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幕末に於ける対外認識―レザノフ事件とモリソン号事件の影響(その2)
南塚信吾

2025年12月1日掲載の(その1)より続く

 高野長英と同じく、渡辺崋山も、モリソン号への対応について幕府を批判した。崋山が、モリソン号の噂を聞いて1838年(天保9年)に書いた『慎機論』や、1839(天保10年)に書いた「事情書3部作」、つまり『初稿西洋事情書』、『再稿西洋事情書』、『外国事情書』は、広い国際的な展望のもとに、日本の鎖国的な政策を批判したものであった。

 崋山は伊豆の韮山代官江川英竜(海防論者として幕閣に入っていた)の依頼により、世界情勢を論じた無題の論稿を書いた。最初の稿は、のちに佐藤昌介が『初稿西洋事情書』と名付けたもので、過激なものであった。これを書き直したのが、のちに同じく佐藤によって『再稿西洋事情書』と名付けられたものであるが、これも激しすぎるというので受け取られなかった。そこで書かれた第三稿が江川に上申され、これを江川が『外国事情書』と名付けたのである。以下、崋山の「事情書3部作」の内容を比較・検討してみることにする。

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 まず、『初稿西洋事情書』(以下『初稿』)は、「西洋諸蕃の事情を知るは、誠に今時の急務」であると始める。「西洋諸蕃の義は、一地球(世界全体)に拘り候間、只欧羅巴計(ばかり)にては申し尽し難く候」という。そして、事実上、世界史を論じていく。論点を整理して見ていくことにしよう。

(1)地球中(=世界中)、赤道以南の地は「恐るるに足らず」なので、以北を考えると、一般に、「南地のもの文華有之(これあり)、北地のもは武術有之」。

(2)地球上には、五大州があるというが、実際は欧羅巴・亜細亜洲、阿弗利加洲、亜墨利加洲の三洲であり、そのほかに亜烏斯答羅利(あうすたらりー)洲がある。このうち、欧羅巴・亜細亜洲は文物制度が最も進んでいる。「人道」はみな亜細亜洲から出ており、ヨーデン宗(ユダヤ教)、ヘイデン宗(仏教のこと)、キリス宗(キリスト教)、孔子はみなこの洲から出ている。ヨーデン宗、キリス宗は北漸し、欧羅巴では、ローマ、ギリシアを経て(=順番が間違い)、「今の各国瓜分(かぶん)の世」となった。その北の「韃靼」の地の民は強壮で、東は唐山(中国)を併せ、西はアラビア、欧羅巴を併せ、南はインドを併せ、モンゴルとなっている。このように「北狄(ほくてき)」が強いが、最近は同じく北の魯西亜が世界第一の大国となっている。しかし、「物極れば衰ふ」。むかし、払郎察(ふらんす)のボナパルテという者も西洋諸国を「打平げ」たが、魯西亜に負けてしまった。このほか、アラヒヤ、エチプト等はトルコに并(へい)せられ、印度はイギリス、フランスなどの地となり、唐山は満洲に併せられた。

(3)現在は、西洋が教政隆盛である。その理由は、教主が国王と並ぶ地位にあり、教主が「生殺之権」を持ち、国王が「予奪之権」(=官吏の任免権)を持つ。国王は「役」である。こうして国は「身を治(おさめ)、人を治(おさむる)を第一の任」と考え、「開土造士」(=開化・教育)を専らとする。国は学問・教育を進め、「造士の道」を盛んにする。学校が盛んなのは、ドイツとフランスで、それに次いでイギリスである。オランダも最小国であるが、学校が盛んである。

(4)このように「学術実践を以て天地四方を詳(つまびらか)に致し、人を育し国を広め候」ゆえに、「今は、地球中、一地も欧羅巴諸国の有に之無くは御座なく候。」ただ亜細亜だけがまだ欧羅巴の領地になっていないが、これとても唐山は魯西亜、ポルトガル、アメリカ、イギリスに脅かされ、ペルシア、アラヒヤ、印度、シャム、チャンパなどは、「西洋の領に之無くは之無し」という。結局、亜細亜では「其国を古来より失わざるものは」ペルシアと日本だけである(=ペルシアの理解は矛盾しているし、シャムもおかしい)。これは「誠に心細き事」であるが、知らなければ「井蛙(せいあ)に安んじ」てしまうことにもなる。

(5)現在、我国に「涎を流し」ているのは、魯西亜と英吉利である。今は「神風」に頼ることはできないから、「敵情を審(つまびらか)に仕る」他はない。魯西亜は「仁義を専ら」とし、「地続きの国を広め」、兎角「極寒不毛の地」を相望み、次第に「南下」している。英吉利は、「智略を専ら」とし、航海を頼み、海外諸地を略し、兎角魯西亜の先を潜るような動きをしている。そういう違いはあるが、二国とも「土地を開拓」することと、「人の国を奪取」ることが、非常に「妙」である。例えば、イギリスは北アメリカを取って民を移したり、新阿蘭(オーストラリア)を開拓している。フランス、オランダも開拓しているが、7分はイギリスである。このように「天地を一統」致し、表は「同仁の意思を称し」、みだりに兵力を使うことはない。そういうわけで、英吉利などを「夷狄(いてき)」などと軽んじていることは、誠に「盲人の想像」である。

(6)およそ「時変に従ひ、政を立」てるというのは、「古今の通義」である。日本についてこれを見ると、太古の代の日本は小さかったが、次第に地方を組入れて、太閤の征戦となった。その後、鎖国となり、ただ一国を治めるようになって、終に「海外の侮」を受けるようになった。西洋が怖ろしいからとて、「雷を聞きて耳を塞ぎ、電(いなずま)を忌(いん)で目を塞ぎ候」ことはいけない。西洋は、「万事議論、皆究理を専務と仕候」。「究理」の一つに、外国は日本の地誌をよく調べている。シーホルトは魯西亜の「学頭」に乞われている。

(7)西洋では、兵は「非常の備の奉公」をするだけで、「常の事を兼ね勤る」のであり、これによって政庁、教堂、学校等に多くの人を当てることができる。そのように、質素なのは、「皆人才を育し、学文を専に、実用専一に」しているからである。したがってこの後10年、20年は事無きをえるものの、「永世の策」がないと、亜細亜諸国は、一日も安じ申さず候。」

(8)「権を全地球に及ぼし候洋人は、実に大敵と申も余り有之」。故に、「なにとぞ此の上は、御政徳と御規模の広大を祈る」ところである。

 「井蛙」、「盲人の想像」、「永世の策」がないなど厳しい幕府批判であった。この『初稿』は、あまりにもはっきりとした幕府批判をしていたので、崋山は江川に送ることを断念した。しかし、前年の『慎機論』と合わせてこの『初稿』は、「蛮社の獄」において崋山に幕府批判の罪を問う材料となったものである。

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 次に、『再稿西洋事情』(以下『再稿』)であるが、崋山は『初稿』で露骨に幕府批判をしたので、いくらか修正が加えて、改めて『再稿』を書いた。それは『初稿』と同じく、「西洋諸蕃の事情」を知るのは「実に今時の急務」であるとし、「西洋諸蕃の義は、一地球(世界全体)に拘り候間、只欧羅巴計(ばかり)にては申し尽し難く候」という。そして、事実上、世界史を論じていた。

(1)『初稿』と同じく、『再稿』も地球中、赤道以南の地は「恐るるに足らず」なので、以北を考えるとし、一般に、「南地のものは文華有之(これあり)、北地のもの武断有之」とするが、やがて「教化は次第に北に移り、英武の主は次第に南に移り」、天地が一変したという。

(2)『初稿』と同じく、地球上の欧羅巴・亜細亜洲、阿弗利加洲、亜墨利加洲などの区分を見るが、このうち、欧羅巴・亜細亜洲は人の素質も抜群である。『初稿』では「文物制度」としていたが、今度は「人」になっていた。そして、『初稿』にある「人道」ではなく「聖人」は、みな亜細亜洲から出ており、ヨーデン宗、ヘイデン宗、キリス宗、孔子をあげるが、『再稿』はここにマホメット宗を加えている。そして、インド、ペルシア、ナトリア、アラビア、エジプトに至る地方は、古代には「教化」が盛んであったとし、それはやがて、北方は韃靼に伝わり、西北では欧羅巴に伝わったとする。そして欧羅巴では、ローマ、ギリシア(=依然として順番が間違い)を経て「今の各国瓜分(かぶん)の世」となった。「韃靼」の地も教化が早く(『初稿』では「民が強壮」という)、東は唐山(中国)を併せ、西はアラビア、欧羅巴を併せ、南はインドを併せ、モンゴルとなっており、『初稿』と同じく最近は同じく北の魯西亜が世界第一の大国となっているという。しかし、『初稿』では「物極れば衰ふ」として、ボナパルテという者も魯西亜に負けてしまったと述べて終わっていたが、『再稿』ではその後1815年以後、西洋諸国は会盟し、今の静謐となる、が加えられている。半面、この間のアラヒヤ、ナトリア、エジプト、インド、唐山などへの言及は削除されている。

(3)『再稿』も西洋で教政が盛んなるは、教主と国王が位を同じくし、国王は「職役」なのだからだと述べ、この体制により、西洋は「造士開物(=教育と研究)之学校」を「政事之根本」と考えているという。そして学校が盛んなのは、独仏英などであるとしたうえで、『初稿』とは違って、西洋諸国は小国ではあるが、新知識を秘すことはなく、「ナチュール(=天意)」に背くことを嫌うということを付け加えている。それゆえ、風説(ニュース)を印刷するところがいくつもあり、新聞(新しい見聞)が諸国に広められている。西洋は、果断に事を行うが、これは「窮理」(物事の道理を窮める)から来ている。だから、諸国の政の改正が度々起こるという。

(4)『初稿』と同じく,この結果、ただ亜細亜だけがまだ欧羅巴の領地になっていないが、これとても唐山は北狄の有となっていたりして、結局、亜細亜では「古来独立」しているのは日本とペルシアだけであるとし、これは「誠に心細き事」であるという。『再稿』はさらに、唐山はキャクタやイルコーツカでロシアと交易をし、広東・マカオにて土地を貸して、ポルトガル、アメリカ、イギリスなどと交易をしている。そのほか、西洋はペルシア、アラビアに商館を置き、セイロン、インド、マラッカ、チャンパなどや、マリアナ諸島、フィリピン諸島、モルッカ諸島などすべてを「領」していると述べている。ここはより正確になっている。そして、これ以後が新しい。『再稿』は、我国は「途上遺肉」(=道に捨てられた肉)のようであり、「狼虎」(西洋諸国)がこれを顧みない筈がない。しかるに、我国は「知らざれば井蛙も安じ、小鷦(しょうしょう=小さなミソサザイ)も大鳥を笑ふ」のようになっていると警告した。

(5)『再稿』も、現在我国に交易を望んでいるのは、魯西亜と英吉利であるとし、今は「神風」に頼ることはできないから、先ず「敵情を審に仕る」他はないという。そして、両国の違いを指摘しているが、『再稿』との違いは、魯西亜が兎角「極寒不毛の地」を望むのは、「南移」の基を固めようとしているからであるとしている点であろう。また、二国とも「土地を拓き」、「人の国を蚕食」する事、非常に「妙」であるとするのは同じである。以下の記述は、『初稿』より拡充されている。イギリスは北亜米利加に人民を移し、フランス・オランダも土地を開いたが、イギリスに蚕食され、いまでは七分はイギリス領である。北アメリカは自立して「合衆国」と言い、「共治之政」(共和制)となった。イギリスは、「人之国を奪う」ことが巧みで、とくに印度は巧みにオランダから奪った。インドには他にポルトガルとフランスも「拠」っている。そのほか、アフリカ、アメリカ、アウスタラリーは、みな「洋人」の「巣穴」となっている。そして、『初稿』と同じように、英吉利などを「夷狄(いてき)」などと軽んじることは、誠に「妄人(盲人)の想像」であると批判した。

(6)このあとに『初稿』では、およそ「時変に従ひ、政を立」てるというのは、「古今の通義」であるとして、日本がこれに乗り遅れていることが書かれていたが、『再稿』では、それは消え、唐土や印度など古代の聖人のいたところは、その後の変化を知らず、「空疎無稽乃識」におぼれ、一国も残らず夷狄の地となったとされる。『初稿』では、それに対して西洋人は、「万事議論、皆究理を専務と仕候」とするが、『再稿』は、「物事之理を押窮(おしきわめ)」て、「教政補益を致」すので、教政が並びに盛んになって、いまでは「邪教(=キリスト教)」の至らないところはないくらいであるという。根本は「地球を審(つまび)らかに致、四方を弁じ、風俗を察し、政度を明に致」すことであるので、「掌中の物を見る如く」である。日本についてもそのように調べられている。「シーボルト」もいまではロシア政府に仕えていると重ねて指摘する。

