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「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える 10(2024年3月21日)

 イスラエルのガザ攻撃は膨大な犠牲者を出しながら依然として続いている。圧倒的な国際世論の批判を浴びながらも攻撃を続けるイスラエルは、いったいどのような政治・経済的要因から攻撃を続けているのだろうか。アメリカでさえ抑制しようとしているように見える。イスラエルを「内側から」見た議論はほとんど聞かれないが、この度、中東経済の研究を専門とする清水学さんに、イスラエルの攻撃の「内的論理」を解明してもらった。

 また、早い時期に、イスラエルのガザ攻撃は自衛であるにしても「過剰」であると批判していた中国は、アラブ、イスラエルに対してどのような態度をとっているのかも、あまり聞かれない議論である。しかし、グローバルサウスやBRICSその他に影響力を持つ中国の態度は十分に考慮しておかねばならない点である。今回は、中国近現代史の専門家である久保亨さんに、現在の中国の対中東政策を論じてもらった。

 ともに、「ガザ戦争」を深く考えるために欠かせない論点であると思われる。

(南塚信吾)

清水学
ガザ攻撃を続けるイスラエル社会が内包する矛盾

久保亨
中国と中東問題、史的概観

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ガザ攻撃を続けるイスラエル社会が内包する矛盾
清水学

 ガザのパレスチナ人に対するイスラエル軍の過剰な攻撃は、23年10月以降半年近くも続いており、その突出した非人道性と相俟って国際社会の眼を益々厳しいものにしている。約200万人のガザの人々に対してすでに子供を中心に死者数は3万人を優に超え、病院など医療機関への攻撃に付け加えて、さらに食糧・栄養不足による全般的飢饉が懸念されるに至っている。ジェノサイドを公然と否定するのは事実上イスラエルのみといってよい。ヨルダン川西岸とガザを支配する植民地主義の脅威も一層顕著になっている。同時にガザでのハマース攻撃を最優先するなかで自国の人質に対する安全・生命さえ軽視するネタニヤフ政権の動きは、従来のイスラエルを知る者を驚かせた。

 他方イスラエルは国際社会において、科学技術が発展した所得水準も高い先進的な民主主義国というイメージを宣顕してきた。人口約900万人(ユダヤ系700万人、パレスチナ・アラブ系200万人)のイスラエルは、一人当たりGDPで日本の3万5000ドルを凌駕する5万ドル水準を享受しており、また先進国クラブであるOECDのメンバー国でもある。ここではハイテク先進国イスラエルと非人道的植民地支配の二つの側面がどのような内的構造となっているのかを検討してみたい。

イスラエル経済のハイテク化の政治的外交的意味

 ハイテク国家イスラエルの1万人当たりの科学技術者数は140人で、米国の85人、日本の83人の2倍に近い比率を占め、グローバル・イノベーション指数で世界14位を占めている。イスラエルが優位な技術を誇る分野は節水・水利とIT、エレクトロニクス、サイバー、バイオテクノロジー、医療などのハイテク技術である。節水技術はドリップ灌漑など最小限の水で感慨を行うもので、中東など水不足に悩む地域にとって極めて魅力的なものと映っている。IT関連は軍事技術の発展と並行して発展してきた技術である。イスラエル兵器は実戦で使用されたことが多いというのが売りとなっている。ハイテク関連産業はイスラエル経済のグローバル化の根幹で、現在GDPの2割がそれで支えられている。

 ハイテク技術は特に今世紀に入って以降、イスラエルが政治的外交的影響力を拡大する上で重要な武器として意識されるようになった。それはパレスチナ政策に関しての諸外国の批判を抑制するうえで有効に機能したからである。中国・ロシア・インドなどもパレスチナ人の民族自決権支持の政策を掲げながら、他方ではイスラエルとのハイテク分野での協力強化を積極的に進めていた。さらにスタートアップなど新興企業創設の試みもイスラエルは一つの学ぶべきモデルとして浮上した。先端技術の優位性と魅力は周辺アラブ諸国特に湾岸諸国への牽引力として最も有効に機能したのは、2020年のいわゆるアブラハム合意である。湾岸産油国のポスト石油ガス時代を睨んだ経済発展戦略においてイスラエルのハイテク技術の取得は魅力ある選択肢であり、今まで国交がなかったアラブ諸国がイスラエルとの平和条約締結と国交樹立に踏み切るインセンティブとなった。しかし、その場合アラブとしてのパレスチナ人との連帯との折り合いをどうつけるかが各国の難しい選択となった。しかし対イラン政策での一定の共通性、米国の新鋭兵器獲得の条件改善なども考慮して、20年8月にUAE(アラブ首長国連邦)、同年10月にバハレーン、同年12月にモロッコがイスラエルとの国交樹立に踏み切った。米イスラエルにとっての最終目的はイスラーム世界の盟主とされるサウジアラビアとイスラエルとの間の国交正常化であり、それが実現すれば米の中東外交の勝利であると期待し、その交渉は水面下で進められていた。しかしパレスチナ問題のハードルはサウジにとっては他の湾岸諸国以上に複雑な課題であった。にもかかわらず、米・イスラエルはアブラハム合意の成功に自信を深め、いまやパレスチナ問題が中東安定化のための大きな障害ではないという前提で動き始めていた。このイスラエルと米国の上から目線の新中東戦略の前提を突如大きく破ったのは23年10月のイスラーム主義組織ハマースによるイスラエル襲撃事件であった。短時間でイスラエル人(兵士も含む)が1200人以上も殺害され200人近い人質が取られたことは、イスラエルにとってはかつてない大きな打撃であったが、それは同時にイスラエル支配に対するパレスチナ人の積もった怒りも反映されていた。

