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「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える 8(2024年1月31日)

国際司法裁判所暫定措置命令

 2024年1月25日、国際司法裁判所は、昨年12月30日に南アフリカがイスラエルのガザ攻撃を「ジェノサイド」だとして訴えた件につき、暫定措置を命じた。裁判所は、南アがイスラエルに対して訴えた訴訟を、同裁判所が裁判する権利はないとするイスラエルの主張を退けたうえで、南アが裁判所に対しイスラエルに命じてほしいと訴えていた9件の措置につき、6件を認めて、イスラエルに対して命令を下した。日本のマスコミなどでは十分に報道されていないので、ここに諸項目をすべて知らせることにする。

1. まず、南アが求めていた9つの措置とは何かを見ておこう。

  1. ガザの内外における軍事行動を停止すること
  2. 軍事行動を現在以上に拡大しないこと
  3. 十分な食糧、水、燃料、避難所、衛生、公衆衛生の入手を認めること
  4. ガザにおけるパレスチナ人の生活の破壊を、心理的ダメージを含めて、防止すること
  5. ジェノサイドの申し立てを裏付ける証拠を破壊しないこと、また事実調査使節のような国際組織がこのような証拠を保存するためにガザにはいることを拒否しないこと
  6. ジェノサイド条約の規則を遵守すること
  7. ジェノサイドに関与した人々を罰するための措置をとること
  8. 事件を複雑化したり長期化させるような行動をとらないこと
  9. 以上の措置を実行する進捗状況を裁判所に定期的に報告すること

2. 以上の南アの要求にたいして、裁判所がイスラエルに命じた措置は6つであった。 

(a) イスラエルは、ジェノサイド条約第二条に規定された行為を防止するために可能なあらゆる措置をとらなければならない。その第二条というのは、以下のとおりである。

 この条約では、集団殺害とは、国民的、人種的、民族的又は宗教的集団を全部又は一部破壊する意図をもつて行われた次の行為のいずれをも意味する。

  • (a) 集団構成員を殺すこと。
  • (b) 集団構成員に対して重大な肉体的又は精神的な危害を加えること。
  • (c) 全部又は一部に肉体の破壊をもたらすために意図された生活条件を集団に対して故意に課すること。
  • (d) 集団内における出生を防止することを意図する措置を課すること。
  • (e) 集団の児童を他の集団に強制的に移すこと。

(これにはウガンダの判事とイスラエルの判事が反対した)

(b) イスラエルはその軍隊が上のいかなる行為も行わないように保証しなければならない。(これにはウガンダの判事とイスラエルの判事が反対した)

(c) イスラエルは、「ガザ地区のパレスチナ人にたいしジェノサイドを行わせる直接的・大衆的な扇動」を防止し罰しなければならない。(これにはウガンダの判事とイスラエルの判事が反対した)

(d) イスラエルは、ガザの民間人に基礎的なサービスと基本的な人道的援助を与えなければならない。(これにはウガンダの判事が反対した)

(e) イスラエルは、ガザにおける戦争犯罪の証拠を破壊することを防止し、事実調査使節が入ることを認めなければならない。(これにはウガンダの判事が反対した)

(f) イスラエルは、裁判所が求める処置を遵守するために執った措置を判決の一か月以内に報告しなければならない。南アフリカはその報告に反論する機会を与えられるものとする。(これにはウガンダの判事とイスラエルの判事が反対した)

 結局、この中間的判決では、南アが求めていた9つの措置のうち、1、7、8は採用されなかったわけである。また裁判所はこの判決を履行させる強制力は持っていない。したがって、次は国連安保理事会に付託されることになる。なおウガンダの判事は、イスラエルはジェノサイドを犯そうとは「意図」していないのであるから、この事件は国際司法裁判所の検討事項には当てはまらないと主張して6項のすべてに「反対」した。

https://www.aljazeera.com/news/2024/1/26/what-has-the-icj-ordered-israel-to-do-on-gaza-war-and-whats-next

                             (南塚信吾)

