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「世界史の眼」No.29(2022年8月)

今号では、小谷汪之さんに、「土方久功と鳥見迅彦―「日本の中の世界史」の一コマとして―」の「(中)」をお寄せ頂きました。「(上)」はこちらです。また、木畑洋一さんに、平野千果子『人種主義の歴史』(岩波新書、2022年)の書評をお寄せ頂いています。

小谷汪之
土方久功と鳥見迅彦(中)―「日本の中の世界史」の一コマとして―

木畑洋一
書評 平野千果子『人種主義の歴史』岩波新書(新赤版)1930、2022年5月

平野千果子『人種主義の歴史』(岩波新書、2022年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

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土方久功と鳥見迅彦(中)―「日本の中の世界史」の一コマとして―
小谷汪之

はじめに

1 土方久功の戦中・戦後

 (1) 戦中の土方久功

 (2) 戦後の土方久功

 (以上、前々号)

2 鳥見迅彦の戦中・戦後

 (1) 戦中の鳥見迅彦

 (2) 戦後の鳥見迅彦

 (以上、本号)

3 土方久功と鳥見迅彦の交点

おわりに

 (以上、次号)

2 鳥見迅彦の戦中・戦後

(1) 戦中の鳥見迅彦

 鳥見迅彦とみ はやひこ(本名、橋本金太郎)は1910年、横浜に生まれた。父母の名前や生家の職業などについては、分からないことが多い。鳥見は「第三回アルプ教室」(山の文芸誌『アルプ』主催の講演会。『アルプ』については後述)において、「わたくしの山の詩」という講演を行っている(『アルプ』170号、1972年4月、所載)。その中で、鳥見は自らの戦前の経歴について語っているが、中学校卒業までについてはほとんど言及していない。ただ、鳥見の学歴などから見ると、鳥見の家は決して貧家ではなく、ある程度以上の経済力を持っていたと思われる。

 鳥見迅彦は1928年に神奈川県立横浜第二中学校を卒業した。同級には、後に写真家として知られるようになる土門拳がいた。鳥見は東京美術学校(東京芸術大学の前身)図案科と東京高等工芸学校図案科を受験したが、いずれも失敗した。翌1929年、鳥見は横浜市立横浜商業専門学校(横浜市立大学商学部の前身)に入学した。しかし、「会計学とか簿記といった、ゼニ勘定に直接関係ある課目が気に食わない。わたくしは学校をまちがえたのです」と鳥見は語っている。そんなこともあってか、鳥見は左翼雑誌『戦旗』、『ナップ』などを購読するようになり、学校内に「研究会」をつくって、マルクス『賃労働と資本』やエンゲルス『空想から科学への社会主義の発展』といった社会主義文献の学習を行うようになった。他の学校の同様の組織とも連絡がつくようになり、オルグに紹介されたりした。そのうち、「実践」にもかり出され、工場や電車・バスの車庫にアジビラをまきに行ったり、戦争反対のビラを電信柱に貼りに行ったりした(「わたくしの山の詩」105-106頁)。

 1932年2月、最後の卒業試験(倫理学)を受けていた鳥見は、校内に踏み込んできた神奈川県警察部特高課の二人の刑事によって逮捕された。日本共産党員あるいは共産青年同盟のメンバーではないかという嫌疑をかけられたのである。「取り調べは厳重で、かなりひどい拷問を受けました」と鳥見は語っている。一カ月ばかりの間に三つの警察署をたらい回しにされた後、検事局に送られた。そこで鳥見は「今後は実践運動はいたしません」という「手記」を書き、「起訴保留」ということで釈放された。鳥見は「『転向』です。わたくしは挫折に打ちひしがれました」といっている(「わたくしの山の詩」106-107頁)。こんなことで、鳥見は横浜商業専門学校を正式には卒業できず、「修了」という形で学校を出た。

 時はまさに世界恐慌の時代であり、ただでさえ就職難であったうえ、逮捕歴のある鳥見にはまともな就職はほとんど不可能であった。鳥見は、卒業後一年間ほどぶらぶらしていたのだが、その間に文学へと傾斜していった。

