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書評:小倉充夫著『自由のための暴力—植民地支配・革命・民主主義』(東京大学出版会、2021年)
舩田クラーセンさやか

本書の特徴

 本書は、日本で国際社会学をうちたて、アフリカ地域研究に軸足を置き続けてきた小倉充夫氏のもっとも野心的な著作である。それは、タイトルに如実に表れている。英語では『自由と暴力』と訳されているこの本が、日本語ではあえて『自由のための暴力』とされている点に、小倉氏のさまざまな想いが込められていることを想像するのは難しいことではない。

 他方で、このタイトルに戸惑いを覚える人は少なくないだろう。

 まさに、それこそが小倉氏の狙いと考えられる。本書における文章の潔さも含め、小倉氏の過去の著作を知っていれば、氏によるディシプリンと地域研究を超えた長年にわたる探求が、読者を導くある種の到達点に、感嘆の声を漏らさざるを得ないだろう。後述するように、小倉氏は本書も途中経過と考えている。しかし、本書の「はじめに」で述べられているとおり、本書は過去に出された二冊の本と密接な関係にあり(『現代アフリカ社会と国際関係ー国際社会学の地平』有信堂、2012年、『解放と暴力ー植民地支配とアフリカの現在』東京大学出版会、2018年)。これら二冊とそのほかの過去の著作を眺めるとき、本書が小倉氏のこれまでの研究の集大成の大きな部分に位置づけられることに気づくだろう。

本書のねらい

 本書のねらいを一言で述べることは難しい。あまりに豊かな広がりの奥行き、深みのある議論を「一言」で表するなどということは、無謀かつ失礼極まりない。それでも、この書評を経由して本書に感心を持ってくれる人がいるかもしれないとの希望的観測から、あえて評者自身の言葉で本書のねらいを纏めてみる。

 本書は、抑圧からの解放と自由を実現する手法として民主主義を求め続けた人びとの葛藤を、世界における現実—とりわけ近現代史的展開の中—に位置づけ、そこから生まれてきた理論(たとえ、批判に満ちたものであろうとも)を丹念に検討しつつ、現在と未来を検討するための議論の土台を提供しようとした画期的な本である。そして、その議論の土台の提供先が、現在と未来の日本の人びとに向けられていることは、本書の「はじめに」と「おわりに」で明らかである。

 小倉氏を「アフリカ地域研究者」として認識してきた人は、「はじめに」が「日本における報道の自由世界ランキングの低下」から始まっていることには驚くかもしれない。小倉氏の懸念は、続く文章で具体的に示される。

「(日本の)戦後民主主義が成熟するどころか、残念ながら形骸化していることを示す一例なのではないか。特に今世紀になって、市民社会の未熟さを痛感させられることが多くなってきた。(中略)かつては権威主義体制のもとで苦しんできたアジアの諸国が、民主化するにつれ、今や市民社会の成熟度において、日本をあっという間に抜き去った感がある…(i頁)」。

 そして、「本書を構想した動機の一つ」として紹介される以下の文章をここで示しておくことは、本書を読み解くうえで重要であろう。

(日本の/で)「民主主義を鍛えることが難しいのは、それを勝ち取ったという経験にかけているからではないのか。天皇制ファシズムと闘った人々は決して少なくないが、その体制の崩壊と民主化は、基本的には敗戦と占領の結果であった。(中略)重要なことは、やはり変革と民衆との関わりにあるのではなかろうか。日本は他のアジア・アフリカ諸国のようには、外国による支配や独裁体制からの解放を民衆が自力で勝ち取ったという経験を持たない。このことは日本の問題を考える際に、いかなる意味を持つであろうか…(i-ii頁)」

 これらの記述は、本書における小倉氏の問題意識の根底に、日本の戦後民主主義への懸念があり、課題の抽出において、アジア・アフリカ諸国、とりわけ被植民地支配や革命を経験した民衆による闘いから学ぶべきとの認識があることを示している。小倉氏は続けて、「闘う手段の選択を絶えず迫られてきた」民衆が手段としての暴力・非暴力を選択した要因、その実践の様相と結果に注目することの重要性を指摘し、「これらについて影響をおよぼしたと考えられる思想的背景、構造的要因、国際的条件など」を明らかにすることが本書のねらいであるという。

本書に先だっ

 この問題意識は、評者との共著『解放と暴力』(前述)でもすでに示されている。本書(『自由のための暴力』)は、先だって三年前に出版された同書の第1章「解放と暴力」で展開された議論を、格段に深め、広げたものである。同書出版後の本書に連なる小倉氏の取り組みについては、東京大学出版会が毎月発刊するUPの論稿において(「解放をめぐる暴力の諸相」2019年2月号、14頁)、以下のように紹介されている。

「退場しつつあると思われた偏狭な国家主義や人種主義が再び頭をもたげてきた。国際的な協調や多様な属性を持つ人々の共存の試みを否定するかのような言動や政策が、世界のあちこちで見られるようになた。(中略)しかし問題はもう少し根深いところにあると思われる。筆者は南部アフリカの植民地支配と解放、独立後の動向に注目し、それによって現代世界の問題を捉え、併せて専門諸科学を問い直すことを自らの課題としてきた。このような問題意識のもと(執筆されたのが)、…『解放と暴力』である。そこでは、帝国主義時代に強化された植民地主義と人種主義が過去のものではなく、近年危惧される傾向はそれらが継続・再編されたものであるという視点から論じた」。

 そのうえで、「鍵概念のひとつである暴力についての議論がやや不十分であった」ことから、同論考が準備されたという。同論稿では、本書の第1章で展開される議論が、「『自由を守る義務を負う名誉』とテロリズム」、「解放にとっての非暴力主義」、「革命批判と犠牲のピラミッド」、「合意なき国家の紛争」という小見出しにあわせて進められる。本書は同論考で示されたこれらの議論の骨子を、具体的な事例と豊富な理論的考察をもとに、さらに発展させたものである。

本書の構成

 本書は、以下のように構成される。

第1章 自由のための暴力

第2章 非暴力の理念と現実 

第3章 革命と暴力(1)― 理想と現実

第4章 革命と暴力(2)― 後進国革命と国家暴力

第5章 植民地支配と現代の暴力

第6章 民主主義と暴力

 以下、各章の特徴を、網羅的にではなく、評者の視点から重要と考える点を中心に取り上げていく。

(第1章 自由のための暴力)

 第1章では、本書の鍵概念である「自由」と「暴力」がさまざまな角度から論じられるが、とりわけ次の問いに根ざして議論が進められる。つまり、自由のための暴力行為は許されるのか?許されるとしたら、あるいは許されないとすれば、なぜか? 暴力の結果、生じた犠牲はどこまで許容されるのか、されないのか? つまり、本書のタイトルを見て感じるであろう読者の疑問に真正面から理論的に答えているのが本章である。いかなる批判もまずはこの章を読むところからしか始まらない。

 何より、本書においてもっとも重要であろう本章が、「抵抗と暴力」から始まっている点にこそ着目したい。小倉氏は次のように説明する。「政治的な暴力には様々な担い手があり、その特徴も異なる。そのことは国家権力による暴力とそれへの対抗暴力において典型的に示される」として、「抵抗」が「国家権力による暴力」を前提にしていることが示唆される。これは、本書が一貫として、①それが絶対王政のものであれ、全体主義や独裁国家のものであれ、共和国や議会制民主主義国家のものであれ、植民地支配下のものであれ、「国家権力による暴力」を問題としていること、②これに「抵抗」し、これを乗り越え、抑圧からの解放という「自由」を獲得するための「闘い」のあり方を考察の対象としていること—を明らかにする。つまり、小倉氏は、本章を通じて、被抑圧者による社会変革、ひいては世界変革に向けた闘いのあり方、現実の面での可能性と限界、その要因のおおまかな見取り図を示そうとしているのである。

 闘争の時間軸は、抵抗から解放に至ることで終わるわけではない。ここに、ザンビアの村からアフリカ大陸、第三世界までの「地域」に立脚して社会と国際関係の変容を研究してきた小倉氏の洞察がある。理論家が解放運動として成果を上げた組織や理論をどれほど賞賛しようとも、その先(解放後)の社会を誰がどのように導き、その結果として何が起こったのか、それはどこの誰の現実から、どのように分析されるべきなのか—これらの問いこそ、過去の著作ならびに本書における小倉氏の問題意識の根幹を成す。人によっては、これを、人びとの生きる現実により肉薄しようとする社会学的アプローチによるものと考えるかもしれない。しかし、本書を丹念に読み進め、読み通すことができた読者は、小倉氏がなぜ「解放後」にこだわったのか、ディシプリンを超えたところで理解できると思う。

 その一端を評者なりに捉えるならば、研究者がどれほど現実に肉薄しようとしても、最終的にはそれは不可能な試みである。それでも、研究者はさまざまな手法で現実に近づこうとする。そこで過去の人類の具体的な営みに基づいて生まれ出た思想や理論が与えてくれる示唆は重要な意味を持つ。他方で、だからといって研究がそこにとどまるとすれば、現実に害悪すらもたらしうる。研究が国際政治・経済に直接的な影響を及ぼすようになった20世紀においては、これは重要な点である。とりわけ二十世紀後半以降の冷戦期において、知的サークルにおける認識枠組みのあり方は、国際政治の場に強く深い影響を及ぼし、同時代を生きる「地域」の人びとの現在と未来に希望の一方で深い亀裂を作り出してきたからである。この点は、最終章にあたる第6章でより具体的に検討されるが、読者が第1章に示される理論上の射程を理解する助けになるだろう。

(第2章 非暴力の理念と現実)

 自由のための手段としての暴力を論じる点で避けて通れないのが、非暴力思想である。とりわけ、日本ではマハトマ・ガンディーの非暴力思想とインド独立への寄与が広く知られているため、暴力的手段による闘争は無意味なもの、あるいは「血に飢えた者の蛮行」として認識されやすい。しかし、小倉氏が指摘するように、ガンディーは暴力の一切を否定したわけではなかった。これは、同じく非暴力主義者として日本で認識されるネルソン・マンデラ(後に南アフリカ大統領)とて、同じであった。本書のタイトルに疑問を感じた読書こそ、この章を丹念に読んでほしい。

 小倉氏が、本章の第1節(「非暴力の主張と暴力批判」)の第1項(「非暴力思想の特徴」)で指摘するように、ガンディーが非暴力が内含する道徳的優位性が、暴力を振るう者への訴えにおいて一定の有効性を有していることは重要であるが、他方でこの非暴力は何もしないという消極的な非暴力ではなく、積極的な非暴力であった点は忘れてはならないだろう。ただし、小倉氏は、続く第2項(「非暴力の主張における問題」)で、非暴力思想への批判の紹介を怠らない。つまり、圧倒的な国家権力による暴力の実力行使の前では、非暴力による解決の主張が、現実から遊離し無力なばかりか、現状維持を長引かせることにつながるとの批判である。そのうえで、第2節(「手段としての非暴力」)では、解放運動の担い手たちにとって、「暴力を容認するか、それとも非暴力に徹するべきか」という原則主義的な議論ではなく、解放実現のための手段や戦略として非暴力が有用か否かこそが重要であったことが、「暴力も非暴力も」と名づけられた第一項で紹介される。

 本章では、小倉氏の著作に特徴的な議論の進め方の特徴がもっとも如実に示されている。以上のように、相反する認識や理論を真正面から突き合わせつつ、あまり知られてこなかった現実の具体的動きとその結果を紹介し、最後に筆者としての考えを示唆するスタイルである。本章においては、59頁に小倉氏の考えの一端が表されているが、明確には、次章以降に詳しく記される各革命の展開の中でさらに議論が深められていくので、読者はそれを待たなければならない。

(第3章 革命と暴力(1)理想と現実 /第4章 革命と暴力(2)後進国革命と国家暴力)

 本来、核となる第3章と第4章は、分けて丁寧に論じられるべきであるが、これらの章は相互に密接に関連しあっており、単体では扱うことが難しいため、あわせて紹介する。

 本書の最大の特徴は、理論を踏まえつつも各地における「後進国革命」の具体的事例に注目し論じている点にある。現在の日本で、かつ日本語で本書が出版されることの積極的なねらいと意義について、これら二章を読めば明らかと考えるが、評者の受け止めを少しだけ紹介したい。

 日本は自らを「先進国」と呼びながら、民衆の覚醒という意味でも、闘いという意味でも、到底「先進国」の名を掲げることはできない。経済的に「後進国」とされ、かつての被植民地主義国にあった人びとの変革への欲求と圧倒的な力の差における不断の努力がもたらした体制転換—それは植民地にとどまらず、「地域」全体、あるいは/そして宗主国側社会、さらには国際関係や世界史に影響を及ぼしたこと—から、日本の人びとと社会はたくさんの学びを得られるだろうし、得るべきである。本書全体の中にこの二章を位置づけることで、そんな想いが伝わってくる。

 またこれら二章においては、革命とその後に対するアプローチにおける国際関係の重要性が、豊富な具体的な事例をもとに示される。つまり、理想と現実が、革命が生じた社会内部の構成体や原初蓄積の状況にとどまらず、国際的な経済政治関係の推移の中で互いに影響を与え合いながら進んでいく様相である。

 国際的条件やその相互影響を考慮に入れない革命理論は多い。特に、「比較」という一見学術的に真っ当な手法によって、覆い隠されてしまう運動ならびに「地域」の現実、革命を取り巻くさまざまなレベルの主体との関係、ならびに歴史的に醸成された関係性の網を明らかにすることは、小倉氏による研究手法の基本にあり続けた。これは、共著『現代アフリカ社会と国際関係』において、小倉氏が担当した第1章により詳しい。

 これまでの小倉氏の注目してきた地域や現象を考えれば、キューバ革命に相当の紙幅が割かれていることは新鮮であった。なぜキューバ革命でなくてはならなかったのか? キューバ革命が、冷戦期の米ソの対立と世界戦略という冷戦状況下で起こり進展していくこと、また1960年代を通じて、とりわけラテンアメリカとアフリカにおける「後進国革命」に具体的に及ぼしていく世界史的かつ地理的拡大を影響を考えれば、これは納得がいくものである。とはいえ、キューバ革命の課題(エリトリア独立へのネガティブな影響を含む)の紹介を怠らない点に、先に紹介した小倉氏らしさが表される。

 なお、これらアジア・ラテンアメリカ・アフリカにおける革命を「後進国革命」とする整理は独特のものである。これには、本書の「あとがき」に出てくる学術的背景—津田塾大学国際関係学研究科での勤務—の影響を考えずにはいられない。これについては、最後に検討する。

 なお、第4章はエチオピア革命が中心に扱われている。小倉氏は、アフリカ解放後の社会主義革命を分析した際にタンザニアと並んでエチオピアを扱った後も、エチオピア革命とその後の国家暴力、国家分裂に関心を持ち続けた。この具体的事例の展開に基づく理解こそ、続く第5章の総括につながっていく。

(第5章 植民地支配と現代の暴力)

