投稿者「riwh」のアーカイブ

『被爆者・切明千枝子さんとの対話:私たちの復興をめざして』(彩流社、2025年)
高橋博子

 本書は著者の桐谷多恵子と被爆者の切明千枝子さんの13年間、55回にわたる対話から生まれた。年数・回数だけでなく、著者と切明さんが軍都ヒロシマ、そして戦後のヒロシマの在り方への疑問・問題意識が重なっているからこそ引き出される、切明さんの人生を辿ることができる。その問いとは「人間とはなにか」である(24頁)。

 切明さんは「私はね、戦争を通して、人間をやめたくなったんですよ」と述べ、「兵器を作って、ここまで殺し合うのは、人間だけじゃないですか。他の動物に対して恥ずかしいですよね。ほんとうに、人間ってなんなんでしょうね」と問いかける。

軍都広島

 「人間とは」という問いは抽象化された問いでもあり、また彼女の軍国主義日本と戦後の日本を通じて感じてきた具体的な体験からの問いでもある。

 「私たちは原爆で酷い目に遭いました。しかし被害の前に廣島が加害の街であったことを言わなければならないと思っています。軍都を生きてきた一人として背負うものがあります」とする姿勢に対して(46頁)、著者は「原爆の被害だけを発信するのではなく、加害の面から軍都としての歴史についても言及するべきだという切明さんの声は、歴史と向き合う勇気ある姿勢である」と述べる。

 「軍がのさばっていた時代」で体調不良の女学生が路面電車を利用したことにより学校で暴力を受けていたことなどの理不尽な体験や、その一方で服装が規制されていたなかでも、ささやかで密かなおしゃれをしていたことなどが語られる。

原爆体験

 アメリカによる広島への原爆攻撃当時、十四歳であった切明さんは、学徒動員で広島地方専売局の煙草工場で働いていたが、朝礼後足を痛めていたので病院に向かう途中、爆心から1.9キロの地点で被爆した。本書では自身の壮絶な被爆体験、また亡くなった友人を焼かざるを得なかった体験を語っている。また彼女の2人の従姉妹は生き残っても4・5日してから「高熱が出て、血を吐いた。歯茎からも血が出て、血便も続いて苦し」み、10日後には2人とも亡くなったという。さらに彼女自身が原爆症に苦しんだ体験が語られる。

 原爆投下から1ヶ月を過ぎた頃(1945年9月)になると、彼女の体調は著しく悪くなる。まず髪の毛が抜け始め、歯ぐきからの出血、血便が出て、身体に紫色の斑点が現れ、高熱に苦しめられた(74頁)。

 原爆症が現れた時、切明さんがどのような心境だったかというと「死ねば楽になれる」と思ったという。母親の看病で、急性症状については少しずつ回復していったという。原爆投下後の切明さんの心身に現れた症状について、本書ではかなり具体的ことが語られているが、冷静な筆致でありながら、切明さんの辛い体験が切々と伝わる。著者自身がさまざまな体験をしているからこそ、切明さんの原爆体験を受けとめ、伝えるための想像力があるのだと思う。

 原爆投下から1ヶ月たった頃には米軍は広島の残留放射線の影響を否定し、原爆症についての情報を軍事機密扱いにしていた。このような原爆投下当日以降も苦しむ人々の証言は、あまりにも重要である。

アメリカによる占領とその後

 本書ではアメリカによる占領期での切明さんの複雑な思いも語られる。1951年11月に開設された広島県児童図書館に希望して勤務したことで、子供の人権を大事にするアメリカの教育に触れる。

 ABCCについての体験は図書館での体験は対極的である。1948年ごろ交通事故に遭って亡くなった叔父の遺体をABCCから一晩預かりたいと申し入れられ、帰ってくると内臓がなかったこと、占領下で進駐軍には向かうことができず、叔母も了承せざるをえなかったことが語られる。

 切明さんは切明悟さんとの結婚、そして新たな教育を求めて1956年に立ち上げた「株式会社 東方出版」での出版活動によって、戦後一貫して平和・反戦そして差別問題に力を入れたてきたことがわかる(92頁)。

「私たちの復興」

 著者と切明さんとの「復興」に対する探究が興味深い。「原爆が投下される前の日常に戻れば「復興」になるのか」と問い、都市計画における「復興」と生活における「復興」との違いを問い、その上で「私たちの復興」という言葉にたどり着く。

 切明さんは語る。「大それたことではなくて、人間同士で絶対に殺し合わないこと。武器で脅しあったりしないで、お互いを信頼して、お互いに助け合って生きていくこと・・・」(182頁)。この言葉を著者は涙で受け止める。著者は「自己の悲惨な体験を、相手への「憎しみ」や「報復」で終わらせるのではなく、「二度と誰にもこのような思いはさせない」という利他性へと、長い年月をかけて醸成し昇華した思想こそ「広島の思想」の源泉ではないだろうか。(183頁)そして「大国の指導者たちが、利己性を露わにしている世界の現状の中で「力による平和」というジャングルの掟が跋扈(ばっこ)している」中で、「平和のうちに生存する権利」を訴える先頭に立つのが切明さんたちをはじめとする被爆者の方々である。しかし、残された時間はあまりにも短い」と述べる。

力による平和」への抗い

 アメリカの原爆攻撃と第二次世界大戦終了から80年にあたる2025年に、この2人の交流が本書にまとめられた意味は、大変深い。第二次世界大戦のような惨禍を繰り返させないどころか、戦後も核兵器に依存する体制や戦争は続いてきた。そして2026年の幕開けはアメリカのベネズエラ空襲と米軍特殊部隊デルタフォース投入による大統領誘拐である。危険な状態にいる人質を救出する作戦ではなく、就寝中の大統領夫妻を誘拐拉致するために米軍を投入しているのである。先住民の土地を接収することによって拡大し、中南米諸国を「裏庭」なる表現を使ってきたアメリカ合衆国。

 しかしこのようなアメリカ政府に対しても、アメリカに追随する日本政府に対しても、広島市はその責任を問うていない。それどころか公立学校の副読本から『はだしのゲン』や福竜丸の被災など米核実験についての記述を削除し、広島平和記念公園はパールハーバー国立記念館との「姉妹連携」を締結した。また新任職員はその研修に『教育勅語』を習わされる。

 著者は、まるで戦前の廣島に戻ってゆくかのような都市広島、そして長崎を対象に、その流れに抗う研究を続けてきた。本書を含めてそうした著者の研究姿勢、そして切明さんとの交流に励まされる。

 軍都広島の復活を「許す」と言うことは切明さんも著者も願うような「私たちの復興」を阻むということだと思う。アメリカの原爆を「許す」ということは力による制圧を「許す」ということだと思う。

 多くの読者が本書とともに「私たちの復興」をめざすことを願っている。

(「世界史の眼」No.71)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

文献紹介:佐原徹哉『極右インターナショナリズムの時代-世界右傾化の正体』(有志舎、2025年)
山崎信一

 2025年には、日本でも参院選で「外国人問題」を提起する政党が躍進するなどして、排外主義的主張が政治的に大きな影響力を得た。さらにこうした主張は、政府の政策にも取り入れられようとしている。社会、政治の「右傾化」は、そういう意味で日本においても感じられるものとなっているが、この「右傾化」を世界的な観点から分析しようと試みているのが、佐原徹哉『極右インターナショナリズムの時代-世界右傾化の正体』(有志舎、2025年)である。ただ、本書は2025年の日本の状況に触発されて執筆されたものではなく、著者の長期間にわたる研究をベースとしてそれを総合したものであり、刊行がこのタイミングとなったのは偶然だろうが、先見の明を示している。

 著者のこれまでの研究の中心は、民間軍事会社などを含む非正規軍(パラミリタリー)や、その暴力発現のあり方にあり、これまでにも『ボスニア内戦』(有志舎、2008年)、『中東民族問題の起源:オスマン帝国とアルメニア人』(白水社、2014年)などの優れた実証研究を世に出している。本書も同様に、バルカン各国語を含む豊富な史料に依拠している。

 まず、本書の章と節の構成を挙げる。

序章 極右勢力の世界的な台頭
第一章 カウンター・ジハード主義とは何か-サイバー空間で続くユーゴスラヴィア継承戦争
  第一節 ヴァーチャル空間の十字軍戦士
  第二節 西欧とセルビアの極右思想の共鳴作用
第二章 ジハード主義とムスリム諸国の右傾化
  第一節 ジハード主義の思想的展開
  第二節 ジハード主義の結節点としてのボスニア
  第三節 伝統的宗教勢力の保守化
第三章 我々はヨーロッパ人種だ!-欧米の極右運動と「入れ替え論」
  第一節 極右の国際テロ・ネットワークとフランス新右翼の思想
  第二節 新たな人種主義の登場-フランス新右翼思想の新大陸での展開
  第三節 反ユダヤ主義の入れ替え
第四章 ブルガリアの新自由主義経済政策と極右勢力の台頭
  第一節 ブルガリアの新自由主義
  第二節 体制変動後のブルガリア政治
  第三節 ブルガリアの極右勢力
第五章 バルカン・ルート-奴隷化される難民たちと新たな特権階級
  第一節 西欧における都市政策の破綻とイスラムの犯罪視
  第二節 難民流入とシェンゲン体制の危機
  第三節 難民の犯罪化と人種主義の制度化
  第四節 新たな身分制社会への道
終章 正解の右傾化の正体
補論 シリアのアサド政権の崩壊から分かったこと

