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アメリカ軍によるBC級戦犯裁判(下)―旧日本領「南洋群島」の事例―
小谷汪之

はじめに
1 アメリカ軍によるBC級戦犯裁判の概要
2 ケゼリン(クェゼリン)裁判とグアム裁判
(以上、前号掲載)
3 「南洋群島」における戦犯事件の事例
4 米軍グアム戦犯収容所における暴行、虐待行為
おわりに
(以上、本号掲載)

3 「南洋群島」における戦犯事件の事例

(1)マーシャル諸島ミレ島米軍俘虜処刑事件

 前述のように、1943年11月20日から23日、アメリカ太平洋艦隊はギルバート諸島のマキン環礁、タラワ環礁を空・海から爆撃を加えたうえ、上陸して日本守備隊をほぼ全滅させた。その後、アメリカ軍は占領したマキン、タラワを基地としてマーシャル諸島を攻撃し始めた。その最初の目標とされたのはマーシャル諸島東南端のミレ環礁のミレ島であった。当時ミレ島には、北、南、西の3砲台を持つ海軍部隊とそれに配属された陸軍1ケ聯隊(第1大隊、第3大隊、山砲大隊、他)が駐屯し、総兵力は約5000人であった。

 1944年1月25日、アメリカ軍のB25機約15機がミレ島を爆撃したが、そのうち1機は撃墜されて環礁内に墜落した。その搭乗員5名は日本軍によって救出され、俘虜となった。その後もアメリカ軍の爆撃が続き、アメリカ軍のミレ島上陸も濃厚と思われた1月31日、ミレ島日本守備隊の最高指揮官志賀海軍大佐は「玉砕」を覚悟して、米軍俘虜5人の処刑を決断した。2月2日、米軍俘虜を海軍の北砲台、南砲台に各1人、陸軍の3大隊に各1人振り分けて、それぞれ斬首により処刑した。

 その後、1945年8月15日の終戦まで、マーシャル諸島の日本軍各基地はアメリカ太平洋艦隊の完全な制海権、制空権下に置かれ、武器・弾薬、食料などの補給を完全に断たれて、餓死者が続出するという状況になった。

 戦後直ちにアメリカ軍による日本人戦犯の追及が各地で始まり、マーシャル諸島にも及んだ。1945年9月23日 アメリカ軍はミレ島で基地建設に従事していた朝鮮人建設隊員2名からミレ島におけるアメリカ兵の処刑を聞き知り、最高指揮官志賀海軍大佐、陸軍聯隊長大石大佐など4人を米軍航空隊基地のあるマジュロ島に移送して、捜査を開始した。9月26日には、さらに海軍関係4人(北砲台長笛田中尉など)、陸軍関係3人(第1大隊副官門田中尉など)がマジュロ島に移送された。9月28日、志賀最高指揮官が「命令しあらざるも司令として責任あり自決す」という遺書を残して自決した。これにより、米軍俘虜処刑の命令系統が曖昧になり、大隊長などの中間指揮官が不利な立場に置かれることとなった。

 1945年10月25日、ミレ島事件の容疑者10名がマジュロ島からクェゼリン島に移送され、11月21日、クェゼリン法廷で裁判が開始された。11月29日結審、12月11日に判決が出された。陸軍聯隊長大石大佐、海軍北砲台長笛田中尉など6人に絞首刑、門田陸軍中尉他1人に終身刑(門田中尉はその後無罪とされた)、その他2人に懲役20年の刑であった。この裁判はクェゼリン法廷における最初の裁判で、裁く側も裁かれる側も司法知識がほとんど全くないという状態であったが、アメリカ海軍の主導で強引に進められた。

 1946年3月19日、ミレ島事件有罪者9人はクェゼリン島からグアム島に移送された。これはマーシャル諸島ビキニ環礁で1946年6月から原水爆実験が行われることになっていたことに伴う処置であったとされている。前述のように、クェゼリン裁判における既決囚および未決の容疑者はすべてグアム島に移送された。

 グアム移送の約半年後の1946年10月、ミレ島事件で終身刑・有期刑とされた3名はグアム島から日本に送還され、スガモ・プリズンで服役した。死刑判決を受けた6人も、1947年4月、終身刑に減刑され、同年5月29日グアム島から日本に送還され、スガモ・プリズンに収容された。(以上の記述は翻刻版『戦犯裁判の実相』435-448頁による。)

(2)トラック海軍病院における米軍俘虜「生体解剖」事件

 1944年2月初めにマーシャル諸島の日本軍をほぼ制圧したアメリカ軍は次にトラック諸島(現、ミクロネシア連邦チューク州)、特に夏島(現、トノアス島)に対して激しい空爆を開始した。夏島には南洋庁のトラック支庁があり、日本海軍第4艦隊の司令部もここに置かれていた。当時、トラック諸島(環礁)は連合艦隊の泊地にもなっていた。1944年2月17日から18日、アメリカ軍はトラック諸島(環礁)に猛爆撃をかけた。これにより日本海軍は大打撃を受け、連合艦隊はトラック諸島から撤退し、「南洋群島」最西端のパラオ諸島を泊地とすることになった。

 話はさかのぼるが、1943年末、トラック諸島付近で一隻のアメリカ軍潜水艦が日本軍によって拿捕され、その乗員50人が俘虜となった。俘虜たちは海軍第41警備隊の管理下に置かれていた。

 1944年1月末、海軍第4病院の院長、岩波浩海軍軍医大佐は第41警備隊診療所の責任者に対して、「実験」のために米軍俘虜8人を使いたいと申し入れた。それに応じて、8人の俘虜が第41警備隊の隔離病棟に移された。翌朝8時頃には、岩波第4病院長など第4病院の軍医たちが隔離病棟で「実験」を開始した。8人を4人ずつの二組に分け、一方の4人には止血帯を用い、他方の4人には毒菌注射を用いて、「実験」が行われた。止血帯は4、5時間から7、8時間巻かれた後、急に外されると俘虜たちは苦痛にのたうちまわった。それを何回か繰り返すと、死亡するに至った。止血帯の「実験」は朝から夕方まで続けられ、まず2人がその日のうちに死亡した。残り2人は一晩休ませて、翌朝に止血帯「実験」が再開され昼頃まで続けられたが、死亡しなかった。そこで、裏山でダイナマイト爆風実験をすることになり、2人を杭に縛り付け、1メートルぐらいのところにダイナマイトを置いて点火した。爆風によって手足がちぎれるなどの損傷を受けた俘虜2人はひどく苦しんでいたので、薬物注射によって死亡させた。他方、もう一方の4人の俘虜は止血帯による「実験」の後、ぶどう状球菌の注射によって殺害された。その後、岩波第4病院長らの軍医によって、4人の解剖が海軍第4病院の死体室兼解剖室で行われた。解剖は、午後3時頃から胸と腹を切開することから始まり、4時間ほど続いた。海軍第4病院では、1944年7月にも、岩波病院長の発案により米軍俘虜2人を裏山で槍、銃剣、日本刀などで「実験的に惨殺」した。

 海軍第4病院におけるこれら二つの事件はグアム法廷で併合審理され、岩波海軍第4病院長に死刑、他の18人の被告に終身刑から懲役10年の刑が下された。岩波病院長は大きな赤十字の印を屋上に掲げた海軍第4病院に対するアメリカ軍の盲爆に痛憤していたので、裁判でも最後まで抵抗を止めなかったため、極刑に処されることになったのであろう(1949年1月18日、グアムで死刑執行)。

