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日本では「世界史学」が必要と考えたわけ
岡崎勝世

※ 南塚信吾著『「世界史」の誕生-ヨーロッパ中心史観の淵源』(ミネルヴァ書房)は、2023年6月30日に発売されました。詳しくは、こちらをご覧ください。(編集部注)

 今般、『「世界史」の誕生』をいただいた。そのお礼のなかで「世界史学」が必要とかねてから考えていたが、本書を読んで、やっとその第一歩が記されたと感じた旨の感想を書いたところ、南塚さんから「世界史学」についての考えを書くようにとの依頼をいただく羽目になった。全く予測していなかったことなので驚きもしたが、しかし、自分の仕事を振り返る意味もあって、「一老人の繰り言」を述べさせていただくことにした。

 「世界史学」の必要性を考える契機になったのは、大学院時代に世界史非常勤講師をした体験と、埼玉大学時代にミュンヘンで行った長期研修(1990−91)での研究であった。そこから、日本の「世界史」を巡る問題の多くはその位置の特殊性から来ており、従って、「世界史」に関わって日本で生じている問題の解決には、関係分野全体を視野のうちに含む一つの研究領域を設定し、総合的に研究することが必要だろうと考えたのである。
 私が世界史の非常勤教師となった頃はちょうど学習指導要領の改訂(1970)で世界史像の転換(文化圏学習ヘの転換)があった時期で、自分が高等学校時代(1959−62)に学んだものと内容や構成が異なる世界史を教えなければならなかった。このことが、世界史とは何か、なぜ世界史像が変化するのかといった問題を考える契機となった。また教育という面からは、世界史の最初の学習指導要領(1951)から既に登場している、「歴史的思考力」の涵養という歴史教育の目標について、これは高等学校のみではなく大学に於いても重要な問題と考え、大学に移ってもいろいろ試していたことも契機となった。
 一方、こうしたこともあって世界史記述史に興味を持ち、長期研修では、ゲッティンゲン学派を開いたガッテラー、シュレーツァーらが身をもって示したキリスト教的世界史から啓蒙主義的世界史への転換について研究したのだが、ここから、西欧と日本における自国史と世界史の関係の大きな違いについても考えざるをえなくなった。古代ローマの時代に、聖書を直接的基盤とし、天地創造から「世界帝国」の時代に移り、第四の世界帝国滅亡とともに終末と最後の審判が訪れるとする、私が「普遍史(Universal History)」と呼ぶキリスト教的世界史がうまれ、以後、曲折を経て一九世紀まで書き継がれた。そこでは、「第四の帝国」をローマ帝国(中世以後は神聖ローマ帝国)とするが、「世界帝国」はその下に多数の国々を従えた覇権国家ゆえ、ローマ史の記述は、必然的にローマ支配に組み込まれた西欧の諸民族や諸国の歴史を内包するものとなっていた。この普遍史を「世俗化」して「世界史(World History」が啓蒙期に成立したが、そこではその「進歩史観」に基づき、世界史における進歩の頂点に西欧を置く形で世界史のうちに自国の位置が与えられ、さらに、同様の見解がランケの「科学的歴史学」に基づく世界史等にも引き継がれた。こうして、西欧では研究に於いても教育に於いても、自国史と世界史がいわば不可分の形で考察され展開されてきていたのである。
 日本における世界史教育について真剣に調べ始めたのはドイツからの帰国後だが、日本では西欧とは違いまず教育の場で「国史」から分離させて「万国史」が設置され、西欧の歴史教科書に依拠した、いわゆる「翻訳教科書」に依って教えられた。その後東京大学が設立されてドイツ近代歴史学が導入され、近代的な研究体制や科学としての歴史学の手法等の導入が行われた。だが世界史教育との連係は進んだとは言えず、例外的とも言えるほんのわずかな世界史の取り組みはみられたものの「三教科分立制」の時代に移ってしまい、「万国史」自体が消滅した。そして、大戦期に至ると「教授要目」が偏狭なナショナリズムを唱え、国史が東洋史も西洋史も支配する状況に陥るまでになった。私には、こうした動きは、国史と万国史の分立が孕んでいた問題と無関係ではあるまいと思われた。戦後の教育改革のなかでは東洋史と西洋史を統合して新教科「世界史」が生まれたが、その内容や構成は、戦前同様に「学習指導要領」で定めた。世界史教育はこの体制のもとで今日まで続いていることから、この間、世界史を巡る真摯な問題提起や提案、諸考察が行われてきたものの、三分科制を採用した歴史学研究体制の問題もあり、私自身が体験したようなさまざまな問題がなお未解決のままに続いていると考えざるを得なかった。
 以上のような経緯から、かかる特殊日本的な状況の由来やその問題の解決に取り組む研究にとりあえず「世界史学」の名称を与えて自分なりに考えてきたということなのだが、ただし「世界史学」については、内容を緻密に検討してきたわけではない。それは、多分、社会科歴史の教育実践の諸成果の研究と世界史記述というテーマを中心とする史学史的研究という二つの焦点を有し、それらを統合した世界史を追究していくものとなろうとぼんやりと考えた程度であり、もっぱら取り組んできたのは、ドイツ啓蒙主義歴史学や「普遍史」など西欧における世界史記述の歴史であった。しかしこれ自体もまだまだ欠陥が多く、ほんの一部を囓ったところまでしかできなかったというのが実情である。
 一方、高等学校における「世界史」に関しては、二〇一八年の「高等学校学習指導要領」が日本史と世界史を統合して「歴史総合」を設けるという大きな変革に踏み切った。そこで興味深いのは、かつて社会科歴史の一教科として「世界史」が出発した頃に立ち戻ったと錯覚しそうな取り組みが提起されていることである(今回重視されている生徒自身の「問い」と「討論」と同様、上記の世界史学習指導要領(1951)が生徒自身の問いと学びを中心とする「単元学習」を提起していたこと、さらにそこでは「古代日本国家」から現代に至る日本史も組み込んだ世界史像を提示していたこと等)。またこれとも関係しながら、岩波書店の「歴史総合を学ぶ」シリーズのように、歴史総合と世界史との連携を巡る議論も行われるようになった。上の「焦点」の一方に関しては既に現実の歩みが始まっているとも言えよう。他の「焦点」については、私は、アンソロジーのものや文化の一要素についての世界史的記述などは種々出版されるようになってきているが、しかし、上記のテーマに関する専門的研究に基づく体系的な専著はまだ現れていないと考えていた。
 そうしたなかで『「世界史」の誕生』に接して先ずわいてきたのは、私が待っていた著作がやっと現れたという思いであった。ただ、それとともに浮かんだ「世界史学」がいよいよ歩み始めたという思いは、私の夢想に基づくいささか独りよがりのものだと考えてはいる。私が世界史記述の歴史を研究の中心に置くようになったのは平成時代が始まったころのことだが、そのころはまだ雲をつかむような感じもあったことから、自分を励ます意味もあって「世界史学」を掲げるなどという発想が生まれたのかもしれない。しかし現在はこのように「励ます」必要もなく、既に現実のほうが進んで諸成果が生まれてきているということであろう。そして今後もこの動きは一層発展するであろうから、その結果、「世界史」に豊かな実りがもたらされることが大いに期待できると考えている。

(「世界史の眼」No.41)

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書評:久保亨『戦争と社会主義を考える』(かもがわ出版、2023年)
木畑洋一

