島木健作の満洲(上)―「満洲開拓政策」批判
小谷汪之

はじめに
1 作家・島木健作の誕生
2 農民文学懇話会と大陸開拓文芸懇話会
(1)農民文学懇話会
(2)大陸開拓文芸懇話会
(以上 本号)
3 島木健作『満洲紀行』
(1)満洲の大日向分村
(2)「自作農主義」政策批判
(3)満蒙開拓青少年義勇軍勃利訓練所
4 『満洲紀行』に対する評価
おわりに
(以上 次号)

はじめに

 島木健作(本名、朝倉菊雄、1903-45年)は札幌に生まれた。父・朝倉浩は北海道庁の官吏であったが、日露戦争時に道庁の仕事で満洲の大連に出張し、そこで病没した。島木2歳の時である。母・マツは朝倉浩の後妻であったが、自分の生んだ2人の子を連れて朝倉家を出た。そのため、島木は兄・八郎と共に、貧しい母子家庭で育つことになったのである。

 島木は14歳の時に、高等小学校を1年で中退し、紹介してくれる人があって、北海道拓殖銀行の「給仕」(雑用係)となった。16歳の時には銀行を辞めて上京し、書生の職を探して医師宅や弁護士宅に住み込んだ。勤務の傍ら、「夜学は正則英語学校に通った。中等部の一番上のクラスに入れてもらった」(島木健作「文学的自叙伝」、島木『第一義の道・癩』角川文庫、所収、198頁)。しかし、翌年、「肺がわるいといふことで、帰郷するのほかないことになった」(同前)。札幌に戻ったその日の真夜中、激しい喀血があり、それきり寝込んでしまった。病気は肺結核だったのである。静養の末、18歳の時、援助してくれる人がいて、旧制私立北海中学4年に編入され、1923年、20歳で同校を卒業した。その後、上京して、帝国電燈株式会社に入社したが、同年9月1日の関東大震災により職場で負傷し、再度札幌に戻った。負傷が癒えたのち、北海道帝国大学図書館に職を得た。

 1925年、22歳の時、北大の職を辞し、東北帝国大学法文学部専科に入学、東北学連の学生運動に参加し、留置所に入れられる経験もした。翌年には、大学を退学して四国に渡り、日本農民組合香川県連合会木田郡支部の有給書記として、農民運動に加わった。しかし、1928年、日本共産党に対する大弾圧事件である「3・15事件」に連座して逮捕、勾留された。勾留中に肺結核が悪化し、1929年には、「再び政治運動に携はることはないと転向の言葉を法廷に述べ〔た〕」(「文学的自叙伝」202頁)。しかし、翌年有罪が確定し、大阪刑務所に収監された。そこで激しい喀血があり、刑務所内の隔離病舎に移された。

1 作家・島木健作の誕生

 1932年、刑期を1年残して仮釈放された島木は、当時東京・本郷で古本屋を営んでいた兄のもとに身を寄せ、その手伝いをしながら、療養に努めた。その結果、「可能な程度で農民のための仕事に身を近づけようと準備する迄になってゐたが」、1933年12月、病気(流行性感冒)に倒れ、断念せざるを得なかった(「文学的自叙伝」203頁)。そのような状況の中で、「長い長い間忘れてゐた文学的な表現で何か書いて見たいといふ欲求がママへがたい強さで湧いて来た」(同前203頁)。こうして書かれたのが島木の処女作「癩」で、1934年に発表されると、大きな反響を呼んだ。「癩」は基本的には私小説で、その主人公「太田」は島木自身とほぼ重なる。

 「太田」が収監されていた刑務所内の隔離病舎には「一舎」と「二舎」という2棟があり、結核の服役者は「一舎」に入れられることになっていた。しかし、「太田」は「共産主義者」ということで、その影響が他の服役者に及ばないように、「癩病患者」用の「二舎」の独房に入れられた。その隣の房には1人の「癩病患者」がいて、そのさらに隣の雑居房には4人の「癩病患者」がいた。「太田」は彼らの言動を観察する中で、彼らが旺盛な食欲を持ち、性欲も持っていることを知った。「癩」は「太田」の見たそのような「癩病患者」たちの姿を描いた作品であるが、そのリアルな描写が読む人に強い衝撃を与えたのである。

