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「世界史の眼」No.31(2022年10月)

今号では、小谷汪之さんに、「土方久功と鳥見迅彦(下)―「日本の中の世界史」の一コマとして―」をお寄せ頂きました。本論考で、「土方久功と鳥見迅彦」は完結します。(上)はちら、(中)はこちらに掲載されています。また木畑洋一さんに、今年刊行された、『グローバル開発史 もう一つの冷戦』を書評して頂きました。

小谷汪之
土方久功と鳥見迅彦(下)―「日本の中の世界史」の一コマとして―

木畑洋一
書評 サラ・ロレンツィーニ(三須拓也・山本健訳)『グローバル開発史 もう一つの冷戦』(名古屋大学出版会、2022年)

サラ・ロレンツィーニ『グローバル開発史 もう一つの冷戦』の出版社による紹介ページは、こちらです。

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土方久功と鳥見迅彦(下)―「日本の中の世界史」の一コマとして―
小谷汪之

はじめに

1 土方久功の戦中・戦後

 (1) 戦中の土方久功

 (2) 戦後の土方久功

2 鳥見迅彦の戦中・戦後

 (1) 戦中の鳥見迅彦

 (2) 戦後の鳥見迅彦

以上、既掲載

以下本号

3 土方久功と鳥見迅彦の交点

おわりに

3 土方久功と鳥見迅彦の交点

 こうして土方久功と鳥見迅彦の生の軌跡を辿ってきて、二人の交点はどうやら「耳の会」にあったのではないかという見通しに導かれた。それで、「耳の会」について、もう少し詳しく見ておきたいと思う。

 1948年のある日、草野心平と松方三郎が銀座の民芸品店「たくみ」で偶然出会い、「たくみ」の中二階の喫茶室「門」で雑談しているうち、「毎月一回、日を決めて〔何人かで〕ここで会おう」ということになった(草野「後記」『歴程』183号〈特集松方三郎追憶〉、1973年12月、51頁)。松方三郎(1899-1973年)は明治の元勲、伯爵・松方正義の第15男(末子)であるが、松方家第二代当主、松方幸次郎(松方正義の三男)の養子となった。若いころ、ヨーロッパに遊学し、アルプスの山々を踏破して、アルピニストとして知られた。1926年9月3日には、槇有恒、松本重治と共に、アルプスを縦走していた秩父宮に随行してスイスのチナール・ロートホルン(4221メートル)に登頂している(『歴程』183号〈特集松方三郎追憶〉、25頁にその時の写真がある。図版5)。帰国後は実業界に身を置きながら、日本山岳会会長を務め、その間に松方家第三代当主となった。

 この草野心平と松方三郎が始めた集まりには最初名前がなかったのだが、少し後に「耳の会」と名付けられた。この会名を言い出したのは島崎藤村の三男で画家の島崎蓊助であった。

 草野が「耳の会」に最初に誘ったのは串田孫一と藤島宇内だったということである(草野「後記」)。宇佐美英治の場合は草野の宇佐美に会いたいという意向を串田から聞かされ、参加するようになった(宇佐美『辻まことの思い出』みすず書房、2001年、99-101頁)。坂本徳松によれば、坂本や鳥見迅彦も最初のころから「耳の会」に参加していたという(坂本「松方さんと『耳の会』」『歴程』183号〈特集松方三郎追憶〉、28頁)。坂本は別として、草野は主として『歴程』の同人たちを「耳の会」に誘っていたようである(坂本徳松は帝都日日新聞社で草野の同僚であったが、この新聞の大政翼賛的言論に荷担したとして、戦後、野依秀市とともに公職追放となった。その後、坂本はアジア・アフリカ連帯運動に携わり、ベトナム、カンボジヤなどとの友好にかかわった)。『歴程』は戦前の1935年、草野心平、中原中也、土方定一など8人の同人によって創刊された同人誌で、大きな影響を及ぼしたが、戦時下の1944年に終刊した。戦後の1947年、草野が中心となって復刊され、その同人には、串田孫一、藤島宇内、宇佐美英治、矢内原伊作、宗左近、辻まこと、山本太郎などがいた。前述のように、鳥見迅彦も『歴程』同人であった。
 翌年、「耳の会」はメンバーが増え、より広い場所が必要になったのであろう、「日比谷の日産館の地階の畳の部屋」で開かれるようになった(草野「後記」)。日産館におけるある夜の「耳の会」の記念写真には、草野心平、松方三郎、串田孫一、宇佐美英治、藤島宇内、辻まこと、坂本徳松、鳥見迅彦などが写っている(『歴程』183号〈特集松方三郎追憶〉、31頁)。

 その後、「耳の会」は何度か会場を変えたようで、世田谷、上野毛の尾崎喜八の家で開かれたこともあった。その時、鳥見迅彦は尾崎の詩集を何冊も持参して、尾崎に署名を請うたということである(尾崎実子「鳥見さんの懐かしい面影」『歴程』381号〈追悼鳥見迅彦〉、29頁)。

 他方、土方久功は、前述のように、1951年、学習院中等科で一学年上だった松方三郎に誘われて、「耳の会」に出席するようになった。宇佐美英治によれば、ある「耳の会」の帰り道、土方から「僕は南洋に長くいましてね」と声をかけられたのがきっかけとなって、宇佐美と土方は親しくなったという(宇佐美英治「土方久功の彫刻」『同時代』34号〈特集土方久功〉、137頁)。

 1953年に開かれた土方久功の第二回個展の際、宇佐美英治が会場の設営に協力したことについてはすでに述べたが、この第二回個展の後、宇佐美は『同時代』同人の岡本謙次郎と共に、土方宅を訪問した。これをきっかけに、土方は『同時代』の他の同人たちとも親交を結ぶようになった(土方敬子「思い出」『同時代』34号〈特集土方久功〉、171頁)。『同時代』は1948年、矢内原伊作と宇佐美英治により創刊された同人誌であるが、7号で終刊となった。1955年、矢内原、宇佐美の二人に宗左近、安川定男らが加わり、第二次『同時代』が刊行され始めた。その他の同人には、串田孫一、辻まこと、伊藤海彦、池崇一らがいた。これらの同人たちとも親しくなった土方の家では、『同時代』の忘年会がよく開かれた。土方の妻、敬子は「暮れにはアトリエで一晩楽しく賑やかに忘年会を催しました。その時分が一番最良の時であったと思います」と書いている(土方敬子「思い出」)。常連は宇佐美英治、矢内原伊作、安川定男、宗左近、池崇一、伊藤海彦などであった(岡谷公二『南海漂泊』、202-203頁)。

 「耳の会」で土方久功と鳥見迅彦が実際に同席したり、会話を交わしたりしたということを直接的に示す記録は見つけられなかったが、こうした経緯からして、その可能性は高いと思われる。そうでなくとも、宇佐美英治、串田孫一、辻まことなどのように『同時代』と『歴程』の同人を兼ねている人たちが多かったから、土方久功は鳥見迅彦についていろいろと聞き知っていたであろう。前述のように、その鳥見が『けものみち』で1956年度のH氏賞を受賞したので、土方はその同じ年に刊行した詩文集『靑蜥蜴の夢』を鳥見に寄贈することにしたのであろう。しかし、それを通して、土方と鳥見の間に交遊関係が生まれるということはなかったようである。どちらかというとノンポリ的で、政治にあまり関心がなかった土方と、友人たちから「社会主義者」とみられていた鳥見の間には思想の面でも、気質の面でも違いが大きかったからであろう。

 「耳の会」はその後、一年に一回、赤坂、嶺南坂の松方三郎宅で開かれることになった(松方が多摩川左岸の瀬田に転居してからは、瀬田の松方宅で開かれるようになった)。松方生前最後の「耳の会」(おそらく1970年)には、草野心平、串田孫一、土方久功、宗左近、坂本徳松、棟方志功などが参加しているが、鳥見迅彦の姿は見られない(『歴程』183号〈特集松方三郎追憶〉、44頁)。この頃には、鳥見は「耳の会」から遠ざかっていたのであろうか。

