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書評:アラン・テイラー著(橋川健竜訳)『先住民vs.帝国 興亡のアメリカ史—北米大陸をめぐるグローバル・ヒストリー』(ミネルヴァ書房、2020年)
伏見岳志

 本書は、北米大陸の植民地史をコンパクトに描きだした著作である。この点は、原著の題名Colonial America: A Very Short Introductionに端的に表されている。A Very Short Introductionはオックスフォード大学出版局が刊行しているシリーズであり、さまざまなテーマに関して、第1線の研究者が書いた平明で簡潔な入門書を集めている。本書もこの主旨に則って、植民地時代の北米の全体像を目配りよく、かつ簡潔に平明に記述している。  ただし、邦訳をみると、題名が原題の直訳ではないため、北米植民地史の入門書という印象は受けない。それよりも、日本語の題名は、本書が持つ独自性を伝えることに力点をおいている。入門書とはいえ、その内容はかなり挑戦的であるからだ。  著者の姿勢は、序章での伝統的な歴史像への批判によく示されている。伝統的な「アメリカ例外主義」的な記述では、大西洋側のヴァージニアやニューイングランドというイングランド起原を強調し、その植民者たちがヨーロッパの因習を打破し、個人主義と共和主義を太平洋側にまで押し広げていくという物語が展開される。しかし、「植民地期アメリカは、イングランド人がアメリカ人になるという単純な話よりも、はるかに大きな広がりがあった(9頁)」と著者は主張する。  著者が特に重視するのは、多様な先住民集団である。序章の冒頭では、先住民カトーバがサウスカロライナ総督に与えた地図を分析し、カトーバにとっては、彼らこそが中心であり、植民者はその流儀を学ぶべき「周縁的な存在」であったことが指摘されている。  「先住民を重要な存在として植民地史の中に置き直そうとする(7頁)」試みは、「大陸史」と呼ばれ、その成果によって歴史像は刷新されつつある。多様な集団から構成される先住民は、けっして「原始的で周縁的で、消えゆく」わけではなく、お互いに競いあい、植民者ともわたり合う存在である。  先住民諸集団の相互関係や植民者との交渉を中心に植民地史を描く際に、もうひとつ視野にいれるべきは、植民者側の多様性である。イングランドの植民地が多様であることに加えて、北米に進出したヨーロッパ勢力はフランス、スペイン、オランダ、ロシアなど数多い。先住民が遭遇したのは、こうした複数のヨーロッパ勢力であるから、先住民と植民者の接触は単純な二項対立では語れない。  したがって、本書は、アメリカ合衆国の前提としてのイングランドによる北米植民地史という枠組みを取り外し、16−18世紀にわたって展開された、諸勢力による多様な関係の束として歴史叙述を構築し直そうとする試みだといえる。合衆国を前提としないため、本書が扱う空間は拡大し、カナダやカリブ地域をも含みこんでいる。  ただし、多様な関係性や広い空間を簡潔な一冊の書物にまとめ上げるためには、それ相応の枠組みは必要となる。著者が用意した枠組みはいくつかあるが、まず強調されるのは、先住民の環境への適応力の高さである。序章につづく第1章では、ベーリング海峡を超えて以来、先住民が各地での環境やその変動に適応した生活様式を生み出してきた長い歴史が概観される。コロンブスの交換による生態系変化や人口激減にも関わらず、先住民はその適応力を発揮する。  では、その適応力は、北米の各地でどのように発揮されたのか、第2章〜第6章は、先住民と植民者の関係を、各ヨーロッパ勢力の進出地域ごとに描き出す。第2章はスペイン領、第3章はフランス領、第4章はイングランドのうちチェサピーク、第5章はニューイングランド、第6章はカロライナと西インドが扱われる。章の順番は、各植民地が成立した年代に基づく。なお、オランダとロシアの進出は独立した章ではなく、第7・8章のなかで扱われている。  第2〜6章は独立した内容だが、お互いを関連付けるための工夫も多い。まず、各植民地の特色を説明するために、他の植民地との比較がおこなわれる。例えば、フランス植民地では入植者数が少ないことが、フランスとイングランドとの移民押し出し要因の強弱によって説明されている。人口データを多用している点も、各植民地の特徴や変化を比較によって把握しやすくするための配慮であろう。  もうひとつの工夫は、各植民地の相互影響を描くことである。たとえば、第2章ではプエブロ族が、北からのアパッチ族の侵略を防がないスペイン人に失望して、1680年に反乱したことが語られる。では、アパッチが南下するのはなぜか。それは第3章を読むと、彼らがフランス人から銃を入手し、馬に乗ることで、狩猟域を広げたことが背景にある。このように、ある章の叙述について、別の章では異なる視点から理解を深める記述が随所に盛り込まれており、各植民地が連関していることが示されている。  比較と連関に加えて、北米史をより広い空間から考察した点も本書の特徴である。最後の第7−8章では、多様なはずの北米でなぜイングランドが力を持ち、そこからアメリカ合衆国が登場するに至ったのかが説明されている。記述にあたっては、北米史研究の一大潮流であり、グローバル・ヒストリーの草分けである「大西洋史」の知見が十二分に盛り込まれている。さらに、近年進展が目覚ましい「太平洋史」も参照され、のちのハワイ併合までもが射程に収められている。北米史を、それをとりまく大洋やその向こうの世界という広いコンテクストのなかで眺めることで、帝国としてのアメリカ合衆国が成立するダイナミズムを活写したのが、この2章である。  以上のように、本書はコンパクトでありながら、広い視野に立って、だいたんな見解を盛り込むことで、北米植民地史に新しい叙述の可能性を開いたといえる。しかも、文章は平明であり、各章は20頁前後でまとまっているため、講義でも使いやすい。実際、評者は大学1・2年生向けの授業で使用しており、日本人向けの補足は必要(例えば「ヒスパニック」の意味内容)なものの、学生にとっても読みやすいようだ。  読みやすさは、翻訳によるところも大きい。原文に忠実でありつつ、わかりにくい箇所には単語が補う配慮がなされている。また、訳者である橋川健竜氏の解説がたいへん充実している。書評を準備するにあたり、何度か目を通したが、書くべきことは解説で網羅されているので、途方に暮れた。評者はラテンアメリカ史が専門であり、北米史の研究者には明るくないが、解説を読み、著者アラン・テイラーが重要な研究者であり、他の著作の翻訳が待望されることもよくわかった。  最後に、ラテンアメリカ研究の視点から感想を書くと、南北アメリカ大陸でヨーロッパ諸勢力の抗争の場となったのは、北米とカリブ(沿岸地域も含む)、それからラプラタ東岸地域であろう。このうち北米とカリブの違いは、ヨーロッパ以外のアクターとしてより重要なのが、先住民かアフリカ系奴隷か、という点にある。北米でもアフリカ系は重要なテーマだが、本書では、チェサピークやカロライナの章での記述はあるものの、書物全体に占める記述は相対的に少ない。いっぽうで、先住民の捕虜に関する言及は多い。先住民とアフリカ系双方の拘束を含めた考察は、北米史理解にとっては重要であろう。翻って見ると、ラプラタ地域も抗争のなかで、先住民捕虜やアフリカ系奴隷が問題系として顕在化する。双方を共通の視座で描くことは、ラテンアメリカ史の課題でもあることに思い至った。その点でも、示唆に富む著作であった。 (「世界史の眼」No.13)

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書評:ジョン・ダーウィン(秋田茂・川村朋貴・中村武司・宗村敦子・山口育人訳)『ティムール以後 世界帝国の興亡1400-2000年』上・下(国書刊行会、2020年)
木畑洋一

