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「世界史の眼」No.35(2023年2月)

今号では、法政大学の高澤紀恵さんと国際基督教大学の郷戸夏子さんに、「教科「世界史」誕生を歴史する—ルアナ・ボールズの軌跡から」をご寄稿頂きました。また、法政大学の大澤広晃さんに、昨年刊行された工藤晶人『両岸の旅人—イスマイル・ユルバンと地中海の近代』を書評して頂きました。

高澤紀恵・郷戸夏子
教科「世界史」誕生を歴史する—ルアナ・ボールズの軌跡から

大澤広晃
書評:工藤晶人『両岸の旅人—イスマイル・ユルバンと地中海の近代』(東京大学出版会、2022年)

工藤晶人『両岸の旅人—イスマイル・ユルバンと地中海の近代』(東京大学出版会、2022年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

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教科「世界史」誕生を歴史する—ルアナ・ボールズの軌跡から
高澤紀恵・郷戸夏子

 全国の高校に新教科「歴史総合」が導入されて二度目の春を迎えようとしている。教科「日本史」と「世界史」を総合したこの必修教科をいかに捉え、いかに教えるか、限られた時間割のなかで教室現場の真剣な模索が続いている。しかし、「世界とその中における日本を広く相互的な視野から捉えて」と言われても、「日本史」と「世界史」という教科体制によって作られた私たちの二項的な認識枠組は、一朝一夕に変わるものではない。歴史を専門に学ぼうという史学科の学生たちからも、「世界史(あるいは日本史)は苦手だしコンプレクスになっている」という声をよく聞く。日本と世界、日本史と世界史の間に堅固な壁を作るこの思考から、どうすれば私たちは解き放たれるのだろうか。過去を「総合」する見方をどうすれば獲得していけるのだろうか。特効薬があるわけではないが、教科「世界史」が生まれた時期に立ち戻り、その時期に活躍したひとりのアメリカ人女性ルアナ・ボールズ(Luanna Jane Bowles,  1892-1975)の軌跡を追うことで、その手がかりを探ってみたい。

1.戦後教育改革と「世界史」

 高校教科「世界史」は、いわば戦後の子である。新制高校の誕生が1948年なのだから当然といわれそうだが、高校でこの新教科が教えられるようになるのは、翌49年の春からである。わずか1年の差とはいえ、このズレには大きな意味がある。この1年は、戦後教育改革の最大課題の一つ、(当時国史と呼ばれていた)日本史の何を、いかに、どの段階で教えるか、という深刻な問題が生んだズレだからである。

 日本史教育については、戦後すぐに豊田武を中心に文部省内で再検討が始まったが、国家主義的・軍国主義的枠組を守るその姿勢に満足しない連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters, the Supreme Commander for Allied Powers,以後GHQ/SCAPと略)は、1945年末に「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」指令を出す。以後、日本史の教科書類は回収され、歴史教育全般の刷新が加速する。翌1946年3月に来日したアメリカ教育使節団は、1ヶ月後に包括的な報告書を公表する。そこには「記録された歴史と神話とが意識的に混同され」た戦前の歴史教育の問題点を指摘した上で、新たな歴史教科書の編纂が提案されている[1]。実際、10月にGHQは覚書「日本歴史の授業再開について」を出し、文部省は11月に通達「国史授業指導要項について」を公にするので、GHQの停止措置が長く続いたわけではない。しかし、この間の交渉の結果、再開された日本史教育は、小中学校に限定され、六.三.三制に基づき新設される高校には、当初、日本史を教える教科は置かれなかった。新制高校での歴史の教科は、新たに導入された社会科の四つの選択教科のなかに「西洋史」と「東洋史」だけが設置されたのである(1947年6月文部省通達)。実際、この方針に沿って、47年には学習指導要領「東洋史編」(試案)、「西洋史編」(試案)が作られている。二分冊の教科書も準備されていた。48年春には、社会科という新しい枠組のもとで、新制高校は選択教科として「西洋史」と「東洋史」の二教科を週五時間、教え始めたのである。しかし、開始早々、高校でも「日本史」を教えて欲しい、あるいは教えるべきである、との声は高く、半年後の10月11日に文部省は、通達「新制高等学校教科課程の改正について」(通達第448号)を発し、高校の社会科のなかに教科「国史」(のちに日本史)を組み込むと共に、「西洋史」と「東洋史」の二教科を廃し、かわって「世界史」という新しい教科を置いたのである。つまり、教科「世界史」は、新制高校で日本史の教育を行う際に、にわかにつくり出された教科であった。実際、49年4月には、学習指導要綱も検定済み教科書もないままに授業が始められた。「一つの怪物が、1949年の日本に突如として現れた。社会科世界史という怪物が。文部官僚も、西洋史家も、東洋史家も、はたまた日本史家もこの怪物の正体がつかめない。ましてこれと取り組む運命におかれている高等学校の教師と生徒にとっては、難解なることゴルギアスの結び目の如くである」[2]と嘆息されるような状況であった。これが、今に繋がる日本史/世界史の二教科体制の始まりである。教科「世界史」は、人類の過去を国史/東洋史/西洋史として三分割して捉える認識を前提に、内発的・学問的議論を経ないまま、東洋史と西洋史を足し合わせて生み出されたのである[3]

