農業は、われわれ人類の生命維持活動に必要不可欠である食料の生産を担い、一国(家)レベルにとどまらず、世界規模での食料の安定的確保に重大な役割を果たしている。われわれの生存は農業によって支えられていると言っても。決して過言ではない。「ミネルヴァ世界史〈翻訳〉ライブラリー」より刊行された、ロシア・ソ連史と農業史を専門とするマーク・B・タウガーによる『農の世界史』は、世界各地の農業の歴史、そして農業に従事する農民の歴史を概説し、現代における喫急の諸問題への展望を提供する。
原書はRoutledge社の「主題で見る世界史」シリーズの一冊であり、序「世界史における農業と農民の位置」で著者は、同シリーズの他の各書が文明を構成するものの根幹であり、文明が生み出した重要な産出物を主題としている中、本書の主題である農業は文明に先行し、その前提となるものであったことを主張する。自然環境と都市文明との接点として奉仕してきた農民たちは、両者との関係において従属的な存在であり続けた。本書はこの「二重の従属」を分析枠組みとし、農民と自然環境と農民に依存してきた文明の間の関係の変化を考察する。続く各章では、農業の起源から21世紀に至るまでを時系列で追い、長いスパンの歴史的展望を提供することが試みられている(pp.1-3)。以下、各章の内容について簡単に紹介していきたい。
第1章「農業の起源と二重の従属」では、世界各地の農業の起源の解釈から始まる。後半では著者は『銃・病原菌・鉄』や『昨日までの世界』等の邦題著作で知られるジャレド・ダイヤモンドが展開する農業が「人類史上最悪の誤り」とする「悲観的な解釈」に異論を唱えたうえで、「二重の従属」を本書の分析枠組みとした意義を説く。(pp.18-21)。ひとつに農民は自然環境に従属しており、天候や環境の変化、動植物の活動といった農業生産の脅威に対抗してきた。もうひとつに農民は都市文明、ないし都市および都市民による支配下に服しており、一方で農業生産の向上や圧制軽減のために権力側から支援を受けることもあった(pp.21-22)。
第2章「古代の農業―土地と自由にまつわる最初の大いなる闘争」では、ギリシャ、ローマ、中国のそれぞれの古代農業社会における異なるタイプの「二重の従属」が明らかにされる。この時期は環境的な要因や当局の対応は異なっていたものの、農民が村域外の強力な権力に地方が従属するという状況に直面していたという点、権力側が改革政策をもって農民問題の解決を試みていた点においては共通していた。
第3章「古典古代以降の農業」では、西暦500年から1450年ごろまでの約1000年における「二重の従属」の複雑な変容を辿る。農民と大土地所有者との対立関係は引き継がれ、両社間で「自律と生存をかけた闘争」が絶え間なく行われた(p.88)。三つの時期に迎えた温暖化により特に北半球で農業が発展する中、ヨーロッパの中世村落では荘園制が確立した。しかしながら、14世紀前半に小氷期の始まりにより大飢饉、さらに疫病の流行に見舞われた。中国でも恒常的な自然災害による飢饉が繰り返された。こうした危機への対応もあり、ヨーロッパにはイスラーム教徒によりアジアの作物がもたらされ、中国では農業の技術革新が推進された。
第4章「近世の農業とヨーロッパ式農業の優位―1500~1800年」は、農民たちが「二重の従属を最も極端な形で経験」(p.133)した近世期を対象とする。長期の小氷期が続くという同時期の環境的要因は、慢性的な不作や飢饉を引き起こした。農民たちは「隷属的システム」の下に置かれていたという点では世界各地で共通していたが、中国や日本では農奴解放の動きも見られた。一方でヨーロッパでは、東部の「再版農奴制」に代表されるように「隷属的システム」が維持され続けた。さらに、アメリカ大陸へと拡大し、奴隷労働に依存したプランテーション複合体が形成された16世紀の状況もここに含まれる。
第5章「19世紀の農業―解放、近代化、植民地主義」では、ヨーロッパ資本主義経済の形成、ヨーロッパおよびアメリカによる経済・政治的な支配の台頭に伴う、農奴解放や奴隷解放、オランダやイングランドにおける農業制度の発展といった近代的な変化が焦点とされる。環境的要因としては、小氷期から地球規模の温暖化が進行し、エルニーニョ現象や台風といった自然災害が農業においても深刻な危機をもたらし、「二重の従属」は依然として続いた。本章では植民地での農業制度についても検討される。また、この時期には品種改良など農業科学の発展により、世界市場を舞台とした「アグリビジネス」が台頭し始めた。
