はじめに
1 アメリカ軍によるBC級戦犯裁判の概要
2 ケゼリン(クェゼリン)裁判とグアム裁判
(以上、前号掲載)
3 「南洋群島」における戦犯事件の事例
4 米軍グアム戦犯収容所における暴行、虐待行為
おわりに
(以上、本号掲載)
3 「南洋群島」における戦犯事件の事例
(1)マーシャル諸島ミレ島米軍俘虜処刑事件
前述のように、1943年11月20日から23日、アメリカ太平洋艦隊はギルバート諸島のマキン環礁、タラワ環礁を空・海から爆撃を加えたうえ、上陸して日本守備隊をほぼ全滅させた。その後、アメリカ軍は占領したマキン、タラワを基地としてマーシャル諸島を攻撃し始めた。その最初の目標とされたのはマーシャル諸島東南端のミレ環礁のミレ島であった。当時ミレ島には、北、南、西の3砲台を持つ海軍部隊とそれに配属された陸軍1ケ聯隊(第1大隊、第3大隊、山砲大隊、他)が駐屯し、総兵力は約5000人であった。
1944年1月25日、アメリカ軍のB25機約15機がミレ島を爆撃したが、そのうち1機は撃墜されて環礁内に墜落した。その搭乗員5名は日本軍によって救出され、俘虜となった。その後もアメリカ軍の爆撃が続き、アメリカ軍のミレ島上陸も濃厚と思われた1月31日、ミレ島日本守備隊の最高指揮官志賀海軍大佐は「玉砕」を覚悟して、米軍俘虜5人の処刑を決断した。2月2日、米軍俘虜を海軍の北砲台、南砲台に各1人、陸軍の3大隊に各1人振り分けて、それぞれ斬首により処刑した。
その後、1945年8月15日の終戦まで、マーシャル諸島の日本軍各基地はアメリカ太平洋艦隊の完全な制海権、制空権下に置かれ、武器・弾薬、食料などの補給を完全に断たれて、餓死者が続出するという状況になった。
戦後直ちにアメリカ軍による日本人戦犯の追及が各地で始まり、マーシャル諸島にも及んだ。1945年9月23日 アメリカ軍はミレ島で基地建設に従事していた朝鮮人建設隊員2名からミレ島におけるアメリカ兵の処刑を聞き知り、最高指揮官志賀海軍大佐、陸軍聯隊長大石大佐など4人を米軍航空隊基地のあるマジュロ島に移送して、捜査を開始した。9月26日には、さらに海軍関係4人(北砲台長笛田中尉など)、陸軍関係3人(第1大隊副官門田中尉など)がマジュロ島に移送された。9月28日、志賀最高指揮官が「命令しあらざるも司令として責任あり自決す」という遺書を残して自決した。これにより、米軍俘虜処刑の命令系統が曖昧になり、大隊長などの中間指揮官が不利な立場に置かれることとなった。
1945年10月25日、ミレ島事件の容疑者10名がマジュロ島からクェゼリン島に移送され、11月21日、クェゼリン法廷で裁判が開始された。11月29日結審、12月11日に判決が出された。陸軍聯隊長大石大佐、海軍北砲台長笛田中尉など6人に絞首刑、門田陸軍中尉他1人に終身刑(門田中尉はその後無罪とされた)、その他2人に懲役20年の刑であった。この裁判はクェゼリン法廷における最初の裁判で、裁く側も裁かれる側も司法知識がほとんど全くないという状態であったが、アメリカ海軍の主導で強引に進められた。
1946年3月19日、ミレ島事件有罪者9人はクェゼリン島からグアム島に移送された。これはマーシャル諸島ビキニ環礁で1946年6月から原水爆実験が行われることになっていたことに伴う処置であったとされている。前述のように、クェゼリン裁判における既決囚および未決の容疑者はすべてグアム島に移送された。
グアム移送の約半年後の1946年10月、ミレ島事件で終身刑・有期刑とされた3名はグアム島から日本に送還され、スガモ・プリズンで服役した。死刑判決を受けた6人も、1947年4月、終身刑に減刑され、同年5月29日グアム島から日本に送還され、スガモ・プリズンに収容された。(以上の記述は翻刻版『戦犯裁判の実相』435-448頁による。)
