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『「世界史」の誕生』が刊行されます

2023年6月30日に、南塚信吾(世界史研究所所長)著『「世界史」の誕生―ヨーロッパ中心史観の淵源』が、ミネルヴァ書房より刊行されます。「世界史」の形成とその幕末以降の日本への影響に関し、膨大な先行研究を踏まえての解明を試みた意欲作です。

目次

はじめに

第1章 キリスト教的「普遍史」の世界
 1 「普遍史」の支配と危機
  (1)『神の国』の世界史―「一体的存在としての人類」の歴史
  (2)普遍史の危機
 2 ボシュエの『普遍史』 
 3 上原専禄の問題提起

第2章 「科学的」世界史の模索
 1 ヴィーコ『新しい学』―デカルト批判
 2 ヴィーコの世界史像
 3 キリスト教的史観との関係

第3章 啓蒙主義の世界史
 1 新しい地平 
 2 イギリスの啓蒙主義的歴史
 3 啓蒙主義的世界史の試み―ヴォルテール
  (1)ヴォルテールの世界史
  (2)ヴォルテールの歴史の方法
  (3)ヴォルテールの世界史の構成
  (4)ヴォルテールの世界史の方法
  (5)ヴォルテールのアジア(=非ヨーロッパ)論
 4 「普遍史」批判の展開―クロード・F・ミロ
  (1)ミロの歴史の方法
  (2)ミロの古代史論
  (3)ミロの近代史論
  (4)ミロのアジア(=非ヨーロッパ)論
  (5)ミロの世界像とは
 5 『両インド史』の可能性―ギヨーム=トマ・レーナル
  (1)百科全書派の産物
  (2)『両インド史』の構成
  (3)世界史論としての特徴
 6 啓蒙主義の歴史論と世界史観

第4章 多元的世界史の試み
 1 カントの『普遍史の理念』 
 2 ヘルダーの多元的世界史
  (1)ヘルダーの位置づけ
  (2)『人類の歴史哲学考』―フォルクの多元性
  (3)人間自身の歴史
  (4)世界史の方法―多元的発展
 3 ヴィーコとヘルダー

第5章 「普遍史」からの脱却へ
 1 スコットランドとアイルランドからの世界史 
  (1)スコットランドからの世界史―A・F・タイトラー『一般史の諸要素』
  (2)アイルランドからの近代的世界史―T・カイトリー『歴史概論』
  (3)アイルランドからの「帝国的」世界史―W・C・テイラー『古代・近代史のマニュアル』
 2 フランス的世界史へ―ギゾーとミシュレ
 3 ドイツにおける脱「普遍史」の成果―ヘーゲルとランケへ 
  (1)脱聖書の世界史
  (2)「聖史」と世俗史の「折衷型」世界史
  (3)ヘーゲルの「歴史哲学」に見る世界史
  (4)ランケ⑴―実証主義の「世界史」へ
 4 アメリカにおける「普遍史」の名残
  (1)ヨーロッパの世界史の「輸入」
  (2)アメリカ「自前」の「世界史」
  (3)日本にもたらされた「世界史」

第6章 実証主義の歴史学とヨーロッパ中心の世界史
 1 コントの「実証主義」
 2 ドイツにおける実証主義の世界史―ランケ
  (1)脱聖書の苦悩―G・ヴェーバーの世界史
  (2)ランケ⑵――世界史への一歩『近代史の諸時代』
  (3)ヨーロッパ中心の実証主義的世界史の浸透
 3 イギリスにおける実証主義と世界史
  (1)最後の「折衷型」「世界史」―H・ホワイトの教科書
  (2)チェンバースの同時代史的世界史
  (3)世界文明史への道―バックル『イングランド文明史』
  (4)ダーウィン『種の起源』と「適者生存」
 4 マルクス・エンゲルスの世界史論 
  (1)中心からの世界史
  (2)周縁と「連動」する世界史
  (3)発展段階論と世界史

