はじめに
「食」、それは人間の生活においてさまざまな意味を持ちうる。何よりも生命維持活動に必要不可欠である。また、料理の美味しさは味覚を通じて精神的な満足をもたらす。食事の機会は家族の団欒や社交の場ともなり、非日常と日常、すなわち「ハレ」と「ケ」とを区別する。食品は商品となり、売買されることで経済を支え、物質的な豊かさを生むこともできる。そして、2010年11月ユネスコ無形文化遺産に「フランスの美食術」などが登録されたのを契機に、「食」にナショナルシンボルとしてだけでなく、国際的に認可されたナショナルな文化価値としての意味付けもされる傾向も見られるようになった。2013年12月には日本の「和食」が、2022年7月にはロシアによる侵略を受けているウクライナの「ボルシチ料理の文化」が登録されたのも記憶に新しい。
したがって、「食」に関する学問分野も、食生活、食文化、特定の食品、料理、外食産業、などといった研究対象も多岐に渡っている。人類学の分野においては、1980年代に人類学者のシドニー・ミンツが『甘さと権力』において、砂糖が外国由来の贅沢品からありふれた必需品へどのように変化したのか、また、特に英国での食文化や食生活にどのように影響したのかを紹介した[1]。ただし、歴史学の分野において研究されるのは、比較的最近のことであったようである。西洋史学者の南直人によると、アナール学派が20世紀になってから一般の人々の生活を研究対象とするようになったものの、当初は「食」に関しては研究するに値するテーマとみなされていなかった。1996年にアナール学派のジーン=ルイス・フランドランとマッシーモ・モンタナーリにより、ヨーロッパを中心とした古代から現代に至るまでの『食の歴史[2]』という論文集が刊行されてから、ようやく研究テーマとして注目されるようになったという[3]。
本稿では以下、「序説」的に、20世紀以降日本で出版されてきた書籍を対象として、「食」、その中でもとりわけ特定の食材および食品に関する歴史について、その変遷と傾向を追ってみたい。
はじまりは嗜好品、そして調味料の歴史
あくまでインターネット上で関連したものを検索して確認できた中ではあるが、最も古い関連書籍は1975年に出版された古賀守の『ワインの世界史[4]』である。古賀は、他にも『文化史のなかのドイツワイン[5]』(1987年)など、ドイツやヨーロッパのワインについての著作があり、ワインの世界史・地域研究において日本では先駆者的存在である。
ワインの次に登場したのは、1980年に出版された経済史学者角山栄の『茶の世界史:緑茶の文化と紅茶の社会[6]』である。角山は同書のあとがきにて、次のように語っている。
民衆の日常生活のもっとも身近なものをつうじて歴史を見直す、いわゆる「社会史」「生活史」が最近西洋でも日本でも歴史家の関心を集めている。
(中略)こうした作業をつうじてはっきりわかったことは、近世ヨーロッパ資本主義の形成とそのグローバルな展開に、茶が想像した以上に大きな役割を演じたということである[7]。
角山は「日常生活のもっとも身近なもの」である茶について、文化としての側面のみならず、世界市場における商品としての側面にも目を向けた。1980年頃の時点ですでに、「食」とグローバルな経済史との関わりが描かれていたのである。それから5年後には、松崎芳郎による『年表茶の世界史[8]』(1985年)も出版されている。
このように、1970年代頃以降、ワイン、茶といった世界中で親しまれている嗜好品の歴史に注目が集まりはじめたことが見受けられる。そして1980年代後半になると、リュシアン・ギュイヨの『香辛料の歴史[9]』の翻訳書(1987年)、砂糖に焦点を当てた前述のミンツ『甘さと権力』の翻訳書(1988年)、そしてR. P. マルソーフの『塩の世界史[10]』の翻訳書(1989年)と調味料の歴史が相次ぐ。なお、ミンツ『甘さと権力』や、イマニュエル・ウォーラーステイン『近代世界システム[11]』の翻訳者である川北稔は、『砂糖の歴史[12]』(1996年)も手掛けている。ミンツ、川北ともに、カリブ海におけるプランテーションの展開、奴隷制度、三角貿易、そしてイギリス産業革命と、砂糖を通じた近代以降のグローバルヒストリーを描こうとしており、そこにはウォーラーステインが提唱した「近代世界システム論」にもどこか通底するものが見えてくる。
嗜好品の歴史に話を戻すと、ドイツ文学者の臼井隆一郎の『コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液[13]』(1992年)、マーク・ペンダーグラストの翻訳書『コーヒーの歴史[14]』(2002年)と、コーヒーもテーマとして取り上げられるようになった。
さまざまな食材・食品の歴史へ
少し時代が進んで2010年代に近づくと、伊藤章治『ジャガイモの世界史 : 歴史を動かした「貧者のパン」[15]』 (2008年)を皮切りに、対象となる食材および食品の幅はますます広がる。これまでと同様にワイン、コーヒー、茶の歴史も扱われている[16]が、社会学者武田尚子の『チョコレートの世界史:近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石[17]』(2010年)や人類学者山本紀夫編著『トウガラシ讃歌[18]』(2010年)と、嗜好品や調味料についてますます取り上げられてきた一方、ダン・コッペルの翻訳書『バナナの世界史 : 歴史を変えた果物の数奇な運命[19]』(2012年)と、ジャガイモに引き続きバナナという特定の食品についても着目されている点が、注目に値する。