シオニズム社会主義から新自由主義へ

 イスラエルのハイテク産業の発展を特徴づけるものは、第1に中東欧から来たシオニズム指導者の間で自然科学者・技術者の存在が小さくなく、技術重視が政策化されたことである。第2に、パレスチナ人・周辺アラブ諸国との対立緊張関係を前提にした兵器・軍事関連技術育成の重視である。それを支える軍事的制度とその文化、特に IDF(イスラエル国防軍)における技術の蓄積と発展は重視されてきた。IDF内の科学・軍事技術の超エリート集団の育成にも力を入れてきた。代表的組織として8200 部隊は著名であり、その出身者は退役後、多くのハイテク・ベンチャー企業を生み出したことで知られる。第3に、1985年の中央銀行の実質的独立性を導入した経済改革であり、ハイパー・インフレと証券市場の混乱などのイスラエル経済の危機を大胆な新自由主義的改革で打開しようとする試みであった。独立以降のイスラエル経済を大きく二分した大転換であった。イスラエル経済の行方に危機感を持った米政府は、イスラエル政策当局に圧力をかけ、ケインズ学派から新自由主義への「パラダイム転換」を強力に促した。これにより競争力を持つイスラエル経済の再生をはかろうとしたのである。これは経済的に強力なイスラエルの存在を中東政策の主柱とする米国にとっても必死の工作であった。それは建国以来の「シオニズム社会主義」の構造を大きく揺るがすものであり、民間資本の活動の余地を拡大し、同時に自由競争、金融を含むグローバル化の展開を意図するものであった。特に最大の雇用主体であり、つまり大企業を有し、かつ労働組合でもあったイスラエル特有の組織「ヒスタドルト(労働総同盟)」の弱体化の方向が促進された。新自由主義による厳しい自由競争を技術資本発展の刺激剤にしようとした改革であった。しかし、このプロセスは実際において外部からの財政的経済的支援を不可欠であった。第4に、米国およびイスラエル政府の財政的支援である。1970年代半ば以降、高価な米国製兵器を購入するための援助を提供し始めた。それは次第に使途自由の軍事援助の方向に発展し、オバマ時代にはイスラエル製兵器購入も可能な無償援助が年間30億㌦供与されることになった。これは所得水準が先進国並みのイスラエル市民一人当たり400ドルに相当する返済不要の無償援助である。さらに、イスラエル政府は失敗のリスクが大きいスタートアップ企業を支援するファンドへの財政支援を行い、ハイテク企業の育成に力を入れた。新自由主義といっても国家や援助の役割が減少したとは言えなかった。

イスラエル社会と政治構造の変質

 イスラエルでは貧富の格差が拡大し、そのジニ係数は0.38で今日OECD諸国のなかでも最高水準となっている。貧困層に属するのは人口の約30%と言われ、パレスチナ系市民、東エルサレムのパレスチナ人のほか、超正統派ユダヤ人(ハレディ)と言われており、社会的連帯意識を分断することになっている。他方、1967年6月の戦争でヨルダン川・ガザを占領したイスラエルでは、「ヒスタドルト」関連企業の軍需産業化も進んだ。1881年に成立した第2次リクード内閣は、入植事業を初めて資本主義的事業に委託させた。入植事業が民間のデベロッパーやコントラクターが行うようになり、ヨルダン川西岸の新規郊外センターに住宅を建設し、中流的生活を志向する入植希望者を引き寄せようとした。政府は住宅購入のための補助金を支給した。他方、占領地の低廉なパレスチナ人労働力の導入も構造化され、さらに外国人労働者を南アジア・東南アジア・アフリカなどから導入するようになった。労働市場の一層の階層化が進展した。

 新自由主義化と社会的連帯性は一致しない。その矛盾を深めたのは、ネタニヤフ右派リクード政権下での「ユダヤ人国家法」の導入で、イスラエル国家の性格を大きく変えるものであった。2018年7月19日に右派議員が提出していた「ユダヤ人国家法」がクネセト(国会)で賛成62,反対55票で可決された。イスラエルには憲法が未だ制定されておらず、「帰還法」など一連の重要法を「基本法」と称しているが、このような重要な法案が単純多数決で決定し得る点は大きな問題となっている。この新法の特徴は、イスラエルにおいてユダヤ人にのみ民族自決権があると明記し、パレスチナ人の自決権を否定していること、イスラエルをユダヤ人の歴史的な国土と明記したことである。さらにアラビア語が公用語から「特別な地位」に格下げし、公用語はヘブライ語のみと明記したことで、イスラエルを「ユダヤ人国家」とし、アラブ(パレスチナ人)の二級市民化を法制化したことになっている。エルサレムをイスラエルの首都と宣言して、東エルサレムを首都とするパレスチナ国家構想を否定した。さらに占領地の併合を否定した1967年の国連安保理決議242に明白に違反するヨルダン川西岸等での「ユダヤ人入植の拡大」について、イスラエル政府が「奨励して促進すべき国家的価値」と明記して合法化した。ユダヤ人の入植が東エルサレム・ヨルダン川西岸のパレスチナ人の権利を著しく侵害するものとしてイスラエル・パレスチナ紛争の重要焦点であり続けるなかで、これはパレスチナ人に対して著しく挑発的な意味を持っていた。これによって西岸においてもイスラエル・パレスチナ人の間の衝突が一層深刻化することは確実である。

 「ユダヤ人国家法」制定が23年10月7日の一つの伏線となっていたことは確実である。さらに現ネタニヤフ政権のもとで、激しい反対運動にもかかわらず、クネセト(国会)は23年7月24日に「最高裁での判決をクネセトでの多数決で覆すことができる」とする司法改革法案を可決した。24年1月最高裁は、裁判所の権限を弱める司法制度改革は無効としたが、イスラエルが誇ってきた「民主主義」制度自体が劣化しつつあることを示している。

