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ノモンハンからの世界史(上)―二つの「満蒙」旅行記を通して―
小谷汪之

はじめに

1 飯塚浩二『満蒙紀行』(1)―アルシャン行

2 飯塚浩二『満蒙紀行』(2)―ホロンバイル草原行

(以上、本号)

3 村上春樹「ノモンハンの鉄の墓場」

おわりに

(以上、次号)

はじめに

 人文地理学者で当時東京帝国大学教授だった飯塚浩二(1906-70年)は、1945年2月初めから6月下旬まで、満洲国(日本帝国主義がつくりだした傀儡国家。1932-45年)と「北支」(中国北部)をほぼ五か月間旅行して回った。まさに敗戦(1945年8月15日)直前の時期であるが、彼の「満蒙」旅行は満鉄(南満洲鉄道株式会社)と国通(満洲国通信社)という物流と情報の二大会社のネットワークに乗った悠々たる旅であった。戦後、飯塚はこの旅行時の日記を整理して、『東京大学東洋文化研究所紀要』に7回に分けて掲載した(1953-67年)。飯塚死後の1972年、これらをまとめたものが『満蒙紀行』という書名で筑摩書房から出版された(『飯塚浩二著作集 10』〔平凡社、1976年〕5-472頁に再録。以下、引用等はこれによる)。

 他方、村上春樹は、1994年6月、ノモンハン戦争(当時の日本におけるいい方では、ノモンハン事件)の戦跡を見るのを主目的として、中国とモンゴル国を訪れた。同行者はカメラマンの松村映三だけであった。ノモンハン戦争は1939年5月から9月にかけて、満洲国とモンゴル人民共和国の国境線をめぐって、主として日本軍とソヴィエト連邦(ソ連)軍の間で戦われた本格的な戦争で、日本軍は約2万人の死傷者を出して完敗した(ただし、グラスノスチによる歴史的資料公開により、ソ連軍側の損害も多大だったことが判明した)。村上のこの旅行の記録は「ノモンハンの鉄の墓場」と題されて、村上春樹『辺境・近境』(新潮文庫)に収録されている(以下、引用等はこれによる)。

 本稿では、これら二つの「満蒙」旅行記を通して、かつての満洲国、ソ連、モンゴル人民共和国の三国、そして現在では中国、ロシア、モンゴル国の三国が交錯する地域、特にノモンハン戦争に関係する地域に焦点を当て、そこからどのような歴史が見えてくるかを考えてみたい。(以下、片仮名の地名はモンゴル語など中国語以外の言語の地名で、カッコ内はその中国語音写である。引用文中の〔 〕は引用者による補足など。)

1 飯塚浩二『満蒙紀行』(1)―アルシャン行

 飯塚浩二は、1945年2月6日、下関から釜山にわたり、京城(現、ソウル)を経て、9日に満洲国の首都、新京(現、長春)に到着した。南満洲各地の工場などを視察して回った後、3月9日、山海関を経て「北支」に入り、北京や張家口にしばらく滞在した。4月21日、北京を出発、古北口で長城線を越えて満洲国熱河省の承徳(熱河)に到着した。約14時間の列車の旅であった。4月24日、承徳から奉天(現、瀋陽)に行き、26日には、再び新京に入った。ここから飯塚の「興安地区」(興安省)の旅行、すなわち「満蒙」旅行が始まったのである。「興安地区」(興安省)は満洲国、ソ連、モンゴル人民共和国の三国が境を接するところであった(付図1参照。国境線はノモンハン戦争以前のもの)。

 5月2日、飯塚は新京―白城子間を結ぶ京白線で新京を立ち、途中哈嗎駅で下車して鐘紡の王府種牧場などを見学した後、4日に白城子に着いた。翌5日、白城子―アルシャン(阿爾山)―ハロル(杜魯爾)間を結ぶ白杜線で白城子から、興安に行った。興安はもともとは王爺廟という町であるが、満洲国時代に「興安各省の行政中心地」となり、こう呼ばれるようになったのである。翌6日朝、白杜線で興安からソロン(索倫)に向かったが、ソロンからは国境地帯に入るということで、車内で身分証明書の検査があった。ソロンでは満州国地方官吏(日本人)の出迎えを受け、「索倫旅館という中国式の素朴な宿屋に案内される」。夕食は、旗長(モンゴル人。「旗」は地方行政区)や旗公署参事官(日本人)らと中華飯店で「大きな食卓二つをかこんで、賑やかであった」。翌日には、「二頭曳きの鉄輪の大車」でソロンから40キロメートルほど離れた満洲屯を訪ね、屯長(モンゴル人)の家で一泊した。屯長の家は切妻造りの固定家屋と5、6軒のパオ(モンゴルの移動家屋)からなる複合家屋で、飯塚は包に泊まりたかったのだが、寒いということで固定家屋の方に泊まることになった。

 翌8日、ソロン(索倫)に戻り、午後の列車でアルシャン(阿爾山)に向かった。「先日は王府から白城子への道中で、いかにも大陸らしい無際涯な茫漠たる平面の連続に感心した」。しかし、アルシャンに向かって「興安嶺をここから先に懐深く入ってみると大したもので、いわば内地の神河内〔上高地〕を幅広くしたような素晴らしい景色である」と飯塚は書いている。アルシャンに着いたのは午後8時ころだったが、「阿爾山〔アルシャン〕には、満鉄が軍のためにサーヴィスして建てた近代的なホテルがある外はバラック〔兵舎〕ばかり」であった。「車内の鉄道地図によればこの先にもまだ軌道はあるはずなのだが、純軍用とみえ、われわれ『地方人』はここで足留ということになる」。この時点での白杜線の終点はハロル(杜魯爾)であるが、アルシャン―ハロル間は軍用鉄道になっていて、軍人以外の一般人は乗れなかったということであろう。

 飯塚は、翌9日朝7時に、列車でアルシャンを立ち、午後4時興安に戻った。夜は国通の興安支局長や興安省公署の参事官と会食した。「日本風の料理で、魚づくしのたいそうなご馳走だった」。

 アルシャンには短時間しかいなかったため、アルシャンについての飯塚の記述は極めて簡略で、アルシャンがノモンハン戦争に深くかかわる地であることについては全く言及されていない。アルシャンには日本軍(関東軍)の駐屯地があったから、ノモンハン戦争時には、度々ソ連機による空爆を受けている。日本軍の方でも、公主嶺に駐屯していた戦車部隊を新京―白城子―アルシャンと、飯塚の旅程と全く同じ鉄道路線で輸送して、アルシャンからノモンハン方面に進発させている。もっとも、この旧型の日本軍戦車は実際には何の役にもたたなかったのであるが。当時、天皇制政府や帝国陸軍はノモンハン戦争における敗戦を極力隠蔽しようとしていたので、飯塚はアルシャンとノモンハン戦争のこのようなかかわりを知らなかったのかもしれない。

 5月10日、飯塚は興安駅前からバスに乗って、西科後旗(科爾沁右翼後旗)に行った。西科後旗は興安とソロンの中間ぐらいに位置し、白杜線より北にある。旗公署で参事官(日本人)に迎えられ、午後は参事官の釣りに同行、夜は「今日の釣りの獲物を用いた中華料理の卓を囲む」。翌11日、飯塚は「せっかくここへ来たのだから」ということで、「中村少佐、井杉曹長の殉職の址を訪れ」た。中村大尉(殉職後、少佐に昇進)殉職事件とは次のような事件である。

 1931年6月、中村震太郎大尉(当時、参謀本部第一部作戦課兵站班所属)は大興安嶺東側地方の兵要地誌(軍事用地理情報)調査を命じられた。中村大尉は、東清鉄道昂々渓駅近くで旅館昂栄館を営む予備陸軍曹長井杉延太郎に同行を依頼するとともに、井杉を介してロシア人一人とモンゴル人一人を通訳などとして雇った。

 6月9日、中村大尉一行4人は東清鉄道で満洲里方面に向かい、大興安嶺山中のイルクト(伊爾克特)駅で下車した。兵要地誌調査を行いながら、馬で大興安嶺東麓にそって南下し、ソロン(索倫)を経て、7月初めまでには洮南に出る予定であった。しかし、その後、中村大尉一行の消息は絶え、7月中旬になっても洮南に到着しなかった。そのうえ、中村大尉と井杉予備曹長は中国兵によって殺害されたらしいという噂が広がった。それで、関東軍などが調査を行い、その結果、次のような事情が明らかになった。

 6月25日早朝、中村大尉一行はジャライド(扎賚特)付近を出発して蘇卾公府をめざした。蘇卾公府はソロンと興安の間に位置する集落であるが、張学良(当時、中華民国東北辺防総司令)配下の正規軍、屯墾第三団約600人が駐屯していた。中村大尉一行が蘇卾公府付近まで来た時、屯墾第三団員がそれを見とがめ、屯墾第三団長代理、関玉衡かんぎょくこう中佐が中村大尉らを尋問した。荷物検査も行われ、軍事地図1枚、日誌2冊などの書類が見つかったため、軍事スパイではないかと疑われた。

 6月27日午後10時頃、関玉衡中佐は部下の部将たちに「大車」一台と石油一缶を用意し、4人を東方2キロメートルほどの丘に連れて行って、銃殺せよと命令した。「大車」で目的地に運ばれた中村大尉らはそこで直ちに銃殺された。証拠隠滅のために、4人の死体は散兵壕内で石油をかけて焼却され、埋められた。

 この事件は日本国内でも広く知られ、反中国感情を激化させて、満洲事変(1931年9月18日勃発)の一因となったとされている。飯塚もこの事件についてはよく知っていたので、西科後旗に行った際に、そのすぐ近くということで、中村大尉らの「殉職の址」を訪ねたのである。あるいは、こちらの方が西科後旗に行った主な目的だったのかもしれない。いずれにしろ、この中村大尉殉職事件には陸軍(関東軍)による情報操作の臭いが付きまとっている。飯塚にもそれにのせられた面がありそうだ。

 5月11日、西科後旗から興安に戻った飯塚は、その夜、国通の興安支局の庭に建てられた包のそばで、国通興安支局長らとともに「成吉思汗料理に満腹」した。翌日と翌々日は興安でいろいろな人と会った後、13日に列車で白城子に行き、一泊した。

2 飯塚浩二『満蒙紀行』(2)―ホロンバイル草原行

 1945年5月14日早朝、飯塚は四平(四平街)とチチハル(斉斉哈爾)を結ぶ四斉線で白城子駅を立ち、チチハルに行った。チチハルからは別の鉄道路線で昂々渓駅に行き、そこで「国際列車」(旧東清鉄道)に乗り換えて、西の終点、満洲里に向かった。列車は午後4時15分に発車し、車中で一泊、翌15日午前11時に満洲里に到着した。20時間近い長旅であった。駅では国通の特派員が出迎えてくれ、一緒に興安水産の直営店という料理屋に行った。「純日本式の料理で中食を御馳走になってから」、国通特派員の案内で「馬車で市街を一巡した」。満洲里はソ連との国境の町で、ちょっと高いところからはソ連領内がよく見えた。

 飯塚は、翌16日には、興安水産の魚集荷用のトラックに便乗して、ダライノール(別名、ホロンノール)を訪ねた。大興安嶺西麓と満洲里との間の広大な草原はホロンバイル草原と呼ばれるが、それはホロンノール(ダライノール)とノモンハン近くのバイルノールを合わせた名称である。ダライノールに着いたのは午後7時ころで、この日は興安水産の出張所に一泊した。翌17日には、「五号漁場」に行き、揚がったばかりの鯉や鮒の生魚や塩漬け魚をトラックに積み込むのを見学した。ダライノールは琵琶湖の三倍を超える大きな湖であるが、水深は深いところでも4メートルほどということで、魚類の豊富な湖であった。ダライノールを含めて、この地方の漁業権は興安水産の独占であった。その後、魚を満載した興安水産のトラックで、満洲里の一つ東のジャライノール駅に行き、興安水産の事務所で「中国風の料理をゆっくりとご馳走になった」。ジャライノール駅からは「国際列車」(旧東清鉄道)ハルビン(哈爾浜)行きに乗り、夕方7時ころハイラル(海拉爾)に到着した。

 5月19日には、ハイラルの「旧城」を見に行った。正方形で、東西南北の壁の中央に門があり、十字形の道路が通っている、中国的な町であった。ハイラルはこの地方の商業の中心地で,隊商宿が軒を接していた。20日には、ハイラルから西に二駅戻って、ワングン(完工)に行った。「ハイラル河畔の草原に入ってもう少し遊牧民の生活をのぞいてみようというわけで」、ハイラル河を渡って、この地方の有力者の包を訪ねた。その後、午後6時発の「上り国際列車」でハルビンに向かい、翌21日午後3時にハルビン駅に到着した。一週間ほどのホロンバイル草原の旅であった。

 飯塚のホロンバイル草原行の記録を見ていても、気がつくのは飯塚がノモンハン戦争に全く触れていないということである。飯塚が「軍都ハイラル」と書いているように、ノモンハン戦争時にはハイラルに日本軍の司令部が置かれ、日本軍諸部隊はハイラルに集結して、そこからノモンハン方面に進発した。前にも書いたように、当時、天皇制政府や帝国陸軍はノモンハン戦争における敗北を極力隠蔽しようとしていたが、「軍都ハイラル」とノモンハン戦争の深いかかわりについては現地では隠しようもなかったであろう。飯塚はノモンハン戦争に触れることを、時局がら、意識的に忌避したのであろうか(戦後になってこの日記を公開した時には、そのような「用心」はもはや不要だったはずだが、加筆する気はなかったのであろうか)。

