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「世界史の眼」No.52(2024年7月)

今号では、小谷汪之さんに「大連からの世界史(上)―大連の発展と中国人労働者―」をご寄稿頂きました。今号含めて2回に分けて連載の予定です。また、南塚信吾さんに「世界史の中の北前船(その1)」をお寄せ頂いています。シリーズとして連載して参ります。

小谷汪之
大連からの世界史(上)―大連の発展と中国人労働者―

南塚信吾
世界史の中の北前船(その1)

世界史研究所の南塚、小谷、田中の各氏が翻訳した、ダニエル・ウルフ(南塚信吾、小谷汪之、田中資太訳)『「歴史」の世界史』(ミネルヴァ書房、2024年)が、7月10日に刊行されます。世界各地における「歴史」の捉え方と叙述のあり方を検討した大作です。ぜひご一読下さい。

ミネルヴァ書房の紹介ページは、こちらです。

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大連からの世界史(上)―大連の発展と中国人労働者―
小谷汪之

はじめに
1 夏目漱石「満韓ところどころ」
2 大連の油坊
(以上、本号)
3 中島敦「Ⅾ市七月叙景(一)」
4 清岡卓行『アカシアの大連』
おわりに
(以上、次号)

はじめに

 日露戦争(1904-1905年)後、ロシアの租借地だった遼東半島が日本の租借地となると、日本は大連を租借地統治の拠点とした。それに伴い、ロシアから譲渡された東清鉄道の長春―旅順間の南満洲支線が南満洲鉄道として整備された際に、長春―大連間が幹線となった。こうして、大連が都市として発展していくにつれて、大勢の中国人移住労働者が大連港や大連の油房(大豆油製造所)で働くようになった。彼らの多くは山東半島の出身で、家族を中国に残して、単身で大連にやってきた。当時、日本人は中国人労働者を一般に「クーリー」(苦力)と呼んでいた。本稿では、夏目漱石・中島敦・清岡卓行の記述を通して、大連港や大連の油房と「クーリー」の歴史を追ってみたいと思う。

1. 夏目漱石「満韓ところどころ」

 1909年9月、夏目漱石は満洲と韓国への旅に出た。もともとは漱石の高等学校時代以来の友人で、南満洲鉄道株式会社(満鉄)の第二代総裁となった中村是公ぜこうと一緒に行くはずだったのだが、漱石の胃痛が悪化し出発を遅らせたので、中村是公は先に行ってしまった。そのため漱石は一人旅となり、神戸で鉄嶺丸に乗船し、9月6日早朝、大連に着いた。その後、満洲各地を訪ねた後、9月28日に「小蒸汽で鴨緑江を渡」り韓国に入った。10月13日には、ソウルの南大門駅から汽車で釜山に行き、船で帰国した。帰宅したのは10月16日であった。この旅の旅行記が「満韓ところどころ」で、もともとは朝日新聞に連載されたものであるが、奉天から撫順に行った所(9月21日)で中絶してしまっている(本稿では、藤井淑禎編『漱石紀行文集』岩波文庫、所収のものを利用した。なお、この旅行中の日記は平岡敏夫編『漱石日記』岩波文庫、に収録されていて、韓国旅行の部分まで含まれている)。

 漱石は大連では満鉄直営のヤマトホテルに泊まった。ただし、この時の大連ヤマトホテルは大連埠頭の西側の旧露西亜町にあった。しかも、ヤマトホテルに隣接してヤマトホテル別館(ロシア時代の市庁舎を転用)もあった。漱石が泊まったのはこの別館の方であった(清岡卓行『大連小景集』講談社、1983年、160頁)。ちなみに、大広場に面した大連ヤマトホテルの本格的な新館が完成して、開業したのは1914年のことである。

 9月7日、漱石は中村是公と一緒に馬車でホテルを出発し、大連市内各地を見て回った。最初に行ったのは満鉄中央試験所であった。中央試験所は満鉄開業一年後の1907年に開設された研究所で、初期の段階では大豆から豆油を抽出し、残った豆粕を肥料や家畜の飼料に利用する方法を研究することが主な課題とされていた。中村是公はその成果を漱石に見せたかったのであろう。漱石は中央試験所で豆油担当の技師と会った時の様子を「満韓ところどころ」で次のように書いている。

