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「世界史の眼」No.43(2023年10月)

今号では前号に続き、小谷汪之さんの「アメリカ軍によるBC級戦犯裁判―旧日本領「南洋群島」の事例―」の(下)を掲載します。今号で完結となります。また、南塚信吾さんに、「「万国史」における東ヨーロッパII-(4)」をご寄稿いただきました。今回で、「「万国史」における東ヨーロッパ」の第2部が完結します。さらに、高知大学の川本真浩さんには、本年刊行の、デイビッド・G・マコーム(中房敏朗、ウエイン・ジュリアン訳)『スポーツの世界史』(ミネルヴァ書房)の書評をお寄せ頂いています。

小谷汪之
アメリカ軍によるBC級戦犯裁判(下)―旧日本領「南洋群島」の事例―

南塚信吾
「万国史」における東ヨーロッパII-(4)

川本真浩
書評:『スポーツの世界史』

デイビッド・G・マコーム(中房敏朗、ウエイン・ジュリアン訳)『スポーツの世界史』(ミネルヴァ書房、2023年)の出版社による紹介ページはこちらです。

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アメリカ軍によるBC級戦犯裁判(下)―旧日本領「南洋群島」の事例―
小谷汪之

はじめに
1 アメリカ軍によるBC級戦犯裁判の概要
2 ケゼリン(クェゼリン)裁判とグアム裁判
(以上、前号掲載)
3 「南洋群島」における戦犯事件の事例
4 米軍グアム戦犯収容所における暴行、虐待行為
おわりに
(以上、本号掲載)

3 「南洋群島」における戦犯事件の事例

(1)マーシャル諸島ミレ島米軍俘虜処刑事件

 前述のように、1943年11月20日から23日、アメリカ太平洋艦隊はギルバート諸島のマキン環礁、タラワ環礁を空・海から爆撃を加えたうえ、上陸して日本守備隊をほぼ全滅させた。その後、アメリカ軍は占領したマキン、タラワを基地としてマーシャル諸島を攻撃し始めた。その最初の目標とされたのはマーシャル諸島東南端のミレ環礁のミレ島であった。当時ミレ島には、北、南、西の3砲台を持つ海軍部隊とそれに配属された陸軍1ケ聯隊(第1大隊、第3大隊、山砲大隊、他)が駐屯し、総兵力は約5000人であった。

 1944年1月25日、アメリカ軍のB25機約15機がミレ島を爆撃したが、そのうち1機は撃墜されて環礁内に墜落した。その搭乗員5名は日本軍によって救出され、俘虜となった。その後もアメリカ軍の爆撃が続き、アメリカ軍のミレ島上陸も濃厚と思われた1月31日、ミレ島日本守備隊の最高指揮官志賀海軍大佐は「玉砕」を覚悟して、米軍俘虜5人の処刑を決断した。2月2日、米軍俘虜を海軍の北砲台、南砲台に各1人、陸軍の3大隊に各1人振り分けて、それぞれ斬首により処刑した。

 その後、1945年8月15日の終戦まで、マーシャル諸島の日本軍各基地はアメリカ太平洋艦隊の完全な制海権、制空権下に置かれ、武器・弾薬、食料などの補給を完全に断たれて、餓死者が続出するという状況になった。

 戦後直ちにアメリカ軍による日本人戦犯の追及が各地で始まり、マーシャル諸島にも及んだ。1945年9月23日 アメリカ軍はミレ島で基地建設に従事していた朝鮮人建設隊員2名からミレ島におけるアメリカ兵の処刑を聞き知り、最高指揮官志賀海軍大佐、陸軍聯隊長大石大佐など4人を米軍航空隊基地のあるマジュロ島に移送して、捜査を開始した。9月26日には、さらに海軍関係4人(北砲台長笛田中尉など)、陸軍関係3人(第1大隊副官門田中尉など)がマジュロ島に移送された。9月28日、志賀最高指揮官が「命令しあらざるも司令として責任あり自決す」という遺書を残して自決した。これにより、米軍俘虜処刑の命令系統が曖昧になり、大隊長などの中間指揮官が不利な立場に置かれることとなった。

 1945年10月25日、ミレ島事件の容疑者10名がマジュロ島からクェゼリン島に移送され、11月21日、クェゼリン法廷で裁判が開始された。11月29日結審、12月11日に判決が出された。陸軍聯隊長大石大佐、海軍北砲台長笛田中尉など6人に絞首刑、門田陸軍中尉他1人に終身刑(門田中尉はその後無罪とされた)、その他2人に懲役20年の刑であった。この裁判はクェゼリン法廷における最初の裁判で、裁く側も裁かれる側も司法知識がほとんど全くないという状態であったが、アメリカ海軍の主導で強引に進められた。

 1946年3月19日、ミレ島事件有罪者9人はクェゼリン島からグアム島に移送された。これはマーシャル諸島ビキニ環礁で1946年6月から原水爆実験が行われることになっていたことに伴う処置であったとされている。前述のように、クェゼリン裁判における既決囚および未決の容疑者はすべてグアム島に移送された。