 1933年、鳥見迅彦は毎夕新聞社に入社した。毎夕新聞社は明治期に設立され、いろいろと名前を変えた新聞社で、一流新聞社どころか、地方有力紙ともいえない新聞社である。しかし、鳥見のような経歴の者にとっては、就職できただけでよかったのであろう。皮肉のようなことだが、最初は横浜支社に配属されて、警察周りの取材をしていたが、その後、東京本社に移った。毎夕新聞にいたころ、鳥見がいつも暗い顔つきをしているのを心配した同僚に誘われて、正丸峠(埼玉県秩父地方にある峠。標高636メートル)に行き、野山を歩く魅力に気づいた。これを契機として、鳥見は本格的な登山にのめりこんでいった。

 1936年、鳥見は『実業之世界』の野依秀市が創始した『帝都日日新聞』に移った。野依は右翼的・国粋的でありながら、堺利彦などの社会主義者とも付き合うという奇人風の人物で、鳥見の経歴など気にしなかったのであろう。この『帝都日日新聞』で、鳥見は草野心平と出会った。この出会いは鳥見のその後の人生に大きな影響を及ぼした。

 蛙の詩人として知られる草野心平(1903-1988年)は福島県岩城郡上小川村(現、いわき市)に生まれた。生家は土地持ちの旧家であった。しかし、父、馨が「奇矯」な性格の人物で、東京に出て、さまざまな「事業」に関わり、家運を衰退させた。草野心平も磐城中学校を中退して上京し、慶應義塾普通部三年に編入学した。しかし、なじむことができず、英語と中国語の学習に励んで、海外に出ることを考えていた。1921年、17歳の草野心平は慶応義塾普通部を中退して、上海航路の船に乗り込んだ。父の知り合いが中国の広東省広州市で事業を営んでいるので、それを頼りに広州市に向かうためであった。広州市では、アメリカ・キリスト教長老派系のミッションスクール、嶺南大学(中山大学の前身)に入学した。嶺南大学では、安い学寮に住み、いくつものアルバイトをしながら苦学した。

 1925年5月30日、上海で5・30事件が起こった。中国人労働者や学生などのデモ隊に上海共同租界の警察官が発砲し、多数の死傷者が出たことをきっかけとして、激しい民族運動(5・30運動)が起こり、中国全土に広がっていった。広州市でも、1925年6月23日、5・30事件に抗議するデモ隊に英・仏租界の兵士が発砲し、多数の死傷者が出た(沙基事件)。こうして、広州でも民族運動が激化したため、草野心平は卒業を断念し、帰国せざるを得なくなった。しかし、4年半ほどの嶺南大学在学中、多くの中国人の友人を得た

 帰国後、窮乏した草野は前橋に転居し、1929年、上毛新聞の校正係となったが、翌年辞職した。再び東京に戻った草野は壊れかかった古屋台を手に入れて、焼き鳥屋「いわき」を始めた。しかし、草野の家族だけではなく、弟などまで養わなければならず、生活は困窮を極めた。

 1932年、草野心平は野依秀市の『実業之世界』社に、校正係兼編集助手として入社し、1934年には『帝都日日新聞』に移った。そこに鳥見迅彦が入社してきたのである。鳥見の担当は「整理」ということであるが、どういう職種なのかよく分からない。草野によれば、社長の野依の口述する「社説」を草野が筆記し、それを「整理」の鳥見に渡すという分担だったという。それが夜中の11時近くになることもあったということである(草野心平『わが青春の記』日本図書センター、2004年、212、214頁)。とすると、「整理」というのは「割付」を主とする仕事だったのであろうか。