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アメリカの世界史研究の第一人者であるパトリック・マニングが自身のサイトに、現在のガザ危機について見解を載せ、各方面からのコメントを求めている。かれはアメリカ政府と、国連およびその後ろの国際世論とを対置させつつ状況を見ており、今回の南アによる国際司法裁判所へのジェノサイド訴訟と裁判所の判決に注目している。アメリカの良心的な立場を示すものとして、下のサイトでかれの意見をぜひご一読願いたい。そして、コメントも。

Who Rules the World Today? – Patrick Manning (patrickmanningworldhistorian.com)

(南塚信吾)

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「世界史の眼」No.46(2024年1月)

2024年最初の「世界史の眼」には、小谷汪之さんに、「奉天からの世界史」の(上)をご寄稿頂きました。今号を含め3回に渡り連載致します。また、世界史寸評として、南塚信吾さんに、「外から見た日本の平和:ヨハン・ガルトゥング再考」をお寄せ頂きました。

小谷汪之
奉天からの世界史」(上)

南塚信吾
世界史寸評 外から見た日本の平和:ヨハン・ガルトゥング再考

*  *  *

世界史研究所では、引き続き「「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える」と題して、この問題に関する論考を掲載しております。12月には4度にわたり掲載いたしました。

「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える4(2023年12月9日)

藤田進
イスラエル軍ガザ攻撃60日目の今

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「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える5(2023年12月13日)

油井大三郎
米国内で目立ち始めたイスラエル批判の動向

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「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える6(2023年12月20日)

木畑洋一
イスラエル批判と反ユダヤ主義

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「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える7(2023年12月23日)

藤田進
戦争の裏に天然ガスあり

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奉天からの世界史(上)
小谷汪之

はじめに
1 奉天におけるキリスト教布教
 (以上、本号)
2 内藤湖南と奉天
 (次号)
3 夏目漱石と奉天
4 中島敦と北陵
おわりに
 (以上、次々号)

はじめに

 奉天(現在の中国遼寧省瀋陽)は清朝の始祖ヌルハチが1625年に首府とした古都である。1644年3月、反乱を起こした李自成軍が北京を占拠して明朝を滅ぼしたが、5月清軍が李自成軍を破って北京に入城した。その後清朝が北京を首府とすると、奉天は陪都となったが、ヌルハチおよび第二代太宗ホンタイジの墓陵の地として重要な位置を占め続けた。なかでも太宗ホンタイジの墓陵である昭陵(通称、北陵)は近代になってもいろいろな人たちが訪れて、記述を残している。本稿では、19世紀末から20世紀前半の昭陵(北陵)にかんするいくつかの記述を追いながら、奉天という小さな窓から見える世界史を描いてみたいと思う。なお、以下では北陵という通称を用いる。(戦前の文献からの引用では、旧字体を新字体に、適宜片仮名を平仮名に改めた。また、読みやすくするために、句読点を補い、ルビを付した。)

1 奉天におけるキリスト教布教

(1)キリスト教布教の開始

 満洲、特に奉天は19世紀から20世紀前半、キリスト教の布教が進展した地域のようである。奉天における最初の宣教団はフランスのカトリック宣教団で、1838年に布教活動を開始した。次いで、1876年にスコットランド長老教会の宣教師が何度も奉天を訪れ、時には長期に滞在して布教活動を行った。1883年、スコットランド長老教会から派遣されたドュガルド・クリスティー牧師が奉天に入り、布教活動を本格化させた。クリスティーは外科・内科の医療活動を通して布教を進める伝道医師であった。彼の奉天在住は1922年までの約40年に及んだが、『奉天三十年』(Thirty Years in Moukden, being the experiences and recollections of Dugald Christie, London, 1914. 矢内原忠雄訳、岩波新書、1938年)という著書に1912年までの体験を書き残している。

 クリスティーらスコットランド長老教会の宣教師たちは、奉天で教会や病院を建てる土地を入手するのに苦労したが、最終的には奉天城東南の外壁に沿った「小河沿」(「小さな河のほとり」。図1参照)と呼ばれる地域に敷地を購入することができた。この地について、クリスティーは次のように書いている。