 グアム移送の約半年後の1946年10月、ミレ島事件で終身刑・有期刑とされた3名はグアム島から日本に送還され、スガモ・プリズンで服役した。死刑判決を受けた6人も、1947年4月、終身刑に減刑され、同年5月29日グアム島から日本に送還され、スガモ・プリズンに収容された。(以上の記述は翻刻版『戦犯裁判の実相』435-448頁による。)

(2)トラック海軍病院における米軍俘虜「生体解剖」事件

 1944年2月初めにマーシャル諸島の日本軍をほぼ制圧したアメリカ軍は次にトラック諸島(現、ミクロネシア連邦チューク州)、特に夏島(現、トノアス島)に対して激しい空爆を開始した。夏島には南洋庁のトラック支庁があり、日本海軍第4艦隊の司令部もここに置かれていた。当時、トラック諸島(環礁)は連合艦隊の泊地にもなっていた。1944年2月17日から18日、アメリカ軍はトラック諸島(環礁)に猛爆撃をかけた。これにより日本海軍は大打撃を受け、連合艦隊はトラック諸島から撤退し、「南洋群島」最西端のパラオ諸島を泊地とすることになった。

 話はさかのぼるが、1943年末、トラック諸島付近で一隻のアメリカ軍潜水艦が日本軍によって拿捕され、その乗員50人が俘虜となった。俘虜たちは海軍第41警備隊の管理下に置かれていた。

 1944年1月末、海軍第4病院の院長、岩波浩海軍軍医大佐は第41警備隊診療所の責任者に対して、「実験」のために米軍俘虜8人を使いたいと申し入れた。それに応じて、8人の俘虜が第41警備隊の隔離病棟に移された。翌朝8時頃には、岩波第4病院長など第4病院の軍医たちが隔離病棟で「実験」を開始した。8人を4人ずつの二組に分け、一方の4人には止血帯を用い、他方の4人には毒菌注射を用いて、「実験」が行われた。止血帯は4、5時間から7、8時間巻かれた後、急に外されると俘虜たちは苦痛にのたうちまわった。それを何回か繰り返すと、死亡するに至った。止血帯の「実験」は朝から夕方まで続けられ、まず2人がその日のうちに死亡した。残り2人は一晩休ませて、翌朝に止血帯「実験」が再開され昼頃まで続けられたが、死亡しなかった。そこで、裏山でダイナマイト爆風実験をすることになり、2人を杭に縛り付け、1メートルぐらいのところにダイナマイトを置いて点火した。爆風によって手足がちぎれるなどの損傷を受けた俘虜2人はひどく苦しんでいたので、薬物注射によって死亡させた。他方、もう一方の4人の俘虜は止血帯による「実験」の後、ぶどう状球菌の注射によって殺害された。その後、岩波第4病院長らの軍医によって、4人の解剖が海軍第4病院の死体室兼解剖室で行われた。解剖は、午後3時頃から胸と腹を切開することから始まり、4時間ほど続いた。海軍第4病院では、1944年7月にも、岩波病院長の発案により米軍俘虜2人を裏山で槍、銃剣、日本刀などで「実験的に惨殺」した。

 海軍第4病院におけるこれら二つの事件はグアム法廷で併合審理され、岩波海軍第4病院長に死刑、他の18人の被告に終身刑から懲役10年の刑が下された。岩波病院長は大きな赤十字の印を屋上に掲げた海軍第4病院に対するアメリカ軍の盲爆に痛憤していたので、裁判でも最後まで抵抗を止めなかったため、極刑に処されることになったのであろう(1949年1月18日、グアムで死刑執行)。

 トラック諸島夏島では少なくとももう1件の米軍俘虜「生体解剖」事件(トラック警備隊第2事件)があった。1944年6月、海軍第41警備隊の軍医たちが警備隊病室において1人の米軍俘虜の「胸部・腹部・陰嚢などを切開、生体解剖」した。さらに、もう1人の俘虜を同病室の裏において日本刀で斬首、殺害した。この事件では海軍少将浅野新平など4人に死刑判決が下されたが、実際に死刑を執行されたのは浅野少将と海軍軍医中佐上野千里の2人だけで(1949年3月31日、グアムで刑執行)、他の2人は後に終身刑に減刑された。なお、他にも同種のことがあったようであるが、裁判にはかけられなかった。(以上の記述は、主として、岩川隆『孤島の土となるとも――BC級戦犯裁判』〔講談社、1995年〕147-162頁による。本書は著者畢生の力作というべきもので、A5版800頁を超す大著である。日本語文献のみならずアメリカ軍関係の英文文献をも博捜し、旧戦犯の生存者や処刑された戦犯の遺族などを訪ねて聞き取りをするなど、長年にわたってこの問題を追求した成果である。ただ、残念なことに、文中に典拠の表示が全くなく、文献リストや聞き取り情報も全くない。しかし、記述は正確なものと考えられるので、利用させてもらった。)

(3)マーシャル諸島現地民処刑事件

 前述のように、ヤルート環礁ジャボール島では米軍俘虜3人を処刑するということがあり、容疑者はクェゼリン法廷で裁かれた。この裁判では、処刑実行者である海兵曹長吉村次夫ら3人に死刑判決が出されたが、後に3人とも終身刑に減刑された。