 「癩」は、1934年3月にナウカ社から刊行されはじめた『文学評論』の同年4月号に掲載された。ただ、掲載に至るまでにはいろいろな経緯があった。それまで出版界とまったく縁のなかった島木をナウカ社に取り次いだのは米村正一であった。米村はソビエト連邦(ソ連)で刊行されていたロシア語の経済書などの翻訳を通してナウカ社の社主・大竹博吉とは関係があった。他方、島木は香川県における農民運動を通して、日本農民組合香川県連合会の顧問弁護士であった米村と知り合った。二人の付き合いの中で、米村は島木に面と向かって、君には文才があるとよくいっていた。それで、島木は書き上げた「癩」の原稿を、読んでもらうために、米村の方に回したのである。「癩」の原稿は「米村正一の手から『文学評論』の発行者たるナウカ社の大竹博吉に手渡され、大竹は更に森山啓、徳永直の二人に、どんなものか読んで見てくれと送りつけた。森山、徳永はいずれも、これはいい作品だとして、『文学評論』に掲載することをすすめた」(高見順『昭和文学盛衰史 上』福武書店、1983年、286頁)。こうして、「癩」は『文学評論』に掲載され、島木は新進作家として華々しくデヴューすることができたのである。

 島木健作というペンネームは、「癩」を発表する時に、初めて使われた。その意味で、「癩」は作家・島木健作の誕生を印すものであった。

2 農民文学懇話会と大陸開拓文芸懇話会

(1)農民文学懇話会

 1938年7月、東北地方を旅行していた「太田」は旅先に転送されてきた一通の手紙を受け取った(島木健作『或る作家の手記』創元社、1940年、94頁。この作品は小説の形を取っているが、すべて島木の体験にもとづいている。したがって、「太田」は島木自身と重なる)。それは作家の「井口」からだった。「手紙の文面は、今度農林大臣のA氏が、農民文学に関係のあるものを呼んで懇談しようといふことになった。ついては君にも是非出てもらひたいと思ふ」というようなことであった。「太田はすぐに返事を書いた。自分の帰京はその頃までには難しからうと思ふから、残念ながら出席することは出来まいと思ふ」と(『或る作家の手記』94-95頁)。

 この「農林大臣のA氏」というのは有馬頼寧のことで、有馬の意を体して、「太田」に手紙を書いた「井口」は徳永直であると考えられる。それは以下の一文から推測できる。

彼〔太田〕は井口とは、三四年前に井口がある文学雑誌の編輯者だった関係から面識があるだけだった。彼は関西の方の農村の事情に通じてゐて、此頃ぼつぼつ農民小説を書きだしてゐた。(『或る作家の手記』94頁)

 「井口」についてのこの文章は「癩」の『文学評論』掲載に至る経緯に関説したものに違いないが、その内容からいって、「井口」は森山啓ではなく徳永直だったと考えられる(「井口がある文学雑誌の編輯者だった」というのは島木の思い違いであろう。徳永は『文学評論』の編輯相談役といった立場で、編輯者はプロレタリア歌人の渡辺順三であった)。『太陽のない街』(1929年)で知られるプロレタリア作家・徳永直がどのようにして有馬頼寧とつながりをもったのかは分からないが、徳永は1933年には「日本プロレタリア作家同盟」(ナルプ)を脱退し、実質的には「転向」していたから、こういうこともあったのであろう。

 有馬頼寧と農民文学作家たちとの懇談会は予定より遅れて1938年10月になって開かれたので、島木健作も出席することができた。その他の出席者は和田伝、丸山義二、打木村治など10名ほどであった。そこで、農民文学懇話会の結成、農民作家の大陸視察への派遣、農民文学賞の設立などについて話し合いが行われた(尾崎秀樹『近代文学の傷痕――旧植民地文学論』岩波同時代ライブラリー、1991年、272-275頁)。農民文学懇話会の発会式は1938年11月に行われ、島木健作など30名ほどの作家が参加した。

 島木は農民文学懇話会に参加した理由について、『或る作家の手記』の中で次のように書いている。

 このやうな会に出席することを承知した時の彼〔太田〕の気持はどのやうなものであったらう。それはただなんとなく勧誘に乗ったといふのでもなく、さういふ会のなかで何か一つ派手にやって見ようと思ったのでもなく、自分の文学をもって大いに政治に奉仕しようと思ったわけでもなかった。人として文学者として生きて行かうとするその頃の彼の気持なり態度なりの自然なあらはれにすぎなかったのである。(96頁)