終わりに

 イスラエルの右派勢力は「パレスチナ国家」の樹立に対する反対運動を強化しており、ガザ戦争も対ハマースのみならず全パレスチナ人の民族的存在に対する挑戦の意味を持っている。いわば、イスラエルはパレスチナ人との共存のシナリオを持っていないのである。従来、イスラエルはハイテクを武器とする経済発展戦略とパレスチナ政策をいわば並行して遂行できる余裕を持っていた。しかし10月7日以降の新展開で、両者の絡み合いあいが表面化した。日本においても近年イスラエルとの経済関係が主としてハイテク分野を中心に強化する動きが強まっていた。しかし、今回のガザ戦争の余波で日本の伊藤忠商事は23年3月に締結していたMoUによるイスラエルの軍事産業大手の「エルビット・システム」との協力関係を、24年2月末を期して打ち切りを決めたと発表した。同社によれば、国際司法裁判所が1月にイスラエルにジェノサイドを防ぐためのあらゆる措置を命じ、」外務省がこの命令の誠実な履行を求めたことを踏まえた決定としている。これはハイテクあるいは軍事技術協力とイスラエルのパレスチナ政策が矛盾を来した事例の一つである。ガザ問題が国際的反響を広げれば広げるほど、グローバル化したイスラエル経済にとって従来とは異なる挑戦を受けることになった。また多国籍企業もイスラエルに対する国際社会の反発も考慮に入れざるを得なくなっている。だからといって、現在のイスラエルの対パレスチナ政策が容易に転換すると期待できる根拠はまったくない。しかしそのなかで、米国の若年層の意識の変化と米大統領選への影響、グローバル・サウスの厳しい眼と反応など、イスラエルを取り巻く国際的環境は厳しくなっている。イスラエル自体の「民主主義」システム自体も揺るいでいる。国際政治の多様な可能性を柔軟に見出していくことが常に求められる時代であることも事実である。

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中国と中東問題、史的概観
久保亨

 中国が中東問題に関わってきた歴史的な経緯を振り返っておくのが本稿の課題である。地理的に遠いこともあって、そもそも緊密な関係があったわけではない。1948年のイスラエル建国は、1949年に中華人民共和国が成立する以前の出来事である。一方、イスラエルが1950年1月9日に中華人民共和国を承認したのに対し、中華人民共和国がイスラエルを承認し、正式に国交が樹立されたのは、1992年1月24日のことになった。他方、パレスチナとの間では、1964年にPLO(パレスチナ解放機構)が設立された時から強固な関係を維持し、翌65年には北京にPLOの代表部が開設された。1988年11月15日のパレスチナ独立宣言の直後にパレスチナを承認し、国交関係を取り結んでいる。こうして中国は、イスラエルとパレスチナの双方と国交を結ぶ国の一つになった。

 その後、今世紀に入り中国が大国としての外交を志向する中、中東問題への関与も本格化しつつある。そうした中での中国の動向を考える際、留意すべき5つのファクターについて、考えてみたい。その第一は、いうまでもなくアラブの大義を擁護し、パレスチナ独立国家を支持する立場である。第二は、それとも緊密な関係にある中国国内のムスリムへの配慮という問題である。第三に、やはりアラブの大義の擁護と深く関わるアラブ諸国との経済関係を見ておかなければならない。パレスチナとの直接的な経済関係こそ極めて少ないとはいえ、アラブ諸国との経済関係には極めて大きなものがある。第四に、あまり関心を引くことがないけれども、中国のイスラエルとの経済関係がある程度の規模になっていたことにも注意しておきたい。最後に、やはり中国が負うべき大国としての責任も問われるであろう。

 1955年のアジアアフリカ会議で新興独立諸国と協力する立場を示した中国は、1956年の第二次中東戦争に際してもエジプト・シリアを支持した。そして、すでに述べたように、1960年代からパレスチナの民族運動に連帯する姿勢を鮮明にしており、パレスチナが独立を宣言した直後にパレスチナを承認し、最も早い時期に国交関係を樹立した。昨年(2023年)6月には、国交樹立35周年を記念し、パレスチナ自治政府のアッバス議長が中国を訪れ、中国政府との間でエールを交換している。多くの欧米諸国や日本が未承認なのに対し、パレスチナを承認する国家は、アジア、アフリカ諸国を中心に、現在100ヵ国以上に達する。そうした諸国の中でも、中国は抜きん出て重みのある存在である。現在のガザの事態に対しても、パレスチナへ何度も緊急人道支援を実施するなど、物心両面で様々な支援を進めてきている。

 このように中国がパレスチナをはじめとする中東の民族運動に強い関心を払う背景には、国内に多数のムスリムが居住しているという事実がある。中国政府の説明によれば、現在、国内には、回族、ウイグル族をはじめイスラムの信仰を持つ人々が大多数を占める民族が10を数え、その総人口は2100万人以上に達する。14億人という総人口中の比率こそ小さいとはいえ、2100万人という数自体は決して少ない数ではない。全国に3万5000ある清真寺(モスク)には日々祈りの声が響き、街角にも大学にもムスリム専用の食堂が設けられている。新疆ウイグル族自治区をめぐる複雑な状況も、よく知られている。中東問題に対し中国政府は敏感にならざるを得ないし、その際は常に国内のムスリムの感情を念頭に置かなければならない。

 パレスチナの経済規模からして、中国とパレスチナの間の直接的な経済関係は極めて小さい。2022年の貿易総額は1億5600万ドルであった。しかし、石油、石油化学製品の中国への輸入を中心に、中国とアラブ諸国、とくにペルシャ湾湾岸諸国との経済関係は近年急速に伸張しており、2022年の貿易総額は3149億2800万ドルに達した(表1)。中国の2023年の原油輸入量の三分の一は湾岸諸国が占める。中国経済にとって、アラブの石油は今や死活的な意味を持つようになった。

 一方、アラブ諸国にとっても、中国の存在には大きなものがある。いずれは枯渇する石油資源の将来を見据え、アラブ諸国は、今、石油依存経済からの脱却をめざし、懸命に経済開発を進めている。それに対し、中国は企業の投資から労働者の派遣に至るまで、さまざまな経済協力を発展させている。UAEだけで30万人の中国人労働者が働いているとの報道もあった。

