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「世界史の眼」No.40(2023年7月)

今号では、木村英明さんに、長與進『チェコスロヴァキア軍団と日本 1918-1920』を紹介していただきました。また南塚信吾さんに、「世界史寸評」として、「「広島ヴィジョン」を考える」をお寄せ頂いています。さらに、山崎が、小川幸司氏による「書評:南塚信吾責任編集『国際関係史から世界史へ』」(『西洋史学』274号)を紹介しています。

木村英明
文献紹介:長與進『チェコスロヴァキア軍団と日本 1918-1920』(2023、教育評論社)

南塚信吾
世界史寸評 「広島ヴィジョン」を考える

山崎信一
論考紹介:小川幸司「書評:南塚信吾責任編集『国際関係史から世界史へ』」(『西洋史学』274号)

長與進『チェコスロヴァキア軍団と日本 1918-1920』(教育評論社、2023年)の出版社による紹介ページはこちらです。また、『西洋史学』に関してはこちらを、南塚信吾責任編集『国際関係史から世界史へ』(ミネルヴァ書房、2022年)の出版社による紹介ページはこちらをご覧ください。

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文献紹介:長與進『チェコスロヴァキア軍団と日本 1918-1920』(2023、教育評論社)
木村英明

 筆者(木村)は、一昨年の2021年に本ホームページ上で、林忠行氏のモノグラフ『チェコスロヴァキア軍団−ある義勇軍をめぐる世界史』(2021、岩波書店)を紹介させてもらった。同書では、1917年10月革命に続くロシアの内戦期に、反ボリシェビキ武装蜂起へと突き進んだチェコスロヴァキア軍団(以下、適宜「軍団」と略)を舞台回しに据え、入り組んだ国際情勢のなかで、1918年10月28日のチェコスロヴァキア国家樹立に至る過程が世界史的視野から辿られていた。いっぽうで、本年刊行された長與進氏による著作『チェコスロヴァキア軍団と日本 1918-1920』は、この時期の日本とチェコスロヴァキアの関係が「歴史上でいちばん近かった、という「仮説」」のもとに、両者の友誼と対峙の2年間を浩瀚な資料を読み解きつつ検証している。

 著者が提示する豊富な資料のなかで、とりわけ注目に値するのは『チェコスロヴァキア日刊新聞』(以下、『日刊新聞』)である。同紙は軍団の機関紙であり、軍の移動とともに編集部もまた各地を転々としながら、全部で717号が刊行されたという。軍団の救援こそが日本によるシベリア出兵の大義名分であったにもかかわらず、軍団内部のチェコ人・スロヴァキア人の声は、これまで日本でまったくと言っていいほど紹介さていない。本国のチェコやスロヴァキアにおいてすら、軍団そのものが社会主義期に否定的評価を受けていたこともあり、この貴重な新聞の本格的研究は進んでいないという。その意味で、チェコ語、スロヴァキア語、ロシア語に堪能な著者による同紙の記事や論説の翻訳紹介と、それに基づく日本・チェコスロヴァキア両国(シベリア出兵の初動時、チェコスロヴァキア国家は未成立だが)の互いに対する眼差しの検証は、国際的に見ても高いオリジナリティーを有していると言えるだろう。

 序章と終章に挟まれた全7章からなる同書は、序章で述べられているように、「資料に語らせる」ことが基本姿勢として堅持されている。出来事をめぐる両国間の情報や評価の齟齬について、安易な憶断を排すべく叙述が抑制され、これ見よがしの謎解きが繰り広げられることはない。むしろ出来事に注がれる複数の視点が、新たに謎を深めていくケースも見られる。しかし、各章ごとに論点整理が明快になされているため、読者が混乱することはなく、結果として、平板な唯一の物語に回収されることのない、多面的、立体的な歴史の姿が浮かび上がってくる。

