コラム・論文」カテゴリーアーカイブ

土方久功と鳥見迅彦(中)―「日本の中の世界史」の一コマとして―
小谷汪之

はじめに

1 土方久功の戦中・戦後

 (1) 戦中の土方久功

 (2) 戦後の土方久功

 (以上、前々号)

2 鳥見迅彦の戦中・戦後

 (1) 戦中の鳥見迅彦

 (2) 戦後の鳥見迅彦

 (以上、本号)

3 土方久功と鳥見迅彦の交点

おわりに

 (以上、次号)

2 鳥見迅彦の戦中・戦後

(1) 戦中の鳥見迅彦

 鳥見迅彦とみ はやひこ(本名、橋本金太郎)は1910年、横浜に生まれた。父母の名前や生家の職業などについては、分からないことが多い。鳥見は「第三回アルプ教室」(山の文芸誌『アルプ』主催の講演会。『アルプ』については後述)において、「わたくしの山の詩」という講演を行っている(『アルプ』170号、1972年4月、所載)。その中で、鳥見は自らの戦前の経歴について語っているが、中学校卒業までについてはほとんど言及していない。ただ、鳥見の学歴などから見ると、鳥見の家は決して貧家ではなく、ある程度以上の経済力を持っていたと思われる。

 鳥見迅彦は1928年に神奈川県立横浜第二中学校を卒業した。同級には、後に写真家として知られるようになる土門拳がいた。鳥見は東京美術学校(東京芸術大学の前身)図案科と東京高等工芸学校図案科を受験したが、いずれも失敗した。翌1929年、鳥見は横浜市立横浜商業専門学校(横浜市立大学商学部の前身)に入学した。しかし、「会計学とか簿記といった、ゼニ勘定に直接関係ある課目が気に食わない。わたくしは学校をまちがえたのです」と鳥見は語っている。そんなこともあってか、鳥見は左翼雑誌『戦旗』、『ナップ』などを購読するようになり、学校内に「研究会」をつくって、マルクス『賃労働と資本』やエンゲルス『空想から科学への社会主義の発展』といった社会主義文献の学習を行うようになった。他の学校の同様の組織とも連絡がつくようになり、オルグに紹介されたりした。そのうち、「実践」にもかり出され、工場や電車・バスの車庫にアジビラをまきに行ったり、戦争反対のビラを電信柱に貼りに行ったりした(「わたくしの山の詩」105-106頁)。

 1932年2月、最後の卒業試験(倫理学)を受けていた鳥見は、校内に踏み込んできた神奈川県警察部特高課の二人の刑事によって逮捕された。日本共産党員あるいは共産青年同盟のメンバーではないかという嫌疑をかけられたのである。「取り調べは厳重で、かなりひどい拷問を受けました」と鳥見は語っている。一カ月ばかりの間に三つの警察署をたらい回しにされた後、検事局に送られた。そこで鳥見は「今後は実践運動はいたしません」という「手記」を書き、「起訴保留」ということで釈放された。鳥見は「『転向』です。わたくしは挫折に打ちひしがれました」といっている(「わたくしの山の詩」106-107頁)。こんなことで、鳥見は横浜商業専門学校を正式には卒業できず、「修了」という形で学校を出た。

 時はまさに世界恐慌の時代であり、ただでさえ就職難であったうえ、逮捕歴のある鳥見にはまともな就職はほとんど不可能であった。鳥見は、卒業後一年間ほどぶらぶらしていたのだが、その間に文学へと傾斜していった。

 1933年、鳥見迅彦は毎夕新聞社に入社した。毎夕新聞社は明治期に設立され、いろいろと名前を変えた新聞社で、一流新聞社どころか、地方有力紙ともいえない新聞社である。しかし、鳥見のような経歴の者にとっては、就職できただけでよかったのであろう。皮肉のようなことだが、最初は横浜支社に配属されて、警察周りの取材をしていたが、その後、東京本社に移った。毎夕新聞にいたころ、鳥見がいつも暗い顔つきをしているのを心配した同僚に誘われて、正丸峠(埼玉県秩父地方にある峠。標高636メートル)に行き、野山を歩く魅力に気づいた。これを契機として、鳥見は本格的な登山にのめりこんでいった。

 1936年、鳥見は『実業之世界』の野依秀市が創始した『帝都日日新聞』に移った。野依は右翼的・国粋的でありながら、堺利彦などの社会主義者とも付き合うという奇人風の人物で、鳥見の経歴など気にしなかったのであろう。この『帝都日日新聞』で、鳥見は草野心平と出会った。この出会いは鳥見のその後の人生に大きな影響を及ぼした。

 蛙の詩人として知られる草野心平(1903-1988年)は福島県岩城郡上小川村(現、いわき市)に生まれた。生家は土地持ちの旧家であった。しかし、父、馨が「奇矯」な性格の人物で、東京に出て、さまざまな「事業」に関わり、家運を衰退させた。草野心平も磐城中学校を中退して上京し、慶應義塾普通部三年に編入学した。しかし、なじむことができず、英語と中国語の学習に励んで、海外に出ることを考えていた。1921年、17歳の草野心平は慶応義塾普通部を中退して、上海航路の船に乗り込んだ。父の知り合いが中国の広東省広州市で事業を営んでいるので、それを頼りに広州市に向かうためであった。広州市では、アメリカ・キリスト教長老派系のミッションスクール、嶺南大学(中山大学の前身)に入学した。嶺南大学では、安い学寮に住み、いくつものアルバイトをしながら苦学した。

 1925年5月30日、上海で5・30事件が起こった。中国人労働者や学生などのデモ隊に上海共同租界の警察官が発砲し、多数の死傷者が出たことをきっかけとして、激しい民族運動(5・30運動)が起こり、中国全土に広がっていった。広州市でも、1925年6月23日、5・30事件に抗議するデモ隊に英・仏租界の兵士が発砲し、多数の死傷者が出た(沙基事件)。こうして、広州でも民族運動が激化したため、草野心平は卒業を断念し、帰国せざるを得なくなった。しかし、4年半ほどの嶺南大学在学中、多くの中国人の友人を得た

 帰国後、窮乏した草野は前橋に転居し、1929年、上毛新聞の校正係となったが、翌年辞職した。再び東京に戻った草野は壊れかかった古屋台を手に入れて、焼き鳥屋「いわき」を始めた。しかし、草野の家族だけではなく、弟などまで養わなければならず、生活は困窮を極めた。

 1932年、草野心平は野依秀市の『実業之世界』社に、校正係兼編集助手として入社し、1934年には『帝都日日新聞』に移った。そこに鳥見迅彦が入社してきたのである。鳥見の担当は「整理」ということであるが、どういう職種なのかよく分からない。草野によれば、社長の野依の口述する「社説」を草野が筆記し、それを「整理」の鳥見に渡すという分担だったという。それが夜中の11時近くになることもあったということである(草野心平『わが青春の記』日本図書センター、2004年、212、214頁)。とすると、「整理」というのは「割付」を主とする仕事だったのであろうか。

 鳥見迅彦は、草野と一緒に『帝都日日新聞』社を辞職するまで、3年半ほど草野と職場を共にしたのだが、その間に「心平さんから教えられたのは安酒のガブ飲みだけでした」と語っている(「わたくしの山の詩」、109頁)。草野に連れられて「安酒のガブ飲み」をしたのは事実だろうが、それだけではなかったようである。鳥見によれば、たぶん新橋の安飲み屋「三河屋」で一緒に飲んでいたとき、土方定一の詩「トコトコが来たといふ」を草野から教えられたということである(鳥見迅彦「トコトコが来たといふ」『土方定一追憶』土方定一追悼刊行会、1981年、69-71頁)。この詩は後に美術評論家として知られるようになる土方定一がまだ旧制水戸高校の学生だった時に書いたもので、土方が同級の舟橋聖一ともう一人の友人とで出していた同人誌『彼等自身』(1925年11号)に掲載された。草野はこの詩が強く印象に残り、そらんじていたのである。それはこんな詩である。

トコトコが来たといふ

トコトコが朝と一しょに来たといふ

まんぼのやうにねむったら

トコトコで眼がさめたといふ

なんだかうれしいといふ

 トコトコというのは那珂川を上下する川蒸気船のことで、「まんぼ」はいつも眠っているという魚マンボウである。那珂川の川口付近には古い遊郭があり、そのうちの一軒で土方が朝目を覚ました時に交わした会話をそのまま詩にしたものである(草野心平『わが青春の記』127-128頁)。鳥見もこの詩に感じるものがあり、その後、土方定一と親しく交わるようになった。

  1939年11月、鳥見迅彦は草野心平と共に『帝都日日新聞』を辞した。草野が社長の野依と衝突して辞めることになったので、鳥見も一緒に辞めることにしたのである。鳥見は、それから、「満鉄〔南満洲鉄道株式会社〕の東亜経済調査局という機関にはいりまして、そこでアジア諸国の文化を紹介する雑誌の編集にたずさわることになりました。この機関は東京にありました」と語っている(「わたくしの山の詩」、109頁)。「この機関」は正確には「南満洲鉄道東京支社調査室」であろうが、「満鉄東京支社調査室」が、1943年に、機構上は満鉄東亜経済調査局に付属することになったので、こういう言い方をしたのであろう。満鉄職員は半額の乗車賃で国鉄に乗ることができたので、鳥見は満鉄在職中中央線や信越線を利用してひんぱんに登山に出かけていた。冬山登山や岩登りを含む本格的な登山であった。ただし、多くが単独行で、パーティーを組むことは少なかったようである。

 しかし、1944年、鳥見の境遇は一変した。東横線沿線の軍需工場に徴用されたのである。ここで、鳥見は徴用工たちに対して反戦活動をしているという嫌疑をかけられ、神奈川県警察部特高課によってふたたび検挙された。「こんどの拷問は学生時代のそれとは段違いの厳しさでした。〔中略〕毎日やられました」(「わたくしの山の詩」、111頁)。鳥見は次のように書いている。

 手錠や拷問は、反人間的であるという点で、むしろ強烈な人間ドラマである。「けものみち」というモチーフが、ふいに、戦慄をともなってぼくの中心部をつらぬいたのは、その人間ドラマが半地下の暗い密室でむごたらしく演じられた直後、全身むらさきいろに変色して床にほうりだされているぼくを、ぼく自身が薄目をあけて眺めたときだった。

 もしも、あの凶暴な戦争とファシズムとがぼくのうえにのしかかることがなかったならば、ぼくは詩などという不幸な事に手を出しはしなかったろう。(鳥見迅彦「詩集けものみち(小伝)」『現代日本名詩集大成10』東京創元社、1960年、所収)

 「けものみち」は鳥見が戦後になって出す第一詩集の題名となったのであるが、これについては後に見ることとしたい。

 鳥見はこの時も拷問によって殺されることはなかった。今回も「転向書」のようなものを書いたのか、それとも単に嫌疑不十分ということだったのか、鳥見が何も語っていないので分からない。何か言いにくいことがあったのであろうか。ただ、「拷問というものは肉体の苦痛はいわずもがな、その暴行と凌辱から受ける精神の傷痕は一生涯消えはしません」とだけ鳥見は語っている(「わたくしの山の詩」、111頁)。

 他方、草野心平は、1939年12月、東亜解放社に入社したが、翌1940年7月には中国に渡った。同年3月に汪兆銘(汪精衛)が南京に樹立した「中華民国国民政府」に宣伝部専門委員として招聘されたのである。その仲立ちとなったのは草野の嶺南大学時代の友人、林柏生であった。林柏生は汪兆銘のもとで1938年から親日政権(傀儡政権)の樹立にたずさわり、汪兆銘政権成立後、行政院宣伝部部長に就任していた。その林柏生が日中親善のための宣伝活動に草野の助力を求めたのである。

 1944年、草野心平は中国在住日本人による詩誌『亜細亜』の創刊に努力した。その第二号(1944年11月刊)には鳥見迅彦の詩「銀山平」が掲載されている(ただし、作者名は橋本欽)。草野が東京在住の鳥見に寄稿を依頼したのであろう。この詩は越後の銀山平の叙景詩といった趣のものであるが、背後に特高による拷問の「傷痕」を窺うことができる(後に、この詩は鳥見の第一詩集『けものみち』に収載された)。

 1945年8月、日本の敗戦により南京の親日政権(傀儡政権)は崩壊し、草野心平一家はすべての財産を没収されて、収容所に入れられた。ただし、監視の目は緩く、暴行を受けるといったことはなかった。その点では、満洲でソ連軍の捕虜となった兵士や一般人のあまりにも苛烈な状況に比べれば、極めて幸運であったということができるであろう。翌1946年3月、草野は家族と共に帰国した。他方、林柏生の方は、1946年10月、「漢奸」として国民政府により処刑された。

(2) 戦後の鳥見迅彦

 鳥見迅彦がどのように敗戦を受け止めたのか、鳥見が何も語ってないので分からない。戦後、鳥見は何らかの職に就いたのであろうが、それについても語っていない。戦後の鳥見について知られていることはほぼ詩との関係に限られているのである。

 1947年、草野心平が中心となって同人誌『歴程』が復刊された(『歴程』については後述)。鳥見も『歴程』同人となった。1950年、鳥見は『歴程』の「編集長」になり、復刊第7号(1950年11月)、通巻第34号(1951年1月。この号から通巻の号数を表示することになった)、通巻第35号(1951年2月)、通巻第36号(1951年3月)の編集に当たった。この頃、『歴程』の編集会議は草野一家が居候していた練馬区下石神井の御嶽神社の社務所で開かれていた。会議と言っても酒を飲みながらの談論風発といった状態だったようである。1950年から1959年まで、『歴程』の印刷に当たった斎藤庸一によれば、草野をはじめとして皆貧乏だったので、印刷費をなかなか払ってもらえず、とくに終わりの5、6冊の印刷費は「取り立て不能」だったという(斎藤庸一「鳥見さんとの出会い」『歴程』381号〈追悼鳥見迅彦〉、1991年6月、25頁)。この時期、『歴程』の印刷をやめたがる斎藤を慰留するのが鳥見の役割だったようである。

 1948年、草野心平と松方三郎が語らいあって、「耳の会」という集まりを始めた。鳥見迅彦も、おそらく草野に誘われて、「耳の会」に参加するようになった。それによって、鳥見の交遊の範囲は広がっていった。この「耳の会」については、次項で詳しく見ることとしたい。

