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「世界史の眼」No.32(2022年11月)

今号では、一橋大学大学院の倉金順子さんに、「日本における「食べ物の世界史」、の歴史」をご寄稿頂きました。また、南塚信吾さんに、連載中の「「万国史」における東ヨーロッパ」の第二部その1をお寄せ頂いいています。第一部の各論考は、1-(1)はこちら、1-(2)はこちら、1-(3)はこちらに掲載されています。

倉金順子
日本における「食べ物の世界史」、の歴史

南塚信吾
「万国史」における東ヨーロッパ II-(1)

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日本における「食べ物の世界史」、の歴史
倉金順子

はじめに

 「食」、それは人間の生活においてさまざまな意味を持ちうる。何よりも生命維持活動に必要不可欠である。また、料理の美味しさは味覚を通じて精神的な満足をもたらす。食事の機会は家族の団欒や社交の場ともなり、非日常と日常、すなわち「ハレ」と「ケ」とを区別する。食品は商品となり、売買されることで経済を支え、物質的な豊かさを生むこともできる。そして、2010年11月ユネスコ無形文化遺産に「フランスの美食術」などが登録されたのを契機に、「食」にナショナルシンボルとしてだけでなく、国際的に認可されたナショナルな文化価値としての意味付けもされる傾向も見られるようになった。2013年12月には日本の「和食」が、2022年7月にはロシアによる侵略を受けているウクライナの「ボルシチ料理の文化」が登録されたのも記憶に新しい。

 したがって、「食」に関する学問分野も、食生活、食文化、特定の食品、料理、外食産業、などといった研究対象も多岐に渡っている。人類学の分野においては、1980年代に人類学者のシドニー・ミンツが『甘さと権力』において、砂糖が外国由来の贅沢品からありふれた必需品へどのように変化したのか、また、特に英国での食文化や食生活にどのように影響したのかを紹介した[1]。ただし、歴史学の分野において研究されるのは、比較的最近のことであったようである。西洋史学者の南直人によると、アナール学派が20世紀になってから一般の人々の生活を研究対象とするようになったものの、当初は「食」に関しては研究するに値するテーマとみなされていなかった。1996年にアナール学派のジーン=ルイス・フランドランとマッシーモ・モンタナーリにより、ヨーロッパを中心とした古代から現代に至るまでの『食の歴史[2]』という論文集が刊行されてから、ようやく研究テーマとして注目されるようになったという[3]

 本稿では以下、「序説」的に、20世紀以降日本で出版されてきた書籍を対象として、「食」、その中でもとりわけ特定の食材および食品に関する歴史について、その変遷と傾向を追ってみたい。

はじまりは嗜好品、そして調味料の歴史

 あくまでインターネット上で関連したものを検索して確認できた中ではあるが、最も古い関連書籍は1975年に出版された古賀守の『ワインの世界史[4]』である。古賀は、他にも『文化史のなかのドイツワイン[5]』(1987年)など、ドイツやヨーロッパのワインについての著作があり、ワインの世界史・地域研究において日本では先駆者的存在である。

 ワインの次に登場したのは、1980年に出版された経済史学者角山栄の『茶の世界史:緑茶の文化と紅茶の社会[6]』である。角山は同書のあとがきにて、次のように語っている。

 民衆の日常生活のもっとも身近なものをつうじて歴史を見直す、いわゆる「社会史」「生活史」が最近西洋でも日本でも歴史家の関心を集めている。

(中略)こうした作業をつうじてはっきりわかったことは、近世ヨーロッパ資本主義の形成とそのグローバルな展開に、茶が想像した以上に大きな役割を演じたということである[7]

 角山は「日常生活のもっとも身近なもの」である茶について、文化としての側面のみならず、世界市場における商品としての側面にも目を向けた。1980年頃の時点ですでに、「食」とグローバルな経済史との関わりが描かれていたのである。それから5年後には、松崎芳郎による『年表茶の世界史[8]』(1985年)も出版されている。