 トラック諸島夏島では少なくとももう1件の米軍俘虜「生体解剖」事件(トラック警備隊第2事件)があった。1944年6月、海軍第41警備隊の軍医たちが警備隊病室において1人の米軍俘虜の「胸部・腹部・陰嚢などを切開、生体解剖」した。さらに、もう1人の俘虜を同病室の裏において日本刀で斬首、殺害した。この事件では海軍少将浅野新平など4人に死刑判決が下されたが、実際に死刑を執行されたのは浅野少将と海軍軍医中佐上野千里の2人だけで(1949年3月31日、グアムで刑執行)、他の2人は後に終身刑に減刑された。なお、他にも同種のことがあったようであるが、裁判にはかけられなかった。(以上の記述は、主として、岩川隆『孤島の土となるとも――BC級戦犯裁判』〔講談社、1995年〕147-162頁による。本書は著者畢生の力作というべきもので、A5版800頁を超す大著である。日本語文献のみならずアメリカ軍関係の英文文献をも博捜し、旧戦犯の生存者や処刑された戦犯の遺族などを訪ねて聞き取りをするなど、長年にわたってこの問題を追求した成果である。ただ、残念なことに、文中に典拠の表示が全くなく、文献リストや聞き取り情報も全くない。しかし、記述は正確なものと考えられるので、利用させてもらった。)

(3)マーシャル諸島現地民処刑事件

 前述のように、ヤルート環礁ジャボール島では米軍俘虜3人を処刑するということがあり、容疑者はクェゼリン法廷で裁かれた。この裁判では、処刑実行者である海兵曹長吉村次夫ら3人に死刑判決が出されたが、後に3人とも終身刑に減刑された。

しかし、ヤルートではそれだけではなく、現地民をスパイなどとして処刑するという事件があり、容疑者がグアム法廷で裁かれることとなった。

 1945年4月上旬、ヤルートに4人ずつ二組のミレ島民がカヌーとボートで漂着した。取り調べの結果、この二組は親族であること、アメリカ軍のそそのかしによりミレ島を脱出してアメリカ軍に奔ることを決意し、アメリカ軍のLST(上陸用舟艇)に収容されたこと、LSTの艦長からヤルートに漂着を装い、現地民に対して日本軍基地の惨状と多数の日本人と現地民がアメリカ軍に奔り優遇されていることを話し、日本人も現地民も2週間後にアメリカ軍のLSTが迎えに行くから逃亡せよ、でなければ椰子林と一緒に焼き殺してしまうということを伝えるように命じられたこと、椰子林が見え始めた所でLSTから降ろされたことを自白した。これら8人のミレ島民には略式の軍事裁判で全員に死刑の判決が下され、銃殺刑に処せられた。これを機に、それまで日本軍に協力的であった現地民たちは白い目で日本人を見るようになったという。

 1945年5月頃から、アメリカ軍は飛行機による日本語・朝鮮語のビラの散布によって投降、逃亡、暴動などをそそのかし始めた。ヤルートの日本軍はアメリカ軍の武力と飢餓と思想謀略の攻撃によって窮地に追い込まれていった。アメリカ軍のLSTはヤルート環礁の離島の海岸から数百メートルぐらいのところに艇を止め、「支那の夜」などのレコードをかけて聞く者の心を乱したうえ、他の基地から逃亡してアメリカ軍に奔った日本人下士官が現れて、投降を促した。すでに逃亡した現地民は残っている現地民に逃亡を呼びかけた。現地民は至る所で日本人の殺害、軍用物(特に舟艇)・兵器などの窃取を計画し実行した。このような動きが各方面で前後して発覚したので、容疑者の捜索が行われた。その結果、四つの事件について略式の軍事裁判が行われ、13人の現地民に死刑判決が下された。これら13人の現地民は5回に分けて銃殺刑に処された。この事件はグアムの法廷で裁かれ、陸軍少佐古木秀策他1人に終身刑の判決が下された。(以上の記述は『戦犯裁判の実相』386-392頁に収録されている古木秀策の手記に依拠)

4 米軍グアム戦犯収容所における暴行、虐待行為

 米軍グアム戦犯収容所は200メートル四方ほどの敷地に8棟のかまぼこ型収容棟があり、各収容棟は板壁で14の独房に区切られていた。独房は幅1メートル、奥行き3メートルほどで入り口のドアーには有刺鉄線が張られていた。戦犯や戦犯容疑者はこの中にほとんど全裸状態で入れられていた。グアムは熱帯に近く、昼は窓一つない独房は熱気が激しいが、夜になると急速に気温が下がる。ほとんど全裸状態で、コンクリート床に毛布1、2枚では厳しかったであろう。

 BC級戦犯の収容所においてはどこでも、戦犯あるいは戦犯容疑者となった日本兵などに対する暴行、虐待行為が横行していた。中でも、グアム戦犯収容所における暴行、虐待はほとんどリンチといってよいぐらい苛烈なもので、判決前に収容所内で死亡する者が出るほどであった。殴る、蹴るは日常茶飯事で、その他考えられるかぎりの方法で収容者を痛めつけた。その実例は『戦犯裁判の実相』に詳しく記録されている。

 ヤルート環礁における現地民処刑事件で終身刑の判決を受けた古木秀策の手記「グアム戦犯ストッケード」には、死刑を執行された戦犯たちが生前に受けた虐待の数々が列挙されている(『戦犯裁判の実相』412-419頁)。

 「T陸軍中将〔立花芳雄陸軍中将、父島事件で死刑〕は或番兵が勤務につくと直裸のま々礫の上へ柔道の背負投を食って前方へ倒れる要領と横へ倒れる要領を数十回やらされるのが常であった」。なお、海軍中将若林清作(トラック警備隊事件などに対する責任を問われて15年の有期刑)によれば、立花陸軍中将は「父島事件〔人肉食事件〕に対して極度に憎悪せられ」、「処刑の前々日の夜……踏む、蹴る、叩く、壁に叩きつける。遂にへたばれば水をあびせるの惨虐を加えられて翌日に刑死せられたり」(『戦犯裁判の実相』410頁)。

 「I海軍大佐〔岩波浩海軍軍医大佐 トラック海軍病院事件で死刑〕は絞首刑の判決を受けた後も屡々番兵に強制されてストッケード〔収容棟〕内の私達一人一人に対し『愈々近く死刑を執行される事になりました。永々お世話になりました』と挨拶回りをさせられた。番兵はキューと声を立て首を絞められるまねをし乍ら上機嫌で同大佐につき添うていた」。また「I大佐は理由なしに裸で無帽のま々直射日光の下で不動の姿勢をとらされた」。若林海軍中将によれば、岩波海軍軍医大佐はドラム缶の防水タンクに約100メートル離れた水浴場からバケツで水を運ばせられ、満水になるとそれをひっくり返し再び満水になるまで水を運ばせるということを何回も繰り返され、ついに倒れた(『戦犯裁判の実相』410頁)。

 「A海軍中将〔阿部孝壮海軍中将、クェゼリン事件で死刑〕」は「痩せて衰え果てた体で電柱の廻りをこまの様に廻って走らされて倒れた」。

 「六十有余歳のT海軍大佐〔田中政治海軍大佐、トラック警備隊事件で死刑〕」の場合は、「処刑される迄の一ケ月余りの間毎夜どの番兵も自分がさぼって腰をかけたい為に同大佐を便所に連れて行った。同大佐は『もう一ケ月眠らないので夜だかわからない』と言っていた」。

 「U海軍中佐〔上野千里海軍軍医中佐 トラック警備隊第2事件で死刑〕」は「裁判中ガードハウス〔収容所入り口の衛兵所〕から指に包帯をして帰って来て『ペンチで生爪をはがされた』と言っていた」。