 このアルシャン行とホロンバイル草原行において、飯塚は日本の敗戦が間近いことを実感した。しかし、満洲現地の日本人たちは戦況の深刻さをあまり気にしていないように見えた。「当時の満州の日系以外の人々の間に、日本帝国最後の日はもう目にみえているというのに、日本人たちはどうしてああ平気でいられるのだろうと不審の声があったのは、五月にはすでに蔽い難い事実であった」。もっとも、それだから、飯塚は各地で歓待を受け、「たいそうなご馳走」になったりできたのであるが。しかし、旅行中に飯塚が世話になった人々、満洲国の日本人地方官吏や満鉄と国通の職員などで、1945年8月9日からのソ連軍の満洲侵攻によって命を落とした人は決して少なくなかった。例えば、興安の金澤特務機関長は飯塚に向かって、「満州国内に動乱が起こっても、邦人婦女子は興安地区で大丈夫引き受けます」と豪語していたが、「ソ連軍の侵入を迎えて戦線に散ったということである」。それどころか、興安から一駅白城子よりの葛根廟(チベット仏教寺院)付近では、日本人避難民がソ連軍や現地民に襲われ、約1000人の犠牲者を出した(「葛根廟事件」)。そのほとんどは「婦女子」であった。その他にも、興安付近では、興安東京荏原開拓団(東京品川、武蔵小山商店街の商人などの開拓団)の避難民約620人、興安仏立ふつりゅー開拓団(正式には、仁義仏立講開拓団。東京、乗泉寺の信徒たちからなる開拓団)の避難民約470人が命を落とした(満洲開拓史刊行会編『満洲開拓史』、1966年、430頁)。飯塚は、戦後になって旅行記を公開した際にも、「葛根廟事件」などについて全く触れていない。知らなかったのであろうか。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.18)

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文献紹介:セバスティアン・コンラート(小田原琳訳)『グローバル・ヒストリー-批判的歴史叙述のために』(岩波書店、2021年)
山崎信一

 セバスティアン・コンラートの手による本書は、さまざまな形で世に出ているようなもののように「グローバル・ヒストリー」を通史的に叙述したものではなく、歴史研究のアプローチ方法、あるいは歴史を見る視点として「グローバル・ヒストリー」を提唱し、その理論化を試みた著作である。いわば方法論としての「グローバル・ヒストリー」を探究する試みとも言えるだろう。著者のコンラートは、ドイツの歴史家で、日本を含む東アジア研究やドイツ植民地主義の研究を主たるフィールドにして研究を続ける一方、グローバル・ヒストリーの研究にも携わってきた。その成果が、2016年に原書が出版された本書となる。著者自身、外国史研究をフィールドの一つとし、また世界各国での生活経験を持ったことも、こうした関心の背景にあるだろう。

 本章は10章よりなっている。以下、各章の内容に関して概観してみる。第1章から第3章までは、本論に対する導入部分をなしている。「第1章 イントロダクション」では、本書の狙い、すなわちプロセスとしてではなく視点としてグローバル・ヒストリーを取り上げる点が説明され、ただしそれが万能ではないという点への留保もされている。また、国民国家を単位とする歴史叙述やヨーロッパ中心主義といった、従来の歴史学の方法論の限界の中から生まれたグローバル・ヒストリーを、「すべての物事の歴史」、「交換と接続の歴史」、「統合に着目した歴史」の三類型に分け、第三の類型に可能性を見出している。「第2章 「グローバル思考」小史」は、いわば世界史/グローバル・ヒストリーのヒストリオグラフィーであり、古代から現代までの世界史理解がどのように変遷してきたのかを、非ヨーロッパ世界におけるものやサバルタン研究などにも目配りしながらまとめている。ここでの重要な論点は、「世界史」における「世界」が書かれる時と場所に応じて形成されるものであるという指摘だろう。「第3章 競合するアプローチ」においては、5つの方法論、「比較史」、「トランス・ナショナル・ヒストリー」、「世界システム論」、「ポストコロニアル・スタディーズ」、「「複数の近代」論」を取り上げ、利点と限界の両面から分析している。これらはいずれもナショナルな視点を超克し、西洋中心主義を超えるという、グローバル・ヒストリーのアプローチとの共通性を持つものであり、競合的というよりは相補的でありうる。

 第4章以降が本論に相当するが、「第4章 アプローチとしてのグローバル・ヒストリー」では、この後の章において詳述されるこのアプローチの全体的な見取り図を提示している。グローバル・ヒストリーのアプローチは、接続とそれによる移転と相互作用を強調するのに加えて、さらに7つの方法論上の特徴(「ミクロな問題をグローバルな文脈に位置付けること」、「所与の空間を前提としない」、「関係性と相互作用への着目」、「内在的発展より空間的関係性の重視」、「歴史事象の同時性の強調」、「ヨーロッパ中心主義への批判」、「ポジショナリティの認識」)があることが示される。また、考察の対象が単なる接続ではなく、それによる統合や構造化された変容にも及び、グローバルなレベルでの因果関係の探究が重視されている。また、グローバル・ヒストリーのアプローチの実践例として、国民とナショナリズムの問題が簡単に分析されている。「第5章 グローバル・ヒストリーと統合の諸形態」では、構造化された統合に関して分析対象としている。統合を強調することにより、グローバル・ヒストリーがグローバリゼーションの歴史となるわけではない点、さまざまな因果関係の関係性に着目することで、構造の強調が個々の主体の営みを過小評価するのではない点、グローバル・ヒストリーの視点が16世紀以降、特に19世紀以降の分析に有用だとしても、そこにアプリオリに限定されるものではない点が議論されている。「第6章 グローバル・ヒストリーにおける空間」では、ナショナルな枠組みを超える戦略として、「大洋などのトランスナショナルな空間」、「人、もの、観念などの「追跡」」、「ネットワーク」、「ミクロストーリア」の4つの空間設定が提示されている。また、いかなるものであれ空間の構築性を理解する必要があり、グローバルな枠組みが特権的なのではなく、空間的尺度のひとつに過ぎないという点が強調されている。「第7章 グローバル・ヒストリーにおける時間」では、空間の尺度と同様、時間の尺度にも多様性や重層性があること、特権的な時間的尺度も存在しないという点を指摘している。全人類史に一貫した時間的枠組みを設定する「ディープ・ヒストリー」や「ビッグ・ヒストリー」に対しては、決定論的である点、自然科学的法則性を重視する点には陥穽があると指摘している。一方で共時性を重視することは新たな視点を開くものであるが、連続性を軽視することもできないとも述べている。著者によれば、空間的にも時間的にも、複数の尺度のバランスが必要だということになる。「第8章 ポジショナリティと中心化アプローチ」が対象とするのは、ポジショナリティ、すなわち歴史を叙述する立ち位置に関してである。ここでは、ヨーロッパ中心主義の脱却を志向することが、さまざまな○○中心主義の増殖をもたらした点が言及される。著者はポジショナリティに自覚的であるべきこと、それ自身が不平等と排除のメカニズムを持つ点も指摘している。幾分哲学的な「第9章 世界制作とグローバル・ヒストリーの諸概念」では、歴史家の「世界制作」としての歴史研究とそのもたらすものを対象としている。ここでは、近代社会科学の諸概念や術語の限界にも言及しながら、一方で非西洋的概念に開かれていることが、これまでの蓄積を無にはしないとも述べている。最終章である「第10章 誰のためのグローバル・ヒストリーか?-グローバル・ヒストリーの政治学」においては、グローバル・ヒストリーのアプローチの持つ限界にも触れている。歴史学が国民国家との密接な関係の中でそれに資する形で発展した一方、グローバル・ヒストリーはグローバリゼーションを支えるイデオロギーではなく、むしろそれを批判する視点を提供するものであると著者は述べている。さらに知のヒエラルキーの問題、英語のヘゲモニーの問題を指摘した上で、グローバル・ヒストリーの5つ限界(「接続性の特権化による過去の特定の論理の消去」、「移動や接続性への執着」、「権力の問題の無視」、「個人の役割の無力化と責任の問題の外部化」、「「グローバル」という術語による歴史の現実の単純化」)を挙げている。また巻末に、翻訳者による「誰のために歴史を書くのか」と題された解説が付されており、本書の背景、クロスリーやハントの議論との比較、本書の的を射た要約が述べられている。

 本書において一種の方法論としてのグローバル・ヒストリーを特徴づけようとする中、著者の非常に抑制的な態度が目につく。さまざまな限界を同時に提示し、また歴史を語る自らの立ち位置にすら批判的である。しかし、グローバル・ヒストリーを「歴史の見方」として、位置付けることは、疑いなく意味を持つだろう。とりわけ、個人史などのミクロヒストリーが、グローバル・ヒストリーとつながるという指摘は示唆的である。それは例えば、シリーズ「日本の中の世界史」(岩波書店、2018-19年)の各巻とも通底するものだろう。最後に、原書刊行から比較的短期間のうちに平易な翻訳を仕上げた訳者にも敬意を表したい。

(「世界史の眼」No.18)

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世界史のかたわらでのヘンリー・ソローの存在
山口晃

 ソローという人は刑務所に入っていたのはたった一日で、森で暮らしたのもわずか二年だけだったのですか。生涯の半分は森で暮らし、半分は刑務所に入っていたのかと思っていましたよ。これは私の作り話ではない。彼の生まれた国でも漠然とそのように思っている人がいると聞いたことがある。『森の生活』と「市民的不服従」が彼を代表する作品だからである。そして作品を読むことで現代文明と社会を批判する孤高の人という像ができていく。いまのここに満たされない、それを補ってくれる憧れをともないながら。ソローにとって刑務所の一晩はとびきりの一日であったのだろうか。彼にとって森の生活は、そうでなかった日々とくらべ根本的に大切だったのだろうか。ソローの一日を市民的不服従の一日で、また森の生活の日々で代表することは、ソローの生活に即して考えるときふさわしいことでない、と私は思うようになっている。彼の市民的不服従の劇的な時も、森の生活という異空間・異時間も、当然ながら日常的な日々に支えられていた。あるいはそれらと併存なしにはありえなかった。だが、私たちがこの世界にある、という点から考えるとき、併存でよしとするというところでとどまっていられないように思える。もう一歩踏み込む必要があるのではないか。

 その小道を歩く前に、特別な一日であったとふつう考えられている市民的不服従の日を、まず素描してみよう。氷河期にできたウォールデン湖のかたわらにソロー(一八一七~六二年)が行ったのは、一八四五年早春であった。小屋を作るために背丈のあるマツを伐り、棟上げは隣人・友人に手伝ってもらったとしても、小屋は自ら作り、夏至を過ぎた七月四日にそこへ移る。ほぼ一年後の七月下旬のある夕方、修理に出していた靴を受け取るため、ウォールデン湖からコンコードの村へ歩いていた。通りで地方治安官・収税吏・牢の看守を兼ねていた サム・ステープルズに呼び止められ、ここ数年間の人頭税の支払いを求められた。「もし金に困っているなら、ヘンリー、俺が支払っておこう」とステープルズは言った。また人頭税が不当に高いと思っているなら、町の行政委員に引き下げてくれるよう自分が掛け合ってもいい、と提案してくれた。しかしソローは、自分は考えがあって払ってこなかったのだから、いま払うつもりはない、と答えた。ステープルズはそれでは自分はどうしたらよいかと尋ねると、その職務が好きでないなら、辞職することもできる、とソローは言った。ステープルズはその案を受け入れる気になれなかった。「ヘンリー、もし君が払わないのなら、刑務所に入ってもらわなければならないよ。」「いつでもいいよ、サム。」「じゃあ、来てくれ」と言って刑務所に連れて行った。ソローが人頭税を払ってこなかった理由は、「国の人口の六分の一が奴隷である」こと、そして「私たちの国の軍隊が侵略軍になろうとしている」こと、つまり政府が奴隷制を認め、メキシコと戦争を行なっている(メキシコ戦争は一八四六年から四八年)からであった。

 ソローの家族は奴隷制の問題に関心を抱いていた。母親シンシア、姉ヘレン、妹ソフィア、知人のプルーデンス・ウォードといった女性たちは奴隷制反対の活動をしていた。コンコードを訪れる奴隷制反対の活動家は、その晩、ソローの母親の下宿にとまるのが常であった(ソロー家は父親の営む鉛筆製造業のほか家庭的な下宿屋も営んでいた)。当時ニューイングランドの著名な奴隷制廃止論者で、ソローの母の食卓に座ることのなかった者はひとりもいなかったと言われている。

 ソロー逮捕の噂はたちまち村中に広がった(当時、住民たちは人口二千人ほどの自分たちのコンコードを町よりも村と呼んでいた)。母親はそれを聞くと、刑務所に駆けつけ、噂の真相を確かめると家に戻り、家族に知らせた。サム・ステープルズはその晩しばらく外出していたが、帰宅すると、娘のエレンが、留守中に誰かがドアをノックして、「ソローさんの税を支払うお金がここに入っています」と言いながら包みを手渡した、と報告した。娘の話を聞いたときステープルズはちょうど長靴を脱いで、火のかたわらに腰かけていたので(コンコードは北海道の南部ほどの緯度である)、わざわざ靴をもう一度はき直すつもりはないと言った。ソローはその晩は刑務所で過ごし、翌朝、釈放されればよいと思ったのだ。

 誰が税を払ったのかは、はっきりわかっていない。ソロー家に同居していたおばマリア説が有力である(ソロー家はおばたち、時にはおじ、そして下宿人がいて、つねにいわば大家族であった)。ソローは母親には自分のやり方に口出ししないという約束を取り付けていたかもしれないが、おばマリアはそういった約束に拘束されていないので、介入し、税を払った可能性が高いわけである。それ以来定期的に、おそらくソローが死ぬまで、彼女か他の人が前もって彼の税を払ったため、こうした事件は二度と起こらなかった。