 本章は、ここまでの理論と現実、特に第4章のエチオピアの事例に関するの検討を踏まえつつ、先に紹介した共著本『解放と暴力』をより普遍化したものといえる。本章では、 「1. 支配の正当化と暴力」、「 2. 独立と解放の乖離」、「 3. 国家暴力の正当化 」、「4. 『合意なき国家』の形成と暴力」との見出しで筆が運ばれていく。ここでは、解放を実現し、国家権力を手に入れた運動体が、植民地支配などでもたらされた社会内の分裂傾向と厳しい国際環境に直面する中で、暴力に加担していくプロセスが、多様な事例に基づきつつも、驚くようなシャープさで纏められている。植民地支配からの脱却という目標を超えて、新しい社会の創造を前提とした社会変革を目指す解放運動ならではの課題が、過去の革命の盛衰や課題、第4章におけるエチオピア革命史を土台にしつつ、繰り広げられており、本書の中でもっともダイナミックな章といえる。ある意味で、「自由のための暴力」(そして「革命を取り巻く暴力」)をテーマとした本書の終章に位置づけられる本章における手堅い整理は、本書全体だけでなく、過去の小倉氏の著作における取り組みを振り返る際に役に立つ。

 本章最後の節となる「『合意なき国家』の形成と暴力」は、そのタイトルに示されるように、見かけ上の民主化を遂げてなお、アフリカの民衆が苦しむ国家権力による暴力とそれへの対抗暴力、そしてそれらが織り混ざって生じる暴力の蓄積と連鎖の苦しみが記される。同時代に生きる私たちが、現代世界の各地で生じ続ける暴力を理解するために不可欠な視点が披露されるとともに、その解決の難しさを実感させる中身となっている。

 革命後に薔薇色の社会が待ち受けるわけでも、革命崩壊後に自由が訪れるわけでもないという19世紀から現在までの教訓の先に、何があるのか? 誰の何からの解放・自由こそを、問題にすべきか? そんな問いが胸に重くのしかかってきたところで、本書の本来の最終章(第6章)の出番となる。

(第6章 民主主義と暴力)

 最後に、小倉氏は以上の議論を、「民主主義と暴力」という題目の下、西欧社会や日本に広げる。本章には、小倉氏が古今東西、「後進国革命」を通じて日本の読者と議論したかったであろう論点が、そこかしこに提示されている。また、なぜ本書が、暴力を真正面から取り上げ、「後進国革命」を問題にしたのか、そしてこのようなアプローチをとったのか、本章を読んでいくうちに明らかになるだろう。この章こそ、まさに小倉氏の本書の根底にある問題意識の在処が如実に示された章といえる。もう一点重要なことは、本章に、小倉氏の次の研究の方向性が示されている点である。

 本章の第1節「民主主義の暴力」で、冒頭に「構造的暴力と暴力批判」が取り上げられている点に注目したい。『解放と暴力』の第1章でも検討された点であるが、本章では、とりわけ暴力が民主主義体制下(見かけのものであれ)の社会で発現し続けていることに注目する重視性が指摘され、そこに引きつけた議論が展開される。革命達成を終着点とせず、その後の社会変革—故に人びとの解放と民主主義の可能性—に重きをおく小倉氏ならではの議論の展開である。本章では、一見民主主義的な制度をいくつか紹介しつつ、このような制度上の工夫すら、暴力と抑圧を生み出し続ける近代国家や集団主義の現実が炙り出される。

 小倉氏は、問題の本質が暴力行為を許容すべきか否かではなく、構造的暴力をどう捉え、これをどのように乗り越えるべきかにあるという。結局のところ、「民主主義の制度に集団主義的な原理を加えるだけでは不十分であること」、また「この原理はかえって対立を強め、暴力を増長することがあること」が指摘される。これに新たに移民の問題が加わる。

 小倉氏は、このような現代的課題を乗り越えんとする努力がすでに脱植民地化のプロセスと新国家形成期のアフリカであったことを、ザンビアのカウンダ初代大統領とタンザニアのニエレレ初代大統領の試み通じて明らかにしようとする。パン・アフリカズムのリーダーでもあった二人が、植民地支配によってつくり出された分裂を避け国民的な統合を実現・維持するという課題と、さまざまな地域や民族の共存を図るという二つの課題を抱えていたばかりか、冷戦とアパルトヘイト下という厳しい国際・地域的(南部アフリカ)条件に直面していた点も指摘されている。なお、これらの点に関しては、『解放と暴力』により詳しい。

 冷戦後、とりわけ西側諸国が、このような苦悩と試みを矮小化したまま、形ばかりの民主化を押しつけた結果として生じた社会的亀裂、それに続く大規模な虐殺や戦争に、小倉氏は警鐘を鳴らす。いつの間にか忘れられてしまったこの論点は、本書が一貫して注目する国家暴力と抵抗暴力の綱引きにおいて、民衆の熱望を誰がどう刈り取る(ってしまう)のか、民衆の覚醒と主体化はどのように/どこまで可能なのかに関する疑問に読者を誘う。この問いの根底に、日本の国家、市民社会、民衆の過去・現在・未来が、小倉氏の念頭にあることについては、「あとがき」に明らかである。

(あとがき)

 以上との関係で、そもそも小倉氏がなぜこのテーマに取り組んできたのかについて、次のように述べていることは重要であろう。

「日本が他の社会の革命、解放闘争、民主化にネガティブな意味で関わってきたからである。例えば、日本はイギリス・フランス・アメリカと共にロシア革命に対する軍事介入に加わったばかりか徴兵した最後の国だった。東アジア・東南アジアにとって日本は、いうまでもなく帝国主義的侵略国であった。戦後の冷戦期には、民主勢力を弾圧する独裁政権を援助で支え続けた。日本の関わりを一面的に性格づけることはできないが、解放の主体からすれば、長らく日本はたぶんに解放を妨げる存在であり、闘う相手であった。このように解放とのネガティブな関係の認識を踏まえることが、本書のようなテーマに取り組むための第一歩であろあう」

 そして、本書の最後の最後に読者は、小倉氏の眼差しの向こうに、「ある村の人びと」がいたことを知る。

「サラエヴォも沖縄もそこに住む人にとっては世界の中心である。(中略)自分もペタウケにいると世界の中心にいるとの感覚を持つようになった。常識的には、政治でも経済の面でも、世界の辺境とされる地で生活している人びとのそばにいると、様々な不条理に嫌でも気づかざるを得ない。ペタウケから、物理的な空間としてはザンビアが、南部アフリカが、そしてアフリカと世界が、そして歴史的には、帝国による侵略以来の支配・服従と解放、その痕跡と現状が見えてくる」

 この文章に込められた想いについては、新たに付け加えるべきことはないだろう。

 なお、評者があえて「地域」と「」付きで紹介してきた理由は、小倉氏にとって「地域」が、地域社会からアフリカ地域までを含む多元的なものであることを示すためであった。

 もう一点、本書を可能にした「場の存在」について。小倉氏にとっての勤務校・津田塾大学の国際関係学研究科ならびに研究所の重要性である。小倉氏は、そこに集う同僚や研究員たちから受けた刺激を繰り返し語ってきた。共著『現代アフリカと国際関係』は、そんな小倉氏が退任を迎えるにあたって、感謝の気持ちを込めて準備した本であった。多くが知るところであろうが、同研究科・研究所は、江口朴郎氏が開設したものである。同時代の国際関係という横軸と、世界史的展開という縦軸が交差しながら網の目のように関係しながら育まれていく民衆の意識と構造の変容、革命と反革命の綱引き—江口氏に特徴的な分析視点は、これまで小倉氏をはじめとする多くの研究者に大きな影響を及ぼしてきた。また、本書が「問題意識に沿って必要であれば学問領域の垣根を乗り越える、そのことの危うさを自覚しつつ、同時にそれが不可避であることを意識したことの賜である」との説明は、社会学を学問的出発点にしながらも、その垣根を越え続けた小倉氏ならではの総括といえる。

最後に

 以上から、第三者的な書評を認めるには、評論者の属性(博士後期課程以降、小倉氏に学び、過去に出された二冊の共著者)は、あまりに不適切なため、本稿は本の紹介にとどまるものとなってしまったことをお詫びしたい。各章で取り上げられている理論や現象、そしてその解釈について、何百もの付箋を付けたものの、それらを事細かに紹介するよりは、これまで小倉氏の研究姿勢と著作に大きな影響を受けてきた者として、なぜ氏が本書を書くに至り、このような構成を用い、またこれらの事例をこのような形で取り上げたのかを分析・紹介することで、研究者以外の一般の人を含む多くの人に興味を持って本書を手にとってもらえたらと考えた。

 本書で包括的かつ弁証法的な議論が展開されている以上、詳細は各自で読んでもらい、紙面上での対話を試みてもらうべきだろう。

 最後に、第6章では、小倉氏が今後このテーマで議論をさらに深め、進めようとしている論点がいくつか示唆されている。そして、本書は過去のいずれの著作よりも、また第6章はいずれの章よりも、躍動感を持って描かれており、長年にわたり小倉氏の文章に慣れ親しんできた者としては、ある種の清々しさを感じずにはいられない。恩師の瑞々しい文章に触れ、背筋を伸ばしたのは評者だけではなかったろう。

【参考図書】

・小倉充夫・眞城百華・舩田クラーセンさやか・網中明世・セハスモニカ『現代アフリカ社会と国際関係—国際社会学の地平』(有信堂、2012年)

・小倉充夫・舩田クラーセンさやか『解放と暴力—植民地支配とアフリカの現在』(東京大学出版会、2018年)

(「世界史の眼」No.22)

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書評:北村厚『20世紀のグローバル・ヒストリー 大人のための現代史入門』(ミネルヴァ書房、2021年)
木畑洋一

 先に『教養のグローバル・ヒストリー 大人のための世界史入門』(ミネルヴァ書房、2018年)という本を上梓して高い評価を得た著者が、その手法を引き継ぐ形で対象とする時代を20世紀から現在までに限定して著した本が、ここで取り上げる『20世紀のグローバル・ヒストリー』である。その手法とは、高校の歴史教育で用いられている教科書の内容にあくまで即しながら、著者なりの歴史像を提示していくというやり方である。参照された教科書は、前著においては「世界史B」(古代から現代までを詳細に扱う科目)の教科書であったが、本書では、それに加えて「世界史A」(近現代を中心に比較的簡潔に扱う科目)、「日本史B」、「日本史A」(BとAの違いは世界史と同じ)も参照されている。換言すれば、高校での歴史関係の教科書すべてを素材にしているわけであるが、それは、2022年から高校において新科目「歴史総合」が導入されるということに関わっている。従来の世界史と日本史を融合させる形で18世紀以降の歴史を扱うというこの新科目を見据えて、本書は書かれているのである。

 また前著と本書のタイトルがともにグローバル・ヒストリーという語を含んでいることから分かるように、著者が目指しているのは、グローバル・ヒストリーを意識した通史的叙述である。この点に関していえば、前近代についてもネットワークという考え方を適用して斬新な歴史像を提示した前著の方が刺激的であったとも感じられるが、本書でもさまざまな工夫が凝らされている。「はじめに」で著者が示している、グローバル・ヒストリーとして20世紀史を再構築する際のポイントは以下の5点であり、きわめて要を得ている。①人類共通の問題群を主軸にする、②国境をこえる関係性や結びつきを積極的に取りあげる、③地理的に広い範囲での歴史の動きを把握する、④大国よりもその周縁部に焦点を当てる、⑤「下からの」エネルギーに注目する。問題はこうした視点が貫徹した叙述になっているかどうかである。この内、③から⑤については、それなりに著者の努力がみられるものの(ただ③の広域性という視角は、前著においては非常に明示的に打ち出されていたが、本書ではそれほどでもないという印象をもった)、本書の「売り」となるのは、①と②ではないかと思う。それに関して例をあげてみたい。

 本書のプロローグ「20世紀前夜の世界」は、前著で著者が強調していたグローバル・ネットワークの完成についての議論から始まるが、そこで中心に据えられるのが、列強による植民地支配の拡大であり、さらにその支配を支えた人種主義である。人種主義は、上記の①にある人類共通の問題の一つであり、本書を貫く主軸の一つとなっている。著者は、1990年代初めのアパルトヘイト諸法の廃止に触れた個所で、「20世紀は人種主義の世紀だった。…人種主義が国家政策として公然と実施される時代はこれで終わった」と述べるのである。もとより人種主義そのものがそれで完全になくなったわけではないと著者は続けて論じるわけであり、このような形での20世紀論に評者は強い共感を覚える。

 また移民という問題も、「人類共通の問題」として重視されている。これをめぐっては、満洲国の建国後、日本が満洲移民を推進していく背景に、それまで日本人移民が多かったブラジルで強圧的な民族主義政策が開始されて移民が圧迫され始めたという要因も存在していたとの指摘が興味深い。これについての叙述に踵を接する形でナチ・ドイツのもとでのパレスチナへのユダヤ人移民問題を取り上げるといったところに、著者の巧みな工夫をうかがうことができる。

 ②の論点に関わる例としては、たとえば日露戦争とイラン立憲革命の関係をあげることができる。1906年のイラン立憲革命に日露戦争での日本の勝利が大きな影響を及ぼしたことは、これまでも教科書のなかで書かれてきたが、その様相を著者は簡潔ながら具体的に説明している。さらに、教科書ではお目にかかることはない指摘として、インドでのベンガル分割への反対運動に日露戦争が影響を与えた可能性が指摘されている。また、1960年代の世界の若者たちのカウンター・カルチャーと中国の文化大革命の同時性に着目し、前者への後者の影響に触れているところなども、印象に残った。

 こうした内容をもつ本書は、読みやすい文体で書かれており、教科書でおなじみのゴシック体による重要語句の強調も適度になされているなど、歴史教育のために使われるにふさわしい本になっている。ただ、注文したい点も若干存在するが、ここでは一点のみあげておこう。

 先に①から⑤というポイントを挙げたが、著者はそれに加えてあと二つの点を提示している。一つは、20世紀の世界史を10年毎に切り取る形で本書を構成するという点であり、いま一つは世界史と日本史の総合を意識するという点である。後者に関しては、ない物ねだりはいくらでもできるものの、本稿で指摘してきたような叙述など、工夫の努力がよく見られる。 

 一方、前者については、1930年代とか1960年代とか、確かに10年区分で議論をする意味がある場合も20世紀には多かったが、それでよいのかと思われる時期もある。たとえば1940年代である。これを一つの章にまとめてしまうと、1945年における第二次世界大戦終結の意味合いは、どうしても相対的に低められてしまうのではないだろうか。それは戦後変革の評価にも連動する。このことは、本書が念頭に置いている「歴史総合」での時期区分にもあてはまる問題である。「歴史総合」では、「国際秩序の変化や大衆化」という大項目と「グローバル化」という大項目とが、1945年ではなく、1950年代初めで区切られているのである。もちろんその区切り方を正当化する理由もありうるが、こうした点について何らかの説明が欲しかったところである。