 このように、1970年代頃以降、ワイン、茶といった世界中で親しまれている嗜好品の歴史に注目が集まりはじめたことが見受けられる。そして1980年代後半になると、リュシアン・ギュイヨの『香辛料の歴史[9]』の翻訳書(1987年)、砂糖に焦点を当てた前述のミンツ『甘さと権力』の翻訳書(1988年)、そしてR. P. マルソーフの『塩の世界史[10]』の翻訳書(1989年)と調味料の歴史が相次ぐ。なお、ミンツ『甘さと権力』や、イマニュエル・ウォーラーステイン『近代世界システム[11]』の翻訳者である川北稔は、『砂糖の歴史[12]』(1996年)も手掛けている。ミンツ、川北ともに、カリブ海におけるプランテーションの展開、奴隷制度、三角貿易、そしてイギリス産業革命と、砂糖を通じた近代以降のグローバルヒストリーを描こうとしており、そこにはウォーラーステインが提唱した「近代世界システム論」にもどこか通底するものが見えてくる。

 嗜好品の歴史に話を戻すと、ドイツ文学者の臼井隆一郎の『コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液[13]』(1992年)、マーク・ペンダーグラストの翻訳書『コーヒーの歴史[14]』(2002年)と、コーヒーもテーマとして取り上げられるようになった。

さまざまな食材・食品の歴史へ

 少し時代が進んで2010年代に近づくと、伊藤章治『ジャガイモの世界史 : 歴史を動かした「貧者のパン」[15]』 (2008年)を皮切りに、対象となる食材および食品の幅はますます広がる。これまでと同様にワイン、コーヒー、茶の歴史も扱われている[16]が、社会学者武田尚子の『チョコレートの世界史:近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石[17]』(2010年)や人類学者山本紀夫編著『トウガラシ讃歌[18]』(2010年)と、嗜好品や調味料についてますます取り上げられてきた一方、ダン・コッペルの翻訳書『バナナの世界史 : 歴史を変えた果物の数奇な運命[19]』(2012年)と、ジャガイモに引き続きバナナという特定の食品についても着目されている点が、注目に値する。

 なお、2012年には、原書房から「お菓子の図書館」シリーズ、2013年には「『食』の図書館シリーズ」が開始され、『アイスクリームの歴史物語[20]』や『パンの歴史[21]』をはじめとして、2022年10月現在合計84冊ものバリエーション豊かな「食」の歴史の翻訳本が出版されている。その中には食品だけでなく、『カレーの歴史[22]』(2012年)や『サンドイッチの歴史[23]』(2015年)、『ピザの歴史[24]』(2015年)など、料理の歴史も取り上げられている。また、今年2022年には『昆虫食の歴史[25]』も出版され、ロシアによるウクライナ侵略に象徴されるような今後も起こりうる世界規模の食糧危機に際し、近年注目されはじめている食材にも焦点を当てているのは、時代を反映しているようで大変興味深い。

おわりに

 以上、食材および食品について、過去約50年間の主に和文の関連書籍の出版の歴史をたどってみたが、嗜好品からはじまり、香辛料、特定の食材および食品、そして料理と、その対象の重点化や拡大といった相応の傾向を示すことができたと思う。特に2010年以降出版数の増加が顕著になっていることを最後に強調しておきたい。筆者の考察に基づくならば、これは、ユネスコ無形文化遺産に「食」に関連する項目が次々と登録されるようになった時期と重なっており、多少なりとも影響があったはずである。

 食材・食品の数だけ歴史があり、その多くが一つのナショナル・ヒストリーにとどまらないグローバルなヒストリーを展開していることは明白である。しかしながら、一方で、それぞれの著者の興味・関心を含む現在地を起点として、色眼鏡を通して映った「世界」においての歴史として語られがちではないだろうか。さらに言うならば、それぞれの著者の仮説に到達するまでの歴史を書き上げていく試みとなっているのではないだろうか。ともすると、例えば角山が『茶の世界史:緑茶の文化と紅茶の社会』を書き上げた上で言及したような、「近世ヨーロッパ資本主義の形成とそのグローバルな展開」を出発点に考えるという前提ありきとなっていないだろうか。食べ物の世界史と向き合う際は、常にそのような点を意識する必要がある。


