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湯浅克衛の朝鮮と満洲(上)―「植民地文学」の変質
小谷汪之

はじめに
1 「カンナニ」
2 天皇制国家による思想・言論弾圧
3 「移民」と「先駆移民」の間
(以上、本号)
4 満洲移民村歴訪
5 『長篇小説 鴨緑江』
おわりに
(以上、次号)

はじめに

 湯浅克衛(本名、湯浅猛。1910‐82年)という作家を知る人は今では少ないであろう。ただ、幼・少年期を過ごした朝鮮にこだわり続けた異色の作家として、その功罪を含めて、検討に値する作家だと思う。

 湯浅は香川県の善通寺に生まれた。父親は地元の製缶工場に勤めていたが、湯浅の幼年期に解雇され、その後は植民地・朝鮮の日本軍・守備隊員として、朝鮮各地を転々とした。1916年、父親が朝鮮総督府の巡査試験に合格して、水原で巡査としての勤務に就いた。水原は当時の京城(現、ソウル)の南35キロメートルほどに位置する京畿道の中心都市である。18世紀末にはその地に華城が建設されて、水原は城壁に囲まれた城郭都市となった。朝鮮王朝は当時首府を水原(華城)に移すことも考えていたという。父親の水原赴任に伴い、湯浅は水原尋常小学校に入学した。1922年には同小学校を卒業して、当時の名門校・京城中学校に進学した。湯浅は1年生の時には水原から汽車で通学していたが、通学時間がかかり過ぎるので、2年生からは寄宿舎に入った。

 京城中学校では、後に「名人伝」、「弟子」、「李陵」など漢籍に材をとった作品で有名になる中島敦と4年間同級であった(中島は4年修了で卒業し、第一高等学校に進学した)。湯浅の回想記によれば、湯浅は二度、中島に助けられたということである。一度は3年生の時で、数学が嫌いな湯浅は数学の時間に教科書で隠しながら『改造』を読んでいた。『改造』といえば、当時の代表的な「左翼雑誌」である。湯浅は盗み読みしているところを数学の先生に見つかり、危うく停学になるところであったが、中島が間に入って京城中学校の「図書室監禁」2週間で決着したという。もう一度は4年生の時で、湯浅の寄宿舎の机から谷崎潤一郎の『痴人の愛』が見つかり、この時も停学処分になりかかった。しかし、中島や舎監長の先生の尽力で寄宿舎の「図書室監禁」1週間で済んだという(湯浅克衛「敦と私」、『ツシタラ 3』3‐4頁。『ツシタラ』は文治堂書店版『中島敦全集』各巻の付録)。これらの出来事があったのは、湯浅が15、6歳の時であるから、湯浅は一方で『改造』を読みながら、他方では『痴人の愛』を読むといった、ちょっと風変わりで早熟な文学少年だったのであろう。

 1927年、湯浅は京城中学校を卒業して東京に出た。翌1928年には早稲田第一高等学院に入学した。当時の早稲田第一高等学院は修業年限3年で、修了すれば早稲田大学の学部に無試験で入学できた。しかし、湯浅は、1929年、「近代文芸研究会」事件に連座して、早稲田第一高等学院を退学させられた。京城中学校時代に『改造』を読んでいた湯浅は早稲田で「左翼」的なサークル「近代文芸研究会」とつながりを持ったのであろう。湯浅は退学後の数年間、それ以上の学歴を求めず、「文学修行」に専念していたようである。

1 「カンナニ」

 湯浅克衛の処女作「カンナニ」は『文學評論』の1935年4月号に掲載された。島木健作の「癩」が『文學評論』に掲載されたちょうど1年後である。その時、湯浅はまだ25歳であった。しかし、「カンナニ」の『文學評論』掲載にはいろいろと曲折があった。

 『文學評論』に掲載された「カンナニ」は、水原の日本人巡査の息子で小学校5年生の龍二と彼より2歳年上の朝鮮人少女・カンナニ(李橄欖。普通学校夜間部5年生とされている。普通学校は朝鮮人子弟のための小学校)との間の幼く淡い恋情を描いた小説のように見える。ただ、それだけではなく、この小説は植民地支配下に置かれた朝鮮の人々の生活や感情、そして朝鮮人と日本人植民者の間の関係などについて、少年の目―それは小学校入学以前から中学校卒業まで10年以上を朝鮮で暮らした湯浅の目と言い換えることができる―を通してリアルに描いた作品として興味深く読むことができる。

 龍二はちょっと前に偶然知り合ったカンナニとすぐに仲良くなった。だが、一緒にいても、「何と話しかけたらいゝか、わからなかつた。すると、カンナニが[朝鮮語で]『お前タンシン・巡査スンサ・ドリ』と云つた」。「そして、不審氣な龍二の顔に、今度は日本語で『巡査の子と遊んぢやいかん』父が云つたよ」と続けた。龍二はこう応えた。
「どうしていけんのぢや」
「父は日本人大嫌ひ……[2字伏字、憲兵]一番嫌ひ、巡査、その次に嫌ひ。朝鮮人をいぢめるから、惡いことするから―」
「巡査は惡いことはせん、巡査は惡いことをしたり、いぢめたりする奴を退治する役ぢや。[後略]」
 龍二はいつしようけんめいにカンナニを説得しようとした。けれども女の子は淋し氣に笑つたまゝ乘つて來やうとはしなかつた。
 私の家でも―とカンナニは云ふのである―……[2字伏字、家を]潰された。持つてゐた田畑はいつの間にか「××」[伏字か? 復元版「カンナニ」では、「新しい地主」]のものとなつてゐた。そんな筈はないから刈入れをしてゐたら、巡査がやつて來て父をらうやに入れ、父がやつてゐた書堂は、惡いことを子供等に教へるからと……[伏字、内容不明]戸を釘づけにしてしまひ、子供等を……………[5字伏字、無理やりに]普通學校に入れてしまつた。
(池田浩士編『カンナニ・湯淺克衞植民地小説集』インパクト出版会、1995年、に復刻された『文學評論』版「カンナニ」503‐504頁。伏字の箇所は復元版「カンナニ」によって補填。復元版「カンナニ」については後述。)

 この時代には、このような文章を発表するだけでも大変なことだったであろう。それは、『文學評論』版「カンナニ」の末尾に、徳永直の筆になる、以下のような「附記」があることからも分かる。徳永は『文學評論』の編輯相談役のような立場にあったから、「カンナニ」掲載の可否について、編輯長・渡辺順三から判断を求められたのであろう。

(附記、「カンナニ」は、作者から半年餘も預かつてゐた作品であつたが、その性質上、却々なかなか發表に困難であつた。こんかくも無惨な姿で編輯者に推薦した次第であるが、なおこの後半は「萬歳事件」が扱はれてゐる。「カンナニ」の作者は後半を別に構圖を改めて書くと云つてゐるから、またいづれ讀者の眼に觸れる機會があると思ふ。一言作者及び讀者へのお斷りを兼ねて―徳永直)
(池田浩士編『カンナニ・湯淺克衞植民地小説集』に復刻された『文學評論』版「カンナニ」519頁)

 このように、『文學評論』版「カンナニ」では、原「カンナニ」における「六」から末尾までの400字詰原稿用紙46枚分がすべて削除されている。この部分では万歳事件(3・1朝鮮独立運動、1919年)が扱われていて、これでは、とうてい検閲を通らないと考えた徳永がこの「後半」部分をすべて削除したのである。

 池田浩士編『カンナニ・湯淺克衞植民地小説集』7‐49頁収載の復元版「カンナニ」(戦後、徳永によって削除された部分をすべて復元したとされるもの)の末尾には、万歳事件の渦中に、カンナニが日本人植民者によって殺害されたということが示唆されている(ただし、この復元版は、元原稿が失われていたため、湯浅が10年前の記憶のみにもとづいて作成したもので、原「カンナニ」そのものかどうか疑問の余地がありうる)。

 徳永はさらに、日本人の高等小学校生や小学校高学年生が朝鮮人の一少女に性的暴行を加えている場面の一部など検閲で問題になりそうな箇所を多く削除している。徳永はこれらの削除によって「無惨な姿」になった「カンナニ」でもなお、『文學評論』に掲載するに値すると考えたのであろう。その判断が間違いだったとは思わないが、『文學評論』版「カンナニ」と復元版「カンナニ」では、読後の印象が微妙に異なるのも事実である。もし、復元版「カンナニ」の「後半」が原「カンナニ」の「後半」と同じだとしたら、原「カンナニ」は優れた「植民地文学」だったということができる。

2 天皇制国家による思想・言論弾圧

 「カンナニ」が『文學評論』に掲載された1935年頃には、天皇制国家による思想・言論弾圧が頂点に達しようとしていた。それは日本帝国主義による中国大陸侵略の拡大と軌を一にするものであった。その過程で、多くの人たちが「転向」をよぎなくされた。

 島木健作は1928年の「3・15事件」に連座して禁固5年の刑に服し、肺結核の重篤化に伴い、翌年に「転向」を表明した。島木は1932年、刑期を一年残して仮釈放されたが、1936年11月、思想犯保護観察法が施行されると、島木もその対象者とされた。治安維持法違反で有罪とされ、仮釈放された身だったからである。

 「3・15事件」後も厳しい弾圧が続けられたが、特に1933年には多くの衝撃的な事件が起こった。同年2月、「蟹工船」などの作品によって知られる作家・小林多喜二が検挙され、築地署において拷問により虐殺された。6月には日本共産党幹部の佐野学と鍋山貞親が獄中で「転向」を声明したため、その後、日本共産党員の「転向」が続出した。

 同じ1933年、高見順も、「日本プロレタリア作家同盟」(ナルプ)・城南地区の「責任者」として、治安維持法違反の容疑で検挙された。高見は「一年間起訴留保処分」を受けたが、半年後に不起訴となった。高見が「転向」を表明したからであろう。しかし、思想犯保護観察法が施行されると、治安維持法違反の容疑で検挙されたことのある高見はその対象者とされ、月に一度、東京・千駄ヶ谷の保護観察所に出頭することを義務づけられた(高見順『対談 現代文壇史』筑摩叢書、1976年、185、213、283‐284頁)。

 徳永直は、このような思想・言論弾圧の状況下、政治と文学の関係をめぐって、政治を優先する蔵原惟人らと対立して、日本プロレタリア作家同盟を脱退した。これは実質的な「転向」といってもよいであろう。

 同時に、「左翼雑誌」に対する弾圧も強化された。1936年、島木健作の「癩」や湯浅克衛の「カンナニ」を掲載してきた『文學評論』は、出版元・ナウカ社の社主・大竹博吉がソ連のスパイ容疑で逮捕されたことによって終刊となった。「左翼」系作家の作品発表の場が次々と消滅していく中、1936年3月には、武田麟太郎らによって文芸誌『人民文庫』が創刊された。編集長は本庄陸男で、湯浅克衛もこの雑誌に多くの文章を寄稿した。この雑誌も警察に睨まれていたようで、1936年10月25日、『人民文庫』に関係していた作家たちが新宿の喫茶店・「大山だいせん」に集まっていたところを、警官隊に踏み込まれ、本庄陸男や湯浅克衛、田宮虎彦、田村泰次郎、高見順などが検挙された。ただ、本庄と湯浅以外はその夜のうちに釈放され、本庄と湯浅も数日後には釈放された。この『人民文庫』も1938年には廃刊をよぎなくされた。

 このような思想・言論弾圧状況の中で、湯浅克衛の文学にも、大きな揺れが起こってきた。湯浅の「カンナニ」など初期の作品は植民地朝鮮における朝鮮人や日本人植民者の生活を、自身の少年時の体験を通してリアルに描くところに長所があったのだが、しだいにそれが薄れていき、観念的で国策文学的な方向に傾いていったのである。

 湯浅の文学におけるこのような揺れは、思想・言論弾圧とともに強化されていった思想・言論の国家統制にも関係することであった。1939年2月、大陸開拓文芸懇話会が拓務省の後ろ盾で結成された。国策としての大陸開拓に資する文学を目指すというのがその目的であった。自ら望んでかどうかは分からないが、朝鮮体験の豊かな湯浅も大陸開拓文芸懇話会に加わり、その中心をなす6人の委員の一人となった。その後、湯浅は日本と朝鮮との間をしばしば行き来して、しだいに朝鮮において重要な位置を占めるようになっていった。朝鮮文壇では、朝鮮語で書かれた作品の発表が困難になり、朝鮮人作家も日本語(当時の表現では「国語」)で書かざるをえなくなった。

3 「移民」と「先駆移民」の間

 湯浅克衛は、「カンナニ」に見られるような朝鮮人の生活や感情に対する関心をしだいに失い、朝鮮や満洲に在住する日本人の問題に関心を集中させていった。その一環として、朝鮮や満洲への日本人移民を主題とする作品やルポルタージュを多く発表するようになった。