 以上に述べたような両者の相互補完的な協力関係を背景に、2022年秋、アラブ諸国を歴訪した習近平は、11月9日、GCC(湾岸協力会議)と中国の首脳会談に出席した。

 しかし、中国とイスラエルとの関係についても注意が必要である。ユダヤ人と中国人は第二次世界大戦の最大の被害者であるとして両者のつながりを指摘する声も時に耳にするとはいえ、1950年代から70年代まで、アラブの民族運動に敵対するイスラエルは、中国にとって距離を置くべき相手であった。

 しかし、1980年代に改革開放政策が進展するにつれ、新たな状況が生まれた。中ソ対立が続く中、軍事力の近代化を進めたい中国にとって、イスラエルの兵器産業が魅力を増したからである。COCOMに参加していないイスラエルは、中国に兵器を輸出する際の国際的な制約を受けずにすんだこと、イスラエルの兵器産業の水準が高いものであったこと、なども重要な条件になり、80年代を通じ数十億ドルの取引があったともいわれる(齋藤真言「イスラエルと中国」『みるとす』182、2022年6月)。いわばそうした実績の上に、1990年の湾岸戦争で生じたアラブ諸国の間の不一致を突く形で、1992年にイスラエルと中国の間で国交関係が樹立された。

 その後も両国間の貿易関係は拡大傾向を続け、2020年の輸出入総額は153億ドル、2022年は226億ドルに達し、イスラエルの貿易全体の12%台を占めた(表2)。同じ時期の日本とイスラエルの間の貿易額が20億ドル台で低迷しているのに較べ、際だって高い。中国製電気自動車の輸出、中国企業による路面電車の建設、上海国際港務公司によるハイファ港への巨額の投資など、一帯一路政策とあいまって兵器産業以外の様々なつながりが強まっている。イスラエルのネタニエフ首相は、2013年と2017年に中国を訪れた。

 このように中国とイスラエルの関係がとみに緊密さを増してきたとはいえ、中国の中東外交の軸足は、やはりアラブ民族運動の側に置かれている。2023年春から、すでにイスラエル向け工業製品輸出に対する規制を強めており、それに対するイスラエルの抗議も撥ねつけたと伝えられる。 

 2023年11月30日、中国外務省は、「パレスチナ・イスラエル紛争の解決に関する中国の立場」として、全面的停戦の実現など5項目を提案する文書を公表した。提案は、全面的な停戦のほか、市民の保護、人道支援の確保、外交的な仲介の強化、政治的解決の追求を訴えるものであり、紛争の根本的な解決策は、パレスチナ国家樹立による「2国家解決」だと主張するものであった。

 また2024年1月15日には、エジプトを訪れた王毅外相が、中国は和平に関してより大規模で権威と有効性を持つ国際会議の開催を呼びかけるとともに、改めてイスラエルとパレスチナ国家の「2国家解決」に向けた具体的な工程表を求めていると述べた。 その一方、イスラエル支援を続けるアメリカには、厳しい批判を展開している。2024年2月21日にも、国連のガザ停戦決議案に対しアメリカが拒否権を行使したことに強い失望を表明した。中国にとってガザ問題はアメリカと角逐を繰り広げる大国としての外交の一環にも位置づけられている。

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「世界史の眼」No.48(2024年3月)

今号では、小谷汪之さんに、連載中の「奉天からの世界史」の(下)をお寄せ頂きました。今回で完結となります。また、駒沢大学の飯田洋介さんに、昨年刊行された 伊藤定良『第一次世界大戦への道とドイツ帝国』の書評をご寄稿頂いています。

小谷汪之
奉天からの世界史」(下)

飯田洋介
書評 伊藤定良『第一次世界大戦への道とドイツ帝国』(有志舎 2023年)

伊藤定良『第一次世界大戦への道とドイツ帝国』(有志舎、2023年)の紹介ページは、こちらです。

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世界史研究所では、引き続き「「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える」と題して、この問題に関する論考を掲載しております。

「世界史の眼」特集:「イスラエルのガザ攻撃」を考える9(2024年2月4日)

木戸衛一
ドイツの内なる植民地主義?

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奉天からの世界史(下)
小谷汪之

はじめに
1 奉天におけるキリスト教布教
 (以上、前々号)
2 内藤湖南と奉天
 (前号)
3 夏目漱石と奉天
4 中島敦と北陵
おわりに
 (以上、本号)

3 夏目漱石と奉天

 1909年、夏目漱石は慢性の胃痛を抱えながら満洲と韓国をめぐる旅に出た。漱石の高等学校以来の旧友で南満洲鉄道株式会社(満鉄)の第二代総裁となった中村是公ぜこうの勧めによる視察旅行であった。漱石は神戸で鉄嶺丸に乗船し、9月6日早朝、大連に着いた。7日からは満鉄中央試験所、「電気公園」(電気遊園)、西公園、満鉄本社など各所を回った。10日には、主として日露戦争の戦跡を見るために旅順に行ったが、12日に、もう一度大連に戻った。14日、大連を出発、営口などを経て、9月19日に奉天に着いた。その時のことが「漱石日記」には次のように書かれていて、当時の奉天の状況がよく分かる。

三時奉天着。満鉄の附属地に赤煉瓦の構造所々に見ゆ。立派なれどもいまだ点々の感を免かれず。瀋陽館の馬車にて行くに電鉄の軌道を通る。道広けれども塵埃甚だし。左右は茫々たり。漸くにして町に入る。(その前にラマ塔を見る。)瀋陽館まで二十分かかる。電話にて佐藤肋骨の都合を聞き合す。よろしという。直ちに行く。城門を入る。大なるものなり。十五分ばかりにして満鉄公所に着。(平岡敏夫編『漱石日記』岩波文庫、119頁)