 土方久功は『靑蜥蜴の夢』刊行後も、南洋の人々や風景をモチーフとした多くの木彫や絵画を制作しつづけた。1965年に書いた「あの頃は」という詩では、「あの頃は楽しかりにき/南海に釣りし 泳ぎし/裸のくらし」(詩集『旅・庭・昔』大塔書店、1965年、所収)と南洋の生活を懐かしんでいる。しかし、土方は二度と南洋を訪れることはなかった。アメリカ信託統治下に入った南洋の島々の変わり果てたであろう姿を見るに忍びなかったからだと思われる。

 他方、鳥見迅彦はその後次第に『歴程』よりも、雑誌『アルプ』との関係が深くなっていったようである。『アルプ』は1958年に創文社から発行され始めた山の文芸誌で、その中心となったのは串田孫一と尾崎喜八であった。創文社の編集者で、『アルプ』の編集を担当した大洞正典は、執筆者には「草野心平さんを始め、鳥見迅彦、辻まこと、山本太郎、矢内原伊作といった『歴程』と関わりの深い方々」が多かったが、「尾崎喜八さんと共に、鳥見さんは『アルプ』にとって、かけがえない詩人であった」と書いている(大洞正典「山の詩人として」『歴程』381号〈追悼鳥見迅彦〉、27頁)。鳥見の第二詩集『なだれみち』(1969年)は大洞の協力で創文社から刊行された。

おわりに

 パラオから帰国するや否や、北ボルネオに占領地司政官として派遣され、現地で病を悪化させた土方久功。日本の傀儡、汪兆銘政権の宣伝活動のために5年間にわたって中国に滞在し、その後の半年以上、国民政府の捕虜収容所に入れられていた草野心平。天皇制ファシズムの狂暴な拷問によって、終生消えることのない精神的「傷痕」を負い、それを詩に昇華させようとした鳥見迅彦。そして、戦時下、戦意高揚のための詩を大量に発表し、戦後はそのみそぎのように、岩手の山中に粗末な山小屋を建てて、7年間も独居した高村光太郎。これらの人々の存在はまさに「日本の中の世界史」の現れということができるであろう。世界史は近代という時代を生きた人々の生の中に深く浸透していたのである。

(「世界史の眼」No.31)

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書評 サラ・ロレンツィーニ(三須拓也・山本健訳)『グローバル開発史 もう一つの冷戦』(名古屋大学出版会、2022年)
木畑洋一

 第二次世界大戦終結後1990年前後までの世界史は、冷戦の歴史として描かれることが多い。しかし近年では、この時期に同時に進行していた脱植民地化に重点を置く視点も浮上してきている。評者も『二〇世紀の歴史』(岩波書店、2014年)で、帝国主義世界体制の解体過程を軸としてこの時代の世界史を捉えていくという見方を提示した。冷戦史自体についても、脱植民地化との関連を考慮して再検討するという試みが、O・A・ウェスタッド『グローバル冷戦史:第三世界への介入と現代世界の形成』(名古屋大学出版会、2010年)、同『冷戦:ワールド・ヒストリー』(岩波書店、2020年、本書については「世界史の眼」No.9, 2020年12月、で紹介した)などによって成されてきている。

 冷戦と脱植民地化の絡み合いには、冷戦下の「熱い戦争」と植民地解放戦争の関連、冷戦イデオロギーと脱植民地化をめぐる諸思想との関連など、さまざまな側面があるが、一つのきわめて重要な要因が、旧植民地諸国を対象とする開発援助の問題である。脱植民地化によって新たに独立した国々が経済的に自立し発展していく(経済的脱植民地化)ためには、外からの支援を必要としたが、そうした支援策としての開発援助に、冷戦の東西両陣営にまたがる「先進国」側はさまざまな思惑を抱きながら取り組んでいった。この問題への関心も近年広がっており、そうした問題意識に発する研究として、日本でも、渡辺昭一編『冷戦変容期の国際開発援助とアジア:1960年代を問う』(ミネルヴァ書房、2017年)や秋田茂『帝国から開発援助へ:戦後アジア国際秩序と工業化』(名古屋大学出版会、2017年)などの成果が生まれている。

 本書評の対象である『グローバル開発史』は、この問題にがっぷりと取り組んだ研究書であり、広い視野で冷戦期の開発援助問題に歴史的分析のメスを入れている。原著の副題「一つの冷戦史 A Cold War History」が訳書の副題では「もう一つの冷戦」と若干のニュアンスを加えたものにされているが、本書が行っているのは、まさに冷戦史の見直しであり、訳書の副題はそれにふさわしいといえよう。

 本書の内容の詳しい説明は、本書巻末の「訳者解説」のなかで要を得た形でなされているので、ここではごく簡単な紹介にとどめておきたい。

 まず第1章では、第二次世界大戦までの植民地支配のもとであらわれてきた植民地開発思想と大戦期における開発への取り組みが概観される。第2章からが冷戦期を扱う本論となり、第2章では1949年に公表されたポイント・フォア・プログラムを軸としてトルーマン政権期の米国における経済開発計画の様相が紹介される。次の第3章で開発援助に対するソ連側の姿勢が論じられた後、第4章の対象は再び西側に戻り、1950年代、米国のアイゼンハウアー政権が開発援助に消極的であったのに対し、60年代に入って登場したケネディ政権が近代化論を掲げつつ、援助に積極姿勢を示したことが強調される。さらに、58年のEEC結成に示されたヨーロッパ統合の動きが、開発援助と密接に関わっていたことが指摘される。このEECの問題は、国際機関に焦点を合わせた第5章でも引き続いて取りあげられるが、ここでは他に、西側の機関として経済協力開発機構(OECD)に作られた開発援助委員会(DAC)が、東側の機関として経済相互援助協議会(コメコン)の技術援助常設委員会が、分析の対象となる。国際機関の検討は第6章にも続き、国連での議論や世界銀行の活動が紹介された後、64年における国連貿易開発会議(UNCTAD)の設立が取りあげられる。次の第7章では70年代の展開が扱われ、社会主義圏の見方が改めて論じられた上で、援助の対象とされていた国々による新国際経済秩序(NIEO)の要求が取りあげられる。70年代には先進国において環境問題が浮上し、経済成長への疑義も出てくるが、その状況下での開発援助をめぐる議論を対象とするのが第8章であり、さらに第9章では世界銀行によるベーシック・ニーズという考え方の提唱や人権思想との関連が扱われる。続く第10章で、開発思想が新自由主義によって攻撃され、経済成長が重視される方向が再び強まった80年代の状況を描いた後、終章で援助をめぐる最近の状況に触れながら、著者は本書を閉じるのである。

 以下、本書について評者が抱いたいくつかの感想を述べてみたい。

 本書の特徴としてまずあげるべき点は、開発援助を行う側の思惑と姿勢について、実に幅広い検討が行われていることである。従来の開発援助研究では西側諸国、とりわけ米国やイギリスについてはかなり周到な分析がなされてきたものの、冷戦におけるもう一方の陣営であるソ連や東欧に関しては、十分な検討が行われてこなかったという感がある。それに対し、本書の著者は、ソ連側を扱うに際しては史料的制約が大きいことを認めつつ、その姿勢を明らかにすることに相当程度成功している。スターリンがこの問題に関心を抱いていなかったこともあって、ソ連の関わりが積極化したのはスターリン死後であったが、その場合も、開発問題は帝国支配の遺産であるという基本的な認識があり、援助の対象となる独立国は基本的に西側陣営に属するという見方が継続したのである。

 帝国支配から開発援助へという流れは、著者がヨーロッパ統合の動きのなかに開発援助問題を位置づける努力を払っていることによって、本書ではっきりと看取することができる。「ヨーロッパ統合は、帝国の共同経営のための事業だった」(79頁)といった大胆な言明も、本書の叙述のなかでは十分に生きている。ヨーロッパ経済共同体(EEC)設立時の議論や、その後のEEC、ECの「第三世界」政策は、近年日本でも本格的な研究の対象となり、黒田友哉『ヨーロッパ統合と脱植民地化、冷戦:第四共和制後期フランスを中心に』(吉田書店、2018年)というすぐれた業績などが出されているが、本書は、その歴史的位置づけが説得的になされているのである。

 著者はまた、中国の対アフリカ援助政策も一定の紙幅をさいて検討している。中国のアフリカへの関わりが最近になって出てきたわけでなく、すでに冷戦期から見られていたことは、タンザン鉄道の事例でこれまでも知られていた点ではあるが、ソ連・東欧の姿勢と並べて論じられることによって、それについてのイメージはきわめて明確になった。