 1949年、鳥見迅彦は処女詩集『けものみち』の刊行を計画し始めた。題字「けものみち」は高村光太郎に書いてもらいたいと考えた。「左翼」の鳥見が戦時中戦意高揚のための詩をたくさん書いた高村に題字を書いてもらいたいと思ったというのはちょっと不思議な感じがするが、鳥見はそのことを抜きにして、高村の詩業に敬意を抱いていたのであろう。しかし、鳥見は高村を個人的には知らなかったとみえて、草野心平に仲介してもらったようである。高村の「通信事項」(1950年6月1日)には、「草野心平氏にテガミ(けものみち揮毫)」という記載がある(『高村光太郎全集 第十三巻』、501頁)。この時、高村は岩手の山中の粗末な山小屋に独居中であったが、草野の依頼に応えて、「けものみち」という題字を書いて送ったのである。鳥見は『けものみち』劈頭に置く「序詩」の執筆は草野に依頼した。草野は1950年1月14日付で「序詩」を書いた。挿絵は辻まことに描いてもらった。辻まことはアナーキストで戦争末期に餓死したとされる辻潤と伊藤野枝の間に生まれた。しかし、伊藤野枝は辻父子を捨てて大杉栄のもとに走り、1923年9月、関東大震災後の混乱状況の中で憲兵大尉甘粕正彦らによって虐殺された。その後、辻まことは精神に変調をきたした父との関係で苦しむことが多かったが、戦後は才能に任せて、自由な生活を送っていた。彼は鳥見の山仲間でもあった。鳥見は『けものみち』のための「跋文」の執筆を土方定一に依頼した。著者近影というべき写真は土門拳に撮ってもらった。しかし、この時の出版計画は印刷屋の「夜逃げ」や出版者の「挫折」のために流産に終わってしまった。

 1955年7月、鳥見迅彦の処女詩集『けものみち』が昭森社から刊行された。題字、高村光太郎(図版4)、「序詩」、草野心平、写真(撮り直し写真)、土門拳までは最初の計画通りであるが、辻まことの挿絵4点は鳥見が編集した『歴程』4冊の扉絵に流用してしまったので、改めて原精一に描いてもらった。土方定一の「跋文」は印刷屋の「夜逃げ」の際に失われてしまった。なお、鳥見は刊行元昭森社の社長、森谷均とは前述の「耳の会」で知り合ったものと思われる。

 前出のように、「けものみち」という言葉は鳥見迅彦が拷問で全身紫色に変色して、床に転がされている自分自身を薄目を開けて眺めたときに浮かんだモチーフであった。鳥見は『けものみち』の「あとがき」で次のように書いている。

 「けものみち」とは深い山の中をゆききするけものたちのひそかな踏跡のことであるが、ここでは人間の行路を暗示する一つの隠喩として藉りた。奇怪な偏光にてらされながら人生というけものみちをさまよう人々のすがたを思いうかべ、この詩集の題とした。

『けものみち』に収録されている「野うさぎ」という詩はまさにそんな詩である。

そんなにむごい殺されかたで

野うさぎよ!おまえは

殺された

山中の豆畑のけちくさい縄張りを自由なおまえが越えたからか?

アメリカ製のあの残忍な跳ね罠ジャンプ・トラップがおまえにとびついたとき

おまえは自分がわるかったと思ったか?

片足を罠にくいつかれたままどんなにそのいやしい仕掛とたたかったか?

罠ははなれはしなかった

長い耳を降伏の旗のように垂れて

おまえはけれどもその朝まで生きていた

鉈を持ったにんげんがやってきて

おまえを助け出すかわりにおまえの顔や胸をいきなりひどく

それからあとのことはおまえの知らないことだ

おまえは血だらけで木につるされて毛皮をはがれ

肉はこまかくきざまれて鍋に入った

  (わたしがいまもくるしむのは

  (野うさぎよ!)

おまえの殺されかたをだまって見ていたことだ

あのアメリカ製の罠やあの鉈に抗議もせずにいたことだ

おまえのその肉をわたしもじつは食ったことだ

しかもうまいうまいなどとおまえの敵たちに追従わらいをしながら

おまえを食ってしまったそのことだ。

 鳥見の詩は、『けものみち』という書名そのものが隠喩であったように、その多くが隠喩によって構成されている。この「野うさぎ」もその一例である。「野うさぎ」が何の隠喩かは読む者の側に委ねられているのであるが、それが拷問や「転向」と関わっていることは確かであろう。鳥見には自分自身も「奇怪な偏光にてらされながら人生というけものみちをさまよう人々」の一人だという自覚があったと思われる。鳥見の詩には、そのことから発する「罰」の意識が付きまとっている(田中清光「鳥見さんと山の詩」『歴程』381号〈追悼鳥見迅彦〉、24頁)。鳥見は色紙に「山頂への道は/罰のように/つづいている」とよく揮毫していたようである(同前、3頁)。

 前述のように、1956年、鳥見迅彦は『けものみち』でH氏賞を受賞した。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.29)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

書評 平野千果子『人種主義の歴史』岩波新書(新赤版)1930、2022年5月
木畑洋一

 本書の著者は、フランス植民地主義の研究者であり、これまで『フランス植民地主義の歴史』(人文書院、2002年)や『フランス植民地主義と歴史認識』(岩波書店、2014年)など、多くのすぐれた研究を公にしてきた。その著者が植民地主義とは切っても切れない関係にある人種主義に歴史的に取り組んだ成果が、本書である。いうまでもなく、人種主義は近現代世界史を貫通する問題であり、最近ではブラック・ライブズ・マター(BLM)運動を軸として、人類社会の中心的争点の一つとなっている。そうした状況を反映して、人種主義をめぐる研究も盛んである。本書に接する直前、評者はオレリア・ミシェル『黒人と白人の世界史:「人種」はいかにつくられてきたか』(明石書店、2021年、原書は2020年刊)を読んで、その感を強めたばかりであった。

 読みやすい文章で書かれた新書版の本書は、そのような人種主義への関心の新たな広がりによく応じる著作となっている。「人種が、生得的で本質的な性質に基づく、他と区別される人間集団だとすれば、そのようなものはないというのは、今日研究者の間で合意されていることである」(3-4、以下カッコ内の数字は本書の頁数)という点が、本書の出発点となる。人種という問題に関心をもっている研究者ならば当たり前のことと思っているこの点が、広く社会の常識にはなっていないということが、何よりも問題であり、なぜ人びとが人種といった実体があると思い込み、それと差別意識を結びつけて、人種主義に走るようになってきたのか、本書はそれを長期的な歴史のなかで説得的に検討しているのである。

 議論を始めるに際して、著者は、人種主義と人種を次のように定義する。「人間集団を何らかの基準で分類し、自らと異なる集団の人びとに対して差別的感情をもつ、あるいは差別的言動をとることを人種主義とする。」そして、人種主義のもとで「分類された集団が、「人種」として認識されるものである。」つまり人種主義が伴う「差別的なまなざしが、逆説的に人種を作り出しているといえる」のである(11)。これは、歴史的に人種主義と人種の問題に迫っていく上で、きわめて適切な定義であり、著者は、近現代世界の歴史の動態が生み出したさまざまな差別の様態を追いながら、それぞれの時代における人種主義の姿とそのもとで析出される人種像とを論じていく。

 本書の内容をごく大雑把に追ってみると以下のようになる。第1章は「「他者」との遭遇 アメリカ世界からアフリカへ」と題され、大航海時代の始まりから、アフリカ人の奴隷化が広がり始める時期までを扱い、インディオとアフリカ人奴隷に対する差別が問題となるが、人間の分類はこの時期にはまだ本格化しない。「啓蒙の時代 平等と不平等の揺らぎ」という第2章は、17世紀から18世紀を対象とする。人間の分類がリンネやブルーメンバッハ、ベルニエなどによって試みられ、黒人奴隷制の進展を背景とするモンテスキューなど啓蒙主義者たちの人種主義が問題となる時代である。第3章は、「科学と大衆化の一九世紀 可視化される「優劣」」とあるごとく19世紀を扱う章で、人間の「優劣」を科学的に説明できるとする人種主義の理論化がなされるとともに、大衆の間に人種主義が広がり始めた様相が紹介される。植民地支配や人の移動規模の拡大のもとでの人種主義の広がりを、第3章と時代的に重複する時期も含む形で論じるのが、第4章「ナショナリズムの時代 顕在化する差異と差別」であり、社会ダーウィン主義や優生学、黄禍論、イスラーム蔑視、反ユダヤ主義など人種主義に関わるさまざまな思想潮流が紹介される。つづく第5章「戦争の二〇世紀に」は、アフリカ人の大量虐殺やナチの政策のなかに人種主義の到達点を探るとともに、パンアフリカニズムやネグリチュード運動など、人種主義に抗する動きの浮上に触れる。最後に終章「再生産される人種主義」で、著者は、さまざまに形を変えながら再生産されつづけている最近の人種主義の様相を論じるのである。

 こうした形で人種主義の変遷を追うに際して、著者は、それぞれの時代において人種主義を体現した人びとの差別的な視線を単に批判的にとらえていくのではなく、「そのような思想が生まれた時代を問うという、総合的な知の営み」(82-83)が必要であるということを繰り返し強調しているが、それには十分成功している。

 ただ、ひとつ注意しておきたいのは、本書で議論の対象とされているのが、主としてヨーロッパにおける人種主義の展開だということである。その点はオーソドクスといってよく、また時代区分のやり方でも、特に目新しい構成がとられているわけではない。検討の素材となっている人びとも、人種主義論に関連してお馴染みの顔ぶれが多い。しかし、哲学者カントなど、最近この問題に関連する議論が新たに着目されるようになっている対象にもよく目配りがされている。また、よく取りあげられてきた人びとについても、近年の研究動向に即した見直しが随所で行われており、裨益するところが大きい。たとえば、奴隷制をめぐるモンテスキューの議論をめぐる論争や、ゴビノーの人種論の読み直しなどがそれにあたる。「ヨーロッパの人種主義を論じる際に、ゴビノーの名に言及しておけば事足りるかのような姿勢は、そろそろ改める必要があると思われる」(102)という指摘に接すると、人種問題について自分がやってきた講義をふり返って、評者としては耳が非常に痛くなる。セネガルの民族運動家で独立後の初代大統領となったサンゴールが、芸術の発展には黒人の要素が不可欠であると説いたゴビノーを評価したということにも(234)、はっとさせられた。

 全体の行論のなかで、時折著者が特に力をこめて論じていると感じられる部分があるが、それらが非常に効果的な働きをしていることにも注目しておきたい。たとえば、最も美しい人びととされたコーカサス人種をめぐる話題や、逆に人類の序列の最下位に位置づけられることが多かったホッテントットの扱いを詳しく取りあげた部分である。

 気になった点を一つ、最後に述べておこう。それは、本書における日本の扱い方である。著者はいくつかの箇所で日本の問題について触れており、とりわけ終章では、アイヌや琉球の人びとの遺骨返還問題や部落差別問題をクローズアップしている。「今日では差別を問うグローバルな場で、部落差別はいわゆる人種主義の問題と捉えられている。差別が同じ理屈に立脚しているからである。」(239)という点は、本書が立脚している人種主義の定義がもつ重みを示す論点としても重要である。また、第一次世界大戦後のパリ講和会議での日本代表による人種平等条項の国際連盟規約への取り入れ提案もきちんと取りあげられている。そして、それに関わって、「日本が植民地保有国として同じアジアの他者を下位に位置づけたまま、こうした提案をしたことは、皮肉にも人間の間には序列があると示す結果になったとも思われる。」(223)と含意あるコメントが付せられている。ただ、日本の植民地支配のもとでのアジアの他者に対する日本人の姿勢を、本書の人種主義論のなかでどのように位置づけていくかという点については、より立ち入った検討が欲しかった。幅広く差別的感情や差別的言動を人種主義の基底に据えてみる立場からすれば、ヨーロッパでの議論を中心に据えつつも、他の地域に今少し視野を広げることが可能であろうし、その場合、やはり日本とアジアの人びととの関係の事例が重要になってくるであろうからである。

(「世界史の眼」No.29)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

書評 小川幸司・成田龍一編『世界史の考え方 シリーズ歴史総合を学ぶ①』岩波新書(新赤版)1917、2022年1月
鹿住大助

1.はじめに:本書のねらいと高校歴史教育の変更

 本書は2022年1月から刊行され始めた岩波新書の「シリーズ歴史総合を学ぶ」の第一巻である。第二巻『歴史像を伝える──「歴史叙述」と「歴史実践」』、第三巻『世界史とは何か──「歴史実践」のために』は、本稿執筆時にはまだ発行されていない。本書の「はじめに」では、「歴史認識とは、①事実の認識(歴史実証)・②事実関係の解釈(歴史解釈)・③解釈の意味の検討(歴史批評)・④探究成果の表現(歴史叙述)という一連の実践行為(歴史実践)である」と主張する。恐らく、第二巻はその副題にある「歴史叙述」について、第三巻は世界史の「歴史実践」全般に関して論じられるのだろう。本稿では第一巻の叙述のみを取り上げて論じるが、シリーズ全体を読めば、また異なる評価になるものと思われる。

 本書が対象とする読者は、高等学校学習指導要領の改訂にともない、今年から始まった「歴史総合」科目を学ぶ高校生や、それを教える高校教師だけではない。「世界史に関心をもつすべてのみなさんを読者に想定し・・・『世界史は何のために探求するのか』という問いについて、私たちと一緒に考えて」欲しいとある(「はじめに」より)。高校生に「歴史総合で理解すべきポイント」を説明したり、教師に「歴史総合授業の作り方」を指南するものではない。授業で世界史を学ぶための「問い」を例示するのではなく、「そもそも世界史はなぜ、何のために学ぶのか」という「問い」を考えさせることが主眼であるという。

 ここで、高等学校の学習指導要領改訂と「歴史総合」科目の新設について簡単に紹介しながら、本書の意図と構成を読み解いてみる。今回の改訂により、歴史科目は従来の「世界史(A・B)」必修、「日本史(A・B)」選択のカリキュラムが変わり、必修科目として「歴史総合」を全生徒が学習し、その上に選択科目の「世界史探究」「日本史探究」が置かれることになった。

 「歴史総合」では、「近現代の歴史の変化に関わる諸事象について、世界とその中における日本を広く相互的な視野から捉え、資料を活用しながら歴史の学び方を習得し、現代的な諸課題の形成に関わる近現代の歴史を考察、構想する科目」(「【地理歴史編】高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説」、123頁より)とあるように、世界や日本の現代的諸課題形成に関わる近現代の歴史を学習することになった。歴史科目だけに限ったことではないが、「世界史探究」「日本史探究」の名称が示すように、「問い」に基づいて生徒自身が歴史的事実を検討したり、解釈を導き出したりする「探究学習」が重視されているのも特徴である。

 また、「歴史総合」の内容は、大きく「A.歴史の扉」「B.近代化と私たち」「C.国際秩序の変化や大衆化と私たち」「D.グローバル化と私たち」の項目に分かれる。「・・・私たち」が項目名についているのは、それぞれの時代が生徒自身の生きる現代の諸課題にどう関わるか、考察できるようになることを意図しているからである。