 第一章では、反イスラムのカウンター・ジハード主義を分析の対象とし、それが、ヨーロッパ各地の極右の国際的なネットワーク構築の核となっている点を述べている。第二章では、イスラム圏におけるジハード主義をその思想的系譜を分析し、カウンター・ジハード主義とジハード主義の構造的類似性を指摘している。第三章では、極右思想が、土着性を超えて普遍性を獲得し国際的なネットワークとるメカニズムに関して述べている。また、極右とリベラリズムの親和性を指摘する。第四章では、ブルガリアを例に、社会主義からの体制転換後の新自由主義的「ショック療法」を背景として、社会格差の拡大、経済の衰退、国外への人口流出、政治腐敗の構造化が起き、それが反グローバル化を掲げる極右の台頭とどう関係したのかを分析している。第五章では、2015年の「欧州難民危機」を背景に、極右の伸長を移民の増加だけを原因としては論じられないとし、人種差別が制度化される背景には、極右と新自由主義に依拠するリベラルの利害の一致があると指摘している。また、巻末の補論では、2024年秋のシリアのアサド政権崩壊とジハード主義者の背後にトルコ、ウクライナが存在することを述べている。

 本書の分析の対象は、多岐に渡っているが、そうした多様な対象の一つの焦点となっているのが、バルカン地域の状況である。第一章ではセルビアの極右イデオロギーの展開が、第二章では、ボスニアにおけるイスラム主義の展開が、そのものとしてもかなりの紙幅を割いて分析されている。また、第四章ではブルガリアを中心に体制転換後の社会、政治の変化を扱っており、バルカン地域に関心を持つ本紹介の筆者にとって非常に興味深いものでもあった。

 終章で明快に述べられているが、本書は、結論として、扱われている諸テーマは相互に結びついた複合的なものであり、その背後にグローバル資本主義の存在があること、リベラリズムに代わり極右思想が今やグローバル資本主義にとってシステムの維持のためにもっとも適合的なイデオロギーとなったことこそが、世界的「右傾化」の本質であると指摘する。

 本書に従えば、「右傾化」とはグローバル資本主義システムの自己防衛と自己存続の過程そのものであり、今後もこうした傾向が強まってゆくということであろう。その点からすれば悲観的にならざるを得ないが、ただ、それ故に、著者があとがきで述べるように、「システムから排除される人々と、なんとかシステムに踏みとどまっている人々が協力して、負の流れを逆転させることである。連帯という言葉の意味は今後ますます重要になるであろう。」という言葉に重みを感じる。

(「世界史の眼」No.71)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

「世界史の眼」No.70(2026年1月)

2026年最初の「世界史の眼」では、木畑洋一さんに、今年刊行された小倉充夫『民主主義の躓き 民衆・暴力・国民国家』を書評して頂きました。また、米山宏史さんに、松本通孝『一世界史教師として伝えたかったこと-「私の授業」-生徒とのキャッチボール-』を評して頂きました。また、世界史寸評として、油井大三郎さんに「高市首相の台湾有事発言の時代錯誤性を批判する」を、吉嶺茂樹さんに「アジア世界史学会(AAWH)第六回ドーハ大会 参加記」をお寄せ頂きました。

木畑洋一
書評:小倉充夫『民主主義の躓き 民衆・暴力・国民国家』(東京大学出版会、2025年)

米山宏史
松本通孝『一世界史教師として伝えたかったこと-「私の授業」-生徒とのキャッチボール-』(Mi&J企画)から学び、受け継ぐこと

油井大三郎
世界史寸評 高市首相の台湾有事発言の時代錯誤性を批判する

吉嶺茂樹
世界史寸評 アジア世界史学会(AAWH)第六回ドーハ大会 参加記

小倉充夫『民主主義の躓き 民衆・暴力・国民国家』(東京大学出版会、2025年)の出版社による紹介ページはこちらです。また、松本通孝『一世界史教師として伝えたかったこと-「私の授業」-生徒とのキャッチボール-』(Mi&J企画、2025年)のamazon.co.jpのページはこちらです。

世界史研究所は、2026年も更なる活動の充実を図って参ります。どうぞよろしくお願い致します。

カテゴリー: 「世界史の眼」 | コメントする

書評:小倉充夫『民主主義の躓き 民衆・暴力・国民国家』(東京大学出版会、2025年)
木畑洋一

 日本を代表するアフリカ研究者として、数々の研究を積み重ねるとともに、すぐれた後継者たちを育ててきた小倉充夫氏が、『自由のための暴力 植民地支配・革命・民主主義』(東京大学出版会、2021年)という挑戦的な論文集を出版してから、わずか4年の間を置いただけで、これまたきわめて刺激的な著作である本書を世に送り出した。いずれもA5版で300頁になんなんとする本であり、現代世界を見通していく上で鍵となる問題について、著者が全力で取り組んでいる様相をよく示している。そこでの視角の中心を占めるのは、二著のタイトルに共通してあらわれる暴力と民主主義という問題だといってよいであろう。そして、暴力や民主主義を論じるに際しての著者の立場の特徴となるのは、前著の副題に出てくる植民地支配という要因にあくまでもこだわるという点である。アフリカ研究者としての著者の強みがその点で十分に発揮されるわけであり、それがこれらの本の価値を高めている。

 このことは、本書について特に言えるであろう。民主主義がいかなるものであり、あるいはそれがどのようなものと考えられ、現代世界においてどういった様相を呈しているかについては、実にさまざまな検討がなされてきている。とりわけ、近年になって各国で民主主義の危機が叫ばれるようになってからは、『民主主義の死に方』といったセンセーショナルなタイトルを掲げた本などもあらわれるように、民主主義についての議論はかまびすしいものがある。しかしそのほとんどの場合、検討の対象となるのは、欧米の「先進国」や日本であり、韓国や台湾など独裁体制から民主主義的体制へと劇的な変化をとげた国々も着目されることがあるものの、それ以外の国、とりわけアフリカ諸国の状況はごく付随的にしか扱われない。それに対して、本書ではアフリカの経験が大きな比重を占め、とりわけザンビアの事例が随所で詳しく論じられる。

 本書の第1章「永続的な革命としての民主化」に、そうした本書の特色はきわめてよくあらわれている。著者は、「はじめに」で述べるように「民主主義は完成されることはなく、新たな課題を克服すべく絶えず発展してきたし、発展していくべきものと考えることができる」(5、以下カッコ内の数字は本書の頁数)という視点に立った上で、人々が民主主義に期待するものが時代によって変化してきたこと、その期待が既存の民主主義に対する挑戦の形をとってあらわれることを重視し、その具体例として西欧諸国における1968年前後の諸運動をあげる。代議制民主主義に疑問が投げかけられ、直接民主主義を追求する動きが台頭した時期として「1968」に注目することは、民主主義を論じる上でとくに珍しいことではない。ただ普通は、フランスの場合を軸に据えながら、「プラハの春」など東ヨーロッパも視野に入れてヨーロッパ諸国の状況を論じ、米国でのベトナム反戦運動や黒人の動きに言及し、日本のことにも触れる、といった形で議論が完結するのではないかと思われる。しかし本書の場合、そのような国々の検討を受ける形で「同時代のアフリカ」についての考察がなされるのである。

 1968年のアフリカといえば、多くの国々が独立直後であり、植民地主義からの完全な脱却と人々の生活水準の向上という二つの課題をかかえるなかで、それを実現するための体制を模索していた。代議制民主主義は、アフリカにおいては、それまでの植民地支配国がいわば遺産として残していった体制であったが、その形が問われるなかで、複数政党制を否定し一党制に向かう方向性が目立つようになった。アフリカ諸国のこうした変化は、従来、民主主義の後退、権威主義化の動きとして解釈され、欧米の「1968」とはベクトルが全く異なるものとして論じてこられたが、それが本書では、代議制民主主義の意味の問い直しという点で欧米の「1968」と同じ地平で検討されているのである。

 その場合に最も重要な検討対象とされているのは、ジュリウス・ニエレレが指導したタンザニアである。政治的独立後の課題に取り組んでいくためには、人々の団結を脅かす複数政党制は危険であり、一党制の方が現実に合うという議論をニエレレは展開した。こうした主張を、植民地支配に伴う人工的な境界線引きの結果作られた国家領域のまま独立したアフリカ諸国の状況を重視する著者は、肯定的に受けとめる。そして、「普遍的人権を保障する政治制度についてみれば、各政治共同体成立の経緯や社会経済的条件の相違に応じて、特定の時点における制度の選択には様々な可能性があると考えるべき」(52)であると、「1968」の文脈にアフリカ諸国を位置づける際の基本的視座が再確認される。「1968」のアフリカ諸国にどのような「選択の可能性」があったかについては、より立ち入った検討が必要であるという感は残るものの、こうした柔軟な視点はきわめて重要である。

 著者は、本書のタイトルとした「民主主義の躓き」をもたらしている要因として、サブタイトルにある民衆、暴力、国民国家という三つの要因を指摘し、それらは民主主義の内部に存在しているとしつつ、今紹介した第1章につづく三つの章でそれぞれに関する議論を展開する。この内、第3章「民主主義の暴力」と第4章「国民国家の民主主義」では、アフリカについての考察が議論の中心に置かれることになる。

 第3章で著者は、構造的暴力への反抗としての暴動や社会的分断がもたらした暴力にまず着目する。構造的暴力の最たるものは植民地支配であったし、植民地から独立して新たな国家を形成する歴史的経緯から社会的分断を免れがたかったアフリカ諸国についての検討が、まさにこうした議論の核となる。ここで著者は、自身がザンビアの首都ルサカで約20年の間隔をおいて行った社会調査の結果に拠りながら、若年齢層を中心とするアフリカの都市住民の存在態様と意識についての分析を行っている。

