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蓼科の近代史 Ⅲ(下)
―白樺湖の築造と京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』
小谷汪之

はじめに
1 「鳥の城」の事件
2 池の平をめぐる「山論」
3 白樺湖の築造
(1)温水溜池としての白樺湖
(2)白樺湖築造における曲折
(以上、前号)
4 白樺湖の築造と「鳥の城」
5 「鳥の城」と「死の概念」
おわりに
(以上、本号)

4 白樺湖の築造と「鳥の城」

 白樺湖築造についての『陰摩羅鬼の瑕』の記述はかなり長く、詳しい。それは、白樺湖築造の経緯がこの小説の主題と密接にかかわっているからであろう。白樺湖築造と「鳥の城」の関係について、『陰摩羅鬼の瑕』では、「伊庭」元刑事の独白の形をとって、 次のように書かれている。

 鳥の城の住人は、多分貯水池造りには全く関与していない筈だ。目の前に湖が出来上がっていく様子を、窓越しに眺めていただけなのだろう。
 彼かの家は入村式をしていないと聞いた。 
 池の平に入植してきたのが何時いつ頃のことなのかは能く知らないが、その際も引受人を立てていないと云うし、然しかるべき手続き―勿論もちろん法的なそれではなく慣例としてのそれなのであるが―も、してはいないようだった。当然、鳥の城の住人は村役となることもないし、村の組にも入っていない。村の行事や寄り合いに顔を出すでもない。オテンマと呼ばれる村の公的な課役も免れていた[長野地方では、道や用水路の整備などのような村の共同作業をテンマ、オテンマといった。伝馬から派生]。
 そこは―鳥の城と呼ばれる建物とそこに暮らす住人達は―共同体から完全に孤立していたのだ。
(『陰摩羅鬼の瑕』248~249頁)

 このように、『陰摩羅鬼の瑕』において、「鳥の城」は白樺湖を最終的に自力で完成させた地域住民たちの「共同体」からは完全に孤立した存在であり、逆から言えば、「鳥の城」は、地域住民たちにとっては、単に異様で不可解な他所者にしか過ぎないものとされているのである。

 そこ[鳥の城]は村ではなかったのだ。
 行政区画上の所番地―住所のことを云っているのではない。共同生活体としてのムラの一員ではなかった、と云う意味である。
 ムラは一緒に生きる。一緒に死ぬ。
 単に結束しているのではない。運命を共有しているのだ。だから国が見放しても湖なんかを造ることが出来る。木場は先程、湖は地元民の努力の賜物たまものだと云うようなことを云っていたが、その物云いは土地の者の耳には別の聞こえ方をする。
 それは多分、ムラが決め、ムラの意思でムラとして行動したからこそ出来たことなのだ。村の共有林を伐採ばっさい売却して財源を確保し、村の若衆や男衆を労働力として成した事業―と云うことなのだろう。
 そうでなければ―個人や家単位に判断が委ねられていたのでは、幾ら利害関係が一致していたとしても意志統一は難しいし、財源も労働力も確保は出来ない。
(『陰摩羅鬼の瑕』247~248頁)

 白樺湖築造についての『陰摩羅鬼の瑕』の記述が長く詳しいのは、白樺湖を自力で完成させた地域住民の「共同体」(ムラ)の強固な団結力を強調するためであろう。それとの対比において、「共同体」(ムラ)から完全に孤立した「鳥の城」の異様さ、不可解さが際立って見えるようになるからである。

5「鳥の城」と「死の概念」

 『陰摩羅鬼の瑕』の主題は「死の概念」(1,121頁)なのであろうが、この小説の最後の方で明らかにされる「由良伯爵」家三代目の「死の概念」は極めて異様で不可解である。この異様で不可解な「死の概念」は「鳥の城」の異様さ、不可解さと深くかかわっているとされているようである。

 伯爵にとっては、
 生きることとは存在することなのだ。
 そして存在しなくなることが死ぬことなのだ。
 伯爵にとっての殺人とはつまり、人間をこの世界から消滅させてしまうことであり、そうでなければ人間の形を失わせてしまうことなのである。人間の形をして此の世に存在して居る以上、伯爵にとってその人は生きて居るのだ。
 生命いのちのあるなしは―。
 関係ないのである。存在するモノは総すべて生きて居るのだ。草も木も花も机も椅子も布巾ふきんも階段も、何もかも、生きて居る。
 机は、机として、生きて居る。
 布巾は布巾として生きて居る。
 机が壊れてしまえば、それは机としては死んだことになるが、木材としてはまだ生きて居る。燃えてなくなってしまった時―それは完全に死んだことになる。人間も―同様だ。
(『陰摩羅鬼の瑕』1,122~1,123頁)

 このような異様で不可解な「死の概念」が生まれる場は「鳥の城」のような異様で不可解な空間でなければならないというのがこの小説の構想なのであろう。「伊庭」元刑事は初めて「鳥の城」に入ったときの印象をこう語っている。

 ―そこは。
 化物屋敷だ。人なんか住んじゃいない。
 あの館は。[中略]
 そう、あの光景は。
 或る意味狂気の沙汰だ。[中略]
 鳥が。
 鮮明に思い出した。
 鳥が、到るところに鳥が。
「こう、屋敷中に、馬鹿みたいに鳥の剥製が並んでてな。鬼魅きみが悪いったらないのよ」
「屋敷中に?」
「ああ、それも百や二百じゃない。もう数え切れない程だった。俺も、一緒に行った同僚も、……すっかり吞まれちまった」
「呑まれた」
「場の雰囲気によ。だって、考えてみろ。剥製と云やァ死骸だろうが。それが何百と並んでいるんだぞ。鬼魅きみが悪いや。城みてェに立派だが中には鳥しかいないのよ。だから―鳥の城だったんだな」 
(『陰摩羅鬼の瑕』253~254頁)

 「鳥の城」に並べられている無数の鳥の剥製は、博物学者として少しは知られていたとされる「由良伯爵」家の二代目が金にあかせて世界中から掻き集めた珍しい鳥を、邸内に住まわせていた剥製師に剥製にさせたものということである(前述のように、「由良伯爵家」二代目は陰摩羅鬼を思わせる偽物の鶴の剥製を作らせたことが発覚して、博物学者としての経歴を絶たれ、三代目の成人を待って自殺したとされている)。

 「鳥の城」で生まれた「由良伯爵」家の三代目は、病弱だったこともあり、20年間「鳥の城」からほとんど一歩も出なかった。三代目は無数の鳥の剥製に囲まれて育ち、外の世界のことをほとんど何も知らなかったのである。それで、三代目はこれら無数の鳥たちを「生きて居る」ものと思うようになったということなのであろう。鳥(モノ)の形をとって此の世に存在して居る以上、それらの鳥(モノ)は「生きて居る」のだという三代目の「死の概念」は、「鳥の城」と呼ばれた「由良伯爵」邸のこのような異様で不可解な空間において形成されたとされているようである。

おわりに

 白樺湖の「建設当時には観光に利用する意図は全くなく、誰も今日のように観光で発展するとは思ってもみなかったようである」(『茅野市史 下巻』763頁)。それにもかかわらず、1950年代後半から、白樺湖一帯は観光地化し始めた。「八子ヶ峰から見る湖底に沈んだ音無川の川筋や、大門街道の道筋がはっきり確認できるほど湖水は澄んでいて、水没した白樺林の先が湖面に突き出て神秘的な美しさをたたえていた」(『茅野市史 下巻』763頁)という魅力的な景観が観光客を呼び寄せたのであろう。

 その頃から、貸ボート業が盛んになり、湖面には多くのボートが浮かぶようになった。ニジマス、ワカサギ、鯉の養殖も始まって、観光客を引き寄せた。湖岸では、農耕用の馬を農閑期に有効活用する観光馬車業が広まった。白樺湖周辺の山の斜面には多くのスキー場が開設され、1960年代のスキーブームに乗って、大勢のスキー客が訪れるようになった。

 観光客の増大に伴って、白樺湖周辺には大きな旅館やホテルなどがたくさん建設されていった。こうして白樺湖周辺はすっかり様変わりしてしまったので、もしそこに「鳥の城」が本当にあったとしても、もう「異様に目立つ」ということはなかったであろう。

 しかし、2000年代になると、白樺湖の観光業は衰退しはじめ、廃墟化する旅館やホテルが出始めた。白樺湖の観光開発は、主として、この周辺一帯の土地を所有している柏原財産区(北山村柏原区の単独財産区。財産区については、拙稿「蓼科の近代史Ⅰ―満洲開拓と戦後開拓」参照)によって行われてきた。その観光開発の方式が時代状況の変化に適応できなかったことも白樺湖観光業衰退の一因とされている。それに、国内観光業の不振やスキーブームの衰退が追い打ちをかけたのであろう。

 ところが、2020年代に入ると、白樺湖の観光業は復活し始めたようである。同じく茅野市大字北山にある蓼科湖周辺でも、一時、観光業の衰退が見られ、人影もまばらになったが、近年、同じような観光業復活の動きが見られるようである。コロナ禍や円安の急激な進行によって外国旅行に行く日本人が減少し、その結果、日本人観光客の国内回帰が起こったということなのであろうか。

(完)

(「世界史の眼」No.79)

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書評:水谷智・馬路智仁・山田智輝編『トランスインペリアル・ヒストリー 植民地主義への新たな視座』(人文書院、2026年)
木畑洋一

 世界の現況を反映する形で、最近帝国史研究が盛んになっているが、本書はその流れに一石を投じる野心的な論文集である。編者の一人水谷智氏は、2018年に刊行された、日本植民地研究会編『日本植民地研究の論点』(岩波書店)に寄稿した研究動向紹介「「間-帝国史trans-imperial history」論」で、「間-帝国史」という研究分野の確立に向けて取り組んでいることを宣明していた。その努力の一つの成果が本書である。「間-帝国史」という少々座りの悪い日本語でなく、国際的に研究が進んでいるトランスインペリアル・ヒストリー(以下TIHと略記)という言葉がそのまま用いられているが、適切な選択である。水谷氏の研究プロジェクト自体国際的な広がりをもって取り組まれており、TIH研究を国際的に主導するダニエル・ヘディンガーとナディン・ヘーという二人の研究者も中心的な筆者となっているのである。

 本書では、序章「「トランスインペリアル・ヒストリー(TIH)」とは何か」を編者3人が、第1章「トランスインペリアル・ヒストリー」をヘディンガー、へーの両氏が執筆し、TIHというアプローチが何を意味するかを解説している。重なりあうところが多いこの二つの章の内容を評者なりに少し強引にまとめてみれば(両章で提示された豊富な論点の内、省略しているものもある)、次のようになろう。

1)対象としての複数帝国:これまでの帝国史研究では多くの場合ある特定の帝国が研究対象とされていたが、TIHは一つの帝国で完結するのでなく、複数の帝国を同時に扱う。
2)新たな対象空間設定:複数帝国のはざまに置かれた地域や複数帝国を包含する空間など、これまでの帝国史研究で等閑視されてきた空間をも対象とする。
3)相互関係の動態的把握:TIHはさまざまな事象の相互関係を複数帝国にまたがって扱うが、その場合、対象の可変性に留意しつつ、動態的な把握を行う。
4)新たな比較の視座:これまでも複数帝国間での比較という作業は行われてきていたが、それはいわば静態的に行われるきらいがあった。TIHでは、相互認識や越境的な関係を重視した動態的な比較がなされる。
5)非国家的主体への着目:帝国運営に関わる国家的な主体以外のさまざまな人びと、とりわけ帝国の草の根の次元を構成する支配される人びとが重要な研究対象となる。
6)反植民地主義の重視:TIHは帝国支配に関わる事象も抵抗に関わる事象も扱うが、とくに反植民地主義とその運動の連関性が重視される。

 このようにTIHの方法論を展開した冒頭部分に、第Ⅰ部「異民族統治をめぐる<比較のポリティクス>」、第Ⅱ部「帝国の<はざま>における経験―移動・帰属・入植」、第Ⅲ部「トランスインペリアルな被支配経験―もつれあう抵抗と連帯」という三部構成の本論が続く。以下では、とくに部の区別にはこだわることなく、各章についての簡単な紹介を、TIHという方法との関連に注目しながら行っていきたい。

 第2章フロリアン・ヴァーグナー「リベラルな帝国とファシスト帝国の境界を曖昧にする」は、1893年から1949年まで存在した国際植民地研究所(ICI)に集って植民地支配に関わる「知の交換と産出に携わった」(81頁、以下頁は省略)人びとが、原住民社会についてどのような情報の交換をし、どのような方策で植民地主義を実践しようとしたかを検討する。ICIが関心を寄せたのは、植民地農村の協同組合や都市の手工業組合であり、それとの関連で、大戦間期には、イタリアのファシスト体制がとっていたコーポラティズムが着目された。こうした国際組織の研究は従来もなされてきたわけで、TIHとして行うとなれば、それなりの独自性が求められるが、コーポラティズムを推賞したインド(ポルトガル領ゴア)出身の経済学者フレッペル・コッタについての議論(96-97)などを除いて、残念ながら本章ではそれがうかがえなかった。なお、著者はICIと日本の関係(柳田国男もICIの日本人会員三人のうちの一人であった)にも注意を払っている。ヘディンガー、ヘーの両氏もそうであるが、日本帝国の問題を巧みに取り入れることができる外国人研究者をそろえているのは、本書の強みであろう。

 第3章ダニエル・ヘディンガー「ファシスト国際主義」は、『枢軸―ベルリン・ローマ・東京 1919―1946年』(人文書院、2025)の著者による、ファシズム運動の国際的連携をめぐる論考であり、イタリアのファシズムを中心として日本の汎アジア主義運動にも周到な目配りをした議論が展開されている。ここで示されているファシスト国際主義の構図自体はきわめて具体的であり、読者はその消長過程についてのイメージを抱くことができる。その反面、国際ファシズムという概念とトランスインペリアルという概念の間の関係については、分りにくさが残るという感が否めない。帝国主義とファシズムの間の関連に留意しつつトランスインペリアルという問題を追求するなかで、国際ファシズム運動がどういう形で位置づけられるのか、についての説明が欲しかった。

 第4章馬路智仁「≪帝国知翻案者≫の可能性」は、国際関係思想史家による、TIHへの思想史的接近についての方法的提言である。ここで提示される方法は二つで、一つは≪比較のポリティクス≫、今一つは≪帝国知翻案者≫である。≪比較のポリティクス≫は、歴史のなかで実践された帝国間の比較作業に迫る方法であり、そうした比較などの結果がどのようにその実践者の帝国構想のなかに織りこまれていくかを「翻案」という作業などに着目しつつ分析していくことが、≪帝国知翻案者≫としての対象に迫る方法である。著者がTIHとしてより可能性が大きい方法として提起するのが後者であることはいうまでもない。それぞれについて、具体的な事例が挙げられているが、共通して取りあげられているのが矢内原忠雄の帝国論であり、違いが説得的に提示されている。帝国をめぐる言説を展開し、さらに帝国運営の実際にも関わったさまざまな人びとについて、この方法を適用することは、確かにTIHに思想史的広がりを付与していくことになろう。

 第5章東栄一郎「入植者植民地主義」は、近年注目が深まっている入植者植民地主義論がイギリス帝国中心的視点を取りがちであることを批判してその是正が必要であるとしつつ、さまざまな入植者植民地主義の間の絡まり合いに着目するTIHとの組み合わせが重要であると説く。そして、その具体的事例として、著者の主著『帝国のフロンティアを求めて――日本人の環太平洋移動と入植者植民地主義』(名古屋大学出版会、2022)でも検討されている、アメリカに入植していた日本人がアジアに回帰して日本の植民地拡大に寄与していく問題を取りあげる。入植者植民地主義論とTIHという方法的視座を結びつけることがその双方を豊かなものにするのは確かであり、大きな可能性をもつ提言であると感じた。