 世界史認識におけるヨーロッパ中心主義を批判する声があげられはじめてから、すでに久しい。しかし、具体的な歴史叙述でその考えを説得的に示していくことは、決して容易ではない。本書は、イギリス帝国史研究を嚮導してきたイギリスの歴史家によるそのような世界史叙述の試みとして、大きな意味を持つ。  著者ダーウィンは、第一次世界大戦直後のイギリスの対エジプト・中東政策研究から出発して、1980年代末には現在でもイギリス帝国の脱植民地化についての標準的概説とされている本を2冊上梓したことで、名前が広く知られるようになった。その彼が、あたかも満を持する形で、2010年前後に、大冊の著書を3冊立て続けに出した。その最初が本書、After Tamerlane: The Rise and Fall of Global Empires, 1400-2000 (London: Penguin, 2008, ただしアメリカ版New York: Bloomsbury Press, 2008のサブタイトルは、The Global History of Empire since 1405 )であり、次がイギリス帝国をイギリス世界システム(British World System)として再定義しつつ、その歴史を19世紀から脱植民地化期まで追った、The Empire Project: The Rise and Fall of the British World-System 1830-1970 (Cambridge: Cambridge University Press, 2009) である。さらに3冊目として、より長いタイムスパンをとって、帝国を生み出した諸力を多角的に検討した、Unfinished Empire: The Global Expansion of Britain (London, Allen Lane, 2012)が刊行された。いずれも読み応えのある書物であるが、そのなかでの白眉は本書であるといってよく、それが信頼のおける翻訳の形で日本の読者に示されたことについて、訳者たちの労を多としたい。  本書は、「ティムール以後」というタイトルをもち、15世紀以降の世界史を、主としてユーラシア大陸における諸帝国の興亡を軸として描いた作品である。上述したように、原書のサブタイトルに示された年代はペンギン版とブルームズベリ版で異なるが、ティムールが死去したのは1405年であるため、その点の正確さを期するとすれば、起点はブルームズベリ版の年代の方になるであろう。ユーラシア大陸に広がる帝国を築こうとしたティムールがそれを成し遂げられないままに没した後の歴史を追った末に、著者は本書の最後で、この長い期間を通していえることは、ティムールに似た願望をもった存在がいたとしても、「均質なシステムや一人の絶対的支配者、あるいは特定の体系的ルールに対して、ユーラシア大陸においては抵抗が止むことはなかった」ことであると結論づけ、我々はいまなお「ティムールの影のなか」にいる、より正確にはティムールの「失敗から、なおも逃れることはできていない」と述べている(下324、以下カッコ内に本書の頁数を示す)。一見したところ分かりにくい本書のタイトルの意味、さらに本書全体の主張は、これで理解できよう。  本書は9章から成る。第1章と第9章は序論と結論にあたり、その他の章は、次のような時代区分となっている。第2章(1620年代まで)、第3章(1620年代~1740年代)、第4章(1750年代~1830年代)、第5章(1830年代~80年代)、第6章(1880年代~1914年)、第7章(1914~1942年)、第8章(1942~2000年頃)。第7章と第8章が1942年で区切られているのは、著者が第二次世界大戦の決定的な転換点をその年に求めていることによる。これらの時期区分をめぐってもいろいろ議論はありうるが、ここではその点には立ち入らず、こうした時期区分のもとで、著者が、帝国の興亡という点を強調しながらどのような世界史像を提示しているかを、評者なりにまとめてみたい。  本書では15世紀以降の世界が対象となるが、それまでの中世においては、ヨーロッパは中国や近東のイスラーム世界と経済的・技術的にようやく肩をならべられるようになった「成り上がり」の存在にすぎなかった(上60)。「長期の16世紀」(1480~1620年頃)にはヨーロッパの勃興がみられるものの、その影響はまだ限定的であった。アメリカ大陸でのスペインの成功にせよ、その要因は、ヨーロッパの軍事力ではなく、文化的・生物学的要因(疫病など)やアメリカ大陸側の帝國体制の脆弱性の方に求められる。そしてヨーロッパ台頭の勢いは、1740年代までの時期には失速していった。ユーラシアでは、諸帝国(オスマン帝国、イランのサファヴィー朝、ムガル帝国、中国)や徳川幕府下の日本が力をもっていたのであり、オスマン帝国やムガル帝国も、実態はよく抱かれる衰退イメージとは異なっていた。またロシアのダイナミックな拡大活動も目立っていた。  こうした均衡状態は、18世紀後半から1830年代にかけての「ユーラシア革命」で、ヨーロッパの優位がはっきりしてくるなかで崩れていく。それは産業革命だけでは説明できず、地政学上の革命(18世紀半ばからナポレオン戦争にかけてのヨーロッパや南アジアでの戦争)、文化上の革命(ヨーロッパで、宗教への疑念や経験・実験重視の姿勢が拡がり、空間・時間への関心が高まったことなど)も考慮に入れなければならない。経済面での「大分岐」(著者は大枠でポメランツの「大分岐」論を受け入れている)と並んで、文化面でも「大分岐」が生じたのである。とはいえ、1830年代でもヨーロッパの優位はまだ限られていた。  1830年代から80年代までは、ヨーロッパで地政学的な安定(平和)がみられるなかで、アメリカの存在感が増し、ヨーロッパは「西洋として再創造」されていった。ヨーロッパの対外活動は、ヨーロッパの拡大に強固に抵抗する現地の人々の動きの前で、「不確かな帝国」という形しかとりえなかった。中国でも、ヨーロッパ側はそこを半植民地のような状態に変えていくことはできなかった。  1880年代以降になって、ヨーロッパの拡大はアフリカなどで加速化し、「世界史上初めて、身体的、経済的、文化的パワーの階層化が世界規模で押しつけられる」(下13)ことになった。とはいえ、分割されたアフリカにおいても、植民地国家は軽い存在でしかなかった。また中国が領土分割や経済的監督を免れたことやオスマン帝国が立ち直りを見せたことも重要である。この時期に諸大国が世界の支配権をめぐって互いに戦う意図をもっていた証拠はないものの、バルカン半島での状況にヨーロッパでの勢力均衡が対応しきれないなかで、第一次世界大戦が始まった。この大戦はいくつかの帝国の墓場となったが、ロシア革命を経たロシアでは、「党による帝国」という形をとって帝国が元に復したし、オスマン帝国後の中東でのヨーロッパの権威は表層のみにとどまることになった。1930年代になると、19世紀末よりもはるかに粗暴な帝国主義があらわれ、第二次世界大戦につながっていった。  第二次世界大戦後、帝国と植民地支配は国際関係のなかでの正当性を失い、脱植民地化が進行した。著者は、戦後世界が冷戦の時代としてのみ描かれがちであることについて、「冷戦への流れは物語のほんの一部でしかなく、世界の多くの地域では物語の核心部分ではなかった」(下224)と論じて、脱植民地化の意味を強調し、さらに脱植民地化については、それが植民地統治の終わりということだけでなく、「領域支配と治外「権益」とを密接に結びつけつつヨーロッパが中心となって展開してきた大国秩序の解体として考えるほうがずっと意味がある」(下227)と述べる。これは著者の年来の所論であり、きわめて重要な考え方である。さらに、脱植民地化が進行するなかで、「公言されない帝国」としてアメリカとソ連が残り、1990年以降はアメリカがただ一つ世界帝国となったと著者は指摘する。そのアメリカの力は本書で取り上げられてきた15世紀以降の諸帝国が抱えた限界をこえようとしているとしつつ、将来の予言はできないとして、著者は議論を結んでいる。  以上、評者なりにくみ取った本書の議論の流れであるが、本書自体はそれぞれの帝国についての丁寧な記述を含んでおり、内容の豊富さがこうした紹介では全く伝えられていないことはお断りしておきたい。その上で、本書を読んでの評者の感想を若干述べてみたい。  ヨーロッパ中心的歴史像を排して近現代世界史を描くという著者の試みは、概して成功している。帝国の興亡を軸としながら15世紀以降の世界史を論じた本として評者が思い浮かべるのは、David B. Abernethy, The Dynamics of Global Dominance: European Overseas Empires, 1415-1980 (New Haven: Yale University Press, 2000)である。アバーナシーの本で起点とされている1415年は、ポルトガルが北アフリカ地中海岸のセウタを占領した年である。そのことから、またサブタイトルから分かるように、この本は、もっぱらヨーロッパが支配する帝国を対象としていた。それに対し、本書は、ユーラシアに展開した諸帝国の力、持続性、柔軟性を強調しながら、それとならぶ形で、あるいはそれに追いついていく存在としてヨーロッパの帝国を位置づけ、その相対化に成功している。また本書の主張とも通じる本として、最近邦訳された、ジェイソン・C・シャーマン(矢 … 続きを読む

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書評 : 早尾貴紀『パレスチナ/イスラエル論』(有志舎、2020年3月)
藤田進

 早尾貴紀氏は、イスラエルの政治・文化、ユダヤ人問題等々の思想的考察を重ねてきた日本のパレスチナ・イスラエル学思想史部門を代表する研究者であり、一方現代世界をめぐる思想論争にも精力的に参加している。本書は2005年から2016年にかけて執筆した諸論文に大幅な加筆を加えて一冊にまとめたものである。 I  2018年5月15日、半世紀以上パレスチナ占領を続けるイスラエルが建国70年を迎え、トランプ米大統領はこれを祝して在イスラエル米国大使館を首都テルアヴィヴから占領下の聖地エルサレムへ移転し、さらに19年3月25日、イスラエル占領下シリアのゴラン高原に対する「イスラエル主権」を認める公式文書に署名し、アメリカがイスラエルの軍事占領政策を公式に承認したことを世界に表明した(バイデン新大統領の登場でこの承認の行方が注目されている)。著者はこのときの心境を次のように記している。  「いま、パレスチナ/イスラエルをめぐる問題は、直視することも放棄したくなるほどの惨状にある。パレスチナのガザ地区はイスラエルの建設したフェンスで封鎖され、物流も制御された巨大監獄と化し、パレスチナ人のデモには日常的にイスラエル軍スナイパーによる容赦ない狙撃が加えられ、東エルサレムでは理不尽な家屋破壊が遂行されている。そして、イスラエル社会内部にも国際社会にも、それを止めようとする動きは少ない。このような暴力を対岸の出来事として見るのではなく、パレスチナ/イスラエルを、日本を含む近現代世界史の文脈のなかで論じ、またそれをとおして世界と日本を問いなおすことが、いま求められている」(本書のカバー表紙の一文より)。  やりきれなさと切迫感のなかで完成した本書は以下の構成からなる。 まえがき 第I部 国家主権とディアスポラ思想  第一章 ディアスポラと本来性―近代的時空間の編制と国民/非国民  第二章 バイナショナリズムの思想史的意義―国家主権の行方  第三章 オルタナティヴな公共性に向けて―ディアスポラの力を結集する 第II部 パレスチナナ/イスラエルの表象分析  第四章 パレスチナ/イスラエルにおける記憶の抗争―サボテンをめぐる表象  第五章 パレスチナ/イスラエルの「壁」は何を分断しているのか―民族と国家の形を示す五つのドキュメンタリー映像  第六章 パレスチナ/イスラエルにおける暴力とテロリズム 第III部 歴史認識  第七章 イスラエルの占領政策におけるガザ地区の役割とサラ・ロイの仕事  第八章 ポスト・シオニズムとポスト・オリエンタリズムの歴史的課題  第九章 イラン・パペのシオニズム批判と歴史認識論争 あとがき  第I部はパレスチナ/イスラエルについての「民族」や「国家」をめぐる思想史的展開を扱う思想編、第II部はドキュメンタリー映画や劇映画やモニュメント作品の表象分析を行う表象編、第III部は歴史認識論争や占領政策の歴史的展開を扱う歴史編である。  評者の見立てによれば、本書は1990年代後半以降に輩出した著者を含む「新世代の中東研究者」の共同研究の成果と現代哲学・政治思想分野における最新の学説を支えとし、イスラエルの「新しい歴史家ニュー・ヒストリアン」イラン・パぺのイスラエル建国「正史」批判とサラ・ロイの現地調査にもとづく被占領地ガザ政治経済分析を最重要実証資料として著者自身のイスラエル体験に照らしながら、イスラエル国家のシオニズム思想とそれに基づくパレスチナ占領政策について網羅的に考察した思想書であり、イスラエルをその内側から徹底的に考察した貴重な労作である。  著者は冒頭、「パレスチナナ/イスラエル」と/を用いている理由を、次の諸点を挙げて説明している。「一般に言われているように、パレスチナとイスラエル、アラブ人とユダヤ人は対立し衝突しているわけではない。中東にはユダヤ教徒のアラブ人(=アラビア語を話す人)も普通に存在する」。「どの地理的範囲を指して『パレスチナ』と言い、『イスラエル』と言うべきなのか、きわめて錯綜している」。「『多くが共存し混淆した文化圏』が『本来的ヨーロッパ』によって分断されたことにより両者は対立関係に立たされている」(4-10ページ)。ここに、「アラブ/ユダヤ人」という複合アイデンティティを重視する著者の姿勢があらわれており、本書はこの立場からのシオニズム考察である。考察は次の諸テーマをめぐって展開する。 ⑴ ディアスポラと「本来的国民」:近代国民国家論と「ユダヤ人国家」における排除の論理とディアスポラをめぐる考察。 ⑵ イスラエル建国後のバイナショナリズム:ユダヤ人人口・領土の拡大をめざすシオニスト側の議論とそれにのみこまれた「パレスチナ自治」をめぐる考察 ⑶ テロリズム:アラブ側のみを「テロ」と糾弾するイスラエルの「テロ」議論の考察 ⑷ 「純粋ユダヤ人」:アラブ系ユダヤ人を取り込んでユダヤ人口拡大をめざすイスラエル政策についての考察 ⑸ 分離隔離壁:第二次インティファーダ以降のヨルダン川西岸占領地を取り巻く分離隔離壁構築による領土的分断および「パレスチナ人」アイデンティティ分断を企てながらパレスチナ人を「強制収容所」状態に閉じ込めて生殺与奪権を握る占領権力の「例外状況的主権行使」についての考察 ⑹ 「ユダヤ人国家」内部における反シオニズム派とイスラエル建国擁護派の葛藤  以上のようにテーマが多岐にわたるうえ様々な議論・理論を踏まえた思想的考察中心のため内容は少々難解である。筆者は⑴を中心に著者の議論を追いつつコメントを加えることにして、あとは本書に目を通す読者におまかせしたい。 II  著者のシオニズム考察は、現代国民国家におけるディアスポラの問題を取りあげることから始まる。1990年代以降のグローバリゼーション時代において膨大な民が国境を越えて移動する現象が世界的激動因となっているのを前にして、著者は「越境的に移動する民を『ディアスポラ』と呼ぶことが人文社会科学全般に増えてきており、それにともない従来『ユダヤ人のディアスポラ』と理解されてきた用語に意味の転用が生じた」と指摘している。さらに著者は「移住者とその子孫とは『よそ者』つまり『本来的には国民でない者』として、端的に差別の対象となりがちである」という「ディアスポラ」を脅かす現実を指摘して「本来的国民」対「ディアスポラの民」の対立関係を描いたうえで、「『本来的国民』と『非本来的ディアスポラの民』を分ける『本来性』とは何か」との問いを発している。  著者は「本来性」をめぐって、19世紀初頭の近代国民国家論者のヘーゲル(『歴史哲学講義』)や弟子のヘーゲル主義者たちの発言を検討し、次の諸点を指摘する。  ●ヘーゲルは、宗教改革と啓蒙思想を経た後のフランス革命がヨーロッパ近代国民国家をもたらしたことを重視し「世界史においては国家を形成した民族しか問題とならない」との立場から、世界史をギリシャ世界からローマ世界、ゲルマン世界へと一直線に至るヨーロッパ近代国民国家の完成に向けた歩みとして描き、ギリシャ文化がアラブ世界を媒介して西欧世界に持ち込まれたという事実を無視した。つまり「狭い内海を共有し、現代国家間のような国境や分断のなかった(ヨーロッパを含む)中東・地中海世界」を、ヨーロッパ対中東という対立した分断の図式でとらえた。ヘーゲルは一方で、個人の理性を国家の理性と同一視して国家を絶対的空間と想定し、国民=均質な民族と規定している。国家における「均質な民族」対「その他」の関係が示唆されている。  ●19世紀半ばにおけるヘーゲル主義思想家たちは「キリスト教ヨーロッパ世界の純粋性と自律性」を強調し、「世界のすべての民族共同体は排他的な領土を所有し国民国家を目指して発展していく。国民国家の実現を見ていない地域は未開地・後進地域として支配対象となる」と説いた。こうした発言はヨーロッパ世界内のユダヤ的要素とイスラーム的要素を否認することに影響した。当時のヨーロッパでは反ユダヤ主義が高まり、科学を装った人種主義学説が横行するなかで「縮れ毛」や「鷲鼻」を身体的特徴とするステレオタイプの「ユダヤ人種」概念が捏造された。そうした状況下において、プロイセンは「ドイツ=キリスト教国家」の立場からキリスト教徒を「本来的国民」とする一方、「ユダヤ教徒のドイツ人」は均質な民族ではないとしてユダヤ教徒国民を「本来的国民」から除外し、プロイセンは人種差別的国民国家として成立した。  著者は以上から、現代の国民国家において「本来的国民」と「非本来的な他者」を分断する「本来性」が、19世紀近代国民国家成立期における宗教的差別を通じて生み出されたことを確認する。  では、「ユダヤ人国家」や「ディアスポラ・ユダヤ人」はどのように成立したのか。著者はそれに関して以下を指摘する。  ●1842年ドイツのユダヤ人解放令廃止と51年のナポレオン3世のクーデタによるヨーロッパの決定的反動化によって、国民国家における市民革命を通じてユダヤ人を解放する夢が消えたとき、ヘーゲル左派思想家のユダヤ人モーゼス・ヘスは民族主義者に転向した。当時捏造された「ユダヤ人種」がユダヤ教徒を苦しめている状況をしりめに、ヘスはこの人種概念を敢えて自らのアイデンティティとして受け入れるとともに、「ユダヤ教徒は信仰においてユダヤ教徒なのではなく、『人種としてのユダヤ人』である」との強引な解釈を打ち出した。  ヘスは「世界中に離散しているユダヤ人種は、他のどの人種にもまして、いかなる緯度の場所の気候風土にも順応できる能力を有している」、「ユダヤ人種は自らの歴史的使命を自覚して、自らの民族としての諸権利を主張することが許される諸民族のひとつである」(『ローマとエルサレム』)と唱えて、血のつながりに基づく「ユダヤ人国家」建設(シオニズム)構想を表明した。ヘスの「ユダヤ人国 … 続きを読む