 これが豆油の精製しない方で、此方が精製した方です。色が違うばかりじゃない。香も少し変わっています。嗅いで御覧なさいと技師が注意するので嗅いでみた。
 用いる途ですか、まあ料理用ですね。外国では動物性の油が高価ですから、う云うのが出来たら便利でしょう。是でオリーブ油の何分の一にしか当たらないんだから。そうして効用は両方ともほぼ同じです。その点から見ても甚だ重宝です。それにこの油の特色は他の植物性のものの様に不消化でないです。動物性と同じ位に消化こなれますと云われたので急に豆油が難有ありがくなった。矢張り天麩羅などに出来ますかと聞くと、無論出来ますと答えたので、近き将来に於て一つ豆油の天麩羅を食って見様みようと思ってその部屋を出た。(『漱石紀行文集』29頁)

 今では、大豆油はいわゆるサラダ油の原料などとして広く使用されているが、この時代には日本でも欧米でもまだ一般的なものではなかったのであろう。

 中央試験所を出た漱石と中村是公は「電気公園」(電気遊園)、西公園などを経て、大広場から東に少し離れた満鉄本社に行った。そこで漱石は満鉄のいろいろな事業について詳しい説明を受けた。

 9月9日、漱石は知人に連れられて、ある油房(大豆油製造所)を訪ねた。「満韓ところどころ」には、その油房における豆油の製造過程がかなり詳しく書かれている(『漱石紀行文集』50-53頁。ただし、この油房の名前や立地については何も書かれていない)。漱石の記述には分かり難い箇所がかなりあるが、ここでは漱石の記述をそのまま摘記する。

 「〔油房の〕三階へ上って見ると豆ばかりである」。「此方の端から向うの端迄眺めてみると、随分と長い豆の山脈が出来上っていた。その真中を通して三ケ所程に井桁に似た恰好の穴が掘てある。豆はその中から絶えず下に落ちて行って、平たく引割られるのだそうだ。時々どさっと音がして、三階の一隅に新しい砂山が出来る。是はクーリー〔中国人労働者〕が下から豆の袋を脊負って来て、加減の好い場所を見計らって、袋の口から、ばらに打ち撒けて行くのである」。「彼等の脊中に担いでいる豆の袋は、米俵の様に軽いものではないそうである。それを遥の下から、のそのそ脊負って来ては三階の上へ空けていく」。「通り路は長い厚板を坂に渡して、下から三階迄を、普請の足場の様に拵えてある。彼等はこの坂の一つを登って来て、その一つを又下りて行く」。「三階から落ちた豆が下に回るや否や、大きな麻風呂敷が受取って、忽ち釜の中に運び込む。釜の中で豆を蒸すのは実に早いものである。入れるかと思うと、すぐ出している。出すときには、風呂敷の四隅をつかんで、濛々もうもうと湯気の立つやつを床の上に放り出す」。「彼等〔クーリー〕は胴から上の筋肉を逞しく露わして、大きな足に牛の生皮を縫合せた堅い靴を穿いている。蒸した豆をで囲んで、丸い枠を上から穿めて、二尺ばかりの高さになった時、クーリーは忽ちこの靴の儘枠の中に這入って、ぐんぐん豆を踏み固める。そうして、それ螺旋らせんの締棒の下に押込んで、をぐるぐると廻し始める。油は同時に搾られて床下の溝にどろどろに流れ込む。豆はまったくの糟だけになって仕舞う。凡てが約二、三分の仕事である」。「この油がポンの力で一丈四方もあろうという大きな鉄の桶に吸上げられて、静かに深そうに淀んでいる所を、二階に上がって三つも四つも覗き込んだときには、〔落ちそうで〕恐ろしくなった」。「クーリーは実に美事に働きますね。且非常に静粛だ、とがけに感心すると、案内は、とても日本人には真似も出来ません、あれで一日五、六銭で食っているんですからね。どうしてああ強いのだか全く分りませんと、も呆れた様に云って聞かせた」。(『漱石紀行文集』50-53頁)

 漱石が視察したこの油房は日本人経営の油房のようであるが、ほとんどの工程を「クーリー」の労働力に頼る旧式の油房であった。この時代にはまだこういう油房が多かったのであろう。

2. 大連の油房

 1866年に、満洲における初めての油房が設立され、大豆油と豆粕の製造が始まった。その場所は営口であった。営口は満洲随一の大河遼河の河口近くに位置する港町で、遼河の水運によって満洲各地から大豆が営口に集まってきたからである。その後、営口の油房数は増大を続け、1910年頃の最盛期には35か所に上った。しかし、南満洲鉄道(満鉄)が開業し、大豆が鉄道で輸送されるようになると、満鉄路線から離れている営口の油房数は急速に減少していった(満鉄地方部勧業課『満洲大豆』満蒙文化協会、1920年、26-27頁)。