 市街の東南、繁華な通りから遠くない所に、小河沿といふ、流れの緩い、殆んど湖水のやうな静かな河がある。夏にはその岸辺は散歩遊楽の人々の好んで訪れる処であり、多くの茶店でしゃべったり茶を啜ったりして、水に浮かぶ葉の広い美しい紅蓮の花を眺め、奉天第一の良き空気を吸ふのである。我々は幸運にもこの流れを瞰下みおろす高台に二つの屋敷を手に入れた。我々の立場より見て、病院の敷地としてこれ以上に良好なる場所は奉天中になかった。其処にあった建物は病室に利用することとし、全然新しく且つ設備の整った診療所を正面に建てた。病院は1887年(明治二十年)、我々の友人たる満洲族の大官兵部尚書によりて正式に開院せられ、奉天の主だちたる官吏多数が列席した。同じ日に基督キリスト教徒の熱烈なる集会が、約百五十名を容れる待合室で開かれた。病院は百名の男と五十名の女に対する収容能力を有した。(『奉天三十年』上巻、14-15頁)

 この小河沿という地は奉天の東南を東北から南西に流れる渾河こんがの支流である万泉河に沿った地域で、奉天の外壁を作るときに流れを妨げないためにその流入部と流出部だけ外壁を木組みにしたものである。当時、奉天随一の遊楽地、歓楽地として賑わっていた。その小河沿の高台に病院を建てることができたのであるから、スコットランド長老教会宣教団にとって「幸運」なことであったのは確かである。

 その頃の北陵について、クリスティーは次のように書いている。

 市の北方数マイル、広々とした草原を行けば、奉天附近の田舎の単調無味を償うて余りある一地劃――樹間深く埋もれた努爾哈赤ヌルハチの子の墓(北陵)がある。外周は純然たる野生の森であって、迂曲せる小径は野花、密林、空地を縫うて、どこに出られるとも思われない。六月の午後、かしわや樺の生き生きとした若緑に反映して白い樹の花や地に尾を曳く風車の花は驚くべき美を放ち、緑と白とを透かして靑空は一層靑に輝き、日光は小暗き影の中に参差たる光を落す。〔中略〕樹の間がくれに墓を繞らす鮮やかな丹塗の塀が輝き、中なる黄色の瓦の屋根が一寸見える。この矩形を成せる外囲の南に、浮彫に刻んだ白色の大理石の拱門アーチが一つ立って居り、その背後に正門があるがこれは閉ざして誰も入れない。〔後略〕

 多年の間、側門も亦固く閉鎖されて、此処に住む満洲族の警吏の外は何人も此の聖域の内部を窺ふことを得なかった。現在では〔1912年のことか? 引用者〕東と西の門が開かれて居り、一方の門から他方の門迄アーチ形を成した松並木の通路が通って居る。〔後略〕

 閉鎖されて居る南門から石を舗いた広い道が内苑に通じて居り、その両側には大きい石彫の動物が並んで居る。

 内苑の門は通過證パスの所持者か、もしくは墓の監視人を知っている者にでなければひらかれない。〔中略〕すべての最奥の処に、一つの大きな円形の草した土盛りがある。これが即ち〔太宗ホンタイジの〕墓であって、その頂に一本の樹が生えて居る。(『奉天三十年』上巻、23-25頁)

(2)日清戦争と奉天

 スコットランド長老教会宣教団の活動はすべりだしは順調だったのだが、その後数度にわたって大きな困難に直面することになった。その第一は日清戦争(1894~95年)であり、次は義和団事件(1900年)、そして第三には日露戦争(1904~05年)であった。

 1894年7月、豊島沖の海戦で日清戦争が始まると、奉天からも左宝貴将軍に率いられた奉天部隊が陸路、朝鮮に向かった。左宝貴軍は他の四つの清軍部隊と共に平壌の防衛に当たることになった。9月15日、日本軍は平壌を守る清軍に対して総攻撃をかけた。一方、清軍側は各部隊の連絡が取れず、個々バラバラに戦うという状態であった。その中で、左宝貴が銃弾を受けて戦死すると、左宝貴軍は算を乱して平壌から撤退した。清朝の他の部隊も撤退し、翌日には日本軍が平壌を占拠した。

