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「世界史の眼」No.36(2023年3月)

今号では、小谷汪之さんに、「M・ウェーバーのアジア社会論―「インド的発展の固有性」論を中心として―」の(上)を寄稿して頂きました。次号以降、(中)、(下)と続く予定です。また、東京大学の鶴見太郎さんに、昨年刊行のピーター・N・スターンズ『人権の世界史』を書評して頂きました。さらに山崎が、パトリック・マニングのウェブサイトを紹介しました。

小谷汪之
M・ウェーバーのアジア社会論―「インド的発展の固有性」論を中心として―」(上)

鶴見太郎
書評:ピーター・N・スターンズ『人権の世界史』(上杉忍訳)ミネルヴァ書房、2022年

山崎信一
ウェブサイト紹介:パトリック・マニング「Contending Voices: Problems in World History」

ピーター・N・スターンズ(上杉忍訳)『人権の世界史』(ミネルヴァ書房、2022年)の出版社による紹介ページは、こちらです。また、パトリック・マニングのウェブサイトContending Voicesは、こちらです。

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M・ウェーバーのアジア社会論―「インド的発展の固有性」論を中心として―(上)
小谷汪之

はじめに

1 土地レンテ収取者の重層化―剰余収取体制の発展

(以上、本号掲載)

(以下、次号以降掲載予定)

2 ビルトとジャジマーニー―社会的分業関係の発展

3 「ビルトの体系」

おわりに

はじめに

 マックス・ウェーバーのアジア社会論は、マルクスなど19世紀までの西欧思想家たちによるアジア社会論とは異なり、今日なお継承されうるものを含んでいる。(注1)

 たしかに、ウェーバーのアジア論の中心主題は、アジアにおいて資本主義が成立しなかったのはなぜか、ということであった。ウェーバーは、インドについても、資本主義の自生的な発展の欠如を指摘し、ヒンドゥー教や仏教がそのこととどう関係していたのかということを、『ヒンドゥー教と仏教 宗教社会学論集 世界諸宗教の経済倫理 II』(1921年)の主題としている。(注2)

 しかし、だからといって、ウェーバーは「歴史なきアジア」といった19世紀オリエンタリズム的固定観念に縛られていたわけでは決してない。例えば、ウェーバーは、『ヒンドゥー教と仏教』や『一般社会経済史要論』(注3)において、インドにおける社会発展の固有性を追及しようとしていた。インド的な社会発展は、結局、資本主義を自生的に発展させることにはならなかったとしても、インド社会は「停滞」していたのではなく、固有の発展を遂げていたというのがウェーバーの捉え方であった。

  独立(1947年)後のインドの歴史学界では、マルクス主義的、あるいはスターリン主義的な歴史発展段階論が強い影響力を持ち、奴隷制度、封建制度といった西洋起源の概念をそのままインド史に当てはめようとする傾向が強かった。しかし、ウェーバーの場合は、そのような機械的インド史論とは異なり、インド社会に固有の歴史変動ダイナミズムを捉えようとしたのである。

 ウェーバーにとって、インド的社会発展の固有性を捉えるための一つの手掛かりとなったのはLandrentner、すなわち「Landrente収取者」の重層化という現象であった。Landrenteという言葉は、歴史的文脈においては、「地代」と訳される場合が多い。しかし、「地代」というと、地主―小作関係のような、土地所有者―借地人という一対一の社会関係が想定されやすい。しかし、ウェーバーは、インド的文脈においては、Landrenteという言葉を、もっと幅広い社会的諸関係において、多数の人々すなわち複数のLandrentnerに配分される「土地からの収益(剰余)」を表す言葉として使用している。その点を考慮して、本稿ではLandrenteを「土地レンテ」(単にRenteとある場合は「レンテ」)、Landrentnerを「土地レンテ収取者」(単にRentnerとある場合には「レンテ収取者」)と訳する。(注4)ウェーバーはこの「土地レンテ収取者」Landrentnerの重層化という現象にインド的社会発展の固有性を認めていたのである。