しかし、ヤルートではそれだけではなく、現地民をスパイなどとして処刑するという事件があり、容疑者がグアム法廷で裁かれることとなった。

 1945年4月上旬、ヤルートに4人ずつ二組のミレ島民がカヌーとボートで漂着した。取り調べの結果、この二組は親族であること、アメリカ軍のそそのかしによりミレ島を脱出してアメリカ軍に奔ることを決意し、アメリカ軍のLST(上陸用舟艇)に収容されたこと、LSTの艦長からヤルートに漂着を装い、現地民に対して日本軍基地の惨状と多数の日本人と現地民がアメリカ軍に奔り優遇されていることを話し、日本人も現地民も2週間後にアメリカ軍のLSTが迎えに行くから逃亡せよ、でなければ椰子林と一緒に焼き殺してしまうということを伝えるように命じられたこと、椰子林が見え始めた所でLSTから降ろされたことを自白した。これら8人のミレ島民には略式の軍事裁判で全員に死刑の判決が下され、銃殺刑に処せられた。これを機に、それまで日本軍に協力的であった現地民たちは白い目で日本人を見るようになったという。

 1945年5月頃から、アメリカ軍は飛行機による日本語・朝鮮語のビラの散布によって投降、逃亡、暴動などをそそのかし始めた。ヤルートの日本軍はアメリカ軍の武力と飢餓と思想謀略の攻撃によって窮地に追い込まれていった。アメリカ軍のLSTはヤルート環礁の離島の海岸から数百メートルぐらいのところに艇を止め、「支那の夜」などのレコードをかけて聞く者の心を乱したうえ、他の基地から逃亡してアメリカ軍に奔った日本人下士官が現れて、投降を促した。すでに逃亡した現地民は残っている現地民に逃亡を呼びかけた。現地民は至る所で日本人の殺害、軍用物(特に舟艇)・兵器などの窃取を計画し実行した。このような動きが各方面で前後して発覚したので、容疑者の捜索が行われた。その結果、四つの事件について略式の軍事裁判が行われ、13人の現地民に死刑判決が下された。これら13人の現地民は5回に分けて銃殺刑に処された。この事件はグアムの法廷で裁かれ、陸軍少佐古木秀策他1人に終身刑の判決が下された。(以上の記述は『戦犯裁判の実相』386-392頁に収録されている古木秀策の手記に依拠)

4 米軍グアム戦犯収容所における暴行、虐待行為

 米軍グアム戦犯収容所は200メートル四方ほどの敷地に8棟のかまぼこ型収容棟があり、各収容棟は板壁で14の独房に区切られていた。独房は幅1メートル、奥行き3メートルほどで入り口のドアーには有刺鉄線が張られていた。戦犯や戦犯容疑者はこの中にほとんど全裸状態で入れられていた。グアムは熱帯に近く、昼は窓一つない独房は熱気が激しいが、夜になると急速に気温が下がる。ほとんど全裸状態で、コンクリート床に毛布1、2枚では厳しかったであろう。

 BC級戦犯の収容所においてはどこでも、戦犯あるいは戦犯容疑者となった日本兵などに対する暴行、虐待行為が横行していた。中でも、グアム戦犯収容所における暴行、虐待はほとんどリンチといってよいぐらい苛烈なもので、判決前に収容所内で死亡する者が出るほどであった。殴る、蹴るは日常茶飯事で、その他考えられるかぎりの方法で収容者を痛めつけた。その実例は『戦犯裁判の実相』に詳しく記録されている。

 ヤルート環礁における現地民処刑事件で終身刑の判決を受けた古木秀策の手記「グアム戦犯ストッケード」には、死刑を執行された戦犯たちが生前に受けた虐待の数々が列挙されている(『戦犯裁判の実相』412-419頁)。

 「T陸軍中将〔立花芳雄陸軍中将、父島事件で死刑〕は或番兵が勤務につくと直裸のま々礫の上へ柔道の背負投を食って前方へ倒れる要領と横へ倒れる要領を数十回やらされるのが常であった」。なお、海軍中将若林清作(トラック警備隊事件などに対する責任を問われて15年の有期刑)によれば、立花陸軍中将は「父島事件〔人肉食事件〕に対して極度に憎悪せられ」、「処刑の前々日の夜……踏む、蹴る、叩く、壁に叩きつける。遂にへたばれば水をあびせるの惨虐を加えられて翌日に刑死せられたり」(『戦犯裁判の実相』410頁)。

 「I海軍大佐〔岩波浩海軍軍医大佐 トラック海軍病院事件で死刑〕は絞首刑の判決を受けた後も屡々番兵に強制されてストッケード〔収容棟〕内の私達一人一人に対し『愈々近く死刑を執行される事になりました。永々お世話になりました』と挨拶回りをさせられた。番兵はキューと声を立て首を絞められるまねをし乍ら上機嫌で同大佐につき添うていた」。また「I大佐は理由なしに裸で無帽のま々直射日光の下で不動の姿勢をとらされた」。若林海軍中将によれば、岩波海軍軍医大佐はドラム缶の防水タンクに約100メートル離れた水浴場からバケツで水を運ばせられ、満水になるとそれをひっくり返し再び満水になるまで水を運ばせるということを何回も繰り返され、ついに倒れた(『戦犯裁判の実相』410頁)。