なお、2012年には、原書房から「お菓子の図書館」シリーズ、2013年には「『食』の図書館シリーズ」が開始され、『アイスクリームの歴史物語[20]』や『パンの歴史[21]』をはじめとして、2022年10月現在合計84冊ものバリエーション豊かな「食」の歴史の翻訳本が出版されている。その中には食品だけでなく、『カレーの歴史[22]』(2012年)や『サンドイッチの歴史[23]』(2015年)、『ピザの歴史[24]』(2015年)など、料理の歴史も取り上げられている。また、今年2022年には『昆虫食の歴史[25]』も出版され、ロシアによるウクライナ侵略に象徴されるような今後も起こりうる世界規模の食糧危機に際し、近年注目されはじめている食材にも焦点を当てているのは、時代を反映しているようで大変興味深い。
おわりに
以上、食材および食品について、過去約50年間の主に和文の関連書籍の出版の歴史をたどってみたが、嗜好品からはじまり、香辛料、特定の食材および食品、そして料理と、その対象の重点化や拡大といった相応の傾向を示すことができたと思う。特に2010年以降出版数の増加が顕著になっていることを最後に強調しておきたい。筆者の考察に基づくならば、これは、ユネスコ無形文化遺産に「食」に関連する項目が次々と登録されるようになった時期と重なっており、多少なりとも影響があったはずである。
食材・食品の数だけ歴史があり、その多くが一つのナショナル・ヒストリーにとどまらないグローバルなヒストリーを展開していることは明白である。しかしながら、一方で、それぞれの著者の興味・関心を含む現在地を起点として、色眼鏡を通して映った「世界」においての歴史として語られがちではないだろうか。さらに言うならば、それぞれの著者の仮説に到達するまでの歴史を書き上げていく試みとなっているのではないだろうか。ともすると、例えば角山が『茶の世界史:緑茶の文化と紅茶の社会』を書き上げた上で言及したような、「近世ヨーロッパ資本主義の形成とそのグローバルな展開」を出発点に考えるという前提ありきとなっていないだろうか。食べ物の世界史と向き合う際は、常にそのような点を意識する必要がある。
[1] シドニー・W. ミンツ著、川北稔・和田光弘訳『甘さと権力―砂糖が語る近代史』平凡社、1988年。(Mintz, Sidney W, Sweetness and Power: the Place of Sugar in Modern History, New York: Penguin Books, 1985.)
[2] J―L.フランドラン、M.モンタナーリ編、宮原信、北代美和子監訳『食の歴史 I-III』藤原書店、2006年。(Montanari, Massimo; Flandrin, Jean-Louis, eds. Histoire de l’Alimentation, Fayard, 1996.
[3] 南直人著『食の世界史:ヨーロッパとアジアの視点から』昭和堂、2021年、i-ii頁。
[4] 古賀守著『ワインの世界史』中央公論社、1975年。
[5] 古賀守著『文化史のなかのドイツワイン』鎌倉書房、1987年。
[6] 角山栄著『茶の世界史』中央公論社、1980年。
[7] 角山、前掲書、222-223頁。
[8] 松崎芳郎著『年表茶の世界史』八坂書房、1985年。
[9] リュシアン・ギュイヨ著、池崎一郎・平山弓月・八木尚子訳『香辛料の歴史』白水社、1987年。
[10] R. P. マルソーフ著、市場泰男訳『塩の世界史』平凡社、1989年。
[11] I. ウォーラーステイン著、川北稔訳『近代世界システム――農業資本主義と「ヨーロッパ世界経済」の成立(I-II)』岩波書店、1981年。
[12] 川北稔著『砂糖の歴史』岩波書店、1996年。
[13] 臼井隆一郎著『コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液』中央公論社、1992年。
[14] マーク・ペンダーグラスト著、樋口幸子訳『コーヒーの歴史』河出書房新社、2002年。
[15] 伊藤章治著『ジャガイモの世界史 : 歴史を動かした「貧者のパン」』中央公論新社、2008年。
[16] 例えば、以下のような書籍が挙げられる。
山本博著『ワインの世界史』河出書房新社、2010年(その後改題、加筆修正され、『ワインの世界史:自然の恵みと人間の知恵の歩み』日本経済新聞出版社、2018年)。
ジャン=ロベール・ピット著、幸田礼雅訳『ワインの世界史:海を渡ったワインの秘密』原書房、2012年。(Pitte, Jean-Robert, Le désir du vin à la conquête du monde, Fayard, 2009.)
山下範久著『教養としてのワインの世界史』筑摩書房、2018年。
ビアトリクス・ホーネガー著、平田紀之訳『茶の世界史:中国の霊薬から世界の飲み物へ』白水者、2010年。
小澤卓也著『コーヒーのグローバル・ヒストリー:赤いダイヤか、黒い悪魔か』ミネルヴァ書房、2010年。
旦部幸博著『珈琲の世界史』講談社、2017年。
[17] 武田尚子の『チョコレートの世界史:近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石』中央公論新社、2010年。
[18] 山本紀夫編著『トウガラシ参加』八坂書房、2010年。
[19] ダン・コッペル著、黒川由美訳『バナナの世界史 : 歴史を変えた果物の数奇な運命』太田出版、2012年。
[20] ローラ・ワイス著、竹田円訳『アイスクリームの歴史物語』原書房、2012年。
[21] ウィリアム・ルーベル著、堤理華訳『パンの歴史』原書房、2013年。
[22] コリーン・テイラー・セン著、竹田円訳『カレーの歴史』原書房、2013年。
[23] ビー・ウィルソン著、月谷真紀訳『サンドイッチの歴史』原書房、2015年。
[24] キャロル・ヘルストスキー著、田口未和訳『ピザの歴史』原書房、2015年。
[25] ジーナ・ルイーズ・ハンター著、龍和子訳『昆虫食の歴史』原書房、2022年。
(「世界史の眼」No.32)