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南塚信吾責任編集『MINERVA世界史叢書③ 国際関係史から世界史へ』ミネルヴァ書房、2020年
鹿住大助

 本書は、総論を含めて全16巻からなる「MINERVA世界史叢書」シリーズの第3巻である。シリーズ全体が巻号の順に発行されているわけではないが、本シリーズの「第Ⅰ期 世界史を組み立てる」では、『地域史と世界史(第1巻)』で世界史の空間認識・空間概念を論じ、『グローバル化の世界史(第2巻)』で時間軸上での世界の一体化の進行を論じている。本書が、19世紀半ばから検討を始めるのは、第1・2巻の内容をふまえて、一体化が完成し、地球規模で地域の概念が揺さぶられる帝国主義の時代以降の世界史を動的に描くことが念頭にあったからだと考えられる。  19世紀半ば以降の時代とは、世界の一体化が完成に向かう時代であると同時に、この頃以降に出来上がった国民国家によってナショナル・ヒストリーが盛んに産出される時代でもある。本書が「序章」で記すとおり、この時代以降、世界史はナショナル・ヒストリーの並列、ないし寄せ集めのように考えられるようになった。本書はこの点に対して批判的であり、「関係」の視座から世界史の全体像を描き出そうとしている点に特徴がある。その「関係」も国民国家を主体とした二国間関係や複数国家間の国際関係ではない。また、描き出される全体像も、どこかの国民国家を「中心」とした静的構造からなる世界の「システム」ではない。世界史の時々の「傾向」が諸地域に「土着化」することで全体の歴史がつながりあって「連動」する、動的な世界史像の提示を目指しているのである。(※「土着化」や「連動」の概念については、南塚信吾『「連動」する世界史:19世紀世界の中の日本』岩波書店、2018年、をさらに参照されたい。)  これは非常に困難な挑戦である。ある歴史における主体Aと主体Bとは○○関係(敵対、互恵、紛争など)にあり、それは○○という背景(社会・経済の制度や構造、思想など)があったからである、と言えば読者はイメージしやすい。ところが、本書が目指すのは、常に全体が振動したり圧力が転移したりしながら、ある面で収縮したかと思えばある面では膨張する「ゴム風船」のような全体(世界)を、風船の表面に現れる現象から描き出すことである。主体や関係、背景は、揺れ動く風船上に位置する点や線、面に過ぎない。言葉による歴史叙述で、このようなイメージを読者に与えることは容易ではない。また、読者の側も「覚悟して」読む必要があるだろう。本書の著者は、例えば近現代の日本がどのように順調に、あるいは挫折したりしながら時間軸上で線的に発展してきたのかを描こうなどとは考えていないのだから。一国の変動は風船上のある点で起こった膨張や収縮であり、風船全体の運動の一部なのである。  なお、評者の専門は17・18世紀のフランス史であり、最近では、歴史教育や自らが大学で担当する「大学で学ぶ世界史」の授業研究をおこなうばかりで、19世紀後半以降の近現代史は門外漢である。評者には、本書が描き出す近現代世界の全体像を他書と比較したり、記述の正誤を含めた具体の点検をおこなったりして、本書を批判的に論評する能力はない。以下では、本書各章の概要を紹介し、評者なりに本書が提起する世界史像を評価することにしたい。 * * *  本書が対象とする時代は、19世紀半ばから1980年代までである。本書は「第Ⅰ部 帝国主義の時代」「第Ⅱ部 二つの体制の時代」「第Ⅲ部 脱植民地化の時代」の三部からなる。また、各部は10の章と7つのコラムからなる。本書は、約1世紀半の時代を通史的に隙間なく埋めて繋ぐのではなく、章ごとに特定の期間や地域に焦点を当てたりしながら、複数の国や地域に絡んで展開した世界史の全体像を描こうとしている。以下、各章の概要を紹介する。  「第1章 アヘン戦争・明治維新期の世界史:一八四〇〜九五年」では、特に清朝と朝鮮、日本を取り上げながら、19世紀半ば以降の西洋諸国によるグローバル化によって東アジアの伝統的世界が変容し、緊密な関係を持つリージョンとなったことを指摘する。海外との接触、列強との交渉過程などが折り重なり、個々の国家を超え、西洋人に対する連帯を意味する地政学的な地域概念として「アジア」が登場した。また、東アジア世界は「条約締結、領土確定、戦争、そして植民地化が始まり、強い摩擦を伴う緊密な関係に転化した」のである。  「第2章 二つのベルリン会議の時代」では、1878年、1884-85年の二つのベルリン会議に前後する時代、ユーラシア大陸とアフリカ大陸にまたがって緊張関係が転移していく様相を論じる。ある時期のヨーロッパの相対的平和がアジアやアフリカに緊張関係をもたらしたり、その反対の事態が起こったりしたことを、英独仏露の列強による地球規模での権力政治の展開とからめて描き出している。1880年代以降を列強による「アフリカ分割」の過程としてとらえるのではなく、現地民衆による「アフリカ大反乱」の時代として位置づけるべきとした上で、列強の関心がアフリカに向かった結果として「東アジアの束の間の平穏」がもたらされ、日本が立憲君主国の体制を整えたのだとする見解は興味深い。世界の帝国主義支配体制の下でのある地域での民衆運動が、別の地域における変革(近代国家化・後発帝国主義国化)を間接的に促進したのである。  「第3章 『一九〇〇年』の国際関係と民衆」は、「パン・アフリカ会議」の決議文で起草者のデュボイスが「20世紀の問題はカラーラインの問題」と主張した1900年、その前後の世界を論じる。本章では「カラーライン」は人種集団の境界線を意味するのみならず、民族やエスニック集団、階級、ジェンダーなど、様々な分断を含む概念として理解し、それが「一九〇〇年」の世界で国家や地域を超えて発生・移転する様相を、植民地暴力や移民と管理などの観点から明らかにしている。「一九〇〇年」の世界で発生した戦争や隔離・殲滅を含む戦時暴力が帝国主義国・植民地に連鎖することによって、人種・エスニック集団のカラーラインが世界に作り出された。同時に、「一九〇〇年」の世界では、市民権をめぐる政治の領域と、都市問題・公衆衛生問題のような社会的領域との双方で進んだカラーラインの構築が、「平時」の移民政策を通じても現れてくる。「カラー」のみならず、階級とジェンダーの対立軸も含め、一体化した世界においてカラーラインの思想と実践が学習され、移転していったのである。  「第4章 『第一次世界大戦』期の世界史」では、世界大戦を中心に1910年代の世界を論じているが、その視点は主にはアジアにおかれる。冒頭、「アジアの歴史を論ずるときにも『第一次世界大戦』を『画期』とすることが多いが、それは画期として適当なのであろうか」と疑問を投げかける。本章によれば、「日本による一九一〇年の韓国併合はアジアにおける新しい時代を画した」のであり、これ以降「アジアの人々は日本帝国の進出と戦うという時代に入った」ことが、アジアにおける世界史上の画期であった。第一次世界大戦はヨーロッパでの戦争として始まったが、1914年に日本が参戦して中国のドイツ租借地を攻撃したのは、それ以前からの大陸進出の延長線上にある。また、ロシア革命とウィルソンの講和綱領によって世界で「民族自決」への期待が高まり、東欧や中東、アフリカ、インドで民衆運動が「連動」する。しかし、非抑圧民族にとってはその期待を裏切る結果となった。東アジアでも「連動」が起こり、戦後の1919年に三・一独立運動や五・四運動、シベリアでのゲリラ抵抗が連続したが、これも1910年以降の日本の帝国主義的進出とアジアの民衆運動という対抗関係の上で起こったものであった。  「第5章 『一九三〇年』の国際関係と民衆」は、広野八郎の『外国航路石炭夫日記──世界恐慌下を最底辺で生きる』で描かれた1920年代末から30年にかけての出来事から始まる。広野が見たり、自ら経験したのは、世界恐慌下で苦境に立たされた労働者・民衆の生活であり、アジア・ヨーロッパ航路上で経験した帝国と植民地の関係であった。危うさを感じさせる世界が広野の前に広がっていたのである。1930年前後の世界はまさにそのような状態にあった。1920年代の「国際協調」路線は、1930年のロンドン海軍軍縮会議に結実したが、日本では海軍と右翼による既成政治打倒の動きが現れた。また、同年、ドイツ戦後賠償問題について第二回ハーグ国際会議で「ヤング案」が採択されたが、かねてから不満が大きかったドイツはナチスの拡大と再軍備に向かっていった。大不況下のアジアでは、列強による「開発」「工業化」の一方で、農民の貧困や不満が蓄積され、大小の反乱に繋がっていく。さらに、アメリカのニューディール、ドイツのナチズム、ソ連の一国社会主義、東欧の第三の道という不況への対応策が、それぞれの農民に与えた影響を論じている。  「第6章 『一九四五年』の世界─東欧・中東・沖縄・シベリアの視点から─」では、第二次世界大戦の「終戦」に向かう1941年(大西洋憲章)から始まり、「冷戦」がユーラシア大陸全体で深まる1949年までを「1945年」の世界として扱っている。1945年のヤルタ会談ではヨーロッパの戦後処理についての合意がなされるとともに、米ソの間でソ連の対日参戦の密約が結ばれ、同時に極東の戦後処理についても基本的な合意があった。本章ではヤルタ会談直後にルーズヴェルトが中東を訪問したことに注目している。アメリカは戦後の石油資源の重要性に注目し、特にサウジアラビアとは緊密な関係を構築しようとしていた。こうして戦後の枠組みが連合国によって作り出されていった。以下、詳細な紹介は割愛するが、本章でも世界史の「連動」の観点から叙述を組み立てている。アジア諸国が日本支配から「解放」されると、中国・朝鮮をめぐって米ソの緊張が高まる。しかし、1946年にアジアの緊張関係が膠着すると、次に東欧とド … 続きを読む