 翌朝、ステープルズは釈放しようとしたとき、ソローが刑務所を出たがらないことを知り、びっくりした。一刻も早く出所したいと望んでいない、これまで出会ったただ一人の収監人だった。実際、ソローは釈放されることに怒っていた、とステープルズは言う。逮捕されれば自分が反対してきた奴隷制度に町の人々の注意を向けることができ、それこそが納税を拒否した目的であった。おばマリアが税を払ったとき、彼女は彼の作戦の肝心な点を台無しにしてしまったので、うれしくなかった。しかしステープルズは「ヘンリー、あんたが出ていかないなら、追い出すつもりだよ。もうここにはいられないんだ」と言い、ようやくソローは折れた。

 この出来事は、その後、町の人々の記憶からすぐに消えてしまうというものではなかった。町の多くの人々がソローのこの行為に関心を持っていたのである。牢に入ろうとした本当の理由わけを知りたかった。そこで一年半後、ソローは町の人々のそうした関心にたいして説明するため原稿を作り、一八四八年一月二十六日、コンコード文化協会で講演した(当時は、講演は冬期が多かった。また、講演というけれど、リーディングで原稿を読むものであった)。題は「政府との関係における個人の権利と義務」だった。ソローはその場で、聴衆が耳を澄まして聞いていることを感じる。それで三週間後、町の他の人々が聞けるように、講演の続きを行なった(以降、ソローはこの講演をどこにおいても行なっていない。このときのコンコードだけであった)。

 のちに市民的不服従として知られるようになるこのエッセイには後半、読者(あるいは聴衆)にとって不思議な、忘れられない一節がある。《私が投獄されたのは、修理に出していた靴を受け取りに靴屋に向かう途中でした。朝、牢から出されると、この用事を済ませることにしました。そして修理してもらった靴を履き、私に案内してもらうのを待ちかねていたハックルベリー摘みの一団に加わりました。馬具がすぐに付いたので、三十分後には二マイル離れた最も高い丘のひとつにあるハックルベリーの草原に私はいました。そこにはステートはどこにも見えませんでした。》ソローはコンコードのどこにハックルベリーが育っているかを誰よりもよく知っていた。そして女性や子供たちからなるハックルベイリー摘みの一団の「隊長」だった。ハックルベリーの最盛期は、もう少し時期的に後らしい。しかしこの記述は、ソローをずっと読んできて私は、修辞ではなく事実であったように思う。ソローは政治的行為の一日に、このように距離を置きながら原稿を閉じてゆく。

 それとこの出来事が含む忘れられない側面について触れておかねばならない。ソローを一晩刑務所に入れたサム・ステープルズは、ソローのもっとも大切な隣人のひとりであった。ソローはステープルズの土地を測量したとき(ソローの職業は測量士であった)、エマソンを巻き込んでじつに劇的な哄笑で終わる素晴らしい一場面を作り出す(引用しようとすると長くなってしまうので、ウォルター・ハーディング『ヘンリー・ソローの日々』をぜひご覧いただきたい)。また死の床にあったソローを見舞い、「これ以上満足した一時間を過ごしたことはありません。これほどの喜びと安らぎを湛えて死んでいく人を一度も見たことはありません」とエマソンに告げたのは、ステープルズだった。そのステープルズとの関係の中でソローの政治的行為を象徴する市民的不服従が生まれた。市民的不服従の底にあったのは、憎しみではなく、礼節、共同の空間の存在であった。

 ソローのこの一晩は、世界史における最初の市民的不服従と考えられている。それについての講演がたまたまなされ、のちにエッセイが掲載され残されたことで、この行為の姿が明確に表現されたことが、後押ししているのであろう。十九世紀中ごろの市民的不服従のこの出来事は二十世紀においてはインドのガンディーの南アフリカでの非暴力の行動、さらに合衆国のキング牧師の公民権運動の支えとなる。世界史におけるこの流れの意義は現在においてますます大切なものである。しかしソローやガンディーが何よりも考えた「この世界」は十分に顧みられてきたであろうか。つまり市民的不服従を行なった一日は、ソローの日々を代表する一日というよりも、そうではない一日をこそ、かれは自分の一日と考えていた、と私は思い始めている。本題に入ろう。

 この十数年、私は毎日ソローの日記を読んでいる。彼は二十歳の時からほぼ欠かさず二十年間ほど日記を書き続けた。二百万語。実に魅力的で楽しい日記だ。日記は部屋で書くこともあったが、野外の月光のもとで、あるいは焚火の明かりで書くこともあった。句読点はあったりなかったり、行変えも不ぞろいである。いくつか引用してみよう。ほとんどがこんな調子である。

《一月二日(一八四一年) 今日、一匹のキツネが自由な無頓着さで、湖を横切っているのを見た。彼が丘の尾根に沿って雪の上を足早に駆けるとき、私は日の光を浴びる彼の進みを距離を置いて追いながら、太陽がこれほど誇らしそうに、まっすぐ丘の斜面に差し、風と森が静かに共感していることはなかったように思えた。私は太陽と大地を、その真の所有者として彼に明け渡した。彼が太陽の輝きのなかを行ったのではなく、太陽の輝きのほうが彼について行くように思えた。彼と太陽の輝きのあいだに眼に見える共感があった。》キツネと太陽の共演に、観客のソローが加わっている。

《十月二十二日(一八五三年) 昨日、晩近く、ソフィアと母をボートに乗せる。片目の釣り人ジョン・グッドウィンが最近自分のボートで集めた流木を手押し車に乗せ、家に運んでいた。とても美しい夕べで、澄んだ琥珀色の日没が東の岸辺全体を明るくしていた。あの男の仕事はとても単純で直接的であり(もっとも、彼はほとんどの人から不道徳的な性格の持ち主とされているのだが)、冬用の薪を手に入れようとする気持ちは実によくわかるので、私には何とも魅力的であった。単純な仕事こそ私たちは愛することができる。それはまったく詩的である。》

 ソローはこのようにたびたび妹や母を自分で作ったボートに乗せ漕いでいた。ソローの好きな隣人のひとりグッドウィンは、母や妹から見ると、好ましい人物ではなかった。それをさりげなく並行して記入する日記は微笑ましい。枚数のことを考えると、ここで切り上げるべきなのだが、この日の日記は長く、次のような印象深い終わり方をしている。

《グッドウィンは変わることのない釣り人だ。この時期には小さなカワカマスの味をよく知っている。…何日間続けて釣りをするか、私などが言うのはおこがましい。しばらくのあいだほぼ毎日、たとえ雨でも彼は魚を釣っていた。外を見ると雨のなか、彼が籠と竿をもちオイルクロスのコートを着てゆっくりと歩いているのを見て私は驚いたことがあった。また先日は流れの真ん中で釣りをしていたが、その翌日は岸辺で釣っていた。そのときは一種の不思議な力に導かれ、私は彼のかたわらを漕いでいた。冬の餌用にヒメハヤを捕まえているのだ、と言った。私が二十ロッド離れると、二ポンド半の重さのあるカワカマスを持ち上げた。先ほど私に見せるのを忘れていたのだ。後で私に話したところによると、翌朝は三ポンドのを捕まえたそうだ。魚のいる池とカワカマスに関する委員を任命する必要があるとすれば、彼にその一人になっていただこう。彼の生はしっかりと大地に足をつけていて、評価するのが難しい。》ソローはこのようなとき、不思議な力に導かれそのほうへ漕いでいってしまうような人だった。ふだん使わない「委員」というような言葉を、このようなときに使い、その選定基準が他の人々のと違っている。

《十一月十八日(一八五七年) フラネリーは私が知っている最も大変な労働をする男だ。日の出前そして日没後も長い時間、彼は疲れを知らず、身体を使っている。そして結果は何とも陽気なのだ。彼はいつも元気だ。…たんに門が動かないだけでも、彼の喜びはその偶然にたいして湧き上がってきて、ふと口に出る言葉の中にそれがあふれているのだ。ただ勤勉であるというだけで、なんと多くを経験することだろうか。彼のふとした意見のなかにはしばしばきらめきがある。そして彼の声は本当に鳥に似ている。》門が動かないと、ふつう人は困ったと思う。大工さんを頼んで直してもらわねば。あるいは自分で直すにしても、いまやっている仕事が中断されるので困ったな、と思ってしまう。ところがフラネリーは直すことに無意識に喜びを感じてしまう。意見のひらめきが鳥の声に似ているとは、なんとも快い感受性。

 ソローの日記からの引用は楽しいのでやめられない。しかし結びへ入ろう。一八五八年十一月一日の日記を読みながら、私は不思議な方向へいざなわれていた。一八五八年十一月というと、ソローはあと三年半でこの世界を去る時期であった。彼にとって人生の晩年になる。秋も深まり、午後は短くなり、人々は家路に急ぐ。ソローはウォールデン街道の柵にもたれ、夕方の郵便が仕分けされるのを待っていた。そのとき彼はある根源的な思いに浸され、なじみのある十一月の夕べが再び巡ってきたことに気づく。そこには存在するというただそれだけの心地よさがあった。「私に求められている積極的な義務はきわめてわずかである、そういった状態である。」そして人間がこの世界にあることの深い意味を、日常生活の言葉で続ける。

《西の低湿地を通る長い鉄道の土手道、コオロギの鳴くのがほとんど聞こえない静かな黄昏、日没後だいぶたったころの地平線にできる雲の暗い層、郵便局へ行きそしてそこからローソクのかたわらの夕食へ足早に急ぐ村人たち、こうしたことすべてを私はかつて見なかったろうか。…本当は、私たちが真に深い教えを学ぶべきであることを、それらは示している。自然は古い綴り字教本のように、何度も何度もめくられるものなのである。私は完全に満足して、ずっとベンチに座っていた。想像される貴重なものや天国と引きかえに、私はこのなじみのある光景を代えようと思わなかった。》

 彼にとって根源的な思いとは、なじみある光景にほかならない。煙突から薪の燃える煙がゆるやかに立ちのぼってゆくのを見ると、ソローはかならずその下の炉辺、家庭の日常生活の営まれている姿を想像した。あの本当にゆるやかな柔らかい煙の広がり方に魅了される人であった。だからこそ薪になる木、枝、切り株、流木を拾い、集めることに喜びを感じたのであった。薪を割るときの身体のぬくもりもそれにつながっていた。基本のところに日常生活がある。ここで十一月一日のこの日記が閉じられていても、私は自分の晩年をも思いながら、この日の引用を自分のノートに書き写したであろう。

 しかし日記は、そこで閉じられず、唐突に次の数行が書き込まれている。《あなたが知っている現実のフレデリックは、ただ本で読むだけの人物の百万倍の価値がある。…そして朝、圧倒的な力でドアが叩かれる。これほどの客人はいない。私は家にとどまり、友を受け入れるであろう。》日記なので、脈絡はない。説明も一切ない。「圧倒的な力でドアが叩かれる」はどうやら、ヨハネ黙示録三章二十節からのようである。「見よ、私は戸口に立って、叩いている。だれかわたしの声を聞いて戸を開けるものがあれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をするであろう。」なぜここでキリストが?

 またフレデリックはメリーランド出身の元奴隷、奴隷制廃止運動家フレデリック・ダグラスの可能性がある。そしてソローは彼に複数回会ってきた。フレデリックは一八四五年自伝『アメリカ奴隷の生活を語る』を刊行したとき二十七歳で、さらに十年後の一八五五年には『我が拘束、我が自由』を刊行した。ソローの文の中の「ただ本で読むだけ」はそれに触れてのものであろう。

 一八五八年十一月一日の日記の中で圧倒的な力でドアをたたくのはキリストであった。このフレデリックがダグラスであるとすると、ドアを叩くのは黒人である。ニューイングランドのふつうのキリスト教徒にとって、これは考えられないこと、決して受け入れられないことであったろう。一方ソローはキリスト教および教会に対して距離を置き続けるが、キリスト本人に対してはかならずしも常にそうではなかった。聖書ほど読まれることの少ない本は珍しい、とさえ言う。

 十一月一日の日記のドアを叩く者は、キリストであったかもしれない。だが、ソローにとっては黒人フレデリックであったかもしれない。あるいはドアを叩くその響きのなかで、キリストと黒人が瞬間、瞬間入れ替わっていたのかもしれない。

 ソローは政治的行為にかかわったとき、ハックルベリー、スイレン、カイツブリなどそのときによって異なるが、かならず自然のものに触れた。触れずにはいられなかった。しかし一八五八年十一月一日は逆である。素晴らしい黄昏であった。ただ素晴らしいだけではなかった。慎ましい日常的な根源的な経験をしていると実感した。そのとき、ドアが叩かれていることを思った。「これほどの客人はいない。私は家にとどまり、友を受け入れるであろう。」受け入れ、共に食事をする。ソローにとっての政治的行為である。ソロー家には何人もの逃亡奴隷が立ち寄り、受け入れてきたのであるから、これは比喩ではなかった。しかし、なぜこのような静かな深い日常的な黄昏に、ソローはドアが叩かれていることに触れるのか。

 政治的行為の日の場合はハックルベリーやスイレンへの言及はわずか一言あるいは一、二行にすぎないのと逆の形で同じように、十一月一日では、行為への歓喜はわずか数行で終わり、先ほどの慎ましい根源的な日常生活について改めて深い記述へ戻ってゆく。いまの私にはこれ以上、わからない。しかしこれからもここにたたずむであろう。