(7)西洋の軍事についてみると、軍は陸軍と海軍に分かれている。軍人は、人口の100分の1か50分の1ぐらい。兵士は毎日軍装をして「場所」に出て「操練」を受けつつ「番」をしている。軍備に人を使うので、家の下僕は印度人、ネーケル人(=ニグロ 黒人)を使う。教育についてみると、学校には多くの人がいることを善治と考えている。故に国王の供(とも)の数は少ない。ひとえに、「人才を育」そうとするのである。それゆえに、「たとえ此後患(わざわい)之無く」とも、西洋は「漸進」の勢いにあって、「亜細亜諸国の備え忽(ゆる)がせにすべからず」と警告した。

 『初稿』ほどではないが、『再稿』も「井蛙」、「妄人の想像」、「時変」に遅れなど、依然、幕府批判をにおわせていた。崋山はこれを江川に送ったが、江川はこれを却下し、書き直しを命じた。

***

 こうしてできたのが、第三稿の『外国事情書』(以下『外国』)である。それは、前の二つの事情書の数倍の長さがあり、構成もガラリと変わっていた。

(1)『外国』は、『再稿』と同じように始める。「地球」上の五大州(アジア、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、アウスタラリー)のうちの亜細亜・欧羅巴州が最古より「教化」が進んでいた。その中でも古代「南方は尊く、北方は卑く」あったが、その後「教化」は南方から北方へと移動した。唐土の教えは満洲・蒙古などに入り、元や清になった。「如徳亜の教」(=ユダヤ教)が北へ行って邪宗(=キリスト教)になり、アラビアや印度の教えが「回回宗」(=マホメット教)やラマ宗になった。そして「モンゴル」とヨーロッパがさかえた。しかしモンゴルは東西に拡張したが、いまや英仏ポルトガルに「拠られ」ている。一方、ヨーロッパ諸国は、海外に広がり、四大洲諸国を「押領」している。今日、「独立」して「最古より一毫も汚瀆(うとく=けがれ)を受けざるもの」は世界中で「只皇国」のみになった。崋山はこれを、「誠に有難」きことであるとして終えている。『再稿』では、日本の「古来独立」のことはもっと後に出てきていた。

(2)次に『再稿』にはない新たな議論が入ってくる。『外国』は、上のように古今の間に大きな変化があったが、「大道」(人倫の道)に関してはどの国も「今は古に及ばない」という。しかし、「物理の学」(自然科学)に関しては、「古は今に及ばず」とする。「物理の学」の世界では、遅れて興った国がたちまちに文明化することが起こるのである。その例が、ロシアと合衆国であるという。ロシアは極北の国だが、ペートル(ピョートル)という英主が出て以来、道路や運河や都市や寺院を作り、産物を集め交易を始め、人民の教化に勤め、世界第一の帝国となった。また、ちかごろ北アメリカ州にイギリスから独立して、「レピュフレーキ」(=共和国)の「フルヱーニグテ・スターデン」(=合衆国)ができて、農業・工業を発展させ、「教・政・物理の学」を盛んにして、軍事力も整備して、急速に世界で最も富裕な国となった。しかも「ストームボート」(=蒸気船)といわれるものも持っているという。『再稿』では、ロシアやアメリカ合衆国への言及はあったが、「物理の学」とは違った文脈に置かれていた。

(3)以下も『外国』の新しい議論である。西洋諸国は「物理の学」(自然科学)を専らにして、「天地四方」(世界)をますます「審らか」にしてきた。そして、「一国を以て天下」とせず、「天下を以て天下」とし、領土を拡張しようとしている。イギリスなどは代表的である。国を安定させ、民を豊かにさせれば、「自張」(拡張)せんとするのは「自然の理」なのである。アジア諸国は「人性善良温雅」で、外観を飾るだけであるのに対し、ヨーロッパ人は表面は「謙遜礼譲」であるが、内面は「誇大」で、功利を基としている。それでも、世界の事情に通じているので、「了簡」は狭くないと考える。    

(4)さらに以下も『外国』の新しい議論である。西洋諸国は互に自らを拡張しようとして、八面みな敵になっている。そこで合従連衡をはかっている。それゆえ、国内の政治に勤め、内政・外交を「慎密」(=慎重で綿密)にしている。政体は三つに分けられ、独立国(君主国)、守盟国(従属国)、共和国である。宗教は、ヨーデン、キリステン、マホメットの三宗である。政治は、「養才造士」つまり教育を第一としている。教育の内容は、教道、政道、医学、物理学のほか、芸術、手職である。学校も、大学校、ラテン学校(コルレギーン)、小学校、幼学院、その他各種職業学校や、貧子院、女学院などがある。西洋諸国では、国王と並んで「教主」が対等の地位を占めている。キリスト教の教主は、上は国王から下は庶民に至るまで人倫五常の道を説き、君主をも諫める。それは我国の一向宗と似ている。政府の官僚は内外政に精励し、功を立てたものはほめたたえられる。軍事は、「武術学場」(=軍事学校)が設けられ、平時はそこで操練をうけている。こうして、諸国は「実政」に勤め、年々新領土や属領の獲得に相競っているので、「外患」も生じてくる。それ故、「世々権略之政」(=臨機応変の政略)も多く、「時勢の枢機」(時勢の動きの本質)を巧みにとらえることに長じている。世界がその害を受けるのは、十分に守りをしていないからだけではなく、ヨーロッパ諸国が「呑琢」(併呑)に奔競しているからなのである。たしかに西洋諸国のバランスのとれた説明になっている。

(5)『外国』は、西洋人の警戒すべき点を以下のように指摘した。西洋人は、忍耐強いが、仁も智も義もうわべだけで、信ずれば篭絡され、礼をもってすればへつらわれ、その行為も真偽がいろいろで、幻惑されてしまう。かれらはいったん「規画」すると目的の実現まで忍耐強く粘り続ける。イギリスがインドを征服し、オランダがジャワを占領したのもそうである。このように西洋諸国は、「深忍積思」をもってさまざまな規画を立て、実行しているのである。かれらは世界中に領地を持っていて、その地に「風説板行署」(新聞発行所)を作り、世界中の風説書を相互に取りかわして世界中の事情がわかるようにしている。かの国で歴史と言えば、地球中(世界中)の歴史のことである。こうして、西洋諸国は世界の事情について詳しい知識を持っているというのだった。『再稿』では、新知識を秘すことは「ナチュール」に背くという文脈で風説書が述べられていたが、ここでは違っているわけである。

(6)そういう世界知識の一つとして、西洋諸国は、日本についての知識も深めて来ているとして、『外国』は日本について論じたオランダやロシアでの情報を紹介している。中でも、ロシア人「レサノー」(レザノフ)に従って来た「クルウセン」(=クルーゼンシュテルン)の紀行を詳細に引用して、とくに蝦夷の事情をよく知らせていた。この紀行は『奉使日本紀行』として林宗訳で1828年に刊行されていたから、崋山は読むことができていたわけである。崋山は、「クルウセン」が紀行の、「蝦夷の北隅、ソーヤ岬・リーシリ島を検査」したおりに考えたことを下記のように記していた。

 まず、「クルウセン」は択捉を取るべしと言っていた。「「アニワ」(=エトロフ島のことか)を取て、之に拠らんことは、少しも難しきことあるべからず。此処の日本人は兵器の用意もなく、防守の慮(おもんぱかり)はなしと見たればなり。又此処を人に奪われたりとも、日本の政家(政府)の之を取返す手配は容易に仕難かるべし。」ついで「サカリン」(樺太)については、「日本人の「アイヌ」に遇する、甚だ仁愛を以て扱ふと見ゆ。是故に、此の地を治るは「アイヌ」に恩を施し、・・・恩愛も政法も怠りなくして治むべきなり。」そのうえで、「サカリン」は、そこに欧羅巴人の商館を置き、日本と交易をなすべきである、というのであった。このような日本についての記述は、『初稿』、『再稿』にはない記述である。

(7)『再稿』と同じく、『外国』も西洋諸国の内、「皇国に関係」しているのは、イギリスとロシアであるとしていたが、『再稿』とは違って、両国の地誌や歴史を非常に詳しく述べていた。すなわち、イギリスについては、その名称、領土、属領、宗教、政体、国内行政区分、国税、商船について、ロシアについては、その名称、領土、人種、宗教、政体、軍隊、国内行政区分が述べられた。そのうえで、『初稿』『再稿』と同じく、両国の違いが指摘されて、ロシアは陸軍に長じ、地続きの国を併呑したが、極寒で不利な地を占めている。南方に出ようとしているように思われるが、「仁義をしき事を称」しているのは、守りを固くするためである。一方、イギリスは海軍に長じ、沿革の地を併呑している。暖帯の利地を拓き、海峡の要地や航海に便利な島々を占領して、他国に先立って土地を占領して命名し、他国が併呑することを邪魔している。世界を征服する「大望」があるように見えると警告した。

 以上のような『外国事情書』は、鎖国批判の部分は削除されて、海外事情の説明になっていた。そして、外国勢力の危険性を知らせ、海防策ぐらいでは不十分であることを気づかせようとしたのであった(佐藤他校注 1971 21-22,18-42,66-72頁;佐藤編 1972 113-158頁)。

***

 これら「事情書3部作」において、崋山は、モリソン号の渡来の背景を探っていく中で、世界情勢を的確に把握していることを示した。それは西洋諸国を中心にしながら、アジア、アフリカ、アメリカにも目を広げていた。その中でも、とくに日本に迫ろうとしているロシアやイギリスについてその歴史を交えて、詳細に論じていた。

 しかし、このような論を立てた崋山は長英とともに、1838年5月に捕らえられ、12月に処罰された。これは広く蘭学者への弾圧であり、「蕃社の獄」として知られることになったが、崋山のような世界史認識が積み上げられることはなく、日本の対外認識の遅れをもたらしたことは、容易に想像がつく。

参考文献

Plummer, Katherine, The Shogun’s Reluctant Ambassadors; Japanese Sea Drifters in the North Pacific, The Oregon Historical Society, 1991

石山禎一・宮崎克則「シーボルトの生涯とその業績関係年表1(1796‐1832年)」『西南学院大学国際文化論集』第26巻 第 1号 2011年9月 155-228頁

大槻玄沢・志村弘強編 杉本つとむ他解説『環海異聞 本文と解説』八阪書房 1986年

木崎良平『漂流民とロシア』中公新書 1991年 

久米邦武『特命全権大使・米欧回覧実記』岩波文庫 1980年

佐藤昌介編『日本の名著 渡辺崋山・高野長英』中央公論社 1972年

佐藤昌介・植手通有・山口宗之校注『渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小南・橋本左内 日本思想体系55』岩波書店 1971年

佐藤信淵『西洋列国史畧』 https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0210/bunko08_c0210.pdf

宮永 孝「北米・ハワイ漂流奇談」(その1) 『社会志林』(法政大学社会学)60巻 2号 2013年9月

森永貴子『ロシアの拡大と毛皮交易』彩流社 2008年

(「世界史の眼」No.74)

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書評:フィリップ・テーア『東欧の体制転換と新自由主義』福田宏ほか訳 みすず書房 2025年
南塚信吾

 本書のドイツ語の原題は『古い大陸における新しい秩序―新自由主義の歴史』である。本訳書のタイトル『東欧の体制転換と新自由主義』から想像されるような1990年前後の「東欧の体制転換」に限られた議論をしているのではないが、議論の中心はそれには違いない。著者は、2010年からウイーン大学の教授で、2020年にできた「転換研究センター」の長を務める。

 本書の章立てを並べても話の構造は分からないので、訳者自身の読み方に従って、書評をしていきたい。

1.1989年以前

 本書は、1989-91年の前に、ヨーロッパの東西において、同じように新自由主義的な転換を迎える素地が準備されていたと主張する。つまり、西欧では、80年代に福祉国家の改革は失敗し、サッチャーのような改革派が新自由主義の方向を取った。一方、東欧では、80年代に国家社会主義の改革を目指す動きがあった。東欧諸国の人びとは、冷戦研究に長らく影響を与えてきた全体主義理論がいうようには、強制的に同質化され、おびえて暮らしていたわけではなく、社会主義の体制を改革しようという動きがあった。しかし、その改革はうまく行かず、結局、新自由主義の方向に動いていった、というのである。

 これは確かにそうだが、東欧では、ソ連のゴルバチョフが東欧支援を停止せざるを得なくなったことの影響、西側で作られた新自由主義の考えがIMFなどによって東欧に植え付けられた経緯などは、もっと考慮しなければならないのではなかろうか。

2.1989-90年代:新自由主義化の第一波     

 1989年にポーランド、ハンガリー、ブルガリア、チェコスロヴァキア、ルーマニアの諸革命、ベルリンの壁崩壊、そして1990-91年に東ドイツの終焉、ユーゴスラヴィアの解体、アルバニアの体制崩壊、ソ連の解体が起きた。本書はまず、このような諸変革によって単一民族の国民国家が形成されたという。それは19世紀後半以来の国民国家形成をいっそう推し進めた国民国家形成の新時代が到来した。単一民族化の原則はこれまでより強かったという。