第7章 ナショナル・ヒストリーと世界史
 1 人種的世界史の登場―フリーマンとスウィントン
  (1)E・A・フリーマンの人種的世界史
  (2)W・スウィントンの人種的世界史
 2 ナショナル・ヒストリーの支配
  (1)イギリスにおける歴史の専門職業化
  (2)ドイツ―プロイセン国家史
 3 世界史とナショナル・ヒストリー―ランケ⑶  
  (1)『世界史』の方法
  (2)『世界史』の構成
  (3)『世界史』の特徴
 4 ナショナル・ヒストリーへの抵抗―ブルクハルトとアクトン
  (1)ブルクハルト『世界史的考察』
  (2)アクトンと『ケンブリッジ近代史』―ランケとの葛藤
 5 アメリカにおけるランケ的世界史―G・P・フィッシャー
  (1)フィッシャー『ユニヴァーサル・ヒストリー概論』の方法
  (2)『ユニヴァーサル・ヒストリー概論』の構成

参考文献
おわりに
人名索引

ミネルヴァ書房の紹介ページはこちらです。世界史研究所に連絡していただければ、特別価格にてお求めいただけます。仔細はお問い合わせください。

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「世界史の眼」No.39(2023年6月)

今号では、木畑洋一さんに、百瀬宏『小国 歴史にみる理念と現実』(岩波現代文庫、2022年)を、東京大学の鶴見太郎さんに、ジョン・C・スーパー&ブライアン・K・ターリー(渡邊昭子訳)『宗教の世界史』(ミネルヴァ書房、2022年)を書評して頂きました。さらに小谷汪之さんに「世界史寸描」として、「太平洋戦争とパラオ現地民―中島敦にかかわる一つのエピソード―」を寄稿して頂きました。

木畑洋一
書評:百瀬宏『小国 歴史にみる理念と現実』(岩波現代文庫、2022年)

鶴見太郎
書評:ジョン・C・スーパー&ブライアン・K・ターリー『宗教の世界史』(渡邊昭子訳)ミネルヴァ書房、2022年

小谷汪之
世界史寸描 太平洋戦争とパラオ現地民―中島敦にかかわる一つのエピソード―

百瀬宏『小国 歴史にみる理念と現実』(岩波現代文庫、2022年)の出版社による紹介ページはこちらです。また、ジョン・C・スーパー&ブライアン・K・ターリー(渡邊昭子訳)『宗教の世界史』(ミネルヴァ書房、2022年)の出版社による紹介ページはこちらです。

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書評:百瀬宏『小国 歴史にみる理念と現実』(岩波現代文庫、2022年)
木畑洋一

 本書は、1988年に岩波書店から出版され、2011年に岩波人文書セレクションの一冊として再刊されたことがある本の現代文庫版である。岩波現代文庫[学術]は、さまざまな学問分野で大きな意味をもった本を復刊して、新たな読者に提供していくという役割を担ってきた。本書が関わる国際関係・国際政治分野においても、たとえば、細谷千博『シベリア出兵の史的研究』(2005年、原著:有斐閣、1955年)や斉藤孝『戦間期国際政治史』(2015年、原著:岩波書店、1978年)などがすぐ頭に浮かぶ。斉藤氏の本については、著者没後の刊行であったため、筆者が解説を書かせていただいたが、原著に初めて接した頃のことをいろいろと思い出して、楽しい仕事になったことを覚えている。本書の場合、著者百瀬氏は九〇歳をこえてなおお元気であり、現代文庫版でも「あとがき」を執筆されている。この「世界史の眼」を出している世界史研究所の前身組織を支える存在であった百瀬氏の代表作の一つが、こうした読みやすい形で幅広い読者に改めて示されたことを、まず何よりも喜びたい。

 百瀬氏は、いうまでもなくフィンランド史を中心として、わが国における北欧、東欧の近現代史研究を牽引してきた研究者で、その著作はすこぶる多い。筆者が初めて氏の研究に接したのは、第二次世界大戦初期のソ連-フィンランド戦争(冬戦争)を扱った『東・北欧外交史序説 ソ連=フィンランド関係の研究』(福村出版、1970年)であり、その後も、『ソビエト連邦と現代の世界』(岩波書店、1979年)や『北欧現代史』(世界現代史28、山川出版社、1980年)などで、いろいろと学ばせていただいた。さらに、印象に残ったものとして、『国際関係学原論』(岩波書店、2003年)がある。氏に大きな影響を与えた江口朴郎氏の議論を基礎とする「人間解放の主体的諸契機」と題する章を中心的位置に据えるなど大胆な議論を展開したこの本が、氏の著作としてあまり言及されることがないのは、残念である。

