土方久功と鳥見迅彦(下)―「日本の中の世界史」の一コマとして―
小谷汪之

はじめに

1 土方久功の戦中・戦後

 (1) 戦中の土方久功

 (2) 戦後の土方久功

2 鳥見迅彦の戦中・戦後

 (1) 戦中の鳥見迅彦

 (2) 戦後の鳥見迅彦

以上、既掲載

以下本号

3 土方久功と鳥見迅彦の交点

おわりに

3 土方久功と鳥見迅彦の交点

 こうして土方久功と鳥見迅彦の生の軌跡を辿ってきて、二人の交点はどうやら「耳の会」にあったのではないかという見通しに導かれた。それで、「耳の会」について、もう少し詳しく見ておきたいと思う。

 1948年のある日、草野心平と松方三郎が銀座の民芸品店「たくみ」で偶然出会い、「たくみ」の中二階の喫茶室「門」で雑談しているうち、「毎月一回、日を決めて〔何人かで〕ここで会おう」ということになった(草野「後記」『歴程』183号〈特集松方三郎追憶〉、1973年12月、51頁)。松方三郎(1899-1973年)は明治の元勲、伯爵・松方正義の第15男(末子)であるが、松方家第二代当主、松方幸次郎(松方正義の三男)の養子となった。若いころ、ヨーロッパに遊学し、アルプスの山々を踏破して、アルピニストとして知られた。1926年9月3日には、槇有恒、松本重治と共に、アルプスを縦走していた秩父宮に随行してスイスのチナール・ロートホルン(4221メートル)に登頂している(『歴程』183号〈特集松方三郎追憶〉、25頁にその時の写真がある。図版5)。帰国後は実業界に身を置きながら、日本山岳会会長を務め、その間に松方家第三代当主となった。

 この草野心平と松方三郎が始めた集まりには最初名前がなかったのだが、少し後に「耳の会」と名付けられた。この会名を言い出したのは島崎藤村の三男で画家の島崎蓊助であった。

 草野が「耳の会」に最初に誘ったのは串田孫一と藤島宇内だったということである(草野「後記」)。宇佐美英治の場合は草野の宇佐美に会いたいという意向を串田から聞かされ、参加するようになった(宇佐美『辻まことの思い出』みすず書房、2001年、99-101頁)。坂本徳松によれば、坂本や鳥見迅彦も最初のころから「耳の会」に参加していたという(坂本「松方さんと『耳の会』」『歴程』183号〈特集松方三郎追憶〉、28頁)。坂本は別として、草野は主として『歴程』の同人たちを「耳の会」に誘っていたようである(坂本徳松は帝都日日新聞社で草野の同僚であったが、この新聞の大政翼賛的言論に荷担したとして、戦後、野依秀市とともに公職追放となった。その後、坂本はアジア・アフリカ連帯運動に携わり、ベトナム、カンボジヤなどとの友好にかかわった)。『歴程』は戦前の1935年、草野心平、中原中也、土方定一など8人の同人によって創刊された同人誌で、大きな影響を及ぼしたが、戦時下の1944年に終刊した。戦後の1947年、草野が中心となって復刊され、その同人には、串田孫一、藤島宇内、宇佐美英治、矢内原伊作、宗左近、辻まこと、山本太郎などがいた。前述のように、鳥見迅彦も『歴程』同人であった。
 翌年、「耳の会」はメンバーが増え、より広い場所が必要になったのであろう、「日比谷の日産館の地階の畳の部屋」で開かれるようになった(草野「後記」)。日産館におけるある夜の「耳の会」の記念写真には、草野心平、松方三郎、串田孫一、宇佐美英治、藤島宇内、辻まこと、坂本徳松、鳥見迅彦などが写っている(『歴程』183号〈特集松方三郎追憶〉、31頁)。

 その後、「耳の会」は何度か会場を変えたようで、世田谷、上野毛の尾崎喜八の家で開かれたこともあった。その時、鳥見迅彦は尾崎の詩集を何冊も持参して、尾崎に署名を請うたということである(尾崎実子「鳥見さんの懐かしい面影」『歴程』381号〈追悼鳥見迅彦〉、29頁)。

 他方、土方久功は、前述のように、1951年、学習院中等科で一学年上だった松方三郎に誘われて、「耳の会」に出席するようになった。宇佐美英治によれば、ある「耳の会」の帰り道、土方から「僕は南洋に長くいましてね」と声をかけられたのがきっかけとなって、宇佐美と土方は親しくなったという(宇佐美英治「土方久功の彫刻」『同時代』34号〈特集土方久功〉、137頁)。