 東欧の体制転換を本書は「革命」と捉えている。ただ、本書は、1989年は一貫して革命と言っているが、1989-91年全体では「大変革」と言ったり、「革命」と言ったりしていて、読者には混乱させられる。ともあれ、1989―91年は、当時においてはだれも「革命」とは言っていなかった、「革命」はあとから名付けられたのだという。

 諸革命の結果、ヨーロッパでは諸革命の本当の新しさはそれが非暴力的に展開され、「交渉による革命」として進められた点にある。この非暴力性はそれまでのどの革命にもなかったという。そういう革命はいかに展開したか。本書は、旧来の国家社会主義はまだ意味があって、体制内の反対派はその改革を考えていたが、それが実現しないうちに、新自由主義が支配的になっていったと見ている。  

 こうして、東欧での新自由主義化の第一波がやってきた。本書は、東欧のなかでも、中東欧諸国(ヴィシェグラード諸国)と南東欧と旧ソ連を区別している。中東欧では1989-90年に新自由主義化が始まり、南東欧とロシアでの新自由主義化は1990年代半ば以降という。この第一波で、民営化、規制緩和、市場化が行われるが、民営化について言えば、

 この時期には、国家が統制した企業の民営化と郵便・通信・エネルギーなどの民営化が行われた。評者から見ると、90年代初頭の東欧での農業の変革問題が重視されるべきなのではないかと思われる。ポーランドを除いた東欧での生産協同組合の解体、土地の私有化が持ったインパクトは大きかったはずである。

 本書は、東欧での変化は西側世界に種々の影響を及ぼしたという。とりわけ「市民社会」という概念は東から西へ伝播した例であると指摘する。だが、評者は、「市民社会」論は、新自由主義とともに、西から来たのではないかと思っている。

 しかし、総じて西は東の転換には無反応であった。東欧の転換は、「鉄のカーテンの東側だけで生じた文字どおり片面的な革命」であった。西の平和運動や環境運動の活動家たちは動かず、チャンスが活かされなかった。左派の知識人も東欧の革命に懐疑的だったという。その間に、自由は市場での自由になってしまって、種々の改革運動は消えてしまった。そして、西も東も新自由主義が覆うことになった。

3.2000年   

 本書は、2000年ごろに東欧には新自由主義化の第二波がやってきたと見ている。西から金融セクター、不動産への外資が広まり、老齢年金や健康保険などの民営化が行われた。中東欧全体に新自由主義が浸透して、民主化が成功し定着した。南東欧と旧ソ連諸国は新自由主義化の遅れを取り戻したとされる。

 ここで、本書は、新自由主義の四つのパターンを見ている。

  1. 福祉国家的な要素を残した新自由主義体制―ヴィシェグラード諸国
  2. 明確な新自由主義体制―バルト諸国と南東欧
  3. ネオーコーポラティズム型―スロヴェニア
  4. オリガルヒ型―旧ソ連諸国

 旧ソ連では国家資本主義の体制ができたが、それは、「権威主義体制の枠組みに合うように調整された新自由主義のハイブリッド」であったという。

 こういうパターンの違いはあったが、総じて、東欧では豊かな都市と貧しい地方の格差が拡大したことを本書は指摘している。

 だが、本書は、東欧諸国のEU加盟は、この格差を縮小するのを助けたという。2004年と2007年に中東欧、南東欧はEUに加盟したのである。EUは投資をして、東部を飛躍させ、新自由主義化の第二波による格差拡大を緩和させたというのである。ただ、旧ソ連諸国では大衆とオリガルヒとの格差は拡大した。

 ヨーロッパの東西で言えば、2008年までに、東のEU新加盟国は西の既加盟国の経済水準に近づいたとされる。ヨーロッパ全体が新自由主義の下で、経済成長をするようになったのである。その中で、1990年以後の新自由主義的改革の中で主に苦しんだのは、東欧では、高齢者と年金受給者、南欧(イタリアなど)では若い世代であったと、本書は指摘する。だが、本書は農村を見ていないようだ。

4.2008―09年:金融危機  

 本書は2008年のリーマン・ショックに始まる金融・株式市場の危機を、東欧における新自由主義の危機ととらえている。この危機の中で、西欧の投資家による資本の引き上げが興り、国家予算が危機に瀕してIMFが出動することになった。この2008―09年の危機は、EU新加盟国と旧ソ連諸国に、ドイツやオーストリア以上に強力な打撃を与えた。そして、このグローバルな金融・財政・経済危機はEU新加盟国の既加盟国との経済格差の縮小傾向を突然終わらせたのだった。

 この危機への対応を本書は次にように分類している。

  1. 国家支出増で対応―ドイツ、オーストリア、ポーランド、スロヴァキア
  2. 新自由主義型―バルト諸国、南東欧
  3. 場当たり的―ウクライナ
  4. 新自由主義からの離脱―ロシア「国家資本主義」ほか

 ただし、ロシアについては、新自由主義からの離脱と言っても、完全な離脱ではないとしている。チェコやハンガリーはどこに入るのだろうか。

 本書は、2008年以降、ほぼすべてのEU新加盟国は、既加盟国より深刻な不況に陥ったが、速やかに危機を克服したという。それに比べ、南欧諸国(イタリア、ギリシア)は回復が大幅に遅れた。だからイタリアでは、左右のポピュリストが台頭した。

 この際、東部ヨーロッパでは、危機への対応として、大規模な労働移民が起き、これが景気後退の影響を緩和したという。1990年代にはポーランド人の移民が多かったが、2008年以後は、ルーマニア、ラトヴィア、リトアニアなどからの移民が多かったのである。

 この危機が克服されるにつれ、EUをさらに東へ拡大するよう働きかけが行われた(誰によってかは明記されていない)。その例が、2014年のウクライナの「オレンジ革命」であったという。この時、ウクライナでは「民主的に選ばれた」大統領ユーシェンコはEU加盟を打診した。だが、EUは「距離」を取った。EUは無理解だったと本書はいう。ついで、2013-14年にウクライナでは「本当の意味での革命的な状態」がやってきた。この革命運動(マイダン革命―評者)によって、ウクライナでは「持続的な民主主義」が確立したが、しかし、クリミアがロシアに併合され、東部ウクライナが不安定になって、革命に悲劇的な結果をもたらしたと、本書は見る。だが、本書は、ウクライナのEUへの正式加盟の選択肢を排除すべきではないという。「国全体がヨーロッパに位置し、民主的に統治され、かつEUへの加盟を望んでいるのであれば、その国家を拒絶する説得的な理由は何もない」というのである。

 ここに著者の目線がはっきりと示されている。「民主的に選ばれた」とか「持続的な民主主義」が確立したというのは、どうだろうか。例えば、マイダン革命がアメリカの「関与」したクーデタであることは、オバマ自身が認めていることである。ともかく、新自由主義を東方へ広める動きは、停滞した。

5.2016年以後:新自由主義化の停滞 

 新自由主義が深刻な社会的・地域的格差を生んだ。そのために2016年に「反自由主義的転回」が起きた。本書は、新自由主義秩序によって特に悪影響を受けた人びとの反抗が反映したのが、2016年のイギリスのEU離脱(ブレグジット)であり、アメリカ大統領選でのトランプの当選であったという。ハンガリーのオルバーンは「非リベラル・デモクラシー」を唱えて、新自由主義に対抗し始めた。これらに見られるような動きによって、本書は、この時期までに新自由主義化は「停滞」し、まもなく新自由主義と大転換の時代は「終焉」を迎えたという。本書は「停滞」といい「終焉」というが、両者はあまりきちんと整理されていないように思われる。

 本書は、この2016年の「反自由主義的転回」によってもたらされた「一時代の終焉」がパンデミックによって改めて示されたという。パンデミックは新自由主義的グローバル化に根源的な批判を突き付けた。それは、一つには、自然への容赦のない搾取への批判であり、二つには、格差の拡大への批判である。

 本書は、2022年2月24日に始まるロシアのウクライナでの戦争は、「ウクライナに対してだけでなく、自由なヨーロッパ、西側、さらには1989年の諸価値に対する戦争」であるという。しかし、他の諸事件の場合の分析と違って、本書はこの戦争の始まる過程の分析をしていない。新自由主義を東へ進めようとしたことへのロシアの反発は考慮されていない。

 ともあれ、本書は、この結果、新自由主義的秩序はさらに弱体化され、新自由主義的グローバル化は「終焉」したという。ただ本書は、ヨーロッパの新自由主義化をポジティヴに評価し、そのマイナス面は改革で直せるという立場を取っているようである。

 このあと世界はどこへ行くのか。本書はこう見ている。

「ロシアや中国によって喧伝される多元的世界秩序は、寂肉強食や暴力、勢力圏を求めての武力闘争によって特徴づけられるものとなるだろう。これは、19世紀における帝国主義の時代への逆戻りとなるかもしれない。だからこそ西側は、ウクライナがこの戦争に勝利すべく文字通り全力で支援しなければならない。1989年における民主革命の遺産を守ることが重要である。」

 現在の世界の情勢を見ていると、「19世紀における帝国主義の時代への逆戻り」をしているのは、アメリカ、イスラエルではなかろうか。「1989年における民主革命の遺産」とは、新自由主義的グローバル化のことだろうか。しかし、それは「終焉」したと言っているはずであるが、まだ「守る」べき遺産なのだろうか。

 本書では、多くの歴史的事象にかなり細かい周到な検討がされている。しかし、そういう検討がなされていない事象も散見される。それだけに、本書を素材にさまざまな議論をすることができそうである。

(「世界史の眼」No.74)

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蓼科の近代史 Ⅰ(下)―満洲開拓と戦後開拓
小谷汪之

はじめに
1 茅野市域からの満洲開拓移民
2 敗戦前後の満洲開拓移民
(以上、前号)
3 戦後開拓
4 茅野市域における戦後開拓
おわりに
(以上、本号)

3 戦後開拓

 1945年8月の敗戦時、中国、朝鮮、東南アジアなどに、民間人や軍人・軍属を合わせて約660万人の日本人がいた。そのうち約620万人が1947年末までに帰国した。在満日本人については、ソ連による日本軍将兵や一部民間人の「シベリア抑留」などのために帰還が長引いたが、約60万人とされるシベリア抑留者のうち、50万人近くが1950年末までに帰国した。しかし、1956年にシベリア抑留者の集団帰還が終了するまでの間に、約6万人のシベリア抑留者が死亡した。慢性的飢餓と酷寒という悪条件下での過酷な長時間労働、不衛生な収容所における赤痢や発疹チフスなどの感染病の蔓延、これらが多くの死をもたらしたのである(富田武『シベリア抑留――スターリン独裁下、「収容所群島」の実像』108~109頁)。

 敗戦直後の日本は食糧難に苦しんでいた。そこに海外から600万人以上の日本人が帰国することになったのであるから、食糧難が一層ひどくなることが予想された。それで、政府は1945年11月9日「緊急開拓事業実施要領」を閣議決定した。その「第一 方針」には次のように書かれている。

終戦後の食糧事情及復員に伴ふ新農村建設の要請に即応し大規模なる開墾、干拓及土地改良事業を実施し以て食糧の自給化を図ると共に離職せる工員、軍人其の他の者の帰農を促進せんとす(片仮名を平仮名に変えた)

 このように、「緊急開拓事業」は食糧増産と民間引揚者や旧軍人・軍属の帰農を目的としていた。その目標としては、100万戸の帰農、155万町歩の開墾を「概ね五ヶ年を以て完成すること」とされた。最初、入植地には旧軍用地や国有林野が充てられたが、1946年10月21日に公布された「自作農創設特別措置法」(同年12月29日施行)によって、国家が民有未耕地を強制的に買い上げることができるようになり、入植地の取得が容易になった。

 「緊急開拓事業実施要領」は、1947年10月24日の農林省議により「緊急」の文言が削除され、「開拓事業実施要領」となった。その目的からも食糧増産と引揚者等の帰農が削られ、「開拓事業を強力に推進して、土地の農業上の利用増進と、人口収容力の安定的増大を図り、以て新農村の建設に寄与することを目的とする」と改められた。敗戦後2年以上が経ち、「世の中は落ちついてきた」からであろう(戦後開拓史編纂委員会編『戦後開拓史』全国開拓農業協同組合連合会、1967年、40~42頁)。

4 茅野市域における戦後開拓

 大規模な戦後開拓は広い国有未墾地があった北海道や東北地方で多く実施されたが、長野県各地の高冷地でも行われた。その一例が八ヶ岳東麓の野辺山高原(標高1350メートル前後)の開拓である。1946年、長野県南佐久郡地方事務所は野辺山への入植希望者を募集し、長野県開拓増産隊南佐久支隊を編成した。これが、その後、野辺山の他のいくつかの開拓団と合併して野辺山開拓団となり、1948年には、農業協同組合法(1947年)に基づいて野辺山開拓農業協同組合に改組された。

 「緊急開拓事業実施要領」では、野辺山高原など高冷地の立地条件を無視した画一的な農業政策―米・麦や豆類の生産を主眼とする農業(穀菽こくしゅく農業。菽は豆類の総称)政策―が取られていた。そのため最初は開拓に困難が付きまとったが、後に政策が転換され、高原野菜の栽培と酪農に重点を移して成果をあげた(小谷汪之「高原野菜が生まれるまで―敗戦と野辺山開拓」南塚信吾・木畑洋一・小谷編『歴史はなぜ必要なのか―「脱歴史時代」へのメッセージ』岩波書店、2022年、所収)。

