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「世界史の眼」No.27(2022年6月)

今号では、小谷汪之さんに、3回連載予定の「土方久功と鳥見迅彦―「日本の中の世界史」の一コマとして―」の「(上)」をお寄せ頂きました。また、南塚信吾さんの連載「「万国史」における東ヨーロッパ I-(2) 明治期「万国史」における「東ヨーロッパ」(その2)」を掲載しています。南塚さんには、「文献紹介 向野正弘「酒井三郎の「世界史学」に基づく歴史教育構想―1950年代後半、『世界史の再建に先立つ見解』」『歴史教育史研究』第19号 歴史教育史研究会 2021年 23-37頁」も寄せて頂きました。

小谷汪之
土方久功と鳥見迅彦(上)―「日本の中の世界史」の一コマとして―

南塚信吾
「万国史」における東ヨーロッパ I-(2) 明治期「万国史」における「東ヨーロッパ」(その2)

南塚信吾
文献紹介 向野正弘「酒井三郎の「世界史学」に基づく歴史教育構想―1950年代後半、『世界史の再建に先立つ見解』」『歴史教育史研究』第19号 歴史教育史研究会 2021年 23-37頁

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土方久功と鳥見迅彦(上)―「日本の中の世界史」の一コマとして―
小谷汪之

はじめに

1 土方久功の戦中・戦後

 (1) 戦中の土方久功

 (2) 戦後の土方久功

 (以上、本号)

2 鳥見迅彦の戦中・戦後

 (1) 戦中の鳥見迅彦

 (2) 戦後の鳥見迅彦

 (以上、次号)

3 土方久功と鳥見迅彦の交点

おわりに

 (以上、次々号)

はじめに

 長い南洋滞在(1929-1942年)に基づく独特の木彫や詩文で知られる土方久功ひじかたひさかつ(1900-1977年)の詩文集『靑蜥蜴の夢』(大塔書店、1956年。自費出版)をある古本屋から購入したところ、扉に「鳥見迅彦様 土方久功」という署名があった(図版1)。土方が鳥見に献本したものが、鳥見の死後、古本市場に流れたのであろう。その時まで、私は鳥見迅彦とみはやひこ(1910-1990年)という人物について何も知らなかったのだが、土方の署名を見て、この人物に興味を持った。それで、土方と鳥見のそれぞれの人生の軌跡を辿ることによって、両者の交点がどこにあったのかを探ってみようと思った。そこに見えてきたのは、あの戦争の時代を生き抜いた人々の群像であり、まさに「日本の中の世界史」の一コマというべきものであった。

1 土方久功の戦中・戦後

(1) 戦中の土方久功

 土方久功は、1900年、東京に生まれた。父は明治の元勲、伯爵・土方久元(土佐藩出身)の弟で陸軍砲兵大佐の土方久路、母、初栄は海軍大将、柴山矢八の長女であった。築地小劇場の土方与志よし(本名、土方久敬ひさよし。1898-1959年)は土方久元の孫であるから、世代としては久功の方が一つ上だが、年齢は与志の方が上である。二人は年齢が近いこともあって、幼いころからの遊び仲間であった。

 1917年、土方久功は学習院中等科を卒業したが、父の病気(肺結核)による退役のため、家庭が困窮化し、学習院高等科には進学できなかった。しばらく父の看病をしていたが、1919年に学費の安い東京美術学校(東京芸術大学の前身)の彫刻科に入学した。しかし、その少し後、父が死去して、家庭の困窮はさらに深まった。1924年に東京美術学校彫刻科を卒業、この前後には築地小劇場の舞台装置の製作などに携わった。その後、母が死去し、土方久功の家は離散した。

 1929年3月、土方久功は当時日本の国際連盟委任統治領だった南洋諸島のパラオに渡り、南洋庁の嘱託になった。職務は公学校(現地民子弟用の初等学校)や小学校で木彫を教えることであった。しかし、翌1930年には南洋庁嘱託の職を辞して、パラオの民族誌的研究に専念するようになった。その土方の前に、蒲郡出身の宮大工で、パラオに移住していた杉浦佐助が現れ、土方に木彫の弟子にしてほしいと願い出た。杉浦はすでにパラオの言葉に精通していたので、土方は杉浦を助手がわりに受け入れることにした。二人はその後行動を共にし、パラオ諸島各地を回り歩いた。1931年11月、土方と杉浦は「文明」からより遠い地を求めて南洋庁ヤップ支庁東端の孤島、サテワヌ島に行き、この人口300人ほどの現地民だけの島で7年余りを過ごした。この間、土方はサテワヌ島民の民族誌的調査と木彫制作にいそしみ、杉浦は独特の幻想的な木彫の境地を切り開いた。