 本書『世界史の考え方』は、この四つの大項目のうちB、C、Dに対応して、「Ⅰ.近代化の歴史像」「Ⅱ.国際秩序の変化と大衆化の歴史像」「Ⅲ.グローバル化の歴史像」の三部構成をとる。また、第一部は「第一章 近世から近代への移行」「第二章 近代の構造・近代の展開」からなる。そして、第二部の「第三章 帝国主義の展開」「第四章 二〇世紀と二つの世界大戦」、第三部の「第五章 現代世界と私たち」へと続く。各章では、それぞれが対象とする時間軸上において、これまでの歴史学でどのよう「問い」があったのか、それがどのように変化してきたのか、その変化によってどのような歴史像が導き出されてきたのかを考察する。

 そして本書は、これを考察するための叙述方法に特徴がある。各章では、出版された年代や、対象地域、視点や解釈の異なる三冊の著名な歴史書(「課題テキスト」)を主に取り上げて論じる。議論は「対話」の形式をとり、編者の小川幸司と成田龍一に加え、各章で一人ずつ課題テキストの著者や、解説者をゲストに呼び、一冊目・二冊目の歴史書とその「問い」が描き出す歴史像やその問題点を検討し、対象となる時代に対する歴史学の認識がどのように変化してきたのかを論じている。そして各章末には、対話の内容をまとめる「問い」が示され、歴史総合での学習を促そうとする。

 「課題テキスト」以外にも関連する文献を取り上げているが、三冊のテキストは、新書や文庫版の書籍が多く、比較的手に取りやすい。本書で編者やゲストが繰り広げる対話を読むことで、間接的にこれらテキストへの理解が促されることだろう。ただし、その内容が初学者向けにも「分かりやすい」文献ばかりでは決してない。むしろ、「名著」であるがゆえに、著者が置かれていた時代状況や内容についての関連知識を持っていた方が読みやすく、また、意味を深く考察すればするほどよく理解できるようになるような文献が多い。

 以下では、各章の概要を簡単に紹介する。なお、各章で編者とゲストが展開する対話の論点は多岐にわたっており、以下は「要約」というよりは、「端折った紹介」であることをご容赦いただきたい。

2.本書の概要

 第一章では、近世から近代への移行期の歴史像を論じるため、大塚久雄『社会科学の方法』(岩波新書、1966年)と川北稔『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書、1996年)、岸本美緒『東アジアの「近世」』(山川出版社《世界史リブレット》、1998年)を取り上げている。大塚は資本主義と市民社会が同時に成立したイギリスをモデルに、各国の歴史を比較・分類して近代世界像を描いた。一方で、川北の文献では資本主義近代の歴史を、世界商品の生産・流通をコントロールし、世界システムの中核となった「支配する側」と、被植民地化されシステムの周縁に位置づけられた「支配される側」の構造化の歴史として描く。川北の議論では、現代に生じている格差の問題は、国ごとの発展段階の問題ではなく、世界規模での構造が問題となるのだ。さらに、岸本の『東アジアの「近世」』を取り上げながら、前近代の各地域の国家・経済的特色が、現在にもつながっていることが、著者である岸本の回想や解説と、編者との対話を通じて論じられる。

 第二章では、フランス革命と産業革命、1848年革命という近代史上の三つの転換点をめぐる歴史像を論じる。「課題テキスト」は遅塚忠躬『フランス革命』(岩波ジュニア新書、1997年)と、長谷川貴彦『産業革命』(山川出版社《世界史リブレット》、2012年)、良知力『向こう岸からの世界史』(未来社、1978年)である。ここでは、まずはフランス革命の捉え方をめぐって、遅塚の著書を中心に、フランス革命が「劇薬」化したことを「相対的後進性」に求めた歴史解釈を紹介する。さらに、遅塚以外の論者を取り上げながら、近代化を推し進めた革命主体や事件の層に注目するか、革命主体が生み出される状況や構造(傾向)に注目するかなどの着眼点の違い、明治維新との比較をめぐる論点を検討する。次に、長谷川の産業革命論を取り上げ、人類史上の分水嶺と評価する視点、グローバルヒストリーにおける産業革命分析の視点、推進主体としての発明家だけでなく民衆層への注目など、歴史家の視点を紹介する。さらに、長谷川も対話に登場し、1848年革命をめぐって良知の『向こう岸からの世界史』が指摘するように、支配と被支配の重層化など、単純化されえない複雑なありようを描くことが重要であると指摘される。

 第三章は、帝国主義や国民国家形成の時代におけるナショナリズムや人種論を論じた歴史が検討対象となる。本章では、江口朴郎『帝国主義と民族』(東京大学出版会、1954年)、橋川文三『黄禍物語』(筑摩書房、1976年)、貴堂嘉之『移民国家アメリカの歴史』(岩波新書、2018年)が「課題テキスト」である。江口の世界史は、大塚の歴史発展の比較分析としての世界史ではなく、世界史全体の構造分析である。その歴史像は、帝国主義と民族を軸として、各国特殊な資本主義発展や封建的な要因のあり方と、世界的な資本主義的体制とを統一して把握しようと試みる点に特徴がある。二冊目の橋川は、ヨーロッパにおける「黄禍」観念の根深さや、19世紀の黄禍論に対する中国と日本における対称的な反応の現れ方から、近代日本の特異な人種観の変遷が論じられ、アジアにおける盟主としての日本人観が作られていく過程を独自の視点で描き出している。また、対話の中で「人種」も「民族」も歴史的に形成されてきた概念であり、操作的に用いられてきたことが指摘される。その上で、貴堂との対話を通じては、「大塚久雄が描いたような資本主義と市民社会を実現した『近代』像とは異なり、奴隷制がなおも存続し、それが終了したかに見えてもなお、国民から排除する人々を『人種』という形で作り出し、その抑圧的な政治によって国民国家の統合を実現していく『近代』のありよう」を指摘する。近代の帝国主義時代にあって、国民国家とともに作り出された人種や民族の問題が、現代の人種差別や排外主義、移民への抑圧という、どこでも、誰にでも起こりうる課題につながっていることが明らかになる。

 第四章では、20世紀の世界史像について、丸山真男『日本の思想』(岩波新書、1961年)、荒井信一『空爆の歴史』(岩波新書、2008年)、内海愛子『朝鮮人BC級戦犯の記録』(勁草書房、1982年)の三冊を中心に、戦時−戦後の連続性めぐる歴史学の論点を開示する。丸山は、「戦後歴史学」と似て、近代日本における「封建遺制」を指摘し、日本の特殊性=問題を論じる。日本の近代には、前近代と、超近代が雑然と同居しているという認識に立ち、権力の核心たる天皇制が「精神的機軸」としてこの事態に対処しようとする特殊な状況を生み出す一方で、主体としての個人を生み出すことができなかったとする。二冊目の『空爆の歴史』では、20世紀の戦争を空爆の視点から考察し、それが文明/野蛮という非対称の認識を背景になされる「大量虐殺」行為であると把握する。帝国主義の植民地戦争における空襲から、第二次大戦中の日本軍の生物兵器爆弾投下、アメリカが使用した原爆の正当化、ベトナム戦争時のナパーム弾やクラスター爆弾、冷戦体制崩壊後の「空からの一方的な戦争」に至るまで、「非対称性」が背後に連続して見られることを指摘する。本章のゲストとして登場するのは永原陽子であり、内海愛子の著作を論じながら、「戦争責任」ではない、「植民地責任」の考え方を解説し、世界史の構造的問題が連続していることを指摘する。

 最後の第五章では、第二次世界大戦後を「グローバル化」の時代として、どのような歴史像が描かれてきたのかを論じる。「課題テキスト」は、中村正則『戦後史』(岩波新書、2005年)、臼杵陽『イスラエル』(岩波新書、2009年)、峯陽一『2100年の世界地図 アフラシアの時代』(岩波新書、2019年)であり、ゲストとして登場するのは二冊目の著者の臼杵である。まず、中村の『戦後史』にでは、日米関係論を軸にした内発的発展論を構想し、敗戦国が冷戦体制下でどのように歩んできたのかを描く。ただし、中東情勢の変化に対応して「戦後」が終焉に向かうなど、戦後日本の歩みを「グローバル化」の歴史像として把握する必要があると、編者の成田は指摘する。その上で、臼杵の『イスラエル』をとりあげ、「多様な内実をもつイスラエル国民を統合するためにホロコーストという歴史的経験が重視され、またテロをおこなうパレスチナ人という表象された『敵』への対決姿勢を強調することが、政権の支持基盤をつくっている」とする。臼杵自身はイスラエル国家では、その植民地主義的な国家の出発点を歴史としてどう描くかが問題となることや、イスラエル国家=「ユダヤ人の国家」ではなく、五人に一人はイスラエル国籍を取得したアラブ人であり民族と国籍でズレがある複雑な民族構成を認識しないと、イスラエル国家の性格を見誤ることになるという。最後の峯の『2100年の世界地図』は、グローバル・ヒストリーの視点に立って、2100年を予測するものである。世界の人口重心が21世紀中に「アフラシア」に移動し、現在の「私たち」が「他者」と認識する人々によって「成長」が担われるのである。近代化からグローバル化へと展開してきた世界史は、「西洋」の思想がそれを推進したのであり、世界史が提起する現在の課題も「西洋」の産物である。峯は「アフラシア」という「非西洋」における「非近代」に今後の世界史の可能性を見いだす。つまり、「未来」から見て何が「現代的諸課題」なのかを考えることでより多面的な検討が可能となるのだ。

3.おわりに:問題提起

 以上のように、本書は「歴史総合」が扱い、区分する時間軸に沿って、これまでの歴史学がどのような歴史像を提供してきたのか、それが変化してきたのかを検討し、現在地を確認している。また、近代化以降の世界史が作り出してきた現代的諸課題とは何かを、歴史像の検討を通じて示している。今年から必修科目「歴史総合」を学び始めた高校生の多くには、「課題テキスト」の著者や彼らが生きた時代についても理解しなければならず、読みこなすのが難しい書籍であるかもしれない。「歴史総合」という教科の内容を理解する・考えるためというよりは、教科の背景をよりよく理解し、教科の中で何を問うべきかを考えるための書籍であるといえよう。

 ところで、既に2017年には中学校の学習指導要領も改訂され、昨年度から新しい社会科が始まっている。高校の「歴史総合」や「世界史探究」で生徒が探究する世界史は、カリキュラム上でその上に位置するのである。改訂以前からも、中学校社会科の歴史的分野において世界史学習はあった。日本史が中心ではあるが、教科書の大項目では古代・中世・近世・近代・世界大戦・現代の別に、それぞれの時代の世界史(古代文明の始まり〜冷戦体制)が含まれている。中学校の社会においても「主体的・対話的で深い学び」(いわゆるアクティブ・ラーニング)が目指され、知識の詰め込みではない学習が強調されている。

 本稿のおわりに、本書の趣旨に基づき、筆者の関心から問題提起をしたい(本書に対する批判ではない)。それは「問い」の難しさについてである。本書が一貫して重視するのは歴史の「問い」である。本稿のはじめにみたように、「そもそも世界史はなぜ、何のために学ぶのか」という「問い」を考えさせることが主眼であるという。恐らく、本書が目指しているのは、生徒自身が自らこの「問い」の言葉を発し、自ら世界史を探究するようになることであろう。

 ところで、筆者が大学で担当する授業の受講者に「歴史学習とはどのような行為か」を調査したところ、「正しい知識を記憶する」や「教科書やWeb等から妥当な歴史解釈を探す」よりも、「歴史的事実を探究する」「自らの視点・解釈をもって歴史を語る」「他者と歴史を語り合う」という選択肢に強く共感しており、歴史学習は主体的な学習であると認識していた。本調査の対象となった学生は、中学・高校の学習指導要領改訂前の学生である。

 もちろん、この結果をもって全国に一般化できるわけではないが、従来の学校教育の歴史教科を通じても、学習者は歴史学習に「主体的な探究学習」のイメージを持っていたのかもしれない。それが、「受験のため」や「仕方なく」に変わる場面はどこにあるのだろうか。

 本書各章の最後には、対話のまとめとして、「『歴史総合』の授業で考えたい『歴史への問い』が例示される。例えば、第一章であれば、「①『イギリス・フランス・アメリカが歴史発展のモデルである』という歴史の見方は、どのような点をその根拠にしているだろうか。また、そうした見方の問題点は、どこにあるだろうか」などの「歴史総合」の「問い」を提示するのだ。

 この「問い」はどこで、誰に、どのように投げかけられるのだろうか。もちろん、第一には本書の読者であり、対話形式による歴史像の多面的検討という手法をとる本書の各章を読み直し、よりよく理解させるためであろう。

 もし、これが「歴史総合」の授業・クラスという場で、教師が投げかけるのであれば、生徒は一斉に第一章の記述から正解を探そうとするだろう。そして適切な箇所をなるべく早く見つけ、マーカーで線を引こうとするだろう。そのとき、生徒は、自らの行為を「問い」に対する主体的な探究だと思っておこなうのだろうか。

 一方で、もし、生徒たちに本書が教材資料として配付されていなければ、この「問い」は「正解のない問い」として認識され、これをめぐる生徒同士の対話が求められているのだ、あるいは他の教科書や副読本などから検討する材料を探すのだ、と理解し、他者との対話に参加したり、検討材料を探そうとする行動をとるだろう。「問い」に対する「正解の内容」が定まらないのであれば、クラスの中で「正解の行為をすること」が次善の策になるのだ。そのとき、生徒は、自らの行為を「問い」に対する主体的な探究だと思っておこなうのだろうか。

 授業・クラスという空間では、教師と生徒に非対称の関係性が存在する。なぜなら、教師はルールを定め、発問・説明・指示をおこない、生徒を評価するからである。それは教育という営みでは当然のことであり、だからこそ生徒の学びをつくることができる。一方で、生徒は閉じた教室空間の非対称の関係性の中で、与えられた「問い」に取り組む。「何が正解か」には非常に敏感である。教師の「問い」は関係性の中で正解行為を促すのである。

 生徒は「そもそも世界史はなぜ、何のために学ぶのか」という問いに対して主体的に探究しようとするイメージを持ちつつも、授業が進むにつれて(あるいはこれも非対称の関係性である受験が近づくにつれて)正解行為を探す学習へと変わっていないだろうか。本書各章末の具体的な「問い」を生徒自らが発して探究するような場を、大学教育を含む学校教育の現場、小−中−高−大をつらぬく歴史教育のカリキュラムにつくることが課題であると考える。

(「世界史の眼」No.28)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

書評 アンソニー・リード『世界史のなかの東南アジア 歴史を変える交差路 上下』(太田淳・長田紀之監訳、青山和佳・今村真央・蓮田隆志訳、名古屋大学出版会、2021年)A History of Southeast Asia, Critical Crossroads, Chichester: Wiley Blackwell, 2015
高田洋子