 こういったグアム戦犯収容所における暴行、虐待はその他すべての日本人戦犯あるいは戦犯容疑者に対して日夜行われていた。ただし、このような暴行、虐待行為は1947年10月以降、基本的にはなくなったようである。それは、グアム戦犯裁判で不起訴になって帰国した者や有罪判決を受けた後に日本に送還された者たちが、グアム戦犯収容所における残虐行為についてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に訴えたことで改善されたということのようである。

おわりに

 父島事件における人肉食にしろ、トラック海軍病院事件やトラック警備隊第2事件における「生体解剖」にしろ、日本軍の行った残虐行為は通常の状況では考えにくいものである。アメリカ軍による猛爆撃下、それほど異常な心理状態になっていたのであろう。

 他方、グアム戦犯収容所におけるアメリカ軍兵士による暴行、虐待行為も常軌を逸したものである。特に戦後すぐの時期には、アメリカ軍兵士の日本人に対する報復感情が激烈であったため、戦犯あるいは戦犯容疑者に対しては何をしてもいいというような心理状態だったと思われる。

 戦争という状況が人間性を破壊する事例は歴史上枚挙にいとまがない。2022年2月、ロシア軍が一方的にウクライナに侵攻して、ウクライナの人びとに対して暴虐のかぎりをつくしたのはその直近の事例である。

 改めて、戦争を起こしてはいけないと思う。人は戦争になると狂気に陥るのであるから。

(「世界史の眼」No.43)

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「万国史」における東ヨーロッパII-(4)
南塚信吾

4. 岡本監輔著・中村正直閲『万国史記』内外兵事新聞局、1879年 

版権免許は1878年(明治11年)

 著者の岡本監輔(天保10(1839)年~明治37(1904)年)は、徳島出身で、「小農に生まれる。苦学力行・気宇遠大、その生涯を開拓精神でつらぬいた異色人物である」という。号は韋庵。明治元年(1868年)、樺太奥地探検をおこない、樺太開拓に情熱を傾け、明治初年に函館裁判所判事(樺太開拓使)になって樺太経営に携わった。しかし、明治3年(1870年)、樺太放棄論をひろめた黒田清隆と意見が合わず辞任、東京府第一中学校(現日比谷高校)にて教壇に立った。 この第一中学時代に著したのが、この『万国史記』1879年(明治12年)であった。岡本は、のちに福沢の「脱亜論」とは反対に日清の協力を説き、アジア主義者と呼ばれるようになった。岡本は、この本を漢文で書いていた。それは中国でも読んでもらいたかったからであるという(宮地)。校閲をした中村正直はスマイルの「自助論」の翻訳者であった。

 2005年7月に二松学舎における挟間直樹(京都産業大学)の講演によると、岡本は数回清国へ訪れていて、『万国史記』は清国において30万部以上が坊間に流布したという。また、韓国の玄采『万国史記』は岡本韋庵の書を基に編集したものであるという。1884年には、岡本監輔著、三宅憲章校『万国通典』(集義館)というものも出版されている。

***

 『万国史記』の構成は以下のようであった。

巻一 万国全記、亜細亜総説、大日本記
巻二 支那
巻三 印度、波斯、韃靼
巻四 亜西里亜(アッシリア)、巴靭斯坦(パキスタン)、朓尼基(フェニキア)、西里亜(シリア)、亜剌伯(アラビア)、その他アジア
巻五 亜非理駕(アフリカ)総説、厄日多(エジプト)、巴巴黎(ベルベル)、桑給巴(ザンジバル)、達疴美(ダホミー)、そして黒奴、馬達加斯架(マダカスカル)など
巻六 欧羅巴総説、希臘、馬基頓(マケドニア)
巻七 羅馬
巻八 東羅馬、羅馬教宗国(ローマ教皇国)、伊太利、土耳古
巻九、十、十一 仏蘭西
巻十二 西班牙、葡萄牙、荷蘭、比利時(ベルギー)
巻十三、十四 日耳曼
巻十五 瑞西、墺太利、普魯西
巻十六 俄羅斯(ヲロシア)、波蘭、瑞典(スウェーデン)、丁抹(デンマーク)
巻十七、十八 英吉利
巻十九 亜美理駕総説、米利堅(アメリカ)、墨西哥(メキシコ)、秘魯(ぺルー)、巴西(ブラジル)、その他アメリカ
巻二十 阿塞亞尼亞(オセアニア)

***

 この『万国史記』も指定教科書ではなかった。漢文で書かれた岡本の『万国史記』は、単なる「翻訳」ではない「万国史」であった。その特徴を整理すると、このようになる。

1) 基本はパーレイ的で、アジアから始めて、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカと回って、オセアニアに戻ってくる方式をとっていた。諸地域の歴史の並列としての「万国史」である。だが、記述はパーレイ自身のものより正確になっている。それらの地域の歴史を地域に即して見ていると言える。

2) パーレイとは違って、「天地開闢」の説はさまざまにあると言って、キリスト的天地創造説は採っていない。脱聖書の「万国史」であった。

3) パーレイと同じく、徹底して古いところから新しいところまでの歴史を縦に述べ、そういう各国史を並べるという方式をとっていた。ただ古代・中世・近世といった時代区分をしていない。

4) アジアは、日本から始めていて、「万国史」の中に日本を組みこもうとしている。日本の歴史は「大日本記」が始まりで、天照大神から天皇の事績を連ねた皇国史が略述され、ついで「附録」として、15-17世紀と1850年代以後の日本と諸外国との交渉史が述べられている。1853年の米利堅人伯爾理(ペルリ)来日から各国との修好条約の締結までが正確に書かれ、そのうえで、世界には様々な政体があり、各国が主権を持って、上下の違いはない。日本は1868年以後天皇のもとで世界に乗り出したのだとしていた(巻1)。

5) 支那(中国)の歴史も王朝史で、最後に「附録」として1790年代以後の欧州勢力との交渉史が置かれている。特に鴉片をめぐっておきた1840年の戦争から、1850-1860年の太平王の戦争までの対外関係が詳しく論じられ、最後に中国は「中華」といって奢っていたが、今は固陋に甘んじ「西人」に遅れている。気力を取りもどさないといけないとしていた(巻2)。
 インドについては、1857-58年の対英「乱」(大反乱)に至るまでの歴史が述べられ、「乱」の鎮圧ののち、インドが英政府の「所轄」となった次第が論じられる。こののち、「印度事務宰相」のもとでインドは鉄道が引かれ、棉花等の産物の産地になっていくという。インド支配が肯定的に評価されている。インドの風俗も述べられ、「以子女為犠牲人死即」(寡婦殉死)という風習も出てくる。この後、ペルシア、アッシリア(バビロン)、パレスチナ(耶蘇)、フェニキア、シリアが出てくる(巻3)。
 その後東アジアに戻って、朝鮮、安南、暹羅(シャム)、緬甸(ビルマ)、阿富汗(アフガニスタン)、西伯利(シベリア)が畧記される。「万国史」でこれらの国(アフガニスタンを除き)の歴史が出てくるのは、これが初めてではないだろうか。とくに朝鮮については、紀元100年頃の高麗から始めて、1860-70年代の仏米の接近、1875年の日本との戦いと講和条規(江華島条約のこと)までを略記している。朝鮮の各「王室」が滅亡するまで史料を公にしないので、その沿革を描くのが難しく、日本や支那の書に依らざるを得ないとしていた。総じて、これら朝鮮以下のアジアの国々は、「皆甘んじて人に屈下する者に非ず」といえども、「古より今に至るまで未だ其の能く自主する者を見ず」。その理由は、地勢のほかに「人」の性格などにあり(巻4)というのであった。