 このように、従来の開発援助研究で周縁部に置かれていた主体についての議論がなされている一方、評者の問題関心から若干の不満を覚えた点がある。それは、イギリスやオーストラリアを軸とするコロンボ・プランの扱い方の軽さである。本書の主題を論じる上でこのプランはきわめて重要な意味をもつにもかかわらず、本書での言及は2箇所のみで、しかもその中身に詳しく立ち入ることはされていない。すでにいろいろ議論がなされている対象であるという理由からかとも考えたものの、この欠落はやはり問題であろう。

 それはさておき、このように開発援助にかかわった多様な国々に眼を配ることによって、本書は冷戦と脱植民地化の間の関係の複雑さに光をあてることに成功している。帝国主義の遺産を否定しながらグローバルな冷戦のイデオロギーとして近代化論を掲げた米国と、帝国支配の時代からの継続的要素を強く残しつつ援助にあたった西欧諸国の様相が大きく異なっていたということや、社会主義国が被援助国側の事情にほとんど関心を払わなかったために東南関係が悪化していったことなど、多くの論点が提起されている。評者としては、60年代中葉に米国の政治家のなかに東欧諸国を巻き込んで南の国々を開発する共同戦略を考える者がいたとか(107、123頁)、70年代に東西南三者間産業協力という構想が社会主義陣営の側に存在し、実際に協力活動や東西両陣営の合弁事業のための国家間協定が増えていったとかいう(155頁)指摘にも、関心を抱いた。

 さらに、開発援助に関わった人々が、開発問題をめぐる国際的な知識共同体とでも呼ぶべきものを作り上げていたという著者の指摘も、刺激的であった。本書では、国際連合や経済協力開発機構(OECD)などの国際機関の役割も重視されるが、そこでは「科学的手法に基づく知識共同体が形成」(239頁)されていたのである。本書には、ラウル・プレビッシュとかW.A.ルイスとかいった、この問題に関わるいわばお馴染みの人々に加えて、ECのクロード・シェイソンやフランスのジャック・フェランディなどといった、少なくとも評者にとっては初耳の人々の活動が紹介されている。重要な人物について訳者が「人物紹介」を作成して巻末に置いているのはきわめて有益であるが、望むらくはシェイソンやフェランディなど名前が全く耳慣れない人々も取りあげていただきたかった。

 最後に、本書全体の問題と感じる点として、開発援助が被援助国側に具体的に何をもたらしたかということの扱いがある。被援助国側について相応の議論は行われていることは事実であるし、途上国側から示された「第三世界主義」は、74年に国連の資源特別総会で採択された「新国際経済秩序」(NIEO)にも関わらせながら確かに強調されている。しかし、援助の実態についての踏み込んだ分析にもう少し接したかったという気持ちが読後感として残ったのである。

(「世界史の眼」No.31)

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「世界史の眼」No.30(2022年9月)

今号では、南塚信吾さんに、「「万国史」における東ヨーロッパ I-(3) 明治期「万国史」における「東ヨーロッパ」(その3)」をお寄せ頂きました。本論考で、「「万国史」における東ヨーロッパ」の第一部は完結します。I-(1)はこちら、I-(2)はこちらです。また山崎が、昨年刊行された、『神川松子・西川末三と測機舎-日本初の生産協同組合の誕生』を紹介させて頂きました。

南塚信吾
「万国史」における東ヨーロッパ I-(3) 明治期「万国史」における「東ヨーロッパ」(その3)

山崎信一
文献紹介:南塚信吾(編著)、西川正幹(編集協力)『神川松子・西川末三と測機舎-日本初の生産協同組合の誕生』(アルファベータブックス、2021年)

南塚信吾(編著)、西川正幹(編集協力)『神川松子・西川末三と測機舎-日本初の生産協同組合の誕生』(アルファベータブックス、2021年)の紹介ページは、こちらです。

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「万国史」における東ヨーロッパ I-(3)
明治期「万国史」における「東ヨーロッパ」(その3)
南塚信吾

Ⅰ パーレイ的「万国史」の中で:明治初期の文部省教科書

4. 『巴来(パーレイ)万国史』牧山耕平訳、文部省、1876年(明治9年)

 ようやく明治9年に、寺内章明『五洲紀事』らが依拠したパーレイの本が完訳された。牧山については知られるところは少ないが、他に経済関係の翻訳がある。『巴来(パーレイ)万国史』は、上下各2巻、計4巻からなっていた。それまでは、英語版を文部省内外で読んでいたのであろう。1867年の再渡米のさいに、福沢諭吉が一冊持ち帰っていることが知られている。そのパーレイの全体的な姿が日本語で登場したわけである。原書は「グードリッチ氏ペートルパーレーノ名ヲ假リ著セシ」ものと紹介している。英語版の初版はSamuel Griswold Goodrich (Peter Parley), Universal History: on the Basis of Geography(Boston,1837)である。英語版は何版も出ていて、1885年には日本でも出ていたが、牧山の翻訳にあたっては、1837年版が使われたようである。

 本書は、明治初期の「万国史」のベストセラーであった。これは教科書ではなかったが、自由選択教科書時代の産物であった。すでに述べたように『五洲紀事』の元になった教科書であった。

 緒言では、本書は、「風船ニ駕シテ游行スル事並ビニ目撃スル所ノ奇事ノ説話」であるとし、歴史並びに地理誌の概説、地球上水陸の区分、亜細亜阿弗利加及び其の他の国々の人民、世界の各種の人民のことを述べるとある。ここで、「歴史」は「世界創造以来人世の紀事」(上の一)であり、「既往の事の記録」(上の四)である。

 そして本論では、以下のように五つの洲を次々とめぐっていた。

1)亜細亜:気候・物産・山嶺・人民・動物等、世界の創造及び洪水、ノア及び親族方舟を出ること、アッシリア、ヘブライ、エジプト、ユダ国、救世主、波斯、支那、日本、アラビアとマホメット、アジア総説

2)阿弗利加:地理並びに人民、上古のエジプト、イシオピア、バルバリ・ステーツ(モロッコ・アルジェリア・チュニジア・トリポリ)の海賊、賣奴(奴隷売買)の史

3)欧羅巴:地理及び事情、希臘、波斯戦争、マケドニア、希臘の今世史、羅馬、阿多曼(オットマン帝国)、土耳古史の結末、西班牙(スペイン)、ムール戦争、「宗門検査」、葡萄牙、仏蘭西、高盧〔ゴール〕人、シャルルマン、十字軍、封建の制度、仏蘭西諸王、仏蘭西革命の乱、ナポレオン、ナポレオン三世、瑞西(スイス)、日耳曼(ゲルマン)、墺太利及び洪牙利、洪牙利・波希米亜(ボヘミア)・チロル、普魯西(プロシア)、魯西亞(ロシア)、瑞典(スウェーデン)、臘巴蘭(フィンランド)・那威(ノルウェー)・丁抹(デンマーク)、大猊列顛(グレートブリテン)・阿爾蘭(アイルランド)

4)亜米利加、アイスランド・グリーンランド、南亜米利加、西印度

5)オーシェアニカ(オセアニア)、ポリネシア

 以上のように、聖書によって創世とノアの子孫から始めている。世界各地を巡って、それぞれの国や地域の地理を押さえたうえで、その歴史を古代から近代まで縦に述べて並列していた。そこには「中心」も「周辺」もなく、どの国どの地域も排除はされないはずであった。ただ、記述の比重は、ヨーロッパが圧倒的で、ほぼ半分を占めていた。

 では、この中でヨーロッパの東部はどのように扱われていたのだろうか。寺内らはこの本に依っていると書いていたが、全文が翻訳されてみてどうであろうか。結論的に言えば、東部では、ギリシア、ハンガリー、ボヘミア、ポーランドが出て来る。