 鳥見迅彦は、草野と一緒に『帝都日日新聞』社を辞職するまで、3年半ほど草野と職場を共にしたのだが、その間に「心平さんから教えられたのは安酒のガブ飲みだけでした」と語っている(「わたくしの山の詩」、109頁)。草野に連れられて「安酒のガブ飲み」をしたのは事実だろうが、それだけではなかったようである。鳥見によれば、たぶん新橋の安飲み屋「三河屋」で一緒に飲んでいたとき、土方定一の詩「トコトコが来たといふ」を草野から教えられたということである(鳥見迅彦「トコトコが来たといふ」『土方定一追憶』土方定一追悼刊行会、1981年、69-71頁)。この詩は後に美術評論家として知られるようになる土方定一がまだ旧制水戸高校の学生だった時に書いたもので、土方が同級の舟橋聖一ともう一人の友人とで出していた同人誌『彼等自身』(1925年11号)に掲載された。草野はこの詩が強く印象に残り、そらんじていたのである。それはこんな詩である。

トコトコが来たといふ

トコトコが朝と一しょに来たといふ

まんぼのやうにねむったら

トコトコで眼がさめたといふ

なんだかうれしいといふ

 トコトコというのは那珂川を上下する川蒸気船のことで、「まんぼ」はいつも眠っているという魚マンボウである。那珂川の川口付近には古い遊郭があり、そのうちの一軒で土方が朝目を覚ました時に交わした会話をそのまま詩にしたものである(草野心平『わが青春の記』127-128頁)。鳥見もこの詩に感じるものがあり、その後、土方定一と親しく交わるようになった。

  1939年11月、鳥見迅彦は草野心平と共に『帝都日日新聞』を辞した。草野が社長の野依と衝突して辞めることになったので、鳥見も一緒に辞めることにしたのである。鳥見は、それから、「満鉄〔南満洲鉄道株式会社〕の東亜経済調査局という機関にはいりまして、そこでアジア諸国の文化を紹介する雑誌の編集にたずさわることになりました。この機関は東京にありました」と語っている(「わたくしの山の詩」、109頁)。「この機関」は正確には「南満洲鉄道東京支社調査室」であろうが、「満鉄東京支社調査室」が、1943年に、機構上は満鉄東亜経済調査局に付属することになったので、こういう言い方をしたのであろう。満鉄職員は半額の乗車賃で国鉄に乗ることができたので、鳥見は満鉄在職中中央線や信越線を利用してひんぱんに登山に出かけていた。冬山登山や岩登りを含む本格的な登山であった。ただし、多くが単独行で、パーティーを組むことは少なかったようである。

 しかし、1944年、鳥見の境遇は一変した。東横線沿線の軍需工場に徴用されたのである。ここで、鳥見は徴用工たちに対して反戦活動をしているという嫌疑をかけられ、神奈川県警察部特高課によってふたたび検挙された。「こんどの拷問は学生時代のそれとは段違いの厳しさでした。〔中略〕毎日やられました」(「わたくしの山の詩」、111頁)。鳥見は次のように書いている。

 手錠や拷問は、反人間的であるという点で、むしろ強烈な人間ドラマである。「けものみち」というモチーフが、ふいに、戦慄をともなってぼくの中心部をつらぬいたのは、その人間ドラマが半地下の暗い密室でむごたらしく演じられた直後、全身むらさきいろに変色して床にほうりだされているぼくを、ぼく自身が薄目をあけて眺めたときだった。

 もしも、あの凶暴な戦争とファシズムとがぼくのうえにのしかかることがなかったならば、ぼくは詩などという不幸な事に手を出しはしなかったろう。(鳥見迅彦「詩集けものみち(小伝)」『現代日本名詩集大成10』東京創元社、1960年、所収)

 「けものみち」は鳥見が戦後になって出す第一詩集の題名となったのであるが、これについては後に見ることとしたい。

 鳥見はこの時も拷問によって殺されることはなかった。今回も「転向書」のようなものを書いたのか、それとも単に嫌疑不十分ということだったのか、鳥見が何も語っていないので分からない。何か言いにくいことがあったのであろうか。ただ、「拷問というものは肉体の苦痛はいわずもがな、その暴行と凌辱から受ける精神の傷痕は一生涯消えはしません」とだけ鳥見は語っている(「わたくしの山の詩」、111頁)。