[1] シドニー・W. ミンツ著、川北稔・和田光弘訳『甘さと権力―砂糖が語る近代史』平凡社、1988年。(Mintz, Sidney W, Sweetness and Power: the Place of Sugar in Modern History, New York: Penguin Books, 1985.)

[2] J―L.フランドラン、M.モンタナーリ編、宮原信、北代美和子監訳『食の歴史 I-III』藤原書店、2006年。(Montanari, Massimo; Flandrin, Jean-Louis, eds. Histoire de l’Alimentation, Fayard, 1996.

[3] 南直人著『食の世界史:ヨーロッパとアジアの視点から』昭和堂、2021年、i-ii頁。

[4] 古賀守著『ワインの世界史』中央公論社、1975年。

[5] 古賀守著『文化史のなかのドイツワイン』鎌倉書房、1987年。

[6] 角山栄著『茶の世界史』中央公論社、1980年。

[7] 角山、前掲書、222-223頁。

[8] 松崎芳郎著『年表茶の世界史』八坂書房、1985年。

[9] リュシアン・ギュイヨ著、池崎一郎・平山弓月・八木尚子訳『香辛料の歴史』白水社、1987年。

[10] R. P. マルソーフ著、市場泰男訳『塩の世界史』平凡社、1989年。

[11] I. ウォーラーステイン著、川北稔訳『近代世界システム――農業資本主義と「ヨーロッパ世界経済」の成立(I-II)』岩波書店、1981年。

[12] 川北稔著『砂糖の歴史』岩波書店、1996年。

[13] 臼井隆一郎著『コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液』中央公論社、1992年。

[14] マーク・ペンダーグラスト著、樋口幸子訳『コーヒーの歴史』河出書房新社、2002年。

[15] 伊藤章治著『ジャガイモの世界史 : 歴史を動かした「貧者のパン」』中央公論新社、2008年。

[16] 例えば、以下のような書籍が挙げられる。

山本博著『ワインの世界史』河出書房新社、2010年(その後改題、加筆修正され、『ワインの世界史:自然の恵みと人間の知恵の歩み』日本経済新聞出版社、2018年)。

ジャン=ロベール・ピット著、幸田礼雅訳『ワインの世界史:海を渡ったワインの秘密』原書房、2012年。(Pitte, Jean-Robert, Le désir du vin à la conquête du monde, Fayard, 2009.)

山下範久著『教養としてのワインの世界史』筑摩書房、2018年。

ビアトリクス・ホーネガー著、平田紀之訳『茶の世界史:中国の霊薬から世界の飲み物へ』白水者、2010年。

小澤卓也著『コーヒーのグローバル・ヒストリー:赤いダイヤか、黒い悪魔か』ミネルヴァ書房、2010年。

旦部幸博著『珈琲の世界史』講談社、2017年。

[17] 武田尚子の『チョコレートの世界史:近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石』中央公論新社、2010年。

[18] 山本紀夫編著『トウガラシ参加』八坂書房、2010年。

[19] ダン・コッペル著、黒川由美訳『バナナの世界史 : 歴史を変えた果物の数奇な運命』太田出版、2012年。

[20] ローラ・ワイス著、竹田円訳『アイスクリームの歴史物語』原書房、2012年。

[21] ウィリアム・ルーベル著、堤理華訳『パンの歴史』原書房、2013年。

[22] コリーン・テイラー・セン著、竹田円訳『カレーの歴史』原書房、2013年。

[23] ビー・ウィルソン著、月谷真紀訳『サンドイッチの歴史』原書房、2015年。

[24] キャロル・ヘルストスキー著、田口未和訳『ピザの歴史』原書房、2015年。

[25] ジーナ・ルイーズ・ハンター著、龍和子訳『昆虫食の歴史』原書房、2022年。

(「世界史の眼」No.32)