 最後に一つ述べておきたいことがある。著者がこのような形で一書を著わすことができるというのは、日本の高校で使われている歴史教科書の中身がかなり標準化されていることの反映であるとも考えられる。叙述の中身にはそれぞれの特色が出されているとしても、頁数にせよ、用語にせよ、教科書がかなり似通ったものになっていることは否めない。固有名詞でも概念でも、従来の教科書で馴染みがないものは避けられがちであるし、頁数の制約のために叙述の密度も限られがちになる。本書は、そうした日本の教科書を素材にしながら、20世紀の世界史像をどこまで描けるか試した成果であるが、本書を読んだ上で、このような日本の歴史教科書のあり方自体を改めて問うてみることもできるのではないだろうか。

(「世界史の眼」No.22)

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『世界婦人』の伝える世界情報
南塚信吾

 『世界婦人』という新聞は、福田英子によって1907(明治40)年1月に創刊され1909(明治42)年7月まで、2年半にわたって、始めは月に2回、のちに1回のペースで発行された日本初の社会主義女性新聞である。わたしは神川松子の仕事を調べていてこの新聞に出会い、その視野の広さに驚いたのだった。それで改めてこの新聞を読み直してみた。幸い、労働運動史研究会編の『明治社会主義史料集』別冊(1)として『世界婦人』が全部収録されている。

 『世界婦人』は『新紀元』のあとを継ぐものと考えられていた。『新紀元』は、1905(明治38)年10月に平民社が解散させられたあと、11月から翌(明治39)年2月まで出ていたキリスト教社会主義の立場の新聞で、木下尚江、石川三四郎。安部磯雄、片山潜らが中心であった。

 『世界婦人』は、「女子をして最も自由なる天地に於て其の眞使命を自覺せしめ」、諸般の革新運動を鼓舞し開拓すること」を目指した(福田英子「發刊の辯」)もので、基調としてはキリスト教社会主義の立場に立っていた。ではなぜ、「世界」婦人なのか。「發刊の辯」にはそれは書かれていない。しかし、『世界婦人』の創刊を予告した『新紀元』最終号の記事は、こう言っている。『世界婦人』は婦人の世界的解放を成就せんことを以てその使命となす。故に『世界婦人』は先ず専ら世界的思想を婦人社会に注入するに勉むべし。『世界婦人』は此の脚地に立ちて、世界の政治問題、社会問題、宗教、教育、文学の諸問題を報導し、論議し、研究する、と(『明治社会主義史料集』別冊にある宮川寅雄の解説)。婦人の自覚は世界的視野でのそれが求められ、「世界的婦人」の出ることが期待されていたのである。それゆえに『世界婦人』は、婦人解放に関連する世界中の情報を提供していた。

 雑誌を主宰したのは福田英子であった。経営上福田を助けたのは、石川三四郎であり、寄稿したのは、二人のほか、安部磯雄、幸徳秋水、堺利彦、木下尚江、神川松子、片山潜らのほか、二葉亭四迷、板垣退助など、思想的に幅広いメンバーであった。福田英子をとおしてこの雑誌は田中正造とも密接な繋りを持っていた。

 では、『世界婦人』は、婦人解放に関連するどのような世界中の情報を提供していたのだろうか(本稿では、当時の用語に従い、「婦人解放」という表現を使うことにする)。『世界婦人』の全号の中から婦人解放に関する世界の情報を拾い出してみたい。ほぼ毎号、本文か「海外時事」という欄に諸外国の女性の動きについての情報が載せられていた。

 もちろん各号に載った福田英子、木下尚江、石川三四郎。安部磯雄、幸徳秋水らの論稿においては、時々海外の主題が含まれていた。たとえば、『世界婦人』16号では、幸徳秋水は「婦人解放と社会主義」と題する巻頭論文において、アメリカの「無政府党の領袖」エンマゴールドマン(エマ・ゴールドマン)を引いて、「婦人解放の第一着手は婦人をして社会主義を知らしむるにあり」と論じていた。

 しかし、『世界婦人』は、「海外事情」などの欄を設けて、そこで種々の海外での婦人解放にかんする情報を豊かに載せていたのである。この視野の広さには驚くほかはない。

 以下、どのような情報を載せていたのか、ジャンルに分けて「タイトル」だけを紹介しておこう。(・)は『世界婦人』の号数を示す。

1. 婦人労働(者)について

 「健脚の女丈夫」(英の郵便居局長)(5)、秘密印刷に従事する一日本婦人(ロシア)(11)、米国の婦人労働(14)、仏国の婦人労働、女子議員の職業―フィンランド(15)、仏国の婦人労働者(23)、アイスランド婦人の覚醒(27)、阿蘭(オランダ)婦人の訴願(29)、伯林(ベルリン)の婦人労働者(29)、婦人労働者同盟(英)(2)、英国の婦人労働協会(28)、英国婦人労働組合大会(30)、女子の裁判官(米国)(17)など。

 とくに婦人売買や女中問題などについて、

 婦人売買禁止列国大会(1)、下婢組合と下婢の権利(豪州)(7)、世界の女中問題(11)、英国女中団体(30)、家内労働者組合(14)など。

2. 婦人の運動 

 英国婦人の示威運動(2)、マンチェスターに於ける婦人問題大会(2)、英国婦人の覚醒(3)、独立労働党と婦人運動(3)、婦人達の擾動(英)(4)、女子教員の運動(16)、独逸の婦人運動(20)、英国女子の政治運動(22)、英国曼市に於る婦人示威運動(マンチェスター)(28)、萬國婦人大会(アムス)(28)、印度婦人団体(29)、滿洲の女馬賊(2)、流罪婦人の悲劇―シベリア(30)など。

3. 婦人参政権問題について

 英国婦人の選挙権運動(1)、豪州における婦人の勢力(選挙権)(2)ナイチンゲール女史と選挙権問題(5)、維納(ウイーン)通信―選挙権問題(5)、墺太利(オーストリア)の光景―普通選挙法可決(6)、英国婦人選挙権運動(7)、那威(なうるうえい=ノルウエー)と女子選挙権(16)、世界に於ける婦人選挙運動(21)、英国婦人選挙成行(25)、婦人参政権運動(英国)(26)など。

 これに関連して、婦人と議会に関するものとして、

 最初の婦人代議士、イギリス、フィンランド、ニュージーランド(12)、仏国婦人と議会(15)、芬蘭(フィンランド)国会(26)、香港議会における婦人問題の勝利(7)など。

4. 婦人と社会主義について 

 万国社会主義婦人会議(ドイツ)(16)、今週のすつっとがると=万国社会主義婦人会議(府人の万国的活動、ツェトキンスの働き振り、大会の花形役者ロザ・ルキセンブルグ、勇ましき武者振り、印度婦人の活躍など)(18)、英国の「教会社会主義者」(22)、欧州の社会主義者(22)、婦人社会主義者ルエーラ・ツッイニング(25)、墺國社会民主主義婦人大会(30)、婦人の社会主義観―シカゴ(31)など。

 これに関連して、婦人と革命という観点から、

 婦人は男子よりも革命を好む(7)、芬蘭の女子革命家(17)、露国革命婦人メリー・スピリドノヴワ(26)など。

5. 世界的に知られた婦人個人について

 マダム・ローラン略伝(3)、スノウデン夫人の演説(3)、ストウ略伝(4)、黄梁の一夢(烈婦ルイ、ミシェルを懐ふ)(5)、ルイ・ミセルの記念像(16)、「ヂァンダーク」略伝(24)、米国のプリマドンナ、ノルヂカ女史(35)、北米のプリマドンナ、イームス女史(36)など。

6. 婦人の教育について

 女子は学術に適せざる乎(15)、義務教育の延長(19)、英国女学生の光栄ある成功(26)、独逸に於る女子高等学校(29)、独逸婦人の勝利(30)、西洋文学と婦人の功績―帆雨棲主人(35)など。

7. 婦人の自由について

 文豪カーラエルと婦人自由問題(9)、土耳古(トルコ)婦人の自由(30)など。

 ここに見るように、婦人の労働、婦人の運動、婦人参政権問題、婦人と社会主義、それに婦人と教育が主なテーマであった。婦人解放は社会主義との関連でのみ実現されるという意識が強かったことを思わせる。また、婦人運動の組織化、婦人同盟の諸問題にも強い関心を寄せていた。すでに婦人売買や女中問題などにも関心を向けていた。そして、当時もっとも婦人解放の進んでいたイギリスを中心としつつ、フランス、ドイツ、オランダ、オーストリア、ノルウェー、フィンランド、ロシア、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ合衆国、あるいは、トルコ、インド、香港などに視野を広げ、滿洲やシベリアにおける婦人の状況にも関心を向けていた。『世界婦人』はこのような世界的な視野の元で、婦人の解放を考えてその2年半の生を終えたのであった。たしかに、婦人の自覚は世界的視野でのそれが求められ、「世界的婦人」の出ることが期待されていたことが伺える。そして婦人解放のために世界中で行われていることをすべて吸収して日本での婦人解放に生かそうという意気込みが見てとれる。世界史における重要な「傾向」が日本に「土着化」されようとしていた瞬間を見る事が出来る。この雑誌を中心に、当時の日本を含む世界における「婦人解放」の運動や思想の全体像がもっともっと研究されるといいのではないかと思った次第である。

(「世界史の眼」No.21)

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文献紹介 林忠行『チェコスロヴァキア軍団−ある義勇軍をめぐる世界史』(2021、岩波書店)
木村英明

 多くの人が、日本史や世界史の教科書ないし参考書で、「チェコスロヴァキア軍団」(以下、「軍団」)の名前は目にしたことがあるだろう。例えば日本のシベリア出兵の大義名分になった存在として、あるいはまたボリシェビキによる拙速なロシア皇帝ニコライ2世一家殺害の誘引の一つとして。しかしこのチェコスロヴァキア建国以前に姿を現した「軍団」が、なんのためにどのような経緯で組織され、第一次世界大戦とロシア革命期の混沌の渦中でいかなる活動を繰り広げ、その結果地域と世界の歴史に何をもたらしたのか、その詳細を叙述し、考察した日本語書籍はほぼ見当たらない。おそらく、これまでにもっとも多くの情報を提供してくれていたのは、同著者による『中欧の分裂と統合−マサリクとチェコスロヴァキア建国』(1993、中公新書)である。この前著では、初代大統領に就くことになるマサリクという個人を軸に、彼が世界をへめぐり、各国の政治状況、国際情勢と切り結びながら建国へと至る道のりが描かれていた。今回の著書は、独立国家創設を図るマサリクの切り札となる、しかし規模的には決して戦争の帰趨を決するような大兵団ではなかった「軍団」の活動を通して、チェコスロヴァキアという国が中欧に現実の姿を持つようになる過程、ならびに当時の入り組んだ世界史の形を巧みに浮き彫りにしていく。

 本書はプロローグとエピローグ、序章と終章に挟まれた全5章から構成される。文芸書を想起させるような、研究書としては独特な構成といえるかもしれない。まずプロローグで、著者はプラハのヴィートコフ丘にある無名戦士の墓を紹介している。そこに15世紀前半、フス派を率いて神聖ローマ皇帝軍と戦ったヤン・ジシュカの巨大な像がたち、その足もとに軍団兵士の遺骨も収められているからだ。ジシュカが19世紀以降のチェコナショナリズムにより神話化されたと書く著者は、両大戦間期において英雄視されていた「軍団」将兵の遺骨が1989年の共産党体制崩壊後になってそこに埋葬された経緯を叙している。社会主義期の歴史観を槍玉に挙げているのではなく、おそらく著書の冒頭部で単線的な語り=神話化に対する注意が喚起されているのだと思われる。著者は本書中で自らの叙述を何度か「物語」と呼ぶ。神々の趨勢を語る神話は批判を許さない非歴史的なものだろうが、人びとの来し方の物語は複線的であり、歴史であるだろう。エピローグは「最後に、軍団にかかわった人々のその後をたどって、この物語を終えることにしよう」と始められている。プロローグとエピローグが共鳴して、「物語」に隙のない枠を形作っていることが感じ取れる構成である。

 各章の内容については著者自らが序章で記しているのだが、以下に簡単に紹介しておく。

 序章では「軍団」の物語を始めるにあたって、ハプスブルク君主国(以下、「君主国」)中のボヘミアと上部ハンガリーの歴史空間、そこに住まう人びとの多言語性やナショナリズムの萌芽が語られる。また、「世界革命」と「世界戦争」の時代を歩んだ「軍団」を主人公に据え、「君主国」史と対ソ干渉戦争史を接合する形で整理するという本書の方向性が明示されている。

 第1章は大戦勃発を受けて、ロシア帝国領内のチェコ系・スロヴァキア系移民が、「軍団」のもととなる「チェコ・ドルジナ」(ドルジナはチェコ語で「従士団」の意)と名付けられた親ロシア義勇軍をキエフで結成したこと、またその軍旗の紋章の配列から、スロヴァキアがボヘミア諸邦の一つのように扱われていたことに触れている。この義勇軍は、近代ナショナリズムに基盤を置くチェコ系の体操運動「ソコル」の影響を受けていた。そして1916年に義勇軍は「チェコスロヴァキア狙撃連隊」と、初めてチェコスロヴァキアを冠する軍へ改称されたという。

 第2章は、大戦初期の「君主国」内に見るチェコ系政党と政治家の国内自治要求、それに対するロシアと結んだスラヴ帝国構想(ネオスラヴ主義)の議論を追跡する。前者の議論はボヘミア諸邦の「歴史的権利」に依拠していたため、スロヴァキアを含んでいなかった。並行して、パリとロンドンを軸足に独立運動を開始したマサリクの思惑が解説される。ロシアの帝政に批判的だったマサリクであるが、独立国家の領域についてはネオスラヴ主義者と同様に、スロヴァキアを含むものであったことが明らかにされる。そして1915年11月、「チェコ人在外委員会」の宣言で公式に「チェコスロヴァキア国家」の表現が使われたという。翌1916年2月頃には「チェコスロヴァキア国民評議会」(以下、「評議会」)が設立され、スロヴァキア人のシュチェファーニクが副代表として加わり、議長のマサリクを支えることになる。「評議会」は海外政府から認知を受けるようになるが、英仏ら協商国はまだ独立国家創設を支持しているわけではなかった。さらに、親ロシアの移民組織が独自に国民評議会設立を図るなど、この「評議会」内部にも路線闘争が起きた。アメリカ在住のチェコ系、スロヴァキア系それぞれの移民組織が結んだ「クリーヴランド協定」(1915)と「ピッツバーグ協定」(1918)にも触れられている(そこにはチェコとスロヴァキアの連邦化が約されていたため、独立後、両者の関係に火種を残すことになってしまった)。