 朝鮮への日本人移民の問題をテーマとする最初の作品は「移民」(『改造』1936年7月号)である。山陰地方の貧しい小作人・「松村松次郎」は東洋拓殖株式会社(東拓)による朝鮮への移民の募集に応募して朝鮮に渡った。日露戦争が終わって5年後の1910年のこととされている。しかし、東拓が用意した入植地は朝鮮北部の山間の荒れ地であった。「松次郎」は最初はがっかりしたが、25年の「年賦」を東拓に納め終われば、この3町歩ほどの土地が自分のものになると考えて気を取り直した。「松次郎」と妻の「いや」は朝早くから働き、田畑を少しずつ整備していった。そんなやさき、「いや」が肺を病み、苦しんだ末に死んでしまった。「いや」を家や田畑のよく見える小高い丘の上の墓地に葬った時、「松次郎」はこの地以外に自分の故郷はないと思い定めた。それで、付近の朝鮮人農民たちと親しく交わった。朝鮮人農民たちも「松次郎」を信頼し、彼の燐家の娘を後妻とするよう勧め、「松次郎」もそれを受け入れた。こうして、「松次郎」は朝鮮人社会の中に溶け込んでいった。「松次郎」が死んだ時には、朝鮮人農民たちの手によって「さながら貴人の葬式」のような葬祭が行われた。

 この作品は、いろいろと批判の余地はありうるとしても、少なくとも、朝鮮人農民たちと日本人入植者との交流を対等に近い形で描いている点で、国策文学的とまでは言えないであろう。

 他方、満洲への日本人移民を最初に扱ったのは「先駆移民」(『改造』1938年12月号)で、これは、1933年に拓務省によって東北満洲に送り出された第二次武装移民団にかかわる事実を踏まえた作品である。この第二次武装移民団は「」地域に入植したので、その入植地は「千振ちぶり村」と称された(付図の③)。第二次武装移民団も、第一次武装移民団(1932年送出。入植地は永豊鎮で、弥栄村と称された。付図の②)と同様に、全国の在郷軍人から成る移民団で、現地の武装勢力との戦闘を想定していた。これら二つの移民団は「先駆移民」と呼ばれていた。

 「先駆移民」という作品は、この第二次武装移民団が置かれていた状況を大枠として、その中に一人の「左翼崩れ」らしき団員・「黒瀬陸助」を造形して、彼の他の団員とは異なる言動を描いたものである。その最後の部分では、この200人足らずの武装移民団が4000人ほどの「匪賊」に取り囲まれ、籠城状態になる。救援を求めるために「密使」が送られるが誰も帰ってこない。「匪賊」に捕まり、惨殺されたに違いない。その時、「黒瀬陸助」が6人目の「密使」として名乗りを上げ、送り出されるが、それから5日経っても帰ってこない。「黒瀬陸助」の生死は不明のままだが、救援部隊が到着し、第二次武装移民団は救われる。

 この作品で、湯浅の関心はもっぱら日本人移民たちの動向に限られ、日本人の入植に抵抗する満洲人や在満朝鮮人たちはすべて「匪賊」として扱われている。その点で、まさに国策文学というべき作品である。このように、「移民」(1936年)と「先駆移民」(1938年)の間に湯浅の揺れの境目を見ることができる。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.64)

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書評:鶴見太郎『ユダヤ人の歴史:古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』中公新書、2025年
野村真理

 本書の図0-1「ユダヤ人が拠点とした都市間ネットワークや移民の動き」を見ればわかるように、彼らの足跡は世界各地におよび、3000年にわたるユダヤ人の歴史を語ることは、ほとんど世界歴史を語るに等しい。私の場合、近現代ヨーロッパの歴史であればほぼ頭に入っているが、同じヨーロッパでもそれ以外の時代や、ヨーロッパ以外の地域の歴史となると断片的な知識しかなく、その知識も、大昔に高校世界史を学んで以後、どこまでリニューアルされているか怪しい。たとえば本書の第2章第2節「イスラーム世界での繁栄」を読むにあたって、ササン朝、ウマイヤ朝、アッバース朝とはどのような王朝であったかと、ヴィキペディアを読み始めたりしようものなら、新書一冊を読み終えるのにとんでもない日数を要する。この点、著者の鶴見氏は「まえがき」で、「本書は、世界史やユダヤ教に関する予備知識なしでも通読できるように書かれている」(iv)と謳っているが、実際、いちいち細かいことを気にしなければ、予備知識がなくてもそれほどストレスを感じることなく通読できるように配慮ある書き方がされており、この点、見事というしかない。

 またユダヤ人は、古代の一時期を除き、彼らが活動した大半の地域においてマイノリティであり、その地域の歴史の規定者ではなかった。著者は、歴史は諸状況の「組み合わせ」の変化であるととらえ、マイノリティであるユダヤ人の歴史の見どころは、彼らが与えられた組み合わせに対し、いかにみずからを「カスタマイズ」することに成功したか、あるいはカスタマイズに成功したがゆえに、その組み合わせが変わったとき、いかなる悲劇に見舞われたかを検証することだという。歴史社会学者ならではの(?)「組み合わせ」や「カスタマイズ」という語が目新しいが、それによってユダヤ人の歴史の新しい語り方が示されたわけではない。これまで職業歴史家が「諸関係」とか、「適応/変容」その他の語を用いて語ってきたことと内容的には同じである。しかし、それを「組み合わせ」や「カスタマイズ」ということで、著者は一般読者に対して読書のハードルを下げることに成功した。ほかにも意図的に口語的表現を織り交ぜ叙述を軽くするなど、高校生にも読める本にしようとする著者の工夫が感じられる。

 さて、世界歴史を語るに等しいといっても、古代から現代まで、それぞれの時代でユダヤ人が経済的にそれなりの影響力を持ち、また彼ら自身の文化が発展をとげた地域というのはあり、その地域の時系列的移動に対応して、本書は、第1章の主たる舞台は歴史的パレスチナ(現在パレスチナと呼ばれている地域と区別し、オスマン帝国時代に大シリアの一部と認識されていたパレスチナをさしてこの語を使用する)、第2章は西アジア、イベリア半島、ドイツ、第3章はオランダ、オスマン帝国、ポーランド、第4章はロシア/ソ連を含むヨーロッパ、第5章はパレスチナ、アメリカと、ユダヤ人の歴史を語る書物ではほぼ定番といえる構成をとっている。

 そのさい本書の特徴は、著者が専門とする近現代ロシア/ソ連にかかわる記述が手厚いことだ(第4章第2節と第3節、第5章第1節)。20世紀はじめのロシア帝国は、現在の国名でいえばリトアニア、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、モルドヴァその他をカバーし、1900年の時点で、世界のユダヤ人人口の約半数に相当する520万人がロシア帝国に暮らしていた(175頁および図4-1)。古代の歴史的パレスチナを発祥地とするユダヤ人は、ローマ帝国時代に帝国の支配がおよんだ現在のフランスやドイツへと居住地域を広げるが、十字軍時代に迫害の激化に押されて東進を開始し、ヨーロッパのユダヤ人人口の重心は、16世紀にはポーランド・リトアニア国の版図へと移動した(第3章第2節)。日本は『アンネの日記』が最もよく読まれている国の一つであり、ホロコーストに対する関心は低くはないと思われるが、推定600万人にのぼるホロコーストの犠牲者の多くが、アンネが生まれたドイツではなく、上記の520万人から出たことはどの程度知られているのだろうか(図4-4)。ロシア帝国末期のウクライナ南部や、現在のモルドヴァの首都キシナウ(キシニョフ)でのポグロム、ロシア1905年革命後のユダヤ人の政治参加や、1917年のロシア革命後、内戦期のウクライナで猖獗をきわめたポグロムと「想像の民族対立」(202頁)など、一般読者に対し、これら520万のユダヤ人の歴史への着目を促したことの意義は大きい。

 しかし、そうであればこそ、新書という紙幅の制限があるにしても、520万のユダヤ人のうちの300万人以上が暮らした両大戦間期ポーランドの記述には少々不満が残る。著者、鶴見氏が本書でも、他の諸論考でも繰り返される持論は、シオニストにおいて、1917年のロシア革命後の内戦期ポグロムとパレスチナのアラブ人によるユダヤ人襲撃との観念的同定が、彼らにアラブ人との共生の可能性に見切りをつけさせ、アラブ人に対する彼らの態度を敵対的な方向で過激化させたということである(250頁)。だが、それをいうのであれば、両大戦間期ポーランドの「想像」ではない少数民族としてのユダヤ人が体験した迫害とナクバ(イスラエル建国の年1948年に起こったパレスチナ人の虐殺、追放/逃走)とのねじれた関係にも踏み込んでほしかった。というより、踏み込まなければ、提供される歴史的知識は偏ったものとなる。

 第一次世界大戦後に独立を回復したポーランドは、本書にも書かれているとおり(216-217頁)、人口の3分の1をウクライナ人やユダヤ人その他が占める多民族国家であったが、「ポーランド人のポーランド」を希求してウクライナ人の民族的権利要求を弾圧し、経済活動や大学等におけるユダヤ人差別も苛烈だった。ポーランドにとってユダヤ人は、できればどこかに出て行ってほしい人々であり、ここに、ユダヤ人のパレスチナ移住を促進したいシオニストとユダヤ人を排除したいポーランド国家とのねじれた利害の一致が生じる。パレスチナでは、1920年、1921年、1929年、1936年から39年と、ユダヤ人やパレスチナを委任統治するイギリスに対してアラブ人の襲撃が規模を拡大しながら続いたが、ポーランドで活動する修正主義シオニスト(252頁)の青年組織ベタルのメンバーに対し、ユダヤ人国家の設立を阻害するアラブ人やイギリスと戦うための軍事訓練を提供したのはポーランド軍だった。ウクライナ人によるテロ行為の頻発など、両大戦間期ポーランドの少数民族問題の先鋭化を身に染みて知る修正主義シオニストは、将来のユダヤ人国家で発生が予測されるアラブ人問題をけっして過小評価してはいなかった。そのさい修正主義シオニストが模倣したのは、民族の浄化を志向するポーランドの排他的ナショナリズムであり、1948年のナクバにおいて、修正主義シオニストの軍事組織イルグン(252頁)やベダルのメンバーは、ユダヤ人国家となるべき土地にいるアラブ人に対して民族浄化を率先した。現在のイスラエルでネタニヤフが率いるリクードは、修正主義シオニズムの系譜に連なる政党である。

 大型書店に行くと、ウクライナ・コーナーとパレスチナ・コーナーがあり、パレスチナ・コーナーに本書が平積みしてあった。数多の学術賞の受賞に輝く鶴見氏の知名度の高さもあり、よく売れているようだ。ウクライナにしても、ユダヤ人にしても、その歴史に注目が集まるきっかけが戦争というのは複雑な気持ちだが、ユダヤ人については陰謀論めいた「トンデモ本」も少なくないなか、本書のような堅実な歴史書が一般読者の手に渡るのは、ユダヤ人の歴史研究に携わる者の一人として喜ばしい。鶴見氏の記述に注文をつけたが、本来、ポーランドのユダヤ人の問題は、ポーランド史の研究者によってきっちりと探求されるべき事柄である。しかし、日本にはポーランド史を専攻する研究者は少なく、ましてユダヤ人の歴史の専門研究者となると数えるほどしかいない。本書の若き読者のなかから、東欧・ロシアの520万ユダヤ人の歴史に興味を持つ人が現れるようにと願ってやまない。

(「世界史の眼」No.64)

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帝国対民主主義の今日―ガザの危機
パトリック・マニング(南塚信吾訳)

新しい帝国―合衆国とイスラエル

 第二次世界大戦後、帝国は徐々に消滅してきた。140カ国が植民地支配から独立を勝ち取った。しかし、帝国を築く2つの動きがあった。イスラエルは1948年の独立以来、パレスチナ人を追放し、抑圧し続けた。1980年までにイスラエルは帝国となり、中東を支配しようとしてきた。一方、アメリカ合衆国は、1981年のロナルド・レーガン政権以降、核兵器の増強、多くの国での戦争、イスラエルとの緊密な同盟関係によって、「西洋文明」の夢を掲げつつ、過去の帝国を再び確認してきた。イスラエルとアメリカ合衆国はともに、植民地支配の廃止を支持する強い民主主義の伝統を持っていたが、多数派になることはできなかった。

 イスラエルと米国の指導者たちは、特に2000年以降、中東における産軍支配を目的とした戦略で一致してきた。米国はさらに、世界的な支配も追求してきた。米国は国連への参加を徐々に縮小し、安全保障理事会での決議の拒否権行使を除いては、ほとんど参加しなくなった。一方、イスラエルは主に、パレスチナ人を抑圧しているとの非難を否定するため、国連に残って活動を続けてきた。