 他方、草野心平は、1939年12月、東亜解放社に入社したが、翌1940年7月には中国に渡った。同年3月に汪兆銘(汪精衛)が南京に樹立した「中華民国国民政府」に宣伝部専門委員として招聘されたのである。その仲立ちとなったのは草野の嶺南大学時代の友人、林柏生であった。林柏生は汪兆銘のもとで1938年から親日政権(傀儡政権)の樹立にたずさわり、汪兆銘政権成立後、行政院宣伝部部長に就任していた。その林柏生が日中親善のための宣伝活動に草野の助力を求めたのである。

 1944年、草野心平は中国在住日本人による詩誌『亜細亜』の創刊に努力した。その第二号(1944年11月刊)には鳥見迅彦の詩「銀山平」が掲載されている(ただし、作者名は橋本欽)。草野が東京在住の鳥見に寄稿を依頼したのであろう。この詩は越後の銀山平の叙景詩といった趣のものであるが、背後に特高による拷問の「傷痕」を窺うことができる(後に、この詩は鳥見の第一詩集『けものみち』に収載された)。

 1945年8月、日本の敗戦により南京の親日政権(傀儡政権)は崩壊し、草野心平一家はすべての財産を没収されて、収容所に入れられた。ただし、監視の目は緩く、暴行を受けるといったことはなかった。その点では、満洲でソ連軍の捕虜となった兵士や一般人のあまりにも苛烈な状況に比べれば、極めて幸運であったということができるであろう。翌1946年3月、草野は家族と共に帰国した。他方、林柏生の方は、1946年10月、「漢奸」として国民政府により処刑された。

(2) 戦後の鳥見迅彦

 鳥見迅彦がどのように敗戦を受け止めたのか、鳥見が何も語ってないので分からない。戦後、鳥見は何らかの職に就いたのであろうが、それについても語っていない。戦後の鳥見について知られていることはほぼ詩との関係に限られているのである。

 1947年、草野心平が中心となって同人誌『歴程』が復刊された(『歴程』については後述)。鳥見も『歴程』同人となった。1950年、鳥見は『歴程』の「編集長」になり、復刊第7号(1950年11月)、通巻第34号(1951年1月。この号から通巻の号数を表示することになった)、通巻第35号(1951年2月)、通巻第36号(1951年3月)の編集に当たった。この頃、『歴程』の編集会議は草野一家が居候していた練馬区下石神井の御嶽神社の社務所で開かれていた。会議と言っても酒を飲みながらの談論風発といった状態だったようである。1950年から1959年まで、『歴程』の印刷に当たった斎藤庸一によれば、草野をはじめとして皆貧乏だったので、印刷費をなかなか払ってもらえず、とくに終わりの5、6冊の印刷費は「取り立て不能」だったという(斎藤庸一「鳥見さんとの出会い」『歴程』381号〈追悼鳥見迅彦〉、1991年6月、25頁)。この時期、『歴程』の印刷をやめたがる斎藤を慰留するのが鳥見の役割だったようである。

 1948年、草野心平と松方三郎が語らいあって、「耳の会」という集まりを始めた。鳥見迅彦も、おそらく草野に誘われて、「耳の会」に参加するようになった。それによって、鳥見の交遊の範囲は広がっていった。この「耳の会」については、次項で詳しく見ることとしたい。