(2)トラック海軍病院における米軍俘虜「生体解剖」事件
1944年2月初めにマーシャル諸島の日本軍をほぼ制圧したアメリカ軍は次にトラック諸島(現、ミクロネシア連邦チューク州)、特に夏島(現、トノアス島)に対して激しい空爆を開始した。夏島には南洋庁のトラック支庁があり、日本海軍第4艦隊の司令部もここに置かれていた。当時、トラック諸島(環礁)は連合艦隊の泊地にもなっていた。1944年2月17日から18日、アメリカ軍はトラック諸島(環礁)に猛爆撃をかけた。これにより日本海軍は大打撃を受け、連合艦隊はトラック諸島から撤退し、「南洋群島」最西端のパラオ諸島を泊地とすることになった。
話はさかのぼるが、1943年末、トラック諸島付近で一隻のアメリカ軍潜水艦が日本軍によって拿捕され、その乗員50人が俘虜となった。俘虜たちは海軍第41警備隊の管理下に置かれていた。
1944年1月末、海軍第4病院の院長、岩波浩海軍軍医大佐は第41警備隊診療所の責任者に対して、「実験」のために米軍俘虜8人を使いたいと申し入れた。それに応じて、8人の俘虜が第41警備隊の隔離病棟に移された。翌朝8時頃には、岩波第4病院長など第4病院の軍医たちが隔離病棟で「実験」を開始した。8人を4人ずつの二組に分け、一方の4人には止血帯を用い、他方の4人には毒菌注射を用いて、「実験」が行われた。止血帯は4、5時間から7、8時間巻かれた後、急に外されると俘虜たちは苦痛にのたうちまわった。それを何回か繰り返すと、死亡するに至った。止血帯の「実験」は朝から夕方まで続けられ、まず2人がその日のうちに死亡した。残り2人は一晩休ませて、翌朝に止血帯「実験」が再開され昼頃まで続けられたが、死亡しなかった。そこで、裏山でダイナマイト爆風実験をすることになり、2人を杭に縛り付け、1メートルぐらいのところにダイナマイトを置いて点火した。爆風によって手足がちぎれるなどの損傷を受けた俘虜2人はひどく苦しんでいたので、薬物注射によって死亡させた。他方、もう一方の4人の俘虜は止血帯による「実験」の後、ぶどう状球菌の注射によって殺害された。その後、岩波第4病院長らの軍医によって、4人の解剖が海軍第4病院の死体室兼解剖室で行われた。解剖は、午後3時頃から胸と腹を切開することから始まり、4時間ほど続いた。海軍第4病院では、1944年7月にも、岩波病院長の発案により米軍俘虜2人を裏山で槍、銃剣、日本刀などで「実験的に惨殺」した。
海軍第4病院におけるこれら二つの事件はグアム法廷で併合審理され、岩波海軍第4病院長に死刑、他の18人の被告に終身刑から懲役10年の刑が下された。岩波病院長は大きな赤十字の印を屋上に掲げた海軍第4病院に対するアメリカ軍の盲爆に痛憤していたので、裁判でも最後まで抵抗を止めなかったため、極刑に処されることになったのであろう(1949年1月18日、グアムで死刑執行)。
トラック諸島夏島では少なくとももう1件の米軍俘虜「生体解剖」事件(トラック警備隊第2事件)があった。1944年6月、海軍第41警備隊の軍医たちが警備隊病室において1人の米軍俘虜の「胸部・腹部・陰嚢などを切開、生体解剖」した。さらに、もう1人の俘虜を同病室の裏において日本刀で斬首、殺害した。この事件では海軍少将浅野新平など4人に死刑判決が下されたが、実際に死刑を執行されたのは浅野少将と海軍軍医中佐上野千里の2人だけで(1949年3月31日、グアムで刑執行)、他の2人は後に終身刑に減刑された。なお、他にも同種のことがあったようであるが、裁判にはかけられなかった。(以上の記述は、主として、岩川隆『孤島の土となるとも――BC級戦犯裁判』〔講談社、1995年〕147-162頁による。本書は著者畢生の力作というべきもので、A5版800頁を超す大著である。日本語文献のみならずアメリカ軍関係の英文文献をも博捜し、旧戦犯の生存者や処刑された戦犯の遺族などを訪ねて聞き取りをするなど、長年にわたってこの問題を追求した成果である。ただ、残念なことに、文中に典拠の表示が全くなく、文献リストや聞き取り情報も全くない。しかし、記述は正確なものと考えられるので、利用させてもらった。)