 アンソニー・リードは1939年にウエリントンで生まれ、当地のヴィクトリア大学で歴史学修士号を、その後ケンブリッジ大学で博士号を取得した。マラヤ大学歴史学講師、オーストラリア国立大学「東南アジア史」教授、カリフォルニア大学ロサンゼルス校東南アジアセンター初代所長兼歴史学教授を経て、2002年からはシンガポール国立大学アジア研究所所長も務めた。彼はSoutheast Asia in the Age of Commerce 1450-1680, 2 volumes (New heaven and London: Yale University Press.1988/1993)で、東南アジアが「長い16世紀」に、世界の動きに連動して当時の世界で最も豊かな交易社会を築いたとする時代像を、人びとの生活史の視点も入れて生き生きと描いた。今回紹介する東南アジア通史は、この「商業の時代」を中心に、前後の時代から20世紀末までを同じ観点で詳述した大著だ。

 東南アジア地域は、ユーラシア大陸のインドシナ半島部(大陸部)とインド洋の東側及び太平洋の西側に浮かぶ大小無数の島々(島嶼部)から成る。現在11か国6億5千万以上の人口を擁し、自然/民族/言語・文化/宗教他、実に多元的、多種多様な世界だ。そのため東南アジア全体史を一人で描くのはとても難しい。「東南アジア」という地域概念が定着し始めたのは戦後で、本格的な歴史研究が始まってまだ60-70 年位しか経っていない。私の院生時代にはMilton Osborne, Southeast Asia, An Introductory History (1979)が注目され、2013年には第11版が出るほど世界中で読まれた。この通史と比較すれば、本書では近世early modern史と現代史の部分が相当のボリュームになっている。

 全体は魅力的なタイトルのついた20章から成り、各章に5~8つずつの小テーマが並ぶ。古代から現代へと記述されてはいるが、各章で論じられる期間は相互に重なったり、ずれたりと変幻自在だ。読者は、はじめは水墨画のようにぼんやりとした東南アジアの姿が、季節風の風下に世界各地の人びとや ”もの” が集まっては去っていく、交流と危機の時代を繰り返すうちに一つのまとまりある姿が立ち現われ、やがて別々の色合いを帯びて変化する歴史過程をイメージできる。従来の研究成果や、外来者の記録・報告・私的手紙等を多用しながら、基層社会の上に受容された仏陀やシヴァ神、古くからの貿易システムとムスリム商人のネットワーク、イスラーム、カトリック、プロテスタンティズム、儒教原理のせめぎ合いが描かれる。16世紀の世界的な「銀」の流通に伴う長距離交易、世界市場向け香辛料他の熱帯産物とプランテーション生産、交易を独占し「商業の時代」を急速に終わらせたオランダや英国、また近代をもたらすヨーロッパ勢力と華人の世紀、メスティーソとクレオール文化、コスモポリタンな港市の発展と銃砲国家gunpowder kingsの抗争、そして権力者の支配から逃れる高地人たち・・。東南アジア特有の「ナガラ」、「ヌグリ」、そしてマレー世界とヌサンタラ。多様性を受け入れるシンクレティズムの世界が、外来の普遍主義や純潔主義、そして近代主義にまみれることから生じる歪みや自律性の喪失が饒舌に語られる。

 19世紀後半以降の植民地社会は、(近代)国家のインフラ造りの一方で人口が増え、貧困と非自立化peasantizationがすすんだ。かつての欧華都市the Euro-Chinese citiesは衰退して中心都市だけが際立ち、エリートは近代教育を熱望した。さらに現代はネーションが創られると同時にマイノリティーも創られる。食料増産の”革命”を経た1970年代には、環境破壊と政治腐敗という”陰鬱な”コストを払って、東南アジアの経済成長は再び「商業の時代」に回帰した。全章を通して人びとの衣食住、旺盛なパフォーマンス、気候変動、災害・疫病、ジェンダーなどグローバル・イッシューへの言及も議論を補強している。V.リーバーマンのStrange Parallels 、J. Scottのゾーミア論、ギアツのインヴォリューション論も意識される。また、東南アジアでは交易で得られた富がなぜ欧州のように資本蓄積されなかったか考察される。1980年代に活発化した中間層の運動や都市ムスリムの信教心の高揚は、ヴィクトリア時代のイギリス・プロテスタント運動に似ているとの指摘がある。民主主義を欠落した近代主義の日本軍によって規律と軍式動員、支配者と被支配者の一体化が強制されたことは、独立後の権威主義体制や国家による女性への管理・馴化につながった。西欧の ”男性的” 近代主義も家父長制の下の女性らしさを求めていたとリードは述べる。元来東南アジアでは、ジェンダーバランスの中の女性の位置づけは高かった(女性は商業の担い手であり、異なる文化の媒介者だった点を根拠に)。国家の役割は小さく、節度と調和を重んじて結束をはかろうとする行動規範は、世界の中の東南アジアの特徴だとしている。刺激的な議論にみちた本書は、東南アジア史研究の基本文献となるだろう。

(「世界史の眼」No.28)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

土方久功と鳥見迅彦(上)―「日本の中の世界史」の一コマとして―
小谷汪之

はじめに

1 土方久功の戦中・戦後

 (1) 戦中の土方久功

 (2) 戦後の土方久功

 (以上、本号)

2 鳥見迅彦の戦中・戦後

 (1) 戦中の鳥見迅彦

 (2) 戦後の鳥見迅彦

 (以上、次号)

3 土方久功と鳥見迅彦の交点

おわりに

 (以上、次々号)

はじめに

 長い南洋滞在(1929-1942年)に基づく独特の木彫や詩文で知られる土方久功ひじかたひさかつ(1900-1977年)の詩文集『靑蜥蜴の夢』(大塔書店、1956年。自費出版)をある古本屋から購入したところ、扉に「鳥見迅彦様 土方久功」という署名があった(図版1)。土方が鳥見に献本したものが、鳥見の死後、古本市場に流れたのであろう。その時まで、私は鳥見迅彦とみはやひこ(1910-1990年)という人物について何も知らなかったのだが、土方の署名を見て、この人物に興味を持った。それで、土方と鳥見のそれぞれの人生の軌跡を辿ることによって、両者の交点がどこにあったのかを探ってみようと思った。そこに見えてきたのは、あの戦争の時代を生き抜いた人々の群像であり、まさに「日本の中の世界史」の一コマというべきものであった。

1 土方久功の戦中・戦後

(1) 戦中の土方久功

 土方久功は、1900年、東京に生まれた。父は明治の元勲、伯爵・土方久元(土佐藩出身)の弟で陸軍砲兵大佐の土方久路、母、初栄は海軍大将、柴山矢八の長女であった。築地小劇場の土方与志よし(本名、土方久敬ひさよし。1898-1959年)は土方久元の孫であるから、世代としては久功の方が一つ上だが、年齢は与志の方が上である。二人は年齢が近いこともあって、幼いころからの遊び仲間であった。

 1917年、土方久功は学習院中等科を卒業したが、父の病気(肺結核)による退役のため、家庭が困窮化し、学習院高等科には進学できなかった。しばらく父の看病をしていたが、1919年に学費の安い東京美術学校(東京芸術大学の前身)の彫刻科に入学した。しかし、その少し後、父が死去して、家庭の困窮はさらに深まった。1924年に東京美術学校彫刻科を卒業、この前後には築地小劇場の舞台装置の製作などに携わった。その後、母が死去し、土方久功の家は離散した。

 1929年3月、土方久功は当時日本の国際連盟委任統治領だった南洋諸島のパラオに渡り、南洋庁の嘱託になった。職務は公学校(現地民子弟用の初等学校)や小学校で木彫を教えることであった。しかし、翌1930年には南洋庁嘱託の職を辞して、パラオの民族誌的研究に専念するようになった。その土方の前に、蒲郡出身の宮大工で、パラオに移住していた杉浦佐助が現れ、土方に木彫の弟子にしてほしいと願い出た。杉浦はすでにパラオの言葉に精通していたので、土方は杉浦を助手がわりに受け入れることにした。二人はその後行動を共にし、パラオ諸島各地を回り歩いた。1931年11月、土方と杉浦は「文明」からより遠い地を求めて南洋庁ヤップ支庁東端の孤島、サテワヌ島に行き、この人口300人ほどの現地民だけの島で7年余りを過ごした。この間、土方はサテワヌ島民の民族誌的調査と木彫制作にいそしみ、杉浦は独特の幻想的な木彫の境地を切り開いた。

 土方がサテワヌ島に渡る2カ月ほど前の1931年9月18日には満洲事変が勃発し、天皇制日本は中国での破滅的な戦争へと突き進みだしていた。それが、1937年7月7日、盧溝橋事件をきっかけとして日中両国の全面戦争に展開した。しかし、サテワヌ島での7年ほどの暮らしの中で、土方が日中戦争に関心を寄せることはほとんどなかったようである。

 1939年1月、土方久功と杉浦佐助はサテワヌ島を去って、パラオに戻り、同年4月には一時的に帰国した。杉浦の木彫の個展と土方の南洋蒐集品の展示会を開くのが目的であった。6月6日、土方は杉浦の個展目録に推薦文を書いてもらうために同人誌『炬火』のかつての同人仲間である倉橋弥一と一緒に文京区団子坂の高村光太郎宅を訪れた(『土方久功日記Ⅴ』国立民族学博物館、2014年、59頁)。土方が高村と会うのはこれが初めてであった。

 1939年6月21日から24日まで、銀座の三昧堂ギャラリーで杉浦佐助の個展が開かれた。土方久功も数点の木彫を出品した。22日には、高村光太郎が参観に来た(ただし、土方は不在で高村と会うことができなかった。同前、62頁)。この杉浦の個展は、高村が「此はあの南洋の土地からでなければとても生まれないと思はれる原始人の審美と幻想とに満ちた、恐るべき芸術的巨弾である」と激賞し、朝日新聞など各紙が批評を掲載するなどして、大きな反響を呼んだ(岡谷公二『南海漂泊 土方久功伝』河出書房新社、1990年、138-139頁)。蛙の詩人、草野心平はこの個展で杉浦の怪異な蛙の像を購入し、愛蔵した(図版2)。

 他方、土方久功の蒐集品は、1939年6月24日、「土方久功氏蒐集南洋土俗品展」として京橋の南洋群島文化協会東京出張事務所で展示された。同年7月8日には、同じ内容の展示会が東京帝国大学理学部で開催された。土方が、パラオで考古学的調査を行っていた東京帝国大学理学部人類学科講師の八幡一郎を介して、同科主任教授の長谷部言人や副手の杉浦健一と知り合ったことから、この展示会が開かれることになったのである(岡谷『南海漂泊』、147-148頁)。その後、この展示会の展示物はすべて人類学科に売却された。

 1939年8月2日、東京での仕事を終えた土方は、杉浦とは別れて、単身パラオに戻った。その後、杉浦も離日したが、パラオには戻らず、サイパン島などいくつかの島々を経て、テニヤン島に落ち着いた。その後、土方と杉浦が再会することはなかった(杉浦は1944年、米軍占領下のテニヤン島で死去した)。

 1941年7月7日、後に作家となる中島敦が「南洋庁編修書記」として、パラオに赴任した。土方も再び南洋庁の嘱託になっていたから、二人は知り合い、急速に親交を深めた(土方久功と中島敦の関わりについて、詳しくは拙著『中島敦の朝鮮と南洋』岩波書店、2019年、を参照)。しかし、同年12月8日、日本がアメリカ・イギリスに宣戦布告し、太平洋戦争がはじまると、パラオはしだいに軍事的緊張に覆われるようになっていった。

 1942年3月4日、軍事色一色になったパラオに幻滅した土方久功は中島敦と共にパラオを去り、17日東京に帰着した。

 1942年9月18日、土方久功は東京美術学校の後輩で画家の後藤禎二の紹介により、医師の川名敬子と結婚した。結婚式には中島敦も出席している。中島は『光と風と夢』、『南島譚』と相次いで二冊の本を刊行した後、1942年12月4日、激しい喘息の発作により急死した。土方は中島敦の死を長く悼み続けた。

 しかし、戦局は太平洋戦争の最前線になる危険性が強かったパラオから帰京した土方久功の身にも直接に影響を及ぼしてきた。中島敦の死後まもなく、土方は陸軍軍属として北ボルネオに派遣された。英領北ボルネオを占領・支配した北ボルネオ守備軍司令部の司政官に任命されたからである。北ボルネオ守備軍司令部はボルネオ島北西端のクチンに置かれていた。土方の北ボルネオ派遣には、太平洋協会が深く関与していた。太平洋協会は1938年に鶴見祐輔(鶴見俊輔の父)を中心として設立された国策調査機関で、南北アメリカ大陸や太平洋地域を調査対象とした。その一環として、北ボルネオ守備軍のもとで北ボルネオの占領地調査を行っていた。太平洋協会には土方旧知の人類学者、清野謙次や杉浦健一なども加わっていたから、土方の長い南洋体験を占領行政に利用することが考えられたのであろう。土方としては不本意なことだったに違いないが、拒否することもできず、陸軍軍属として急遽北ボルネオのクチンに赴任せざるをえなかったのである。

 1943年3月、土方は北ボルネオ守備軍司令官の一行に加わり、1カ月ほどかけて、ボルネオ島北岸のブルネイ、サンダカンなどの現地調査を行った。しかし、その後、パラオ滞在中から苦しんでいた胃潰瘍がさらに悪化して、調査旅行がむずかしくなった。結局、土方は1943年6月末には、昭南(シンガポール)の病院に入院、9月末には香港の陸軍病院に転院した。戦局がさらに悪化した1944年3月、土方は胃潰瘍が治癒しないまま香港の陸軍病院を退院させられ、帰国した。

 この時代、土方久功のみならず、数多くの文学者や人文学者たちが軍に徴用され、中国大陸や東南アジア各地に司政官などとして派遣された。彼らの戦争体験が戦後日本の文化状況にどのような影響を与えたのかは今なお問われてよい問題だと思う。

 1944年9月、土方夫妻は岐阜県可児郡土田村に疎開した。萱場製作所岐阜工場長をしていた土方久功の母方の叔父、柴山昌生を頼っての疎開であった。しかし、土方の体調は依然として回復せず、木彫の仕事などはできなかった。わずかに、自給用の蔬菜を栽培するぐらいで、生計は医師としての妻、敬子に頼る面が強かったと思われる。

 1945年8月15日、土方久功は「終戦」の詔勅を土田村で聴いた。格別の感慨はなかったようである。

(2) 戦後の土方久功

 敗戦後二年半ほど経った1948年3月、土方夫妻は約三年半ぶりに疎開先から帰京した。妻、敬子は世田谷区豪徳寺に医院を開設し、久功はその後ろにアトリエを建てて、木彫などの仕事を開始した。現在、日本に残る土方久功の木彫の大部分はこの後の制作によるものである。

 疎開中、民族学や彫刻や詩などについて語り合う相手がなく、孤独感を強めていた土方久功は、東京に帰ると、東京美術学校の同窓生や『炬火』の旧同人など多くの人たちとさかんに交遊するようになった。その一つに「耳の会」があった。「耳の会」は1948年に草野心平と松方三郎が始めた集まりで、土方は1951年に松方三郎に誘われて参加するようになった。松方は学習院中等科で土方より一学年上であった。この「耳の会」を通して、土方は詩人、画家などとの交友関係を広げていったが、なかでもフランス文学者、宇佐美英治とは親交を深めた(「耳の会」について、詳しくは後述)。