 第3章は、1917年の二つのロシア革命に対応する「評議会」と「軍団」の動きが中心となる。2月革命は、ロシアにおいても「評議会」がマサリクの指導下にまとまることを促す契機となった。いっぽうでまたケレンスキーの臨時政府は、他国の地で祖国の軍と戦い、独立国家創設を掲げるチェコスロヴァキア義勇軍を快く思っていなかったが、「軍団」は独・墺軍に対するロシア臨時政府の7月攻勢下、ズボロフの戦いで名をあげる。その戦功の大小はさておき、両軍ともにチェコ系兵士多数であったことから、著者はこれを異国の地における内戦と呼び、革命戦争を象徴する戦いとしてのちに神話化されたと語る。また、この戦いにおける独・墺軍チェコ兵士の投降も愛国的行為という神話に昇華されたという。マサリクはこの機にロシア政府にたいし、「軍団」が「中央諸国と戦闘状態にある革命軍」であること、同軍が軍事的にロシア最高司令部に従うものの、政治外交面で「評議会」が責任を負うものと認めさせた。その後の10月革命とロシアの戦線離脱は、「軍団」にとって独・墺軍との戦場消滅という結果をもたらした。内戦に突入していくロシア国内で、「軍団」内部では革命軍への参加、あるいは反ボリシェビキ軍への合同と意見が錯綜する。マサリクの決断は、「軍団」の中立維持とフランスへの移送であった。ソヴィエト政権との間に「ペンザ協定」が結ばれ、武器携行の制限を受け、民間人としての移動が認められた。後続の章で、この協定への反発と「軍団」の反乱が語られることになる。

 第4章は「軍団」のシベリア横断とその反乱を取り上げる。ウラジオストクへ向けて東進を開始した「軍団」であったが、赤軍への編入を望むトロツキーの思惑、ドイツ人捕虜の帰還にとってその存在を障害とみなすドイツ政府の介入、さらにチェコ系、スロヴァキア系共産主義者による妨害行為などが絡み合い、遅々とした歩みを余儀なくされる。そうしたなかで、1918年5月には「軍団」とソヴィエト軍の衝突がチェリャビンスクで起き、「軍団」はチェリャビンスクを占拠してしまう。直後に開かれた代表者会議で、「軍団」はペンザ協定に背き、武装解除を拒否することを決め、反ソヴィエト反乱へと突き進んでいく。軍は長大なシベリア鉄道沿いに「チェリャビンスク・グループ」、「ペンザ・グループ」、「ノヴォニコラエフスク・グループ」の3つの部隊に別れて、それぞれを若い士官が指揮することになった(3人の若い士官はたちまちに少将へと昇進する)。各軍とも実戦経験に乏しい急拵えのソヴィエト軍を圧して進軍し、また反ソヴィエト勢力との協力関係も築き上げる。マサリクによる内戦への不介入、中立維持の指示は守られなかったことになる。

 第5章ではロシアの戦線離脱を受けた連合国の東部戦線に対する対応、それに絡んで「評議会」と「軍団」の扱いが移り変わっていく軌跡が綿密にたどられる。まずイギリスは、「軍団」がロシアに留まり東部戦線の再構築に投入されるべきだと考えていた。他方、フランスは西部戦線でドイツの攻勢に備えるために、「軍団」のフランス移送にこだわった。独立国家成立後に外務大臣を務める「評議会」事務局長のベネシュは、「軍団」を手札に各国の利害の狭間で独立国家の可能性をかけた外交を展開することになる。4月には、ウラル以西の「軍団」をアルハンゲリスクないしムルマンスクに移動させるイギリス案にベネシュは同意したとされるが、翌5月に「軍団」の反乱が始まってしまう。西部戦線で苦戦する英仏軍の要請を受け、日本やアメリカは「軍団」救援を目的にロシアへの軍事干渉を決定し、著者の言によれば「軍団」は「連合国の前衛」となった。このような状況の変化を受けて、連合国の「君主国」にたいする政策も転換していく。チェコスロヴァキア独立には明確な支持の声が上がらなかったものの、英仏は相次いで「評議会」を国家の代表として承認する。また国際情勢の変化を映して国内でも、以前の「チェコ国民委員会」が7月に、スロヴァキア人メンバーは不在ながら「チェコスロヴァキア国民委員会」と改組され、チェコスロヴァキアを名乗る国家の現実味が増していく。この時期、チェコスロヴァキア人という言葉も新聞等の見出しにふつうに用いられるようになっていたという。国内組織は「君主国」内への残留にこだわる派もあったようだが、終章で述べられるように、ボヘミア諸邦で19世紀後半から育まれた政党政治は、異なる意見を調整し妥結点を見出すほどに成熟していた。1918年10月28日、チェコスロヴァキアは独立を宣言し、イタリアで戦っていた義勇軍の力を得て、上部ハンガリーのスロヴァキア地域も構想通り新国家の領土に組み込まれた。

 終章では、ロシアの「軍団」が内戦下で物資確保のために行った工場運営などの経済活動が紹介されていて興味ぶかい。国家独立後に「在露チェコスロヴァキア軍」となった「軍団」は、新たな祖国へ帰還するために、赤軍が攻勢を強めるシベリアを逆方向のウラジオストクへ向けて進み続けた。1919年10月に始まった正式撤退は、オムスクの反ボリシェビキ政権の崩壊もあって困難な道のりとなる。1920年4月には、「軍団」と日本軍の間で、当初の発砲がどちらからだったか曖昧なままに銃撃戦となった、いわゆるハイラル事件も起きた。最後の部隊がようやくウラジオストクを出港したのは、同年9月に入ってのことだった。「軍団」を舞台回しに語られた建国の物語の最後に、著者はその後の国家をみまうことになった、ドイツ系住民の追放問題や1992年末日のチェコとスロヴァキアの分離についても触れている。ナショナリズムを規定するのは国内要因以上に、それを取り巻く国際環境であるという指摘は、本書を通読した後で確かな説得力を持って迫る。

 国家成立後、両戦間期から第二次世界大戦を経て、戦後の社会主義期を各自各様に過ごした本書登場人物の生涯が簡潔に示されたエピローグは、胸に染みる。

 拙稿を閉じるにあたり、私事になり恐縮なのだが、一つのエピソードを紹介することを許していただきたい。30年近くもまえ、著者とわたしはスロヴァキア南西部のとあるお宅にお邪魔したことがあった。著者はチェコ語で、当時本国でもよく知られていなかった「軍団」の活動と建国の歴史を熱心に語られた。その家の、日本式に言えば小学校上級生程度だった少年は、この折の経験に忘れ難い印象を受け、大学で国際関係論を学び、現在は国際関係に特化されたNGOで活躍している。著者のグローバルな視野は、現実においてもグローバルに作用したのである。

(「世界史の眼」No.21)

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ラムザイヤー論文の<腹話術>と北米・知の生産のポリティクス[i]
米山リサ

 ハーヴァード大学三菱日本法学教授J・マーク・ラムザイヤーの論文 「太平洋戦争期の性行為契約(”Contracting for Sex in the Pacific War”)」は、2020年12月にオンライン掲載された後、多方面からの広く厳しい批判を招くことになった。[ii] 当論文への批判は国境や言語の壁だけでなく、ディシプリンやアカデミズムの内外を隔てる敷居を超え、多くの人々を巻き込み、その抗議の内容は多様性を極めた。一本の論文を契機にこれほど多くのさまざまな批判が結集した背景には何があるのか。①北米における日本に関する知の生産、②歴史認識と社会のあり方をめぐるトランスナショナルな攻防、③北米の政治学に代表される社会科学に共通する知的態度―以上3点に絞って述べてみたい。

 「太平洋戦争期の性行為契約」が問題視されていることを知ったのは、同僚の朝鮮史研究者が署名運動について知らせてくれたのが最初だった。論文を掲載した『International Review of Law and Economics』誌への抗議文には、2021年2月の時点で経済学者エコノミスト、法学者、歴史学者、ゲーム理論家、アジア研究者、学術誌編集者など3000名を超える賛同署名が寄せられた。日本内外の反コリアン差別者、自己憐憫的ナショナリスト、歴史歪曲者たちが当論文に賛辞を送り、著者を擁護する一方で、その後も多分野、多方面からの抗議がブログやツイッター上で相次いだ。

 批判と糾弾がここまで広範で多元的になった理由のひとつは、 当論文の日本軍慰安所制度についての歴史記述が問題視される過程で、実は同著者が他論文でも誤った記述や差別的な見解を繰り返していた事実が明るみに曝されたことにある。看過できない誤謬を含んだ記述や偏った知識などを引用し、一義的にゲーム理論に応用して論文を発表してきたラムザイヤーの過去の業績の詳細が、幾人もの研究者によって明らかにされた。[iii] 

 抗議の矛先は多岐に及ぶが、共通して問題視されているのは、著者の「マイノリティ」観である。ラムザイヤーの一連の論文は、被差別部落、在日コリアン、沖縄の基地問題、福島の原発誘致行政などを日本の「マイノリティ」あるいは「下層階級」の事例として提示し、当該コミュニティを取り巻く経済的困難、階級間移動の欠如、機会の不均等、危険や環境汚染や健康被害などの負担の不公平配分などについて、その原因を政治的主流派や社会構造に求めるのではなく、被害者や「マイノリティ」の側の経済合理的判断にあるとする。地方交付金や行政による福祉や助成、閉ざされた民族コミュニティ内の階層化を利用した暴力的搾取など、被害者や「マイノリティ」であることで生じる(とラムザイヤーが信じる)利権の獲得・保全のために、不公正を訴える人々が自分の属する集団に対する差別や周縁化を自ら招いているとする被害者自己責任論である。

 北米における日本に関する知の生産という本稿の関心にとってとりわけ興味深いのは、米国には激しい「政治対立(polarization)」があるため、人種や民族のポリティクスについての「率直な議論(candid discussion)」は極めて難しい状況にあるが、日本の社会的差別や「マイノリティ」の事例を用いるなら思い通りの議論が許されるだろう、とラムザイヤーが述べたり示唆したりなどしている点だ。[iv] 

 ラムザイヤーが「政治対立」と呼ぶのは、90年代以降、既存の知と社会の変革を求める動きのさらなる広がりに恐れをなし、これを封じ込めようとする苛烈な反動が巻き起こした「文化戦争(culture wars)」のことである。「文化戦争」とはつまるところ、家父長的で異性愛規範主義的ヘテロノーマティヴなアメリカ白人至上社会の構造―19世紀的文明の規範であり、今日まで継続する植民地的支配と人種化された資本主義近代のあり方―をめぐる攻防に他ならない。[v] ラムザイヤーが人種や民族について自由に議論をさせてもらえないと苛立ちを募らせる背景には、知と社会のあり方への異議申し立てを封じ込められない北米の現状がある。要するにラムザイヤーによる日本の法経済論とは、変容するアメリカに身を置く著者自身のフラストレーションと敵意を日本を語ることを通じて表明する、いわばトランスナショナルな<腹話術>なのである。[vi]

 たとえばラムザイヤーの被害者自己責任論には、カリフォルニア州でとくに激しく交わされた積極的(差別)是正措置(affirmative action)の撤廃を求める議論と多くの共通点がある。積極的是正措置とは、大学やアカデミズムに限らず、北米の公共空間一般の構成員の多様化を推進する立場から、人種やジェンダーなどによって特定の人々が歴史的に排除されたり従属化されてきた構造を是正する行政などによる積極的介入を指す。これに対し、積極的是正措置が「逆差別」であるとか、差別を助長するといった理由で、共和党を主とする保守や極右その他の白人優位の現状や個人主義を肯定する立場からの撤廃要求が起こり、バックラッシュは凄まじさを増していった。2006年のトランプ政権成立を可能にした要因、あるいはその対極にあるブラック・ライヴズ・マター(BLM)やアイドル・ノー・モア(Idle No More)に代表される先住民による北米の脱植民地化の訴えの広がりの背景に、この争いがあることは想像に難くないだろう。

 ラムザイヤーはさらに、政治対立によって封じられた議論の例として有名な「モイニハン報告書」(1965年)を挙げる。[vii] 当時民主党政権下の労働省次官補だったパトリック・ダニエル・モイニハンによって作成されたこの有名な報告書は、アフリカ系アメリカ人の貧困の原因がシングル・マザーを長とする黒人家庭にあるとし、家父長的な家庭の建設が貧困の解消に欠かせないとする政策を提言した。報告書は、奴隷制や反黒人差別や白人至上主義などの歴史的諸要因を無視し、被害者だけに責任を転嫁し非難していると批判された。この報告書はアフリカ系アメリカ人のなかでも一人親家庭やレズビアニズムを標的としたことから、レイシズムとナショナリズムが異性愛規範的な家族主義と切り離せないことを示した好例ともみなされている。そのため、今日多くの研究分野に大きな変化を促しているクウィア・オヴ・カラー批評(queer of color critique)の契機ともなった[viii]。他方、ラムザイヤーのように、モイニハンはタブー視されていた問題を指摘したために政治の犠牲となったとして、同情を寄せる保守およびリベラルな論客は後を絶たない。

 被害者への責任転嫁、「マイノリティ」化された集団に対する執拗な差別と偏見、多様性の拒絶、さらには歴史による構造的な周縁化こそが社会的少数者を生む主要因だと捉える歴史認識を否定し、社会的不公平の是正や歴史的損傷のリドレスのための施策を愚弄するシニカルな態度――ラムザイヤーの日本版被害者責任論はこのように多くの点で、北米における積極的差別是正措置の撤廃要求、ひいては「文化戦争」を挑発したバックラッシュと強力につながっている。

 しかし実のところ、ラムザイヤー流の<腹話術>は、北米とりわけ米国における日本に関する知の生産において珍しいわけではない。文化的他者としての日本を肯定的に描くことを通じてアメリカの社会規範を表明し正当化するというパターンは、今日も映画やその他メディアにひろく表れるだけでなく、北米における日本に関する知の政治的無意識といってもよい近代化論もしくは近代化論の系譜上にある日本研究に見出すことができる。

 ルース・ベネディクトに代表される戦時期の国民文化研究から冷戦期にかけて北米のアジア研究を強力に形作った近代化論は、日本の近代が欧米のそれに比べて遅れているか、あるいは伝統や封建残滓によって歪曲されているという前提に立ち、これを例証するというトートロジカルな地域研究の手法を再生産してきた。[ix] 意識されるかされないかに関わりなく、この知のフレームが今も強固でありつづける理由は、日本を対照物とすることで、アジア太平洋戦争後の北米とりわけ米国の道徳的優位を確認し、正当化することを可能にする地理歴史認識を提供してきたためであるのは言うまでもない。しかし近代化論は同時に、日本をアメリカ型近代化の(未熟な)模範国として賞賛する。すなわち資本主義を支える勤勉、通俗道徳、家族主義、国家への忠誠など、善きアメリカの精神的価値や規範が形は多少違っていても日本にも見いだせる、とする言説であり、それは戦後占領によるリハビリを遂げた日本をアメリカにとって望ましい冷戦の同盟国として位置づける効果ももたらしてきた。そこに成立しているのは、米国的資本主義近代の(相当な)成功例として日本を褒め称えることで米国の規範的価値や優位を肯定する、というトランスパシフィックな相互慰撫の関係である。[x] 日本の保守政党は、この言説が承認する従属的だが確かな位置をありがたく押し頂くことで、今日までこの構造を支え続けてきた。

