月別アーカイブ: 2022年12月

「世界史の眼」No.33(2022年12月)

今号では、『真珠の世界史 – 富と野望の五千年』(中公新書)の著者でもある山田篤美さんに、「なぜ真珠は歴史研究で看過されてきたのか」と題して論考をご寄稿頂きました。また、南塚信吾さんには、「世界史寸評 ウクライナ戦争への新たな見方」を寄せて頂いています。

山田篤美
なぜ真珠は歴史研究で看過されてきたのか

南塚信吾
世界史寸評 ウクライナ戦争への新たな見方

カテゴリー: 「世界史の眼」 | コメントする

なぜ真珠は歴史研究で看過されてきたのか
山田篤美

はじめに

 古代ローマのプリニウスは、『博物誌』第9巻において「貴重品の中でも第一の地位、最高の位が真珠によって保持されている」(中野定雄他訳)と記し、最後の巻にあたる37巻では「純粋で単純な産物に戻ることにして、もっとも高価な海の産物は真珠であり、地表にあるものでは水晶であり、地中にあるものではアダマス(ダイヤモンド)、スマラグドゥス(エメラルド)、各種の宝石、そして蛍石の器である」(同)と述べている。この後、プリニウスはシナモン、琥珀、乳香、象牙、べっ甲など様々な高価な物に言及し、「あらゆる創造の母なる自然に幸あれ。そしてローマ人のうちで、わたしのみがあらゆるあなたの顕現を賛嘆したことを心に留め、わたしに仁慈を賜わらんことを」(同)と締めくくっている[1]

 一方、10世紀前半のスィーラーフ出身のアブー・ザイド・アルハサンは『中国とインドの諸情報―第二の書』の中で次のように述べている。

 インドと中国の海は、「海中に真珠と竜涎香あり。その岩礁に宝石と黄金の鉱山あり。その海獣の口に歯牙あり。そこに生育する植物に黒檀、蘇芳木、ラタン、沈香木、竜脳香、ニクズク、丁香、白檀、その他のすべての良質の美味な香料類あり……かくの如くに、その海の神の恩恵は余りにも多すぎて、その一つひとつを数えあげることは誰にも不可なり」と譬えられている(家島彦一訳、()の文言を優先して掲載)[2]

 興味深いのは、プリニウスもアブー・ザイド・アルハサンもさまざまな貴重な交易品を列挙する中、真珠を冒頭に置いていることだろう。このように古今東西の一次文献をひもとくと、真珠が重要視されていることを示す文言に出会うことは少なくない。

 それにもかかわらず、真珠は歴史研究の多くの分野で見過ごされてきた。特に次の二つの点で看過されてきた。第一に、ヨーロッパ人やアジア人などほとんどの民族が追い求めた高価で希少な交易品としての真珠の意義である。第二に、真珠のとれる海域の経済的重要性である。天然真珠時代、真珠はどこの海でも採れるわけではなく、むしろ真珠が採れる海域は限られていた[3]。別の海域への真珠貝の移植は早くから試みられたが、真珠貝は生育条件が難しいため、それほど成功しなかった[4]。つまり真珠の採れる一部の海域が真珠の海として存在し続けてきたのである。真珠が希少で高価な品ならば、その真珠を育む海域は富の生まれる場所といえるだろう。それゆえ沿岸部や遠方の政治勢力などがその真珠の海に進出し、海域支配を試みてきたことは想像に難くない。しかし、そうした視点から真珠の海の経済的重要性や地政学的重要性が論じられることはほとんどなかった。こうしたことをふまえ、本稿では真珠看過の理由について考えてみたい。

従来の歴史研究の傾向

 真珠は時代をリードした著名な研究でなぜか見過ごされていることが多い。一例を挙げると、アンソニー・リードの『大航海時代の東南アジア』では真珠は交易品として論じられていない[5]。東南アジアの海域は、アコヤ真珠貝やクロチョウガイ、シロチョウガイなど今日の真珠養殖の主要な真珠貝であるピンクターダ属の発祥の海域と見なされている[6]。真珠貝の豊かな海域の交易研究でも真珠や真珠貝は看過されてきたのである。