 2022年から高等学校の新たな必修科目として設置された「歴史総合」をめぐっては、その実施を助けるためにさまざまな試みがなされている。「講座:わたしたちの歴史総合」というシリーズ名のもとで、著者を含む6人の歴史家たちがめざしているのも、「歴史総合」を含む高校の歴史教育の推進である。ただ、シリーズ6冊の内、第1巻(渡辺信一郎『さまざまな歴史世界』)と第2巻(井上浩一『さまざまな国家』)は、「歴史総合」では対象とされない17世紀までの世界を扱っており、「世界史探究」という新科目に対応する本となっている。また第6巻(小路田泰直『日本史の政治哲学』)は、「日本史探究」の助けとなる本としての意味をもつ。「歴史総合」での課題に正面から取り組む性格をもっているのは、残る3冊、すなわち、第3巻(桃木至朗『「近世」としての「東アジア近代」』)、第4巻(井野瀬久美恵『「近代」とは何か』)、および第5巻にあたる本書である。

 著者の久保亨氏は、「歴史総合」誕生の背景の一つとなった、日本学術会議による「歴史基礎」という新科目の提案に深く関わった歴史家である(参照、久保亨「高校歴史教育の見直しと「歴史基礎」案」『歴史評論』781号、2015年など)。いわばこの新科目の生みの親の一人であるといってよい著者が、「歴史総合」の教育のなかで強調すべき主題として、戦争と社会主義というテーマを選んで、このシリーズの1冊にしたものと考えられる。ちなみに、「歴史総合」では、「近代化」、「大衆化」、「グローバル化」という三つの柱が設定されているが、第3巻と第4巻が「近代化」に対応するのに対し、本書は「大衆化」の部分に主として対応している。

 本書は3章から成る。第1章が第一次世界大戦を、第2章が第二次世界大戦を扱い、第3章で社会主義の問題が集中的に論じられる。

 第1章では、日本とアジアの状況に即して、第一次世界大戦とその後の世界の姿が描かれる。これ自体、「歴史総合」に関わって、きわめて重要なことと言わなければならない。第一次世界大戦は、アジアでの戦闘(ドイツ支配下の青島への日本軍の攻撃)があったとはいえ、主な戦場はヨーロッパと中東地域であった。そのため、第一次世界大戦史研究においても、また世界史教科書においても、ヨーロッパでの戦争についての叙述が軸になり、大戦期におけるアジア、日本の問題は脇に追いやられていたという感があるし、日本史の教科書でも、第一次世界大戦そのものについての議論は濃密であったとはいいがたい。第一次世界大戦史へのそのような接近姿勢は、近年、大戦開始100周年(2014年)などをきっかけにする新たな関心の高まりのなかで修正され、山室信一氏の研究(『複合戦争と総力戦の断層:日本にとっての第一次世界大戦』人文書院、2011年)などに示されるように、大戦と日本の関わりについての議論が深められてきた。本書はそうした第一次世界大戦史の一つのよい例を示しているのである。

 中国経済史を専門とする著者は、その持ち味を十分に生かしながら、大戦期の日本や中国の姿を描いた上で、大戦がもたらした民族意識の高まりが戦後どのような形をとっていったかを活写する。評者も「歴史総合」での教科書叙述の一つの鍵が第一次世界大戦の扱い方にあると思っていたので、この試みは高く評価したい。

 ただ、逆にヨーロッパでの大戦描写が薄まりすぎているという感がするのは、少々残念である。第1章の最後に置かれた戦争責任と戦後賠償を扱った部分では、ヨーロッパの問題が軸となっているだけに、大戦自体についても今少しヨーロッパの状況にスペースが割かれてもよかったと思われる。

 つづく第2章は第二次世界大戦を対象とするが、ここでもアジア・太平洋局面をめぐる議論が中心となる。第一次世界大戦の場合と異なり、第二次世界大戦は、ヨーロッパとアジア・太平洋とがともに主戦場となり、日本にとっての戦争の意味はいうまでもなくきわめて大きかったため、これまでの世界史教科書においても、戦争開始までの過程から戦後処理に至るまで、両方の局面はかなり均等に扱われてきた。従って、大戦をめぐってアジア・太平洋に焦点を合わせること自体の独自性は薄いが、具体的な叙述を見ると、満洲事変時の状況や南京事件の様相についての詳しい議論が目立つ他、1930年代の平和運動をめぐる分析がヨーロッパでの展開を視野に入れつつアジアでのそれを論じる形になっていて、裨益するところが大きい。またこの章でも、戦争責任と戦後賠償の問題が重視されているが、その部分では日本とヨーロッパとの比較が効果的になされている。日本の問題に常に留意しつつアジア・太平洋を視座の中心にすえた上で世界に眼を配るという、こうした姿勢こそ「歴史総合」が求めているものといえるであろう。

 このようにアジア・太平洋を軸としながら戦争を扱った二つの章から転じて、第3章で社会主義の問題が論じられるにあたっては、ロバート・オーエンから始まってヨーロッパでの思想と運動の展開が重視される。ロシア革命後に作られたソ連型社会主義とならんで、戦間期におけるイギリス(労働党政府)やフランス(人民戦線政府)の経験が取りあげられ、さらに第二次世界大戦後のこれらの国における福祉国家建設も社会主義の文脈に位置づけられているのが、印象的である。日本やアジアにおける社会主義の問題は、戦後期に入ってから本格的に扱われるが、そこでは著者の自家薬籠中の題材である中国社会主義の比重が、当然のことながら大きくなっている。その際、「プラハの春と北京の春」とか「天安門事件、東欧革命とソ連解体」といった小見出しが示すように、ヨーロッパとアジアを同時に視野におさめる試みがなされていることに注意したい。「東欧やソ連の民衆を勇気づけ、体制崩壊を引き起こした要因の一つは、中国における89年春の民主化運動であった」(192頁)といった見方は、きわめて重要である。

 次に本書全体についての感想を一つだけ述べてみたい。

 本書では、戦争と社会主義とにそれぞれ著者なりの鋭いメスが入れられているものの、戦争と社会主義の関わり方という問題については、あまり論じられていない。第1章を読んだ際、ヨーロッパの影が薄いという印象をもたらした要因の一つが、社会主義を取りあげる本であるにもかかわらず、第一次世界大戦とロシア革命、さらにはソ連型社会主義との関連がほとんど述べられていないという点であった。もちろん、その問題はすでに論じ尽くされてきていると言えるかもしれないが、評者としては、若干肩すかしをくったという感じもした。この点にも関わって、戦争と社会主義の関連について、著者は、「第一次世界大戦がロシア革命を引き起こしソ連型社会主義を生んだ過程になぞらえるならば、第二次世界大戦が東欧諸国の人民民主主義政権と中国の1949年革命をもたらし、冷戦が始まる中で東欧と北朝鮮はソ連型社会主義の国となり、朝鮮戦争が中国へもソ連型社会主義をもたらしたことになる」(164頁)と述べている。この例の内、最後の朝鮮戦争と中国の社会主義化の関係についての議論は、本書のなかでも非常に興味深かった箇所であるが、本書全体として、まさに「戦争と社会主義」という論点をもっと突き詰めていく可能性もあったのではないかと思われる。

 そのような課題は残るとしても、本書が「歴史総合」という新科目で模索する教育現場に大きな手がかりを提供する本であることは確かである。歴史学研究会編集の『世界史史料』(著者はその中心的編集委員の一人でもあった)の参照項目が随所で示されていることがきわめて有益であることも、付け加えておきたい。

(「世界史の眼」No.41)

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「世界史の眼」No.40(2023年7月)

今号では、木村英明さんに、長與進『チェコスロヴァキア軍団と日本 1918-1920』を紹介していただきました。また南塚信吾さんに、「世界史寸評」として、「「広島ヴィジョン」を考える」をお寄せ頂いています。さらに、山崎が、小川幸司氏による「書評:南塚信吾責任編集『国際関係史から世界史へ』」(『西洋史学』274号)を紹介しています。

木村英明
文献紹介:長與進『チェコスロヴァキア軍団と日本 1918-1920』(2023、教育評論社)