6) 亜非理駕(アフリカ)についても、明治期に出た「万国史」の中では初めて詳しい歴史を論じている。岡本は、アフリカのまとめとして、次のように述べている。アフリカは港湾が少なく、気候も高湿で疫病が多く、土人は無知であると言われが、これは人の「性」に依るのではない。欧州の学者は黒人の才質は白人と同じではないと言う。だがそうではなくて、これは知識と教学によって乗り越えられるものである。欧州人は売奴は禁止したが、黒人子弟を教育したということはまだ聞いていない。このように述べて、欧州人を批判していた(巻5)。

7) 全体として、アジア主義からのユニークな「万国史」であった。アジア諸国についてはそれぞれの弱さを指摘し、西人に対抗するためには、各国がその弱さを克服していかねばならないと主張していた。一方、ヨーロッパ列強については、その文明が至上であるとはとらえず、時には批判的な見方をしていることが注目される。そして、世界全体の動きを、主権を持った国々の冷徹な利害の交錯する場であるとみていたようである。

***

 では、ヨーロッパ東部の歴史はどのように書かれていたのだろうか。欧羅巴は巻六から十八までで論じられている。総説以下、希臘、馬基頓(マケドニア)、羅馬、東羅馬、羅馬教宗国(ローマ教皇国)、伊太利、土耳古、仏蘭西、西班牙、葡萄牙、荷蘭、比利時(ベルギー)、日耳曼、瑞西、墺太利、普魯西、俄羅斯(ロシア)、波蘭、瑞典(スウェーデン)、丁抹(デンマーク)、英吉利と続くのである。その中で東ヨーロッパについての記述を見てみよう。

≪希臘≫
 欧羅巴総説に次いで、希臘の歴史が、古代から希臘帝国(ビザンツ帝国)をへて1820年代における独立までタテに論じられる。ギリシアの独立に関しては、そのきっかけとなったのが、「希的里亜(ヘチリア)」(フィリキ・エタリアのこと)という「一社」であったことを指摘し、独立戦争においても「国人(国民)」の力を評価している。しかし、結局は英仏ロの列強の支援、つまり各国の冷徹な利害を重視していた(巻6)。

≪土耳古≫
 土耳古の歴史が、一貫した通史として描かれている。紀元600年頃に始まり、961年におけるカズナ朝の成立、1032年?にセルジュク家が支配したこと、1300年代にモンゴルに従属したこと、1293年?にオスマン家が国を建て、1453年にコンスタンチノープルを陥落し、1520年代のハンガリーとオーストリア攻撃のこと、1687年のウイーン攻撃の失敗のこと、1770年代から1850年代の露土戦争のことなど、支配の構造も含めて、「トルコ」の一貫した歴史を描いている。多少とも年代のずれはあるが、パーレイよりもしっかりとしたトルコ史になっていた。この「トルコ史」との関係で、ハンガリーやポーランドの歴史が触れられることになった。たとえば、1520年代と80年代のハンガリーからウイーンへのオスマン軍の侵攻が述べられている(巻8)。

≪波蘭≫
 興味深いのは、ポーランド史について、独自に詳しい記述をしていることである。「俄羅斯(ヲロシャ)記」の後に置かれた「波蘭記」では、とくに1772年、1793年、1795年のポーランド分割の過程、ポーランド国家の消滅後の1830年にフランス革命を機に起こったポーランド人の蜂起、1863年のポーランド蜂起が、詳細に記述されている。特に蜂起に際しては、「自由」のための社会改革の動きに注目している。最後に、ポーランドが分割されて国がなくなったについては、「公法」がまだ行き渡っていないこと、「隣邦公伯」が手をこまねいて助けに行かなかったことを憤っている。「万国史」においては一般にポーランド史への関心は高いのであるが、ここでは他の「万国史」以上に列強への批判がなされている(巻16)。

≪匈牙利≫
 墺地利の歴史は、ほとんどが1848年の「乱」から1867年に「並立帝国」ができるまでの過程に充てられている。それは匈牙利との関係で書かれている。匈牙利自体の歴史は、ポーランドに比べて、極めて限られた記述であるが、土耳古の部と墺太利の部で述べられているわけである。ここでは、48年革命を、王侯君主間の政権争いとしてのみではなく、「府民」、「国人」、「書生」などの動きを交えて論じている。それは「暴民」、「不逞の徒」、「乱民」といった観念をも引き出していたが、権力と民衆の関係を意識したダイナミックな記述であった。明治10年に完成した箕作『万国新史』における48年革命論に習っていると思われるが、それよりは深まっている部分と、事実関係を誤っている部分とがあった。
 例えば、1848年の革命はこう書かれている。「1848年3月、仏蘭西革命の報維也納に達す。府民之に倣わんと欲し、広く起こり、乱を作す。」オーストリアの支配を受けていたイタリアでも、民が乱を起こした。オーストリアの「帝」は、「国人」に約して新法をたてたが、「国人」服せず。そこで皇帝はインスブルックに脱出、ウイーンは「書生及び暴民」の「淵藪」となる。さらに、ボヘミアでは7月に、スラーヴ人がプラーグを砲撃してこれを奪い、新に政府をたてて、ウイーンの「乱民」を助けようとした。同月に「国人」がウイーンに大勢集まった。このため8月に皇帝はついにシェーンブルンに都を移した。今日でいえば、明確に権力と民衆の関係で論じられている。
 岡本は、1867年のオーストリアとハンガリーの「妥協(アウスグライヒ)」の結果として成立した二重君主制に早くも注目し、これを「並立帝国」として記述している。オーストリアの帝をハンガリーの王にし、共通の執政局、共通の議院をおいて、二国を「聯合」したもので、これによって両国積年の怨みは「氷解」したという。これに注目しているのは、明治期において岡本が最初であろう。間もなく久米邦武『米欧回覧実記』明治11年(1878年)が注目することになる(巻15)。
 よく見ると、1848年におけるチェコやハンガリーの位置づけはおかしい。「7月にスラーヴ人がプラーグを砲撃し・・・」は間違いである。ハンガリー人は「帝を推して首領となし」たとか、皇帝はハンガリー人に「自主政府」を立てることを許したなどというのも間違いである。箕作『万国新史』に習ったと思われるが、箕作はこういう誤りは犯していない。しかし、そういうことが問題になるほど、詳しい歴史であった。

***

 岡本の東ヨーロッパ論においては、「人民」以外に、今日ならば「市民」を意味する「府民」、「国民」を意味する「国人」が使われている。「府民」は箕作『万国新史』にすでに出てきていたが、ともかくここでは、国王や貴族や軍人など権力者だけではない人々からの視線が求められていたわけである。ただし、一方で、人民、府民、国人への視線に対し、「暴民」、「不逞の徒」、「乱民」への不信もある。賢君に導かれる上下貴賤の別のない国というのが岡本の基準であったのではなかろうか。

 また、フランスの1789年や1848年を「革命」として論じているが、ウィーンでは「乱」になっていて、まだ一貫した用語にはなっていなかった。これに関連して、「府民」らが構成する「社会」という概念はまだできておらず、社会改革という考え方は生まれていなかったようである。

 その他、東ヨーロッパ論では、今から見れば欠かせないはずの「民族」や「階級」という概念は出て来ていない。他では、「民族」という概念と「階級」という概念も新たに登場させているだけに、やや気になる所ではある。ただこの「民族」や「階級」という概念はその後明治期の「万国史」に継続して使われることはなかった。

 諸概念の問題が出て来るほどに、岡本の「万国史」は、東ヨーロッパやアジアに内在しようとしたユニークなものであり、このような世界史認識を岡本はどのようにして獲得したのか、大いに研究の余地があるところである。

(「世界史の眼」No.43)