 先ずは、ギリシアである。ギリシアの「今世史」が古代ギリシアの崩壊の後に来る。そこでは、人民の戦いにより多く注目されている。

「1450年の頃に至り、土耳古より東羅馬を侵伐して希臘国を略奪す。爾後殆ど四百年間土耳古人は希臘人を奴隷の如く接遇せり。」

「其後、千八百二十一年に至りて希臘人其残虐を惡み、遂に土耳古に叛けり。因りて忽ち戦争起り争乱久しく絶えず、互に暴虐を行ふこと甚し。」

「諸国の人民、希臘を援るもの多し。是皆其国史を知り、且古昔の名誉を悲みて親愛せし者なり。彼の高名なる英吉利の詩人ロルト(ロード)・バイロンも亦此国の為に死したり。」

「土耳其の人民は性質勇悍にして、希臘を棄ることを肯ぜず。希臘人は死を決して必ず其苛酷の管制を脱せんことを欲せり。然れども英仏魯三国の援を得るに非ざれば、其志望を達すること能はざるべし。」

 こうして英仏魯三国の軍事力を借りてギリシアはトルコの管制を脱したが、「自立」して国を治めることができず、三国は「其人民の為めに」君主を選んで、オットーを国王とした。(上の二、第六十五章)

 ここでの土耳古はオスマン帝国のことである。まだ「独立」という概念はできていないようで、「自立」が使われている。その「自立」も英仏魯三国に依存していたことが指摘されている。

 つぎにハンガリーである。ハンガリーについては詳しい記述を設けている。 

「匈牙利は、広大の国にして、数州を其の版図中に有す。都会ブダは、大奴皮(ダニューブ)河畔に位して頗る壮麗なり。」「気候は和煦にして美味の葡萄を産す。之を以って精良なる葡萄酒を醸す。山は金銀を産すること頗る多し。其の人民(inhabitants)は貧富の二類に別てり。富者は壮麗なる宮殿に住み、貧者は僅かに富者の奴僕を免かるるのみ。」    

「匈牙利の人民(inhabitants)は猛悪なる数人種(tribe)の混したる者なり。是皆、太古の時、アルタイ山を経過して亜細亜より欧羅巴に移りし者なるべし。其の人種は彼のサラセン帝国を亡ぼして土耳古帝国を創立せるトルクスと呼ばれたる韃靼人種に似たり。」「匈牙利の人種中第一なるものは、ヒュンスと云う。是れ、450年の頃、残忍無道の将師アッチラと云うものに従属して、伊太利を襲撃せり。。。。」

「匈牙利は、。。。1563年に当たりて墺太利帝国の一統する所となる。1848年に至りて其人民(原文になし)コッシュストと云うものに誘導せられ、自由(liberty)を復さんが為に狂妄の謀を為すと雖も、終に其功を遂げず。現今猶墺太利の属国たり。」(下の一 第百二十六章)

という具合である。スレイマンの侵攻などへの言及がなく、ベルギー、おらんだなどとハンガリーをフン人と結びつけていたり、人種的すぎるという点を除いても、貧富の差の指摘など、鋭いものがある。

 注目されるのは、ボヘミアが扱われていることであるが、ボヘミアについては、情報がとぼしく、また混乱している。 

「波希米亜は四囲山を擁して銀鈴及び寶石等の鉱山に富む。人口は幾ど四百万あり、現今の人民多くは猶太なり。又ジプシースと云ふ奇異の流族多し。」

この猶太やジプシーのことは、パーレイの原文自体が、間違っている。くわえて、これに続く一節が不可解である。

「初め此国は紀元前六百年の頃亜細亜より移住せし所のセルツと云ふ人種なりしが紀元後四百五十年の頃、其国は日耳曼人種の其の管制せしによりて遂に駆逐せらる。シャルレマン(シャルルマーニュ)又此国を附庸となすと雖も其後独立して王国となれり。千五百二十六年に当りて又墺太利に属して方今に至るまで其附庸なり。」(下の一 第百二十六章) 

このセルツ(原文ではCelts)が問題で、おそらくケルト人の事であろうが、かれらがアジアに由来するというのも、ボヘミアの人がケルト人であるというのも、パーレイの間違いである。

 最後にポーランドであるが、これは他の本でそうであるようにロシアとの関係では出てこないで、ベルギー、オランダなどヨーロッパの小国らとともに出て来る。 

波蘭は昔欧羅巴中の一国たりと雖も、今は否らず。其土壌東北は魯西亜の轄地に界し、南はドニーストル河に濱し、西は普魯西に接す。千七百七十二年に當りて、魯西亜、普魯西、墺地利の三国の君、其国を囲みて大に其地を分取す。千七百九十五年に三国の君、又其余地を剖割せり。其居民は自主自由の国たらんと欲して奮戦すと雖も、其功を遂ぐるを得ず。其民魯西亜ニコラスの爲めに数千人は徒刑に處せられ、数千人は他国に移されたり。或は其残忍を避けて合衆国に來住するものあり。(下の一、第百三十七章)

 ここでも列強による分割を厳しく批判している。とくに居民の事情を記しているのが特徴である。

***

 東ヨーロッパの記述から見た限りで、パーレイの翻訳本の方法を考えよう。パーレイを基にしていたはずのこれまでの「万国史」、つまり寺内章明訳『五洲紀事』以降、文部省『史略』と師範学校編輯『万国史略』を経て、田中義廉『万国史略』までの「万国史」に比べてどうであろうか。

  1. 五洲を順に回って、その中でも国ごとに縦に歴史を記述する、ヨーロッパは東西の区別なく、国ごとに並列されて構成するという方法は、それぞれ同じく踏襲されていた。
  2. 時代区分はなく、たんに時代順に記述するという方法も同じであった。
  3. 牧山の英語版訳では、「人民」への視線があり、たんなる「権力」の歴史ではないことが分かる。寺内章明訳『五洲紀事』と田中義廉『万国史略』にも「人民」という視線は出て来ていた。その点で、文部省の教科書は「権力」の観点からの歴史で、「人民」「國人」という視線は弱いといえる。
  4. さらには、牧山の訳書では、ハンガリーのところでも分かるように、貧富の差ということも視野に入っていた。これは、寺内章明訳『五洲紀事』以降、『史略』、『万国史略』、田中義廉『万国史略』には出てこない観点であった。
  5. 最後に、英語の訳語について見ると、訳語がまだ流動的であることが分かる。例えば、nationは、「国」ないし「人民」と訳されている。peopleは「人民」で一貫しているがinhabitantsも「人民」と訳されることが多い。したがって、「人民」はpeople, inhabitants, nationの訳語として使われている。そして「人民」の意味は、「住民」であったり、「居民」であったり、「世界の各種の人民」のように使われたりている。「国民」や「民族」という概念はまだ登場していないのである。一方、tribeは「人種」で一貫している。
    政治的な用語では、independentは「自主」で、まだ「独立」という概念は出てきていない。Liberty, freedom はともに「自由」と訳され、重要な概念になっている。
    そして、revolutionは牧山版では「革命」と訳されていて、「仏蘭西革命」と出て来るが、訳語はまだしばらくは定まらず、「動乱」などとも訳される時期は続くことになる。

***

 以上、三回にわたって明治初期における「万国史」において東ヨーロッパがどのように論じられてきたのかを検討してきた。この時期の「万国史」を主導したのは、文部省のグループであった。整備された文部省と学制のもとで「万国史」が積極的に出版されたのである。文部省のグループが依拠したのは、パーレイ(グードリッチ)の「万国史」であった。そのパーレイの本自体は、1876年(明治9年)になってようやく完訳されたのであった。

 しかし、明治6,7年から明治14年の政変までの時期には、パーレイ的な見方とは違った「万国史」も出て来ていた。明治14年以後は「文明史」的な「万国史」で一色になるので、それまでの時期は、非常に面白い時期であった。その時期の「万国史」の検討はいずれ機を改めることにしたい。

(Ⅰ-(1), (2), (3)完)

(「世界史の眼」No.30)

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文献紹介:南塚信吾(編著)、西川正幹(編集協力)『神川松子・西川末三と測機舎-日本初の生産協同組合の誕生』(アルファベータブックス、2021年)
山崎信一

 本書が主として取り上げるのは、神川松子という名の人物である。20世紀初頭に活躍した彼女は、平民社に加わった社会主義者、女性の地位向上を主張する評論家、ロシア文学の翻訳者、生産協同組合「測機舎」の設立者といった、多くの面を持っていた。彼女の女性運動家としての側面は比較的知られているが、その人物像は断片的に理解されることが多く、その他の活動、とりわけ生産協同組合の活動との関わりの中で論じられる機会は多くない。本書は、一つには神川松子という人物のさまざまな事績を統一的に論じようという試みであり、夫の西川末三の植民地官吏としての台湾での体験とも相まって、両者の理想が生産協同組合「測機舎」に結実したことを明らかにしている。