 1950年現在で、現在の茅野市域においては、次の五つの開拓農業協同組合が存在した(諏訪郡全体では22開拓農業協同組合、入植戸数341戸)。

(1)広見開拓農協(豊平村広見、標高1,100メートル)   1950年入植 14戸
(2)中山開拓農協(北山村蓼科、標高1,200メートル)   1950年入植 12戸
(3)池の平開拓農協(北山村柏原、標高1,500メートル)  1949年入植 6戸
(4)玉川開拓農協(玉川村南原山、標高1,000メートル)  1947年入植 42戸
(5)御狩野開拓農協(金沢村下原山、標高950メートル)  1947年入植 21戸
(『茅野市史 下巻』633頁)

 このうち、蓼科湖畔に前掲の「拓魂」の碑を建てたのが(2)の「中山開拓農業協同組合」である。ここでは、この碑文の内容を少し詳しく検討しておきたい。

 第一に、「この開拓用地は湯川・塩沢・両財産区のものであったが、昭和二十四年の緊急開拓措置令により国が買収したものである」という部分について。財産区というのは、1889年(明治22年)の市制・町村制施行に伴って旧来の入会地が再編成された際にできた特別地方公共団体で、旧来の入会権が財産区の土地所有権と認められた。財産区には、多数の区の共有財産区とともに、一つの区の単独財産区も設定された。現在の茅野市域でも、北山村湯川区の湯川財産区、北山村柏原区の柏原財産区、米沢村塩沢区の塩沢財産区など数多くの単独財産区が設定された(『茅野市史 下巻』690~692頁)。このうち、湯川財産区と塩沢財産区の所有地の一部が国家によって買収されて中山開拓農業協同組合の入植地とされたのであろう。ただし、「昭和二十四年の緊急開拓措置令により国が買収した」というのは誤りで、昭和24年(1949年)に、「緊急開拓措置令」といった勅令が出されるということはありえない。中山開拓農業協同組合の入植地は、前述の「自作農創設特別措置法」(1946年)によって国家が両財産区から買収したものと思われる。

 第二に、「苦節十年の後、昭和三十五年[1960年]竣工検査の結果各自の所有となる」という部分について。1958年、「開拓事業実施要領」は「開拓事業実施要綱」に改定された。この「要綱」には、「成功検査」という条項が設けられ、入植後、本州ではおおむね5年後に開拓事業の進展度を検査し、それに合格しなければ、入植地が国家によって買い戻されうることになった(『戦後開拓史』48頁)。中山開拓農業協同組合の場合、入植10年後の1960年に「成功検査」が行われ合格したので、各入植者に土地が払い下げられたということのようである(碑文中の「竣工検査」は「成功検査」の誤りであろう)。

 第三に、「時恰も観光開発の脚光を浴びた当地はその施設の中央に位し、各自よすがを観光面に切り替え開拓の努力は報いられて今日に至る」という部分について。この点について、『茅野市史 下巻』(635頁)には次のように書かれている。

中山開拓地(北山蓼科)は[昭和]三十年代後半に東洋観光事業株式会社などによるレジャー施設へ、池の平開拓地(北山柏原)は[昭和]三十年代前半に観光関係に用地を売却し、ホテルや別荘となって当初のおもかげはなくなった。

 「中山開拓地」(中山開拓農業協同組合入植地)のあった湯川財産区の所有地には、1952年、長野県の土地改良事業として蓼科湖が築造された。蓼科湖は、川の水を一時的に堰き止め、天日によって湖水の温度を上げてから下流に放流する「温水溜池」として作られたのであるが、蓼科湖畔から見える八ヶ岳連峰の秀麗な景観などによって、1950年代後半に入ると観光地化が進んでいった。湯川区(湯川財産区)は、昭和35年(1960年)、「当時トヨタ自販[トヨタ自動車販売株式会社]系の観光企業で[昭和]三十三年[1958年]創立の東洋観光事業株式会社に、高原の三温泉源と温泉および周辺の土地・建物などいっさい、約二〇七ha[ヘクタール]を観光開発用地として時価三億円で譲渡処分を行った」(『茅野市史 下巻』785頁)。その中には蓼科湖周辺の土地も含まれていた。それに伴い、蓼科湖の水面利用、養魚などの権利は蓼科観光協会に引き継がれたが、その後東洋観光事業株式会社に移された。そのような状況の中で、中山開拓農業協同組合の入植者たちも生業を農業から「観光面に切り替え」ていったのである。

 「池の平開拓地」(池の平開拓農業協同組合入植地)のあった北山村柏原区では、戦前の1940年に、同じく「温水溜池」として白樺湖の築造が長野県営水利改良事業として着工された。しかし、戦争の影響による紆余曲折があり、戦後の1946年になって竣工した。白樺湖で温められた水は今でも下流地域の水田を灌漑しているが、それとは別に、冷涼な湖畔では、1950年代、観光地化が進展した。『茅野市史 下巻』の上引の記述は、池の平開拓農業協同組合の入植者たちが土地を観光企業(デヴェロッパー)に売却したように読めるが、そうであったとしても、彼らの土地は柏原区(柏原財産区)の広大な所有地のほんの一部にしか過ぎない。柏原財産区の場合は、基本的には所有地を売却することはせず、財産区自体が貸ボート業やバンガロー建設などの観光開発事業を推進するとともに、観光企業と土地の賃貸借関係を結んで、ホテルなどの観光業を誘致したのである(蓼科湖、白樺湖の位置については図2「蓼科湖・白樺湖関係図」参照)。

 なお、他の三つの開拓地についていえば、「広見開拓地」(広見開拓農業協同組合入植地)は種馬鈴薯の栽培を主としていたが、土壌病害などのために離農者が出て継続困難となり、民間会社に売却された。「玉川開拓地」(玉川開拓農業協同組合入植地)は酪農を中心として高原野菜の栽培も行い、順調に経営を継続した(ただし、後に行政的には隣接する富士見町に編入された)。「御狩野開拓地」(御狩野開拓農業協同組合入植地)は高原野菜栽培を主として、水田も造成され、安定的な経営が行われるようになった(『茅野市史 下巻』634~635頁)。「御狩野開拓地」は、現在では、中央自動車道(中央道)の諏訪南インターチェンジのすぐ西に隣接する地域である。

おわりに

 満洲開拓に送り出され、苦難の末に辛くも帰還した人々の多くが故郷に再定住することができず、再び条件の劣悪な未墾地の開拓に取りくまざるをえなかった。

 本稿が対象とする地域について、この満洲開拓帰還者と戦後開拓入植者の関係を見ると、諏訪郡全体(22開拓農業協同組合)の入植者中、「満洲開拓者三八%、農家子弟三四%、一般転業者二五%、旧軍人三%の割合であった」(『茅野市史 下巻』633頁)。この地域でも、戦後開拓者には満洲開拓帰還者が多かったことが分かる。前述のように、諏訪郡北山村出身の満洲開拓者にも11人の帰還者がいたが、これらの人たちが中山開拓農業協同組合や池の平開拓農業協同組合に参加していたかどうかは文献が見つからず分からない。しかし、前出の野辺山開拓農業協同組合の場合は、満洲開拓帰還者がその中心となっていたことを確認することができる(前掲小谷論文)。

(「世界史の眼」No.73)

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林哲『朝鮮現代史論 解放一年史を問いなおす』(法政大学出版局、2025年、511頁、6000円)
庵逧由香

 本書は、在日朝鮮人の歴史家・林哲(Lim Chol)の朝鮮現代史に関わる18本の論考をまとめた研究書である。学術論文から人物評伝、訳書解説、書評、学術シンポジウムの記録、時事評など、多様な形態の論考が一部を除き時系列で掲載されている。しかしこれらからは、一貫して通底する問題意識を読み取ることができる。それはあえて端的に言えば、今日までなおも続く朝鮮半島分断の理不尽さに対する憤りと、再統一への強い希求、ではないかと思う。

 本書の目次構成は以下の通りである。(カッコ内の数字は初出年)

第1章 「解放一年史」再考 (書き下ろし、2025)
第2章 朝鮮人民共和国に関する若干の問題 全国人民委員会代表者大会(1945年11月)における議論を中心に(1986)
第3章 第二次大戦後の朝鮮における民主主義民族戦線(1982)
第4章 解放直後の朝鮮における「民主基地論」 統一戦線論を手がかりに(1993)
第5章 歴史をとおしてみる統一国家像 (1993)
第6章 朝鮮の「解放」と中国 (1996)
第7章 独立・統一・「進歩的民主主義」を求めて 夢陽・呂運亨の生涯(1998)
第8章 東アジア冷戦と朝鮮における政治的暴力の起源 解放一年史を中心に(2004)
第9章 済州島「四・三事件」における「暴力」(2002)
第10章 国際関係学による「場」としての東アジア (2009)
第11章 『朝鮮半島の分断構造』と『アメリカのディレンマ』を読む (1985)
第12章 国際シンポジウム「東アジアの冷戦と国家テロリズム」の旅 (2000~2002)
第13章 『現代朝鮮の悲劇の指導者たち』訳者あとがき(2007)
第14章 国際関係論と朝鮮現代史 (2012)
第15章 『朝鮮戦争の起源』訳者あとがき (2012)
第16章 「朝鮮戦争像」の根本的な転換迫る カミングスの『朝鮮戦争の起源』(2013)
第17章 安倍首相の「戦後七〇年談話」について 日韓条約五〇年の観点から (2015)
第18章 亡命運動家鄭敬謨先生の生涯と時代 (2022)
著作目録・解説(鄭栄桓)
あとがき・索引

 周知のように、朝鮮は第二次世界大戦中に連合国によって日本からの独立が明言されたものの、日本の無条件降伏(1945年)により、日本軍軍管区を境界(北緯38度線)として南北に分断され、米ソそれぞれの占領を受けた。それからわずか3年後に、南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国が、分断されたまま樹立されるにいたる。この3年間の朝鮮半島をめぐる国家建設運動や米ソ対立を含む国内外の情勢の変動は、非常に複雑かつダイナミックに急転しており、事象によっては事実関係の確認さえ困難な状況が長く続いている。南ではこの時期の研究は「解放前後史」と呼ばれ、本格化するのは1980年代後半からである。研究が特に立ち遅れた背景としては、朝鮮戦争(1950〜)を経て分断が固定化されて以降、南北が敵対国として互いを排除し合うことで分断体制を維持してきたこと、この時期の研究が南北の国家起源に関わる高度に政治的な問題をはらむが故にタブー視されてきたこと、などがまず挙げられる。

 筆者林哲は、「解放直後から一年の時期を分断状況の形成過程において最も重要視」し、1980年代初頭からこれに関わる研究論文を発表してきた。とりわけ建国準備委員会から朝鮮人民共和国(1945)、民主主義民族戦線(1946)へと続く流れを一連の「統一独立国家樹立運動」として把握し、その具体的な歴史像の実証的解明に力を注いだのが、本書収録の第2章から第5章である。筆者はこれらの国家樹立運動が「植民地下で展開された民族解放運動の文脈から理解される必要性」を強調しつつ、樹立すべき国家像の違いから左派・右派の対立が国際情勢をも巻き込み激化する中で、それでも持続的に追求された統一戦線形成の試みに特に注目している。当時、朝鮮人のだれもが分断された国家など想像もしていなかったが、世界的な冷戦構造の深化の渦中にあった朝鮮では、その実現が様々な要因によって妨げられてきた。筆者の「解放一年史」研究は、分断体制下で政治権力によって意図的に無視され、塗り替えられていった歴史の再構築の試みでもある。「筆者は数十年たっても当時示された朝鮮民衆の広範な統一戦線と進歩的民主主義論に支えられた基本意志と希望が、どうして現在に至るも阻まれてきたのかについて今日なお納得しがたい点が多い」(508頁)との筆者の言に、このことが凝縮されている。

 朝鮮「解放一年史」の具体的な展開自体、日本でもあまり知られていない。本書のために書き下ろされた第1章は、前提となる研究史や当時の状況、主要な用語の詳細な解説が書かれており、本書全体を読む上での手引きにもなっている。また巻末の鄭栄桓による解説では、時代背景や基本事項の丁寧な説明がなされている。

 本書を読みながら興味深かったのは、本書の論考のところどころで、筆者の在日朝鮮人としてのライフヒストリーが交錯して書かれている点である。1946年ソウル生まれの筆者は、朝鮮戦争の戦乱を避けて1952年に家族とともに来日した。来日当時の記憶や、日本社会における学生時代の体験の過程で筆者は、さまざまな「違和感」「疑問」を感じている。それらは朝鮮の分断状況に対する疑問であると同時に、いつまでたっても「朝鮮分断問題に対する認識が皮相的な理解に止まって深められていない」日本人の朝鮮に対する無知・無関心への警鐘にもなっている。確か2000年代に入ってからのことであったが、私は筆者の南北統一に関する講演会(於早稲田奉仕園)で、そのような場面に直接出くわしたことがある。それは、参加者の中のある日本人との質疑応答の場面だった。ある日本人の「統一、統一と言うが、南北で自由に行き来できるようにさえなれば、統一する必要はないのではないか」という質問に対し、筆者林哲は、「あなたがおっしゃる、自由に行き来できるというそのことがまさに、統一、ということなんです」と回答した。このやりとりは後に徐京植も、「(在日)朝鮮人と日本人との分断に対する認識のギャップ」の事例として紹介したことがある。