 第3章ではさらに、20世紀末にアフリカ諸国があいついで民主化(「第三の民主化」)を遂げて複数政党制が導入されるようになった後の、「民主化に伴う暴力」も注目されている。複数政党制のもとで選挙が実施されるなかで暴力が誘発されていったわけであるが、それについて著者は、第1章で扱われた独立直後の状況とは異なって、民主化を推進していった外部要因(欧米諸国の援助政策の変化など)も十分考慮に入れる必要があるとしつつ、さまざまな国の例に言及する。そうした考察を踏まえた上で、著者は、「植民地主義・帝国主義によって作りだされた対立を克服し、構造の歪みを解消する運動が今日いたるところで噴出している」(161)と、民主主義のもとでの暴力の歴史的背景に改めて注意を促し、民主化を論じる際にそうした歴史が忘却されることに警鐘を鳴らすのである。

 第4章で問題とされる国民国家に関しても、検討の中心はアフリカに置かれる。ここで評者が最も注目した文章は次のようなものである。「[欧米では]代議制の展開は階級闘争の歴史でもあった。ところが植民地では北ローデシアの例から分かるように、代議制をめぐる対立は優れて人種差別、異民族支配とかかわる問題であった。議会や選挙権の問題は民族解放の問題であり、生れつつある国家の主体は誰なのかという問題であったといえる。」(195)植民地支配を脱して民族解放を達成した国々は、支配国によって恣意的に引かれた国境線のもと、国民国家として多くの問題をかかえており、「国家の主体は誰なのか」ということを追求するなかで、民主主義の躓きを経験してきたのである。「近代国家における国民形成とは、支配的民族への同化の進行というのが実態であった。ところが良かれ悪しかれ同化の中核となるべきものが、存在しないか、自明でない場合が旧植民地には多い」(221)という指摘が、問題の核心をついている。そうした条件を生んだ植民地主義という歴史的背景の重みにここでも気づかされる。

 第3章にせよ第4章にせよ、著者が取りあげる論点は多岐にわたっており、ここでの評者による紹介はその一部をすくいあげたものにすぎない。著者は欧米における事例や民主主義論にも広く眼を配りつつ、アフリカの問題を位置づけているが、その豊富な内容はここでは扱いきれない。そうした第3章、第4章の内容と比べた場合、民衆という要因を対象とした第2章では、民衆・大衆に関する欧米での議論(ジョン・スチュアート・ミルやオルテガ・イ・ガセットなど)の丁寧な検討や、代議制民主主義を補いうる制度としてのくじ引き制の考察など、これまた豊かな中身をもつものの、話題が欧米の事例に集中し、アフリカ(さらに他の非欧米世界も)への言及がなされていない。これは、本書を通読した後、評者が最も不思議に思った点である。すでに紹介したように、著者はアフリカでの社会調査を通してアフリカ民衆の声に直接接する体験などをもっているわけであるが、その知見は第2章での議論に生かされなかったものであろうか。第5章「失われた確信と新たな試練」、終章「未完の民主主義」で、現在における民主主義の後退の様相、デジタル技術の進歩とも関わる未来への展望が、アフリカの事例をも踏まえながら語られていることからも、本書のなかでの第2章の特異性が目立つのである。

 最後はないものねだりの書評となってしまったが、そのことが本書全体の価値を下げるものでないことは、強調しておく必要があろう。グローバル・サウスの考え方や動向がさまざまな局面で注目されている今、アフリカを視野の中心に据えて、植民地支配下にあった歴史的背景を常に念頭に置きつつ、独立後の模索の過程から、冷戦終結に連動する「民主化」の様相を経て、21世紀の現在までの民主主義の変遷を論じる本書がもつ意味は大きい。著者は、あくまでも「民主主義の躓き」について議論しているわけであり、「躓き」から立ち直れば、民主主義の将来はまた開けるというのが基本的な展望であろう。ただそのためには、民主主義の状況を傍観する姿勢は許されない。「闘うしかないことを覚悟するところから希望の光が生まれる」(279)という本書を結ぶ一文の意味は重い。

(「世界史の眼」No.70)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

松本通孝『一世界史教師として伝えたかったこと-「私の授業」-生徒とのキャッチボール-』(Mi&J企画)から学び、受け継ぐこと
米山宏史

 青山学院高等部で42年の長きにわたり世界史教育に携わり、その後、複数の大学で非常勤講師として社会科教員の育成に尽力した松本通孝氏が標記の書籍を上梓した。本書は同名の3冊目の著作であり、教員としての軌跡を振り返り、「HR通信」「世界史通信」を掲載して授業実践やクラス運営の努力や工夫を紹介するとともに、デジタル化時代の現在にふさわしい歴史の授業方法について、様々な提言を寄せている。本書の内容を紹介しながら、松本氏の歴史教育の業績から学び、継承すべきことを考えてみたい。本書の構成は以下の通りである。

はじめに
第1章 「私の授業」を振り返る-生徒・卒業生との対話-
 序
 その1 「チョーク&トーク」式授業は、役に立たなかったのか
 その2 先輩の諸先生方の実践から学んだこと
 その3 「私の授業」での工夫 略地図・略年表を利用した授業
 その4 生徒との対話①「HR通信」……担任と生徒とのキャッチボール
 その5 生徒との対話②「世界史通信」……授業での対話を目指して
 その6 毎日の授業での工夫と限界……臨機応変の対応、問いと史資料の活用 
第2章 「これからの授業」を展望する
 その1 「インタビュー」記事の補足 私にとっての歴史教育の原点
 その2 定年後の歴史教育との接点
 その3 これからの歴史教育に期待すること
執筆を終えて

 第1章の序では、40数名が在籍する教室で「チョーク&トーク」式授業を展開しながら常に生徒とのコミュニケーションを取ることを重視し、歴史を学ぶことは、面白く、暗記は必要なく、自分の頭で考え推論すること、縦の連関と横の連動、視角を変えると別の解釈が成り立つことなどの大切さを伝えてきたと述べ、講義式授業でも工夫しだいで生徒自身が思考する授業の試みが可能であることを紹介したいと語っている。

 つづく第1章では、6つの節を通じて、自身が中学・高校時代に経験した「チョーク&トーク」式授業を自分が教員としても続けてきたこと、授業の本質が教員-生徒間の対話である以上、この授業スタイルから学ぶことは尽きないこと、毎時の授業で色チョークで略地図を記入し空間的把握の大切さを強調したこと、随時刊行した「世界史通信」(2006年には年間60回の授業で36回刊行)に各学習テーマの略年表や「今週の授業のねらい」などの情報のほか、お勧めの美術館・博物館やテレビ番組・映画作品の案内、推薦図書などを載せ、また、それらに対する生徒の感想や意見を掲載し続け、授業の内外で生徒との対話を追求したことなどが詳述されている。

 第2章では、第1節で「インタビュー記録 歴史教育体験を聞く 松本通孝先生」(歴史教育史研究会編『歴史教育史研究』第20号、所収)が掲載され、小学校まで遡り、卒業論文など学生時代の学びをたどりながら松本氏の歴史教育者としての歩みが語られている。第2節では定年退職後、卒業生との読書会を立ち上げ(2018年5月開始、60回以上を開催、登録メンバーは50余名)、日本史を含む世界史の様々なテーマの学習活動を行っていること、学習ボランティアとして中高生の社会科学習のサポートに関わり、「生徒の立場から見た授業」を知り、中学校歴史的分野の教科書記述が詳しすぎること、生徒がタブレットの情報や教員が求める「正答」に縛られているとコメントしている。第3節では、歴史の授業の最大の問題点として、歴史の授業から何を学ぶか、そしてある程度の知識の定着を挙げ、さらに歴史を理解できるために知識、分析力、関連づけて考える力の重要性を指摘し、そのためにはアナログ的手法とデジタル的手法の対立ではなく両者のプラス面を最大限に生かした新しい手法が必要だと語っている。

 本書を通じて、松本氏の教員人生の歩みを理解し、氏の歴史教育の仕事から学び、継承したいことは多々あるが、とくに以下の6点に注目したい。その第1は、生徒(保護者・卒業生)との対話の重視とその実践である。氏の他者を尊重し、真摯に対話を行う姿勢は、現職の教員時代だけでなく定年退職後の学習ボランティアや卒業生との読書会でも首尾一貫している。とくに、授業を、教員から生徒への一方的な伝達ではなく教員と生徒との対話の場と位置づけ、それを追求してきたことは、氏の歴史教育論の核心として極めて重要である。そこには、氏が指針として学んだという鈴木亮氏ら先人の歴史教育者からの影響(授業は教員から生徒への問題提起であり、生徒と教員の学び合いの場である)がうかがわれる(鈴木『世界史学習の方法』岩崎書店、1977年)。

 第2に、対話の重視と並ぶ松本氏の教員人生の特徴は、生涯、探究心を持って学び続け、自己研鑽を重ねる姿勢である。それは、比較史・比較歴史教育研究会への参加や近現代史教育研究会の結成、世界史の教科書や辞典、『世界史史料』(歴史学研究会編、全12巻、岩波書店)をはじめとする様々な論考の執筆活動や編集作業に現れている。研究会での人との出会いや書籍からの豊かな学びが氏の教員としての力量を高め、授業方法の刷新・更新の契機になっている。