 第6章鶴見太郎「三つの帝国のはざまで」は、シオニズムの生成と展開を、ロシア帝国、オスマン帝国、イギリス帝国という三つの帝国が競い合う空間のなかに位置づけていこうとする試みである。著者は強調しないものの、これはオーストリア・ハンガリー帝国やドイツ帝国も視野に入ってくる枠組みであり、TIHという方法の有効性がよく示されている。ただ、第5章との関連では、イスラエルがガザやヨルダン川西岸で見せている「入植者植民地主義」の様相が、章の最後のところで触れられてはいるものの、シオニストが経験してきたトランスインペリアルな空間の規模感覚の問題に回収されてしまっているようにみえるのは残念である。トランスインペリアルな関係性のなかで展開してきた「入植者植民地」の歴史が、現在パレスチナの地で集中的に発現しているという点に、今少し踏み込めたのではないだろうか。

 第7章増渕あさ子「日米帝国のはざまで」は、沖縄からハワイへの移民の子として生まれた比嘉太郎という人物に焦点をあてて、第二次世界大戦期の彼の行動の軌跡(米軍の一員としてのイタリア戦線での従軍、日系人強制収容所での戦争協力姿勢喚起のための演説活動、沖縄戦期における沖縄への駐留)に重点を置きながら、「彼の主体性や帰属/疎外の意識がどのように揺れ動いていたか」(244)を検討する。TIHは、複数の帝国の力が交錯したり、複数の帝国のはざまに置かれたりしている空間に生きた非エリート層の人びとの生き様を重要な研究対象にするというが、「沖縄人」であることを意識しながらハワイという「故郷」を重視しつづけた比嘉の姿を描いた本章はそのような方向性をよくあらわしている。そうした比嘉の人種意識が揺れ動いていたことについても的確な分析がなされており、近現代世界において重層的な形でひろがる人種主義の様相に迫っていくのにTIHがきわめて有用であることが示されている。

 第8章水谷智「トランスインペリアル・ヒストリーからみた反植民地主義」は、反植民地主義の主体となった人びとの、異なる帝国の境界をこえたつながりをたどるなかで、TIHの射程を浮き彫りにする試みである。評者も、イギリス帝国史研究のなかで、アイルランドのナショナリストとインドのナショナリストの関係の重要性などを指摘してきたが、水谷氏は、TIHはそうした一帝国内に限られた関係をこえた複数帝国間での反植民地主義の連動に迫るものであるとして、具体的素材として、インドのナショナリストと日本帝国の関係を扱っている。日本の汎アジア主義を支持するインド人ナショナリストもいたものの、植民地支配国としての日本を批判し、日本に支配される朝鮮の人びとに共感したナショナリストも多かったとして、その代表例として詩人タゴールを取りあげるのである。この事例研究は、TIHの意味をよく示すものとなっている。ただ、たとえばタゴールを取りあげるとなれば、日本帝国との関係だけでなく、フランス帝国との関係も問題となりうるわけであり(タゴールが朝鮮の人びとに「東方の燈火」という詩を送った1929年という年の重要性を著者は強調しているが、その年に彼は仏領インドシナを訪問し、ベトナム人と交流した)、より多面的な形でTHIの構図を追求すべきではないか、という感が残った。

 第9章山田智輝「請願と出版文化」は、第一次世界大戦期までドイツの植民地であったトーゴが、大戦後国際連盟のもと英仏間に分割されて委任統治領にされていくにあたり、フランスの統治下に入ることを嫌った人びとからイギリスの政府や経済界、さらに国際連盟に対してなされた請願活動を分析する。こうした植民地住民の動きは、TIHの対象として確かに興味深い。また「他帝国の近隣植民地を中心とする地域的な出版文化を活用」する(304)という点もTIHのアプローチに即する重要な着眼点と考えられる。

 第10章呉叡人「相互的な主体化への道」は、すでに公刊されている中国語論文の翻訳である。著者は、イギリス帝国、日本帝国、中国帝国との関係に留意しながら、台湾と香港の近現代史を、人びとの主体形成という問題に即して検討していく。それによれば、台湾での政治的主体の形成は日本による植民地統治下で起こったのに対し、住民に植民地協力者としての性格が強かった香港における主体形成は冷戦期、それも1960年代以降を待たねばならなかった。著者の議論はきわめて明快で、台湾と香港の間の周到な比較によって支えられているが、これをあえてTIHと呼ぶ必要があるのかという点については、疑問を覚えざるをえない。相互の連関や交流、さらには相互参照といった局面がさらに示されるのであれば、TIHの好例になるとは思われる。ただ、複数帝国のはざまに置かれた地域のすぐれた比較研究として、本章の価値が高いことは確かである。

 第11章中尾沙季子「抵抗の連帯か帝国の拡張か」は、パン・アフリカ主義の初期を先導したアメリカの活動家たち、とりわけブッカー・T・ワシントンが推進していた黒人に対する実業教育活動である「タスキーギ・モデル」のリベリアへの導入問題を中心として、章タイトルに示されるアフリカン・アメリカンとアフリカとの関係がはらむ両義性に迫る試みである。帝国的性格をもったアメリカのアフリカへの関心と、パン・アフリカ主義を担ったアフリカン・アメリカンの思想と行動が、どのように絡み合っていったかという問題はすこぶる興味深いが、著者自身が「おわりに」で触れているような諸点―ハイチがしばしば参照軸となった意味、「黒人」という人種概念の機制、日本の植民地支配への投影―をより詳しく論じていけば、TIHという方法をより生かしていくものになったであろう。

 このように、本書には、TIHの日本におけるマニフェストにふさわしい力作が並んでいる。全体を通して評者が感じたのは、TIHというアプローチを生かすことができる研究対象の選択が重要だという点である。少々乱暴に整理してみれば、中にはTIHを意識することによって初めて浮かび上がってくる研究対象(たとえば第7章)がある。一方、これまでもさまざまな形で議論されてきた対象にTIHを用いることで、新たな相貌が見えてくる研究対象(たとえば第6章)もある。さらに、従来もTIHに近い形で研究されてきたもののTIHを意識することで視野をさらに広げられる研究対象(たとえば第8章)もある。TIHの追求によって、さまざまな形での研究の開拓が見通せると思われるのである。そうした研究にあたっては、複数言語の必要などから、言語をまたいでの共同研究が必要であることは、編者たちが指摘している通りであるが、その実践例を本書がよく示していることを、最後に指摘しておきたい。

(「世界史の眼」No.79)

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蓼科の近代史 Ⅲ(上)―白樺湖の築造と京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』
小谷汪之

はじめに
1 「鳥の城」の事件
2 池の平をめぐる「山論」
3 白樺湖の築造
(1)温水溜池としての白樺湖
(2)白樺湖築造における曲折
(以上、本号)

4 白樺湖の築造と「鳥の城」
5 「鳥の城」と「死の概念」
おわりに
(以上、次号)

はじめに

 京極夏彦の『陰摩おんも羅ら鬼きの瑕きず』(講談社文庫版、2006年)は白樺湖(長野県茅野市大字北山。湖面の標高約1,400メートル)の周辺を舞台とする小説である。「陰摩羅鬼」とは、もともとは仏典(蔵経)に出てくる妖怪で、『淸尊録』(宋代)のような中国の妖怪書を通して江戸時代に日本に入った。死亡直後の遺体の気が変じたものとされ、鶴のような姿をしているという。ただし、本稿では、この妖怪が問題なのではない。この小説に描かれた白樺湖築造にかかわる近代史が本稿の主題である。

 『陰摩羅鬼の瑕』の設定では、明治20年(1887年)、後に白樺湖が築造されることになる池の平の地(当時、長野県北佐久郡芦田村)に、「由良伯爵」家の初代が豪壮な洋館を建てた(1,152頁)。その40~50年余り後、「由良伯爵」家の三代目の時代に、この洋館で花嫁が結婚式の翌朝に死亡する事件が連続して起こるようになったというのがこの小説の筋立てである。

 池の平は蓼科山の西麓に広がる湿地帯で、いわゆる高層湿原に分類される。高層湿原というのは、枯死したミズゴケなどが泥炭となって大量に蓄積されて周囲よりも高くなったために、地下水が地表まで届かず、雨水のみによって維持されている湿原のことである。

 池の平からは音無川が南に流れ出し、芹ケ沢の付近で上川かみがわに合流する。上川は八ヶ岳連峰西側の冷山に源を発して、滝之湯川や音無川を合わせて西流し、茅野市域を時計回りに半円を描くように流れた後、流路を北西に変えて、諏訪湖の南端近くで諏訪湖に流入する。

 芹ケ沢から音無川を遡るように北上するのが大門街道で、白樺湖の西から大門峠を越え、旧中山道長久保宿西の落合追分で旧中山道に接続する。池の平の「由良伯爵」邸に行くには、中央本線茅野駅から芹ケ沢を経て大門街道に入るのが主要な経路と想定されているようである(図1「白樺湖関係図」参照)。ただし、中央本線が岡谷まで延伸され、茅野駅が開業するのは明治38年(1905年)であるから、それまではどういう経路で「由良伯爵」邸に行っていたのか作中に言及はない。

1 「鳥の城」の事件

 地元の人たちは「由良伯爵」家の豪壮な洋館を「鳥の城」と呼んでいた。この「お城」には漆黒の鶴(これは「由良伯爵」家の二代目が剥製師に作らせた偽物の鶴で、陰摩羅鬼を暗示しているようでもある)をはじめとして、無数の鳥の剝製が置かれていたからである。この「お城」で最初の花嫁死亡事件が起きたのは昭和5年(1930年)で、「由良伯爵」家三代目の最初の結婚式の翌朝に花嫁がベッドの上で死んでいるのを発見された。これを皮切りに、昭和9年(1934年)、昭和13年(1938年)と、「由良伯爵」家の三代目が次々と結婚式を挙げるたびに、結婚式の翌朝に花嫁が死体となって見つかった。昭和20年(1945年)、敗戦の年にも4度目の花嫁死亡事件が起こったが、連合国軍(米軍)の占領下でろくに捜査もできなかったらしいとされている。

 最初の花嫁死亡事件が起こったのが昭和5年(1930年)で、「今」から23年前のこととされているから、この小説の「今」は昭和28年(1953年)である。

 最初の事件があった時に、その捜査に当たった長野県警察部刑事の一人に「伊庭」刑事がいた。池の平の周辺に生まれ育ったらしい「伊庭」刑事は戦前の3件の花嫁死亡事件すべての捜査に加わった。しかし、日米開戦と同時に、長野県警察部を辞めて上京し、「工廠」で働いていた。戦後になって警視庁に採用され、5年間勤務した後退職して、「今」では東京で年金暮らしである。

 その「伊庭」元刑事の家に警視庁麻布警察署の「木場」という刑事が訪ねて来た。「木場きば」は「伊庭いば」と間違えられて、国家地方警察長野県本部からこの花嫁死亡事件について問い合わせを受けたので、「伊庭」のもとを訪ねたということであった。「木場」によれば、「今」、同じような事件が白樺湖畔の豪壮な洋館で起きそうだという。「由良伯爵」家の三代目が5度目の結婚式を挙げることになったからである。それを聞いて、「伊庭」は「だだっ広い荒野の外れに聳そびえる、石造りの建物」を思い出した。「伊庭」は少年時代に、「あれは御殿だ、お城だと聞かされていた」。「そんな立派な建物なのかい」と問う「木場」に、「伊庭」はこう答えた。「多少大袈裟おおげさかもしれないがな。そんな感じだ。こっち[東京]じゃ巨おおきい建物なんざ珍しくもないが、あの辺りにはない。だから異様に目立ったんだ」(『陰摩羅鬼の瑕』246頁)。

 この「木場」刑事の訪問がきっかけとなって、「伊庭」は事件の発生を未然に防ぐために、国家地方警察長野県本部に協力することになった。戦前の3件の花嫁死亡事件の捜査に当たった者が「今」の国家地方警察長野県本部には一人もいないというのがその理由であった(国家地方警察は1948年から1954年まで存在した過渡的な警察組織で、この小説の「今」である1953年はこの期間内に含まれる)。

 こういうことで、「鳥の城」には、国家地方警察長野県本部の刑事たちや「伊庭」元刑事だけではなく、某元子爵の息子という奇妙な自称探偵やそのお守役の鬱症状の作家、さらには怪しげな古本屋の主人などいわくありげな者たちが集まって、事件が起こるのを防ごうとした。しかし、結局、今回も同じような事件が起こり、花嫁は死亡してしまった。この件がどういう結末を迎えるのかということについては、『陰摩羅鬼の瑕』を読んでいただくとして、次節からはこの小説と白樺湖とのかかわりについて検討することとしたい。

2 池の平をめぐる「山論」

 白樺湖が築造されることになる池の平の地をめぐっては、南の柏原村と北の芦田村が江戸時代初期から争いを繰り返してきた。いわゆる「山論」(入会地抗争)である。南の柏原村は諏訪藩の領地内で、北の芦田村は小諸藩の領地内であったから、この争いは諏訪・小諸両藩の境界をめぐる争いでもあった。池の平周辺はちょうど分水嶺で、南流する川は最終的に諏訪湖にそそぎ、西流あるいは北流する川は最終的に信濃川に流入する。それで、諏訪・小諸両藩の境界になっていたのである。

 池の平をめぐる柏原村と芦田村の山論が史料に初めて現れるのは寛永14年(1637年)である。芦田村側の言い分によれば、この年、柏原村の庄屋弥兵衛が「麦草にて……材木をぬすみ切り候所を」、「芦田村の御鷹たか見の者が見つけ、材木を焼き捨て弥兵衛の馬二匹を取った」ということである。両村の山論は慶安3年(1650年)に再び起こり、芦田村の側は柏原村の者たちが「わがままに麦草御鷹たか山にて材木」を切り取ったとして、諏訪藩に訴えたが取り上げられなかったので、幕府に訴え出た。麦草(麦草平)というのは蓼科山南麓、池の平の東に位置する地域で、ここには小諸藩が鷹狩りに使う鷹のヒナを捕獲する鷹山があった。この鷹山の見張り役(御鷹たか見)を芦田村の者たちが務めていたのである。

 まだ幕府の裁許が出ていない延宝4年(1676年)、柏原村の者たちが麦草平で小屋掛けをして炭焼きをしていたところ、芦田村の者たち数百人が鉄砲6、70挺などをもって炭小屋を襲撃した。驚いた柏原村の者たちは逃げ出し、木炭2,000俵などが奪われた。翌、延宝5年(1677年)、幕府の裁許が下され、「小諸領申す所の屋しが峰[八子ヶ峰]境」を両村の村境とし、「諏訪領の者境越し立科山[蓼科山]の内に入るべからず」とされた。柏原村の側では、その後も芦田村との村境はもっと北であると繰り返し主張して争ったが、延宝の幕府裁許が変わることはなく、そのまま明治に至った(以上、『茅野市史 中巻 中世・近世』1987年、688‐693頁)。

 現在の地図を見ても、芦田村(現、長野県北佐久郡立科町)と柏原村(現、茅野市大字北山・柏原区)の境界はスズラン峠から八子ヶ峰に至る稜線上になっている。ただし、八子ヶ峰の西で境界が北に上がり、芦田側に食い込んでいる(図1「白樺湖関係図」参照)。これは、明治38年(1905年)、芦田村と北山村柏原区の間で、「芦田村字蓼科八ヶ野五、一五○ノ内、実測反別一○二町六反三畝一五歩」の土地を「四、一○五円四○銭」で北山村柏原区に売り渡すという売買契約が交わされ、明治45年(1912年)にその支払いが完了したので、この土地が北山村柏原区の所有地となったからである。「これが今日の白樺湖の一帯である」(『茅野市史 下巻 近現代・民俗』1988年、144頁)。ただし、白樺湖北部東側の一部の土地は芦田村の地籍(現、長野県北佐久郡立科町大字芦田八ヶ野)である。

3 白樺湖の築造

(1)温水溜池としての白樺湖

 前述のように、東京で隠居暮らしをしていた「伊庭」元刑事の家に警視庁麻布警察署の「木場」刑事が訪ねて来て、白樺湖畔の豪壮な洋館で事件が起こりそうだという話をした。その時の二人の会話の中で、白樺湖築造の目的や経緯が語られている。

