はじめに
1 作家・島木健作の誕生
2 農民文学懇話会と大陸開拓文芸懇話会
(1)農民文学懇話会
(2)大陸開拓文芸懇話会
(以上 前号)
3 『満洲紀行』
(1)満洲の大日向分村
(2)「自作農主義」政策批判
(3)満蒙開拓青少年義勇軍勃利訓練所
4 『満洲紀行』に対する評価
おわりに
(以上 本号)
3 『満洲紀行』
(1)満洲の大日向分村
1939年3月末、島木健作は農民文学懇話会から派遣されて、満洲旅行に出た。朝鮮半島を縦断して満洲に入り、北満洲の開拓村15か村(大日向分村、福島村、弥栄村、千振村、龍爪村など)や満蒙開拓青少年義勇軍の訓練所5か所(ハルビン、勃利、孫呉、鉄驪、嫩江)などを訪ね歩いた。他の視察団などとは異なり、一人旅であった。その時の見聞にもとづいて書かれたのが『満洲紀行』(創元社、1940年)であり、前出の『或る作家の手記』である。以下では『満洲紀行』によって、島木の満洲での体験を追ってみたいと思う(頁数は『満洲紀行』のもの。地名については、付図を参照)。
1939年4月16日、吉林に到着した島木は「第二松花江」に建設中の発電用ダム(豊満水力発電所)工事現場を見学に行った。「第二松花江」は中国・朝鮮国境に近い白頭山から流出して北流し、ハルビンの西で嫩江と合流して黒龍江に入る。以前は嫩江が松花江本流とされていたが、現在では、かつての「第二松花江」が松花江本流と認められている。このダム工事は1937年に着工されたが、島木が行った時はまだ工事中であった(その後、1942年に竣工)。
翌、4月17日、前日吉林で泊まった島木健作は汽車で拉法駅に行き、そこでハルビン(哈爾浜)方面に向かう拉浜線に乗り換えて、四家房駅(後に舒蘭駅と改称)で下車した。「出迎への人に案内されて第七次四家房開拓団弁事所におちついた。……ここの開拓団は、信州の大日向村の分村である。先発隊は、をととしの夏渡満し、千振村〔1933年、第2次入植〕で訓練を受け、この地に入植したのは昨年の二月である」(96-97頁)。満洲の大日向分村は四家房の町から6キロメートルほど南西に位置し、吉林や新京(現、長春)にも近く、恵まれた地点にあった。
長野県南佐久郡大日向村は千曲川の支流、抜井川沿いに点在する九つの集落からなる村で、戸数は406戸、全村で「水田四十七町八段、畑二百十七町五段、ほかに山林」ということである(102頁)。『長野県満州開拓史 各団編』(長野県開拓自興会満州開拓史刊行会編、1984年)によれば、「田が四九・八ヘクタール、畑が三一六ヘクタール、合計三六五・八ヘクタール(一戸当たり〇・七九ヘクタール)」(159頁。1ヘクタールはほぼ1町歩)という貧村であった。養蚕と炭焼きが主産業であったが、大恐慌後蚕糸価格が暴落し、村財政は破綻しかかっていた。
この大日向村の約200戸が満洲に移民し、さらに将来縁故移民100戸を受け入れることとして、大日向分村が形成された。大日向分村は分村移民の模範例として広く喧伝された(伊藤純郎『満州分村の神話 大日向村は、こう描かれた』信濃毎日新聞社、2018年)。
母村である信州の大日向村に比べて、満洲の大日向分村は広大な面積の土地を割り当てられていた。「ここの土地の広さは一万町歩からだ。そのうち既耕地、未耕地を入れて可耕地はどれほどか。これはいふ人によつてまちまちであつた。……しかし三百戸開拓民としても、一戸当たりほぼ十町歩の耕地とほかに山林が約束されてゐるといふことに間ちがひはない」(102頁)。「今年は水田二百五十町歩、畑二百五十町歩を先遣隊が耕作し、本隊は部落の建設にのみかかる予定である。三百戸を五部落にわかち、一部落は〔当面〕四十戸の密居形式である」(103頁)。
「鉄道の線に近く、交通に便であること、入植ただちに一戸当り一町歩余りの水田既耕地を持つといふこと、この二つはこの団に恵まれた条件であらう」(103-104頁)。しかし、この「恵まれた条件」には、大きな問題が含まれていた。島木健作は次のように指摘している。
しかし、日本人入植以前に、それだけの水田があつたといふことは、少なからぬ鮮人農民〔朝鮮人農民〕がゐたことを意味する。彼等と、さうして今開拓民が住んでゐる満人農家〔満洲人農家〕のもとの住民たちは?