 取り上げられているほとんどの出来事が日本語文献に乏しく、一般には知られていないので、以下に各章の内容をサマリーしておく。

 第1章は、チェコスロヴァキア初代大統領で、当時は独立運動組織の議長を務めていたT.G.マサリクの日本滞在に焦点を当てている。1918年4月のおよそ2週間のことである。日本側の新聞報道、マサリク自身の訪日回想とその日本観、『日刊新聞』に掲載された外事警察官竹山安太郎の談話、さらにチェコ語を話す山ノ井愛太郎(この人物について、著者は第4章で集中的に取り上げている)の回想、などが比較対照されている。竹山談話からは、外国要人にたいする然るべき丁重な対応が日本側に欠けていたことが、またマサリクの言葉からは、日本そのものへの関心や敬意というより、軍団救済のために連合国一員である日本からの支持を得ておく必要があったという程度の、プラグマティックな姿勢が伺われるようだ。山ノ井が語る、シベリア出兵に関して、マサリクと田中義一参謀本部次長との密かな接触があったのかどうかについては、資料の信憑性と他の資料不足を理由に、判断が保留されている。

 また、先行研究として本章の注には、1980年代初頭に南塚信吾氏や柴宜弘氏らが立ち上げた「日本東欧関係研究会」編『日本と東欧諸国の文化交流に関する基礎的研究』所収の林忠行氏の論文が挙がっている。筆者は、著者の長與氏から、今回の著作が、同研究会が行った問題提起への、40年遅れの回答であると聞き及んでいることを付記しておく。

 第2章では、いよいよ日本軍のシベリア出兵が始まり、日本人兵士と軍団兵士が直接対面した様子が、『日刊新聞』のルポルタージュ等を通して、すなわちチェコスロヴァキア側からの印象として紹介されている。本章タイトルにもなっているオロヴャンナヤ駅での邂逅については、戸惑いを覚えるほどに日本人兵士への賞賛に溢れている(「勇敢で、忍耐強く、敏捷で、創意に満ちた日本人兵士」、「小柄だががっしりとして、真新しい制服をまとった威風堂々たる黄色い若者たち」等々)。日露戦争時の旅順港閉塞作戦の「軍国美談」までが、チェコ語で詳述されている記事には驚きを禁じ得ない。著者によれば、そこには批判や皮肉の調子は感じられないという。まずは、連合軍の一翼を担う日本軍が彼らの傍に現れたことにたいする安堵感、そして歓喜が前面化した記事内容と言っていいのかもしれない。いっぽうで、第2章の最後には、この1年半後、1920年3月の状況を分析した『日刊新聞』論説記事の内容がまとめられている。そこでは、日本によるシベリア遠征の目的がチェコスロヴァキア軍救援などではなく、極東における日本の利害関係擁護であったこと、具体的には日本の過剰人口の入植先確保、天然資源獲得、さらには対米戦争時に起こり得る海上封鎖の怖れから、日本を大陸と島を含む国家とするための拠点作りの等の思惑があったと、突き放した客観的分析がなされている。

 第3章は舞台を東京とウラジヴォストークに移し、軍団傷病兵と日本人医療団(おもに看護婦たち)の交流が、やはり新資料をもとに描かれる。東京では、築地聖路加病院に収容された傷病兵の様子を日本の新聞数紙が掲載しており、これまで累積する時の地層に埋もれていた、軍団にたいする当時の社会的関心の高さに改めて光が当てられている。プラハやブラチスラヴァの文書館に残されていた写真(傷病兵と看護婦たちの集合写真、病院で催された「チェコスロヴァキア・バザール」の様子など)が数葉挿入されていて、そこからは両者の友好関係が時を超えて伝わってくる。また『日刊新聞』は、ウラジヴォストークから東京までの旅路のルポルタージュを掲載し、日本各地の風景、人々の暮らしの姿、東京の印象などを興味深く活写していた。ウラジヴォストークの病院で働いた赤十字の日本人看護婦については、『日刊新聞』が任務を終えて帰国する看護婦たちとの別れの宴を報告する記事に加え、後にチェコで刊行された資料集から「ミツバチのように働き者で、良心的で優しかった」彼女たちについての記述が翻訳紹介されている。