 そのような百瀬氏の北欧・東欧研究と国際関係全体にまたがる研究との結節点ともいうべき位置を占めるのが、本書『小国』であるといってよいであろう。本書の詳しい内容紹介は割愛するが、古代世界における「小国」論の系譜から説き起こす序論部分に始まって、19世紀のウィーン体制下、クリミア戦争期、帝国主義の時代、1920年代、1930年代、冷戦期、緊張緩和期という各時期に、「小国」の位置が国際関係のなかでどのような変化をとげ、さらに「小国」についていかなる議論がなされてきたかが、丁寧に述べられている。

 強い力をもっている「大国」の思惑と行動を軸として描かれがちな国際政治の舞台において、「小国」(その定義自体論争をはらむが、ここでは立ち入らない)が、たとえば中立政策などを通じてどういった振る舞いをしてきたかが、本書では豊富な例に基づいて論じられる。その際挙げられている事例は、ヨーロッパのものが軸になっている。百瀬氏の専門上当然のことながら、北欧諸国の例が圧倒的に多く、東欧、バルカン半島も重視されている。一方ベネルクスに重点が置かれるのは第二次世界大戦後についての部分である。

 このように、本書は、基本的には「ヨーロッパの小国」論といってよく、アジア・アフリカの「小国」については、1950年代からの非同盟外交の意味が強調されているものの、比重は小さく、また中南米の事例などは簡単に触れられるのみであり、それに不満を抱く読者がいることは十分想像できる。ただし、ヨーロッパ以外でも、日本については、「小国」論との関わりがかなりの密度をもって論じられおり、特に第9章「「戦後」日本の「小国」像」は、きわめてユニークな議論となっている。

 こういった内容の『小国』が、2022年の日本において文庫本として再刊される理由は、何であろうか。

 本書には、2011年に岩波人文書セレクションとして刊行された際に書かれた「「冷戦終焉」以来の「小国」をめぐる理念と現実」という文章も収録されており、EUのなかでの「小国」の問題や、太平洋の島嶼国家の変化などが触れられ、「小国」による地域協力の重要性や、「内なる小国」、すなわち大国を含む国家の内部の「小国家」とも言える地方自治体や地域の新たな意味に、注意が促されている。しかし、2011年時点での再刊の意味は、必ずしもはっきりしない。

 それに比べ、2022年での文庫本としての再刊行の意味は、すこぶる明確であるといってよい。本書末尾の「岩波現代文庫本あとがき」で著者は、「本書が扱う事柄の応用問題ともいえる諸状況が、日本を含む世界各地で発生している」と述べつつ、「具体的な話題の中でも早速思い浮かぶのは、ウクライナ、そしてロシアの事態である」と記している。そして、ロシアのウクライナ侵攻の結果、フィンランドとスウェーデンがNATOへの加盟申請を行ったことに触れ、両国の動きはロシアの脅威への「敗北」と見られるかもしれないものの、「事態はそう単純ではないだろう」として、両国の今後の動きへの注視を促している。確かに、本書でも最も多く言及されているといってよいこれらの国々の最近の動きの意味を考える上で、本書の記述に戻ってみる意味は大きい。

 さらに、著者が直接述べているわけではないが、ロシアによるウクライナ侵攻という行為自体が、隣接する「小国」への「大国」の軍事侵攻という事態の一例として、「小国」をめぐる問題に連なるものである。そして、1939年のソ連によるフィンランド侵攻が歴史上の先例として思い起こされるが、本書で同戦争を扱った部分が国際連盟によるソ連の追放問題に絞られているのは、若干残念である。とはいえ、ウクライナ戦争の帰趨に注目しつつ、本書の「小国」論に接してみることは(筆者のように再読する読者も含めて)、きわめて有益であろう。