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「万国史」における東ヨーロッパ II-(1)
南塚信吾

II 多様な「万国史」の中で:明治14年まで(1870年代) 

 整備された文部省と明治5年(1872年)に出された学制のもとで「万国史」が積極的に出版された。明治6、7年から明治14年の政変までの時期は、それまでに支配的だったパーレイ的な見方とは違った「万国史」が出て来た。明治14年以後は「文明史」的な「万国史」で一色になるので、明治6年から14年までの時期は、パーレイ的でもなく「文明史」的でもない「万国史」が登場する非常に面白い時期である。

1. 作楽戸痴鶯訳編『万国通史』文部省 明治6-7年(1873-74年)

 まず最初に取り上げたいのは、作楽戸痴鶯訳編の『万国通史』である(これは国会図書館デジタルコレクションにある)。本書はイギリスのヘンリー・ホワイトの『普遍史概説』(Henry White, Outlines of Universal History, Edinburgh, 1853)の翻訳と思われる。なお、ホワイトは、この前にElements of Universal History, Edinburgh, 1848も出していて、岡崎は『万国通史』はこちらの本の訳だとするが、定かではない。ホワイトは、ケンブリッジのトリニティ・カレジでB.A. ハイデルベルクでM.A. とPhDを取っていた。

 作楽戸痴鶯(さくらど ちおう)は、山内徳三郎の筆名である。山内徳三郎(やまのうちとくさぶろう)(1844年-没年未詳)は旧幕臣で、幕府直属の旗本伊奈氏家臣の山内徳右衛門(1802年-1868年)の四男として京都で生まれた。徳三郎の長兄に山内作左衛門(1836年-1886年)、その下の兄に山内六三郎(のちの堤雲)(1838年-1923年)がいる。徳三郎は、長崎に遊学する前、19歳の時(おそらくは慶応元年(1865年))作左衛門について樺太へ旅している。徳三郎は、長崎遊学で医学者のアントニクス・F・ボードウィンに学んだが、その意図は医学の修行というより語学と化学の習得に主体があったようである。徳三郎はのちに医学ではなく、鉱山の調査開発の技師、地質学者としての道を歩むことになる。徳三郎がどのような経緯で『万国通史』の翻訳をするに至ったのかなどについては不明であるが、他の訳に、『西洋英傑伝』全6冊(明治8年)もある。

最後列中央の長身の人物が徳三郎

出典:森望:「幕末志士たちの解剖学講義」 | 解剖学ひろば (anatomy.or.jp)

 『万国通史』の構成は、上古史を除くと、次のようである。

中古史

第一篇 野蛮の入寇より帝国の滅亡に至る

第二篇 暗世中欧羅巴形勢の事

第三篇 中古時代有名なる各国の事

    東羅馬;日耳曼國;以太里國;西班牙國;欧洲北方國住民;佛國;不列顛島峡

近代史

第一篇 第一章 宗教改革の事

    第二章 宗旨改革同時代他の改革の事

第二篇 第一章 1688年の革命に至るまで大不列顛國の事を記す

   (第二章「革命後のイギリス」と第三章「第一革命までのフランス」が訳されていない。)

第三篇 第一章 日耳曼國の事を記す

    第二章 以太里國及び西班牙半島の事を記す

    第三章 ニーセルランドの事を記す

    第四章 魯西亜國及び北方諸國の事を記す

第四篇 第一章 東方諸国の事を記す

    第二章 亜墨利加の事を記す

    第三章 輓近欧州動乱の事を記す

 英語の原書と突合せたところ、歴史の初めについては、原書では「聖史」として聖書的に「創世」からローマ帝国までが述べられているが、訳者は専ら宗教に関することで「怪奇」なことも多いので、これを省略するとし、東方の諸国の歴史から述べ始めている。また、1688年革命(名誉革命)後のイギリスの歴史と「第一革命までのフランス」の歴史が訳されていない。しかし、この時期の普遍史としては、この『万国通史』は質の高いものであった。史実の記述の正確さのほか、これまでの万国史とは違って、ネイション単位の縦の歴史の並列ではないことが特筆される。