 古代日本に目を向けると、『魏志倭人伝』には卑弥呼の後を継いだ壱与が中国に白珠五千孔などを献上したことが記されている。「白珠五千孔」はおそらく通糸連となった白い真珠と考えられる。天然真珠時代、真珠5000個はたいそうな量であった。それだけの量を集めるには多くの海人と真珠貝が豊富な海域が必要であるが、真珠が日本のどの海域で採取されたのかという観点から邪馬台国が論じられることはあまりないように思われる[7]

 こうした事例に見られるように、真珠や真珠の海域の重要性は十分認識されてこなかった。インド洋海域史や古代日本史だけでなく、西洋史や東洋史の多くの分野、グローバルヒストリーや近代世界システム論、海人研究などの民俗学の分野でも真珠は取り上げられていない場合が少なくない。

 その一方で、真珠の重要性を認識していた研究者も早くから存在する。日本で家島彦一が、真珠採集とそれをめぐる人間の動きがインド洋海域世界の歴史展開に大きな影響を及ぼした可能性を指摘し[8]、佐々木達夫はペルシア湾岸のジュルファル遺跡の交易港としての繁栄と真珠採取との関連性を議論している[9]。保坂修司は天然真珠時代のペルシア湾の真珠採取の実態を明らかにし[10]、筆者自身も『真珠の世界史』(中公新書)で真珠の重要性を論じてきた。最近では小谷汪之が「戦前パラオの真珠産業と『南進熱』」を発表し、南洋諸島における真珠産業を石川達三の著作などを通して論じている[11]。海外ではエンリケ・オッテのLas perlas del Caribe やR. A. ドンキンのBeyond Price; Pearls and Pearl-Fishingなどをはじめ、重要な研究は少なからず存在する[12]。2019年には近現代のインド洋世界の各海域の真珠史を扱った論文集Pearls, People, and Powerが上梓された[13]。近年、真珠史研究の隆盛の兆しもあるが、大勢として真珠が歴史研究で看過されてきたことは否定できないだろう。

真珠看過の理由

 なぜ真珠は重視されてこなかったのだろうか。それにはさまざまな理由があり、それらが複合的にからんでいるが、筆者自身は以下に述べる理由があると考えている。

 第一に、真珠という物品の特殊性だろう。真珠は高価で小さなモノであり、アジア社会では伝統的に金銀と交換されてきた換金商品であった。隠匿、密輸、過少申告が流通形態の主流を成し、真珠の売買では相対取引となる場合も少なくない。オリエント世界における真珠や宝石の相対取引では、取引税や関税を避けるため、売り手も買い手も一言も発せずに、特定の指を押すことで値段の交渉を行う「サイレント・バーゲニング」という手法もよく使われた[14]。こうした秘密裏の取引決済は、金銀などによる即決の現金決済が一般的で、領収書を残さない。つまり真珠の取引は、売り手も買い手も黙したまま、多くの金銀が密かに動くインフォーマルな取引であった。実証が難しい真珠や宝石の流通は、アーカイヴ・リサーチを重視する歴史研究から概して抜け落ちることになったと考えられる。

 第二の理由は、1970年代から80年代以降、歴史学の大きな潮流となった世界システム論などにおける農業や生活必需品重視の傾向だろう。ウォーラーステインの近代世界システム論などでは、主に農業に基づくヨーロッパ資本主義の発展というテーゼに基づいて、陸地に根差した農業生産や鉱山開発に関心が置かれる一方で、宝石やスパイスなどの「奢侈品」全般は重視されていない。ウォーラーステインは「奢侈品の交易は……大西洋世界の発展といった壮大な事業の背景としては弱すぎるし、そこから『ヨーロッパ世界経済』の生成を説明するのは無理だと思われる」(川北稔訳)と述べ、「長期的にみれば、奢侈品よりは基礎商品ステイプルの方が、経済活動をより強力に推進する」(同)と説明している[15]。このように経済発展の観点から奢侈品は過小評価されるようになった。農業重視は水産業の軽視の裏返しでもあるが、それは漁業が沿岸部の漁民が魚を釣って自分で食べる自営的で局所的な産業と見なされたからではないかと筆者自身は考えている。