 「伊庭」が池の平というのは「何もない処だぞと云うと、白樺湖があるでしょうと木場は云った」。「湖なんかなかったぞ」と「伊庭」がさらに言うと、「造ったんですよと木場は答えた」。それで、「伊庭」は、「そう云えば」と遠い記憶を思い起こされた。

 温水溜池造営事業を県と国が採択したのだと云うような話を聞いた記憶がある。国庫補助金も出るのだとか騒いでいたし、農林省の技師とやらが調査にも来ていたようだった。(『陰摩羅鬼の瑕』242頁)

 それで、「伊庭」は「木場」に尋ねた。

「そりゃ温水貯水池じゃないのか」 
「貯水池?さあ、俺は湖だと聞いたがね」
「いや、池の平ってのはあの辺一帯の水田の水源なんだよ。ところが音無川ってのは水温が低い。蓼科山から湧く水は、稲育てるには冷た過ぎるんだ。取り入れ口付近の稲はみんな水口みなくち立だちになっちまう」
「水口立ち?」
「実が付かないんだよ。黄金色の穂が垂れる時期になっても、青いまま突っ立っているわけだ。恒久的な冷害だな」
 そう。農家は困っていたのだ。少し気温が下がっただけで水田の半分近くが収穫出来なくなるような話も耳にした。そこで音無川を堰せき止めて池の平に温水用溜池を造ろうと云う計画が立ち上がったのだ。
(『陰摩羅鬼の瑕』243頁)

 白樺湖築造に関するこの『陰摩羅鬼の瑕』の記述は基本的には正しいが、もう少し詳しく年代などを入れると次のようになる。

 昭和13年(1938年)、北山村柏原区の総会で、水温の低い音無川を堰き止め、天日で水温を5度から10度上げるための温水溜池として、湖面面積36ヘクタールの貯水池を造成する計画が提起された。地元では、「北山村池の平耕地整理組合」が結成され、国や県に数度にわたって陳情を行った。その結果、「県営北山村他三ヶ村農業水利改良事業」として白樺湖の築造が行われることになった。「他三ヶ村」というのは、北山村より音無川・上川の下流に位置する米沢村、豊平村、永明村(1948‐1955年の間は、「ちの町」と称された)のことで、北山村を含むこれら4カ村の水田総計500ヘクタールに給水することを目的とする計画であった(これら4カ村の位置関係については、図2「茅野市域の村区分」参照)。この計画は国と県の承認するところとなり、昭和15年(1940年)3月、高さ11メートル、長さ70メートル、幅6メートルの堰堤築造工事が国の補助による県営工事として着工された。総事業費は24万円で、国から50%(補助金12万円)、残りは県30%(3万6000円)、地元70%(8万4000円)の負担とされた(『茅野市史 下巻』762‐763頁)。

 高冷地の多い長野県では、多くの川の水温が低く、そのまま水田に入れると稲の生育を阻害する恐れがあった。そのために、川の水を一度溜池に貯めて天日で水温を上げてから水田に給水するという方法が採られた。このような溜池は温水溜池と呼ばれ、長野県各地に広く見られる。『茅野市史 下巻』(685頁)には、現在の茅野市域にある18の温水溜池の一覧表が示されている。

(2)白樺湖築造における曲折

 こうして、白樺湖の堰堤築造工事が始まったのだが、順調には進まなかった。「伊庭」がこの「計画は頓挫とんざしたのだと思っていた。着工早早に戦争が始まっている筈だ。国が亡ぶかと云う戦いの最中に池堀りでもあるまい」と言うと、「戦後に工事再開して完成したんですよと木場は云った」。そして、「木場」はこう続けた

 何でもね、地元民が相当に苦労して造ったんだってェ話は新聞かなんかで読みましたがね。行政が手を引いた代わりに山の木ィ伐きって売ッ払って、それを財源にして近在住民自らが人足になって無休で工事やったとか―。(『陰摩羅鬼の瑕』243頁)

 この『陰摩羅鬼の瑕』の記述もほぼ正しいが、より詳しく言うと次のようになる。

 前述のように、昭和15年(1940年)に白樺湖の堰堤築造工事が始まったのだが、昭和19年(1944年)までに建設費のすべてを使い果たし、長野県は白樺湖堰堤築造工事を打ち切りとした。戦時の財政逼迫によることであろう。しかし、北山村柏原区の人たちはあきらめず、さらに必要となった建設費15万円を自ら負担し、労力は柏原区民と旧制諏訪中学校(現、諏訪清陵高校)生徒の労働奉仕に依拠して堰堤築造工事を続行した。旧制諏訪中学校の生徒たちが白樺湖堰堤築造工事に従事していたのは、学徒勤労動員によって諏訪鉄山(拙稿「蓼科の近代史Ⅱ―諏訪鉄山と連合国軍俘虜たち」参照)で働いていた旧制諏訪中学校の生徒たちの一部が白樺湖堰堤築造工事の方に回されていたからである(伊藤岩廣編『平和を今こそ―諏訪鉄山と捕虜収容所ものがたり』長野日報社、2009年、93頁)。「地元柏原区・[北山村池の平]耕地整理組合の熱意と努力、血と汗によって戦時下の諸困難をのりこえて」(『茅野市史 下巻』763頁)、白樺湖は戦後の昭和21年(1946年)になって完成に至った。しかし、堰堤からの漏水が激しかったため、昭和24年(1949年)には、堰堤の補強工事が県と地元有志の出資によって行われた(『茅野市史 下巻』763頁)。この補強工事については、柏原区民全員の賛同が得られなかったので、有志が代行組合を作って資金を調達したのである。こうして出来あがった白樺湖は今日なお、茅野市大字北山などの水田に水を送り続けている。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.78)

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「福祉への想像力」―書評:金沢周作他編『福祉の世界史』
後藤玲子

はじめに

 きわめてあたりまえのことだが,現に在る「福祉」は,だれかが,ここ,そこ,あそこで受けている福祉であって,概念としての福祉ではない.概念としての福祉がどこかに実在し,実際に観察されるわけではない.そうであるにもかかわらず,私たちはまたしても,福祉とは何か,を問う.そして,そのあるべく姿を問う.なぜか.おそらくそれは,目の前に苦しむ人がいるから,またしても現れるから.そして,いまある福祉のもとで,ひっそりと苦しむ人がいるおそれを,否定することができないからだろう.

 だれであろうと,福祉を必要とする人たちを,いつであろうと,どこであろうと,ほったらかしにはしない,そのためには,いったいどうしたらよいのだろうか.そんな祈りにも似た気持ちをもって本書を開いた.

1.豊かなケイパビリティ

 当初,本書から,縦・横の移動を自由に組み合わせながらゴールへと進んでいくボードゲーム(あるいは数学でいう格子経路)のような印象を受けた.その印象は,―各論考の独自性と完成度がきわめて高いこともあり―,小さな布地(キルト)を縦横に縫い合わせ,重ね合わせる壮大なタペストリーへと変わった.おそらく読み方に特定のルールがあるわけではないだろう.時系列的な流れをより全体的に俯瞰しようと,縦の「章」をつないで読むことも,福祉を支える背景思想をより総合的に理解しようと,横の「章」をつないで読むことも,許される.

 あるいは,索引を手引きとしながら,特定の項目を異なるキルトから拾い出し,異なる文脈をつなげることもできる.同種の主題を扱った論考(縦糸と横糸),ならびにコラムを重ね合わせて読み解くこともできよう.A.センの「ケイパビリティ(潜在能力)論」を専門とする私の脳裏にちらっと,「本のケイパビリティ」という語が浮かんだ.本書は実に多様な読み方を可能とする豊かなケイパビリティを備えた本である,と.

 例えば,「出入り自由な往来」に関心をもつ私は,「行き倒れ」の項目に眼を惹かれた.行き倒れとなった「無宿非人」を運ぶ駕籠は「町」の負担である一方,粥・薬等は幕府の負担であった(経糸3-5章「日本」),あるいは,行旅病人の救助については,救助地の府県が救助費用を負担することとされた(経糸4-6章「日本」)などの記述である.通常,保険と理解されることの多い医療保障のもつ公共性を示す貴重な断片である.

 経糸1-1章「先史時代」にも,人骨から単独歩行が不可能な外傷や病状を負った人への介護ケア(助け合い)が確認され,集団移動時には(被介護者自身の)個人搬送を伴ったと理解される,とある.これらは,現代,移動困難者の支援を行っている「同行援助」や「福祉有償運送事業」の担い手たち,NPO法人や市町村行政を勇気づけるに違いない.

 かくも豊かなケイパビリティを備えた本書であるから,異なる角度から書評が書かれるに違いない.より公平で中立的な本書の紹介は他に譲り,以下では,冒頭に記した筆者自身の関心と,経済哲学というバックグラウンドから,いくつかコメントするにとどめたい.

2.分析枠組み

 本書の分析枠組みは,次のようにまとめられる.

 まず,(1)本書の鍵となる「福祉」概念は,広く緩やかに,「人々が享受する,適切な生存・生活の質」,「適切ではないと判断された物質的・精神的な欠乏や不足や不安への対応全般」と捉えられる. 

 分析に当たって,本書は,(2)(福祉を担う)「人間集団の範囲と価値観,そして利用可能な手段を考慮に入れ」ながら,供給主体の複数性や「福祉の複合体」に着眼点を置く.

 叙述は,(3)対象の地域・時代の福祉を当時の概念や用語法を踏まえて描かれる.ただし,5つの時代区分,ならびに,四重のセーフティ・ネット(自助努力・助け合い・富裕者からの私的な慈善・公的な福祉)が,共通の「測り」(共通尺度)とされる.

 この枠組みのもとで,「各時代を代表する福祉の展開するひとまとまりの時空間」を「経糸」とし,「ある時期に広く共有された現象(宗教やイデオロギー,政治・経済的トレンドと福祉のかかわり)」を「緯糸」として,本書全体が編み込まれていく.

 本書の最大のメリットは,編者らがこのような分析枠組みを明示していること,それに呼応するように,他の論考が共通の枠組みと,類似した概念に依拠しながら,議論を進めている点にある.例えば,経糸5-7章「インド」には次の記述がある.「(特定カテゴリーの集団権益の保証から,権利に基づく個人の利益の保障へという変化は)チャリティ的なるものやインフォーマルな互助から,フォーマルな公的救済へと発展してきたものではない」,「(霊的な見返りを得たい人々の想い,社会奉仕活動により蓄財とのバランスを維持したい,政治的支持と引き換えに貧困対策を行う政府や政治家の利害,汚職のない公平な社会の実現を願う企業家など)異なる組織や個人の想い,思惑,利害が併存,対立し,時には絡み合うことでもたらされてきたのである」.

 とはいえ,すべての論考が共通の分析枠組みにすんなり収まっているわけでは毛頭ない.そもそも何を福祉と呼ぶのか,みなすのか.ここからそれぞれ論を起こし,その意味内容は一様ではない.「私的慈善」に対置する「公的福祉」を現わす言葉とする論考もあれば,端的に,「一般に社会的弱者への支援を福祉と呼ぶ」とする論考もある(経糸5-3章ドイツ).「どこで何があっても,すぐに緊急救援に駆けつける」活動こそを福祉の根幹だと認識していると指摘する論考もある(経糸5-6章イスラーム世界).「社会的救済機能を担った「福祉」はいわば普遍的な現象である」として,終始かっこつきのまま,「福祉」現象,「福祉」事情,「福祉」的活動を広く捉えようとする論考もある(経糸2-2章「ビザンツ帝国」,経糸2-1章西ヨーロッパ).「福祉」の語がまったく登場してこない―「慈善」はあっても―論考も少なくない.

 「慈善」については,おおまかな定義の一致があるように見受けられる.けれども,例えば,「慈善信託」のような事象には,給付型奨学金などの公益財団的な活動が入り込んでくる(経糸3-1章西ヨーロッパ,経糸4-1章イギリス,緯糸4-i(帝国主義・植民地主義)〔1〕イギリス).それらが教育・就労などの「機会の実質的平等」に資することは間違いない.あるいは,遺贈を託された行為主体の道徳性をめぐって,福祉と共通する困難さを内包していることも間違いない.だが,ときに生産性論理を超える価値や論理の追求へとわれわれをかき立てる福祉との間には,見逃すことのできない異質性があることは否めない.

 とはいえ,各論考は専門性の高い膨大な研究蓄積のもとに書かれているだけに,いずれも大変,興味深く,これらの異質性もまた,本書の統一性を損ねるどころか,むしろ編者らの意図をよりいっそう鮮明に浮かび上がらせることに成功しているといえるだろう.

3.障碍者福祉

 冒頭に記した私の関心から,もっとも興味深かったのは,障害者福祉に関する次のような記述である.「救済されるべき弱者は「条件つき」であった.例えば,生得の障害者は救済対象ではなく,排除の対象であり,彼らは最終的には殺害されるに至っている」とある(経糸5-3章ドイツ).「障害者を増やさない政策,それまで戦争障害者と労務災害障害者以外の,生得障害者を排除する論理にどう対抗するか」「「自立支援」という名のもとに個々人の努力を重視する政策ではなく,当事者に寄り添った公的支援をどのようにしていくのか」という問いかけは重要である(コラム5-②障害者福祉).

4.高齢者優遇

 儒教の思想で紹介された「ハンセン病患者への差別」と「高齢者優遇」とのコントラストが,上記の記述と響き合う(経糸1-3章中国).ハンセン病患者は罪状にかかわらず「定殺」(溺死の刑)とされる,対して高齢者は労役刑以上の罪を犯したとしても一般民衆と同じ手続きでは告訴されない,むしろ告訴により尊厳を傷つけた者の方に大逆不道の罪が適用される(言語的身体的虐待を行ったものも同様)という.これらをもとに,著者は,高齢者という弱者の立場は,一般の人々にとって,「自分ごと」として捉えやすいのに対し,疾病や障害,性差などは,「自分ごと」としては捉えづらいのでは,と問いを投げかける.

 宗教的な思想であれば,この難点を克服できるだろうか.宗教は,第三項を立てることにより,福祉の担い手と受け手の間にある非対称的関係性が,支配-従属,優位-劣位関係に転化することを食い止めてきたとある(緯糸2(世界宗教)〔2〕キリスト教,緯糸2(世界宗教)〔3〕イスラーム,経糸5-6章イスラーム世界など).富裕者はただ神に寄贈し,貧者はただ神から拝受する.神を挟んだ二者は,相互に比較不可能な存在として対等性を担保される.先に言及した「慈善信託」やワクフなどが,イギリスやイスラーム世界などで超国家的なしくみとして普及し,機能してきた(規模は大きいが組織化は進まない)一方,日本では根付きづらかった(行政的組織化がより強化であったが,「家」を超える贈与行為の規模はごく限られる)理由も,このあたりにありそうだ(経糸4-6章日本).

5.福祉供給主体の動機

 本書の重要な貢献は,福祉供給主体の動機について,コアとなるものを,さまざまな位相で,ほぼ体系的に網羅した点にあるだろう.例えば,「信託」の語は,国家間(宗主国と植民地など)や民族間(先住民と入植者など)の支配-従属,優位-劣位関係を律する倫理としても注目される.緯糸4-ii,トランスナショナル・ネットワーク[2]では,労働者インターナショナルの活動に献身したローザ・ルクセンブルクの言葉,「雲と小鳥と人の涙のあるところ,そこがすべてわが家である,と私には感じられます」が紹介される.さまざまな動機や目的で国境を越える,実に多様なネットワークの重層性と拡がりのあることが示唆される.ここには「自分ごと」かどうかを越える福祉の思想が潜まれているのかもしれない.残念ながら,今回は,これらの論考を十分に読み込むことができなかった.宿題としたい.