 ヨーロッパ東部で扱われているのは、ハンガリー、ポーランド、ボヘミア、ギリシアであるが、各国羅列的には出てこない。時代ごとに他の地域との関係で東部のヨーロッパが扱われている。

◎中古史

 ヨーロッパの東部が出て来るのは、中古史からである。ここでは、ハンガリー、ボヘミア、ポーランドが出てくる。

≪ハンガリー≫

 まずは、中古史第一篇「野蛮の入寇より帝国の滅亡に至る」のところで、野蛮の一つとして「アッティラ」と「ハンガリー」が出て来る。曰く、「フンス(フン族)の王にして威武を轟したるアッチラと云う猛将」がハンガリー、魯西亜の過半、北方の日耳曼におよぶ國を領していたが、これに足りずさらに東ローマの領地までも入手した。その後、西羅馬を得ようとして、ハンガリーのペストに「府」を構えたところで「暴死」したとある(中編上 28-31頁)。つぎに中古史第三篇の第二章「日耳曼(ゲルマン)國」のところでは、シャルルマーニュの死後、ドイツにダニューブ川近隣の人民が乱入してきたが、この人民は「ハンスの子孫」と察せられたため「ハンガリー人」と呼ばれたと出て来る(中編中 33頁)。フン族の王アッティラがハンガリーを作ったという説を採っているわけである。

 1400年代になって、ハンガリーとヲーストリアとは婚姻によって、ハンガリー国王の位がヲーストリア人の手に落ちた。ヲーストリア人はその領土を自国のなかに混合しようとしたが、ハンガリー人は頑固にこれを拒否した(中編中 41-42頁)。ハンガリーの国王がハプスブルク家から継続的に出るようになるのはモハーチの戦のあった1526年からであるが、15世紀にも二代ほどあったので、これは間違いではない。

≪ボヘミア≫ 

 同じく「日耳曼國」のところで、1273年にハップスビュルグハプスブルク)のルドルフが、ドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝)となったあと、ボヘーミアを攻めて、その王ヲットカルと戦闘、彼と和して、その地の領有を認め、それゆえルドルフはオーストリア、スチーリア、カリンシア、カルニヲラを領有したことが出て来る(中編中 37-38頁)。つぎに、ロクッセンビュルグ(ルクセンブルク)家のシギスモンドが1410年から1437年まで帝位にあった時のことが書かれる。この時、プラハのヤンハウス(ヤン・フス)と言う者ウイクリッフの主意を主張し初めて「宗旨改革」(宗教改革)の源を日耳曼國中に発した。シギスムンドはコンスタンツ会議にフスを呼び出し、これを処刑した。だが、これはボヘーミア本国に聞え、フス派は「暴烈の戦闘」を起こした。しかしこれはシオギスムンドに抑えられたとある(中編中 44-45頁)。ボヘミアについて詳細が書かれ、ヤン・フスのことが紹介されるのは、本書が初めてであった。

≪ポーランド≫

 第三篇第四章「魯西亜國及び北方諸國」のところでは、中世のポーランドの歴史が述べられる。ロシアの一州となったポーランドというスクラボニック(スラヴ人)の国は、ドイツ帝国の一部になったたが、14世紀初めのラジスロース(ラジスラス)四世のときに独立国となり、1333年から1370年のカッシミルゼグレート(カジミエシュ大王)は、領土を広げ、また 国内の状態を改めた。「此の時国民正に奴隷とも云ふべき卑陋の形態に陥りし時に投じ貴族意を恣にし獨立の權を示し殆んどポーランド國をして滅亡せしめん形成あり」。そこでカジミエシュ王は「貴族を威を取挫き」国民が安心できるようにしたというのであった(中編下 18-19頁)。これまでの万国史ではポーランド分割のことしか書かれていなかったが、本書では、ポーランドの歴史の重要な時期がきちんと押さえられている。