 ただ、35年前に刊行された本書の内容について、現在の時点からみて読者が不満を覚える点は、当然のことながら多々あるであろう。たとえば、本書には「小国」のなかの分化に着目した「極小国」と「弱国」についての議論が見られるが、そうした分化はさらに進んでいる。地球環境の変動によって、国の物理的存続自体が危ぶまれるような島嶼「極小国」の問題などが、すぐ頭に浮かぶ。さらに本書では、最後の方になって、それまでの議論と必ずしも明確にはつながらない形で(と筆者には感じられる)、「内なる小国」という問題が提示されている。それがもつ意味については、前述したように2011年版の追記で著者自身が触れているが、歴史を遡ってその視角を入れてみることも、「小国」の前提となる「国家」の姿そのものへの問いかけが強まっている現在、必要であろう。

 とはいえ、こうした感想はあくまでないものねだりである。日本における「小国」論の古典とも呼べる本書が、現在もきわめて刺激的な内容に満ちているということを改めて指摘して、本稿を結ぶことにしたい。

(「世界史の眼」No.39)

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書評:ジョン・C・スーパー&ブライアン・K・ターリー『宗教の世界史』(渡邊昭子訳)ミネルヴァ書房、2022年
鶴見太郎

 宗教はなぜかくも持続するのか―。最終章である第11章で著者たちが明かしている問題関心を一言で表せばそのようなものになるだろう。2004年、ジョージ・W・ブッシュは、「取るに足らない証拠を基にイラクでの長引く流血の争いへと国民を導いた」にもかかわらず、なぜ再選されたのか。出口調査は、「具体的な宗教的信念に基づいた保守的な道徳観が、投票行動で重視されていた」ことを明かしたという(247)。このことは、別の章でも、リベラリズムに対する勝利として言及されている(179)。フランス革命、メキシコ革命、ボリシェヴィキ革命のいずれも宗教を根絶することはできず、フロイトが「負けが決まっている」と記したことは誤っていたようだ(248-9)。「原始的」と見られてきた宗教さえ、極端な環境の変化にも順応してきたのである(249-50)。

 ラテンアメリカの食と宗教などを専門とするジョン・スーパーと、欧米諸国のキリスト教を中心とした思想や文化、歴史を専門とするブライアン・ターリーによる本書の原タイトルは「世界史のなかの宗教」である。したがって、宗教がどのように世界史を形成していったかというより、世界史の様々な場面に現れる諸宗教の諸相をテーマごとにまとめた形になっている。事実、以下で一部紹介するように、多岐にわたるテーマそれぞれのなかで諸宗教の特質が論じられ、全体として何らかの歴史が積み上げられてく様子が描かれるわけではない。

 本書の中心を占めるのはキリスト教で、イスラム教やユダヤ教に関する記述がそれに連なる。そのほか、仏教などインド発祥の諸宗教への言及が比較的多い。ある程度キリスト教などのセム系一神教の宗教観に沿っているものの、その観点から別系統の宗教と比較することができるという意味では、これは必ずしも欠点ではない。逆にアジア系諸宗教の視点からセム系宗教を捉えることも興味深いが、それは宗教学・宗教史の今後の課題だろう。

 冒頭に示した、おそらく著者たちの問題意識と見られるものに照らして改めて本書を紐解き、世界史を見渡してみると、宗教には様々な入り口があることに思い至る。それは第1章「宗教の言語」で宗教に対する様々なアプローチや捉え方が紹介されていることからも明らかであるが、続く各章はその具体的諸相に迫っている。

 入り口の1つ目は、宗教の最もシンプルなイメージでもあるだろうが、第2章のテーマである「頂上へ至る」道を示すという側面である。人びとが生きる世界に意味を与える役割だ。それを具体的に人びとに示すのが第2章で示される「聖典と口伝」であり、例えば、ユダヤ教の『聖書』は、「ユダヤ教徒が自分たちの神の期待をどのように裏切って生きてきたのかを一貫して詳しく記す」(62)ことで、現在のユダヤ教徒が行うべき行動を説くのである。