6.慈善と公的福祉

 本書の主題である慈善と公的福祉については,例えば,「民間慈善」対「権利」に関する「貧民救済論」(末広重恭)と「非貧民救済論」(肥塚竜)の論争が興味深かった(4-6章「日本」).前者は,民間慈善には「必要な人に届くとは限らない」不安定性があるため,むしろ,「救済を受ける権利」を全国民に確立すべきだと主張する.後者は,これを退けて,「裁判所に訴える権利」は全国民がもつといえるが,「救済を受ける権利」はそうはいえないと主張する.慈善については,「世の中には慈悲深い人もいればそうでない人もいる,法律で一定に制限することはできない」と流している(経糸4-6章日本).

 文字通り,すべての国民に,あるいは,すべての地球市民に,必要な人に必要なものが届くためにはどうしたらよいのだろうか.そう考えながら,頁をめくると,経糸5-5章アフリカの「底辺層は自らの生活世界の保護と拡充のために,多種多様な扶助のチャンネル(公的支援,市場原理の貸し出し,伝統的互助講の再編成版など)を自らの生活の必要に合わせて混淆させて,巧妙に対応していることがわかった」という言葉が眼に入った.

おわりに

 概念としての福祉を求める前に(そして,それを求めるためにも),ここ,そこ,あそこに在る(在った)個々の福祉をもっと学びとる必要がありそうだ.1つ1つのキルトを再度,丁寧に読み込みながら,本書との対話を継続していきたい.多くの問いとヒントを提示していただいたことに心からの感謝を表して,本稿の結びに代えたい.

(「世界史の眼」No.78)

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書評:ユヴァル・ノア・ハラリ著『NEXUS 情報の人類史』上下 柴田裕之訳(河出書房新社、2025)
加藤裕治

1. 情報メディア論の視点から

 恥ずかしながら、この『NEXUS 情報の人類史』(以後、本書)を読むまで、ユヴァル・ノア・ハラリの書籍は敬遠していた。当然、『サピエンス全史』『ホモ・デウス』といった大ベストセラーは知っていた。しかし、「石器時代から現代まで」を概観して記述するという方法(論)と、あまりに多くの人々が称賛することへの警戒感があった。

 何よりも、メディアテクノロジーや情報と社会の関係を語る本書が、私がこれまで参照してきたW.ベンヤミンやT.アドルノ、W.-J.オングやM.マクルーハン、また本書と近接する議論を展開するF.キットラーといった(情報)メディア論にほぼ言及がない点も、敬遠してきた理由である。確かにAIの時代への危機感はあるのだろうが、だからと言ってこれまでの学術的な蓄積を参照せず議論を進めてしまうことこそ、AI時代の問題点でもあるようにも感じる。ただし、そもそもハラリの学術的バックボーン(専門は中世史や軍事史)が異なるので、この点を問題にするのはフェアではないかもしれない。

 本書で初めてハラリの著作に接し、改めて『サピエンス全史』(以後、『全史』)と比較してみたのだが、本書は構成がいささか複雑である。

 ハラリの名を一躍世間に知らしめた『全史』は、「虚構」という概念をもとに、改めて人類史を見直すという明快さがある。このハラリの姿勢は、現実主義やエビデンス至上主義といった価値観が高まる現代社会において、人間の(虚構を駆使できる)知性の可能性を論じるという批評性があったといえる。

 その一方、本書はタイトルの「NEXUS(ネクサス)」でまずつまずいてしまう。この言葉は一般的な用語ではなく、また(少なくとも私の知る範囲での)情報史やメディア論でも見かけない(ただし最終的にNEXUSは「つながり」程度の認識でも問題ない)。また邦訳のサブタイトルは「情報の人類史」だが、英文からの直訳は「石器時代からAIに至る情報ネットワークの小史」となる。「情報と情報ネットワーク」の違いは、「オールドメディア」の新聞では「記事と配信・配達網」の違いとなるので、本来はかなり異なる議論の対象である。ただしこの差異は、本書ではほとんど問題にならない。おそらく、メディアの伝達内容(知識や情報)と伝達方法(メディアテクノロジー)とを分けて考える議論では、AI革命を説明できないとハラリが考えているからだろう。

 AIが他のテクノロジーと異なるのは、AIが「自ら情報を分析するのに求められる知能を持っており、したがって意思決定で人間に取って代わることができる。AIはツールではない-行為主体」(上巻p.21)だからである。それゆえにAI時代の情報ネットワークは、「人間のものとは異質の知能の決定や目標によって制御されている」(下巻p.20)。情報(知識)の生成、情報に基づくネットワークの形成、そして意思決定自体が人間の制御を離れ、AIという人間の外側の他者=「エイリアン・インテリジェンス」に委ねられる社会へと変容する。本書のハラリの危機感は、AI革命へのこうした見立てから生じている。

 こうしたハラリの主張に対して、彼がAIテクノロジーをどれほど理解しているのかという批判は、あえて脇においておこう。現実的に日々、ハラリの認識に頷いてしまう事態に遭遇するからだ。AIをすでに多用している学生たちを前にして、大学教育の変化は不可避だと感じる。研究のコミュニティでは、AIの活用や危険性、AIとの付き合い方の議論が盛んだ(これはAIに対する人間による自己修正メカニズムの作動といえる)。

 しかし一方で、AI革命に対する本書の見解に対して、判断するための材料がまだ足りないのではないかとも感じる。それゆえなのか、本書はある種のテクノフォビア(新たなテクノロジーの出現に対する嫌悪)と受け取られる傾向もあるようだ(イギリスの『ガーディアン』(2024/9/11)の書評で、本書は「神託めいた説教」と評されている)。また、ハラリが性急に警告するこの振る舞い自身が、AI時代の加速主義的な言説空間に影響されている可能性もある。その一方で、本書で記述されているコンピューターやAIへの理解や説明に関しては、2000年前後、情報社会の到来を受けて監視社会論を提唱したD.ライアンの議論と比較することも有意義であるように思われる。だが本書のテーマからすると、そうした情報メディア論からの学術的な指摘はやや的外れかもしれない。

2. 「AI革命」は人間社会に何をもたらすのか―本書の概要

 情報メディア論からの指摘がなぜ的外れなのか。一読すればわかるように、本書の本題は、メディアの問題というよりも、AI時代における人間による統治の行方を問う政治論だからである。ハラリは自由民主主義が「多くの欠陥を抱えているものの、もっとも優れた手段を提供した」政治システムだと指摘する(下巻p.156)。AI革命後の人間社会、特に民主主義の行く末を論じることが、本書の最終的な目的である。この説明の際、本書で重要な概念となるのが「自己修正メカニズム」である。「自由民主主義の大きな強みは、強力な自己修正メカニズムを備えていることだ」(下巻p.156)。

 第1部「人間のネットワーク」では、コンピューターが出現するまでの歴史において、自己修正メカニズムが人間社会でどのように作動していたのかが説明される。そこで重要なのは、情報と自己修正メカニズムの関係性である。ハラリによれば、情報のネットワークは、真実を通して知恵を生み出す力を持つだけでなく、嘘やプロパガンダといった虚構の情報さえ使い、秩序の維持を担う力も持つという。ただしこの関係は複雑だ。情報ネットワークによる真実を生み出す力と秩序を維持する力が、順接するだけでなく逆接することもあるという矛盾を抱えているからである。

 例えば第4章の「誤り」では、この二つの力の関係が矛盾するメカニズムについて、魔女狩りを例に説明される。ハラリによれば、印刷術の誕生は、これまで指摘されてきた自由な情報流通の拡大、つまりカトリック教会の情報ネットワーク独占からの解放をもたらしたとは言い切れないという。それはなぜか。自由な情報の流通が、魔女の存在といった陰謀論を拡散することにもなったからである。さらに、宗教の側はそのような陰謀論を抑え込むのではなく、むしろ自分たちは不可謬であるとして、陰謀論を支持して秩序を維持したのである。この動きに反するのが、科学革命だとハラリは説明する。科学は、自らの知識が誤っている可能性を認識する情報ネットワーク(の機関)として、強固な自己修正メカニズムを作動させてきた。ただし科学の強固な自己修正メカニズムが可能であるのは、政治的な役割である社会秩序の維持を担う必要がなかったからだという。

 上巻第5章から下巻では、こうした情報ネットワークと自己修正メカニズムの関係性が、民主主義や全体主義においてどのように作動してきたのか、またこの作動が「エイリアン」の知性であるAIに担われた時、何が起こるのかが論じられる。ハラリは、民主主義の情報ネットワークは、中央を経由するものもあれば、多様で独立したノード(中継地点)を経由して分散する場合もあると説明する。一方、全体主義では、全ての情報が中央を経由することを望むネットワーク構築が志向されるという。

 重要なのは、民主主義であろうと全体主義であろうと、真実の追求と秩序維持の間の矛盾を内包しながら、情報ネットワークを人間自身が制御してきたことである。しかしコンピューターテクノロジーの出現によって、人間の理解の及ばないエイリアンであるAIがその制御を担うことになる。AIは機械学習によって、人間の介在なしに自らのアルゴリズムを自己修正する。そのため、AIの自己修正の内容を人間は知ることができない。しかもAIは「疲れない」ので、中央集権的な国家が望むような監視システムを、常時オンで執拗に作動させていくことが可能となる。その結果、政治・経済領域に関わりなくプライバシーが侵害され、人々の社会信用の判断やランク付けが、人間がその過程を知ることや理解することができないまま決定される社会が到来してしまう。

 それゆえハラリは、コンピューターが自らの可謬性に気づいていくアルゴリズムの構築や、AIを人間が抑制できる制度や機関を作る必要があると結論づける。だが彼の未来予測はかなり悲観的だ。というのも、民主的な情報ネットワークはすでに崩壊に直面しており、全体主義はAIに適合的なので、独裁者そのものがAIの支配に怯える状況になってしまうという。こうした予測の上で、ハラリはグローバル社会の行く末を、情報と権力の集中化を進めるAIが全世界を統制する帝国に陥るか、あるいは各情報ネットワークに閉じ込められ、(シリコンのカーテン・デジタルコクーンによって)分断された世界に陥るか、という可能性として描き出す。

3. 時事性が揺るがす本書の主張

 本書は、長い歴史を一つのテーマで大胆に切り込んでいく明快さを持ち、先の魔女狩りの例のように、私たちの常識を揺さぶるように事例の解釈を試みる。その解釈に唸らされる面もある。ただし、そうした解釈のまとめは、意外に既視感のある議論でもある。例えば、AIによって全世界が帝国化するか、あるいは逆に分断化された世界に陥るかといった指摘は、マクルーハンの「グローバルヴィレッジ(地球村)」を思い出す。また、情報の繭の中に人々が分断されていく「デジタルコクーン(シリコンのカーテン)」の考え方は、1970年代に中野収が指摘した「カプセル人間」の現象が、デジタルを原因とした集団的なものとして捉え直されているように感じられる。そして、人間にとってエイリアンの知性であるAIに対して、人間の自己修正メカニズムを介入させる必要性を論じる結論は、常識的で穏当なものである。この主張自体にはそれほど違和感はなく、納得させられる。

 その一方で、事例として扱われる個々の歴史事象を理解するにあたり、本書の「情報」という切り口の解釈からだけでは、やや物足りなさを感じてしまう読後感もある。たまたま最近、S.フェデリーチ著『キャリバンと魔女』(小田原琳・後藤あゆみ訳、以文社、2017年)という書籍を読んだのだが、そこでは「魔女狩りの犠牲者のほとんどが農民女性だった」という調査結果から、魔女狩りと資本主義の発展との関係性が周到に、しかもスリリングに論じられる。階級やジェンダーの視点から緻密に論じられる歴史(学)を読むと、ハラリの歴史的な事象への説明は、やや簡略化されすぎているようにも感じてしまう。

 さらに(情報)メディア論の視点からすると、AIを論じる上でハラリの認識は、近年の重要な論点を考慮に入れていないように思われる。それは自然の問題である。

 ハラリは本書で「現在進んでいる物質ベースの経済から知識ベースへの移行のせいで、戦争の潜在的な利益が減った」(下巻p.257)と論じているが、この見立てには素直に応じられない。現在、AIを支えるハイテク産業において、物質的な資源の獲得は最重要の課題だ。半導体にはレアメタルが必須であり、データを集約するデータセンターの稼働には莫大な電力(その供給には莫大なエネルギー資源も必要)と、サーバーの熱を冷却するための水資源が必要である。こうした資源の問題は、全世界で大きな課題になりつつある。J.パリッカなどによるメディア考古学の領域で、こうしたデジタル時代の情報テクノロジーにおける「物質性」の問題は、以前から論じられてきた。AIという「知性」の問題の手前で、その知性が自然(物質資源)に大きく規定されているという現実的な問題が現れている。

 さらに言及すると、21世紀も四半世紀が過ぎたこの時期に、情報ネットワークを人間(サピエンス)とテクノロジーとの関係のみで捉えてしまう本書の議論の前提への疑問が生じる。20世紀前半の時点でW.ベンヤミンは、自然に対する人間とテクノロジーの関係を論じている。ベンヤミンによれば第一の技術は、人間がテクノロジーを使って自然を直接支配=制御しようとする技術である。しかし第二の技術は、テクノロジーの介在によって、人間と自然を遊戯的な協働関係へと導く技術である。この議論は、ハラリの危機感とは異なり、人間とAI、そして自然との肯定的な関係性を考察するうえで、より長い射程を持つものだ。

 これに対して、ハラリの議論において自然は、人間とテクノロジーにとって「環境」でしかないように思われる(「サピエンスのみならず他の無数の生命体も危険にさらす」下巻p.274)。しかし、現在、情報ネットワークを考える際に、エコロジー的な視点はもはや無視できない。例えば2026年5月に公開された是枝裕和監督の『箱の中の羊』では、AIと自然の連帯が描き出されている。その映画のラストシーンでは、AIと自然が連帯することで、むしろ世界を制御していると思い込んでいる人間こそが、自然やAIにとってのエイリアンではないかと自覚を促される。人間とAIに限定して世界の運命を論じる本書の議論は、情報ネットワークを物質的に構築するレアメタル資源である、「比喩」ではないシリコンをめぐる政治にも言及が必要だったのではないか。

 このように、私が自然や物質性に言及してしまったのは、本書の時事性とも関わっている。本書は、原著が2024年、邦訳が2025年に出版されているが、AIが鮮烈に登場した時期に合わせて書かれたものだろう(OpenAIによるChatGPTの公開は2022年)。だが、この書評を書いている2026年7月に全世界で懸念されているのは、AIの問題以上に、アメリカやイスラエルといった民主主義国家による軍事的な暴力の行使であろう。そしてこの暴力において最大の争点となってしまったのは、政治体制の問題以上に、石油といった資源の問題である(またアメリカのグリーンランドへの関心はレアアース資源が狙いといわれている)。AIの知性をめぐる危機の手前で、人間はAI革命を成就させるための資源闘争を行っている。

 本書でハラリが論じてきた「人間(サピエンス)」とは一体、何であったのか。AI革命という時事的な関心からおそらく生じた本書の危機感は、現在の世界をめぐる時事的な問題によって認識のポイントがずれてしまったようにも思う。今後、本書の指摘が、改めて争点になる日が来るだろうか。本書の思想性の深さが確かめられるのは、その日が来た時である。

(「世界史の眼」No.77)

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書評 ダリン・M・マクマホン(東郷えりか訳)『〈平等〉の人類史―先史時代からアイデンティティ・ポリティクスまで』作品社(2026)
稲野強

 平等、と言えば、ほぼ反射的に「神の前の平等」、「生まれながらの平等」という理念が想起される。この理念は、まぎれもなく人間存在にとって何人も認める極めて価値の高い規範である。本書の著者ダリン・M・マクマホンによれば、「人間は本質的に平等であり、同等の価値があり、この理念を経済、政治の各方面の社会構造に反映させるべきことは、現代のほぼすべての道徳の政治理論の基本的信条の一つ」なのである。

 そうであるならば、平等は、権力の支配と被支配との関係を解き、人種・民族、階級、身分、地域、宗教、文化、言語、教育ばかりか、男女性や障害者に関する偏見や差別を認めない万能薬のひとつとなるはずである。