 ウェーバーがインド的社会発展の固有性を捉えようとするにあたって、もう一つの手掛かりとなったのは、ビルトbirtというインド社会に固有の言葉であった。ビルトという言葉は、後述のように、ザミーンダーリー・ビルト(ザミーンダーリーとしてのビルト)といった場合には、「土地レンテ収取権」を意味している。しかし、より本源的な用法では、世襲的に定められている範囲の「顧客」に対して世襲的家業に基づくサーヴィスを提供し、その反対給付を受ける世襲的な権益(資産、家産)がすべてビルトと称された。ウェーバーにとって、このビルトという言葉が、インドにおける社会発展の固有性を捉えるもう一つの手掛かりとなったのである。

1 土地レンテ収取者の重層化―剰余収取体制の発展

(1) 土地レンテと土地レンテ収取者

 ウェーバーは、土地レンテLandrente、すなわち土地からの収益(剰余)がさまざまな取り分権をもつ人々、すなわち多数の土地レンテ収取者Landrentnerによって分有され、土地レンテ収取者の階層が重層化していくというところに、インド的社会発展の固有性を認めた。『ヒンドゥー教と仏教』の中で、ウェーバーは次のようにのべている。

 インド的な発展に固有なのは(Es ist der indischen Entwicklung eigentümlich, daß……)、いろいろな状況において、相互に重なりあう一連のレンテRenteが農民の納税義務を基盤として成立し、土地収益Bodenerträgenから支払われたということであった。本来の農民の上に、つまり土地の実際の耕作者のすぐ上に、一人の、あるいはより一般的には、一団体の土地レンテ収取者たちLandrentnernが存在した。彼らは土地の所有権者Eigentümerとみなされ、上の者に対しては、その土地からの租税支払いの責任を負った。しかし、彼らと国家権力との間には、通例、さらにザミーンダールあるいはタァルクダールと呼ばれる中間介在者がいて、単にレンテの分け前(それは、〔インドの〕北東地方ではしばしば租税額の10パーセントであるが)か、あるいはもっと広範な、本質的に領主的な諸権利を要求した。しかし、時には、この一人の中間介在者ではなく、古来の徴税請負人の他に、ビルト≫birt≪〔の所有〕を通してレンテ収取権Rentenrechtenを与えられた者、あるいは、〔ある村落の〕未納租税の支払いを引き受けることと引き換えに、その村落を購入した≫gekauft≪ことによって、権利を得た領主が存在した。最後に、事情によっては、世襲村長のレンテ要求がありえたが、それは村長に一種の領主的性格を付与した。(Hinduismus und Buddhismus, p. 71. 深沢宏訳、90頁)

 直接生産者たる農民たちの上に、「一団体の土地レンテ収取者たち」が存在し、土地所有権者として、納税義務を負っていた。彼らと国家のあいだには、税の徴収・納付にかかわって、ザミーンダールなどさまざまな階層の者たちが介在し、それぞれの職務とそれに付随する取り分を分有しあっていた。それをウェーバーは土地レンテに対する諸権利の重畳と捉え、このような状態がより複雑に、より高度に展開していくところに、インド的な社会発展の固有性を認めたのである。このような認識を踏まえて、ウェーバーは『一般社会経済史要論』では、次のようにのべている。

かようにして、租税徴収権者と農民との間には、租税が請け負われ、さらにこれが下請けせられるという関係を通じて、多数のレンテ収取者たちRentenempfängernが介在するというのがインド的諸関係の固有性Eigentümlichkeit der indischen Verhältnisseである。かくのごとくして、4人とか5人とかのレンテ収取者たちが鎖のごとくつながっている場合は、決してめずらしくない。(Wirtschaftsgeschichte, pp. 37-38. 黒正巌・青山秀夫訳、上巻、93頁)

 ここでは、Rentenempfängernという言葉が使われているが、これが『ヒンドゥー教と仏教』におけるLandrentnernと同じなのは明らかである。(注5)いずれにしろ、ウェーバーは、「土地レンテ」の一部を収取する者たちが重層化していく現象に着目して、「インド的発展の固有性」を捉えようとしたのである。

