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「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える 9(2024年2月4日)

「イスラエル批判と反ユダヤ主義」その後

 2023年12月20日付けの本特集6に寄稿した「イスラエル批判と反ユダヤ主義」において、大学内におけるイスラエル批判の運動への対応をめぐって、米国の連邦下院での公聴会で共和党右派議員による批判の的となった3人の学長の内、ペンシルヴァニア大学の学長が辞任に追い込まれたことに触れたが、その後24年1月2日に、さらにもう一人、ハーヴァード大学のクローディン・ゲイ学長も辞任を発表するに至った。その前日には、保守派のオンラインジャーナルにゲイ学長の論文についての盗用疑惑が報じられたというタイミングであったが、辞任決意はそれ以前になされたと報じられており、イスラエルのガザ侵攻をめぐる大学内の情勢がこの事態をもたらしたことは明らかである。

 ゲイは、ハイチ系の移民家庭に生まれた黒人女性であり、スタンフォード大学を経てハーヴァードで教鞭をとり、昨年9月にハーヴァードで初の黒人女性学長となったばかりであった(女性学長は2007年~18年のファウスト学長が初)。9月末の就任演説で、彼女は「いま私の立っているところから400ヤードも離れていない地点で、約400年前、4人の黒人奴隷がハーヴァード大学学長の所有物として暮らし働いていました」と語りはじめたという(就任式に列席した巽孝之慶應義塾ニューヨーク学院長の報告から)。人種差別、人種主義をめぐる問題がなお渦巻いている米国で、その最有力大学の学長にこうした彼女が就任することの意味は大きいと考えられていた。そのゲイを辞任に追い込んだ反ユダヤ主義をめぐる社会的・政治的文脈について考える上でも、ヨーロッパ、とりわけドイツにおける状況は重要な意味をもつ。今回の特集には、その問題に切り込んだ木戸衛一氏の論考を掲載する。

(木畑洋一)

木戸衛一
ドイツの内なる植民地主義?

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ドイツの内なる植民地主義?
木戸衛一

はじめに

 パレスチナ・ガザ地区を実効支配するハマスがイスラエルを奇襲攻撃した2023年10月7日以降、ドイツはかたくなにイスラエル支持の姿勢を貫いている。苛烈を極める同国の軍事攻撃にも、原因はあくまでハマスにあるとの立場を崩していない。圧倒的に非対称的なイスラエル・パレスチナ関係への歴史的視座を欠いた一面的な言説は、「ホロコーストへの反省」では説明しきれない植民地主義的深層心理を感じさせる[1]

1.「無制限の連帯」と「国是」

 「10・7」以降、ドイツはイスラエルへの「無制限の連帯」の声で覆われた。10月12日の所信表明演説で「イスラエルの安全はドイツの国是だ」と述べたオラーフ・ショルツ首相は、5日後、事件後外国首脳として最初にイスラエルを訪問した。

 10月27日および12月12日、戦闘停止を求める国連総会決議に、ドイツはいずれも棄権した。メディアでは、なぜ決然と反対を貫かなかったのかと政府の弱腰を糾弾する声が響いた。

 だが、ドイツは弱腰どころか、熱心にイスラエルに武器を送っている。2023年の11月2日までに、ドイツは前年全体の10倍に及ぶ3億300万ユーロの武器輸出を承認した。1月16日『シュピーゲル』誌の報道では、戦車の弾薬の供与まで検討されているという。

 そもそもドイツは世界有数の武器輸出国である。2023年3月13日、ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)の報告によれば、2018~22年にドイツは世界全体の武器輸出の5.2%を占め、米国(40%)、ロシア(16%)、フランス(11%)、中国(5.2%)に次ぐ第5位であった[2]。その供給先は、エジプト18%、韓国17%、イスラエル9.5%の順となっている。

 去る1月25日、アムネスティ・インターナショナル、オックスファム、セーブ・ザ・チルドレンなど16の国際団体が、イスラエルとハマスの紛争終結を目的に、世界各国に双方への武器や弾薬の供与を停止するよう求める共同声明を発表したが、その声は残念ながらドイツの政界・経済界には届かないであろう。

2.「反ユダヤ主義」によるイスラエル批判の封殺

 ベルリンの「反ユダヤ主義調査・情報協会」(RIAS)によれば、「10・7」から11月9日までの間にドイツでは、994件の反ユダヤ主義事件が確認された(内訳は極端な暴力3件、攻撃29件、器物損壊72件、脅迫32件、大量のメール送信4件、侮辱的態度854件)[3]。ユダヤ教施設やユダヤ系市民への暴力・嫌がらせが非難されるのは当然だとしても、ドイツでは、国際人道法上の原則から逸脱したイスラエルの軍事行動に対する批判ですら、「反ユダヤ主義」のレッテルを貼られ封殺される。そして、イスラエルに関連して「植民地主義」や「アパルトヘイト」を語ることすら、「反ユダヤ主義」の疑いをかけられるのである。