 1951年4月、土方久功は第一回個展を日本橋の丸善画廊で開催したが、大きな反響を呼ぶことはなかった。そのためであろう、土方は第二回個展を開く際には事前にいろいろと準備をしたようである。1953年1月17日(土)、土方は東京美術学校の同期生で彫刻家の村田勝四郎と共に、高村光太郎の中野のアトリエを訪問した。個展を見に来てくれるよう頼んだのであろう。高村の日記には、「村田勝四郎氏、土方久功氏くる、丸善に月曜午后ゆき陳列を見て何か書くこと約束」という記載がある(『高村光太郎全集 第十三巻』増補版、筑摩書房、1995年、172頁)。この時、高村は、敗戦後間もない1945年10月から1952年10月まで7年間続いた岩手県稗貫郡太田村山口における山小屋生活を切り上げて、東京に戻ってきたばかりであった。戦時中、高村は国民の戦意高揚を図るような詩を多く書き、「大東亜戦争」に深くかかわった。そのことが何らかの形で岩手の山中の独居生活と関わっているのであろうが、十和田湖畔に彫像を建てたいという青森県知事津島文治(太宰治の兄)の要請にこたえるために帰京したのである。

 1953年1月18日(日)、土方久功の第二回個展が日本橋、丸善画廊で開かれた。この日の午前中には、宇佐美英治が会場に来て、陳列など会場設営に協力した。宇佐美によれば、高村光太郎が午後になっても姿を見せないので、土方はやきもきして、「おかしいな、忘れられたんだろうか、確かに来るといっておられたのだが」と何度も繰り返していたという(宇佐美「土方久功の彫刻」『同時代』34号〈特集土方久功〉、1979年8月、136頁)。ただ、これは高村が「月曜午后」に行くといったのを土方が聞き間違えたのであろう。高村の日記には、1953年1月19日(月)、「二時出かけ丸善の土方久功氏てんらん曾、紹介文をかき同氏に渡す」という記載がある(『高村光太郎全集 第十三巻』、173頁)。この「紹介文」は21日の朝日新聞朝刊の学芸欄の真中に、三段抜きで、土方の作品の写真と共に掲載され、大きな反響を呼んだ(岡谷公二『南海漂泊』、144-145頁)。

 1953年1月27日、土方久功は高村光太郎のアトリエを訪ねた。高村の日記には、「土方久功氏くる、ビール一(ダース)もらう、一緒にビールをのみ雑談」という記載がある(『高村光太郎全集 第十三巻』、174頁)。個展を観にきて、「紹介文」を書いてくれたことに対するお礼であろう。

 1953年9月、土方久功は『文化の果にて』を龍泉閣の「限定版叢書』(限定1000部)の一冊として刊行した。この著書の「序」は高村光太郎が朝日新聞に載せた土方の個展の「紹介文」である。その冒頭には、「土方久功氏の原始美。しかし、これをただの原始美といってしまうわけにはゆかない。この原始芸術の姿を以てわれわれの前に並べられている十余点の彫刻は、相当目を驚かす類の怪奇さを示してわれわれに迫ってくるが、よく見ていると、その怪奇さを怪奇と感じさせない芸術のデリカシーがあってわれわれをたのしく誘いみちびく。妙に心ひかれる」と書かれている(図版3)。『文化の果にて』の出版元である龍泉閣は秋田出身の澤田伊四郎が設立した出版社で、渋る高村光太郎を押し切って、最初に『智恵子抄』(1941年)を出版し、ベストセラーにしたことで知られる。土方の個展に感動した高村が龍泉閣の澤田伊四郎に『文化の果にて』の刊行を慫慂し、自分の書いた「紹介文」を「序」に使うことを勧めたのであろう。多分、それに対するお礼であろう、土方は9月5日に高村のアトリエを訪ねたが、不在で会えなかったので、ビール6本を置いて帰った(『高村光太郎全集 第十三巻』、221頁)。9月9日には、土方は澤田伊四郎と一緒に改めて高村のアトリエを訪問した(同、222頁)。

 1955年9月、土方久功は詩集『非詩集ボロ』を大塔書店から「自家版」として出した。この詩集に収録されている詩は帰京後に書かれたもので、南洋体験とは直接的関係はない。9月14日、土方は高村光太郎のアトリエを訪れ、『非詩集ボロ』を献呈した。高村の日記には、「后土方久功氏くる、詩集をもらふ、出版資金カンパのため100圓呈」という記載がある(『高村光太郎全集 第十三巻』、373頁)。

 1956年6月、土方久功は詩文集『靑蜥蜴の夢』を大塔書店から「自家版」として出版した。『靑蜥蜴の夢』の前半には、土方が『文化の果にて』に書いた二つの文章、「靑蜥蜴の夢」、「ガルミズ行」が再録されている。いずれもパラオ(コロール島)における生活を描いたものであるが、「靑蜥蜴の夢」はサテワヌ島に行く前のパラオ、「ガルミズ行」は7年余りのサテワアヌ島滞在を切り上げて、戻ってきた後のパラオを描いたものである。後者には、7年余りの間に日本の軍事基地化したパラオ(コロール島)の激変に対する土方の幻滅あるいは悲哀が色濃くただよっている。土方が龍泉閣から出版した『文化の果にて』にすでに収録されている二つの文章を「自家版」の詩文集に再録したのは、この二つの文章に土方のパラオに対する思いが詰まっているからであろう。

 この年(1956年)、鳥見迅彦は詩集『けものみち』(昭森社、1955年)でH氏賞を受賞した。このことを知って、土方久功は同年に刊行した『靑蜥蜴の夢』を鳥見に献本することにしたのであろう。その土方の署名入りの本が、鳥見の死後、古本市場に流れて、最終的に私の手元に流れ着いたのである。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.27)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

「万国史」における東ヨーロッパ I-(2)
明治期「万国史」における「東ヨーロッパ」(その2)
南塚信吾

Ⅰ パーレイ的「万国史」の中で:明治初期の文部省教科書

2. 文部省『史略』文部省 明治5年(1872年)と師範学校編輯『万国史略』文部省 明治7年(1874年)

 1872年(明治5年)に学制が発足した時、すでにあった寺内章明『五洲紀事』と西村茂樹『万国史略』が、とりあえず小学校の教科書とされた。しかし、よりコンパクトな教科書が必要であった。それに合わせて文部省が編纂したのが『史略』明治5年(1872年)(『日本教科書体系』第18巻 講談社に所収)である。地理学者内田正雄の筆による。『史略』は、巻の一が日本(皇国)、巻の二が支那、巻の三と四が西洋の歴史であった。日本史の巻は天皇歴代史で、中国史は王朝史であって、ページ数も少なく、天皇・皇帝の事績を並べただけで、歴史というほどの記述にはなっていなかった(「歴史」という用語は使ってはいたが)。「西洋史」のほうは上下二巻になって、これは、ページ数も多く、文章として歴史記述になっていた。本書は、「人の始めは国々の説異同ありていずれとも定め難し」として、「大洪水」と「ノア」から始めていた。「大洪水」以前の聖書的な見方は脱していたわけである。その上で、上古、中古、近世を区分していた。上古は紀元500年ごろまで、中古はそれ以後1500年まで、近世をそれ以後今日(明治)にいたるまでとしていたが、実際には、中古と近世の区別はせずに、中古以下各国の歴史を並列して論じていた。構成は以下のように、パーレイ的に各国史を並記したものであった。

史略

上古

 アッシリア、バビロニア、フェニシア、ユダヤ、ペルシア、ギリシア、ローマ

中古以来

 仏蘭西、英吉利、独逸・墺太利・普魯士、西班牙・葡萄牙、和蘭、比耳時、瑞西、嗹國・瑞典、魯西亞、以太利、土耳其(附希臘)、亜米利加

 2年後、この『史略』のなかの西洋史と東洋史の部分を独立させ、それを詳しくして、師範学校編輯『万国史略』明治7年(1874年)(『日本教科書体系』第18巻 講談社に所収)が出版された。大槻文彦〔宮城師範学校長となった〕の「序文」によれば、「万国史」は「世界中の国々の歴史」という意味であるが、日本の歴史は別に論ずるので、この中には入れない。西洋史については、すでに文部省から出版された「概略の歴史」(『史略』のこと)があるので、それを増減したという。つまり、この「万国史」は「日本史以外の外国史」を網羅しようとするものであった。ここに、便宜的とはいえ、日本史と「万国史」を二本立てで考える方式が登場したのである。

 その構成を見ると、下のようであった。

《巻の一》

亜細亜洲―漢土、印度、波斯、亜細亜土皃其(トルコ)

欧羅巴洲上―希臘、羅馬皃

《巻の二》

欧羅巴洲下―「人民の移転」、仏蘭西、英吉利、独逸、墺地利、普魯士、瑞西、和蘭、比耳時、嗹馬、瑞典、那威、西班牙、葡萄牙、伊太利、土耳古、露西亜

亜米利加州―「発見殖民」と合衆国

 『万国史略』は、『史略』を踏襲していて、それと同じく、万国の歴史を網羅していた。それぞれの国について、歴史をタテに述べるという方式であった。パーレイの影響が見える。だが、アフリカとオセアニアは削除されている。それに、「人民の移転」(諸民族の大移動)と「発見殖民」が独立の項で扱われるようになった点が『史略』と違うところである。

 人類の起源については、『史略』は大洪水から始めていたが、『万国史略』は少し妥協的で、亜細亜土皃其(トルコ)の節において、「西洋ノ説」によれば、ユーフラテス川のそばにアダムとイブが初めて「化生」し、人類の起源となったと言われると記していて、聖書を全面的には取り入れていないが、一応の配慮はしていたようである。

 さて、『史略』と『万国史略』では、ヨーロッパの東部をどのように扱っていたであろうか。『五洲紀事』と同じく、ここでも、ギリシア、ハンガリー、ポーランドのみが扱われていた。

≪ハンガリー≫

 ハンガリーは、『史略』では、『五洲紀事』のように独立の項目にはなっていなかったが、独逸・墺太利・普魯士の節と土耳其の節においていろいろな脈絡で述べられていた。主なものは、①「独逸」が10世紀に「ヘヌリ」(ハインリッヒ一世)の時に「ハンガリー」から邊境を侵す者を打破ったこと、②「オットマン」国が「バジヤシスト」一世のときに「ハンガリヤ」に侵入し、ホンガリー王が仏独の兵と連合してこれを防いだこと、③1520年代の「ソリマン」(スレイマン)二世のときに「ハンガリー」を攻略して属国としたこと、④「ハプスブルグ」の墺太利が1500年代から「ボヘミヤ」「ホンガリー」を領地に帰させて大国となったこと、⑤17世紀末の墺太利の「レヲポルド」帝の時「ハンガリー」の人民が乱を起して、土耳其がこれに乗じて「ウィーンナ」を包囲したがこれを退け、「ハンガリー」を平定したことなどである。

 オスマン帝国がハンガリーとの関係で位置づけられていることが注目される。このうち②はバヤジットのブルガリア攻撃のことと誤っていると思われるが、その他はいずれもハンガリー史にとって重要な史実であった。その論じ方は「王朝史」であったが、『五洲紀事』より正確な歴史になっている。『五洲紀事』にあるような匈奴の子孫という人種的な観点はなかった。ここで気になるのは。「人民」という言葉であるが、この時期の「万国史」では、「国民」と並んで「人民」が使われていて、その「人民」は広く人間という意味でも、民衆という意味でも使われていた。

 以上は『史略』の記述であるが、ハンガリーの扱いは『万国史略』でもまったく同じであった。

≪ギリシア≫

 『史略』では、土耳其史が系統的に述べられていて、その中で希臘の独立も扱われていた。ギリシアの独立についての記述を見てみよう。

「希臘は東羅馬の衰退後、久しく土耳其の版図に期せしが、其の苛酷の政令に耐えず、千八百二十一年より終に兵を挙げて土耳其に抵抗し、数年間死力を盡して血戦せしと雖も、衆寡敵せず、殆んど土耳其の為に圧服せられんとす。然るに英国仏国魯国等より兵を出し、千八百二十八年大いに「ナバリノ」に於いて土耳其の海軍を討破り、其翌年「モレヤ」の地独立して希臘国と号を初め、「カポジストリヤ」大頭領に任せしなり。」(『日本教科書体系』第18巻 54頁)

 ギリシアの独立は当時の日本では注目されていた出来事であった。この記述は『五洲紀事』のそれとほぼ同じである。記述は今日から見てもほぼ正確である。ただギリシアは1829年に「独立」したのではなく、自治国となったということは、正確には押さえられていない。だが、他は正確である。また「カポジストリヤ」(カポディストリアス )大頭領への言及が新しいところである。すでに「独立」、「大頭領」(大統領)という用語が出ていることに注目しておきたい。『万国史略』もこれと同じ内容であった。 

≪ポーランド≫

 『史略』では、ポーランドについては、独逸・墺太利・普魯士の項で、「1795年、墺普の両国、魯西亜と共に波蘭国を亡ぼし、之を三分して、各領地を増せり」(41頁)とされ、魯西亜の項の中では、「波蘭国を亡ぼし、普魯士、墺地利と之を分ち領す」(50頁)と出てくるだけである。波蘭の側での抵抗のことも指摘はなく、諸王の偉業として扱われている。当時の日本ではポーランド分割への関心は高いはずであるが、意外にあっさりとしている。『五洲紀事』にあった「人民」「国人」の目線がなくなっている。『万国史略』もこれと同じ内容であった。

 以上のように、『史略』と『万国史略』においても『五洲紀事』と同じく、ヨーロッパ東部のうちでは、ギリシア、ハンガリー、ポーランドが関心の対象であった。それはアメリカのパーレイに倣ったものであろうが、日本としても国家の独立と分割に対する関心が、これらの国への関心となっていた。だが、寺内の『五洲紀事』と比べて、いわば「権力的」な見方をしていた感がある。また、仏蘭西の「大騒乱」とナポレオンの戦役、1848年の「動乱」の記述はあるが、それとの関係で、ヨーロッパの東部が論じられることはなかった。なお、『五洲紀事』では「革命」が使われていたが、ここでは「騒乱」や「動乱」である。まだ用語は確定していなかった。

3. 田中義廉『万国史略』甲府書林 明治8年(1875年)   

 師範学校の創建者として知られ、文部省の教科書編集に携わった洋学者田中義廉の書いた『万国史略』明治8年(1875年)(『日本教科書体系』第18巻 講談社に所収)は、小学生用の準教科書である。文部省刊ではないが、文部省において西村茂樹のもとで働いていた田中の編のものであるから、教科書に準じた意味があったものと思われる。そして、日本と「支那」は別にするので、本書にはこれを含めないという方針で書かれている。