 ここでウェーバーは、時代と地域の限定なしに、「インド的発展」あるいは「インド的諸関係」の「固有性」を言っているのであるが、それではあまりに漠然としている。そこで、ウェーバーが、具体的には、どの時代と地域を念頭に置いていたのかということを考えてみたい。ウェーバーは上引の文章で、ザミーンダールやタァルクダールに言及している。彼らが、徴税請負との関係で広範に出現するのはムガル帝国の時代である。さらに、ウェーバーは上引の文章に続く箇所で、マラーター王国に言及している。それらのことから考えて、ウェーバーが念頭に置いていた時代は、主として16-18世紀、すなわちムガル帝国とマラーター王国の創建(それぞれ、1526年と1674年)と、それに引き続くムガルとマラーターの対立・抗争の時代であったということができる。地域としては、両国が領土をめぐって争い合った北インド・中央インドがウェーバーの関心の中心をなしていたと考えられる。

 この時代はイギリスによるインド植民地化に直接に先行する時代、すなわち、前植民地期であった。この時代にかんしては、豊富な英語文献が残されているから、ウェーバーはほとんど英語文献のみを用いて、「インド的発展の固有性」を追及することができたのである。

(2) 土地レンテ収取権としてのビルト

 ウェーバーの前引の一文に出てくるザミーンダールは、北インドにおける典型的な土地レンテ収取者Landrentnerであった。ウェーバーは、ベーデン=ポーエル『英領インドの土地制度』(注6)を通して、ザミーンダールなど、土地レンテLandrenteに対する世襲的取り分権を持つ階層が重層的に存在することを知ったのである。

 この土地レンテに対する世襲的な取り分権は、もともとは、ヴリッティvṛttiという言葉で表されていた。ヴリッティはサンスクリット語で「職業」、「生計(なりわい)」などを意味する言葉(サンスクリット語動詞√vṛt=to be supported by, to live on, etc.から派生)である。それが、16世紀頃までには転訛して、一般にビルトbirtと発音されるようになっていた。そのことを示す史料がI・ハビーブ『ムガル期インドの農業制度』のなかに見られる。この場合ビルトという言葉は土地レンテ収取権を意味している。

17世紀の一文書におけるビルトbirtという言葉の用法は、その言葉が贈与によって形成されたザミーンダーリーzamīndārīを表す言葉であることを示唆している。1669年の譲与文書の発給者は、ある村の「ミルキヤト、ザミーンダーリーおよびチョードゥラーイーmilkiyat, zamīndārī and chaudhurāī」を「ビルトの形」で譲与すると言明している。(注7)

 ここに出てくるビルトbirtという言葉は、明らかにヴリッティvṛttiという言葉が転訛したものである。したがって、この史料は、17世紀までの北インドにおいて、ヴリッティという言葉がビルトという発音しやすい、「庶民的」な言葉に転訛して、広く使用されていたことを示している。それは、土地レンテに対する世襲的な取り分権が広範に存在していたことの反映である。

 ハビーブは、この史料にかんして、ビルトは「贈与によって形成されたザミーンダーリー」を意味すると指摘している。ザミーンダーリーというのは土地レンテに対するザミーンダールの世襲的な取り分権のことである。したがって、ザミーンダーリーは、土地レンテ収取権一般を包括的に表すビルトの下位概念あるいは部分概念ということになる。それゆえに、ザミーンダーリー・ビルトあるいはビルト・ザミーンダーリーという表現も生まれたのである。

 上引の史料中に見られる諸権利すなわち「ミルキヤト、ザミーンダーリーおよびチョードゥラーイー」はビルトの内容を表している。そのうち、ミルキヤトはマレクmalek(所有者)の取り分を意味し、ザミーンダーリーと結合して、ある一定領域(この場合、具体的にはひとつの村)から、一定の土地レンテを収取する権利を意味した。チョードゥラーイーは地域共同体の首長としてのチョードゥリーの取り分である(後述)。これらの諸権利をビルトとして譲与したということは、世襲的な取り分権として譲与したということで、それはこれらの権利がもともと世襲的な権利だったからできたことである。