 近代ドイツにおける反ユダヤ主義は、1879年、ヴィルヘルム・マルによる反ユダヤ連盟の結成に端を発するが、宗教に加え文化・経済・社会背景を持ったユダヤ嫌悪・迫害は中世にまでさかのぼることができ、「反ユダヤ主義」の定義は一筋縄ではいかない。RIASがまとめた「10・7」以降の反ユダヤ主義事案(antisemitische Vorfälle)の政治的背景には、反イスラエル行動主義(antiisraelischer Aktivismus)が21%含まれているが、「反ユダヤ主義」と「反イスラエル」の概念の違いは全く分からない。

 結局今日「反ユダヤ主義」は、イスラエル国家への批判をあらかじめ封じ込める「道徳的棍棒」として道具化されている。2024年1月19日、ドイツ連邦議会は、新しい国籍法を可決した。それにより、ドイツ国籍を取得可能な滞在期間が従来の8年から5年(特別な場合は3年)に引き下げられ、二重国籍も原則認められるようになったが、他方国籍付与の条件として、自由で民主的な基本秩序への信奉に「反ユダヤ主義、人種差別主義ほか、人間蔑視の動機による行為」が相容れないことが明記された。つまり、イスラエルを批判したことで、10年以内に国籍付与が撤回されることも考えられるわけである。

3.南アフリカの国際司法裁判所提訴への侮蔑的反応

 2023年12月29日、南アフリカは、イスラエルがガザ地区のパレスチナ人に対しジェノサイドを犯していると国際司法裁判所(ICJ)に提訴した。かのネルソン・マンデラ大統領は1997年12月4日、「我々は、パレスチナ人の自由がなければ自分たちの自由が不完全なことをよく知っている」と演説したが[4]、提訴は彼の遺志を継ぐだけでなく、これまで「先進国」にいいように差配されてきたグローバルサウスを代弁する行為と言えよう。

 翌年1月11日に審理が始まり、南アフリカがICJに対し、イスラエルにガザでの軍事作戦の即時停止を命じるよう要請すると、「ドイツの歴史とショアーの人道に対する罪に照らして、ジェノサイド条約に特別に結びついている」と自負するドイツは、その「政治的利用に断固反対」し、提訴は「いかなる根拠も欠いてい」て「断固かつ明確に拒絶する」と、イスラエルを全面的に擁護する声明を発表した[5]

 それにしても、ドイツはよく臆面もなく、南アフリカによるジェノサイド条約の「政治的利用」を非難できたものである。1990年10月3日の「ドイツ統一」の実態は西独による東独の吸収合併であることから、国家分断時代の歴史は、「勝者」である西独の見方で語られがちである。だが、冷戦時代西独が、反共の防波堤として数々の軍事独裁政権を支持、人権侵害に加担すらした事実は看過できない。

 アパルトヘイト体制の南アも、その一例である[6]。なにしろ、1966~78年首相を務めたバルタザール・フォルスターが第二次大戦中ヒトラー信奉者として逮捕され、1950年人口登録法がナチ・ドイツの人種差別規程を雛型にしたように、戦前も戦後もナチズムは南アフリカに、少なからぬ人的・イデオロギー的影響を及ぼしていたのである。

 ドイツの「新植民地主義的傲慢」(ゼヴィム・ダーデレン連邦議会議員)に刺激されて、奇しくもちょうど120年前、「ドイツ領南西アフリカ」下でナマ人へのジェノサイド開始を経験したナミビアのハーゲ・ガインゴブ大統領は、「ドイツが国連のジェノサイド条約への道義的支持を表明しながら、同時にガザにおけるホロコースト・ジェノサイドと同等のことを支持することはできない」のであり、「その残酷な歴史から教訓を引き出すことができない」ことを強く批判した[7]

 1月26日、ICJは南アフリカの提訴を却下せず、イスラエルに軍事作戦の停止は求めなかったものの、ガザにおける200万人もの故郷からの追放、2万5000人もの殺害という現実を踏まえ、「法廷は、この地域で起きている人道的悲劇の大きさを痛感しており、人命の損失と人的被害が続いていることを深く憂慮している」(ジョーン・E・ドノヒュー議長)とし、判決を言い渡すまでの間、住民の大量虐殺などを防ぐためあらゆる手段を尽くすよう暫定的な措置を命じた。裁判所に強制的な執行力はなく、イスラエルのネタニヤフ首相もこの決定を拒絶する姿勢を明らかにしたが、ドイツ政府のコメントは確認できない。