《なんら新しいものを欲しない。私は年月を経た確かなものを十分の一だけ確保できれば、それ以外のすべての富をはねつけるだろう。ここから立ち去ると言った途方もない愚行を考えていただきたい。ここにはこれまでに私が持った、これから持つであろう、そしてこれまでと同じように友好的な、あらゆる友がいる。私は友人といさかいをおこしたことはなかった。一致が可能な心地よいものであった。私は友人たちとの関係において前へあるいは後ろへ一インチたりとも動こうとしないと思う。…最も短い距離をまわって帰り、家にとどまりなさい。…もちろんここには、あなたが愛しているもの、あなたが期待しているもの、あなたがそうであるもの、こうしたものすべてがある。ここにあなたの許嫁いいなずけが手に入れられるほど近くにいる。ここはあなたが想像することのできる最良のものと最悪のものがすべてある。あなたは他に何が欲しいというのか。》

 ふだんのソローに他ならない。悪しきものも良きものも含めて一つである。つまり一八五八年十一月一日は特別な一日であったが、ふつうの一日であった。世界史の流れのかたわらでこのふつうであり特別の日を、毎日生きる人がいた。それはまぎれもなく私たちの日々と地続きであった。

(「世界史の眼」No.17)

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グローバルに連結する哲学へ向けて(『世界哲学史第8巻』)
木村英明

 シリーズ『世界哲学史』の最終巻(別巻を除く)となる本書『現代・グローバル時代の知』では、20世紀初頭から21世紀に至るおよそ100年間の思想・哲学の模索が地球規模の広がりで扱われている。具体的には、「長い19世紀」が第1次世界大戦の惨禍によって終止符を打たれた近代の危機に端を発し、グローバリゼーションが地球の隅々にまで浸透した今現在に及ぶ時期の、西洋および非西洋の「世界」を思惟する多様な見取り図が示されている。

 しかし、周知のように、近代は手強い。本シリーズが古代、中世、近世、近代、そして現代と西洋近代の時間感覚に即して編まれていることからも明らかなように、西洋近代が作り上げた歴史観・認識の枠組みの外側に立とうとすると、いまだ人文科学の諸分野において、思考の不都合に直面させられる。本書では、この乗り越えがたい近代の桎梏を超えて進もうとする思索の数々を、各執筆者もまた、その困難さを誠実に抱え込みつつ紹介している。

 全10章中、前半の各4章は西洋哲学が自身の内部から批判的に、あるいは解体的に西洋思想に対峙していく動向に、後半5章は西洋の外にあって圧倒的なその思考体型の浸透力にさらされながら、独自に思惟することを求めたアジアやアフリカなどの哲学に焦点が当てられる。

 第1章「分析哲学の興亡」は、プラトン以降の西洋哲学の根幹にある二元論と向き合う。理解すること、すなわち「分かる」は「分ける」ことに直結していたとする筆者は、多元論にせよ一元論にせよ、「分ける」こと、すなわち二元論がもとにあると指摘する。哲学の科学化を目指した20世紀前半の「ウィーン学団」による論理実証主義も、ヒュームの法則同様、事実と価値・規範を峻別する二元論であった。しかし世紀後半に至り、このいわば「である」と「べき」の共通項として、認識主体(筆者は固有の態度を有する「パーソン」と名付けているが)を据える新たな探求が現れたことを紹介し、伝統的な分析哲学を脱する新たな地平を開示している。

 第2章「ヨーロッパの自意識と不安」は、世界大戦がもたらした西洋の没落の意識に、新しく登場してきた大衆による19世紀ブルジョア社会の更新(オルテガ)や、複製技術の進歩による19世紀芸術のアウラの剥奪(ベンヤミン)を対置して論じる。ただ、関連して触れられるフッサールの実証主義批判やハイデッガーの技術批判も含め、たとえばネット社会という身体性を欠いた大衆を抱え込む現代に、それらの議論がさらに展開可能性を有するかどうかは未だ不明と言わざるを得ないだろう。本章で扱われた20世紀前半のヨーロッパ思想を引き継ぐように、第3章「ポストモダン、あるいはポスト構造主義の論理と倫理」は、20世紀後半のフランス思想−おもにドゥルーズとデリダらの思索―を取り上げている。西洋的理性の基盤であった「Aは〜である」という同一性は、すべてが永続する差異化のなかに置かれて、いわば仮象のものへと転倒される。一方で、その要諦は差異による相対化にあるわけではなく、同一性と差異のダブルバインドを請け負う思考の緊張状態にあることが強調されている。デリダに依拠し、日本のゼロ年代の思想界を席巻した感のある「否定神学批判」、さらにメイヤスーによるダブルバインドの縮小・無化の議論は、ポスト構造主義後への展望を示して興味深い。

 ポストモダンがもたらしたいわゆる「聖典」の終わりは、かつてのさまざまな「本質」を弱体化ないし無効化する思想的、社会的ムーブメントに場を与えた。その最大級の一つが、第4章「フェミニズムの思想と「女」をめぐる政治」のトピックである「女性」だった。筆者はジェンダーをめぐる政治、特に現在のアンチ・ジェンダー・ムーブメント(日本の性教育をめぐる保守派の反発、ハンガリーのジェンダー研究禁止など)の問題から論を起こし、20世紀後半のフェミニズム思想の展開を辿る。フロイトの生物学的決定論である「解剖学的宿命」を否定するボーヴォワールの社会的決定論(「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」)においては、個々の女性の差異は想定されていなかった。裕福な異性愛の白人女性とは文化的・社会的に異なる場を生きる、70年代のブラック・フェミニズムや近年のポストコロニアル・フェミニズムの視野は、多種多様な「女」を浮かび上がらせてまさに世界哲学的と言えるだろう。

 20世紀の思想のフィールドで、特筆すべきものとしては批評の興隆がある。第5章の「哲学と批評」では、ものごとを語る言葉そのものが思考の対象となるこのジャンルが、聖典の解釈という新たな地平を哲学の未来に切り開いたことを明らかにする。欧米の脱構築批評の担い手が聖書の解釈学を底流に持つことはよく知られているが、筆者が主に焦点を当てるのは『コーラン』原典の訳者であり、言語学者にしてイスラーム神学研究の碩学井筒俊彦である。聖典語彙の意味論的分析から、イスラーム共同体内での「意味」の変容へと迫った井筒の批評哲学は難解だが、筆者の議論の道筋はたどりやすく、井筒読解の一助にもなるだろう。続く第6章「現代イスラーム哲学」は翻って、アラビア語では“ファルサファ・イスラーミア・ムアースィラ”となる“現代イスラーム哲学”が日本語で語られる以上、日本文化の一部でしかないと断じる(アラブ・ムスリムに向けて書かれたテキストですら、伝統的イスラーム学者によるそれと欧化主義者・オリエンタリストのそれの間には理解がほぼ成立しないという)。テキストの意味論的場も、イスラーム教の学習と祈りの実践も共有しない我々が日本語で読み語る限りにおいて、“ファルサファ・イスラーミア・ムアースィラ”は理解できないことを前提とすべきだというのである。グローバリゼーションの「世界標準」が英語思考に基づく欧米標準であるとしたら、そのもとで果たして世界哲学なるものにどのような実りが期待されるというのか、という鋭い問いかけが本章では突きつけられているように思われる。

 第7章の「現代中国哲学」では、中国古来の思想的伝統と西洋哲学の融合への歩みが紹介される。筆者は、両大戦間期に西洋哲学の論理学を知的背景に、中国思想の重要概念である「道」を論じた金岳霖の『知識論』、『論道』をその嚆矢としてあげている。ただ、戦後共産化した中国では哲学の探究は停滞し、西洋哲学の紹介の復活(=新しい啓蒙期)は80年代に入ってからのことになる。90年代以降はポストモダン思想の研究も始まったというが、筆者によれば「今の中国哲学思想界はまだ力を蓄積する段階」である。一方、アジアにおいて近代化の先陣を切ったと自負してきた日本の状況はどのようなものであったのだろう。第8章「日本哲学の連続性」では、西周によるphilosophyの訳語「哲学」の成立を日本哲学の起点に据えている。「理性」、「観念」、「実在」など、西の学術用語の訳出は787語に及ぶという。西が傾注した「理」をめぐる思索(「超理」、「実理」、「理外の理」を回すのは「物理」ではなく「心理」)は、アカデミズム哲学を確立した井上哲次郎に受け継がれる。彼の「現象即実在論」は現象と実在を表裏一体と考えて、「円融相即」と呼ぶような仏教色を帯びる。井上の教え子であった西田幾多郎も仏教の影響を受けつつ、実在を主観客観以前の知・情・意を一にしたもの、すなわち「純粋経験」と考えた。筆者はここに、日本哲学の連続性を見出す。

 さて、西洋近代哲学の大波が寄せるなか、前述のように中国の「道」、日本の仏教など、東アジアの哲学はそれぞれに模索を続けてきたが、東アジアに共有される思考体験があるとして、東アジア的な哲学はありうるのだろうか。第9章「アジアの中の日本」は、その問いに向き合う。近世の東アジア社会に共通する道徳理念には儒教があったが、西洋近代文化の衝撃にさらされた日本や中国が、西洋由来の論理学に対峙するにあたって支えとした思想伝統は、前述の西田や中国の牟宗三のように仏教であったようだ。牟宗三は新儒家の代表的哲学者とされながら、天台宗に密接に寄り添っていた。とはいえ、筆者によれば、実際のところ伝統的な思想文化へ向ける眼差しは、日本において読書人多数の関心を惹くものではなかった(中国では様相を異にするが)と、筆者は述べる。さらに、東アジア各地域では西洋に寄せる関心が突出して、互いに共通する面の多い思想的伝統や近代以降の歴史的経験に目を向けてこなかったと指摘する。共同の探究が今後に期待される所以である。

 最後に取り上げられるのはアフリカ哲学である。第10章「現代のアフリカ哲学」は、近・現代にアフリカ諸国が置かれた政治的状況の複雑な反映を描き出す。地中海文化圏に位置する北アフリカには、古代ギリシャ・ローマ期からその哲学的伝統の内部にあった。しかしサハラ以南においては、哲学の名の下に、植民地化以降の強制的な知育を想定せざるを得ない。筆者は、英語圏、フランス語圏、南アフリカに分けてアフリカ哲学の動向を紹介している。特筆すべきは、多分に政治性も帯びるようではあるが、伝統的な宗教、神話、言語などに伺われるアフリカに根ざした思考「エスノフィロソフィー」の展開だろう。例えば、ケニアで心・魂を意味する「オクラ」は英語の個人的なsoulとは別物で、共同体での責務に結びつくものだという。筆者は、アフリカ哲学が「西洋哲学に過剰に寄り添う時代」は終わったと結んでいる。

 本巻終章「世界哲学史の展望」はシリーズ全体の終章でもある。ここで筆者は、グローバル時代における“グローバルな哲学的知”の模索が目指す方向を提示する。「世界」が共通の生存基盤であると認めて、そこに住まう「魂」が情報を交換し思考を競い合い、思想的曼荼羅を作り上げること。その中には「離接的」なものと同時に「連接的」なものが含み込まれ、個々の人種や歴史、宗教、文化を超えた広い連結の可能性が示されるはずだと筆者は述べる。これは「世界史」や「世界文学史」の叙述を構想する際にも、きわめて示唆的な提言といえるのではないだろうか。

(「世界史の眼」No.17)

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伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留責任編集『世界哲学史別巻―未来をひらく』ちくま新書、2020年
南塚信吾

 この書評シリーズの開始に当たって、わたしは、次のように書いておいた。≪第一巻の序章「世界哲学に向けて」によると、これまで欧米中心に展開されてきた「哲学」という営みを根本から組み替え、より普遍的で多元的な哲学の営みを創出する運動が「世界哲学」として呼ばれ、展開しているという。生活世界を対象とする哲学、多様な文化や伝統や言語の基盤に立つ哲学、自然環境や生命や宇宙から人類のあり方を反省する哲学が、「世界哲学」の名のもとに行われようとしているというのだ。≫ そして、編者によれば、「たんに様々な地域や時代や伝統ごとの思索を並べ」ることは退けて、「なんらかの仕方で一つの流れ、あるいはまとまりとして」扱わないと、「世界哲学史」にはならないというのだった。私たちの取り組んでいる世界史といろいろと共通する問題がありそうであった。

 書評シリーズの終わりにあたり、ここでは、世界史を考えるうえで、あらためて世界哲学史と共通する問題がないか、あるいは参考にすべき方法がないかを確認するという趣旨から、「別巻」の第1章「これからの哲学にむけて」という座談会を中心に考えてみたい。

Ⅰ 「哲学」の組み替え

 これまで欧米中心に展開されてきた「哲学」の組み替えの試みがいろいろな時代において行われてきたという。世界史の観点から注目すべき論点をいくつか拾ってみたい。

 古代では、ギリシア哲学が哲学の起源だとされてきていることに対して、それを自明の事として受け止めないで、あるいはそれをたんなる偏見ととらえないで、なぜ後世にギリシア哲学が再評価されたのかを反省し、また古代の同時代の世界のいろいろな思考のワン・オブ・ゼムとしてギリシア哲学を位置づけなおすことが必要だと説かれている。ギリシア哲学を世界史のなかで「相対化」するということであるが、いろいろな時代のいろいろな事象について、こういう態度は必要だと考えられる。

 同じく、古代において、ヨーロッパの中の西と東を意識すること、そしてその東をとおしてさらにイスラーム文化圏を含むアジアを意識することが大事だと指摘されている。ヨーロッパのカトリック対イスラームという対立図式ではいけない。たとえば、「ギリシア文明はイスラームを通じて西洋に入ってきた」という際に、ヨーロッパの東であるビザンツを見ておかなければならないとされる。おそらく逆の事も言えるのであろう。古代に限らずこのような観点は必要であろうと思われる。