 土方がサテワヌ島に渡る2カ月ほど前の1931年9月18日には満洲事変が勃発し、天皇制日本は中国での破滅的な戦争へと突き進みだしていた。それが、1937年7月7日、盧溝橋事件をきっかけとして日中両国の全面戦争に展開した。しかし、サテワヌ島での7年ほどの暮らしの中で、土方が日中戦争に関心を寄せることはほとんどなかったようである。

 1939年1月、土方久功と杉浦佐助はサテワヌ島を去って、パラオに戻り、同年4月には一時的に帰国した。杉浦の木彫の個展と土方の南洋蒐集品の展示会を開くのが目的であった。6月6日、土方は杉浦の個展目録に推薦文を書いてもらうために同人誌『炬火』のかつての同人仲間である倉橋弥一と一緒に文京区団子坂の高村光太郎宅を訪れた(『土方久功日記Ⅴ』国立民族学博物館、2014年、59頁)。土方が高村と会うのはこれが初めてであった。

 1939年6月21日から24日まで、銀座の三昧堂ギャラリーで杉浦佐助の個展が開かれた。土方久功も数点の木彫を出品した。22日には、高村光太郎が参観に来た(ただし、土方は不在で高村と会うことができなかった。同前、62頁)。この杉浦の個展は、高村が「此はあの南洋の土地からでなければとても生まれないと思はれる原始人の審美と幻想とに満ちた、恐るべき芸術的巨弾である」と激賞し、朝日新聞など各紙が批評を掲載するなどして、大きな反響を呼んだ(岡谷公二『南海漂泊 土方久功伝』河出書房新社、1990年、138-139頁)。蛙の詩人、草野心平はこの個展で杉浦の怪異な蛙の像を購入し、愛蔵した(図版2)。

 他方、土方久功の蒐集品は、1939年6月24日、「土方久功氏蒐集南洋土俗品展」として京橋の南洋群島文化協会東京出張事務所で展示された。同年7月8日には、同じ内容の展示会が東京帝国大学理学部で開催された。土方が、パラオで考古学的調査を行っていた東京帝国大学理学部人類学科講師の八幡一郎を介して、同科主任教授の長谷部言人や副手の杉浦健一と知り合ったことから、この展示会が開かれることになったのである(岡谷『南海漂泊』、147-148頁)。その後、この展示会の展示物はすべて人類学科に売却された。

 1939年8月2日、東京での仕事を終えた土方は、杉浦とは別れて、単身パラオに戻った。その後、杉浦も離日したが、パラオには戻らず、サイパン島などいくつかの島々を経て、テニヤン島に落ち着いた。その後、土方と杉浦が再会することはなかった(杉浦は1944年、米軍占領下のテニヤン島で死去した)。

 1941年7月7日、後に作家となる中島敦が「南洋庁編修書記」として、パラオに赴任した。土方も再び南洋庁の嘱託になっていたから、二人は知り合い、急速に親交を深めた(土方久功と中島敦の関わりについて、詳しくは拙著『中島敦の朝鮮と南洋』岩波書店、2019年、を参照)。しかし、同年12月8日、日本がアメリカ・イギリスに宣戦布告し、太平洋戦争がはじまると、パラオはしだいに軍事的緊張に覆われるようになっていった。

 1942年3月4日、軍事色一色になったパラオに幻滅した土方久功は中島敦と共にパラオを去り、17日東京に帰着した。

 1942年9月18日、土方久功は東京美術学校の後輩で画家の後藤禎二の紹介により、医師の川名敬子と結婚した。結婚式には中島敦も出席している。中島は『光と風と夢』、『南島譚』と相次いで二冊の本を刊行した後、1942年12月4日、激しい喘息の発作により急死した。土方は中島敦の死を長く悼み続けた。

 しかし、戦局は太平洋戦争の最前線になる危険性が強かったパラオから帰京した土方久功の身にも直接に影響を及ぼしてきた。中島敦の死後まもなく、土方は陸軍軍属として北ボルネオに派遣された。英領北ボルネオを占領・支配した北ボルネオ守備軍司令部の司政官に任命されたからである。北ボルネオ守備軍司令部はボルネオ島北西端のクチンに置かれていた。土方の北ボルネオ派遣には、太平洋協会が深く関与していた。太平洋協会は1938年に鶴見祐輔(鶴見俊輔の父)を中心として設立された国策調査機関で、南北アメリカ大陸や太平洋地域を調査対象とした。その一環として、北ボルネオ守備軍のもとで北ボルネオの占領地調査を行っていた。太平洋協会には土方旧知の人類学者、清野謙次や杉浦健一なども加わっていたから、土方の長い南洋体験を占領行政に利用することが考えられたのであろう。土方としては不本意なことだったに違いないが、拒否することもできず、陸軍軍属として急遽北ボルネオのクチンに赴任せざるをえなかったのである。