南塚信吾
世界史寸評 「広島ヴィジョン」を考える

山崎信一
論考紹介:小川幸司「書評:南塚信吾責任編集『国際関係史から世界史へ』」(『西洋史学』274号)

長與進『チェコスロヴァキア軍団と日本 1918-1920』(教育評論社、2023年)の出版社による紹介ページはこちらです。また、『西洋史学』に関してはこちらを、南塚信吾責任編集『国際関係史から世界史へ』(ミネルヴァ書房、2022年)の出版社による紹介ページはこちらをご覧ください。

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文献紹介:長與進『チェコスロヴァキア軍団と日本 1918-1920』(2023、教育評論社)
木村英明

 筆者(木村)は、一昨年の2021年に本ホームページ上で、林忠行氏のモノグラフ『チェコスロヴァキア軍団−ある義勇軍をめぐる世界史』(2021、岩波書店)を紹介させてもらった。同書では、1917年10月革命に続くロシアの内戦期に、反ボリシェビキ武装蜂起へと突き進んだチェコスロヴァキア軍団(以下、適宜「軍団」と略)を舞台回しに据え、入り組んだ国際情勢のなかで、1918年10月28日のチェコスロヴァキア国家樹立に至る過程が世界史的視野から辿られていた。いっぽうで、本年刊行された長與進氏による著作『チェコスロヴァキア軍団と日本 1918-1920』は、この時期の日本とチェコスロヴァキアの関係が「歴史上でいちばん近かった、という「仮説」」のもとに、両者の友誼と対峙の2年間を浩瀚な資料を読み解きつつ検証している。

 著者が提示する豊富な資料のなかで、とりわけ注目に値するのは『チェコスロヴァキア日刊新聞』(以下、『日刊新聞』)である。同紙は軍団の機関紙であり、軍の移動とともに編集部もまた各地を転々としながら、全部で717号が刊行されたという。軍団の救援こそが日本によるシベリア出兵の大義名分であったにもかかわらず、軍団内部のチェコ人・スロヴァキア人の声は、これまで日本でまったくと言っていいほど紹介さていない。本国のチェコやスロヴァキアにおいてすら、軍団そのものが社会主義期に否定的評価を受けていたこともあり、この貴重な新聞の本格的研究は進んでいないという。その意味で、チェコ語、スロヴァキア語、ロシア語に堪能な著者による同紙の記事や論説の翻訳紹介と、それに基づく日本・チェコスロヴァキア両国(シベリア出兵の初動時、チェコスロヴァキア国家は未成立だが)の互いに対する眼差しの検証は、国際的に見ても高いオリジナリティーを有していると言えるだろう。

 序章と終章に挟まれた全7章からなる同書は、序章で述べられているように、「資料に語らせる」ことが基本姿勢として堅持されている。出来事をめぐる両国間の情報や評価の齟齬について、安易な憶断を排すべく叙述が抑制され、これ見よがしの謎解きが繰り広げられることはない。むしろ出来事に注がれる複数の視点が、新たに謎を深めていくケースも見られる。しかし、各章ごとに論点整理が明快になされているため、読者が混乱することはなく、結果として、平板な唯一の物語に回収されることのない、多面的、立体的な歴史の姿が浮かび上がってくる。

 取り上げられているほとんどの出来事が日本語文献に乏しく、一般には知られていないので、以下に各章の内容をサマリーしておく。

 第1章は、チェコスロヴァキア初代大統領で、当時は独立運動組織の議長を務めていたT.G.マサリクの日本滞在に焦点を当てている。1918年4月のおよそ2週間のことである。日本側の新聞報道、マサリク自身の訪日回想とその日本観、『日刊新聞』に掲載された外事警察官竹山安太郎の談話、さらにチェコ語を話す山ノ井愛太郎(この人物について、著者は第4章で集中的に取り上げている)の回想、などが比較対照されている。竹山談話からは、外国要人にたいする然るべき丁重な対応が日本側に欠けていたことが、またマサリクの言葉からは、日本そのものへの関心や敬意というより、軍団救済のために連合国一員である日本からの支持を得ておく必要があったという程度の、プラグマティックな姿勢が伺われるようだ。山ノ井が語る、シベリア出兵に関して、マサリクと田中義一参謀本部次長との密かな接触があったのかどうかについては、資料の信憑性と他の資料不足を理由に、判断が保留されている。

 また、先行研究として本章の注には、1980年代初頭に南塚信吾氏や柴宜弘氏らが立ち上げた「日本東欧関係研究会」編『日本と東欧諸国の文化交流に関する基礎的研究』所収の林忠行氏の論文が挙がっている。筆者は、著者の長與氏から、今回の著作が、同研究会が行った問題提起への、40年遅れの回答であると聞き及んでいることを付記しておく。

 第2章では、いよいよ日本軍のシベリア出兵が始まり、日本人兵士と軍団兵士が直接対面した様子が、『日刊新聞』のルポルタージュ等を通して、すなわちチェコスロヴァキア側からの印象として紹介されている。本章タイトルにもなっているオロヴャンナヤ駅での邂逅については、戸惑いを覚えるほどに日本人兵士への賞賛に溢れている(「勇敢で、忍耐強く、敏捷で、創意に満ちた日本人兵士」、「小柄だががっしりとして、真新しい制服をまとった威風堂々たる黄色い若者たち」等々)。日露戦争時の旅順港閉塞作戦の「軍国美談」までが、チェコ語で詳述されている記事には驚きを禁じ得ない。著者によれば、そこには批判や皮肉の調子は感じられないという。まずは、連合軍の一翼を担う日本軍が彼らの傍に現れたことにたいする安堵感、そして歓喜が前面化した記事内容と言っていいのかもしれない。いっぽうで、第2章の最後には、この1年半後、1920年3月の状況を分析した『日刊新聞』論説記事の内容がまとめられている。そこでは、日本によるシベリア遠征の目的がチェコスロヴァキア軍救援などではなく、極東における日本の利害関係擁護であったこと、具体的には日本の過剰人口の入植先確保、天然資源獲得、さらには対米戦争時に起こり得る海上封鎖の怖れから、日本を大陸と島を含む国家とするための拠点作りの等の思惑があったと、突き放した客観的分析がなされている。

 第3章は舞台を東京とウラジヴォストークに移し、軍団傷病兵と日本人医療団(おもに看護婦たち)の交流が、やはり新資料をもとに描かれる。東京では、築地聖路加病院に収容された傷病兵の様子を日本の新聞数紙が掲載しており、これまで累積する時の地層に埋もれていた、軍団にたいする当時の社会的関心の高さに改めて光が当てられている。プラハやブラチスラヴァの文書館に残されていた写真(傷病兵と看護婦たちの集合写真、病院で催された「チェコスロヴァキア・バザール」の様子など)が数葉挿入されていて、そこからは両者の友好関係が時を超えて伝わってくる。また『日刊新聞』は、ウラジヴォストークから東京までの旅路のルポルタージュを掲載し、日本各地の風景、人々の暮らしの姿、東京の印象などを興味深く活写していた。ウラジヴォストークの病院で働いた赤十字の日本人看護婦については、『日刊新聞』が任務を終えて帰国する看護婦たちとの別れの宴を報告する記事に加え、後にチェコで刊行された資料集から「ミツバチのように働き者で、良心的で優しかった」彼女たちについての記述が翻訳紹介されている。

 続く第4章は、上記のような日本とチェコスロヴァキアの蜜月期に、「初めてチェコ語を学んだ日本人」として随所に姿を垣間見せる山ノ井愛太郎をめぐる謎を扱っている。『日刊新聞』から2編の山ノ井に関するルポルタージュが紹介されていて、そこでは彼を「東京の親チェコ派」と称している。さらに、軍団兵であった作家オルドジフ・ゼメクの回想録も引かれている。ゼメクが京橋区にあった山ノ井の家を訪ねる具体的なくだりはとても印象的で、チェコ好きな日本人好青年とチェコ人の、この時代には稀有であった個人的交流が描写されていた。