 1949年、鳥見迅彦は処女詩集『けものみち』の刊行を計画し始めた。題字「けものみち」は高村光太郎に書いてもらいたいと考えた。「左翼」の鳥見が戦時中戦意高揚のための詩をたくさん書いた高村に題字を書いてもらいたいと思ったというのはちょっと不思議な感じがするが、鳥見はそのことを抜きにして、高村の詩業に敬意を抱いていたのであろう。しかし、鳥見は高村を個人的には知らなかったとみえて、草野心平に仲介してもらったようである。高村の「通信事項」(1950年6月1日)には、「草野心平氏にテガミ(けものみち揮毫)」という記載がある(『高村光太郎全集 第十三巻』、501頁)。この時、高村は岩手の山中の粗末な山小屋に独居中であったが、草野の依頼に応えて、「けものみち」という題字を書いて送ったのである。鳥見は『けものみち』劈頭に置く「序詩」の執筆は草野に依頼した。草野は1950年1月14日付で「序詩」を書いた。挿絵は辻まことに描いてもらった。辻まことはアナーキストで戦争末期に餓死したとされる辻潤と伊藤野枝の間に生まれた。しかし、伊藤野枝は辻父子を捨てて大杉栄のもとに走り、1923年9月、関東大震災後の混乱状況の中で憲兵大尉甘粕正彦らによって虐殺された。その後、辻まことは精神に変調をきたした父との関係で苦しむことが多かったが、戦後は才能に任せて、自由な生活を送っていた。彼は鳥見の山仲間でもあった。鳥見は『けものみち』のための「跋文」の執筆を土方定一に依頼した。著者近影というべき写真は土門拳に撮ってもらった。しかし、この時の出版計画は印刷屋の「夜逃げ」や出版者の「挫折」のために流産に終わってしまった。

 1955年7月、鳥見迅彦の処女詩集『けものみち』が昭森社から刊行された。題字、高村光太郎(図版4)、「序詩」、草野心平、写真(撮り直し写真)、土門拳までは最初の計画通りであるが、辻まことの挿絵4点は鳥見が編集した『歴程』4冊の扉絵に流用してしまったので、改めて原精一に描いてもらった。土方定一の「跋文」は印刷屋の「夜逃げ」の際に失われてしまった。なお、鳥見は刊行元昭森社の社長、森谷均とは前述の「耳の会」で知り合ったものと思われる。

 前出のように、「けものみち」という言葉は鳥見迅彦が拷問で全身紫色に変色して、床に転がされている自分自身を薄目を開けて眺めたときに浮かんだモチーフであった。鳥見は『けものみち』の「あとがき」で次のように書いている。

 「けものみち」とは深い山の中をゆききするけものたちのひそかな踏跡のことであるが、ここでは人間の行路を暗示する一つの隠喩として藉りた。奇怪な偏光にてらされながら人生というけものみちをさまよう人々のすがたを思いうかべ、この詩集の題とした。

『けものみち』に収録されている「野うさぎ」という詩はまさにそんな詩である。

そんなにむごい殺されかたで

野うさぎよ!おまえは

殺された

山中の豆畑のけちくさい縄張りを自由なおまえが越えたからか?

アメリカ製のあの残忍な跳ね罠ジャンプ・トラップがおまえにとびついたとき

おまえは自分がわるかったと思ったか?

片足を罠にくいつかれたままどんなにそのいやしい仕掛とたたかったか?

罠ははなれはしなかった

長い耳を降伏の旗のように垂れて

おまえはけれどもその朝まで生きていた

鉈を持ったにんげんがやってきて

おまえを助け出すかわりにおまえの顔や胸をいきなりひどく

それからあとのことはおまえの知らないことだ

おまえは血だらけで木につるされて毛皮をはがれ

肉はこまかくきざまれて鍋に入った

  (わたしがいまもくるしむのは

  (野うさぎよ!)

おまえの殺されかたをだまって見ていたことだ

あのアメリカ製の罠やあの鉈に抗議もせずにいたことだ

おまえのその肉をわたしもじつは食ったことだ

しかもうまいうまいなどとおまえの敵たちに追従わらいをしながら

おまえを食ってしまったそのことだ。

 鳥見の詩は、『けものみち』という書名そのものが隠喩であったように、その多くが隠喩によって構成されている。この「野うさぎ」もその一例である。「野うさぎ」が何の隠喩かは読む者の側に委ねられているのであるが、それが拷問や「転向」と関わっていることは確かであろう。鳥見には自分自身も「奇怪な偏光にてらされながら人生というけものみちをさまよう人々」の一人だという自覚があったと思われる。鳥見の詩には、そのことから発する「罰」の意識が付きまとっている(田中清光「鳥見さんと山の詩」『歴程』381号〈追悼鳥見迅彦〉、24頁)。鳥見は色紙に「山頂への道は/罰のように/つづいている」とよく揮毫していたようである(同前、3頁)。