 中世についてみると、まずペリフェリーの意義が強調されているのが興味深い。9-12世紀を考える場面で出て来る議論で、ヨーロッパでも、イスラーム圏でも、東アジアでもかなり大きな政治支配ができて、いわば「中心」が出来る。するとそのペリフェリー(周辺)からユニークなものが出て来るというのである。「経済・政治では統一的な動きが見られましたが、文化的に見ると最先端のものはペリフェリーに現れてくる」と言われる。唐文化の周辺の日本で空海が出たり、キリスト教でもアイルランドやスコットランドに伝統が受け継がれて、それが中央に戻ってくるようなことがあったり、 イスラームも周辺に広がって、アンダルシアやブハラなどで先端的なものが出て来るというのである。「中心部で先鋭化しないような問題が周辺部で現れてきて、そこで問題意識が磨かれていく」とか、「中心部においてはいろいろな多様性が現れてくるけれども、周辺部のもっと個別性が強調される場面で、逆に普遍的なものに対する眼差しが現れてきた」という。 「別のものと出会う場所がなければ新しいことが生まれにくい、周辺部では異質なものに出会いやすく、思考が活性化されるという動きがあるのかもしれません。ですが、異質を生むためには中心が不可欠です。すべてが異質だらけだとそれができない。」このような興味深い議論が続くのである。だが、9-12世紀以外の時代でもこれは言えるのではないだろうか。

 中世末期のところで、イエズス会の意義が強調されている。この時期、イエズス会がもたらした情報は、エジプト、インド、中国などに聖書にも書かれていない「古い歴史」がある事をヨーロッパに知らせた。それだけではなく、「イエズス会の人々の世界観はまさに新世界であった」「イエズス会はカトリックの中にありながら近代性を持ち、デカルトへの影響も大きい」「近代の始まりにおいて、イエズス会の貢献度はかなり高かかった」というふうに、イエズス会の再評価が行われている。問題は、これをヨーロッパ中心で処理しないためには、さらに何を考えるべきかということであろう。イエズス会のもたらす情報がヨーロッパ中心の見方に繋がったのだというのでは、あまり意味はないように思われる。

 さて、近代に入ると、啓蒙主義が、ヨーロッパ以外の世界を排除していったという指摘が繰り返されている。「18世紀の前半ぐらいまでは、ヨーロッパでは中国の位置はけっこう高かった・・・。ところが、その後大きな変換が起きて、中国やインドはどんどん下に押しやられます。」「そういう構造が突然出てきて、ヘーゲルなどはそれを典型的に現しています。」「つまり、精神がある仕方で展開していく中で、中国のようなヨーロッパの外部はプリミティヴなものとして位置づけられていきます。聖書よりも古いものを何とか処理したかったのだと思います。」カントもそうだった。「啓蒙の構造の中で宗教が周縁化されていくと同時に、ヨーロッパの外部も貶視されていきました。」「理性の発現、精神の展開といった形で自立する図式・枠組み」ができると「その哲学史から外れる西アジア・中国などは当然、地位を失います。」という具合に。

 そして、歴史学との関係では、「わたしたちは世界哲学史において歴史を問題にしていますので、どのタイプの歴史叙述を念頭に置くかということは非常に大事です。その際に、18世紀に成立する歴史学をどこかで相対化する必要があると思います。18世紀には、中国を含めたヨーロッパの外部がきれいな仕方で位置づけられていきますが、当時の歴史学はそれを許し、それを哲学が取り込んでいきました。その全体が啓蒙という構造をなしています。」と言われる。

 たしかにアジアの「停滞論」は啓蒙主義に始まるが、それまでのキリスト教的「普遍史」に比べ、啓蒙主義がアジアに広い関心を持ち、世界史の中に位置づけようとしたという面は、歴史学ではむしろ強調されているところである。その上での「停滞論」であった。だがこの「停滞論」は単にアジアを「下に押しやり」それを「貶視」したのではないところが難しいところである。このあたりは、これは岡崎の言う「啓蒙主義歴史学」で論じられているところであり、哲学とのきちんとしたやり取りで、「そういう構造が突然出てきて」といった理解は正されていくことが望まれる。

 19世紀については「世界哲学史」は何を問題にしているのだろうか。先ず全体的な見方はこうであろう。19世紀は帝国主義の時代で、アジアがヨーロッパと「再接続」されて、高い緊張関係が生まれた。そしてヨーロッパが世界的に支配を拡大し、それへの反発として、イスラームでの原理主義が出て来る、あるいは、啓蒙と理性によって周縁に追いやられていたものがスピリチュアリズムという形で出て来る。そこにヨーロッパへの疑いが深まった。だが、ヨーロッパ自身では、哲学は「中途半端」なものになる。とくに「資本主義と科学技術が発達して世界を征服し、植民地支配で無謀なことをしたというだけでなく、哲学では連動する理念的な動きもあったのではないか」つまり、帝国主義を批判できない思想状況があったのではないかとされる。多分こういう全体の捕まえ方がされていると思わる。世界史としてもうなずける見方である。

 そういう中で、個別的問題としては、「古代の発見」という問題が指摘されている。「啓蒙・理性を重視したヨーロッパが向かった先はエジプトのヒエログリフやインドのサンスクリットであり」、ここに「古代の発見」があり、逆に「純粋なヨーロッパ性とはなにか」という問いも生まれたという。それが歴史主義の中で原理主義的な動きにもなっていくというのである。一方で、インド哲学や中国哲学は西洋的なフィロロギー、ヒストリーに改装されてしまったとされる。この点では、「再接続」されたアジアでの哲学的な問題がどう位置付けられるのか、聞きたいところである。

 最後に20世紀以降については、「世界哲学史」は何を問題提起しているのだろうか。20世紀以降には、「19世紀にピークを迎えたヨーロッパ的な文明に対する厳しい批判が展開され、人間自体をどう考えたらいいのかが問われてきました。」とされ、イスラミック・ターン、宗教の復権、「ポスト世俗化」、原理主義、ポストモダンといった問題が指摘されている。

 その上で、「20世紀における最大の問題は全体主義」で、「理性の行き着く先はファシズムではないか」と問題提起している。ここでは、イスラミック・ターン、宗教の復権、「ポスト世俗化」、原理主義、ポストモダンといった問題と、「理性の行き着く先はファシズムではないか」という問題とを統合的に論ずる場が欲しいところである。とくに、ポストモダンの議論が少し物足りない感じがした。その世界史的意義は何なのか。第8巻を見たが、議論が孤立している感があった。このシリーズの論者たちがその中で育ったから、あまりにも自明なのだろうか。

 最後に20世紀後の大問題が示唆されている。哲学は政治や科学技術と距離ができてしまったというのである。全体主義や大量破壊・大量虐殺がおきても、哲学は置いて行かれてしまった。「哲学に語る言葉はない」「哲学は関係ない」のだろうかと問われている。哲学ができることは一体何かというのである。翻って歴史学はどうであろうか。

 以上のように、個々の論点を見て行くと、世界史としても共に考えるべき問題が多々提起されていることが分かる。

Ⅱ 大きな方法の示唆

 では個々の論点を超えて、大きな方法的な議論で、世界史として学ぶべきところはないだろうか。『世界哲学史』第一巻では、こう言われていた。「たんに様々な地域や時代や伝統ごとの思索を並べ」ることは退けて、「なんらかの仕方で一つの流れ、あるいはまとまりとして」扱わないと、「世界哲学史」にはならない。やや具体的には、異なる伝統や思想に共通する問題意識や思考の枠組み、応答の提案などを取り出して「比較」することを目指す。その一つは、「比較」を歴史の文脈の中で検討することであり、もう一つは、二者か三者の間の比較ではなく、「世界という全体の文脈において比較し、共通性や独自性を確認」することである。その上で、「それら多様な哲学が「世界哲学」という視野のもとで、どのような意味を担うのかを考察するのだ。

 これを受けて、第8巻で、伊藤邦武は、「世界の哲学史の各時代におけるさまざまな様相に目を配り、単なる多数の文化や地域の哲学的伝統について、それらを並列的に列挙するのではなく、東西世界や南北世界の中に認めざるをえない、無数の断絶を確認するとともに、その断絶を超えて見出される交流や混合の実相にも光を当てて、それぞれの時代にそれぞれの哲学が独自のしかたで「世界哲学」たらんとした姿を、できるだけはっきりと描き出してみたいと努めてきた。」と述べている。

 たしかに本シリーズでは、このような意図はいくらか具体化されているようには見える。そういう努力には敬意を表さねばならない。しかし、「世界哲学史」のポジティヴな姿が示されたわけではない。そうではなくて、本シリーズの最大のメリットは、次のような「全体像の必要性」を認識しあったことにあるのではなかろうか。

 編者の一人である納富信留はこう言っている。≪「世界はグローバル化している」などと言いながら、本当に狭い世界・側面しか見えていません。・・・巨大なものを見る視点をある程度確保しなければ、完全に状況のなすがままになってしまう。・・・大きなものを見る視点、さまざまな角度からの多元的な視野・時間軸を持つことは、哲学でなければできないはずです。≫ あるいは、≪『世界哲学史』といって、なにか統一的な、網羅的なマッピングがあるわけではない。「ひとりが全部を見て上からなにか大きなことを言うことはできない。自分が持っている部分を持ち寄り、「ここはどうですか」「ここは使えますか」というような形でいろいろなものを味わいながら、シェアしていくというやり方でしか世界を語ることはできない。・・・しかし、「各自が部分を語るにあたり世界哲学の全体を意識して、それを語ることを目指す」必要がある。≫ そして、≪今回の企画にさいして、「世界哲学史の中で、あなたは自分の研究対象をどのように位置づけますか」という問いを投げかけた。」「いままでそういう問いを聞いたことがある研究者は一人もいなかったのではないか」。例えば、「近代のデカルトを研究している人は、「世界哲学史の中で、デカルトがやったことは何だったのか」とは考えず、「デカルトの『省察』の何ページ何行目にこういう議論があります」という話に終始していた。≫

 これは現在の世界史の直面する状況とほとんど同じであると言ってよい。

Ⅲ 危機感の共有

 『世界哲学史』からは、哲学の分野においても、歴史の分野と同じような「問題」が生じていることが分かる。最後に、両者に共通している基本的な「問題」を確認しておこう。

 一つは、哲学においても、古代、中世、近代という時代区分は動かないのだろうか。

 本シリーズはきっちりと古代、中世、近代という時代区分を柱にしている。とくに、本シリーズでは、中世が大きく扱われているが、ヨーロッパのキリスト教世界でつくられ始めた中世という概念は、ヨーロッパ以外の世界でも通用するのであろうか。中世の最後の時期を、ルネサンスや宗教改革や新しい世界の「発見」によってではなく、バロックの時代というとらえ方を提唱しているが、その普遍性は大丈夫なのだろうか。 

 二つには、ヨーロッパ中心を克服するという意識は分かるが、やはり、結果的には、ヨーロッパ哲学が柱で、アフリカ哲学などはその影に置かれていたり、ラテンアメリカの哲学はコラムで終わったりしている。イスラーム文化圏での哲学の扱いもやや期待外れの間が否めない。非西欧世界はやはり弱いと言わざるを得ない。これは世界史の場合と似ている。

 最後に、第8巻で伊藤が述べている二つのことは重要であり、そこには、哲学の危機感がにじみ出ている。まず、かれはこういう。我々人間は、一つは、地球環境などから、地球・宇宙について具体的な知を持ちつつある。同時に、人間・生命について、ヒトゲノムを通じて、具体的な知を持ちつつある。これに哲学はどう対応できるのか、というのである。歴史も同じである。

 かれはつぎにこう言っている。西洋はもとより、アジアの哲学やイスラームの哲学、さらにはラテンアメリカやアフリカの哲学を知るようになれば、それは一元論的な形而上学ではなく、多元的形而上学の世界として対応していかねばならない。それはすべての存在を貫通する普遍的な原理としてではなく、多様な隣接的関係、関連を通じて、全体として統一的に認識されなければならない。ここでは、単に多様性を認めるということだけではなくて、また多様なものを単に「比較」するというだけではなくて、「関連・関係」という方法が必要であるというのである。

 より普遍的で多元的な哲学の営みを創出する運動が「世界哲学」だというのは、こうしたことまでを指しているのであろう。これを見ると、「世界哲学史」においても方法はまだ模索中であるようだ。「世界史」を考えるものとしては、「比較」に次いで、「関係」や「影響」や「相互作用」や「連動」という面も考えたいところではある。こういう点を座談会では受けてほしかった。

(「世界史の眼」No.17)

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書評:伊藤邦武/山内志朗/中島隆博/納富信留(責任編集)『世界哲学史6―近代I 啓蒙と人間感情論』ちくま新書 2020
弓削尚子

 18世紀ヨーロッパの「啓蒙の時代」。人間の理性こそ、社会の不条理や蒙昧を啓くと説かれ、「理性」はこの時代のキー・コンセプトとなった。これに対して、本書では、スコットランドのデヴィッド・ヒュームなどを中心に、人間の本性は理性ではなく感情であるという議論に目を向ける。理性だけでは、善悪の判断は不可能で、理性は人を懐疑的にし、自由な発想を奪うことすらある。相手の境遇に同情したり、言動や行為に共感することこそが人との交際を自然なものにする。理性主義の弊害を論じ、合理主義の陥穽を見抜く思想もまた啓蒙の一つの潮流をなしていた。