 しかしながら、著者がチェコ外務省文書館で発見した、初代駐日チェコ公使カレル・ペルグレルの報告書は、まったく別の山ノ井像について語っている。それによれば、山ノ井はまったく信頼できない人物であり、日本外務省に雇われた情報提供者(諜報員?)である旨が記載されているという。その後の昭和期における山ノ井の経歴もはっきりしない。第1章で触れられた、『田中義一傳記』中にある、田中とマサリクの密会、両者を通訳した山ノ井の逸話の真偽についても、著者は判断を保留している。章末尾には、都立松沢病院に入院していた山ノ井の晩年の姿が、1955年の朝日新聞の記事を引用しつつ触れられている。

 第5章は、「交流美談」のクライマックスを飾る、ヘフロン号事件の概要を叙述する。1919年8月にウラジヴォストークを出航した軍団の帰国輸送団第8便へフロン号が、福岡県白鳥灯台付近で座礁し、船の修理期間中に、盛んな民間交流が行われたという。これについては、日本側にもチェコ側にも文献が少なく、双方にほとんど知られていない出来事だったそうだ。乗員870人は、初め門司に運ばれた。プラハの文書館所蔵の写真が4枚掲載されており、門司の女性たちや子供たちを含む日本人と軍団兵士が、互いに入り混じって楽しげにレンズに収まる姿は、まさに本章タイトル通り、「交流美談の頂点」を思わせる。その後、兵船の修理のために、兵士たちは門司から神戸に居を移した。『日刊新聞』のルポルタージュ記事は、坐礁から門司上陸、神戸への移動について記している。それによれば、門司港からの出航に際しては、数百人の住民、何千人の学童が別れの挨拶に、チェコ語で「ナズダル」と叫び、兵士たちは日本語で「バンザイ」を唱えた。神戸においても、神戸市民が市内見物や自宅へと兵士を招いて、草の根的な交流が続いた。奈良への招待旅行も企画された。軍団兵士はこのような好意あふれるもてなしにたいして、音楽やソコル体操などを市民に披露して応えたという。サッカーの試合も日本人学生との間で行われ、6試合中4回、軍団兵士側が勝利したと『日刊新聞』は伝えている。10月末の出航まで、この熱い友好関係は続いたようである。また、この章の補論として、全部で36便に及んだという軍団の帰国輸送船団について、船名、乗員数、出航日と到着日(到着地も含む)が整理されていて、研究者にとって非常に有益な情報提供となっている。

 第6章と第7章では、両国の友好関係が描かれたこれまでの章とは、180度様相を異にする出来事が取り上げられている。1920年4月に、満州西部のハイラル駅で日本軍とチェコスロヴァキア軍団が衝突したとされる、いわゆるハイラル事件である。前年末以降、コルチャーク体制の崩壊、ボリシェヴィキ勢力の拡大、日本軍が後押しするセミョーノフ反革命政権と軍団の軋轢というように、急展開を遂げたシベリアの状況は、両軍の関係をネガティヴな方向へと導いていった。事件のきっかけは、ハイラル駅で日本軍が逮捕したロシア人鉄道員の押送に反対するロシア人群集、そしてロシア人に味方した中国軍と日本軍の間で起こった短時間の戦闘だった。その際に、軍団所有の装甲列車オルリークから、日本軍に向けて銃撃があったとする日本側とそれを否定する軍団側の間で、緊迫した対峙が生じた。著者は、まず日本側の新聞各紙の報道と陸軍参謀本部による公式記録を示す。新聞報道には、感情的な言葉で軍団を誹謗する調子が目につく(「文明を衒うチェック軍にして、過激派、支那兵、馬賊以下の残虐を敢えてせり」等)。報道も参謀本部記録も、軍団側から日本軍への銃撃を事実と認定している。いっぽうで、『日刊新聞』の記事(著者はこの事件に関する記事を16編確認している)とプラハの軍事歴史文書館に残る文書は、軍団からの銃撃を否認している(「チェコスロヴァキア軍は、中立を守るようにという命令に従って、軍用列車内に留まり、戦闘に参加しなかった」(『日刊新聞』)、「オルリーク、小銃、機関銃、砲からも、あるいは手榴弾による一つの攻撃もなされなかった」(文書館所蔵、オルリーク司令官の調書)等)。

 示された資料からは、双方で2名ずつの死者を出したこの事件の全体の流れについて、双方で大きな食い違いがなく、相違点は軍団側からの銃撃の有無に絞られることが分かる。

 ハイラル事件の結果、軍団の戦闘単位として重要かつシンボル的な存在でもあった装甲列車オルリークを、一時的に日本軍が接収した。第7章は、このオルリークをめぐる両軍の対立に焦点が当てられている。当初は日本軍の要求に従った現場の軍団側であったが、軍団司令官シロヴィー将軍の言にあるように「「オルリーク」の名前は、すべてのチェコスロヴァキア軍兵士を励まして、力付けるものの一つ」(『日刊新聞』)であったため、この接収に憤ったウラジヴォストークの軍団司令部は直ちに奪還に動いた。同じくウラジヴォストークの日本軍司令部の司令官大井大将に対して、軍団司令部は強硬に返還を要求した。日本側に談判に赴いたチェコ人少佐の回想録によれば、チェコスロヴァキア軍は実力による装甲列車奪還を試みるかもしれないこと、事件についての報告を連合国に提出すること、と日本側が予期しなかった「脅し」を突きつけたという。大井大将はオルリークの返還を了承するが、その決定に対して国内の日本軍内部で強い反発が起こった事実にも言及されている。

 第7章後半では、ハイラル事件をめぐって行われた、日本・中国・チェコスロヴァキアによる三者調査委員会の議論が、日本側とチェコ側の資料に基づいて並置されている。それらによれば、チェコスロヴァキア軍が軍事衝突に関与したのか否かは水掛け論に終始した。著者は、「現段階までの調査と研究によれば、ハイラルでの4月11日の銃撃戦は、偶発的な遭遇線であった可能性が高い。この事件は間違いなく軍団と日本軍の関係を悪化させたが、両軍の間でこれ以上の軍事紛争は起こらなかった」と総括している。

 終章には、現在、カトリック府中墓地に埋葬されている軍団兵士5名について、葬儀の様子を伝える当時の日本の報道と、チェコスロヴァキアの資料から突き止めた兵士たち個々の来歴があげられている。また著者自身が、チェコスロヴァキア独立記念日に合わせて、日本人研究者や在京チェコ大使館関係者と墓参に訪れた秋の一日が回想されている。チェコスロヴァキア軍団と日本のシベリア出兵を通じて触れ合いを深めたこの時期こそ、日本とチェコスロヴァキア両国の関係が「歴史上でいちばん近かった」、とする著者の仮説にとって、日本の地に埋もれることになった軍団兵士の存在は、何よりも雄弁な証左の一つであるだろう。

 著者は、『チェコスロヴァキア日刊新聞』の翻訳を長年に渡り続けていると聞く。同紙は、革命に続くロシア内戦の諸問題、第一次世界大戦後の新秩序形成への動き、さらに日本軍部の大陸進出の野望など、歴史の大変動期に関わる情報が、独立運動を展開していた中欧の小ネイションの目線から記録された、世界史研究者にとってたいへん意義のある資料である。翻訳の完成、出版が待たれる。

(「世界史の眼」No.40)

                                    

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世界史寸評
「広島ヴィジョン」を考える
南塚信吾

 2023年5月19日から21日のG7広島サミットが終了した。岸田首相は「歴史的な意義」を強調したが、たしかに「歴史的」に重要なメッセージを発した会であった。会が発した中心的なメッセ―ジは、「首脳宣言」と「広島ヴィジョン」であろう。