 このビルトという言葉は、北インドでは、19-20世紀になっても広く使用されていた。ベーデン=ポーエルは『英領インドの土地制度』(第一巻)で次のようにのべている。

 〔北インドの〕アワド地方においては、ラージャーが彼の家系の若い成員や廷臣に対して、賜与を行うことがあった〔後略〕。この賜与はビルトbirt、あるいはサンスクリット語ではヴリッティvrittiと呼ばれた。

 旧来のヒンドゥー王国が活力のある状態にあった限りでは、このような賜与は王の家系の成員あるいは王の家臣に一身の間だけ、その生計のために行われた(ジーワン・ビルトjewan birt)〔後略〕。しかし、ラージャーたちがムスリム勢力と抗争するようになり、権力を剥奪されたり、従属的な地位に落とされたりすると、ラージャーたちがビルトを売却することによって資金を調達するケースが現われる。このことはアワド地方において、明瞭に跡づけることができる〔後略〕。ビルト売却の例を示しているのは〔ゴーンダー地方の〕ウトラウラー国Utraula Stateである。これらの全ての場合に、その村落の経営、ラージャーの穀物取り分の全部あるいは一部分、そして荘園制的諸権利manorial rights(税関、渡船場、地方的諸税)が賜与を受けた者に譲渡された。これらの諸権利の総体はザミーンダーリーと呼ばれ、〔その場合〕ビルトはザミーンダーリー・ビルトと呼ばれた。(Baden=Powell, The Land-Systems of British India, Vol. I, pp. 131-132)

 このようなものとしてのザミーダーリー・ビルトの場合、土地レンテには税関や渡船場などからの料金収入も含まれていた。その土地レンテ収取権が一身かぎりの場合には、ジーワン・ビルト(jīvan birt 生涯ビルト、一代限りビルト)と呼ばれた。  

 このビルトと呼ばれた土地レンテ収取権は、遅くとも17世紀までには、売買可能な物件となっていた。ベーデン=ポーエルは以下のようなビルト売買文書を引用している(ただし、年代は不詳)。

 私は、バラモンであるトゥルシー・ラームに、〔ガネーシュプル村の〕ビルトを与えた。彼は、ガネーシュプル村を、貯水池、林、デー地〔カッコ内略〕、parja anjuri, biswa, bondha〔カッコ内略〕とともに永遠に享受する。彼はザミーンダーリー〔取り分〕を享受する〔カッコ内省略〕。彼は、〔これらの権利を〕安心して所有することができる。〔その代価として、私は〕701ルピーを受け取った。(Baden=Powell, The Land-Systems of British India, Vol. II, p. 240, n. 1)

 この売買文書においても、ビルトの具体的内容はザミーンダーリーで、ここで売買されているのは土地レンテ収取権としてのザミーンダーリー・ビルトである。

 このようなものとしてのビルトが土地レンテに対する世襲的な取り分権であることを、ウェーバーは知っていた。前引の文章の中で、ウェーバーは次のようにのべている。

しかし、時には、この一人の中間介在者ではなく、古来の徴税請負人の他に、ビルト≫birt≪〔の所有〕を通してレンテ収取権を与えられた者、あるいは、〔ある村落の〕未納租税の支払いを引き受けることと引き換えに、その村落を購入した≫gekauft≪ことによって、権利を得た領主が存在した。

 ここでは、「ビルト≫birt≪〔の所有〕を通してレンテ収取権を与えられた者」という一般的な表現がとられていて、具体的な事例は明示されていない。だが、次節で述べるように、ウェーバーがビルトという土地レンテ収取権を表すインド固有の言葉があることを知っていたこと、そのことが「インド的諸関係の固有性」を捉える手掛かりとなったのである。

(続く)

※注はまとめて(下)に掲載します。

(「世界史の眼」No.36)

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書評:ピーター・N・スターンズ『人権の世界史』(上杉忍訳)ミネルヴァ書房、2022年
鶴見太郎