(3)マーシャル諸島現地民処刑事件
前述のように、ヤルート環礁ジャボール島では米軍俘虜3人を処刑するということがあり、容疑者はクェゼリン法廷で裁かれた。この裁判では、処刑実行者である海兵曹長吉村次夫ら3人に死刑判決が出されたが、後に3人とも終身刑に減刑された。
しかし、ヤルートではそれだけではなく、現地民をスパイなどとして処刑するという事件があり、容疑者がグアム法廷で裁かれることとなった。
1945年4月上旬、ヤルートに4人ずつ二組のミレ島民がカヌーとボートで漂着した。取り調べの結果、この二組は親族であること、アメリカ軍のそそのかしによりミレ島を脱出してアメリカ軍に奔ることを決意し、アメリカ軍のLST(上陸用舟艇)に収容されたこと、LSTの艦長からヤルートに漂着を装い、現地民に対して日本軍基地の惨状と多数の日本人と現地民がアメリカ軍に奔り優遇されていることを話し、日本人も現地民も2週間後にアメリカ軍のLSTが迎えに行くから逃亡せよ、でなければ椰子林と一緒に焼き殺してしまうということを伝えるように命じられたこと、椰子林が見え始めた所でLSTから降ろされたことを自白した。これら8人のミレ島民には略式の軍事裁判で全員に死刑の判決が下され、銃殺刑に処せられた。これを機に、それまで日本軍に協力的であった現地民たちは白い目で日本人を見るようになったという。
1945年5月頃から、アメリカ軍は飛行機による日本語・朝鮮語のビラの散布によって投降、逃亡、暴動などをそそのかし始めた。ヤルートの日本軍はアメリカ軍の武力と飢餓と思想謀略の攻撃によって窮地に追い込まれていった。アメリカ軍のLSTはヤルート環礁の離島の海岸から数百メートルぐらいのところに艇を止め、「支那の夜」などのレコードをかけて聞く者の心を乱したうえ、他の基地から逃亡してアメリカ軍に奔った日本人下士官が現れて、投降を促した。すでに逃亡した現地民は残っている現地民に逃亡を呼びかけた。現地民は至る所で日本人の殺害、軍用物(特に舟艇)・兵器などの窃取を計画し実行した。このような動きが各方面で前後して発覚したので、容疑者の捜索が行われた。その結果、四つの事件について略式の軍事裁判が行われ、13人の現地民に死刑判決が下された。これら13人の現地民は5回に分けて銃殺刑に処された。この事件はグアムの法廷で裁かれ、陸軍少佐古木秀策他1人に終身刑の判決が下された。(以上の記述は『戦犯裁判の実相』386-392頁に収録されている古木秀策の手記に依拠)
4 米軍グアム戦犯収容所における暴行、虐待行為
米軍グアム戦犯収容所は200メートル四方ほどの敷地に8棟のかまぼこ型収容棟があり、各収容棟は板壁で14の独房に区切られていた。独房は幅1メートル、奥行き3メートルほどで入り口のドアーには有刺鉄線が張られていた。戦犯や戦犯容疑者はこの中にほとんど全裸状態で入れられていた。グアムは熱帯に近く、昼は窓一つない独房は熱気が激しいが、夜になると急速に気温が下がる。ほとんど全裸状態で、コンクリート床に毛布1、2枚では厳しかったであろう。
BC級戦犯の収容所においてはどこでも、戦犯あるいは戦犯容疑者となった日本兵などに対する暴行、虐待行為が横行していた。中でも、グアム戦犯収容所における暴行、虐待はほとんどリンチといってよいぐらい苛烈なもので、判決前に収容所内で死亡する者が出るほどであった。殴る、蹴るは日常茶飯事で、その他考えられるかぎりの方法で収容者を痛めつけた。その実例は『戦犯裁判の実相』に詳しく記録されている。