 「A海軍中将〔阿部孝壮海軍中将、クェゼリン事件で死刑〕」は「痩せて衰え果てた体で電柱の廻りをこまの様に廻って走らされて倒れた」。

 「六十有余歳のT海軍大佐〔田中政治海軍大佐、トラック警備隊事件で死刑〕」の場合は、「処刑される迄の一ケ月余りの間毎夜どの番兵も自分がさぼって腰をかけたい為に同大佐を便所に連れて行った。同大佐は『もう一ケ月眠らないので夜だかわからない』と言っていた」。

 「U海軍中佐〔上野千里海軍軍医中佐 トラック警備隊第2事件で死刑〕」は「裁判中ガードハウス〔収容所入り口の衛兵所〕から指に包帯をして帰って来て『ペンチで生爪をはがされた』と言っていた」。

 こういったグアム戦犯収容所における暴行、虐待はその他すべての日本人戦犯あるいは戦犯容疑者に対して日夜行われていた。ただし、このような暴行、虐待行為は1947年10月以降、基本的にはなくなったようである。それは、グアム戦犯裁判で不起訴になって帰国した者や有罪判決を受けた後に日本に送還された者たちが、グアム戦犯収容所における残虐行為についてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に訴えたことで改善されたということのようである。

おわりに

 父島事件における人肉食にしろ、トラック海軍病院事件やトラック警備隊第2事件における「生体解剖」にしろ、日本軍の行った残虐行為は通常の状況では考えにくいものである。アメリカ軍による猛爆撃下、それほど異常な心理状態になっていたのであろう。

 他方、グアム戦犯収容所におけるアメリカ軍兵士による暴行、虐待行為も常軌を逸したものである。特に戦後すぐの時期には、アメリカ軍兵士の日本人に対する報復感情が激烈であったため、戦犯あるいは戦犯容疑者に対しては何をしてもいいというような心理状態だったと思われる。

 戦争という状況が人間性を破壊する事例は歴史上枚挙にいとまがない。2022年2月、ロシア軍が一方的にウクライナに侵攻して、ウクライナの人びとに対して暴虐のかぎりをつくしたのはその直近の事例である。

 改めて、戦争を起こしてはいけないと思う。人は戦争になると狂気に陥るのであるから。

(「世界史の眼」No.43)

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「万国史」における東ヨーロッパII-(4)
南塚信吾

4. 岡本監輔著・中村正直閲『万国史記』内外兵事新聞局、1879年 

版権免許は1878年(明治11年)

 著者の岡本監輔(天保10(1839)年~明治37(1904)年)は、徳島出身で、「小農に生まれる。苦学力行・気宇遠大、その生涯を開拓精神でつらぬいた異色人物である」という。号は韋庵。明治元年(1868年)、樺太奥地探検をおこない、樺太開拓に情熱を傾け、明治初年に函館裁判所判事(樺太開拓使)になって樺太経営に携わった。しかし、明治3年(1870年)、樺太放棄論をひろめた黒田清隆と意見が合わず辞任、東京府第一中学校(現日比谷高校)にて教壇に立った。 この第一中学時代に著したのが、この『万国史記』1879年(明治12年)であった。岡本は、のちに福沢の「脱亜論」とは反対に日清の協力を説き、アジア主義者と呼ばれるようになった。岡本は、この本を漢文で書いていた。それは中国でも読んでもらいたかったからであるという(宮地)。校閲をした中村正直はスマイルの「自助論」の翻訳者であった。

 2005年7月に二松学舎における挟間直樹(京都産業大学)の講演によると、岡本は数回清国へ訪れていて、『万国史記』は清国において30万部以上が坊間に流布したという。また、韓国の玄采『万国史記』は岡本韋庵の書を基に編集したものであるという。1884年には、岡本監輔著、三宅憲章校『万国通典』(集義館)というものも出版されている。

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 『万国史記』の構成は以下のようであった。

巻一 万国全記、亜細亜総説、大日本記
巻二 支那
巻三 印度、波斯、韃靼
巻四 亜西里亜(アッシリア)、巴靭斯坦(パキスタン)、朓尼基(フェニキア)、西里亜(シリア)、亜剌伯(アラビア)、その他アジア
巻五 亜非理駕(アフリカ)総説、厄日多(エジプト)、巴巴黎(ベルベル)、桑給巴(ザンジバル)、達疴美(ダホミー)、そして黒奴、馬達加斯架(マダカスカル)など
巻六 欧羅巴総説、希臘、馬基頓(マケドニア)
巻七 羅馬
巻八 東羅馬、羅馬教宗国(ローマ教皇国)、伊太利、土耳古
巻九、十、十一 仏蘭西
巻十二 西班牙、葡萄牙、荷蘭、比利時(ベルギー)
巻十三、十四 日耳曼
巻十五 瑞西、墺太利、普魯西
巻十六 俄羅斯(ヲロシア)、波蘭、瑞典(スウェーデン)、丁抹(デンマーク)
巻十七、十八 英吉利
巻十九 亜美理駕総説、米利堅(アメリカ)、墨西哥(メキシコ)、秘魯(ぺルー)、巴西(ブラジル)、その他アメリカ
巻二十 阿塞亞尼亞(オセアニア)