 ジョージ・W・ブッシュ大統領の時代、この二つの同盟帝国はそれぞれより強硬な措置を講じ、世界における優位性を主張した。米国はニューヨークとワシントンでの9・11テロ攻撃の後、イラクとアフガニスタンへの侵攻を行い、イスラエルはガザでの反乱に対する抑圧を強化した。

 米=イスラエル同盟は、政治的・社会的な不平等を強化し、税金を秘密裏の攻撃や終わりのないプロパガンダに流用している。米国は環境改革を無視し、一方イスラエルはパレスチナ人への対応において「環境アパルトヘイト」と非難されている。

 それでも、米国とイスラエルにおいて、民主的かつ反帝国主義的な勢力が権力を掌握する可能性はゼロではなかった。

グローバル・デモクラシーとその戦略

 グローバル・デモクラシーの運動は、脱植民地化と国民レベルでの平等を目的としている。つまり、各国家の自由と、国家内におけるすべての人の権利である。国連の南アフリカにおける多数派政府樹立に向けた長期的なキャンペーンは1992年までに成功したが、パレスチナ国民の国家の樹立に向けた長期的なキャンペーンは未だ成功していない。ただし、パレスチナは138カ国から承認されている。

 国連において、各国代表は、各国と世界の福祉に関する広範な合意と関心を築きあげ、それには環境改革への広範な要望をも含ませている。彼らは、米国と他の4カ国が拒否権によって安全保障理事会の行動を阻止する拒否権の廃止を求めている。グローバル・デモクラシーと提携して大国になろうとする野心的な国々がある。それは、中国、ロシア、トルコ、フランスであり、そして時折インドが含まれる。

 国連以外では、グローバル・デモクラシー運動は、天安門、南アフリカと西アフリカ、東欧などでのデモのように、世界的なデモを通じて平等を支援する取り組みを行ってきた。真実と和解委員会は、数多くの国で紛争の解決を目指してきた。グローバルな大衆カルチャー、特にスポーツは、伝統の広範な共有を促進した。世界的なデモは、2003年のイラク侵攻に反対し、2020年にはジョージ・フロイドの記憶を偲び、差別撤廃を訴えた。特に強力な反対運動はジェノサイドへの反対であり、ごく最近ではイスラエルに対するジェノサイド訴追がある。

産軍の戦略

 推計によると、米国は2023年10月以降、イスラエルへの軍事援助を年間$200億以上増加させた。この間、米国は世界中に基地と艦隊を維持している。これには、2007年に設立されたアフリカ司令部が含まれ、これはアフリカと西アジアで定期的な攻撃を実施し、アラブや他の敵対勢力の機関を弱体化させるための秘密プログラムを維持している。

 イスラエルは植民地時代からパレスチナ指導者を暗殺してきた——この政策は2000年に拡大した際に、正式に発表された。2002年以降、米国は、パキスタンや中東だけでなく、アフリカにおいても、同様の暗殺を小規模ながら実施してきた。これらの標的殺害のほかにも、イスラエルの占領下パレスチナへの入植は、西岸地区の併合の基盤を築いてきた。このやり口に関連するイスラエルの宣伝活動は、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)に対する攻撃をでっち上げたり、米国議会議員がイスラエルの政策を支持するように政治献金をしたり、イスラエルの帝国主義を批判する者を「反ユダヤ主義」とレッテル貼りして歴史を改竄するまで多岐にわたっている。

 さらに、1980年以降のイスラエルの核ミサイル生産によって、100基を大幅に上回るミサイルが備蓄されるに至っていて、それらは主にテヘランを標的としている。

歴史の教訓―帝国の征服対世界戦争

 ナポレオン・ボナパルトは、1790年代の革命期フランスで最も成功した将軍として権力を掌握し、それから、世界支配の夢を抱いて帝国を築いた。彼は10年間その地位を維持したが、1814年にはその戦略は失敗した。それは、ヨーロッパのなかのあまりに多くの他の指導者たちや一般市民が彼に反対したためである。その後は、各国の統治者は、一度に一地域ずつ征服することによって帝国を拡大しようと試み、しばしば成功を収めた。

 イギリスとフランスは巨大な帝国を築き、ドイツ、日本、アメリカは世界大国となった。しかし、2つの大きな場合に、戦争が制御不能になった。第一次世界大戦では、大国間の戦争が莫大なコストを要したため、ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ロシアの各帝国が崩壊し、その植民地15カ国が独立を勝ち取った。第二次世界大戦では、ドイツ、日本、イタリアが主導した限定戦争が世界規模に拡大した。戦後、勝利した帝国もほとんどの植民地を手放さざるを得なかったが、パレスチナは例外であった(イスラエルは1948年にイギリスから独立したが、イギリスとイスラエルはパレスチナの独立を認めなかった)。

 イスラエルの現在の戦争——パレスチナを破壊し、中東を支配するための戦争——は、制御不能になり、世界大戦に発展する可能性が高い。グローバルな民主主義は、そのようなエスカレーションを阻止するために介入できるだろうか?

現在の争い

 2025年1月、停戦合意により、ガザの住民数千人が破壊された自宅の残骸に戻ることができた。人質交換が行われ、国連難民救済事業機関(UNRWA)が食料と物資の配給を実施した。しかし、数ヶ月後、イスラエルは停戦合意の第二段階を実施せず、UNRWAを退去させ、ガザでの食料と物資の配給をすべて停止した。イスラエルは3月18日にガザ爆撃を再開し、その後の2ヶ月間で5,500人が死亡したと報告されている。

 パレスチナ人が飢餓に直面する中、イスラエルと米国は「ガザ人道支援組織」という民間企業を設立し、5月26日からハマース反対派と分類された人々に対し、少量の水と食料を配布した。6月1日、フリーダム・フロティラ連合(=国際的な人権活動家のNGO)は、イギリス旗を掲げた船舶「マドリーン」に食料と医療物資を積んで、シチリアからガザへ向けて出航させた。乗組員12名には活動家のグレタ・トゥンベリが含まれていた。6月9日、イスラエル軍艦が同船と乗組員を拘束した。同様に、6月15日から17日にかけて予定されていた「グローバル・マーチ・トゥ・ガザ」は、カイロを経由してガザを目指す予定だったが、エジプトの治安部隊がグループを停止させ、解散させてしまった。

 6月12日、国連総会(UNGA)は、ガザでの停戦に関する新たな決議を採択した。この決議は、193カ国中149カ国の支持を得た一方、反対は12カ国(=米国、イスラエルなど)に留まりまった(これは、ニューヨークでの計画されていたガザに関する会議直前のことであった。この会議では、フランスとサウジアラビアが、いくつかの国にパレスチナを外交的に承認するよう促そうとしていたのだった)。

 6月13日、イスラエルはイランの原子力施設とテヘランに対して大規模な攻撃を仕掛け、科学者や将軍を殺害した。6月13日は重要な日であった。攻撃は、その日イタリアで開幕したG7会議の議題を揺り動かした。また「マドリーン」と「グローバル・マーチ」(=児童労働に反対する運動)に対するメディアの注目も途絶えさせた。さらにこれは、国連総会決議に対するイスラエルの反応であり、6月17日から20日にニューヨークで開催予定だった会議(=ニューヨークの国連本部で2国家共存による中東和平を目指す国際会議が予定されていた)を「延期」させた。しかし、最も重要なことは、イランへの爆撃によって、4月から続いていた米国とイランの核平和に関する協議が中断されたことである。ドナルド・トランプは、イランへの爆撃について、米国による海外での戦争に反対するという彼の長年の立場に反するにもかかわらず、突然、イスラエルを支持するよう迫られたのだった。

明日―民主主義か世界戦争か

 米国とイスラエルは現在、深刻な孤立状態に陥っている。G7加盟国と欧州諸国は、国内の反対意見の高まりを受けて、イスラエルの戦争から手を引きつつある。BRICS諸国(インドを除く)はイスラエルの攻撃に反対している。ラテンアメリカ、アフリカ、アジアの諸国における市民運動は、自国政府に対し、イスラエルにより強硬な姿勢を取るよう圧力をかけている。米国市民の世論はガザとイランへの攻撃に反対しているが、米国政府によるイスラエルへの支援はさらに強化されている。そして、6月22日、米国はイスラエルのイランに対する空爆作戦に参加した。トランプ大統領は、おそらくネタニヤフ首相からの迅速な行動を求める圧力に直面していたため、ナタンズ、フォルドゥ、イスファハンにあるイランの核施設に対する空爆を命じた。

 イラン攻撃において、トランプはガザのことを忘れてしまった。ジェノサイドによる民族抑圧と大国間対立との複雑な結びつきは、突然の変化の余地を多く残している*。実際、米国とイスラエルに対する真の反対は、イランの防衛からではなく、ジェノサイドへの反対とパレスチナの独立支持から来るのである。このような反対は、世界中で明確に表れている。それは公けのデモを通じてだけでなく、国連、G7、国際司法裁判所のような公式機関を通じても出てくるのである。

 私は、米国とイスラエルが最終的にはパレスチナの国家独立とイランとの平和を受け入れるだろうと信じている。その方法は、民主的な変化を通じてなのか、世界大戦を通じてなのかは分からない。いずれにせよ、ガザでの殺戮の全記録は、次第に国際社会から孤立する両「帝国」を、国際社会へ再加盟させることになるであろう。だが、これには、国際司法裁判所によるジェノサイドに関する判断を受け入れるだけでなく、グローバル・デモクラシーのより広範な原則を完全に受け入れ、大事にすることが必要となるであろう。

出典:
Patrick Manning, Empire vs. Democracy Today: The Crisis of Gaza
(Contending Voice 2025年6月24日)
https://patrickmanningworldhistorian.com/blog/empire-vs-democracy-today-the-crisis-of-gaza/

マニング氏から翻訳・掲載の許可を得てある。ただし、その後、本人からの連絡により、一部を修正してある。

*このところが不分明であったので、著者に意味を問い合わせたところ、ここでは、いくつかのことを指摘しようとしていると言う。その一つは、トランプはイラン爆撃に熱中してガザの事を本当に忘れてしまったのだという事。第二に、トランプは2セットの矛盾した目標を持っているという事。つまり、イスラエルの求めるようにガザその他のパレスチナ人を絶滅させることと、パレスチナの和平を実現すること、および、同じくイスラエルの求めるようにイランを破壊することと、イランの和平を実現することである。第三に、国連やその他の国が介入して来るかもしれないという事。とくに、ロシアと中国とパキスタンが(方法は不明だが)核兵器をイランに提供するかもしれない。こういうことがあるので、状況は不安定で突然変化が起こるかもしれないと言うのである。

(「世界史の眼」No.64)

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伊集院立さんの想い出
松本通孝

 2024年の年も押し迫った12月末、突然伊集院さんが亡くなられたというメールを受け取りました。奥様が亡くなられてから数年間、音信不通になっていましたが、やっと開通できたと思ったメールが、彼の他界のお報せでした。

 彼と私は、年は同じで、彼は一浪、私は一年留年しておりましたので、史学科西洋史で卒業年度は一緒でした。しかし学生時代の想い出は殆どありません。一つだけ、うろ覚えですが、そのころ存在していた東大歴研が明治100年をどうとらえるかというシンポジウムを企画した時、彼と二人でシンポジウムでの講演をお頼みするため、犬丸義一さんの家に依頼に行ったことがかすかに記憶に残っています。ただ、講演・シンポに関しては、まったく記憶がありませんので、彼がどのような役割をしていたかは不明です。

 その後、私は、高校の教師として歴史教育の方面に進路を決めましたので、以後のお付き合いは年賀状以外全くなくなりました。

 1970年代の半ば、私が高校の世界史教師として夢中になっていたころ、突然彼から電話がありまして、中村義さんらと中高生向けの人名事典を企画しているのだけど、教育現場の立場で協力してもらえないかとの誘いでした。歴史関係だけでなく、文学、科学、芸術、芸能、スポーツなどに及ぶ総合的な事典の企画でしたが、私は、自分の授業に絶対にプラスになると思い、二つ返事でお引き受けしました。2~3年かかったと思いますが、本当に楽しい編集委員会で、伊集院さんには本当に感謝しております。出来上がった本は、中村義ほか編『コンサイス学習人名事典』三省堂、1978年でした。中高生向けの事典でしたので、短い説明文の中にできるだけエピソードを盛り込むようにという方針で、これは、私が普段の授業で生徒たちに話す余談の貴重なネタになりました。伊集院さんには本当に感謝しております。

 それからしばらくして、1982年ころ、西川正雄さん、吉田悟郎さんらが中心となって比較史・比較歴史教育研究会が発足した時、私は事務局の仕事を手伝うという立場で参加しておりましたが、伊集院さんはその会のメンバーの一人で数回の東アジアシンポの報告者としても活躍されていたと思います。私は裏方でしたので、彼の報告は聞いておりません。シンポジウムの報告集を出すときにも、彼は中心メンバーの一人として活躍されていたと思います。