 1943年3月、土方は北ボルネオ守備軍司令官の一行に加わり、1カ月ほどかけて、ボルネオ島北岸のブルネイ、サンダカンなどの現地調査を行った。しかし、その後、パラオ滞在中から苦しんでいた胃潰瘍がさらに悪化して、調査旅行がむずかしくなった。結局、土方は1943年6月末には、昭南(シンガポール)の病院に入院、9月末には香港の陸軍病院に転院した。戦局がさらに悪化した1944年3月、土方は胃潰瘍が治癒しないまま香港の陸軍病院を退院させられ、帰国した。

 この時代、土方久功のみならず、数多くの文学者や人文学者たちが軍に徴用され、中国大陸や東南アジア各地に司政官などとして派遣された。彼らの戦争体験が戦後日本の文化状況にどのような影響を与えたのかは今なお問われてよい問題だと思う。

 1944年9月、土方夫妻は岐阜県可児郡土田村に疎開した。萱場製作所岐阜工場長をしていた土方久功の母方の叔父、柴山昌生を頼っての疎開であった。しかし、土方の体調は依然として回復せず、木彫の仕事などはできなかった。わずかに、自給用の蔬菜を栽培するぐらいで、生計は医師としての妻、敬子に頼る面が強かったと思われる。

 1945年8月15日、土方久功は「終戦」の詔勅を土田村で聴いた。格別の感慨はなかったようである。

(2) 戦後の土方久功

 敗戦後二年半ほど経った1948年3月、土方夫妻は約三年半ぶりに疎開先から帰京した。妻、敬子は世田谷区豪徳寺に医院を開設し、久功はその後ろにアトリエを建てて、木彫などの仕事を開始した。現在、日本に残る土方久功の木彫の大部分はこの後の制作によるものである。

 疎開中、民族学や彫刻や詩などについて語り合う相手がなく、孤独感を強めていた土方久功は、東京に帰ると、東京美術学校の同窓生や『炬火』の旧同人など多くの人たちとさかんに交遊するようになった。その一つに「耳の会」があった。「耳の会」は1948年に草野心平と松方三郎が始めた集まりで、土方は1951年に松方三郎に誘われて参加するようになった。松方は学習院中等科で土方より一学年上であった。この「耳の会」を通して、土方は詩人、画家などとの交友関係を広げていったが、なかでもフランス文学者、宇佐美英治とは親交を深めた(「耳の会」について、詳しくは後述)。

 1951年4月、土方久功は第一回個展を日本橋の丸善画廊で開催したが、大きな反響を呼ぶことはなかった。そのためであろう、土方は第二回個展を開く際には事前にいろいろと準備をしたようである。1953年1月17日(土)、土方は東京美術学校の同期生で彫刻家の村田勝四郎と共に、高村光太郎の中野のアトリエを訪問した。個展を見に来てくれるよう頼んだのであろう。高村の日記には、「村田勝四郎氏、土方久功氏くる、丸善に月曜午后ゆき陳列を見て何か書くこと約束」という記載がある(『高村光太郎全集 第十三巻』増補版、筑摩書房、1995年、172頁)。この時、高村は、敗戦後間もない1945年10月から1952年10月まで7年間続いた岩手県稗貫郡太田村山口における山小屋生活を切り上げて、東京に戻ってきたばかりであった。戦時中、高村は国民の戦意高揚を図るような詩を多く書き、「大東亜戦争」に深くかかわった。そのことが何らかの形で岩手の山中の独居生活と関わっているのであろうが、十和田湖畔に彫像を建てたいという青森県知事津島文治(太宰治の兄)の要請にこたえるために帰京したのである。