 戦後の社会科創設のこうした事情や歴史教育をめぐる複雑な駆け引き・経緯については、片上宗二、梅野正信、土持ゲーリー法一、ハリー・レイ、木村博一、茨木智志ら教育史・教育学の専門家によって、手堅い実証研究が積み上げられてきた。とりわけ1980年代からは、従来の日本側資料に加えてGHQ/SCAPの資料の利用が可能となり[4]、日米関係者への聞き取り調査も精力的に行われた。日本の「戦後歴史教育史」や「社会科教育課程成立史」は、より精緻に、より立体的に描かれることになった。歴史教育改革の只中にある私たちにとって、これらの成果から学ぶところは極めて大きいのだが、ここでは、視点をずらし、前述の教科「世界史」誕生に深く関わったアメリカ人女性ルアナ・ボールズに着目してみたい。彼女の生の軌跡を追うことは、教科「世界史」誕生という出来事を日本という磁場から連れだし、より広い世界史的文脈で考える糸口を与えてくれると思うからである。

2.教育改革・「西洋史」・ボールズ

 戦後教育改革を推進したのは、GHQ/SCAP内の民間情報教育局(Civil Information and Education Section, 以下CIEと略)である。ルアナ・ボールズは、1946年8月10日に来日し、CIE教育課のスタッフに加わった。一足早く着任したモンタ・L・オズボーン(Monta L. Osborne, 1912-1990)とともに、中等教育を担当し、六.三.三制に基づく中等教育改革構想の策定や男女共学の推進[5]、さらに社会科の導入に精力的に活動した女性である。それゆえ、彼らが残したCIEの会議報告は、戦後教育史の超一級の資料であり、その公開が研究水準を一気に高めたことは、前述のとおりである[6]。とりわけ新制高校の教科「西洋史」の教科書や執筆要綱の作成は、オズボーンではなく、ボールズが責任者であった[7]。彼女は、オズボーンの単なるアシスタントであったわけではない。日本側は、東京大学の今井登志喜教授の責任で、実際にはその若き弟子たち(板倉勝正、橡川一朗、金澤誠、矢田俊隆、林健太郎)が教科書執筆にあたった。学習指導要領をとりまとめ、古代の執筆を担当した板倉勝正の回想によれば、「オズボーン少佐もボールズ女史も、いわばリベラリストであり、占領軍の権威を笠に圧迫を加える様なことは全くなく、私達は自由に議論する事が出来て、結局私共の言い分は大部分受け入れられた」[8]という。こうして1947年8月に二分冊の第一巻、『西洋の歴史(一)』が出版される。しかし、この教科書にある聖書の記述(板倉執筆箇所)を日本のカトリック教会が問題視し、アメリカの世論を巻き込む大問題となった。この事態に対し、大統領選に野心を抱く連合軍最高司令官マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964)は、「著者と出版社は厳しく懲戒された」とアメリカのカトリック宛てに認めているが、実際に懲戒が行われた形跡はない。しかしながら、このトラブルのために『西洋の歴史(二)』は、結局は刊行されずに終わるのである。この予期せざる騒動に際して、『西洋の歴史(二)』の出版に最大限の努力をしたのは、ルアナ・ボールズであった[9]。さきほどの板倉は、後年、ルアナに対して「30年たった今、健在なら80歳をこえているだろう。あの穏やかな人柄は今でも懐かしいし、戦争中から持ちこした立腹を彼らにぶつけて彼女に迷惑をかけたことが悔やまれる」[10]と述懐している。彼の記憶には事実誤認もあるが、30年後のこの言葉には板倉の心情が刻まれている。

 以上のように『西洋の歴史』に限ってみても、ボールズは大きな役割を果たしており、教育改革の重要なアクターなのだが、その経歴については必ずしも十分に明らかにされていない。ボールズと共に中等教育を担当したオズボーンについては、1986年に片上宗二による聞き取り調査が行われている。1912年生まれのオズボーンは、ミズーリのカレッジで教育学、歴史学を学んだ後、サウスウェスト・ミズーリ州立大学で自然科学を学んで1940年に卒業した。小学校と高校で教職を経験しており、高校では社会科を教えていたという。陸軍に入って中国にわたり、終戦後も中国に残っていたが、46年5月にCIEに志願して来日したという[11]。当時まだ30代の前半である。益田肇は、「当時、総司令部に勤務していたのは、いまから振り返れば驚くほどの若手ばかりだった。そのほとんどはまだ20代から30代で、その多くが才能と野心に溢れた若者だった。彼らにとっては東京での勤務は、いずれに本国に帰ってキャリアアップするための一ステップにすぎなかった」[12]と述べているが、少なくとも年齢などから見る限り、オズボーン少佐の経歴は益田の指摘にぴたりと当てはまる。

 ところが、ルアナ・ボールズについては、どうであろう。実は、板倉の回想が出る1年前にルアナは亡くなっており、アメリカ側の資料が用いられるようになった時期に聞き取り調査がなされなかったためか、経歴、家族関係なども曖昧なままである。ズボーンと共に働くこの女性は、何故に極東の敗戦国日本の教育改革に携わることになったのだろう。それまでどこで、どのような生活を送っていたのだろう。あるいは日本の占領が終わって以降、彼女はどこで、どのような生を歩むのだろう。

3.ボールズ家の人々

 1955年の国務省人名録によれば、ルアナ・J・ボールズは、1892年9月18日カンザス州生まれとある。CIEに加わるために来日したのが1946年8月なので、当時53歳であった。同僚のオズボーン少佐より20歳年長である。以下、人名録が教える経歴を履歴書風に訳してみよう。

1923年(アイオワ州)ウィリアム・ペン大学卒業、学士号

1934年(テネシー州)ピーボディ大学修士号〈教育〉

 シカゴ大学,コロンビア大学,アメリカン大学大学院で農学を学ぶ

1923-26年 教師

1927-28年 東京の私立学校

1929-41年  フィスク大学学長補佐兼広報部長

1942-46年  連邦安全保障庁教育局編集・執筆担当(アソシエート)