 筆者の分析の特徴として、朝鮮史の個別事象を深く分析しながらも、それらの性格を規定する時代時代の世界史の矛盾の在り方、その焦点としての東アジアの課題が、常に大枠として意識されている(特に第6章、第10章)。90年代に入りソ連をはじめとする社会主義諸国の崩壊により冷戦構造の枠組みは大きな転換を遂げ、もう一つの分断国家であったドイツは再統一された。しかし朝鮮半島の再統一は、少しずつ進展を見せながらも、いまだに展望さえ見いだせない状況が続いている。南北双方で国家の法統性が植民地期の民族解放運動を基盤にしているため、現在でも、1930年代以降の歴史について、南北で歴史認識を共有できずにいる。筆者が何度も強調するように、こうした状況の下での「解放一年史」研究は、大きな困難が伴わざるをえない。

 ただし一方で、本書は、筆者が長年研究会をともにしてきた「筆者よりずっと年下の友人たち」が「完成させてくれた」(あとがき)という。鄭栄桓解説のタイトルが「『解放一年史』の種火を受け継ぐ」とあるように、筆者の長年の問題意識が、次代の研究者に意識的に受け継がれようとしているのである。このような「協業に生きている精神こそが認識を発展させる鍵」(あとがき)という筆者の言葉が、本書刊行の意義をより重要なものにしている。

(「世界史の眼」No.73)

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蓼科の近代史 Ⅰ(上) ―満洲開拓と戦後開拓
小谷汪之

はじめに
1 茅野市域からの満洲開拓移民
2 敗戦前後の満洲開拓移民
(以上、本号)
3 戦後開拓
4 茅野市域における戦後開拓
おわりに
(以上、次号)

はじめに

 蓼科湖畔に下の写真のような「拓魂」の碑が建っている。

この碑の文面は次のとおりである。

   建立趣意

第二次世界大戦は敗戦の
烙印の下に終った。これ
迠、海外に雄飛せし同胞
は全て帰国し国土は荒廃
し食糧欠乏す、ここに有
志相諮り食糧増産の為入
植に決す、苦節十年の後
昭和三十五年竣工検査の
結果各自の所有となる。
時恰も観光開発の脚光を
浴びた当地はその施設の
中央に位し、各自よすが
を観光面に切り替え開拓
の努力は報いられて今日
に至る。この開拓用地は
湯川・塩沢・両財産区の
ものであったが、昭和二
十四年の緊急開拓措置令
により国が買収したもの
である。その概要を記し
児孫に傳う。

昭和六十三年七月吉日
  中山開拓農業協同組合
(誤字三カ所を修正)

 「拓魂」の碑というのは全国各地にたくさんあるが、その多くは、満洲開拓に送り出され、1945年(昭和20年)8月15日の敗戦前後、ソ連軍の侵攻や現地民の襲撃に遭って命を落とした約8万人の満洲開拓移民たちを悼む慰霊碑である。しかし、蓼科湖畔の「拓魂」の碑は、それとは異なり、敗戦後国策として推進された戦後開拓にかかわるもので、碑を建てた「中山開拓農業協同組合」は蓼科山南麓の長野県諏訪郡北山村湯川区(現、茅野市大字北山・湯川区)から蓼科高原に戦後開拓に入った人たちの開拓農業協同組合である。

 本稿では現在の茅野市域(諏訪郡の旧村名で言えば、永明村、宮川村、金沢村、玉川村、泉野村、豊平村、北山村、湖東村、米沢村。図1「茅野市域の村区分」参照)、特に北山村に焦点を当てて、この地域からの満洲開拓移民と戦後開拓の歴史を追ってみたいと思う。

1 茅野市域からの満洲開拓移民

 長野県は全国の都道府県の中で、満洲開拓移民を最も多く送り出した県である。当時の外務省の統計によれば、1945年5月現在で、長野県送出の一般満洲開拓団員は31,264人で、2位山形県の13,252人の2倍以上である。都道府県総計で220,359人の一般満洲開拓団員の約15%を占めている。ただし、これらの数値は渡満計画中の人数を含むので、実数とはいくらか開きがあるとされている(『満洲開拓史』満洲開拓史刊行会編、1966年、396~397頁)。

 『長野県満州開拓史 各団編』(長野県開拓自興会満州開拓史刊行会編、1984年)では、「長野県単独開拓団」が次の5類型に分類されている(開拓団名の前に付された年次は送出された年次を示している。1932年(昭和7年)に最初に送出された「第1次弥栄村開拓団」以降、年度にしたがって第2次、第3次というように表記された)。

(1)「全県編成開拓団」:「第5次黒台信濃村開拓団」など4開拓団
(2)「分村移民開拓団」:「第7次四家房大日向村開拓団」など12開拓団
(3)「分郷開拓団」:「第8次小古洞蓼科郷開拓団」など24開拓団
(4)「集合・農工・帰農開拓団」:「集合第1次康平長野開拓団」など11開拓団
(5)「報国農場」:「長野県農業会窪丹崗報国農場」など4開拓団

 これらの他に、満蒙開拓青少年義勇軍が3年間の現地訓練期間を終えて入植した「長野県単独義勇隊開拓団」(11開拓団)などを加えれば、長野県から満洲開拓に参加した者は4万人をくだらないであろうとされている(『長野県満州開拓史 各団編』)。

 この長野県全体から送出された満洲開拓移民の数と比べた時、現在の茅野市域から送出された満洲開拓移民はあまり多くないという印象を受ける。この地域からは第7次四家房大日向村開拓団(長野県南佐久郡大日向村の全村民の半数ほどが満洲に渡り、現地で大日向分村を形成した。伊藤純郎『満州分村の神話 大日向村は、こう描かれた』信濃毎日新聞社、2018年、参照)のような「分村移民開拓団」が送出されなかったこともその一因であろう。現在の茅野市域からの満洲開拓移民は以下の各開拓団に分散して参加していた。

(1)第5次黒台信濃村開拓団 7世帯
(2)第6次南五道崗長野村開拓団 4世帯
(3)第7次中和鎮信濃村開拓団 4世帯
(4)第8次張家屯信濃村開拓団 1世帯
(5)第8次富士見分村王家屯開拓団 8世帯
(6)第10次孫船八ヶ岳郷開拓団 66世帯
(7)第11次旭日落合開拓団 1世帯
(8)長野県農業会窪丹崗報国農場 1世帯
(『茅野市史 下巻 近現代・民俗』1988年、446~447頁)

 これらの中で、例外的に茅野市域からの開拓移民が多かったのは「第10次孫船八ヶ岳郷開拓団」である。この開拓団は、1939年、農林次官だった小平権一(諏訪郡米沢村出身。図1「茅野市域の村区分」参照)が諏訪郡町村長会などに結成を呼びかけた「分郷開拓団」で、諏訪郡の2市18町村から団員が集められた。入植地は満洲最北部、ソ連国境の町・黒河に近い訥謨爾ノモルで、入植時には219世帯(戸)、746人が在籍していた。その後、軍隊への現地召集などで団員が減少したが、敗戦時にも554人が在団していた(『長野県満州開拓史 各団編』356~365頁)。

 この「第10次孫船八ヶ岳郷開拓団」の団員のうち、66世帯(戸)が現在の茅野市域からの入植者で、その中には北山村出身の7世帯が含まれていた。その他の「長野県単独開拓団」には、北山村出身者はいなかった。ただし、「第3次瑞穂村開拓団」(1934年入植)には1世帯4人の北山村出身者が在籍していた(『茅野市史 下巻』446~447頁)。しかし、この開拓団は「第1次弥栄村開拓団」や「第2次千振開拓団」と同様のいわゆる「試験開拓団」(「武装開拓団」)の一つで、長野県を含む22県の在郷軍人会によって選抜された在郷軍人から構成されていた。したがって、この開拓団に在籍した北山村出身の1世帯も在郷軍人の世帯だったのであろう。その点では、1936年に広田弘毅内閣の下で満洲移民政策が本格化する前の初期的開拓団であった(『長野県満州開拓史 各団編』34~45頁)。

2 敗戦前後の満洲開拓移民

 1945年8月9日、ソ連軍が東、西、北の三方から満洲に侵攻し、それに呼応するように現地民が開拓村などを襲撃した。開拓民たちは南方に向かって避難したが、その過程で多くの死者が出た。『満洲開拓史』はその死者、未帰還(不明)者、帰還者を以下のように算出している(436~437頁)。

開拓団(928団)    死者67,680人 未帰還者9,550人  帰還者118,970人
義勇隊開拓団(102団) 死者3,200人  未帰還者1,000 人 帰還者17,800人
報国農場(74カ所)   死者1,120 人  未帰還者450人   帰還者3,200人

 これらの死者総計72,000人に未帰還(不明)者のうち死亡したと考えられる者6,500人を加えると、開拓団関係の死者は約8万人となる。これは敗戦時における満洲全体の日本人居留民死者約18万人の45%ほどにあたる。敗戦時における、在満日本人居留者総数は約150万人とされている(富田武『シベリア抑留――スターリン独裁下、「収容所群島」の実像』中公新書、2016年、104頁)。

 敗戦時の死者、未帰還者、帰還者の数を現在の茅野市域からの入植者がいた開拓団について見ると、次のようになる(敗戦時に在団していた人々に関する数で、応召者などを除く)。

(1)第5次黒台信濃村        死者967人 未帰還者91人  帰還者277人
(2)第6次南五道崗長野村   死者759人 未帰還者38人 帰還者332人
(3)第7次中和鎮信濃村    死者599人 未帰還者42人 帰還者351人
(4)第8次張家屯信濃村    死者690人 未帰還者17人 帰還者277人
(5)第8次富士見分村王家屯  死者189人 未帰還者2人    帰還者582人  
(6)第11次旭日落合開拓団   死者69人  未帰還者 0人    帰還者67 人
(7)窪丹崗報国農場       死者58人  未帰還者0人  帰還者207人
(『長野県満州開拓史 各団編』各所)

 (1)~(4)の「全県編成開拓団」における死者数が突出していることが分かる。もともと規模の大きな開拓団だったこともその一因であろう。

 現在の茅野市域からの入植者が例外的に多かった「第10次孫船八ヶ岳郷開拓団」の場合、敗戦時の在団者554人のうち、死者269人、未帰還(不明)者7人で、278人が帰還した(『長野県満州開拓史 各団編』357頁)。そのうち、茅野市域出身の66世帯の人々だけについて見れば、死者114人、未帰還(不明)者5人で、帰還したのは119人であった。さらにそのうち、北山村からの入植者7世帯では、死者3人で、帰還者は11人となっている(『茅野市史 下巻』447頁)。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.72)

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書評 豊下楢彦『「核抑止論」の虚構』
桐谷多恵子

 本書『核抑止論の虚構』は、核兵器の存在が戦争を抑止してきたという広く共有された通念に対し、その理論的前提と政策的実態の双方を精査することで、核抑止論が内包する不安定性を明らかにしようとする著作である。著者は序章において、映画『博士の異常な愛情』を引き合いに出し、核戦略が前提としてきた「合理性」が、いかに容易に狂気と隣り合わせのものとなりうるかを象徴的に示している。

 続く第1章では、内部告発者として知られるダニエル・エルズバーグの証言を手がかりに、核抑止論の中核をなしてきた「公式政策」そのものに鋭い疑問が投げかけられる。エルズバーグが強調するのは、米国が表明し、また広く信じられてきた、ソ連による第一撃を抑止し、仮に攻撃を受けた場合には第二撃によって報復するという核戦略が、「意図的な偽り」であったという点である。すなわち、そのような抑止政策が実際の意思決定において主要な目的となったことは「一度たりともなかった」とされるのである。著者はこの指摘を通じて、核抑止論が想定する透明で合理的な戦略像と、現実の政策運用とのあいだに横たわる深刻な乖離を浮かび上がらせる。

 第2章以降で著者は、核抑止論を支えてきた核戦略論の理論的前提を精査し、その内在的な問題点を明らかにしていく。核戦略論は、国家を一貫して合理的に行動する主体として想定し、相手国もまた同様の合理性に基づいて行動すると仮定することで、抑止の安定性を説明してきた。しかし著者が指摘するように、この前提は、危機状況における誤認や偶発、さらには組織内部の混乱や判断の分断といった現実の要因を著しく過小評価している。