 第3に、教室を越えた生徒への学びの提供である。近年、働き方改革が社会問題となり、教員の長時間労働が問題視されているが、それに先立ち、氏は生徒の世界史への興味・関心の涵養をめざし、多くの時間と労力を費やして教科通信を精力的に発行し、教室を越えた生徒との世界史対話を実践した。「世界史通信」には教員からの情報提供だけでなく、多くの生徒からの投稿原稿が掲載されたことにより、教科通信が教員と生徒、生徒と生徒を結びつけ学び合いを作り出すことに成功した。また、毎月1回、放課後に若手教員と有志の生徒が集まり、その時々の歴史のテーマ(明治維新の諸改革と『夜明け前』に描かれた農村の変化の比較、ウィーン体制下のオーストリアの音楽家たちの活躍など)を語り合う「自主講座」は、教室空間を越えて生徒と教員が対等な立場で、人格的に触れ合い学び合う極めて優れた教育実践である。よく見られる風景である定期試験直前の補習や質問会ではなく、大学のサブゼミのように何らかのテクストの輪読会などを設け、生徒と教員の学び合いを恒常的に続けることができれば、非常に理想的な歴史実践となる。

 第4に、毎時の授業の中で、略地図と略年表の活用を重視したことを特記したい。世界史の学習では、今日の授業で扱うテーマがいつ、どこで生じた歴史的事象であるかという空間認識と時間認識の保障が単元を理解する前提となる。その点で氏が毎回、色チョークで略地図を板書し、生徒がそれを書き写す作業は、氏のおなじみの授業風景であるとともに生徒の「縦の連関と横の連動」の把握に資したに違いない。氏は、世界史学習における地図利用の重要性を吉田悟郎氏や鈴木亮氏から学んだと記している(吉田氏が提唱した「世界史の同時代的・全面的(全地域的)把握」の構想(吉田『歴史認識と世界史の論理』勁草書房、1970年)は、その後の世界史教科書の「○○世紀の時代」やグローバル・ヒストリーの歴史把握にもつながり、再評価に値する)。

 第5に、多様な世界史像や世界史の見方の追究が挙げられる。氏は比較史・比較歴史教育研究会への参加などを通じて、「自国史と世界史」「世界から見た日本、日本からの世界」という視点を獲得し、それを追究したほか、定年退職後に卒業生との読書会を立ち上げ、教会音楽史、アジアから見たヨーロッパ、日本の開国と連動する世界史、アメリカ合衆国の先住民政策や1920年代の人種差別など多岐にわたるテーマを学び合い、常に世界史認識を拡大・深化させ、更新している。松本氏の姿勢が示すように、世界史教育に携わる者は、世界史の研究動向に敏感であり、新しい研究潮流(グローバル・ヒストリー、パブリック・ヒストリー、ジェンダー史、地球環境・生命環境系の歴史、歴史の構築主義・構成主義など)を学ぶ必要がある(小川幸司「<私たち>の世界史へ」『岩波講座世界歴史01』岩波書店、2021年)。また、氏が歴史教育の方法論的仮説として探究した「自国史と世界史」とそれに先行する「世界史と日本史との統一的把握」(上原専禄が1957年に問題提起)は現在の「歴史総合」の授業づくりに役立ち、参照されるべきである。

 第6には、デジタル的手法とアナログ的手法の両立・併用という指摘である。グローバル化とともに社会のデジタル化が進行し、生徒が一人一台端末を所有・活用する現在、デジタル教材の利用は不可欠である。その際、デジタル教材か、アナログ教材かの二者択一ではなく、両者を併用した有効活用が現在の学校教育の実際の授業風景である。たとえば、中学校2年生の歴史の授業でホロコーストを学習する際、デジタル教材としてロイロノートのシンキングツールとアナログ教材として新聞や絵本が併用され、学習成果を上げている(原琴音「戦争と平和を考える-デジタル×アナログ教材での学び-」教育科学研究会編『教育』960号、2026年1月号)。

 戦後80年の今年(2025年)、松本氏の3冊目の『一世界史教師として伝えたかったこと』に接し、「伝えたかったこと」を受け止め応答したいという想いから本書の内容を紹介し、受け継ぐべき論点を提示した。氏のメッセージが今後の世界史教育に継承され、授業づくりに資することを願ってやまない。

(「世界史の眼」No.70)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

世界史寸評
高市首相の台湾有事発言の時代錯誤性を批判する
油井大三郎

1.発端・・・2025年11月7日、高市首相は衆議院予算委員会の質疑で台湾に対する中国の軍事攻撃を日本の「存立危機事態」とする答弁を行った。それに対して中国側は「内政干渉」として激しく反発し、日中関係は一挙に険悪な状況に陥っている。この高市発言は、2015年に成立した安全保障法制に照らして法的に妥当するものなのか、また、米中関係の現状からして果たしてリアリティのある発言なのか、検証してみたい。

 高市首相の問題発言とは次のようなものである。「軍艦を使って、そして武力の行使も伴うものであれば、これはどう考えても存立危機事態にはなりうるケースであると私は考える」(『朝日』2025年11月19日)。

 ここでいう「存立危機事態」は、「武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律」の第二条4項でこう規定されている。「我が国と密接に関係のある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」とされている。

2.法的問題点・・・この規定による「我が国と密接に関係のある他国」とは台湾危機の場合でいえば、米国であると考えられる。つまり、台湾が独立を宣言し、これに反対する中国が武力で介入したことに対して、米軍が台湾を擁護するために軍事介入した事態を日本の「存立危機事態」と解釈しているのである。

 この主張の第一の問題は、1972年に日中が国交回復した際の共同声明で、中国側が「台湾は中国の不可分の領土である」と表明したことに対して、日本側は「十分理解し、尊重する」と表明していたこととの関連である。つまり、日本政府は、中国本土との国交回復にあたり、台湾が中国に帰属するという「一つの中国」論を受け入れていたのであり、今さら台湾の独立支持論に転換するのは自らの公約に反することになる。

 関連して、日本では、ロシアのウクライナ侵略と中国の台湾への軍事攻撃を同類のものとして論じる向きがあるが、ウクライナは明確に独立国であるのに対し、台湾は「中国の一部」として日本は認めてきたので、この類推はそもそも成り立たない。むしろ、ウクライナ侵略によってロシアも多大な犠牲を被っている事態が中国に台湾に対する軍事侵攻を自制させる効果をもつと考える方が自然ではないだろうか。

 第二の問題点は、近年の台湾で実施された世論調査によると、当事者である台湾の人々の約6割は「現状維持」を希望しており、独立支持は3割にとどまる点である(南塚信吾ほか『軍事力で平和は守れるか』岩波書店。2023年、p.238)。台湾が独立を宣言すれば、中国の軍事介入を招き、最も大きな犠牲を被るのは台湾の人々であることを台湾の人々は十二分に予想しているがゆえにこのような結果が出ているのである。このような台湾の世論状況を無視して、台湾独立を前提にして軍事的危機を煽る議論を行うのは台湾危機を利用して日本の軍拡を推進する者のためにする議論と言わなければならない。

 第三の問題点は、台湾で軍事紛争が発生した場合に、米軍が軍事介入する可能性がどれだけあるのか、という点である。米国には台湾関係法(1979年制定)があり、台湾への「防御的武器供給」の規定はあるが、米軍の参戦規定はない。それ故、米軍が参戦する場合には、改めて米国議会に承認を得ることが必要になるが、この間のアフガニスタンやイラクでの「対テロ戦争」に嫌気がさしてきた議員たちが簡単に派兵を承認するか、疑問である。とくに、「アメリカ・ファースト」を主張するトランプ政権は、最近、経済的利害を重視して、対中接近を優先する外交を見せているだけに、台湾問題で対中戦争に踏み切る覚悟があるのか、はなはだ疑問である。この点は現在の東アジア情勢の検討から後により詳しく検討したい。

 第四に、「存立危機事態」は、日米安全保障条約で同盟関係にある米国が台湾危機に軍事介入した場合に発生するもので、米軍なしで日本だけ単独介入する根拠にはならない。高市発言はその点を曖昧にして、台湾危機があたかも日本「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される事態」であるかのように主張するのは著しい飛躍といわなければならない。台湾の情勢がなぜ日本国民の生命や自由」などに危機を及ぼすのか、きちんと説明すべきである。

3.昨今の東アジア情勢から見た問題点・・・高市発言の前提には、台湾に中国が軍事介入した場合、米軍が台湾防衛のために軍事介入するということが自明のこととして考えられているが、その前提は昨今のトランプ政権の対中国政策の動向から妥当なものといえるのだろうか。

 この点に関する第一の問題は、2025年11月にホワイト・ハウスが発表した『国家安全保障戦略』文書との関連である。この文書では、「モンロー・ドクトリンのトランプ系論(Corollary)」として西半球を米国の安全保障に密接にかかわる地域として重視する姿勢を明確にして、勢力圏分割的な姿勢を明示している。また、インド太平洋地域に関しては、そこが世界の名目GDPの半分くらいを占める成長地域であることを指摘した上で「長期的に、米国の経済的・技術的優越性を維持する確実な道は大規模な軍事衝突を抑止し、防止すること」と明記している。その上で、台湾については、「軍事的な優位を維持することにより、台湾をめぐる紛争を抑止することが第一である。・・・米国は、台湾海峡の現状の一方的な変更支持しない」と述べている。

 また、他の所で、トランプ政権は、中国の市場開放をめざした、従来の対中政策が失敗だったと指摘し、「米国の経済的独立を回復するために、相互性や公平性を優先することにより、中国との経済関係をリバランスする」と主張し、そのためにも、「インド太平洋における戦争の抑止に、明確で絶えることのない焦点を当てる」ことを強調している。

 つまり、第二次トランプ政権は、何よりも中国との経済的な「リバランス」を追求し、インド太平洋における戦争の抑止を重視しているのであり、その前のバイデン政権と比較すると、中国とのイデオロギーや安全保障戦略上の対抗より、経済的な利害調整を重視する姿勢を強めている。