 時代的には併行しますが、1989年、99年に高等学校の学習指導要領が改訂され、社会科解体、世界史はAとBの教科書が作られるようになりました。この時は、三省堂から西川さんに依頼があり、高校現場から私を含め3名が編集執筆委員として参加することになりました。この教科書は、戦後史を3章立てにし(普通は2章)、しかも今までの西洋中心、中国中心の傾向を打ち破るため、大国の周辺からの叙述を狙った画期的な教科書でしたが、現場の高校の先生方には受け入れられず、結果的には失敗に終わってしまいました。この教科書で近代ヨーロッパを担当されたのが伊集院さんで、西川さんからの難しい要望に頭を悩ましていた姿を思い出します。

 その後も、西川グループの企画は続き、2006年には歴史学研究会編『世界史史料』全12巻(岩波書店)の刊行を開始し始めました。この企画は10年以上に及ぶ企画で、その途中で西川さんが病に倒れ、この仕事を引き継いだのが伊集院さんでした。この仕事は、直接的には各巻の責任者が執筆者への依頼、原稿集め等を分担するのですが、その総責任者が突然伊集院さんになったのです。彼の悩みはいかばかりであったことか、とにかく2012年7月、最後に残っていた第1巻の刊行が終わり、準備期間を含めると10年近くに及ぶ企画は無事終了しました。西川さん時代からの淡い希望であった、もし売れ行きが良かったら、高校生向けに本格的な史料集を出したいなーという夢は、いまだもって実現されていません。伊集院さんは、その後も高校の歴史教育関係の研究会に顔を出し、いずれ実現したいと思われていたと推察しますが、彼の遺志を継ぐ動きは、今のところ出てきていません。

 そのような中で、彼が晩年に取り組んでいたのは、明治以来の歴史教科書の系譜をたどる作業であったように思われます。万国史以来の日本における外国史の受け入れ、日本独自の歴史教育への道の探究に関心を持たれていたようです。それゆえ、歴教協の東京部会の例会にもたびたび顔を出されるようになり、帰る間際になって、ニコッと微笑みながら、難解な問題提起をされ、参加者の皆さんをけむに巻いて、私と一緒に新大塚の駅まで冗談を言いながら一緒に歩いたのが、最後になってしまったなーと、今さらながら残念に思い、彼の生前を偲ぶ次第です。

2025年4月

(「世界史の眼」No.63)

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伊集院さんの仕事を振り返る
南塚信吾

 伊集院立さんが、2024年12月に亡くなった。81歳であった。伊集院さんを偲んで、かれの仕事を簡単に一覧し、そのあと、わたしが一番興味を持っている「万国史」に関係したかれの論文の紹介をしてみたい。

1.伊集院さんの研究の歩み

 伊集院さんは、私と高等学校が同じ(かれが1年下)で、最後はともに法政大学にいたことから、なんとなく親しい間柄であった。かれは学生時代からファシズム、ナチズム、そしてとくにナチスの農民・農業政策に関心を持ち、地道な研究を続けてきた。かれの史料を重視した研究は他人を寄せ付けないものがあった。かれは、ナチスが権力を握った一つの重要な要素は、ワイマル期のドイツにおけるエリートに反発した大衆を巧みに捉まえたところにあるとみて、農民・農業政策の研究でもそれを根底においていたように思う。それと並行して、かれは西川正雄さんを助けるように、比較史・比較教育史の研究に伴走し、また、西川さんを助けて、世界史の史料集の編纂にエネルギーを注いできた(歴史学研究会編『世界史史料』岩波書店, 2006―2013年)。そのような伊集院さんは、2005年に発足した私たちの「戦後派第一世代の歴史研究者は21世紀に何をなすべきか」研究会では、新しい挑戦をしていた。それはドイツ国民国家を考え直す仕事であり、市民社会におけるエスニシティの問題の追及であった。後者はやや未消化であったが、いまから考えるとかれの最後の挑戦であったわけである。

 伊集院さんはまだやり残した仕事もあったのではないかと思われるが、われわれに課題を残していったのかもしれない。

 ご冥福を祈る次第である。

***

 伊集院さんの主な仕事の一覧は以下のとおりである。

1)ファシズムとナチスの農業政策

「ワイマル共和制からファシズムへの移行」『世界史における1930年代―現代史シンポジウム―』青木書店 1971年
「相対的安定期末のドイツ共産党党内論争」『階級闘争の歴史と理論』第3巻 青木書店 1980年
「ファシズムの台頭」『西洋の歴史―近現代編―』ミネルヴァ書房 1987年
「ナチスと農村同盟の地域支配1930-1932」 茨城大学教養部 『紀要』 (20) 1988年  
「ヴァルター・ダレーとヴィルヘルム・ケプラー 1932年ナチ党内における農業派と工業派の角逐」『史学雑誌』 第98篇(3号) 1989年  
「ナチスの農村労働者政策(1930~32年)」 『大原社会問題研究所雑誌』378号 1990年  
「ナチズム 民族・運動・体制・国際秩序」『講座世界史6 必死の代案』 東京大学出版会 1995年
「ドイツ農村の変容とナチス ―ポメルンにおけるナチスの農村労働者政策―」 『社会労働研究』(法政大学社会学部) 第44巻(第3、4号) 1998年  
「ライン農民協会とラインラント農業界の保守的統合―1919~1920年―」『社会志林』 51(3) 2004年  
「ラインラントの農民協会とドイツ革命」『社会志林』 50(4) 2004年  

2)比較史・比較教育

「世界史のなかのヨーロッパ史」 『自国史と世界史』未来社 1985年
「自国へのリアリズムと他国へのリアリズム」 『アジアの「近代」と歴史教育』未来社 1991年
Nationalgeschichte und Universalgeschichte: Zweites Symposium zur ostasiatischen Geschichtserziehung,Internationale Schulbuchforschung: Zeitschrift des Georg-Eckert-Insitituts für Internationale Schulbuchforschung,  12(2) 1990年  
「文禄の役における「自国史と世界史」〜東アジア歴史教育シンポジウムから〜」 第3回韓・日歴史家會議「ナショナリズム:過去と現在」2003.10. 2003年 
「近代日本の世界史教科書における東洋史と世界史の叙述:歴史教育と歴史研究」 『社会志林』 56(1) 2009年  
History Education and Reconciliation : Comparative Perspectives on East Asia, Peter Lang 2012年 

3)新領域を求めて

『国民国家と市民社会』 有志舎 2012年
  「ドイツ国民国家形成とドイツ語の歴史」
  「市民社会とエスニシティの権利」
『われわれの歴史と歴史学』 有志舎 2012年 
  「「市民革命」と東アジア世界」
  「私の歴史彷徨記」

2.近代日本の世界史・東洋史教科書

 伊集院さんの歴史学界への貢献は、もちろんナチスの農業政策のついての一連の仕事にあるのではあるが、狭い専門分野以外での貢献の一つとして、かれの比較歴史教育の分野での仕事を上げることができる。そのような仕事の一つとして、かれの「近代日本の世界史教科書における東洋史と世界史の叙述:歴史教育と歴史研究」(『社会志林』 56(1) 2009年) をとりあげて、明治時代の世界史教育の取り組みの分析における、その意味を考えてみたい。

 この論文の構成は以下のようである。

 Ⅰ 幕末日本の世界史認識・東アジア認識の転換
 Ⅱ 明治日本に於ける世界史教育と東アジア世界という歴史意識
 Ⅲ 歴史教育におけるアジア主義の中国認識と朝鮮認識
 Ⅳ 明治初期の東洋史教育と自前の教科書の作成
 Ⅴ 日清戦争以降の東洋史の教科書
 Ⅵ 戦後の世界史教科書における東アジア世界の問題
 Ⅶ 「東アジア世界」という考え方の意味について

この論文は明治以来東洋史教育が世界史教育の中でどのように芽生え、発展し、どのような問題を抱えたのか、そしてその克服のためのどういう努力がなされてきたのかを探る、意欲的な議論を展開している。東洋史教育と世界史教育との斬り結びがテーマである。その議論は戦後現代にまで及んでいるのだが、中心は明治期にあるので、本稿では明治期を中心に取り上げることにする。

 さて、伊集院さんは、日本における世界史教育は1948年から始まったのではなく、明治期から行われていたと言い、「万国史」の教科書を取り上げている。これはその通りである。ただ、このテーマについては、当時すでに岡崎勝世『聖書vs世界史』(講談社現代新書、1996年)と、松本通孝「明治期における国民の対外観の育成――「万国史」教科書の分析を通して」(増谷英樹・伊藤定良編『越境する文化と国民統合』東京大学出版会、1998年)が出ていたわけであるが、どうしたことか伊集院さんはこれらを見ていないようである。

 伊集院さんは、明治初期の万国史を中心とする世界史教育について、①欧米の成果を取り入れる形で、「万国史」として進められたこと、②この万国史は西洋の歴史であり、東洋史は含まれていなかったことを指摘している。その例として、ギゾー『欧羅巴文明史』やスウィントン『万国史要』が教科書として取り上げられていたことを挙げている。

 大きく言えばこれで間違いはない。しかし、岡崎さんや松本さんも指摘しているように、日露戦争までの明治期に限定しても、世界諸地域の歴史を並べるパーレイ風の万国史から文明の発展に貢献のあったヨーロッパを中心に見るスウィントン流の万国史へと変遷があり、前者においては、世界のあらゆる地域にそれなりの歴史が認められ、アジアの扱いもそれなりに意味のあるものであった。これが1880年代にスウィントン流の文明史的なものになり、アジアが後退していくのである。歴史の動きを主導するのは西洋で、それに関係のないアジアの国々は登場しなくなるのである。天野為之に言わせれば、「世界全体の発達に較著なる関係を及ぼさざるかぎりは」外されるのである。細かく見ると、伊集院さんの言うように「東洋史は含まれていなかった」というわけではない。世界全体の動きをリードする西洋の動きに関係のある限りで、アジアはピックアップされて世界史に組みこまれたのである。アジアに主体性がないという意味では、「含まれていなかった」のである。

 伊集院さんは、日清戦争前後にアジア主義が台頭して、世界史教育は変化したとして、万国史を離れて、東洋史という分野が自立してきたことをフォローしている。たしかにそうである。だが、これまた松本さんも指摘しているように、日清戦争前後のアジア主義の台頭を受けて、万国史においてもアジア・東方を重視した万国史を書くべきであるという強い動きが出ていた。万国史を東洋の拡大と西洋の拡大の二つの動きの総合と見るものであった。ここでは、西洋史の優位という姿勢はなくなっていた。だが、東洋の中で主導的な役割を演ずるのが日本であるという姿勢(それは日清戦争後には強化されたが)が込められていて、松本さんは、これを「日本盟主型」の万国史と位置付けている。この時期の万国史が、アジア主義的な要素を持っていたことを、もう少し見てもいいかもしれないが、ともかく、こういう西洋と東洋のせめぎあいのなかで世界史を考えるという万国史の方向を、伊集院さんがもっと注意しておいてもよかったのではなかろうか。

 伊集院さんは、日清戦争後の時期の教科書については、万国史を離れて東洋史の教科書を検討していた。そして、そこでアジア史と西洋諸国との関係を問題にしていた。いわく、日清戦争後の東洋史の教科書は、東洋史を中国史に集中させるのではなく、中国の周辺地域にも視野を広げ、東アジアだけでなく、南アジア、西アジアなどアジア全域に広がり、さらには、西洋諸国との関係においてアジア史を考えることの重要性を強調していたという。これは重要な指摘である。だが、実は、このような視角はこの時期の万国史の一つの特徴でもあったのである。

 日露戦争後には、歴史は、日本史・東洋史・西洋史に分けられて教育されていくことになる。このような東洋史と西洋史の関係、あるいは世界史の中での東洋史の位置づけという問題は、万国史に代わって「世界史」という方向で追究された。それが坂本健一や高桑駒吉らの仕事であった。ともに東京大学の東洋史の卒業であった。しかし、東洋史の教科書の分析という方向に進んでいた伊集院さんはこれに注意することはなかった。かれは東洋史の内部から世界史につながる契機がないか、その契機はどのようなものでありうるのかを探し続けたのである。戦前にはそれは見いだせなかった。そしてそれは戦後になって「東アジア世界」論として見出されることになるのだった。

 このように、世界に開かれた東洋史を求める伊集院さんの仕事は重要な問題提起であったわけであるが、万国史の流れから離れないでこれを追求した場合に、どういう成果が出ていたのか、大いに興味を掻き立てられる次第である。

(「世界史の眼」No.63)

 

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書評 油井大三郎著『日系アメリカ人 強制収容からの<帰還> 人種と世代を超えた戦後補償(リドレス)運動』(岩波書店、2025年)
上杉忍