 真珠看過の第三の理由は、従来の歴史研究が一国史研究であったことにも関係するだろう。一国史研究だと国民国家の中の陸地における歴史の様相をとらえた叙述となりやすい。そのため国と国の間の海域やその歴史は必然的に捨象されてきた。しかし、水産資源を生み出す海域があれば、国境とはかかわりなく、湾岸部の住民が海の富を享受する共通の漁撈文化を発達させたことは容易に理解できる。真珠史研究は沿岸部のどこか一地点だけというよりも沿岸部における漁撈文化の共通性や海域支配の在り方といった広域俯瞰で考える必要があるが、一国史研究ではその広域俯瞰がなされてこなかった。

 他方、近年の歴史研究では、海域を人間の活動領域の主舞台と見なす海域史研究が盛んになっている[16]。ただ、そうした海域史の領域では海域を移動の場とする海上交易や交易圏に主眼が置かれており、海から富を引き上げる真珠採取などの水産業についてはあまり関心が示されていないように思われる。

日本の真珠養殖業の発展が真珠の特徴を大きく変える

 こうした理由に加え、筆者自身が真珠看過のもうひとつの重要な要因と考えているのが、20世紀初めに日本人が世界で初めて成功させた真珠養殖業の発展が、真珠の価値、大きさ、色、形、生産方法、産地などを大きく変えたという事実が十分認識されていないことである[17]。言い換えると、今日、天然真珠を採取している国はバハレーンを除くとほとんど存在しないため、天然真珠時代の真珠貝の生態、真珠採取の在り方、生体物としての真珠の特徴を多くの歴史研究者が理解できなくなっていることにも要因があると思われる。

 まず養殖真珠の大量生産は、天然真珠の希少性を失わせ、価格を暴落させたため、それによって真珠は20世紀初めまで宝石として扱われてきた高価で希少な品であり、権威や富を示す威信財であったことが一般に忘れられてしまった。真珠史研究をしていると、真珠は宝石ですかという質問を受けることは少なくない。

 次に真珠養殖業は、真珠のサイズを大きくしたため、天然真珠時代の標準の真珠は二級品の小さな真珠と見なされるようになり、重要視されなくなったことが挙げられる。天然のアコヤ真珠は直径3ミリ程度から5ミリ台、6ミリ台が標準であり、直径1~2ミリのアコヤ真珠も「ケシ真珠」として商品価値をもっていた。遺跡の発掘調査などで真珠が出ても、小さな真珠は十分な考察の対象にならず、その後、行方不明になっている場合などもある[18]

 今日では真珠は直径であらわされるが、天然真珠時代、真珠はグレーン(0.05グラム)やカラット(0.2 グラム)などの重量で、しばしば合算されて示された。真珠をグレーンやカラットなどの重量で聞き、その真珠の大きさや価値を理解できる歴史研究者はどれくらいいるだろうか。ちなみに1グレーンの真珠は直径3.32ミリであり、1カラットの真珠は直径5.23ミリである[19]

 さらに、先述したように、かつては一部の海だけが真珠を生み出すことができたが、真珠養殖業における垂下式筏の発明によって、今日ではかつて真珠が採れなかった海域でも真珠が養殖できるようになった。そのため天然真珠時代には真珠の採れる海域は限られていたという事実が十分認識されておらず、真珠の採れる海域の希少性や経済的重要性、ひいては真珠の海が誘発した海域への進出やその支配の実態が見過ごされてしまったといえるだろう。日本人が発明した真珠養殖業があまりに成功したため、それが逆に天然真珠の重要性を曇らせてしまったといえるかもしれない。

 日本人特有の理由としては、日本人は伝統的に真珠や宝石よりも古い茶碗や陶磁器を好んできた歴史がある。こうした点はすでに16世紀のオランダ人リンスホーテンなどが指摘しているところである[20]