1946-50年,東京のSCAP中等教育担当官

1952年6月10日 ポイント・フォア-4に任命、イランのテヘランへ普通教育アドヴァイザーとして派遣

1954年4月25日 海外勤務職員[13]

 ウィリアム・ペン大学は、クエーカー(フレンド派)によって1873年に建てられた大学であり、この経歴は、ルアナの宗教的バックグラウンドを示唆している。実際ボールズ家は、クエーカーの一族であり、戸田徹子によれば、17世紀末のメリーランドにまで辿ることができるという。クエーカーとは、「「内なる光」の教え、聖霊の導き、専任牧師職の否定、プログラムのない沈黙の礼拝、平等の強調、平和主義、簡素な生活様式など」[14]を特徴とするプロテスタントの一宗派であり、17世紀中葉にイギリスでジョージ・フォックス(George Fox, 1624-1691)を中心としたグループによって始められた。国教会体制のもとで激しい迫害を受けた彼らには、クエーカーのウィリアム・ペン(William Penn, 1644-1718)がたてたペンシルヴァニアを中心にアメリカ植民地に逃れた者も少なくなかった。メリーランドから北西部に移動したボールズ家は、ルアナの祖父エフライム(Ephraim、1829-1914)の代にカンザスに移り住んだ。農民であったエフライムの三番目の子どもが、ルアナの父レヴィ(Levi, 1856-1942)であり、九番目の子どもにはギルバート(Gilbert, 1869-1960)がいる[15]。この叔父ギルバートの存在は、ルアナの軌跡に大きな影響を与えたと思われる。というのも、苦学してウィリアム・ペン大学に学んだギルバートは、1901年に、伝道者として日本に向かい、以後、長く日本で活動した人物だからである。ギルバートの妻となるのは、すでに伝道者として普連土女学校の教師をしていたミニー・ピケット(Minnie Pickett, 1868-1958)であった。東京三田の普連土女学校は、1887年にフィラデルフィアのクエーカーたち、とりわけ婦人伝道会の人々が中心となって創設した学校である。その設立には、アメリカ留学中の新渡戸稲造や内村鑑三の助言に加えて、津田梅子の父、津田仙の協力があった。ギルバートは、第2代の主任伝道者として普連土女学校の運営に携わり、東京と茨城のクエーカーたちを支えた他に、結核予防運動、禁酒禁煙運動などの社会活動、さらには1906年には大日本平和協会の発足に尽力したことで知られる[16]。キリスト教関係者に留まらない彼の交友関係は、渋沢栄一との書簡からも伺うことができよう[17]

 ギルバートとミニーの日本での活動は、太平洋戦争の勃発まで実に40年の長きにわたった。二人の息子として東京三田で生まれたのが、高名な人類学者ゴードン(Gordon Townsend Bowles, 1904-1991)である。彼はルアナの従兄弟にあたる。東京大学や国際基督教大学で教鞭をとったその経歴については、原ひろこがまとめた訃報に詳しいが、本稿にとって重要なことは、ハワイ大学で人類学の准教授であったゴードンが太平洋戦争勃発後、国務省の日本地方専門委員を経て極東顧問となったことである[18]。国務省は、日本の敗戦を見越して1944年には戦後計画委員会を設立し、戦後改革の準備を始めていた。1945年7月末に「日本帝国の降伏後の軍制:軍国主義を廃止し民主化過程を強化するための方策:教育改革」という文書を国務省で起草したのは、日本語に堪能で日本をよく知るゴードンである[19]。彼はここで「国史」、「地理」、「修身」三教科の教科書を精査する間、この三教科を停止すべきことを勧告していた[20]。1946年3月のアメリカ教育使節団を国務省で組織し、事務長格で来日したのも、このゴードンであった[21]。この時の彼の職責は、国務省文化関係局極東課長である。

 アメリカのクエーカー研究の拠点であるハヴァフォード大学のデータベースには、「ボールズ家は、20世紀を通じてクエーカーの伝道活動と救援活動に深く関わった」[22]とあるが、ルアナは戦前から日本で活動したこのボールズ家の紐帯の中にあったのである。

4.東京・ナッシュビル・ワシントン

 国務省のルアナの経歴にある「東京の私立学校」とは、言うまでもなく叔父一家のいる普連土女学校である。『普連土学園一〇〇年史』によれば、ルアナは1927年9月から1928年7月まで普連土の教師をしている[23]。東洋の文化と歴史を学ぶためであった、と当時の新聞記事にはある[24]。日本に来る前の彼女は、カンザスとアイオワの学校を経て、フィラデルフィアのウエストタウン寄宿学校で歴史の教師をしていた[25]。ウエストタウンから二年間の休職を得ての来日であった[26]。ウエストタウンは、クエーカーが子どもたちの教育のために1799年に創設した、アメリカ最古の男女共学校である[27]。戦後CIEのメンバーとして来日する以前に、ルアナはアジアへの関心を持ち、昭和初期の日本と日本人を直接に知っていたのである。