 1953年1月18日(日)、土方久功の第二回個展が日本橋、丸善画廊で開かれた。この日の午前中には、宇佐美英治が会場に来て、陳列など会場設営に協力した。宇佐美によれば、高村光太郎が午後になっても姿を見せないので、土方はやきもきして、「おかしいな、忘れられたんだろうか、確かに来るといっておられたのだが」と何度も繰り返していたという(宇佐美「土方久功の彫刻」『同時代』34号〈特集土方久功〉、1979年8月、136頁)。ただ、これは高村が「月曜午后」に行くといったのを土方が聞き間違えたのであろう。高村の日記には、1953年1月19日(月)、「二時出かけ丸善の土方久功氏てんらん曾、紹介文をかき同氏に渡す」という記載がある(『高村光太郎全集 第十三巻』、173頁)。この「紹介文」は21日の朝日新聞朝刊の学芸欄の真中に、三段抜きで、土方の作品の写真と共に掲載され、大きな反響を呼んだ(岡谷公二『南海漂泊』、144-145頁)。

 1953年1月27日、土方久功は高村光太郎のアトリエを訪ねた。高村の日記には、「土方久功氏くる、ビール一(ダース)もらう、一緒にビールをのみ雑談」という記載がある(『高村光太郎全集 第十三巻』、174頁)。個展を観にきて、「紹介文」を書いてくれたことに対するお礼であろう。

 1953年9月、土方久功は『文化の果にて』を龍星閣の「限定版叢書』(限定1000部)の一冊として刊行した。この著書の「序」は高村光太郎が朝日新聞に載せた土方の個展の「紹介文」である。その冒頭には、「土方久功氏の原始美。しかし、これをただの原始美といってしまうわけにはゆかない。この原始芸術の姿を以てわれわれの前に並べられている十余点の彫刻は、相当目を驚かす類の怪奇さを示してわれわれに迫ってくるが、よく見ていると、その怪奇さを怪奇と感じさせない芸術のデリカシーがあってわれわれをたのしく誘いみちびく。妙に心ひかれる」と書かれている(図版3)。『文化の果にて』の出版元である龍星閣は秋田出身の澤田伊四郎が設立した出版社で、渋る高村光太郎を押し切って、最初に『智恵子抄』(1941年)を出版し、ベストセラーにしたことで知られる。土方の個展に感動した高村が龍星閣の澤田伊四郎に『文化の果にて』の刊行を慫慂し、自分の書いた「紹介文」を「序」に使うことを勧めたのであろう。多分、それに対するお礼であろう、土方は9月5日に高村のアトリエを訪ねたが、不在で会えなかったので、ビール6本を置いて帰った(『高村光太郎全集 第十三巻』、221頁)。9月9日には、土方は澤田伊四郎と一緒に改めて高村のアトリエを訪問した(同、222頁)。

 1955年9月、土方久功は詩集『非詩集ボロ』を大塔書店から「自家版」として出した。この詩集に収録されている詩は帰京後に書かれたもので、南洋体験とは直接的関係はない。9月14日、土方は高村光太郎のアトリエを訪れ、『非詩集ボロ』を献呈した。高村の日記には、「后土方久功氏くる、詩集をもらふ、出版資金カンパのため100圓呈」という記載がある(『高村光太郎全集 第十三巻』、373頁)。

 1956年6月、土方久功は詩文集『靑蜥蜴の夢』を大塔書店から「自家版」として出版した。『靑蜥蜴の夢』の前半には、土方が『文化の果にて』に書いた二つの文章、「靑蜥蜴の夢」、「ガルミズ行」が再録されている。いずれもパラオ(コロール島)における生活を描いたものであるが、「靑蜥蜴の夢」はサテワヌ島に行く前のパラオ、「ガルミズ行」は7年余りのサテワアヌ島滞在を切り上げて、戻ってきた後のパラオを描いたものである。後者には、7年余りの間に日本の軍事基地化したパラオ(コロール島)の激変に対する土方の幻滅あるいは悲哀が色濃くただよっている。土方が龍星閣から出版した『文化の果にて』にすでに収録されている二つの文章を「自家版」の詩文集に再録したのは、この二つの文章に土方のパラオに対する思いが詰まっているからであろう。

 この年(1956年)、鳥見迅彦は詩集『けものみち』(昭森社、1955年)でH氏賞を受賞した。このことを知って、土方久功は同年に刊行した『靑蜥蜴の夢』を鳥見に献本することにしたのであろう。その土方の署名入りの本が、鳥見の死後、古本市場に流れて、最終的に私の手元に流れ着いたのである。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.27)

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「万国史」における東ヨーロッパ I-(2)
明治期「万国史」における「東ヨーロッパ」(その2)
南塚信吾

Ⅰ パーレイ的「万国史」の中で:明治初期の文部省教科書

2. 文部省『史略』文部省 明治5年(1872年)と師範学校編輯『万国史略』文部省 明治7年(1874年)