 この問題が最も端的に示されるのが、第3章および第5章で論じられる、いわゆる「狂人理論」である。著者は、リチャード・ニクソン政権期の対ベトナム政策を取り上げ、指導者が非合理的で予測不能な人物であるかのように振る舞うこと自体が、相手国に譲歩を迫る戦略として構想されていたことを明らかにする。ニクソンは側近を通じて、「ニクソンは共産主義のことで思い詰めている。怒り出したら手がつけられない。しかも彼は核のボタンに手をかけているのだ――こうすればホー・チ・ミンは二日も経たずに和平を請い願って自らパリに出向くだろう」との認識を意図的に流布させたとされる。

 著者が強調するのは、このような「狂人」を演じる戦略が、抑止の信頼性を高めるどころか、むしろ核使用の可能性を現実のものとして相手に意識させる点にある。そこでは、理論上想定されてきた合理的な計算や安定した均衡は成立せず、個人の感情や演出に依存した、きわめて不安定な抑止関係が生み出される。核抑止論が前提としてきた合理性は、この段階で自ら放棄されているのであり、非合理性を装うことで均衡を保とうとする論理そのものが、深刻な危うさを孕んでいることが示される。

 さらに著者は、こうした「狂人理論」が突発的に生まれた発想ではなく、1950年代後半以降に蓄積されてきた核戦略研究の文脈のなかで形成されてきたことにも目を向ける。キッシンジャーやシェリング、エルズバーグらは、「非合理性の理論」を参照しつつ、核抑止や核開発競争が本質的に不安定な均衡の上に成り立っていることを理論的に検討してきた。しかし、ニクソン政権の具体的政策をいかに評価するかをめぐって見解の相違が顕在化し、最終的にはキッシンジャーのみが政権中枢で重責を担い、「狂人理論」を実際の政策構想として展開するに至ったのである。著者は、この理論がその後も各国の指導者によって参照されていく過程を描き、核抑止が制度ではなく、個人の演出や性格に依存する実践へと傾斜していったことを浮かび上がらせている。

 著者が高く評価するのが、第4章で論じられるゴルバチョフによる「新思考外交」の意義である。ゴルバチョフは、軍事的均衡を安全保障の中心に据える発想から、相互依存と理性に基づく国際秩序の構想へと視座を移し、核抑止論が当然視してきた前提そのものを相対化しようとした。さらに、レーガンとの間で締結された中距離核戦力全廃条約(INF条約)は、単なる軍備管理の成果というよりも、恐怖による均衡を合理的安定とみなす思考に対する実践的な問いかけであったと言える。かつてソ連を「悪の帝国」と位置づけたレーガンとの交渉は、「精神病理的な論理」に裏付けられた「核抑止論」の枠組みを超える政治的可能性を示したものとして、本書では積極的に評価されている。

 しかし、ジョージ・W・ブッシュ政権の発足と同時多発テロ以降、状況は再び大きく転換した。「ミサイル防衛」の強化とともに、「我々を防衛するために先制的に行動すること」が必要であるとする「先制攻撃論」が前面に押し出され、核兵器の使用可能性は現実的な選択肢として再浮上することとなった。

 これを受けて、オバマ大統領は核の「先制不使用」に言及し、「核なき世界」を目指す姿勢を打ち出したが、その構想は十分な支持を得られず、その後の国際政治は「第二の核時代」と呼ばれる状況へと移行していく。第6章「核の復権」が論じるのは、まさにこの局面である。それまで核兵器は「存在すること」によって抑止を担うと理解され、その意味で「核兵器の役割が縮小」も語られてきた。しかし現在では、中小規模の核保有国の増加により、地域紛争の文脈で核兵器が使用される危険性が現実味を帯びている。

 この「第二の核時代」においては、仮に核兵器が使用されたとしても必ずしも「人類絶滅」に直結するとは想定されず、地域的優位を追求する国家にとっては「体制の存亡をかけた戦争」という文脈で計算されうる。大国による核の威嚇も、かつてほど自動的に抑止として機能するとは限らないとされる。こうして従来型の「核抑止」は効力を弱め、核兵器は使えない兵器から使用を想定せざるを得ない兵器、つまり使える兵器へと位置づけが変化しつつある。その象徴が、「低出力核兵器(戦術核)」の開発である。こうした情勢のもとでは、原子力発電所さえも攻撃対象となりうる現実が浮かび上がる。本書は、このような現在進行形の核をめぐる状況を理論的に論じている。

 本書の強みは、核抑止論を外部から規範的に否定するのではなく、その内部論理を丹念に検証することによって、理論と現実の乖離を可視化している点にある。本書後半において著者は、核抑止論の不安定性が過去の理論的問題にとどまらず、現代の国際政治においても繰り返し現れていることを示す。第7章では北朝鮮やイスラエルの事例を通じて、核兵器の保有が地域の安定をもたらすどころか、むしろ緊張と不確実性を恒常化させてきた実態が描かれる。第8章で検討される「トゥキュディデスの罠」をめぐる議論もまた、大国間競争を歴史的必然として捉える単純化が、軍事的緊張を過度に自然化してしまう危険性を孕んでいることを示している。

 さらに第9章では、「トランプの傘」という表現を用い、拡大抑止が特定の指導者の性格や演出に依存する構造的脆弱性が浮き彫りにされる。核抑止が合理的計算に基づく安定した仕組みであるという前提は、ここにおいて再び大きく揺さぶられる。著者が示すのは、核抑止が制度としてではなく、個々の指導者の判断や感情に左右される実践として機能してきた現実である。

 本書が繰り返し問いかける核抑止論の虚構は、理論的検証や政策史の分析にとどまらず、核兵器をいかに人間的に考えるかという根源的な問題へと読者を導く。評者自身、13年にわたり55回に及ぶ聞き取りを重ねてきた広島の被爆者・切明千枝子氏は、核兵器の存在が核戦争を防ぐとする核抑止論について、「信じられませんね」と静かに語った(2025年6月26日、切明氏自宅での聞き取り)。切明氏はまた、「やっぱり、あくまでも核兵器廃絶ですね。なくしてほしいですね」と断言し、核兵器を保有し続ける限り、いずれ使用への誘惑が生じること、そして現在地球上に存在する核兵器の破壊力は、広島で経験された被害をはるかに超える規模の惨禍をもたらしかねないと指摘している。

 私たちは、核戦争を実際に体験させられた被爆者たちの言葉を通してこそ、核兵器を抽象的な戦略や理論の対象としてではなく、人間の生と死に直結する問題として考えることができるのではないだろうか。核戦争を経験していない世代にとって、その現実はしばしば想像の外に置かれてしまう。本書『核抑止論の虚構』は、そうした想像力の欠如に抗い、核兵器をめぐる思考を理論の内部から崩しつつ、人間的な問いとして回復させる重要な試みである。そして、核抑止の「虚構」が再び現実政治の言説空間を規定しつつある現在、本書は核兵器をめぐる理論的枠組みを再検討するための基準点を提示する重要な研究成果である。

(「世界史の眼」No.72)

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新たな「ガザ占領」―トランプ米大統領のガザ戦争停戦協定がもたらした新たな「ガザ占領」の危機
藤田 進

1 トランプ米大統提案の「ガザ戦争終結に関する20項目計画」

2023年10月、ハマースがイスラエル軍のガザ撤退とイスラエル獄中のパレスチナ人解放を求めて開戦し、「ハマース殲滅」を唱えるイスラエルがガザ全土占領とパレスチナ人追放を目ざして長きにわたったジェノサイド戦争は、2025年10月トランプ米大統提案の「ガザ戦争終結に関する20項目計画」にイスラエル・ハマース双方が合意したことでひとまず停戦に至った。10月10日ガザ戦争停戦協定第一段階がスタートし、イスラエル占領軍の撤退、人質の釈放、ガザ住民への緊急支援物資の搬入等々が取り組まれるとともに、ガザ南部へ強制移動させられていた多くのパレスチナ人家族が北部の自宅を目ざして戻りはじめた。たどり着いたガザ北部はイスラエル軍に徹底的に破壊されつくしており(図1)、すべてを失った人々は町を埋め尽くしたゴミの山のそばに掘立て小屋を建てて住みはじめた(図2)。

図1
2025年11月初旬のガザ市東部シュジャーイーヤ地区の破壊された建物群(Credit: Nir Elias/Reuters)
図2
2025年12月10日、ガザ市のごみの山の隣に立てた掘立て小屋の住人. (Video by Abdel Qader Sabbah.)

2 停戦後もガザに居座り、ガザ分割占領をはかるイスラエル軍

 ところで、ガザ戦争停戦協定第一段階でイスラエル占領軍が撤退したのは、ガザの一部地域からだけだった。(図3)にみるように、ガザは停戦協定に基づいて「イエローライン」と呼ばれる境界線で二つに区切られ、イエローラインの東側のガザ全土の52%は、段階的に撤退することになっているイスラエル占領軍が現時点においてとどまる地域とされた。

図3
イエローラインによるガザ分割

 イエローラインを示す標識はないので、住民には実際にはどこが境界線なのか分からず、またイエローライン地域内にはパレスチナ地区や住民が存在するので、人々がこれまで通りに進んでいくと、境界線を越えてイスラエル支配地域に立ち入ったとしてイスラエル軍によって射殺されるという事態が持ち上がり、ガザ地区の半分が排他的イスラエル軍支配地域になってしまったことを示していた。

 ガザ中部のハーン・ユニス地方もイエローラインによって分割され、バニ・スヘイラ地区はイスラエル支配地域内に組み込まれてしまった。だがバニ・スヘイラ地区が分断されたことを明示する境界線があるわけでなく、人々がそれまでのようにバニ・スヘイラ地区に立ち入ってイスラエル軍に銃撃され死傷する事件が起きはじめた。戦争中イスラエル軍によって23人もの家族が殺された後ハーン・ユニスで避難生活を送っており、今回の停戦協定発効の一週間前にイスラエルの空爆で兄も殺された3人の子供の父親であるハーレド・ファルハート氏(35歳)が、ハアレツ紙の記者に次のように語った「その道は通れるようになるだろうと思っていたら、翌日にはそこで誰かが撃たれていたりする。誰もがそのようなことを通じて、あそこには占領軍がいるのだと分かるのです。」

 寒さが増してきた12月、ハーン・ユニスの10歳と12歳の兄弟のパレスチナ人の少年が、負傷している父親のために薪を拾い集めるためにバニ・スヘイラ地区へ出かけて行っていたところをイスラエル軍のドローンに攻撃され二人とも死亡するという事件が起きた。イスラエル軍当局は、少年たちがイスラエル軍の近くで「不審な行動」をしている危険な存在だったと殺害の正当性を主張した。これに対してパレスチナの住民たちは、少年たちは生きるために人間として当然の義務を果たしていただけだと反論し、また先のファルハート氏は「少年たちは家族を助けようとしただけであり、イスラエル軍だって彼らが幼い子どもであることは分かっていたはずだ。だがイスラエル軍にとって最も重要なのは、例え子ども、女性、老人であろうとも境界線を越えることを決して許さないことだ」と語った。

 やがてイスラエル軍は、イエローラインの西側のハマース支配地域に黄色いコンクリートブロックを等間隔に設置しはじめた。ブロックで囲んだ新たなイエローライン地域をつくり、それを加えてイスラエル支配地域を拡大する(図4参照)。人々はイエローラインが西に向けて知らぬ間に移動するのを「翌朝目覚めると、黄色いコンクリートブロックや軍用車両が玄関先に置かれているのを見つけた」というようなショッキングな出来事を通じて実感した。

図4
イエローライン西側地域にイスラエル軍が据えた黄色いコンクリートブロック  (Source:Planet Labs PBC BBC)

3 イスラエル軍による人質遺体捜索作業を利用した「ハマース殲滅」の企て

残された人質の遺体回収を重視するイスラエルは、遺体がイスラエル軍支配地域のラファ一帯に広がるハマースの地下トンネル内にあると見当をつけていた。イスラエルは人質の遺体が返還されるまでは停戦合意時に約束されたガザ飢餓住民に緊急に大々的に届ける人道支援物資の搬入を許可しないとの圧力をハマースにかけて、ハマース戦闘員たちを地下トンネル内の遺体捜索作業にあたらせることにした。だがイスラエルの猛爆撃で現場が破壊されていたり、捜索場所を特定する目印がなかったりして遺体回収作業は困難を極めた。イスラエル軍はハマース戦闘員たちに困難な作業をやらせる一方で、地下トンネルを捜索して中に200名ほどいる戦闘員たちの殺害を企てた。11月26日、イスラエル軍がラファでのパレスチナ人戦闘員複数名の殺害と2名の拘束を発表したとき、ハマースが「イスラエルが停戦合意に違反してラファのトンネル内でハマース戦闘員を追跡し殺害している」と非難したのに対して、カッツ・イスラエル国防相はSNSのXに「イスラエル支配下のイエローライン地帯における最優先事項はトンネル網の完全な破壊である。トンネルがなければ、ハマースも存在しないのだから」と投稿して、非戦闘状態の隊員たちの殺害を正当化した。