 アメリカに戻ったルアナは、29年から41年まで、南部テネシー州ナッシュビルのフィスク大学で学長、トマス・エルザ・ジョーンズ(Thomas Elsa Jones,1888-1973)の学長補佐として活動している。英語を教えていた[28]、と伝える史料もある。フィスク大学はもともと、解放された黒人の教育を目的として南北戦争後にアメリカ伝道協会がつくった学校である。ルアナが着任する三年前、フィスク大学は大きな動揺を経験した。第一次世界大戦後の財政難からロックフェラーなど実業界の基金に資金援助を頼ったことから、大学の伝統が損なわれ、これに反発した学生、卒業生、黒人知識人、地元の黒人コミュニティによる反対運動がまき起こったのである[29]。彼らの要求は差別的なマッケンジー学長(Fayette Avery McKenzie, 1872-1957)の罷免と黒人学長の選出であった。マッケンジーが辞任を余儀なくされた後、1926年に新たに全米最年少の学長として選ばれたのが、当時、コロンビア大学の社会学の教授であったジョーンズである。タイム誌によると、大学側は「伝統」に基づき、黒人たちが受入れ可能な白人学長を数ヶ月かけて探したという[30]。ここで注目すべきは、ジョーンズがイギリスにおいてもアメリカにおいても奴隷解放運動を先導してきたクエーカーであったことである[31]。彼はまた、1917年から24年まで米国フレンズ奉仕団(American Friends Service Committee)の一員として日本で活動した経験をもっていた。米国フレンズ奉仕団とは、絶対平和主義に立つクエーカーが、1917年、アメリカの第一次世界大戦への参戦直後に「良心的兵役拒否者に戦闘行為に代わる仕事を提供すること、ヨーロッパの戦後復興に貢献することを目的に」[32]創設した組織である。ジョーンズは、設立直後の米国フレンズ奉仕団のメンバーとして来日し、1923年の関東大震災に際しては「基督友会奉仕団」を立ち上げ、羅災者救援のために尽力した[33]。東京から戻ったルアナは、ナッシュヴィルに住み、12年にわたってこのジョーンズ学長を支えてフィスク大学で働いた。この間、ナッシュヴィルの白人向け地方誌は、ルアナが地域の職業婦人達たちの夜間学習会のプログラム委員会の委員長に選出されたことを伝えており[34]、この町での彼女の活動域の一端を教えてくれる。

 1942年から、ルアナの職場は戦時下のワシントンに移る。彼女は、連邦安全保障庁教育局の職員として全米の教育機関要覧や教育者の名簿などの編集作業に当たっている[35]。また、戦後の47年に刊行された「親、教師、そして若者が共に創る」と題したパンフレットには、編者としてルアナの名前を認めることができる。その序文はナチ・ドイツと日本の教育をデンマークの学校と対比しつつ「このパンフレットは、我々アメリカの学校システムにおいて民主主義的な条件と手続きが強められるよう強く訴えるものである。・・・民主主義的な生活のための教育は、すべての学校の主要目的でなければならない」[36]と記されている。

 1946年8月、敗戦後の日本にやってきたルアナは、教師として、大学行政者として、教育行政官として、豊富な経験と識見を備えた女性だったのである。そしてそのキャリアは、フィラデルフィアを結節点とするクエーカーの稠密なネットワークのなかで形作られていた。果たして彼女が中等教育担当官としてCIEに加わったことは、数ヶ月前、米国教育使節団のメンバーとして日本の教育改革、なかんずく歴史教育の方向を示したゴードン・ボールズと無関係だったといえるであろうか。

5.再び日本、そしてイラン、ネパールへ

 ルアナが到着して2ヶ月後、もうひとりクエーカーの女性がアメリカから日本に到着した。皇太子の家庭教師となるエリザベス・G. ヴァイニング(Elizabeth Gray Vining, 1902-1999)である。ヴァイニング夫人の名前で親しまれた彼女が、横浜から始めて東京の住まいに到着した時、出迎えた人々の中にルアナはいた。アメリカ・フレンド奉仕団の代表としてアジア救援公認団体(Licensed Agencies for Relief in Asia, 通称LARA)で働くエスター・ローズ(Esther B. Rhoads, 1896-1979)と一緒であった。エスターも、普連土女学校で長く教師をし、日米開戦後は日系アメリカ人の救援活動を行ったクエーカーである[37]。ヴァイニングとエスターは同郷であり、エスターとルアナは普連土女学校の教師としての経験を共有する旧知の仲であった。ルアナの仕事ぶりについて、ヴァイニング夫人は次のような言葉を残している。「アメリカ人の多くはマッカーサー元帥のいわゆる「十字軍の戦士」だった。・・・ルアナ・ボールズのような人々は、もっと現実主義的であったが、やはり強い熱意をもって日本の文部省の役人たちと一緒に働き、うまずに説得し説明して、地方分権その他の施策の理由を日本の役人たちに理解させ、従前の「告示」という方法の代わりに討議と投票とによる方法を、これも実践と感化という手段を通じて学びとらせようとつとめていた」[38]

 ではルアナ自身は、日本での日々をどう語っているだろう。1971年、アンカレッジでの天皇―ニクソン会談をテレビでみたルアナは、次のように回想している。「四年以上にわたって私はSCAPの文民教育スタッフをつとめていた。私たちは日々、日本の文部省や全国の教師、行政者と協力しあっていた。・・彼らは、戦後世界で敗戦国たる彼らの国が重要な位置を占めていけるよう日本の若者を育むカリキュラムを創り、学校制度を確立しようと懸命に努めていた」[39]。新制高校の教科書『西洋の歴史』を共に作った板倉の証言とも響き会う回想である。ルアナにとって、民主主義の実現は教育の大切なゴールであり、改革のプロセスもまた民主主義の重要な実践であったのだろう。