 本書も亜當(アダム)と厄襪(エブ)から始め、聖書的要素を残していたが、創世記は半頁で片付けていた。それでも『史略』や『万国史略』よりは聖書的であった。構成は以下のようであった。

巻の一 太古史

 亜西里亜(アッシリア)、馬太(メディ)、新亜西里亜、巴比羅尼亜(バビロニア)、猶太(シュダー)、勿搦齊亜(フェニシア)、亜剌比亜(アラビア)、波斯(ペルシア)、亜細亜土耳其、希臘(ギリシア)、羅馬(ローマ)、羅馬尼(ロマニイ)

巻の二 伊太利、仏蘭西、

巻の三 西班牙、葡萄牙、日爾曼(ゼルマン)、孛魯士、和蘭、比利時、瑞西

巻の四 英吉(イギリス)、嗹馬(デンマーク)・瑞典(スウェーデン)・那爾威(ノルウエイ)

巻の五 魯西亜、土耳其、米利堅聯邦

 見られるように、師範学校編『万国史略』と比べた場合、中国やインドは抜けているが、同じような各国史の並列になっている。これはパーレイから内容を取って編集したとされている。ヨーロッパは各国史的に詳しく論じられていた。その中でヨーロパの東部に関連して論じられているのは、ギリシア、ハンガリー、ポーランドであったが、ここではルーマニアが出てきている。

 まずギリシアについてみると、『五洲紀事』や『万国史略』と同じく、古代から始まる希臘の節の終わりにギリシアの独立が論じられている。内容は、独立までは従来と同じであるが、本書では、独立以後のギリシアの動きもが論じられている。1832年にバイエルンよりオットー(オソン)一世を迎えて「独立」したが、この王は「不徳」にして「人望」を失い、1860年(1862年の誤り)、「國人」はこれを廃してデンマークより王(ゲオルギオス一世)を迎えた。その後ギリシアは盛んになったという(『日本教科書体系』第18巻 171頁)。「國人」の目線から歴史が見られているということができる。

 つぎに、ルーマニアが登場する。羅馬の節の次に、羅馬尼(ロマニイ)が論じられていた。『五洲紀事』や『万国史略』にはない記述である。曰く、西と東の羅馬の滅亡のあとその「人民」が多悩(ダニューブ)河の辺に移ったが、土耳其の苛政に苦しんできた。それがようやく1860年ごろから「國人」力を合わせて「独立」を謀り、公国となり「羅馬尼(ロマニイ)」と称した。しかし、土耳其の覊軛を免れず、公位についた歴山の元でも6年間政令が整わず、内乱が起きて、このたびドイツから新たに公を迎えた。それが今の迦爾(カール)一世である(同上 179頁)。ルーマニア人がローマの末裔であるというのは、ストレートすぎる理解ではあるが、早くもこの時期にドナウ川の辺まで関心が届いていたことは特記すべきである。ここでも「國人」の目線から書かれている。

 三つ目にハンガリーを見よう。これも『五洲紀事』や『万国史略』と同じく、日爾曼(ゼルマン)と土耳其の節で述べられていた。扱われているのは、ほぼ同じ内容で、①919年に王位に就いた「顕理」(ハインリッヒ一世)が英邁果断で「洪牙利」を打破ったこと、②教法改革(宗教改革)で日爾曼の南部が騒擾している時に、所利曼(スレイマン)二世の土耳其が大挙して洪牙利を蚕食し、墺太利に侵入し、1529年、維也納(ウイーン)を囲むに至ったこと、③17世紀末の墺太利の「略波爾」(レオポルト一世)帝の時、1683年に、土耳其が洪牙利人を誘い、墺太利を攻めてまた「維也納」を包囲したが、墺太利はザクセン、バイエルン、ポーランドの兵の助けを得て、これを退けたことなどである。

 しかし、『五洲紀事』や『万国史略』にあった、「ハプスブルグ」の墺太利が1500年代から「ボヘミヤ」「ホンガリー」を領地に帰させて大国となったこと、土耳其の二回目の攻撃の際、「ハンガリー」の人民が乱を起して、土耳其がこれに乗じたということ、第二次包囲を退けたのち、オーストリアが「ハンガリー」を平定したことなどは、記されていなかった(同上 208,210,244,245頁)。なおハンガリーの記述では「國人」の目線は貫かれていない。

 最後に、ポーランドはどうか。墺太利と孛魯士と魯西亜のところで、三国で「波蘭ヲ滅ボシテ、其地ヲ三分セリ」と出て来る。しかし、ポーランド人の抵抗の事などは触れられることはなかった(同上 211,212,241頁)。ここでも「國人」の目線は貫かれていない。

 仏蘭西の「大騒乱」とナポレオンの戦役、1848年の「動乱」について、『史略』や『万国史略』以上に記述は詳しくなり、とくにナポレオンと1848年に関しては、充実した記述となっているが、それとの関係で、ヨーロッパの東部(チェコやハンガリーやルーマニアなど)が論じられることはなかった。

 こうした違いや「國人」目線が散見されるという違いはあるとはいえ、基本的には『五洲紀事』や『万国史略』と同じようにパーレイを底本にした教科書であった。各国併記であり、視線も王朝荒廃や治乱興亡を主としていた。面白いことに、パーレイの本自体はまだ完訳が出ていなかった。それは次の時期になる。

(続く)

(「世界史の眼」No.27)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

文献紹介 向野正弘「酒井三郎の「世界史学」に基づく歴史教育構想―1950年代後半、『世界史の再建に先立つ見解』」『歴史教育史研究』第19号 歴史教育史研究会 2021年 23-37頁
南塚信吾

 本稿は、1950-60年代に世界史について独特の議論を展開した酒井三郎の「世界史学」の研究のための予備論文である。上越教育大学の茨木智志の主催する『歴史教育史研究』は世界史を含めた歴史教育について地道な研究を発表しており、本論文はそのようなものの一つである。

 本稿で扱われる酒井三郎は、1901年(明治34年)に高知県に生まれ、東北帝国大学で西洋史を専攻して卒業後、東京帝国大学の大学院で学んだ。修了後、日本大学、日本女子大学で教えたのち、高知の追手前高校の校長を務め、1951年に熊本大学教授となった。1968年に定年退職したのち、立正大学に76年まで務め、1982年に亡くなっている。この間、『国家の興亡と歴史家』(弘文堂書房、1943年)、『世界史の再建』(吉川弘文館、1958年)、『ジャン・ジャック・ルソーの史学史的研究』(山川出版社、1960年)、『日本西洋史学発達史』(吉川弘文館、1969年)、『啓蒙期の歴史学』(日本出版サービス、1981年)などを出している。

 向野正弘の論文は、

  1. 酒井三郎の「世界史」認識をめぐって
  2. 酒井三郎の歴史教育に対する覚悟
  3. 戦後の社会科「世界史」の回顧と現状認識
  4. 「世界史学」について
  5. 現在ならびに未来の取り扱い
  6. 「世界史学」から見た歴史教育構想
  7. 歴史教育の大綱試案
  8. 酒井三郎の隘路
  9. 現代の「世界史」教育への示唆

という構成を取っている。

 個々の節の内容は紹介する必要はないだろうが、この中で、とくに紹介しておきたいのは、「世界史学」という概念であろう。酒井は、「日本史に対立するところの外国史の同義語である世界史」、つまり「東洋史プラス西洋史すなわち世界史」という規定を排する。ではどうするか。向野によれば、酒井は、網羅主義の世界史にたいして、「世界史学」に基づく「世界史」を提起しているという。酒井の言葉によれば、「世界史学とは世界を対象とした歴史学」であり、「世界に住まう人間の社会生活の発展を対象とするもの」だという。「世界史学」は、「いわゆる日本史・東洋史・西洋史のたんなる綜合ではない。かつて行われた万国史ではない」。日本史・東洋史・西洋史の「それぞれの歴史の発展の共通な面をとりあげて、世界の共通の史的問題をとりあつかう」のである。だから、「日本史のある断面は、西洋史的問題としてじゅうぶんに意味をもつものであり、東洋史・西洋史においてもまた同様である。かくして日本史即世界史であり、東洋史・西洋史それぞれすなわち世界史でありうるといった世界史史学」を考えているという。だから、酒井は、日本世界史・西洋世界史といういい方もできるのだという。

 われわれが考える「日本の中の世界史・世界史の中の日本」という考え方に通じるのかもしれない。また何らかのテーマをもって地球上の諸国を「通地域・通国家的」に考えるという方向を考えていたのかもしれない。

 河野は、酒井の「世界史学」という概念は史学史のなかでなお確認しなければならないと注記しているが、概念は別としても、酒井が具体的にどういう歴史を考えていたのかは、興味のあるところである。酒井の『世界史の再建』においては、教育体制と教科書を材料にもう少し具体化されているようだが、向野がどのような理解をしめすのか、是非とも知りたいところである。

(「世界史の眼」No.27)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

書評 益田肇『人びとのなかの冷戦世界―想像が現実となるとき』岩波書店、2021年。
佐々木一惠

 冷戦とは何だったのか?本書のこの問いは、今、新たな意味合いを持って問い直されている。2022年2月24日、ロシアのウクライナ侵攻が始まった。不安、戸惑い、怒り、さまざまな感情が人びとの間で沸き起こっている。本書は、こうした市井の人びとの感情が、冷戦という大きな歴史的な「現実」の構築に重要な役割を果たしていたことを明るみにする。

 本書の焦点は朝鮮戦争期である。1950年6月25日、北朝鮮が北緯38度線を越えて韓国に侵攻した。朝鮮戦争勃発のニュースは瞬く間に世界各地を駆け巡り、人びとの間に第三次世界大戦への不安と恐怖を巻き起こした。しかし著者の益田氏によると、第三次世界大戦の危機に対する反応は一様ではなかったという。例えば北朝鮮の軍隊が南進してきていたソウルでは、多くの住民はソウルに留まる選択をした。その背景には「同族だから何もしないだろう」という思いがあったという(67頁)。同じ頃、ニューヨークなどアメリカの大都市では、主婦たちが新たな世界大戦の勃発とそれに伴う物資の欠乏を心配し、生活必需品の買い出しに走っていた(70頁)。また中国では「国民党が広東と大連に上陸したらしい」などのデマが飛び交い(72頁)、日本では再軍備論が突如頭をもたげていた(77頁)。

 このように朝鮮戦争勃発が各地で創り出した「リアリティ」には地域差があった。本書はこの地域差に着目する。益田氏によれば、第三次世界大戦に関する言説が爆発的に広がったのは主に東アジア、ヨーロッパ、そして米国などの地域であったという(79頁)。これらの地域に共通していたのは、第二次世界大戦という強烈な体験、その記憶に基づく恐怖、また戦争経験が作り出した国民的記憶の存在であった。この第二次世界大戦の経験や記憶が、朝鮮戦争を第三次世界大戦の前哨戦と捉える見方を作り出し、さらにそれが個々の地域の文脈の中で冷戦という「現実」に真実味を与えていったと益田氏はいう。そこから本書は、膨大な史料の裏付けのもと、中国、米国、日本、イギリス、台湾、フィリピンを事例に、冷戦という「現実」が実際にはローカルな立場から見た世界情勢の理解であったこと、言い換えるならば、「地域特有のレンズ」(90頁)を通じた世界情勢の「翻訳」であったことを丹念に示していく。

 益田氏によれば、冷戦という「現実」を現実たらしめた装置の一つが「印象をめぐるポリティクス」であったという(第4章)。この「印象をめぐるポリティクス」においては、「安全保障」や「国防」といった概念の中に、人びとが「脅威」に対して抱く印象を管理することも含まれていた(156頁)。例をあげるならば、朝鮮戦争に参戦した中国には、38度線で停止し戦争を早期に終結させる選択肢があった。しかし中国は38度線南進という強行路線を選択した。その背景には、中国国内における革命的情熱の衰退への懸念(157頁)、そして国内外の人びとの心に中国が与える象徴的な意味合い、すなわち共産中国の大勝利と「美帝」(アメリカ帝国主義)の敗退(159頁)、という印象形成の目論みがあったという。

 さらに益田氏はこの「印象をめぐるポリティクス」が、普通の人びとにどう受け止められ、また冷戦の各種のプロパガンダや動員計画に普通の人びとがどう関わったのかを検証していく(第5-6章)。例えば、ソ連が提唱する真実(プロパガンダ)に対する巻き返しとして展開された米国の「真実キャンペーン」の活動には、多くのアメリカ人が参加した。その効果は、カリフォルニア州のある精神科医が、突如として「アメリカが警察国家になってしまった」と嘆くほどであった(191頁)。また中国では、日本の再軍備という新たな現実を受け、「抗美(米)援朝」運動が抗日戦争の記憶と結びつく形で展開されていった。この運動に参加したある中学生は、祖国に対する見方が変わり、「祖国がなければ何もない」という思いに駆られるようになったという(211頁)。このように米国においても中国においても、普通の人々は各種のプロパガンダや動員計画への参加を強要されたのではなく、むしろ国家の利益を守るという名目で自らを動員していた。そこには、社会に存在する隠れた願望、すなわち、一体感への切望や協調心の高揚というべきものが存在していたと益田氏は指摘する(212頁)。さらに益田氏は、これらの動員プログラムの主要な作用は、人びとの間に合意を形成することではなく、社会のどこに「敵」がいるのか、誰が「敵」なのかを明らかにすることにあったとする(191頁)。

 そこから益田氏は、個別具体的なローカルな局面において、誰が「敵」として粛清されていったのかを丹念に炙り出していく(7-10章)。米国のマッカーシズムでは、労働組合員、公共住宅計画や国民健康保険制度の推進者、アフリカ系アメリカ人の公民権運動家、フェミニスト、移民、ゲイやレズビアンらが、「非アメリカ的」分子として糾弾されていった(244頁)。イギリスや日本では労働組合員が粛清の主な標的になった。また中国の「鎮圧反革命」運動では、山賊、泥棒、地元のごろつきたちまでもが「反革命分子」として摘発されていった(287頁)。さらに台湾では「反共抗俄(共産主義に反対し、ロシアに抵抗する)」運動の旗印のもと、国民党政府への異論や不満が抑圧され(303頁)、フィリピンでは土地改革と社会正義の実現を掲げたフクバラハップ団が「非フィリピン」活動を行なったとして粛清された(311頁)。ここから見えてくるのは、朝鮮戦争期に各地で巻き起こった国内粛清は、必ずしも特定のイデオロギー(共産主義・資本主義)や政治体制(民主体制・独裁体制)に特徴づけられたものではなかったということである(315頁)。