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 この『万国史記』も指定教科書ではなかった。漢文で書かれた岡本の『万国史記』は、単なる「翻訳」ではない「万国史」であった。その特徴を整理すると、このようになる。

1) 基本はパーレイ的で、アジアから始めて、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカと回って、オセアニアに戻ってくる方式をとっていた。諸地域の歴史の並列としての「万国史」である。だが、記述はパーレイ自身のものより正確になっている。それらの地域の歴史を地域に即して見ていると言える。

2) パーレイとは違って、「天地開闢」の説はさまざまにあると言って、キリスト的天地創造説は採っていない。脱聖書の「万国史」であった。

3) パーレイと同じく、徹底して古いところから新しいところまでの歴史を縦に述べ、そういう各国史を並べるという方式をとっていた。ただ古代・中世・近世といった時代区分をしていない。

4) アジアは、日本から始めていて、「万国史」の中に日本を組みこもうとしている。日本の歴史は「大日本記」が始まりで、天照大神から天皇の事績を連ねた皇国史が略述され、ついで「附録」として、15-17世紀と1850年代以後の日本と諸外国との交渉史が述べられている。1853年の米利堅人伯爾理(ペルリ)来日から各国との修好条約の締結までが正確に書かれ、そのうえで、世界には様々な政体があり、各国が主権を持って、上下の違いはない。日本は1868年以後天皇のもとで世界に乗り出したのだとしていた(巻1)。

5) 支那(中国)の歴史も王朝史で、最後に「附録」として1790年代以後の欧州勢力との交渉史が置かれている。特に鴉片をめぐっておきた1840年の戦争から、1850-1860年の太平王の戦争までの対外関係が詳しく論じられ、最後に中国は「中華」といって奢っていたが、今は固陋に甘んじ「西人」に遅れている。気力を取りもどさないといけないとしていた(巻2)。
 インドについては、1857-58年の対英「乱」(大反乱)に至るまでの歴史が述べられ、「乱」の鎮圧ののち、インドが英政府の「所轄」となった次第が論じられる。こののち、「印度事務宰相」のもとでインドは鉄道が引かれ、棉花等の産物の産地になっていくという。インド支配が肯定的に評価されている。インドの風俗も述べられ、「以子女為犠牲人死即」(寡婦殉死)という風習も出てくる。この後、ペルシア、アッシリア(バビロン)、パレスチナ(耶蘇)、フェニキア、シリアが出てくる(巻3)。
 その後東アジアに戻って、朝鮮、安南、暹羅(シャム)、緬甸(ビルマ)、阿富汗(アフガニスタン)、西伯利(シベリア)が畧記される。「万国史」でこれらの国(アフガニスタンを除き)の歴史が出てくるのは、これが初めてではないだろうか。とくに朝鮮については、紀元100年頃の高麗から始めて、1860-70年代の仏米の接近、1875年の日本との戦いと講和条規(江華島条約のこと)までを略記している。朝鮮の各「王室」が滅亡するまで史料を公にしないので、その沿革を描くのが難しく、日本や支那の書に依らざるを得ないとしていた。総じて、これら朝鮮以下のアジアの国々は、「皆甘んじて人に屈下する者に非ず」といえども、「古より今に至るまで未だ其の能く自主する者を見ず」。その理由は、地勢のほかに「人」の性格などにあり(巻4)というのであった。

6) 亜非理駕(アフリカ)についても、明治期に出た「万国史」の中では初めて詳しい歴史を論じている。岡本は、アフリカのまとめとして、次のように述べている。アフリカは港湾が少なく、気候も高湿で疫病が多く、土人は無知であると言われが、これは人の「性」に依るのではない。欧州の学者は黒人の才質は白人と同じではないと言う。だがそうではなくて、これは知識と教学によって乗り越えられるものである。欧州人は売奴は禁止したが、黒人子弟を教育したということはまだ聞いていない。このように述べて、欧州人を批判していた(巻5)。

7) 全体として、アジア主義からのユニークな「万国史」であった。アジア諸国についてはそれぞれの弱さを指摘し、西人に対抗するためには、各国がその弱さを克服していかねばならないと主張していた。一方、ヨーロッパ列強については、その文明が至上であるとはとらえず、時には批判的な見方をしていることが注目される。そして、世界全体の動きを、主権を持った国々の冷徹な利害の交錯する場であるとみていたようである。

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 では、ヨーロッパ東部の歴史はどのように書かれていたのだろうか。欧羅巴は巻六から十八までで論じられている。総説以下、希臘、馬基頓(マケドニア)、羅馬、東羅馬、羅馬教宗国(ローマ教皇国)、伊太利、土耳古、仏蘭西、西班牙、葡萄牙、荷蘭、比利時(ベルギー)、日耳曼、瑞西、墺太利、普魯西、俄羅斯(ロシア)、波蘭、瑞典(スウェーデン)、丁抹(デンマーク)、英吉利と続くのである。その中で東ヨーロッパについての記述を見てみよう。

≪希臘≫
 欧羅巴総説に次いで、希臘の歴史が、古代から希臘帝国(ビザンツ帝国)をへて1820年代における独立までタテに論じられる。ギリシアの独立に関しては、そのきっかけとなったのが、「希的里亜(ヘチリア)」(フィリキ・エタリアのこと)という「一社」であったことを指摘し、独立戦争においても「国人(国民)」の力を評価している。しかし、結局は英仏ロの列強の支援、つまり各国の冷徹な利害を重視していた(巻6)。