 その結果、10月9日には、中国が米国からの農産物輸入の代わりに、レアアースの供給停止を1年間停止する合意が成立した。また、10月末のアジア太平洋経済協力会議の折に行われた米中首脳会議では、半導体輸出関税を18ケ月間保留することで合意し、目下、米中間は関税戦争を停止して、歩み寄りの姿勢を見せているのである。そのような折に、台湾の軍事紛争に米軍が介入することを前提する「台湾有事論」を提起するというのは、全く東アジア情勢の展開を知らない情報オンチの発言か、または、意図的に東アジアの緊張激化を醸成しようとするためにする発言としか思えないのである。

 第二に、以上のような米中接近の現状との関連で、高市首相の「台湾有事」発言はトランプ政権にとっては不都合なものであり、11月25日には、トランプ大統領と高市首相の電話会談が米国からの要請で行われた。その場で、トランプは、前日に行われた習近平との電話会談で「米国側は中国にとっての台湾問題の重要性を理解する」と発言したことを高市に伝えたという。来年4月に習近平の訪米を予定している米中間では、米中対立を激化させる争点の浮上は避けたい意向が浮上しているのであり、それに逆らう高市発言はむしろトランプ政権からさえ警戒されるものであった。それが11月25日に日米の電話会談が急遽行われた理由であろう。

 トランプ大統領の発言には、一貫性がないので、この対中宥和姿勢が何時迄続くのか不確定な面があるが、少なくとも東アジア情勢の緊張緩和を促進する効果を持つのは確かだろう。この機会を利用して日中も緊張緩和を促進するのが日本にとっても利益になるのではないだろうか。しかも、10月30日にはやはりアジア太平洋経済協力会議の機会を利用して日中首脳会談が実現したのであるから、その機会を日中間の緊張緩和促進に持ってゆくべきだったのに、その1週間後に官僚の用意した答弁書にはなかった「台湾有事論」を個人プレイとして発言するとはどういうことであろうか。政治家としての情勢認識力を疑わざるを得ない。または、米中の緊張緩和に抵抗する対中強硬論者の「確信犯」的発言だったのか、心配になる発言であった。

 日本の世論調査では、高市発言を今のところ支持する世論が多いと聞くが、一時的な嫌中感情に流されず、法的や情勢論的な問題点を冷静に検討する姿勢が広まることを期待したい。

カテゴリー: 世界史寸評 | コメントする

世界史寸評
アジア世界史学会(AAWH)第六回ドーハ大会 参加記
吉嶺茂樹

 アジア世界史学会(AAWH)第6回大会は、2025年10月25-26日に、カタール国ドーハのドーハ大学院大学Doha Institute for Graduate Studiesにおいて、“ Gulf and the Globe”をテーマに開催されました。大会の概要と各パネルの詳細については、AAWHの下記URLから閲覧することができます。
https://www.theaawh.com

 今回の大会約一か月前の9月9日、ドーハ在住のハマス幹部に対するイスラエルのミサイル攻撃が行われたことは日本国内でも広くニュースになりました。この影響もあったのか、今回、対面での参加者はおよそ70名くらいでしたが、内容的には活発な討論が行われたと思っています。日本からの直行便も問題なく運行されていました。2009年5月に大阪大学で第一回の大会が開かれて以来、第六回のドーハ大会までのふり返りが最終セッションClosing Remarksで報告されました。2008年の Nankai Conference以来の研究会の歴史が写真入りで紹介されていたのが印象的でした。初代会長である、世界史研究所長南塚先生の写真も全体に紹介されました。

 今回の学会のテーマは、要項では、事前に次のような点が示されていました。

• Maritime Trade, Oil and a Diversified Economy
• Archaeology, Anthropology and Disease
• Political Ecology of Development in the 20th & 21st Century
• Politics of Nation in the Age of Globalisation
• Writing and Teaching of World History

 これまでのAAWH大会の中では、テーマの柱の一つとして、アジア各国の歴史教育の比較がテーマに取り上げられてきました。しかし、個人的な感想を述べれば、日本側が組織し私も参加した「歴史総合に関する歴史教育パネル」への参加は少数でした。日本の歴史教育が歴史総合必修化以降大きく変更されていることは私たち日本で歴史教育に当たっているものには大きな問題ですが、やはり日本の歴史教育に関する関心は、会場ではそれほど高いものではありませんでした。これは、会場が私たちのパネルだけ別会場であったということも理由にはなると思われますが、イスラム圏における歴史教育のあり方が様々な困難を抱えていることにも原因があると思われます。このことを、筆者はすでに以前の南塚先生主催の、”World History Teaching in Asia”Berkshire,2019にまとめられた研究会の中で、インドのSatyanarayana ADAPA先生から教示されていました。今回実際に会場の実務スタッフとして動いていた大学院生たちと議論するなかで、「歴史総合という新しい科目が日本では高等学校で必修科目として全員が学ぶ科目に創設された、私たちはそのことを議論に来ました」ということを述べましたが、スタッフの大学院生の中では、そもそも「教科書の中の歴史像を刷新する」ということの必要性をあまり感じていないということを知らされました。おそらくイスラム的な価値観と、歴史教科書の保守性という問題もあるのかと思われます。やはり日本は、彼らのようにイスラム圏で社会科学を研究する人たちにとって「少し遠い国」なのかもしれません。日本からは他にもジェンダー史パネルや高校大学双方での教育的なプログラムに関するパネルなど、日本側の参加者が大活躍でした。

 秋田茂前会長は、”GEOPOLITICS IN THE ASIA-PACIFIC REGION”と称する地政学のパネルなど、複数のパネル組織に始まり、司会進行など中心的なご活躍をされていました。この地政学のパネルは、1970年代前後の石油産業を中心とする国際的な貿易構造がどのように構成され、どのような構造を持ち、どのように解体していったのかを中心に分析する非常に刺激的な議論が行われたパネルでした。個人的にも、私の父が九州の石油販売会社に勤務しており、第一次オイルショックが中学生の時でしたので、眼の前で起きていたことの歴史的な意味を分析していただきました。他にも桃木至朗先生(日越大学教授)が1日目午後のKey Note Speechを行いました。逆に中華人民共和国、韓国からの参加者があまり見られなかったように思われます。さらにCovid19以降、オンラインでの会議が普通に行われるようになり、今回も多くのオンライン参加が見られました。筆者も前回のニューデリー大会ではオンラインでのパネル組織を行いました。オンラインでの接続や資料提示の問題は別にして、学会運営がこのようになってくると、対面で国際学会を行うことの意味が問われていくことになるかもしれません。筆者自身は2日間、ランチを共にしながらの会話から得られることも非常に多かったので、コーディネートは大変だと思われますが、今後もこのような対面での開催を検討していってほしいと思いました。

 私たちが組織したパネルは次のようなものでした。

Thema:Session 12 UNPACKING THE CHALLENGES OF JAPAN’S NEW HISTORY  EDUCATION  REFORM
パネルのオーガナイザーは徳原拓也さん(神奈川県立横浜国際高校)。

 報告者は荒井雅子さん(拓殖大学)の「学校史を用いることで生徒に歴史教育を身近なものとする」という前任の高校(立教大学新座中高等学校)での実践を通じた検討、徳原さんは教室の中でセンシティヴな課題を検討する際に、生徒に与える倫理的な葛藤の問題をどう考えるべきなのか、そして、矢景裕子さん(神戸大学付属中高等学校)が「歴史総合において使われる『私たち』とは誰なのか?」という課題を授業の中で検討し実践した結果が報告されました。私(吉嶺)は、現在国際バカロレアコースで担当している’IB History’と、日本の歴史総合教科書の間にある相違について、ナショナリズムと言う言葉と考え方がそれぞれの科目の教科書の中にどのような記述として現れているかを検討し、そのケーススタディとして北海道と沖縄の近代史を考えるという内容でした。この4本に対して、向正樹さん(同志社大学)と大西信行さん(中央大学)からの的確なコメントが行われました。向さんのコメントは、4人の報告者が描く世界史像というものが、それぞれどのように生徒の歴史認識像を変容させる可能性があるのかについてのものでした。大西さんのコメントは、日本の中世史研究を背景に、Covid19がよみがえらせた「日本史の中の中世的な伝統」を示すことで、社会の変容が歴史の記憶を呼び戻すことについての大変刺激的なコメントでした。

 1日目の最終セッションは、”From that Small Island“というドキュメンタリー番組の ディレクターズカット版上映会が1時間半にわたって行われました。このフィルムは、アイルランドという小さな島の古代から現代までの歴史を1時間半で振り返るというものでした。この監修をされ、番組にも進行役として登場するトリニティ・カレッジのJane Ohlmeyer先生によるコメントが行われました。大変興味深い内容でしたが、私の報告のテーマであるナショナリズムに引き付けていえば、「この小さな島から」というタイトルが示すように、アイルランドという小さい島から世界中に広がっていったケルト=アイルランド人が世界の各地でいかに活躍し偉大な成果をなしとげたのか、それは現代にどのようにつながっているのか、というストーリーを描いたものでした。そこではやはりアメリカの最初のアイルランド系カトリック大統領としてのケネディが賞賛されることとなります。会場で一緒に見た桃木先生の言葉と、「アジア世界史学会」という名称に引き付けていえば、ケネディとそのスタッフがのちにベトナムで何をしたのかが描かれていません。私は、北海道や沖縄で、明治政府が「内国植民地」化や「日本化」の過程で行ったこととの対比をしながら拝見しました。(でも、内容は大変面白く、映像としてもよくできていました。なお2025年11月19日水曜日の報道によれば、このフィルムはカリフォルニア・フィルムフェスティバルのドキュメンタリー賞を受賞したとのことです)。
From that Small Island wins documentary award at Californian film festival | Anglo Celt

