書評:工藤晶人『両岸の旅人—イスマイル・ユルバンと地中海の近代』(東京大学出版会、2022年)
大澤広晃

 本書の主人公であるイスマイル・ユルバン(1812〜1884)は、複数世界の境域で生きた人物である。有色自由人として仏領ギアナに生まれ、フランスで教育を受けてサン=シモン主義に傾倒する。その影響でイスラームに入信し、アラビア語通訳や植民地行政官として本国とアルジェリアを往復する生涯を送った。当時の地中海では、ヨーロッパのみならず東地中海世界や北アフリカ各地でも政治的・経済的・文化的変化が共時的に、しかし異なる速度でおこっており、著者がいう地中海革命の時代を迎えていた。西洋世界では東洋人を異質で停滞的な他者として表象するオリエンタリズムの言説が影響を強めつつあったが、同時に、「西洋=文明」と「東洋=野蛮」の二項対立的図式を批判する試みもなされていた。「短い19世紀(およそ1830年代から80年代にかけての時期)」を生きたユルバンの一生をたどりながら、地中海が経験した近代の諸相を探求することが本書の課題である。

 第1章では、ユルバンの生い立ちと彼が幼少期を過ごした仏領ギアナの歴史が語られる。フランス人貿易商の父と解放奴隷の母との間に生まれたユルバンは、黒人の血を8分の1引く有色自由人で、フランスで教育を受けた。一時ギアナに帰郷するがすぐにフランスに戻り、サン=シモン主義に惹かれていく。

 第2章は、19世紀初頭におけるサン=シモン主義の動向とユルバンによるその受容を論じる。サン=シモン主義者を率いたアンファンタンと彼の弟子たちの主張が整理されるが、本書の主題にとくに関連するものとして、地中海を東洋と西洋が交わる「広場」とし、人種や信仰にかかわらないすべての人間の協同を呼びかけたミシェル・シュヴァリエの地中海体制論が紹介される。ユルバンはパリでサン=シモン主義者との共同生活に加わり、「黒人」として振る舞うことで注目を引こうとした。

 1833年、ユルバンはサン=シモン主義者の同志とともにエジプトに赴き、現地でイスラームに入信し、イスマイル・ユルバンを名乗った。第3章では、自らの内でキリスト教とイスラームを架橋することで東洋と西洋の交わりを体現しようとしたユルバンの意図が分析される。

 第4章は、19世紀初頭までの西地中海世界の動向を押さえたうえで、アルジェリアでのユルバンの活動と思想を考察する。現地でアラビア語通訳官となったユルバンは、東西の合一を掲げるサン=シモン主義の実践の一環としてムスリム女性と結婚した。同じ頃、サン=シモン主義者のデシュタルと共著で人種についての本を出版したが、それは白人と黒人の結婚を奨励し、両者から生まれる混血を「新しい人類」(140頁)として積極的に評価するという内容を含むものだった。本章では、ユルバンの同時代人で本書を通じて彼の比較対象とされるレオン・ロシュの経歴と著作も、批判的に検討される。

 アルジェリア征服と植民地化の過程におけるユルバンの動向を論じるのが、続く第5章の主題である。フランスと戦った現地人指導者アブドゥルカーディルとの関係や、ムスリムの先住民を入植者のフランス人と「同じ市民」(182〜3頁)として扱うべきだとする主張が取り上げられる。

 第6章では、「原住民」と入植者が同等の権利をもつべきだと述べた皇帝ナポレオン三世のアラブ王国構想とそれへのユルバンの影響が、後者のアルジェリア統治論とも関連づけながら考察される。アルジェリア総督府の高官となっていたユルバンは、当時の支配的な東洋学の言説を論駁しながら、西洋のみを進歩や文明の模範とみなす考え方を批判するとともに、ムスリム先住民を法的劣等者として扱うべきではないこと、先住民の土地への権利を認めるべきことなどを説いた。ユルバンが目指した路線は頓挫したが、著者は土地制度をめぐるユルバンの活動を「あたかも一個の革命家のごとき形相をみせていた」(223頁)と評する。

 終章ではユルバンの晩年と史料が残存した経緯が語られたうえで、彼の主張と活動が整理される。著者は、ユルバンが植民地支配を否定しなかったものの、複数世界の境域という足場から思考することで、東洋と西洋の差異を相対化するまなざしを獲得し、それを実際に言葉として紡いだ点に彼の独自性があったと評価している。