 歴史認識の観点でいうなら、この日米の相互慰撫の関係は、日米がともに近代植民地帝国の軍事侵略者として犯してきた暴力の歴史や記憶を相互に隠し合い、歴史的損傷のリドレスの可能性をそれぞれ抑圧してしまうという深刻な結果を招いてきた。私はかつてこれを「忘却の共犯関係」と呼んだことがある。[xi] 日本軍「慰安婦」問題をめぐるより最近の例では、日韓の外相が「最終的かつ不可逆的」な解決をめざしたとされる2015年の日韓「合意」に対し、アメリカが早々に歓迎の意を表明したことにこの関係が表れていた。アメリカが「合意」を後押しするのは、中国との新たな冷戦を戦うためには同盟国である韓国と日本との良好な関係が不可欠であるからに他ならない。[xii]

 しかしラムザイヤー論文をめぐって極めて多くの、広く多様な抗議の声が、国境を越え、しかも短期間に集結したという事実は、日米の共犯関係が維持してきた知や社会のあり方が、各所ですでに大きく揺らいでいることを示している。また、日本軍「慰安婦」問題が、日本による国家責任の否認に起因する歴史認識の問題であると同時に、性に関する規範、女性蔑視、ブルジョワ階級文化主義、軍事主義、レイシズム、ナショナリズム、冷戦という(新)植民地主義などの諸関係から成るアジア太平洋地域の現況を輻輳的に問うことなしには済まされない問題であることを明らかにしているともいえるだろう。冷戦が生み出したトランスパシフィックな親密さは、日米の「忘却の共犯関係」を支える一方で、国境を越えてこれに対抗する多様な動きを結びつけるトランスパシフィックな関係も同時に生み出してきた。ラムザイヤーの不満と苛立ちは、差別的で植民地的な歴史認識を維持することが困難になってきていることの兆候だといえるかもしれない。

 さまざまに異なる場や位置から輻輳的に発せられ、しかし奥底深く連携した批判の結集が明らかにするのは、もはや日米の共犯関係によって歴史責任を回避し続けることはできないという新たな局面であり、レイシズムや家父長的異性愛規範主義の歴史が堆積させてきた序列化や、排除の構造に対する多様な異議申し立てを封じ込めることはすでに容易ではなくなっている、という希望である。そこに見出せるのは、資本主義近代とあらゆる植民地的編成からの撤退、すなわち来るべき真の変革かもしれない。

***

 「太平洋戦争期の性行為契約」の学術論文としての杜撰さを現時点でおそらく最も徹底的に洗い出しているのは、多くの日本語の著作でも知られる歴史学者テッサ・モーリス-スズキではないだろうか。日本軍「慰安婦」は性を交換するために民間業者と自由な「契約」を結んだ経済合理的主体であった、という著者の議論を裏付ける資料や「契約」の証拠さえ提示されていないという根本的な欠陥は言うまでもなく、数か所に及ぶ引用文献の乱用や偏り、引用頁の誤記載や割愛など、ラムザイヤー論文が学術論文としての体をなしていないことを根気よく、丁寧に解き明かしている。この杜撰な論文を調査や研究の誠実性(integrity)とは何かを議論し学習する好機ととらえ、研究者が目指すべき正当な学術論文の基準や原則プリンシプルが何であり、ラムザイヤー論文がそれらをいかに満たせていないかをQ&A方式で伝えようとするモーリス-スズキのセンスの良さも際立っている。研究者が教員でもあることの意味を考えたい人たちにぜひ読んでもらいたい。[xiii]

 それにしてもなぜ、学術論文の基準を満たしていないにもかかわらず、あるいは誤った記述や研究倫理に反する論述を繰り返してきたにも関わらず、ラムザイヤーの論文はこれまで問題なく掲載を許可されたのか。最後にこの点について簡単に触れておこう。論文の内容自体にはさほど関心のない人々も含め、当然多くの研究者がこの疑問を抱いており、冒頭で触れたエコノミストによる抗議文など、掲載誌の査読の経緯や編集者の意思決定の責任を問う声は少なくなかった。

 故政治学者チャルマーズ・ジョンソン他によるラムザイヤーの共著書『日本の政治市場』(1993年)の書評は、今ようやく明るみに曝された多くの問題が論文の査読者によって見過ごされてきた背景に、普遍主義的な社会科学の知的態度の怠慢と傲慢があることを示唆している。[xiv] 

 一般に米国の政治学や経済学は、北米以外の地域に関する研究を特殊な事例に限られる分析やデータとみなし、普遍的に応用される(と信じられている)ディシプリンに固有な理論を説く論述に比べ劣位に置く傾向がある。これに対しジョンソンたちは、ゲーム理論の大枠である「合理的選択理論(rational choice theory)」を用いたラムザイヤーの共著書を評し、普遍性を標榜する社会科学の最も劣悪な研究例だと厳しく批判した。書評によれば、合理的選択理論はアメリカの経済的個人を基本とし、その個人主義的合理性が(実は文化的に特殊であるにもかかわらず)通文化的に普遍であるとみなす前提を問わない。その結果、地域の歴史や文化を無視し、困難な言語の習得や綿密なフィールド調査の必要性を認めない、あるいはデータの集積は現地アシスタントに頼れば十分だという研究方法を正当化することになる。この手法では深く掘り下げた知識は生まれないのは当然なのだが、こういった研究ではたとえ解明できない矛盾点が生じたとしても、分析モデルの整合性を優先することが重視されてしまう。ラムザイヤーの共著書にいたっては、「理論を破綻させないためには、日本でまだ一度も耳にしたことのない実践慣行を捏造せざるをえない」例であると結論づけ、もっと酷い場合には「事実の改ざんや偏向した言い換え」が生じることさえある、とジョンソンたちは告発している。

 ラムザイヤーの論文の掲載を許してきた書誌の編集者、査読者、専門的読者たちの間で、歴史や文化に関する深い考察を軽視し、資料や証拠の吟味をないがしろにする態度が共有されており、そのために事実に反する記述や論考の杜撰さに気づくことができなかったとは言えないだろうか。

 私がまだ若かった頃にカリフォルニア大学の同僚として知り合ったジョンソンは、知的好奇心あふれる叡智の人であり、CIA白書の作成など愛国者としての仕事を続ける一方で、「普遍的」モデルを優位に置く社会科学が知的探求の怠慢に陥っていることを憂慮していた。ジョンソンの「文化」や「伝統」の捉え方は非歴史的であり、古典的オリエンタリズムの文化決定論やアジア特殊論にも通じる限界が多々あることは否めない。それでも今回、ラムザイヤー論文について考えるうえであらためてジョンソンの論考に触れ、普遍主義の傲慢ともいうべき知的態度の行き着く先を鋭く見抜いていた彼の慧眼に、あらためて新鮮な感銘を受けたことを記しておく。

2021年8月13日 トロントにて。


[i] 本稿は、Fight for Justice緊急オンラインセミナー「もう聞き飽きた!『慰安婦は性奴隷ではない』説」(2021年3月14日)でのコメントと、岩波書店の渕上晧一朗氏が雑誌『世界』のために企画された板垣竜太氏との対談(2021年6月17日)での発言の一部をもとにしている。

[ii] J. Mark Ramseyer, “Contracting for Sex in the Pacific War.” International Review of Law and Economics 65 (2021) 105971.

[iii] 当論文をはじめ、ラムザイヤー氏が過去に発表した論文、抗議声明、署名活動、論考などは以下のサイトで読むことができる。Resources on “Contracting for Sex in the Pacific War” in the International Review of Law and Economics (chwe.net)

[iv] J. Mark. Ramseyer, “A Monitoring Theory of the Underclass: With Examples from Outcastes, Koreans and Okinawans in Japan” (January 2020). 引用は2頁。

[v] 「文化戦争」については、拙稿「多文化主義論」綾部恒夫編『文化人類学20の理論』(弘文堂、2006年)を参照。小山エミは以下の論考でラムザイヤーなど日本の保守に歓迎されているアメリカ人学者の白人至上主義について明言している。「「ラムザイヤー論文騒動」の背景にある白人至上主義」『週刊金曜日』(2021年4月22日)。http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2021/04/22/news-87/2/

[vi] 「トランスナショナルな腹話術」は以下より。Lisa Yoneyama, Cold War Ruins: Transpacific Critique of American Justices and Japanese War Crimes. (Duke University Press, 2016). 

[vii]  “On the Invention of Identity Politics: The Buraku Outcastes in Japan,” Review of Law and Economics 16, no. 2 (2019); “Social Capital and the Problem of Opportunistic Leadership: The Example of Koreans in Japan.” European Journal of Law & Economics (2021) など。

[viii] 「モイニハン報告書」とクウィア・オヴ・カラー批評の関係については、Roderick A. Ferguson, Aberrations in Black: Toward a Queer of Color Critique. Minneapolis: University of Minnesota Press, 2004.

[ix]  ルース・ベネディクトおよび近代化論と日本研究については、拙著『暴力・戦争・リドレス―多文化主義のポリティクス』(岩波書店、2003年)など。

[x] 日米の相互慰撫のより最近の表象例は、拙稿「日本を語る位相――アメリカ研究とアジア研究のポストナショナル」『日本学報』29(2010年3月)8頁。

[xi] Lisa Yoneyama, “Complicit Amnesia: The Smithsonian ‘Atom Bomb Exhibit’ Controversy in Japan and the United States. Paper presented at American Anthropological Association Annual Meetings, Washington, D.C. (November 1995). 「越境する戦争の記憶―スミソニアン原爆展論争を読む」『世界』614号(1995年10月)。前掲書『暴力・戦争・リドレス』所収。

[xii] 日韓「合意」を多角的、世界史的に批判した論評は、中野敏男他編『「慰安婦」問題と未来への責任―日韓「合意」に抗して』(大月書店、2017年)。

[xiii] Tessa Morris-Suzuki, “The ‘Comfort Women’ Issue, Freedom of Speech, and Academic Integrity: A Study Aid.” The Asia-Pacific Journal vol.19:5, no.12 (March 2021).

[xiv] Chalmers Johnson and E.B. Keehn, “A Disaster in the Making: Rational Choice and Asian Studies,” The National Interest, Summer 1994, No.36 (Summer 1994): 14-22. ジョンソン他が酷評したラムザイヤーの共著書は、Mark Ramseyer and FrancesMcCall Rosenbluth, Japan’s Political Marketplace (Cambridge: Harvard University Press, 1993).

(「世界史の眼」No.20)

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書評 リチャード・J.エヴァンズ著『エリック・ホブズボーム 歴史の中の人生』木畑洋一監訳、原田真見、渡辺愛子、芝崎祐典、浜井祐三子、古泉達矢訳、岩波書店、二〇二一年七月刊行
平田雅博

 本訳書のあちこちにある形容句でいう「世界中で最も有名で広く読まれる」歴史家の仕事を私ももっぱら翻訳を通じて読んできた。中でも『素朴な反逆者たち』『匪賊の社会史』『創られた伝統』は何といっても読んで楽しかったし、世界史関連の『革命の時代』『資本の時代』『帝国の時代』に『産業と帝国』を加えた「長い一九世紀史」の四部作は、書評したり引用したり授業のネタにもしたりしてきた。前から三冊に加えて「短い二〇世紀」を扱った『極端な時代』を含めて「近現代史の四部作」との見方もある。本書にはこれらの著作の出版に至る過程や出版後に寄せられた書評群も紹介されており、ほぼすべて未知だったために興味をそそられた。

 とりわけ上記の五点への書評でしばしば繰り返された批判は、「ポストコロニアル」のサイードに代表的に見られるような、ホブズボームの「ヨーロッパ中心主義」的な傾向を指摘するものである(下巻、二二七頁)。ただ「ヨーロッパ中心主義」という意味を視野がヨーロッパだけに限られ非ヨーロッパはまったく触れていないとするのであれば、間違いである。博士論文の計画時に実地調査した北アフリカ(ただしアフリカには南アフリカを除くサハラ以南のブラック・アフリカに関心がなかったのが「盲点」だった)をはじめ、とりわけラテンアメリカ全般には圧倒的な関心を注ぎ(お返しかどうかブラジルで彼の本は売れた)、インド、日本などのアジアにも射程に入れていたからである。「ヨーロッパ中心主義」を非ヨーロッパを視野に入れつつ、起点や基盤はあくまでヨーロッパにおいた「地球規模の歴史」を構想し叙述した、とか「焦点はヨーロッパ」で「その文脈は世界規模」(ハリソンの評価)とかとする方(下巻、一四二、二〇〇頁など)が正しいと言えよう。

 ところが、本書がいうように二一世紀の初頭まで、ホブズボームによる「地球規模の歴史」での「ヨーロッパ」の歴史記述を真似する人は出なかったものの(下巻、七四頁)、真似するどころかそれを越えようとする「グローバル・ヒストリー」が出現した。その一つは、ベイリ『近代世界の誕生』(C・A・ベイリ著『近代世界の誕生 グローバルな連関と比較一七八〇-一九一四』、上・下、平田雅博・吉田正広・細川道久訳、名古屋大学出版会、二〇一八年。本訳書に言及はないがホブズボームは本書の仏訳版に序文を寄せている)である。これもホブズボームへの辛辣な批判者の一人として本書に登場するフェミニスト史家のキャサリン・ホールによって、このベイリ著は彼の「一九世紀史の偉大な四部作」を「退場させた」と評価された。

 ベイリの専門はインド史だが、読書の幅はホールすら「妬ましいほど」と表現したほど広く、欧米史はもちろん、中国史、日本史、イラン史、オスマン帝国史に及んだ。これらをもとにヨーロッパ中心主義を克服したどころか世界のどこも中心としない「多中心的」な世界史を試みた。同じくヨーロッパ中心主義と批判されることがあり本書にも登場するウォーラーステインもヨーロッパ以外をすべて「周辺」とか「半周辺」として「概念上のごみ箱に放り込む」論者として斥けている。はたしてベイリがホブズボームを「退場させた」かどうかは綿密な検証が必要だが、たとえば、先に触れたサイードがヨーロッパ中心主義との批判内容である、非ヨーロッパの知識人の軽視ないし無視、および非抑圧者、危機に瀕したコミュニティ、被差別者、宗教に基づいた抵抗運動への視点の欠如といったものは、ポストコロニアルに「寛容」の姿勢を取ったベイリがこれらに非ヨーロッパの「歴史なき人びと」「国家なき社会に住む人びと」も加えて、彼の世界史に参加させたと評価されている(ベイリ関係の書誌データは以下を参照されたい。平田雅博『ブリテン帝国史のいま グローバル・ヒストリーからポストコロニアルまで』、晃洋書房、二〇二一年、一一九~一三〇頁)。

 歴史の叙述と国家形成を結合させて誕生したのが「近代歴史学」で、個別のネーションの枠組みに閉じ込めずにヨーロッパ全体を基準に議論するトランスナショナルなアプローチを取ったのが彼の世界史だとしたら(下巻、七四頁)、非ヨーロッパを取り込む「真のグローバル・ヒストリー」の出現がそれに取って代わったために、彼は近代歴史学とグローバル・ヒストリーの中間点に位置するというのが私の見方である。

