「万国史」における東ヨーロッパ II-(2)
南塚信吾

2. 西村茂樹編『校正万国史略』1872年(明治5年)~1876年(明治9年)

 千葉の下野の佐野藩の出であった西村茂樹(1828-1902年)は、親藩であった佐倉藩の堀田正睦との関係で、幕府の貿易取調御用掛に任じられた。安政3年(1856年)、伊豆下田にアメリカの総領事ハリスが来て幕府に開港を迫ったとき、茂樹の主、佐野正睦は、外交事務を取るようになり、茂樹らは、私的秘書として、外交の文書を取り扱うよう命ぜられた。茂樹は幼い時から儒学を習っていたが、嘉永4年(1851年)、24歳の時に、佐久間象山に師事して蘭学を志した(二五歳の時に親友木村軍太郎に学び始めたともいう―古垣光一『西村茂樹全集』第5巻 789頁)。だが、その後10年ほどして、文久元年(1861年)(35歳)から手塚律蔵の門に入って、蘭学のほかに英学を学んだ。廃藩置県ののち、佐倉に閑居して、翻訳業に専心する構えであったが、まもなく居を東京に移し、堀田家の隅に家塾を開いた。

 和蘭語を使った最初の訳書が西村鼎(後に茂樹)譯、袁惄(ウェインネ)著『百代通覧藳』で、原著はWijnne, J. A. Beknopt leerboek voor de algemeene geschiedenis, 3 vol., Gromingen, 1856である(原著は宮内庁図書室に所蔵という)。これは出版にはいたらなかった。次いで、和蘭語を使った訳書が『泰西史鑑』であった。『西村茂樹全集』第七巻のあとがきによれば、これは、ドイツのヴェルタ―の書Welter, T.B., Lehrbuch der Weltgeschichte fur Gymnasien und hoehere Burgerschulen, 3 vols., Munster, 1826-28をオランダのベルクが訳したものHandboek voor de algemeene geschiedenis voor gymnasien en opvoedingsgestichten, 1835(I,II), 1852(III)を翻訳したものという。そしてこのベルク訳は、慶応3年(1867年)ごろに友人の神田孝平より贈られたものであるという(第7巻 875―876)。これは、明治2年(1869年)から14年(1881年)にかけて翻訳、出版された。

 この間、慶応3年には『万国史略』を訳述し、明治2年(1869年)に『万国史略』として出版していた。これは、「万国史」と名のついた最も早い書であった。この『万国史略』はスコットランドのタイトラーのAlexander Fraser Tytler, Elements of General History, Ancient and Modern, Edinburgh(1.ed., 1801)の翻訳である。だが、これは古代ギリシア史までしか訳されていなかった。また歴史学の方法などを論じていた原書の序論は訳されていなかった。そこで西村は明治5年ごろから、この『万国史略』の校正を始めた。しかし、ウィンネやヴェルターの訳をしているうちに、新しい知見も加わったようで、作業は単なる『万国史略』の校正ではなく、ほとんど別のものと言っていいものになった。それが、明治5年(1872年)から明治9年(1876年)にかけて出た『校正万国史略』であった。

 なお、西村は、明治6年(1873年)に、福沢諭吉、中村正直、加藤弘之、津田真道、西周、箕作麟祥、箕作秋坪、神田孝平らと「明六社」を結成したのち、同年、森有礼に推されて文部省編書課長になり、教科書の編集・刊行に力を尽くした。明治13年(1880年)に、編書課と翻訳課を合わせて編輯局が作られると、その局長となった。やがて、明治18年に新内閣の成立によって官制改革があると、西村は、翌年、文部省を辞めて、宮中顧問官に任ぜられた。この後は、道徳教育のための活動をすることになる。

***

 『校正万国史略』の構成は以下のようである。

上古ノ史上

 人類ノ始 大洪水; 巴比倫(バビロン)、亜述(アッシリア);馬太(メジイ);埃及;以色列(イスラエル);腓尼基(フェニキイ);波斯ノ史

上古ノ史中

 希臘ノ史;馬基頓(マケドニア);亜歴山得大王

上古之史下

 羅馬ノ史

  

中古ノ史上

 東羅馬、比利敦(ブリテン)、仏朗克(フランス)、亜剌伯:摩蛤麦(マホメット)、回教ノ大教師(カリフ)など

中古ノ史中

 日耳曼、法蘭西、英吉利、東羅馬、西班牙、大教師国、土耳古、十字軍(第一次~第四次)ノ史など

中古ノ史下

 十字軍(ラテン帝国)、日耳曼、法蘭西(フランス)、英吉利、西班牙葡萄牙、魯西亜及ビ阿多曼(オットマン)土耳古ノ史など

  