 二日目の最後には、新しい会長として、南洋工科大学(シンガポール)のLiu Hong先生が紹介され、3年後の再会を約束して閉会しました。次の大会は順調にいけば3年後の2028年。アジア民族主義が台頭するきっかけとなった第一次大戦の集結から110年で、不戦条約と張作霖爆殺事件から100年となります。これから20年ほど、7回続く予定の大会で、AAWHは、アジアという場でのWWⅡとその記憶と向き合うことになります。その際にどのような議論が行われるべきなのか、さらに各国の中等教育での歴史学はこの課題とどのように向き合うべきなのか、アジア諸国との歴史の共有と共生はそもそも可能なのか…こういうことを考えながら、帰国の途につきました。

 

カテゴリー: 世界史寸評 | コメントする

「世界史の眼」No.69(2025年12月)

今号では、南塚信吾さんの「幕末における対外認識―レザノフ事件とモリソン号事件の影響(その1)」を掲載しました。全2回の連載予定です。また、千葉大学の栗田禎子さんに、藤田進・世界史研究所編『世界史の中の「ガザ戦争」』を書評して頂きました。

南塚信吾
幕末における対外認識―レザノフ事件とモリソン号事件の影響(その1)

栗田禎子
『世界史の中の「ガザ戦争」』(藤田進・世界史研究所編、大月書店)に寄せて

藤田進・世界史研究所編『世界史の中の「ガザ戦争」』の出版社による紹介ページはこちらです。

世界史研究所は、これまでも現代世界の理解を助けるさまざまな出版に関わってきました。是非お手に取って頂けますと幸いです。

カテゴリー: 「世界史の眼」 | コメントする

幕末における対外認識―レザノフ事件とモリソン号事件の影響(その1)
南塚信吾

 久米邦武『米欧回覧実記』(1878年)は、久しく日本の世界観がロシア中心に形成されてきたとしている。 

「文化元年(1804年)の9月、露国の使節レサノット氏の軍艦、長崎神の島に入港し、・・・全国太平の夢を驚かし、是より攘夷鎖国論は、沸然として沸起せり。此文化より嘉永安政の間に至るまで、鎖国の論家、外国の事情を研究するにあたり、先ず露国を畏憚する心を脳中におき・・」 (久米 1980 107-108頁)

 このため、「米欧」の事情を見ていない「井蛙の妄想」「妄想虚影の論」が日本に広がったというのだった。このレサノットとはニコライ・レザノフ(1764~1807年)のことである。レサノットの事件は、江戸期の日本が、それまでの中国中心の世界に現れた第一の「外国」としてロシアを強く意識し、ロシアを中心とした対外認識をする契機となったのである。

***

 フランス革命でヨーロッパが混乱している間に、東・北アジアでは、ロシアとアメリカが活動を繰り広げた。18世紀に入りじょじょに極東に出てきていたロシアでは、1799年に、レザノフがロシア皇帝の勅許を受けて国策会社ロシア・アメリカ会社(露米会社)を創立し、アリューシャン列島、千島列島、ロシア領アメリカ(アラスカ)における毛皮や鉱物の採取の特権を認められて、イルクーツク、オホーツク、カムチャツカ、シトカなどを拠点に活動を始めていた。

 そして、1804年には、ロシアは通商を求めてレザノフを対日使節として長崎へ派遣した。レザノフは仙台の漂流船若宮丸の津太夫らを送還するために、バルト海のクロンシュタット港からナジェジダ号で出発して、南アメリカの南端を経由してカムチャツカのペトロパヴロフスクに入り、そこから長崎へ行って日本と交渉したのであった(木崎 1991 85-96、110-115頁;森永 2008 30-39,135頁)。

 奥州の若宮丸(800石、16名乗り組み)は、1793年(寛政5年)12月(旧暦11月)、石巻から江戸に向う途中、仙台沖で漂流し、1794年6月にアリューシャン列島に漂着した。漂着したのは津太夫ら14人であった。14人は、オホーツク、イルクーツク、モスクワを経て、ペテルブルクへ送られて、そこで8年間を過ごした。やがて、津太夫ら4名は、1803年にロシアの軍艦ナジェジダ号で,対日使節レザノフと、クルーゼンシュテルン艦長の率いる世界一周周航に乗ってロシアを出発、イギリス、ブラジル、ホーン岬を経て太平洋に出て、ハワイ諸島(オアフ島か)に寄港、そのあとカムチャツカに寄って、1804年(文化元年)10月(旧暦9月)に長崎に到着した。日本人として初めての世界一周であった。津太夫らの記録は大槻玄沢による『環海異聞』(1807年)として残っている(大槻他 1986 276頁;宮永2013 10―13頁)。

 しかし、長崎でのレザノフの交渉は幕府に拒否され、1805年、レザノフは長崎を後にしカムチャツカに帰った。彼はその後アラスカのシトカなどに向い、1807年に首都に向かうが途中で病死した。その間、幕府は1806年(文化3年)に「文化の薪水給与令」を出していた。だが、直後のレザノフの部下による樺太襲撃を受けて、1807年(文化4年)には「ロシア船打払令」を出すことになった。幕府との交渉に失敗したレザノフの部下フヴォストフは、1807年に樺太の大泊や利尻島や択捉島の紗那などを襲撃した。これにはロシア政府は関与していなかったが、日本の側に強い対露緊張感を惹き起こしたのだった(木崎 1991 85-96,110-115頁;森永1991 28-39,135頁)。

***

 このレザノフ事件は日本でどのように受け止められ、どのような対外認識を生み出したのだろうか。

 出羽国の出で蝦夷地にも渡ったことのある経世学者の佐藤信淵(1769-1850年)は、阿波国にいる時1808年に『西洋列国史畧』を著した。信淵は、やがて江戸に出て、宇田川玄随や大槻玄沢に学んだりして、農政・物産・海防・兵学・天文・国学など広範囲な分野で活躍していくが、その初期の作である。その中でいわく、

「文化2年(1808年)乙丑秋、魯西亜国より「ニコライレサノット」を使として・・・方物を貢す。我国の漂民佐平津太夫等を送て長崎に来舶し再び和親交易を通ぜんことを請ふ。朝廷又固く拒て許さず、且その使に告て曰く。自今已後必復来ること勿れ、若再来る者あらば大銃火砲以て事に従んと。使者「レサノット」拂然(=憤激)せりと云ふ。其翌丙虎の春「レサノット」帰帆す。其年の秋海賊我西蝦夷の内「カラフト」「リイシリ」諸島の鎮府を焼き、我邦の戌卒を擒(とりこ)にして而て去る。同4年丁卯夏海賊我東蝦夷「エトロフ」等の諸鎮を焼き、戌卒を擒にし、「シヤナ」の陣営を焼き、大に乱妨狼藉をなして、遂に奥州南部の海上、松前の箱館辺海に至り、然して去る。在曰是魯西亜国の「カクサツカ」在番の賊徒也と。」

 これはかなり事実を正確に述べたものである。この「海賊」というのは、上述のレザノフの部下のフヴォストフの部隊の事である。

 さらに『西洋列国史畧』はこう続けている。

「同5戌辰年(1811年)八月賊船肥前長崎の港に入り地形を度り津路を捜り狼藉して去る。或曰此海賊は是諳厄利亜(アングリア)人也と。彼諳厄利亜は従来魯西亜と同盟兄弟の国也。右の数事に依りて是を看れば、則今の世界の大躰且彼の二賊の情を亦然して識るべき也。」

 この諳厄利亜人の件は、ナポレオン戦争中の1808年(文化5年)に、イギリスのフェートン号がフランスの同盟国オランダの船を追撃して長崎に来て、その際通商を求めるが拒否された事件のことではないかと思われる。ただし1811年という年が違うが。  

 『西洋列国史畧』には、この後ろに「防海策」という一文がつけられている。徳島藩に仕えていた佐藤信淵は、海防も論じていたのである。これは1809年に藩の小老に信淵が語ったところを藤原邦貞が記録したものである。明和年中にロシアの船(ベニョフスキのこと)が阿州に来たので、海防の危機感を抱いていた徳島藩が、海防を聞いたものである。

 信淵は、「国家の利を興す者は通商交易より大なるはなし」という。そして、「自国をのみ保有して他国に出でて交易せざる国」は、「国内次第に衰耗」してしまう。「四方へ交易をなさざる国は武備も衰弱になり、国内も次第に窮乏し政教も小思になり風俗も軽薄になり人心も険悪になりて、且防御の備えも危難に」なると、鎖国政策を批判する。西洋の人は、日本をイギリスと対比するが、イギリスは大洋に航海し万国に通商し、「兵強く且富盛にして海外に属国極めて多く」、日本とは比べようがないと、冷静に見ている。

 そのうえで、まず、日本は、蝦夷を開拓し、その先の「カムサツカ」を「領知」とすべきであるという。そこは、ロシアと北アメリカの間にあり、交易の拠点になりうるし、東北の防海の要である。次いで、南では、「大清国」をめぐって、「狡猾」な国々がやってきて交易をしている。イスパニア、ポルトガルからオランダ、そしてイギリスとやってきている。この方面の防禦のためには、伊豆七島より出て南海の「無人諸島」を開発し、そこからさらにフィリピン諸島を開拓し、それらで物産を集めて清朝や安南と交易し、さらに琉球国と繋がるのがいいというのだった。蝦夷方面でのロシアの進出、清朝を目指すイギリスなどの進出による危機意識がわかる。ここには、蝦夷と清朝をめぐる世界認識が述べられていた(https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0210/bunko08_c0210.pdf)。