 この時、奉天の満鉄附属地はまだ建設途上で、建築中の赤煉瓦の建物が見えたが、それも点々とある程度であった。満鉄直営のヤマトホテルもまだ開業していなかった(開業は1910年)。それで、満鉄総裁、中村是公は奉天宮殿敷地内の満鉄公所(満鉄の事務所・宿泊施設)に泊まることを勧めたが、漱石は連れがいることから遠慮し、瀋陽館という日本式旅館に宿泊することにした。奉天駅で瀋陽館の迎えの馬車に乗った漱石は後に軽便鉄道が通ることになった道を東北方向に進み、小西辺門に向かった(図1参照)。漱石は「電鉄の軌道を通る」と書いているが、この時はまだ鉄道馬車であった。瀋陽館は小西辺門と小西門の間、小西辺門から馬車で20分ほどの所にあった。瀋陽館に着いた漱石は電話で満鉄公所の所長である佐藤肋骨(本名、佐藤安之助。正岡子規門下の俳人)の都合を聞き、「よろし」ということで、再び馬車に乗り「城門」(小西門)を通って宮殿敷地内に入り、15分ほどで満鉄公所に着いた。漱石はここで晩餐などの供応を受けた後、瀋陽館に戻った。

 満鉄公所が宮殿の敷地内にあったということは、清朝の衰微を表すと同時に、奉天の満鉄附属地がまだ未整備の状況だったということを示している。その点では、大連や旅順とはかなり違っていた(漱石は大連や旅順では満鉄直営のヤマトホテルに泊まっていた)。奉天は日本にとってまだいわば新開地だったのである。

 翌9月20日、漱石は瀋陽館の番頭の案内で北陵を訪ねた。『漱石日記』には、次のような記載がある。

 九月二十日(日) 北陵。獅の首。亀の甲、高さ四首、五尺。脊に石碑あり。幅六尺厚二尺。隆恩門。アーチ。その上三層。アーチの上、厚壁。四方とも壁厚さ二丈五尺位。四隅に楼閣あり。正面に殿。左右にも殿。屋根の瓦薬付、茶・玉子色・赤・紅。下は総石。正面の石階左右は段々、中央は竜刻、大官はその上を通る。隆恩殿。欄干。それに菊生ゆ。
 昭陵。太宗文皇帝の陵。〔後略〕
 石壁の上、幅二間半。昭陵の後ろ 形。伝って歩すべし。長さ百六十歩。(『漱石日記』120頁)

 この記載を見る限り、漱石は北陵最奥部にある太宗ホンタイジの墓廟を含めて北陵の全体を見ることができたようである。その点で、内藤湖南の場合とは異なっている。それは両者の北陵訪問の間の約四年間の変化であろう。

 この漱石の北陵訪問の具体的な道行については、漱石の紀行文「満韓ところどころ」から知ることができる(「満韓ところどころ」はもともと朝日新聞に連載されたものであるが、本稿では藤井淑禎編『漱石紀行文集』岩波文庫、に拠る)。

 瀋陽館の番頭と馬車で出発した漱石はおそらく小西辺門を通って城外に出た。その間悪路に悩まされたのだが、「右に折れると往来とは云われない位広い所へ出たので漸く安心した」(この右折した路というのは鉄道馬車の通る道から黄寺や御花園長寧寺の方に北上する道であろう)。「しばらくすると、路が尽きて高い門の下に出た。門は石を畳んだ三つのアーチから出来上っているが、アーチの下迄行くには大分高い石段を登らなくてはならない」。「是が正門ですがね、締切りだから壁へついて廻るんですと〔番頭が〕云って馬を土手のような高い所へ上げた。右は煉瓦の壁である」。「路は馬車が辛うじて通れる位狭い。其処を廻って横手の門から車を捨てて這入ると、眼がすっきりと静まった」。(この「横手の門」というのは文脈からすると西門であろう。前述のように、クリスティーは正門〔南門〕は閉鎖されているが、西門と東門は開かれていたと書いているが、もう1909年段階で開かれていたのであろう。)「一丁ばかり行って正面に曲ると左右に石の象がいた」。「突き当りにある楼門の様な所へ這入ったら、今度は大きな亀の脊に頌徳碑が立ててあった」(この「楼門の様な所」というのは碑を蓋う碑亭のことであろう)。「後へ出ると隆恩門と云うのが空に聳えていた」。「あの上を歩いて見たいと番頭に頼むと、ええ今乗って見ましょうと云って中に這入った」。「正面にある廟の横から石段を登って壁の上に出ると、廟の後だけが半月形になって所謂北陵を取り巻いている」(北陵の最奥部は隆業山という人工の小山によって取り囲まれている)。漱石も内藤湖南と同じように、隆恩門の上から北陵の全景を見ることができたのである(図2参照)。(以上の引用は『満韓ところどころ』137-141頁の各所から。)

 その後、漱石は隆恩殿などを経て、北陵最奥部にある太宗ホンタイジの塚(円墳)のような墓廟まで行き、その周囲を一周している。その間、清朝の墓守などから全く何の妨害も制約も受けなかったようである。このことも清朝の衰退を物語っている。1909 年の清朝はもはや北陵や奉天の宮殿を管理する余力を失っていたのであろう。その約2年半後の1912年2月、300年近く続いた清朝はついに滅亡した。

4 中島敦と北陵

 中島敦は1925(大正14)年の春、植民地朝鮮の京城中学校4年生の時、修学旅行で満洲各地を訪れた。その一環として奉天にも行き、北陵にまで足を延ばしている。ただ、この北陵訪問について中島は小説その他の文章の中で一切触れていない。したがって、中島が北陵からどんな印象を受けたのかは分からない。