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シリーズ「日本の中の世界史」後日談―『中島敦の朝鮮と南洋』―(下)
小谷汪之

はじめに 1 玉置半右衛門と玉置商会 2 渋沢栄一の「製藍会社」 3 田口卯吉の南島商会 (以上、前号) 4 南洋貿易株式会社(南貿) 5 第一次世界大戦とヤップ島 6 関根仙太郎の生年月日と生地 おわりに (以上、本号) 4 南洋貿易株式会社(南貿)  1890年12月、田口卯吉一行を乗せた天祐丸は「南島巡航」を終えて、品川港に帰着した。田口はその後も天祐丸で南洋交易に出ることを考えていたのであるが、士族授産金を利用した南島商会の商業活動には批判が強く、結局1891年、南島商会の全資産は東京府士族総代会に移され、南島商会は解散した。その後、東京府士族総代会は南島商会の資産を小美田利義に売却した。小美田はそれをもとに一屋いちや商会を設立して、南洋交易に乗り出した。1891年12月、一屋商会は天祐丸を再び南洋に派遣し、ポナペでは、関根仙太郎らを一屋商会の社員として採用した。  ところが、1893年、一屋商会は清算され、その事業は1894年に設立された南洋貿易日置ひき合資会社に引き継がれた。しかし、関根はこの会社の社員にはならず、ポナペの現地人実業家、ヘンリー・ナンペイ(1862‐1927年)のもとで働くことにした。ナンペイはポナペ島キチ地区の大首長(称号はナニケン)の息子で、母方の祖父はイギリス人であった。ナンペイの父は、アメリカン・ボードがスタージェス牧師などの宣教団をポナペに派遣し、キリスト教新教の布教を始めようとしたとき、それに協力し、ナンペイ自身も若くしてアメリカに渡り、帰島後は新教の指導者として強い影響力を持つようになった。そのうえ、父から受け継いだ広大な土地を椰子林とし、コプラ(椰子の実の果肉)の生産で財を築いた。しかし、1898年、キューバ問題をめぐってスペインとアメリカの間に戦争(米西戦争)が起こると、ナンペイ一家はポナペ島の主市コロニアで幽閉された。関根仙太郎も行動を制約されたが、南洋貿易日置合資会社の長明丸に便乗して帰国し、東京のアメリカ公使館にナンペイ一家の救出を要請するなどした。米西戦争がスペインの敗北で終わると、ナンペイ一家は釈放されたが、関根はすぐにはポナペに戻らなかった。  米西戦争に敗れて、キューバだけではなくフィリピンやグアム島も失ったスペインは南洋諸島(グアムを除くマリアナ諸島、ヤップ島、パラオ諸島、トラック諸島、ポナペ島、マーシャル諸島)の領有をあきらめて、南洋諸島をドイツに売却した。ドイツは、日本の商会や商人の活動に疑惑の目を向け、殆どの日本人を南洋諸島から追放してしまった。関根は1901年に横浜の村山捨吉によって設立された南洋貿易村山合名会社の社員になったのであるが、南洋諸島における陸上での商業活動を許されず、横浜と南洋の間を年に2回往復し、船上で取引をするという状態であった。しかし、1906年には、南洋貿易村山合名会社にポナペ島での営業が許可され、ポナペに支店が開設されて、関根が支店長になった。  1908年、南洋貿易日置株式会社(合資会社を改組)と南洋貿易村山合名会社が合併して、その後日本の南洋貿易の担い手となる南洋貿易株式会社(南貿)が設立されると、関根は南貿ポナペ支店長となった。  1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発、8月23日、日本は日英同盟を根拠としてドイツに宣戦布告した。日本海軍は南洋諸島に艦隊を派遣して、ドイツ領南洋諸島の占領を策した。そのうち、第一南遣枝隊(松岡静雄司令官)はマーシャル諸島ヤルート島を占領した後、ポナペ島に向かい、10月7日、第一南遣枝隊連合陸戦隊がポナペ島を占領した。その時、関根は通訳として、日本軍と現地民首長たちとの橋渡しをしただけではなく、その後の日本軍によるポナペ島統治にもかかわった。第一次世界大戦後の1925年1月、関根は南貿ヤップ支店長に転任となった。 5 第一次世界大戦とヤップ島  本書(第一刷)刊行時には見落としていたことであるが、関根は、1925年7月、南貿ヤップ支店長として、「損害申請書(財産ノ損害)」2通を時の外務大臣、幣原喜重郎に宛てて提出している(国立公文書館アジア歴史資料センター、外務省文書、「一二八四 関根仙太郎」)。それには次のような事情があった。  前に書いたように、第一次世界大戦が勃発すると、日本はドイツに宣戦布告した。当時、ヤップ島、パラオ諸島、ポナペ島、マーシャル諸島など南洋諸島の島々はドイツ領であったから、これらの島々にいた日本人はドイツによる迫害を受けざるを得なかった。特にヤップ島はドイツ領南洋諸島・西カロリン政庁の所在地だっただけではなく、ドイツが西太平洋に敷設した海底電信網の中心地として、極めて重要な島であった。ドイツは、1904年、オランダとの合弁のドイツ法人ドイツ・オランダ電信会社を設立、翌1905年には、ドイツ・オランダ太平洋通信網を完成させた。ヤップ島を中心として、東はグアム島(ここは1903年に開通したサンフランシスコからハワイ・ホノルルを経てフィリッピンのマニラに至るアメリカの海底電信線の中継地であった)、南はオランダ領インドネシア・セレベス(スラウェシュ)島のマナド(あるいはメナド)、西は沖縄周辺を通って中国の上海へとつながる海底電信網である。アメリカもグアムとマニラを結ぶ海底電信線に不具合が生じた場合には、グアムからヤップ島を経て上海に至るドイツの海底電信線を利用していた。1906年には、アメリカの海底電信線がマニラから上海まで延伸され、さらに、小笠原を中継地としてグアムと日本(川崎)を結ぶ海底電信線が日米共同事業(小笠原―川崎間が日本の工事分担)として完成した(以上、花岡薫『海底電線と太平洋の百年』日東出版社、1968年、79-80頁、73-76頁)。  第一次世界大戦勃発時、ヤップ島にいた日本人は、南貿ヤップ支店長、柴田定次郎と社員6名およびドイツ・西カロリン政庁に雇われていた大工一家4人の計11人だけだったが、彼らは島外との連絡を禁止され、全員「嘗テ西班牙スペイン人ノ居宅タリシ陋屋ろうおくニ移サレ」た。その後、大工一家は妻の出産を理由として「自由ノ身」になったが、南貿社員7名は「厳重ナル監視ノ下」に置かれ続けた。パラオ諸島でも、同じように、南貿社員などがドイツ官憲によってマラカル島の外に出ることを禁じられた。しかし、「在留日本人ノ言ニ依レバ本島〔パラオ〕ニ於ケル独逸官憲ノ日本人ニ対スル態度ハ『ヤップ島』ノ如ク苛酷ナラザリシ」(国立公文書館アジア歴史資料センター、外務省文書、「一二八七 宮下重一郎」)ということである。ヤップ島の警戒は特に厳重だったということであろう。  10月7日早朝、日本海軍第二南遣枝隊(松村龍雄司令官)の戦艦「薩摩」がヤップ島沖に姿を現すと、ドイツ側は南貿社員7名を、ヤップ島の首市コロニアの「北方約三里」(約10キロメートル)に位置する「ルヌー」の南貿分店に幽閉した。しかし、同日正午過ぎ、戦艦「薩摩」の陸戦隊がヤップ島を占領、ドイツ人たちの多くはドイツ・オランダ電信会社の施設や「仮無線電信所」を破壊したうえで、逃亡した(後に投降)。  こうして南貿社員は解放されたが、この間、南貿ヤップ支店は大きな損害を被った。それでヤップ支店長、関根は損害の補償を求めて、「損害申請書」2通を外務大臣に提出したのである。これらの「損害申請書」は、もともとは、1920年に当時の南貿ヤップ支店長、柴田定次郎によって外務省に提出されたものであるが、何らかの理由で回答を得られなかったため、1925年1月に柴田に代わってヤップ支店長となった関根が改めて提出したのである。このうち一通の「損害申請書」によれば、日本がドイツに宣戦布告した翌日の8月24日、ドイツ人警吏が「土民兵」を指揮して、南貿ヤップ支店を襲い、「器具及備付ノ武器ヲ押収シ店舗ハ閉鎖サレ営業ヲ禁止セラレ」た。この日から10月7日に日本軍がヤップ島を占領するまでの44日間、南貿ヤップ支店は営業をすることができなかった。それで、その間の一日あたりの損害額を200円と見積もって、総額8,800円の損害補償を外務省に申請した。もう一通の「損害申請書」はドイツの軍艦コルムラン号のために押収された南貿所有の「艀ヶはしけ船」に関するもので、その間の「使用料並破損修繕費及付属品補給費」として、1,080円の損害補償を求めている(これらの補償金が実際に南貿ヤップ支店に支払われたかどうかについては、資料が残されていないため不明)。  ヤップ島については、一つ付け加えておきたいことがある。第一次世界大戦後のパリ講和会議(1919年)において、アメリカはヤップ島の太平洋通信基地としての重要性に鑑みて、ヤップ島を国際管理下に置くことを主張した。それに対して、日本はヤップ島を日本の南洋諸島委任統治領に含めるよう主張した。この問題はワシントン会議(1921-22年)にまで持ち越され、結局1922年2月、ヤップ島を日本の委任統治領とするが、ヤップ島―グアム島間の海底電信線はアメリカに譲渡され、アメリカは海底電信線の維持、運用のために、ヤップ島に自由に出入りすることができるということで決着した(花岡『海底電線と太平洋の百年』85-86頁)。当時、ヤップ島はこれほど重視されていたのである。 6 関根仙太郎の生年月日と生地  関根は、上述の「損害申請書」に、自己の生年月日を「明治参年〔1870年〕六月十四日」と記している。外務大臣に提出する書類に嘘は書かないであろうから、これによって関根の正確な生年月日を初めて知ることができた。この生年月日にもとづけば、関根が玉置半右衛門に従って鳥島に渡ったと考えられる1888年には、関根は数えで19歳(満では17歳か18歳)、南島商会に入社したのは1890年の5月より前であるから、その時関根は数えで21歳(満で19歳)ということになる。こ … 続きを読む