≪土耳古≫
 土耳古の歴史が、一貫した通史として描かれている。紀元600年頃に始まり、961年におけるカズナ朝の成立、1032年?にセルジュク家が支配したこと、1300年代にモンゴルに従属したこと、1293年?にオスマン家が国を建て、1453年にコンスタンチノープルを陥落し、1520年代のハンガリーとオーストリア攻撃のこと、1687年のウイーン攻撃の失敗のこと、1770年代から1850年代の露土戦争のことなど、支配の構造も含めて、「トルコ」の一貫した歴史を描いている。多少とも年代のずれはあるが、パーレイよりもしっかりとしたトルコ史になっていた。この「トルコ史」との関係で、ハンガリーやポーランドの歴史が触れられることになった。たとえば、1520年代と80年代のハンガリーからウイーンへのオスマン軍の侵攻が述べられている(巻8)。

≪波蘭≫
 興味深いのは、ポーランド史について、独自に詳しい記述をしていることである。「俄羅斯(ヲロシャ)記」の後に置かれた「波蘭記」では、とくに1772年、1793年、1795年のポーランド分割の過程、ポーランド国家の消滅後の1830年にフランス革命を機に起こったポーランド人の蜂起、1863年のポーランド蜂起が、詳細に記述されている。特に蜂起に際しては、「自由」のための社会改革の動きに注目している。最後に、ポーランドが分割されて国がなくなったについては、「公法」がまだ行き渡っていないこと、「隣邦公伯」が手をこまねいて助けに行かなかったことを憤っている。「万国史」においては一般にポーランド史への関心は高いのであるが、ここでは他の「万国史」以上に列強への批判がなされている(巻16)。

≪匈牙利≫
 墺地利の歴史は、ほとんどが1848年の「乱」から1867年に「並立帝国」ができるまでの過程に充てられている。それは匈牙利との関係で書かれている。匈牙利自体の歴史は、ポーランドに比べて、極めて限られた記述であるが、土耳古の部と墺太利の部で述べられているわけである。ここでは、48年革命を、王侯君主間の政権争いとしてのみではなく、「府民」、「国人」、「書生」などの動きを交えて論じている。それは「暴民」、「不逞の徒」、「乱民」といった観念をも引き出していたが、権力と民衆の関係を意識したダイナミックな記述であった。明治10年に完成した箕作『万国新史』における48年革命論に習っていると思われるが、それよりは深まっている部分と、事実関係を誤っている部分とがあった。
 例えば、1848年の革命はこう書かれている。「1848年3月、仏蘭西革命の報維也納に達す。府民之に倣わんと欲し、広く起こり、乱を作す。」オーストリアの支配を受けていたイタリアでも、民が乱を起こした。オーストリアの「帝」は、「国人」に約して新法をたてたが、「国人」服せず。そこで皇帝はインスブルックに脱出、ウイーンは「書生及び暴民」の「淵藪」となる。さらに、ボヘミアでは7月に、スラーヴ人がプラーグを砲撃してこれを奪い、新に政府をたてて、ウイーンの「乱民」を助けようとした。同月に「国人」がウイーンに大勢集まった。このため8月に皇帝はついにシェーンブルンに都を移した。今日でいえば、明確に権力と民衆の関係で論じられている。
 岡本は、1867年のオーストリアとハンガリーの「妥協(アウスグライヒ)」の結果として成立した二重君主制に早くも注目し、これを「並立帝国」として記述している。オーストリアの帝をハンガリーの王にし、共通の執政局、共通の議院をおいて、二国を「聯合」したもので、これによって両国積年の怨みは「氷解」したという。これに注目しているのは、明治期において岡本が最初であろう。間もなく久米邦武『米欧回覧実記』明治11年(1878年)が注目することになる(巻15)。
 よく見ると、1848年におけるチェコやハンガリーの位置づけはおかしい。「7月にスラーヴ人がプラーグを砲撃し・・・」は間違いである。ハンガリー人は「帝を推して首領となし」たとか、皇帝はハンガリー人に「自主政府」を立てることを許したなどというのも間違いである。箕作『万国新史』に習ったと思われるが、箕作はこういう誤りは犯していない。しかし、そういうことが問題になるほど、詳しい歴史であった。

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 岡本の東ヨーロッパ論においては、「人民」以外に、今日ならば「市民」を意味する「府民」、「国民」を意味する「国人」が使われている。「府民」は箕作『万国新史』にすでに出てきていたが、ともかくここでは、国王や貴族や軍人など権力者だけではない人々からの視線が求められていたわけである。ただし、一方で、人民、府民、国人への視線に対し、「暴民」、「不逞の徒」、「乱民」への不信もある。賢君に導かれる上下貴賤の別のない国というのが岡本の基準であったのではなかろうか。

 また、フランスの1789年や1848年を「革命」として論じているが、ウィーンでは「乱」になっていて、まだ一貫した用語にはなっていなかった。これに関連して、「府民」らが構成する「社会」という概念はまだできておらず、社会改革という考え方は生まれていなかったようである。

 その他、東ヨーロッパ論では、今から見れば欠かせないはずの「民族」や「階級」という概念は出て来ていない。他では、「民族」という概念と「階級」という概念も新たに登場させているだけに、やや気になる所ではある。ただこの「民族」や「階級」という概念はその後明治期の「万国史」に継続して使われることはなかった。

 諸概念の問題が出て来るほどに、岡本の「万国史」は、東ヨーロッパやアジアに内在しようとしたユニークなものであり、このような世界史認識を岡本はどのようにして獲得したのか、大いに研究の余地があるところである。

(「世界史の眼」No.43)

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書評:『スポーツの世界史』
川本真浩

 世界選手権やワールドカップなど、最近数ヶ月の間に開催されたスポーツの世界大会を皆さんはいくつご存じだろうか。水泳、女子サッカー、陸上競技、バドミントン、バスケットボール、ラグビーなど、なじみのあるスポーツだけでも数多くあったが、評者が惜しくも出場を逃したローンボウルズのような超マイナースポーツまで含めれば、ずいぶん多くの世界大会が開催された。いっぽう、夏と言えば、インターハイや高校野球といった高校生の大会をはじめとする児童・生徒及び学生の大会も数多く行われる。異常な猛暑のなかでの開催がとくに問題視された今夏であったが、裏を返せば、多くの耳目を集めるスポーツイベントが定着しているということでもある。いまやe-スポーツが国際オリンピック委員会のお墨付きを得る時代である。従来型のスポーツに全く関心や接点が無かった人でさえ、スポーツに触れたり見聞きしたりする機会は確実に高まっている。おおぜいの人の行動と感情に影響し、大量のモノがやりとりされ、相当な額のカネが動く…好むと好まざるとにかかわらず、スポーツはわれわれが生きる現代社会のなかで無視しえない存在である。

 「ミネルヴァ世界史〈翻訳〉ライブラリー」の一書として刊行されたデイビッド・G・マコーム著・中房敏朗/ウエイン・ジュリアン訳『スポーツの世界史』は、その帯で「スポーツはなぜ、かくも巨大なグローバル文化に成長しえたのか」とうたうとおり、スポーツの今日的状況を世界史の観点から解説する。五章立ての内容は、序章「語義と理論」、第1章「運動の必然性とスポーツが生まれる理由」、第2章「近代スポーツの誕生」、第3章「スポーツのグローバル化」、第4章「グローバルスポーツの諸問題」である。

 序章では手短に基本的な用語や概念を整理し、本書の構成を紹介する。原著では”chapter 1″であるが、分量及び内容から考えても、これを「序章」とし、原著の”chapter2″以降を「第1章」から始めていく本書の章立ては妥当であろう。

 第1章では、「スポーツが生まれる理由」つまり「なぜスポーツがあるのか」という根源的な問いに取り組み、著者なりの見取り図が開陳される。人間には「運動への衝動」が生まれつき備わっており、そこに労働、戦争、宗教、観る楽しみ、地理、エロスといった二次的な影響が加わることで、輪郭と形態が与えられてスポーツが造形された、という。そこには先史時代の壁画から20世紀の映画までさまざまな逸話があふれている。「実証的な裏付けがないとか、本質主義に陥っているとかと批判してみても生産的ではないだろう。これは一つの思考実験であり、私たちもこの実験に参加して楽しめばよい」という訳者の意見(248頁)に評者もおおむね同意するいっぽうで、そうした批判が想定されることにこそ歴史学のなかのスポーツ史の位相が示唆されているようにも思える。いずれにしてもスポーツ史のありかたについて考えをめぐらせる格好の材料にはちがいない。

 第2章では、章題どおり「近代スポーツの誕生」について、18世紀終わり頃から20世紀前半にかけての時期に発展した、競馬、クリケット、野球、ゴルフ、テニス、卓球、サッカー、ラグビー、アメリカンフットボール、バスケットボール、バレーボール、水泳、スキー、アイスホッケー、陸上競技、ボクシング、自動車レースなどが概観される。アマチュアリズムとプロフェッショナリズムそしてスポーツの組織化に関する歴史的経緯についても触れられる。いずれも発祥の地でありかつ盛んに行なわれてきたイギリスとアメリカ合衆国に関する叙述が中心となる。近代スポーツとしての各競技の黎明期について手短に知ることができるのはありがたい。

 つづく第3章と第4章では、第2章と同じく19世紀以降現代に至るまでの時期を扱いながらも、スポーツのグローバル化に論点を絞って、その歴史的過程と現代的問題について論じられる。まず第3章では、野球、クリケット、サッカーのグローバルな展開から説き起こして、YMCAが果たした役割、米中国交回復の逸話(いわゆるピンポン外交)、アメリカズカップ(ヨット)、そして世界最大のスポーツイベントである近代オリンピックに話が進む。また第4章では、さらに現在に近い問題がとりあげられる。アマチュアリズムの衰退、スポーツ界で不当ないし不利な状況に置かれた人種/民族/女性の問題、テクノロジーと医学の功罪、ドーピング問題の〈闇〉の深さ、そして商業化である。アメリカ合衆国を中心とする欧米の状況やオリンピックの事例がもっぱら引用されるが、現在に至る国際スポーツの実相をしっかりとらえることができる。