 1月12日の声明でドイツは、ICJ規定第63条に則り、第三国として審理に参加する意向を示していた。事実2022年9月5日には「自らの歴史に基づき」(”given its own past”)ロシアに対するウクライナでのジェノサイド審理[8]、翌年11月15日、ガンビアが提起したミャンマーに対するジェノサイド審理に参加している[9]

 だが今回ドイツは、むしろICJが提訴を却下するのを期待していたのではないか。1月26日の裁定を踏まえ、ドイツは一体どのように第三国として今後の審理に関わろうというのであろうか。

おわりに

 第一次大戦に敗れ植民地を放棄したことから、ドイツがそれまで英仏に次ぐ植民地大国だったことを知るドイツ人は、必ずしも多くない。近年BLM運動の高揚や、ナミビアとの補償問題、カメルーン(「ドイツ領西アフリカ」)への美術品返還を通じて、ようやくドイツ植民地主義の問題が人々に意識されつつあると言える。

 今日ドイツが成熟した民主主義国家であることは、誰も否定しないであろう。だが、「イスラエルは民主主義国で、非常に人道的な原則に導かれている」(2023年10月26日、ショルツ首相)とその軍事行動を支持する時、そこには文明と野蛮、民主主義とテロリズムという対立図式が明瞭に見て取れる。植民地を手放して100年余り、グローバルサウスが発言力を増す中、この国はどこか「使命感に基づいて支配を正当化する教条[10]」に固執しているのであろうか。


[1] 本稿1.および2.について、詳しくは拙稿「ドイツはどこへ行くのか」(2023年12月24日)参照。https://www.peoples-plan.org/index.php/2023/12/24/post-865/

[2] https://www.sipri.org/sites/default/files/2023-03/2303_at_fact_sheet_2022_v2.pdf

[3] https://report-antisemitism.de/monitoring/

[4] http://www.mandela.gov.za/mandela_speeches/1997/971204_palestinian.htm

[5] https://www.bundesregierung.de/breg-de/suche/erklaerung-der-bundesregierung-zur-verhandlung-am-internationalen-gerichtshof-2252842

[6] https://zeithistorische-forschungen.de/2-2016/5350?language=de

[7] https://www.dw.com/de/namibia-deutschland-lernt-nicht-aus-der-geschichte/a-68034829 なおドイツ外務省は2021年5月28日、当時のドイツの行為をジェノサイドと認め、「再建・開発」プログラムに合計11億ユーロ支払うことでナミビア政府と合意したと発表したが、当事者であるヘレロ人・ナマ人の合意を未だ得られていない。

[8] https://www.lto.de/recht/hintergruende/h/warum-deutsche-intervention-in-ukraine-russland-igh-voelkerrecht-voelkermordkonvention/

[9] https://www.auswaertiges-amt.de/de/newsroom/-/2632016

[10] ユルゲン・オスターハメル『植民地主義とは何か』論創社、2005年、37頁。

(「世界史の眼」2024.2 特集号9)

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「世界史の眼」No.47(2024年2月)

今号の「世界史の眼」には、小谷汪之さんに、連載中の「奉天からの世界史」の(中)をご寄稿頂きました。また、木畑洋一さんに、「世界史のなかのインパール作戦・ビルマ戦争」をお寄せ頂いています。

小谷汪之
奉天からの世界史」(中)

木畑洋一
世界史のなかのインパール作戦・ビルマ戦争

*  *  *

世界史研究所では、引き続き「「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える」と題して、この問題に関する論考を掲載しております。

「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える8(2024年1月31日)

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奉天からの世界史(中)
小谷汪之

はじめに
1 奉天におけるキリスト教布教
 (以上、前号)
2 内藤湖南と奉天
 (本号)
3 夏目漱石と奉天
4 中島敦と北陵
おわりに
 (以上、次号)

2 内藤湖南と奉天

(1)内藤湖南の第一回奉天行

 1902年10月1日、後に著名な東洋学者で京都帝国大学教授になる内藤湖南(この時はまだ大阪朝日新聞社に在籍)は神戸から大連丸に乗船して、中国訪問の旅に出た。旅順、大連などを訪れた後、東清鉄道でハルビンに直行し、その後、ハルビンから同線で南下して、10月21日、初めて奉天で下車した。この時、奉天は義和団事件から2年以上が経ち、治安には全く問題がなかったようである。ただ、満洲全体がそうだったのだが、奉天でもロシア軍の勢力が強く、何かと制約されることはあった。また、当時の奉天には日本人経営の旅館やホテルなどはなかったようで、宿泊先を探すのにも苦労した。結局、知り合いを介して紹介された中国人の私宅に泊めてもらったり、「極めて不潔な」「支那旅店」に泊まったりした。

