Ⅰ パーレイ的「万国史」の中で:明治初期の文部省教科書
2. 文部省『史略』文部省 明治5年(1872年)と師範学校編輯『万国史略』文部省 明治7年(1874年)
1872年(明治5年)に学制が発足した時、すでにあった寺内章明『五洲紀事』と西村茂樹『万国史略』が、とりあえず小学校の教科書とされた。しかし、よりコンパクトな教科書が必要であった。それに合わせて文部省が編纂したのが『史略』明治5年(1872年)(『日本教科書体系』第18巻 講談社に所収)である。地理学者内田正雄の筆による。『史略』は、巻の一が日本(皇国)、巻の二が支那、巻の三と四が西洋の歴史であった。日本史の巻は天皇歴代史で、中国史は王朝史であって、ページ数も少なく、天皇・皇帝の事績を並べただけで、歴史というほどの記述にはなっていなかった(「歴史」という用語は使ってはいたが)。「西洋史」のほうは上下二巻になって、これは、ページ数も多く、文章として歴史記述になっていた。本書は、「人の始めは国々の説異同ありていずれとも定め難し」として、「大洪水」と「ノア」から始めていた。「大洪水」以前の聖書的な見方は脱していたわけである。その上で、上古、中古、近世を区分していた。上古は紀元500年ごろまで、中古はそれ以後1500年まで、近世をそれ以後今日(明治)にいたるまでとしていたが、実際には、中古と近世の区別はせずに、中古以下各国の歴史を並列して論じていた。構成は以下のように、パーレイ的に各国史を並記したものであった。
上古
アッシリア、バビロニア、フェニシア、ユダヤ、ペルシア、ギリシア、ローマ
中古以来
仏蘭西、英吉利、独逸・墺太利・普魯士、西班牙・葡萄牙、和蘭、比耳時、瑞西、嗹國・瑞典、魯西亞、以太利、土耳其(附希臘)、亜米利加
2年後、この『史略』のなかの西洋史と東洋史の部分を独立させ、それを詳しくして、師範学校編輯『万国史略』明治7年(1874年)(『日本教科書体系』第18巻 講談社に所収)が出版された。大槻文彦〔宮城師範学校長となった〕の「序文」によれば、「万国史」は「世界中の国々の歴史」という意味であるが、日本の歴史は別に論ずるので、この中には入れない。西洋史については、すでに文部省から出版された「概略の歴史」(『史略』のこと)があるので、それを増減したという。つまり、この「万国史」は「日本史以外の外国史」を網羅しようとするものであった。ここに、便宜的とはいえ、日本史と「万国史」を二本立てで考える方式が登場したのである。
その構成を見ると、下のようであった。
《巻の一》
亜細亜洲―漢土、印度、波斯、亜細亜土皃其(トルコ)
欧羅巴洲上―希臘、羅馬皃
《巻の二》
欧羅巴洲下―「人民の移転」、仏蘭西、英吉利、独逸、墺地利、普魯士、瑞西、和蘭、比耳時、嗹馬、瑞典、那威、西班牙、葡萄牙、伊太利、土耳古、露西亜
亜米利加州―「発見殖民」と合衆国
『万国史略』は、『史略』を踏襲していて、それと同じく、万国の歴史を網羅していた。それぞれの国について、歴史をタテに述べるという方式であった。パーレイの影響が見える。だが、アフリカとオセアニアは削除されている。それに、「人民の移転」(諸民族の大移動)と「発見殖民」が独立の項で扱われるようになった点が『史略』と違うところである。
人類の起源については、『史略』は大洪水から始めていたが、『万国史略』は少し妥協的で、亜細亜土皃其(トルコ)の節において、「西洋ノ説」によれば、ユーフラテス川のそばにアダムとイブが初めて「化生」し、人類の起源となったと言われると記していて、聖書を全面的には取り入れていないが、一応の配慮はしていたようである。
さて、『史略』と『万国史略』では、ヨーロッパの東部をどのように扱っていたであろうか。『五洲紀事』と同じく、ここでも、ギリシア、ハンガリー、ポーランドのみが扱われていた。
≪ハンガリー≫
ハンガリーは、『史略』では、『五洲紀事』のように独立の項目にはなっていなかったが、独逸・墺太利・普魯士の節と土耳其の節においていろいろな脈絡で述べられていた。主なものは、①「独逸」が10世紀に「ヘヌリ」(ハインリッヒ一世)の時に「ハンガリー」から邊境を侵す者を打破ったこと、②「オットマン」国が「バジヤシスト」一世のときに「ハンガリヤ」に侵入し、ホンガリー王が仏独の兵と連合してこれを防いだこと、③1520年代の「ソリマン」(スレイマン)二世のときに「ハンガリー」を攻略して属国としたこと、④「ハプスブルグ」の墺太利が1500年代から「ボヘミヤ」「ホンガリー」を領地に帰させて大国となったこと、⑤17世紀末の墺太利の「レヲポルド」帝の時「ハンガリー」の人民が乱を起して、土耳其がこれに乗じて「ウィーンナ」を包囲したがこれを退け、「ハンガリー」を平定したことなどである。