 他方、中島と京城中学校で4年間同級だった湯浅克衛は「敦と私」と題された中島死後の回想記の中で、この満洲修学旅行について次のように書いている(湯浅は「カンナニ」という小説で中島より早く作家デヴューした小説家である)。

 四年生の修学旅行は満州だった。奉天では、銃剣を逆さに持った張作霖軍が、物々しい顔で睨みつけていた。馬車を数十台連ねて、生い茂ったアカシアの葉先に頬をたたかれながら、北陵に向かった。ワイロをとらなければ門をあけない。帰途は城内に迷いこんで、私たちの馬車だけ、遅れた。酒手をはずまなかったからだ。棒、鍬をもった群衆にとりまかれたとき、敦が何か早口で喋った。群衆はさっと引き、馬車は何事もなかったように、城門を駆け抜けた。
 敦はシナ語〔中国語〕を知っていたのだろうか。どうも、うまかったとは思えないのだが。
 と云うのは、大連や旅順では専ら、筆談に頼っていたからだ。〔中略〕
 しかし、旅順の丘のアカシアは、吹雪のように散っていたし、水師営には、心もとない棗のあとがあった。東鶏冠山、沙河と、敦は日露戦史にも不思議な記憶力で、有能な案内人だった。(中村光夫、氷上英廣、郡司勝義編『中島敦研究』筑摩書房、1978年、233-234頁)

 この北陵訪問にかんする湯浅の記述にはあいまいな部分があるが、だいたい次のようなことであろう。

 図1に見られるように、当時の奉天は三つの部分に分かれていた。一番東側が本来の奉天城で、その真ん中に一辺1300メートルほどの矩形の内壁で囲まれた宮殿敷地がある。それを取り囲むいびつな円形の外壁が1680年に建造され、内壁と外壁の間が市街地となっていった。内壁の四辺には、大東門、小東門といったようにそれぞれ大小二つの門があり、外壁の四辺にも、大東辺門、小東辺門といったようにそれぞれ大小二つの門があった。

 南満洲鉄道(満鉄)は外壁から3ないし5キロメートルほど西側を通っていて、奉天駅を中心に線路沿いの土地約2×4キロメートルの碁盤の目状に地割されている部分が満鉄附属地であった。この満鉄附属地には、ヤマトホテルなど主として日本人が利用するさまざまな施設が立ち並んでいた。

 この奉天城の外壁と満鉄附属地の間が第三の地域、いわゆる商埠地しょうふちで、清国政府が地域を指定して外国人の居住を認め、その保護の任に当たる土地であった。1912年に清朝が滅亡した後は、中華民国政府や奉天軍閥の張作霖がそれを引き継いでいたのであろう。この商埠地には、日本の総領事館やアメリカ、イギリス、フランスの領事館などがあった。

 中島敦ら京城中学校の修学旅行生は満鉄附属地内のどこかのホテルに滞在していたのであろう。そのある日、一行は奉天駅から満鉄線路に沿って東北に進み小西辺門に至る軽便鉄道の通る道を行き、1907年に清朝が建設した奉天公園の手前で左折して一路北上、満鉄線路を越えて北陵に向かったものと思われる(図1参照)。帰路は同じ道を南下したのであろうが、奉天公園の所でなぜか右折せず、逆に左折して小西辺門から城内に迷いこんだようである(このことと御者に酒手をはずまなかったことがどう関係するのかは分からないし、中島が何を言ったのかも分からないが)。そこからどうやって城外に出たのか、湯浅は何も書いていないのだが、おそらく小西辺門あるいは大西辺門を通って満鉄附属地に戻ったのではないかと思われる。

 北陵は清朝時代には禁制の地で、立ち入りが禁止されていた。1912年、清朝が崩壊すると、奉天は大きな混乱もなく中華民国の版図に入った。北陵はこの段階で中華民国政府の管理下に置かれたものと思われる。1916年、中華民国大総統、袁世凱が死去すると、張作霖が奉天省の実権を掌握した。この後、北陵は張作霖軍が管理することになったのであろう。中島らの北陵訪問時、正門(南門)はまだ閉ざされていたが、西門と東門からは自由に入ることができた(湯浅の記述によれば、ワイロを出せば正門も開けてもらえたようである)。張作霖は、中島らの北陵訪問の2年後、1927年には北陵全体を一般に公開している。

おわりに

 その後、1928年6月4日、奉天直前で、張作霖が関東軍の謀略により、北京から奉天に帰る列車ごと爆殺されるという事件が起こった。1931年9月18日には、奉天東北郊の柳条湖で、関東軍の謀略により満鉄線路爆破事件が起こり、満洲事変へと展開した。1932年3月1日には、日本帝国主義の傀儡国家「満洲国」の建国が宣言され、「ラスト・エンペラー」溥儀が執政(後に「満洲国」皇帝)に就任した。1937年7月7日には、北京の南西、盧溝橋で日本軍と中国軍(国民政府軍)の衝突が起こり、その後日中全面戦争へと拡大した。

 しかし、この間、奉天に戦火が直接に及ぶことはなく、日本人研究者による奉天研究は続けられていた。それが破局を迎えたのは1945年8月9日、ソ連軍の満洲侵攻によってであった。日本に逃亡しようとしていた「満洲国」皇帝、溥儀は奉天空港においてソ連軍に身柄を拘束された。

参考文献(文中でいちいち注記しなかったが、以下の文献を参考にした)

デルヒ「モンゴル語『大蔵経』について」『北海道言語文化研究』No. 9、2011年。

内藤戊申「游淸第三記(下) 内藤湖南記」『東洋史研究』16-2、1957年。

三宅理一『ヌルハチの都―満洲マンジュ遺産のなりたちと変遷』ランダムハウス講談社、2009年。

李薈・石川幹子「中国瀋陽市における公園緑地系統計画の展開に関する歴史的研究」『日本都市計画学会 都市計画論文集』45-3、2010年10月。

『世界地理風俗大系 第一巻 満洲』新光社、1930年。

(「世界史の眼」No.48)