 20世紀に入り、人権として考慮されるリストは大きく増え、それゆえにそのリストは部分的に採用されたり、地域の固有性(とされるもの)と衝突したり、揺り戻しがあったりと、複雑な展開を遂げている。つまるところ、全世界で人権が十全に保障されるには、いまだ多くの障壁が残されている。そのことは本書を読み進めていくほどに痛感されるが、本書の結論において著者が述べているように、「歴史が問題の整理を助けてくれる」(311)。1945年以降、今日までの状況を扱う終盤の第5章と第6章で描かれている人権リストの拡大と摩擦の増大については、それほど真新しさを覚えるものではない。本書の真価は、むしろそこに至るまでの前史が丁寧に書かれているところにある。

 古くは、ハンムラビ法典から歴史が紐解かれる。人権に関して前近代を見る際に、多くの論者は前近代に人権などなかったと一蹴するか、あるいは逆に、何らかの前近代の伝統のなかに過剰に現代的な人権概念を読み込むかの両極端の傾向を示すと筆者は指摘する(86)。本書はそれに対して、人権概念に機能的には近いものを見出すことで、そのいずれにも陥らないバランスを保っていく。そのため、上記で述べたような、人権概念がある程度は市民権を得つつも、十分に浸透していかないというときに立ちはだかる壁のありかに思いをはせることができる。

 例えば、「目には目を」という、人権意識からは程遠く見えるフレーズで有名なハンムラビ法典では、間違った告発から人々を守ることに多大な努力が傾けられていたという。殺人罪で告発した際に、それを実証できなかった場合に、告発者が処刑されることになっていた(52)。その一方で、身分によって処罰は異なっており、どの身分に対する犯罪かによっても重さには違いが設けられていた(56)。これは、当時の社会の実態を反映したものである。法律は社会とともにあり、その組み合わせによって人びとの権利がどの程度守られていたのかを判定する必要がある。つまり、法律だけを見て権利の有無を判断することには限界があるということである。例えば、子どもの権利に関して、極端な事例としてユダヤ法では、両親は不服従の子に対して死の罰を与えることが許されていたという。しかしこれは即座に子どもが保護されていなかったと結論すべきことではないと著者は論じる。というのも、特に農村社会では、共同体が子どもの躾に関して監視するのが常態であり、今日起こっているような子どもに対するむき出しの肉体的虐待は少なかったからである(58)。

 このように、古代において、今日の人権概念・状況を鑑みて「惜しい」と言える概念・状況を少なからず見出すことができると考えると興味深い。もっとも、人権に向けた萌芽と見るべきか、それとも、それにより実質的な問題がある程度防げたことが、それで防げないマイナーケースを放置することにつながってしまい、人権概念が精緻化されていくことを妨げていたと見るべきか、という問いは残るだろう。だからこそ、今日の人権状況の改善を阻むものが何かを考えるうえで、こうした過去の事例は示唆に富むのである。

 このことに関連して印象深かったのは「義務」との関連である。仏教は「権利」という言葉を持たないが、「義務」という言葉で権利が実質的に保障される場合もあったという。例えば、仏教のダーマでは「夫は妻を支えなければならない」とあり、これを妻が夫によって扶養される権利があるという意味に理解することもできる(研究者のあいだでも意見は分かれるそうだが)(70-71)。

 義務と権利は、何かしらの関係を持つことも多かった。キリスト教圏でも、奴隷であれ、子どもあれ、必要な保護を受けられていない場合は自分自身の義務から解放されるはずだと考えられていた(74)。つまり、今日的な意味での人権の制限は、あくまでも使用者や庇護者がその義務を果たす限りにおいて認められていたにすぎないのであり、上に立つ者もフリーハンドではないとされていた点で、人権的なものが事実上保障されていた場合は少なくなかったといえる。

 それでも、義務とセットになった権利は、やはり人権概念とは異なっている。それはあくまでもパターナリズムに基づいており、ある体制への従属の見返りにすぎない。子どもであれ障碍者であれ、仮に義務を一切果たせなくても、すべての人間に等しく保障されるのが人権概念の特徴である。