 1952年は、サンフランシスコ条約が発効し日米安保条約のもとで日本が独立を回復する年となる。それは高校社会科の選択科目としての「日本史」と「世界史」の指導要領(試案)がようやくまとめられた年でもある。この年、ルアナは、60歳にして新しい任地、イランへと向かった。国務省の記録は、ルアナがポイント・フォア計画の一翼を担っていたことを教えている。ポイント・フォアとは、トルーマン大統領(Harry S. Truman, 1884-1972, 大統領在位1945-1953)が1949年の就任演説で発表した四大行動方針の四つめ(ポイント・フォー)、「低開発地域に対する技術援助」を指し、1950年から具体化していくプロジェクトである[40]。ルアナは、1950年にイランの基礎教育に関するパンフレット[41]を書いているので、すでにこの時期からイランへの関与は始まっていたのかもしれない。1952年、ルアナは正式にイラン政府の教育顧問としてアメリカ政府からイランに派遣される。1956年にルアナが書いたパンフレットによれば、彼女はイランで農村の識字教育のために教材を開発し、基礎教育を行える教師の育成を図ったという。また、憲兵隊の識字教育を行ったことも伝えている[42]。他方、1960年に国務省が出した『ニューフロンティアのアメリカ人』と題したパンフレットでは、憲兵隊や全国の警察組織の識字教育へのルアナの功績が強調されている。二年半のプログラム修了時には、高官の間に座るルアナに11500人の憲兵隊が感謝を捧げる行進がイスファハーンで行われたという。ルアナ自身も、後者のプログラムにシャー(パフレヴィー二世)の強い意向が働いていたことを認めている。ルアナにとっておそらく救援活動の一環であった教育支援は、厳しく対峙するソ連とアメリカの最前線にあって上からの近代化に向かうイランでは、強い政治性を帯びていたと思われる。

 1959年、67歳のルアナは、さらにネパールへと活動の拠点を移し、全国的な教育教材プログラムの構築に関わった。1964年、アメリカに戻った72歳のルアナは、日本、イラン、ネパールで教育レベルを向上させた功績により、アメリカ政府から功労賞を授与されている。同年ウィリアム・ペン大学は、彼女に名誉博士号を与えた。その後のルアナは、クエーカーのワシントン年会の敬虔なメンバーとして晩年を過ごし、1975年6月25日にその生涯を閉じた[43]

 ルアナ・ボールズの82年の軌跡を駆け足で辿ってきた。私たちにできたことは、彼女の内面や思想に深く分け入ることではなく、その足跡をなぞっただけであったが、それでもルアナの多面的な相貌は垣間見えたように思う。アクターたる個人の意識とその行為がもたらす影響や効果が重なるとは限らないが、ルアナも例外ではない。彼女はただ信仰深い伝道者であったわけではなく、また単に国家利益を体現するアメリカの尖兵であったわけでもない。その生の軌跡は、日本/アメリカといった国名を、あるいは文部省/GHQといった機関を主語にした物語を、越えでる広がりと豊かさを持っていた。その広がりのなかに戦後日本の教育改革を置いてみるとき、日本史/東洋史/西洋史を、あるいは日本史/世界史を分かつ壁は、はるかに低くみえてこないであろうか。戦後日本の教育改革は、むしろ純粋な日本史として抽出することが困難なほど、世界の動きと相互に絡み合ってはいなかっただろうか。そもそもルアナからみれば、日本もイランもネパールも、教育を通して民主主義を実現すべきアジアの国々であった。このように複数の視点と複数の尺度を組み合わせてみるとき、私たちが使う教科書自体が–「日本史」の教科書であっても–動かざる経典であることをやめ、「歴史総合」への入り口として立ち現れてくるように思うのである。


[1] 村井実訳『アメリカ教育使節団報告書』講談社、1979年、43-46頁.

[2] 尾鍋輝彦編『世界史の可能性』東大協組出版部、1950年、1頁.

[3] 高澤紀恵「戦後・教科「世界史」・西洋史学」『法政史学』(96)、2021年、1-4頁.

[4] 史料状況と研究史の批判的整理については、以下を参照のこと。片上宗二『日本社会科成立史研究』風間書房、1993年、1-32頁.

[5] 三羽光彦『六・三・三制の成立』法律文化社、1999年、244-245頁.

[6] ボールズが残した会議記録は、国会図書館憲政資料室の「日本占領関係史料」の中にマイクロフィルムで収められている。Conference Reports, Education Division-Bowles, (文書名:GHQ/SCAP Records; Civil Information and Education Section) ボックス番号: 5358; フォルダ番号: 13, 14, およびReport-Conferences, Miss Bowles (文書名:GHQ/SCAP Records; Civil Information and Education Section): ボックス番号: 5752; フォルダ番号: 2, 3, 4, 5, 6.

[7] 片上、前掲書、840頁.

[8] 板倉勝正「「西洋の歴史」を書いた頃」『白門』28巻6号、1976年、47頁.

[9] 『西洋の歴史』をめぐる問題については、以下を参照されたい。茨木智志「上智大学編『西洋史上の諸問題– 「西洋の歴史」への補遺について』–一種検定本教科書『西洋の歴史』(1947年)へのカトリック教会の対応–」『総合教育史研究』8号、2010年、49−66頁。

[10] 板倉、前掲書、49頁.

[11] 片上、前掲書、613-615頁.

[12] 益田肇『人々のなかの冷戦世界 想像が現実となるとき』岩波書店、2022年、37頁.

[13] The Department of State. Biographic Register 1955 (Revised as of May 1, 1955), Department of State, 1955.

[14] 戸田徹子「フィラデルフィア・フレンドと日本年会 1900〜1947」『山梨県立女子短期大学紀要』(36)、2003年、11頁.

[15] ボールズ家については、以下を参照。Earl’s Genealogy Site. “Selected Families and Individuals”, January 20, 2022. http://www.earljones.net/aqwg4795.htm#142455. TriCollege Libraries Archives & Manuscripts. “Gilbert and Minnie Pickett Bowles Family Papers,” January 20, 2022. https://archives.tricolib.brynmawr.edu/resources/hcmc-1161.

[16] ギルバート・ボールズについては、以下に詳しい。平川正壽『基督友会五十年史』基督友会日本年会、1937年.