 ではなぜ国内粛清現象が世界中でほぼ同時に発生したのか。また、この世界同時多発的な現象は何を意味していたのか。益田氏はそれを次のように説明する。まず同時多発的な国内粛清現象については、先に述べたように、朝鮮戦争の勃発により人々の間に呼び起こされた第二次世界大戦の記憶が、各地で第三次世界大戦の恐怖を引き起こしたことによって生じたという。そしてこの第三次世界大戦の危機は戦時ムードを作り出し、国内粛清を安全保障と治安維持の名のもとで正当化していった。さらに益田氏は、国内粛清が普通の人びとから支持を得た背景に、「政治」の本質の変化があったとする。それは、総力戦経験を経た社会においては、もはや国民の願望や心情を考慮することなしに政治を執り行うことがほぼ不可能な状況になっていたということである(162頁)。こうして国内粛清は社会的承認と支持によって遂行されていった。

 それではなぜ冷戦言説を盾とする「敵」の国内粛清が、各地で社会的承認や支持を得ることができたのだろうか。益田氏によると、そこには混沌とした戦後状況を「安定化」させたい、あるいは「秩序」だった(もっと慣れ親しんだ)「普通」の生活様式に戻りたい、という大衆的な「草の根保守的」な夢や希望が存在していたという(256頁)。この「草の根保守的」な願望こそが、戦後新たに台頭してきた新興勢力(土地改革者、労働組合員、仕事を持つ女性、アフリカ系アメリカ人など)を社会的に抑圧し沈黙させる運動の原動力になっていたという。ここから益田氏は、グローバル冷戦という「現実」は各国の首都中枢部に構える権力者だけでなく、社会における秩序維持と調和形成に意識的また無意識的に関与していた世界各地の無数の普通の人びとも、その参加者の列に含まれていたと結論づける(317頁)。  

 これまで見てきたように、本書は社会史、外交史、政治史を融合させながら、さらにローカル・ヒストリーとグローバル・ヒストリーの双方の見地から、既存の冷戦の歴史像に揺さぶりをかける優れた歴史研究書である。周到かつアクロバティックな著者の論の運びは読む者を圧倒する。本書の評価については、著者自身が巻末の解題において詳細に論じているが、この解題で指摘されていない点に最後に触れておきたい。本書は大衆感情や社会的通念、噂、またそれにまつわる不安や恐怖を、冷戦によって生み出された派生物ではなく、冷戦の「現実」を生み出した要因として捉えている(5頁)。そこから、市井の人びとを、冷戦論理の実践における受身的な存在というよりは、むしろその主体と見立て、彼・彼女らの「囁き、噂、心情」(12頁)を丹念に拾い上げ検証している。こうした点で本書は、昨今歴史学において注目されている感情の歴史学や、個人の主観性に着目するエゴ・ドキュメント(手紙・日記・回想録など一人称で書かれた史料)の歴史学にも大きな貢献をしている。よってこれは多分に無い物ねだりの指摘となるが、もし本書が感情史のパースペクティブ(「感情体制」や「感情の共同体」など)を意識的に取り込み論考を進めていたなら、グラムシのヘゲモニー概念(暴力的な強制ではなく服従する側の同意を取りつけることによる支配)を鋳直し、民衆の主体性の重層性・複層性・両義性をより深く照射したかもしれない。そこでは恐らく、ジュディス・バトラー(フェミニズム理論・セクシュアリティ研究)が言うところの具体化=身体化された複数的な行為遂行性(パフォーマティヴィティ)などの視点が重要な意味を持つことになるだろう。  

 いずれにしても、本書は冷戦に関するこれまでの見識を塗り替える画期的な研究であることは間違いない。そして、現在、ウクライナで進行している事態に際し、冷戦という「現実」が改めて問い直されるなか、本書の最後に書かれていた「私たち自身も(中略)日常レベルにおける、いわば権力者なのだから」(327頁)という言葉は、私たち一人一人に対する重い問いかけとなっている。

(「世界史の眼」No.26)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

1873年のウィーン万国博覧会における出品物の審査について―官営富岡製糸場製生糸「トミオカ・シルク」の場合―(下)
稲野強

(6)日本の出品物の評価

 ウィーン万博で評価された日本の出品物のうち、今に至るまで日本で大きな話題となっているひとつは、本稿で扱う官営富岡製糸場で製造された生糸であった。

 万博で展示された製品のうち、生糸の評判について『墺国博覧会見聞録』は、「生糸は諸国の出品にこれあり、ことに伊太利のもの最もよしといふ、当時の相場は、ほぼ百目に付、七円ばかりなり、我国の生糸も其性質は良からぬにもあらねども、製法よろしからぬ故に其売価は大に下れり、伊太利はいづれも蚕を飼ひ、糸を作る学校をたて、その理合より教ゆる故に年月を経るにしたがひ、次第に精巧になりゆくなり、…」と述べ、日本製生糸にかなり厳しい評価を下し、生糸先進国イタリアの製糸業から多くを学ぶべきことを提案している。

 それでは件の富岡製糸場産の生糸についてはどうだろうか。

 そもそも富岡製糸場は、明治政府の肝いりで創設された機械制工場(器械製糸場)であり、ヨーロッパの機械を導入し、指導者に外国人を招いて出発した。その目的は、産業の近代化を前提として、①各地から募集した工女による新技術の習得②外貨獲得を目指し、良質の生糸を大量生産すること③工女を修業後に地元に戻し、指導者として新技術を伝播させること、④さらに各地に富岡製糸場を模した器械製糸場の設立を促すことであった。このように富岡製糸場は、「伝習」を重視したから「模範工場」「伝習工場」「指南工場」と呼ばれた。

 富岡製糸場の生糸は、官営工場で作られた器械製品の代表として、これまで日本製に対して欧米で貼られた粗製乱造等のレッテルを払拭するためにも、万博で評価がとりわけ重要視されたのである。創業間もない当時まだ日本では珍しい官営工場の製品が万博に出品されるということで、製糸場の力の入れようは想像に難くない。すでに熟練の域に達している工女22人から18人が選ばれて、製造の任にあたった。工場の操業開始が明治5年10月4日で、万博に合わせて日本を出るのが翌1873(明治6)年1月30日であるから、機会をフルに稼働させてもその間わずか3か月余りしかなかったことになる。このような短期間で、どれほど高水準の生糸が当時生産されたのか疑問の余地もあるが、いずれにせよ器械力というよりも、工女の熟練度がものを言ったのは確かであろう。

 さて、ウィーン万博開始後1か月半経った6月16日に万博事務局は、出品物の審査を行い、優秀な作品には「賞」を出した。賞の出し方はパリ万博に倣っていたが、一体どのような手続きで審査が行われたのだろうか。

 その経緯を詳細に語っている日本側の資料は、『墺国博覧会報告書』である。

 それによると、審査を受ける意志のある場合、企業・個人を問わず4月30日までに26項目にわたる詳細なアンケートに回答することが求められた。出品物の審査官は、各国の出品者数に応じて選出された。例えば、オーストリア・ハンガリー二重帝国のうち、オーストリアでは出品者が、7058人、ハンガリーでは3384人で、合計1万442人であったから、審査員は12人というわけだった。出品者の総数は、4万8906人、審査官は300(一説には956)人、出品数は訳7万点だったという。日本の場合は、出品者が個人ではなく、政府だったから、この原則は当てはまらず、審査官は4人と決定された。各グループには審査長1人、副審査長2人が選出された。

 審査官は6月16日に第1回目の会合を開き、8月半ばまで2か月間にわたり出品物を審査し、8月18日にウィーン旧市街の王宮脇にあるスペイン乗馬学校でフランツ・ヨーゼフ1世臨席の下で授賞式が行われた。そこで今、賞の種類、性格などについて『墺国博覧会筆記』の記録に従って見てみよう。

(a)褒賞について

 褒賞は7種類あった。まず「第一等」は「名誉賞(Ehrendiplom)」で、「第二等」は、「進歩(Fortschritt)」「功労(Verdienst)」「雅致(Guter Geschmack)」「妙技(Kunst)」「補助(Mitarbeiter)」賞の5種類で、「第二等」には表にそれぞれの文字(独語)とギリシア・ローマの女神をあしらった図柄を刻み、裏にフランツ・ヨーゼフ1世の肖像を刻んだ銅製メダルが与えられた。「第二等」に該当するのは次のような出品物である。すなわち第1から第24グループおよび第26グループまでのうち、①過去に行われた万博以後の製作面で一層の改良が加えられたもの、または製造方法を改革した、あるいは今まで使われていなかった原料を用いたものなどには「進歩」賞(「進歩牌」)が、②作品が勝れている、優れた材料を使用している、製造物が広く流布している、優れた機械を使用している、値段が非常に安いものなどには「功労」賞が、③形・色が優れ、洗練されたものには「雅致」賞が、④第26グループの優秀作には「妙技」賞が与えられた。さらにまた⑤図画・模型の製作に従事したり、出品者を助けた者には「補助」賞がそれぞれ与えられることになった。

 ところで富岡製糸場の生糸に与えられたのが「第二等」の進歩賞であると、当時から今日まで言われてきた。日本におけるウィーン万博の根本史料の『参同紀要』も『報告書』も『筆記』もすべて、「第一等」「第二等」「第三等」と等級を区別している。だが、実は万博では、そうした等級の区別はしていない(独語の『公式報告書』参照)。等級区分は賞に関して翻訳をした当時の日本人が、賞の性格を多分理解しやすくするために付け加えたためである。  

 さて、ここで検証すべきは、「第二等」の進歩賞がどのように決定されたかである。それを判断するには審査官の講評こそ重要と思われるので、富岡製糸場の生糸を含む「第5グループ、繊維・衣料」における日本製品に関する彼らの見解を見てみよう。

(b)講評について

(あ)「博覧会第五区第四類審査官長『ハイメンダーヘ』」氏による

 彼は、個々の出品物に関する講評に先立ち、日本の生糸とヨーロッパ市場との関係について述べる。すなわち、

 日本の生糸は、不況のヨーロッパ市場で評価も高まったこともあったが、生糸の売れ行きに溺れ、製造法や品質改良を怠った上に、蚕種紙の輸出増大に目を奪われて、生糸の粗製乱造を行い、評価を下げた。その間ヨーロッパの生糸の生産力が回復したために日本の生糸の購買力は低下し輸出も急激に落ち込んだ、と、日本の生糸業のありかたに厳しい見解を示し、日本各地の製糸業について講評する。その中には「前橋、奥州、掛田、飯田、甲州、増田、越前」産生糸などがあり、いずれも詳細に吟味され、ことごとく辛い評価を受ける。

 問題を克服する方法として、彼は、

「・・・製方精しく且最も適する糸は其価も亦貴き理なれば今日本にて第一行ふべき大変革は欧州の製糸方を採用するにあり然るときは日本にて其効験の明著するや亜細亜の他国に過る必せり」と、ヨーロッパ式技術の導入による製法の改革の必要性を説いている。そしてそうした技術導入による近代化の成功例として富岡製糸場を挙げるのである。

「其証は富岡製糸所にてブリユナ氏の始めて日本生糸を以て為したる試験を見て知るべし之を見るに既に日本の糸は『セパンス』『西班牙』或は『ブルース』の最上品と位価を争ふのみならず此国にて用ふる製方を採用せば却て之に優るべしと思はる。・・・」

 ここでやや明らかになってきたのは、西欧の器械技術を導入した富岡製糸場に対する強い期待が「ハイメンダーヘ」の側にもあって、それが逆に「前橋」などに対する厳しい評価となって表れたと推測できる点である。

 図式化を恐れずに言えば、前橋製糸所は、速水堅曹が指導して生産力を挙げたが、設立当初は「民間」(元来前橋藩立、1873年1月より「小野組」の委託経営)の日本初の器械製糸場で、「イタリア式」と呼ばれる製法を用いていた。対照的に富岡製糸場は日本で初めての「官立」の大規模な器械製糸所で、フランス人ポール・ブリューナの指導による「フランス式」と呼ばれる製法を用いていた。そこで講評における優劣の評価の違いに、いわゆる企業間対立があったと考えることもできる。

 その背景には当時の日本政府が「官」による「上からの改革」路線を強力に推し進め、殖産興業政策を実効性のあるものにして行くには、海外における官営富岡製糸場の高い評価こそ、国内向けにも必要だった、という事情があった。

 その点を裏付けるように、『報告書』には富岡製糸場の審査に副総裁佐野の強い意志が反映されていると推測できる記述がある。佐野は、帰国後政府に提出した『墺国博覧会報告書』中の「蚕養部」の総論で、日本の生糸がヨーロッパ市場で信用を失った点を指摘し、国内における富岡製糸場の優秀性を力説しているからである。

「…固より人民の無知不学遠識なく眼前の小利を貪るの罪によると雖も亦政府之を制するの処置未だ其宜しきを盡さざる所あるに由らずんばあらず我政府近来大に養蚕製糸の制規を定め又仏人を雇ふて富岡に大製糸場を創し以人を雇ふて勧工寮内にも一所設けたり両所の製糸未だ欧産の良者に下ると雖も既に内国諸糸に比すれば最美にして維府博覧会の際頗る外邦人の賞鋻〔けん〕を受たり…」

さらにまた彼は、万博における各国の製品と比較してみた結果、日本製品に国際競争力をつけるために、当時の日本の産業の水準では「官」の強い指導の必要性を痛感していた。

「…平民の手に在りて製法却退すると宜く早く之を官有に復し今臣か論する所改良の行を行ひ上に記する十県の製糸場をして速に之に倣はし其他各地製糸場の表準たらしむべし・・・」

 したがって、佐野にとって「官」の指導力と実行力、権威を示し、上述の構想を実施するためにも、富岡製糸場と勧工寮の優秀性はぜひとも「産業の世界的権威である」この万博で証明してもらう必要があったわけである。

(い)「バビエール」氏の鑑定書。

 万博の「第五区第四類の審査官『エルネスト・バビュー』」は、元来中国の出品物を鑑定する役であったが、佐野が日本の出品物も審査してほしいと熱心に依頼したために、それに応じた、と述べている(佐野をはじめとする日本人関係者の審査官に対する「根回し」の努力は、「万博をめぐる人物交流史」のテーマになるだろう)。

 その「バビエール」氏の講評は、どのような基準で授賞が決定されたか、を理解する上で興味深い。

「近来日本の生糸品位次第に下りたれば能く弊害を明示し日本人をして此に注目せしめんとするに在り故に品位の下り方少なき生糸に褒賞を付与して以て訓誠とせり」

 こうしたさほど高くない評価にもかかわらず、授賞したのが宮城県の「銘金花山」だった。それは、福島県の「銘掛田」他に比べて品質の低下が酷くない、との理由であり、そこには今後努力して往時の価値を取り戻すようにという奨励の意味も込められていた。それに対して富岡製糸工場と勧工寮の表彰理由は次の通りである。

「此二製作場は日本製糸法を改正する為大緊要にして何れも同一の目的を以て並び立つ者なれば今暫く其出品の優劣を論ぜずして之に同賞を与へんことを決し欧州製糸方を学ぶ道を進むを感するの意を表せんか為進歩の賞牌を与えへたり」