「今年は、鮮人、満人二百五十戸ほどが立ち退きました。以前の村長(満人)は今団に雇はれ、団と在来民との交渉の間に立つてゐます。」
立ち退いたものは、どのやうにしてどこへ行つたのであるか?ここの人々からはそれについてほとんど聞くことはできない。(104頁)
一般に大陸開拓、満洲開拓などというが、多くの場合、朝鮮人や満洲人の農民がすでに開墾していた水田や畑を満洲拓殖公社が安い価格で買い上げて、開拓団に提供していたのである。さらに問題なのは、開拓民がこの広大な土地を自家労働力(若い開拓民の場合、成人男性1人と満洲馬2頭)だけでは耕作できないということであった。その結果、立ち退かされた朝鮮人や満洲人の農民を農業労働者として雇い入れるということが広く行われていた。島木は次のように書いている。
日本開拓民は今日、満人農業労働者を使役することによつて、その存立の基礎を得てゐる。……両者の関係は主人と雇人との関係である。……雇傭されるもののなかには、開拓民入植前までは、自立した農民であり、主人であつたものもある。……日本開拓民の今日の能力の小ささが、彼等を必要とし、彼等をここに引き止め、彼等も亦当座はこの関係に頼つた方をよしとしてゐるのだが、この当座は一体いつまで続くであらうか。(72-73頁)
このように、島木健作の「満洲開拓政策」批判の第一の論点は、満洲人や朝鮮人の農民を彼らの農地から追い立てたうえ、彼らを農業労働者として雇用することによって成り立っている開拓団や開拓民の農業経営の実態であった。しかも、農業労働者に支払う労賃(現金あるいは現物)が開拓団や開拓民の重い負担になっていた。「どこの団のどの家を訪ねてみても、苦力賃〔農業労働者に支払う労賃〕といふものが、一家経済の癌となつてゐることを、我々はすぐに知ることができる。まことに彼等にとつて、二つの大きな悩みのたねといふのは、苦力賃と、満洲馬の飼料代とである」(50頁)。「満洲馬が非力なくせにじつによく食ふといふことで、開拓民があきれもしなげきもしてゐるのは笑えぬ滑稽である」(56頁)。
このような状況において、「団の土地を満農に出し、そこから上る小作料をもつて、借金の返済にあてようと考へてゐるところも多い」(27頁)。「自分の能力の小ささを自覚して、その能力に適ふだけの土地を自分に保留し、他は満人に小作させる」(65頁)というやり方である。これが満洲開拓のひとつの実態であった。
(2)「自作農主義」政策批判
島木健作の「満洲開拓政策」批判の第二の論点は開拓団による集団農業経営(共同経営)から個人農業経営への性急な移行であった。
1939年4月18日、島木は四家房駅から大日向分村とは反対の南方2キロメートル足らずの所に位置する福島自由移民団を訪ねた。福島村は1938年入植、22戸から構成されていた。「一戸当たりの面積は、水田二町、畑六町、山林原野七町……。原住民からの買収価格は、水田一町百三十円、畑八十円」(114頁)ということであった。
この開拓団について、島木は次のように書いている。
それにつけても私が疑問としたのは、昨年先遣隊として入つた十一戸が、今年から個人経営に移るといふことについてである。労力の不足、分散することによつての一層の弱まり、といふことは痛感してゐる筈なのに、なぜそのやうに個人経営にうつることを急がなくてはならないのであらう。一人や二人の家族労力をもつて、与へられた面積をこなし切れぬといふことはわかりきつたことなのに。(114-115頁)
島木は訪ねた開拓団のほとんどにおいて共同経営から個人経営への移行が進められているのを見た。「第一次〔1932年入植〕から第五次までの開拓団は大体においていはゆる個人経営の段階に移つたといはれるところである」(16 頁)。その根底には日本政府の「満洲開拓政策」があると島木は指摘する。
日本の指導者たちによつて定められた、満洲農業開拓の根本方針の第一には、