 1872年(明治5年)に学制が発足した時、すでにあった寺内章明『五洲紀事』と西村茂樹『万国史略』が、とりあえず小学校の教科書とされた。しかし、よりコンパクトな教科書が必要であった。それに合わせて文部省が編纂したのが『史略』明治5年(1872年)(『日本教科書体系』第18巻 講談社に所収)である。地理学者内田正雄の筆による。『史略』は、巻の一が日本(皇国)、巻の二が支那、巻の三と四が西洋の歴史であった。日本史の巻は天皇歴代史で、中国史は王朝史であって、ページ数も少なく、天皇・皇帝の事績を並べただけで、歴史というほどの記述にはなっていなかった(「歴史」という用語は使ってはいたが)。「西洋史」のほうは上下二巻になって、これは、ページ数も多く、文章として歴史記述になっていた。本書は、「人の始めは国々の説異同ありていずれとも定め難し」として、「大洪水」と「ノア」から始めていた。「大洪水」以前の聖書的な見方は脱していたわけである。その上で、上古、中古、近世を区分していた。上古は紀元500年ごろまで、中古はそれ以後1500年まで、近世をそれ以後今日(明治)にいたるまでとしていたが、実際には、中古と近世の区別はせずに、中古以下各国の歴史を並列して論じていた。構成は以下のように、パーレイ的に各国史を並記したものであった。

史略

上古

 アッシリア、バビロニア、フェニシア、ユダヤ、ペルシア、ギリシア、ローマ

中古以来

 仏蘭西、英吉利、独逸・墺太利・普魯士、西班牙・葡萄牙、和蘭、比耳時、瑞西、嗹國・瑞典、魯西亞、以太利、土耳其(附希臘)、亜米利加

 2年後、この『史略』のなかの西洋史と東洋史の部分を独立させ、それを詳しくして、師範学校編輯『万国史略』明治7年(1874年)(『日本教科書体系』第18巻 講談社に所収)が出版された。大槻文彦〔宮城師範学校長となった〕の「序文」によれば、「万国史」は「世界中の国々の歴史」という意味であるが、日本の歴史は別に論ずるので、この中には入れない。西洋史については、すでに文部省から出版された「概略の歴史」(『史略』のこと)があるので、それを増減したという。つまり、この「万国史」は「日本史以外の外国史」を網羅しようとするものであった。ここに、便宜的とはいえ、日本史と「万国史」を二本立てで考える方式が登場したのである。

 その構成を見ると、下のようであった。

《巻の一》

亜細亜洲―漢土、印度、波斯、亜細亜土皃其(トルコ)

欧羅巴洲上―希臘、羅馬皃

《巻の二》

欧羅巴洲下―「人民の移転」、仏蘭西、英吉利、独逸、墺地利、普魯士、瑞西、和蘭、比耳時、嗹馬、瑞典、那威、西班牙、葡萄牙、伊太利、土耳古、露西亜

亜米利加州―「発見殖民」と合衆国

 『万国史略』は、『史略』を踏襲していて、それと同じく、万国の歴史を網羅していた。それぞれの国について、歴史をタテに述べるという方式であった。パーレイの影響が見える。だが、アフリカとオセアニアは削除されている。それに、「人民の移転」(諸民族の大移動)と「発見殖民」が独立の項で扱われるようになった点が『史略』と違うところである。

 人類の起源については、『史略』は大洪水から始めていたが、『万国史略』は少し妥協的で、亜細亜土皃其(トルコ)の節において、「西洋ノ説」によれば、ユーフラテス川のそばにアダムとイブが初めて「化生」し、人類の起源となったと言われると記していて、聖書を全面的には取り入れていないが、一応の配慮はしていたようである。

 さて、『史略』と『万国史略』では、ヨーロッパの東部をどのように扱っていたであろうか。『五洲紀事』と同じく、ここでも、ギリシア、ハンガリー、ポーランドのみが扱われていた。