オスマン帝国がハンガリーとの関係で位置づけられていることが注目される。このうち②はバヤジットのブルガリア攻撃のことと誤っていると思われるが、その他はいずれもハンガリー史にとって重要な史実であった。その論じ方は「王朝史」であったが、『五洲紀事』より正確な歴史になっている。『五洲紀事』にあるような匈奴の子孫という人種的な観点はなかった。ここで気になるのは。「人民」という言葉であるが、この時期の「万国史」では、「国民」と並んで「人民」が使われていて、その「人民」は広く人間という意味でも、民衆という意味でも使われていた。
以上は『史略』の記述であるが、ハンガリーの扱いは『万国史略』でもまったく同じであった。
≪ギリシア≫
『史略』では、土耳其史が系統的に述べられていて、その中で希臘の独立も扱われていた。ギリシアの独立についての記述を見てみよう。
「希臘は東羅馬の衰退後、久しく土耳其の版図に期せしが、其の苛酷の政令に耐えず、千八百二十一年より終に兵を挙げて土耳其に抵抗し、数年間死力を盡して血戦せしと雖も、衆寡敵せず、殆んど土耳其の為に圧服せられんとす。然るに英国仏国魯国等より兵を出し、千八百二十八年大いに「ナバリノ」に於いて土耳其の海軍を討破り、其翌年「モレヤ」の地独立して希臘国と号を初め、「カポジストリヤ」大頭領に任せしなり。」(『日本教科書体系』第18巻 54頁)
ギリシアの独立は当時の日本では注目されていた出来事であった。この記述は『五洲紀事』のそれとほぼ同じである。記述は今日から見てもほぼ正確である。ただギリシアは1829年に「独立」したのではなく、自治国となったということは、正確には押さえられていない。だが、他は正確である。また「カポジストリヤ」(カポディストリアス )大頭領への言及が新しいところである。すでに「独立」、「大頭領」(大統領)という用語が出ていることに注目しておきたい。『万国史略』もこれと同じ内容であった。
≪ポーランド≫
『史略』では、ポーランドについては、独逸・墺太利・普魯士の項で、「1795年、墺普の両国、魯西亜と共に波蘭国を亡ぼし、之を三分して、各領地を増せり」(41頁)とされ、魯西亜の項の中では、「波蘭国を亡ぼし、普魯士、墺地利と之を分ち領す」(50頁)と出てくるだけである。波蘭の側での抵抗のことも指摘はなく、諸王の偉業として扱われている。当時の日本ではポーランド分割への関心は高いはずであるが、意外にあっさりとしている。『五洲紀事』にあった「人民」「国人」の目線がなくなっている。『万国史略』もこれと同じ内容であった。
以上のように、『史略』と『万国史略』においても『五洲紀事』と同じく、ヨーロッパ東部のうちでは、ギリシア、ハンガリー、ポーランドが関心の対象であった。それはアメリカのパーレイに倣ったものであろうが、日本としても国家の独立と分割に対する関心が、これらの国への関心となっていた。だが、寺内の『五洲紀事』と比べて、いわば「権力的」な見方をしていた感がある。また、仏蘭西の「大騒乱」とナポレオンの戦役、1848年の「動乱」の記述はあるが、それとの関係で、ヨーロッパの東部が論じられることはなかった。なお、『五洲紀事』では「革命」が使われていたが、ここでは「騒乱」や「動乱」である。まだ用語は確定していなかった。
3. 田中義廉『万国史略』甲府書林 明治8年(1875年)
師範学校の創建者として知られ、文部省の教科書編集に携わった洋学者田中義廉の書いた『万国史略』明治8年(1875年)(『日本教科書体系』第18巻 講談社に所収)は、小学生用の準教科書である。文部省刊ではないが、文部省において西村茂樹のもとで働いていた田中の編のものであるから、教科書に準じた意味があったものと思われる。そして、日本と「支那」は別にするので、本書にはこれを含めないという方針で書かれている。
本書も亜當(アダム)と厄襪(エブ)から始め、聖書的要素を残していたが、創世記は半頁で片付けていた。それでも『史略』や『万国史略』よりは聖書的であった。構成は以下のようであった。
巻の一 太古史
亜西里亜(アッシリア)、馬太(メディ)、新亜西里亜、巴比羅尼亜(バビロニア)、猶太(シュダー)、勿搦齊亜(フェニシア)、亜剌比亜(アラビア)、波斯(ペルシア)、亜細亜土耳其、希臘(ギリシア)、羅馬(ローマ)、羅馬尼(ロマニイ)