[17] 公益財団法人渋沢栄一記念財団「Bowles, Gilbert ボールズ, ギルバート」、   https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?authors_individual-31 (最終アクセス日:2023年1月21日)

[18] 原ひろこ「Gordon Townsend Bowles (1904.6.25-1991.11.10)先生を悼む」『民俗学研究』57/1、1992年、101-104頁.

[19] 国務省の政策立案プロセスとギルバートの役割については以下を参照されたい。土屋由香『親米日本の構築 アメリカの対日情報・教育政策と日本占領』明石書店、2009年、200-207頁.

[20] 明星大学戦後教育史研究センター編『戦後教育改革通史』明星大学出版部、1993年、164頁.

[21] 以下の記録は、ゴードンのインタビューに多くを負っている。読売新聞戦後史班編『昭和戦後史 教育の歩み』読売新聞社、1982年.

[22] TriCollege Libraries Archives & Manuscripts. “Bowles Family Correspondence,” January 20, 2022. https://archives.tricolib.brynmawr.edu/resources/hcmc-1212.

[23] 普連土学園百年史編纂委員会編『普連土学園百年史』普連土学園、1987年、343頁. および友愛社「フィラデルフィヤ年会外国伝道委員秋報告よりの抜粋(1927-1928)」『友』24号、1928年5月.

[24] “Social and General,” The Japan Times, July 12, 1928. 

[25] “Society Ripples,” The Whitter News, August 13, 1927.

[26] 母親の病気のために、休職期間を縮めて1年で帰国した。普連土女学校時代には、1ヶ月北京に滞在している。“Social and General,” The Japan Times, March 21, 1928; July 12, 1928.

[27] Westtown School. “History,” January 19, 2023. https://www.westtown.edu/history/.

[28] “A Remarkable Success Story,” Friends Journal, January 2, 1960. p.10.

[29] フィスク大学で起こったこの騒動については以下を参照されたい。竹本友子「アメリカのディレンマと黒人のディレンマ—W.E.B.デュボイスの黒人百科事典プロジェクトをめぐって—」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』2006年、20-22頁.

[30] “Education: President Jones,” Time, March 1, 1926. 

[31] 山形正男「クェカー教徒と奴隷制反対運動」『アメリカ研究』5号、1971年、178-196頁.

[32] 戸田徹子「米国フレンズ奉仕団 日本関係資料(1942-1946)」『城西国際大学紀要』25 (2)、2017年、35頁. 

[33] 平川正壽『基督友会五十年史』基督友会日本年会、1937年、72頁.

[34] “Study Groups is organized,” Nashville Banner, 1 Feb. 1940. ナッシュヴィルとその差別的な社会状況については、ルアナがこの町を離れて15年後にフィスク大学に留学した社会人類学者、青柳清隆が記録を残している。青柳清隆『黒人大学留学記 テネシー州の町にて』中央公論社、1964年.

[35] たとえば、“Educational directory, 1943-44: pt. 4, Educational associations and directories; [prepared by Luanna J. Bowles].,” United States Government Publications Monthly Catalog, U.S. Government Printing Office, 1944, p.653.

[36] Christian O. Arndt & Luanna J. Bowles (eds.), Parents, teachers, and youth build together, Hinds, Hayden & Eldredge, Inc, 1947. 

[37] エスター・ローズについては、以下を参照されたい。郷戸夏子「フレンド派宣教師エスター・B・ローズの救援活動—第二次世界大戦後の日本での活動を中心に」『キリスト教史学』2021年、57-75頁.

[38] E.G.ヴァイニング(小泉一郎訳)『皇太子の窓』、文藝春秋、2015年(初版1953年)、90頁.

[39] Luanna J. Bowles, “To America with Gratitude,” Friends journal, April 1, 1972, p.233.

[40] 李錫敏「トルーマンのポイント・フォア計画 冷戦におけるイデオロギー競争の始まり」『法学政治学論究』2011年、2-4頁.

[41] Luanna Bowles, The story of fundamental education in Iran, 1950.

[42] Luanna J. Bowles, “The New Nationwide Program of Fundamental Education in Iran,” Education for Better Living: The Role of the School in Community Improvement. 1957 Yearbook of Education around the World, Bulletin, 1956, No. 9, Office of Education, US Department of Health, Education, and Welfare, pp. 85-100.

[43] Friends Meeting of Washington DC Religious Society of Friends (Quakers). “Memorial Minutes ( Luanna Jane Bowles),” January 19, 2023. https://quakersdc.org/sites/default/files/LUANNA%20JANE%20BOWLES.pdf.  

(「世界史の眼」No.35)

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書評:工藤晶人『両岸の旅人—イスマイル・ユルバンと地中海の近代』(東京大学出版会、2022年)
大澤広晃

 本書の主人公であるイスマイル・ユルバン(1812〜1884)は、複数世界の境域で生きた人物である。有色自由人として仏領ギアナに生まれ、フランスで教育を受けてサン=シモン主義に傾倒する。その影響でイスラームに入信し、アラビア語通訳や植民地行政官として本国とアルジェリアを往復する生涯を送った。当時の地中海では、ヨーロッパのみならず東地中海世界や北アフリカ各地でも政治的・経済的・文化的変化が共時的に、しかし異なる速度でおこっており、著者がいう地中海革命の時代を迎えていた。西洋世界では東洋人を異質で停滞的な他者として表象するオリエンタリズムの言説が影響を強めつつあったが、同時に、「西洋=文明」と「東洋=野蛮」の二項対立的図式を批判する試みもなされていた。「短い19世紀(およそ1830年代から80年代にかけての時期)」を生きたユルバンの一生をたどりながら、地中海が経験した近代の諸相を探求することが本書の課題である。