 537ページという大部の本書では、「第一部 測機舎の歴史的意義」において、測機舎の歴史的意義が論じられる。神川松子、西川末三両者の簡単な伝記から、松子と平民社との関わり、末三の台湾体験、ロシア語翻訳者としての松子、当時末三が籍を置いた玉屋商店での労働争議を経て測機舎の設立過程、測機舎への「空想的社会主義者」の影響、設立後の測機舎の状況などが述べられている。そして、本書の紙幅の過半が割かれているのが、300ページを超える分量の「第二部 神川(西川)松子資料」である。彼女自身の手による各種雑誌に掲載された論考、赤旗事件裁判の資料、ロシア文学の彼女による翻訳が収められている。各論考は、平民社時代の『世界婦人』などに掲載のもの、赤旗事件の公判に関するもの、一九一四年以降の女性の地位向上を主張するもの、ロシアの作家イワン・ブーニンの作品の翻訳、トルストイ作品の翻訳に分けられている。「第三部 測機舎誕生関係資料」は、測機舎の設立前後の各種規定や関係する新聞記事をまとめている。以上を見てわかるように、本書には各種資料が掲載されており、神川松子と測機舎の歴史に関して、実際の史料に則して理解が可能となるように作られているのが大きな利点となっている。資料にはそれぞれ、専門家による解説が付されている。

 本書は、2021年の晩秋に刊行されて以降、少なくない反響を呼んだ。『週刊読書人』(2022年2月11日)、『進歩と改革』(2022年2月号)には、書評が掲載され、特にその現代につながる意義が好意的に論じられている。

 本書の刊行には、少なからぬ意味があるだろう。まず、測機舎という日本で最初の生産協同組合の発足から展開にかけての経緯は、純粋に興味深いものである。契機としての玉屋商店経営陣との対立から組合設立への動き、労務出資と金銭出資の組み合わせによる協同組合の仕組みの整備、発足当初の困難の克服といった点は、一つの特異な組織の歴史としての面白さに満ちている。さらに、書評に取り上げられているように、測機舎を、利潤拡大を第一の目的としない現代における「ワーカーズ・コレクティヴ」の先駆者として位置付けることも可能だろう。

 そしてそれに加えて著者が強調しており、私もそれに共感するのは、測機舎の試みが「日本の中の世界史」の一つの実践例として意義を持っている点である。本書が、測機舎の経緯を追うだけではなく、その思想的源泉を同時代の欧米の社会主義思想や協同組合運動の中に追っている点もそれ故だろうし、神川松子の思想形成、西川末三の植民地体験が扱われているのもそうだろう。こうして、測機舎は単なる日本の一生産協同組合としてではなく、この時代の「世界史」を体現するものとして描かれることとなる。

 私は、ヨーロッパのバルカン地域にかつて存在したユーゴスラヴィアの歴史の研究を専門としているが、「測機舎」の生産協同組合のあり方から、第一に連想したのが、社会主義政権下のユーゴスラヴィアで試みられた「労働者自主管理」のことであった。いずれにおいても、「労働者が企業を所有し、経営する」という実践が試行錯誤の中で行われていた。ユーゴスラヴィアにおける労働者自主管理の発展の背景には、ソ連との関係断絶後、ソ連型の国家統制型社会主主義ではない社会主義のあり方の模索があり、出発点は無論測機舎と異なるものだが、その理想としての組織のあり方が非常に類似したものとなっている点は興味深かった。労働者自主管理とその体現したユーゴスラヴィアにおける自主管理社会主義のあり方に関しても、世界史的視野での再検討が必要であろうと感じた。

 最後に、本書は読み物としての面白さにも満ちている。資料に現れる軽快な筆致も相まって神川松子の人物像が生き生きと浮かび上がる。「補遺」として収録されている、西川末三の文章もまた人情味溢れ、二人の魅力を浮かび上がらせる。

 本書を手に取って、神川松子の人間としての魅力、測機舎を巡る波乱万丈の物語に接するとともに、その背後にある同時代の世界との繋がりにも思いを馳せて頂ければと思う。

(「世界史の眼」No.30)

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「世界史の眼」No.29(2022年8月)

今号では、小谷汪之さんに、「土方久功と鳥見迅彦―「日本の中の世界史」の一コマとして―」の「(中)」をお寄せ頂きました。「(上)」はこちらです。また、木畑洋一さんに、平野千果子『人種主義の歴史』(岩波新書、2022年)の書評をお寄せ頂いています。

小谷汪之
土方久功と鳥見迅彦(中)―「日本の中の世界史」の一コマとして―

木畑洋一
書評 平野千果子『人種主義の歴史』岩波新書(新赤版)1930、2022年5月

平野千果子『人種主義の歴史』(岩波新書、2022年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

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土方久功と鳥見迅彦(中)―「日本の中の世界史」の一コマとして―
小谷汪之

はじめに

1 土方久功の戦中・戦後

 (1) 戦中の土方久功

 (2) 戦後の土方久功

 (以上、前々号)

2 鳥見迅彦の戦中・戦後

 (1) 戦中の鳥見迅彦

 (2) 戦後の鳥見迅彦

 (以上、本号)

3 土方久功と鳥見迅彦の交点

おわりに

 (以上、次号)

2 鳥見迅彦の戦中・戦後

(1) 戦中の鳥見迅彦

 鳥見迅彦とみ はやひこ(本名、橋本金太郎)は1910年、横浜に生まれた。父母の名前や生家の職業などについては、分からないことが多い。鳥見は「第三回アルプ教室」(山の文芸誌『アルプ』主催の講演会。『アルプ』については後述)において、「わたくしの山の詩」という講演を行っている(『アルプ』170号、1972年4月、所載)。その中で、鳥見は自らの戦前の経歴について語っているが、中学校卒業までについてはほとんど言及していない。ただ、鳥見の学歴などから見ると、鳥見の家は決して貧家ではなく、ある程度以上の経済力を持っていたと思われる。

 鳥見迅彦は1928年に神奈川県立横浜第二中学校を卒業した。同級には、後に写真家として知られるようになる土門拳がいた。鳥見は東京美術学校(東京芸術大学の前身)図案科と東京高等工芸学校図案科を受験したが、いずれも失敗した。翌1929年、鳥見は横浜市立横浜商業専門学校(横浜市立大学商学部の前身)に入学した。しかし、「会計学とか簿記といった、ゼニ勘定に直接関係ある課目が気に食わない。わたくしは学校をまちがえたのです」と鳥見は語っている。そんなこともあってか、鳥見は左翼雑誌『戦旗』、『ナップ』などを購読するようになり、学校内に「研究会」をつくって、マルクス『賃労働と資本』やエンゲルス『空想から科学への社会主義の発展』といった社会主義文献の学習を行うようになった。他の学校の同様の組織とも連絡がつくようになり、オルグに紹介されたりした。そのうち、「実践」にもかり出され、工場や電車・バスの車庫にアジビラをまきに行ったり、戦争反対のビラを電信柱に貼りに行ったりした(「わたくしの山の詩」105-106頁)。

 1932年2月、最後の卒業試験(倫理学)を受けていた鳥見は、校内に踏み込んできた神奈川県警察部特高課の二人の刑事によって逮捕された。日本共産党員あるいは共産青年同盟のメンバーではないかという嫌疑をかけられたのである。「取り調べは厳重で、かなりひどい拷問を受けました」と鳥見は語っている。一カ月ばかりの間に三つの警察署をたらい回しにされた後、検事局に送られた。そこで鳥見は「今後は実践運動はいたしません」という「手記」を書き、「起訴保留」ということで釈放された。鳥見は「『転向』です。わたくしは挫折に打ちひしがれました」といっている(「わたくしの山の詩」106-107頁)。こんなことで、鳥見は横浜商業専門学校を正式には卒業できず、「修了」という形で学校を出た。