おわりに

 以上述べてきた種々な理由によって真珠は歴史研究では忘れられたテーマとなってきた。したがって、真珠を加えて歴史を見るとまた別の様相が見えてくる可能性がある。

 筆者自身は、貴金属とスパイスの観点ばかりから大航海時代が語られることに疑問があり、この時代に真珠を加えたいという思いをもっていた。それが研究動機となり、アコヤ真珠の採れるペルシア湾、マンナール湾(インドとスリランカの間)、南米カリブ海の三つの海域における16世紀史を長年研究してきた。大航海時代に真珠を加えた時、そこから見えてきたのはヨーロッパ人による水産業の重要性であった。南米ではスペイン人が先住民やアフリカ人を潜水労働に使役する奴隷制水産業を発展させており、真珠を介した大西洋奴隷貿易が16世紀前半にすでに形成されていた。マンナール湾岸ではフランシスコ・ザビエルらイエズス会がインドの真珠採り潜水夫を囲い込み、ポルトガル海軍も出動して彼らに真珠採取を行わせた。真珠採取の水産業は自営的で局所的ではなく、世界の諸地域を関連させるグローバルなものであった。宣伝めいた記述となり恐縮であるが、こうした研究成果をまとめた拙著『真珠と大航海時代』(山川出版社)がこの11月に発刊されたので、興味がある方はご覧いただければ嬉しく思う。

 真珠は歴史研究では人々が思う以上に見過ごされてきたテーマだった。したがって、真珠から歴史を見ると、あまり知られていない歴史的事象が浮かび上がることが少なくない。真珠史研究はまだまだテラ・インコグニータといえるだろう。真珠の歴史やその研究に関心を持つ人が増えてくれればと考えている。


[1] プリニウス(中野定雄他訳)『プリニウスの博物誌』(雄山閣出版、1986年)、第1巻415頁、第3巻1542頁。

[2] アブー・ザイド・アルハサン(家島彦一訳)『中国とインドの諸情報―第二の書』(平凡社、2007年)、85頁。

[3] 山田篤美『真珠の世界史』(中央公論新社、2013年)、8∼17頁。

[4] アレクサンダー・フォン・フンボルト(大野英次郎他訳)『新大陸赤道地方紀行』(岩波書店、2001年)、上巻164頁。

[5] アンソニー・リード(平野秀秋他訳)『大航海時代の東南アジア』(法政大学出版局、1997年・2002年)。

[6] 正岡哲治他「アコヤガイ属の系統および適応放散過程の推定」猿渡敏郎編『泳ぐDNA』(東海大学出版会、2007年)、24∼25頁。

[7] 山田『真珠の世界史』、27∼33頁。

[8] 家島彦一『海が創る文明』(朝日新聞社、1993年)、155頁。

[9] 佐々木達夫「ペルシア湾と砂漠を結ぶ港町」歴史学研究会編『港町と海域世界』(青木書店、2005年)、269~296頁。

[10] 保坂修司「真珠の海(1・2)――石油以前のペルシア湾」『イスラム科学研究』第4号(2008年)、1~40頁、第6号(2010年)、1~31頁。

[11] 小谷汪之「戦前パラオの真珠産業と『南進熱』(上・下)」及び「補遺」『世界史の眼』( 3月 | 2022 | 世界史研究所Reserch Institute for World History (riwh.jp)4月 | 2022 | 世界史研究所 Reserch Institute for World History (riwh.jp) )

[12] Enrique Otte, Las perlas del Caribe (Caracas: Fundación John Boulton, 1977); R. A. Donkin, Beyond Price: Pearls and Pearl-Fishing (Philadelphia: American Philosophical Society, 1998).

[13] Pedro Machado et al. eds., Pearls, People, and Power (Athens: Ohio University Press, 2019).

[14] François Pyrard, The Voyage of Francois Pyrard of Laval, trans. Albert Gray (New York: Cambridge University Press, 2010), vol. 2, pp. 178-179, note 1.