 ところが、マクマホンは、現代は「平等の危機に直面している」と断言する。不平等の研究はあまた存在するが、平等を扱う研究が少ないことも、そのことを裏書きしているのだろう。

 確かに、不平等の大音響の前では平等の音は微かにしか聞こえない。200年以上前の啓蒙時代・フランス革命で高らかに掲げられた「自由・平等・友愛」のスローガンは、今日でも相変わらず「目標」(夢)なのである。

 このように人びとは、長きにわたって不平等の拡大・深化や差別の高い壁を経験してきために平等を獲得する闘争心を失ってきた。そこで平等の理念は、相互に複雑に絡み合う多種多様の差別・偏見や排除の洪水になす術のない状態のなかで、時には現実離れした理想主義として退けられ、「冷笑されてきた」のである(注)。

 もっとも平等の理念にも大きな欠陥がある。それは、平等が、体制内部では序列化、統一化や優越化を促すと同時に、外部に対しては、異質性の排除を強化させることである。歴史的に見れば、国民国家やファシズム国家形成過程ではとくに顕著であったが、平等は、必然的に自我(=民族我)の確立を促すから、他者との同一性を嫌う人間の性向によって、国ないしは地域の優越性・序列化を生み、それによって内部における凝集力・求心力を増すと同時に国ないしは地域の外部に対しては、排他性を促進させるのである。

 著者は、人びとは、平等の観念が過去にどう理解されてきたか、驚くほど関心がない、と嘆く。言い換えれば、あまりにも多くの不平等の現実を前にして、戦う意欲を削がれるほど激しい不平等への慣れの常態が続いたために、われわれは「平等を想像することが難しい時代」に生きていることになり、そのような状況ではまともな歴史すら書くことができないと訴えたいようである。

 そうした深い現状認識を踏まえて、本書は、人類史、政治史、哲学史、社会心理学、社会学を駆使しつつ、太古から現代までの人類の長い歴史のなかで、平等の観念がどう「発明され」、破壊され、再生され、今日に至ったのかを時系列に沿って解き明かそうとしたスケールの大きな意欲作である。

 さて、その点を本書の内容に沿って見ると、平等の理念は、すでに狩猟採取時代に「支配の序列」に対する抵抗によって生まれたとされる。こうした社会では、「逆の順位制」または「平等主義的序列」と呼ぶもの、つまり大勢が一緒になって少数の者を支配する関係の基礎が敷かれたのである。だが、次のギリシャ・ローマの時代には非市民、女性、奴隷は平等権を与えられず、排除された。また紀元前1千年紀の「枢軸時代」には、世界各地で主要な宗教が誕生し、「平等の発明」とともに、「仲間意識」が生まれたが、それらの宗教は、排除と分断の新たな形の土台を敷くことになった。さらに時代を下がって、18世紀の啓蒙主義・フランス革命の時代には、普遍的な価値を持つスローガンが、革命を促進させ、反植民地運動に応用されたこともあるが(ハイチ独立運動)、例えば、女性は「理性がないから」との理由で市民権を得ることができなかった。また近代・初期社会主義の時代には、資本家と労働者との階級対立が先鋭化されるなかで、一部で平等の社会的実験は試みられたが、格差はそれまで以上に拡大し、「持たざる」人びとは、幻想を抱いた分だけ大きな幻滅を味わうことになった。次いで19世紀の国民国家形成期には、国家統一の掛け声のもとで、民族・人種主義運動の台頭を見、地域間差別が助長された。そうした流れは、ファシズム国家に歪んだ形で受け継がれることになる。第二次世界大戦後の国連主義の時代における「世界人権宣言」から現代に至るまで、改めて人種・信条・性別・社会的身分・門地などにより差別されない権利が再確認されたが、現代はグローバル化と格差の拡大により平等の危機を招来させ、平等を想像する力そのものも弱っている。

 こうして平等の理念は、誰でもが認める最高の価値であるにもかかわらず、現代にいたるまで時代の制約によって過酷な現実にぶつかるとその矛盾(=不平等)を露呈させてきた。著者は、人類が平等の幻想から不平等という幻滅の時代を経験したことを踏まえて、現代を「平等の危機に直面している」「平等を想像することさえ難しい時代」とみなしている。だがそのうえで、著者は、平等がつねに「想像の産物」であり、歴史上人びとは「枢軸時代」や「啓蒙主義時代」など何度も「平等を発明」してきていることを重視しており、その想像力にこそ不平等と闘う強い確信を見出している。

 ちなみに著者による想像力の再生のシナリオは、著者の研究の主要拠点であるアメリカをモデルとして描かれる。すなわち現代は、「第一の再建」(南北戦争以後の奴隷を国民に統合)、「第二の再建」(1950、60年代の公民権運動の「活性化の時代」)に続く「第三の再建」(アメリカにおける近年の人種間対立を「過去、現在、未来を再考する機会」)と位置づけられる。これは、過去の革命的エネルギーを利用して、「人種間の平等のための新たな闘争」を行い、最終的に未来により平等な世界を築く「夢」を実現化するための機会だと捉えられるのである。そして言い放つ。「悪夢は、それでも夢なのだ」と。

本書は、平等の理念の再発見ないしは復権の書であると同時に人類史を俯瞰した未来志向の書である。

(注)神学者・宗教学者の森本あんりは「近年は人権や平和、平等の理念が、理想主義だと冷笑されることが少なくない」「万人が誰かとの比較ではなく一番だと思える『絶対性思考』をもっと了解することが重要だ」と述べた。「取材考記」『朝日新聞』(夕刊)2026.5.25。

(「世界史の眼」No.77)

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蓼科の近代史 Ⅱ(下)―諏訪鉄山と連合国軍俘虜たち
小谷汪之

はじめに
1 諏訪鉄山の鉱床と鉱区
(以上、前号)
2 諏訪鉄山で働いていた人びと
おわりに
(以上、本号)

2 諏訪鉄山で働いていた人びと

(1)諏訪鉄山の労働者構成

 1944年4月、日本鋼管の子会社として日本鋼管鉱業株式会社が設立された。諏訪鉄山(諏訪鉱業所)はその傘下に入り、軍需会社法(1943年)に基づく軍需事業場に指定された。そのために、鉄鉱石の飛躍的な増産が要請され、徴用や学徒勤労動員や勤労奉仕などさまざまな形で、極めて多くの人々が諏訪鉄山で働くことになった(『諏訪の近現代史』611頁)。

 こうして、1944年8月の時点で、諏訪鉄山では以下のような人数の人々が就労していた(『諏訪の近現代史』612頁、『茅野市史 下巻』525頁。いずれも典拠は日本鋼管鉱業株式会社の社史であると思われるが、原本を見ることができなかった)。

表1 諏訪鉄山の労働者構成(1944年8月)

鉱山作業員
  鉱員          328人
  徴用工         221人
  臨時工          69人
建設作業員
  鉱員          339人
  徴用工         682人
 以上、総計 1,639人

 それ以外に、学徒勤労動員として、立命館大学採鉱冶金科の学生20人と旧制諏訪中学校(現、諏訪清陵高校)の生徒100人ぐらいが採鉱業務などに従事していた。それに婦人会などの日帰り勤労奉仕者を加えると、毎日2,000人以上の人々が諏訪鉄山で働いていた(『諏訪の近現代史』612頁)。

(2)「徴用」された朝鮮人たち

 『茅野市史 下巻』(525頁)には、朝鮮人の「徴用工」に関する以下のような記述がある。

徴用工には兵役に服さない諏訪地方壮年男子のほか、朝鮮半島から青壮年二〇〇名が強制的に徴用され、緑山温泉に収容されて働いていた。

 『諏訪の近現代史』(611頁)にも、次のように書かれている。

既に日本鋼管直営のころから兵役に服さない諏訪地方の男子の中から毎日一〇〇名ほどが徴用工として採掘作業に従事するようになっていた。[昭和]十八年[1943年]には、更に朝鮮人の徴用工二〇〇名ぐらいが緑山温泉に強制収容され、主として採掘現場での作業を担当していた。

 このように、表1の徴用工の中には朝鮮人の「徴用工」200人ぐらいが含まれていたとされているのであるが、この朝鮮人の「徴用工」という表現には注意が必要である。というのは、朝鮮人(当時の行政用語では、「半島人」)を国民徴用令(1939年)によって実際に徴用して、日本国内に「移入」したのは1944年(昭和19年)9月からだからである。したがって、1944年(昭和19年)8月時点の諏訪鉄山には、厳密な意味での朝鮮人徴用工はいなかったはずである。しかし、諏訪鉄山で多くの朝鮮人が働かされていたことは事実である。とすると、このような朝鮮人たちはどのようにして諏訪鉄山に連れてこられたのであろうか

 1939年(昭和14年)7月4日、戦争遂行に要する労働力を計画的に動員するために、「労務動員実施計画」が閣議決定された。「そしてそのなかに、日本内地の炭鉱等に配置するべき労働力の給源として朝鮮半島からの労働者八万五〇〇〇人分が計上されたのである。これが日本帝国による日本内地にかかわる朝鮮人労務動員政策の最初の決定である」(外村大『朝鮮人強制連行』岩波新書、2012年、42頁)。この1939年度の「労務動員計画」以降、毎年度ごとに労務動員計画が策定され(1942年度からは「国民動員計画」と改称)、動員するべき朝鮮人労働者の数が明記された。しかし、実際に動員された朝鮮人労働者の数は計画を下回り、1939年度で3万8,700人(1939年9月から翌年3月までの数)、1940年度では、計画の8万8,000人に対して実際の動員数は5万4,944人であった(外村前掲書、58,72,78頁)。

 1944年8月の時点で、諏訪鉄山で働いていた朝鮮人の「徴用工」というのは実際にはこの労務動員計画(国民動員計画)によって日本に連れてこられた朝鮮人労働者たちだったのであろう。ただし、労務動員計画によって朝鮮半島から日本に連れてこられたのではなく、「私的に」日本に移住していた朝鮮人も動員された。1943年(昭和18年)度の国民動員計画では、朝鮮半島から導入するべき労働者12万人以外に、日本内地在住朝鮮人労働者5万人の動員が計画されていた(外村前掲書、122頁)。諏訪鉄山で働いていた朝鮮人労働者の中には、このような日本内地在住朝鮮人もいたのであろう。

 このように、朝鮮人「徴用工」という表現には曖昧さがあるとしても、朝鮮人たちが諏訪鉄山で働かされていて、差別的な取り扱いを受けていたことは確かである。1995年6月に茅野市大字北山・糸萱公民館で開催された「諏訪鉄山を語りしのぶ会」において、かつて旧制諏訪中学校3年生の時に、学徒勤労動員によって諏訪鉄山関係の工事(花蒔から茅野駅までの鉄道敷設工事)で働いていた人が当時の想い出を次のように語っている。

 また、朝鮮の方々と一緒に働いていたわけです。時間をかけて長い石のノミで穴をあけるのに、まめが破れて血がしたたっていたけれども、それでも強制的に働かせられていた。

 また、発破(はっぱ)[ダイナマイト〕が爆発するときは鐘を鳴らして、我々中学生は早々と後方へ引き下がるわけですけれども、朝鮮から来た人たちはいっこうに下がらせていただけなくて、飛んできた石が頭や手にあたって、血が噴き出しているようなことも目撃いたしました。

 また、畑の中に種をとるために真っ赤になった大きな胡瓜かなんかあったのを、十七歳で徴発されてきたという我々と同じくらいか、あるいは一つだけ年上くらいの少年が、どうしても腹がすいていけないから胡瓜を食べたいということで、私がとってきて、その人にあげたところ、二十世紀梨を食べるように、むしゃぶりついて食べたのを今でも思い出します。(伊藤編『平和を今こそ』92~93頁)

 この「想い出」の最後に出てくる「十七歳で徴発されてきたという」朝鮮人少年は厳密な意味での徴用工だったのであろうか。それとも、労務動員計画(国民動員計画)によって日本に連れてこられた朝鮮人だったのであろうか。あるいは、日本内地在住朝鮮人だったのであろうか。

 朝鮮人「徴用工」たちには、金堀場に建てられた「飯場はんばと呼ばれる長屋があてがわれていた」(『諏訪の近現代史』612頁)。「飯場」の建物は1990年代半ばまで残っていたが、その後、取り壊された(茅野市八ヶ岳総合博物館『紀要』第18号、35頁)。ところが、『茅野市史 下巻』や『諏訪の近現代史』には、朝鮮人「徴用工」たちは「緑山温泉」に収容されていたと書かれている。この「緑山温泉」というのが何を指しているのか、調べてみたが分からなかった。『茅野市史 下巻』と『諏訪の近現代史』がともに依拠していると思われる原資料(おそらく、日本鋼管鉱業株式会社の社史であろう)に、朝鮮人「徴用工」たちは緑山温泉に収容されていたという記載があるのだろうが、これは原資料の誤記あるいは誤認のように思われる(特に、『諏訪の近現代史』は、朝鮮人「徴用工」の宿舎について、611頁と612頁で矛盾した記述をしている)。

 日本の敗戦後、朝鮮人「徴用工」たちは「博多へ引きあげていった」(『茅野市史 下巻』527頁)。博多から本国に帰って行ったのであろう。

(3)北山俘虜収容所の連合国軍俘虜たち

 1945年6月4日、激しさを増すアメリカ軍の空襲を避けるために、東京俘虜収容所(大森俘虜収容所)から247人の連合国軍俘虜が当時の長野県諏訪郡北山村に設置されていた東京俘虜収容所・第6分所(北山俘虜収容所)に移送された(伊藤編『平和を今こそ』52頁)。ただし、資料により、俘虜の人数に若干の異同があり、伊藤編前掲書でも、他の箇所では243人(アメリカ人57人,イギリス人55人、オランダ人91人、カナダ人34人、オーストラリア人4人、その他2人)となっている(40頁)。

 北山俘虜収容所は長尾根鉱床の付近にあったから、連合国軍俘虜たちはそこから標高にして数百メートル高い石遊場鉱区に坂道を登って通っていた。主要な作業は低品位の褐鉄鉱にコークスを混ぜて焼結する作業で、極めて高温の環境での作業であった。以前は、学徒勤労動員された旧制諏訪中学校の生徒たちが行っていたのだが、彼らに代わって、連合国軍の俘虜たちが焼結作業に就かされたのである。

 前述の「諏訪鉄山を語りしのぶ会」には、諏訪鉄山で働かされていた一人のアメリカ軍俘虜が参加していた(彼がこの会に招待された経緯については伊藤編『平和を今こそ』各所を参照)。彼の名前はアルフレッド・マックグルー(Alfred Mcgrus)と言い、1922年10月、アメリカ合衆国オハイオ州で生まれた。1941年1月、18歳でアメリカ陸軍に入隊、フィリピン、マニラ湾口の要衝コレヒドール島の守備隊に配属された。1942年5月7日、日本軍の攻撃によりコレヒドール島が陥落した時、日本軍の俘虜となった。その後、日本に送致され、東京俘虜収容所に収容されていたが、1945年6月4日、北山俘虜収容所に移送された。

 アルフレッド・マックグルーが記憶を頼りに描いた北山俘虜収容所の図によれば、収容所の矩形の敷地は高い塀(TALL FENCE)と空壕(DITCH)によって二重に囲われていて、四隅には照明が設置されていた。その敷地の中に、二棟の俘虜宿舎(POW BARRACKS: POW=Prisoner Of War)と一棟の米・英将校(AMER. & BRITISH OFFICERS)用宿舎が建っていた。BENJO(便所)は別棟で、門のそばには看守たちなど日本人用の宿舎(JAPANESE BUILDING)があった(伊藤編『平和を今こそ』53頁)。

 アルフレッド・マックグルーもこの収容所で起居しながら、諏訪鉄山・石遊場の焼結炉(スメルター[smelter])で「俘虜としての労働を強いられ、食糧難と戦い、蚤のみ・虱しらみに苦しみながら、約五〇〇メートルの高低差、四分の三マイルの山道を[石遊場の]作業場に通勤した」(伊藤編『平和を今こそ』76頁)。

