はじめに
江戸時代から明治の中頃にかけて、蝦夷から大坂、あるいは薩摩へいたる海路を行き交う船があった。それは主に日本海側を航行し、「バイ船」あるいは「北前船」などと呼ばれていた。航海術が発達していなくて、偏西風のせいで太平洋に流されることを恐れた時代に在っては、日本海側のこの輸送手段は重要な役割を演じていた。これは蒸気船が出現する前には、日本の重要な輸送手段であった。これらの船の中には、漂流して国外で救助され、長期の国外生活を経て帰国するものもあった。
このような船を、本稿では「北前船」という呼び方で統一するが、これは大坂を始め瀬戸内海地域での呼び方で、北陸などでは「バイ船」「バイバイ船」などと呼ばれていた(呼び方については諸説があるが、さしあたり牧野「北前船の時代」による)。「北前」といういい方は、瀬戸内から見て北の、日本海側(陸も海も)を指す語として使われ、そこを通って瀬戸内に入ってくる船を、瀬戸内の人が「北前船」と呼んだという(牧野、2005、13頁)。
この北前船をどのように定義するかについてはいくらか議論があるが、本書では、「北国の船で蝦夷地を含めた日本海の諸港と瀬戸内・大坂を結んだ不定期の廻船で、買積みを主体とし」た船(牧野、2005,17頁)としておきたい。「北国」というのは瀬戸内から見て「北」という意味で、「北陸」に限ったものではない。ただし、この船は、長崎、薩摩へも出かけていた。そしてポイントは、たんなる輸送船ではなく、港々で商売をする船(買積み船)であったということである。
研究史
北前船と漂流船・長者丸についての研究は、戦前は別として、1950-60年代に先駆的研究が現れて以来、現在まで続いている。1980年代には、研究はやや下火になったが、1990年代には、「土地制度史」や「表日本」への反発から、海上交通への学術的な研究が登場し、郷土史の一部として海上交通が組み込まれるようになり、北前船が再び注目された。それを受けて、21世紀に入ると、カルチュラル・スタディーズや「人の移動」などへの関心や商業資本としての北前船への関心から研究が深められた。これは、2017年に北前船が日本遺産に認定されると、一層進展した。研究は、各地においてさまざまな組織、集団によって積み上げられている。
ところが、以上のような北前船研究は、二つほど問題を抱えている。一つには、松前を越えた蝦夷のアイヌの関与と、薩摩の先の琉球の役割についての研究を取り込むことである。これらの研究は、われわれの視野をもっと先の樺太、千島をへて満洲やシベリアへと広げるものである。今一つは、日本史研究の本流と交わらせることである。日本史研究は、江戸時代の対外政策の見直しが進み、蝦夷、対馬、長崎、琉球の四つの港での交易などによる「四つの口」が注目されるようになり、世界史の中で日本の歴史を考えようという動きが広がっているが、この「四つの口」を活性し相互に繋いでいた北前船は、しかるべく位置付けられていない。この二点を含め、北前船を、より広い観点から見直すならば、それが、世界史の問題として議論すべきであることが、理解されてくるはずである。
1. 日本海の海路
北前船の起源は難しい。牧野は、北国と大坂を結ぶ輸送路と、北国と蝦夷地を結ぶものとを分けて考え、その両者を近江商人が結び付けて、北前船が登場したと見ている(牧野、2005、19頁以下)。
(1) 北国と大坂―西廻り航路
日本海における船による海路は、すでに7-8世紀には見られたようで、米など貢納物を越後、越中、能登、加賀から敦賀や小浜に船で運び、そこから陸路―琵琶湖―陸路を経て京に運ぶルートができていた。しかし、北国から下関を経て瀬戸内に至る船のルートは、長らく開かれなかった。開かれたのは、江戸時代になってからであった。1639年(寛永16年)に加賀藩主前田利常が下関経由の船で年貢米を大坂に送ったのがきっかけと言われる。これ以後、下関経由の廻米船が発展した。とくに、すでに幕府の依頼で東北から江戸までの「東回り航路」を開拓していた河村瑞賢が、同じく幕府の意向を受けて、1672年(寛文12年)に酒田から下関を通り大坂へ向かう「西廻り航路」を整備したことによって確立した。しかし、牧野によれば、ここに「北前船」が始まったのではなかった。それは藩の雇船で藩の荷物である年貢米を運んだのであり、民間の商人の廻船ではなかったからである(牧野、2005、23頁)。
(2) 北国と蝦夷地
一方、北国と蝦夷地を結ぶ航路はどうか。北国と蝦夷地を結ぶ海上交通は、中世から見られた。蝦夷は昆布などの産地として、敦賀や小浜を経て、京に繋がっていた。昆布の交易船が北海道の松前と本州の間を、盛んに行きかうようになったのは鎌倉時代中期以降であるという。室町時代に入ると、蝦夷地から越前国の敦賀まで船で運ばれ、そこから陸路と琵琶湖を通って京都・大阪まで送られたとされる(北海道漁連)。その室町時代の後半16世紀には、近江商人が東北から蝦夷に入っていた。そして、1604年(慶長9年)に松前氏が徳川氏によって蝦夷地の支配者として認められると、松前氏は現地のアイヌとの通商の仕事を内地から来た近江商人たちに委ねた。彼らがアイヌとの取引で内地へ送る荷を運ぶ船は、松前から敦賀ないし小浜の港を行き来し、船乗りには北陸の船乗りが雇われた(牧野、2005、41頁;淡海文化を育てる会、2001、121-127頁)。