***

 ヨーロッパにおいてフランス革命とナポレオン戦争による混乱が一段落すると、ロシアに代わって、イギリスが日本に接近してきた。ウィーン会議後には、イギリスが積極的な東南・東アジア進出を行なったのである。1822年(文政5年)には、イギリスの捕鯨船が浦賀に来航、この際は食料・水・薪ほかを給与されていた。1824年には、イギリスの捕鯨船員が常陸国大津浜(茨城県北茨城市)に不法上陸するという事件が起きていた。これに対して幕府は、1825年(文政8年)に諸藩に「異国船打払令」を発して厳しく対応した。

 幕府が対外的危機感を強めている中で、1828-29年にシーボルト事件が起きた。1823年にオランダ商館付医官として来日していたフィリップ・フォン・シーボルト(1796-1866)は、1824年に鳴滝塾を開設し、鳴滝塾の生徒としての高野長英、小関三英、伊藤圭介らのほか、天文方の高橋景保らとも交友を広めていた。この間に海外についての情報は蘭学者のネットワークを通じて拡散した。シーボルトは、1828年に帰国する際、禁制の日本の地図などを持ち出そうとしたかどで、帰国直前に捕まり、1829年に国外追放となったが、天文方高橋景保らは厳しい処罰を受けた。このシーボルト事件は、長崎の鳴滝塾を拠点に広がった蘭学者のネットワークを震え上がらせたが、幕府の政策を良しとしない人々も刺激した(石山他 2011 155-228頁)。

 このような蘭学の拡大のなかで、幕府の海外認識の甘さを指摘する者が現れるのは当然であった。それは、1837年のモリソン事件を契機に一層高まった。たとえば、渡辺崋山と高野長英は「異国船打払令」を時代にそぐわないものとして批判したのだった(佐藤編 1972 40-41、61-62頁;Plummer 1991 pp.110-112)。

 1837年、中国広東にあったアメリカ貿易商社が、イギリスと共同で、同社のモリソン号を日本へ派遣し、日本人漂流民7人を送還するほか、対日貿易の交渉を行おうとした。しかし、モリソン号を、イギリス船と見た幕府は、「異国船打払令」によって薩摩と浦賀において砲撃して追い返した。漂流民も寄港できなかったし、翌年には船はアメリカのものであることや漂流民を乗せていたことが判明し、幕府の対応が問われることになった。渡辺崋山も高野長英もモリソン号をイギリス船とみて、その背後にイギリスの勢力の進出を推測していた。

 1838年に出た高野長英の『戊戌夢物語』は、モリソン号事件を取り上げて、もっぱらイギリスの脅威を強調した。それは、イギリスの地誌や歴史を語り、近年のアジアへのイギリスの進出を語っていた。長英も、アメリカの商船モリソン号をイギリス人のモリソンが「頭」となった船であると誤解していて、その関係で、イギリスという国、その植民地、「支那」との関係を論じ、その後で、漂流民の引き渡しと、それへの幕府の対応を論じて、これを批判したのである。「船国地へ近寄」ると、「有無の御沙汰も之なく、鉄砲にて打払」うが、「凡そ世界の中、かくの如き御取扱は之無き事」である。そして、徳川の「鎖国の御政道」について、「仁義」をもって漂流民を送ってきたイギリスの船を「打払」うなら、「日本は民を憐まざる不仁の国」だと考えられるだろうと批判した。そして、長英は、イギリス船をどこかの港へ入港を許して、漂流民を受け取り、ついでに、「清朝、朝鮮、魯西亜、その他近国の事情」を尋ねるのがいいと提案した。

 そして、モリソンの事件が深刻であることを知らせるために、レザノフ事件を教訓とすべきだと述べた。文化年中、ロシア使節レサノット(レザノフ)が日本に渡来し、交易を願ったものの許されず、本国に帰ったのち、責任を取って自殺した。そのため部下のホーシトウ(フォストフ)がこれを恨み憤り、ただ一艘の船で蝦夷地付近の海上を荒らしまわって騒動を起こさせ、国家に非常な損害を与えた。このたびのモリソンは、日本から近い広東に滞在し、多数の軍艦を支配しているうえに、日本近海にイギリスの属島が多数あるので、モリソンの後ろの勢力はレサノット(レザノフ)の「類いにはこれなく」(=比ではない)候と述べた。長英は、モリソンに「非法の御取扱」をすれば、「後来如何なる患害出来候哉」、「実に恐るべきこと」であると警告していた(佐藤他校注 1971 162-169頁;佐藤編  1972 313―321頁)

 レザノフ事件については史実の間違いもあり、佐藤信淵のほうが正確であった。また、後に見る崋山のような歴史的視野はなかったが、レザノフ号事件とモリソン号事件を踏まえて、時の政策を真っ向から批判したのであった。

 崋山も、モリソン事件にレザノフの時と同じ対応をした幕府を批判した。崋山が、モリソン号の噂を聞いて1838年(天保9年)に書いた『慎機論』や、1839(天保10年)に書いた『外国事情書』、『西洋事情書』など「事情書三部作」は、広い国際的な展望のもとに、日本の鎖国的な政策を批判したものであった。

 崋山は、公開されなかった『慎機論』において、「莫利宋(モリソン)なる者」の来日を機に、世界情勢を語った。今や世界の五大州のうち、亜墨利加(アメリカ)、阿弗利加(アフリカ)、亜斯太羅利(アウスタラリー)の三州はすでに欧羅巴諸国の「有」となっている、亜細亜州の中でもわずかに我国、唐山(中国)、百爾西亜(ヘルシア)の三国のみが独立を保っている。その中でも、西人と通信せざるは、わが国のみである。そのわが国には、ロシアとイギリスが綿密に計画を練って、機会をうかがっている。そういう時に「徒に太平を唱ふるは、固より論なし」と述べて、幕府の鎖国政策を批判した。

 翌年、崋山は伊豆の韮山代官江川英竜(海防論者として幕閣に入っていた)の依頼により、世界情勢を論じた無題の論稿を書いた。これはのちに「事情書三部作」と言われることになる。最初の稿は、のちに佐藤昌介が『初稿西洋事情書』と名付けたもので、過激なものであった。これを書き直したのが、のちに同じく佐藤によって『再稿西洋事情書』と名付けられたものであるが、これも激しすぎるというので受け取られなかった。そこで書かれた第三稿が江川に上申され、これを江川が『外国事情書』と名付けた。最後に書かれたものが『外国事情書』であるならば、『初稿西洋事情書』は『初稿外国事情書』であり、『再稿西洋事情書』は『再稿外国事情書』とされてもおかしくはなかった。それはさておき、次に「事情書三部作」の内容を比べてみよう。

参考文献

Plummer, Katherine, The Shogun’s Reluctant Ambassadors; Japanese Sea Drifters in the North Pacific, The Oregon Historical Society, 1991
石山禎一・宮崎克則「シーボルトの生涯とその業績関係年表1(1796‐1832年)」
『西南学院大学国際文化論集』第26巻 第 1号 2011年9月 155-228頁
大槻玄沢・志村弘強編 杉本つとむ他解説『環海異聞 本文と解説』八阪書房 1986年
木崎良平『漂流民とロシア』中公新書 1991年 
久米邦武『特命全権大使・米欧回覧実記』岩波文庫 1980年
佐藤昌介編『日本の名著 渡辺崋山・高野長英』中央公論社 1972年
佐藤昌介・植手通有・山口宗之校注『渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小南・橋本左内 日本思想体系55』岩波書店 1971年
佐藤信淵『西洋列国史畧』 https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0210/bunko08_c0210.pdf
宮永 孝「北米・ハワイ漂流奇談」(その1) 『社会志林』(法政大学社会学)60巻 2号 2013年9月
森永貴子『ロシアの拡大と毛皮交易』彩流社 2008年

(「世界史の眼」No.69)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

『世界史の中の「ガザ戦争」』(藤田進・世界史研究所編、大月書店)に寄せて
栗田禎子

 本書は現在も進行中のガザの事態に関し、これを世界史の中に位置づけてその性格・背景を明らかにすると共に、克服の展望―それはとりもなおさず今後の世界のゆくえを考えることに直結する―をも歴史学的観点から考察しようとする労作である。「はじめに」でも触れられているように、2023年10月にガザをめぐる状況が新たな(そして破局的な)段階に突入して以来、現状分析的あるいは地域研究的な視点からは既に多くの著作が発表されてきたが、問題を世界史の中に位置づけ、人類社会全体の今後のゆくえに関わるものとして捉えようとする姿勢を明確に打ち出している点で本書は際立っている。編者の藤田進、そして世界史研究所メンバーをはじめとする十数名の執筆者らの、「歴史家集団」としての面目躍如と言えよう。

 本書の構成は以下の通りである。

はじめに
第Ⅰ部 「ガザ戦争」とは何か―歴史から問う
第1章「ガザ戦争」の実像
1 二〇二三年一〇月七日まで
2 「ガザ戦争」
3 高まる世界的批判
おわりに
第2章 パレスチナ問題の歴史を読み直す
1 パレスチナ問題の起源―イギリスの責任
2 イスラエル国家とパレスチナ難民の解放闘争
3 二〇〇六年 パレスチナ分裂以降―ハマース政権下のガザ
第Ⅱ部 イスラエルと西側諸国
第3章 イスラエル・パレスチナ問題と米欧
1 米国のイスラエル・パレスチナ政策と反シオニズム
2 イスラエル批判と反ユダヤ主義
3 ドイツの〈反・反ユダヤ主義〉のドグマ
第4章 イスラエルの岐路
1 ガザ攻撃を続けるイスラエル国家が示すもの
2 イスラエルのユダヤ人問題
第5章 日本とガザ戦争―中東での戦争と日本の戦争国家化
1 中東の戦争と日本の関係性
2 日本の中東政策の原点―オイルショック
3 第一の転機としての湾岸戦争
4 第二の転機としてのイラク戦争
5 第三の転機としての集団的自衛権容認
おわりに――中東の戦争を利用した日本の戦争国家化
第Ⅲ部 対抗と平和への模索
第6章 「下から」の抵抗と変革
1 亡びることなき抵抗者たち―不死なるものムスタズアフィーン
2 「ガザ戦争」と「グローバルサウス」―戦争が顕在化する「グローバルサウス」空間の重層性
3 南アフリカのジェノサイド提訴
第7章 ロシア・中国と「ガザ戦争」
1 ロシアのユダヤ人問題と「ガザ戦争」
2 中国と中東問題―パレスチナおよびイスラエルとの関係を中心に
第8章 国連の改革へ
1 「ガザ戦争」と国際社会の失敗―国連の現場で見た「ガザ戦争」の現実
2 「ガザ戦争」と国際世論と国連改革
あとがき