 左宝貴軍敗退の報が奉天に届くと、人々は日本軍の奉天攻撃を恐れて、奉天北方や東北方面の山岳部に避難しようとした。スコットランド長老教会宣教団は南方、遼河が遼東湾に入る河口に近い開港場である「牛荘」(本当の牛荘ではなく、実際には営口。イギリスは1858年の天津条約との関係で、営口を「牛荘」と呼び続けた)に避難することになり、10月28日、クリスティーも奉天を退去して、「牛荘」に向かった。「牛荘」には他の宣教団がいくつもあったので、12月、協力して赤十字病院を開設し、戦傷者の治療などに当たった。1895年3月7日、日本軍は「牛荘」を攻撃し、小規模の市街戦の後、これを占拠した。しかし、それによって宣教団の活動が妨害されるということはなかった。1895年4月17日、日清講和条約が調印され、日清戦争は終結した。これにより、7月、クリスティーらは奉天に戻った。奉天は戦火に見舞われることもなく、各キリスト教団の教会や病院はすべて無事であった。

(3)義和団と奉天

 しかし、1900年の義和団事件では、奉天のキリスト教宣教団やキリスト教徒は多大な被害を被った。1900年6月、義和団は北京に入り、清国兵と共に各国公使館を攻撃、日本公使館の職員1名とドイツ公使が殺害された。6月19日、西太后は義和団を支持し、列強と戦うことを決定、21日、列強に対して宣戦布告した。その頃、奉天にも義和団の首領が何人か来て、団員の徴募を始めた。6月20日、「外国人を口穢く悪罵した貼紙が到るところに貼りだされ、すべての忠良なる支那人民は蹶起して彼らを国土より掃蕩せよ、と呼びかけられた。二十四日が建物焼打の日と定められ、それに助勢した者には賞金が約束された」(『奉天三十年』上巻、182頁)。

 こういう騒然たる情勢の中、6月23日、スコットランド長老教会宣教団はクリスティーら3人を残して、奉天を退去し、25日にはクリスティーらも「牛荘」に退避した。30日、クリスティーは奉天に残っていた中国人医師からの次のような電報を受け取った。「本日四時頃教会が焼かれた。病院と住宅とが燃えつつある。牧師の生死、並に殺された信者数不明」。その翌朝には、「男子病院、婦人病院、住宅、聖書協会の建物、教会、礼拝堂、すべて拳匪〔義和団〕のため灰燼に帰した」という電信があった(『奉天三十年』上巻、187頁)。

 その後、「牛荘」も危険になったため、スコットランド長老教会宣教団は日本、上海、本国(スコットランド)などに四散した。クリスティーは日本に逃れ、2カ月ほど滞在した。

 この頃、奉天では、クリスティーは奉天市外の北陵の森の中に潜んでいるという噂が立った。病院で治療を受けたことがある中国人馬商人で、普段はぺてん師のならず者でとおった男が、さまざまな食料品を一杯籠に入れて、密かに北陵の森の中を一日中クリスティーを探しまわった。外国人を助けたことが知られると殺されるのであるから、彼は命の危険を冒してそうしたのである(『奉天三十年』上巻、73-74頁)。当時、北陵を取り囲むうっそうとした森は身を隠したい人が隠れる絶好の場所と考えられていたのであろう。

 他方、8月14日、日・露・英・独など8カ国連合軍が北京に入城し、翌15日、光緒帝は西太后と共に西安に蒙塵(逃亡)した。これにより、清国政府の義和団に対する対応が一変し、9月7日、義和団鎮圧令が出された。奉天でも、清国軍が義和団の弾圧に当たり、10月1日にはロシア軍も奉天に入って、治安が回復された。しかし、この間に奉天のキリスト教会のすべてが破壊され、多くの中国人キリスト教徒が殺害された。特に、フランスのカトリック宣教団は数百人の中国人信徒とともに頑丈な壁で囲われた教会の敷地に立てこもり、武装して抵抗したが、最後には大砲で攻撃されて、全滅した(『奉天三十年』上巻、191-193頁)。クリスティーは11月9日、肌を刺す寒気の中奉天に帰ったが、とても布教活動や医療活動をできる状態ではなかったので、2、3週間後には「牛荘」に戻り、その後一時スコットランドに帰国した。