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書評 伊藤定良『第一次世界大戦への道とドイツ帝国』(有志舎 2023年)
飯田洋介

 本書は、1871年に成立したドイツ帝国が帝国主義の時代、どのような過程を経て第一次世界大戦へと至ったのか、それについて考察したものである。テーマそれ自体は(本書「はじめに」で概観されているように)ナチズムへと至る歴史的展開を帝政期から連続的に捉えるべきか否か、それが「特殊」なものであったと言えるのかをめぐって、これまで論争が激しく展開されてきたこともあって、決して目新しいものではない。だが、だからこそ、こうした古典的テーマは近年の研究成果を踏まえてその都度問い直されて然るべきものであり、その意義は今日でも色褪せることはあるまい。

 では、本書はどのような視点からこの古典的テーマに挑むのか。本書によれば「帝国主義の時代の全般的な動きを押さえながら、第一次世界大戦に向かうドイツの政治について、当時の国際的・国内的諸課題に立ち向かったさまざまな政治勢力のせめぎあいをとおして考察する」(13頁)という。以下、本書の構成に沿ってその内容を見ていこう。

 第1章「帝国主義の国際政治と民衆の政治化」では、はじめにコンゴ問題解決のために開かれたベルリン会議(1884~85年)を起点とする西洋列強による世界分割の動きについて論じられる。帝国主義を「民族抑圧的な世界体制」(17頁)と定義する本書は、列強の抑圧的な植民地統治が現地住民の抵抗を引き起こし、それがさらに列強の軍事行動を招く「暴力の連鎖」(21頁)に注目する。特に現地での抵抗の排除・鎮圧に際しては、互いに対立する列強や諸勢力が「抑圧の共同作業」(40頁)で応じていたこと、さらには他の植民地や現地で動員された人員までもがこれに充てられたという構図があったことを本書は指摘する。

 次に、本書の視線は帝国主義時代のヨーロッパに向けられる。そこでは、帝国主義による列強間の対立やバルカン問題の緊迫化を受けて、ハーグ平和会議やドイツでの平和主義運動、さらには第二インターナショナルによる反戦平和運動に見られるような国際的な動きが活発に展開される一方、各国内では国民統合を推進する上で重要となる、独善的で排外主義的な帝国意識やナショナリズムの育成・強化がなされ、大衆を基盤としたさまざまな政治運動や革命運動・民族運動が展開された。本書では女性参政権運動や労働運動にも目配りしながら、この時期に大衆が政治化していったこと、しかしながら、これらの運動は大衆を団結させるどころか逆に分裂をもたらし、それがナショナリズムの圧倒的な力と相まって、第一次世界大戦の勃発を阻止できなかったとりわけ大きな原因だとしている(91頁)。

 第2章「ドイツ第二帝政の政治」では、1871年の帝国成立から1910年までのドイツの政治状況を辿りながら、①歴代政権による帝国議会での「ブロック政治」の展開、②国民統合のありよう、③急進的ナショナリズム運動の展開について論じられている。いずれもヴィルヘルム期が話の中心になっている。

 ①では、帝国宰相ビューロを支えた保守系からリベラル左派に至るまでの諸政党による「ビューロ・ブロック」とその後継政権となったベートマン=ホルヴェークを支えた保守党と中央党による「黒青ブロック」が当時の内政課題であった帝国財政改革問題と(ドイツの議会制民主主義の発展を阻害していた)プロイセン三級選挙法(不平等・間接・公開)改正問題にどのように対処したのかが主な焦点になっている。その際、本書は社会民主党の妥協的な姿勢に注目する。②では、国民国家ドイツにおける民族的少数派であったポーランド人に対する統合と排除、そして彼らの抵抗に焦点が当てられ、このテーマについて長年取り組んできた著者ならではの指摘が目立つ。特にポーランドに対する強圧的な「ドイツ化」政策に対する現地の抵抗(学校ストライキ)が、同じ宗派でありながらナショナリズムの影響を受けた中央党には「国民化」の拒絶と受け止められ、両者の連帯を阻むようになっていったこと(130頁)、さらにはルテニア人労働者の雇用も反ポーランド的観点からなされた(133頁)という指摘はとても読み応えがあった。③では主にオストマルク協会とプロテスタント同盟に焦点が当てられている。

 第3章「世界大戦への道とドイツの政治・社会」では、1908年に勃発した青年トルコ人革命とオーストリア=ハンガリーによるボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合を機にバルカン半島情勢が緊迫化していく中でのドイツ国内政治について論じられている。ここで本書が特に注目するのが、1911年のアガディール事件(第二次モロッコ事件)がドイツ国内に及ぼした影響である。それは一方では大規模な反戦平和集会を引き起こし、1912年1月の帝国議会選挙では進歩人民党と連携した社会民主党の躍進と、ベートマン=ホルヴェーク政権を支える「黒青ブロック」の敗退を招くなど、国民の政治的不満や戦争への危機意識が大きく表れる形となった。だが他方では、全ドイツ連盟によるクーデタ計画の公表、ナショナリスティックな大衆運動の勢力拡大とさらなる急進化を引き起こし、陸軍増強を求めるドイツ国防協会も結成され、「戦争は不可避である」という風潮が社会に広がり、青少年の軍事組織化も図られ、社会の軍国主義化が一層促進されていったのである。また、本章ではそのようなドイツ社会に広がる「後進性」と「専制」を強調したロシア蔑視・反感があったこと、そして社会民主党もそれとは無縁ではなかったことが指摘されている。

 第4章「第一次世界大戦」では、はじめにサライェヴォ事件から開戦、さらには「城内平和」に至る流れについて論じられているのだが、ここで本書は、開戦時に見られた国民の一体感と熱狂が必ずしも全国一律のものではなかったという点を強調する。そこには戦争への心配や不安も見て取れ、このときの国民的感情が「けっして単色ではなく、複雑なひだを帯びて重なり合っていた」(252頁)ことが国内外の先行研究を交えて示されている。また、「城内平和」に至るまでの社会民主党の動向についても注視されている。