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書評:松本通孝『一世界史教師として伝えたかったこと―歴史教育の「現場」から見た50年』(Mi&j企画、2020年)
日高智彦

 本書は、1967年より青山学院高等部の教師として世界史の教育と研究に携わってきた松本通孝が、半世紀以上に及ぶ取り組みの中で「伝えたかったこと」を軸に既発表論文を編集し、解題を付して一書にまとめた「自分史」である。  構成は、以下のようになっている。 はじめに 第1章 高校生に近現代史を学ばせたい  1節 1973年―「現代史」「現代社会」構想の立ち上げ  2節 1980年代の歴史教育を取り巻く情勢と「近現代史教育研究会」の立ち上げ 第2章 自国中心主義に陥らないように―比較史の視点  1節 「自国史」と「世界史」  2節 「正答主義」をどう克服するか 第3章 日本における世界史教育の源流  1節 万国史から世界史へ  2節 フランス革命はどのように書かれて来たのか 第4章 生徒とのキャッチボール―生徒の歴史意識をどう育むか  1節 授業内容・方法の工夫、史資料を授業に生かす  2節 「世界史通信」発行の試み 第5章 「歴史総合」とこれからの歴史教育  1節 世界史未履修問題が発した諸問題  2節 これからの歴史教育―「歴史総合」を考える エピローグ 松本通孝 文献リスト  各章はおおよそ時系列順に並んでいる。各節は、既発表論文が資料として配置され、冒頭に解題が付されている。分量としては資料が本書の大部分を占めるが、必ずしも時系列順ではなく、一部省略もあり、著者の松本以外の文章もある。本文はあくまで解題の方なのである。よって本書は、著者の世界史教育論の形成・発展史としても読めるが、そのようなプロセスを経てきた著者が現在の到達点から再構成した「自分史」として読むべきであろう。  第1章では、まだ現代史が(研究対象としても教育内容としても)重視されていなかった1960年代後半に教師となった著者が、「世界史」と「日本史」を統合した「現代史」を勤務校の必修科目として立ち上げ、それをきっかけに知り合った他校の教師たちとともに近現代史教育研究会を設立するプロセスが扱われる。『歴史学研究』370号(1971年)の特集「国家権力と歴史教育」を批判した「歴史学研究月報」136号(1971年)の論考などの資料からは、著者が「現代史」を、(A)「生徒達の歴史意識、現状認識」を出発点とし、これにはたらきかけるものとして、(B)政府の文教政策による上からの統制に対する批判として、(C)官製の研修会ではなく自主的な「他流試合」を重ねながら、構想・実践したことが理解できる。  50年が経ち、今や学習指導要領によって「「世界史」と「日本史」を統合した「現代史」」である「歴史総合」が設置され、実施されようとしている。これに対し、上記3つの特徴をもって実践してきた「現代史」を、著者は「今から振り返っても正しかった」と、自信を持って対置しているようにみえる。後に第5章に関する評でも触れるように、たしかに著者の試みは、「歴史総合」に取り組もうとする者にとって「役に立」つだろう。ただし、著者がもっとも重視する「生徒達の歴史意識、現状認識」について、具体的にどう把握していたかは不明である。例えば、資料②(1971年)では生徒のレポートを分析しているのだが、そもそものレポート課題が現代史学習・・の受けとめを問うていることもあってか、生徒の現代史認識そのものは実はほとんど俎上に載せられていない。権力が現代史教育を直接に行おうとする状況にあって、学校における現代史教育が欠如することの危険性はそのとおりだろう。ではどう危険なのか、生徒の認識の具体的な把握と分析なしに、前例のない「現代史」で教える内容の構成はできなかったはずなのだが。資料②では、当時の生徒を「確かに何かを求めてはいるが、彼ら自身ではなかなかつかみ得ず、混とんとした状態に留まっている」と評しているが、これは若き日の著者自身のことではなかったか。  このような著者に、第2章の時期から変化が訪れる。この章では、1982年に設立された比較史・比較歴史教育研究会に参加するなかで、この会のスローガンでもあった「自国史と世界史」という問いを自身の実践的課題に昇華していく様が扱われる。著者にとって、日本の戦争と植民地支配の捉え方が東アジア諸国において異なることを、歴史教育の国際交流の場で、生身の人間の発言として知った衝撃は大きかったようである。重要なことは、この歴史認識のちがいについて、(本章のタイトルは「自国中心主義に陥らないように」ではあるが、)歴史認識が一般的に・・・・帯びがちな自国中心主義の問題として済ませず、世界史的に形成された重層的な支配―従属関係の刻印と捉えた上で、支配者側の・・・・・歴史認識の課題と受けとめたことにあると評者は読んだ(資料⑧「歴史教育と「国民の戦争責任」」、1991年)。  こうして、歴史認識の西洋中心主義が克服すべき課題となる。かつてフランス革命期の農村における「変革主体」を研究テーマとしていた著者が、ここでいう「変革」の西洋中心主義的な意味を問い直し、東欧史の視点から授業を再構成した。その成果が、資料⑨(「「正答主義」克服の試み」、1986年)である。「ポーランド分割とフランス革命」というテーマの実践において、ある生徒は、西欧=「華やか」で東欧=「暗くてじめじめ」という「偏見」を自ら問い直している。「正答主義」の克服というとき、その射程には、(a)ただ一つの正解を求める歴史学習への姿勢(試験のための暗記、教わることを鵜呑みにすること、教師が学びとってほしいと考える価値観の押しつけ・誘導など)だけでなく、(b)そのように身につける歴史認識が帯びている偏見や歪みと、それらに刻印される歴史的な権力的支配構造を問い直すことが含まれているのである。  資料⑨は、「[座談会]歴史学と歴史教育のあいだ」(『歴史学研究』553号、1986年)において提起された、歴史教育における「正答主義」という論点への応答として書かれたものである。ここでの「正答主義」は、(a)の問題として論じられていた。しかし、後の1990年代半ばに、(a)の克服を目指すものとして出てきた藤岡信勝らの「歴史ディベート」は、(b)を問い直すどころか肯定するものであったことで、結局(a)の問題も克服できなかったわけである(資料⑩、2009年)。著者の実践は、「正答主義」論に(b)を立てることで、この陥穽を批判的に乗り越える可能性を先取りしていたといえよう。実は著者自身は、解題においても「正答主義」を(a)の問題として論じ続けているが、評者は著者の実践を「二重の正答主義」論として、世界史教育論史における重要な問題提起であったと受けとめている。  第3章では、1990年代より取り組んだ、明治以降の外国史教科書の研究が扱われる。著者にとっては、自らの仕事をその「源流」にさかのぼりながら相対化する意味を持っただろう。1節の解題では、これらの研究で「伝えたかったこと」を、「その時々の政府の方針と歴史教育との関係」とし、「文教政策の意図を見抜く力を、私達教師の側が持つ必要がある」「政府主導の「正答主義」に対して、どのような距離を置くか」と問いかけている。重要な指摘である。だが、明治・大正期の外国史教科書を丹念に読み解いた諸資料からは、外国史認識がいかに自国史認識に規定されるか、すなわち、世界史を学べば自動的に自国中心主義を克服できるわけではないことなど、より多くの示唆を得ることができる。その上で、フランス革命記述の変遷を扱った2節では、「近代化」の負の側面が明らかになった現在において、革命の理念を「弱者」の側から問い直し、フランス革命の今日的意義を生徒と教師が学び合う授業案として提案している。これまでの研究の成果を実践として具体化した資料⑮・⑯(2012年)は、著者の仕事の集大成に位置するものであり、本書の白眉である。  資料⑮・⑯に至るまでには、世界史の教育論や内容について研究するだけでなく、授業方法についても試行錯誤を繰り返してきた。第4章は、著者が「生徒達の歴史意識、現状認識」にはたらきかけようと取り組んできた授業日誌や教科通信などの試みを扱う。本章の諸資料を読むと、著者が世界史教育を、教科書などの制度的枠組みに依存することなく、生徒と「キャッチボール」しながら、ものの見方や考え方を現実の世界の動きのなかで見直す方法として構想していたことが分かる。  その上で、「伝えたかったこと」を「「ゆとり」教育の是非」としている。「ゆとり」の名のもとに導入された各種の文教政策は、入試制度改革を伴わず、「観点別評価に見られるような教師の仕事をいたずらに増やし」、教育現場のゆとりをむしろ奪っていった。この改善なしにアクティブラーニングを謳っても、豊かな学びに結びつくことはなく、授業は画一化するのではないか。どんな授業方法がふさわしいかは、あくまで「担当教師一人ひとりが考えるべきこと」(資料⑰、2011年)であり、そのためには「教師の創意を保障するゆとり」が必要だ、と主張する。政策提言として異論はないが、仮に「ゆとり」が保障されたとして、教師が発揮する「創意」が「正答主義」を克服するとは限らないだろう。本章の諸資料は、むしろ「創意」の具体的な方向性を示唆しているように思うのだが、あくまで「保障」を主張するところが著者らしい。  最後の第5章では、2018年の第9次学習指導要領改訂によって新設された科目「歴史総合」を中心に、これからの歴史教育の方向性について論じられる。2006年に、必修科目の「世界史」が受験対応等を理由に開設されない高校があることが問題となって以降、地理歴史科教育の改善に向けた議論が巻き起こった。著者は、これまでの研究と実践をふまえた「教師の創意を保障するゆとり」の観点から、「現在の「日本史A」「世界史A」は廃止して、世界と日本の近現代史を扱う「現代史」」の創設 … 続きを読む

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シリーズ「日本の中の世界史」後日談―『中島敦の朝鮮と南洋』―(上)
小谷汪之