近世ノ史一

 亜米利加ノ検出、意太利、日耳曼法蘭西ノ戦、教法改正、西班牙葡萄牙、日耳曼、呢特蘭(ネーデルラント)、法蘭西、英吉利ノ史

近世ノ史二

 呢特蘭、法蘭西、西班牙葡萄牙、英吉利、北部東部欧羅巴、魯西亜、瑞典ノ史

近世ノ史三

 西班牙国継ノ乱、欧羅巴諸国ノ史、七年ノ戦争、英法二国ノ戦、北亜米利加合衆部ノ独立、東印度、魯西亜波蘭、瑞典丁抹、日耳曼ノ史

近世ノ史四上

 法蘭西革命ノ大乱、欧羅巴ノ諸国法蘭西ヲ伐ツ、法蘭西人墺址利ヲ撃ツ、法蘭西国首領政治、拿破侖帝位二登ル、欧羅巴ノ諸国、拿破侖ノ敗

近世ノ史四下

 法蘭西、日耳曼、西班牙葡萄牙、意太利瑞西、欧羅巴北東、英吉利、希臘国ノ再興、比利時(ベルジューム)ノ自立、波蘭ノ乱、亜墨利加諸国、魯西亜ト土法英トノ戦、撒丁王意太利ヲ統一、普魯西墺地利、英国属地、合衆国南部ノ叛乱、普魯西法蘭西ノ戦

***

 構成に関する限りで、『校正万国史略』の特徴を整理しておこう。

  1. 歴史の起源は聖書に基づいて書かれていた。タイトラーの原書は全く聖書を脱していたので、聖書による創世の部分は別の本(例えばヴェルター)に拠っていたのではないだろうか。ギリシア以後は世俗史になっていた。実は、先の『万国史略』では、「上古」の始めにおいて、「天地草昧の初めにあたり、人類の状、果たして如何なるか、詳かに之を究めんとするは、容易に得べきことに非ず、吾儕今日に当り、太古の事を尋釋(じんしゃく)せんとするに、伝記の証拠と為るに足る者なし」と述べて、「大洪水」から「上古」の歴史を書くことを拒否していた(『西村茂樹全集』第9巻、9)。その意味では、『万国史略』はレベルの高い書であった。パーレイ的な万国史ではなかったので、早くに完訳が出ていれば、明治初期の「万国史」の様子は変わっていたかもしれなかった。
  2. ギリシア以降の世俗的世界の構成は、パーレイの本と違って、単なる各国史の並列ではなかった。時代区分を設定して、「人類の始」から「羅馬」の滅亡までを「上古」とし、「東羅馬」からを「中古」とし、「亜米利加ノ検出」からを「近世」としていた。時代区分はヴェルターにならったのかもしれない(ヴェルター『泰西史鑑』では、「上古」「中古」「近古」「近世」となっていて、「近古」を「教法改革」から、「近世」を「法蘭西革命の大乱」としていた)。
  3. こうした時代区分のなかで、各時代は各国の歴史の並列で構成していた。つまり、各時代を、フランス、ドイツ、イギリス、オスマン史を柱とし、そことの関係で周辺ヨーロッパの歴史も述べるという形をとっていた。さらにそこには各国の歴史とともに、諸国間の関係を間に入れていた。ちなみに「北部東部欧羅巴」という漠然とした概念はあったが、「北ヨーロッパ」「東ヨーロッパ」「西ヨーロッパ」という対比的なくくりはまだ登場していなかった。
  4. パーレイの「万国史」と比べて、ヨーロッパ中心であり、非ヨーロッパの記述が縮小されていた。アメリカ大陸はあるが、アジアは抜け落ちていた。その分、ヨーロッパ史の記述が詳しく、正確になっていた。そして、これまで見た「万国史」に比べ、「中古」以後の史実は豊富で詳しく、確実になっていた。

***

 さて、ヨーロッパの東部についての記述をみると、依然として、ポーランド、ハンガリー、ギリシアが中心で、ボヘミアがいくらか触れられるという具合であった。

(1) 「中古」における東ヨーロッパ

 10世紀において、日耳曼(ジエルマン)史との関係で、ハンガリーが扱われる。891年に斯拉窩尼(スラオニイ)の攻撃に直面した日耳曼王が匈牙利人を招いたが、その後匈牙利人は本国に還らず巴訥尼亜(パンノニア)に拠り、さらに日耳曼の地に侵掠するようになり、加魯胤(カロウイン)家の断絶を促進した。日耳曼が薩索尼(サクソニア)家の時代になっても、匈牙利人との争いに悩まされ、ようやく950年に匈牙利人を破って、安定したとされる(『西村茂樹全集』第5巻-以下略― 488-491頁)。年代がいくらかズレているが、事実関係はこの通りであった。