諏訪鉄山・石遊場の焼結炉(スメルター)

出典:マックグルー手書きの絵(伊藤編『平和を今こそ』97頁)
図中の英文:IRON ORE SMELTER SUWA PRISONS CAMP 

 1945年8月、戦争が終わると、連合国軍俘虜たちは横浜に集結して、帰国の途に就いた。北山俘虜収容所にいた俘虜たちも、同年9月6日、茅野駅から横浜桜木町に引き揚げた。アメリカ人54人、イギリス人55人、オランダ人89人、カナダ人25人、オーストラリア人4人、その他2人の計229人、1人病院送達であった(伊藤編『平和を今こそ』74頁)。

 アルフレッド・マックグルーはその引き揚げ時の様子を次のように語っている。

 トラックが朝早くに収容所に来ました。それは、九月六日でした。私は三番目のトラックに幸運にも乗ることができました。駅に着いた時、トラックから飛び降りて、それから列車に乗ろうとしました。誰も日本人は付き添っていませんでした。一時間以上そこで汽車が来るのを待ちました。汽車はいっぱい人がいたんですけれども、そこになんとか乗り込みました。汽車に乗っていた日本人の人たちはみんな自分たちを見てびっくりした様子でした。[中略]

 北山で、[俘虜たちのための救恤]物資が[米軍機B29によって]投下されたときに、別にチラシもありまして、そこに「戦争が終わった、今、アメリカ軍が横浜にいる」ということが書いてあったそうです。

 でも、自分たちが茅野から乗って行った汽車は、横浜までは行きませんでした。それで東京で汽車を降りました。どうやったら横浜まで行けるかと聞きました。小さな電車が、たった一台の電車が来ました。それから、乗れるだけその電車に乗って横浜まで行きました。(伊藤編『平和を今こそ』122~123頁)

 当時、連合国軍俘虜とかかわりを持つと、俘虜収容所関係者とみなされて戦犯容疑をかけられる恐れがあったので、北山俘虜収容所の俘虜たちも日本人に敬遠され、ほとんど自力で横浜まで行かざるをえなかったようである(伊藤編『平和を今こそ』123~124頁)。実際、北山俘虜収容所の所長だった人はアメリカ軍の横浜BC級戦犯裁判で有罪とされ、服役した(同、60頁)。

 それから約50年後の1995年6月、諏訪鉄山跡を訪れたアルフレッド・マックグルーは、最初、そこが俘虜生活を送った場所であると信じることができなかった。戦後50年の年月は周囲の状況をすっかり変えてしまっていたからである。しかし、マックグルーが描いた石遊場の焼結炉の絵が、当時旧制諏訪中学校4年生で学徒勤労動員されて焼結炉で働いていた人の記憶と一致したことから、そこがマックグルーの作業していた場であると確認された。また、マックグルーなどの俘虜たちは、夜間、フェンスの緩んだところから収容所の外に出て、付近の畑のジャガイモなどを掘り取って、食べていた。その畑の持ち主と出会えたこともマックグルーの記憶をよみがえらせた(伊藤編『平和を今こそ』100~103頁、147~148頁)。

おわりに

 諏訪鉄山は敗戦とともに一時閉山された。しかし、1948年、日本鋼管は諏訪興業株式会社を設立し、諏訪鉄山の採掘を再開した(1950年、同社は諏訪鉱業開発株式会社と改称)。社長には、日本鋼管鉱業株式会社の諏訪鉱業所(諏訪鉄山)・所長だった高野太治郎が就任した。1950年6月、朝鮮戦争が勃発すると鉄鉱需要が増大し、諏訪鉄山も活況を呈した。従業員は1951年の最盛期には150人を越えた。しかし、朝鮮特需が終わり、諸外国からの鉄鉱石輸入が盛んになると、諏訪鉄山の低品位の鉄鉱石は需要がしだいに減少して、1965年、最終的に閉山となった(『茅野市史 下巻』527~528頁)。

 いま、別荘地やゴルフリゾートとして知られ、鬱蒼とした山林の中に瀟洒な別荘や広大なゴルフ場などが広がる蓼科も、70年ほど前は鉄鉱石採掘場として、裸の山肌を曝していたのである。

(完)

(「世界史の眼」No.76)

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書評:シンシア・ストークス・ブラウン『ビッグ・ヒストリー―宇宙誕生から始まった私たちの物語』南塚信吾ほか監訳、世界史研究所訳(ミネルヴァ書房、2026年)
辻村伸雄

1. ブラウンの歴史的評価の準備が整う

 ついにブラウンによる初のビッグヒストリーの通史が邦訳された。これで彼女のビッグヒストリーに関する主要著作が出揃ったことになる。シンシア・ストークス・ブラウン(1938–2017)は長年カリフォルニア・ドミニカン大学(Dominican University of California。2000年にDominican Collegeから改称。Dominican Universityとは別の大学であることに注意)に勤めたが、2001年に同大の常勤職を退いた後、晩年の十年間に三度(みたび)ビッグヒストリーの通史を書き残した。

(1)単著『ビッグ・ヒストリー』(原書初版2007年・新版2012年、邦訳2026年)
(2)共著『ビッグヒストリー』(原書2013年、邦訳2016年)
(3)単著『ビッグバンからあなたまで』(原書2016年、邦訳2024年)

 2007年に初めて自分で書き上げた通史が本書である。

 2010年に同大は新入生に対しビッグヒストリーを必修化したことで注目を集めた。

 2013年にはデイヴィッド・クリスチャンとクレイグ・ベンジャミンと共著で大学生向けのビッグヒストリーの教科書『ビッグヒストリー』(邦訳は明石書店)を上梓した。これが彼女にとって二冊目の通史となる。

 この共著も入れると彼女にとって三冊目の通史であり、単著としては二度目の通史となる『ビッグバンからあなたまで』(邦訳は亜紀書房)が図らずも最後の著作となった。

 今回ブラウンが初めてものしたビッグヒストリーの通史が日本で刊行される最大の意義は、上記の既刊の邦訳二冊と併せて、日本語でブラウンの変遷を追い、彼女の仕事を評価するための基盤が初めて整ったということだろう。

 生きている人物は評価が難しい。これからの行動や著作によって評価が変わりうるからだ。対して、物故した人物は動かないので業績が固まっている。全生涯とその帰結を見渡した上で、歴史的に評価を行う営みは、その対象となる人物が没してから始まるのだ。

 今、私たちはブラウンが故人であるがゆえに、その生涯の到達点から過去の全著作を見渡すことのできる時点に立っている。すなわちビッグヒストリーに限って言えば、本書が初期、次に出た共著が中期、遺著が晩期のブラウンのスタンスを表していると見ることができる。

2. 「複雑さ増大の敷居」の良し悪し

 本書に見られる初期のブラウンの叙述が、中期・晩期のそれと明らかに異なる点は、宇宙史・地球生命史・人類史を貫く根底的パターンである「複雑さ増大の敷居」(thresholds of increasing complexity)を採用していない点にある。

 ハーヴァード大学で「宇宙進化論」(Cosmic Evolution)の名のもとにビッグヒストリーを講じた宇宙物理学者のエリック・チェイソン(Chaisson 2001)は、宇宙から地球を経て私たちに至る歴史には、「複雑さの増大」という一貫した傾向が見て取れることを指摘した(とはいえ、そのような一貫した傾向が見て取れる惑星を、私たちは地球以外に知らない点には留意が必要である)。

 これに触発を受けたクリスチャンは、米国のサンディエゴ州立大学でビッグヒストリーを教える際に、ビッグバンから今に至る歴史を区分けする目安として、「敷居」という時代区分を導入し、それは2008年に発売された彼のDVD講義『ビッグヒストリー―ビッグバン、地球上の生命、人間の台頭』(未邦訳)で公にされた。それを見たビル・ゲイツが感激し、ビッグヒストリー・プロジェクトが立ち上がるのである。当然、「複雑さ増大の敷居」は同プロジェクトの骨組みともなっている。

 このように、「複雑さ増大の敷居」はビッグヒストリーを教える上で便宜的に導入されたもの(教授法の一つ)であるが、その利点は、宇宙史から人類史に至るまでを一気通貫する統一的視座から語ることを可能にしてくれるところにあった。

 もちろんクリスチャンにせよ、ブラウンにせよ、このような統一的・一貫的視座を初めから持っていたわけではない。本書の「2012年版への序文」において、ブラウンが同書はビッグヒストリーに通底するパターンを提示していないと述べているのはそのためだ。

 ビッグヒストリーを人間史に自然史を付け足した以上のものにすることを望んでいた2000〜2010年代のビッグヒストリアンたちにとって、それを可能にしてくれる「複雑さ増大の敷居」は願ってもないものであった。かくて複雑さへの着目は一世を風靡する。

 とはいえ、「複雑さ増大の敷居」という時代区分に基づく限り、ビッグヒストリーを描く際の構成は、ある程度似たり寄ったりになってしまう点は否めない。“複雑性ブーム”がひと段落し、その恩恵ばかりでなく弊害も目につくようになった今日から見ると、そのブームに染まる前のビッグヒストリアンたちの著述に、むしろ個性や新鮮さを覚えるのだ。

3. 本書『ビッグ・ヒストリー』の構成

 本書はシンプルな二部構成となっている。

 第I部「時空間の奥行き」は、宇宙が始まってから、太陽と地球が生まれ(第1章)、生命が登場し、進化と絶滅を経て(第2章)初期の人類が登場し(第3章)、彼らが狩猟採集をもとにした高度な社会を営む(第4章)ところまでを描く。

 第II部「温暖な1万年」は、人類の一部がアフロ・ユーラシアで農耕畜産へと移行し(第5章)、最初の都市を建設し(第6章)、都市生活のもたらす苦悩に応じて救済型の宗教が出現し(第7章)、それと相まってアフロ・ユーラシアの大部分を包摂する通商網ができ(第8章)、並行して南北アメリカでも農耕文明が発達するさま(第9章)を描く。次いでモンゴル帝国などによるアフロ・ユーラシアの統合(第10章)、西欧諸国による二つの半球の統合(第11章)が工業化につながるさまを描き(第12章)、「成長の限界」に突き当たる今日の状況を見据えつつ将来を展望する(第13章)。

 第II部は概ね通常歴史の授業で扱われる範囲と重なっており、第I部はその前史に当たる。長らく教員志望の学生たちに歴史を教えてきたブラウンにとって、第II部は慣れ親しんだ内容だろう。対して、おそらくブラウンがもっとも勉強を要し、書くのに苦労したのは第1部であると思われる。本書が二部に分かれているのは、そういう実際的な理由からだろうが、今から見ると、素朴ながらも思い切った構成にも感じる。

 読み味としては、第I部の初めの2章については散漫な印象が否めないものの、第3章「ヒトの登場」に入ると、肩の力が抜けたのか筆の運びが変わってくる。第II部に至っては、ブラウンの世界史の講義を受けているような気がしてくる。そこに奴隷制や人種主義についての記述を端的に織りこむ手さばきは、米国の公民権運動史をもう一つのライフワークとしてきたブラウンならではのものだろう。

 それでは第I部と第II部を通読して見えてくるものは何であろうか。これは本書全体の意義に関わる話である。ブラウンが強調するように、私たちの世界と私たち自身を理解するためには文字記録のない歴史にも目を向ける必要があると言うならば、文字記録のない歴史(第I部)を見ることで文字記録のある歴史(第II部)に対する見方が変わらなければならない。それがないならば、両者を通観する必要はなく、畢竟、ビッグヒストリーなぞあってもなくても同じということになるからだ。

 これに対する著者の応答は、文字通りには「地球の物語とそこに住まう人間の物語を結合してみたときに私が見出したのは、人々が子孫を増やし続けようとして取る行動は、地球の環境とその生命体を深刻な危機に晒してきたということだった」(iii頁)ということになろう。とはいえ、ここで指摘されていること自体は、人間の歴史のみに着目した場合にも気づきうることであり、人間以前の歴史を持ち出す必然性や説得性に欠ける。

 よって評者としてはむしろ「地球はそこに生息するいかなる生命に対しても、長期的かつ永続的な条件を提供してはいない」(32頁)という地球生命史の現実を踏まえると、「地球が私たちに服従を強いる前に、この惑星と和睦する」(367頁)ことが不可欠なのだという点こそが、人間以前の歴史なくしては至れない認識であると指摘したい。

4. 〈環境と宗教の変化の連動〉は類書にない特徴

 次に、以上の背景と概要を踏まえた上で、本書の特徴を考えたい。結論から述べると、既訳の類書にはない本書の真の特徴は、「人間の歴史以降について、政治や経済、環境等に関する〝外形〟的な記載が中心で、思想や観念、宗教や世界観等の変化や革新についての論述がうすい」というビッグヒストリーへの不満(広井2021: 128)に応える内容を含んでいる点にある。というのも、本書は環境の変化に伴う意識や信仰の変化に随所で言及しているからである。評者にとってはそれが一番読んで面白い部分であった。

 例えば、地球は1万7000年ほど前から1万年前にかけて温暖化し、地表を覆っていた多くの氷河が解け、海水面が140メートルも上昇した。これに伴い、世界各地で海岸線と陸橋の水没が起こった。大規模な洪水は8000年前ごろまで続いた。人間の祖先は何千年もの間、洪水を経験し、それが数多の洪水神話に刻まれているというのである(92–94頁)。

 ブラウンは人間の主たる生業が狩猟採集から農耕畜産に移行すると、意識や信仰のあり方も変わったと言う。狩猟採集民は巨大な捕食獣に囲まれて生きており、その生活は不安定で恐ろしいものであった。そのような状況下では野生動物を鎮めることに焦点が置かれたが、農耕に移居する生活では生命そのものの源に敬意を表し、その助けを願うことに焦点が移った。精霊を崇めるアニミスティックな信仰から豊穣の地母神を崇めるような信仰への移行である。同時に人々は森林の伐採や野獣の家畜化について相反する感情を抱き、これで良かったのかと自らを疑うようにもなった。ギルガメシュ叙事詩やアダムとイヴの失楽園の物語には、そうした葛藤や嘆きが残響している(88、124、129–130、180頁)。

  ブラウンの筆はさらに「枢軸時代」と言われる時期の変化に説き及ぶ。人々が小さな農村を離れ、人口の集中する都市で暮らすようになると、新たな種類の宗教が現れた。都市はその繁栄期にあっても不安定で不公正であった。また都市の暮らしはそれ以前に住んでいた村の慣習に反する面があった。選民であっても、都市の暮らしに同化するのか、元いた村の慣習を守るのかという選択を迫られた。都市の中では満ち足りた生活をかなえることが難しいと悟った人々にとって、来世や天国など現世を超越した救済を約束する新たな宗教が慰めであった。何らかの宗教共同体に属することは、村での暮らしの特徴であった相互扶助の機会を人々に取り戻させた。世界各地で進んだ都市化は、それを補完する救済型宗教の普及と結びついていたのである(180–181、210頁)。

 本書では他の箇所でも宗教にふれているが、個人的に一番面白く、本書の読みどころと感じた部分は以上である。

 ちなみに当初、ビッグヒストリーの著作の多くにおいて、思想や宗教の扱いが薄かったのは、学問上の理由というよりは、今なおインテリジェント・デザイン論などが影響力を持つ米国にあって、新興のビッグヒストリーが知識人からの信頼を得るには、「科学の仮面をかぶった宗教」、すなわち疑似科学との印象を持たれないようにすることが先決であり、そのためには思想や宗教を強調しないほうが無難であるという政治的・戦略的判断が影響したと評者は聞き及んでいる。

 もちろん、事はそう簡単でなく、ビッグヒストリーの通史の多くが物質の組み合わせによる複合・複雑化や生物の身体的進化には注目しても、意識や精神となるとほぼ人間の話に終始し、生命史全体における知覚や意識、知性の進化には無関心になりがちな点を思うと、これは方法論的物質主義と人間中心主義の問題でもある。