 続く第4章は、上記のような日本とチェコスロヴァキアの蜜月期に、「初めてチェコ語を学んだ日本人」として随所に姿を垣間見せる山ノ井愛太郎をめぐる謎を扱っている。『日刊新聞』から2編の山ノ井に関するルポルタージュが紹介されていて、そこでは彼を「東京の親チェコ派」と称している。さらに、軍団兵であった作家オルドジフ・ゼメクの回想録も引かれている。ゼメクが京橋区にあった山ノ井の家を訪ねる具体的なくだりはとても印象的で、チェコ好きな日本人好青年とチェコ人の、この時代には稀有であった個人的交流が描写されていた。

 しかしながら、著者がチェコ外務省文書館で発見した、初代駐日チェコ公使カレル・ペルグレルの報告書は、まったく別の山ノ井像について語っている。それによれば、山ノ井はまったく信頼できない人物であり、日本外務省に雇われた情報提供者(諜報員?)である旨が記載されているという。その後の昭和期における山ノ井の経歴もはっきりしない。第1章で触れられた、『田中義一傳記』中にある、田中とマサリクの密会、両者を通訳した山ノ井の逸話の真偽についても、著者は判断を保留している。章末尾には、都立松沢病院に入院していた山ノ井の晩年の姿が、1955年の朝日新聞の記事を引用しつつ触れられている。

 第5章は、「交流美談」のクライマックスを飾る、ヘフロン号事件の概要を叙述する。1919年8月にウラジヴォストークを出航した軍団の帰国輸送団第8便へフロン号が、福岡県白鳥灯台付近で座礁し、船の修理期間中に、盛んな民間交流が行われたという。これについては、日本側にもチェコ側にも文献が少なく、双方にほとんど知られていない出来事だったそうだ。乗員870人は、初め門司に運ばれた。プラハの文書館所蔵の写真が4枚掲載されており、門司の女性たちや子供たちを含む日本人と軍団兵士が、互いに入り混じって楽しげにレンズに収まる姿は、まさに本章タイトル通り、「交流美談の頂点」を思わせる。その後、兵船の修理のために、兵士たちは門司から神戸に居を移した。『日刊新聞』のルポルタージュ記事は、坐礁から門司上陸、神戸への移動について記している。それによれば、門司港からの出航に際しては、数百人の住民、何千人の学童が別れの挨拶に、チェコ語で「ナズダル」と叫び、兵士たちは日本語で「バンザイ」を唱えた。神戸においても、神戸市民が市内見物や自宅へと兵士を招いて、草の根的な交流が続いた。奈良への招待旅行も企画された。軍団兵士はこのような好意あふれるもてなしにたいして、音楽やソコル体操などを市民に披露して応えたという。サッカーの試合も日本人学生との間で行われ、6試合中4回、軍団兵士側が勝利したと『日刊新聞』は伝えている。10月末の出航まで、この熱い友好関係は続いたようである。また、この章の補論として、全部で36便に及んだという軍団の帰国輸送船団について、船名、乗員数、出航日と到着日(到着地も含む)が整理されていて、研究者にとって非常に有益な情報提供となっている。