 「首脳宣言」は、『日本経済新聞』2023年5月21日に全文が掲載され、『毎日新聞』5月22日に詳しい「要旨」が掲載された。それは、現在世界が直面するほとんどすべての問題について、G7はその解決に努力すると宣言している。これは毎年のG7恒例の声明であると言ってよい。

 ほかならぬ広島からのG7のメッセージとして重視されているのが「広島ヴィジョン」である。これは被爆地広島から発せられた核問題についての「ヴィジョン」とされている。この全文は外務省のHPに英文と和訳とが載せてある。岸田首相の強調する「歴史的な意義」はまさにこの文書になければならないはずである。

 この「広島ヴィジョン」についてこれまでメディア上には、散発的にコメントがなされているが、歴史文書として改めて検討するとどうであろうか。「ヴィジョン」の文言から見て行こう。

(1) 「我々の安全保障政策は、核兵器は、それが存在する限りにおいて(for as long as they exist)、防衛目的のために役割を果たし、侵略を抑止し、並びに戦争及び威圧を防止すべき(should)との理解に基づいている。」

 この文が言いたいのは、核兵器は抑止力を持っており、平和に貢献するのだから、核兵器は持っていいのだということである。いわゆる「核抑止論」に立っているわけである。

(2) 「核兵器不拡散条約(NPT)は、国際的な核不拡散体制の礎石(cornerstone)であり、核軍縮及び原子力の平和的利用を追求するための基礎(foundation)として堅持されなければならない。」

 この文章の前半、つまり「核兵器不拡散条約は、国際的な核不拡散体制の礎石」であるという文章は、現在拡散防止条約に加盟している核保有国以外の他の国は核を持つなということである。それは、「我々は、いかなる国もあらゆる核兵器の実験的爆発又は他の核爆発を行うべきではないとの見解において断固とした態度をとっており、それを行うとのいかなる威嚇も非難」する。「我々は、まだそうしていない全ての国に対し、核兵器又は他の核爆発装置に用いるための核分裂性物質の生産に関する自発的なモラトリアムを宣言又は維持することを求める」という主張によって補強されている。

(3) 「米国、フランス及び英国が、自国の核戦力やその客観的規模に関するデータの提供を通じて、効果的かつ責任ある透明性措置を促進するために既にとってきた行動を歓迎する。我々は、まだそうしていない核兵器国がこれに倣うことを求める。」

 この文章では、米英仏は情報を公開し、透明にして核保有と核開発をしていると、自慢している。そのうえで、中国、北朝鮮、イラン、そしてロシアを批判している。「透明性問題」はほかならぬロシアと中国に対してむけられたメッセージである。とくに中国に対しては、「中国による透明性や有意義な対話を欠いた、加速している核戦力の増強は、世界及び地域の安定にとっての懸念となっている。」と指摘している。

(4) 「我々は、全ての者にとっての安全が損なわれない形で、現実的で、実践的な、責任あるアプローチを通じて達成される、核兵器のない世界という究極の目標に向けた我々のコミットメントを再確認する。」

 この文章が最も曲者である。これは文書作成者が非常に神経を使って書いた文章であろう。だから原文も見ておこう。原文はこうなっている。

 We reaffirm our commitment to the ultimate goal of a world without nuclear weapons with undiminished security for all, achieved through a realistic, pragmatic and responsible approach.

 「首脳宣言」においても、この文言は繰り返されている。

 この文章は二重の意味で、曲者である。まず第一に、「全ての者にとっての安全が損なわれない形で」という文である。訳文では核の廃絶については、「全ての者にとっての安全が損なわれない形で」とあるので、「達成される」に繋がると理解してしまうが、そうではない。核の廃絶については、「全ての者にとっての安全が損なわれない形の」(with undiminished security for all)状態としての核のない世界を目指すというのが原文である。「核兵器のない世界」は当然「全ての者にとっての安全が損なわれない形の」世界であるはずだが、なぜこういう限定を付けているのであろうか。そういう「形の」核のない世界はあり得ないのだと言わんばかりである。しかし、訳文に戻って、「全ての者にとっての安全が損なわれない形で」核の廃絶に向うということは、現在において「安全が損なわれて」いる者がいるという現実を見ないで、あるいはそこから目をそらして、将来のことを問題にするという、論点ずらしに他ならないのである。このような論法は、ごく最近のLGBT理解増進法にも見られ、最後に加えられた修正の一部に出てくる「性的指向又はジェンダーアイデンティティにかかわらず、全ての国民が安心して生活することができることとなるよう」という限定がそれである。この論法は現状保守派の定番になりつつあるようである。

 つぎに第二に、「現実的で、実践的な、責任あるアプローチ」で核のない世界に行くべきという文章である。「現実的で、実践的な、責任あるアプローチ」とはどのようなアプローチなのだろうか。核兵器不拡散条約は、「核軍縮及び原子力の平和的利用を追求するための基礎」であると、宣言は言っている。その基礎からどのように「核軍縮」に至るのであろうか。宣言は、「核兵器のない世界は、核不拡散なくして達成できない」と繰り返している。だが、これは北朝鮮とイランを批判するために使われている命題で、どのように核軍縮や核廃絶を達成するかは示されていない。宣言は、「核兵器禁止条約」には全く触れていない。同条約は「現実的で、実践的な、責任あるアプローチ」ではないというのであろう。なぜそうなのか。「現実的で、実践的な、責任あるアプローチ」などと限定して見せて、結局、核廃絶は遠い理想として、棚上げされているのである。

(5) 「我々は、・・・全ての国に対し、核兵器の実験的爆発又は他のあらゆる核爆発に関するモラトリアムを新たに宣言すること、又は既存のモラトリアムを維持することを求める。」「我々は、民生用プログラムを装った軍事用プログラムのためのプルトニウムの生産又は生産支援のいかなる試みにも反対する。」

 このように、五つの「核を持つ国」以外の国は、核実験をするな、プルトニウムを作るなと言っている。核独占の論理である。

 以上の主張は、まぎれもなく五つの「核を持つ国」の立場から論じられていると言える。日本はその神輿担ぎをしているわけである。こういうヴィジョンを広島から発した意味は何か。被爆地広島から発するのであれば、核廃絶であり、そこへの合理的な道筋であるべきである。広島は宣伝に利用されただけではないだろうか。おりから、6月21日の『朝日新聞』で、元広島市長の秋葉忠利氏は、「広島ビジョン」は「広島」を冠にしたことで、「あたかも広島全体がお墨付きを与えたかのような印象を狙っているように思える」とし、広島を「冒涜」していると批判している。

 実は「ヴィジョン」にはもう一つ大事な問題がある。

(6) 「我々は、全ての国に対し、次世代原子力技術の展開に関連するものを含め、原子力エネルギー、原子力科学及び原子力技術の平和的利用を促進する上で、保障措置、安全及び核セキュリティの最高水準を満たす責任を、真剣に果たすよう強く求める。」「原子力発電又は関連する平和的な原子力応用を選択するG7の国は、原子力エネルギー、原子力科学及び原子力技術の利用が、低廉な低炭素のエネルギーを提供することに貢献することを認識する。」

 「首脳宣言」においても、この文章は繰り返されている。

 この文章は核の平和利用をうたっていて、原発は低廉で、技術も向上したという理由で、原発を公然と支持する姿勢を取っている。「福島」はどこへいったのであろうか。「広島が位置する日本」には「福島」も存在する。そういう日本から発したヴィジョンであるにかかわらず、ヴィジョンは、見事に福島を無視しているのである。福島からは、ヴィジョンは福島を「冒涜」したと見えるかもしれない。