 第1章では、ユルバンの生い立ちと彼が幼少期を過ごした仏領ギアナの歴史が語られる。フランス人貿易商の父と解放奴隷の母との間に生まれたユルバンは、黒人の血を8分の1引く有色自由人で、フランスで教育を受けた。一時ギアナに帰郷するがすぐにフランスに戻り、サン=シモン主義に惹かれていく。

 第2章は、19世紀初頭におけるサン=シモン主義の動向とユルバンによるその受容を論じる。サン=シモン主義者を率いたアンファンタンと彼の弟子たちの主張が整理されるが、本書の主題にとくに関連するものとして、地中海を東洋と西洋が交わる「広場」とし、人種や信仰にかかわらないすべての人間の協同を呼びかけたミシェル・シュヴァリエの地中海体制論が紹介される。ユルバンはパリでサン=シモン主義者との共同生活に加わり、「黒人」として振る舞うことで注目を引こうとした。

 1833年、ユルバンはサン=シモン主義者の同志とともにエジプトに赴き、現地でイスラームに入信し、イスマイル・ユルバンを名乗った。第3章では、自らの内でキリスト教とイスラームを架橋することで東洋と西洋の交わりを体現しようとしたユルバンの意図が分析される。

 第4章は、19世紀初頭までの西地中海世界の動向を押さえたうえで、アルジェリアでのユルバンの活動と思想を考察する。現地でアラビア語通訳官となったユルバンは、東西の合一を掲げるサン=シモン主義の実践の一環としてムスリム女性と結婚した。同じ頃、サン=シモン主義者のデシュタルと共著で人種についての本を出版したが、それは白人と黒人の結婚を奨励し、両者から生まれる混血を「新しい人類」(140頁)として積極的に評価するという内容を含むものだった。本章では、ユルバンの同時代人で本書を通じて彼の比較対象とされるレオン・ロシュの経歴と著作も、批判的に検討される。

 アルジェリア征服と植民地化の過程におけるユルバンの動向を論じるのが、続く第5章の主題である。フランスと戦った現地人指導者アブドゥルカーディルとの関係や、ムスリムの先住民を入植者のフランス人と「同じ市民」(182〜3頁)として扱うべきだとする主張が取り上げられる。

 第6章では、「原住民」と入植者が同等の権利をもつべきだと述べた皇帝ナポレオン三世のアラブ王国構想とそれへのユルバンの影響が、後者のアルジェリア統治論とも関連づけながら考察される。アルジェリア総督府の高官となっていたユルバンは、当時の支配的な東洋学の言説を論駁しながら、西洋のみを進歩や文明の模範とみなす考え方を批判するとともに、ムスリム先住民を法的劣等者として扱うべきではないこと、先住民の土地への権利を認めるべきことなどを説いた。ユルバンが目指した路線は頓挫したが、著者は土地制度をめぐるユルバンの活動を「あたかも一個の革命家のごとき形相をみせていた」(223頁)と評する。

 終章ではユルバンの晩年と史料が残存した経緯が語られたうえで、彼の主張と活動が整理される。著者は、ユルバンが植民地支配を否定しなかったものの、複数世界の境域という足場から思考することで、東洋と西洋の差異を相対化するまなざしを獲得し、それを実際に言葉として紡いだ点に彼の独自性があったと評価している。

 ユルバンは複数の地域を移動し、帝国支配では強者の側に属しながらも宗主国社会では周縁に位置し、それにもかかわらず第二帝政期には一定の政治的影響力を発揮した。多彩な顔をもつ魅力的な人物だが、そうであるがゆえに物語の主人公に据えるのは容易ではない。議論が拡散し、研究史における位置がぼやけてしまうからである。しかし著者は、ユルバンの伝記を通じて、「短い19世紀」と「地中海革命」という概念のもとで19世紀の時代区分と西洋中心主義を再考し、あわせて、サイードが提起したオリエンタリズム論に批判的再検討を加えるという明確な課題を掲げ、それを実際に遂行することでこの問題を克服している。物語の構造も巧みだ。時代の文脈を丁寧に描いたうえで、時流に片足を入れつつも、もう片方の足でそこから抜け出ようとする個人に光をあてることにより、彩り豊かで陰影に富む近代の地中海像を見事に浮かび上がらせている。読者はユルバン(とロシュ)の生涯をたどりながら、おのずと19世紀の歴史を多面的に学べる仕組みになっている。著者の力量のなせるわざであろう。

 多様な地域が折り重なる地中海の近代を総体として描写するためには、従来の西洋史や東洋史の枠組みを乗り越えていかねばならない。この点について本書は、ユルバンの生の軌跡にそって南米、ヨーロッパ、北アフリカの歴史を縫い合わせるだけでなく、彼の個性を際立たせるために登場させたロシュを介して日本にも言及している。同時代における諸地域間の相互関係や連動を説得的に示すことで、西洋中心主義を相対化しながら世界史を語るという著者の試みは、概ね成功しているといえよう。流暢で力強い文体とともに、「下からのグローバルヒストリー」の模範となる作品である。

 その一方で、より踏み込んだ議論をすることで読者の理解がいっそう深まるだろうと思われる点もあった。第一は、ユルバンの「黒人性」という問題である。第2章では、サン=シモン主義者たちとの共同生活を送る有色人のユルバンが、「黒人」の役を演じることで注目を集めようとしたことが述べられている。だが彼は、外見はほぼ白人(76頁)の混血である。人が自分自身をどう称するかと他者がその人をどうみるかの間には、往々にして差異がある。デシュタルのように彼の黒人性を強調した者もいたが、他の人々はユルバンを黒人として受け入れたのか。関連して、当時における黒人と混血の関係も興味深い。ギニアでは、ユルバンのような混血の有色自由人はアフリカ系の血が濃い「いわゆる黒人」とは区別されていたそうだが(76頁)、宗主国で黒人と混血はどう識別されていたのか。人間の分類という点で、混血は黒人に包含される部分集合だったのか、あるいは、ギニアのように「いわゆる黒人」とは異なる存在とみられていたのだろうか。19世紀前半のフランス社会でユルバンがどのような位置を占めていたのかに関心をもった。