5. 本書の学説史上の意義

 最後に、評者の研究関心の一つであるビッグヒストリーという分野の歴史ならびにその学説史の上から、本書の意義を二点挙げて終わりたい。

 一つは、ビッグヒストリーという名称は1991年にクリスチャン(Christian 1991)が『ジャーナル・オブ・ワールドヒストリー』誌上で提唱して以降、広まったものであるが、ビッグヒストリーの取り組みやそれに類するものは、それ以前にも以後にも世界各地に存在した。それらを掘り起こし、22世紀以降へ向けビッグヒストリーの思想史を再構築することが評者の研究課題の一つである。

 その点から見ると、本書ではビッグヒストリーの先駆者およびその業績として、マリア・モンテッソーリのコスミック教育(その中心となる著作は『人間の可能性を伸ばすために』として邦訳されている)、クライブ・ポンティング『緑の世界史』、ラリー・ゴニック『マンガ版 地球の歴史』(原題は本書にある通り『マンガ宇宙の歴史』)、エリック・シュルマン『時間の簡潔な歴史』(未邦訳)と複数のものが挙げられている点が参考になるし、シュルマンの著作以外は日本語でも読める。翻訳大国にいるありがたみを感じる次第である。

 もう一つは、一般に「産業革命」と呼ばれる変化を、ビッグヒストリーの中にどう位置づけ理解するかをめぐり、クリスチャンとブラウンの間には実に面白い対照と交錯が見られるが、そのことが本書によって日本の読者にも見えやすくなったということである。冒頭で言及した初期・中期・晩期の順に説明しよう。

 (1)初期の段階では、クリスチャンもブラウンも「複雑さ増大の敷居」という時代区分を用いていなかった。

 クリスチャンは、『時間の地図』(未邦訳)において、西欧では18世紀から19世紀前半に近代に至る敷居がまたがれたとし、それを経済・政治・文化が三位一体をなす革命と捉えた(Christian 2004: 437–438)。「私たちはこの変容の真っ只中にいるため、その特徴を客観明朗に見てとることは難しい。ゆえに、それを記述するのに『近代革命』(Modern Revolution)という曖昧な呼び名でよしとしたい」(Ibid.: 335、評者訳)とクリスチャンは書いている。彼にとって産業革命はこのより大きな革命の経済面のみを指す語であり、政治面ではフランス革命が、文化面では科学的態度の普及がその変化を代表するものであった(Ibid.: 437–438)。

 他方ブラウン(本書第12章)によれば、1750年頃にイングランドで始まった、化石燃料、工場制度、製造経済への転換は、ヨーロッパ社会単独ではなくアフロ・ユーラシアと両アメリカの交流がもたらした地球規模の現象であり、それには前段としてアフロ・ユーラシアが統合され、次いで東西の半球が互いに結びつくことが必要であった。ゆえに、このように長い緩やかな変化を指すには「産業革命」よりも「工業化」(industrialization)という言い方が相応しいと言う。

 両者を比べると、ブラウンは工業化を通常より長い時間軸の中に位置づけ、クリスチャンはそれをより広範な社会の変化の中に位置づけたと言える。

 (2)中期はクリスチャンとブラウンがベンジャミンを含め合同で大学生向け教科書『ビッグヒストリー』を作った時期である。ここで大事な前提は、クリスチャンがその前に「複雑さ増大の敷居」という時代区分を導入し、本書の改版時にはそれに従わなかったブラウンも、それを受け入れ、三人の共著がこの時代区分に沿って書かれたということである。

 それでも、この教科書は章ごとに起草者が異なるため、よく読むと、起草者によるスタンスの違いが整合されないまま残っている(注)。

 この共著において、共通暦1000〜1700年を扱う第10章はクリスチャンが起草したものであるが、同章を読むと「第8の敷居のことは、あえて曖昧に近代革命と呼ぶことにする」(Christian, Brown & Benjamin 2013: 216=2016: 254、評者改訳)とあり、近代に至る変化を政治面・文化面も含めて多元的に捉えるスタンスは「敷居」導入後も保たれていることがわかる。

 これに続いて共通暦1700〜1900年を扱う第11章は、ブラウンが起草したものであり、そこでは「産業革命を第8の敷居と見なす根拠は、それが人間社会に引き起こした急速な変革にある。〔…〕この変革の基底にあるのは石炭と石油の燃焼である」と書かれている。敷居8の指すものがクリスチャンとブラウンで違うわけである。その上で、産業革命の本質を「製造・輸送・通信において、人力・畜力に代わり、化石燃料を系統立てて利用するようになったことを受けて起きた様々な変化」のことであるとブラウンが喝破し定義しているのは興味深い(Ibid.: 244=288、評者改訳)。

 ここには敷居8をあくまで政治・経済・文化の三重革命と捉えるクリスチャンと、そのうちの経済(産業革命)に焦点をしぼるブラウンとの違いが見て取れる。

 (3)晩期はクリスチャンとブラウンが共に「複雑さ増大の敷居」の時代区分に則って自身の通史を書き改め、世に問うた時期であるが、ここまでに述べた違いと変遷を踏まえると俄然面白くなる。

 ブラウンは、遺著『ビッグバンからあなたまで』(原書2016年)において、敷居8を論じる際に工業化に焦点をしぼる立場は変わらないものの、同書第1章で敷居7を「農業の出現(有機エネルギー)」、敷居8を「工業化の出現(化石燃料エネルギー)」とし(Brown 2016: 12 =2024: 42、評者改訳)、同書第9章で農業を、同書第10章で工業化を論じる際に明らかにエネルギーを軸足に置いている。

 その上で、敷居8を論ずる第10章を「地球一体化 敷居8(1500–2000年)」と題し、本書『ビッグ・ヒストリー』においても人間史を描く際の軸であった地球一体化(globalization)を
 ステップ1 世界システム
 ステップ2 産業革命
 ステップ3 20世紀
の三段階に分け、工業化つまり産業革命をその中間段階に位置づけ直している(Brown 2016: Chaps. 9–10=2024: 第9–10章)。原点に立ち返り自身の史観を刷新したとも言えるだろう。翌2017年に彼女は世を去った。

 残されたクリスチャンは、ブラウンに感化されたのか、近著『オリジン・ストーリー』(原書2018年)において、敷居8を経済面(産業革命)に特化して捉える彼女の路線をさらに突き進め、そのエネルギー源たる化石燃料に着目してそれを「化石燃料革命」(fossil-fuels revolution)と呼ぶようになる。近代革命という大づかみながらも総体的な概念を捨て、エネルギー重視の立場を鮮明にしたわけである(Christian 2018: Chapter 10=2019: 第10章)。

 ところがそれが、なんでもエネルギーの流れに還元し、それをどう汲み出し管理するかが社会や統治のあり方を規定するならば、政治の役割や人間の主体性はどこに見出せるのかという批判(Hesketh 2021)を招くことになる。

 クリスチャンとブラウンは初期においてはそれぞれ比較的独立にビッグヒストリーを論じた。二人が協働する中期に入ると、ブラウンはクリスチャンの「複雑さ増大の敷居」を受容するとともに、その8番目の敷居を論じるに当たって経済面を重視し、晩期にはその根底にあるエネルギーに叙述の軸を置いた。ブラウンの中期から晩期にかけての変化を(当人の意識は別として)一番受け継いでいるのはクリスチャンである。こうした相互の影響も、本書を踏まえてこそ見えてくることなのである。

むすびに

 以上で明らかな通り、既存の訳書に本書が加わることで、それらの読み解き方は幾重にも広がり深まりうる。類書と読み比べながら味読されることをおすすめする。

 なお、カリフォルニア・ドミニカン大学の新入生向け必修科目がビッグヒストリーとは違う内容に変わってしまって久しいが、同大でビッグヒストリーを教えたい教員向けに行った夏季講習(summer institute)に参加した、フィリピンのホーリー・エンジェル大学(Holy Angel University)の同僚たちによって、ビッグヒストリー教育の火は受け継がれている。ホーリー・エンジェル大では毎年数千名の全新入生にビッグヒストリーの履修が義務づけられており、同大の受講生は今や、世界でビッグヒストリーを学ぶ大学生の一番大きな割合を占めている(Tsujimura 2025)。ブラウンが灯した火は今なお燃えつづけているのである。

注

 教科書『ビッグヒストリー』(邦訳は明石書店)の各章の起草者については、著者の一人であるクリスチャン教授にご教示いただいた。ここに記して感謝するとともに、後学のため共有する。
 序章:クリスチャン
 第1章:クリスチャン
 第2章:ベンジャミン
 第3章:ブラウン
 第4章:ブラウン、クリスチャン、ベンジャミン
 第5章:ベンジャミン
 第6章:ブラウン
 第7章:クリスチャン、ベンジャミン
 第8章:ベンジャミン
 第9章:ブラウン、クリスチャン
 第10章:クリスチャン
 第11章:ブラウン
 第12章:クリスチャン
 第13章:ブラウン、クリスチャン

参考文献

Big History Project: 現在のサイト(https://www.oerproject.com/Big-History)と教材は2026年7月28日に利用不可となり、同日以降は新しいサイト(https://www.oerproject.com/Big-History-Project)と教材に移行する。

Cynthia Stokes Brown Collection on the previous Dominican University of California website: https://scholar.dominican.edu/cynthia-stokes-brown-collection/ [カリフォルニア・ドミニカン大学の公式サイトは新ウェブサイト(https://www.dominican.edu/)に移行しており、旧サイト上にアーカイブされているブラウンのオンライン文庫はいずれ無くなるおそれがある。見られるうちに魚拓をとるなど保管をおすすめしたい。]

Brown, Cynthia Stokes (2016) Big History, Small World: From the Big Bang to You, Great Barrington, Massachusetts: Berkshire. [本には2017年出版と印字されているが、実際に出版されたのは2016年6月である。証拠として同年7月に刊行された国際ビッグヒストリー学会の会報Origins, Vol. VI, No. 7, p. 11 (https://cdn.wildapricot.com/56234/resources/Documents/Origins/Origins_VI_07.pdf)を参照のこと。]ブラウン、シンシア・ストークス (2024)『ビッグバンからあなたまで――若い読者に贈る138億年史』片山博文、市川賢司訳、亜紀書房。

Chaisson, Eric (2001) Cosmic Evolution: The Rise of Complexity in Nature, Cambridge, Massachusetts: Harvard University Press.

Christian, David (1991) “The Case for ‘Big History’,” Journal of World History 2 (2): 223–238.

Christian, David (2004) Maps of Time: An Introduction to Big History, 1st edition, Berkeley and Los Angeles, California: University of California Press [2nd ed., 2011].

Christian, David (2008) Big History: The Big Bang, Life on Earth, and the Rise of Humanity, 8 DVDs, The Great Courses, Chantilly: The Teaching Company.

Christian, David (2018) Origin Story: A Big History of Everything, London: Allen Lane. クリスチャン、デイヴィッド (2019)『オリジン・ストーリー 138億年全史』柴田裕之訳、筑摩書房。

Christian, David, Cynthia Stokes Brown and Craig Benjamin (2013) Big History: Between Nothing and Everything, New York: McGraw Hill. [本には2014年出版と印字されているが、実際に出版されたのは2013年8月である。証拠として同年9月に刊行された国際ビッグヒストリー学会の会報IBHA Members’ Newsletter(後にOriginsに改称), Vol. III, No. 8, pp. 2–3 (https://bighistory.org/Origins/Origins_III_08.pdf)を参照のこと。] クリスチャン、デヴィッド、シンシア・ストークス・ブラウン、クレイグ・ベンジャミン (2016) 『ビッグヒストリー――われわれはどこから来て、どこへ行くのか 宇宙開闢から138億年の「人間」史』長沼毅日本語版監修、石井克弥、竹田純子、中川泉訳、明石書店。

ゴニック、ラリー (1993)『マンガ版 地球の歴史――ビッグバンからアレキサンダー大王まで』武者圭子訳、心交社。

Hesketh, Ian (2021, December 16) “What Big History misses,” Aeon: https://aeon.co/essays/we-should-be-wary-about-what-big-history-overlooks-in-its-myth

広井良典 (2021)『無と意識の人類史―私たちはどこに向かうのか』東洋経済新報社。

モンテッソーリ、マリア (2018)『人間の可能性を伸ばすために―実りの年6歳〜12歳』新版、田中正浩訳、青土社。

Novak, Philip (2015) “Big History at Dominican” in Richards B. Simon, Mojgan Behmand, and Thomas Burke eds., Teaching Big History, Oakland, California: University of California Press: 311–317.

ポンティング、クライブ (1994)『緑の世界史』上下、石弘之、京都大学環境史研究会訳、朝日新聞社。

Tsujimura, Nobuo (2025, November) “A Torch is Passed: In Remembrance of Ma. Rubeth Ronquillo-Hipolito,” ABHA Newsletter2, Asian Big History Association.

(「世界史の眼」No.76)

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蓼科の近代史 Ⅱ(上)―諏訪鉄山と連合国軍俘虜たち
小谷汪之

はじめに
1 諏訪鉄山の鉱床と鉱区
(以上、本号)

2 諏訪鉄山で働いていた人びと
おわりに
(以上、次号)

はじめに

 戦前から戦後初めにかけて、長野県諏訪郡北山村(現、茅野市大字北山)には諏訪鉄山(諏訪鉱山)と総称される鉄鉱石採掘場が広く存在した。そこで産出された褐鉄鉱は茅野駅から専用貨車で中央線・横浜線を経由して、川崎の日本鋼管株式会社の製鉄所に直送されていた。『日本鋼管株式會社六十年史』(1972年、150頁)には、次のように書かれている。

 鉄鉱石については、鉱石自給の線に沿って可能なかぎり鉱山の開発を行った。そのおもな鉱山は、国内では諏訪鉱山、上岡鉱山[福島県富岡町]、中国では山東省金嶺鎮鉱山、江蘇省利国鉱山などであり、東南アジアではタマンガン鉄鉱山があった。

 諏訪鉄山(諏訪鉱山)は日本鋼管にとって国内の最も重要な鉄鉱山だったのである(伊藤岩廣編『平和を今こそ―諏訪鉄山と捕虜収容所ものがたり』長野日報社、2009年、26~27頁)。

諏訪鉄山の褐鉄鉱(長尾根鉱床跡)

出典:伊藤編『平和を今こそ』所載の写真版

 諏訪鉄山の褐鉄鉱は「鉄バクテリアや緑そう類もその生成に関係していると考えられる一種の沼しょう鉄鉱てっこうで、鉄分に富む温泉あるいは池水より[鉄分が]沈殿し、層状の地表鉱床をつくっている」(『茅野市史 別巻 自然』1986年、85頁)。しかし、鉄の含有率はあまり高くなく、「基準品位Fe四五%を確保することはむずかしかった」(諏訪教育会編『諏訪の近現代史』1986年、612頁。Feは鉄の元素記号)。そのため、基準品位まで鉄の含有率を上げるには、焼結炉でコークスと混ぜて高温で焼結することが必要であった(同上)。第二次世界大戦、特に太平洋戦争が始まると、日本は鉄鉱石や屑鉄の輸入が困難となったために、このような低品位の国内鉄資源に頼らざるをえなくなったのである。

 本稿では、この諏訪鉄山に焦点を当てて、その歴史とともに、そこで働いていた人々の姿を追ってみたいと思う。その中には、「徴用」された朝鮮人約200人やアメリカ、イギリス、オランダなど連合国軍の俘虜たち約250人も含まれていた。

1 諏訪鉄山の鉱床と鉱区

(1)金堀場鉱床

 諏訪鉄山は現在の茅野市大字北山の諸地域に広がる鉱床・鉱区の総称で、いずれも標高1,000メートルを越える高地にあった(以下の記述は「八ヶ岳総合博物館企画展 諏訪鉄山」茅野市八ヶ岳総合博物館『紀要』第18号所載、その他に拠る。各鉱床・鉱区の位置については付図「諏訪鉄山全体図」参照)。