 以上の意味で、確かにこのヴィジョンは「歴史的意義」を持っている。のちの世界史を語る歴史家は、2023年5月に不思議なメッセージが広島から発せられたと記録するであろう。広島、福島そして日本の国民の多くを「冒涜」したメッセージが。

(「世界史の眼」No.40)

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論考紹介:小川幸司「書評:南塚信吾責任編集『国際関係史から世界史へ』」(『西洋史学』274号)
山崎信一

 2022年に刊行された『西洋史学』274号に、小川幸司氏による『国際関係史から世界史へ』に対する書評が掲載された。小川氏は長年にわたり、歴史教育、とりわけ高等学校における世界史教育に携わってきており、それに関する著作も多い。また2021年より刊行されている『岩波講座 世界歴史』(第三期)の編集委員を務めているほか、2023年6月には、岩波新書から、「シリーズ 歴史総合を学ぶ」の一冊として『世界史とは何か−「歴史実践」のために』を刊行している。

 歴史教育と歴史研究が別のものとして存在するのではない点が指摘されて既に久しく、さまざまな形で議論が展開されるようになっている。とりわけ、「世界史」という枠組みを設定することは、日本においては歴史教育において先行したこともあり、むしろ世界史教育が世界史研究を牽引してきた側面もあるのかもしれない。また、小川氏の述べるように、高等学校のカリキュラム変更(「歴史総合」、「世界史探究」の導入)が、世界史を各国史の総和として描くのではなく、その構成原理を検討する必要を強いているという側面もあるだろう。この書評は、歴史研究と歴史教育のそれぞれの関心が同じ方向性を持つことを確認させるものでもあり、ここに簡単に紹介を試みたい。

 小川氏は『国際関係史から世界史へ』の方法論に関して、非常に明解にまとめている。各国史の「並列」ではない、「脱ナショナル・ヒストリーの世界史」のため、連動と関係を重視する中で立ち現れる二つの観点を挙げている。一つは、世界史の垂直軸とも言える、世界史の「傾向」に対する諸地域の反発や受容による「土着化」の動き(小川氏は「傾向」の観点と呼んでいる)であり、もう一つが、世界史の水平軸にあたる、ある地域の緊張の高まりが別の地域の緊張の緩みをもたらすといった、諸地域の有機的なつながり(小川氏による「力学」の観点)である。このうち、「傾向」の観点に関して、小川氏は、ヨーロッパ中心史観に陥らないことの重要性を確認した上で、「土着化」だけにとどまらない「連鎖」のあり方にも視野を向けることを論じている。「傾向」の観点に関しては、その多様なあり方の分析が本論考の主要な部分ともなっている。具体的に挙げられているのは三つの点である。第一は、主権国家体制の東アジアにおける受容(対象書第1章)に関してであり、第二は、支配と被支配の権力関係の動向(対象書第4章、第6章)であり、第三は、「カラーライン」やジェンダー対抗軸といったさまざまな対抗軸の世界的な出現(対象書第3章、第9章)である。さらに、対象書に扱われていない「傾向」を補うものとして、同じ「MINERVA世界史叢書」シリーズの他の巻の存在が挙げられている。

 小川氏は全体として『国際関係史から世界史へ』に高い評価を与えている。それは、氏の歴史教育者としての課題や関心に応える点が多いが故でもあるだろう。特に、小川氏の指摘する、世界史教育において抜け落ちがちのアフリカ史、ラテンアメリカ史、東南アジア史、オセアニア史などの重要性や、世界史に「民衆の歴史」を組み込むべきことなどは、世界史教育全体の課題でもあるものだろう。小川氏の書評により、世界史研究の進むべき方向も、より明確になったと思われる。

(「世界史の眼」No.40)

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『「世界史」の誕生』が刊行されます

2023年6月30日に、南塚信吾(世界史研究所所長)著『「世界史」の誕生―ヨーロッパ中心史観の淵源』が、ミネルヴァ書房より刊行されます。「世界史」の形成とその幕末以降の日本への影響に関し、膨大な先行研究を踏まえての解明を試みた意欲作です。

目次

はじめに

第1章 キリスト教的「普遍史」の世界
 1 「普遍史」の支配と危機
  (1)『神の国』の世界史―「一体的存在としての人類」の歴史
  (2)普遍史の危機
 2 ボシュエの『普遍史』 
 3 上原専禄の問題提起

第2章 「科学的」世界史の模索
 1 ヴィーコ『新しい学』―デカルト批判
 2 ヴィーコの世界史像
 3 キリスト教的史観との関係

第3章 啓蒙主義の世界史
 1 新しい地平 
 2 イギリスの啓蒙主義的歴史
 3 啓蒙主義的世界史の試み―ヴォルテール
  (1)ヴォルテールの世界史
  (2)ヴォルテールの歴史の方法
  (3)ヴォルテールの世界史の構成
  (4)ヴォルテールの世界史の方法
  (5)ヴォルテールのアジア(=非ヨーロッパ)論
 4 「普遍史」批判の展開―クロード・F・ミロ
  (1)ミロの歴史の方法
  (2)ミロの古代史論
  (3)ミロの近代史論
  (4)ミロのアジア(=非ヨーロッパ)論
  (5)ミロの世界像とは
 5 『両インド史』の可能性―ギヨーム=トマ・レーナル
  (1)百科全書派の産物
  (2)『両インド史』の構成
  (3)世界史論としての特徴
 6 啓蒙主義の歴史論と世界史観

第4章 多元的世界史の試み
 1 カントの『普遍史の理念』 
 2 ヘルダーの多元的世界史
  (1)ヘルダーの位置づけ
  (2)『人類の歴史哲学考』―フォルクの多元性
  (3)人間自身の歴史
  (4)世界史の方法―多元的発展
 3 ヴィーコとヘルダー

第5章 「普遍史」からの脱却へ
 1 スコットランドとアイルランドからの世界史 
  (1)スコットランドからの世界史―A・F・タイトラー『一般史の諸要素』
  (2)アイルランドからの近代的世界史―T・カイトリー『歴史概論』
  (3)アイルランドからの「帝国的」世界史―W・C・テイラー『古代・近代史のマニュアル』
 2 フランス的世界史へ―ギゾーとミシュレ
 3 ドイツにおける脱「普遍史」の成果―ヘーゲルとランケへ 
  (1)脱聖書の世界史
  (2)「聖史」と世俗史の「折衷型」世界史
  (3)ヘーゲルの「歴史哲学」に見る世界史
  (4)ランケ⑴―実証主義の「世界史」へ
 4 アメリカにおける「普遍史」の名残
  (1)ヨーロッパの世界史の「輸入」
  (2)アメリカ「自前」の「世界史」
  (3)日本にもたらされた「世界史」

第6章 実証主義の歴史学とヨーロッパ中心の世界史
 1 コントの「実証主義」
 2 ドイツにおける実証主義の世界史―ランケ
  (1)脱聖書の苦悩―G・ヴェーバーの世界史
  (2)ランケ⑵――世界史への一歩『近代史の諸時代』
  (3)ヨーロッパ中心の実証主義的世界史の浸透
 3 イギリスにおける実証主義と世界史
  (1)最後の「折衷型」「世界史」―H・ホワイトの教科書
  (2)チェンバースの同時代史的世界史
  (3)世界文明史への道―バックル『イングランド文明史』
  (4)ダーウィン『種の起源』と「適者生存」
 4 マルクス・エンゲルスの世界史論 
  (1)中心からの世界史
  (2)周縁と「連動」する世界史
  (3)発展段階論と世界史