[15] I. ウォーラーステイン(川北稔訳)『近代世界システム(1)』(名古屋大学出版会、2013年)、32頁。

[16] 家島彦一『海域から見た歴史』(名古屋大学出版会、2006年)、1~7頁

[17] 日本の真珠養殖業がいかに真珠の特徴を変えたかについては、山田『真珠の世界史』、172∼191頁を参照。

[18] 筆者がある埋蔵文化財センターで体験したエピソードである。

[19] 真珠の重量と大きさについては、G. F. Kunz and Charles Hugh Stevenson, The Book of the Pearl (New York: Dover Publications, 1993), p. 328を参照。

[20] リンスホーテン(岩生成一他訳)『東方案内記』(岩波書店、1968年)、255∼256頁。

(「世界史の眼」No.33)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

世界史寸評
ウクライナ戦争への新たな見方
南塚信吾

 2022年10月22日、セルビア在住の旧友山崎洋氏を世界史研究所に迎えて、セルビアから見た現在のウクライナ戦争について話をしてもらう機会を得た。山崎氏は、ゾルゲの僚友であったヴーケリッチのご子息であり、さすがに情報の入手も一目置くべき所があった。氏との話で、日本のメディアなどでのウクライナ戦争についての言説には強調されない論点がいくつかあったので、それをまとめてみたい。おりから、日本でも寺島隆吉『ウクライナ戦争の正体』1,2(あすなろ社、2022年)や下斗米伸夫『プーチン戦争の論理』(集英社インターナショナル、2022年)などが、それに通底するような議論をしているので、それらを少し交えて整理してみたい。

 山崎氏が開口一番話したのは、日本のマスコミなどでのウクライナ情報がアメリカ一辺倒だということであった。ウクライナのゼレンスキーを英雄視し、プーチンを一方的に悪者扱いしているのは、驚きであるという。セルビアなどではもう少し是々非々の見方をしているというのである。そういう見方からすると、どうなるのか。

 (1) 山崎氏によれば、ウクライナ戦争は表面に現れた事象であり、実質的にはロシアとアメリカの第三次世界大戦だという。2004年の「オレンジ革命」や2014年の「マイダン革命」は、たんにウクライナ国民の民主化要求の表れと見るのではなく、そこへのアメリカの介入を見るべきである。アメリカの目標は冷戦後も残った共産主義体制の打倒である。オースティン米国防長官が、アメリカの目標はロシアの弱体化にあると述べたのは、そのことを意味している。アメリカが実質的に交戦国なのである。NATOのストルテンベルク事務総長は、NATOの加盟国が長年、装備、訓練、指揮に関してウクライナを支援してきたと言明しているではないか。こういうアメリカの対ウクライナ戦争については、キシンジャー、ブレジンスキーの役割を重視すべきである。ほぼこういう議論である。

 これに類する議論は、寺島氏や下斗米氏も行っている。とくに「マイダン革命」が問題になる。寺島氏は、アメリカの一貫した戦略の中で、今回の戦争は起きているのであり、2014年の「マイダン革命」はアメリカの仕掛けたクーデターであったという。のちにオバマ元大統領も認めているとおりである。ヌーランド前国務次官補も、アメリカが40億ドルも投じてきたと発言している。そしてその指令は当時のバイデン副大統領だったと、寺島氏は強調している。下斗米氏はもう少し慎重に多角的に議論しているが、趣旨はこれに通じている。氏はアメリカの対東欧、対ウクライナ政策を歴史的に検討し、アメリカの一貫した狙いを明らかにしている。その中で、ヌーランド発言などを確認したうえで、マイダン革命は、「米国と親NATO勢力が使嗾(しそう)した」、「クーデターまがいのマイダン革命」と位置付けている。100人以上の死者を出した2月の発砲事件についても、「ジョージア系スナイパー部隊」のやったことではないかと示唆している。

 (2) 山崎氏は、「NATOの東方拡大」について、こう指摘する。ロシアは、侵攻に先立ち、アメリカ政府に対し、「NATOの東方拡大の停止」を文書で約することを求めたが、アメリカは拒否した。バイデンが「イエス」と答えれば、戦争はなかったのではないかと。こう簡単ではなかったとは思われるが、「NATOの東方拡大」についての交渉の経過や、そこでの妥協の余地などについては、下斗米氏が詳細に検討して、クリントン政権に始まり、ブッシュJr.政権、オバマ政権が一貫して「東方拡大」を追求してきたことを明らかにしている。そこからは、米政権内部での意見の相違や、米ロの微妙なずれも明らかになっている。とくにジョージ・ケナンなどの批判などを挙げている。とりわけ、「旧ソ連」領の内部にまでNATOを拡大することに、プーチンは強く危惧していたこと、キシンジャーさえも批判していたことが指摘されている。