 以上のことから理解される賞の規準は一定していず、ある場合には、過去の価値が評価され、ある場合には、将来性を期待されたことによっていた。それは富岡製糸場の場合にもあてはまる。すなわち賞の対象になったのは、厳密に言えば、生糸の品質ではなく、ヨーロッパ式製法を導入し、日本の製糸業の近代化に果たしている富岡製糸場の努力であったということである。しかも「バビエール」氏の講評からは、生糸の優劣の比較は日本産の間で行われているのであって、国際的な基準に照らして評価されたのではないと判断できる。

 これまで取り上げた万博の審査員の講評から、進歩賞は「過去に行われた万博以後の製作面で一層の改良が加えられたもの、または製造方法を改革した、あるいは今まで使われていなかった原料を用いたものなど」の理由であり、製造された生糸にではなく、富岡製糸場自体に与えられたことが、改めて確認されるだろう。

(c)「進歩」賞の価値について

 ちなみに、進歩賞は授賞全体の中でどれほどの価値があったのだろうか。それを示す数字によって判断してみよう。

 万博全体で名誉証は、442(内、日本は12、以下同じ)件、メダルは全体で1万5116(123)件で、そのうち進歩賞は、3024(35)件、功労賞は、8800(77)件、雅致賞は、326(1)件、妙技賞は、978(0)件、補助賞は、1988(10)件であり、「表状(Anerkennungsdiplom「表彰資格認定証」)」は1万465件と、総計2万6003(217)件、と膨大な数の賞が出品者に配られたことになる。ちなみに日本に授与された賞は、全体の0.83%で、国別の賞の数でいうと、18位で、進歩賞は全体の1.15%であった。日本が受賞した35件の進歩賞のうち、第5グループでは、富岡製糸場、勧工寮、絹織物の伊達弥助(京都)ら9件であった。

 こうした大量の賞の数から、ユッタ・ペムゼルはやや皮肉を込めてこう言う。

「メダルは非常に気前よく与えられたので、出品者の経済的・財政的損失を少なくとも一部分埋め合わせることになった」と。

 このように見てくると、「トミオカ・シルク」が万博で注目され、好評を博したという点をそのまま事実とするのは、やや無理があるように思われる。審査の講評の点からも、日本で当時あるいはその後喧伝されたほど富岡製糸場製の生糸は高水準ではなかったようだ。もちろんだからといって、万博に参加し、賞を獲得したことに意味がなかったというのではない。操業前の富岡製糸場に対して建設妨害や風評が絶えなかった中で、万博での授賞が、政府主導型産業を奨励する関係者や現場で働く工女たちに自信と名誉を与えたことは想像に難くないからである。幸田露伴が『渋沢栄一伝』(1939)でいみじくも語っているように、操業は「官業といふことの行わるゝ殆ど最初であった。然し是の如き新しい事は、首尾よく功を挙ぐるば可し、若し不成功に終れば、徒に民業を擾り、管財を費やして、公の威を損じ世の笑となるに過ぎぬ」といった不安と不信の世相を背景に出発していたからである。

(7)宣伝効果

 万博で得た「トミオ・カシルク」の評判の大きさに関して、それを日本国内に広めるのに一役買ったと思われる興味深い新聞記事があるので、その経緯と共に紹介しておこう。

 まず、『東京日日新聞』(1873年6月23日付)は、こう言う。

「伊太利国在留租税寮七等出仕渋沢君よりの来翰に、上州富岡製糸場にて、出来の生糸御廻し相成、不取敢当所其筋の者へ一見致させ、各所糸品試験の器械にて品位を調査せしに、彼国最上の生糸と同位にて、更に甲乙これ無し。彼国人も大ひに感心せし趣なり、流石に名誉の産物、殊には当節盛に勧業遊ばされければ、製糸人も勉励熟達して、終に世界第一の名品と称せられん事は期して待つべきなり。」

 次に『東京日日新聞』(1873年9月18日付)はこう言う。

「上州富岡製糸場に於て製する生糸の精良なる、能人の知る処成。既に本年墺国博覧会へ御差送り成て、列品中に陳列せられしを、墺国人這は斯未曽有品なりと、屢賞賛なしたりと、同国博覧会掛りより、横浜エクトリ、ヤンタル社へ、報告ありしとなり。依て按ふに、我四百五号に同所の生糸を伊太利国にへ送られしを、伊太利人試験ありて、同国最上の生糸と同位なりと賞せし由を掲載せしが、夫を思ひ是を見るに、富岡の製糸の世に卓越なる、実に按ふべきなり」。

 前者の記事は、生糸の本場イタリアの試験場で、器械によって検査したところイタリア産の最高品質と同等の評価を受けたというもの、後者の記事は、万博でオーストリア人が絶賛したとのことで、いずれも「トミオカ・シルク」がすでに当時ヨーロッパ人から好評を博した旨が記されている。それでは、これまで見てきた審査官の講評や実際の賞の価値と、これらの新聞記事の評価のズレは、一体どこから来ているのだろうか。どうやら、これらの記事は、ヨーロッパの、しかもイタリアという製糸業先進国の検査結果と万博という2つの権威によって「トミオカ・シルク」の名声を日本国内向けにアピールしたものだということが分かる。しかも前者の記事のニュース源が「渋沢君の来翰」であることに注目したい。

 ここで言う「渋沢君」とは、渋沢栄一の2歳年上の従兄で、1872年に「大蔵省七等出仕」に任官した渋沢喜作のことである。彼は万博当時には「日本の養蚕製糸、及び殖産興業を海外のそれと比較する」ためにイタリアに滞在していた。渋沢栄一は、1869年に大蔵省に入り、周知の通り、財務官僚として富岡製糸場の設立の立案から民間払い下げに到るまで最も深く関わっていた人物だ。一方の喜作は、過激な尊王攘夷派で、戊辰戦争では榎本武揚らと行動を共にし、新政府軍と戦い、函館で敗れたのちに獄にあったが、大赦を得て出獄し、栄一に身柄を引き取られた。失意のうちにあった喜作を大蔵省に推薦したのは栄一であり、喜作のイタリア、フランス視察の件でも栄一の尽力によるところが大きかっただろう。栄一は、喜作との関係を「一身分体」と表現しているが、喜作は終生栄一の片腕として行動した。したがって、この記事は、「官」にある喜作が、「一心同体」の栄一が深く関与している富岡製糸場の発展を宿望した事情を反映していると解釈できる。

 結局は、政府が莫大な資金を投入して設立した「官立」の、しかも操業間もなく、必要な工女の確保も思うに任せなかった未知数の多い富岡製糸場にかける政府の期待と不安が共に大きかったからこそ、日本国内向けに大きく宣伝をすることがぜひ必要だったのだろう。

 したがって、ウィーン万博は富岡製糸場の名を日本全国に、もちろんできれば貿易先の欧米にも広めるための格好の機会となったのである。その点から見れば、これは、ヨーロッパで開催された万博という権威と新聞という有用な宣伝媒体を最大限に利用して、万博のコマーシャル的要素を十分活用した戦略の一例と見なせるだろう。

(8)おわりに

 以上見てきたように、ウィーン万博における富岡製糸場の生糸の評価に関する日本の期待は、不安を抱えていた分だけ、いかに大きいものだったかが理解される。

 富岡製糸場設立の背景には、生糸の大量輸出国である中国国内の幾多の争乱による不振やヨーロッパ諸国内の蚕の伝染病の大量発生などにより、日本の蚕糸類が注目されたことがあった。だが、日本の蚕糸業は、当時輸出品の第一位にありながら、それに甘んじて生糸の粗製乱造等を繰り返したことにより欧米における評価を著しく下げ、その間隙に乗じて外国資本が導入される恐れもあったりした。そのために政府主導の改革を促進することが急務となったのである。そこで登場したのが官営富岡製糸場で、それは、政府の掲げる「殖産興業(官営模範事業)」のスローガンを体現したものであった。富岡製糸場は、フランス人技師を所長に迎え、フランス式技術を導入して短期間でウィーン万博に「トミオカ・シルク」を出品したのである。

 日本は、万博で西洋の高度な工業技術を目の当たりにし、それを貪欲に学ぶ姿勢を貫いた。そして同時に太政官布告や佐野が指摘するように、万博では日本製出品物の優秀な点を高く評価してもらい、貿易の実を上げることを重要な使命としたのである。 

 こうして富岡製糸場製生糸は、日本の近代産業の水準を見極める試金石として万博に送り込まれたが、実際は必ずしも期待していた評価を得たわけでもなかった。だが、それでも結果的に「第二等」進歩賞を得たおかげで、その賞は模範工場という「官」による「上からの改革」の輝かしい成果として日本国内では迎えられ、その栄誉は十分称えられたのである。

 富岡製糸場が得た進歩賞の内実は今日までほぼ不問に付せられていたが、ともかく近代産業社会における後進国日本にとって、万博の権威を最大限生かして宣伝効果を上げたことには成功したと言えよう。その意味でウィーン万博は、世論を誘導するために必要な宣伝とそれを支える権威が資本主義的・自由競争社会にとって必須の要素であることを、早くも明治初年のこの時期にあって如実に示したことになる。

〔主要参考文献〕

〇同時代史料。『墺国博覧会筆記』1873、『墺国博覧会見聞録』1874、墺国博覧会事務局編『墺国博覧会報告書』1875、田中芳男、平山茂信編『墺国博覧会参同紀要』1896、『新聞集成明治編年史』第1巻、1982(原著、1934)、日本外務省編纂『大日本外交文書』、久米邦武編田中彰校注『特命全権大使、米欧回覧実記』5,岩波書店、1985(原著、1878)

〇渋沢栄一講述『青淵修養百話』坤、同文館、1915

〇群馬県養蚕業協会編『群馬県養蚕業史』上巻、群馬県養蚕御協会、1955

〇富岡製糸場史編纂委員会編『富岡製糸場誌』上・下巻、富岡市教育委員会、1977

〇吉田光邦編『図説万国博覧会史1851-1942』思文閣出版、1985

〇同編『万国博覧会の研究』思文閣出版、1986

〇ペーター・パンツァー、ユリア・クレイサ(佐久間穆訳)『ウィーンの日本、欧州に根づく異文化の軌跡』サイマル出版、1990

〇吉見俊哉『博覧会の政治学、まなざしの近代』中公新書、1992

〇角山幸洋『ウィーン万博の研究』関西大学出版部、2000

〇今井幹夫『富岡製糸場の歴史と文化』みやま文庫、2006

〇高崎経済大学地域科学研究所編『富岡製糸場と群馬の養蚕業』日本経済評論社、2016

〇Hrsg. durch die General-Direction der Weltausstellung 1873, Officieller Ausstellungs-Berict, VI., Wien, 1873-1877

〇Herbert Fux, Japan auf der Weltausstellung in Wien 1873, Österreichisches-Museum für Angewandte Kunst, Wien, 1980

〇Jutta Pemsel, Die Wiener Weltausstellung von 1873, Wien,Köln, 1989

〇Karlheinz Roschitz, Wiener Weltausstellung 1873, Jugend und Volk, Wien, 1989

なお、本稿は、群馬県立女子大学地域文化研究所編『群馬・黎明期の近代―その文化・思想・社会の一側面』1994 所収の拙稿「群馬県における西洋近代の受容」を要約・改訂したものである。

(「世界史の眼」No.26)

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする

戦前パラオの真珠産業と「南進熱」・補遺
小谷汪之

 拙稿「戦前パラオの真珠産業と『南進熱』」(上・下)が「世界史の眼」に掲載された後、『真珠の世界史』(中公新書)の著者、山田篤美さんから、南洋庁の「部外秘」文書である『世界主要地に於ける眞珠介漁業』(1937年)のコピーを恵与いただいた。大変な苦労をして「発掘」されたこの「部外秘」文書のコピーを恵与いただいたことに深く感謝する。

 前記の拙稿は乏しい文献に依拠して書かれた部分があり、『世界主要地に於ける眞珠介漁業』に照らしてみると不正確あるいは不十分な点がいくつかある。以下では、真珠貝採取業と真珠養殖業に分けて、修正と補足を行いたい。

1 真珠貝採取業にかんして

 拙稿の「はじめに」の部分に次のような記述がある。

1931年からは、パラオのコロール島を根拠地とする日本の真珠貝採取船が直接にアラフラ海などに進出し、パラオは「世界最大の真珠業根拠地」となっていった(同、126頁)。

 この一文を以下のように修正する。

1931〔昭和6〕年末はじめて、日本の一隻の真珠貝採取船がパラオ諸島コロール島からアラフラ海方面に出漁した。その後、日本の真珠貝採取船の数は急増し、1936(昭和11)年には81隻に上った。水揚げされた真珠貝は三井物産株式会社神戸支店に委託販売され、大部分が神戸からニューヨークに輸出された(『世界主要地に於ける眞珠介漁業』2-3頁)。こうして、パラオは「世界最大の真珠業根拠地」となっていった(山田篤美『真珠の世界史』126頁)。

2 真珠養殖業に関して

 拙稿の「はじめに」の部分に次のような記述がある。

 他方、真珠養殖業では、1922年、御木本真珠がいち早くパラオのコロール島に真珠養殖場を開設した。1935年には、本稿の主題となる南洋真珠株式会社が同じくコロール島に白蝶貝(シロチョウガイ)を母貝とする真珠養殖場を設立した。

 この一文を以下のように修正する。

 他方、真珠養殖業では、1918年に南洋産業株式会社がパラオで真珠養殖試験を開始した。1926年、御木本真珠がこれを買収し、始めはアコヤ貝と黒蝶貝を使用していたが、1935年より白蝶貝(シロチョウガイ)の試験的養殖を始めた。これがパラオにおける白蝶貝養殖の始まりである。翌1936年、本稿の主題となる南洋真珠株式会社がパラオ諸島ウルクタベール(ウルクターブル)島の北岸(マラカル港岸)に白蝶貝を母貝とする真珠養殖場を設立した。

 拙稿の「1 石川達三のパラオ行」中に次のような記述がある。

南洋真珠は、1935年には、パラオのコロール島に真珠養殖場を開設した(坂野徹、164頁)。しかし、前述のように、パラオでは白蝶貝がとれなかったので、アラフラ海などの白蝶貝をパラオに移送して養殖した。

 石川達三の弟、石川伍平はこの南洋真珠のコロール真珠養殖場に勤務していたのであるが、月曜日から土曜日までは「〔パラオ〕群島のはずれの方の小さな無人島」にこしらえた「作業場」で真珠養殖の作業を行っていたということである。

 この一文を以下のように修正する。

南洋真珠は、1936年には、パラオ諸島のウルクタベール(ウルクターブル)島に真珠養殖場を開設した。しかし、前述のように、パラオでは白蝶貝がとれなかったので、アラフラ海などの白蝶貝をパラオに移送して養殖した。

 石川達三の弟、石川伍平はこの南洋真珠のパラオ真珠養殖場に勤務していたのであるが、月曜日から土曜日までは「〔パラオ〕群島のはずれの方の小さな無人島」にこしらえた「作業場」で真珠養殖の作業を行っていたということである。

カテゴリー: コラム・論文 | コメントする