 第6章と第7章では、両国の友好関係が描かれたこれまでの章とは、180度様相を異にする出来事が取り上げられている。1920年4月に、満州西部のハイラル駅で日本軍とチェコスロヴァキア軍団が衝突したとされる、いわゆるハイラル事件である。前年末以降、コルチャーク体制の崩壊、ボリシェヴィキ勢力の拡大、日本軍が後押しするセミョーノフ反革命政権と軍団の軋轢というように、急展開を遂げたシベリアの状況は、両軍の関係をネガティヴな方向へと導いていった。事件のきっかけは、ハイラル駅で日本軍が逮捕したロシア人鉄道員の押送に反対するロシア人群集、そしてロシア人に味方した中国軍と日本軍の間で起こった短時間の戦闘だった。その際に、軍団所有の装甲列車オルリークから、日本軍に向けて銃撃があったとする日本側とそれを否定する軍団側の間で、緊迫した対峙が生じた。著者は、まず日本側の新聞各紙の報道と陸軍参謀本部による公式記録を示す。新聞報道には、感情的な言葉で軍団を誹謗する調子が目につく(「文明を衒うチェック軍にして、過激派、支那兵、馬賊以下の残虐を敢えてせり」等)。報道も参謀本部記録も、軍団側から日本軍への銃撃を事実と認定している。いっぽうで、『日刊新聞』の記事(著者はこの事件に関する記事を16編確認している)とプラハの軍事歴史文書館に残る文書は、軍団からの銃撃を否認している(「チェコスロヴァキア軍は、中立を守るようにという命令に従って、軍用列車内に留まり、戦闘に参加しなかった」(『日刊新聞』)、「オルリーク、小銃、機関銃、砲からも、あるいは手榴弾による一つの攻撃もなされなかった」(文書館所蔵、オルリーク司令官の調書)等)。

 示された資料からは、双方で2名ずつの死者を出したこの事件の全体の流れについて、双方で大きな食い違いがなく、相違点は軍団側からの銃撃の有無に絞られることが分かる。

 ハイラル事件の結果、軍団の戦闘単位として重要かつシンボル的な存在でもあった装甲列車オルリークを、一時的に日本軍が接収した。第7章は、このオルリークをめぐる両軍の対立に焦点が当てられている。当初は日本軍の要求に従った現場の軍団側であったが、軍団司令官シロヴィー将軍の言にあるように「「オルリーク」の名前は、すべてのチェコスロヴァキア軍兵士を励まして、力付けるものの一つ」(『日刊新聞』)であったため、この接収に憤ったウラジヴォストークの軍団司令部は直ちに奪還に動いた。同じくウラジヴォストークの日本軍司令部の司令官大井大将に対して、軍団司令部は強硬に返還を要求した。日本側に談判に赴いたチェコ人少佐の回想録によれば、チェコスロヴァキア軍は実力による装甲列車奪還を試みるかもしれないこと、事件についての報告を連合国に提出すること、と日本側が予期しなかった「脅し」を突きつけたという。大井大将はオルリークの返還を了承するが、その決定に対して国内の日本軍内部で強い反発が起こった事実にも言及されている。

 第7章後半では、ハイラル事件をめぐって行われた、日本・中国・チェコスロヴァキアによる三者調査委員会の議論が、日本側とチェコ側の資料に基づいて並置されている。それらによれば、チェコスロヴァキア軍が軍事衝突に関与したのか否かは水掛け論に終始した。著者は、「現段階までの調査と研究によれば、ハイラルでの4月11日の銃撃戦は、偶発的な遭遇線であった可能性が高い。この事件は間違いなく軍団と日本軍の関係を悪化させたが、両軍の間でこれ以上の軍事紛争は起こらなかった」と総括している。

 終章には、現在、カトリック府中墓地に埋葬されている軍団兵士5名について、葬儀の様子を伝える当時の日本の報道と、チェコスロヴァキアの資料から突き止めた兵士たち個々の来歴があげられている。また著者自身が、チェコスロヴァキア独立記念日に合わせて、日本人研究者や在京チェコ大使館関係者と墓参に訪れた秋の一日が回想されている。チェコスロヴァキア軍団と日本のシベリア出兵を通じて触れ合いを深めたこの時期こそ、日本とチェコスロヴァキア両国の関係が「歴史上でいちばん近かった」、とする著者の仮説にとって、日本の地に埋もれることになった軍団兵士の存在は、何よりも雄弁な証左の一つであるだろう。

 著者は、『チェコスロヴァキア日刊新聞』の翻訳を長年に渡り続けていると聞く。同紙は、革命に続くロシア内戦の諸問題、第一次世界大戦後の新秩序形成への動き、さらに日本軍部の大陸進出の野望など、歴史の大変動期に関わる情報が、独立運動を展開していた中欧の小ネイションの目線から記録された、世界史研究者にとってたいへん意義のある資料である。翻訳の完成、出版が待たれる。

