパラオでの真珠養殖業から撤退していたが、南洋真珠株式会社も1941年にパラオの真珠養殖場を閉鎖した。こうして、パラオの真珠産業は終焉を迎え、「パラオに住む人たち」の「個人的な野心」としての「南進熱」も雲散霧消したのである。その後に続いたのはアメリカ軍による激しい空襲や艦砲射撃であった。

参考文献

石川達三『赤虫島日誌』八雲書店、1943年。

今西錦司編著『ポナペ島――生態学的研究』彰考書院、1944年。

梅棹忠夫「第四部 紀行」、今西編著『ポナペ島―生態学的研究』所収。

斎藤由紀「第7章 歌がつなぐ過去といま―パラオ引揚者の暮らしが語りかけてくるもの」島村恭則編『叢書 戦争が生みだす社会Ⅱ 引揚者の戦後』新曜社、2013年、所収。

坂野徹『〈島〉の科学者――パラオ熱帯生物研究所と帝国日本の南洋研究』勁草書房、2019年。

司馬遼太郎「木曜島の夜会」『別冊文芸春秋』第137号、1976年9月号(司馬『木曜島の夜会』文春文庫、2011年、に収録。アラフラ海などで真珠貝採取ダイヴァーとして働いた紀州・熊野出身の人々からの聞き取りや司馬自身の木曜島訪問をもとにしたドキュメンタリー風の読みもの。その後半に出てくる「藤井富三郎」は「最後の真珠貝ダイヴァー、藤井富太郎」とほぼ重なる。なぜ本名を書かなかったのかはよく分からないが)。

土方久功「僕のミクロネシア」(初出、1974年)『土方久功著作集6』三一書房、1991年、所収。

山田篤美『真珠の世界史―富と野望の五千年』中公新書、2013年。

リンダ・マイリー(青木麻衣子他訳)『最後の真珠貝ダイヴァー 藤井富太郎』時事通信社、2016年。

(「世界史の眼」No.25)

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