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書評:『スポーツの世界史』
川本真浩

 世界選手権やワールドカップなど、最近数ヶ月の間に開催されたスポーツの世界大会を皆さんはいくつご存じだろうか。水泳、女子サッカー、陸上競技、バドミントン、バスケットボール、ラグビーなど、なじみのあるスポーツだけでも数多くあったが、評者が惜しくも出場を逃したローンボウルズのような超マイナースポーツまで含めれば、ずいぶん多くの世界大会が開催された。いっぽう、夏と言えば、インターハイや高校野球といった高校生の大会をはじめとする児童・生徒及び学生の大会も数多く行われる。異常な猛暑のなかでの開催がとくに問題視された今夏であったが、裏を返せば、多くの耳目を集めるスポーツイベントが定着しているということでもある。いまやe-スポーツが国際オリンピック委員会のお墨付きを得る時代である。従来型のスポーツに全く関心や接点が無かった人でさえ、スポーツに触れたり見聞きしたりする機会は確実に高まっている。おおぜいの人の行動と感情に影響し、大量のモノがやりとりされ、相当な額のカネが動く…好むと好まざるとにかかわらず、スポーツはわれわれが生きる現代社会のなかで無視しえない存在である。

 「ミネルヴァ世界史〈翻訳〉ライブラリー」の一書として刊行されたデイビッド・G・マコーム著・中房敏朗/ウエイン・ジュリアン訳『スポーツの世界史』は、その帯で「スポーツはなぜ、かくも巨大なグローバル文化に成長しえたのか」とうたうとおり、スポーツの今日的状況を世界史の観点から解説する。五章立ての内容は、序章「語義と理論」、第1章「運動の必然性とスポーツが生まれる理由」、第2章「近代スポーツの誕生」、第3章「スポーツのグローバル化」、第4章「グローバルスポーツの諸問題」である。

 序章では手短に基本的な用語や概念を整理し、本書の構成を紹介する。原著では”chapter 1″であるが、分量及び内容から考えても、これを「序章」とし、原著の”chapter2″以降を「第1章」から始めていく本書の章立ては妥当であろう。

 第1章では、「スポーツが生まれる理由」つまり「なぜスポーツがあるのか」という根源的な問いに取り組み、著者なりの見取り図が開陳される。人間には「運動への衝動」が生まれつき備わっており、そこに労働、戦争、宗教、観る楽しみ、地理、エロスといった二次的な影響が加わることで、輪郭と形態が与えられてスポーツが造形された、という。そこには先史時代の壁画から20世紀の映画までさまざまな逸話があふれている。「実証的な裏付けがないとか、本質主義に陥っているとかと批判してみても生産的ではないだろう。これは一つの思考実験であり、私たちもこの実験に参加して楽しめばよい」という訳者の意見(248頁)に評者もおおむね同意するいっぽうで、そうした批判が想定されることにこそ歴史学のなかのスポーツ史の位相が示唆されているようにも思える。いずれにしてもスポーツ史のありかたについて考えをめぐらせる格好の材料にはちがいない。

 第2章では、章題どおり「近代スポーツの誕生」について、18世紀終わり頃から20世紀前半にかけての時期に発展した、競馬、クリケット、野球、ゴルフ、テニス、卓球、サッカー、ラグビー、アメリカンフットボール、バスケットボール、バレーボール、水泳、スキー、アイスホッケー、陸上競技、ボクシング、自動車レースなどが概観される。アマチュアリズムとプロフェッショナリズムそしてスポーツの組織化に関する歴史的経緯についても触れられる。いずれも発祥の地でありかつ盛んに行なわれてきたイギリスとアメリカ合衆国に関する叙述が中心となる。近代スポーツとしての各競技の黎明期について手短に知ることができるのはありがたい。

 つづく第3章と第4章では、第2章と同じく19世紀以降現代に至るまでの時期を扱いながらも、スポーツのグローバル化に論点を絞って、その歴史的過程と現代的問題について論じられる。まず第3章では、野球、クリケット、サッカーのグローバルな展開から説き起こして、YMCAが果たした役割、米中国交回復の逸話(いわゆるピンポン外交)、アメリカズカップ(ヨット)、そして世界最大のスポーツイベントである近代オリンピックに話が進む。また第4章では、さらに現在に近い問題がとりあげられる。アマチュアリズムの衰退、スポーツ界で不当ないし不利な状況に置かれた人種/民族/女性の問題、テクノロジーと医学の功罪、ドーピング問題の〈闇〉の深さ、そして商業化である。アメリカ合衆国を中心とする欧米の状況やオリンピックの事例がもっぱら引用されるが、現在に至る国際スポーツの実相をしっかりとらえることができる。

 全体を通していえば、古代あるいは先史時代から現代まで世界各地から渉猟された逸話をたんなる蘊蓄の羅列にしない、語りの巧みさと魅力は見逃せない。また、「スポーツは戦争を終わらせないし、スポーツを通じた友好関係が戦争を抑止するという有力な証拠もない。」(9頁)や「現代の世界では、スポーツそのものが宗教と見なしうるのに、伝統的な信仰を持つ多くの人はそのようには考えず、神への冒涜とさえ考えているのは皮肉なこと…」(45頁)といった言からは、スポーツに対する愛着とうらはらに冷静にスポーツを見定めようとするスタンスもうかがえる。

 とりわけ読み応えがあるのは、第3、4章で論じられるスポーツのグローバル化とその問題である。上述のように欧米とりわけアメリカ合衆国のスポーツに叙述が偏るきらいはあるが、20世紀以降のグローバルなスポーツ界において同国および同国におけるスポーツが重要な位置を占めること、そこにグローバル・スポーツの光と影があらわに見てとれることはまちがいない。世界史的観点から捉えた20世紀スポーツにかかる見取り図を把握するために、とても有用な章である。

 他方で、西洋人が現地人に無理強いするだけでなく現地人が進んでスポーツを受け入れた事例があったことをも強調する(「訳者解説」247頁)とはいえ、西洋=能動的/非西洋=受動的という古典的ステレオタイプの印象につながりかねない叙述はいささか気になる。例えば、「植民地時代以前のアフリカではいったいどんなスポーツがおこなわれていたのかは、ほとんど知られていない。…先住民は徒競走、レスリング、カヌー競漕、跳躍、舞踊などで楽しんでいたようだが、新しい西洋のスポーツがこれらにとって代わった」(143頁)と述べるが、東アフリカの伝統的な生活において独特の身体運動文化があったことや、西洋人が設立した学校や組織において西洋スポーツと現地に根ざす運動や遊戯の混在するさまがみられたことは、原著刊行時までにも学界で知られるところであった[1]。「歴史の本流に焦点を当てて、支流を削ぎ落とした分、全体的な見通しについては見やすくなっている」(「訳者解説」246頁)反面、見えにくくなった部分があることを想定して読むことも大切である。

 また原著刊行(2004年)から時間が経ったがゆえに、原文の時制のまま訳されていることから、そのご現在までに事態が大きく展開したテーマについては―もちろん著者や訳者の責任ではないが―ときおりとまどう。例えば、人種、ジェンダー、ドーピングにかかる問題は、この20年ほどの間に、技術・知見・理論の進歩のみならず、さまざまな出来事が起こり、議論が交わされ、状況がずいぶん変わったところもある(あいにく旧態依然の部分も少なくないが)。本書はあくまで21世紀に入ったばかりの時点で世界史的観点からスポーツとその歴史を概観した書であるということをときどき思い出しながら読まねばなるまい。