 10月23日、内藤湖南は知人二人と共に北陵を訪ね、その帰路、「御花園長寧寺」で清朝第二代太宗ホンタイジ愛用の弓矢を観た。その後、「黄寺」に行き、「一僧と話し明日満蒙二蔵を観ることを約す。帰途白大喇嘛ラマに逢い又後楼の蒙蔵を観ることを約す」。(内藤湖南「禹域鴻爪後記」『内藤湖南全集 第六巻』筑摩書房、1972年、356頁)

 この時、内藤たちが北陵のどこまで入ることができたのかということについては、内藤が何も書いていないのでよく分からない。その後訪れた「御花園長寧寺」というのは北陵から奉天市街に戻る途中にあるチベット仏教の寺で、もともとは太宗ホンタイジの「御花園」であったが、ホンタイジの死後、それを改修して、長寧寺という寺にしたものである。したがって、ホンタイジゆかりの品が蔵されていたのである。他方、黄寺という寺は皇寺ともいわれるが、正式名は実勝寺という(黄寺の名は寺の屋根瓦が黄色であることによる)。1636年、太宗ホンタイジは内モンゴルを支配下に収めて、国号を大清と改めた。黄寺はそれを記念して建てられたチベット仏教寺院で、北陵へと北上する道の起点にある(図1参照)。黄寺は満洲やモンゴル地方のチベット仏教の中心をなす大寺で、その経蔵などには各種の仏典が収蔵されていた。内藤はそれらの仏典を観ることを大きな目的としていたのである。

 10月24日、内藤は黄寺の後楼で白大喇嘛ラマに会い、「導かれて別処に至り」、「蒙字蔵経」を観た。「別処」とは黄寺の西に隣接する太平寺のことで、この寺にはモンゴル語大蔵経(「蒙古文蔵経」108函)が完全な形で収蔵されていた。その後、昨日約束した黄寺の僧に導かれて、「皇寺〔黄寺〕の経蔵に蒙文蔵及び満字蔵経を観て帰る」(内藤湖南「禹域鴻爪後記」356頁)。

 「蒙字蔵経」、「蒙文蔵」というのはモンゴル語の大蔵経のことで、「満字蔵経」は満洲語の大蔵経である。このように、内藤は黄寺などにモンゴル語や満洲語の大蔵経が収蔵されていることを確認しえたのである。そのうちモンゴル語の大蔵経はサンスクリット語大乗仏典のモンゴル語訳およびウイグル語訳、チベット語訳、中国語訳からの重訳などを含む仏典の集成である。しかし、内藤は翌10月25日に東清鉄道で奉天を去ったので、この時は仏典所在の確認以上のことはできなかった。 

(2)内藤湖南の第二回奉天行

 1905年7月4日、内藤湖南は宇品港から須磨浦丸に乗船して、また中国旅行に出た(この時も内藤は大阪朝日新聞社在籍)。同行者は「法学士大里武八郎」と「従僕」1人であった。この中国旅行の主目的は前回の中国旅行において奉天で所在を確認した仏典や同じく奉天宮殿内の文溯閣ぶんそかくに収蔵されている四庫全書を調査することであった。そのために内藤は周到な準備をした。1905年3月、奉天会戦(3月1~10日)でロシア軍が奉天から退却して日本軍が奉天に入ると、内藤は日露戦争における「陸戦の大勢すでに定る」と判断して、奉天での文献調査の準備に取り掛かった。内藤は『大阪朝日新聞』1905年3月30日号に、「東洋学術の宝庫」という論説を発表して、文溯閣に収蔵されている四庫全書および黄寺などに所蔵されているチベット語、モンゴル語、満洲語の仏典のもつ「東洋学術」上の重要性を強く訴えた(内藤「東洋学術の宝庫」『内藤湖南全集 第四巻』筑摩書房、1971年、177-178頁)。そのうえで、外務省や陸軍と粘り強く交渉して、外務省嘱託員の肩書を入手、陸軍次官、石本新六からは「到達地軍衙に於て宿舎の貸與、糧食の給與、汽車汽船の便乗其他の待遇等……便宜を被與度あたえられたし」という内容の書類を貰った(内藤「游淸第三記」『内藤湖南全集 第六巻』369頁)これだけの準備をしたうえで、1905年7月、内藤は中国へ向かったのである。まだ、日露講和条約(ポーツマス条約)締結(9月5日)以前のことである。