 まず本著のタイトルに注目したい。

 「強制収容からの<帰還>」は、収容所からもとの家に「帰還」することを意味しているだけでなく、「自己の尊厳回復」の意味を持たせたくて<帰還>と表現したと著者は述べている。強制収容によって市民権をはく奪された彼らは、アメリカ白人社会への同化政策を押し付けられ、戦後「モデル・マイノリティ」と呼ばれるまでに「成功」したが、戦中・戦後のアメリカ社会の変容の過程を経て、自らのエスニック・アイデンティティに目覚め、黒人やメキシコ系さらに中国系、先住民、第3世界の人々との連帯を通じて米国における人権侵害に立ち向かう「自己の尊厳回復」を実現したのである。

 そして、「人種と世代を超えた」との表題は、人口の1パーセント以下しか占めていなかった日系人が、世界史的な意義を持つ「謝罪と補償」の要求運動に成功したのは、彼らが、世代や立場の違いに基づく日系人の内部対立を克服し、有色人マイノリティ、革新的白人だけでなく、保守的団体までをも含む広範な支持層との連帯を追求しつつ進められたからであることを強調する意図を示している。 

 著者が指摘するこの日系人の戦後補償(リドレス)運動成功の世界史的意義とは、不当な差別や抑圧を受け、その不当性を政府に認めさせ、謝罪と補償を実現した例は極めてまれであり、その後の世界に画期的な先例を示したことにあった。そして著者は「戦勝国である米国でさえ戦時中に行った不正に対して謝罪と補償を行ったのだから、敗戦国である日本は一層、外国人の戦争被害者に対する謝罪と補償に向き合うべきだ」と述べている。

 日系人の一括強制収容が強行された当初、日系人コミュニティーは、その指導的存在だった一世の多くが「敵性外国人」として拘束され、混乱に陥っており、排外的愛国主義の嵐の中で孤立無援の状態だった。本著は、その彼らが、このような世界史的意義を持つ政府による謝罪と補償の要求を実現させ「アメリカ市民」としての人権を回復しただけでなく、例えば、911事件直後のアラブ系やイスラム系の人々に対する排斥に対して毅然として抗議したことに示されているように、外国人の人権に対しても政府が責任を負うべきだとの主張の前面に立つ「トランスボーダーな人権感覚」を身に着けるまでに成長していく過程を追っている。

 従来日系人の強制収容とその終結過程の研究は相当程度丁寧に行われてきたにもかかわらず、リドレス運動とその成功の過程の研究は必ずしも十分でなかったとの問題意識から、著者は30年もの長きにわたってリドレス運動の研究に取り組んできた。しかし、本書ではこの運動だけを切り離して取り上げるのではなく、強制収容以後の日系人の歴史全体の中に位置づけることによって、その積極的な歴史的意義をよりドラマティックに描き出すことに成功している。

 リドレス運動の開始は「難産」だった。著者は、「リドレス運動への壁」として、日系市民協会が「収容」に協力したこと、「収容」を執行した戦時転住局が最後までその「強制性」を否定したこと、そして、日系人内部に深刻な分裂があったことなどの「壁」を例示している。特に、強制収用を「恥」と認識し、収容体験を語ることを封印して来た日系人のトラウマからの解放に長い時間がかかったことも「難産」の大きな要因だった。政府が求める同化路線に従い、モデル・マイノリティとして「成功」した日系人が、戦後冷戦下で赤狩り旋風が吹き荒れ反体制運動全体が圧殺される状況のもとで、アメリカ政府の「強制収容」という戦時政策の違憲性を告発し、謝罪と補償を求めることは極めて困難だった。

 しかし、なぜリドレス運動が開始され、成功までの道を歩むことができたのか。著者は、その成功の要因を次の4点にまとめている。第1にこの「収容」が当局の言うように暴民からの日系人の「一時避難」などではなく、憲法に違反する人権を侵害する「強制収容」であることを明確にしたこと、第2に西海岸で進められた戦後の日系人土地所有禁止住民投票を不成立に追い込んだことに象徴されるアメリカ世論の変化があったこと、第3に白人の強制収容反対派の支援があったこと、そして第4に、日系人三世が日系人コミュニティーの運動の主体として成長してきたことである。 

 本著は3部構成からなっている。第1部では、強制収容決定・実施のあと間もなく始まった中西部・東部への再定住の過程での、「分散的再定住」政策などによる日系人のアメリカ社会への「同化の試み」が検討されている。

 第2部では、日本の敗戦や日系人部隊の活躍による日系人に対する世論の好転を受けて、西海岸での日系人排斥行動が鎮静化したこと、戦中・戦後の西海岸における軍需産業の急成長に伴う社会変動、人種関係の重層化、人種間緊張とその緩和と並行して日系人の西海岸への再定住が本格化したことが論ぜられている。

 第3部では、強制収容から解放された日系人が、西海岸での就業構造の変化などの新しい環境の下で、女性を含めより有利な雇用の機会を得て「成功」し、「モデル・マイノリティ」と呼ばれるまでに地位を向上させたが、それは、強制収容体験を忘却させる効果もあったことが指摘されている。それにもかかわらず、日系人は強制収容の立ち退きの際に強制された不当な財産処分に対する補償要求や、一世の帰化権の実現などの運動に取り組み、ある程度成功したこと、そしてその過程で、強制収容体験の「封印」という制約の下でも、収容所への巡礼運動などを経て強制収容体験が語られ始め、日系人が独自の文化を放棄せず、アイデンティティを変容させたことが述べられている。そして、ベビーブーム世代の三世が、1960年代に多数大学に進学し、当時の黒人運動やベトナム反戦運動を自らの問題として受け止め、それに励まされて多くの日系人が従来の「同化路線」を克服し、アジア系アメリカ人としての自覚を強め、リドレス運動を開始し、ついに成功に導いた過程が描かれている。

 アメリカでは、第1次世界大戦参戦の過程で、非英語圏からのヨーロッパ系移民の「アメリカ化」を推進するため「ホワイト・エスニック」の存在を受容する文化多元主義が主張され、また1930年代に台頭したナチスに対抗するために、黒人やアジア系、ヒスパニック系、先住民をも含む有色人マイノリティのアメリカ社会への統合が語られ始め、人類学者の間では、それまでの同化主義に異を唱えるフランツ・ボアズの「文化相対主義」が広く受け入れられるようになっていた。そして、第二次世界大戦後、黒人公民権運動の洗礼を受け、有色人マイノリティをアメリカ社会の一員とみなす「多文化主義」が建前としては積極的に受け入れられるようになった。本著は、まさにそのような変化の中で日系人のリドレス運動が展開されたことに注目している。

 本著は、そのほか重要な問題を数多く取り上げており、学ぶ点が多いが、評者にとって特に印象深かったことを一つ上げるとすれば、リドレス運動の先駆けとなったのが、1930年代以来の反ファシズム運動の担い手だった「オールド・レフト」と呼ばれる人々だったことである。冷戦下の赤狩り旋風によって一時は窒息させられていた「オールド・レフト」が再び立ち上がり、1960年代の公民権運動・ベトナム反戦運動の中で成長してきた「ニュー・レフト」と呼ばれている人々との融合によってこのリドレス運動が担われたのである。

 近年では、黒人公民権運動を、1930年代からの「長い公民権運動」の歴史の中に位置づけてとらえなおす研究が有力になっているが、それと共通する現象がここでもみられることが印象深かった。冷戦赤狩りによる分断を乗り越えて、黒人解放運動は、今日、BLM運動という新たな段階を迎えている。

 次に、本著の論の進め方について一言ふれて結びにしたい。筆者はプロローグで、明確に論点を整理し、それに基づいて妥協なく徹底した研究史の渉猟・整理を行ったうえで、一部の隙も見せることなく、理路整然と論述を積み重ねている。それは、社会科学的歴史論述のモデルといえよう。本著が、とても分かりやすく、安心して読み進めることができるのはそのためである。同時に、著者は、文学作品や写真集・画集などを丁寧に紹介し、強制収容された日系人に寄り添い、そこから生み出される変革の芽を丁寧に取り上げ本論に編み込んでいる。本著からわれわれは、日系人の苦悩と喜び、誇りを読み取ることができる。

 そして最後に一言。本著を熟読することなくして、今後の日系人の歴史研究やその他の「補償運動」研究を前に進めることはできない。

(「世界史の眼」No.63)

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北前船・長者丸の漂流 その2
南塚信吾

1.捕鯨船にて   

 長者丸は1839年(天保10年)6月6日(旧暦4月24日)、マサチューセッツ州のナンタケットNantucket島から来た捕鯨船ジェームス・ローパー号(ゼンロッパ)に救助された。船長はオベット・キャスカート(ケツカルないしケスカ)、乗員は30人ほどであった。船巾22間、長さ70間の船であった。救助された地点は、東経169度、北緯33度、ミッドウエー諸島の近く、太平洋の真ん中であった(池田編 1968 22-24頁;室賀他編 1965 62-63頁;Plummer 1991b p.13,144)。すでに五三郎、善右衛門、金八が亡くなって、残りは船頭の平四郎以下七名であった。

ゼンロッパ号  『日本庶民生活史料集成』 22頁

 ゼンロッパ号では、一同は親切なもてなしを受け、体力も回復してきた。おかゆ状のものから順に普通の食事に移行し、食事には肉が提供されるようになった。また行水もする事ができた。そして、一か月が過ぎた5月中旬、7人は3艘の捕鯨船に分かれて乗ることになった。すなわち、六兵衛は船長「ジャイキ」の船へ、太三郎は「ボーシタ」の船へ、八左衛門と七左衛門は名前は不明だが別の船へ分乗し、平四郎、次郎吉、金蔵の三人はゼンロッパ号に残ることになった。これはゼンロッパ号以外の捕鯨船から申し出があったためであった。 

 この後、平四郎、次郎吉、金蔵の3人を乗せたゼンロッパ号は、捕鯨を続け、やがてハワイに着くまでの五か月の間に、クジラを八頭もしとめた。平四郎らはその際多少の手伝いをしたが、多くは手持無沙汰で、服を縫ったりして過ごした。10月中旬(陰暦9月上旬)、ゼンロッパ号は、「エギリス」領「サノイツ」(サンドウィッチ島つまりハワイ島のこと;『漂流人次郎吉物語全』では「サントイチ」;なおイギリス領というのは誤り)の「ウワヘ」(ハワイ島:当時は英語でOwyheeと呼ばれていた)の「ヘド」(ヒロ)に着船した。

 ここには現地人(土人)の外、広東人(華僑)もおり、アメリカの寺(教会)もあった。3人は、広東人の家に止宿した。3人は、これより日本国へ2、3千里もあると聞いている(『漂流人次郎吉物語全』18頁)。 

 六兵衛の乗ったジャイキの船は、乗員が34-35人で、クジラをこれまでに2頭、この後に4頭しとめた。そして、同じころ「サノイツ」の「ワホ」(オアフ島)に着いた。六兵衛が上陸して、広東人のパピユ(バビユ、パペーヨとも)という人物のところへ行くと、八左衛門、七左衛門の二人が先に来ていた。もう一つ太三郎の船も31,32人乗りで、クジラを6頭取った。この船は10日遅れて到着した。太三郎も六兵衛、八左衛門、七左衛門と同じところで過ごすことになった。そして、平四郎らも10月下旬(9月下旬)にはこの「ワホ」の4人のところへ合流することになる。

 ともかく、ここに7人はまた陸上に戻ったのであった。1838年4月に東岩瀬を出帆、11月に唐丹湊を出て沖に流され、5ケ月間海上に漂い、1839年4月(西洋歴6月6日)に捕鯨船に助けられて、その船中に5ケ月を過ごし、今や18ケ月ぶりに陸地に上がったのであった(池田編 1968 26-27頁;室賀他編 1965 70-72頁)。

2.ハワイでの長者丸の乗組員たち 

 ハワイに1839年10月中旬(旧暦9月上旬)に上陸したあと7人が10月下旬(9月下旬)に合流するまでの動きは、平四郎、次郎吉、金蔵の三人についてのみ、知られている(なお、ハワイなどの地名は『蕃談』や『時規物語』などで違って表記されているが、本稿では、原則として、初出を除いて、現在の地名を使うことにする)。

 ヒロ(ヘド)では広東人の家に止宿した。しかし、家人との折り合いが悪かった3人は、10月18日(旧暦9月12日)(『時規物語』は着後3、4日という。池田編 1968 41頁)ごろ、「ケツカル」船長に連れられて、ムマヲイ(マウイ)島のラハイナへ行った。ラハイナは、この時期、ハワイ王国の首府であった。ここには、広東人、イギリス人、アメリカ人、フランス人、「バンガラ人」(ベンガル人=インド人か)、イスパニア人がいた。