はじめに 1 玉置半右衛門と玉置商会 2 渋沢栄一の「製藍会社」 3 田口卯吉の南島商会 (以上、本号) 4 南洋貿易株式会社(南貿) 5 第一次世界大戦とヤップ島 6 関根仙太郎の生年月日と生地 おわりに (以上、次号) はじめに  シリーズ「日本の中の世界史」の一冊として刊行された小著『中島敦の朝鮮と南洋』(岩波書店、2019年。以下、「本書」とする)にかかわって、一つ心残りなことがある。それは、「本書」の本筋からはちょっと外れるが、関根仙太郎という人物の経歴にかんすることである。本書の第二刷を出した時には問題の所在に気づいていたのであるが、第二刷での修正という制約のために直しきることができなかった。  関根仙太郎は明治時代の中頃に「南洋」に渡り、50年近くを「南洋」に生きてきた。彼は、1935(昭和10)年か36年に、最終的に日本に帰国したものと思われるが、その関根を、雑誌『南洋群島』の記者が東京「向島寺島なる氏の寓居」に訪ねて、インタヴューを行った。その冒頭で、関根は次のように語っている(以下、引用文中の〔 〕は引用者による補足。漢字には、適宜ルビを付した)。  私は十五の歳に、玉置半右衛門たまおきはんえもんと云う人に従って鳥島へ渡りました。玉置氏は東京府からこの鳥島を二十箇年間無償で借り受け、信天鳥アホウドリの巣から羽毛を採取し、それを欧州に輸出していたものです。その仕事を手伝って居る中に、翌年小笠原島の母島に移る事になり、そこでは藍の会社で働いていましたが、丁度その頃東京に南洋で貿易をする会社が出来、しかもそれには、かねて知っていた依岡省三氏が関係している事を聞いて急いで帰朝、その会社へ入れて貰った様なわけです。この時私は十七の歳でした。(関根仙太郎「南洋群島の五十年を語る」『南洋群島』3巻、3、4号〔1937年〕。『南洋資料 第473号、南洋群島昔話 其の一』〔1944年〕に再録。同書、1頁)  この関根の話の中には、1890年前後(明治20年前後)の日本における「南進」のさまざまな動きが凝縮された形で詰まっていて、きわめて興味深い。ただ、「本書」刊行後に見ることのできた一資料に照らしてみると、関根のいっている自分の年齢には疑問がある。 1 玉置半右衛門と玉置商会  関根仙太郎は、「十五の歳に、玉置半右衛門たまおきはんえもんと云う人に従って鳥島に渡り」、アホウドリの羽毛の採集に従事した、といっている。この「玉置半右衛門たまおきはんえもんと云う人」は小笠原諸島、鳥島(伊豆諸島の鳥島)、沖縄の南大東島など、日本南方の島々の「開発」に主導的な役割を果たした人物としてよく知られている。  玉置半右衛門は1838年、八丈島に生まれ、大工をしていたが、1861年、徳川幕府が小笠原開拓民を募集した際、それに応募して、小笠原に渡った。しかし、翌年、生麦事件が起こってイギリスとの対立が激化したため、幕府はイギリスが触手を伸ばしていた小笠原諸島の開拓を断念し、玉置も小笠原から退去した。その10数年後の1876(明治9)年、明治政府は小笠原諸島の領有を諸国に通告し、開拓民を小笠原に送った。その時、玉置も小笠原に渡り、内務省小笠原出張所仮庁舎建築などの公共事業を請け負うなどした。しかし、その後、小笠原出張所との関係が悪化したこともあって、玉置はアホウドリの捕殺に着手した。アホウドリの羽毛が欧米で高値で売れることに目をつけたのである。ところが、小笠原にはアホウドリがあまり飛来しなかったので、次に玉置はアホウドリが大量に飛来する鳥島に狙いをつけた(アホウドリの羽毛は横浜の外国商社を通して欧米に輸出されていた)。  1880年代の日本では、初期的な「南進論」が盛んになっていて、その先駆者の一人に横尾東作(1839-1903年)という人物がいた。横尾は仙台藩士で、はじめ儒学を学び、後に英学を修めた。幕末の政争の中では、語学力を生かして幕府側の外交工作の一端を担い、最後は、榎本武揚の下、函館五稜郭で「官軍」と戦った。  横尾はその後さまざまな職に就いたが、1887(明治20)年、当時逓信大臣だった榎本武揚の支援を受けて、硫黄島の探検に乗り出した。船は逓信省灯台巡視船の明治丸を使わせてもらった。この硫黄島探検には当時の東京府知事、高崎五六の他、依岡省三、鈴木経勲つねのりなど多くの「南進論者」が同行した。この時、玉置半右衛門とその配下12人は、鳥島で下船することを条件として乗船を認められた。11月1日、横浜港を出港した明治丸は、5日に鳥島に到着し、玉置らはここで下船した。約100日分の食料や資材を携行したということであるから、最初から鳥島に長期に滞在するつもりだったのである。その目的はアホウドリを捕殺して、羽毛を採集することであった。  他方、明治丸は11月10日に硫黄島に到着したが、とても植民できる所ではないとして、直ちに横浜港に帰ることになった。途中、鳥島で玉置半右衛門らを乗船させるはずであったが、波が高く、接近が困難だったため、彼らを鳥島に「置き去り」にしたまま横浜に帰港した。12月15日、東京府は玉置らの救援のために、船を鳥島に派遣したが、その船で帰京したのは玉置他一名のみで、残りの11人は鳥島に残って、アホウドリの捕殺を続けた。  翌1888年、玉置は「鳥島拝借御願書」を東京府に提出し、3月、内務省から鳥島の10年間無償「貸渡」を認められた。同年、玉置は56人の人夫を鳥島に送り込み、アホウドリの捕殺を本格化させた(以上、平岡昭利『アホウドリを追った日本人』岩波新書、2015年、10-20頁)。  以上のような経緯を考えると、関根仙太郎は、1887年に鳥島に残留した11人のうちの一人だったのかもしれないが、おそらくは1888年に鳥島に送り込まれた56人の人夫たちのうちの一人だったのであろう。この時、関根は15歳だったといっているが、これは数えの年齢だと思われるので、満年齢で言えば13歳か14歳ということになる。「本書」(第一刷)刊行時にはあまり気にならなかったが、今思えば、いくら明治中期とはいえ、これはちょっと若すぎるように感じられる。  関根は、翌年にはもう、鳥島から小笠原に移ったのだが、その理由について、関根自身は何も語っていない。推測するに、アホウドリの捕殺という仕事に嫌気がさしたからではないかと思われる。アホウドリの捕殺は、すぐには飛び立つことのできないアホウドリを棍棒で撲殺するという野蛮な方法で行われていたからである。それに、鳥島におけるアホウドリの捕殺は出稼ぎ労働によっていたから、年に3分の1の人夫が交代するほど島への出入りは激しかったということである(平岡昭利『アホウドリと「帝国」日本の拡大』明石書店、2012年、77頁)。  玉置半右衛門は、この後、一年間に約40万羽のアホウドリを鳥島で捕殺しつづけ、1902年の鳥島大噴火によって人夫120余名が全滅するまでに、総計約600万羽を捕殺した(鳥島大噴火の時、玉置一家は東京に住んでいて無事であった)。1933年には、アホウドリの捕殺が禁止されたが、それまでに、鳥島では総計約1000万羽のアホウドリが捕殺されたとされている。そのために、鳥島のアホウドリは絶滅寸前にまで至った(平岡『アホウドリを追った日本人』、22頁)。玉置半右衛門による鳥島の「開発」とはこのようなものだったのである。  1900年、玉置は沖縄県の無人島、南大東島の開拓に乗り出した。沖縄県から30年間の開拓許可を受けた玉置は、八丈島の島民たちを中心に人夫を募集し、23人を南大東島に派遣した。派遣団の団長は当時玉置の大番頭だった依岡省三であった。人夫たちは玉置商会の小作人としてサトウキビ栽培に従事したり、製糖場の労務についたりした。その後、玉置は、島中にサトウキビ運搬用のトロッコ網を張り巡らし、病院や商店や学校を設立するなど、島が独立の経済単位(アウタルキー)をなすようにした。島だけで通用する貨幣(玉置貨幣)の発行も行い、島内のすべての勘定をこれによって行わせた。このように、玉置商会の経営方法は開拓民たちの生活を全的に支配する「封建的」なもので、南大東島は「玉置王国」と称せられるほどであった。  1910年、玉置半右衛門が死去すると、その3人の息子たちが玉置商会の事業を継承したが、経営不振に陥り、1916年には南大東島における事業を東洋精糖に売却した。 2 渋沢栄一の「製藍会社」  関根仙太郎は、前出のインタヴューで、鳥島から「小笠原島の母島に移る事になり、そこでは藍の会社で働いていました」と言っているが、この「藍の会社」というのは渋沢栄一が設立した「製藍会社」のことである。明治期、日本の藍生産はインド産の藍、いわゆるインディゴに押されて衰退していた(徳島県を中心として栽培されていた藍はいわゆる蓼藍たであいで、タデ科イヌタデ属の一年生草本)。インディゴに対抗するために、小笠原の藍(山藍。トウダイグサ科の多年生草本)に最初に目をつけたのは竹内万二郎という人物で、竹内は実際に小笠原で「山藍」の「開墾」(植栽)に着手したが、中途で挫折した。この竹内の「書記」であった今川粛という人物が小笠原藍作の見込みについて詳細な調査を行い、その復興を渋沢栄一に計った。それに応えた渋沢は、1888(明治21)年3月、「製藍会社」の「創立」を東京府に願い出て、4月に認可された。「同社の目的は日本藍製造の改良を図るが為に小笠原島産藍の蕃殖を其第一着手とし併せて其製藍を販売する」ことにあった。「製藍会社」は資本金10万円の株式会社で、一株100円であったが、株式は一般には公開されず、株主の多くは渋沢の知友であった(『靑淵先生六十年史 第二巻』龍門社、1900年、199頁;『渋沢栄一伝記資料 第十五巻』渋沢栄一伝記資料刊行会、1957年、316-317頁)。 … 続きを読む

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経済学の巨人、リュエフとケインズから学ぶ―現代史のなかの経済理論―
権上康男