 時はまさに世界恐慌の時代であり、ただでさえ就職難であったうえ、逮捕歴のある鳥見にはまともな就職はほとんど不可能であった。鳥見は、卒業後一年間ほどぶらぶらしていたのだが、その間に文学へと傾斜していった。

 1933年、鳥見迅彦は毎夕新聞社に入社した。毎夕新聞社は明治期に設立され、いろいろと名前を変えた新聞社で、一流新聞社どころか、地方有力紙ともいえない新聞社である。しかし、鳥見のような経歴の者にとっては、就職できただけでよかったのであろう。皮肉のようなことだが、最初は横浜支社に配属されて、警察周りの取材をしていたが、その後、東京本社に移った。毎夕新聞にいたころ、鳥見がいつも暗い顔つきをしているのを心配した同僚に誘われて、正丸峠(埼玉県秩父地方にある峠。標高636メートル)に行き、野山を歩く魅力に気づいた。これを契機として、鳥見は本格的な登山にのめりこんでいった。

 1936年、鳥見は『実業之世界』の野依秀市が創始した『帝都日日新聞』に移った。野依は右翼的・国粋的でありながら、堺利彦などの社会主義者とも付き合うという奇人風の人物で、鳥見の経歴など気にしなかったのであろう。この『帝都日日新聞』で、鳥見は草野心平と出会った。この出会いは鳥見のその後の人生に大きな影響を及ぼした。

 蛙の詩人として知られる草野心平(1903-1988年)は福島県岩城郡上小川村(現、いわき市)に生まれた。生家は土地持ちの旧家であった。しかし、父、馨が「奇矯」な性格の人物で、東京に出て、さまざまな「事業」に関わり、家運を衰退させた。草野心平も磐城中学校を中退して上京し、慶應義塾普通部三年に編入学した。しかし、なじむことができず、英語と中国語の学習に励んで、海外に出ることを考えていた。1921年、17歳の草野心平は慶応義塾普通部を中退して、上海航路の船に乗り込んだ。父の知り合いが中国の広東省広州市で事業を営んでいるので、それを頼りに広州市に向かうためであった。広州市では、アメリカ・キリスト教長老派系のミッションスクール、嶺南大学(中山大学の前身)に入学した。嶺南大学では、安い学寮に住み、いくつものアルバイトをしながら苦学した。

 1925年5月30日、上海で5・30事件が起こった。中国人労働者や学生などのデモ隊に上海共同租界の警察官が発砲し、多数の死傷者が出たことをきっかけとして、激しい民族運動(5・30運動)が起こり、中国全土に広がっていった。広州市でも、1925年6月23日、5・30事件に抗議するデモ隊に英・仏租界の兵士が発砲し、多数の死傷者が出た(沙基事件)。こうして、広州でも民族運動が激化したため、草野心平は卒業を断念し、帰国せざるを得なくなった。しかし、4年半ほどの嶺南大学在学中、多くの中国人の友人を得た

 帰国後、窮乏した草野は前橋に転居し、1929年、上毛新聞の校正係となったが、翌年辞職した。再び東京に戻った草野は壊れかかった古屋台を手に入れて、焼き鳥屋「いわき」を始めた。しかし、草野の家族だけではなく、弟などまで養わなければならず、生活は困窮を極めた。

 1932年、草野心平は野依秀市の『実業之世界』社に、校正係兼編集助手として入社し、1934年には『帝都日日新聞』に移った。そこに鳥見迅彦が入社してきたのである。鳥見の担当は「整理」ということであるが、どういう職種なのかよく分からない。草野によれば、社長の野依の口述する「社説」を草野が筆記し、それを「整理」の鳥見に渡すという分担だったという。それが夜中の11時近くになることもあったということである(草野心平『わが青春の記』日本図書センター、2004年、212、214頁)。とすると、「整理」というのは「割付」を主とする仕事だったのであろうか。

 鳥見迅彦は、草野と一緒に『帝都日日新聞』社を辞職するまで、3年半ほど草野と職場を共にしたのだが、その間に「心平さんから教えられたのは安酒のガブ飲みだけでした」と語っている(「わたくしの山の詩」、109頁)。草野に連れられて「安酒のガブ飲み」をしたのは事実だろうが、それだけではなかったようである。鳥見によれば、たぶん新橋の安飲み屋「三河屋」で一緒に飲んでいたとき、土方定一の詩「トコトコが来たといふ」を草野から教えられたということである(鳥見迅彦「トコトコが来たといふ」『土方定一追憶』土方定一追悼刊行会、1981年、69-71頁)。この詩は後に美術評論家として知られるようになる土方定一がまだ旧制水戸高校の学生だった時に書いたもので、土方が同級の舟橋聖一ともう一人の友人とで出していた同人誌『彼等自身』(1925年11号)に掲載された。草野はこの詩が強く印象に残り、そらんじていたのである。それはこんな詩である。

トコトコが来たといふ

トコトコが朝と一しょに来たといふ

まんぼのやうにねむったら

トコトコで眼がさめたといふ

なんだかうれしいといふ

 トコトコというのは那珂川を上下する川蒸気船のことで、「まんぼ」はいつも眠っているという魚マンボウである。那珂川の川口付近には古い遊郭があり、そのうちの一軒で土方が朝目を覚ました時に交わした会話をそのまま詩にしたものである(草野心平『わが青春の記』127-128頁)。鳥見もこの詩に感じるものがあり、その後、土方定一と親しく交わるようになった。

  1939年11月、鳥見迅彦は草野心平と共に『帝都日日新聞』を辞した。草野が社長の野依と衝突して辞めることになったので、鳥見も一緒に辞めることにしたのである。鳥見は、それから、「満鉄〔南満洲鉄道株式会社〕の東亜経済調査局という機関にはいりまして、そこでアジア諸国の文化を紹介する雑誌の編集にたずさわることになりました。この機関は東京にありました」と語っている(「わたくしの山の詩」、109頁)。「この機関」は正確には「南満洲鉄道東京支社調査室」であろうが、「満鉄東京支社調査室」が、1943年に、機構上は満鉄東亜経済調査局に付属することになったので、こういう言い方をしたのであろう。満鉄職員は半額の乗車賃で国鉄に乗ることができたので、鳥見は満鉄在職中中央線や信越線を利用してひんぱんに登山に出かけていた。冬山登山や岩登りを含む本格的な登山であった。ただし、多くが単独行で、パーティーを組むことは少なかったようである。

 しかし、1944年、鳥見の境遇は一変した。東横線沿線の軍需工場に徴用されたのである。ここで、鳥見は徴用工たちに対して反戦活動をしているという嫌疑をかけられ、神奈川県警察部特高課によってふたたび検挙された。「こんどの拷問は学生時代のそれとは段違いの厳しさでした。〔中略〕毎日やられました」(「わたくしの山の詩」、111頁)。鳥見は次のように書いている。

 手錠や拷問は、反人間的であるという点で、むしろ強烈な人間ドラマである。「けものみち」というモチーフが、ふいに、戦慄をともなってぼくの中心部をつらぬいたのは、その人間ドラマが半地下の暗い密室でむごたらしく演じられた直後、全身むらさきいろに変色して床にほうりだされているぼくを、ぼく自身が薄目をあけて眺めたときだった。

 もしも、あの凶暴な戦争とファシズムとがぼくのうえにのしかかることがなかったならば、ぼくは詩などという不幸な事に手を出しはしなかったろう。(鳥見迅彦「詩集けものみち(小伝)」『現代日本名詩集大成10』東京創元社、1960年、所収)

 「けものみち」は鳥見が戦後になって出す第一詩集の題名となったのであるが、これについては後に見ることとしたい。

 鳥見はこの時も拷問によって殺されることはなかった。今回も「転向書」のようなものを書いたのか、それとも単に嫌疑不十分ということだったのか、鳥見が何も語っていないので分からない。何か言いにくいことがあったのであろうか。ただ、「拷問というものは肉体の苦痛はいわずもがな、その暴行と凌辱から受ける精神の傷痕は一生涯消えはしません」とだけ鳥見は語っている(「わたくしの山の詩」、111頁)。