 理性よりも感情を――そのような声はユーラシア大陸の遥か東方でも独自に発せられていた。18世紀、清国の実証主義者である戴震は、当時、「体制教学」であった朱子学を批判した。朱子学は「理」という概念を「世界の根本概念」としたが、戴震が生きた時代には、為政者は「理」「天理」というものを国の支配のために都合よく解釈し、「情」を軽んじ、厳格な道徳主義が人びとを苦しめていた。戴震は、人びとが互いの「情」というものを推し量らなければ、「理」というものは成立しないと考え、「感情の哲学」を展開した。

 本書は、西洋の光が東洋の闇を照らし出すという発想で編まれているのではない。むしろ、西洋哲学に立脚した哲学史を反省し、西洋中心からの脱却を目指すという。ヨーロッパ、アメリカ植民地、イスラーム、中国、日本に生きた数々の思想家たちが「世界哲学史」という一つの舞台に登場する。本書を読んで、東西を越えた架空の哲学対話に興じるのは読者の特権だ。

 たとえば、戴震は、孟子の性善説をひきつつ、人は生まれながらにして善というよりも、自ら学び、人間としての成長が可能なるがゆえに善という。イマヌエル・カントは同世代の戴震にこう語りかけるのではないだろうか。

 「人は怠惰や臆病のせいで自ら未成熟な状態に陥ってしまう。そこから抜け出すことが啓蒙だと私は名づけました。自ら学び、人として成長することを善とする考えは、啓蒙につながりますが、感情だけでは権威や権力に盲従してしまいます。自分の知性を用いる勇気をもって立ち向かう。それには人間の理性というものがいかに必要か。」

 すると戴震は答える。

 「知性や理性というのは、人間誰しもがもつとお考えか?私はどんな人間でも、「恐れ」や「優しさ」といったさまざまな感情に出会うことで、学びの契機をもつと思うのです」。

 戴震は「悔いて善に従うようになれば下愚ではなくなるし、それに加えて学んでいくなら、日増しに智に近づく」と考えた。理性は感情の上位にあるのではなく、「感情の鍛錬を補佐するもの」という考えはヒュームにも通じる。一方、カントは果たして万人に通じる理性を語ったのかと疑問もわいてくる。

 より洗練され、完成した人間になるために感情や感性を重んじる姿勢は、18世紀の日本でも見られた。本居宣長は、歌や物語を学ぶことで多様な立場の人びとの心情を理解し、それが温和な人間という理想像へ導くとした。伊藤仁斎や荻生徂徠も、道徳をめぐる朱子学の理解に距離をおき、「人情」を知り、理解することの肝要さを説いた。人情に通じれば、他人の過ちにも他人の気持ちにも寄り添うことができ、「寛容」で「柔和」な人になれる。寛容の精神は、西洋の啓蒙思想の柱でもあるが、理性から踏み込むか、情から近づくか、方法は一つではない。

 西洋から東洋へ、という伝播ではなく、18世紀における東西の哲学の同時代性が紡がれていくおもしろさが本書にはある。他方、19世紀から20世紀初頭におけるイスラームの「啓蒙」、あるいは「目覚め」や「復興」を意味する「ナフダ」と呼ばれた思想が取り上げられていることも本書の価値を高めている。「近代思想の祖」、リファーア・タフターウィーは、西洋の「自然権」や「自然法」、「自由」や「平等」という概念を、ムスリムの宗教的、伝統的な理念の中に見出そうとした。19世紀半ばに生まれたムハンマド・アブドゥは、西洋の拡張主義をにらみつつ、「啓示と理性の調和」を希求した。読者の中には、明治期日本の「啓蒙思想家」を想起し、イスラームの「啓蒙思想家」との異同を読み取る者もいるだろう。

 本書は、「哲学という場において「世界」を問い、「世界」という視野から哲学そのものを問い直す試み」という。この姿勢が最も鮮明なのは、フランス政治思想の革命への契機をとらえる論考だ。18世紀半ばに七年戦争が勃発し、アジア・アフリカ・アメリカの植民地をめぐるイギリスとの戦いに敗北を喫したフランスでは、既存の枠組みを超えた新たな政治経済秩序体制が構想された。「啓蒙から革命へ」。近代主権国家・国民国家分立体制は、ここから世界的拡大を開始する。

 とはいえ、本書における西洋思想の考察の多くは、「西洋世界」にとどまり、グローバルな「世界」が感じられない。ヒュームは一神教の不寛容と迫害を多神教の寛容と対比させたというが、それ以上は深く掘り下げられない。ヒュームやアダム・スミスが説く「共感」の対象に、被植民者や奴隷がなぜ想定されなかったのかも気になる。トーマス・ジェファーソンらが説く自然権や人民主権というアメリカ独立の思想が、いかにフランスに影響を与えたのかを論じる論考が収められているが、D.A.グリンデ・Jr./B.E.ジョハンセン『アメリカ建国とイロコイ民主制』(星川淳訳 みすず書房 2006)などによると、「建国の父たち」は「インディアンの政府」を参照し、先住民の「民主主義」や「自由」概念から示唆を受けた。本書の読者は、むしろこうした考察が世界哲学史にどう組み込まれるのかということに関心をもっている。

 西洋において、「人」とは誰で、「世界」とは何を指したのか。哲学であれ、歴史学であれ、西洋近代に確立された学問体系をいったんエポケー(停止)するという作法が、世界史を論じるためには不可欠である。自戒をこめてそう感じさせられる一冊であった。

(「世界史の眼」No.16)

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伊藤邦武、山内志朗、中島隆博、納富信留『世界哲学史7 近代Ⅱ 自由と歴史的発展』(筑摩書房、2020年)
黒岩漠

 世界史とはいかなる試みでありうるのか。世界史を描くためにはどのような問題の設定の仕方が要求され、それをいかなる文体と構成のもとに表現すればよいのか。『世界哲学史』と題された思想史家たちの挑戦を前にするとき、歴史家が心に抱くことになるのはおおよそこのような問いであるにちがいない。19世紀を対象としたその第7巻の批評を書くにあたって、各章の多岐にわたる内容に分け入っていくのではなく、世界史という問いそのものをまず念頭に置くのは、私自身も歴史家の一人としてこの問いを抱き続けてきたからにほかならない。すなわち本評は、西洋中心的な哲学史から脱し、新たな世界哲学史を描かんとする者たちへの、歴史学者という立場からする遠くからの応答である。

 世界史というものを、たんなる情報の併記ではないかたちで構成しようとするのならば、おおよそ僕らは二つの視点に頼ることになる。異なる地域のあいで人物から人物、社会から社会へと伝わっていった事物や観念に注目する〈伝搬〉の視点と、異なる地域において直接的な因果関係は認められないもののどこか類似した文化形態や共通した社会関係に注目する〈構造〉の視点である。本書のなかでしばしば使用されている「共鳴」や「重なり合い」といった語彙は、この両方の視点をゆるく押さえようとするものだと言える。これらの語彙こそが本書を「世界哲学史」というかたちへと構成する仕方を示しているのであって、その試みが西洋中心的な視点から哲学史を解放できているのかという問題への解答もやはりこれらの語彙に関係することとなる。

 さて、「自由と歴史的発展」なる副題の付けられた第7巻では、「共鳴」や「重なり合い」といった語彙の具体的内容は、伊藤邦武氏による第1章においてあらかじめ示されている。本巻の編集者でもある伊藤氏は、自らの目標のために積極的に意志を発揮する「自発性の自由」、およびさまざまな目標のなかから無差別にいずれかを選び出す「無差別な選択の自由」という、デカルトにおける二種の自由の捉え方を持ち出す。そしてそれらの自由は、19世紀においてはそれぞれ歴史のなかに求められることとなったという。すなわち、ヘーゲルが典型である歴史的発展の哲学(第2章)と、時間的推移のなかでの偶然の積み重ねをみるダーウィンに顕著な哲学(第5章)である。アメリカ独立革命およびフランス革命に続く19世紀という時代は、まさにこの「自由と歴史的発展」の絡まり合いのなかにおのれの哲学を見出したというわけである。幕末・明治における日本の「文明開化」という観念もその一種として位置づけられることとなる(第10章)。

 しかし、それだけであれば西洋中心的な哲学史を脱したとは言い難い。日本の事例がそうであるように、そのような自由の観念は西洋からの輸入、少なくともその影響のなかで形成されていったことは周知の事実である。そこで本書は第三の自由を持ち出す。すなわち、自らの性質を自分の力で変更し、新たな自己へといたることを可能にする自由、「習慣形成」としての自由である。本書は、この自由にこそ新たな哲学史を描くための「共鳴」を見出そうというのだ。要するに、この「習慣形成」という契機こそがアメリカのプラグマティズム(第7章)だけではなく、フランスのスピリチュアリスム(第8章)、インドのベンガル・ルネッサンス運動(第9章)、あるいは日本の福沢諭吉らにおける「修身」概念にも見出されるというわけである。

 本書を世界史として構成する核がこのような自由の「共鳴」であるとするならば、それが西洋中心的な哲学史からの離脱の契機にもなっていなければならない。しかし、そのことは何を意味するだろうか。近代世界史を成立させているものとしての世界市場は、私たちが常日頃触れる学知の国際的な流通経路にも深く影を落としている。たとえば、どの地域の学者・思想家の名前をどれくらい挙げられるかという単純な問いにすら、個々の能力というよりもこの地政学的関係こそが解答するだろう。言うまでもなく、その関係の中心にあるのが「西洋」であり、それこそが西洋中心的枠組みを生み出している。だとすると、この知の流通経路に対抗するだけの概念的・構成的強度があるかどうかがここで試されているのである。本書の考察を読み終えて最後に残るのはこの点での疑問である。19世紀とは、まさにこの知の世界市場が新たに形成されていった時代ではなかったか。そしてそれはまた、20世紀の世界戦争と植民地戦争に繋がっていくものではなかったか。少なくともこの第7巻に関してはこの点をはっきりと構成的に組み込んだうえで、それとの関連のなかで自由の問題も考察し、「共鳴」といった語彙も用意するべきではなかったか。世界哲学史という試みに続き新たな世界史を描かんとする歴史家たちにこそ、これらの問いは残されたのである。

(「世界史の眼」No.16)

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書評:『ものがつなぐ世界史』
柴泰登

1. はじめに

 本書は、ミネルヴァ書房から発刊されている「MINERVA世史叢書」シリーズの中の1冊である。このシリーズでは、各国史の寄せ集め状態であった従来の世界史を反省し、グローバルヒストリーの視点から世界史を捉え直すことを試みている。このことは、各巻の巻頭において、以下のように力強く宣言されている。

 これは、これまでのわが国における世界史を反省して、新たな世界史を構築することを目指すものです。これまでの世界史が、世界の国民国家史や地域史の寄せ集めであったり、自国史を除いた外国史であったり、欧米やなんらかの「中心」から見た世界史であったりしたことへの反省を踏まえて、また、近年の歴史研究の成果を取り入れて、それらの限界を突き破ることを目指しています。

 シリーズの中で本書は、シリーズ全体の5巻目、「第Ⅱ期 つながる歴史」においては2巻目にあたる。第Ⅱ期は、「人々」「もの」「情報」にそれぞれ注目して世界史を再構築する諸巻を取り揃えており、世界史を全体的に、あるいは各国史の「タテ」ではなくグローバルヒストリー的に「ヨコ」の視点から捉えるものとなっている。

 その中でも、本書は「もの」に注目している。「人々」や「情報」と比較した場合、「もの」の形態は様々であり、その運搬手段もまた多種多様となる。また、「もの」の移動には需要と供給の関係がより強く働く。そのため、「もの」をテーマとして歴史を概観していく場合、諸地域間におけるプル要因とプッシュ要因、あるいはそれを可能にした輸送技術について必ず言及することになる。そのため、グローバルヒストリー的な視点から歴史を考えていくことが必須となり、結果として本書はシリーズの趣旨に叶う内容となっている。

2. 本書の構成

 本書の構成は以下の通りである。

 序 章 ものがつなぐ世界史(桃木至朗)
 第Ⅰ部 工業化以前の世界をつないだ「もの」
  第1章 馬(覚張隆史)
  第2章 帆船(栗山保之)
  第3章 陶磁器(坂井隆)
  第4章 貨幣(大田由紀夫)
  第5章 生薬(内野花)
  第6章 火薬原料(山内晋次)
  第7章 スズ(水井万里子)
  第8章 ジャガイモ(山本紀夫)
  第9章 毛皮(下山晃)
 第Ⅱ部 近現代世界を動かした「もの」
  第10章 石炭と鉄(小林学)
  第11章 硬質繊維(早瀬晋三)
  第12章 大豆(ディヴィッド・ウルフ(左近幸村訳))
  第13章 石油(西山孝)
  第14章 天然ゴム(高田洋子)
  第15章 半導体(西村吉雄)
  第16章 ウラニウム(井上雅俊・塚原東吾)

 実際に紹介された「もの」は16種類となっているが、その中には「生薬(第5章)」「半導体(第15章)」「ウラニウム(第16章)」の様に、従来ではあまり扱われることのなかった「もの」が取り挙げられている。特に、後者の2つの「もの」を中心に、本書では歴史学とは接点の薄かった、いわゆる「理系」の研究者が執筆を多く担当している。このことは、「文理融合型」による研究の重要性を日頃から主張しており、本書の責任編集である桃木至朗氏の面目躍如足るところと言える。

3. 総論

 本書の序章では歴史学において「もの」の研究がもたらす新しい可能性が論じられ、各論の導入となっている。執筆を担当している桃木氏の主張を整理すると、以下の3つにまとめられよう。