 前述のように、1956年、鳥見迅彦は『けものみち』でH氏賞を受賞した。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.29)

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書評 平野千果子『人種主義の歴史』岩波新書(新赤版)1930、2022年5月
木畑洋一

 本書の著者は、フランス植民地主義の研究者であり、これまで『フランス植民地主義の歴史』(人文書院、2002年)や『フランス植民地主義と歴史認識』(岩波書店、2014年)など、多くのすぐれた研究を公にしてきた。その著者が植民地主義とは切っても切れない関係にある人種主義に歴史的に取り組んだ成果が、本書である。いうまでもなく、人種主義は近現代世界史を貫通する問題であり、最近ではブラック・ライブズ・マター(BLM)運動を軸として、人類社会の中心的争点の一つとなっている。そうした状況を反映して、人種主義をめぐる研究も盛んである。本書に接する直前、評者はオレリア・ミシェル『黒人と白人の世界史:「人種」はいかにつくられてきたか』(明石書店、2021年、原書は2020年刊)を読んで、その感を強めたばかりであった。

 読みやすい文章で書かれた新書版の本書は、そのような人種主義への関心の新たな広がりによく応じる著作となっている。「人種が、生得的で本質的な性質に基づく、他と区別される人間集団だとすれば、そのようなものはないというのは、今日研究者の間で合意されていることである」(3-4、以下カッコ内の数字は本書の頁数)という点が、本書の出発点となる。人種という問題に関心をもっている研究者ならば当たり前のことと思っているこの点が、広く社会の常識にはなっていないということが、何よりも問題であり、なぜ人びとが人種といった実体があると思い込み、それと差別意識を結びつけて、人種主義に走るようになってきたのか、本書はそれを長期的な歴史のなかで説得的に検討しているのである。

 議論を始めるに際して、著者は、人種主義と人種を次のように定義する。「人間集団を何らかの基準で分類し、自らと異なる集団の人びとに対して差別的感情をもつ、あるいは差別的言動をとることを人種主義とする。」そして、人種主義のもとで「分類された集団が、「人種」として認識されるものである。」つまり人種主義が伴う「差別的なまなざしが、逆説的に人種を作り出しているといえる」のである(11)。これは、歴史的に人種主義と人種の問題に迫っていく上で、きわめて適切な定義であり、著者は、近現代世界の歴史の動態が生み出したさまざまな差別の様態を追いながら、それぞれの時代における人種主義の姿とそのもとで析出される人種像とを論じていく。

 本書の内容をごく大雑把に追ってみると以下のようになる。第1章は「「他者」との遭遇 アメリカ世界からアフリカへ」と題され、大航海時代の始まりから、アフリカ人の奴隷化が広がり始める時期までを扱い、インディオとアフリカ人奴隷に対する差別が問題となるが、人間の分類はこの時期にはまだ本格化しない。「啓蒙の時代 平等と不平等の揺らぎ」という第2章は、17世紀から18世紀を対象とする。人間の分類がリンネやブルーメンバッハ、ベルニエなどによって試みられ、黒人奴隷制の進展を背景とするモンテスキューなど啓蒙主義者たちの人種主義が問題となる時代である。第3章は、「科学と大衆化の一九世紀 可視化される「優劣」」とあるごとく19世紀を扱う章で、人間の「優劣」を科学的に説明できるとする人種主義の理論化がなされるとともに、大衆の間に人種主義が広がり始めた様相が紹介される。植民地支配や人の移動規模の拡大のもとでの人種主義の広がりを、第3章と時代的に重複する時期も含む形で論じるのが、第4章「ナショナリズムの時代 顕在化する差異と差別」であり、社会ダーウィン主義や優生学、黄禍論、イスラーム蔑視、反ユダヤ主義など人種主義に関わるさまざまな思想潮流が紹介される。つづく第5章「戦争の二〇世紀に」は、アフリカ人の大量虐殺やナチの政策のなかに人種主義の到達点を探るとともに、パンアフリカニズムやネグリチュード運動など、人種主義に抗する動きの浮上に触れる。最後に終章「再生産される人種主義」で、著者は、さまざまに形を変えながら再生産されつづけている最近の人種主義の様相を論じるのである。