◎近代史

 近代史においては東部のヨーロッパについての記述は充実する。とくにハンガリーとポーランドが注目されている。

≪ハンガリーとトルコ≫

 近代史第一篇第一章「宗教改革」のところで、ドイツ、フランスが宗教改革によって混乱している機を狙って、トルコが日耳曼國を襲撃してきた。その中で、1531年、トルコの首長「第二世ソリマン」(スレイマン2世)がロードス島を奪い、さらにフランス国民に扇動されて「ヲンガリー國」に侵入して之を押領し、さらに大軍をもってウインナを包囲した。これに際し日耳曼國内では宗教による対立をしばし押さえ外的に対抗する約が成立、これを聞いて、シュルタン(スルタン)は兵を引いた(下編上 18-19頁)。

≪三十年戦争の発端としてのボヘミア≫

 第三篇第一章日耳曼國の節において、三十年戦争が論じられる。そこで、ボヘミアの位置が、正確に論じられている。宗教対立の中で、「新教徒がプラグユー(プラハ)に於て帝室の執政等に為したる所業」が「三十年の戦争」の発端となった。対して、旧教徒は維也納(ウイーン)の城門に集まった。1619年にフリードリッヒ2世が帝位に着くと、ボヘミアとモラビヤの二国はハプスブルクを捨てた。1620年にウ井センビルグ(ホワイトヒール 白山)にて両軍が戦い、旧教徒軍が勝って、ボヘミアとモラビヤは再びオーストリアに附属することになったという具合である(下編中 3-5頁)。

≪トルコとハンガリー・オーストリア≫ 

 三十年戦争の後、オスマン帝国の第二次ウィーン包囲の歴史が書かれている。1648年のウエストファリア講和の締結後、匈牙利國に於て新教徒が墺太利の管轄に抵抗して、ルイ14世の仏蘭西からの支援も得て、「噴發」した。このとき、匈牙利とポーランドを「蚕食」していた土耳古國人が「墺太利の威權を壓服」しようとして、1683年、ケラーモスタハ(カラ・ムスタファ)が大兵を率いて匈牙利國を横行し、維也納(ウイーン)を取り囲んだ。ヨーロッパ中がパニックになった時、ポーランドの「勇敢不屈」のヂョン・ソバイスキー(ヤン・ソビエスキ)が日耳曼各国からの兵を集めて、土耳古を撤退させた。これに対して、今度は、日耳曼兵が匈牙利國内の土耳古兵を追い出そうとする。しかし、「不幸なる匈牙利國人一般の救助になるを得ず」。なぜならば、「此國の地方によりては、久しき以前より、土耳古國人之を占領したりしかば、此地方の匈牙利國人は、殆ど土耳古國人の風俗に化せられ、其國體を失なひたり」。「然れども土耳古の管轄外の地方に於ては、数多のプロテスタント宗徒ありて、其中一人も回々教に入る者なかりき」。そういう人たちは、テキリー(テケリ)という一貴族の元に土耳古に抵抗せんと兵を起こした。トルコがウイーンに迫ったので、墺太利はそういうハンガリー人と妥協せざるを得ないと考えたが、ソビエスキの勝利が見えると、墺太利の兵はハンガリーを攻めてこれを平定し、1685年にハンガリーの皇帝選挙権を奪い取り、匈牙利をハプスブルク家「累代の領地」と定めた(下編中 22-24頁)。1685年の話は、1699年のカルロヴィッツ条約の事ではないかと思われるが、ほぼ当時の勢力関係を正確にとらえている。