① 「もの」がもたらす新しい歴史学…従来には無かった視点を獲得することが可能となり、宗教・エスニシティ・ジェンダーなどの各テーマにおいて、新しい知見を得られる。また、国民国家史への建設的な批判が可能となる。

② 「もの」がもたらすグローバルヒストリー的な成果…近現代だけでなく前近代も射程としながら、グローバルヒストリー的な研究展開が出来るようになる。その結果、人類の拡散と技術伝播においてであったり、具体的な「国家」の成立と周辺との関係であったり、多くのテーマで成果を得られる。

③ 「もの」がもたらす射程の広さ…「商品」や「道具」だけでない「もの」(細菌・ウイルス・隕石・溶岩・火山灰など)も射程に入れることで、これまでの歴史学では明らかに出来なかった問題の解決が可能となる。

 総じて、「もの」が新しい歴史学に寄与する側面を、桃木氏はここで的確に指摘している。

4. 各論

 ここからは、各章の内容が、序章で桃木氏が整理した3つの可能性のどの事例に該当するか自分なりに当てはめていきながら、その概要を紹介していきたい。

 「もの」が歴史学に新たな知見をもたらした例として最初に挙げたいのは、「第5章 生薬」である。内野氏は、生薬の歴史を紐解いていくことで、現在のような現代西洋医学への偏重は近代以降の現象であり、近代科学技術の発展を土台にした現代西洋医学が世界を席巻するまでは、各地に独自の伝統医学が存在し、生薬を使用した治療が行われていたことを明らかにした。日本においても、医師になるためには西洋医学の習得が必須という法制度が明治時代に確立するまでは、いわゆる「漢方」と呼ばれる伝統医学が重要な存在であったことを示唆している。

 次に「第7章 スズ」において、水井氏はコーンウォール半島に軸足を置いてスズの歴史を見ていくことで、この金属を原料とするさまざまな用途と技術の開発、それに携わる人々と、製品を使用する地域が連関している様子を浮かび上がらせた。北米植民地のピューター業がロンドンのカンパニーの強いコントロール下で展開したこと、またコーンウォール出身の技術者たちが海峡植民地まで進出して現地のクーリーたちを指導していたことなどは、本章において初めて学ばせていただいた。

 「第11章 硬質繊維」では、フィリピンにおける硬質繊維生産と日本の産業の結びつきについて早瀬氏が丁寧に分析した結果、マニラ麻に代表される硬質繊維が、戦略物資、衣糧物資の原料として、両国の人々にさまざまなかたちで影響を与えたことが解明された。家父長制が強かった第一次世界大戦以降の時代、社会にあって、麻玉によって成人男性以上に稼ぐ女性が誕生したことにより、日本の一般家庭のあり方に影響をもたらした可能性を早瀬氏は指摘しているが、それは従来のジェンダー史を書き換えることになるかもしれない発見と言えるだろう。

 ディヴィッド・ウルフ氏は、「第12章 大豆」において、20世紀の大豆輸出の世界市場の動向が日本を望みのない戦争に駆り立てたことも含め、日米関係の紆余曲折を反映しているものであることを明らかにした。第二次世界大戦以前には満州産が世界の大豆輸出の大半を占め、その輸出貿易の分析が、東北アジアの地域形成だけでなく、主に日露による植民地化をめぐる競争の状態を示唆する基準となるという指摘も、非常に興味深いものであった。

 「第14章 天然ゴム」では、高田氏が、仏領インドシナにおけるプランテーションを分析して英領マラヤ、蘭領東インドとの比較を試みた。その結果、いずれのケースでも、開発に必要な労働力としてインドや中国、ジャワ等から大量の人々が集められ、多様な人種・民族から編成された複合社会が出現したこと、また、過酷な労働の実態から、資本の論理が人権に優先するという状況が明快に示された。現在でも著名なタイヤ会社などがこの開発に関わっていたことは、世界史における「不都合な事実」の一例と言えよう。

 また西村氏は、「第15章 半導体」において、トランジスタとコンピュータがほぼ同時に産声を上げた後、ともに刺激し合い、支え合いながら、急激に発展していく20世紀後半の産業界の過程を解明した。この章では、半導体発明に関わったスタッフが、単なる技術的な発明だけでなく「ムーアの法則」や「最小情報原則」など、それ以外の分野にも影響をもたらした知的営為も紹介しており、産業界の発展が我々の生活に及ぼしたインパクトの大きさを改めて知ることが出来た。

 続いて、「もの」がグローバルヒストリー研究に寄与している例として私がまず挙げたいのは、「第3章 陶磁器」である。この章では、坂井氏が陶磁貿易の歴史を概説的に紹介しながら人間と人間の空間を超えた交流の結果を伝えてくれており、窯業技術の拡散と生産組織がグローバル化していく過程を知ることによって、我々が世界の一体化について学ぶことが出来る章となっている。

 「第6章 火薬原料」では、硫黄という商品を通じて、ユーラシア世界に形成された「硫黄の道」の変遷が、グローバルヒストリー的な視点から明らかにされている。この章では、日本列島からペルシア湾・紅海にまたがる広大な地域から、海上貿易を通じて中国が硫黄を吸収していく「硫黄の道」が、やがて「複雑化」「多核化」していく過程が、山内氏によって見事に描き出されている。

 山本氏が執筆を担当している「第8章 ジャガイモ」では、ジャガイモがアンデスから世界へ、どのようにして広がり、世界各地でどのように利用されるようになったのかが概観されている。この章を読むと、グローバル化に伴って拡散していったジャガイモが各地の救荒作物として人々を救ったこと、それでも飢饉が起きたアイルランドでは、新天地への移民という現象が起こったことが分かる。

 「第9章 毛皮」においては、意外に詳細な先行研究が少なかった毛皮という商品をクローズアップして、下山氏が世界のグローバル化の一端を解明している。下山氏はそこから、先住民社会を強圧的に引き込み、ケモノを商品化して乱獲を競った毛皮のあくなきフロンティア精神が西欧的植民地主義の特徴と言えるものであり、多くの地域や産業を結び付け変質させながら、シベリアやアラスカなどの極北の地まで及んでいったと結論付けている。

 「第10章 石炭と鉄」では、製鉄のグローバルヒストリーを概観し、さらにイギリスの製鉄法の歴史を精査した小林氏が、製鉄と動力機関の発展における関係性を明らかにしている。すなわち、産業革命のなかで、蒸気機関を含む機械に鉄製の部品が使われるようになるとともに、史上初の熱機関である蒸気機関は製鉄法や鉄工所の原動機として使用され、共進化しながら展開したと小林氏は主張している。

 また、石炭と鉄とともに現代世界に欠かせない石油については、西山氏が「第13章 石油」でその歴史を紹介している。そこでは、埋蔵地の偏在性によりグローバルな世界商品となっていく石油が政治的戦略製品となり、資源ナショナリズムを巻き起こし、はては金融商品として扱われるようになっていく経緯を描き出している。

 最後に、「もの」が持つ射程の広さが生かされている例として、最初に「第1章 馬」の事例が挙げられる。いわゆる「理系」出身の研究者が「歴史科学」の姿勢から研究した馬の歴史は、これまで扱ってきた「もの」が、いつから馬によって運搬されるようになったのかを明らかにしている。覚張氏によれば、それは家畜化されてから1000年以上経ってからであったという。その背景には、馬を制御する馬具の発明があったと考えられている。

 同じように、運搬手段として発明された船については、「第2章 帆船」で栗山氏がその歴史や船の構造について、特にインド洋世界の事例を挙げながら詳細な分析を行っている。栗山氏はそこで、帆船の歴史を研究するにあたって、船そのものとともにそれを操る航海技術の重要性について最後に言及しており、インド洋世界でまとめられた『海洋の学問と基礎に関する有益の書』について、その概要を紹介している。

 一方、「もの」と「もの」の交換を媒介する貨幣については、大田氏が「第4章 貨幣」で、東アジアの事例を中心とした精緻かつ概説的な紹介がなされている。そこで大田氏は、1000年来のユーラシア経済史を概観した結果、そこに東アジア貨幣史が陰に陽に影響を及ぼしていることを指摘している。そして、東西で同一の貨幣(銀)が広く共用される15世紀以降、信用貨幣に依拠する西欧と現金(金属貨幣)に依存した東の諸地域(中国やインド)との差異が、世界各地の銀をアジアに引き寄せ、グローバルな銀流動を出現させる一因となったと結論付けている。

 また、「第16章 ウラニウム」では、従来の歴史研究では「もの」として扱われることが少なかったウラニウムを「もの」として捉えることで、井上氏・塚原氏によって新たな知見が提出されている。彼らによれば、時や場所に合わせた政治的意図に従って作り出される「原子力性」こそが「もの」としてのウラニウムの特徴で、現代社会における核をめぐる力の構造を生み出しているとのことである。

5. おわりに

 ところで私は普段、大学附属の中学校・高等学校でおもに世界史分野の授業を担当している。そこでは、時代・地域を特化させた大学の専門的な教育と異なり、様々な学部への進学を前提とし、全時代・全地域を網羅した「世界史」を教授する必要があり、そのため、私自身はいわゆる近年の「グローバルヒストリー」研究がもたらした成果を吸収しながら授業を展開することに努めている。

 しかしながら、世界の構造についての概念的な理解は、中学生・高校生といった発達段階の生徒には難しい側面がある。そう考えたとき、具体的な「もの」をキーワードとしてグローバルヒストリーを語っていくことは、複雑で多様な様相を見せる「世界の一体化」の過程を生徒が理解する上での一助足り得る。そういった点で、本書は全国の中学校・高等学校の教員が手元に置くべき必須の一冊となるであろう。

 また本書は、16種類にも及ぶ「もの」を扱うことで、人類の誕生から現代までにおいて、運搬・輸送技術の発達に伴って多くの「もの」が商品化し、またその流通範囲が拡大していく歴史を明らかにした。従来の「ひと」(王など)を追って歴史を構築するのではなく、「もの」を通じてそれを行った本書は、間違いなくグローバルヒストリー研究の発展に寄与したと言える。

(「世界史の眼」No.15)

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書評:杉原薫著『世界史のなかの東アジアの奇跡』(名古屋大学出版会、2020年)
秋田茂

 日本におけるグローバル経済史研究の代表的論者、杉原薫による待望のモノグラフが、ついに刊行された。序章、終章、三つの補論を含めた全18章、765頁におよぶ大著である。本書は、1996年のロンドン大学歴史学研究所でのグローバルヒストリー・セミナー報告から2020年に至る25年間の、杉原の研究の集大成である。前著『アジア間貿易の形成と構造』(ミネルヴァ書房、1996年)で、近現代アジア経済史研究の地歩を固めて以降、杉原の研究は文字通りグローバル・スケールで展開した。本書には、杉原が京都大学東南アジア研究所時代に文理融合型グローバルCOEプロジェクトで取り組んだ、「生存基盤論」による環境史の研究成果が大幅に反映されている。この25年間で杉原の研究は、オーソドックスな経済史から、環境・エネルギー問題の経済史への統合、環境経済史という新領域の開拓に大きくシフトした。評者自身は、経済史と政治外交史をベースに、政治経済学としてグローバルヒストリー研究に取り組んでおり、環境史や地球環境学には疎いが、西洋中心史観を脱構築して「アジアから見たグローバルヒストリー」の構築をめざす点では、杉原と志を同じくする。以下、評者がカバーする領域の限界をふまえつつも、書評を試みたい。

I 二つの経済発展径路の融合―西洋中心史観の相対化

 歴史学全般における本書の最大の魅力は、第I編「東アジア型経済発展径路の成立と展開」の標題にあるように、工業化を実現するにあたり、(1)従来常識とされてきた、イギリス産業革命以来の「西洋型」の工業化のパターン(径路)を相対化して、東アジアにおける独自の工業化の径路を対置した点と、(2)20世紀後半の東アジアで両者が「融合」して、新たな発展径路が生まれた結果、急速な経済成長(工業化)が実現した点を、膨大な貿易統計データで実証したことにある。これにより、工業化を起点とする近現代世界史において、支配的である西洋中心史観が相対化されて、新たな世界史像が浮かび上がった。

 西洋型の工業化とは、イギリス産業革命に代表されるような、労働力を機械化で代替する過程で大量の資本を投入する「資本集約型」(capital-intensive)工業化である。それに対して、東アジアでは、19世紀後半以降、資本の不足を補うべく、人口の増加に支えられつつ、良質で安価な労働力を活用した「労働集約型」(labor-intensive)工業化が展開した。日本の工業化は、西洋技術の移植と、在来技術の近代化の複雑な相互作用を通じて実現した。さらに西洋型の工業化は、石炭に代表される「化石エネルギー資源」の大量消費を伴う「エネルギー集約型」であったのに対して、東アジアでは、石炭や石油の消費を抑えた「エネルギー節約型」発展径路が主流であった。

 杉原論の独自性は、第3章「資源節約型径路の発見」の標題に示されるように、二つの経済発展径路の対照的な把握だけでなく、(3)工業化の本質が「化石資源世界経済」の発展であったこと、(4)新大陸の無尽蔵の資源を活用できた西洋に対して、資源制約に直面した東アジアは、近世以降の「アジア間貿易」(intra-Asian trade)と自由貿易体制を通じてその資源制約を緩和できたこと、以上のように、土地に関わる資源・エネルギー問題を焦点化したことであろう。資本・労働・土地は、生産の基本的な三要素であるし、杉原の前著が20世紀中葉までのアジア地域間貿易の実態を解明した点をふまえると、生産の三要素論とアジア間貿易論の接合には、アジア経済史家としての杉原の業績が全面的に反映されている。