(「世界史の眼」No.40)

                                    

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世界史寸評
「広島ヴィジョン」を考える
南塚信吾

 2023年5月19日から21日のG7広島サミットが終了した。岸田首相は「歴史的な意義」を強調したが、たしかに「歴史的」に重要なメッセージを発した会であった。会が発した中心的なメッセ―ジは、「首脳宣言」と「広島ヴィジョン」であろう。

 「首脳宣言」は、『日本経済新聞』2023年5月21日に全文が掲載され、『毎日新聞』5月22日に詳しい「要旨」が掲載された。それは、現在世界が直面するほとんどすべての問題について、G7はその解決に努力すると宣言している。これは毎年のG7恒例の声明であると言ってよい。

 ほかならぬ広島からのG7のメッセージとして重視されているのが「広島ヴィジョン」である。これは被爆地広島から発せられた核問題についての「ヴィジョン」とされている。この全文は外務省のHPに英文と和訳とが載せてある。岸田首相の強調する「歴史的な意義」はまさにこの文書になければならないはずである。

 この「広島ヴィジョン」についてこれまでメディア上には、散発的にコメントがなされているが、歴史文書として改めて検討するとどうであろうか。「ヴィジョン」の文言から見て行こう。

(1) 「我々の安全保障政策は、核兵器は、それが存在する限りにおいて(for as long as they exist)、防衛目的のために役割を果たし、侵略を抑止し、並びに戦争及び威圧を防止すべき(should)との理解に基づいている。」

 この文が言いたいのは、核兵器は抑止力を持っており、平和に貢献するのだから、核兵器は持っていいのだということである。いわゆる「核抑止論」に立っているわけである。

(2) 「核兵器不拡散条約(NPT)は、国際的な核不拡散体制の礎石(cornerstone)であり、核軍縮及び原子力の平和的利用を追求するための基礎(foundation)として堅持されなければならない。」

 この文章の前半、つまり「核兵器不拡散条約は、国際的な核不拡散体制の礎石」であるという文章は、現在拡散防止条約に加盟している核保有国以外の他の国は核を持つなということである。それは、「我々は、いかなる国もあらゆる核兵器の実験的爆発又は他の核爆発を行うべきではないとの見解において断固とした態度をとっており、それを行うとのいかなる威嚇も非難」する。「我々は、まだそうしていない全ての国に対し、核兵器又は他の核爆発装置に用いるための核分裂性物質の生産に関する自発的なモラトリアムを宣言又は維持することを求める」という主張によって補強されている。

(3) 「米国、フランス及び英国が、自国の核戦力やその客観的規模に関するデータの提供を通じて、効果的かつ責任ある透明性措置を促進するために既にとってきた行動を歓迎する。我々は、まだそうしていない核兵器国がこれに倣うことを求める。」

 この文章では、米英仏は情報を公開し、透明にして核保有と核開発をしていると、自慢している。そのうえで、中国、北朝鮮、イラン、そしてロシアを批判している。「透明性問題」はほかならぬロシアと中国に対してむけられたメッセージである。とくに中国に対しては、「中国による透明性や有意義な対話を欠いた、加速している核戦力の増強は、世界及び地域の安定にとっての懸念となっている。」と指摘している。

(4) 「我々は、全ての者にとっての安全が損なわれない形で、現実的で、実践的な、責任あるアプローチを通じて達成される、核兵器のない世界という究極の目標に向けた我々のコミットメントを再確認する。」

 この文章が最も曲者である。これは文書作成者が非常に神経を使って書いた文章であろう。だから原文も見ておこう。原文はこうなっている。

 We reaffirm our commitment to the ultimate goal of a world without nuclear weapons with undiminished security for all, achieved through a realistic, pragmatic and responsible approach.