はじめに   主要諸国における経済関連の公的歴史文書は今日、大半が20世紀末まで閲覧できる。しかしこれらの文書を利用した歴史研究は未だ部分的にしか進んでいない。そのために欧米先進諸国の現代経済史は、経済理論史を下敷きにして、次のようなイメージで捉えられていると言ってよかろう。まず、両大戦間期にケインズ主義が徐々に影響力を拡大する。第二次世界大戦後にこの理論に適合的な、戦時体制を多かれ少なかれ継承した、組織された経済社会が形成される。ケインズ主義はしかし、1970年代の長期不況を経て市場機能の強化を説くマネタリズムにその地位を譲る。最後に、マネタリズムと変動相場制に媒介されて経済のグローバル化が進み、経済社会は各種規制の緩和によって著しく柔軟なものへと改造される。  このような、英語圏で生まれた経済理論に則して図式化された20世紀史の理解は、言うまでもなく歴史研究の必要を満たすものではない。本稿では、この図式から漏れた重要と思われる史実を掘り起こすとともに、経済理論と時代とのかかわりを問うことにしたい[1]。  とりあげるのは2人の理論家ジャック・リュエフ(1896-1978)とジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)である。ほぼ同じ時代を生きたリュエフとケインズは、一方はフランス、他方はイギリスという異なる文化圏を背景にもち、しかもアプローチも主張も互いに正反対であった。2人は経済、社会、政治を一体のものとして扱うことのできた、事実上最後の政治経済学者でもあった。ケインズは経済学に革命を起こしたと言われるように、着想の斬新さにおいてきわだっていた。一方のリュエフは、古典派から新古典派へとつづく経済学の古典理論に忠実であった。とはいえ、彼は単なる保守的な経済理論家ではない。彼には革新的な一面もあった。たとえば、1938年に大陸欧州の自由主義者たちとともに新自由主義(ネオ・リベラリズム)を立ち上げている。  リュエフの名は大陸欧州諸国以外ではあまり知られていないが、20世紀を代表する経済学の巨人、ひいては知の巨人とも言える存在であった。彼はケインズと同じく、エリート財務官僚として職業生活をスタートさせている。しかしケインズとは違い、財務官僚としてのキャリアを全うしている。彼は官僚としての顔の他に、経済学者、哲学者、大学教授、EEC司法裁判所判事という4つの顔をもち、浩瀚な6巻本の著作全集を残している。主著は経済学と社会学にまたがる基礎理論に捧げられた2巻本の大著『社会秩序』(1945)である。 1. 価格メカニズムによる調整は、是とすべきか、非とすべきか   リュエフは国際連盟事務局に出向中の1928年秋に、ケインズとともにジュネーヴの国際高等研究院に招かれ、公開講演を行うとともに2人で議論を戦わせている。彼は当時34歳であった。その3年前に、イギリスで失業者が異常に多いのは失業保険制度に原因があるとする衝撃的な論文を発表し、彼の名はヨーロッパ中に知られていた。一方のケインズは、気鋭の革新的な経済学者として名声を博していた。この2人を、高等研究院の院長で産業革命史研究の大家ポール・マントゥーが対決させたのである。  リュエフはロンドン駐在財務官の時代にもロンドンおよびケンブリッジで講演を行い、会場に来ていたケインズと論争している。1931年には、ケインズの求めに応じて『エコノミック・ジャーナル』誌(以下、JEと略称)に寄稿し、ケインズと激論を交わしている。  第二次世界大戦が終結し戦後復興が始まると、西側諸国はケインズ主義一色に染まった。ケインズは1936年に『雇用、利子および貨幣の一般理論』(略称『一般理論』)を出版していた。この著作で展開された理論が、長期のデフレと大戦で経済が縮小均衡に陥っていた西側諸国の政策当局者たちの眼に、経済的繁栄と社会平和をもたらす救世主として映ったのである。1946年に、リュエフは時流に抗い、『一般理論』を全面的に批判した論文「一般理論にあらざる『一般理論』」を発表する。ただしケインズはその前年に没していた。  リュエフとケインズの論争は価格メカニズムよる調整をめぐるもので、経済理論レヴェルのものであった。経済学の古典理論によれば、価格が自由に変動することによって調整がなされ、経済は均衡する。ケインズはこの古典理論を否定し、市場経済には、財政・金融面からの公権力の介入が必要であると主張する。これにたいしてリュエフは、自らの理論研究にとどまらず、前出の失業についての実証研究、およびフランスを中心とする西欧諸国の国際収支についての同じく実証研究にもとづいて、価格メカニズムはさまざまな障害を乗り越えて厳格に機能していると主張して、一歩も譲らなかった。  リュエフはケインズによる理論構築にも重大な問題があると言う。たとえば『一般理論』においては、有名な流動性選好仮説以外にも、中央銀行が通貨の流通量を決めている、国内市場が各所でブロックされているなど、いくつかの暗黙の了解事項が存在する、と。もとより仮説や前提を設けることに合理的根拠があるなら問題はない。だが、合理的根拠がなければ理論の信頼性は失われる。リュエフによれば、ケインズが設定した仮説や前提にはそうした根拠がない。それゆえ彼は「『一般理論』は一般理論の名に値しない」と言い切る。ちなみに、ケインズと親しかったロンドン大学LSEのフリードリヒ・フォン・ハイエクも、後年(1966)に『一般理論』に重大な欠陥があることに早くから気づいていたと証言し、ケインズのこの著作を、「時事論説を『一般理論』と称した」と批判している。  では、なぜケインズは強引と思える仮説や前提を多用したのか。リュエフのケンブリッジ講演を聴いたケインズが1931年5月20日付でリュエフに送った書簡のなかに、この疑問を解く手掛かりがある。ケインズはこの書簡で、リュエフの講演を理論面で高く評価した後にこうつづけている。「私が思うに、あなたは、諸構造はそれ自体で元の構造に調整されるとしていますが、私はこう考えます。あなたが当てにしている柔軟性は空想であり、われわれは柔軟性を当てにせずに機能し得る装置を構築しなければならない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、と」(傍点は引用者)。この言葉を敷衍すれば、ケインズは自らが構築しようとする理論に合わせて仮説や前提を設定した可能性も、あながち否定できない。  歴史研究の側から見て興味深いのは、2人の主張が新しい時代への強烈な、しかも相互に異なる危機意識と不可分な関係にあったことである。先のJE 誌上の論争において、経済理論の範囲を逸脱した批判の応酬が行われている。リュエフはケインズをこう批判する。市場の管理という発想は「自由主義経済」と「管理経済」のいずれを選択するかという問題にかかわっており、「経済理論の観点よりも政治的観点から見てきわめて重要である」。なぜなら、それは「共産主義に似た『組織経済』の実践に必然的に向かう」からである。やや唐突と思われるので、別の視点から言い換えてみよう。市場経済においては、無数の経済単位(個人、企業、行政機関など)が価格の変動に日々刻々、反応して自由に行動する。その結果として調整がなされ、均衡が成立する。市場を管理することは、そうした自由な行動を制限するということであり、その行き着く先は権威主義経済=権威主義国家である。  この批判にケインズはこう反論する。価格メカニズムによる調整は社会のさまざまなカテゴリー、なかでも最大多数を占める労働者に痛みを与える。それゆえ「不可能とは言わないまでも政治的、人道的に困難である」。さらに、リュエフが調整の好事例としてフランスの金本位制復帰にあげたのを捉えて、激しい言葉で応酬する。戦後フランスの混乱ぶりを見れば「調整が円滑に行われた好事例などとはとても言えない。自身がフランス人であるリュエフ氏が豌豆の鞘を剥くように容易なことを証明するのに、フランスの戦後史を引用するとは、何と物忘れの酷いことよ!」。しかしケインズは、「共産主義に似た『組織経済』の実践に必然的に向かう」という、自らに向けられた批判には沈黙している。  2人の間で争われていたのは調整の是非である。ケインズは調整が政治と人道の両面から見て困難であるとし、既存の制度や慣行を変更しなくて済むシステム、すなわち公権力によって管理された市場経済の構築を選択する。しかしリュエフによれば、調整がなされず、経済の不均衡が放置された社会は存続できない。仮に調整を財政・金融政策によって先延ばしするなら、経済は危機に見舞われる。それさえ無視して調整をさらに先延ばしすれば、最終的に市場の暴力によって調整が強行される。それゆえ介入を可能な限り控えて経済を日常的なミクロ・レヴェルの調整に委ねるべきだと、彼は言う。 2. 国際通貨制度の政治経済学―至上命令と化したデフレの回避  19世紀末に金本位制が主要諸国に普及したことにより、国際金本位制と呼ばれる非公式の国際通貨制度が成立した。この制度は第一次世界大戦を契機に消滅し、以後、再建されることがなかった。国際通貨制度は世界経済の基盤となるものであるが、そのあり方をめぐってもリュエフとケインズは真っ向から対立した。  問題の淵源は第一次世界大戦にある。この大戦を通じて世界の金がアメリカ一国に集中し、他の諸国には通貨発行に必要な金の確保が難しくなった。アメリカがドルを大幅に切り上げれば金本位制のメカニズムにより金がアメリカから流出し、問題は解決する。だがその場合にはアメリカ経済がデフレに陥る。デフレを回避しつつ、国際通貨制度を再建するために考案されたのが金為替本位制である。この通貨制度は金と交換が可能な新旧2つの大国の通貨(ドルとポンド)を準備として各国 … 続きを読む

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神川松子と西川末三の作った労働者生産協同組合 ―日本の中の世界史としての測機舎―(その6・完)
南塚信吾