巻の二 伊太利、仏蘭西、
巻の三 西班牙、葡萄牙、日爾曼(ゼルマン)、孛魯士、和蘭、比利時、瑞西
巻の四 英吉(イギリス)、嗹馬(デンマーク)・瑞典(スウェーデン)・那爾威(ノルウエイ)
巻の五 魯西亜、土耳其、米利堅聯邦
見られるように、師範学校編『万国史略』と比べた場合、中国やインドは抜けているが、同じような各国史の並列になっている。これはパーレイから内容を取って編集したとされている。ヨーロッパは各国史的に詳しく論じられていた。その中でヨーロパの東部に関連して論じられているのは、ギリシア、ハンガリー、ポーランドであったが、ここではルーマニアが出てきている。
まずギリシアについてみると、『五洲紀事』や『万国史略』と同じく、古代から始まる希臘の節の終わりにギリシアの独立が論じられている。内容は、独立までは従来と同じであるが、本書では、独立以後のギリシアの動きもが論じられている。1832年にバイエルンよりオットー(オソン)一世を迎えて「独立」したが、この王は「不徳」にして「人望」を失い、1860年(1862年の誤り)、「國人」はこれを廃してデンマークより王(ゲオルギオス一世)を迎えた。その後ギリシアは盛んになったという(『日本教科書体系』第18巻 171頁)。「國人」の目線から歴史が見られているということができる。
つぎに、ルーマニアが登場する。羅馬の節の次に、羅馬尼(ロマニイ)が論じられていた。『五洲紀事』や『万国史略』にはない記述である。曰く、西と東の羅馬の滅亡のあとその「人民」が多悩(ダニューブ)河の辺に移ったが、土耳其の苛政に苦しんできた。それがようやく1860年ごろから「國人」力を合わせて「独立」を謀り、公国となり「羅馬尼(ロマニイ)」と称した。しかし、土耳其の覊軛を免れず、公位についた歴山の元でも6年間政令が整わず、内乱が起きて、このたびドイツから新たに公を迎えた。それが今の迦爾(カール)一世である(同上 179頁)。ルーマニア人がローマの末裔であるというのは、ストレートすぎる理解ではあるが、早くもこの時期にドナウ川の辺まで関心が届いていたことは特記すべきである。ここでも「國人」の目線から書かれている。
三つ目にハンガリーを見よう。これも『五洲紀事』や『万国史略』と同じく、日爾曼(ゼルマン)と土耳其の節で述べられていた。扱われているのは、ほぼ同じ内容で、①919年に王位に就いた「顕理」(ハインリッヒ一世)が英邁果断で「洪牙利」を打破ったこと、②教法改革(宗教改革)で日爾曼の南部が騒擾している時に、所利曼(スレイマン)二世の土耳其が大挙して洪牙利を蚕食し、墺太利に侵入し、1529年、維也納(ウイーン)を囲むに至ったこと、③17世紀末の墺太利の「略波爾」(レオポルト一世)帝の時、1683年に、土耳其が洪牙利人を誘い、墺太利を攻めてまた「維也納」を包囲したが、墺太利はザクセン、バイエルン、ポーランドの兵の助けを得て、これを退けたことなどである。
しかし、『五洲紀事』や『万国史略』にあった、「ハプスブルグ」の墺太利が1500年代から「ボヘミヤ」「ホンガリー」を領地に帰させて大国となったこと、土耳其の二回目の攻撃の際、「ハンガリー」の人民が乱を起して、土耳其がこれに乗じたということ、第二次包囲を退けたのち、オーストリアが「ハンガリー」を平定したことなどは、記されていなかった(同上 208,210,244,245頁)。なおハンガリーの記述では「國人」の目線は貫かれていない。
最後に、ポーランドはどうか。墺太利と孛魯士と魯西亜のところで、三国で「波蘭ヲ滅ボシテ、其地ヲ三分セリ」と出て来る。しかし、ポーランド人の抵抗の事などは触れられることはなかった(同上 211,212,241頁)。ここでも「國人」の目線は貫かれていない。
仏蘭西の「大騒乱」とナポレオンの戦役、1848年の「動乱」について、『史略』や『万国史略』以上に記述は詳しくなり、とくにナポレオンと1848年に関しては、充実した記述となっているが、それとの関係で、ヨーロッパの東部(チェコやハンガリーやルーマニアなど)が論じられることはなかった。
こうした違いや「國人」目線が散見されるという違いはあるとはいえ、基本的には『五洲紀事』や『万国史略』と同じようにパーレイを底本にした教科書であった。各国併記であり、視線も王朝荒廃や治乱興亡を主としていた。面白いことに、パーレイの本自体はまだ完訳が出ていなかった。それは次の時期になる。
(続く)
(「世界史の眼」No.27)