 他方、草野心平は、1939年12月、東亜解放社に入社したが、翌1940年7月には中国に渡った。同年3月に汪兆銘(汪精衛)が南京に樹立した「中華民国国民政府」に宣伝部専門委員として招聘されたのである。その仲立ちとなったのは草野の嶺南大学時代の友人、林柏生であった。林柏生は汪兆銘のもとで1938年から親日政権(傀儡政権)の樹立にたずさわり、汪兆銘政権成立後、行政院宣伝部部長に就任していた。その林柏生が日中親善のための宣伝活動に草野の助力を求めたのである。

 1944年、草野心平は中国在住日本人による詩誌『亜細亜』の創刊に努力した。その第二号(1944年11月刊)には鳥見迅彦の詩「銀山平」が掲載されている(ただし、作者名は橋本欽)。草野が東京在住の鳥見に寄稿を依頼したのであろう。この詩は越後の銀山平の叙景詩といった趣のものであるが、背後に特高による拷問の「傷痕」を窺うことができる(後に、この詩は鳥見の第一詩集『けものみち』に収載された)。

 1945年8月、日本の敗戦により南京の親日政権(傀儡政権)は崩壊し、草野心平一家はすべての財産を没収されて、収容所に入れられた。ただし、監視の目は緩く、暴行を受けるといったことはなかった。その点では、満洲でソ連軍の捕虜となった兵士や一般人のあまりにも苛烈な状況に比べれば、極めて幸運であったということができるであろう。翌1946年3月、草野は家族と共に帰国した。他方、林柏生の方は、1946年10月、「漢奸」として国民政府により処刑された。

(2) 戦後の鳥見迅彦

 鳥見迅彦がどのように敗戦を受け止めたのか、鳥見が何も語ってないので分からない。戦後、鳥見は何らかの職に就いたのであろうが、それについても語っていない。戦後の鳥見について知られていることはほぼ詩との関係に限られているのである。

 1947年、草野心平が中心となって同人誌『歴程』が復刊された(『歴程』については後述)。鳥見も『歴程』同人となった。1950年、鳥見は『歴程』の「編集長」になり、復刊第7号(1950年11月)、通巻第34号(1951年1月。この号から通巻の号数を表示することになった)、通巻第35号(1951年2月)、通巻第36号(1951年3月)の編集に当たった。この頃、『歴程』の編集会議は草野一家が居候していた練馬区下石神井の御嶽神社の社務所で開かれていた。会議と言っても酒を飲みながらの談論風発といった状態だったようである。1950年から1959年まで、『歴程』の印刷に当たった斎藤庸一によれば、草野をはじめとして皆貧乏だったので、印刷費をなかなか払ってもらえず、とくに終わりの5、6冊の印刷費は「取り立て不能」だったという(斎藤庸一「鳥見さんとの出会い」『歴程』381号〈追悼鳥見迅彦〉、1991年6月、25頁)。この時期、『歴程』の印刷をやめたがる斎藤を慰留するのが鳥見の役割だったようである。

 1948年、草野心平と松方三郎が語らいあって、「耳の会」という集まりを始めた。鳥見迅彦も、おそらく草野に誘われて、「耳の会」に参加するようになった。それによって、鳥見の交遊の範囲は広がっていった。この「耳の会」については、次項で詳しく見ることとしたい。

 1949年、鳥見迅彦は処女詩集『けものみち』の刊行を計画し始めた。題字「けものみち」は高村光太郎に書いてもらいたいと考えた。「左翼」の鳥見が戦時中戦意高揚のための詩をたくさん書いた高村に題字を書いてもらいたいと思ったというのはちょっと不思議な感じがするが、鳥見はそのことを抜きにして、高村の詩業に敬意を抱いていたのであろう。しかし、鳥見は高村を個人的には知らなかったとみえて、草野心平に仲介してもらったようである。高村の「通信事項」(1950年6月1日)には、「草野心平氏にテガミ(けものみち揮毫)」という記載がある(『高村光太郎全集 第十三巻』、501頁)。この時、高村は岩手の山中の粗末な山小屋に独居中であったが、草野の依頼に応えて、「けものみち」という題字を書いて送ったのである。鳥見は『けものみち』劈頭に置く「序詩」の執筆は草野に依頼した。草野は1950年1月14日付で「序詩」を書いた。挿絵は辻まことに描いてもらった。辻まことはアナーキストで戦争末期に餓死したとされる辻潤と伊藤野枝の間に生まれた。しかし、伊藤野枝は辻父子を捨てて大杉栄のもとに走り、1923年9月、関東大震災後の混乱状況の中で憲兵大尉甘粕正彦らによって虐殺された。その後、辻まことは精神に変調をきたした父との関係で苦しむことが多かったが、戦後は才能に任せて、自由な生活を送っていた。彼は鳥見の山仲間でもあった。鳥見は『けものみち』のための「跋文」の執筆を土方定一に依頼した。著者近影というべき写真は土門拳に撮ってもらった。しかし、この時の出版計画は印刷屋の「夜逃げ」や出版者の「挫折」のために流産に終わってしまった。

 1955年7月、鳥見迅彦の処女詩集『けものみち』が昭森社から刊行された。題字、高村光太郎(図版4)、「序詩」、草野心平、写真(撮り直し写真)、土門拳までは最初の計画通りであるが、辻まことの挿絵4点は鳥見が編集した『歴程』4冊の扉絵に流用してしまったので、改めて原精一に描いてもらった。土方定一の「跋文」は印刷屋の「夜逃げ」の際に失われてしまった。なお、鳥見は刊行元昭森社の社長、森谷均とは前述の「耳の会」で知り合ったものと思われる。

 前出のように、「けものみち」という言葉は鳥見迅彦が拷問で全身紫色に変色して、床に転がされている自分自身を薄目を開けて眺めたときに浮かんだモチーフであった。鳥見は『けものみち』の「あとがき」で次のように書いている。

 「けものみち」とは深い山の中をゆききするけものたちのひそかな踏跡のことであるが、ここでは人間の行路を暗示する一つの隠喩として藉りた。奇怪な偏光にてらされながら人生というけものみちをさまよう人々のすがたを思いうかべ、この詩集の題とした。

『けものみち』に収録されている「野うさぎ」という詩はまさにそんな詩である。

そんなにむごい殺されかたで

野うさぎよ!おまえは

殺された

山中の豆畑のけちくさい縄張りを自由なおまえが越えたからか?

アメリカ製のあの残忍な跳ね罠ジャンプ・トラップがおまえにとびついたとき

おまえは自分がわるかったと思ったか?

片足を罠にくいつかれたままどんなにそのいやしい仕掛とたたかったか?

罠ははなれはしなかった

長い耳を降伏の旗のように垂れて

おまえはけれどもその朝まで生きていた

鉈を持ったにんげんがやってきて

おまえを助け出すかわりにおまえの顔や胸をいきなりひどく

それからあとのことはおまえの知らないことだ

おまえは血だらけで木につるされて毛皮をはがれ

肉はこまかくきざまれて鍋に入った

  (わたしがいまもくるしむのは

  (野うさぎよ!)

おまえの殺されかたをだまって見ていたことだ

あのアメリカ製の罠やあの鉈に抗議もせずにいたことだ

おまえのその肉をわたしもじつは食ったことだ

しかもうまいうまいなどとおまえの敵たちに追従わらいをしながら

おまえを食ってしまったそのことだ。

 鳥見の詩は、『けものみち』という書名そのものが隠喩であったように、その多くが隠喩によって構成されている。この「野うさぎ」もその一例である。「野うさぎ」が何の隠喩かは読む者の側に委ねられているのであるが、それが拷問や「転向」と関わっていることは確かであろう。鳥見には自分自身も「奇怪な偏光にてらされながら人生というけものみちをさまよう人々」の一人だという自覚があったと思われる。鳥見の詩には、そのことから発する「罰」の意識が付きまとっている(田中清光「鳥見さんと山の詩」『歴程』381号〈追悼鳥見迅彦〉、24頁)。鳥見は色紙に「山頂への道は/罰のように/つづいている」とよく揮毫していたようである(同前、3頁)。

 前述のように、1956年、鳥見迅彦は『けものみち』でH氏賞を受賞した。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.29)

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書評 平野千果子『人種主義の歴史』岩波新書(新赤版)1930、2022年5月
木畑洋一