 宗教は「聖なる場所」(第4章)を持つ。それは日常と宗教が交わる場であり、人びとは生きるなかで宗教に出会い続ける。あるいは、宗教は国家と一体化していくなかで帝国主義的な拡大の主体にもなる(第5章「帝国的拡大への道」)。それは人びとの政治的野望を入り口としている。もちろん、むしろ宗教こそが政治的野望の入り口となっている場合も、植民地における伝道の歴史に見出すことができる。その一方で、第6章のテーマでもあるように、宗教は「抑圧と反乱」に向け、人びとを結集させる媒介になることもあった。

 第7章の「宗教・戦争・平和」についても、宗教の両義性はよく伝わってくる。よく知られるように、キリスト教は敵に攻撃されても「もう一方の頬をさし出す」よう説くが、5世紀にヒッポ(現在のアルジェリアのアンナバ)の司教だったアウグスティヌスは、正戦論を打ち立てた。そこには、戦争のやり方を一定程度規制する意図や作用があった一方で、戦争が正当化される契機がはらまれていたことも確かだ。聖職者同士が対立を煽ることもあった。

 それでも、北アイルランドではカトリックとプロテスタントの指導者が宗派横断的な対話により暴力を停止する共通の基盤を作ることもあった。また、ある研究所は、すでに行われた行為を赦すことが霊的な次元によって促されることを指摘した。「どの宗教も、全体として理解するならば、和平に力を注ぐ者に主要な道具を与えうる現実的な伝統を提供する」と著者は指摘する(153)。

 第8章が扱う「社会問題」についても、世界史における宗教の裾野の広さをよく示している。宗教は奴隷制を肯定することがあった一方で、慈善の基礎にもなってきた。また、いわゆるイスラム過激派の思想家と目されるサイイド・クトゥブが強調したのは、イスラム教は、それを十全に適用することで自ずと社会正義を実現するということだった。

 それは、第9章「聖者と罪人」の最後で著者が指摘するように、宗教は「正誤を判断する定義を信者の間で設定してきた」し、「これからも設定するだろう」ということに関連するのだろう。つまり、やはり宗教は独自の世界史を形成してきたともいえ、日本語タイトルはあながち間違っていないのである。第10章「芸術表現」は、宗教が絵画や音楽の原動力になってきたこと、また宗教内部でそれに対して様々な議論があったことを整理している。「シク教では、音楽と宗教そのものを区別することがほぼ不可能である」(238)というから、音楽という入り口から人びとは自動的に宗教にも到達することになる。

 本書では言及されていないが、経済の領域とも、宗教は分かちがたく結びついてきた。マックス・ヴェーバーのプロテスタンティズムと資本主義との関連を論じた議論がどの程度有効であるのか、最新の知見に評者は暗いが、ユダヤ教が、ユダヤ人同士の信頼関係の基礎となり、それが結果として彼らの商業や金融を支えたことなどはすぐに思い至る。これは、反ユダヤ的な偏見がいうような、ユダヤ教の教義そのものが金儲けを促すということでは決してないが、ユダヤ教の存在抜きに彼らの経済活動を説明することもまた難しいのである。

 歴史学は一般に世俗的、ないし世俗主義的な観点からなされることが多かった。しかし、宗教を幅広く捉えるならば、歴史上でそれが関係しない領域を探すほうが難しいかもしれない。「世界史のなかの宗教」を捉えることで、「宗教の世界史」(宗教が形作る世界史)にまで目を向けることは、今後の歴史学における共通の課題になるのだろう。そのような予感をさせる著作である。

(「世界史の眼」No.39)

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世界史寸描
太平洋戦争とパラオ現地民―中島敦にかかわる一つのエピソード―
小谷汪之