第7章 ナショナル・ヒストリーと世界史
 1 人種的世界史の登場―フリーマンとスウィントン
  (1)E・A・フリーマンの人種的世界史
  (2)W・スウィントンの人種的世界史
 2 ナショナル・ヒストリーの支配
  (1)イギリスにおける歴史の専門職業化
  (2)ドイツ―プロイセン国家史
 3 世界史とナショナル・ヒストリー―ランケ⑶  
  (1)『世界史』の方法
  (2)『世界史』の構成
  (3)『世界史』の特徴
 4 ナショナル・ヒストリーへの抵抗―ブルクハルトとアクトン
  (1)ブルクハルト『世界史的考察』
  (2)アクトンと『ケンブリッジ近代史』―ランケとの葛藤
 5 アメリカにおけるランケ的世界史―G・P・フィッシャー
  (1)フィッシャー『ユニヴァーサル・ヒストリー概論』の方法
  (2)『ユニヴァーサル・ヒストリー概論』の構成

参考文献
おわりに
人名索引

ミネルヴァ書房の紹介ページはこちらです。世界史研究所に連絡していただければ、特別価格にてお求めいただけます。仔細はお問い合わせください。

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「世界史の眼」No.39(2023年6月)

今号では、木畑洋一さんに、百瀬宏『小国 歴史にみる理念と現実』(岩波現代文庫、2022年)を、東京大学の鶴見太郎さんに、ジョン・C・スーパー&ブライアン・K・ターリー(渡邊昭子訳)『宗教の世界史』(ミネルヴァ書房、2022年)を書評して頂きました。さらに小谷汪之さんに「世界史寸描」として、「太平洋戦争とパラオ現地民―中島敦にかかわる一つのエピソード―」を寄稿して頂きました。

木畑洋一
書評:百瀬宏『小国 歴史にみる理念と現実』(岩波現代文庫、2022年)

鶴見太郎
書評:ジョン・C・スーパー&ブライアン・K・ターリー『宗教の世界史』(渡邊昭子訳)ミネルヴァ書房、2022年

小谷汪之
世界史寸描 太平洋戦争とパラオ現地民―中島敦にかかわる一つのエピソード―

百瀬宏『小国 歴史にみる理念と現実』(岩波現代文庫、2022年)の出版社による紹介ページはこちらです。また、ジョン・C・スーパー&ブライアン・K・ターリー(渡邊昭子訳)『宗教の世界史』(ミネルヴァ書房、2022年)の出版社による紹介ページはこちらです。

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書評:百瀬宏『小国 歴史にみる理念と現実』(岩波現代文庫、2022年)
木畑洋一

 本書は、1988年に岩波書店から出版され、2011年に岩波人文書セレクションの一冊として再刊されたことがある本の現代文庫版である。岩波現代文庫[学術]は、さまざまな学問分野で大きな意味をもった本を復刊して、新たな読者に提供していくという役割を担ってきた。本書が関わる国際関係・国際政治分野においても、たとえば、細谷千博『シベリア出兵の史的研究』(2005年、原著:有斐閣、1955年)や斉藤孝『戦間期国際政治史』(2015年、原著:岩波書店、1978年)などがすぐ頭に浮かぶ。斉藤氏の本については、著者没後の刊行であったため、筆者が解説を書かせていただいたが、原著に初めて接した頃のことをいろいろと思い出して、楽しい仕事になったことを覚えている。本書の場合、著者百瀬氏は九〇歳をこえてなおお元気であり、現代文庫版でも「あとがき」を執筆されている。この「世界史の眼」を出している世界史研究所の前身組織を支える存在であった百瀬氏の代表作の一つが、こうした読みやすい形で幅広い読者に改めて示されたことを、まず何よりも喜びたい。

 百瀬氏は、いうまでもなくフィンランド史を中心として、わが国における北欧、東欧の近現代史研究を牽引してきた研究者で、その著作はすこぶる多い。筆者が初めて氏の研究に接したのは、第二次世界大戦初期のソ連-フィンランド戦争(冬戦争)を扱った『東・北欧外交史序説 ソ連=フィンランド関係の研究』(福村出版、1970年)であり、その後も、『ソビエト連邦と現代の世界』(岩波書店、1979年)や『北欧現代史』(世界現代史28、山川出版社、1980年)などで、いろいろと学ばせていただいた。さらに、印象に残ったものとして、『国際関係学原論』(岩波書店、2003年)がある。氏に大きな影響を与えた江口朴郎氏の議論を基礎とする「人間解放の主体的諸契機」と題する章を中心的位置に据えるなど大胆な議論を展開したこの本が、氏の著作としてあまり言及されることがないのは、残念である。

 そのような百瀬氏の北欧・東欧研究と国際関係全体にまたがる研究との結節点ともいうべき位置を占めるのが、本書『小国』であるといってよいであろう。本書の詳しい内容紹介は割愛するが、古代世界における「小国」論の系譜から説き起こす序論部分に始まって、19世紀のウィーン体制下、クリミア戦争期、帝国主義の時代、1920年代、1930年代、冷戦期、緊張緩和期という各時期に、「小国」の位置が国際関係のなかでどのような変化をとげ、さらに「小国」についていかなる議論がなされてきたかが、丁寧に述べられている。

 強い力をもっている「大国」の思惑と行動を軸として描かれがちな国際政治の舞台において、「小国」(その定義自体論争をはらむが、ここでは立ち入らない)が、たとえば中立政策などを通じてどういった振る舞いをしてきたかが、本書では豊富な例に基づいて論じられる。その際挙げられている事例は、ヨーロッパのものが軸になっている。百瀬氏の専門上当然のことながら、北欧諸国の例が圧倒的に多く、東欧、バルカン半島も重視されている。一方ベネルクスに重点が置かれるのは第二次世界大戦後についての部分である。

 このように、本書は、基本的には「ヨーロッパの小国」論といってよく、アジア・アフリカの「小国」については、1950年代からの非同盟外交の意味が強調されているものの、比重は小さく、また中南米の事例などは簡単に触れられるのみであり、それに不満を抱く読者がいることは十分想像できる。ただし、ヨーロッパ以外でも、日本については、「小国」論との関わりがかなりの密度をもって論じられおり、特に第9章「「戦後」日本の「小国」像」は、きわめてユニークな議論となっている。

 こういった内容の『小国』が、2022年の日本において文庫本として再刊される理由は、何であろうか。

 本書には、2011年に岩波人文書セレクションとして刊行された際に書かれた「「冷戦終焉」以来の「小国」をめぐる理念と現実」という文章も収録されており、EUのなかでの「小国」の問題や、太平洋の島嶼国家の変化などが触れられ、「小国」による地域協力の重要性や、「内なる小国」、すなわち大国を含む国家の内部の「小国家」とも言える地方自治体や地域の新たな意味に、注意が促されている。しかし、2011年時点での再刊の意味は、必ずしもはっきりしない。

 それに比べ、2022年での文庫本としての再刊行の意味は、すこぶる明確であるといってよい。本書末尾の「岩波現代文庫本あとがき」で著者は、「本書が扱う事柄の応用問題ともいえる諸状況が、日本を含む世界各地で発生している」と述べつつ、「具体的な話題の中でも早速思い浮かぶのは、ウクライナ、そしてロシアの事態である」と記している。そして、ロシアのウクライナ侵攻の結果、フィンランドとスウェーデンがNATOへの加盟申請を行ったことに触れ、両国の動きはロシアの脅威への「敗北」と見られるかもしれないものの、「事態はそう単純ではないだろう」として、両国の今後の動きへの注視を促している。確かに、本書でも最も多く言及されているといってよいこれらの国々の最近の動きの意味を考える上で、本書の記述に戻ってみる意味は大きい。

 さらに、著者が直接述べているわけではないが、ロシアによるウクライナ侵攻という行為自体が、隣接する「小国」への「大国」の軍事侵攻という事態の一例として、「小国」をめぐる問題に連なるものである。そして、1939年のソ連によるフィンランド侵攻が歴史上の先例として思い起こされるが、本書で同戦争を扱った部分が国際連盟によるソ連の追放問題に絞られているのは、若干残念である。とはいえ、ウクライナ戦争の帰趨に注目しつつ、本書の「小国」論に接してみることは(筆者のように再読する読者も含めて)、きわめて有益であろう。

