パレスチナ問題の起源:第一次世界大戦期のイギリス三枚舌外交
木畑洋一

 現在深刻化しているパレスチナのガザ地区の状況の起源が、第一次世界大戦期におけるイギリスのいわゆる「三枚舌外交」に求められるということはよく語られている。ドイツなどの同盟国側に立って1914年秋に参戦したオスマン帝国支配下の中東の将来をめぐって、イギリスはフサイン・マクマホン書簡、サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言という三つの相互に全く矛盾する外交的コミットメントを行ったのである。

 しかし、それらが出された経緯自体はあまり知られていないと思われるので、それを紹介しておく意味はあるだろう。ドイツ側と対立していたイギリス、フランス、ロシア三国は、それぞれに中東をめぐる領土的野心を抱いていたが、他方、この地域に住むアラブ人たちはオスマン帝国支配下から独立して自らの国をもつことを望んでおり、さらにユダヤ人シオニストはパレスチナを自分たちの帰還する地としてそこに「民族的郷土(ナショナル・ホーム)」(これはユダヤ人国家に他ならない)を建設しようと考えていた。そうした各勢力の思惑が交錯するなかで、イギリスの三枚舌外交は以下のような形で展開されたのである。

 これらの内、最初に交わされたのが、メッカのシャリフ(ムハンマドの血統につながる人々についての尊称)であったフサインと、エジプトのカイロ駐在のイギリス高等弁務官(駐在外交官のトップで独立国同士であれば大使にあたる)ヘンリー・マクマホンとの間の書簡である。イギリスは大戦が始まった時からフサインに対し、戦争での自国への協力と引き換えにその地位を保障するとの約束をしていたが、フサインは15年夏、イギリスがカリフ制(ムハンマドの後継者とみなされるカリフを首長とする統治制度)を認めつつオスマン帝国のアラブ人居住地全体の独立獲得に助力をしてくれれば、イギリスを経済的に優遇し防衛的同盟関係に入る用意があるとの申し出を行った。イギリス側は当初この条件が過大であると考えて煮え切らぬ対応をしていたが、ドイツがこうしたアラブの条件を呑もうとしているとの情報(実際にはその根拠はなかった)が流れたことによって態度を変え、グレイ外相はマクマホンに対して、フサインが求める独立したアラブ国家を認めること、ただし、シリアの地中海側地域(フランスの関心地域であった)などは除くこと、という指示を出し、それはフサイン側に伝えられた。パレスチナは、ここでは除外範囲に入っておらず、アラブの独立国家領域に入る地域であるとイギリス側も考えていたのである。

 フサインとマクマホンの間の往復書簡は、15年7月から16年3月まで10回にわたったが、その間に英仏間で進んでいた交渉の結果、16年5月16日にイギリスの中東問題特使マーク・サイクスとフランスの外交官ジョルジュ・ピコとの間で結ばれたのが、サイクス・ピコ協定である。一週間後にロシアも加わることになるこの協定の前段階は、15年春に起っていた。ロシアはダーダネルス・ボスフォラス海峡、ヨーロッパ・トルコ地域を欲しており、15年春にはその要求を英仏に提示した。イギリスは、ダーダネルス海峡における対オスマン帝国作戦(ガリポリ作戦)へのロシアの支持を必要として、ロシアによる両海峡とイスタンブル(コンスタンティノープル)併合に同意したのである。ただし、それには戦争が勝利に終わり、イギリスとフランスがオスマン帝国その他での目的を達する、という条件がつけられていた。フランスは、最初それに乗り気でなかったが、ロシア側がオスマン帝国などでの英仏の要求を受け入れるとの姿勢を示したことで、結局はそれに賛成した。 

 この動きを踏まえ、フサインとのやりとりの方向が見えた15年10月に、イギリス外相グレイは、オスマン帝国の東アラブ部分についての領土分割をめぐるフランスとの交渉に入ることにした。その交渉の結果、16年1月3日にロンドンのフランス大使館で、サイクスとピコの間で暫定合意が成立し、両国政府による承認を経て、5月16日に正式の協定となったのである。この協定によって、オスマン帝国の東アラブ地域は、フランスの勢力範囲(現在のシリアの大部分とイラク北部のモースル地域)、フランスの統治領(現在のシリアの地中海沿岸部分、レバノン、トルコの中部から南東部)、イギリスの勢力範囲(現在のイラク北部、ヨルダンの大部分)、イギリスの統治領(現在のイラクの中部・南部、ペルシア湾岸地域)、国際管理地域(ほぼ後にパレスチナ委任統治領となる地域)に分割されることになった。これに、ダーダネルス・ボスフォラス海峡、イスタンブルおよびロシアの隣接地域をロシアの勢力範囲にするという計画が加わり、フサイン・マクマホン書簡ですでにアラブ側に示されていた約束と背馳する取り決めが成立したのである。