 「首脳宣言」においても、この文言は繰り返されている。

 この文章は二重の意味で、曲者である。まず第一に、「全ての者にとっての安全が損なわれない形で」という文である。訳文では核の廃絶については、「全ての者にとっての安全が損なわれない形で」とあるので、「達成される」に繋がると理解してしまうが、そうではない。核の廃絶については、「全ての者にとっての安全が損なわれない形の」(with undiminished security for all)状態としての核のない世界を目指すというのが原文である。「核兵器のない世界」は当然「全ての者にとっての安全が損なわれない形の」世界であるはずだが、なぜこういう限定を付けているのであろうか。そういう「形の」核のない世界はあり得ないのだと言わんばかりである。しかし、訳文に戻って、「全ての者にとっての安全が損なわれない形で」核の廃絶に向うということは、現在において「安全が損なわれて」いる者がいるという現実を見ないで、あるいはそこから目をそらして、将来のことを問題にするという、論点ずらしに他ならないのである。このような論法は、ごく最近のLGBT理解増進法にも見られ、最後に加えられた修正の一部に出てくる「性的指向又はジェンダーアイデンティティにかかわらず、全ての国民が安心して生活することができることとなるよう」という限定がそれである。この論法は現状保守派の定番になりつつあるようである。

 つぎに第二に、「現実的で、実践的な、責任あるアプローチ」で核のない世界に行くべきという文章である。「現実的で、実践的な、責任あるアプローチ」とはどのようなアプローチなのだろうか。核兵器不拡散条約は、「核軍縮及び原子力の平和的利用を追求するための基礎」であると、宣言は言っている。その基礎からどのように「核軍縮」に至るのであろうか。宣言は、「核兵器のない世界は、核不拡散なくして達成できない」と繰り返している。だが、これは北朝鮮とイランを批判するために使われている命題で、どのように核軍縮や核廃絶を達成するかは示されていない。宣言は、「核兵器禁止条約」には全く触れていない。同条約は「現実的で、実践的な、責任あるアプローチ」ではないというのであろう。なぜそうなのか。「現実的で、実践的な、責任あるアプローチ」などと限定して見せて、結局、核廃絶は遠い理想として、棚上げされているのである。

(5) 「我々は、・・・全ての国に対し、核兵器の実験的爆発又は他のあらゆる核爆発に関するモラトリアムを新たに宣言すること、又は既存のモラトリアムを維持することを求める。」「我々は、民生用プログラムを装った軍事用プログラムのためのプルトニウムの生産又は生産支援のいかなる試みにも反対する。」

 このように、五つの「核を持つ国」以外の国は、核実験をするな、プルトニウムを作るなと言っている。核独占の論理である。

 以上の主張は、まぎれもなく五つの「核を持つ国」の立場から論じられていると言える。日本はその神輿担ぎをしているわけである。こういうヴィジョンを広島から発した意味は何か。被爆地広島から発するのであれば、核廃絶であり、そこへの合理的な道筋であるべきである。広島は宣伝に利用されただけではないだろうか。おりから、6月21日の『朝日新聞』で、元広島市長の秋葉忠利氏は、「広島ビジョン」は「広島」を冠にしたことで、「あたかも広島全体がお墨付きを与えたかのような印象を狙っているように思える」とし、広島を「冒涜」していると批判している。

 実は「ヴィジョン」にはもう一つ大事な問題がある。

(6) 「我々は、全ての国に対し、次世代原子力技術の展開に関連するものを含め、原子力エネルギー、原子力科学及び原子力技術の平和的利用を促進する上で、保障措置、安全及び核セキュリティの最高水準を満たす責任を、真剣に果たすよう強く求める。」「原子力発電又は関連する平和的な原子力応用を選択するG7の国は、原子力エネルギー、原子力科学及び原子力技術の利用が、低廉な低炭素のエネルギーを提供することに貢献することを認識する。」