≪ハンガリー≫

 ハンガリーは、『史略』では、『五洲紀事』のように独立の項目にはなっていなかったが、独逸・墺太利・普魯士の節と土耳其の節においていろいろな脈絡で述べられていた。主なものは、①「独逸」が10世紀に「ヘヌリ」(ハインリッヒ一世)の時に「ハンガリー」から邊境を侵す者を打破ったこと、②「オットマン」国が「バジヤシスト」一世のときに「ハンガリヤ」に侵入し、ホンガリー王が仏独の兵と連合してこれを防いだこと、③1520年代の「ソリマン」(スレイマン)二世のときに「ハンガリー」を攻略して属国としたこと、④「ハプスブルグ」の墺太利が1500年代から「ボヘミヤ」「ホンガリー」を領地に帰させて大国となったこと、⑤17世紀末の墺太利の「レヲポルド」帝の時「ハンガリー」の人民が乱を起して、土耳其がこれに乗じて「ウィーンナ」を包囲したがこれを退け、「ハンガリー」を平定したことなどである。

 オスマン帝国がハンガリーとの関係で位置づけられていることが注目される。このうち②はバヤジットのブルガリア攻撃のことと誤っていると思われるが、その他はいずれもハンガリー史にとって重要な史実であった。その論じ方は「王朝史」であったが、『五洲紀事』より正確な歴史になっている。『五洲紀事』にあるような匈奴の子孫という人種的な観点はなかった。ここで気になるのは。「人民」という言葉であるが、この時期の「万国史」では、「国民」と並んで「人民」が使われていて、その「人民」は広く人間という意味でも、民衆という意味でも使われていた。

 以上は『史略』の記述であるが、ハンガリーの扱いは『万国史略』でもまったく同じであった。

≪ギリシア≫

 『史略』では、土耳其史が系統的に述べられていて、その中で希臘の独立も扱われていた。ギリシアの独立についての記述を見てみよう。

「希臘は東羅馬の衰退後、久しく土耳其の版図に期せしが、其の苛酷の政令に耐えず、千八百二十一年より終に兵を挙げて土耳其に抵抗し、数年間死力を盡して血戦せしと雖も、衆寡敵せず、殆んど土耳其の為に圧服せられんとす。然るに英国仏国魯国等より兵を出し、千八百二十八年大いに「ナバリノ」に於いて土耳其の海軍を討破り、其翌年「モレヤ」の地独立して希臘国と号を初め、「カポジストリヤ」大頭領に任せしなり。」(『日本教科書体系』第18巻 54頁)

 ギリシアの独立は当時の日本では注目されていた出来事であった。この記述は『五洲紀事』のそれとほぼ同じである。記述は今日から見てもほぼ正確である。ただギリシアは1829年に「独立」したのではなく、自治国となったということは、正確には押さえられていない。だが、他は正確である。また「カポジストリヤ」(カポディストリアス )大頭領への言及が新しいところである。すでに「独立」、「大頭領」(大統領)という用語が出ていることに注目しておきたい。『万国史略』もこれと同じ内容であった。 

≪ポーランド≫

 『史略』では、ポーランドについては、独逸・墺太利・普魯士の項で、「1795年、墺普の両国、魯西亜と共に波蘭国を亡ぼし、之を三分して、各領地を増せり」(41頁)とされ、魯西亜の項の中では、「波蘭国を亡ぼし、普魯士、墺地利と之を分ち領す」(50頁)と出てくるだけである。波蘭の側での抵抗のことも指摘はなく、諸王の偉業として扱われている。当時の日本ではポーランド分割への関心は高いはずであるが、意外にあっさりとしている。『五洲紀事』にあった「人民」「国人」の目線がなくなっている。『万国史略』もこれと同じ内容であった。

 以上のように、『史略』と『万国史略』においても『五洲紀事』と同じく、ヨーロッパ東部のうちでは、ギリシア、ハンガリー、ポーランドが関心の対象であった。それはアメリカのパーレイに倣ったものであろうが、日本としても国家の独立と分割に対する関心が、これらの国への関心となっていた。だが、寺内の『五洲紀事』と比べて、いわば「権力的」な見方をしていた感がある。また、仏蘭西の「大騒乱」とナポレオンの戦役、1848年の「動乱」の記述はあるが、それとの関係で、ヨーロッパの東部が論じられることはなかった。なお、『五洲紀事』では「革命」が使われていたが、ここでは「騒乱」や「動乱」である。まだ用語は確定していなかった。

3. 田中義廉『万国史略』甲府書林 明治8年(1875年)   

 師範学校の創建者として知られ、文部省の教科書編集に携わった洋学者田中義廉の書いた『万国史略』明治8年(1875年)(『日本教科書体系』第18巻 講談社に所収)は、小学生用の準教科書である。文部省刊ではないが、文部省において西村茂樹のもとで働いていた田中の編のものであるから、教科書に準じた意味があったものと思われる。そして、日本と「支那」は別にするので、本書にはこれを含めないという方針で書かれている。