 同じく、日耳曼史の中で、15世紀のボヘミアの「黒斯(ヒュンス)の乱」が扱われる。ここではフスが巴拉克(プラーグ)大学の講師となり、「独り聖経を尊信」すべきことを教え、教法の会議で糾弾され、焚殺されたこと、それにたいし、波希米(ボヘミア)人が兵を起こしたことが、正確に記されている(544-555頁)。

 つぎに、魯西亜及び阿多曼(オットマン)土耳古史の中で、魯西亜の始まりが書かれるとともに、阿多曼(オットマン)土耳古の自立(1299年)が述べられ、それが14世紀末に東へ拡大した様が書かれる。そして、布爾加利(ブルガリ=ブルガリア)、塞爾維(セルウイー=セルビア)、襪拉幾(ソラキイ=スロヴァキア)の地を攻めて、さらに匈牙利に向うが、洪約(ホンヤツト=フニャディ)の軍に止められたことが記されている(553-554頁)。ブルガリアなどが「万国史」に出て来るのはこれが初めてであろう。

(2) 「近世」における東ヨーロッパ

 15世紀になって、「亜米利加ノ検出」が始まる時代は、ヨーロッパの大きな変動の時代であり、阿多曼土耳古の拡大の時期であった。その中で、索利曼(ソリマン)第二は、ロードス、マルタを落とし、さらに匈牙利に進撃した。そして1526年、沐哈克(モハツク)にて匈牙利軍を破り、さらに維也納(ウインナ)を囲むまでになったことが書かれる(562頁)。

 17世紀に入り、加特力教(=カトリック)と新教の対立が「三十年の大乱」(1619-1648年)を引きおこすが、そのきっかけとなった地として、波希米と摩拉維(モラウイイ)の民心が信教を支持したことが記される(586頁)。 

 この30年戦争が終わった後、北欧において波蘭・魯西亜戦争(1654-55年)、波蘭・瑞典戦争(=「大洪水」)が起きるが、その記述の中で、初めて波蘭の建国とその後の王朝の歴史が紹介される。「波蘭人は斯拉窩尼(スラヴオニイ)の民族なり」という位置づけが出て来る(600頁)。    

 この17世紀の末に、匈牙利が墺太利に継承されるが、その経緯が、詳しく語られている。オーストリアの皇帝がトランシルヴァニアのカトリック化を図るのに反対したハンガリー人は、多結犂(タケリ=テケリ)を大将として反乱を起こした。これを機にオスマン帝国はハンガリー人と共にウイーンを攻めてこれを包囲(=第二次ウイーン包囲)するが、波蘭の支援を得て、1687年これを破り、この後、ハンガリーは蛤不斯堡(ハプスボルグ)の支配するところとなったという具合である(606-607頁)。

 スペイン継承戦争、七年戦争の後の18世紀において、ポーランドの歴史が詳細に描かれてくる。まず、1733年の波蘭の王位をめぐる魯西亜、仏蘭西らの争い(=ポーランド継承戦争)が述べられたあと(622頁)、「魯西亜波蘭の史」という節が置かれ、そこでは、他国との戦争によって治世を正当化する必要のあった魯西亜の加他隣(エカテリーナ)が、波蘭に攻め入り、その寵臣スタニスワフ・ポニャトフスキを波蘭王として波蘭に勢力を扶植していくところから、その動きに反対するポーランド貴族らの抜爾(バール)連盟の抵抗を経て、ついに波蘭が分割されるまでが描かれている。その際に、魯西亜が波蘭に攻め込んだことに怒った土耳古が魯西亜と戦ったが破れたことが述べられ、そうして勢いを増した魯西亜が1773年(=1772年の誤り)に普魯斯(プロイセン)および墺地利とともに波蘭議会を脅かして、波蘭を分割(=第一次分割)したとされている(635-637頁)。オスマン帝国の動きも入れてポーランド分割を論じているのは、これまでにない論じ方であった。

 さらに、ポーランド分割の説明が続く。ロシアの威権支配を怨む波蘭人が、波蘭の「自主」を謀って立ち上がったが、波蘭の中に魯国を崇奉する魯国党もいて、結局1793年に魯普二国により波蘭はさらに分割された(=第二次分割)。これにたいして、哥修士孤(コシューシコ)を将とする「独立」の運動が起きたが、魯普墺の三国が大軍を送ってこれを破り、1795年に波蘭を最終的に分割し、「波蘭国遂に滅ぶ」ことになったという(642-643頁)。