 「李陵」、「山月記」などで知られる作家、中島敦は専業作家となる以前の1941年7月から1942年3月まで、南洋庁の教科書「編修書記」として、「南洋群島」(日本の国際連盟委任統治領)に赴任していた。その間、中島は「南洋群島」の島々を巡り、その地の公学校(現地民子弟のための初等教育機関)や小学校(国民学校)を訪ねて、教員などと教科の内容について議論を重ねた。それ以外にも、中島は自らの文学的関心にしたがって、「南洋群島」の島々を訪ねた。本稿はその中で中島が現地民とかかわった一つのエピソードを取りあげる。そこには、自分とは全く関係のない列強同士の戦争(太平洋戦争)によって翻弄されるパラオ現地民の姿が浮かび上がってくる。

 1941年9月15日、中島は南洋庁のあったパラオ諸島コロール島からパラオ丸で東向し、トラック諸島(ミクロネシア連邦チューク州)、ポナペ島(ポーンペイ島)、クサイ島(コスラエ島)を経て、9月27日マーシャル諸島のヤルート環礁ジャボール島に到着した。帰路はこのコースを逆にたどり、10月6日トラック諸島夏島(トノアス島)に着いた。しかし、ここで船便や航空便に混乱が起こり、結局11月5日早朝、水上飛行機、朝潮号で夏島を出発、「〔午後〕2時、すでにパラオ本島を見る。2時20分着水。そのまま機毎、陸上に引上げらる」(中島「南洋日記」、『中島敦全集 2』ちくま文庫、291頁)。

 中島は朝潮号が引き上げられた飛行場(水上飛行機発着場)について何も書いていないが、これはコロール島の西に隣接するアラカベサン島の東北部に設営されたミュンス(ミューンズ)飛行場である。この飛行場の遺構は今日でも残されていて、幅40メートル長さ200メートルほどのコンクリートのスロープを見ることができる。中島の乗った水上飛行機、朝潮号はここに引き上げられたのである。

 本稿で取り上げるエピソードはこのミュンス飛行場にかかわるものである。中島は翌1942年1月、異色の民俗学者、土方久功に案内されて、パラオ諸島バベルダオブ島(パラオ本島)をめぐる旅に出たのであるが、その途次アイミリーキ地区のある新開村を訪れている。ただ、その時中島はその新開村とミュンス飛行場との密接な関連については知らなかったようである。

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 1942年1月17日、中島敦と土方久功はコロール島を出発、東回り(反時計回り)でバベルダオブ島を一周する旅に出た(この旅について詳しくは拙著『中島敦の朝鮮と南洋』岩波書店、2019年、178-188頁)。1月25日にはバベルダオブ島南部のアイミリーキ地区に着き、熱帯産業研究所(熱研)の「倶楽部」に泊まった。その翌日、26日にはアラカベサン島のミュンス村の移住先である新開村を訪ねることにした。中島は次のように書いている。

アラカベサン、アミアンス〔ミュンス〕部落の移住先を尋ねんと、9時頃土方氏と出発、昨日の道を逆行。如何にするも浜市に至る径を見出し得ず。新カミリアングル部落の入り口の島民の家に憩い、……爺さん(聾)に筏を出して貰いマングローブ林中の川を下る。〔中略〕30分足らずにして、浜市の小倉庫前に達し上陸。児童の案内にてアミアンス〔ミュンス〕部落に入る。頗る解りにくき路なり。移住村は今建設の途にあり。林中を伐採し到る所に枯木生木、根等を燃やしつつあり。暑きこと甚だし。切株の間を耕して、既に〔サツマ〕芋が植付けられたり。アバイ〔集会場〕及び、2、3軒の家の他、全く家屋なく、多くの家族がアバイ中に同居せり、大工4、5人、目下1軒の家を造りつつあり。朝より一同働きに出て今帰り来りて朝昼兼帯の食事中なりと。又、1時となれば皆揃って伐採に出掛くる由。(中島「南洋日記」311頁)

 中島はここでアラカベサン島、ミュンス村の人々がどうしてバベルダオブ島、アイミリーキ地区に移住して新ミュンス村を建設しているのか、その理由については何も書いていない。おそらく知らなかったのであろう。この点について、土方の方は次のように書いている。

ガラカベサン〔アラカベサン〕のミュンスの部落が、今度旧部落をそっくり日本の海軍に取りあげられてしまって、村をあげてここに引移って来ているので、そこを訪ねてみようということにして、9時頃敦ちゃんと二人で出かける。(土方「トンちゃんとの旅」、『土方久功著作集 6』三一書房、1991年、375-376頁)