 ここまでは、基本的に比較史の手法に基づく分析であるが、上記の二つの工業化・経済発展径路が、第二次大戦後の冷戦体制のもとで、「偶然」の結果として(90頁)「融合」することになった。戦後の世界経済・国際分業体制は、軍需・石油化学工業を中心としたアメリカの資本・資源集約型工業化、民需部門主導で繊維・造船・家電・自動車等の労働集約型工業化を進める東アジア諸国、および熱帯アジア・アフリカ・中東産油国のような第一次産品供給国の間の「三極構造」として発達した(図2-6 :103頁)。この過程で世界経済は、「南北格差をともなう世界貿易の二重構造から脱し、資本、労働、資源の三つの生産要素において比較優位をもつ諸地域が、それぞれ資本集約型工業品、労働集約型工業品、第一次産品を輸出するという国際分業体制を発展させることによって新しい発展径路を獲得した」(104頁)とされる。ここでは、グローバルヒストリー研究の関係史的手法が全面的に活用されている。多様な生産面での要素賦存を抱えた、太平洋を跨ぐ「アジア太平洋経済圏」の形成は、冷戦体制のもとでの第二次交通革命を通じた、経済発展径路の「融合」を実現したのである。第9章「アジア太平洋経済圏の興隆」の叙述は、非常に説得的でわかりやすい。

II 生産の三要素論から「生存」のための五要素論へ

 ここまでであれば、従来の経済史研究で支配的であった西洋中心主義、西洋モデルを大幅に修正して、東アジアモデルを組み込んだ、バランスの取れた、生産面を重視する工業化論・経済発展論として解釈できる。しかし、本書の真骨頂は、後半の補論3「熱帯生存圏」と「化石資源世界経済」の衝撃」で示されるように、工業化全史の再検討を行い、生産に関わる資本・労働・土地の三要素賦存論を、人類生存のための五要素論に拡張する、環境経済学・環境史からの問題提起にあると考えられる(図終-6 : 670頁を参照)。

 生存のための要素賦存として新たに加わったのは、化石資源と水である。前者の化石資源は、本書第3章で論じられた「エネルギー・資源節約型発展径路」論につながる。さらに後者の水は、補論1「南アジア型経済発展径路の特質」で論じられ、二径路論を補足する第三の径路としての、生存基盤の確保を課題とする「生存基盤確保型発展径路」論にかかわる。化石エネルギーとしての石炭や石油は、商品として輸入することで移動が可能であり、グローバル化の進展による対外貿易の拡大を通じて、アジアにおける化石エネルギー資源の制約が緩和された。

 南アジア・インドの経済発展でボトルネックになったのは、化石資源の制約よりもむしろ水の確保であり、その問題は、菅井戸の普及を伴った「緑の革命」による食糧増産・自給化の達成により突破された。「水」との格闘が、現代のアジア、とりわけ14億の人口を抱えるインドをつくりあげてきた点については、スニール・アムリスの『水の大陸アジア―ヒマラヤ水系・大河・海洋・モンスーンとアジアの近現代』(草思社、2021年)のような研究でも注目されている。「非貿易財」としての水や土地を、生存のため要素として改めて見直し、生態系の一部として保全することが、不可欠となっている。生態系システムは、工業化、都市化の環境的な基盤を提供しており、「水や土地を生態系から切り離して無理な商品化を図ることも、国際競争力に影響する可能性がある」(670頁)。こうした「生存基盤論」の詳細については、京都大学グローバルCOEプロジェクトの成果として刊行された、6巻本の生存基盤講座を参照するしかないが、杉原の「生存」のための五要素論は、ロンドン大学SOAS時代から積み上げてきた、南アジア地域研究との地道で緊密な研究協力からその発想が生まれたであろうと推測できる。アジア・アフリカ地域研究をベースとした、環境経済学の構築、環境経済史からの問題提起として注目に値する。

III いくつかの課題

 以上、700頁を超える大著の概要をかいつまんで紹介したにすぎない。最後に、いくつかの問題点を指摘して、書評者としての責務を果たしたい。

 第一に、これほどの大著であっても、当然紙幅には限界があるので、25年にわたる杉原のグローバルヒストリー研究の全貌を提示するには限界があったと思われる。経済史研究として、詳細な統計データを提示・分析する数多くの図表が収録されている(図表一覧を参照:図110個、表63個)。だが、それらをもってしても、経済理論やモデルに関係する箇所の叙述には、説明不足が感じられる。あるいは、読者がすでに主要な研究史を理解・把握していることを前提として、議論が展開されている。

 特に、冒頭の第1章「勤勉革命径路の成立」は、考察の対象時期が、1500年から1820年までにおよび、「近世」アジア世界(海洋アジア)の独自性が説明されるが、図表による議論の抽象度(難易度)も非常に高い。21世紀以降に登場したグローバルヒストリー研究の勃興の契機は、2000年のK.ポメランツの『大分岐―中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成』(名古屋大学出版会、2015年:原著The Great Divergence, Princeton University Press, 2000)の出版と、杉原自身も中心的にかかわった、グローバル経済史の国際共同研究であるLSEのGEHN(Global Economic History Network)である。それ以来、近世(early modern)、あるいは「長期の18世紀」に関する世界史像は劇的に変わり、現在でも新解釈が次々に出されている。本書第1章を的確に理解するには、「大分岐」論に関する論争だけでなく、速水融とヤン・ド・フリースの「勤勉革命論」(industrious revolution)など、今や経済史研究で常識となりつつある研究史の展開を丁寧に押さえておく必要がある。終章で展開される、「発展径路の三段階」を的確に理解するためにも、第I編には、「大分岐」論関連で、近世の経済史に関する別の章があってもよかったのではないだろうか。

 第二に、本書の画期性が、環境経済学、「生存基盤論」に依拠した環境史の観点からの考察・分析であることは前述の通りである。だが評者のように、杉原の前著『アジア貿易の形成と構造』に惹かれて、アジア経済史研究に関わるようになった者には、本書の環境史の色合いが強すぎる点が気になった。この点は、第III編「戦後世界システムと東アジアの奇跡」で提示された、冷戦と「東アジアの奇跡」との相互連関性、「同じコインの表と裏」という表現に象徴される、冷戦体制と東アジア諸国の高度経済成長との密接な繋がりの評価に関わる。

 第4章「近代国際経済秩序の形成と展開」では、20世紀後半の「開発主義的国際経済秩序」の世界史上の独自性が指摘されている。アメリカ合衆国の覇権性、「構造的権力」とアジア諸地域の工業化との関係性は、歴史学の研究対象として、公開された第一次史料を駆使して、近年急速に研究が進んでいる。杉原も部分的に指摘する、1980年代後半から90年代のアメリカ経済の金融化現象は、金融・サービスと工業化を結びつけて「東アジアの奇跡」を加速した、決定的な要因であろう。また、インド経済の国際競争力が構造的に弱体化した要因も、冷戦体制だけで説明するのは無理がある。やはり、政治経済学の観点から、総合的に考察する必要があるのではなかろうか。

 第三に、同じ問題は、「生存基盤確保型発展径路」を将来的に広めていく上で不可欠な、化石資源と水の安定的確保の問題にもあてはまる。モンスーン・アジア(海洋アジア)における水資源の確保をめぐる軋轢は、南アジアの大河や、インドシナ半島のメコン河開発で、国連や世界銀行、アジア開発銀行などの国際機関を含めて、国際協力・民間協力の焦点となっている。また杉原は、1970年代の石油危機が、メカトロニクス革命と併せて、資源節約的で労働節約的な工業化への転換点となり、「東アジアの奇跡」の技術的革新をもたらしたと指摘し、石油危機の技術面・発展径路面での画期性を強調している。評者も、1970年代の石油危機が、世界システムの一大変革(ソ連を中心とする社会主義圏の衰退、アフリカの経済的停滞、アジアにおける「緑の革命」の進展、東アジアの経済的再興)をもたらした相互連関性について、政治経済学の観点から、国際共同研究を行っている。環境問題と国際政治経済秩序の結びつきこそ、現代においてさらに探求すべき課題であろう。

 いずれにしても、この杉原の大著が、日本の学界から、世界の学界に向けて独創的な問題提起を行ったことは間違いない。欧米の研究者の研究成果を批判的に検討するだけでなく、人類史の未来に向けて、新たにアジア・日本からの世界史像を提示した画期的試みとして、高く評価できる。本書の学術的価値はもちろんであるが、本書で提示された近現代世界史像は、2022年から高等学校で始まる地理歴史科の新科目「歴史総合」のモデルにもなりうる。今後、本書をめぐる議論が広がることを期待したい。

(「世界史の眼」No.15)

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伊藤邦武、山内志朗、中島隆博、納富信留(責任編集)『世界哲学史3 中世Ⅰ 超越と普遍に向けて』ちくま新書、2020年
薩摩秀登

 本書は、世界史的な視野のもとで普遍的・多元的な哲学の営みを全8巻(および別巻1)で展望するシリーズの第3巻である。このような試みを前にすれば、哲学という言葉自体がどのような意味であったかとふと考えてしまう。古代ギリシアに生まれ、長い道筋をたどって近代西欧に引き継がれたものが哲学であろうか、それとも世界各地で独自の哲学が展開したのであろうか。今でも哲学書と言えば、ヨーロッパの古典語や近代語で書かれた膨大な著作を想像しがちである。しかし本書の第1章では「「哲学」という語はギリシア起源であっても、その思考は世界至る所にある。西洋にしか哲学を認めないのは、哲学に対して偏狭すぎる」と明快に表明されている。

 この巻の対象はほぼ7世紀から12世紀であり、すでに古代文明の時代ではない。しかし世界を一つのシステムに吸収していく傾向が現れるのはまだ先である。西欧では中世の社会と文化が少しずつ形を整え始める。ビザンツ帝国やイスラーム帝国はこの時期に頂点を迎えており、隋・唐の世界帝国や北宋もこの範囲にほぼ収まる。本書はこうした時期における各地固有の世界観、世界認識の流れをたどっており、いわば同時進行的に、全く異なった文明のもとで、人間と世界に関して根底において通じ合う思考が展開されていたことを見通せる構成になっている。

 評者自身は哲学を正式に学んだことはないし、仮に「入門」程度を試みたにしてもただちに挫折した経験しかない。以下はそうした評者でも可能な範囲での紹介にとどまることを前もってご承知願えればと思う。

 第1章「普遍と超越への知」(山内志朗)は、この巻が対象とする時代を中世の前半部分と位置づけ、これを古典古代の文化が独自の展開を見せ始めた時代、文化が特定の地域に内閉せずに交流を始めた時代と性格づける。第2章「東方神学の系譜」(袴田玲)では中世ギリシア人の国ビザンツ帝国が舞台となり、東方神学の中にも実はギリシア哲学の用語や概念が潜んでいること、とはいえ東方神学の特質を最もよく示すのはヘシュカスムに代表される神秘主義的世界観であることが論じられる。以下、4つの章が、神学をすべての基礎としていた中世西欧において古典古代の学問がいかに取り入れられたかを論じている。第3章「教父哲学と修道院」(山崎裕子)は、「私は信じるために理解することは望まず、理解するために信じている」と述べたカンタベリーのアンセルムスから、「哲学とはすべての人間的神的事物の根拠を徹底的に探究する学問分野である」と述べたサン・ヴィクトルのフーゴーへ、時代の大きな転換を跡づける。第4章「存在の問題と中世論理学」(永嶋哲也)によれば、古代ローマ人によるラテン語訳でアリストテレスの思想を引き継いだ人たちにとって、その論理学は「神の真理に達する道が示されているかもしれないが、迷宮に導くかもしれない「地図」のようなもの」でもあった。第5章「自由学芸と文法学」(関沢和泉)は、自由学芸が人間の不完全性を補うために必要な学問と認識され始め、中でも文法学は諸学問の起点であり基盤であるとみなされたことを示す。さらに第7章「ギリシア哲学の伝統と継承」(周藤多紀)は西洋中世哲学の主要なスタイルである「註解」に注目し、これが権威への単なる盲従ではなく、観察や経験に基づき、自分が知りえた概念装置を駆使してテクストを分析し、その可能性を引き出す創造的な試みであったことを論じている。

 西洋以外で人々はいかに人間と世界を見つめてきたか、4つの章がいくつかの断面を示している。第6章「イスラームにおける正統と異端」(菊地達也)によれば、シーア派の一派イスマーイール派は独自の宇宙論・創世神話を発展させ、10世紀からは新プラトン主義哲学も導入された。これは異端視される可能性もあったが、イスラーム世界では正統と異端の区分線自体がもともと明確ではなかった。第8章「仏教・道教・儒教」(志野好伸)は、中国の人々が初めて遭遇した高度な外来思想である仏教と、古来の思想である儒教や道教との間で、精神や霊魂、心の構造、「孝」の実践などをめぐって展開した哲学的議論をたどる。第9章「インドの形而上学」(片岡啓)は、仏教とバラモン教双方の最先端の思想家たちが繰り広げた、認識論、存在論、意味論、論理学などに関する深遠な論争を紹介している。第10章「日本密教の世界観」(阿部龍一)は、密教的世界観をもとに平安朝宮廷の基本的方向性を示した空海について論じる。『大日経』のテクストの文字に無限の意味を読み取り、言葉と物との間に同時発生的関係を見出す空海の思想は、現代の言語学にも通じる。

 中世前半と言われれば停滞の時代を想像しがちだが、世界各地で古代の思想が引き継がれ、独創的かつ多彩な展開を見せていた姿が本書を通じて浮かび上がってくる。(文中敬称略)

(「世界史の眼」No.15)

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