 第二は、ユルバンとアルジェリアに住む人々との関係についてである。まず、入植者との関係について。他帝国についての先行研究は、19世紀が進むにつれて植民地の支配者や白人住民の間で混血の人々に対するまなざしが硬化していったことを明らかにしている[1]。本書でも、19世紀後半フランスでの人種主義の高揚に伴いユルバンが自らの出自を「傷」と考えるようになったことが指摘されているが(236-7頁)、混血という属性は、入植者の彼に対する評価や姿勢にどう影響したのだろうか。次に、ユルバンとムスリム先住民社会との関係について。第5章と6章では、ユルバンが当時の東洋学で主流をなしていたイスラームやアルジェリアについての言説を批判し、目前にある「事実」をもってそれに対抗しようとしたさまが描かれている。ここで気になるのは、ユルバンがアルジェリア社会についての知見をどう獲得したのかという点である。オリエンタリズムの学知が仮構の言説体系であるのと同様に、先住民社会の様態(とくに土地制度)についての彼の「事実」認識もまたひとつの言説だったはずである。では、そうした認識およびその基礎となる情報を彼はどこから得たのか。最近の研究は植民地にかんする知識の形成で現地人がはたした役割を強調するが[2]、ユルバンの「事実」認識や政策論の形成に先住民はかかわっていたのか。また、現地のムスリムは彼をどうみていたのか。ユルバンと先住民の関係をもう少し知りたいと思った。

 最後に、本書の議論を評者が関心をもつイギリス帝国史とつなげる可能性に言及しておきたい。ユルバンも外国の事例を参照していたように(212〜3頁)、最近では異なる帝国間の相互関係を問う研究が増えている。評者は近年、主として非白人先住民に対する白人入植者や植民地政府の過剰な暴力や搾取を批判する人道主義という思想・運動(代表例は奴隷貿易・奴隷制反対運動)に興味をもっている。人道主義の内部は多様だが、19世紀イギリスでその一翼を占めていたのは実証主義者と呼ばれる人々だった。オーギュスト・コントを崇め、彼にならって人類教を組織した実証主義者たちは、人類全体の進歩と平和を唱え、その見地からイギリスの帝国支配をラディカルに批判した[3]。イギリスが世界で主導的な役割を果たすことを期待しつつも、植民地戦争では自国に非を認め、商業・金融利害による経済搾取を批判し、祖国を世界平和にとっての最大の脅威と呼ぶなど、その思想は同時代に類を見ない帝国主義批判に彩られていた。さらに興味深いのは、実証主義者の異文化に対する姿勢である。彼らは19世紀半ば頃から非西洋世界の文化や慣習にも固有の価値を認め、そうした伝統に即した制度や発展を尊重する方針を掲げていた。宗教についても、主要な実証主義者であるフレデリック・ハリスン(1831〜1923)はムハンマドとコーランを高く評価していたし、ヘンリ・ブリッジズ(1832〜1906)は人類教の集会にムスリムを招こうとしていた。加えて、当時の代表的な人道主義団体で実証主義者の多くも会員であった原住民保護協会(Aborigines Protection Society)は、創設メンバーのひとりであるトマス・ホジキン(1798〜1866。ただし彼は実証主義者ではない)を中心に、先住民の土地に対する権利の保護を強く訴えていた[4]。こうした考え方は、ユルバンのそれと重なるところがあるようにも思える。もちろん、両者の間に違いは多い。実証主義者が崇めるコントは、最終的に師であるサン=シモンやサン=シモン主義者と袂を分かった。ユルバンと実証主義者についても、前者が植民地生まれの有色自由人であるのに対して、後者は主としてオックスブリッジ出身の知的エリートからなり、社会的出自が異なっていた。実証主義者がユルバンのようにイスラームに入信し、宗教における東西の合一を自ら実践してみせたわけでもない。それでも、サン=シモンに発する思想から(異なるかたちではあるものの)影響を受けた英仏の人々の主張を比較し、相互の関係性を探ることは、興味深い研究の主題となるのではないだろうか。

 門外漢ゆえ的外れな指摘や意見も多かったかもしれないが、評者は本書の問題意識や叙述から多くを学び、自らの課題についても新たな気づきを得ることができた。本書が多くの人々の手に取られることを願う。


[1] アン・ローラ・ストーラー(永渕康之・水谷智・吉田信訳)『肉体の知識と帝国の権力—人種と植民地支配における親密なるもの』(以文社、2010年);水谷智「植民地統治下の白人性と「混血」—英領インドの事例から」、川島浩平・竹沢泰子編『人種神話を解体する3—「血」の政治学を越えて』(東京大学出版会、2016年)、163-189頁

[2] カピル・ラジ(水谷智・水井万里子・大澤広晃訳)『近代科学のリロケーション—南アジアとヨーロッパにおける知の循環と構築』(名古屋大学出版会、2016年)

[3] 光永正明「「人類教」とジェントルマン」、川北稔・指昭博編『周縁からのまなざし—もうひとつのイギリス近代』(山川出版社、2000年)、82-107頁;Gregory Claeys, Imperial Sceptics: British Critics of Empire 1850-1920, Cambridge: Cambridge U. P., 2010, ch.1.

[4] Zoë Laidlaw, Protecting the Empire’s Humanity: Thomas Hodgkin and British Colonial Activism 1830-1870, Cambridge: Cambridge U. P., 2021, 41, 53, 193-195.

(「世界史の眼」No.35)

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