4 パレスチナ人行方不明者の遺体回収作業

 ガザのパレスチナ人にとって、行方不明になった人々の遺体の発見・回収は切実な願いだった。イスラエルの爆撃が続く中で倒壊した建物の大量の瓦礫除去作業に必要な多くの救助隊員自身の殺害と大型重機の決定的不足によって遺体回収はほとんど進まず、1万人相当の行方不明のパレスチナ人が2年間も瓦礫の下に埋もれたままになっていた。その人々の遺体捜索・回収事業がようやく12月15日、ガザの民間防衛隊によって開始された。だが遺体回収作業は、イスラエル軍支配下の「イエローライン」地域内には近づけない上に、作業要員不足、瓦礫を取り除く大型シャベルカーはわずか1台、貧弱な遺体鑑定体制等々の困難な条件のもとで困難を極めた。

 最初に取り組まれたのは、ガザ市でイスラエル空爆の犠牲になったファーティマ・サーレムさんの家族総勢60人の遺体回収だった。サーレム家の人々は家があった北部ガザから子供たちを連れて一族全員でガザ市へ逃れ、市内に見つけた住民が退去して空き家状態になっていた雑居ビルで避難生活を始めたが、その矢先の2023年12月19日、イスラエルの空爆の標的にされて建物は崩れ落ち、中にいたファーティマさんの兄弟姉妹とその家族の全員が瓦礫の下敷きになった。それ以来ファーティマさんは「皆に会いたい、抱きしめて最期のお別れをしたい」との思いを抱きながら遺体が発見されるのを待ち続けていた。民間防衛隊は瓦礫の下からサーレム家の人々の遺体をすべて回収し、プラスチック製の遺体袋に遺骨を収納して、ガザ中部のデイル・アル・バラフの廃墟に築かれた集団墓地に移送した。ファーティマさんは墓地に埋葬される家族たちの遺体のそばに立って、2年間待ち続けた家族に最期のお別れをした。

5 ガザ住民への円滑な支援物資搬入を拒むイスラエル占領当局

 パレスチナ情報センターのウェブサイト2026年1月1日付は、エジプトと国境を接するラファの検問所における物流を管理しているイスラエルが、ガザに向けて送られてきた物資の国内持ち込みの可否を独自に選別する一方、禁輸扱いとなった物資は特定商人が輸入してガザ市場で販売するいわゆる「並行輸入方式」を採用していることを指摘した。イスラエルが禁輸扱いにした物資には、寒い雨期の季節の難民キャンプには欠かせない「発電機や雨や泥に強い金属製のテントの支柱」などが含まれており、それらを禁輸にした理由は「金属はハマースやその他の抵抗勢力が軍事目的に利用する可能性がある」からだという。また国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)ガザ支部所長代理のサム・ローズ氏は「人道支援団体が持ち込みを禁じられたものは発電機をはじめすべて市場で売られており、イスラエル、エジプト、パレスチナのそれぞれでビジネス上の利益が生み出され、イスラエルが保護する安全保障会社やその他の犯罪組織もそれらの利益の一部を得ている」ことを明らかにした。

 以上の指摘は、生存の危機に直面するガザ住民への国際的緊急支援物資の送付を妨害する組織的方策をめぐらせることで住民を餓死・病死に追いやろうとするイスラエルの企てを浮き彫りにしている。AP通信の分析データによると、ガザ住民に届けられた支援物資は停戦協定で合意された水準を大きく下回り、停戦の2025年10月10日から26年1月18日までの3カ月余りに体力の衰えたガザ住民の死者は481人、負傷者は713人に達した。また2026年になってから寒気のなか暴風雨でテントがちぎれ飛び、国連やパレスチナの報告によれば、約150万人が避難生活を強いられて少なくとも30万張りの新しいテントが緊急に必要となった。そうした中で1月1日、イスラエル当局はガザで活動する37の国際的NGOに対し、パレスチナ人スタッフの詳細情報を提供しない限り、60日以内にすべての活動を停止しなければならないと通告し、ガザ住民から重要な支え手を奪って更なる窮状へ追い込もうとした。

* * *

 以上に見てきたように、ガザ戦争停戦協定第一段階は求められていた「ガザ住民の危機回避」にはつながらず、イエローライン地域の設定というイスラエルのガザ分割占領を支えるシステムを生み出し、ハマースが求めたガザからのイスラエル軍撤退とパレスチナ人拘留者の解放の要求よりも後退したガザ占領の深化と思われる事態に立ち至った。イエローラインによるガザの分割構想はトランプ米大統領の娘婿のジャレド・クシュナーによるものである。支援物資が届かないガザ住民の飢餓・医療崩壊による死活状況は深刻度を増しているなかで、トランプ米大統領提案の「ガザ戦争終結に関する20項目計画」の第二段階の「平和評議会」が軸となっての「ガザの平和」構想の行方が不気味である。

(「世界史の眼」No.71)

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『被爆者・切明千枝子さんとの対話:私たちの復興をめざして』(彩流社、2025年)
高橋博子

 本書は著者の桐谷多恵子と被爆者の切明千枝子さんの13年間、55回にわたる対話から生まれた。年数・回数だけでなく、著者と切明さんが軍都ヒロシマ、そして戦後のヒロシマの在り方への疑問・問題意識が重なっているからこそ引き出される、切明さんの人生を辿ることができる。その問いとは「人間とはなにか」である(24頁)。

 切明さんは「私はね、戦争を通して、人間をやめたくなったんですよ」と述べ、「兵器を作って、ここまで殺し合うのは、人間だけじゃないですか。他の動物に対して恥ずかしいですよね。ほんとうに、人間ってなんなんでしょうね」と問いかける。

軍都広島

 「人間とは」という問いは抽象化された問いでもあり、また彼女の軍国主義日本と戦後の日本を通じて感じてきた具体的な体験からの問いでもある。

 「私たちは原爆で酷い目に遭いました。しかし被害の前に廣島が加害の街であったことを言わなければならないと思っています。軍都を生きてきた一人として背負うものがあります」とする姿勢に対して(46頁)、著者は「原爆の被害だけを発信するのではなく、加害の面から軍都としての歴史についても言及するべきだという切明さんの声は、歴史と向き合う勇気ある姿勢である」と述べる。

 「軍がのさばっていた時代」で体調不良の女学生が路面電車を利用したことにより学校で暴力を受けていたことなどの理不尽な体験や、その一方で服装が規制されていたなかでも、ささやかで密かなおしゃれをしていたことなどが語られる。

原爆体験

 アメリカによる広島への原爆攻撃当時、十四歳であった切明さんは、学徒動員で広島地方専売局の煙草工場で働いていたが、朝礼後足を痛めていたので病院に向かう途中、爆心から1.9キロの地点で被爆した。本書では自身の壮絶な被爆体験、また亡くなった友人を焼かざるを得なかった体験を語っている。また彼女の2人の従姉妹は生き残っても4・5日してから「高熱が出て、血を吐いた。歯茎からも血が出て、血便も続いて苦し」み、10日後には2人とも亡くなったという。さらに彼女自身が原爆症に苦しんだ体験が語られる。

 原爆投下から1ヶ月を過ぎた頃(1945年9月)になると、彼女の体調は著しく悪くなる。まず髪の毛が抜け始め、歯ぐきからの出血、血便が出て、身体に紫色の斑点が現れ、高熱に苦しめられた(74頁)。

 原爆症が現れた時、切明さんがどのような心境だったかというと「死ねば楽になれる」と思ったという。母親の看病で、急性症状については少しずつ回復していったという。原爆投下後の切明さんの心身に現れた症状について、本書ではかなり具体的ことが語られているが、冷静な筆致でありながら、切明さんの辛い体験が切々と伝わる。著者自身がさまざまな体験をしているからこそ、切明さんの原爆体験を受けとめ、伝えるための想像力があるのだと思う。

 原爆投下から1ヶ月たった頃には米軍は広島の残留放射線の影響を否定し、原爆症についての情報を軍事機密扱いにしていた。このような原爆投下当日以降も苦しむ人々の証言は、あまりにも重要である。

アメリカによる占領とその後

 本書ではアメリカによる占領期での切明さんの複雑な思いも語られる。1951年11月に開設された広島県児童図書館に希望して勤務したことで、子供の人権を大事にするアメリカの教育に触れる。

 ABCCについての体験は図書館での体験は対極的である。1948年ごろ交通事故に遭って亡くなった叔父の遺体をABCCから一晩預かりたいと申し入れられ、帰ってくると内臓がなかったこと、占領下で進駐軍には向かうことができず、叔母も了承せざるをえなかったことが語られる。

 切明さんは切明悟さんとの結婚、そして新たな教育を求めて1956年に立ち上げた「株式会社 東方出版」での出版活動によって、戦後一貫して平和・反戦そして差別問題に力を入れたてきたことがわかる(92頁)。

「私たちの復興」

 著者と切明さんとの「復興」に対する探究が興味深い。「原爆が投下される前の日常に戻れば「復興」になるのか」と問い、都市計画における「復興」と生活における「復興」との違いを問い、その上で「私たちの復興」という言葉にたどり着く。

 切明さんは語る。「大それたことではなくて、人間同士で絶対に殺し合わないこと。武器で脅しあったりしないで、お互いを信頼して、お互いに助け合って生きていくこと・・・」(182頁)。この言葉を著者は涙で受け止める。著者は「自己の悲惨な体験を、相手への「憎しみ」や「報復」で終わらせるのではなく、「二度と誰にもこのような思いはさせない」という利他性へと、長い年月をかけて醸成し昇華した思想こそ「広島の思想」の源泉ではないだろうか。(183頁)そして「大国の指導者たちが、利己性を露わにしている世界の現状の中で「力による平和」というジャングルの掟が跋扈(ばっこ)している」中で、「平和のうちに生存する権利」を訴える先頭に立つのが切明さんたちをはじめとする被爆者の方々である。しかし、残された時間はあまりにも短い」と述べる。

力による平和」への抗い

 アメリカの原爆攻撃と第二次世界大戦終了から80年にあたる2025年に、この2人の交流が本書にまとめられた意味は、大変深い。第二次世界大戦のような惨禍を繰り返させないどころか、戦後も核兵器に依存する体制や戦争は続いてきた。そして2026年の幕開けはアメリカのベネズエラ空襲と米軍特殊部隊デルタフォース投入による大統領誘拐である。危険な状態にいる人質を救出する作戦ではなく、就寝中の大統領夫妻を誘拐拉致するために米軍を投入しているのである。先住民の土地を接収することによって拡大し、中南米諸国を「裏庭」なる表現を使ってきたアメリカ合衆国。

 しかしこのようなアメリカ政府に対しても、アメリカに追随する日本政府に対しても、広島市はその責任を問うていない。それどころか公立学校の副読本から『はだしのゲン』や福竜丸の被災など米核実験についての記述を削除し、広島平和記念公園はパールハーバー国立記念館との「姉妹連携」を締結した。また新任職員はその研修に『教育勅語』を習わされる。

 著者は、まるで戦前の廣島に戻ってゆくかのような都市広島、そして長崎を対象に、その流れに抗う研究を続けてきた。本書を含めてそうした著者の研究姿勢、そして切明さんとの交流に励まされる。

 軍都広島の復活を「許す」と言うことは切明さんも著者も願うような「私たちの復興」を阻むということだと思う。アメリカの原爆を「許す」ということは力による制圧を「許す」ということだと思う。

 多くの読者が本書とともに「私たちの復興」をめざすことを願っている。

(「世界史の眼」No.71)

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文献紹介:佐原徹哉『極右インターナショナリズムの時代-世界右傾化の正体』(有志舎、2025年)
山崎信一

 2025年には、日本でも参院選で「外国人問題」を提起する政党が躍進するなどして、排外主義的主張が政治的に大きな影響力を得た。さらにこうした主張は、政府の政策にも取り入れられようとしている。社会、政治の「右傾化」は、そういう意味で日本においても感じられるものとなっているが、この「右傾化」を世界的な観点から分析しようと試みているのが、佐原徹哉『極右インターナショナリズムの時代-世界右傾化の正体』(有志舎、2025年)である。ただ、本書は2025年の日本の状況に触発されて執筆されたものではなく、著者の長期間にわたる研究をベースとしてそれを総合したものであり、刊行がこのタイミングとなったのは偶然だろうが、先見の明を示している。

 著者のこれまでの研究の中心は、民間軍事会社などを含む非正規軍(パラミリタリー)や、その暴力発現のあり方にあり、これまでにも『ボスニア内戦』(有志舎、2008年)、『中東民族問題の起源:オスマン帝国とアルメニア人』(白水社、2014年)などの優れた実証研究を世に出している。本書も同様に、バルカン各国語を含む豊富な史料に依拠している。