 本書も亜當(アダム)と厄襪(エブ)から始め、聖書的要素を残していたが、創世記は半頁で片付けていた。それでも『史略』や『万国史略』よりは聖書的であった。構成は以下のようであった。

巻の一 太古史

 亜西里亜(アッシリア)、馬太(メディ)、新亜西里亜、巴比羅尼亜(バビロニア)、猶太(シュダー)、勿搦齊亜(フェニシア)、亜剌比亜(アラビア)、波斯(ペルシア)、亜細亜土耳其、希臘(ギリシア)、羅馬(ローマ)、羅馬尼(ロマニイ)

巻の二 伊太利、仏蘭西、

巻の三 西班牙、葡萄牙、日爾曼(ゼルマン)、孛魯士、和蘭、比利時、瑞西

巻の四 英吉(イギリス)、嗹馬(デンマーク)・瑞典(スウェーデン)・那爾威(ノルウエイ)

巻の五 魯西亜、土耳其、米利堅聯邦

 見られるように、師範学校編『万国史略』と比べた場合、中国やインドは抜けているが、同じような各国史の並列になっている。これはパーレイから内容を取って編集したとされている。ヨーロッパは各国史的に詳しく論じられていた。その中でヨーロパの東部に関連して論じられているのは、ギリシア、ハンガリー、ポーランドであったが、ここではルーマニアが出てきている。

 まずギリシアについてみると、『五洲紀事』や『万国史略』と同じく、古代から始まる希臘の節の終わりにギリシアの独立が論じられている。内容は、独立までは従来と同じであるが、本書では、独立以後のギリシアの動きもが論じられている。1832年にバイエルンよりオットー(オソン)一世を迎えて「独立」したが、この王は「不徳」にして「人望」を失い、1860年(1862年の誤り)、「國人」はこれを廃してデンマークより王(ゲオルギオス一世)を迎えた。その後ギリシアは盛んになったという(『日本教科書体系』第18巻 171頁)。「國人」の目線から歴史が見られているということができる。

 つぎに、ルーマニアが登場する。羅馬の節の次に、羅馬尼(ロマニイ)が論じられていた。『五洲紀事』や『万国史略』にはない記述である。曰く、西と東の羅馬の滅亡のあとその「人民」が多悩(ダニューブ)河の辺に移ったが、土耳其の苛政に苦しんできた。それがようやく1860年ごろから「國人」力を合わせて「独立」を謀り、公国となり「羅馬尼(ロマニイ)」と称した。しかし、土耳其の覊軛を免れず、公位についた歴山の元でも6年間政令が整わず、内乱が起きて、このたびドイツから新たに公を迎えた。それが今の迦爾(カール)一世である(同上 179頁)。ルーマニア人がローマの末裔であるというのは、ストレートすぎる理解ではあるが、早くもこの時期にドナウ川の辺まで関心が届いていたことは特記すべきである。ここでも「國人」の目線から書かれている。

 三つ目にハンガリーを見よう。これも『五洲紀事』や『万国史略』と同じく、日爾曼(ゼルマン)と土耳其の節で述べられていた。扱われているのは、ほぼ同じ内容で、①919年に王位に就いた「顕理」(ハインリッヒ一世)が英邁果断で「洪牙利」を打破ったこと、②教法改革(宗教改革)で日爾曼の南部が騒擾している時に、所利曼(スレイマン)二世の土耳其が大挙して洪牙利を蚕食し、墺太利に侵入し、1529年、維也納(ウイーン)を囲むに至ったこと、③17世紀末の墺太利の「略波爾」(レオポルト一世)帝の時、1683年に、土耳其が洪牙利人を誘い、墺太利を攻めてまた「維也納」を包囲したが、墺太利はザクセン、バイエルン、ポーランドの兵の助けを得て、これを退けたことなどである。

 しかし、『五洲紀事』や『万国史略』にあった、「ハプスブルグ」の墺太利が1500年代から「ボヘミヤ」「ホンガリー」を領地に帰させて大国となったこと、土耳其の二回目の攻撃の際、「ハンガリー」の人民が乱を起して、土耳其がこれに乗じたということ、第二次包囲を退けたのち、オーストリアが「ハンガリー」を平定したことなどは、記されていなかった(同上 208,210,244,245頁)。なおハンガリーの記述では「國人」の目線は貫かれていない。

 最後に、ポーランドはどうか。墺太利と孛魯士と魯西亜のところで、三国で「波蘭ヲ滅ボシテ、其地ヲ三分セリ」と出て来る。しかし、ポーランド人の抵抗の事などは触れられることはなかった(同上 211,212,241頁)。ここでも「國人」の目線は貫かれていない。