 次に本書は、世界史的な観点に立って第一次世界大戦の歴史的性格について考察し、それが「帝国主義戦争」「総力戦」「世界戦争」=植民地での戦闘・植民地の人員物資を動員した戦争であったと位置づけ、この戦争によって帝国主義諸国による植民地・従属地域支配体制の動揺・弱体化がもたらされたことを指摘する。さらにここでは、ドイツ革命に至る流れが概観されるだけでなく、ウィルソンの14カ条がボリシェヴィキ・ロシアによる「平和に関する布告」と対置する形で紹介されている。また、本書では(近年の新型コロナウイルスの世界的大流行を意識して)第一次世界大戦末期に世界規模で蔓延した「スペイン風邪」が第一次世界大戦の西部戦線やパリ講和会議に与えた影響について、それがはらむ今日的な課題と結びつける形で論じられている。

 このように本書では、世界史的視座から帝国主義時代の全般的な動きをおさえながら、第一次世界大戦に向かうドイツの政治について、増加する労働争議と高揚するナショナリズムを背景に当時の諸課題に立ち向かった様々な政治勢力のせめぎ合いを通じて考察されている。帝国内の民族的マイノリティであったポーランド人問題を通じて、国民統合の不調と急進的・排外主義的ナショナリズム運動が連動すると(たとえ同じ宗派であっても)民衆の分裂を招くことが本書ではよく示されていたように見える。

 それに加え、本書の特徴として挙げておきたいのが、同様に「帝国の敵」とされた社会民主党を視角に含めたことで、ナショナリズムの影響を受けて戦争への道を歩んでいくドイツの議会政治の展開と、第二インターナショナルによる国際的な反戦平和運動の展開という、この時期に見られた2つの相反する側面を巧く総合的に捉えている点である。このことは20世紀初頭のドイツが外交的苦境=「包囲」から抜け出すには、あるいは好戦的なナショナリズムの高揚や社会の軍国主義化を背景に、もはや戦争への道しか残されていたわけでは決してなかったということを我々に再確認させてくれよう。

 だが、その一方で社会民主党の指導部が1914年8月の大戦勃発に伴う「場内平和」、戦時公債への賛成に連なるような、政府あるいはナショナリズムの動きに対する譲歩的な姿勢をそれまでに幾度となく示してきたこと(1907年の帝国議会選挙での惨敗のときや1913年の軍拡に必要な拠出金法案への賛成など)を著者は見逃さない。戦争と平和に対する社会民主党のこうした二面性を浮き彫りにした点も、本書の特徴であろう。

 次に、本書を読んで評者が気になった点を幾つか挙げておきたい。

 1点目は、世界史的な視座による帝国主義の説明と、帝政期ドイツの政治状況の説明が上手く対応していない点である。本書は南アフリカ戦争、義和団事件、アメリカのフィリピン支配などを事例に「民族の抑圧的な世界体制」としての帝国主義と「暴力の連鎖」を伴う列強の植民地支配を論じているのだが、それに比してドイツの植民地支配の説明が少なく、バランスが取れていない。例えば、独領南西アフリカ(現ナミビア)におけるヘレロ・ナマの蜂起とその鎮圧については、それがジェノサイドの様相を呈していたことや、それに際して設けられた強制収容所が「絶滅収容所」の性格を有していたことはきちんと言及されているのだが(121、314~315頁)、その説明は1907年1月の帝国議会選挙(いわゆる「ホッテントット選挙」)の背景説明の域を出ず摘要に留まっているのが惜しまれる。本書が帝国主義と絡めて帝政期のドイツ政治を論じるのであれば、やはりドイツの植民地統治の事例も第1章と同程度の密度で論じたほうがよかったのではないか。

 2点目は、帝国主義時代の戦争と平和を論じるのであれば、本書が注目するような第二インターナショナルやドイツ平和協会といった「下からの」平和運動に留まらず、政府間による「上からの」平和を求める動きにも(たとえそれが失敗に終わったとしても)目を向けてもよいのではなかろうか。例えば、建艦競争による独英関係の緊張を緩和すべく1912年2月にベルリンに派遣された当時の英陸相ホールデン子爵の試みが挙げられよう。また、サライェヴォ事件から第一次世界大戦勃発までの1ヵ月間(7月危機)は、本書が論じるように開戦に向かって「事態が一直線に進んだわけではない」(242頁)。第二インターナショナルによる反戦平和集会の動きがある一方(254~255頁)、政府レベルでも英外相グレイが英仏伊独4か国協議を提案して外交交渉による解決に最後の望みを託していた(243頁)。本書では7月下旬の皇帝ヴィルヘルム2世の発言には戦争と平和の間で揺れ動きがあったことには言及が見られず、こうした大戦勃発直前に見られた平和に向けた「上からの」最後の動きについては、もう少し説明が欲しいところである。

 3点目は、ヴィルヘルム2世の位置づけである。彼の統治スタイルはよく「個人統治」と言われるが、その実は先行研究が示すように人事を活用した側近政治であり、それはときとして帝国宰相をはじめとする指導部の方針と対立することがあったことが知られている。それについては対中・対米政策といった外交政策では幾つか事例が思いつくのだが、今回本書が取り上げた内政面での政治的諸課題ではどうであったのだろうか。

 以上の点は、評者の専門とする外交史の視角からのものでしかなく、本書の内容や学術的価値を決して損なうものではない。何故ドイツが第一次世界大戦への道を歩んだのかという古典的テーマについては外交史的アプローチも不可欠だが、この時期のドイツ社会と議会政治が抱えていた問題を把握する上で本書は欠かせない一書であると高く評価できよう。

(「世界史の眼」No.48)

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