 1953年に開かれた土方久功の第二回個展の際、宇佐美英治が会場の設営に協力したことについてはすでに述べたが、この第二回個展の後、宇佐美は『同時代』同人の岡本謙次郎と共に、土方宅を訪問した。これをきっかけに、土方は『同時代』の他の同人たちとも親交を結ぶようになった(土方敬子「思い出」『同時代』34号〈特集土方久功〉、171頁)。『同時代』は1948年、矢内原伊作と宇佐美英治により創刊された同人誌であるが、7号で終刊となった。1955年、矢内原、宇佐美の二人に宗左近、安川定男らが加わり、第二次『同時代』が刊行され始めた。その他の同人には、串田孫一、辻まこと、伊藤海彦、池崇一らがいた。これらの同人たちとも親しくなった土方の家では、『同時代』の忘年会がよく開かれた。土方の妻、敬子は「暮れにはアトリエで一晩楽しく賑やかに忘年会を催しました。その時分が一番最良の時であったと思います」と書いている(土方敬子「思い出」)。常連は宇佐美英治、矢内原伊作、安川定男、宗左近、池崇一、伊藤海彦などであった(岡谷公二『南海漂泊』、202-203頁)。

 「耳の会」で土方久功と鳥見迅彦が実際に同席したり、会話を交わしたりしたということを直接的に示す記録は見つけられなかったが、こうした経緯からして、その可能性は高いと思われる。そうでなくとも、宇佐美英治、串田孫一、辻まことなどのように『同時代』と『歴程』の同人を兼ねている人たちが多かったから、土方久功は鳥見迅彦についていろいろと聞き知っていたであろう。前述のように、その鳥見が『けものみち』で1956年度のH氏賞を受賞したので、土方はその同じ年に刊行した詩文集『靑蜥蜴の夢』を鳥見に寄贈することにしたのであろう。しかし、それを通して、土方と鳥見の間に交遊関係が生まれるということはなかったようである。どちらかというとノンポリ的で、政治にあまり関心がなかった土方と、友人たちから「社会主義者」とみられていた鳥見の間には思想の面でも、気質の面でも違いが大きかったからであろう。

 「耳の会」はその後、一年に一回、赤坂、嶺南坂の松方三郎宅で開かれることになった(松方が多摩川左岸の瀬田に転居してからは、瀬田の松方宅で開かれるようになった)。松方生前最後の「耳の会」(おそらく1970年)には、草野心平、串田孫一、土方久功、宗左近、坂本徳松、棟方志功などが参加しているが、鳥見迅彦の姿は見られない(『歴程』183号〈特集松方三郎追憶〉、44頁)。この頃には、鳥見は「耳の会」から遠ざかっていたのであろうか。

 土方久功は『靑蜥蜴の夢』刊行後も、南洋の人々や風景をモチーフとした多くの木彫や絵画を制作しつづけた。1965年に書いた「あの頃は」という詩では、「あの頃は楽しかりにき/南海に釣りし 泳ぎし/裸のくらし」(詩集『旅・庭・昔』大塔書店、1965年、所収)と南洋の生活を懐かしんでいる。しかし、土方は二度と南洋を訪れることはなかった。アメリカ信託統治下に入った南洋の島々の変わり果てたであろう姿を見るに忍びなかったからだと思われる。

 他方、鳥見迅彦はその後次第に『歴程』よりも、雑誌『アルプ』との関係が深くなっていったようである。『アルプ』は1958年に創文社から発行され始めた山の文芸誌で、その中心となったのは串田孫一と尾崎喜八であった。創文社の編集者で、『アルプ』の編集を担当した大洞正典は、執筆者には「草野心平さんを始め、鳥見迅彦、辻まこと、山本太郎、矢内原伊作といった『歴程』と関わりの深い方々」が多かったが、「尾崎喜八さんと共に、鳥見さんは『アルプ』にとって、かけがえない詩人であった」と書いている(大洞正典「山の詩人として」『歴程』381号〈追悼鳥見迅彦〉、27頁)。鳥見の第二詩集『なだれみち』(1969年)は大洞の協力で創文社から刊行された。

おわりに

 パラオから帰国するや否や、北ボルネオに占領地司政官として派遣され、現地で病を悪化させた土方久功。日本の傀儡、汪兆銘政権の宣伝活動のために5年間にわたって中国に滞在し、その後の半年以上、国民政府の捕虜収容所に入れられていた草野心平。天皇制ファシズムの狂暴な拷問によって、終生消えることのない精神的「傷痕」を負い、それを詩に昇華させようとした鳥見迅彦。そして、戦時下、戦意高揚のための詩を大量に発表し、戦後はそのみそぎのように、岩手の山中に粗末な山小屋を建てて、7年間も独居した高村光太郎。これらの人々の存在はまさに「日本の中の世界史」の現れということができるであろう。世界史は近代という時代を生きた人々の生の中に深く浸透していたのである。

(「世界史の眼」No.31)

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