 7月9日、大連で下船した内藤は旅順、営口を経て、7月29日奉天に到着した。内藤は満洲軍総司令部を訪ね、小村寿太郎外相の満洲軍総参謀長、児玉源太郎に宛てた書簡を示して、児玉と会見した。児玉は内藤の調査内容に興味を示し、満洲軍総司令部参謀の福嶋安正少将に引き合わせた。福嶋は陸軍随一の地理学者・言語学者として知られた人物で、内藤の調査計画に「感動」して、まず黄寺から始めるべきだと勧めた。翌日、福嶋は自ら内藤を黄寺に伴い、寺僧らに内藤の調査について詳細な説明を行った。福嶋が内藤の調査にきわめて協力的だったのには、一つの理由があった。それは宮内大臣、田中光顕が満洲軍総司令部に対して、「蒙満蔵経」を日本に持ち帰ることを委嘱したということで、福嶋はそのための仏典調査を東洋学者として最初に奉天入りした内藤に任せようとしたのである。

 8月4日から、内藤は黄寺のそばに設営された満洲軍総司令部衛兵宿舎の一室に滞在して、連日黄寺などに所蔵されていた大蔵経の調査を行った。14日には「奉天蔵経略解題」(「消失せる蒙満文蔵経」『内藤湖南全集 第七巻』筑摩書房、1970年、429-432頁、所収)を作成した。これには黄寺、太平寺、長寧寺、北塔(法輪寺)の「蔵経」の概要が記されている。この「奉天蔵経略解題」の一通は福嶋に提出され、さらに田中宮内大臣にも報告された。

 その間の8月10日には、北塔(法輪寺)を訪ねたが、「満文の蔵経残破の紙屑狼藉地に満つ。之が為に一歎す。其のやや完全なる者は〔すでに、満洲軍総司令部奉天〕軍政署に運び去ると云う」と記している(「游淸第三記」383頁)。北塔は奉天城の外壁のさらに外の東西南北に建てられた四つの守護塔の一つで、各塔には寺院が付設されていた。北塔の寺院は法輪寺といい、そこには満洲人の仏僧養成のために満洲語の大蔵経が収蔵されていたのだが、日露戦争中ロシア軍の軍営とされ、ロシア兵の狼藉により仏典が破損された。内藤が北塔(法輪寺)で観たのはそのうち「やや完全なる者」が奉天軍政署に運ばれた後の「残破の紙屑」だったのである(北塔の位置については図1参照)。この後、内藤は奉天軍政署に保管されていた満洲語の大蔵経の調査を行った。

 11月17日、内藤が清朝の始祖ヌルハチの古都、興京(ヘトアラ)や初期の王たちの墓陵である永陵の史跡探訪旅行から奉天に戻って、黄寺を訪ねると、奉天軍政署の中島通訳が福嶋安正少将の命により黄寺に来てモンゴル語大蔵経(「金字蒙古文蔵経」100余函。もと108函であったが、義和団事件の際数函が破損された)を借り出していったということであった。寺僧たちはこれらが返されることはないだろうと言っていた。この中島通訳というのは本名を中島比多吉ひたきといい、中島敦の父の弟、すなわち中島敦の父方の叔父である。長く中国に滞在し、中国語に堪能だったので、満洲軍通訳に採用、あるいは徴用されたのであろう。中島敦も、1932年8月、旅順の比多吉を頼り、南満洲、北部中国を旅行している。

 その後、この黄寺のモンゴル語大蔵経は東京の宮内省に送られ、東京帝国大学図書館に保管されることとなった。他方、奉天軍政署に運び込まれていた北塔(法輪寺)の満洲語大蔵経は東京の参謀本部に送られ、同じく東京帝国大学図書館に保管されることとなった。しかし、これらのモンゴル語および満洲語の大蔵経は、1923年9月、関東大震災時に発生した火災に東京帝国大学図書館が被災したため、すべて焼失してしまった。

 時日は少しさかのぼるが、8月24日、清国政府から「宮殿拝謁」の許可が出たので、内藤は宮殿内の宝物などの拝観を行った。28日から三日間は文溯閣に収蔵されている四庫全書の調査を行った。

 文溯閣は宮殿内の西側に1782年に建てられた建物である。この1782年という年は四庫全書の書写が完成した年である。四庫全書は七揃いの写本が作られ、北京など各地の書庫に収められたが、そのうちの一揃いが奉天の文溯閣に配布されたのである。文溯閣の四庫全書は何度かの戦乱や騒乱にもかかわらず良好な状態で保存されていた。