 最後がバルフォア宣言である。パレスチナに対するユダヤ人の望みに積極的な姿勢を示そうという考えは、すでに16年にイギリス外務省で抱かれていたが、それはまだ参戦していないアメリカのユダヤ人勢力を強く意識したものであった。この計画は、それを知ったフランス政府が好まず、棚上げにされた。それが17年になると、革命勃発によって戦争離脱(ドイツとの講和)の可能性も強くなってきたロシアの指導層の中のユダヤ人を意識する形で、再浮上したのである。イギリス首相ロイド=ジョージは大戦回顧録のなかで、「もしもイギリスがパレスチナでシオニストの目的を満たすとの宣言を行えば、…その結果はロシアのユダヤ人を協商国の大義へと引きつけることになると考えられていた」と述べている。

 ただし、イギリスの考えはそれに限定されていたわけではない。この頃には、オスマン帝国軍との間の戦いでイギリス軍の優勢が明らかになっていたため、イギリスはサイクス・ピコ協定では国際管理地域とされることになっていたパレスチナを自国の勢力下に組み込むことを目論見はじめ、フランスの勢力を排除するためにも、シオニズムの希望をいわば「イチジクの葉」として利用しようとした。そしてバルフォア宣言の作成過程には、他ならぬサイクス自身も深く関わった。こうした思惑を含みつつ、17年10月のイギリス閣議決定を経て11月2日にバルフォア外相の名で出されたのがバルフォア宣言である。宣言は、「国王陛下の政府はパレスチナにおいてユダヤ人のための民族的郷土(ナショナル・ホーム)を設立することを好ましいと考えており、この目的の達成を円滑にするために最善の努力を行うつもりです」と述べていた。サイクス・ピコ協定なるものが存在していることを知らず、ましてやその協定での約束を修正しようとする思惑をイギリスが抱いていることなど知らないシオニスト側は、当然この宣言を大歓迎した。ただし、この宣言が発出された直後には、ロシアで11月革命(ロシア暦で10月革命)が起こり、ロシアでのユダヤ人勢力への考慮は意味をもたなくなった。一方、イギリスのパレスチナ統治に向けての動きと、ユダヤ人によるパレスチナでの国家建設に向けての動きの方は、着々と進んでいった。これが、1948年におけるイスラエルの誕生に、その後のパレスチナ・アラブ人の苦難に、そして現在のガザをめぐる悲惨な状況へとつながってきたのである。

(「世界史の眼」2023.11 特集号)

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パレスチナ問題の起源:第一次世界大戦期のイギリス三枚舌外交
木畑洋一
への2件のフィードバック

  1. 宇津木愛子 のコメント:

    大変に分かり易いご解説を有難うございます。初歩的は質問をさせてください。大学の入試にもイギリスの2枚舌外交もしくは3枚舌外交が出題されることがありますから ①中学もしくは高等学校で必ず教えられる世界史用語であると理解してよろしいでしょうか。私は宗教の高校(カトリックのミッションスクール)であったせいか、宗教関連の闘争に関しては教えていただけませんでした。

      ②2枚舌、3枚舌という用語は教育上、妥当と考えるべきでしょうか。奴隷貿易と同様にイギリスの負の遺産という教育法は正しいと判断するのが妥当でしょうか。

    • 木畑洋一 のコメント:

      宇津木愛子様
      ご質問ありがとうございました。本来私がきちんと考えておくべき内容で、それに気づかせていただいたことを感謝いたします。
      ①これは、②の点から、中高校で教えられるべき歴史用語であるとは考えておりません。
      ②2枚舌という日本語はよく用いられますが、明らかに非難、論難を含意する用語であり、使うときに注意を要する言葉であると考えます。3枚舌というのは、それに準じますが、この表現が用いられることはずっと少ないと思います。こうした言葉を使用する人間の意図は、その使用によってはっきり示されますが、生徒に自分で考える材料を与える教育の場に、そのままの形で提示することには、確かに問題があります。互いに矛盾する三つの約束があった、といった形で提示し、その意味を生徒に考えさせる余地を十分残しておくことの方がよいと思っています。

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