 営口に代わって満洲の豆油・豆粕製造業の中心となったのは大連であった。大連で最初の油房が設立されたのは1906年であるが、その後油房数は急激に増大し、1919年には60か所となった。その内訳は中国人経営の油房53、日本人経営の油房4、日中合弁の油房3であった(前掲『満洲大豆』、29頁)。

 大連にはこれらの在来形の油房とは全く異なる豆油製造工場があった。前述のように、満鉄中央試験所では大豆から豆油を抽出する方法を研究していた。ドイツでベンジン抽出法という化学変化を利用した全く新しい豆油抽出法が開発されると、いちはやくその特許権を入手し、1914年、「満鉄豆油製造所」を設立して、試験的な操業を始めた。しかし、満鉄が豆油製造所を経営することに対しては反対が強く、翌1915年、「満鉄豆油製造所」は鈴木商店に譲渡された。鈴木商店は「満鉄豆油製造所」の工場と特許権を継承し、鈴木油房と名付けた。したがって、鈴木油房は大連埠頭の東側の満鉄埠頭地区内にあった。

 鈴木油房の豆油と豆粕製造能力は在来型の油房に比べるときわめてすぐれたものであった。大豆はあまり油の含有量が多くない原料で、在来型の油房では原料に対する採油量は9~10パーセントであったが、ベンジン抽出法の場合は14~15パーセントとなった。肥料あるいは飼料として利用される豆粕は残留油分や水分が少ない方がよいのだが、在来型の油房の場合、残留油分が7~9.5パーセント、含有水分が13~19パーセントなのに対して、ベンジン抽出法の場合は、それぞれ2.5~3パーセント、4~13パーセントであった(前掲『満洲大豆』、32頁)。在来型の油房と鈴木油房では、これほどの生産性の差があったのである。

 しかし、鈴木商店は第一次世界大戦終了後の不況の中で債務超過に陥り、その豆油製造部門は1922年に設立された豊年製油株式会社に移され、鈴木油房は豊年製油大連工場として操業を続けることになった。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.52)

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世界史の中の北前船(その1)
南塚信吾

はじめに  

 江戸時代から明治の中頃にかけて、蝦夷から大坂、あるいは薩摩へいたる海路を行き交う船があった。それは主に日本海側を航行し、「バイ船」あるいは「北前船」などと呼ばれていた。航海術が発達していなくて、偏西風のせいで太平洋に流されることを恐れた時代に在っては、日本海側のこの輸送手段は重要な役割を演じていた。これは蒸気船が出現する前には、日本の重要な輸送手段であった。これらの船の中には、漂流して国外で救助され、長期の国外生活を経て帰国するものもあった。

 このような船を、本稿では「北前船」という呼び方で統一するが、これは大坂を始め瀬戸内海地域での呼び方で、北陸などでは「バイ船」「バイバイ船」などと呼ばれていた(呼び方については諸説があるが、さしあたり牧野「北前船の時代」による)。「北前」といういい方は、瀬戸内から見て北の、日本海側(陸も海も)を指す語として使われ、そこを通って瀬戸内に入ってくる船を、瀬戸内の人が「北前船」と呼んだという(牧野、2005、13頁)。

 この北前船をどのように定義するかについてはいくらか議論があるが、本書では、「北国の船で蝦夷地を含めた日本海の諸港と瀬戸内・大坂を結んだ不定期の廻船で、買積みを主体とし」た船(牧野、2005,17頁)としておきたい。「北国」というのは瀬戸内から見て「北」という意味で、「北陸」に限ったものではない。ただし、この船は、長崎、薩摩へも出かけていた。そしてポイントは、たんなる輸送船ではなく、港々で商売をする船(買積み船)であったということである。

研究史

 北前船と漂流船・長者丸についての研究は、戦前は別として、1950-60年代に先駆的研究が現れて以来、現在まで続いている。1980年代には、研究はやや下火になったが、1990年代には、「土地制度史」や「表日本」への反発から、海上交通への学術的な研究が登場し、郷土史の一部として海上交通が組み込まれるようになり、北前船が再び注目された。それを受けて、21世紀に入ると、カルチュラル・スタディーズや「人の移動」などへの関心や商業資本としての北前船への関心から研究が深められた。これは、2017年に北前船が日本遺産に認定されると、一層進展した。研究は、各地においてさまざまな組織、集団によって積み上げられている。