 ただ、35年前に刊行された本書の内容について、現在の時点からみて読者が不満を覚える点は、当然のことながら多々あるであろう。たとえば、本書には「小国」のなかの分化に着目した「極小国」と「弱国」についての議論が見られるが、そうした分化はさらに進んでいる。地球環境の変動によって、国の物理的存続自体が危ぶまれるような島嶼「極小国」の問題などが、すぐ頭に浮かぶ。さらに本書では、最後の方になって、それまでの議論と必ずしも明確にはつながらない形で(と筆者には感じられる)、「内なる小国」という問題が提示されている。それがもつ意味については、前述したように2011年版の追記で著者自身が触れているが、歴史を遡ってその視角を入れてみることも、「小国」の前提となる「国家」の姿そのものへの問いかけが強まっている現在、必要であろう。

 とはいえ、こうした感想はあくまでないものねだりである。日本における「小国」論の古典とも呼べる本書が、現在もきわめて刺激的な内容に満ちているということを改めて指摘して、本稿を結ぶことにしたい。

(「世界史の眼」No.39)

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書評:ジョン・C・スーパー&ブライアン・K・ターリー『宗教の世界史』(渡邊昭子訳)ミネルヴァ書房、2022年
鶴見太郎

 宗教はなぜかくも持続するのか―。最終章である第11章で著者たちが明かしている問題関心を一言で表せばそのようなものになるだろう。2004年、ジョージ・W・ブッシュは、「取るに足らない証拠を基にイラクでの長引く流血の争いへと国民を導いた」にもかかわらず、なぜ再選されたのか。出口調査は、「具体的な宗教的信念に基づいた保守的な道徳観が、投票行動で重視されていた」ことを明かしたという(247)。このことは、別の章でも、リベラリズムに対する勝利として言及されている(179)。フランス革命、メキシコ革命、ボリシェヴィキ革命のいずれも宗教を根絶することはできず、フロイトが「負けが決まっている」と記したことは誤っていたようだ(248-9)。「原始的」と見られてきた宗教さえ、極端な環境の変化にも順応してきたのである(249-50)。

 ラテンアメリカの食と宗教などを専門とするジョン・スーパーと、欧米諸国のキリスト教を中心とした思想や文化、歴史を専門とするブライアン・ターリーによる本書の原タイトルは「世界史のなかの宗教」である。したがって、宗教がどのように世界史を形成していったかというより、世界史の様々な場面に現れる諸宗教の諸相をテーマごとにまとめた形になっている。事実、以下で一部紹介するように、多岐にわたるテーマそれぞれのなかで諸宗教の特質が論じられ、全体として何らかの歴史が積み上げられてく様子が描かれるわけではない。

 本書の中心を占めるのはキリスト教で、イスラム教やユダヤ教に関する記述がそれに連なる。そのほか、仏教などインド発祥の諸宗教への言及が比較的多い。ある程度キリスト教などのセム系一神教の宗教観に沿っているものの、その観点から別系統の宗教と比較することができるという意味では、これは必ずしも欠点ではない。逆にアジア系諸宗教の視点からセム系宗教を捉えることも興味深いが、それは宗教学・宗教史の今後の課題だろう。

 冒頭に示した、おそらく著者たちの問題意識と見られるものに照らして改めて本書を紐解き、世界史を見渡してみると、宗教には様々な入り口があることに思い至る。それは第1章「宗教の言語」で宗教に対する様々なアプローチや捉え方が紹介されていることからも明らかであるが、続く各章はその具体的諸相に迫っている。

 入り口の1つ目は、宗教の最もシンプルなイメージでもあるだろうが、第2章のテーマである「頂上へ至る」道を示すという側面である。人びとが生きる世界に意味を与える役割だ。それを具体的に人びとに示すのが第2章で示される「聖典と口伝」であり、例えば、ユダヤ教の『聖書』は、「ユダヤ教徒が自分たちの神の期待をどのように裏切って生きてきたのかを一貫して詳しく記す」(62)ことで、現在のユダヤ教徒が行うべき行動を説くのである。

 宗教は「聖なる場所」(第4章)を持つ。それは日常と宗教が交わる場であり、人びとは生きるなかで宗教に出会い続ける。あるいは、宗教は国家と一体化していくなかで帝国主義的な拡大の主体にもなる(第5章「帝国的拡大への道」)。それは人びとの政治的野望を入り口としている。もちろん、むしろ宗教こそが政治的野望の入り口となっている場合も、植民地における伝道の歴史に見出すことができる。その一方で、第6章のテーマでもあるように、宗教は「抑圧と反乱」に向け、人びとを結集させる媒介になることもあった。

 第7章の「宗教・戦争・平和」についても、宗教の両義性はよく伝わってくる。よく知られるように、キリスト教は敵に攻撃されても「もう一方の頬をさし出す」よう説くが、5世紀にヒッポ(現在のアルジェリアのアンナバ)の司教だったアウグスティヌスは、正戦論を打ち立てた。そこには、戦争のやり方を一定程度規制する意図や作用があった一方で、戦争が正当化される契機がはらまれていたことも確かだ。聖職者同士が対立を煽ることもあった。

 それでも、北アイルランドではカトリックとプロテスタントの指導者が宗派横断的な対話により暴力を停止する共通の基盤を作ることもあった。また、ある研究所は、すでに行われた行為を赦すことが霊的な次元によって促されることを指摘した。「どの宗教も、全体として理解するならば、和平に力を注ぐ者に主要な道具を与えうる現実的な伝統を提供する」と著者は指摘する(153)。

 第8章が扱う「社会問題」についても、世界史における宗教の裾野の広さをよく示している。宗教は奴隷制を肯定することがあった一方で、慈善の基礎にもなってきた。また、いわゆるイスラム過激派の思想家と目されるサイイド・クトゥブが強調したのは、イスラム教は、それを十全に適用することで自ずと社会正義を実現するということだった。

 それは、第9章「聖者と罪人」の最後で著者が指摘するように、宗教は「正誤を判断する定義を信者の間で設定してきた」し、「これからも設定するだろう」ということに関連するのだろう。つまり、やはり宗教は独自の世界史を形成してきたともいえ、日本語タイトルはあながち間違っていないのである。第10章「芸術表現」は、宗教が絵画や音楽の原動力になってきたこと、また宗教内部でそれに対して様々な議論があったことを整理している。「シク教では、音楽と宗教そのものを区別することがほぼ不可能である」(238)というから、音楽という入り口から人びとは自動的に宗教にも到達することになる。

 本書では言及されていないが、経済の領域とも、宗教は分かちがたく結びついてきた。マックス・ヴェーバーのプロテスタンティズムと資本主義との関連を論じた議論がどの程度有効であるのか、最新の知見に評者は暗いが、ユダヤ教が、ユダヤ人同士の信頼関係の基礎となり、それが結果として彼らの商業や金融を支えたことなどはすぐに思い至る。これは、反ユダヤ的な偏見がいうような、ユダヤ教の教義そのものが金儲けを促すということでは決してないが、ユダヤ教の存在抜きに彼らの経済活動を説明することもまた難しいのである。

 歴史学は一般に世俗的、ないし世俗主義的な観点からなされることが多かった。しかし、宗教を幅広く捉えるならば、歴史上でそれが関係しない領域を探すほうが難しいかもしれない。「世界史のなかの宗教」を捉えることで、「宗教の世界史」(宗教が形作る世界史)にまで目を向けることは、今後の歴史学における共通の課題になるのだろう。そのような予感をさせる著作である。

(「世界史の眼」No.39)

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