 3人は、「ケツカル」船長の友人であるアメリカ人「ミヒナレ」(ミッショナリー)のドワイト・ボールドウイン牧師の家に泊まった(『蕃談』では、牧師パラオイナンとある)。「ケツカル」船長は、牧師に3人を日本に送るよう頼んで、鯨漁に出かけた。エール大学とオーバーン神学校を卒業し、1835年からラハイナに来ていたボールドウイン牧師(1870年までラハイナに滞在する)は、日本人に興味を持って、日本の事を知りたがり、中国語と日本語の文字や、数字、お酒、食事、宗教などについて学んだりする人物であった。かれは三人を教会のミサに連れて行ったりした。この時、一行は初めてアメリカの婦人と子供を見たのだが、次郎吉は婦人は美しくしとやかで、その衣裳もきらびやかだったという。ここにいる間に、太三郎らがオアフ島(ワホ)に着いたことを知ったので、3人は「ミヒナレ」にオアフ島へ行けるようにしてほしいと頼んだ(Plummer 1991b p.142,145,150-151;Plummer 1991app.126-128;プラマー 1989 161頁)。

 ラハイナに数週間いたあと(『時規物語』では、14,5日いた後という。池田編 1968 41頁)、11月1日(旧暦9月26日)、3人はオアフ島のホノルルへ行った。ここで太三郎、八左衛門、六兵衛、七左衛門の4人と合流した。7人は久しぶりに一緒になった。太三郎ら4人は富裕な広東人商人パピユのところに宿を取っていたが、平四郎ら3人は、ラハイナのボールドウイン牧師の紹介した「ベイネム」(ハイラム・ビンガム)というハワイ宣教師団の中心人物である牧師を訪ね、かれの家の向かいにいる医者のG.P.ジャド博士宅に止宿した。ここで、数人のアメリカ人牧師と知り合った。

 ハイラム・ビンガム(1789-1869)は、1820年にアメリカからの第一次宣教師団の一員としてハワイに来ていて、団の中心人物で、聖書などを現地語に翻訳したりして、「宣教師運動の父」と呼ばれていた。G.F.ジャド(1803年生まれ)は、1828年に長老派教会の医療使節としてハワイに来ていて、医療支援に当たっていた(Plummer, 1991b pp.152-154)。

ワホ(ホノルル) 『日本庶民生活史料集成』 254頁

 ホノルルにいる間に、一行が、アメリカの軍艦に載せてもらって、ロシア、オランダを経由して長崎へ送り届けてもらうという話があり、そうなればフランスやイスパニアや「天竺」を始め広東にも行けると思ったこともあった(池田編 1968 43頁)

 だが、11月5日(旧暦9月30日―『蕃談』では旧暦10月23,24日ごろという)、一行の中心で、アメリカ人からも最も男らしくて誠実な人物と評価されていた平四郎が病死した。読み書きのできたかれは仲間から「ご老体」と呼ばれて敬意を持って親しまれていた。11月5日付の『ポリネシア誌』に出たレヴィ・チェンバレンの記事では、かれがこの日に発見された時、平四郎はすでに死後数日が過ぎていたという。そして死因は胃か腸の炎症ではないかという。このチェンバレンは、1822年に第二次宣教師団の一員としてやってきていて、宣教団の世俗的な問題を担当し、経理を扱っていた。宣教師たちから非常に尊敬されていたという。翌日ジャド医師によって検視が行われ、ビンガム牧師のもとで丁寧な葬儀が執り行われ、平四郎は棺に入れて埋葬された(Plummer 1991b p.146、154-156)(『漂流人』は平四郎の葬儀を比較的詳しく述べていて、棺を行列で山へ運んで土葬したという)。平四郎は日本に妻と子供五人を残して死んだのである。次郎吉が墓碑をカタカナで書いた。次郎吉は、十分な教育を受けていなかったが、好奇心と記憶力にすぐれ、いくらか文字が書け、英語とハワイ語を覚え、絵もうまく、何よりも力が強かった。プラマーは「スーパーマン」とさえ称している(Plummer, 1991b p.147;Plummer 1991a  pp.119-120)。このあと次郎吉と金蔵は、太三郎らのいるオアフ島の広東人パピユのところへ合流した。

 12月になって、八左衛門、六兵衛、七左衛門、次郎吉の4人は、パピユの弟「ジョン」という広東人に連れられて、マウイ島のラハイナにある「ジョン」の農場へサトウキビのしぼりを手伝いに行かされた((Plummer, 1991, p.157;「ジョン」は時にはパピユの甥とも言われる)。広東人は労働力を必要としていたのである。ここで1840年の正月も過ごし、アメリカ人やフランス人や現地人の正月の過ごし方を目にした(太三郎と金蔵の2人はオアフ島に残っていて、広東人宅で正月を過ごしていた)。そこからまたワイロク(ワイルク)というところへ連れられて行って、4人は、サトウキビしぼりや小屋作りのために3か月ほど働いた。1840年6月(陰暦5月)になって、オアフ島から軍艦が入港したとの知らせを聞いて、4人は、オアフ島へ帰りたいと頼んだが、「ジョン」は引き留めようとした。そこで逃げるように「ジョン」の家を去り、陸路を歩いたり、小舟に乗ったりしてラハイナを経てオアフ島のホノルルへ戻った。

 オアフ島にはフランスの軍艦が来ていた。一行は軍艦の見学はできたが、帰国のための乗船はできなかった。アヘン戦争が起きて、広東には行けないというのであった。たしかに中国の広州湾では1839年11月からイギリス海軍の清国船への砲撃が始まっていて、1840年5月からは本格的な戦争になっていたのである。広東などを経由して長崎へ行くことは不可能と考えられた。

 『蕃談』は次郎吉の言として次のように記している。

「サンイチ」にて風説に聞けば、広東は只今「オツペン(opiumアヘンか)」の一件にて「イギリス」と合戦最中にて、只今広東に往きては混雑して日本に帰る事には迚(とて)も至るまじとなり」(池田編 1968 301頁。これは『蕃談』に付けられた附録)。

 それでも6人はビンガム牧師とジャド博士に帰国を強く願い出た。アメリカの軍艦が来るのを待っていたが、来なかった。そのうち、ロシア領へ送れば帰国が早くできるかもしれず、「カムサツカ」(カムチャツカ)へ行く船があればそれに乗せようという事になった。この時、ビンガム牧師は2、3年前にアメリカからカムチャツカヘ渡り布教をしたことがあったので、カムチャツカの様子は分かっていた。また、3年前に早川村の船が漂着した時、乗員をハワイからシトカに送って帰国させたことも想起された。十数年前に越後早川村の船が漂着した時は、舟子の伝吉と長太らは「セツカ」(シトカ)経由で帰国したので、今回もその道で帰ることが考えられたのである。

 はたしてカムチャツカへ行くイギリス船が見つかった。アメリカの商人キャプテン・カータ(元船長)の周旋により、イギリス人船長センの船に便乗してカムチャツカに行くことになった。1840年8月3日(陰暦7月6日)、セン船長の貨物船「ハーレクイーン号」はホノルルを出港した。船は2本マストの2000石積みであった。カータは、オアフ島に店を持っていて、妻子同伴で船に乗り、雑貨、砂糖、メリケン粉などを積み込んでいた。総人数21人、他に長者丸の6人であった(プラマーは、船を世話したのはPeirce & Brewer社のH.A.Peirceであるという。ボールドウインは、モリソン号の例を見ると、一行は日本に帰っても温かく迎えられる可能性はほとんどないとコメントしている)(池田編 1968 39-54、246頁;室賀他編 1965 74-90頁;笠原96―99頁;プラマー 1991b 162頁)。

 こうして、6人は、1839年10月から1840年8月まで、計11か月を過ごしたサンドウィッチ諸島を去ることになったのである。

参考文献

室賀信夫・矢守一彦編訳『蕃談』平凡社 1965年
池田編『日本庶民生活史料集成』第5巻 三一書房 1968年
『漂流人次郎吉物語全』高岡市立図書館 1973年
笠原 潔「ハワイ滞在中の長者丸乗組員たち」『放送大学研究年報』 26号、 2009年3月、93-105頁
高瀬重雄『北前船長者丸の漂流』清水書院 1974年
プラマー、キャサリン『最初にアメリカを見た日本人』酒井正子訳 日本放送出版協会 1989年
Plummer, Katherine, The Shogun’s Reluctant Ambassadors; Japanese Sea Drifters in the North Pacific, The Oregon Historical Society, 1991a
Plummer, Katherine, A Japanese Glimpse at the Outside World 1839-1843; The Travels of Jirokichi in Hawaii, Siberia and Alaska, The Limestone Press, 1991b

(「世界史の眼」No.62)

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書評:藤本博・河内信幸編『ベトナム反戦運動のフィクサー 陸井三郎―ベトナム戦争犯罪調査と国際派知識人の軌跡』彩流社、2025年
油井大三郎

 陸井三郎という名前を知っている人は、今や少なくなっているのではないか。彼は、哲学者のバートランド・ラッセルの提唱で始まった、ベトナム戦争における戦争犯罪を調査する民間法廷の日本側委員の一人として、米軍の爆撃下のベトナム民主共和国(北ベトナム)を3度訪問し、西欧で開催されたラッセル法廷でその調査結果を発表した人物の一人である。

 1975年にサイゴン政権が陥落し、ベトナム戦争が終結して50年が経過した。また、2000年に陸井三郎が亡くなって、25年が経過した。そのような節目の年で、しかも、ウクライナやガザで戦争犯罪が繰り返されている状況だけに、改めて陸井三郎の足跡を振り返る本が出たことの意義は大きい。

 本書の構成は以下のようになっている。

第一部ベトナム戦争犯罪調査、ベトナム国際反戦運動と陸井三郎
 第1章 ラッセル法廷、ベトナム戦争犯罪調査委員会と陸井三郎の役割  藤本博
 第2章 同時代のベトナム戦争論  陸井三郎
第二部 陸井三郎とはどのような人物だったのか 
 第1章 陸井三郎の生き方と人物像  河内信幸
 第2章 『陸井三郎先生に聞く』(1992年3月)東京大学アメリカ研究資料センター
 第3章 陸井三郎 略年譜(河内信幸 作成)

 つまり、第一部ではベトナム戦争の戦争犯罪調査と陸井の関係を、藤本博と陸井自身の論稿で検討し、第二部では陸井の人となりを、河内の論稿と東大のアメリカ資料センターが行ったオーラル・ヒストリーで再現している。

 ラッセル法廷やベトナム戦争における戦争犯罪自体は既に多くの研究で明らかになってきた。それ故、本書の意義は、ラッセル法廷と陸井三郎との関係に集中して、陸井とラッセルとの書簡や北ベトナムで戦争犯罪調査にあたったハ・ヴァン・ラウとの書簡、戦争犯罪調査に関わる豊富な写真などを紹介している点にオリジナリティが存在する。

 本書の第一の意義は、ラッセル法廷の指導部が当初、ニュルンベルグ裁判における「人道に対する罪」で米国の戦争犯罪を裁こうとしたのに対して、北ベトナムの意向を代弁する形で、日本代表がベトナム戦争はベトナム人の民族基本権に対する侵害であると主張し、サルトルなどのフランス代表が自らのレジスタンス体験などを想起して、それに同調した結果、会議全体として民族基本権に対する侵害という判定にいたったと指摘した点にある。

 第二に、ラッセル法廷に参加した米国の反戦知識人でさえ、当初、ベトナム戦争を南北の「内戦」と把握していたが、論争を通じて、米国のベトナム民族に対する侵略という判定に同調するようになった点の指摘である。その際、同じ米国代表のガブリエル・コルコが主導的な役割を果たしたという。

 第三に、民間目標への意図的な攻撃である点は第一回のストックホルム法廷時から明らかになっていたが、それが「全民族の抹殺」を意図したジェノサイドであるとの認定は、ニクソン政権期になって、1969年11月にソンミ虐殺事件が判明してからであった点の指摘である。

 このようなベトナム戦争の基本的な性格評価に関わる論争の中で、日本代表団が積極的な役割を果たせた原因は、日本自身がアジア太平洋戦争中に激しい戦略爆撃を体験していたこと(陸井自身は東京で3回焼け出されている)や日本軍が「アジア解放」を言いながらも、実際にはアジア諸民族の独立運動を圧迫していたことへの反省があった点の指摘も重要である。

 その上、戦後の日本は、原水爆禁止運動の国際会議を通じて、1959年以来、北ベトナムと交流を続けており、北爆被害の現地調査をやりやすいコネクションがあった。つまり、日本の平和運動が西欧に北ベトナムの人脈や情報を橋渡しする役目を負う立場にあった点の指摘も興味深い。関連して、本書では、ラッセル法廷の日本側委員会にベ平連系の知識人が不参加であった点を指摘しているが、それは、日本で原水禁運動を主導した社会党・共産党系の人々がラッセル法廷の日本委員会の中心となったことに関連してもいるのであろう。