(4)日露戦争と奉天

 1904年2月、日露戦争が始まり、5月には日本軍が遼東半島に上陸、満洲に戦火が拡がっていった。8月末には遼陽が主戦場となったが、9月4日、ロシア軍が遼陽から北方に退却し、日本軍が遼陽に入った。10月には遼陽と奉天の間の沙河で日露両軍が対峙し、戦局は膠着状態になった。翌1905年2月末、ロシア軍は奉天南方の日本軍に攻撃をかけようとした。それに対して日本軍が先手を打ってロシア軍陣地を攻撃したことから、奉天会戦と呼ばれる戦闘が始まった。3月1日、日本軍は奉天に総攻撃をかけ始めた。ロシア軍は北陵の森を占領していたので、8日には、北陵の森でも激しい戦闘があった。9日、ロシア軍は余力を残しながらも、戦闘態勢の整備のために、北方の鉄嶺さらにはハルビンへと退却することになった。10日、日本軍が奉天に入った。

 これらの満洲における日露両軍の戦闘は人々の生活を大混乱に陥れた。奉天には周辺の村々から戦火に追われた人々が大量に流入し、物価や家賃が数倍に高騰した。しかし、日露戦争にかんして局外中立の立場をとる清国の行政機関が曲がりなりにも機能していたこともあり、義和団事件の時のような極端な治安の乱れはなかった。

 クリスティーは日露戦争が始まった時、中国の天津に行っていて、すぐには奉天に戻れなかったのであるが、日本軍が遼陽を占領した後の1904年9月9日、混乱するロシア軍の間を縫うようにして、奉天に戻った。クリスティーはこの間の奉天の状況を次のように書いている。

 一九〇五年(明治三十八年)の始めの三箇月間に、我々は一万人以上、政府は三万八千人以上の人を助けた。始めから終り迄の間に、奉天に来た避難民は約九万人と推定せられ、この外新民屯その他に逃げた者も何千人とあった。

 これらの群衆に住居を与えるのは容易な問題ではなかった。しかし、冬に一晩露天で寝ることは多数の者に取りて死を意味したから、最も間に合わせの設備でも感謝を以て迎へられた。我々は、要求せられたら家賃を払うことにして、所有者の逃げ去った一二の大きい空屋敷を占領した。焼け跡となった我々の病院の屋敷内には約七百人を収容した。(『奉天三十年』下巻、252頁)

 当時に於ける奉天の衛生状態が良くなかったことは、想像するに難くないであろう。流行病が頻りにあった。小児の多数ゐる我々の収容所では、麻疹、水痘、猩紅熱が絶え間なくあり、更に天然痘の流行があって多くの小児の生命を奪った。チフス患者のためには別の屋敷を宛てたが、その他の病気に対しては隔離は不可能であった。腸チフスの流行は、それの起り得べきあらゆる条件があったに拘わらず、幸にも見ないですんだ。(『奉天三十年』下巻、254頁)

 日露戦争は奉天にまで戦火を及ぼしたが、奉天のキリスト教医療宣教団は、義和団事件の時とは異なり、日露戦争中も戦後も医療活動を継続することができたのである。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.46)

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世界史寸評
外から見た日本の平和:ヨハン・ガルトゥング再考
南塚信吾

 わたしたちの著した『軍事力で平和は守れるのか』(岩波書店、2023年)でも紹介したように、1959年にオスロ平和研究所を創設して「平和学」の祖と言われるヨハン・ガルトゥングは、1958年に、平和を定義して、武力紛争など「直接的暴力」を克服することによって達成される「消極的平和」と、社会構造に生じる貧困や差別などの「構造的暴力」を克服することによって達成される「積極的平和」を分けることができ、とくに後者の平和が重要になってきていると主張した(かれの積極的平和の概念は、安倍元首相の「対米追従」の積極的平和主義と用語は似ているが内容は大いに異なるものであり、ガルトゥング自身、「印象操作」だと批判している)。そのガルトゥングは、2017年に『日本人のための平和論』(ダイヤモンド社)という著書を著している。この書において、ガルトゥングは、日本における平和論が「外から」はどのように見えているのかを示してくれている。同書については、すでに法律家の大久保賢一氏らの紹介がある(ヨハン・ガルトゥング著『日本人のための平和論』を読む (hankaku-j.org))が、歴史学の面からも検討されてよいと考える。