 この文溯閣の調査で、内藤の今回の中国旅行の主目的は終わったのであるが、もう一つの目的であった清国行政制度の調査は清国政府の疑惑を招くということで、なかなか進められなかった。その間の9月11日、内藤は東京帝国大学の市村瓉次郎、伊東忠太などと共に「御花園、昭陵、北塔」を訪ねた。『内藤湖南全集 第六巻』(614-618頁)に附載されている北陵の写真(8点)はこの時に内藤の同行者、大里武八郎が撮影したものである。クリスティーのいう南門(正門)から「内苑」への道の両側に置かれた巨大なラクダや馬の石像、さらには隆恩殿(葬祭殿=享殿、太宗ホンタイジの遺灰が安置されている)の前に立つ内藤の写真などがあるので、この時には内藤らはかなり中まで入ることができたのであろう(図2、図3、図4参照)。ただし、北陵最奥部にある太宗ホンタイジの墓廟までは行けなかったようである。

 東京帝国大学は日露戦争中から、さまざまな研究者を中国に派遣することを文部省に求めた。その中には市村瓉次郎のような中国研究者だけではなく、伊東忠太(東京帝国大学工科大学造家学科)のような建築学の専門家もいた。奉天を「東洋学術の宝庫」と考えたのは内藤だけではなかったのである。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.47)

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世界史のなかのインパール作戦・ビルマ戦争
木畑洋一

 1944年3月8日(本稿執筆時の80年前)、日本軍はアジア・太平洋戦争の戦局打開をねらって、当時日本の占領下にあったビルマからインド北東部のインパールへの侵攻作戦を開始した。この作戦は、イギリス軍の反攻によって完全な失敗に終わり、7月初めに中止され、さらにその後の退却過程のなかでも多大な犠牲を生むこととなった。

 アジア・太平洋戦争の初期、東南アジアで勝利を重ねた日本軍はイギリス領であったビルマにも攻め込み、42年5月にそのほぼ全域を占領下に入れた。日本に追い出されたイギリス側は、ビルマ奪回をめざす軍事行動を開始し、その動きは43年から本格化した。インパール作戦が始められた時、ビルマ北部では、オード・ウィンゲートが率いるチンディットと呼ばれる軍隊が、航空機の働きを重視しつつ、日本軍を攪乱したしていた(チンディット作戦)。またビルマ西部のアラカン地方(現在のラカイン州)でも、44年初めからイギリス軍による進撃が始まっていたが、日本軍の側も、それに抗し、さらに予定されたインパール作戦を前に敵の力をこの地方に割かせておくという意図をもって、2月に作戦(第二次アキャブ作戦)を開始した。本稿では、これらの作戦とインパール作戦、およびその後の展開(44年12月から45年3月までのイラワジ会戦などを含む)を、ビルマ戦争と総称することにする。

 ビルマ戦争の中核をなしたインパール作戦は、日本ではアジア・太平洋戦争の各局面のなかでも、強い関心を集めてきた。牟田口廉也将軍の指揮下、十分な補給体制を全く備えないまま過酷な自然条件のなかでの戦いを強いられた日本兵の惨状が、日本による戦争遂行の仕方の非合理性、無謀性をよく示すものとして、批判の対象となってきたのである。インパール作戦については高木俊朗による一連の著作などがよく知られており、最近ではNHKが2度に渡って特別番組を作り(二つ目はインパール作戦後の1年間が対象)、話題となった。その番組内容は書籍化されているが、『戦慄の記録インパール』『ビルマ絶望の戦場』というタイトルがこの戦争についてのイメージを物語っている。[1]

 他方イギリスでの関心は、決して強いとはいえない。第二次世界大戦当時でも、戦後を通しても、ヨーロッパにおける戦争に比べて、アジア・太平洋での戦争全体への関心は薄かった。『忘れられた軍隊』といったタイトルの研究書が出される所以である。[2] そのなかのインパール作戦・ビルマ戦争も重視されてはこなかった。ただその一方で、日本側には欠けている重厚な研究書が世に問われてきていることも、確かである。[3]

 関心の度合いが日本とイギリスでこのように異なるとはいえ、この戦争についてはこれまでさまざまな研究が積み重ねられてきた。しかし、インパール作戦・ビルマ戦争を世界史のなかに位置づけていく上で重要であるものの、従来必ずしも十分に論じられてこなかったと思われる問題がある。筆者が「帝国の総力戦」と呼んできた戦争の性格である。

 第一次世界大戦も第二次世界大戦も、総力戦という性格をもったが、筆者は、この総力戦という概念を比喩的に用いる形で、帝国支配国が戦争に際して帝国領土の人員や物資を大規模に動員することを「帝国の総力戦」と呼んできた。[4]「帝国の総力戦」の姿とそれがもたらしたものを検討することは、帝国主義の時代にできあがった帝国主義世界体制の変容、脱植民地化の過程について考える上できわめて重要な意味をもつ。そうした「帝国の総力戦」の姿を、インパール作戦・ビルマ戦争はよく示しているのである。とくに、イギリス軍にアフリカにおける植民地から動員されたアフリカ兵が加わっていたことに、筆者は注目している。その問題については後に触れることとして、まずは日英両軍における「帝国の総力戦」の形を概観してみたい。その戦争の内実にまで踏み込んで述べることはここではできないため、以下はこうした視点から見た日英両軍の構成の素描である。

 まず日本軍である。日本軍には、日本人の他に、植民地であった朝鮮と台湾から動員された人々が兵士や軍属として参加していた。

 日本軍にはまた、イギリスの植民地であるインドの人々がインド国民軍(Indian National Army: INA)という形で加わっており、これが、この戦争における「帝国の総力戦」の形を複雑なものにしていた。イギリスからの独立を志向するインド民族運動の力を対英戦争のために利用する思惑で42年初めに日本側が組織したインド国民軍は、43年春にチャンドラ・ボースを指導者として戴いてから活気を帯びた。国民会議派議長になったこともあるボースは、ヨーロッパでの開戦後、インド独立への助力をナチス・ドイツに求めようとしたもののうまくいかず、日本側からの誘いに応じたのである。ボースとINAは、インパール作戦を独立達成への有効な手段とみて、日本軍との共同行動をとったのである。しかし、彼らの夢は叶わず、大量の犠牲者を出すに至った。

 日本側は、占領下に置いた末、43年夏に独立を認めていた(実質は全くの傀儡国家であった)ビルマの国軍であるビルマ国民軍(Burma National Army: BNA)も、イラワジ会戦の戦況が悪化するなかで動員した。ただし、その頃には、日本による独立付与が名ばかりのものであったことに不満を抱くBNAの人々は対日蜂起の準備を進めており、45年3月末には蜂起が開始した。

 また、直接の戦地となった地域の現地人の軍への関与の仕方も問題となる。ビルマとインドも多くの民族によって構成されており、さまざまな少数民族が双方の側で戦争に巻き込まれたのである。

 次いで、イギリス軍の場合である。

 そこで何といっても重要な位置を占めるのが、インド兵である。普通、インパール作戦・ビルマ戦争は、日本軍とイギリス軍の間の戦いと表現されることが多いが、イギリス軍(第14軍)の大半はインド人から成っていたのであり、正確には、イギリス・インド軍(英印軍)と表現すべきであろう。

 19世紀以降、インド兵はイギリス帝国の拡大・維持にとって欠かせない存在であった。中国におけるアヘン戦争や、義和団運動鎮圧戦争の場合にとくに顕著であったように、イギリスが植民地戦争を展開していく上で、インド兵は中心的役割を演じたのである。第一次世界大戦においては、150万人近くのインド人が動員され、その内100万人を越える人々がヨーロッパや中東の戦線に送られた。こうしたそれまでの戦争では、インド自体で英印軍が戦闘を行ったことはなかったが(隣国アフガニスタンでの戦争には従事した)、その事態が、この戦争で出現したのである。第二次世界大戦期には、国民会議派のように、即時の独立を求めて、それに応じないイギリスへの戦争協力を拒みつづけた人々も存在したものの、「帝国の総力戦」に協力する者も多く、そうしたインド人が過酷な戦線に投入され、戦争のいずれの局面においても最前線に立って戦った。

 英印軍の有力な構成部分としては、イギリス帝国内の「尚武の民martial race」の代表的存在であったネパール出身のグルカ兵が、この戦争においても重用されたことも忘れてはならない。

 また日本軍についても指摘したように、現地の少数民族も英印軍に使役される形で戦闘に巻き込まれた。とりわけ居住地域が戦闘地域と大きく重なったナガ人の役割は重要である。

 インパール作戦・ビルマ戦争について考える際に、INAを含むインド人や現地少数民族といった要因により注意を払う必要があるということは、最近刊行された笠井亮平の好著のなかで強調されている。[5]

 ただ、その笠井も軽視している「帝国の総力戦」の構成員が存在する。アフリカからはるばるとインド洋を渡る形でビルマ戦線に動員されたアフリカ人兵士たちである。日本では近年、アフリカ研究者の溝辺泰雄がこの問題に着目しているが、[6] 本格的な研究はまだない。イギリスにおいては第二次世界大戦全体の「帝国の総力戦」としての側面についての研究は一定程度行われているものの、[7] インパール作戦・ビルマ戦争でのアフリカ兵に関する検討は進んでいるとは言いがたい。

 アフリカ人は第一次世界大戦においても大量に動員された。ただしイギリスは、アフリカ人兵士をヨーロッパ戦線で用いたフランスと異なり、アフリカ大陸内のドイツ植民地をめぐる戦争で彼らを用い、しかもその役割は主として物資の運搬であった。そこには、白人との戦いにおいて黒人は用いないという人種主義的考慮が働いていた。そのことを考えると、アフリカ兵をインド、ビルマへ送り、直接の戦闘要員として用いたこと(物資運搬要員としても使われたが)は、イギリスの「帝国の総力戦」の新たな面を示していたといってよいであろう。

 アフリカ兵は、インパール作戦自体には参加していない。彼らが用いられたのは、チンディット作戦とアラカンでの戦闘、およびインパール作戦後の日本軍掃蕩作戦においてである。チンディット作戦にはガーナやナイジェリアなど西アフリカからの兵士が参加し、アラカン作戦には西アフリカ兵の他ケニアなどの東アフリカ兵も参加した。そしてインパール作戦後の戦闘には、東アフリカ兵が用いられたのである。

 次に、この動員が戦後におけるアフリカの変化に及ぼした影響の一例に触れておこう。

 1950年代のケニアで、イギリス側が「マウマウ」と呼んだ民族運動家たち(彼ら自身はケニア土地自由軍と称した)に過酷な弾圧を加えたことは、よく知られている。その「マウマウ」の指導者の一人に、「中国将軍General China」と呼ばれた人物がいる。ワルヒウ・イトテ(1922-93)という人物で、42年にイギリス軍に入り、ビルマでの戦争に加わった。カレワでの戦い(44年暮れに展開したはずであるが、彼自身は43年と記している)であり、ギクユ人としてのアイデンティティしかもっていなかった自分自身はケニア人であると、彼はそこで初めて意識したという。彼はそうした意識のもと、ケニアへの復員後「マウマウ」に参加し、勇猛さで知られるようになった。中国将軍というあだ名は、朝鮮戦争もしくはマラヤでの中国人の活動に刺激されたためといい、ビルマ戦争とは関係がないようであるが、彼の自伝によれば、ビルマの軍隊で習得したことをケニアでの民族運動に活かしたのである。[8] 彼は54年に逮捕されて死刑宣告を下されたものの、減刑され、ケニア独立後は公務員としての生活を送ることになる。

 アジアの戦争とアフリカの変動とがこのように連動していく様相などに注目しつつ、インパール作戦・ビルマ戦争の「帝国の総力戦」としての性格をより深く検討していきたいと、筆者は思っている。本稿はその準備作業としてのごく粗いデッサンである。


[1] NHKスペシャル取材班『戦慄の記録インパール』岩波書店、2018(岩波現代文庫版、2023;NHKスペシャル取材班『ビルマ絶望の戦場』岩波書店、2023.

[2] Christopher Bayly and Tim Harper, Forgotten Armies: The Fall of British Asia        1941-1945, London: Allen Lane, 2004.

[3] ルイ・アレン『ビルマ遠い戦場 ビルまで戦った日本と英国1941-45年』上・中・下、原書房、1995;Robert Lyman, A War of Empires: Japan, India, Burma & Britain 1941-45,       Oxford: Osprey Publishing, 2021.

[4] 木畑洋一「「帝国の総力戦」としての第一次世界大戦」メトロポリタン史学会編『20世紀の戦争―その歴史的位相』有志舎、2012など。

[5] 笠井亮平『インパールの戦い ほんとうに「愚戦」だったのか』文春新書、2021.

[6] 溝辺泰雄「第二次世界大戦期のビルマ戦線に出征したローデシア・アフリカ人ライフル部隊(現ジンバブウェ)のアフリカ兵士からの手紙:全文訳」(1)(2)『明治大学国際日本学研究』6-1、7-1、2013-2014.

[7] たとえば、Ashley Jackson, The British Empire and the Second World War, London: Hambledon Continuum, 2006;David Killingray, Fighting for Britain: African Soldiers in the Second World War, Woodbridge: James Currey, 2010.

[8] Waruhiu Itote (General China), ‘Mau Mau’ General, Nairobi: East African Publishing House, 1967, Ch.3

(「世界史の眼」No.47)

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