 ところが、以上のような北前船研究は、二つほど問題を抱えている。一つには、松前を越えた蝦夷のアイヌの関与と、薩摩の先の琉球の役割についての研究を取り込むことである。これらの研究は、われわれの視野をもっと先の樺太、千島をへて満洲やシベリアへと広げるものである。今一つは、日本史研究の本流と交わらせることである。日本史研究は、江戸時代の対外政策の見直しが進み、蝦夷、対馬、長崎、琉球の四つの港での交易などによる「四つの口」が注目されるようになり、世界史の中で日本の歴史を考えようという動きが広がっているが、この「四つの口」を活性し相互に繋いでいた北前船は、しかるべく位置付けられていない。この二点を含め、北前船を、より広い観点から見直すならば、それが、世界史の問題として議論すべきであることが、理解されてくるはずである。

1. 日本海の海路

 北前船の起源は難しい。牧野は、北国と大坂を結ぶ輸送路と、北国と蝦夷地を結ぶものとを分けて考え、その両者を近江商人が結び付けて、北前船が登場したと見ている(牧野、2005、19頁以下)。

(1) 北国と大坂―西廻り航路

 日本海における船による海路は、すでに7-8世紀には見られたようで、米など貢納物を越後、越中、能登、加賀から敦賀や小浜に船で運び、そこから陸路―琵琶湖―陸路を経て京に運ぶルートができていた。しかし、北国から下関を経て瀬戸内に至る船のルートは、長らく開かれなかった。開かれたのは、江戸時代になってからであった。1639年(寛永16年)に加賀藩主前田利常が下関経由の船で年貢米を大坂に送ったのがきっかけと言われる。これ以後、下関経由の廻米船が発展した。とくに、すでに幕府の依頼で東北から江戸までの「東回り航路」を開拓していた河村瑞賢が、同じく幕府の意向を受けて、1672年(寛文12年)に酒田から下関を通り大坂へ向かう「西廻り航路」を整備したことによって確立した。しかし、牧野によれば、ここに「北前船」が始まったのではなかった。それは藩の雇船で藩の荷物である年貢米を運んだのであり、民間の商人の廻船ではなかったからである(牧野、2005、23頁)。

(2) 北国と蝦夷地

 一方、北国と蝦夷地を結ぶ航路はどうか。北国と蝦夷地を結ぶ海上交通は、中世から見られた。蝦夷は昆布などの産地として、敦賀や小浜を経て、京に繋がっていた。昆布の交易船が北海道の松前と本州の間を、盛んに行きかうようになったのは鎌倉時代中期以降であるという。室町時代に入ると、蝦夷地から越前国の敦賀まで船で運ばれ、そこから陸路と琵琶湖を通って京都・大阪まで送られたとされる(北海道漁連)。その室町時代の後半16世紀には、近江商人が東北から蝦夷に入っていた。そして、1604年(慶長9年)に松前氏が徳川氏によって蝦夷地の支配者として認められると、松前氏は現地のアイヌとの通商の仕事を内地から来た近江商人たちに委ねた。彼らがアイヌとの取引で内地へ送る荷を運ぶ船は、松前から敦賀ないし小浜の港を行き来し、船乗りには北陸の船乗りが雇われた(牧野、2005、41頁;淡海文化を育てる会、2001、121-127頁)。

 こうして、北国―下関―大坂という航路と、蝦夷―北国―敦賀という航路ができたが、やがて、この二つが統一されてくる。

2. 北前船―近江商人

 ほぼ宝暦―天明期(1750-1780年代)に、近江商人を介して、蝦夷方面と下関経由の大阪方面が接続され、のちに言う「北前船」が始まったと言われる(牧野、2005、25-30頁)。近江商人の資金的後押しを受けて、加賀など北陸の船乗りから船主になる者が現れ、自立的な船商売をするようになる。もはや藩の雇船でもなく、近江商人の「荷所船」でもなく、自立して商売をする船主ができたのである。かれらは蝦夷の松前―北陸―下関―瀬戸内海―大坂を結ぶルートで活躍することになる。