 ポストコロニアル絡みのもう一つの今日的な観点としての「ポストモダン」から本書を読むとどうか。本書は「社会民主主義者(上巻、vii頁)」エヴァンズが書いた「終生の共産党員」ホブズボームの評伝である。距離がおかれた分か、むしろ労働党への影響力など「現実的な」政治活動をよく捉えている面があり、仮に同じ共産党員(まず思いつかないが)が書けば別物となっていただろう。ところが、文学理論家の冨山太佳夫によると、エヴァンズはポストモダンに対して「恫喝的な排除の姿勢を取る」歴史家であり、ホブズボームは「ポストモダンの弁護路線に頼るのは有罪の者の味方をする弁護士たち」との「悲しむべき暴言」を吐いた歴史家である。かくして本書はポストモダンを「恫喝」する者による、これに「暴言」を吐いた歴史家の評伝となる(富山太佳夫著『英文学への挑戦』岩波書店、二〇〇八年、三七一頁。ホブズボーム著『歴史論』原剛訳、ミネルヴァ書房、二〇〇一年、序文、エヴァンズ著『歴史学の擁護 ポストモダニズムとの対話』今関恒夫、林以知郎監訳、晃洋書房)。

 著者はホブズボームが詩や小説を多読して「文学を通して歴史に取り組むようになった」としながら、彼の意図を汲むかのようにポストモダンへの否定的な態度を本書でも拾っている(下巻、二六二、二九一、三一五頁など)。一方、冨山によると、従来の実証的な歴史学と文学が「調和的な交差」する場が「ポストモダン的な変貌」を遂げた「評伝」である。エヴァンズの当評伝は冨山のいう「評伝」なのか。膨大な未刊行資料を駆使した実証はおそらく当分は余人の追随を許さぬほど見事である。一方、評伝に書かれる人の行動にはすべて実証的な裏付けがあるとは限らず、冨山のいう「資料によっては論証できない動機や目的」を説明する必要もある。

 たとえば、多くの頁が割かれている女性関係に関して、この「ひどく醜い男」に惚れる女性があれほどいたのはなぜだったかの部分(下巻、六六頁)は、さしもの著者でもエビデンスを提示しないままの、推し量りかねる女性の恋心の「説明」である。その他「女性が大好きな」本人の各地の売春宿ヘの出入りや既婚女性との「情事」が手紙や日記で「実証」されているが、最初の妻の浮気から自殺も考え、自宅で「堕胎」の手伝いをしたことヘの悔恨、これまた「既婚」の成人学生との間に「非嫡出子」をもうけたことへの生涯にわたる苦悩等々はどう見ても「実証」しきれていない。ここはもはや「事実立脚性」と「論理整合性」に基づく歴史学ではなく「芸術」の領域だからである(遅塚忠躬『史学概論』東京大学出版会、二〇一〇年)。だが、その深部の心性の説明はなされているので、皮肉なことに恫喝したはずのポストモダンの説明の手法をあるいは取り入れた形になったのかも知れない。

 いわゆる「偉人伝」でも以前ならばタブーだった同性愛を含むセクシュアリティヘの言及は珍しいものでもなくなった。ただ、あまり私生活に触れなかった自伝『わが二〇世紀・面白い時代』には、ケインズやシュンペーターの伝記に「ベッドの下から」のぞき込むような性生活の描写があることを嫌っている箇所もあるので、自分の評伝に書かれてしまうことなど望まなかったはずである。

 ところが著者はエリックの「著作と生活は継ぎ目なく調和しており」、私的な側面も専門家としての側面も「同じ一枚のコインの裏と表」(下巻、五八頁)としていることから、あるいは著作に表れているかもしれないと私が想起したのは『帝国の時代』の「新しい女性」章の中の「性の解放」などだが、書評群の紹介において、著者はホブズボームがたびたび女性やジェンダーヘの視点の不十分さや欠如を指摘されたこと(下巻、一九四~一九五頁)、本書の末尾において「女性の歴史」は氏の知識の「盲点」の一つだったこと(下巻、三一三頁)を指摘して閉じており、生活と著作がいかにして「同じ一枚のコインの裏と表」だったのかはついに不明であった。

 終章はホブズボームの著作群を卓抜にまとめながら、世界中でなぜこれほど読まれたかの理由を説得的に示すが、女性の歴史の他にブラック・アフリカと大衆文化というあと二つの「盲点」を敢えて指摘しているのは、これからの歴史家に、これら三つの盲点を突いてホブズボームを越えてみよ、と示唆しているようにも見えた。

(「世界史の眼」No.20)

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書評:浅田進史・榎一江・竹田泉編著『グローバル経済史にジェンダー視点を接続する』(日本経済評論社、2020年)
大門正克

 歴史研究にジェンダー視点の導入の必要性が指摘されて久しい。だが、グローバル経済史(経済史)では、依然としてジェンダー視点の導入の試みが乏しい。本書は、この点に「問題提起」と「挑戦」を試みた本であり(260頁)、大変に刺激に満ちた研究書である。

 編者のひとりである浅田進史氏が言うように、ジェンダー史とグローバル経済史は「交わることなく並行の関係」にある(6頁)、あるいは本書で姫岡とし子氏が言うように、通史とジェンダー史には「折り合いの悪さ」(251頁)がある。それに対して序章では、論争のなかのグローバル経済史とジェンダーの論点が紹介され、両者を接続することが重要な課題であることが示されている。紹介されている論点は、①ジェンダー史からの「イギリス高賃金経済」論批判、②「ガール・パワー」論をめぐって、③性別分業をめぐってであり、「序章」は本書全体の位置づけ、問題の所在と課題を明快にまとめている。加えて各章では、先行研究と論点の整理に留意したうえでの論証がめざされている。

 その結果、本書は、ジェンダー史を無視するグローバル経済史は居心地が悪いはずだというところまで、グローバル経済史に対して問題提起がかなりできているように思えた。「あとがき」(浅田進史)にある、グローバル経済の現場に接近するほどに、「いかにその支配のあり方がジェンダーと不可分に結びついており、それが全体の支配構造を支えていることがわかるのではないか」(260頁)という言葉が本書の問題関心をよく表現しており、もっとも深く胸に突き刺さった。

 本書の概要を紹介しよう。「序章」(浅田進史)に続き、本書は3つの部で構成されている。第1部「産業革命・グローバル史・ジェンダー」には、第1章「産業革命とジェンダー」(山本千映)、第2章「18―19世紀イギリスの綿製品消費とジェンダー」(竹田泉)、第3章「18世紀フランスにおけるプロト工業化とジェンダー」(仲松優子)、第2部「19世紀グローバル化のなかのジェンダー」には、第4章「ハワイにおける珈琲業の形成」(榎一江)、第5章「市場の表裏とジェンダー」(網中昭世)、第6章「ドイツ植民地に模範的労働者を創造する」(浅田進史)、第3部「グローバル経済の現段階とジェンダーの交差」には、第7章「生産領域のグローバル化のジェンダー分析」(長田華子)、第8章「ポスト新国際分業期におけるフィリピン女性家事労働者」(福島浩治)がそれぞれ配置され、コラムも3本おかれている(「工業化期イギリスの女性投資家」<坂本優一郎>、「家事労働の比較経済史へ向けて」<谷本雅之>、「グローバル経済史とジェンダー史の交差の可能性」<姫岡とし子>)。 

 本書は、2017年6月に開催された、政治経済学・経済史学会春季学術大会春季総合研究会「グローバル経済史にジェンダー視点を接続する」をもとに構成されたものであるが、上記のように研究会の記録にとどまらず、本書全体および各章にわたり、問題提起と課題の所在、論点などがよく整理された触発力の大きな研究書になっている。

 本書は、「グローバル経済史にジェンダー視点を接続する」ことを課題にするとうたっているが、本書を少し読めば、本書の射程はグローバル経済史にとどまらず、経済史一般に対する問題提起であることがすぐにわかる。そのことをもっとも明瞭に示しているのが、プロト工業化論に対してジェンダー視点の欠落を鋭く指摘した第3章の仲松優子論文である。プロト工業化論では、家族が重要な研究対象であったが、「女性労働とこれをめぐる権力関係に対する視野をほとんどもちえておらず」、「議論の基盤に大きな欠陥を抱えていた」(76頁)という指摘は、正鵠を射ているであろう。今後、仲松論文を抜きにしてプロト工業化論を語ることはできないはずである。

 日本経済史研究でもジェンダー視点の接続に対する問題関心は、長い間、希薄であったが、近年いくつかの問題提起が続いている。小島庸平『サラ金の歴史――消費者金融と日本社会』(中公新書、2021年)は、ジェンダーを重要な視点にすえており、「感情労働」などのキーワードを駆使しつつ、サラ金苦と男女の対応の相違や感情労働のあり方を具体的に検討している。消費や労働の研究にジェンダーの視点を導入したものとして、今後の研究の新しい方向性を示している。また私も、高度成長期の企業の社内報に掲載された主婦の文章から「機嫌」と「ぐち」というキーワードに注目し、企業社会における夫の労働と主婦の規範・実践に含まれた非対称のジェンダー関係に注目する必要性を提起した(大門「高度成長期の「労働力の再生産と家族の関係」をいかに分析するか」『歴史と経済』247号、2020年4月)。本書は、これらの研究をより広く位置づける役割もはたしているように思われる。

 本書は、グローバル経済史(経済史)におけるジェンダーへの問題関心を促し、さらにジェンダー視点の必要性を説いたものであり、日本経済史研究を含めて大変に時宜にかなった研究書である。広く共有されることを望みたい。

(「世界史の眼」No.19)

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ノモンハンからの世界史(下)―二つの「満蒙」旅行記を通して―
小谷汪之

はじめに

1 飯塚浩二『満蒙紀行』(1) ―アルシャン行

2 飯塚浩二『満蒙紀行』(2) ―ホロンバイル草原行

(以上、前号)

3 村上春樹「ノモンハンの鉄の墓場」

おわりに

(以上、本号)

3 村上春樹「ノモンハンの鉄の墓場」

 1994年6月、村上春樹は成田から大連に飛んだ。大連からは「便所にも立てないくらい満席」の「硬座(三等車)」に詰め込まれ、「一晩十二時間揺られてくたくたになって長春〔旧満洲国の首都、新京〕に到着」した。長春では、「ちょっとわけあって動物園の取材をすることになった」。村上によれば、この動物園は満洲国時代の1941年に「新京動物園」(正式名は、新京特別市立南嶺動植物園)として開園されたが、満洲国崩壊後廃墟になっていたのを、1987年に長春市が「長春動植物園」として復興させたということである。1945年8月9日、ソ連軍が西、北、東三方から満洲国に侵攻し、満洲国の首都、新京に迫った。それを目前にして、「新京動物園」では虎や豹などの猛獣を安全上の予防措置として殺処分した。村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編』「10 動物園襲撃(あるいは要領の悪い虐殺)」には、このことが「動物園襲撃」として書かれている(実際は毒殺だったのを銃殺としたり、実際にはいなかった象を登場させるなど、村上の記述にいろいろとフィクションが含まれていることについては、川村湊『満洲崩壊 「大東亜文学」と作家たち』文芸春秋社、1997年、68-74頁参照)。村上が「ちょっとわけあって動物園の取材をすることになった」といっているのはこの「新京動物園」における猛獣殺処分にかかわることなのだろうが、具体的にどのような取材をしたのかはよく分からない。「でもこの動物園はなかなか面白かった。〔動物園の〕係員に『日偽時期』〔満洲国時代〕の話を聞くこともできた」ということであるから、「動物園襲撃」のネタになるようなことも聞けたのかもしれない。

 村上は長春からハルビン(哈爾浜)へも列車で行ったのだが、この時も「硬座」で、開けっぱなしの窓からいろいろなゴミが目に入って、痛くて目をあけていられなくなった。それで、「ハルビンでは〔目の治療のために〕心ならずも病院めぐりをすることになった」。ハルビンの病院や医師は村上にちょっと暗い印象を与えたようである。ハルビンからは、満洲里行き列車(旧東清鉄道)の「軟座の寝台」という「完全予約制のコンパートメント寝台席」で夕方出発、大興安嶺を越えて、翌日にはハイラル(海拉爾)に着いた。

 ハイラルでは、日本軍がソ連軍の侵攻に備えて、郊外の山に作った巨大な地下要塞の跡を見に行った。この要塞は、強制徴用された中国人労働者を使役して、突貫工事で建設され、その過酷な労働条件の下で、多くの中国人が命を落とした。完成後、秘密保持のために、建設にかかわった中国人は殺害されたという。ハイラルで村上の案内をしたガイドは、「その山の近くに死体をまとめて放り込んだ万人坑があり、そこにはまだ約一万人の中国人工人の骨が埋まっている」と言っていた。村上はこの死者の数が正確かどうかはともかく、ほかの事例から考えて、このようなことがあったのは事実だろうと思った。敗戦直前にハイラルを訪ねた飯塚浩二の旅行記では、この地下要塞について全く触れられていない。軍事秘密として秘匿されていたとしても、これだけの大工事を行っていたのであるから、何か風聞のようなものが聞こえてきてもよさそうなものであるが。

 ハイラルからはランドクルーザーで4時間かけて、新巴爾虎左旗(シンバルクサキ)という町に行った。ここは「旗」(地方行政区)の役所があるところで、いわゆる「未開放地域」とされ、政府の許可なしでは外国人は入れないところであった。ホテルなどはないので、中国軍の「招待所」に泊めてもらった。「便所は水洗なのだが」、夕方まで水が出ないので、「どこにも大便がそのまま残っていて、宿命的にその臭いがそこかしこに漂っている」。

 新巴爾虎左旗からまたランドクルーザーで3時間かけて、ノモンハン村を訪問した。ノモンハンというのは「とても小さな集落」だが、小さな「戦争博物館」があって、「銃器から水筒、缶詰、眼鏡といった」「日本軍の遺品みたいなもの」が展示されていた。ノモンハン戦争の激戦地はノモンハン村のすぐ南からハルハ河畔にかけての地域であるが、ノモンハン村から直接に行くことはできなかった。ノモンハン戦争後の国境画定交渉で、日本側はハルハ河を国境と主張したが、ソ連側の主張通りハルハ河右岸(東岸)から20キロメートルほど東の線が国境とされたからである(付図2参照)。その結果、ノモンハン村の北西から南東にかけて国境線が通ることになり、これが今の中国とモンゴル国の国境線となっている。村上がノモンハン村を訪ねた時には、この国境線は閉鎖されていたから、ノモンハン村からノモンハン戦争の激戦地に直接行くことはできなかったのである。村上が書いているように、中国側がモンゴル国と中国の内モンゴル自治区の「モンゴル民族の団結、あるいは融合傾向のたかまりを危惧」していたのが国境閉鎖の主因であろう。明確な国境標識があるわけでもなく、まして鉄条網などで区切られているわけでもない空漠たる国境線であるが、それでも、越えることはできないのである。