 次に、マリア=テレジアの皇位継承問題が扱われる。墺太利皇帝第二世フレデリッキが1739年に死亡したとき、其子は只一人の女「マリーゼルサ」(マリア=テレジア)だけであった。彼女が帝位に就くのにほとんどの所領(領邦)が反対し、彼女は匈牙利に「走った」。幸い匈牙利はマリア=テレジアを支持した。

「マリーゼルサは今や詮方盡き、外に依頼すべき手段なければ、乃ち匈牙利國に走り、一旦其身の禍を避けたりし・・・」。かくて、「従来久しくハップスボルク家と通交する地方に住居したるスッラオニック(スラヴ)及び洪牙利人をして、彼を援けんと噴發せしむるに至れり。」(下編中 33頁)。

≪ポーランド分割≫

 第三篇第四章「魯西亜國及び北方諸國」のところで、ポーランド分割が書かれる。

「是まで波蘭國の歴史は別に詳明の記載なけれども、元来此國は政體確実ならず、始終外國の關渉を受け、貴族は傲慢なりて、人民は其過酷なるに苦しみければ、漸次に國威衰微し獨立國たるの勢いを失なへることは瞭然たるべし」(下編中 67頁)。

 露土戦争(1768-1774年)に際し、ポーランドが分割された。その露土戦争について、こう書いている。18世紀の末、イエズス会にそそのかされてポーランド人のカトリックが、ロシア領になっているかつてのポーランド領に支配を及ぼそうとしたのを機に騒動が起きて、逃亡したポーランド人を追って、ロシアがオスマン領に侵入したことを機に、露土戦争が起きた。これは不明であるが、原書にもそう書いてある。そして、「此戦争の最中、即1772年に当りて魯墺普の三國一致して、此防禦なき波蘭國を割取せんと約し、各その本國に近き地方を分ちたりしが、獨り魯西亜は此時獅子の割賦を得たり。」という(下編中 68頁)。

 次いで、フランス革命に際してまたポーランド分割が行われた。

「佛朗西動亂(仏蘭西革命)の際に、此國再度の分割ありしが、是1792年なり。是時に嘗てコスキスコ(コシューシコ)なる者の指揮に随て此國の人民獨立戦争を起こしたるが、是亦残忍に壓砕せられし後は、此國の成立全く絶へたり。是即1794年なり。蓋斯く滅亡せしめし事をば、當時欧羅巴の人、誰有て咎めざる者なかりし」 (下編中 68頁)。

 だれもポーランド分割を咎める者はいなかったと批判している。それはウイーン会議でも是正されることはなかった。ウイーン会議でポーランド人は「其本國の特許風習を公然と保有することを許准せられしが、一度此國民謀反を企てけれども、1831年にワルソーを取られ、其鎮定に及びける後は、魯國は掠略地として之を所置せり」(下編中 69頁)。

 ロシア領ポーランドだけを詳しく書いているが、この時期の日本において、ポーランド分割は、強い関心事であった。

≪希臘≫

 近代史の終りの方、第四篇第一章東方諸国において、ギリシアが扱われる。

 ギリシアはオスマン帝国の支配下にあった。それは1500年代に土耳古には優れたスルタンが輩出したからで、領土をアジアとヨーロッパに拡大し、ヨーロッパのほうでは、「希臘全國且匈牙利過半も」領土となった(下編下 2頁)。

 そのギリシアの独立の過程が述べられる。「希臘國の都たるヂヤニナ(ヤニナ)國のパソー(パシャ)アリーテブレン(アリ・テベレン)なる者」、独立を企てたが、1822年に大敗した。然れども、騒動はまだ終わらなかった。「蓋希臘國の人民、多くは西教徒なりしを以て、土耳古の管轄を脱せんと希へるを以てなり」。土耳古政府は「麥西(エジプト)國のパソーの兵隊の援を以て」これを押さえんとし、残忍なる戦争を続けたので、「西方欧羅巴人の心を感動せしめ」「西教を奉ぜる人民にて且其昔文明名ありし希臘人の子孫の今モハンメンダン教を奉ぜる所の國に抵抗して、其獨立を謀るを援けんと奮發せり」。英国の艦隊を主とする艦隊が、ナワリーノにおいて勝利し、「パソー」の兵を撤去させた。そして1833年、希臘独立の商議が成って、「希臘はバワリアの公子オゾなるものを奉じて」独立國となった(下編下 8-9頁)。