 アラカベサン島のミュンス村は、もともと、中島が朝潮号で上陸したミュンス飛行場の場所にあったのである。その旧ミュンス村の土地をそっくり日本海軍に取りあげられてしまったので、やむなくバベルダオブ島のアイミリーキ地区に新ミュンス村を建設することになったということである。ただし、ミュンス飛行場はもともとは軍民共用の飛行場として1937年頃に建設されたとされているから、その建設時にミュンス村の土地がとりあげられたわけではない。1941年12月8日、太平洋戦争(日米開戦)が勃発すると日本海軍はミュンス飛行場を拡大強化して、大型水上軍用機が発着できるようにした(倉田洋二他編『パラオ歴史探訪』星和書店、2022年、114頁)。この時に旧ミュンス村の土地がそっくり日本海軍によって取りあげられたのであろう。したがって、中島と土方が訪れた1942年1月には新ミュンス村はまだ建設途上だったのである。

 1944年になると、「南洋群島」はアメリカ海軍太平洋艦隊による激しい攻撃を受けるようになった。最初に狙われたのは「南洋群島」最東端のマーシャル諸島で、1944年2月1日アメリカ軍はクェゼリン島に上陸した。クェゼリン島には日本海軍の第6根拠地隊の司令部が置かれていたのであるが、クェゼリン島を含むクェゼリン環礁は2月6日までにアメリカ軍によって完全に制圧された。マーシャル諸島を押さえたアメリカ軍は、次にマーシャル諸島の西に位置するトラック諸島(トラック環礁)を攻撃目標とした。トラック環礁は日本海軍第4艦隊の泊地であっただけではなく、当時は連合艦隊もここを泊地としていた。1944年2月17日から18日、アメリカ軍はトラック諸島、特に「夏島」に猛爆撃をかけ、日本軍に大打撃を与えた。そのため、連合艦隊はトラック諸島から撤退し、さらに西のパラオ諸島を泊地とすることになった。そのパラオ諸島も1944年3月30日から31日、アメリカ軍による大空襲を受け、アラカベサン島の海軍水上基地やミュンス飛行場など重要な軍事施設、さらにはコロール島の住宅街などほとんどすべてが破壊された。

 このような状況下、コロール島やアラカベサン島に駐屯していた日本軍将兵や在住日本人の多くがバベルダオブ島(パラオ本島)に退避した。しかし、それを追うようにアメリカ軍はバベルダオブ島にも激しい空爆や艦砲射撃を加えたので、バベルダオブ島には食料などの補給物資が一切入らなくなった。人口が一挙に数万人増えたうえ、食料補給を絶たれたバベルダオブ島は飢餓状態となり、軍・民多くの人々が餓死した。

 中島と土方が訪ねたアイミリーキ地区の新ミュンス村も同じような飢餓状態に陥っていたであろう。新開村だけに状況はもっと悪かったかもしれない。ただ、アラカベサン島の現在の地図を見ると、かつてのミュンス飛行場の遺構の西側道路沿いにミュンス村という表示が見える。アイミリーキ地区に移住した人々のうち少なくともその一部は、日本敗戦後アラカベサン島の旧村に戻り、村を再建したのではないかと思われる。

 ミュンス村の人びとは、日本軍によってアラカベサン島の旧ミュンス村を奪い取られ、やむなくバベルダオブ島、アイミリーキ地区に新村を建設した。しかし、その新ミュンス村もアメリカ軍の空・海からの猛爆撃やそのもとにおける飢餓状況で多くの犠牲者を出したと思われる。しかし、生き残った一部の人びとは日本の敗戦後アラカベサン島の旧村の地に戻り、村を再建したようである。このミュンス村のミニ・ヒストリーは太平洋戦争が「南洋群島」の現地民に強いた苦難の一コマということができるであろう。

「ミュンス飛行場跡」(2017年4月10日、南塚信吾氏撮影)

(「世界史の眼」No.39)

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