 諏訪鉄山で最初に採掘が始まったのは金かな堀場ほりば鉱床であった。現在、国道299号を走るアルピコ交通バスの麦草峠線(中央線茅野駅―麦草峠間)で茅野駅から麦草峠方面に向かい、茅野市大字北山の糸萱集落から糸萱大橋を渡って緩やかな上り坂を数百メートルほどいったところに「鉄山入口」というバス停がある。このバス停の西側、北にかけての一帯が金堀場鉱床であった。

 1937年、日本鋼管は諏訪鉄山の採鉱のために、諏訪鉱業所を設立した。同年、関東運輸株式会社の高野太治郎が日本鋼管・諏訪鉱業所の下請けとなって、金堀場鉱床で褐鉄鉱の採掘を開始した。金堀場鉱床の土地は外山とやま財産区(当時の北山村芹ヶ沢区・糸萱区と湖東村金山区・新井区・山口区・中村区・上菅沢区、合計7区の共有財産区)の所有地であった(『茅野市史 下巻 近現代・民俗』1988年、523,692頁)。財産区というのは、1889年(明治22年)の市制・町村制施行によって、それ以前に存在した村の多くが町村合併されて、町・村の下の区となったことに伴って作られた制度である。町村合併により、旧村(区)によって総有されていた入会地などの財産が町・村に移管されることに対して、旧村(区)の側から強い反発が起こった。財産区はそれに対応するために作られた制度で、これによって、旧村(区)の入会地が財産区の所有地として認められた(渡辺洋三「財産区の沿革と問題点」渡辺洋三編著『入会と財産区』勁草書房、1974年、所収。ただし、この時点では「財産区」という明確な呼称は使われていない)。財産区には、多数の区(旧村)の共有財産区とともに、一つの区(旧村)の単独財産区も設定された。外山財産区は7区の共有財産区であったが、この外山財産区の金堀場周辺の所有地が諏訪鉄山の採鉱のために「坪二円五〇銭くらいで買収され、当時の地価としては高価なものであった」(『諏訪の近現代史』610頁)。

 金堀場から糸萱集落までは石畳の道が敷設され、採掘された鉄鉱石はトラックで糸萱経由茅野駅まで運び出された。

 金堀場には、採掘事務所や診療所などが置かれ、諏訪鉄山の初期の中心であった。しかし、鉄鉱石埋蔵量が残り少なくなったため、1942年1月、諏訪鉄山が日本鋼管の直接経営となった頃には、諏訪鉄山の中心は後述の石遊場いしやすばに移っていた。

(2)長尾根鉱床

 「鉄山入口」バス停から西側の谷あいに入り、金堀場鉱床を越えて北東に1キロメートルほど登った所の尾根筋が長尾根鉱床で、独立した鉱床としては諏訪鉄山の中で最も規模が大きかった。1940年頃から採掘が始まり、諏訪鉄山の一つの中心的な鉱床であったが、敗戦時にはほぼ堀尽くされていたとされる。

 金堀場鉱床と長尾根鉱床は隣接していたので、合わせて金堀場・長尾根鉱区(あるいは糸萱鉱区)と称された(付図「諏訪鉄山全体図」参照)。

(3)石遊場鉱区

 石遊場いしやすばは広範囲にわたる鉱床の総称で、1941年頃から本格的な採掘が始まった。石遊場の中心地は、10年ほど前まで別荘会社「蓼科ビレッジ」の管理事務所があった場所(現在はアルピコ交通バス・麦草峠線の緑山バス停付近)で、その周辺に広がる鉱床群が石遊場と総称された。それで、石遊場は石遊場鉱区と称された。

 石遊場には、日本鋼管の現地事務所、鉄含有率を上げるための焼結炉20基、焼結された鉄鉱石をトラックに積み込むための設備である「万石まんごく」などの諸施設が設置されていた。1942年には、採掘された鉄鉱石を運ぶ索道(4.6キロメートルの空中ケーブル)が石遊場と芹ケ沢地区の花蒔の間に架設され、1944年には同区間に第2索道も掛けられた。花蒔から茅野駅まではトラックで輸送されていたが、1944年9月には、茅野駅と花蒔駅を結ぶ鉄鉱石輸送専用の鉄道(鉄山鉄道と呼ばれた)が敷設された(付図「諏訪鉄山全体図」参照)。しかし、この頃からアメリカ軍による空襲が始まり、全国的に鉄道網が乱れたため、「鉄山鉄道」はあまり役に立たなかったとされている(伊藤編『平和を今こそ』90~91頁)。

(4)明治鉱区

 明治鉱区は諏訪湖にそそぐ上川かみがわの上流部である渋川に沿った標高1,500メートルほどの地域に散在する鉱床群からなる鉱区であった。鉱床は渋川右岸の渋川温泉と左岸の明治温泉を含む地域に広がっていた。明治鉱区の褐鉄鉱は硫黄や燐の含有率が低く、諏訪鉄山の中では比較的良質な鉄鉱石であった。1941年頃から本格的な採掘が始まり、1944年には、明治鉱区から石遊場までの索道(2.9キロメートルの空中ケーブル)が設置され、明治鉱区で採掘された鉄鉱石はこの索道によって石遊場まで運ばれた(付図「諏訪鉄山全体図」参照)。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.75)

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マイケル・マン、横田正顕監訳『ファシストたちの肖像―社会的〈力〉と近代の危機』白水社、2025年。
小野寺拓也

 近年のファシズム研究では、定義や類型化、段階分けといった議論は低調である。「ファシスト・インターナショナル」論の近年最大の成果と言ってよいヘディンガー『枢軸』では、以下のように指摘されている。

 「枢軸に共有された歴史を見れば、「ファシズムの必要条件」や段階モデルの適用が、ファシズムのグローバル・ヒストリーにとってあまり生産的でないことがわかる。というのも、このようなチェックリスト、必要条件、典型性といったものは、その大部分がヨーロッパ中心主義的なものだからである」(ダニエル・へディンガー、清水雅大監訳『枢軸―ベルリン・ローマ・東京 一九一九――一九四六年』白水社、2025年、415ページ)。

 ファシズムを理念的にモデルしようとする試みは、へディンガーが指摘するようにヨーロッパ中心主義的であるだけでなく、偶発性や歴史的経緯を軽視することにも繋がりかねない。ファシズムという現象は「極めて偶発的な組み合わせ」によってもたらされたものであり、「意図的に再現できるものではない」(同書424ページ)からだ。パスモア『ファシズムとは何か』(原著は2014年刊行)による次の指摘は、そうしたモデル化にたいする歴史研究者の警戒感を端的に表している。

 「ファシズムの研究者とほとんど同じ数だけファシズムの定義がある。そして、それらのいずれが正しいかについての合意はない、という点だけを指摘しておこう。私見によれば、定義からアプローチするのは、そもそもそれ自体に欠陥を内在させているのである」(ケヴィン・パスモア、福井憲彦訳『ファシズムとは何か』岩波書店、2016年、9ページ)。

 その欠陥とは、「現実の運動や体制が持っていた豊かさや多様性」を「定義による特徴に合わせ」(同書27ページ)てしまう点にほかならない。

 そのため近年の研究では、ファシズムの一般的な定義(あるいはファシズムのミニマム・モデル)を求めたうえで各国のファシズムがそこからどの程度変化、逸脱していたのかを論じるのではなく、ファシズムとも権威主義とも保守主義とも明確に定義しがたい流動的な状況の中で、それぞれの国々や運動が自らの国々の文脈へとファシズム的な動きをどのように「翻訳」し、異なる文脈に位置づけ、あるいは違う形で表現していったのかを明らかにすることが目指されている。

 評者もこうした近年の動向に基本的に賛成である。本書は2004年に刊行された本格的なファシズム研究であり、ヘディンガーからは二世代、パスモアからは一世代近く前の研究となるが、「戦間期ヨーロッパ全体を考える上で発見的な意義を持つ枠組みを探究しているのに過ぎない」のであって、「多くの時代や場所に適用できるような一般的な定義を最初から追求することはしない」(34ページ)のだと、定義に慎重な姿勢を見せている。とはいえ権威主義を、その度合いが高くなっていく順番に「準権威主義体制」「準反動的権威主義体制」「コーポラティズム体制」「ファシズム体制」の四段階に位置づけているように、モデル化・一般化という方向性が強いことは否めない。評者としては、こうした類型化は戦間期の複雑な事象を理解する助けになるというよりは、その急進性を序列化することで「ナチ体制に比べれば穏健」といったようなかたちで、あまり建設的とは言えない予断を生む可能性が高いと考える。たとえば本書でも、日本についてわずかに言及はあるものの、日本は「下からの大衆運動も、準軍事組織も欠いていた」(64ページ)のであり、1931年以降の日本はファシズムの要素を含んでいるものの「コーポラティズム体制」であったと分類される。しかしこれでは、ドイツやイタリアから何を学習し(あるいは逆にドイツやイタリアが日本から何を学び)どのように急進化していったのかという視点は抜け落ちてしまう。

 ただしそれでも、理論化を過度に忌避することにも問題はある。評者がそう強く感じたのは、歴史教育の文脈においてである。周知のように高等学校では2022年度から「歴史総合」、2023年度から「日本史探究」「世界史探究」が始まっている。これらの科目の軸の一つに、「世界史と日本史を概念でつなぐ」という点がある。「近代化」「大衆化」「グローバル化」という三つの大きな概念、「工業化」「産業革命」「市民革命」といったさまざまな小さな概念を通じて、世界のさまざまな出来事を繋いでいくことが求められているのである。当然「ファシズム」もそうした小さな概念の一つになるが、いくらその定義が困難だからといって、また定義によって現実の多様性が見えなくなるからといって、教科書でミニマムな定義を示さないわけにはいかない。まずは歴史的事象を整理した上で定義は最後に行うという思考方法は、歴史研究者にとってはなじみのあるやり方かもしれない。しかし高校生が歴史事象を大づかみに理解する(あるいは高校教員がおおまかな全体像を示す)うえで、一定の定義は避けられないだろう。

 さらに「ファシズム」概念には、近年の新興右派や右派ポピュリズムなど、明らかに「ファシズム」と本質的な特徴を少なからず共有している現象をどのように理解するかという、「現代的な諸課題」もついてまわる。「ファシズム」という概念は戦間期に限定して使用すべきだというのが評者の立場であり、山口定が『ファシズム』で提唱した以下の「原則」はいまなお有効だと考えている。

 「『ファシズム』概念を現代史の分析や教科書の記述の中から追放しようとする動きには徹底してあらがうこと,しかし,いわゆる現状分析の一環としては,『ファシズム』概念はできるだけ使用しないように慎重に振る舞うこと,つまり,相手に対する批判と告発の中で『ファシズム』や『ファシスト』というレッテル貼りを行いたくなったときには,その言葉で言おうとした内容そのものをできるだけパラフレーズして表現すること」(山口定『ファシズム』岩波書店、2006年、ⅳページ)。

 だがそれでも、現代との相違点・共通点を考える上で、この概念を避けるわけにはいかない。そうした意味で、「ファシズムとは何か」という議論にはいまなお社会的重要性があり、それと取り組む上で本書には大きな意味があるだろう。

 本書ではファシズム運動と体制を、「極端なナショナリズム、権威主義的国家主義、階級闘争の超越の主張、政治・民族・宗教などあらゆる敵の浄化〔殲滅〕」、そして「直接行動の名の下の暴力」という五つの主要なイデオロギー的要素の結合という観点から定義する。多くの点で、現代の右派ポピュリズムと共通点を有することがここからも理解できるが、しかし相違点としてとくに重視せざるを得ないのが、五番目の「暴力」の問題だろう。ファシスト党の「黒シャツ隊」やナチ党の「突撃隊」のような政党所属の準軍事組織が路上でデモや行進、乱闘を行うというのは現代では考えにくく、「現代にファシズムが復活することはない」という主張の有力な根拠となっている。

 本書では、準軍事組織による活動の目的が三点挙げられている。まず、政敵を挑発して相手から暴力的反応を引き出すことを目的としており、そのことによって自らの暴力を「自衛」であると宣言すること。第二に、街頭で政敵を鎮圧することで、自分たちは「秩序」をもたらしているのであり「規律正しい暴力」なのだと主張すること。第三に、最後の手段としてクーデターを起こせるという選択肢を持つこと。このような準軍事組織の戦闘性や、それがもたらす同志的連帯感が、とくに若者を多く惹きつけた。本書で指摘されるように、ファシストの運動は伝統右派とは違って「ボトムアップ型」であり、自らを「人民の」運動と考えていた。権力の座につくうえで選挙を重視しており、その意味で大衆民主主義を基盤とする運動だった。こうした「草の根の暴力」は、大衆民主主義と相性が良かったのである。

 そう考えると、現代社会では路上での政治暴力にかわって、インターネットやSNS上での言葉の暴力が似たような役割を果たしていると考えることもできる。第三の点についても、2021年のアメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件を考えれば、決して無縁とは言えないだろう。他方で、第一次世界大戦という経験がなければ、暴力があれほど広範囲に共有されることも、ファシズムが急速に支持を集めることもなかっただろう。また、階級対立の激しさや、「赤の脅威」に対する「明らかな偏執狂」(145ページ)、容赦ない暴力行使などは、工業社会で労働者が社会の多数派を占めていたからこその状況であって、ポスト工業社会の現在とは質的に異なる。

 「歴史は同じようには繰り返さないが、韻を踏む」というマーク・トウェインの言葉にもあるように、つねに歴史にはこうした連続性と断絶という層が多面的に顔をのぞかせる。ファシズムが現代によみがえる可能性はあるのか。そのままのかたちではないとしても、別のかたちで登場する可能性はないのか。

 この点について、著者はやや楽観的である。「右派ポピュリズムは、移民の生活を不快にすることはあっても、ファシズムその他の包括的イデオロギーを生み出す可能性は低い。これらの急進右翼政党は憂慮すべき存在かもしれないが、ヨーロッパの「システム政党」がマクロ環境の変化に適応しながら市民の要求に応え続ける限り、ヨーロッパのファシズムは打ち負かされ、死に絶え、埋葬されたままである」(579-580ページ)。だが、現在のヨーロッパの政治状況は楽観を許さない。フランスでは、2027年の大統領選挙で、国民連合の候補が決選投票でも勝利する可能性が高いと報じられている。イギリスでは、2026年の地方選挙でリフォームUKが第1党に躍進を遂げた。ドイツでは、AfD(ドイツのための選択肢)が支持率で第1位になるばかりでなく、9月に行われるザクセン=アンハルト州議会選挙では単独政権の可能性すら囁かれている。議会に入り込みながら議会制度そのものを廃止し、基本法を形骸化し、「外国人のいない国」を実現したいという主張がAfDの政治家によって公然となされているにもかかわらず、支持率が低下する兆しはまったく見えない(Philipp Ruch, Es ist 5 vor 1933. Was AfD vorhat und wie wir sie stoppen, München, 2024)。既存政党が市民の要求に応えられていないという失望感が、あまりにも大きいのである。もちろん、日本の政治状況も他人事ではない。

 本書が投げかける「ファシズムとは何か」「ファシズムを支えたのは誰か」という問いは、著者が想定する以上に現代的な緊張をはらんでいる。刊行から20年以上が経った現在、著者が示す楽観は素直には受け入れがたい。もちろん、本書が詳述するように、第一次世界大戦の経験や階級対立の激しさ、準軍事組織による路上の暴力といった諸条件が今日そのまま再現されることはないだろう。そして、「ファシスト」という言葉が「もっぱら自分が嫌いな人々に浴びせかける不正確な罵倒語」(572ページ)に成り下がらないためにも、「ファシズム」という言葉を、現代の問題に安易に持ち込むことにも慎重でなければならない。その一方で、歴史が踏む「韻」の部分は見極める必要がある。戦間期とは違うかたちで、しかし類似の構造をもつ問題が生じる可能性があるからだ。「ファシズム」という概念を厳密に歴史的文脈に位置づけながら、同時に現代との連続性と断絶を問い続けること—その困難な作業に取り組む上で、本書は今なお重要な出発点となりうる。

(「世界史の眼」No.75)

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