 村上は「その夜はノモンハン村で羊料理と白酒パイチュウをご馳走になり、生まれて初めて酔っ払って意識不明になる。〔中略〕話を聞くとその白酒はアルコード度が六十五度ぐらいあったということで、それを四、五杯ストレートで飲んだのだからたまったものじゃない。気がついたら翌朝で、新巴爾虎左旗の宿舎のベッドの中にいた。それから一か月近く経過した今でもビール以外のお酒がほとんど飲めない―飲みたくない、というまことにいたましい状況下にある。それくらいきつかったのだ」。

 その後、村上は、ノモンハン戦争の激戦地の跡を見るために、わざわざ北京に回り、そこからモンゴル国の首都、ウランバートルに飛んだ。ウランバートルで飛行機を乗り換え、ドルノド(東)県の県都、チョイバルサンに飛んだ。チョイバルサンは軍事的な要地で、交通の便は予想以上にいい。「チョイバルサンまでモスクワから直接列車が送り込めるようになっていて、この鉄道ルートはノモンハン戦争、あるいは満州侵攻の際にきわめて有効に利用された。チョイバルサンから『満蒙まんもう』国境付近のタムスク基地まで、かつては兵員と軍事物資を補給するための専用鉄道が敷設されていたらしい」。「とにかくこと兵站へいたんに関しては、ソビエト軍は関東軍とは逆におそろしく慎重に計算して行動した」。

 チョイバルサンからハルハ河までは距離にして約375キロメートル、「愛想もクソもないロシア製の軍用ジープ」で10時間ほどかけて行った。案内役(あるいは監視役)や運転手はモンゴル軍の軍人であった。「途中で軍隊の駐屯所によって、そこでミルク入りのお茶と、チーズ盛り合わせと羊肉入りギョウザを御馳走に」なったが、村上は「ノモンハン村の羊料理と白酒パイチュウの後遺症でほとんど食欲がなく」、「ほとんど手を付けなかった」。そうやってやっと着いたところが「三日前にいたノモンハン村のすぐ向かい側というのだからまったく世話はない」。

 その日は、スンブルにあるモンゴル軍の「招待所」に泊めてもらった。スンブルは、ハルハ河とホルステン川の合流点(ノモンハン戦争の激戦地で、当時日本人は「川又」と呼んでいた)の南、10キロメートルほどの所に位置する小さな町である(付図1、2参照)。ここにはオボ(石積の祭壇で道標ともなる)があるので、スンブル・オボとも呼ばれる。スンブルでもモンゴル軍の「招待所」に泊めてもらったが、ここも水が出なかったので、「持参した少量のミネラル・ウォーターを飲み尽くしたあとは、それから十二時間あまりただじっと渇きを我慢するしかなかった」。

 翌日、村上は軍用ジープであちこちとノモンハン戦争の戦跡を案内してもらった。「ハルハ河はまるで蛇がのたうつように、くねくねと曲がりくねった河だ。水の流れはけっこう早く、ところどころに中洲がある。〔中略〕川の西岸(ソ連・モンゴル軍側)は高い台地のようになっており、それに比べると東岸(日本軍側)は広い谷間のような低地になっている。そのためにとくに砲撃戦で日本軍は地形的に大きなハンディキャップを背負いこむことになった。台地の上からは、双眼鏡を使えば二十キロ向こうのノモンハン村までくっきりと見渡すことができるのだ」。

 ハルハ河を越えて最初に行ったのは、激戦地として知られる「ノロ高地」(図2参照。これは日本側の呼称)かその近辺と思われる場所で、そこには砲弾の破片や銃弾や臼砲弾の一部などがところ狭ましと散らばっていた。それは村上には「ノモンハンの鉄の墓場」のように見えた。村上はこう書いている。「我々は歴史的に分類すれば、たぶん『後期鉄器時代』というような時代に属しているのだろう。そこでは、有効に大量の鉄を相手側にばらまいた側が、そしてそれによって少しでも多く相手の肉を切り裂いたほうが、勝利と正義を得るのだ。そしてぱっとしない草原の一角をめでたく手に入れることができるのだ」。

 村上は打ち捨てられたソ連軍の戦車などの遺物を見て回った後、「スンブルの立派な戦争博物館を見学した」。スンブルは「地の果てのような貧相な町」だが、この博物館は「実に堂々たる建築物で、展示物も豊富で、当時の貴重な資料や各種武器、軍用品などが手際よく整理保存されている。それを見るとモンゴル人たちがノモンハン戦争=ハルハ河戦争〔モンゴル側の呼称〕における勝利を……どれほど重要なものとして考えているかということがよくわかる」。

 その後、帰路に就いたが、「スンブルからチョイバルサンまでの長い帰り道の途中で、草原の真ん中に一匹の狼をみつけた。モンゴル人は狼をみつけると、必ず殺す」。軍用ジープの運転手は道からそれて狼を追い回し、疲れ切って立ち止まった狼を案内役(監視役)のモンゴル軍人が撃ち殺した。「狼を殺してしまうと、そのあと我々はみんな不思議に無口になった」。「僕らがチョイバルサンの町にようやく帰りついたのは結局夜中の一時だった」。

 その夜はチョイバルサンの「ろくでもないホテルのろくでもない部屋」に泊まったのだが、真夜中、目が覚めると、世界中が激しく揺れ動いていて、その衝撃で立っていることもできないような状態になった。村上は「なんとか必死でドアの前までたどり着き、手探りで壁の電灯のスイッチを入れた」。「その途端に、その振動はさっとやんだ」。「まるで嘘のように、物音ひとつ一つしなかった。何も揺れていなかった」。「それから僕ははっと気づいた。揺れていたのは部屋ではなく、世界ではなく、僕自身だったのだということに」。それは、「ノモンハンの鉄の墓場」を見たことによって、村上の精神に走った激震だったのであろう。

 翌日、村上はチョイバルサンからウランバートルを経由して北京に飛び、そのまま空港で飛行機を乗り換えて日本に帰った。

おわりに

 飯塚浩二と村上春樹の「満蒙」旅行記を読み比べてみると、1945年2月から6月にかけて、敗戦直前の満洲国と「北支」を旅行した飯塚の方が、1990年代に中国とモンゴル国を旅行した村上より、はるかに優雅な旅をしている。敗戦直前とはいえ、実質的な植民地支配者としての立場にあった日本人にとっては、満洲国や「北支」の方が「内地」よりも自由で、物資も豊かだったということであろう。他方、まだ経済的発展が緒に就いたばかりの頃の中国と途上国のモンゴル国を旅行した村上は、今日ではちょっと考えにくいような苦労をせざるをえなかったのである。

 しかし、二人の間の本質的な違いは、飯塚が、意図的かどうかはともかく、ノモンハン戦争についてまったく触れていないのに対して、村上はノモンハン戦争に徹底的にこだわっているということである。村上はノモンハン戦争における日本の敗戦を極力隠蔽しようとした天皇制国家や帝国陸軍と同じ隠蔽(密閉)体質が、今日の日本の国家や社会の中にも厳然と存在しているのではないか、いいかえれば、「この五十五年前〔今から言えば、80年前だが〕の小さな戦争から、我々はそれほど遠ざかってはいないんじゃないか」という思いをもって、ノモンハン戦争にこだわり続けているのである。「モリ・カケ」問題や「桜を見る会・前夜祭」問題などに見られた旧安倍政権や、それを引き継いだ今の自民党政権の隠蔽(密閉)体質を見ていると、村上の危惧が決して杞憂ではないことを強く感じざるをえない。そして、これが日本だけの問題ではないことは北朝鮮などを見れば明らかであろう。問題は国家というものの本質にかかわっているのである。飯塚には、この国家というものに対する懐疑が本質的に欠如していたように思われる。

(「世界史の眼」No.19)

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ノモンハンからの世界史(上)―二つの「満蒙」旅行記を通して―
小谷汪之

はじめに

1 飯塚浩二『満蒙紀行』(1)―アルシャン行

2 飯塚浩二『満蒙紀行』(2)―ホロンバイル草原行

(以上、本号)

3 村上春樹「ノモンハンの鉄の墓場」

おわりに

(以上、次号)

はじめに

 人文地理学者で当時東京帝国大学教授だった飯塚浩二(1906-70年)は、1945年2月初めから6月下旬まで、満洲国(日本帝国主義がつくりだした傀儡国家。1932-45年)と「北支」(中国北部)をほぼ五か月間旅行して回った。まさに敗戦(1945年8月15日)直前の時期であるが、彼の「満蒙」旅行は満鉄(南満洲鉄道株式会社)と国通(満洲国通信社)という物流と情報の二大会社のネットワークに乗った悠々たる旅であった。戦後、飯塚はこの旅行時の日記を整理して、『東京大学東洋文化研究所紀要』に7回に分けて掲載した(1953-67年)。飯塚死後の1972年、これらをまとめたものが『満蒙紀行』という書名で筑摩書房から出版された(『飯塚浩二著作集 10』〔平凡社、1976年〕5-472頁に再録。以下、引用等はこれによる)。

 他方、村上春樹は、1994年6月、ノモンハン戦争(当時の日本におけるいい方では、ノモンハン事件)の戦跡を見るのを主目的として、中国とモンゴル国を訪れた。同行者はカメラマンの松村映三だけであった。ノモンハン戦争は1939年5月から9月にかけて、満洲国とモンゴル人民共和国の国境線をめぐって、主として日本軍とソヴィエト連邦(ソ連)軍の間で戦われた本格的な戦争で、日本軍は約2万人の死傷者を出して完敗した(ただし、グラスノスチによる歴史的資料公開により、ソ連軍側の損害も多大だったことが判明した)。村上のこの旅行の記録は「ノモンハンの鉄の墓場」と題されて、村上春樹『辺境・近境』(新潮文庫)に収録されている(以下、引用等はこれによる)。

 本稿では、これら二つの「満蒙」旅行記を通して、かつての満洲国、ソ連、モンゴル人民共和国の三国、そして現在では中国、ロシア、モンゴル国の三国が交錯する地域、特にノモンハン戦争に関係する地域に焦点を当て、そこからどのような歴史が見えてくるかを考えてみたい。(以下、片仮名の地名はモンゴル語など中国語以外の言語の地名で、カッコ内はその中国語音写である。引用文中の〔 〕は引用者による補足など。)

1 飯塚浩二『満蒙紀行』(1)―アルシャン行

 飯塚浩二は、1945年2月6日、下関から釜山にわたり、京城(現、ソウル)を経て、9日に満洲国の首都、新京(現、長春)に到着した。南満洲各地の工場などを視察して回った後、3月9日、山海関を経て「北支」に入り、北京や張家口にしばらく滞在した。4月21日、北京を出発、古北口で長城線を越えて満洲国熱河省の承徳(熱河)に到着した。約14時間の列車の旅であった。4月24日、承徳から奉天(現、瀋陽)に行き、26日には、再び新京に入った。ここから飯塚の「興安地区」(興安省)の旅行、すなわち「満蒙」旅行が始まったのである。「興安地区」(興安省)は満洲国、ソ連、モンゴル人民共和国の三国が境を接するところであった(付図1参照。国境線はノモンハン戦争以前のもの)。

 5月2日、飯塚は新京―白城子間を結ぶ京白線で新京を立ち、途中哈嗎駅で下車して鐘紡の王府種牧場などを見学した後、4日に白城子に着いた。翌5日、白城子―アルシャン(阿爾山)―ハロル(杜魯爾)間を結ぶ白杜線で白城子から、興安に行った。興安はもともとは王爺廟という町であるが、満洲国時代に「興安各省の行政中心地」となり、こう呼ばれるようになったのである。翌6日朝、白杜線で興安からソロン(索倫)に向かったが、ソロンからは国境地帯に入るということで、車内で身分証明書の検査があった。ソロンでは満州国地方官吏(日本人)の出迎えを受け、「索倫旅館という中国式の素朴な宿屋に案内される」。夕食は、旗長(モンゴル人。「旗」は地方行政区)や旗公署参事官(日本人)らと中華飯店で「大きな食卓二つをかこんで、賑やかであった」。翌日には、「二頭曳きの鉄輪の大車」でソロンから40キロメートルほど離れた満洲屯を訪ね、屯長(モンゴル人)の家で一泊した。屯長の家は切妻造りの固定家屋と5、6軒のパオ(モンゴルの移動家屋)からなる複合家屋で、飯塚は包に泊まりたかったのだが、寒いということで固定家屋の方に泊まることになった。

 翌8日、ソロン(索倫)に戻り、午後の列車でアルシャン(阿爾山)に向かった。「先日は王府から白城子への道中で、いかにも大陸らしい無際涯な茫漠たる平面の連続に感心した」。しかし、アルシャンに向かって「興安嶺をここから先に懐深く入ってみると大したもので、いわば内地の神河内〔上高地〕を幅広くしたような素晴らしい景色である」と飯塚は書いている。アルシャンに着いたのは午後8時ころだったが、「阿爾山〔アルシャン〕には、満鉄が軍のためにサーヴィスして建てた近代的なホテルがある外はバラック〔兵舎〕ばかり」であった。「車内の鉄道地図によればこの先にもまだ軌道はあるはずなのだが、純軍用とみえ、われわれ『地方人』はここで足留ということになる」。この時点での白杜線の終点はハロル(杜魯爾)であるが、アルシャン―ハロル間は軍用鉄道になっていて、軍人以外の一般人は乗れなかったということであろう。

 飯塚は、翌9日朝7時に、列車でアルシャンを立ち、午後4時興安に戻った。夜は国通の興安支局長や興安省公署の参事官と会食した。「日本風の料理で、魚づくしのたいそうなご馳走だった」。

 アルシャンには短時間しかいなかったため、アルシャンについての飯塚の記述は極めて簡略で、アルシャンがノモンハン戦争に深くかかわる地であることについては全く言及されていない。アルシャンには日本軍(関東軍)の駐屯地があったから、ノモンハン戦争時には、度々ソ連機による空爆を受けている。日本軍の方でも、公主嶺に駐屯していた戦車部隊を新京―白城子―アルシャンと、飯塚の旅程と全く同じ鉄道路線で輸送して、アルシャンからノモンハン方面に進発させている。もっとも、この旧型の日本軍戦車は実際には何の役にもたたなかったのであるが。当時、天皇制政府や帝国陸軍はノモンハン戦争における敗戦を極力隠蔽しようとしていたので、飯塚はアルシャンとノモンハン戦争のこのようなかかわりを知らなかったのかもしれない。

 5月10日、飯塚は興安駅前からバスに乗って、西科後旗(科爾沁右翼後旗)に行った。西科後旗は興安とソロンの中間ぐらいに位置し、白杜線より北にある。旗公署で参事官(日本人)に迎えられ、午後は参事官の釣りに同行、夜は「今日の釣りの獲物を用いた中華料理の卓を囲む」。翌11日、飯塚は「せっかくここへ来たのだから」ということで、「中村少佐、井杉曹長の殉職の址を訪れ」た。中村大尉(殉職後、少佐に昇進)殉職事件とは次のような事件である。