 いっぽう、原著を読みやすい翻訳でもって紹介するために、訳者による細やかな配慮が尽くされ工夫が凝らされていることも強調したい。原著には図版が全く載っていないが、本書には内容に関連する図版が多数盛り込まれ、文字情報だけでは難しいイメージづくりを助ける。やや叙述の長い節には原著に無い小見出しを加えることでトピックの転換を読者に示す。もっぱらアメリカ合衆国そしてイギリスという英米2国に偏った本書の欠点を補うべく、19世紀末以来スポーツのグローバル化を推し進めたフランスの主導的な役割について―それと対照的なイギリスの態度とあわせて―「訳者解説」で補足説明されているのもありがたい。さらに、原著には事実誤認、誤記ないし誤植が少なからず見受けられるが、それらには丁寧に注記が付けられたり修正が施されたりしている。

 著者マコームは、「学生、学者、専門職、あるいはその他の人々でも、ほとんど生まれながらにしてスポーツに関心をもっているような人とそうでない人に分けられる」と述べ、日常的な自己紹介の場面においてスポーツ史家である自分に対して「おぉ!」と関心をもってくれるような人に向けて本書を書いたという(i-ii頁)。しかし、評者としては、スポーツやその歴史に全く関心がなくても世界史、グローバル・ヒストリー、世界情勢に関心のある人には、ぜひ本書を手にとってもらいたい。そして、本書に何らかの物足りなさを感じる方、あるいはもっとほりさげて探りたいという方は、訳者の一人が編者として名を連ねる(たまたま)同名の論文集[2]、あるいは長年スポーツ史研究をリードしてきた大家W・ヴァンプルーが著した浩瀚の書[3]を読み進めるのもよいだろう。いっそう立体感をもって〈世界史のなかのスポーツ〉を捉えることができるはずである。


[1] たとえば、John Bale & Joe Sang, Kenyan Running: Movement Culture, Geography and Global Change, London(Frank Cass), 1996, など。

[2] 坂上康博/中房敏朗/石井昌幸/高嶋航編著『スポーツの世界史』、一色出版、2018年。

[3] W・ヴァンプルー(角敦子訳)『スポーツの歴史』原書房、2022年。

(「世界史の眼」No.43)

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アメリカ軍によるBC級戦犯裁判(上)―旧日本領「南洋群島」の事例―
小谷汪之

はじめに
1 アメリカ軍によるBC級戦犯裁判の概要
2 ケゼリン(クェゼリン)裁判とグアム裁判
(以上、本号掲載)
3 「南洋群島」における戦犯事件の事例
4 米軍グアム戦犯収容所における暴行、虐待行為
おわりに
(以上、次号掲載)

はじめに

 1945年8月、アジア・太平洋戦争における日本の敗北が決定し、アメリカ軍を中心とする連合国軍が日本を占領すると、ただちに戦争犯罪人の追及が始まった。その際、戦争犯罪は次の3種類に分けられた。A「平和に対する罪」、B「通例の戦争犯罪」、C「人道に対する罪」。このうち、Aの罪に問われた者たち(A級戦犯)は極東国際軍事裁判(通称、東京裁判)で裁かれ、最終的には東条英機など7人に死刑、16人に終身刑、2人に有期刑の判決が下された(死刑囚7人に対してはスガモ・プリズンで刑が執行されたが、その他の人びとは、1952年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効した後、釈放されていった)。

 他方、BあるいはCの戦争犯罪に問われた者たち(BC級戦犯)に対しては、東南アジア、南太平洋、中国など日本軍が侵略した各地で、戦勝諸国による軍事裁判が行われた。アメリカ軍裁判(横浜、マニラなど5カ所)、イギリス軍裁判(シンガポール、クアラルンプールなど11カ所)、オーストラリア軍裁判(シンガポール、ラバウルなど9カ所)、オランダ軍裁判(バタビア〔ジャカルタ〕、マカッサルなど12カ所)、中国(国民政府)軍裁判(北京、上海など10カ所)、その他2カ所、合計49カ所の軍事法廷でBC級戦犯裁判が行われた(BC級戦犯裁判地の地理的分布については、図1参照)。それらの裁判における最終的な判決をまとめたのが表1である(ただし、これには中国共産党軍やソ連軍の軍事裁判における戦犯は含まれていない)。A級戦犯の刑死者が7人だけなのに対して、BC級戦犯の刑死者の数が突出しているのが分かる。(以上の記述は田中宏已編『BC級戦犯関係資料集 第1巻』〔緑陰書房、2011年〕の各所による。本書は厚生省引揚援護局法務調査室『戦争裁判と諸対策並びに海外における戦犯受刑者の引揚』〔1954年。謄写版刷り〕の編者解説付き複写である。)

表1 裁判国別BC級戦犯数

裁判国死刑終身刑有期刑無罪
アメリカ140人149人872人183人
オーストラリア140人35人392人212人
オランダ226人30人697人42人
イギリス223人50人494人98人
中国(国民政府)149人84人256人249人
フランス26人1人124人30人
フィリピン17人88人27人19人
921人437人2862人833人

出典:田中宏巳編『BC級戦犯関係資料集 第1巻』293-298頁。

 本稿では、これらのBC級戦犯裁判のうち、アメリカ軍による戦犯裁判、特にアメリカ海軍が南太平洋マーシャル諸島のケゼリン(クェゼリン)島とマリアナ諸島のグアム島で行ったBC級戦犯裁判に焦点を当てる。戦前、日本の国際連盟委任統治領だった「南洋群島」における日本軍の戦争犯罪はほぼすべてこの2カ所の法廷で裁かれたからである(ただし、パラオ諸島で俘虜となったイギリス・インド軍(Indian Army)兵士に対する戦犯事件はシンガポールのイギリス軍法廷で裁かれた)。

1 アメリカ軍によるBC級戦犯裁判の概要

 アメリカ軍によるBC級戦犯裁判は横浜、グアム島、ケゼリン(クェゼリン)島、マニラ、上海の5カ所で行われた。これらのうち、グアム裁判とケゼリン(クェゼリン)裁判はアメリカ海軍の管轄で、他はアメリカ陸軍の管轄であった。表2はこれらの裁判における最終的な判決をまとめたものである。

表2 アメリカ軍によるBC級戦犯裁判(1945~49年)

死刑終身刑有期刑無罪
横浜裁判51人86人693人(50年~3カ月)143人
グアム裁判13人19人69人(20年以上~5年以下)9人
ケゼリン(クェゼリン)裁判1人8人6人(25年~10年)1人
マニラ裁判69人(うち2名はスガモ・プリズンで刑執行)28人78人(20年以上~5年以下)25人
上海裁判6人8人26人(20年以上~5年以下)5人
140人149人872人183人

出典:田中宏已編『BC級戦犯関係資料集 第1巻』293頁。

 横浜裁判は日本国内および「南朝鮮」における連合国軍俘虜の取り扱いに関わる戦争犯罪を裁いたもので、裁判件数は337件に達した(ただし、フィリピンなどから日本へ送還された戦犯容疑者を裁いたケースも含まれる)。具体的には、(1)「俘虜収容所内及労務のため派遣先で行はれた事件」、(2)「飛行機搭乗員処刑事件」、(3)「其の他の事件」。(1)では、主として日本国内および「南朝鮮」の俘虜収容所の所長や職員が戦犯容疑者とされ、労務派遣先としての三菱鉱業、住友鉱山、常磐炭鉱、宇部鉱山などの労務担当者も戦犯容疑をかけられた。これらの俘虜収容所や派遣先における俘虜の虐待や酷使が問題とされたのである。(2)は日本軍によって撃墜された米軍機の搭乗員を処刑した事件で、全国に亘るが、沖縄の石垣島海軍警備隊によって撃墜された米軍艦上攻撃機の搭乗員3人の処刑事件では、41人が死刑判決を受けるという異常な事態となった(ただし、実際に死刑を執行されたのは7人で、他は後に終身刑などに減刑)。また、「西部軍(九大)生体解剖事件」(九州帝国大学医学部における撃墜された米軍戦闘機搭乗員8人の生体解剖事件)もここに含まれている。この事件では、九州帝国大学の医師(教授、助教授、講師、研究生)を含む27人が起訴され、5人に死刑判決が下された(ただし、5人とも後に終身刑などに減刑)。