 さらに、第二回のコペンハーゲン大会では、日本政府のベトナム戦争協力が問題となり、日本側は1967年8月に独自に東京法廷を開催し、北爆に向かう米軍機が沖縄や在日米軍基地から飛び立っていたこと、日本の企業が「ベトナム特需」で潤っていた点などを指摘して、日本の「加害者性」を指摘している点も重要である。但し、この指摘は、陸井個人の北ベトナム訪問中に北側から指摘された、日本軍のベトナム進駐中に大量の餓死者がでたという「過去の加害者性」の受け止めとしても語られているが、日本委員会全体の認識としては弱く、むしろベ平連の小田実などの主張としてマスメディアに注目された事実も指摘されている。

 以上のベトナム戦争の戦争犯罪調査における陸井三郎の役割については藤本博論文が主に解明したものであるが、同時に、陸井自身がベトナム戦争の同時期に朝日や読売に書いた論稿が収録されていて、臨場感を増す効果を出している。次に第二部では陸井の人生全体におけるベトナム戦争犯罪調査の意義が検討されている。ここでは陸井のアジア太平洋戦争体験の意味や戦後の原水禁運動参加の意味など、次のような意義があると思う。

 その第一は、1918年生まれの陸井が、富裕でリベラルな家庭の中で、大正デモクラシー時代の教養主義の影響を受けて青少年期を過ごしたこと、しかし、父親の会社の倒産で大学には進学できず、青山学院の高商部卒となったため、就職面で不利であり、戦後に大学でのフルタイムの職には就けず、フリーランスの立場を貫くことになったこと、が指摘されている。

第二に、アジア太平洋戦争の開戦時には23歳であったが、徴兵検査では丙種合格であったため、実際の兵役は免れ、太平洋協会という鶴見祐輔が設立した民間の研究所で、研究員のような仕事をして戦中を過ごしたこと、この研究所には平野義太郎のような講座派の知識人の他、日米開戦のため米国からの交換船で帰国した都留重人、鶴見和子などがいたが、比較的自由な雰囲気が残り、米国の資料なども入手できたので、陸井の米国への関心はここで育まれたという。

 第三に、1955年に原水禁運動が始まると、陸井はその米国に関する知識や原子力への関心から原水協の専門委員に選ばれ、その国際交流に深く関わることとなった。その経験がベトナム戦争犯罪調査の国際的なネットワーク形成に大きな影響を与えたと指摘されている。

 第四に、陸井が主として講座派の系譜を引く知識人グループに属しながら、米国のニューレフトなどに対して柔軟な見方でその良さを評価していたが、その原因は、アジア太平洋戦争中に陸井が太平洋協会で様々な知識人、特に清水幾太郎から米国思想、とくにプラグマティズム思想の面白さを学んだ点があげられている。この点は、本書では十分彫り上げられていない点であり、戦中の知識人史を考える上で興味深い論点だと思われる。

 以上のように、本書は、ベトナム戦争における戦争犯罪を国際連帯の中で厳しく批判した陸井三郎という稀有な人物に焦点を当てることにより、戦争犯罪に関する認識の深化の過程をリアルに描き出している。これ故、現在のウクライナ侵攻やガザ侵略における戦争犯罪を検討する際にも、数多くの示唆を与えてくれるだろう。

(「世界史の眼」No.62)

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北前船・長者丸の漂流 その1
南塚信吾

長者丸『日本庶民生活史料集成』

 北前船のなかには、いくつか広大な太平洋に漂流して、ハワイやアメリカやロシアで世界を体験し、世界についての情報を日本にもたらしたものがいた。その代表の一つが、長者丸である。

 以下の漂流の次第は、のちに長者丸の乗組員の一部が日本に帰還した時の聞き取りの記録である『蕃談』と『時規物語』と『漂流人次郎吉物語全』に拠っている。『時規物語』は池田晧編『日本庶民生活史料集成』(第5巻)に収録されている。『蕃談』は池田晧編『日本庶民生活史料集成』(第5巻)に原語の記録が収録されているほか、室賀信夫・矢守一彦編訳『蕃談』にも現代語訳で収録されている。

1.越中から蝦夷へ 

 1838年(天保9年)4月23日(西洋歴で6月15日)、富山古寺町の能登屋兵右衛門(密田家)の所有する北前船・長者丸650石が、越中の加賀藩領にある東岩瀬より出帆した。長者丸は全長14間(25メートル余り)、21反帆で、10人の乗り組みであった。21反帆というのは、細長い帆が21枚繋がれている帆という意味である。

 乗組員は、雇われの沖船頭である船頭に、富山木町の吉野家平四郎(50歳くらい)、船のかじ取り役の親司(おやじ)に、加賀藩領射水(いみず)郡の京屋八左衛門(47歳)、同じくかじ取りの表(おもて)に、射水郡放生津(ほうじょうず)の片口屋八左衛門(50歳ぐらい)、荷扱いをする知工(ちく;岡使ともいう)に、新川郡東岩瀬の鍛冶屋太三郎、錨の操作をする片表(かたおもて)に、富山藩領婦負(ねい)郡四方(よかた)の善右衛門、雑用をする追廻(おいまわし)に、射水郡放生津の六兵衛と同放生津の七左衛門と東岩瀬の次郎吉、そして飯炊き担当の炊(かしき)に、四方の五三郎と放生津の金蔵の計10名であった。

出典:富山県立図書館「古絵図・貴重書ギャラリー」
―黄色の部分が富山藩領

 長者丸は、富山藩領の港である西岩瀬に廻り、そこで大坂へ運ぶ廻米を500石積んで、4月24日(6月16日)に出帆した。伏木、氷見、七尾、能登の珠洲を通って外海に出、能登半島、加賀、越前の沖を通って、山陰を過ぎ、関門海峡を抜けて、瀬戸内海に入った。そして、5月下旬には大坂に着き、富山御蔵の役人に米を渡し、越後新潟へ運ぶ綿や砂糖を積んで、6月半ばに大坂を出帆した。新潟には7月6日に着き、荷物を問屋唐銀屋に届け、空船にて、7月16日(9月4日)に新潟から出帆した。8月中旬には松前に到着、廻船問屋の上田忠右衛門方に止宿した。一行はここに9月まで逗留した(池田編 1968 14頁;『漂流人次郎吉物語全』7頁)。   

2.蝦夷から三陸へ「東回り」  

 船頭の平四郎は、長者丸が太平洋側を行く「東回り」の航路で「江戸」へ下るはずであることを、松前にいる時に乗組員たちに告げたようである。船主の能登屋(密田家)とはかねて打ち合わせてあったのであろう。ある専門家は、「長者丸の船頭平四郎は船主である能登屋兵右衛門から岩瀬出航前に松前でコンブを積んだら東廻りで薩摩の油津か志布志に行くよう指示されていたようです」と言っている(石森 2012)。これは史料的に確認できないが、大いにあり得えることではある。実は「江戸」にとどまらず「薩摩」まで行く「抜荷」であることは、明言されなかったにせよ、多くの乗組員にはなんとなく分かったのではなかろうか。1832年(天保3年)に薩摩藩による「差留」を解除してもらう代わりに、薩摩藩へ昆布などを献ずることになっており、薩摩組の中心人物である密田家は、少しでも多くの昆布を早く薩摩へ運びたい思いがあった。そのために今回は「東回り」を選択したと考えられる。

 しかし、表(おもて)の放生津八左衛門が、「東廻り」は嫌だと言い出して帰村し、下越後岩船郡早田村(現新潟県岩船郡朝日村)の金六に乗り替わった。金六は「東回り」に通じているというので、「道先」を務めることになったのである。船頭の平四郎は売薬あがりで船に詳しくなかったので、この後の航路は金六にかかることになった。 

 長者丸は、9月下旬ないし10月上旬に箱館に移り、ここでアイヌ労働などによって各地で取られ箱館の商人のもとに集められていた昆布から五六百石を買って船に積み込んで、10月10日(11月26日)ごろ、南部領の田の濱(岩手県船越湾内)へ向けて箱館を出帆した。「東回り」つまり太平洋航路の始まりであった。

 ただし、箱館を出る際、港がそう広くもなく風もよくなくて、船同士がぶつかり合い、長者丸に載せていた艀船(はしけ)が壊されてしまった。ようやく10月13、14日ごろに田の濱に到着、ここに14、15日逗留して、現地の大工にはしけの修理を依頼した。また、ここで、4斗俵で30俵の米のうち、20俵を売って、塩鮪(しび=塩漬けマグロ)100本余りを買い付けた。これは他の港で高く売るためである。こうして11月上旬に、仙台領の唐丹(とうに=釜石市唐仁町)湊に向けて出帆し、二日ほどかけて到着した。ここに11月22日まで逗留したが、その間に、近くの弁天島で火事が起きたり、いつもは聞えない鐘の音が聞こえたりして、まわりから気を付けるように言われたが、一行は深く気にも留めなかった。

 11月23日(1838年1月8日)は晴れていて、順風が吹いていた。30隻ほどいた船は次々と出帆した。長者丸は、船頭の平四郎が元は売薬商人であったせいで、「船方に疎く」、支払い作業が遅れ、朝8時ごろにようやく出帆した。この唐丹湊は奥行きが深く出口まで4里もあって、外海へ出るのに時間がかかった。外海へ出たところ、10時ごろから突然「大西風」になった。これはこの地方特有の北西季節風であった。これは南部地方では「あかんぼ風」と言われ、海水が赤く見えるといい、これによって沖へ2里も流されると陸地には帰って来れないと言われている西からの強風であった(池田編 1968 15‐16頁;室賀他編 1965 50―51頁;高瀬 1977 49-50頁)。

3.漂流する長者丸 

(1)嵐との戦い

 11月23日の朝、突然の「あかんぼ風」に当たった長者丸は、激しい嵐のなか次第に東の沖へ流された。みなが必死に帆を動かし、舵を操作したが、ダメだった。平四郎の決断で、23日に塩鮪と昆布100石、24日に昆布100石を海に捨てた(「荷打ち」という)。船の喫水を上げるためである。強い西風は収まらず、25日に遠くに金花山(金華山)が見えたのを最後に陸地は全く見えなくなった。ここで、みなはもはや陸地へは戻れないと、諦めた気持ちになった。金華山沖では、黒潮も東へと流れ、陸地から急に離れていくのである。ついに船の帆柱を切り倒し、船の舳(へさき)に錨を二本おろして、風に押し流されないようにした。みぞれが降って、寒くなった。27日には船に蔽いかぶさるほどの高波を受け、荷物がみな水浸しになった。27日に高波に襲われた後、金六は「辰巳(南東)の方に唐の国がある」はずだが、と言ったが、帆柱のない状態ではどうしようもなかった(室賀他編 1965 53頁では「南東の方にある異国」へ行きたいものだと言ったことになっている)。5日目の28日には少し晴れて東の風になったので、錨を上げ、帆桁(ほげた)を立てて、西の方を目指した。米を炊いて食べ、少し眠る事が出来た。しかし、29日には再び西風に変わりみぞれが降ってきた。12月1日には一時東の風になったが、また西風に戻った。この間に食べるものはとても乏しくなった。積んできた米もおかゆですするだけになった。

 その後しばらく静かだった海も、12月17日には大しけとなった。船は水浸しとなり、舵は壊れて、伝馬船も流されてしまった。船底の水をかきださねばならなくなった。皆が阿弥陀如来や金毘羅様に願をかけてお祈りをした。こうして、乗組員のあいだに絶望が拡がっていった。平四郎が持っていた梅干を一人2個ずつもらって元気を出し、昆布40-50把と塩鮪少しを残して、他は海に捨てた。食料はさらに乏しくなった。食べ物を巡って争いも起きたので、米は、各自に3合を分けて、自分の責任で食べるようにした。

 年が変わって1839年(天保10年)になると、少しずつ暖かくなった。1月は、故郷の3月ごろの暖かさになった。しかし、真水が尽きて、雨待ちの毎日だった。1月26日に久しぶりの雨が降り、雨水を必死に溜めた。2月になると、さらに暖かくなり、故郷の4月ごろになった。その分だけ水が欲しかった。船底の水かきはいよいよ欠かせなかった。幸い、船に着いた貝や藻、寄ってくるはまちなどを食べることができた(池田編 1968 16-18頁)。

(2)救助

 1839年1月24日(3月9日)ごろ、五三郎が塩水を飲んだために死亡し、4月12日(5月24日)ごろに善右衛門が死んだ。共に遺体は海に流した。そして4月15日(5月27日)ごろには、水先案内をする金六が、みなに難儀させたのは自分のせいだとして、最後に真水を飲んで、海に身を投げたのだった。残ったのは7人であった(池田編 1968 18-21頁;室賀他編 1965 51-62頁)。

 4月24日(6月5日)の朝、六兵衛が用足しに外に出ると、北の方に「山か嶋のやう成る物」が見えた。もはや足腰も立たぬようになっていた一同七名は、這って外へ出た。それは三本帆柱の異国船であった。船は止まってくれた。三千石程の大船であった。一同は、「黒んぼう」に助けてもらって、艀に乗り、異国船に移った。乗り移る時、船頭の平四郎は、弱った体に羽織袴をつけ、脇差を持って移った。七名はワインで歓迎され、柔らかいおかゆでもてなしを受けた。船はアメリカの捕鯨船「ゼンロッパ号」、キャップン(船長)は「ケツカル」であった。長者丸は燃やして処分された。