 本書の著者は、フランス植民地主義の研究者であり、これまで『フランス植民地主義の歴史』(人文書院、2002年)や『フランス植民地主義と歴史認識』(岩波書店、2014年)など、多くのすぐれた研究を公にしてきた。その著者が植民地主義とは切っても切れない関係にある人種主義に歴史的に取り組んだ成果が、本書である。いうまでもなく、人種主義は近現代世界史を貫通する問題であり、最近ではブラック・ライブズ・マター(BLM)運動を軸として、人類社会の中心的争点の一つとなっている。そうした状況を反映して、人種主義をめぐる研究も盛んである。本書に接する直前、評者はオレリア・ミシェル『黒人と白人の世界史:「人種」はいかにつくられてきたか』(明石書店、2021年、原書は2020年刊)を読んで、その感を強めたばかりであった。

 読みやすい文章で書かれた新書版の本書は、そのような人種主義への関心の新たな広がりによく応じる著作となっている。「人種が、生得的で本質的な性質に基づく、他と区別される人間集団だとすれば、そのようなものはないというのは、今日研究者の間で合意されていることである」(3-4、以下カッコ内の数字は本書の頁数)という点が、本書の出発点となる。人種という問題に関心をもっている研究者ならば当たり前のことと思っているこの点が、広く社会の常識にはなっていないということが、何よりも問題であり、なぜ人びとが人種といった実体があると思い込み、それと差別意識を結びつけて、人種主義に走るようになってきたのか、本書はそれを長期的な歴史のなかで説得的に検討しているのである。

 議論を始めるに際して、著者は、人種主義と人種を次のように定義する。「人間集団を何らかの基準で分類し、自らと異なる集団の人びとに対して差別的感情をもつ、あるいは差別的言動をとることを人種主義とする。」そして、人種主義のもとで「分類された集団が、「人種」として認識されるものである。」つまり人種主義が伴う「差別的なまなざしが、逆説的に人種を作り出しているといえる」のである(11)。これは、歴史的に人種主義と人種の問題に迫っていく上で、きわめて適切な定義であり、著者は、近現代世界の歴史の動態が生み出したさまざまな差別の様態を追いながら、それぞれの時代における人種主義の姿とそのもとで析出される人種像とを論じていく。

 本書の内容をごく大雑把に追ってみると以下のようになる。第1章は「「他者」との遭遇 アメリカ世界からアフリカへ」と題され、大航海時代の始まりから、アフリカ人の奴隷化が広がり始める時期までを扱い、インディオとアフリカ人奴隷に対する差別が問題となるが、人間の分類はこの時期にはまだ本格化しない。「啓蒙の時代 平等と不平等の揺らぎ」という第2章は、17世紀から18世紀を対象とする。人間の分類がリンネやブルーメンバッハ、ベルニエなどによって試みられ、黒人奴隷制の進展を背景とするモンテスキューなど啓蒙主義者たちの人種主義が問題となる時代である。第3章は、「科学と大衆化の一九世紀 可視化される「優劣」」とあるごとく19世紀を扱う章で、人間の「優劣」を科学的に説明できるとする人種主義の理論化がなされるとともに、大衆の間に人種主義が広がり始めた様相が紹介される。植民地支配や人の移動規模の拡大のもとでの人種主義の広がりを、第3章と時代的に重複する時期も含む形で論じるのが、第4章「ナショナリズムの時代 顕在化する差異と差別」であり、社会ダーウィン主義や優生学、黄禍論、イスラーム蔑視、反ユダヤ主義など人種主義に関わるさまざまな思想潮流が紹介される。つづく第5章「戦争の二〇世紀に」は、アフリカ人の大量虐殺やナチの政策のなかに人種主義の到達点を探るとともに、パンアフリカニズムやネグリチュード運動など、人種主義に抗する動きの浮上に触れる。最後に終章「再生産される人種主義」で、著者は、さまざまに形を変えながら再生産されつづけている最近の人種主義の様相を論じるのである。

 こうした形で人種主義の変遷を追うに際して、著者は、それぞれの時代において人種主義を体現した人びとの差別的な視線を単に批判的にとらえていくのではなく、「そのような思想が生まれた時代を問うという、総合的な知の営み」(82-83)が必要であるということを繰り返し強調しているが、それには十分成功している。

 ただ、ひとつ注意しておきたいのは、本書で議論の対象とされているのが、主としてヨーロッパにおける人種主義の展開だということである。その点はオーソドクスといってよく、また時代区分のやり方でも、特に目新しい構成がとられているわけではない。検討の素材となっている人びとも、人種主義論に関連してお馴染みの顔ぶれが多い。しかし、哲学者カントなど、最近この問題に関連する議論が新たに着目されるようになっている対象にもよく目配りがされている。また、よく取りあげられてきた人びとについても、近年の研究動向に即した見直しが随所で行われており、裨益するところが大きい。たとえば、奴隷制をめぐるモンテスキューの議論をめぐる論争や、ゴビノーの人種論の読み直しなどがそれにあたる。「ヨーロッパの人種主義を論じる際に、ゴビノーの名に言及しておけば事足りるかのような姿勢は、そろそろ改める必要があると思われる」(102)という指摘に接すると、人種問題について自分がやってきた講義をふり返って、評者としては耳が非常に痛くなる。セネガルの民族運動家で独立後の初代大統領となったサンゴールが、芸術の発展には黒人の要素が不可欠であると説いたゴビノーを評価したということにも(234)、はっとさせられた。

 全体の行論のなかで、時折著者が特に力をこめて論じていると感じられる部分があるが、それらが非常に効果的な働きをしていることにも注目しておきたい。たとえば、最も美しい人びととされたコーカサス人種をめぐる話題や、逆に人類の序列の最下位に位置づけられることが多かったホッテントットの扱いを詳しく取りあげた部分である。

 気になった点を一つ、最後に述べておこう。それは、本書における日本の扱い方である。著者はいくつかの箇所で日本の問題について触れており、とりわけ終章では、アイヌや琉球の人びとの遺骨返還問題や部落差別問題をクローズアップしている。「今日では差別を問うグローバルな場で、部落差別はいわゆる人種主義の問題と捉えられている。差別が同じ理屈に立脚しているからである。」(239)という点は、本書が立脚している人種主義の定義がもつ重みを示す論点としても重要である。また、第一次世界大戦後のパリ講和会議での日本代表による人種平等条項の国際連盟規約への取り入れ提案もきちんと取りあげられている。そして、それに関わって、「日本が植民地保有国として同じアジアの他者を下位に位置づけたまま、こうした提案をしたことは、皮肉にも人間の間には序列があると示す結果になったとも思われる。」(223)と含意あるコメントが付せられている。ただ、日本の植民地支配のもとでのアジアの他者に対する日本人の姿勢を、本書の人種主義論のなかでどのように位置づけていくかという点については、より立ち入った検討が欲しかった。幅広く差別的感情や差別的言動を人種主義の基底に据えてみる立場からすれば、ヨーロッパでの議論を中心に据えつつも、他の地域に今少し視野を広げることが可能であろうし、その場合、やはり日本とアジアの人びととの関係の事例が重要になってくるであろうからである。

(「世界史の眼」No.29)

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「世界史の眼」No.28(2022年7月)

本号では、2本の書評を掲載します。島根大学の鹿住大助さんには、小川幸司・成田龍一編『世界史の考え方』(岩波新書、2022年)を書評して頂きました。また、敬愛大学の高田洋子さんには、アンソニー・リード(太田淳・長田紀之監訳)『世界史のなかの東南アジア』(上下)(名古屋大学出版会、2021年)の書評をお寄せ頂きました。

鹿住大助
書評 小川幸司・成田龍一編『世界史の考え方 シリーズ歴史総合を学ぶ①』岩波新書(新赤版)1917、2022年1月

高田洋子
書評 アンソニー・リード『世界史のなかの東南アジア 歴史を変える交差路 上下』(太田淳・長田紀之監訳、青山和佳・今村真央・蓮田隆志訳、名古屋大学出版会、2021年)A History of Southeast Asia, Critical Crossroads, Chichester: Wiley Blackwell, 2015

小川幸司・成田龍一編『世界史の考え方』(岩波新書、2022年)の出版社による紹介ページは、こちらです。アンソニー・リード『世界史のなかの東南アジア』の出版社による紹介ページは、上巻がこちら、下巻がこちらです。

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