 グアム裁判とケゼリン(クェゼリン)裁判は本稿の主題なので、次節以降で詳しく取り扱う。

 マニラ裁判はフィリピン方面軍司令官であった山下奉文大将の裁判から始まり、裁判件数は85件であった。具体的には、(1)「日本軍の現地人並びに米軍俘虜殺害の責任 山下大将、本間〔雅晴〕中将裁判」、(2)「ゲリラ討伐時における現地人殺害」、(3)「匪団比島人の処刑」、(4)「米軍俘虜の拷問殺害」、(5)「終戦後武装農民との衝突によって生じた殺害事件」、(6)「ポート・サンチャゴ留置人窒息事件」、(7)「俘虜収容中における死亡及び虐待の責任 〔フィリピン俘虜収容所長〕洪恩翔陸軍中将」。これらの裁判の結果、山下奉文、本間雅晴、洪恩翔など69人が死刑判決を受け、67人がマニラ近郊で刑を執行された(他2名は日本送還後スガモ・プリズンで処刑)。

 上海裁判の裁判件数は10件で、具体的には、(1)上海、奉天の俘虜収容所などにおける米兵俘虜虐待事件、(2)漢口における米軍飛行士殺害事件、(3)「軍律会議事件」(日本軍が軍法会議で俘虜に死刑の判決を下し、処刑した事件)。(以上の記述は、田中宏已編『BC級戦犯関係資料集 第1巻』25-37頁、および巣鴨法務委員会編『戦犯裁判の実相』〔1952年〕の翻刻版〔槇書房、1981年〕の各所による。巣鴨法務委員会はスガモ・プリズン〔サンフランシスコ平和条約発効後は、巣鴨刑務所〕に収容されていた既決囚が設立した組織で、極めて多数の人々の拘留中の体験記などを収集し、謄写版刷りの大冊『戦犯裁判の実相』にまとめた。活版刷りの翻刻版でもB5版〔セミB5版〕、縦2段組みで700頁という大冊である。)

2 ケゼリン(クェゼリン)裁判とグアム裁判

 旧日本領「南洋群島」におけるBC級戦犯事件はケゼリン(クェゼリン)島とグアム島のアメリカ海軍軍事法廷で裁かれた。これらBC級戦犯事件とされたものはいずれもアメリカ海軍太平洋艦隊による激しい爆撃下に起こったことがらである。

 1943年11月、アメリカ太平洋艦隊はギルバート諸島(現、キリバス共和国)の日本軍守備隊に攻撃をかけ始めた。ギルバート諸島は当時イギリス領であったが、太平洋戦争の早い段階で日本軍が占領して、守備隊をタラワ環礁(1943年当時、日本軍約4000人)とマキン環礁(1943年当時、日本軍約700人)に配置していた。1943年11月20日から23日にかけて、アメリカ太平洋艦隊はこれらの日本軍守備隊に空・海から爆撃をかけたうえで上陸、大きな犠牲を出しながらも、日本軍守備隊をほぼ全滅させた。

 アメリカ軍はギルバート諸島からさらに北上して、日本の「海の生命線」と称された「南洋群島」のマーシャル諸島(現、マーシャル諸島共和国)へと攻撃の手を伸ばした。日本軍の側では、マーシャル諸島のクェゼリン島に第6根拠地隊の司令部を置き、マーシャル諸島東縁のミレ環礁、マロエラップ環礁、ウォッジェ環礁および南洋庁ヤルート支庁のあったヤルート環礁に守備隊を配置した。それぞれの兵力は2000人から5000人ほどであった(マーシャル諸島の各環礁については、図2を参照)。

 1944年1月25日、アメリカ軍のB25機約15機がミレ環礁のミレ島を爆撃した。しかし、そのうち1機が日本軍によって撃墜され、環礁内に墜落した。その5人の搭乗員は日本軍によって救出され、俘虜として日本軍基地内に留め置かれた。しかし、アメリカ軍による攻撃がさらに激しくなることを予測した日本軍がこれらの米軍俘虜を処刑した。このことが後にクェゼリン法廷で裁かれることになった。

 1944年2月1日には、アメリカ軍がクェゼリン島に上陸、2月6日までにクェゼリン環礁全体を制圧した。このクェゼリンの戦闘における日本軍の死者は9000人近くにのぼり、ほぼ全滅であった。アメリカ軍は、同時に、クェゼリン環礁東南のマジュロ島を占拠して、そこに海軍航空隊基地を設営した。

 アメリカ軍はその後も、ヤルート環礁、ミレ環礁、マロエラップ環礁、ウォッジェ環礁の日本軍守備隊に攻撃をかけ続けた。その間、ヤルート環礁では、海上に不時着して流れ着いた米軍戦闘機の搭乗員3人を捕え、その後処刑するということがあり、戦後クェゼリン法廷で裁かれることになった。

 1945年8月15日、日本が連合国軍に降伏すると、マーシャル諸島各島の日本軍守備隊もアメリカ軍によって武装解除された。その後直ちに戦犯の追及が始まり、クェゼリン島に戦犯法廷が開設された。クェゼリン法廷で裁かれたのは(1)ミレ島における米軍俘虜処刑事件、(2)ヤルート環礁の主島ジャボール島における米軍俘虜処刑事件、(3)ウェーキ島(ウェーク島)における俘虜処刑事件(ウェーク島は「南洋群島」には属さないが、ここでの戦犯事件もクェゼリン法廷・グアム法廷で裁かれた)の3件のみで、クェゼリン裁判は1945年末には終了した。この3件では7人に死刑判決が下されたが、実際に死刑を執行されたのはウェーク島の酒井原繁松司令のみで、他の6人は後に終身刑に減刑されている。ウェーク島では、アメリカ軍による激しい爆撃下の1943年10月7日、98人もの俘虜(ほとんどは将兵ではなく、軍需工場などの労働者)が処刑されたので、酒井原司令はその責任を取らされたということであろう(酒井原司令は1947年6月19日、グアム島で死刑を執行された)。

 その後、「南洋群島」における戦犯事件はグアムの法廷で裁かれることになり、クェゼリン裁判の既決囚および未決の容疑者はすべてグアム島に移送された。グアム裁判は1945年8月下旬から1949年4月末まで続き、30件の戦犯事件が審理された。その主なものは次のような事件である。

(1)米軍俘虜などの処刑。
クェゼリン島米軍潜水艦俘虜処刑事件(クェゼリン事件)、小笠原諸島父島米軍俘虜処刑事件(父島事件。父島の戦犯事件もグアム法廷で裁かれた。父島では飢餓状態の下、俘虜を処刑し、その肉を食べるということがあった)、トラック海軍病院における米軍俘虜「生体解剖」事件(トラック海軍病院事件)、トラック諸島海軍警備隊による米軍俘虜殺害事件(トラック警備隊事件)、トラック諸島海軍警備隊による米軍俘虜「生体解剖」事件(トラック警備隊第2事件)、パラオ諸島における米軍俘虜処刑事件(2件)。

(2)民間人(現地民あるいは連合国以外の外国人)をスパイなどとして処刑あるいは殺害。
ヤルート環礁における現地民処刑事件、パラオ諸島におけるスペイン人「スパイ」処分事件、マリアナ諸島ロタ島におけるスペイン人宣教師と現地民処分事件。