 1931年6月、中村震太郎大尉(当時、参謀本部第一部作戦課兵站班所属)は大興安嶺東側地方の兵要地誌(軍事用地理情報)調査を命じられた。中村大尉は、東清鉄道昂々渓駅近くで旅館昂栄館を営む予備陸軍曹長井杉延太郎に同行を依頼するとともに、井杉を介してロシア人一人とモンゴル人一人を通訳などとして雇った。

 6月9日、中村大尉一行4人は東清鉄道で満洲里方面に向かい、大興安嶺山中のイルクト(伊爾克特)駅で下車した。兵要地誌調査を行いながら、馬で大興安嶺東麓にそって南下し、ソロン(索倫)を経て、7月初めまでには洮南に出る予定であった。しかし、その後、中村大尉一行の消息は絶え、7月中旬になっても洮南に到着しなかった。そのうえ、中村大尉と井杉予備曹長は中国兵によって殺害されたらしいという噂が広がった。それで、関東軍などが調査を行い、その結果、次のような事情が明らかになった。

 6月25日早朝、中村大尉一行はジャライド(扎賚特)付近を出発して蘇卾公府をめざした。蘇卾公府はソロンと興安の間に位置する集落であるが、張学良(当時、中華民国東北辺防総司令)配下の正規軍、屯墾第三団約600人が駐屯していた。中村大尉一行が蘇卾公府付近まで来た時、屯墾第三団員がそれを見とがめ、屯墾第三団長代理、関玉衡かんぎょくこう中佐が中村大尉らを尋問した。荷物検査も行われ、軍事地図1枚、日誌2冊などの書類が見つかったため、軍事スパイではないかと疑われた。

 6月27日午後10時頃、関玉衡中佐は部下の部将たちに「大車」一台と石油一缶を用意し、4人を東方2キロメートルほどの丘に連れて行って、銃殺せよと命令した。「大車」で目的地に運ばれた中村大尉らはそこで直ちに銃殺された。証拠隠滅のために、4人の死体は散兵壕内で石油をかけて焼却され、埋められた。

 この事件は日本国内でも広く知られ、反中国感情を激化させて、満洲事変(1931年9月18日勃発)の一因となったとされている。飯塚もこの事件についてはよく知っていたので、西科後旗に行った際に、そのすぐ近くということで、中村大尉らの「殉職の址」を訪ねたのである。あるいは、こちらの方が西科後旗に行った主な目的だったのかもしれない。いずれにしろ、この中村大尉殉職事件には陸軍(関東軍)による情報操作の臭いが付きまとっている。飯塚にもそれにのせられた面がありそうだ。

 5月11日、西科後旗から興安に戻った飯塚は、その夜、国通の興安支局の庭に建てられた包のそばで、国通興安支局長らとともに「成吉思汗料理に満腹」した。翌日と翌々日は興安でいろいろな人と会った後、13日に列車で白城子に行き、一泊した。

2 飯塚浩二『満蒙紀行』(2)―ホロンバイル草原行

 1945年5月14日早朝、飯塚は四平(四平街)とチチハル(斉斉哈爾)を結ぶ四斉線で白城子駅を立ち、チチハルに行った。チチハルからは別の鉄道路線で昂々渓駅に行き、そこで「国際列車」(旧東清鉄道)に乗り換えて、西の終点、満洲里に向かった。列車は午後4時15分に発車し、車中で一泊、翌15日午前11時に満洲里に到着した。20時間近い長旅であった。駅では国通の特派員が出迎えてくれ、一緒に興安水産の直営店という料理屋に行った。「純日本式の料理で中食を御馳走になってから」、国通特派員の案内で「馬車で市街を一巡した」。満洲里はソ連との国境の町で、ちょっと高いところからはソ連領内がよく見えた。

 飯塚は、翌16日には、興安水産の魚集荷用のトラックに便乗して、ダライノール(別名、ホロンノール)を訪ねた。大興安嶺西麓と満洲里との間の広大な草原はホロンバイル草原と呼ばれるが、それはホロンノール(ダライノール)とノモンハン近くのバイルノールを合わせた名称である。ダライノールに着いたのは午後7時ころで、この日は興安水産の出張所に一泊した。翌17日には、「五号漁場」に行き、揚がったばかりの鯉や鮒の生魚や塩漬け魚をトラックに積み込むのを見学した。ダライノールは琵琶湖の三倍を超える大きな湖であるが、水深は深いところでも4メートルほどということで、魚類の豊富な湖であった。ダライノールを含めて、この地方の漁業権は興安水産の独占であった。その後、魚を満載した興安水産のトラックで、満洲里の一つ東のジャライノール駅に行き、興安水産の事務所で「中国風の料理をゆっくりとご馳走になった」。ジャライノール駅からは「国際列車」(旧東清鉄道)ハルビン(哈爾浜)行きに乗り、夕方7時ころハイラル(海拉爾)に到着した。

 5月19日には、ハイラルの「旧城」を見に行った。正方形で、東西南北の壁の中央に門があり、十字形の道路が通っている、中国的な町であった。ハイラルはこの地方の商業の中心地で,隊商宿が軒を接していた。20日には、ハイラルから西に二駅戻って、ワングン(完工)に行った。「ハイラル河畔の草原に入ってもう少し遊牧民の生活をのぞいてみようというわけで」、ハイラル河を渡って、この地方の有力者の包を訪ねた。その後、午後6時発の「上り国際列車」でハルビンに向かい、翌21日午後3時にハルビン駅に到着した。一週間ほどのホロンバイル草原の旅であった。

 飯塚のホロンバイル草原行の記録を見ていても、気がつくのは飯塚がノモンハン戦争に全く触れていないということである。飯塚が「軍都ハイラル」と書いているように、ノモンハン戦争時にはハイラルに日本軍の司令部が置かれ、日本軍諸部隊はハイラルに集結して、そこからノモンハン方面に進発した。前にも書いたように、当時、天皇制政府や帝国陸軍はノモンハン戦争における敗北を極力隠蔽しようとしていたが、「軍都ハイラル」とノモンハン戦争の深いかかわりについては現地では隠しようもなかったであろう。飯塚はノモンハン戦争に触れることを、時局がら、意識的に忌避したのであろうか(戦後になってこの日記を公開した時には、そのような「用心」はもはや不要だったはずだが、加筆する気はなかったのであろうか)。

 このアルシャン行とホロンバイル草原行において、飯塚は日本の敗戦が間近いことを実感した。しかし、満洲現地の日本人たちは戦況の深刻さをあまり気にしていないように見えた。「当時の満州の日系以外の人々の間に、日本帝国最後の日はもう目にみえているというのに、日本人たちはどうしてああ平気でいられるのだろうと不審の声があったのは、五月にはすでに蔽い難い事実であった」。もっとも、それだから、飯塚は各地で歓待を受け、「たいそうなご馳走」になったりできたのであるが。しかし、旅行中に飯塚が世話になった人々、満洲国の日本人地方官吏や満鉄と国通の職員などで、1945年8月9日からのソ連軍の満洲侵攻によって命を落とした人は決して少なくなかった。例えば、興安の金澤特務機関長は飯塚に向かって、「満州国内に動乱が起こっても、邦人婦女子は興安地区で大丈夫引き受けます」と豪語していたが、「ソ連軍の侵入を迎えて戦線に散ったということである」。それどころか、興安から一駅白城子よりの葛根廟(チベット仏教寺院)付近では、日本人避難民がソ連軍や現地民に襲われ、約1000人の犠牲者を出した(「葛根廟事件」)。そのほとんどは「婦女子」であった。その他にも、興安付近では、興安東京荏原開拓団(東京品川、武蔵小山商店街の商人などの開拓団)の避難民約620人、興安仏立ふつりゅー開拓団(正式には、仁義仏立講開拓団。東京、乗泉寺の信徒たちからなる開拓団)の避難民約470人が命を落とした(満洲開拓史刊行会編『満洲開拓史』、1966年、430頁)。飯塚は、戦後になって旅行記を公開した際にも、「葛根廟事件」などについて全く触れていない。知らなかったのであろうか。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.18)

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文献紹介:セバスティアン・コンラート(小田原琳訳)『グローバル・ヒストリー-批判的歴史叙述のために』(岩波書店、2021年)
山崎信一

 セバスティアン・コンラートの手による本書は、さまざまな形で世に出ているようなもののように「グローバル・ヒストリー」を通史的に叙述したものではなく、歴史研究のアプローチ方法、あるいは歴史を見る視点として「グローバル・ヒストリー」を提唱し、その理論化を試みた著作である。いわば方法論としての「グローバル・ヒストリー」を探究する試みとも言えるだろう。著者のコンラートは、ドイツの歴史家で、日本を含む東アジア研究やドイツ植民地主義の研究を主たるフィールドにして研究を続ける一方、グローバル・ヒストリーの研究にも携わってきた。その成果が、2016年に原書が出版された本書となる。著者自身、外国史研究をフィールドの一つとし、また世界各国での生活経験を持ったことも、こうした関心の背景にあるだろう。

 本章は10章よりなっている。以下、各章の内容に関して概観してみる。第1章から第3章までは、本論に対する導入部分をなしている。「第1章 イントロダクション」では、本書の狙い、すなわちプロセスとしてではなく視点としてグローバル・ヒストリーを取り上げる点が説明され、ただしそれが万能ではないという点への留保もされている。また、国民国家を単位とする歴史叙述やヨーロッパ中心主義といった、従来の歴史学の方法論の限界の中から生まれたグローバル・ヒストリーを、「すべての物事の歴史」、「交換と接続の歴史」、「統合に着目した歴史」の三類型に分け、第三の類型に可能性を見出している。「第2章 「グローバル思考」小史」は、いわば世界史/グローバル・ヒストリーのヒストリオグラフィーであり、古代から現代までの世界史理解がどのように変遷してきたのかを、非ヨーロッパ世界におけるものやサバルタン研究などにも目配りしながらまとめている。ここでの重要な論点は、「世界史」における「世界」が書かれる時と場所に応じて形成されるものであるという指摘だろう。「第3章 競合するアプローチ」においては、5つの方法論、「比較史」、「トランス・ナショナル・ヒストリー」、「世界システム論」、「ポストコロニアル・スタディーズ」、「「複数の近代」論」を取り上げ、利点と限界の両面から分析している。これらはいずれもナショナルな視点を超克し、西洋中心主義を超えるという、グローバル・ヒストリーのアプローチとの共通性を持つものであり、競合的というよりは相補的でありうる。

 第4章以降が本論に相当するが、「第4章 アプローチとしてのグローバル・ヒストリー」では、この後の章において詳述されるこのアプローチの全体的な見取り図を提示している。グローバル・ヒストリーのアプローチは、接続とそれによる移転と相互作用を強調するのに加えて、さらに7つの方法論上の特徴(「ミクロな問題をグローバルな文脈に位置付けること」、「所与の空間を前提としない」、「関係性と相互作用への着目」、「内在的発展より空間的関係性の重視」、「歴史事象の同時性の強調」、「ヨーロッパ中心主義への批判」、「ポジショナリティの認識」)があることが示される。また、考察の対象が単なる接続ではなく、それによる統合や構造化された変容にも及び、グローバルなレベルでの因果関係の探究が重視されている。また、グローバル・ヒストリーのアプローチの実践例として、国民とナショナリズムの問題が簡単に分析されている。「第5章 グローバル・ヒストリーと統合の諸形態」では、構造化された統合に関して分析対象としている。統合を強調することにより、グローバル・ヒストリーがグローバリゼーションの歴史となるわけではない点、さまざまな因果関係の関係性に着目することで、構造の強調が個々の主体の営みを過小評価するのではない点、グローバル・ヒストリーの視点が16世紀以降、特に19世紀以降の分析に有用だとしても、そこにアプリオリに限定されるものではない点が議論されている。「第6章 グローバル・ヒストリーにおける空間」では、ナショナルな枠組みを超える戦略として、「大洋などのトランスナショナルな空間」、「人、もの、観念などの「追跡」」、「ネットワーク」、「ミクロストーリア」の4つの空間設定が提示されている。また、いかなるものであれ空間の構築性を理解する必要があり、グローバルな枠組みが特権的なのではなく、空間的尺度のひとつに過ぎないという点が強調されている。「第7章 グローバル・ヒストリーにおける時間」では、空間の尺度と同様、時間の尺度にも多様性や重層性があること、特権的な時間的尺度も存在しないという点を指摘している。全人類史に一貫した時間的枠組みを設定する「ディープ・ヒストリー」や「ビッグ・ヒストリー」に対しては、決定論的である点、自然科学的法則性を重視する点には陥穽があると指摘している。一方で共時性を重視することは新たな視点を開くものであるが、連続性を軽視することもできないとも述べている。著者によれば、空間的にも時間的にも、複数の尺度のバランスが必要だということになる。「第8章 ポジショナリティと中心化アプローチ」が対象とするのは、ポジショナリティ、すなわち歴史を叙述する立ち位置に関してである。ここでは、ヨーロッパ中心主義の脱却を志向することが、さまざまな○○中心主義の増殖をもたらした点が言及される。著者はポジショナリティに自覚的であるべきこと、それ自身が不平等と排除のメカニズムを持つ点も指摘している。幾分哲学的な「第9章 世界制作とグローバル・ヒストリーの諸概念」では、歴史家の「世界制作」としての歴史研究とそのもたらすものを対象としている。ここでは、近代社会科学の諸概念や術語の限界にも言及しながら、一方で非西洋的概念に開かれていることが、これまでの蓄積を無にはしないとも述べている。最終章である「第10章 誰のためのグローバル・ヒストリーか?-グローバル・ヒストリーの政治学」においては、グローバル・ヒストリーのアプローチの持つ限界にも触れている。歴史学が国民国家との密接な関係の中でそれに資する形で発展した一方、グローバル・ヒストリーはグローバリゼーションを支えるイデオロギーではなく、むしろそれを批判する視点を提供するものであると著者は述べている。さらに知のヒエラルキーの問題、英語のヘゲモニーの問題を指摘した上で、グローバル・ヒストリーの5つ限界(「接続性の特権化による過去の特定の論理の消去」、「移動や接続性への執着」、「権力の問題の無視」、「個人の役割の無力化と責任の問題の外部化」、「「グローバル」という術語による歴史の現実の単純化」)を挙げている。また巻末に、翻訳者による「誰のために歴史を書くのか」と題された解説が付されており、本書の背景、クロスリーやハントの議論との比較、本書の的を射た要約が述べられている。

 本書において一種の方法論としてのグローバル・ヒストリーを特徴づけようとする中、著者の非常に抑制的な態度が目につく。さまざまな限界を同時に提示し、また歴史を語る自らの立ち位置にすら批判的である。しかし、グローバル・ヒストリーを「歴史の見方」として、位置付けることは、疑いなく意味を持つだろう。とりわけ、個人史などのミクロヒストリーが、グローバル・ヒストリーとつながるという指摘は示唆的である。それは例えば、シリーズ「日本の中の世界史」(岩波書店、2018-19年)の各巻とも通底するものだろう。最後に、原書刊行から比較的短期間のうちに平易な翻訳を仕上げた訳者にも敬意を表したい。

(「世界史の眼」No.18)

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