 これは、まもなく江戸にもつながり、松前―北陸―下関―大坂―江戸という航路となり、これは、それ以前に拓かれていた松前から津軽海峡と三陸沖を経て江戸に至る東回り航路と対比されて、西回り航路と呼ばれた。こうして、北前船は二つの航路を持つことになった。ただし、東回り航路は航行が難しく、危険なルートであった。それは、松前から出て、津軽海峡と房総半島という難所を通らねばならなかった。とくに黒潮と偏西風のゆえに東周りは難しかった(牧野、2005,45頁)。それでも重要ではあった(加藤、2003、54-56頁)。

 北前船は単なる輸送船ではなかった。港港で商品を売買して行ったのである。大体は大坂で「冬囲い」をし、春に大坂を出て、北陸、東北、蝦夷へ「下」った。そして、秋に蝦夷を出て「上」った(読売新聞、1997,84頁)。

 「下り」では、大坂を始め瀬戸内海沿岸の港から、綿布、塩、鉄などを買って、北陸や蝦夷へ運んで高く売り払った。北陸からは、米や筵などを買い込んで、蝦夷で売った。「上り」では、蝦夷からニシンや昆布や木材を買い込んで、北陸などの港や大坂方面で売りさばいた。また途中の北陸の港からは米、衣料、雑貨を買い込んで、大坂方面へ輸送し、そこで換金した。儲けた現金は大坂の商社に預けた。ニシンは〆粕として肥料となった。ニシンは富山などの米を増産し(読売新聞、1997,70-71頁)、大阪の綿花生産はニシンの肥料で増産(読売新聞、1997,85-86頁)した。昆布は富山や大坂で大量消費された。こういう北前船のバイバイ活動が重要であった。

 18世紀中頃には北陸に自立した北前船の船主たちが現れ、かれらの盛期は、江戸後期から明治の前半であった。そうした船主は日本海側を中心に各地の豪商として現れた。

3. 長崎と琉球

 だが、北前船がつなぐ地域はこれにとどまらなかった。松前―北陸―下関―大坂―江戸という航路と並行して、松前―北陸―長崎―薩摩という航路ができ上った。これはとくに昆布と関連して発達した(昆布ロード)。江戸後期に入ると、昆布を長崎や薩摩へ運び、中国の物産を持ち帰るようになるのである。

 先ず、北前船は長崎まで行くようになった。そこで中国との公認の交易をした。長崎経由の昆布ロードが本格化したのは、1698年(元禄11年)という説が強い(北前船新総曲輪夢倶楽部、2006,88頁)長崎の唐人屋敷を経由して、北前船が蝦夷からもたらす海産物が中国へ送られ、中国からは薬種などがもたらされた。

 次いで北前船は、薩摩まで行った。薩摩は琉球と中国の進貢貿易に乗じて中国と貿易を行っていた。それは幕府の黙認の貿易であった。当初は、北前船が蝦夷の昆布など海産物を大坂に運び、そこで薩摩の商人が買い付けていたが、やがて、北前船が直接薩摩に運び、そして琉球において、中国との貿易が行われた。これは幕府の公認の長崎貿易と競合するので、幕府と長崎は絶えず監視の目を光らせていた。

 こうして、蝦夷地―松前―北陸―瀬戸内海―大坂―江戸という航路と、蝦夷地―松前―北陸―長崎―薩摩―琉球(-中国)という航路ができあがったのである。じつは、蝦夷地から先も、樺太から満洲へ行くルートと、千島からカムチャツカへ行くルートがあった。ここに北前船は初期的な意味で「世界史の中の北前船」となった。つまり、北は樺太・千島、南は琉球(-中国)へと繋がることになったのである。その重要な物産が昆布であった。いいかえれば、世界に広がる昆布ロードができたのである。

 この昆布ロードは、日本史で言うところの「四つの口」(松前、対馬、長崎、琉球)を活かしつつ、それらを結ぶルートになっていた。これは追い追い検討していくことにしたい。

参考文献
北海道漁連 https://www.gyoren.or.jp/konbu/rekishi.html
読売新聞北陸支社編『北前船 日本海こんぶロード』能登印刷出版部、1997年
淡海文化を育てる会『近江商人と北前船』サンライズ出版、2001年
加藤貞仁 『海の総合商社 北前船』 無明舍出版、2003年
牧野隆信 『北前船の研究』 法政大学出版局、2005年(初版1989年)
北前船新総曲輪夢倶楽部編『海拓 富山の北前船と昆布ロードの文献集』富山経済同友会、2006年

(「世界史の眼」No.52)

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