こうして、北国―下関―大坂という航路と、蝦夷―北国―敦賀という航路ができたが、やがて、この二つが統一されてくる。
2. 北前船―近江商人
ほぼ宝暦―天明期(1750-1780年代)に、近江商人を介して、蝦夷方面と下関経由の大阪方面が接続され、のちに言う「北前船」が始まったと言われる(牧野、2005、25-30頁)。近江商人の資金的後押しを受けて、加賀など北陸の船乗りから船主になる者が現れ、自立的な船商売をするようになる。もはや藩の雇船でもなく、近江商人の「荷所船」でもなく、自立して商売をする船主ができたのである。かれらは蝦夷の松前―北陸―下関―瀬戸内海―大坂を結ぶルートで活躍することになる。
これは、まもなく江戸にもつながり、松前―北陸―下関―大坂―江戸という航路となり、これは、それ以前に拓かれていた松前から津軽海峡と三陸沖を経て江戸に至る東回り航路と対比されて、西回り航路と呼ばれた。こうして、北前船は二つの航路を持つことになった。ただし、東回り航路は航行が難しく、危険なルートであった。それは、松前から出て、津軽海峡と房総半島という難所を通らねばならなかった。とくに黒潮と偏西風のゆえに東周りは難しかった(牧野、2005,45頁)。それでも重要ではあった(加藤、2003、54-56頁)。
北前船は単なる輸送船ではなかった。港港で商品を売買して行ったのである。大体は大坂で「冬囲い」をし、春に大坂を出て、北陸、東北、蝦夷へ「下」った。そして、秋に蝦夷を出て「上」った(読売新聞、1997,84頁)。
「下り」では、大坂を始め瀬戸内海沿岸の港から、綿布、塩、鉄などを買って、北陸や蝦夷へ運んで高く売り払った。北陸からは、米や筵などを買い込んで、蝦夷で売った。「上り」では、蝦夷からニシンや昆布や木材を買い込んで、北陸などの港や大坂方面で売りさばいた。また途中の北陸の港からは米、衣料、雑貨を買い込んで、大坂方面へ輸送し、そこで換金した。儲けた現金は大坂の商社に預けた。ニシンは〆粕として肥料となった。ニシンは富山などの米を増産し(読売新聞、1997,70-71頁)、大阪の綿花生産はニシンの肥料で増産(読売新聞、1997,85-86頁)した。昆布は富山や大坂で大量消費された。こういう北前船のバイバイ活動が重要であった。
18世紀中頃には北陸に自立した北前船の船主たちが現れ、かれらの盛期は、江戸後期から明治の前半であった。そうした船主は日本海側を中心に各地の豪商として現れた。
3. 長崎と琉球
だが、北前船がつなぐ地域はこれにとどまらなかった。松前―北陸―下関―大坂―江戸という航路と並行して、松前―北陸―長崎―薩摩という航路ができ上った。これはとくに昆布と関連して発達した(昆布ロード)。江戸後期に入ると、昆布を長崎や薩摩へ運び、中国の物産を持ち帰るようになるのである。
先ず、北前船は長崎まで行くようになった。そこで中国との公認の交易をした。長崎経由の昆布ロードが本格化したのは、1698年(元禄11年)という説が強い(北前船新総曲輪夢倶楽部、2006,88頁)長崎の唐人屋敷を経由して、北前船が蝦夷からもたらす海産物が中国へ送られ、中国からは薬種などがもたらされた。
次いで北前船は、薩摩まで行った。薩摩は琉球と中国の進貢貿易に乗じて中国と貿易を行っていた。それは幕府の黙認の貿易であった。当初は、北前船が蝦夷の昆布など海産物を大坂に運び、そこで薩摩の商人が買い付けていたが、やがて、北前船が直接薩摩に運び、そして琉球において、中国との貿易が行われた。これは幕府の公認の長崎貿易と競合するので、幕府と長崎は絶えず監視の目を光らせていた。
こうして、蝦夷地―松前―北陸―瀬戸内海―大坂―江戸という航路と、蝦夷地―松前―北陸―長崎―薩摩―琉球(-中国)という航路ができあがったのである。じつは、蝦夷地から先も、樺太から満洲へ行くルートと、千島からカムチャツカへ行くルートがあった。ここに北前船は初期的な意味で「世界史の中の北前船」となった。つまり、北は樺太・千島、南は琉球(-中国)へと繋がることになったのである。その重要な物産が昆布であった。いいかえれば、世界に広がる昆布ロードができたのである。
この昆布ロードは、日本史で言うところの「四つの口」(松前、対馬、長崎、琉球)を活かしつつ、それらを結ぶルートになっていた。これは追い追い検討していくことにしたい。
参考文献
北海道漁連 https://www.gyoren.or.jp/konbu/rekishi.html
読売新聞北陸支社編『北前船 日本海こんぶロード』能登印刷出版部、1997年
淡海文化を育てる会『近江商人と北前船』サンライズ出版、2001年
加藤貞仁 『海の総合商社 北前船』 無明舍出版、2003年
牧野隆信 『北前船の研究』 法政大学出版局、2005年(初版1989年)
北前船新総曲輪夢倶楽部編『海拓 富山の北前船と昆布ロードの文献集』富山経済同友会、2006年
(「世界史の眼」No.52)