 まず、本書の章と節の構成を挙げる。

序章 極右勢力の世界的な台頭
第一章 カウンター・ジハード主義とは何か-サイバー空間で続くユーゴスラヴィア継承戦争
  第一節 ヴァーチャル空間の十字軍戦士
  第二節 西欧とセルビアの極右思想の共鳴作用
第二章 ジハード主義とムスリム諸国の右傾化
  第一節 ジハード主義の思想的展開
  第二節 ジハード主義の結節点としてのボスニア
  第三節 伝統的宗教勢力の保守化
第三章 我々はヨーロッパ人種だ!-欧米の極右運動と「入れ替え論」
  第一節 極右の国際テロ・ネットワークとフランス新右翼の思想
  第二節 新たな人種主義の登場-フランス新右翼思想の新大陸での展開
  第三節 反ユダヤ主義の入れ替え
第四章 ブルガリアの新自由主義経済政策と極右勢力の台頭
  第一節 ブルガリアの新自由主義
  第二節 体制変動後のブルガリア政治
  第三節 ブルガリアの極右勢力
第五章 バルカン・ルート-奴隷化される難民たちと新たな特権階級
  第一節 西欧における都市政策の破綻とイスラムの犯罪視
  第二節 難民流入とシェンゲン体制の危機
  第三節 難民の犯罪化と人種主義の制度化
  第四節 新たな身分制社会への道
終章 正解の右傾化の正体
補論 シリアのアサド政権の崩壊から分かったこと

 第一章では、反イスラムのカウンター・ジハード主義を分析の対象とし、それが、ヨーロッパ各地の極右の国際的なネットワーク構築の核となっている点を述べている。第二章では、イスラム圏におけるジハード主義をその思想的系譜を分析し、カウンター・ジハード主義とジハード主義の構造的類似性を指摘している。第三章では、極右思想が、土着性を超えて普遍性を獲得し国際的なネットワークとるメカニズムに関して述べている。また、極右とリベラリズムの親和性を指摘する。第四章では、ブルガリアを例に、社会主義からの体制転換後の新自由主義的「ショック療法」を背景として、社会格差の拡大、経済の衰退、国外への人口流出、政治腐敗の構造化が起き、それが反グローバル化を掲げる極右の台頭とどう関係したのかを分析している。第五章では、2015年の「欧州難民危機」を背景に、極右の伸長を移民の増加だけを原因としては論じられないとし、人種差別が制度化される背景には、極右と新自由主義に依拠するリベラルの利害の一致があると指摘している。また、巻末の補論では、2024年秋のシリアのアサド政権崩壊とジハード主義者の背後にトルコ、ウクライナが存在することを述べている。

 本書の分析の対象は、多岐に渡っているが、そうした多様な対象の一つの焦点となっているのが、バルカン地域の状況である。第一章ではセルビアの極右イデオロギーの展開が、第二章では、ボスニアにおけるイスラム主義の展開が、そのものとしてもかなりの紙幅を割いて分析されている。また、第四章ではブルガリアを中心に体制転換後の社会、政治の変化を扱っており、バルカン地域に関心を持つ本紹介の筆者にとって非常に興味深いものでもあった。

 終章で明快に述べられているが、本書は、結論として、扱われている諸テーマは相互に結びついた複合的なものであり、その背後にグローバル資本主義の存在があること、リベラリズムに代わり極右思想が今やグローバル資本主義にとってシステムの維持のためにもっとも適合的なイデオロギーとなったことこそが、世界的「右傾化」の本質であると指摘する。

 本書に従えば、「右傾化」とはグローバル資本主義システムの自己防衛と自己存続の過程そのものであり、今後もこうした傾向が強まってゆくということであろう。その点からすれば悲観的にならざるを得ないが、ただ、それ故に、著者があとがきで述べるように、「システムから排除される人々と、なんとかシステムに踏みとどまっている人々が協力して、負の流れを逆転させることである。連帯という言葉の意味は今後ますます重要になるであろう。」という言葉に重みを感じる。

(「世界史の眼」No.71)

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書評:小倉充夫『民主主義の躓き 民衆・暴力・国民国家』(東京大学出版会、2025年)
木畑洋一

 日本を代表するアフリカ研究者として、数々の研究を積み重ねるとともに、すぐれた後継者たちを育ててきた小倉充夫氏が、『自由のための暴力 植民地支配・革命・民主主義』(東京大学出版会、2021年)という挑戦的な論文集を出版してから、わずか4年の間を置いただけで、これまたきわめて刺激的な著作である本書を世に送り出した。いずれもA5版で300頁になんなんとする本であり、現代世界を見通していく上で鍵となる問題について、著者が全力で取り組んでいる様相をよく示している。そこでの視角の中心を占めるのは、二著のタイトルに共通してあらわれる暴力と民主主義という問題だといってよいであろう。そして、暴力や民主主義を論じるに際しての著者の立場の特徴となるのは、前著の副題に出てくる植民地支配という要因にあくまでもこだわるという点である。アフリカ研究者としての著者の強みがその点で十分に発揮されるわけであり、それがこれらの本の価値を高めている。

 このことは、本書について特に言えるであろう。民主主義がいかなるものであり、あるいはそれがどのようなものと考えられ、現代世界においてどういった様相を呈しているかについては、実にさまざまな検討がなされてきている。とりわけ、近年になって各国で民主主義の危機が叫ばれるようになってからは、『民主主義の死に方』といったセンセーショナルなタイトルを掲げた本などもあらわれるように、民主主義についての議論はかまびすしいものがある。しかしそのほとんどの場合、検討の対象となるのは、欧米の「先進国」や日本であり、韓国や台湾など独裁体制から民主主義的体制へと劇的な変化をとげた国々も着目されることがあるものの、それ以外の国、とりわけアフリカ諸国の状況はごく付随的にしか扱われない。それに対して、本書ではアフリカの経験が大きな比重を占め、とりわけザンビアの事例が随所で詳しく論じられる。

 本書の第1章「永続的な革命としての民主化」に、そうした本書の特色はきわめてよくあらわれている。著者は、「はじめに」で述べるように「民主主義は完成されることはなく、新たな課題を克服すべく絶えず発展してきたし、発展していくべきものと考えることができる」(5、以下カッコ内の数字は本書の頁数)という視点に立った上で、人々が民主主義に期待するものが時代によって変化してきたこと、その期待が既存の民主主義に対する挑戦の形をとってあらわれることを重視し、その具体例として西欧諸国における1968年前後の諸運動をあげる。代議制民主主義に疑問が投げかけられ、直接民主主義を追求する動きが台頭した時期として「1968」に注目することは、民主主義を論じる上でとくに珍しいことではない。ただ普通は、フランスの場合を軸に据えながら、「プラハの春」など東ヨーロッパも視野に入れてヨーロッパ諸国の状況を論じ、米国でのベトナム反戦運動や黒人の動きに言及し、日本のことにも触れる、といった形で議論が完結するのではないかと思われる。しかし本書の場合、そのような国々の検討を受ける形で「同時代のアフリカ」についての考察がなされるのである。

 1968年のアフリカといえば、多くの国々が独立直後であり、植民地主義からの完全な脱却と人々の生活水準の向上という二つの課題をかかえるなかで、それを実現するための体制を模索していた。代議制民主主義は、アフリカにおいては、それまでの植民地支配国がいわば遺産として残していった体制であったが、その形が問われるなかで、複数政党制を否定し一党制に向かう方向性が目立つようになった。アフリカ諸国のこうした変化は、従来、民主主義の後退、権威主義化の動きとして解釈され、欧米の「1968」とはベクトルが全く異なるものとして論じてこられたが、それが本書では、代議制民主主義の意味の問い直しという点で欧米の「1968」と同じ地平で検討されているのである。

 その場合に最も重要な検討対象とされているのは、ジュリウス・ニエレレが指導したタンザニアである。政治的独立後の課題に取り組んでいくためには、人々の団結を脅かす複数政党制は危険であり、一党制の方が現実に合うという議論をニエレレは展開した。こうした主張を、植民地支配に伴う人工的な境界線引きの結果作られた国家領域のまま独立したアフリカ諸国の状況を重視する著者は、肯定的に受けとめる。そして、「普遍的人権を保障する政治制度についてみれば、各政治共同体成立の経緯や社会経済的条件の相違に応じて、特定の時点における制度の選択には様々な可能性があると考えるべき」(52)であると、「1968」の文脈にアフリカ諸国を位置づける際の基本的視座が再確認される。「1968」のアフリカ諸国にどのような「選択の可能性」があったかについては、より立ち入った検討が必要であるという感は残るものの、こうした柔軟な視点はきわめて重要である。

 著者は、本書のタイトルとした「民主主義の躓き」をもたらしている要因として、サブタイトルにある民衆、暴力、国民国家という三つの要因を指摘し、それらは民主主義の内部に存在しているとしつつ、今紹介した第1章につづく三つの章でそれぞれに関する議論を展開する。この内、第3章「民主主義の暴力」と第4章「国民国家の民主主義」では、アフリカについての考察が議論の中心に置かれることになる。

 第3章で著者は、構造的暴力への反抗としての暴動や社会的分断がもたらした暴力にまず着目する。構造的暴力の最たるものは植民地支配であったし、植民地から独立して新たな国家を形成する歴史的経緯から社会的分断を免れがたかったアフリカ諸国についての検討が、まさにこうした議論の核となる。ここで著者は、自身がザンビアの首都ルサカで約20年の間隔をおいて行った社会調査の結果に拠りながら、若年齢層を中心とするアフリカの都市住民の存在態様と意識についての分析を行っている。

 第3章ではさらに、20世紀末にアフリカ諸国があいついで民主化(「第三の民主化」)を遂げて複数政党制が導入されるようになった後の、「民主化に伴う暴力」も注目されている。複数政党制のもとで選挙が実施されるなかで暴力が誘発されていったわけであるが、それについて著者は、第1章で扱われた独立直後の状況とは異なって、民主化を推進していった外部要因(欧米諸国の援助政策の変化など)も十分考慮に入れる必要があるとしつつ、さまざまな国の例に言及する。そうした考察を踏まえた上で、著者は、「植民地主義・帝国主義によって作りだされた対立を克服し、構造の歪みを解消する運動が今日いたるところで噴出している」(161)と、民主主義のもとでの暴力の歴史的背景に改めて注意を促し、民主化を論じる際にそうした歴史が忘却されることに警鐘を鳴らすのである。

 第4章で問題とされる国民国家に関しても、検討の中心はアフリカに置かれる。ここで評者が最も注目した文章は次のようなものである。「[欧米では]代議制の展開は階級闘争の歴史でもあった。ところが植民地では北ローデシアの例から分かるように、代議制をめぐる対立は優れて人種差別、異民族支配とかかわる問題であった。議会や選挙権の問題は民族解放の問題であり、生れつつある国家の主体は誰なのかという問題であったといえる。」(195)植民地支配を脱して民族解放を達成した国々は、支配国によって恣意的に引かれた国境線のもと、国民国家として多くの問題をかかえており、「国家の主体は誰なのか」ということを追求するなかで、民主主義の躓きを経験してきたのである。「近代国家における国民形成とは、支配的民族への同化の進行というのが実態であった。ところが良かれ悪しかれ同化の中核となるべきものが、存在しないか、自明でない場合が旧植民地には多い」(221)という指摘が、問題の核心をついている。そうした条件を生んだ植民地主義という歴史的背景の重みにここでも気づかされる。

 第3章にせよ第4章にせよ、著者が取りあげる論点は多岐にわたっており、ここでの評者による紹介はその一部をすくいあげたものにすぎない。著者は欧米における事例や民主主義論にも広く眼を配りつつ、アフリカの問題を位置づけているが、その豊富な内容はここでは扱いきれない。そうした第3章、第4章の内容と比べた場合、民衆という要因を対象とした第2章では、民衆・大衆に関する欧米での議論(ジョン・スチュアート・ミルやオルテガ・イ・ガセットなど)の丁寧な検討や、代議制民主主義を補いうる制度としてのくじ引き制の考察など、これまた豊かな中身をもつものの、話題が欧米の事例に集中し、アフリカ(さらに他の非欧米世界も)への言及がなされていない。これは、本書を通読した後、評者が最も不思議に思った点である。すでに紹介したように、著者はアフリカでの社会調査を通してアフリカ民衆の声に直接接する体験などをもっているわけであるが、その知見は第2章での議論に生かされなかったものであろうか。第5章「失われた確信と新たな試練」、終章「未完の民主主義」で、現在における民主主義の後退の様相、デジタル技術の進歩とも関わる未来への展望が、アフリカの事例をも踏まえながら語られていることからも、本書のなかでの第2章の特異性が目立つのである。

 最後はないものねだりの書評となってしまったが、そのことが本書全体の価値を下げるものでないことは、強調しておく必要があろう。グローバル・サウスの考え方や動向がさまざまな局面で注目されている今、アフリカを視野の中心に据えて、植民地支配下にあった歴史的背景を常に念頭に置きつつ、独立後の模索の過程から、冷戦終結に連動する「民主化」の様相を経て、21世紀の現在までの民主主義の変遷を論じる本書がもつ意味は大きい。著者は、あくまでも「民主主義の躓き」について議論しているわけであり、「躓き」から立ち直れば、民主主義の将来はまた開けるというのが基本的な展望であろう。ただそのためには、民主主義の状況を傍観する姿勢は許されない。「闘うしかないことを覚悟するところから希望の光が生まれる」(279)という本書を結ぶ一文の意味は重い。

(「世界史の眼」No.70)

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