ヤルート環礁における現地民処刑事件で終身刑の判決を受けた古木秀策の手記「グアム戦犯ストッケード」には、死刑を執行された戦犯たちが生前に受けた虐待の数々が列挙されている(『戦犯裁判の実相』412-419頁)。
「T陸軍中将〔立花芳雄陸軍中将、父島事件で死刑〕は或番兵が勤務につくと直裸のま々礫の上へ柔道の背負投を食って前方へ倒れる要領と横へ倒れる要領を数十回やらされるのが常であった」。なお、海軍中将若林清作(トラック警備隊事件などに対する責任を問われて15年の有期刑)によれば、立花陸軍中将は「父島事件〔人肉食事件〕に対して極度に憎悪せられ」、「処刑の前々日の夜……踏む、蹴る、叩く、壁に叩きつける。遂にへたばれば水をあびせるの惨虐を加えられて翌日に刑死せられたり」(『戦犯裁判の実相』410頁)。
「I海軍大佐〔岩波浩海軍軍医大佐 トラック海軍病院事件で死刑〕は絞首刑の判決を受けた後も屡々番兵に強制されてストッケード〔収容棟〕内の私達一人一人に対し『愈々近く死刑を執行される事になりました。永々お世話になりました』と挨拶回りをさせられた。番兵はキューと声を立て首を絞められるまねをし乍ら上機嫌で同大佐につき添うていた」。また「I大佐は理由なしに裸で無帽のま々直射日光の下で不動の姿勢をとらされた」。若林海軍中将によれば、岩波海軍軍医大佐はドラム缶の防水タンクに約100メートル離れた水浴場からバケツで水を運ばせられ、満水になるとそれをひっくり返し再び満水になるまで水を運ばせるということを何回も繰り返され、ついに倒れた(『戦犯裁判の実相』410頁)。
「A海軍中将〔阿部孝壮海軍中将、クェゼリン事件で死刑〕」は「痩せて衰え果てた体で電柱の廻りをこまの様に廻って走らされて倒れた」。
「六十有余歳のT海軍大佐〔田中政治海軍大佐、トラック警備隊事件で死刑〕」の場合は、「処刑される迄の一ケ月余りの間毎夜どの番兵も自分がさぼって腰をかけたい為に同大佐を便所に連れて行った。同大佐は『もう一ケ月眠らないので夜だかわからない』と言っていた」。
「U海軍中佐〔上野千里海軍軍医中佐 トラック警備隊第2事件で死刑〕」は「裁判中ガードハウス〔収容所入り口の衛兵所〕から指に包帯をして帰って来て『ペンチで生爪をはがされた』と言っていた」。
こういったグアム戦犯収容所における暴行、虐待はその他すべての日本人戦犯あるいは戦犯容疑者に対して日夜行われていた。ただし、このような暴行、虐待行為は1947年10月以降、基本的にはなくなったようである。それは、グアム戦犯裁判で不起訴になって帰国した者や有罪判決を受けた後に日本に送還された者たちが、グアム戦犯収容所における残虐行為についてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に訴えたことで改善されたということのようである。
おわりに
父島事件における人肉食にしろ、トラック海軍病院事件やトラック警備隊第2事件における「生体解剖」にしろ、日本軍の行った残虐行為は通常の状況では考えにくいものである。アメリカ軍による猛爆撃下、それほど異常な心理状態になっていたのであろう。
他方、グアム戦犯収容所におけるアメリカ軍兵士による暴行、虐待行為も常軌を逸したものである。特に戦後すぐの時期には、アメリカ軍兵士の日本人に対する報復感情が激烈であったため、戦犯あるいは戦犯容疑者に対しては何をしてもいいというような心理状態だったと思われる。
戦争という状況が人間性を破壊する事例は歴史上枚挙にいとまがない。2022年2月、ロシア軍が一方的にウクライナに侵攻して、ウクライナの人びとに対して暴虐のかぎりをつくしたのはその直近の事例である。
改めて、戦争を起こしてはいけないと思う。人は戦争になると狂気に陥るのであるから。
(「世界史の眼」No.43)