 こうした形で人種主義の変遷を追うに際して、著者は、それぞれの時代において人種主義を体現した人びとの差別的な視線を単に批判的にとらえていくのではなく、「そのような思想が生まれた時代を問うという、総合的な知の営み」(82-83)が必要であるということを繰り返し強調しているが、それには十分成功している。

 ただ、ひとつ注意しておきたいのは、本書で議論の対象とされているのが、主としてヨーロッパにおける人種主義の展開だということである。その点はオーソドクスといってよく、また時代区分のやり方でも、特に目新しい構成がとられているわけではない。検討の素材となっている人びとも、人種主義論に関連してお馴染みの顔ぶれが多い。しかし、哲学者カントなど、最近この問題に関連する議論が新たに着目されるようになっている対象にもよく目配りがされている。また、よく取りあげられてきた人びとについても、近年の研究動向に即した見直しが随所で行われており、裨益するところが大きい。たとえば、奴隷制をめぐるモンテスキューの議論をめぐる論争や、ゴビノーの人種論の読み直しなどがそれにあたる。「ヨーロッパの人種主義を論じる際に、ゴビノーの名に言及しておけば事足りるかのような姿勢は、そろそろ改める必要があると思われる」(102)という指摘に接すると、人種問題について自分がやってきた講義をふり返って、評者としては耳が非常に痛くなる。セネガルの民族運動家で独立後の初代大統領となったサンゴールが、芸術の発展には黒人の要素が不可欠であると説いたゴビノーを評価したということにも(234)、はっとさせられた。

 全体の行論のなかで、時折著者が特に力をこめて論じていると感じられる部分があるが、それらが非常に効果的な働きをしていることにも注目しておきたい。たとえば、最も美しい人びととされたコーカサス人種をめぐる話題や、逆に人類の序列の最下位に位置づけられることが多かったホッテントットの扱いを詳しく取りあげた部分である。

 気になった点を一つ、最後に述べておこう。それは、本書における日本の扱い方である。著者はいくつかの箇所で日本の問題について触れており、とりわけ終章では、アイヌや琉球の人びとの遺骨返還問題や部落差別問題をクローズアップしている。「今日では差別を問うグローバルな場で、部落差別はいわゆる人種主義の問題と捉えられている。差別が同じ理屈に立脚しているからである。」(239)という点は、本書が立脚している人種主義の定義がもつ重みを示す論点としても重要である。また、第一次世界大戦後のパリ講和会議での日本代表による人種平等条項の国際連盟規約への取り入れ提案もきちんと取りあげられている。そして、それに関わって、「日本が植民地保有国として同じアジアの他者を下位に位置づけたまま、こうした提案をしたことは、皮肉にも人間の間には序列があると示す結果になったとも思われる。」(223)と含意あるコメントが付せられている。ただ、日本の植民地支配のもとでのアジアの他者に対する日本人の姿勢を、本書の人種主義論のなかでどのように位置づけていくかという点については、より立ち入った検討が欲しかった。幅広く差別的感情や差別的言動を人種主義の基底に据えてみる立場からすれば、ヨーロッパでの議論を中心に据えつつも、他の地域に今少し視野を広げることが可能であろうし、その場合、やはり日本とアジアの人びととの関係の事例が重要になってくるであろうからである。

(「世界史の眼」No.29)

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