***

 ガルトゥングはまず、日本の安全保障観が「外から」どのように見えているのかを、以下のように指摘している。筆者の観点から少し断定的にまとめてみた。

  1. 日本は外からは完全にアメリカの「従属国」であり、「占領」下にある「植民地のレベル」にあると見られている。日本は「対米追従」をやめて、アメリカから「真に独立」すべきである(『日本人のための平和論』14-16、115-116、122ページ)。 
  2. 米国は日本の憲法第9条も邪魔だと考え始めている。日本国憲法は、もともと米国が統治しやすいように「押し付けた」ものだが、米国は、第9条がなくなれば、いまや変化した米国の世界戦略に日本を有効に使えると考えている(14-15ページ)。一方、「憲法9条があるために、これまで日本では現状を変えるための平和政策が生まれてこなかった。ほとんどの日本人は9条がすべて面倒を見てくれると信じ、代替案が必要などと考えもしなかった」。「いざとなったら憲法9条が守ってくれる。その発想がいまの日本を危うくしているのではないだろうか。」という(223-224ページ)。
  3. 沖縄は「琉球処分」の前に戻って、「自立」すべきである。例えば、日本の中の「特別な地位」を認められるべきである。そして、沖縄の米軍基地は全廃すべきである(40-43ページ)。
  4. すべての米軍基地を日本から撤退させればいい。日本は米軍基地などなくても安全を確保できる。米国は基地と主要兵器を各国の中心から離れた周辺に置いているが、日本ではそうではない。そういう基地がない方が創造的な平和政策が実施しやすくなる(33-35ページ)。
  5. 国を守るためには、外交努力だけでなく武力による防衛も必要である。だが、日本は攻撃的な武器を持たず、徹底して「専守防衛」を維持すべきである。とくに長距離兵器を持たないなどの原則を立てるべきである(44-53、120-121ページ)。これに関連して、原子力発電とも決別すべきである(125-128ページ)。
  6. 尖閣、北方4島などは関係各国の「共同所有・管理」にするのがよい(61-63、116-118ページ)。
  7. 中国の考え方を理解すべきである。向こうから戦争してくることはあり得ない。中国はこれまで一度も日本本土を攻撃したことがない。中国は自分の文明を他より優れていると考えて、傲慢かもしれないが攻撃的ではない。むしろ防御的である。中国はヨーロッパ諸国や米国と違って、軍事力をひっさげて広大な世界に進出したことはない。中国に日本を攻撃する意図があるとは思えない。日本人は、「私たちは彼らを攻撃したことがある。彼らは報復を計画しているに違いない。ゆえに彼らは危険だ」というパラノイアを懐いているのだ(74-80ページ)。 
  8. 北朝鮮とは「和解」のチャンスはある。日本が植民地支配と戦争中に与えた損害にたいして政府が明確な「謝罪」をし「補償」をすれば一歩前進する。「慰安婦問題」については、北朝鮮は韓国ほどヒステリックではない。「拉致問題」は日本が戦争中までに行った強制労働などへの「単純な復讐」なのである。北朝鮮の核保有は「抑止力」のためであり、国力の誇示のためである。経済制裁はまったく「逆効果」である(91-100,245-259ページ)。北朝鮮が望んでいるのは、平和条約締結、国交正常化、核なき朝鮮半島である(119ページ)。
  9. 日本は関係各国と歴史的事実を共同で確定し、「和解」を探るべきである。慰安婦問題、南京事件、真珠湾攻撃、原爆投下問題について、関係国とこれを行うべきである(101-114ページ)。
  10. 「東北アジア共同体」を構想するべきである。そこには中国、北朝鮮もメンバーにはいるべきである。諸国間の緊張・対立はアメリカを利するだけである(118-120ページ)。