 評者(栗田)は既に本書に関し、新聞の書評欄で概評を行ない、本書がガザ戦争は「植民地戦争」の現代版であり、ガザで起きていることは入植者国家イスラエルによる現地住民の集団殺戮(ジェノサイド)にほかならないとの視点を明確に示していること、ガザの惨劇を放置・黙認する先進諸国の姿を浮き彫りにしながらも、各国支配層と市民社会との間に「亀裂」が生じつつあることも明らかにしていること、そしていわゆる「グローバルサウス」の動向や国連の動きをはじめ、平和で民主的な世界に向けての国際的な「変化の兆し」に注目していること、等の特徴を指摘した(『しんぶん赤旗』2025年11月23日読書欄)。本書を貫くこのような骨太の姿勢と、その叙述に説得力と厚みを与えている多角的な視点とは、上記の章別構成からも明らかであろう。以上を基本的な認識、評価とした上で、以下では(上述の概評では紙幅の関係で触れられなかった点も含めて)追加的な感想やコメントを記すこととしたい。

 「はじめに」および第Ⅰ部について。2023年10月の事件がガザのパレスチナ人にとっては占領と封鎖を突破し、かつて自分たちが住んでいた土地に「帰還」するための闘いであったことを明確に示すと共に(「はじめに」)、続く第Ⅰ部で「ガザ戦争」そのもの(第1章)、およびその背後にあるパレスチナ問題全体(第2章)の性格と展開を歴史的に解き明かして行く。あくまで平易な語り口を心がけつつ、実は最新の研究の成果やアラビア語資料も用いた綿密な叙述がされている点が印象的である。ただ、注文をつけるとすれば、パレスチナの民衆の闘いを彼ら自身の視点から捉えようとする試みの前例として、本書の編者である藤田自身の著作である『蘇るパレスチナ―語りはじめた難民たちの証言』(東京大学出版会、1989年)を(「はじめに」あるいは第1章で)紹介し、同書が明らかにしたパレスチナ民衆運動史をめぐる貴重な知見を、本書の読者とも共有しておくべきではなかったか?『蘇るパレスチナ』はパレスチナの歴史を民衆の視点から捉える上での必読書であり、特に英委任統治期の1936~39年に展開されたパレスチナ民衆蜂起(いわゆる「アラブ大反乱」)をめぐる叙述・分析の深さは世界的にも例を見ない水準に達している。1936年蜂起の性格を知ることは現在のハマースによる運動を理解する上でも不可欠(1936年蜂起の「記憶」やイメージのハマースによる援用、という側面に限っても)と考えられるので、本書中に『蘇るパレスチナ』への言及がないのは惜しい気がした。(本書の刊行を機に『蘇るパレスチナ』が再び注目を集めることを期待する。)

 また、これとも関連するが、パレスチナ問題が(1948年のイスラエル建国でスタートするわけではなく)英帝国の中東支配の過程で生み出されたものであること、まさしく「植民地主義」にルーツを持つ問題であることを読者により鮮明に印象づけるためには、たとえば第2章の歴史叙述も(第一次大戦よりさらに遡って)19世紀末の列強による中東・アフリカへの侵略、植民地化過程を巨視的に振り返ることから説き起こす、という手法もあり得たのではないか、という印象も持った。(具体的にはエジプト占領や「アフリカ分割」、ボーア戦争等の歴史的意味の再確認。この時期に遡るチェンバレン、バルフォアといった「帝国主義人脈」の系譜の検討など。)それにより、ガザ戦争を19世紀末のアフリカでドイツが行なったのと同様の「植民地戦争」として捉える、という(「あとがき」での)問題提起が生きてくるし、また、たとえば「南アフリカの経験とパレスチナの経験は本当に共通しているのか」という第6章での問いとの対話の回路も準備できたのではないか、とも感じた。

 第Ⅱ部について。ここでは前述のように、イスラエルによるガザ攻撃を黙認あるいは支援する先進諸国(米国やドイツ、さらには日本)諸政府の姿が描き出され、イスラエル支持を正当化する思想的・イデオロギー的な装置(いわゆる「反ユダヤ主義」概念等)が分析されると共に、各国の支配層と市民の間の「亀裂」、中東での戦争に対し抗議の声を上げ始めた市民の動きにも目配りがされている。イスラエルという国家自体の性格や内部矛盾に関する分析も興味深い。注文をつけるとすれば、これらすべて(イスラエルを支える先進諸国の姿勢やイスラエル自体の行動)を「世界資本主義の現状」という視点から捉え、位置づけるとしたら、どのような分析が可能か訊いてみたい、ということだろうか。第Ⅰ部、そして第Ⅱ部第3章の叙述からも明らかなようにイスラエルという国家は当初は英帝国の中東支配の都合上建設が開始された入植者国家であり、第二次大戦後は米国の強力な後押しのもとに建国を実現、以後、冷戦期の米国の中東戦略の要とも言うべき役割を果たしてきた存在であるわけだが、冷戦終結後の今、先進資本主義諸国による中東支配の構造はどのような変容を遂げ、現在進行中の「ガザ戦争」は世界資本主義のどのような局面・段階を反映していると言えるのだろうか?ハイテク化・軍事化するイスラエル経済がグローバル資本主義の中で果たしつつある役割や、イスラエルの「新自由主義」路線への転換等をめぐる示唆的分析が見られるが、これをあらためて米国やヨーロッパ諸国、日本も含む大きな構図の中に位置づける議論も期待したい。現在の欧米における政治・思想状況やイスラエル国内のイデオロギーの変化、日本の戦争国家化等をめぐり、各章で展開されている鋭く深い分析を、冷戦後の世界の変容や、「新自由主義」の現段階という観点から統一的に捉え、説明することはできないだろうか?

 第Ⅲ部について。前述のように、いわゆる「グローバルサウス」の動向、またロシア、中国等の動きをも分析すると共に、国連の動きをはじめ、平和で民主的な世界をめざす「変化の兆し」にも注目を促す内容であり、興味深い。特に第8章にはUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)保健局長や米国の歴史家も寄稿するなど、執筆者の多様性、広がりを感じさせる部ともなっている。第Ⅲ部を読んで印象に残るのは、ガザ戦争をめぐり、先進諸国とは一線を画した態度をとっている「グローバルサウス」の動向を検討しながらも、むしろその内部の重層性や矛盾に着目する視点が示されていることである。評者(栗田)はイランの現体制が「ムスタズアフィーン(虐げられた弱者)」との連帯を掲げるイラン・イスラーム革命の理念のもとにパレスチナの民衆の抵抗を支援する姿勢をとっていることを基本的には評価する立場であるが、こうした姿勢の根底に「善悪二元論」があり、また一種の「戦士文化」が存在する(それは男性中心主義にもつながる)ことをイスラーム研究の立場から批判的に指摘した分析(第6章)は興味深いと感じた。また、「グローバルサウス」諸国の政府も実は「新自由主義」路線をとっており、先進資本主義諸国やイスラエルと利害の共通性を有していることを鋭く指摘する論考もあり、ここには(先に第Ⅱ部への「注文」として記した)世界資本主義の現状の中にガザ戦争を位置づける、という発想が観察されると言えるかもしれない。

 それと同時に感じたのは、(現実には「新自由主義」にからめとられ、腐敗し、独裁化しつつあるかもしれない)「グローバルサウス」の諸政府が、にもかかわらず公的には先進諸国とは一線を画し、国際政治の場でガザ戦争に批判的なスタンスを示しているという事実の背後には、やはりこれら諸国の民衆の存在―植民地支配や占領に苦しんだアジア・アフリカ・ラテンアメリカの民衆の経験と、それゆえに彼らがガザの状況に寄せる共感―があり、それが各国の政府の立場を否応なく規定しているという面もあるのではないか、ということであった。本文中にも(「国家」主体のBRICSではなく)「民衆が主体のグローバル空間の構築」が重要だとの指摘があるように、グローバルサウスの「政府」だけでなく、その背後にある「民衆」のエネルギーにも注目する必要があるのではないか。

 「冷戦」終結以降、「新自由主義」時代のグローバル資本主義の下で、世界の民衆はともすれば支配エリートの価値観・言説を植え付けられ、分断され、搾取や差別に対し抗議の声を上げる力を奪われてきたが、現在ガザで進行中の事態は、そのあまりに破局的な様相――まさに民衆を標的とするジェノサイド、絶滅戦争という性格―ゆえに、全世界の民衆を覚醒させ、その怒りとエネルギーを解き放ちつつあると言えるかもしれない。―「ガザ戦争」はまさしく人類史の転換点なのではないかと感じながら、本書を読了した。

(「世界史の眼」No.69)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする