奉天からの世界史(中)
小谷汪之

はじめに
1 奉天におけるキリスト教布教
 (以上、前号)
2 内藤湖南と奉天
 (本号)
3 夏目漱石と奉天
4 中島敦と北陵
おわりに
 (以上、次号)

2 内藤湖南と奉天

(1)内藤湖南の第一回奉天行

 1902年10月1日、後に著名な東洋学者で京都帝国大学教授になる内藤湖南(この時はまだ大阪朝日新聞社に在籍)は神戸から大連丸に乗船して、中国訪問の旅に出た。旅順、大連などを訪れた後、東清鉄道でハルビンに直行し、その後、ハルビンから同線で南下して、10月21日、初めて奉天で下車した。この時、奉天は義和団事件から2年以上が経ち、治安には全く問題がなかったようである。ただ、満洲全体がそうだったのだが、奉天でもロシア軍の勢力が強く、何かと制約されることはあった。また、当時の奉天には日本人経営の旅館やホテルなどはなかったようで、宿泊先を探すのにも苦労した。結局、知り合いを介して紹介された中国人の私宅に泊めてもらったり、「極めて不潔な」「支那旅店」に泊まったりした。

 10月23日、内藤湖南は知人二人と共に北陵を訪ね、その帰路、「御花園長寧寺」で清朝第二代太宗ホンタイジ愛用の弓矢を観た。その後、「黄寺」に行き、「一僧と話し明日満蒙二蔵を観ることを約す。帰途白大喇嘛ラマに逢い又後楼の蒙蔵を観ることを約す」。(内藤湖南「禹域鴻爪後記」『内藤湖南全集 第六巻』筑摩書房、1972年、356頁)

 この時、内藤たちが北陵のどこまで入ることができたのかということについては、内藤が何も書いていないのでよく分からない。その後訪れた「御花園長寧寺」というのは北陵から奉天市街に戻る途中にあるチベット仏教の寺で、もともとは太宗ホンタイジの「御花園」であったが、ホンタイジの死後、それを改修して、長寧寺という寺にしたものである。したがって、ホンタイジゆかりの品が蔵されていたのである。他方、黄寺という寺は皇寺ともいわれるが、正式名は実勝寺という(黄寺の名は寺の屋根瓦が黄色であることによる)。1636年、太宗ホンタイジは内モンゴルを支配下に収めて、国号を大清と改めた。黄寺はそれを記念して建てられたチベット仏教寺院で、北陵へと北上する道の起点にある(図1参照)。黄寺は満洲やモンゴル地方のチベット仏教の中心をなす大寺で、その経蔵などには各種の仏典が収蔵されていた。内藤はそれらの仏典を観ることを大きな目的としていたのである。

 10月24日、内藤は黄寺の後楼で白大喇嘛ラマに会い、「導かれて別処に至り」、「蒙字蔵経」を観た。「別処」とは黄寺の西に隣接する太平寺のことで、この寺にはモンゴル語大蔵経(「蒙古文蔵経」108函)が完全な形で収蔵されていた。その後、昨日約束した黄寺の僧に導かれて、「皇寺〔黄寺〕の経蔵に蒙文蔵及び満字蔵経を観て帰る」(内藤湖南「禹域鴻爪後記」356頁)。

 「蒙字蔵経」、「蒙文蔵」というのはモンゴル語の大蔵経のことで、「満字蔵経」は満洲語の大蔵経である。このように、内藤は黄寺などにモンゴル語や満洲語の大蔵経が収蔵されていることを確認しえたのである。そのうちモンゴル語の大蔵経はサンスクリット語大乗仏典のモンゴル語訳およびウイグル語訳、チベット語訳、中国語訳からの重訳などを含む仏典の集成である。しかし、内藤は翌10月25日に東清鉄道で奉天を去ったので、この時は仏典所在の確認以上のことはできなかった。 

(2)内藤湖南の第二回奉天行

 1905年7月4日、内藤湖南は宇品港から須磨浦丸に乗船して、また中国旅行に出た(この時も内藤は大阪朝日新聞社在籍)。同行者は「法学士大里武八郎」と「従僕」1人であった。この中国旅行の主目的は前回の中国旅行において奉天で所在を確認した仏典や同じく奉天宮殿内の文溯閣ぶんそかくに収蔵されている四庫全書を調査することであった。そのために内藤は周到な準備をした。1905年3月、奉天会戦(3月1~10日)でロシア軍が奉天から退却して日本軍が奉天に入ると、内藤は日露戦争における「陸戦の大勢すでに定る」と判断して、奉天での文献調査の準備に取り掛かった。内藤は『大阪朝日新聞』1905年3月30日号に、「東洋学術の宝庫」という論説を発表して、文溯閣に収蔵されている四庫全書および黄寺などに所蔵されているチベット語、モンゴル語、満洲語の仏典のもつ「東洋学術」上の重要性を強く訴えた(内藤「東洋学術の宝庫」『内藤湖南全集 第四巻』筑摩書房、1971年、177-178頁)。そのうえで、外務省や陸軍と粘り強く交渉して、外務省嘱託員の肩書を入手、陸軍次官、石本新六からは「到達地軍衙に於て宿舎の貸與、糧食の給與、汽車汽船の便乗其他の待遇等……便宜を被與度あたえられたし」という内容の書類を貰った(内藤「游淸第三記」『内藤湖南全集 第六巻』369頁)これだけの準備をしたうえで、1905年7月、内藤は中国へ向かったのである。まだ、日露講和条約(ポーツマス条約)締結(9月5日)以前のことである。

 7月9日、大連で下船した内藤は旅順、営口を経て、7月29日奉天に到着した。内藤は満洲軍総司令部を訪ね、小村寿太郎外相の満洲軍総参謀長、児玉源太郎に宛てた書簡を示して、児玉と会見した。児玉は内藤の調査内容に興味を示し、満洲軍総司令部参謀の福嶋安正少将に引き合わせた。福嶋は陸軍随一の地理学者・言語学者として知られた人物で、内藤の調査計画に「感動」して、まず黄寺から始めるべきだと勧めた。翌日、福嶋は自ら内藤を黄寺に伴い、寺僧らに内藤の調査について詳細な説明を行った。福嶋が内藤の調査にきわめて協力的だったのには、一つの理由があった。それは宮内大臣、田中光顕が満洲軍総司令部に対して、「蒙満蔵経」を日本に持ち帰ることを委嘱したということで、福嶋はそのための仏典調査を東洋学者として最初に奉天入りした内藤に任せようとしたのである。

 8月4日から、内藤は黄寺のそばに設営された満洲軍総司令部衛兵宿舎の一室に滞在して、連日黄寺などに所蔵されていた大蔵経の調査を行った。14日には「奉天蔵経略解題」(「消失せる蒙満文蔵経」『内藤湖南全集 第七巻』筑摩書房、1970年、429-432頁、所収)を作成した。これには黄寺、太平寺、長寧寺、北塔(法輪寺)の「蔵経」の概要が記されている。この「奉天蔵経略解題」の一通は福嶋に提出され、さらに田中宮内大臣にも報告された。

 その間の8月10日には、北塔(法輪寺)を訪ねたが、「満文の蔵経残破の紙屑狼藉地に満つ。之が為に一歎す。其のやや完全なる者は〔すでに、満洲軍総司令部奉天〕軍政署に運び去ると云う」と記している(「游淸第三記」383頁)。北塔は奉天城の外壁のさらに外の東西南北に建てられた四つの守護塔の一つで、各塔には寺院が付設されていた。北塔の寺院は法輪寺といい、そこには満洲人の仏僧養成のために満洲語の大蔵経が収蔵されていたのだが、日露戦争中ロシア軍の軍営とされ、ロシア兵の狼藉により仏典が破損された。内藤が北塔(法輪寺)で観たのはそのうち「やや完全なる者」が奉天軍政署に運ばれた後の「残破の紙屑」だったのである(北塔の位置については図1参照)。この後、内藤は奉天軍政署に保管されていた満洲語の大蔵経の調査を行った。

 11月17日、内藤が清朝の始祖ヌルハチの古都、興京(ヘトアラ)や初期の王たちの墓陵である永陵の史跡探訪旅行から奉天に戻って、黄寺を訪ねると、奉天軍政署の中島通訳が福嶋安正少将の命により黄寺に来てモンゴル語大蔵経(「金字蒙古文蔵経」100余函。もと108函であったが、義和団事件の際数函が破損された)を借り出していったということであった。寺僧たちはこれらが返されることはないだろうと言っていた。この中島通訳というのは本名を中島比多吉ひたきといい、中島敦の父の弟、すなわち中島敦の父方の叔父である。長く中国に滞在し、中国語に堪能だったので、満洲軍通訳に採用、あるいは徴用されたのであろう。中島敦も、1932年8月、旅順の比多吉を頼り、南満洲、北部中国を旅行している。

 その後、この黄寺のモンゴル語大蔵経は東京の宮内省に送られ、東京帝国大学図書館に保管されることとなった。他方、奉天軍政署に運び込まれていた北塔(法輪寺)の満洲語大蔵経は東京の参謀本部に送られ、同じく東京帝国大学図書館に保管されることとなった。しかし、これらのモンゴル語および満洲語の大蔵経は、1923年9月、関東大震災時に発生した火災に東京帝国大学図書館が被災したため、すべて焼失してしまった。

 時日は少しさかのぼるが、8月24日、清国政府から「宮殿拝謁」の許可が出たので、内藤は宮殿内の宝物などの拝観を行った。28日から三日間は文溯閣に収蔵されている四庫全書の調査を行った。

 文溯閣は宮殿内の西側に1782年に建てられた建物である。この1782年という年は四庫全書の書写が完成した年である。四庫全書は七揃いの写本が作られ、北京など各地の書庫に収められたが、そのうちの一揃いが奉天の文溯閣に配布されたのである。文溯閣の四庫全書は何度かの戦乱や騒乱にもかかわらず良好な状態で保存されていた。

 この文溯閣の調査で、内藤の今回の中国旅行の主目的は終わったのであるが、もう一つの目的であった清国行政制度の調査は清国政府の疑惑を招くということで、なかなか進められなかった。その間の9月11日、内藤は東京帝国大学の市村瓉次郎、伊東忠太などと共に「御花園、昭陵、北塔」を訪ねた。『内藤湖南全集 第六巻』(614-618頁)に附載されている北陵の写真(8点)はこの時に内藤の同行者、大里武八郎が撮影したものである。クリスティーのいう南門(正門)から「内苑」への道の両側に置かれた巨大なラクダや馬の石像、さらには隆恩殿(葬祭殿=享殿、太宗ホンタイジの遺灰が安置されている)の前に立つ内藤の写真などがあるので、この時には内藤らはかなり中まで入ることができたのであろう(図2、図3、図4参照)。ただし、北陵最奥部にある太宗ホンタイジの墓廟までは行けなかったようである。

 東京帝国大学は日露戦争中から、さまざまな研究者を中国に派遣することを文部省に求めた。その中には市村瓉次郎のような中国研究者だけではなく、伊東忠太(東京帝国大学工科大学造家学科)のような建築学の専門家もいた。奉天を「東洋学術の宝庫」と考えたのは内藤だけではなかったのである。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.47)

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