 (3) 山崎氏は、ウクライナ内部での「ネオ・ナチ」の力に注目している。ウクライナでナチス時代の記章やスローガンが見られるようになるのは、2014年の「マイダン革命」と呼ばれるクーデターの時からだという。「アゾフ大隊」などがそうだ。ネオ・ナチは、運動の暴力的な性格から、數に比して社会に与える影響が大きいというのである。そして、2015年のミンスク議定書は、過激派の準軍事組織とアメリカの反対によって、実現しなかったし、ゼレンスキーは和平を公約して当選し、就任後すぐにドンバスへ視察に赴いたが、過激派の武装集団に追い返され、対話はできなかったというように、過激派=ネオ・ナチの役割を強調した。「過激派の武装集団に追い返され」たという点は確認できなかったが、「ネオ・ナチ」については、寺島氏も、ネオ・ナチの「アゾフ大隊」などは2014年から登場したとしている。下斗米氏も、2014年の「マイダン革命」において、「反政府系の右派センターや「自由」など民族急進派、さらにネオ・ナチ勢力」が武力行使をして、政権を倒したとしている。また、就任当初は和平を目指したゼレンスキーがNATO加盟に舵を切ったのも、「民族右派やネオ・ナチの圧力」があったのだという。

 (4) 山崎氏は、東部ドンバスの問題に特に注目していた。いわく、2014年以後のドンバスでは、ロシア語が公用語の地位を奪われ、人口の2割を占めるロシア人は無権利状態に置かれたと感じ、ドンバスのロシア系住民の反乱がおこった。先述のように、2015年のミンスク議定書は、過激派の準軍事組織とアメリカの反対によって、実現しなかった。またゼレンスキーは就任後すぐにドンバスへ赴いたが、過激派の武装集団のために、対話はできなかったと。同じような議論は、寺島氏もしている。ドンバスへのウクライナの攻撃というのが実態で、キエフからドンバスへの攻撃は計画的であり、過激派集団によるものであり、その際、ドンバスでウクライナ軍と戦っていたのは軍人ではなく炭鉱労働者であったとしている。下斗米氏は、「マイダン革命」後、新政権が、ロシア語を公共圏から締め出したため、ウクライナ語が強制され、ロシア語話者が多い東部ドンバスの二州では親ロ派による武装反乱がおこったこと、また極右派の政権入りに、東部ロシア語話者地域の住民が猛反発して、一部は武装反乱に及んだことを指摘している。そして、下斗米氏は東部の停戦と安定化のためのミンスク合意に注目している。

 山崎氏が東部ドンバスに注目するのは、ユーゴスラヴィアにおいて難しい問題であった「民族問題」ないしは「マイノリティ問題」に通じるからである。このドンバス問題に限らず、氏は、アメリカにとってかつてのユーゴ紛争は今回のウクライナ戦争の「演習場」だったのだと考えている。以上のような山崎氏の、ユーゴ的な観点からのウクライナ戦争論は、日ごろ欧米や日本での議論に疑問を感じているものには、「してやったり」という感じのものであった。

 おりしも、11月18日に、森喜朗元首相が、「ロシアのプーチン大統領だけが批判され、ゼレンスキー氏は全く何も叱られないのは、どういうことか。ゼレンスキー氏は、多くのウクライナの人たちを苦しめている」と発言し、ロシアのウクライナ侵攻に関する報道に関しても「日本のマスコミは一方に偏る。西側の報道に動かされてしまっている。欧州や米国の報道のみを使っている感じがしてならない」と指摘したと報じられている。これはさっそく批判されているが、今回の山崎氏の話からすれば、的外れではないことになる。山崎氏の発言は欧米一辺倒の見方をただすきっかけになるかもしれない。

 なお、山崎氏との対話との関係で寺島氏や下斗米氏の著書をつまみ食いしてみたが、両書は日本での欧米よりのウクライナ観を相対化するのに必読の書であることを付記しておきたい。

(「世界史の眼」No.33)

カテゴリー: 世界史寸評 | 1件のコメント