 ユルバンは複数の地域を移動し、帝国支配では強者の側に属しながらも宗主国社会では周縁に位置し、それにもかかわらず第二帝政期には一定の政治的影響力を発揮した。多彩な顔をもつ魅力的な人物だが、そうであるがゆえに物語の主人公に据えるのは容易ではない。議論が拡散し、研究史における位置がぼやけてしまうからである。しかし著者は、ユルバンの伝記を通じて、「短い19世紀」と「地中海革命」という概念のもとで19世紀の時代区分と西洋中心主義を再考し、あわせて、サイードが提起したオリエンタリズム論に批判的再検討を加えるという明確な課題を掲げ、それを実際に遂行することでこの問題を克服している。物語の構造も巧みだ。時代の文脈を丁寧に描いたうえで、時流に片足を入れつつも、もう片方の足でそこから抜け出ようとする個人に光をあてることにより、彩り豊かで陰影に富む近代の地中海像を見事に浮かび上がらせている。読者はユルバン(とロシュ)の生涯をたどりながら、おのずと19世紀の歴史を多面的に学べる仕組みになっている。著者の力量のなせるわざであろう。

 多様な地域が折り重なる地中海の近代を総体として描写するためには、従来の西洋史や東洋史の枠組みを乗り越えていかねばならない。この点について本書は、ユルバンの生の軌跡にそって南米、ヨーロッパ、北アフリカの歴史を縫い合わせるだけでなく、彼の個性を際立たせるために登場させたロシュを介して日本にも言及している。同時代における諸地域間の相互関係や連動を説得的に示すことで、西洋中心主義を相対化しながら世界史を語るという著者の試みは、概ね成功しているといえよう。流暢で力強い文体とともに、「下からのグローバルヒストリー」の模範となる作品である。

 その一方で、より踏み込んだ議論をすることで読者の理解がいっそう深まるだろうと思われる点もあった。第一は、ユルバンの「黒人性」という問題である。第2章では、サン=シモン主義者たちとの共同生活を送る有色人のユルバンが、「黒人」の役を演じることで注目を集めようとしたことが述べられている。だが彼は、外見はほぼ白人(76頁)の混血である。人が自分自身をどう称するかと他者がその人をどうみるかの間には、往々にして差異がある。デシュタルのように彼の黒人性を強調した者もいたが、他の人々はユルバンを黒人として受け入れたのか。関連して、当時における黒人と混血の関係も興味深い。ギニアでは、ユルバンのような混血の有色自由人はアフリカ系の血が濃い「いわゆる黒人」とは区別されていたそうだが(76頁)、宗主国で黒人と混血はどう識別されていたのか。人間の分類という点で、混血は黒人に包含される部分集合だったのか、あるいは、ギニアのように「いわゆる黒人」とは異なる存在とみられていたのだろうか。19世紀前半のフランス社会でユルバンがどのような位置を占めていたのかに関心をもった。

 第二は、ユルバンとアルジェリアに住む人々との関係についてである。まず、入植者との関係について。他帝国についての先行研究は、19世紀が進むにつれて植民地の支配者や白人住民の間で混血の人々に対するまなざしが硬化していったことを明らかにしている[1]。本書でも、19世紀後半フランスでの人種主義の高揚に伴いユルバンが自らの出自を「傷」と考えるようになったことが指摘されているが(236-7頁)、混血という属性は、入植者の彼に対する評価や姿勢にどう影響したのだろうか。次に、ユルバンとムスリム先住民社会との関係について。第5章と6章では、ユルバンが当時の東洋学で主流をなしていたイスラームやアルジェリアについての言説を批判し、目前にある「事実」をもってそれに対抗しようとしたさまが描かれている。ここで気になるのは、ユルバンがアルジェリア社会についての知見をどう獲得したのかという点である。オリエンタリズムの学知が仮構の言説体系であるのと同様に、先住民社会の様態(とくに土地制度)についての彼の「事実」認識もまたひとつの言説だったはずである。では、そうした認識およびその基礎となる情報を彼はどこから得たのか。最近の研究は植民地にかんする知識の形成で現地人がはたした役割を強調するが[2]、ユルバンの「事実」認識や政策論の形成に先住民はかかわっていたのか。また、現地のムスリムは彼をどうみていたのか。ユルバンと先住民の関係をもう少し知りたいと思った。