 これまでの「万国史」以上に詳細な記述になっている。当時の日本においては、ギリシアの独立は強い関心を持って見られていたのである。

◎輓近欧州動乱

 最後に、フランス革命を含め、輓近欧州動乱を論じているところでは、東部ヨーロッパについては、1848年革命期のハンガリーが扱われている。佛朗西の動乱(フランス革命)、1830年の改革、1848年の動乱が述べられて、そのなかには、ソシアリスト、コンミュニストの登場などが出て来る。1848年については、ハンガリーを中心としてこういう記述が出てくる。

「墺地利亜(オーストリア)の所領に於て、此動亂の結果は尚一層不幸に陥れり。夫れ以太里(イタリー)は復容易に壓服せられ、又墺國政府の為す欺詐に由て、逐次に蠢食せられ、遂に其國の獨立を失なへるなりと、兼て痛心せる匈牙利(ハンガリー)國民の鋭意なる首謀者は、此機に投じて、其舊政體を恢復せんと企て、且帝都維也約(ヴィエナ)も一揆を醸もしければ、帝は奔て之が災を避けたり。是に於てクローチアの人民、其首長に從ひ、其の他墺國所轄の内に列したる、半開の人種等と共に、此一揆鎮壓の為に、其兵隊を編成し、乃維也約都を砲撃し遂に此都を降せり。然るに勇敢なる匈牙利國民は、尚抵抗して、未だ少しも畏縮せる色なきを以て、魯國の助勢を依頼し、遂に彼等をも壓服したり。此時其首謀輩は、數多鄰國の土耳古に脱走しけるを以て、魯西亜帝土耳古に之を交付することを要責せしけれども、英國政府の保護あるを頼み、土耳古政府は決然として、之に從うをなささりき」(下編下 53頁)。  

 この事実関係はほぼ正しい。オーストリア、イタリア、ハンガリー、クロアチア、そしてロシアとトルコ(オスマン帝国)の動きを相互に関係させて論じているのは、出色である。とくにクロアチアの動きが描き出されているのは、日本では初めてであろう。

 なおこの19世紀中頃において、ハンガリー以外のヨーロッパ東部は出てきていない。

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 以上見てきたように、作楽戸痴鶯訳編『万国通史』においては、ヨーロッパの東部はこれまでの万国史よりもずっと多く詳しく正確に、しかも時代の動きに組み込まれた形で出て来る。主なものは、ハンガリー、ポーランド、ボヘミア、ギリシアであった。ボヘミアがしっかりと登場し、フス派の動きが書かれていたり、ポーランドの歴史が「分割」以外にも書かれていたり、1848年革命について諸民族の複雑な関係が書かれていたり、これまでのパーレイ的な「万国史」を超える記述が出てきている。

 この『万国通史』の特徴をまとめるならば、

  1. 原書の「聖史」を省略して世俗史として歴史を考えていた。
  2. ヨーロッパ史が中心であるとはいえ、さらに各国史的であるとはいえ、明治期最初のしっかりとした世界史でアジアなどもその範囲に入っていた。
  3. パーレイのような諸国の歴史の並列ではなくて、諸国間の関係を押さえ、また時代性を捕まえようとしていた。
  4. ヨーロッパの東部の歴史も西部の歴史の「付属」としてではなく、それ自体として直視していた。

 このような「万国史」はその後どのように受け継がれ発展させられたのであろうか。

(続く)

(「世界史の眼」No.32)

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