 この曖昧模糊とした自己韜晦的な文章は、裏に何かを隠しているように感じられる。それは、おそらく、もっと政治的なことだったのであろう。これより2年前の1936年11月、思想犯保護観察法が施行され、島木健作はその対象者とされた。「偽装転向者」ではないかと疑われたのであろう。これにより、島木は1945年まで官憲の監視下に置かれることになった。そのような状況において、有馬頼寧を肝煎りとする農民文学懇話会に参加することは、いわば一つの政治的「保険」のような意味合いをもっていたのではないかと思われる。ちなみに、同じく思想犯保護観察法の対象者とされた高見順は戦後における伊藤整との対談で、次に取りあげる大陸開拓文芸懇話会に関説して次のように言っている。「大陸開拓文芸懇話会、あそこらへ籍を置いとかないと、ふん捕まっちゃうんじゃないかと、僕なんか特にそういう感じがして、いやだったな」(板垣信「大陸開拓文芸懇話会」『昭和文学研究』25号、1992年、85頁)。島木健作も同じような恐れを感じていたのではないだろうか。

 農民文学懇話会は後に日本文学報国会(1942年5月結成、会長は徳富蘇峰)に吸収併合されたことから分かるように、本質的に国策文学団体であった。

(2)大陸開拓文芸懇話会

 農民文学懇話会の結成から約3か月後の1939年2月、大陸開拓文芸懇話会が発足した。こちらは拓務省と満洲開拓に関心をもつ文学者の連携で結成された団体で、会長は岸田国士、委員は福田清人、田村泰次郎、湯浅克衛など6人であった。会員は伊藤整、丹羽文雄らに加えて、農民文学の和田伝、丸山義二など、そして「転向作家」とみなされていた島木健作、徳永直、高見順などで、全部合わせて29名であった。その事業としては、「大陸開拓に資する優秀文芸作品の推薦又は授賞」、「大陸開拓事業の視察並びに見学に対する便宜供与」、「大陸開拓文芸に関する研究会、座談会、講演会の開催並びに講演者、講師の派遣」などが掲げられていた(板垣信「大陸開拓文芸懇話会」、各所)。その点では農民文学懇話会と共通する面が多かった。

 1939年2月18日、大陸開拓文芸懇話会の最初の活動として、満蒙開拓青少年義勇軍の内原訓練所(茨城県水戸市)を1泊で訪問した。参加したのは岸田国士、福田清人、伊藤整、島木健作、高見順、田村泰次郎など、十数名であった。その夜開かれた「懇談会」における島木健作の様子を田村泰次郎は次のように伝えている。

島木はつねに日本農民の大陸進出に関しては、彼らの擁護者であり、その立案者と実行者に対しては監視者であった。私がはじめて彼を知ったのは、〔大陸〕開拓文芸懇話会仲間で水戸の内原訓練所へ見学に行って、一泊した時である。その夜、訓練所側のひとたちや、満州の現地から内地へ出張してきたひとたちと、懇談会があった。その席上で、一座の空気は、開拓民の生活の前途を希望的に肯定した上で、話しあいがつづけられたが、彼ひとりは開拓民の生活の前途は必ずしも楽観できないと、どこまでも喰いさがって、相手側を手こずらせた。その言説は理論的で、その理論はまた、綿密に現地の生活の実態を調べてあるので、相手側にとっては不意を衝かれた感じであった。度の強い、細ぶちの眼鏡を光らせ、幾分、身体を猫背にして乗り出すようにしながら、加藤完治〔内原訓練所〕所長に喰ってかかる島木の姿は、恰度、豹が獲物に躍りかかろうとする姿を思わせた。(田村泰次郎『わが文壇青春記』新潮社、1963年、35頁)

 この時、島木はまだ満洲に行ったことはなかったのであるが、満洲行の準備として満洲や満洲開拓に関する文献を広く読み、さまざまな知識を身につけていた。それに依拠して、満洲開拓についての楽観的な観方を批判したのである。

 大陸開拓文芸懇話会も後に日本文学報国会に吸収併合された。拓務省と連携した国策文学団体であったから、そうなるのも当然だったのであろう。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.59)

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