 要するに、日本は「対米追従」をやめて、近隣アジア諸国と対話し、独自の外交と防衛の政策を追求すべきであるというのである。

***

ガルトゥングは、以上のような指摘をしたうえで、次に、アメリカの対日政策について、以下のように言う。

  1. 米国が他国に行う軍事介入の目的は、テロとの戦いのためでも、人権や民主主義の擁護のためでもなく、覇権主義の行使であり、経済的利益の確保なのである(28ページ)。
  2. こういう覇権主義を進めるアメリカは頼れる仲間を次第に失いつつある。中南米、ヨーロッパで足場を失いつつある。そして、今や中国の挑戦を受け始めている。そういう時、「この手詰まりを打開するために日本を使おうとしている」のだ(30ページ)。
  3. 米国は日本に対し、ただ米国に守られているだけでなく、米国とともに戦闘に参加させる必要があると考えている。そのためには憲法第9条は邪魔だと考えている(14-16、36.ページ)。
  4. 日本が他国に攻められたとしても、米国が日本を助けに来るとは思えない。そのことは強く疑うべきである(36ページ)。
  5. 「核の傘」などということは信じられない。米国が日本を守るために中国と核戦争に突入するリスクを取るということは信じられないことである(36-37ページ)。
  6. いま多くの日本人は、米国に守ってもらわなければ日本の安全は守れないのではないか、そのためには「集団的自衛権」を行使して米国に協力しなければならないのではないか、日本はテロとの戦いに参加する道義的義務があるのではないか、と思っているように見受けられる。「集団的自衛権」は日本を守るどころか、日本の安全を脅かすものでしかない。それは日本をより危険な状況に陥れる。「集団的自衛権」は、全くのナンセンスであり、プロパガンダである。それは軍事同盟であり、「米国による他国攻撃に参加する権利」なのである(16-18ページ)。
  7. 中国や韓国の人々は、米国と、米国に動かされる日本の「タカ派」を恐れている。日本は、他国からは、それほど「安全な国」だとは見られていない、むしろ「危険な国」と見られていることを自覚しておく必要がある(21-23ページ)。

***

 ガルトゥングが示すこのような「外から」の見方によって、われわれは自分の置かれている場所を見つめなおすことができるのではないだろうか。われわれのかなりの人は、日本は平和憲法を持っている平和な国民なのであり、さらに日米同盟によりアメリカに守られているのだと、思っているかもしれない。ガルトゥングは、「外から」見れば、それは「幻想」だというのだ。

 しかし、われわれはそれを「幻想」と言われると反発する。それは、われわれの思考があまりにもアメリカべったりになっているからではないだろうか。いったい、日本はいつからこのようにアメリカべったりになったのだろうか。

 考えるに、1950年代-70年代においては、日本はアジア諸国や社会主義圏との関係も尊重して、ある程度自分たちの行方を模索していたのではなかろうか。1955年のバンドン会議、56年の対ソ交渉、1972年の日中国交回復などを見ればわかるだろう。十分な検証が必要ではあるが、転機は1979年頃ではなかろうか。「日米同盟」という用語が使われ始めたのは、1979年ごろからである(冨田佳那「「日米同盟」言説の出現」『慶應義塾大学大学院法学研究科論文集』2019)。それが既成事実となり、大義になり、日常になる。1980年代の中曽根・レーガン時代はそうであった。そして、今やわれわれの思考はあまりにもアメリカべったりになってしまっている。政治だけでなく、文化もメディアもそうである。歴史学もそうでないといいのだが。ガルトゥングの言う事は、日本はもっと創意工夫をした外交と安全保障の政策を追求すべきだということであろう。なお、「対米従属」がもたらす諸問題については、最近出た内田樹・白井聡『新しい戦前』(朝日新書、2023年)でも論じられている。

(本論での出典は、ヨハン・ガルトゥング著 御立英史訳『日本人のための平和論』ダイヤモンド社、2017年―Johan Galtung (with Miguel Rivas-Micoud), People’s Peace: Positive Peace in East Asia & Japan’s New Role, Tuttle-Mori, 2017)

(「世界史の眼」No.46)

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