 この間の記述もほぼ正確で、しかも、波蘭人の目線から見ていて、出色である。なお、「自主」や「独立」という用語が使われていることも注目される。

(3) 「近世」後半における東ヨーロッパ

 「近世」の後半は「法蘭西革命の大乱」を持って始まる。「革命」という言葉を最初に用いていることは注目したい。この「革命」は「君権」に対して「民権」を伸ばそうとするもので、「国民」の「自主」を主張するものであったと見ていた(644頁)。 

 そういう「法蘭西革命」の時代に生じた墺地利での1848年の政変に関連して、匈牙利での民乱が論じられる。3月、維也納の民が乱を起こし、首相墨的爾昵(メテルニク)を追放し、皇帝は国民に新制法を約束したが国民は満足せず、維也納は「書生と暴民」の「藪」となった。7月に斯拉窩尼人が巴拉克を奪い政府を立てた。そして墺地利国を助けて、同月には議会が開かれた。しかし、匈牙利人は自国の法律と政体を守ろうとして、墺地利と対立し、ついに墺地利は哥羅亜西(コロアシア)にこれを攻めさせた。この時維也納の民は「此軍行を阻遏せんと」した。そして10月、維也納は匈牙利人に「自主の政府」を立てることを許した。1848年12月にフランツ=ヨーゼフが帝位に就くと、ハンガリーを攻撃し、ついに魯西亜の助けを得てこれを敗北させた。こう記述されている。ここでは、ウイーンの市民がハンガリーを支援したこと、魯西亜の援軍があったこと、民の視線が考慮されていることなど、注目すべき記述である(674-676頁)。

 「自立」を図った国として「希臘国の再興」が扱われる。「希臘は中古の時より土耳其の属国と為り、久しく回教の圧政を受く。」「国民」はたびたびトルコの管轄を離れようと謀ったが、その度にうまくいかなかった。だが、1821年に兵を挙げて、翌年独立を宣布した。しかし、スルタンはエジプトの墨非麦阿里(メヘメトアリ)を動員して、希臘を攻めた。ここにイギリスのカニングは露仏と会議して希臘支援に乗り出し、1827年にナバリノの戦いでトルコエジプト軍を破り、翌年希臘が独立して、加甫侍斯多利(カポディストリアス)が大統領となった。だが、かれは1831年に暗殺され、国内は不安定になった。そこで列強は巴威略(バイエルン)王の子の阿多(オットー)を希臘王に推し、彼のもとで学校が建てられ、律書が作られ、「民の開化」が進んだ(686-687頁)。これまでも「万国史」においてはギリシアの独立は注目されてきたが、今回は、イギリスの動きも加えられて、ギリシア独立の記述が充実してきた。

 続く「波蘭の乱」では、1830年と1862年の反乱が扱われている。「波蘭は既に滅亡すと雖も、其民常に本国を再興するの志を懐けり。」そして1830年11月、「洼消(ワルシャワ)の民、乱を作して、魯国に叛く。」この中で、露西亜との和議を提唱するものがあったが、「国民」の意は、ロシア軍を追い払い「自立」を復すことであった。そこで、波蘭の「長老平民共に」ロマノフを拒絶することを決議し、1831年2月に、公然と兵を挙げて魯国に敵対した。波蘭軍は善戦したが、ついに9月に敗北してしまった(689頁)。  

 だが「波蘭の民は其の愛国の心、年久しくして、益堅く、常に時を俟て、快復の業を興さんと欲す。」1862年2月、露西亜軍がポーランドに於いて、「教育を受けたる少年と、愛国心の深き少年」を徴兵しようとしたのに、少年等が反発して、蜂起が起きた。波蘭人は、今度は山林に隠れ、電線や鉄道を攻撃して魯西亜軍を悩ませたが、11月には敗北した。その後、魯西亜は、波蘭人にカトリックを禁じ、母語の使用を禁じて、「愛国心」を消滅させようとした(690頁)。国民や少年など、国王以外の目線が打ち出されていることが注目される。

***

 このように西村の『校正万国史略』では、時代区分をしたうえで、ロシア史、ドイツ史、オスマン史との関係で、ポーランド、ハンガリー、ボヘミア、ギリシア史などが論じられる。その中で、洪牙利は、初めはドイツ史の「攪乱分子」といった扱いであったが、やがては「自立」と「民権」のための「闘士」という扱いに変化していったと言える。一方、ポーランドは、大国の「犠牲者」として描かれている。ポーランドの滅亡と快復の熱意は、明治の日本の雰囲気に合ったのであろう(レザノフ事件以来、日本の対外認識はロシア方面から進んだので、東ヨーロッパにも「東」から接近しているのである)。

 『校正万国史略』では、飛躍的に事実関係が豊かに確実になってくる。そして歴史を見る観点も政治権力者だけでなく、「国民」「人民」の観点が挿入されていることが注目される。

(続く)

(「世界史の眼」No.34)

カテゴリー: コラム・論文 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です