「自家労力を本位として耕作し且つ経済的に成立する自作農を設立すること」
と、いふことがあげられてゐるからである。ここでは何等かの集団農場のごときものが考へられてゐるのではない。根本方針はあくまでも自作農主義である。(17-18頁)
島木はこの「自作農主義」政策が満洲農業開拓を困難に陥れている根本的な問題だとして、次のように提言している。
ここでは私はただこれだけのことを言つておく。……今まで、発展の最後の形態として目ざされて来た、個人経営の組織は厳密に再検討されねばならぬといふことを。……新しい共同経営の形態が取つて代らねばならぬ。従来、個人経営に移行する過渡的段階としてのみ存在した共同経営を、永続的なものとして強力に組織化せねばならぬ。このことなくしては北満の農業的開発も、開拓民の経済的自立も、進んでは彼等の使命の遂行も不可能であらう。(89頁)
(3)満蒙開拓青少年義勇軍勃利訓練所
5月10日、前日、龍爪開拓団(付図の④)に一泊した島木は龍爪駅からジャムス(佳木斯)行きの汽車に乗り、勃利駅で下車した。満蒙開拓青少年義勇軍の勃利訓練所を訪ねるためである。勃利の町にある勃利訓練所出張所に行くと、丁度この日、大陸開拓文芸懇話会から派遣されていた伊藤整、福田清人、湯浅克衛の3人もここに来たが、既に勃利訓練所に向かったということであった(128頁)。しかし、この日はもう夕方になっていたので、島木は勃利の町の「〇〇ホテルといふのにとまつた。名前はホテルだがむろん大へんな宿屋である」(131頁)。
翌日、勃利の町から38キロメートルも離れた勃利訓練所にトラックで向かった。その道路も満蒙開拓青少年義勇軍の訓練生たちが切り開いたものであった。この訓練所の訓練生は400人ほど、東北地方の出身者が多かった。朝は5時起床、夜は9時消灯で、1日の時間割は農耕4割、軍事教練4割、学科2割であった。
客(島木)が来たということで、その夜、各小隊から数人ずつ訓練生が集まって、集会が持たれた。中隊幹部も出席した。はじめは口が重かった訓練生も次第に緊張が解けて、いろいろと率直な話をするようになった。「何よりも先に彼等が語つたのは、苦しかつた去年の思い出だつた。……昨年四月、彼等ははじめてこの地にはいつて、無人の原野に、天地根元作りの家をつくり、羊草〔水草の一種〕を地べたに敷いて寝たのである。天地根元作りといふのは、一棟の長さが五十米もある掘立小屋の一種である。雨は漏るといふよりは、むしろ降る方だつた」(145-146頁)。それから、「配給が円滑を欠き、食料の輸送さへもとだえること」があり、「パイメンや粟や羊草の水炊きだけで十三日間も凌いだことさへあつた」。「雨季にはいり、真夏にはいると、赤痢患者が続出した。赤痢患者の糞と小便とが雨に溢れて流れ出すなかに彼等は右往左往した。昨日までの僚友の死体を裸にして雨のなかに運び出さなければならなかつた時の気持は忘れられぬと言つた」。「野糞に行くときには、左手に雨傘を持ち、右手に団扇を持ち、口に塵紙をくわへて行くのだつた。雨の日の野のなかの蚊やあぶやその他血を吸う虫のしつこさは想像のほかである。戦闘帽の上に、手ぬぐひを五枚も重ねなければ刺されるのである」。こんなことが口々に語られた(145-146頁)。
訓練生たちは最後にこう訴えた。
これは故国の人々に言ひたいが、県庁も村も、国策だ国策だといつて我々を送り出しておきながら、送り出したあとは全く知らぬふりである。手紙は一本も来ない。出しても返事がない。〔中略〕馬に乗り七本も旗を立てて駅まで送つてくれたがあとはかへり見られない。忘れられるのが一番つらい。一生懸命にすすめた人がさうでは問題にならない。兵隊さんに慰問袋は来るが、我々には来ない。しかし、送られる時には、すべて兵隊なみだつたのである。(151頁)