 もっとも、このような考え方は近代思想の発明品ではなく、その萌芽はかなり過去にさかのぼることができるようだ。例えば、キリスト教徒は、キリスト教徒仲間を平等な価値の魂をもつ個人とみなし、何らかの保護が与えられるべきだと教えられていた(75)。イスラム教も、すべての人間の尊厳を強調し、少なくとも17世紀まではキリスト教よりも非信者に対して寛大だったという(77)。

 こうした緩やかな人権意識が明確に人権として確立したのは、やはり西洋における個人主義拡大の影響が大きい(100)。ここから、国家に対しても、人権が保障できることをその存在理由とする論理が生まれていく(105)。だがそこから今度は、人権を保障できる国家を称揚する逆向きの論理もまた生まれていった。女性の権利が19世紀に入るまでほとんど議論すらされてこなかったことや、他の諸権利についても議論が始まっただけで十全に適用されたとは決していえなかったことを考えると、それは西洋の支配層に都合のよい自己意識にすぎなかった。

 こうした西洋の自己意識が、非西洋圏を植民地化することを正当化する際にしばしば顔をのぞかせたことは本書でもしばしば言及される。では、このような人権概念の海外進出は、人権状況を好転させただろうか。人権概念が表面的に普及したことは確かである。しかし、例えばオスマン帝国においては、国家と対応する第一義的存在がそれまでは共同体であったのに対して、個人が位置づけられることになった。もちろんこれによって、キリスト教徒やユダヤ教徒がビジネスの分野をはじめとしてより自由に活動することができるようになったのも事実だが、その後帝国は他の面では混乱をきたしていくことにもなった(167)。

 このことは、人権を事実上ある程度保障していた、人権概念にあと一歩の「惜しい」状態を、人権概念が意図せずして破壊してしまった事態と見ることもできるのかもしれない。もちろん、それは人権概念自体に責めがあるわけではなく、もとの状態に無頓着な状態で、なかば政治的にそれを適用しようとしたことが仇となったということである。

 ひるがえって、パターナリズムによって人権保護に近い「惜しい」状態が維持されているのは(もちろん、それによって人権が蹂躙されることもある)、今日においてさえ、なにも非西洋圏にだけとどまることではないだろう。本書を読んで感じられたのは、それを人権概念の普及と取り違えないことが重要であるし、このように、「惜しい」状態が中途半端に続く(つまり多数派の人びとが現状でそれなりに満足してしまう)ことが、十全な人権概念がはかばかしく実効化されていかない背景でもあるということである。

 以上のような壮大なスケールをもつ本書に対して、最後に疑問点を一つだけ挙げておきたい。それは本書ではほとんど登場しない社会主義圏の扱いである。上記のように、人権概念は個人主義に立っているが、自由主義的個人主義に基づく社会制度では人権を十全に保障できないことは常識となっている。経済的な従属関係が人権を阻害するという問題意識を最も強く掲げていたのが社会主義であり、労働という義務を果たす者のみが十全な人権を保障されるという、義務と権利を結びつけてしまう極端な論理さえ、ソ連においては当初論じられていた。本書では人権概念に対して、共同性や地域性を盾に干渉しようとする新興国支配層の論理が紹介されており、個人主義の原則を超えることには慎重でなければならない。なにより、社会主義圏における人権侵害の歴史には重いものがある。しかし、どのようにすれば人権を実質化できるかを考えるうえでは、社会主義圏における論争や経験もまた、何らかの示唆を与えるかもしれないのである。

(「世界史の眼」No.36)

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ウェブサイト紹介:パトリック・マニング「Contending Voices: Problems in World History」
山崎信一