 全体を通していえば、古代あるいは先史時代から現代まで世界各地から渉猟された逸話をたんなる蘊蓄の羅列にしない、語りの巧みさと魅力は見逃せない。また、「スポーツは戦争を終わらせないし、スポーツを通じた友好関係が戦争を抑止するという有力な証拠もない。」(9頁)や「現代の世界では、スポーツそのものが宗教と見なしうるのに、伝統的な信仰を持つ多くの人はそのようには考えず、神への冒涜とさえ考えているのは皮肉なこと…」(45頁)といった言からは、スポーツに対する愛着とうらはらに冷静にスポーツを見定めようとするスタンスもうかがえる。

 とりわけ読み応えがあるのは、第3、4章で論じられるスポーツのグローバル化とその問題である。上述のように欧米とりわけアメリカ合衆国のスポーツに叙述が偏るきらいはあるが、20世紀以降のグローバルなスポーツ界において同国および同国におけるスポーツが重要な位置を占めること、そこにグローバル・スポーツの光と影があらわに見てとれることはまちがいない。世界史的観点から捉えた20世紀スポーツにかかる見取り図を把握するために、とても有用な章である。

 他方で、西洋人が現地人に無理強いするだけでなく現地人が進んでスポーツを受け入れた事例があったことをも強調する(「訳者解説」247頁)とはいえ、西洋=能動的/非西洋=受動的という古典的ステレオタイプの印象につながりかねない叙述はいささか気になる。例えば、「植民地時代以前のアフリカではいったいどんなスポーツがおこなわれていたのかは、ほとんど知られていない。…先住民は徒競走、レスリング、カヌー競漕、跳躍、舞踊などで楽しんでいたようだが、新しい西洋のスポーツがこれらにとって代わった」(143頁)と述べるが、東アフリカの伝統的な生活において独特の身体運動文化があったことや、西洋人が設立した学校や組織において西洋スポーツと現地に根ざす運動や遊戯の混在するさまがみられたことは、原著刊行時までにも学界で知られるところであった[1]。「歴史の本流に焦点を当てて、支流を削ぎ落とした分、全体的な見通しについては見やすくなっている」(「訳者解説」246頁)反面、見えにくくなった部分があることを想定して読むことも大切である。

 また原著刊行(2004年)から時間が経ったがゆえに、原文の時制のまま訳されていることから、そのご現在までに事態が大きく展開したテーマについては―もちろん著者や訳者の責任ではないが―ときおりとまどう。例えば、人種、ジェンダー、ドーピングにかかる問題は、この20年ほどの間に、技術・知見・理論の進歩のみならず、さまざまな出来事が起こり、議論が交わされ、状況がずいぶん変わったところもある(あいにく旧態依然の部分も少なくないが)。本書はあくまで21世紀に入ったばかりの時点で世界史的観点からスポーツとその歴史を概観した書であるということをときどき思い出しながら読まねばなるまい。

 いっぽう、原著を読みやすい翻訳でもって紹介するために、訳者による細やかな配慮が尽くされ工夫が凝らされていることも強調したい。原著には図版が全く載っていないが、本書には内容に関連する図版が多数盛り込まれ、文字情報だけでは難しいイメージづくりを助ける。やや叙述の長い節には原著に無い小見出しを加えることでトピックの転換を読者に示す。もっぱらアメリカ合衆国そしてイギリスという英米2国に偏った本書の欠点を補うべく、19世紀末以来スポーツのグローバル化を推し進めたフランスの主導的な役割について―それと対照的なイギリスの態度とあわせて―「訳者解説」で補足説明されているのもありがたい。さらに、原著には事実誤認、誤記ないし誤植が少なからず見受けられるが、それらには丁寧に注記が付けられたり修正が施されたりしている。

 著者マコームは、「学生、学者、専門職、あるいはその他の人々でも、ほとんど生まれながらにしてスポーツに関心をもっているような人とそうでない人に分けられる」と述べ、日常的な自己紹介の場面においてスポーツ史家である自分に対して「おぉ!」と関心をもってくれるような人に向けて本書を書いたという(i-ii頁)。しかし、評者としては、スポーツやその歴史に全く関心がなくても世界史、グローバル・ヒストリー、世界情勢に関心のある人には、ぜひ本書を手にとってもらいたい。そして、本書に何らかの物足りなさを感じる方、あるいはもっとほりさげて探りたいという方は、訳者の一人が編者として名を連ねる(たまたま)同名の論文集[2]、あるいは長年スポーツ史研究をリードしてきた大家W・ヴァンプルーが著した浩瀚の書[3]を読み進めるのもよいだろう。いっそう立体感をもって〈世界史のなかのスポーツ〉を捉えることができるはずである。


[1] たとえば、John Bale & Joe Sang, Kenyan Running: Movement Culture, Geography and Global Change, London(Frank Cass), 1996, など。

[2] 坂上康博/中房敏朗/石井昌幸/高嶋航編著『スポーツの世界史』、一色出版、2018年。

[3] W・ヴァンプルー(角敦子訳)『スポーツの歴史』原書房、2022年。

(「世界史の眼」No.43)

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