島木は満洲開拓政策の一つの柱とされていた満蒙開拓青少年義勇軍の実態がこのようなものであることについても、認識を深めていった。このことが、島木の満洲開拓政策に対する第三の批判点となったのである。
4 『満洲紀行』に対する評価
島木健作の『満洲紀行』はその鋭い「満洲開拓政策」批判のために一部の満洲開拓関係者の反発を招いたようだが、高く評価する人々も多かった(289-290頁)。
後に「山月記」や「李陵」など、中国古典に材をとった作品で知られるようになる作家、中島敦は、1941年12月8日、太平洋戦争開戦の日、まだ南洋庁の職員として「南洋群島」のサイパン島にいた。中島敦はその日の日記に次のように書きつけている。
午前七時半タロホホ行のつもりにて〔南洋庁サイパン〕支庁に行き始めて日米開戦のことを知る。……小田電機にて、其後のニュースを聞く。……ラジオの前に人々蝟集、正午前のニュースによれば、すでに、シンガポール、ハワイ、ホンコン等への爆撃をも行えるものの如し。宣戦の大詔、首相の演説等を聞いて帰る。午後、島木健作の『満洲紀行』を読む、面白し。蓋し、彼は現代の良心なるか。(『中島敦全集2』筑摩文庫、298頁)
太平洋戦争勃発という緊迫した日の午後に、中島敦は島木健作の『満洲紀行』を読み、「蓋し、彼は現代の良心なるか」というほどの感銘を受けたのである。そこには、1年ほどの「南洋群島」生活を通して、中島が日本による「南洋群島」支配に批判的になっていたことが反映されているのであろう。
田村泰次郎も『わが文壇青春記』の中で、次のように書いている。
〔昭和〕十四年夏の〔大陸開拓文芸懇話会から派遣された〕大陸旅行は、伊藤整、福田清人、田郷虎雄(劇作家)、湯浅克衛、近藤春雄(ナチスの研究者で、大陸開拓文芸懇話会は彼の肝煎りで出来た〔近藤は当時の拓務大臣・八田嘉明の甥で、拓務省と作家たちの仲介をした〕)たちと一しょだった。〔中略〕
この旅行では、やはり、〔大陸〕開拓文芸懇話会の会員で、私たちとは別に、一人で開拓地をまわっていた島木健作と、新京〔現、長春〕で出逢った。島木はこの旅の収穫から、帰国して、「満州紀行」、「或る作家の手記」を書き、当時の浮かれ気味の大陸進出の風潮に対し、頂門の一針として文学者の見識のあるところを見せた。(34-35頁)
田村泰次郎は、戦後、『肉体の門』(1947年)などでよく知られるようになり、「肉体派」などと称されることもあったが、島木健作の満洲開拓にかんする「見識」を高く評価していたのである。それは、田村が1940年に応召し、敗戦までの5年間ほど華北各地を転戦したという体験と結びつくことなのであろう。
おわりに
島木健作の作家生活はほぼ10年という短いものだったが、その割には多作であった。彼の多くの作品の中でも、香川での農民運動における経験をもとにした『生活の探求』(河出書房、1937年。『続・生活の探求』河出書房、1938年)は当時としては珍しいほどのベストセラーとなった。これらの作品を通して、島木は官憲の「保護観察」下にありながらも、一種の流行作家となっていったのである。
しかし、島木の多くの文学作品以上に評価されるべきなのは『満洲紀行』という旅行記だと思う。国策として推し進められていた満洲開拓に対して、島木の『満洲紀行』以上に鋭い批判を加えた著作は他には存在しないといってよいであろう。当時の天皇制国家権力による狂暴な言論弾圧下において、「転向作家」・島木がこれだけの国策批判の書を著したということは評価すべきことだと思う。たとえ、満洲開拓そのこと自体を帝国主義的対外侵略として断罪する文言は見られないとしても。
島木健作は、実質的な日本敗戦の日、1945年8月15日から僅か2日後の8月17日に死去した。当時、島木は鎌倉に住んでいたので、川端康成、小林秀雄、中山義秀、久米正雄、高見順など鎌倉在住の作家たちがその死を看取った。島木のためにいろいろと苦労をかけられた母親の姿も枕頭にあった。

(「世界史の眼」No.60)