 インターネットの利用が一般化し、人々の生活の不可欠な一部となって20年以上が経過した。その中で、ウェブサイトによる情報発信は、ますます大きな比重を占めるようになってきている。歴史学をはじめとする学術的な情報発信もその例外ではないだろう。ウェブによる情報の即時性という点は、マスメディアなどに比べればそこまで大きな意味を持たないだろうが、ウェブによって非常に広い範囲にしかも低コストで情報を発信できるという点は、大きな意味を持っている。当世界史研究所も、2020年4月からウェブサイトを通しての定期的な情報発信を、活動の中心としている。ここで紹介するパトリック・マニング(Patrick Manning)のブログ「抗争する声:世界史の諸問題(Contending Voices: Problems in World History)」(https://patrickmanningworldhistorian.com/contending-voices-problems-in-world-history/)は、世界史に関するウェブでの情報発信という点で、世界史研究所の活動とも通じるものであろうと思う。

 パトリック・マニングは、米国における世界史研究の第一人者であり、これまで非常に精力的な活動を行ってきた。アフリカ史研究から出発し、世界史に関しても多数の著作を著しているが、その関心の中心は、単に世界史や人類史を叙述すること以上に、世界史叙述の構造を明らかにすることや世界史研究の方法論の分析にも及んでいる。マニングの世界史研究の最大の成果の一つである、Navigating World History: Historians Create a Global Past (New York: Palgrave Macmillan, 2003)は邦訳され、南塚信吾・渡邊昭子(監訳)『世界史をナビゲートする―地球大の歴史を求めて』(彩流社、2016年)として出版されてもいる。

 このマニングのブログの最初のエントリーは、2020年4月の「COVID-19を耐え、経済を回復させる」と題する、企業経営者の姿勢を批判的に論じたもの、2番目も感染症を論じた2021年4月の「COVID-19:世界的保健危機における成功と失敗」であり、世界的な感染症拡大がマニングのウェブによる情報発信の一つの動機であろうことを窺わせる。そして、2021年4月以降9月までは、環境問題、ジェンダー、BLMなど社会において論争となっているテーマが並んでいる。またポピュラー文化に関しても論じられており、マニングの関心の広さが感じられる。2022年5月以降は、およそ月に一回の頻度で、マニング自身の専門により近い世界史研究に関わる論考が多く投稿されている。例えば、2022年9月の投稿である「歴史における相互作用」は、ポピュラー文化を題材に、文化の相互作用のパターンを理論化しており興味深い。また、世界史に関するさまざまな論考やインタビューが紹介されており、例えば2023年1月の「海洋の歴史を読む」では、ジェレミー・ブラックの最近の著作を中心に、さまざまな海洋史の論考を紹介している。2023年2月の「地球各地の世界史教育」では、米国テキサス州の世界史教育の事例を扱った文献と、世界史研究所が編集に関わったアジアにおける世界史教育を扱った論集であるMinamizuka Shingo (ed.), World History Teaching in Asia: A Comparative Survey (Berkshire, 2019)を比較して、世界史教育の発展の類似性とその必要性を指摘している。

 投稿されているエントリーのすべてを紹介することはできないが、マニングの洞察の鋭さをいずれも感じさせる。また、いずれも平易な英語で書かれており、数千語程度にまとまっている。読んでいると、大学の講義を受けているかのように感じられる。実際、日本の大学の歴史教育において教材として用いることができそうなものも数多い。中には、「国際連合の紹介」(2022年8月)のように、まさにアクティヴ・ラーニングの素材となりそうなものもある。

 ウェブサイトによる情報発信の特徴として、書籍と異なり、明白な終わりが存在しないことも挙げられるだろうか。1941年生まれということで決して若いわけではないが、今後ともさまざまな論考が投稿されるのを心待ちにしている。インターネットの特徴の一つは、情報の相互参照の容易さにもある。図らずもこうして、世界史研究所が関わった著作がマニングに紹介され、またここでマニングのウェブサイトを世界史研究所で紹介している。そして、マニングのサイトは、似たような関心を持ち続けている世界史研究所の活動にとっても、大きな励みとなっている。そして、ぜひ皆さんにもウェブサイトを通して、マニングの緻密さとスケールの大きさに触れて頂きたいと思う。

※パトリック・マニングのウェブサイトおよび各エントリーは、いずれも2023年2月25日に最終閲覧。

(「世界史の眼」No.36)

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