 こうして一同は、5か月ぶりに救助されたのである(池田編 1968 21—26頁;室賀他編 1965 62-66頁;『漂流人次郎吉物語全』11頁)。

(3)長者丸の行程(概略)

 アメリカの捕鯨船に救助された長者丸の一行は、このあと大きな世界史のうねりの中に巻き込まれていくことになる。それは順次見て行くことにして、あらかじめ、一行の行程を図示しておこう。

①1838年11月 漂流
②1839年4月 アメリカの捕鯨船ゼンロッパ号に救助される。
③1839年9月 サンドウィッチ諸島に到着。そこで帰国の機会を伺う。
④1840年9月 ロシア領カムチャツカに到着。
⑤1841年6月 ロシア領オホーツクへ移動
⑥1842年9月 ロシア領アラスカのシトカへ移動⑦1843年5月 エトロフ島に到着

参考文献

室賀信夫・矢守一彦編訳『蕃談』平凡社 1965年
池田晧編『日本庶民生活史料集成』第5巻 三一書房 1968年
『漂流人次郎吉物語全』高岡市立図書館 1973年
石森繁樹「富山湾―海に生きる人と暮らし」NPO法人富山湾を愛する会海洋講座「富山と日本海」13 2012年8月18日
高瀬重雄『北前船長者丸の漂流』清水書院 1974年
ブラマー、キャサリン『最初にアメリカを見た日本人』酒井正子訳 日本放送出版協会 1989年
Plummer, Katherine, The Shogun’s Reluctant Ambassadors; Japanese Sea Drifters in the North Pacific, The Oregon Historical Society, 1991
Plummer, Katherine, A Japanese Glimpse at the Outside World 1839-1843; The Travels of Jirokichi in Hawaii, Siberia and Alaska, The Limestone Press, 1991

(「世界史の眼」No.61)

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書評:秋田茂編著『石油危機と国際秩序の変容―「東アジアの奇跡」の起点』(ミネルヴァ書房、2025年)
木畑洋一

 本書は、1970年代を対象として、二度の石油危機に揺れた世界における国際秩序の変化の様相に取り組んだ国際的な共同研究の成果である。編者秋田茂は、これまでも精力的に、時代を輪切りにしてその世界史的相貌に迫るという研究を組織してきており、これはそうした試みの一環である。この日本語版に先立って、英語版が2024年に出版されているが(Oil Crises of the 1970s and the Transformation of International Order: Economy, Development, and Aid in Asia and Africa , Bloomsbury, 2024)、そちらではサブタイトルが「アジア、アフリカにおける経済、発展、援助」とされおり、本書のサブタイトルとは異なっている。両者を合わせて、「アジア、アフリカにおける経済、発展、援助の様相に「東アジアの奇跡」の起点を探る」とでもしてみれば、本書のねらいははっきりしてくるであろう。

 そのねらいは、秋田による序章で詳論されている。その柱は次のようになろう。従来、石油危機によるインパクトは先進工業国について論じられることが多かったが、本書ではアジア・アフリカの非ヨーロッパ諸国へのインパクトが重視される。非ヨーロッパ諸国の経済開発、発展の様相、さらにそれに関わった援助の問題を検討することによって、冷戦と脱植民地化という二つの視角から議論されてきた国際秩序論に今一つの視角を加えることが目指される。それによって、「東アジアの奇跡」(世界銀行が1993年に用いた表現)という状況が生まれてくる過程の起点も確認されることになるのである。以下、各章の内容を簡単に紹介しつつ、若干のコメントを加えていきたい。

 本論は、三つの章から成る第Ⅰ部「石油外交と冷戦」で始まる。

 第1章「石油危機とグローバル冷戦」は、このテーマに関する研究者として世界の第一人者であるといってよいデーヴィッド・ペインターの筆になり、62頁と最長の章である。著者は、これまでの冷戦研究が石油問題を十分に位置づけているとはいえず、他方石油危機に関する歴史研究も冷戦状況を看過している、という問題意識のもとで本章を執筆しており、第一次石油危機から第二次石油危機の後に及ぶまでの期間を対象に、国際政治経済の動態を、石油問題を軸とし、米国の姿勢を中心として描いている。さらに、本書の後の部分での主役となるオイルマネーの問題も丁寧に論じられており、いわば序章に次ぐ第二の総論としての性格をもっている。ただ冷戦との関わりで石油をめぐるソ連の政策についてもかなりの言及がなされているものの、米国についての分析と比べると物足りないという感が残る。また、第一次石油危機を扱った部分においては、国家と企業の関係に踏み込んだ立体的な議論がなされているのに対し、第二次石油危機に関わる部分では国家の政策に視線が集中して議論がやや平板になっているという感を抱いた。

 第2章「第三世界プロジェクト盛衰の支柱としての石油危機」の筆者デーン・ケネディは、米国におけるイギリス帝国史研究の第一人者であり、最近では、脱植民地に関する著書が、『脱植民地国家―帝国・暴力・国民国家の世界史』(白水社、2023年)として邦訳されている。筆者は、脱植民地化の進展の様相を描いた後、それによって生まれた国々を主力とする国家群が「第三世界プロジェクト」と呼びうる国際体制改革に向けての動きを起こしたことの重要性を指摘する。そうした動きを背景として、第一次石油危機が生じるとともに、1974年に国連での「新国際経済秩序樹立宣言」の採択が実現したのである。しかし、国際経済秩序の改変が進まぬまま、石油価格の高騰で苦境に陥った非産油国は、イラン革命によるイラン石油産業の混乱を起点とする第二次石油危機でさらに衝撃を受けることとなり、「第三世界プロジェクト」はついえてしまった。このように、脱植民地化過程のなかから生まれた「第三世界プロジェクト」に焦点をあてて70年代の時代像に迫ろうとする本章の議論に、筆者は大いに共感を抱くものである。ただ、国際経済秩序の提起に対抗する先進国側の動きが今少し書きこまれていれば、「第三世界プロジェクト」盛衰の動態がより明確になったのではないだろうか。

 第3章は、わが国における米外交史研究の泰斗で、秋田と長く共同研究をつづけてきた菅英輝の筆になる「東南アジア開発におけるアジア開発銀行の役割―冷戦と石油危機の文脈」である。ここでは、1966年に設立されたアジア開発銀行(ADB)が、第一次石油危機とほぼ軌を一にする形で、アジア開発基金(ADF)を設置した経緯が述べられた後、ADFの増資をめぐるドナー加盟国間のかけひきが、米国の姿勢を中心に据えながら描写される。ADBにおいて影響力をもった日本が、ADBの意向と「日米協力」のもとでの米国の意向との間で微妙な立場に立たされた状況の分析も興味深い。米国の動きが詳論されることで、ADBの活動を冷戦の文脈で考察するというねらいは達成されている。

 以上の三つの章を承けて第Ⅱ部「国際金融秩序と開発金融の変容」の二つの章が配置される。

 第4章は、やはり秋田と息のあった共同研究を行ってきた山口育人による「石油危機と「民営化された国際開発金融」」と題する章である。タイトルの「民営化された国際開発金融」という表現は、田所昌幸が用いた「民営化された国際通貨システム」という言葉を意識したものであり、そこで大きな役割を演ずるのは、第一次石油危機によって生み出された膨大なオイルマネーである。このオイルマネーが主として流入していった先が、西側先進国の民間金融市場であり、そうした民間資金が、60年代末に停滞をみせはじめていた先進国のODAに代わって、途上国に対する開発金融で大きな役割を担っていくことになったのである。そのような状況が進むなかで、民間金融市場に対応できる途上国とそれができない途上国との間の違いが広がっていった。さらに山口は、ともにその前者の途上国であった韓国とブラジルが、第二次石油危機に際して、工業化戦略の違いからさらに分化していく様相をも扱う。それにより、ケネディが指摘した「第三世界プロジェクト」衰微の要因に迫っているのである。

 第5章「1970年代の大循環―ユーロダラー、オイルマネー、融資ブーム、債務危機、1973-82年」は、国際経済史の専門家として日本の問題にも通暁したマーク・メツラーが執筆している。山口が強調していたオイルマネーの国際的な動きの具体像はこの章で描かれており、「オフショア・米ドル・システム」の問題として詳述されている。それを軸としてこの章で提示される1970年代像はかなり包括的であり、序章、第1章とならんで、本書の全体像をつかむ上で重要な章となっている。最後の部分で、クリスチャン・ズーターなどの研究を引きつつ、長期的な資本主義の歴史のなかに1970年代の変化を位置づける試みを行っていることも、重要である。ただ、第一次産品産出国が置かれた位置については、しばしば言及されるものの、突っ込んだ議論はなされていない。たとえば、ささいな表現の問題であるかもしれないが、「オフショア・米ドル・システム」による「信用拡大は、新植民地主義によるある種の「トロイの木馬」として理解されるようになった」と述べつつ、それ以上の議論がなされていない、といった点に食い足りなさが残るのである。

 これに次ぐ最後の三つの章が、第Ⅲ部「冷戦、開発と経済援助」を構成する。三つの章は、それぞれ特定の国家を対象としている点で、第Ⅱ部までとは異なる様相を呈している。

 まず検討されるのが、中国であり、新進気鋭の研究者南和志による第6章「世界エネルギー危機と中国石油外交」である。本章の分析対象は石油政策に絞られており、60年代に産油国としての相貌を明らかにしていた中国が、石油生産量増加を図るために、技術輸入や海底油田開発に力を入れつつ、その過程で資本主義圏、とりわけ米国との結びつきを進めていった様相が描かれる。中国の石油政策がある意味場当たり的であったからこそ、金融危機で改革開放路線が終焉に追い込まれることもなく、他方で世界経済から孤立してしまうこともなかった、という結論部分での議論は、一見意表をつくものであるが、同時に説得的でもある。

 本書の編者秋田が、次の第7章「インドの「緑の革命」・世界銀行と石油危機―化学肥料問題を中心に」を担当している。この章の対象はインドの農業問題であり、60年代末にはじまった「緑の革命」のもとでの農業振興の重要な条件となった化学肥料の集中的な大量使用を実現するために、インド政府がとった政策が分析されている。化学肥料のための最大の資金源はインド政府自体であったが、国際金融機関としては世界銀行がきわめて大きな役割を演じ、また第二次石油危機後の国際収支危機をめぐってはIMFからの金融支援が重要な意味をもった。この問題の検討を通じて、秋田は、インドにおける「緑の革命」の意義の再評価という年来の主張を改めて展開する。それは確かに首肯できるものであるが、インド経済のパフォーマンスについての政府自身による評価には、今少し批判的な検討を加えることが必要ではないであろうか。

 最終章となる第8章は、イギリスでのアフリカ経済史研究を代表する研究者の一人、ギャレス・オースティンによる「商品価格高騰に直面したガーナとケニヤ―ナショナルとグローバルの交錯」と題する章である。オースティンは、ともにイギリスの植民地としての位置から独立したガーナとケニヤの70年代における経済状況を比較し、比較的安定した経済活動を示したケニヤと、大幅なインフレに見舞われたガーナの違いを生み出した背景を、為替レートの問題をはじめとして、多様な要因にわたって検討している。政治指導層内部における農業利害関係者の有無が問題になるという点の指摘など、興味深い論点も多いが、結局のところは、「石油価格の衝撃自体よりも、ナショナルな対応の方がより重要であった」という一文で結ばれていることに示されるように、両国内での政策選択が最大の問題であるという結論となっており、章のサブタイトルの「ナショナルとグローバルの交錯」という視角が後景に退いているという感は否めない。

 以上、本書の内容を評者なりに要約し、簡単なコメントを加えてきた。全体としてみた場合、二度の石油危機が非ヨーロッパ諸国にもたらしたインパクトに重点を置いて、1970年代における国際秩序の変容に新たな光をあてようとする本書のねらいは、かなり達成されていると思われる。石油危機で生み出されたオイルマネーの動きが浮き彫りにされている点など、この課題に迫る上で大きな効果をもっていると感じた。ただ、「東アジアの奇跡」の起点を探るという点に絞ってみると、確かにかなりの示唆はえられるものの、「奇跡」の主体となった国・地域の様相について、本書の枠組みのなかでの分析が今少し欲しかったという感はぬぐえない。その点で、英語版には収録されている佐藤滋によるマレーシアとシンガポールを扱った章が、本書には掲載されていないのが残念である。

 本書の各章は、それぞれ独立した内容をもつものであるが、章同士の連関を各筆者がよく意識しつつ執筆しているということが随所で感じられることも、本書の大きなメリットであるといってよい。共同研究の組織者であり本書の編者である秋田の労を多とするものである。

(「世界史の眼」No.61)

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