 「首脳宣言」においても、この文章は繰り返されている。

 この文章は核の平和利用をうたっていて、原発は低廉で、技術も向上したという理由で、原発を公然と支持する姿勢を取っている。「福島」はどこへいったのであろうか。「広島が位置する日本」には「福島」も存在する。そういう日本から発したヴィジョンであるにかかわらず、ヴィジョンは、見事に福島を無視しているのである。福島からは、ヴィジョンは福島を「冒涜」したと見えるかもしれない。

 以上の意味で、確かにこのヴィジョンは「歴史的意義」を持っている。のちの世界史を語る歴史家は、2023年5月に不思議なメッセージが広島から発せられたと記録するであろう。広島、福島そして日本の国民の多くを「冒涜」したメッセージが。

(「世界史の眼」No.40)

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論考紹介:小川幸司「書評:南塚信吾責任編集『国際関係史から世界史へ』」(『西洋史学』274号)
山崎信一

 2022年に刊行された『西洋史学』274号に、小川幸司氏による『国際関係史から世界史へ』に対する書評が掲載された。小川氏は長年にわたり、歴史教育、とりわけ高等学校における世界史教育に携わってきており、それに関する著作も多い。また2021年より刊行されている『岩波講座 世界歴史』(第三期)の編集委員を務めているほか、2023年6月には、岩波新書から、「シリーズ 歴史総合を学ぶ」の一冊として『世界史とは何か−「歴史実践」のために』を刊行している。

 歴史教育と歴史研究が別のものとして存在するのではない点が指摘されて既に久しく、さまざまな形で議論が展開されるようになっている。とりわけ、「世界史」という枠組みを設定することは、日本においては歴史教育において先行したこともあり、むしろ世界史教育が世界史研究を牽引してきた側面もあるのかもしれない。また、小川氏の述べるように、高等学校のカリキュラム変更(「歴史総合」、「世界史探究」の導入)が、世界史を各国史の総和として描くのではなく、その構成原理を検討する必要を強いているという側面もあるだろう。この書評は、歴史研究と歴史教育のそれぞれの関心が同じ方向性を持つことを確認させるものでもあり、ここに簡単に紹介を試みたい。

 小川氏は『国際関係史から世界史へ』の方法論に関して、非常に明解にまとめている。各国史の「並列」ではない、「脱ナショナル・ヒストリーの世界史」のため、連動と関係を重視する中で立ち現れる二つの観点を挙げている。一つは、世界史の垂直軸とも言える、世界史の「傾向」に対する諸地域の反発や受容による「土着化」の動き(小川氏は「傾向」の観点と呼んでいる)であり、もう一つが、世界史の水平軸にあたる、ある地域の緊張の高まりが別の地域の緊張の緩みをもたらすといった、諸地域の有機的なつながり(小川氏による「力学」の観点)である。このうち、「傾向」の観点に関して、小川氏は、ヨーロッパ中心史観に陥らないことの重要性を確認した上で、「土着化」だけにとどまらない「連鎖」のあり方にも視野を向けることを論じている。「傾向」の観点に関しては、その多様なあり方の分析が本論考の主要な部分ともなっている。具体的に挙げられているのは三つの点である。第一は、主権国家体制の東アジアにおける受容(対象書第1章)に関してであり、第二は、支配と被支配の権力関係の動向(対象書第4章、第6章)であり、第三は、「カラーライン」やジェンダー対抗軸といったさまざまな対抗軸の世界的な出現(対象書第3章、第9章)である。さらに、対象書に扱われていない「傾向」を補うものとして、同じ「MINERVA世界史叢書」シリーズの他の巻の存在が挙げられている。

 小川氏は全体として『国際関係史から世界史へ』に高い評価を与えている。それは、氏の歴史教育者としての課題や関心に応える点が多いが故でもあるだろう。特に、小川氏の指摘する、世界史教育において抜け落ちがちのアフリカ史、ラテンアメリカ史、東南アジア史、オセアニア史などの重要性や、世界史に「民衆の歴史」を組み込むべきことなどは、世界史教育全体の課題でもあるものだろう。小川氏の書評により、世界史研究の進むべき方向も、より明確になったと思われる。

(「世界史の眼」No.40)

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