 最後に、本書の議論を評者が関心をもつイギリス帝国史とつなげる可能性に言及しておきたい。ユルバンも外国の事例を参照していたように(212〜3頁)、最近では異なる帝国間の相互関係を問う研究が増えている。評者は近年、主として非白人先住民に対する白人入植者や植民地政府の過剰な暴力や搾取を批判する人道主義という思想・運動(代表例は奴隷貿易・奴隷制反対運動)に興味をもっている。人道主義の内部は多様だが、19世紀イギリスでその一翼を占めていたのは実証主義者と呼ばれる人々だった。オーギュスト・コントを崇め、彼にならって人類教を組織した実証主義者たちは、人類全体の進歩と平和を唱え、その見地からイギリスの帝国支配をラディカルに批判した[3]。イギリスが世界で主導的な役割を果たすことを期待しつつも、植民地戦争では自国に非を認め、商業・金融利害による経済搾取を批判し、祖国を世界平和にとっての最大の脅威と呼ぶなど、その思想は同時代に類を見ない帝国主義批判に彩られていた。さらに興味深いのは、実証主義者の異文化に対する姿勢である。彼らは19世紀半ば頃から非西洋世界の文化や慣習にも固有の価値を認め、そうした伝統に即した制度や発展を尊重する方針を掲げていた。宗教についても、主要な実証主義者であるフレデリック・ハリスン(1831〜1923)はムハンマドとコーランを高く評価していたし、ヘンリ・ブリッジズ(1832〜1906)は人類教の集会にムスリムを招こうとしていた。加えて、当時の代表的な人道主義団体で実証主義者の多くも会員であった原住民保護協会(Aborigines Protection Society)は、創設メンバーのひとりであるトマス・ホジキン(1798〜1866。ただし彼は実証主義者ではない)を中心に、先住民の土地に対する権利の保護を強く訴えていた[4]。こうした考え方は、ユルバンのそれと重なるところがあるようにも思える。もちろん、両者の間に違いは多い。実証主義者が崇めるコントは、最終的に師であるサン=シモンやサン=シモン主義者と袂を分かった。ユルバンと実証主義者についても、前者が植民地生まれの有色自由人であるのに対して、後者は主としてオックスブリッジ出身の知的エリートからなり、社会的出自が異なっていた。実証主義者がユルバンのようにイスラームに入信し、宗教における東西の合一を自ら実践してみせたわけでもない。それでも、サン=シモンに発する思想から(異なるかたちではあるものの)影響を受けた英仏の人々の主張を比較し、相互の関係性を探ることは、興味深い研究の主題となるのではないだろうか。

 門外漢ゆえ的外れな指摘や意見も多かったかもしれないが、評者は本書の問題意識や叙述から多くを学び、自らの課題についても新たな気づきを得ることができた。本書が多くの人々の手に取られることを願う。


[1] アン・ローラ・ストーラー(永渕康之・水谷智・吉田信訳)『肉体の知識と帝国の権力—人種と植民地支配における親密なるもの』(以文社、2010年);水谷智「植民地統治下の白人性と「混血」—英領インドの事例から」、川島浩平・竹沢泰子編『人種神話を解体する3—「血」の政治学を越えて』(東京大学出版会、2016年)、163-189頁

[2] カピル・ラジ(水谷智・水井万里子・大澤広晃訳)『近代科学のリロケーション—南アジアとヨーロッパにおける知の循環と構築』(名古屋大学出版会、2016年)

[3] 光永正明「「人類教」とジェントルマン」、川北稔・指昭博編『周縁からのまなざし—もうひとつのイギリス近代』(山川出版社、2000年)、82-107頁;Gregory Claeys, Imperial Sceptics: British Critics of Empire 1850-1920, Cambridge: Cambridge U. P., 2010, ch.1.

[4] Zoë Laidlaw, Protecting the Empire’s Humanity: Thomas Hodgkin and British Colonial Activism 1830-1870, Cambridge: Cambridge U. P., 2021, 41, 53, 193-195.

(「世界史の眼」No.35)

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