 仏蘭西の「大騒乱」とナポレオンの戦役、1848年の「動乱」について、『史略』や『万国史略』以上に記述は詳しくなり、とくにナポレオンと1848年に関しては、充実した記述となっているが、それとの関係で、ヨーロッパの東部(チェコやハンガリーやルーマニアなど)が論じられることはなかった。

 こうした違いや「國人」目線が散見されるという違いはあるとはいえ、基本的には『五洲紀事』や『万国史略』と同じようにパーレイを底本にした教科書であった。各国併記であり、視線も王朝荒廃や治乱興亡を主としていた。面白いことに、パーレイの本自体はまだ完訳が出ていなかった。それは次の時期になる。

(続く)

(「世界史の眼」No.27)

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文献紹介 向野正弘「酒井三郎の「世界史学」に基づく歴史教育構想―1950年代後半、『世界史の再建に先立つ見解』」『歴史教育史研究』第19号 歴史教育史研究会 2021年 23-37頁
南塚信吾

 本稿は、1950-60年代に世界史について独特の議論を展開した酒井三郎の「世界史学」の研究のための予備論文である。上越教育大学の茨木智志の主催する『歴史教育史研究』は世界史を含めた歴史教育について地道な研究を発表しており、本論文はそのようなものの一つである。

 本稿で扱われる酒井三郎は、1901年(明治34年)に高知県に生まれ、東北帝国大学で西洋史を専攻して卒業後、東京帝国大学の大学院で学んだ。修了後、日本大学、日本女子大学で教えたのち、高知の追手前高校の校長を務め、1951年に熊本大学教授となった。1968年に定年退職したのち、立正大学に76年まで務め、1982年に亡くなっている。この間、『国家の興亡と歴史家』(弘文堂書房、1943年)、『世界史の再建』(吉川弘文館、1958年)、『ジャン・ジャック・ルソーの史学史的研究』(山川出版社、1960年)、『日本西洋史学発達史』(吉川弘文館、1969年)、『啓蒙期の歴史学』(日本出版サービス、1981年)などを出している。

 向野正弘の論文は、

  1. 酒井三郎の「世界史」認識をめぐって
  2. 酒井三郎の歴史教育に対する覚悟
  3. 戦後の社会科「世界史」の回顧と現状認識
  4. 「世界史学」について
  5. 現在ならびに未来の取り扱い
  6. 「世界史学」から見た歴史教育構想
  7. 歴史教育の大綱試案
  8. 酒井三郎の隘路
  9. 現代の「世界史」教育への示唆

という構成を取っている。

 個々の節の内容は紹介する必要はないだろうが、この中で、とくに紹介しておきたいのは、「世界史学」という概念であろう。酒井は、「日本史に対立するところの外国史の同義語である世界史」、つまり「東洋史プラス西洋史すなわち世界史」という規定を排する。ではどうするか。向野によれば、酒井は、網羅主義の世界史にたいして、「世界史学」に基づく「世界史」を提起しているという。酒井の言葉によれば、「世界史学とは世界を対象とした歴史学」であり、「世界に住まう人間の社会生活の発展を対象とするもの」だという。「世界史学」は、「いわゆる日本史・東洋史・西洋史のたんなる綜合ではない。かつて行われた万国史ではない」。日本史・東洋史・西洋史の「それぞれの歴史の発展の共通な面をとりあげて、世界の共通の史的問題をとりあつかう」のである。だから、「日本史のある断面は、西洋史的問題としてじゅうぶんに意味をもつものであり、東洋史・西洋史においてもまた同様である。かくして日本史即世界史であり、東洋史・西洋史それぞれすなわち世界史でありうるといった世界史史学」を考えているという。だから、酒井は、日本世界史・西洋世界史といういい方もできるのだという。

 われわれが考える「日本の中の世界史・世界史の中の日本」という考え方に通じるのかもしれない。また何らかのテーマをもって地球上の諸国を「通地域・通国家的」に考えるという方向を考えていたのかもしれない。

 河野は、酒井の「世界史学」という概念は史学史のなかでなお確認しなければならないと注記しているが、概念は別としても、酒井が具体的にどういう歴史を考えていたのかは、興味のあるところである。酒井の『世界史の再建』においては、教育体制と教科書を材料にもう少し具体化されているようだが、向野がどのような理解をしめすのか、是非とも知りたいところである。

(「世界史の眼」No.27)

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