6.「測機舎村」-日本のニュー・ラナーク   では、発足後の測機舎の実際の動きを見てみよう。当時は測量機械のほとんどを輸入に頼っていたが、創業の目的は外国製品に負けない測量機械をつくるということであり、それを前代未聞の工場組織によって実現しようという理想を掲げて測機舎は生まれたのであるが、当初は生みの苦しみを味わうことになった。  港区麻布笄町の48坪ほどの土地にある工場兼住宅で新生の測機舎が動き始めた。階下の14坪の工場に機械室から火造室までが設けられ、二階は時によって事務室、会議室、製図室、あるいは寄宿舎となった。いずれも優れた技術者であった細川、三上、松崎らは狭い工場で創意を発揮して制作に取り掛かった。ただ一人の非技術者であった末三は事務と外交をすべて引き受けた。また、夫人たちは昼の弁当作りに立ち働いた(松子『測機舎を語る』96-99頁)。  あいにく、1920年に測機舎が発足してすぐにこの春には戦後不況が襲ってきた。理想の高い新しい組織がスタートし、高い技術力をほこる製品ができても、新興の工場の製品を買ってくれる市場もなく、苦しい立ちあがりであった。末三は測量機を担いで、売り込みに歩き回った。それでも初年は製品は売れず、機械の修理代がいくらか入っただけだった。組合員に給料は支払われることになってはいたが、実際にそこから支給を受ける人は少なく、みなが測機舎のために資金を残した。したがって、組合員たちの生活は苦しかった(松子『測機舎を語る』81頁;鹿子木『いのちの軌跡』82-86、88頁)。  融資を受けるはずの太宰銀行は倒産してしまった(鹿子木『いのちの軌跡』88頁)。松子は金策に走り回った。松子は、「借金苦」であったと、金策の苦しさを吐露している(松子『測機舎を語る』111-122頁)。1920年の測機舎の様子について、鹿子木は、松子の『語る』(96-99)をも基礎にしつつ、こう回想していた。 「松子夫人の金策の苦労は続き、末三氏は一人で外交から事務員、小使いまで兼任し、便所の汲み取り口の修繕までやってのけた。重たい機械や資材を組合員と市電に持ち込んだり、手車で運んだり。私たちも組合員としての誓約を守り、月に5円か10円の生活費でも文句ひとつ言わず夢中で働いた」(鹿子木『いのちの軌跡』109頁)。  この時期のことと思われるが、松子はこう語っている。「数年来専念してきたロシア文学研究もその他あらゆる私の趣味或いは欲望を抛って、測機舎の擁立――測機舎の目的貫徹のために腐心したのであります。而して常に泰然自若として従容迫らざる西川の後に従いて焦燥しながら、ある時は資金の調達に、ある時は販路の開拓に狂奔したのであります。「あんたのやうに気ばかり焦燥っても事業の大成は出来ぬ」と、西川はいつも落着いて私に忠告するのでありました。しかし騎虎の如き私の心は測機舎の危機に直面して、西川の云うが如く泰然自若としては居られませんでした。私は自分の力の及ぶ限りあらゆるチャンスを捕らえて測機舎の進歩発展に資せんとしました」(松子『測機舎を語る』143頁)。松子は自分の家の中の改革も断行し、節約にこれ務め、幼子たちに泣かれるほどであった。  1921、22年はおそらく「地獄」の日々であったことであろう。これが耐えられたのは、測機舎が同志的な結合に支えられた組合組織であったからであろう。舎員全員の頑張りにより、しだいにいくつか注文が入り、借金もすることが出来るようになった。そして、14坪の工場ではあまりにも狭いので、1921年には測機舎は渋谷区猿楽町(天狗山)に移転し、いくらか広い工場になった。しかし、1922年の8月には、測機舎の創立に多大な貢献をした細川善治が2年の闘病生活の末、36歳で死去した(鹿子木『いのちの軌跡』110-111頁)。  そこへ、1923年9月に関東大震災が襲ったのである。猿楽町の工場は無事であった。この大震災は測機舎には幸いし、「飛躍の契機」となった。東京市内では測量機メーカーはほとんど壊滅したが、測機舎は被害を免れた。しかも生産が軌道に乗り始めていたので測量機のストックは豊富にあった。したがって震災後の復興に際して測量機械の需要が激増すると、注文が殺到した。この際、末三は、価格を吊り上げたりせず、被災地の需要家には逆に一割の値下げをして「お見舞いの徴意」とした(松子『測機舎を語る』138-139頁)。「こうした正直さ、誠実さが、西川社長夫妻以下の我々が団結を保つ原動力となった」と鹿子木は回顧している(鹿子木『いのちの軌跡』120-123頁)。  このあと、こうした誠実な経営・営業と優れた技術によって測機舎は大きく成長していった。猿楽の工場も手狭になったので、1925年には、世田谷区三宿に新工場を建てて移転した。三宿では、670坪の敷地があり、地下一階、地上二階建ての鉄筋コンクリートの工場ができた。二階は娯楽室、集会場となっていた(鹿子木『いのちの軌跡』126頁)。ここで測機舎は業績を拡大し、全国的な測量機メーカーとなっていくのである。  『東洋経済新報』は、こうした測機舎の動きに注目した記事を載せた。1926年8月21日の同紙は、「生産組合『測機舎』の発展と其悩み」という記事を載せ、その成立から始めて現在の成功を紹介し、その独特の組織を特筆した。記事は、舎が資本家によってではなく、工場労務者自身が管理・経営する生産組合であることを詳細に説明し、その成立からの歴史を追って、西川末三の手腕を高く評価し、また舎の技術力の高さを評価して、現在の業績が目覚ましいものがあると称賛した。ただし、記事は、舎はいつまでこの組合組織を維持できるのか、将来的には、株式会社などの組織に変更せざるを得なくなるのではないかと危惧していた。これは優れた記事であった。  さて、1929年10月に始まる世界恐慌は、日本をも襲い、測機舎も一時は緊縮に努め、末三はいち早く手を打って、組合員の月給を5%削減したりした。しかし、他の経済界に比べれば被害は軽微であったし、すでにかなりの内部留保金も持っていた(鹿子木『いのちの軌跡』146-147頁)。1931年には業績は回復していた。この時期、『大阪朝日新聞』(1931年12月30日号)は測機舎について、次のように報道していた。 ≪不景気をよそに栄ゆる我等の「工場」-協力の実は結ぶ、ボーナス三十五割、我国最古の従業員管理工場、東京世田ヶ谷の測機舎≫ 「従業員が協力して経営する共同管理の工場で、不景気なこの歳末に平均三十五、六割のボーナスを分配したという耳よりな話—一般工場界が火の消えたような不振に四苦八苦している折柄、この羨ましい好話題を生んだ工場は、全国で最古の管理工場として知られている東京市世田ヶ谷町三宿の測機舎だ。」 「工場の組織は出資組合員二十五名、准組合員十七名が中堅となり、各自一切の責任を分担して、「我々の工場を盛り立てろ」との意気込みで健闘している、工場創立以来功労のある従業員は理事長西川末三氏を始め九人で、一万円以上二万円の出資者が八人、組合員が分配する毎月の給料は平均百十円内外、ほかの工場では見られない素晴らしい待遇に恵まれている、各組合員の共有となっている現在の工場資産は三十万円に達し、この外十一万円の純益積立金があるという状態だ。」  つまり、組合組織の利点が見事に発揮されているというのである。しかも新聞はこう続けている。 「一昨年以来従業員の工場共同管理が滅切り殖え、全国に三十余を算えるに至ったが、東京では星協力組合、中島鋳工場、五木田の丸一木工、砂町奥村などの各製材所があり、神奈川県鶴見にも吉野製材所があり、何れも昭和四年以来の経営でまだ創業時代にあるため、測機舎の如く好成績を挙げていないが、比較的好調をたどって「我々の工場」を盛り立てている。」  先駆的な測機舎に続いて、生産協同組合方式の企業が日本で次々と生まれていたことがわかる。中島鋳工場というのは、中島製鋼所(1930年1月創立)のことであろう。  そして、1932年からの高橋是清の財政政策により、緊急の公共土木事業が開始されると、測機舎はその独特の組織のゆえもあって、急速に回復した(鹿子木『いのちの軌跡』148頁)。1934年ごろには、1500坪の敷地と400坪の建物、分工場を加えて、百数十人の従業員を有する「日本第一等の測量機械工場」になった(松子『測機舎を語る』160頁)。  測機舎の新しい三宿の工場は、青山、渋谷から通じる大山街道から北へ上ったところで、三宿神社の先の、小高い丘の上にあった。その測機舎を中心に従業員の住宅が次々と新築された。当時としてはスマートな家がたくさん建ったので、地元の人はこれを「測機舎村」と呼び、先の『東洋経済新報』は「新しい村」と呼んだ。いずれも「敷地百坪内外、建坪三十坪前後」といった「至極好適な住宅」であった。「いはば測機舎という労働団体を中心とした一瞬美しい自由平等の村」が営まれていたのだった。松子は十数年前の「資本主義工場」時代の貧弱な生活に比し、従業員たちの生活はくらべものにならなかったと自負していた(松子『測機舎を語る』180-181頁)。これは、当時としては先進的な住宅資金貸出制度を測機舎が持っていたから可能だったのである。1926年に実施されたこの制度によると、「労務出資者にして一家を構え、かつ貸出額10分の5以上の金銭出資を有する者」は、3000円を限度として、年7分の利子で、貸付を受けることができた(松子『測機舎を語る』70-71頁)。これによって、測機舎の周りには、13軒のスマートな住宅ができたのである。  松子は、こういう平等のほかに、さらに別の平等についても指摘している。をれは、「各組合員の資本の独占の制限」であった。松子は、それは、測機舎への金銭出資を、一人につき2万円以上所有する … 続きを読む

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書評:O.A.ウェスタッド(益田実監訳)『冷戦 ワールド・ヒストリー』上・下(岩波書店、2020年)
木畑洋一

 冷戦という現代世界史にとってきわめて重要な対象について包括的に学びたいと思った時、日本語で参照できる本は意外に少ない。しかも、一人の著者が統一した視点のもとに、その著者なりの歴史像にそって冷戦史を描いた本となると、残念ながら日本人研究者の手になるものは思い当たらない。外国の研究者の本で邦訳のあるものとしてすぐ念頭に浮かぶのは、ジョン・ルイス・ギャディス『歴史としての冷戦 力と平和の追求』(慶應義塾大学出版会、2004年)であるが、冷戦を「長い平和」と形容したことからも分かるように、ギャディスの冷戦像はあくまでもヨーロッパ中心的である。そのような冷戦像に大きな疑問符をつけて、いわゆる「第三世界」と米ソの関係を詳細にたどることによって、新たな冷戦史像を提示してくれた研究が、O.A.ウェスタッド(佐々木雄太監訳)『グローバル冷戦史 第三世界への介入と現代世界の形成』(名古屋大学出版会、2010年)であった。その著者がさらに時間的に視野を広げ、空間的にもより包括的な形で冷戦像を提示した結果が本書である。翻訳にあたったのは『グローバル冷戦史』の邦訳にも関わった第一線の国際関係史研究者たちであり、益田実他編『冷戦史を問いなおす 「冷戦」と「非冷戦」の境界』(ミネルヴァ書房、2015年)の寄稿者でもある。  時間的な視野の拡大は、本書の叙述が1890年代から始まっていることに示されている。冷戦の起源といえば、最大限遡ったとしても1917年のロシア革命、あるいはそれを生み出した第1次世界大戦までということが常識であろう。それを19世紀末、20世紀への世紀転換期に求める理由として、著者は二つの問題に着目する。一つは、「アメリカとロシアが強烈な国際的な使命感をみなぎらせた二つの帝国に変容していった」ことであり、今一つは「資本主義とそれを批判する者との間に存在するイデオロギー的な分断が先鋭化していった」ことである(上26、以下本書の頁をカッコ内に示す)。これは重要な着眼点であるが、評者としては、第1点目について、とりわけロシアに関しては留保したい。一方、第2点目の方は冷戦の起源論として確かに首肯できる問題提起である。そのことは、冷戦の性格についての著者の議論に関わる。  冷戦について、かつては資本主義と社会主義という社会体制をめぐるイデオロギー的対立を強調する議論が主流であった。しかし、社会主義圏の解体という形で冷戦が終焉を迎えて以降、冷戦下の東西両陣営の対立を権力政治的面からとらえてイデオロギー的側面を軽視する傾向が強まってきたという感がある。それに対して著者は、「冷戦は、そのイデオロギーの中心性とそれを信奉する人々の熱心さゆえに大半のものごとに影響をおよぼした」(下437)と、あくまでもイデオロギー的性格を重視する姿勢を崩していないのである。この点からみて、19世紀末から分析を始めることは的を射ていると考えられる。  ただ、19世紀末から第2次世界大戦までの時期を扱った部分は、必ずしも多くなく、序章と終章を除く全22章の内、第1章と第2章の2章分のみである。本書を繙く前に評者が予想していたよりはるかに少なく、若干の不満が残った。  しかし、第3章以降の冷戦史本体の叙述には、予想に違わずすばらしいものがある。ヨーロッパでの冷戦の展開についての記述は比較的オーソドックスであるが、前著につづき、非ヨーロッパ世界での冷戦の展開を、ヨーロッパと同列に目配りしながら、脱植民地化過程と関連させて議論する姿勢は他の追随を許さない。冷戦の最終的な終焉を示したソ連の崩壊について、「まさに脱植民地化の一つの事例であり、イギリスやフランスの帝国に生じたことを想起させるものだった」(下430)と論じていることには、我が意を得た感がした。個々の分析に立ち入る余裕はないが、例として、ソ連のアフガニスタン侵攻の前段階として、アンゴラややエチオピアの情勢を論じている点であるとか、冷戦終結時の東欧の変動にグローバルサウスの社会主義国の変容が先行していたとの指摘とかをあげておきたい。  著者はもともと中国研究者として出発したが、本書でもその蓄積は大いに生かされている。たとえば第9章(上巻)の「中国の災難」という章は本書全体の中でも対象を最も詳細に描いている章である。一例をあげよう。文化大革命が始まる頃、毛沢東は杭州に滞在中ある講演のなかで、「諸君は徐々に現実と接するべきである。しばらくの間は田舎に住み、少々のことを学ぶべきである。・・・本物の分厚い学術書などを読む必要はない。小さな書物を読んで一般的な知識を少々身につければ十分だ」(上346)と語ったというが、この史料は、「筆者所有の謄写版複写」である(第9章注18)。  また、インドの役割についてかなり詳しく論じられていることも重要であろう。  本書の他のメリットとして、特に下巻におけるオンライン史料の活用・引用という点を最後にあげておきたい。本書は長期間を扱った通史であるが、細かな引用について丁寧な出典注がつけられている。たとえば、アメリカのジョージ・ワシントン大学にあるアメリカ国家安全保障アーカイヴでデジタル化されている興味深い史料も引かれており、評者は本書の叙述に導かれて原史料に入り込むということを度々行ない、学ぶこと大であった。  こうした本書は、冷戦史を語る際にまず参照すべき本の一つであるといえよう。 (「世界史の眼」No.9)

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