第6章「農業と危機――1900~40年」は、農業が「一連の経済危機と政治危機の主要な課題」であった時期を扱う(p.181)。19世紀に始まった地球温暖化が20世紀に入っても農業危機の発端となる中、世界は第一次世界大戦、大恐慌、飢饉など危機的状況を経験した。これらに対しての各国政府による大胆な取り組みは、農業および農民のあり方に変革をもたらすことにもつながった。本章ではファシスト国家や植民地における農業、東欧やソ連の農業革命も取り上げ、各国政府が主導する技術支援や財政支援が、結果的に農民にとっての「先例のない従属」を生み出したことを指摘する(pp.233-234)。
そして、著者が本書の中でとりわけ紙面を割いているのが、第7章「農のブームと危機―第二次世界大戦から21世紀」である。ここでは、第二次世界大戦以後アメリカが牽引した世界の食糧制度の変容、共産主義的農業制度、緑の革命と呼ばれる農業技術革命、農業危機および農業債務危機、農業のグローバル化に加え、序でも提示された地球温暖化、石油生産の減少、そして農業人口の減少などの諸問題が論じられている。著者は章の末尾にて、農業にまつわる地球規模での諸改革が「二重の従属」の緩和につながったものの、いまだ国家政策の犠牲者でありつづけるアフリカの実情、農民および都市社会をも脅かす環境問題の二点を挙げ、グローバル化した現代の農業の機会とリスクを提言する(pp.307-308)。
第8章「結論」では、特に第7章で取り上げられた論点をもとに、21世紀を迎えた現代社会において、農業がその重要性を高める一方で「地球規模の限界に達しつつ」あり、「相当な緊張状態の下で維持されている」ことが強調されている(pp.311-313)。「二重の従属」は形態を変えながらも継続しており、文明と農業との相互依存関係の問題などが課題となっているのである。そして、最後に著者はジャレド・ダイヤモンドの「農業を文明が生み出した害悪である」とする主張への批判をもって締めくくる(pp.314-315)。
以上概観してきたように、著者は各時代の主要な出来事との関連も取り上げながら、現代にも維持される農民の「二重の従属」の変遷を明らかにする。訳者もあとがきで触れているが、農民は文明と自然に従属する一方で、そのいずれからも恩恵を受けてきたのだった(p.321)。また、逆に文明も農業に依存しているという側面も、著者により浮き彫りにされている。全体的な読後感としては、冒頭と結論でジャレド・ダイヤモンドの「悲観的解釈」に異論を唱え、「穏やかな楽観主義を与える」(p.3)という立場を取りながらも、世界規模での深刻な農業危機や諸問題に警鐘を鳴らす著者の真意が印象に残る。もう一点、「世界史」としながらも、各章は各国史および地域史で構成されるという形式が取られているため、ひとつのシステムとしての世界を俯瞰した歴史が見えづらくなっているという点も指摘しておきたい。
原書が発表された2011年から10年以上が経過し、昨今は気候変動、蝗害、新型コロナウイルスの流行、ロシアによるウクライナ侵攻をはじめとする不安定な情勢が世界の食料事情をも脅かす。農業が抱える諸問題への対策として、例えばICT(情報通信技術)を活用したスマート農業など次世代型の取り組みも注目されつつあるが、普及にはいまだ課題も多い。これからの「農」の歴史に、楽観的な未来は果たして訪れるのだろうか。
なお、著者によると原書が属する「主題で見る世界史」シリーズは、世界史を概観する授業を履修する世界各国の大学生を第一の読者と想定していることもあり(p.3)、(訳者の技量が大いに貢献していると思われるが)比較的平明な文章で書き綴られている。各章の末尾には主要参考文献が紹介されており、読者のさらなる理解を手助けしてくれる。もちろん、「農」「食」といったわれわれの日々の生活に直結したテーマに少しでも関心のある読者にとっても、農業が抱える諸問題を再考するにあたっての有益な一冊となることであろう。
(「世界史の眼」No.49)