 これらアメリカ海軍グアム法廷における30件の戦犯事件で死刑判決が確定した13人は、1947年6月19日に5人、同年9月24日に5人、1949年1月18日に1人、同年3月31日に2人がグアム島で死刑を執行された。

 次節では、これらの戦犯事件のうち特に目立つものについていくらか詳しく見ていくことにする。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.42)

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小川幸司(2023、岩波書店)『世界史とはなにか ー「歴史実践」のために」』書評
渡邉大輔

 新科目『歴史総合』は2年目の夏を迎えている。

 同業者や出版関係者と話していると、決まってでてくるのが「ほぼ誰も最後まで終わっていないみたいです」「第二次世界大戦と冷戦まででやっと、という反応が多いです」「渡邉先生はどうやって最後まで終えることができたんですか」「史資料を集めるのが大変でコンテンツの説明に終止してるみたいです」「問いを立てさせるといってもどうすればよいのか…」「歴史の扉、あるいは大項目D(4)の探究活動をカットしました」といった、歴史総合の悲しい現状についての話題である。これでは科目の目標は達成されないし、未履修問題に揺れた『世界史A』と同じ轍を踏む危険性も否定できない。原因は明らかである。歴史総合の趣旨にそう書かれていないにもかかわらず、コンテンツを網羅しようとするからだ[1]。では、どうすればコンテンツ網羅主義を脱却して教科書を最後まで終えながら、よりよい授業実践にバージョンアップできるのだろうか。

 その大きなヒントとなるのが『シリーズ 歴史総合を学ぶ』であり、6月に上梓された最終巻である本書であろう。小川幸司氏は、今春に希望降任制度により校長から教諭へと戻られた、全国的にも有名な授業実践者である。本書で語られる「歴史実践」を、我々はどのように日々の授業に接合していけばよいのだろうか。本稿の目的は、執筆者が13クラスで行ってきた授業実践及び研究・発表してきたことを踏まえ、本論である第1,2講を中心に本書の内容を紹介しながら、上記の課題に幾許かでも答えることにある。紙幅の関係から、大項目BCDの歴史実践事例である第3,4,5講は必要に応じて触れるに留めたい。

 第1講では本書のタイトルにもなっている「世界史とは何か」「歴史実践とは何か」がテーマとなる。第一に1994年の松本サリン事件において、事実ではないことを事実として報道するメディアを通じて、人々が歴史を歪曲しながら解釈していった事例が語られる。そこから氏は「歴史について考える」ために、アプリオリに事実とされがちな教科書の歴史叙述が、史資料を通じて多面的に見直すことでどのように異なって見えてくるのかという授業実践と、教師と生徒が対等な立場で参加する自主ゼミを開始し、「事実」がとても見出しにくく、解釈や用いる言葉により見え方も異なる相対主義的なものであることを指摘する。そして「多様な意見があっていいね、考えさせられるね」という安易な相対主義に陥らないためには事実立脚性と論理整合性が大切となるが、解釈の対立が水掛け論や感情的な攻撃になることを回避するために、相対化への意志を持ち相手をリスペクトしながら対話、協働して「私たち」となることの重要性が示される。第二に、「歴史について考え(第一で指摘したいわゆる歴史的思考力に基づく思考)」行動すること、すなわち「歴史実践」について、その先駆者である保苅実の遺書『ラディカル・オーラル・ヒストリー』に依拠しながら、「真摯な経験」に基づく「歴史叙述」や「歴史実践」同士で、グランドキャニオンにバラの花弁を落とし爆発を待つような形で「接続可能性」を探究することの重要性を説く。そして、生徒と教師の間にグランドキャニオンの高さほどの隔絶が存在する現場において、生徒が「より良い」思考をしながら行動できるようになるためには、花弁がどのように落ちていくか(生徒と教師の対話がどのように展開するか、どのように展開させるかについての方法)よりもどのような花弁を落とすか(何を一緒に考えたいのか)がより大切であるという。つまり史資料を中心としたコンテンツの吟味が、コンピテンシー育成の必要不可欠な基礎なのである。次に、そのようにして「考え、吟味され叙述された」「歴史実践」としての世界史には、保苅のように特定の問題関心を持ってテーマを設定し過去に問いかけ、「今、ここで」どう生きるかを考える「世界と向き合う世界史」と、ナチス・ドイツの独裁体制が生まれた原因のように過去へ問いかけた歴史像を結びつけていく「世界のつながりを考える世界史」があり、後者は①つながりや発展にパターンを見出す「歴史類型論」、②つながりの根底に世界経済の動向を置きながら描く「歴史構造論」、③「世界と向き合う世界史」の空間軸と時間軸を拡大し、つながりを網羅的に明らかにしてテーマの分析を深める「歴史連関分析」に分類される。そして氏が目指す歴史総合は、生徒たちが「世界と向き合う世界史」の探求を重ねるなかで、教科書の「世界のつながりを考える世界史」を書き直す歴史実践の主体となっていくことであるという。

 第2講は、第1講の内容を歴史総合の授業を充実させる方法として再定義する。まず歴史実践について、遅塚忠躬が『史学概論』で提示した①問題関心と問題設定、②史料選出、③史料を通じた歴史実証、④歴史的意義の解釈、⑤問題設定への仮説提示と歴史像の構築や修正からなる「作業工程表」を、①歴史実証、②歴史解釈、③歴史批評、④歴史叙述、⑤歴史対話、⑥歴史創造の六層構造に再定義する。そしてそれは研究者だけのものではなく高校生を含む全ての人々がそれぞれの関心や次元で営むものであるとし、歴史総合においても「様々な歴史叙述を検討しながら不断に私の叙述する歴史を相対化し練り上げつつ、歴史についての考え方を身につけて」=「歴史の学び方を学んで」いけば、「歴史主体の成長」という「歴史創造」になるという。そこで重要となるのが検討・相対化・考え方の素材となる問い(立問力は育成すべきコンピテンシーでもある)であるが、昨今の歴史教育に関する実践が大きな問い(MQ)と小さな問い(SQ)を精緻化することに注力された結果形式主義に陥り、多くの問いが教科書に書かれてある答えを読み取るだけになってしまう危険性を指摘する[2]。この「問いの形式化」を乗り越えるために、氏は①「変だなあ」「どうしてなんだろう」「なんでこんなふうに書いているんだろう」から始まる課題発見作用の対話、②現代における類似した事例を考えさせることで歴史を自分ごと化していく主体化作用の対話、③比較することで歴史的特徴をより鮮明に浮かび上がらせると同時に相対化を可能にしていく時空間拡大作用の対話、④歴史解釈のフレームや概念を見つめ直すような根拠の問い直し作用の対話、⑤教科書の叙述に対して史資料をもとに女性や奴隷など別の立場から書き換えていくような仮説の構築・検証作用の対話を産むような問いを教師がすること、そして生徒自身がそのような問いを立てられるようになるような「歴史実践」を提起し、対話の際の留意点として、「ボイテルスバッハ・コンセンサス」をひきながら、①対象にタブーを作らないこと、②対話者は対等であり相互にいのちをリスペクトしあうこと、③自己を相対化する意志を大切にすることを挙げている。

 では、どのようにすれば60時間前後の歴史総合で、網羅主義を乗り越え教科書を終えながら、本書で示された歴史実践に近づくことが可能になるのか。そのためには、第一に教科書を事前に読ませ(生徒の実態に応じて準拠ノートに取り組ませ)、授業におけるコンテンツの網羅的説明をやめることである。教材の精選原理については、各大項目を通じて獲得させたい概念や育成したいコンピテンシーに必要なコンテンツが原則であり、そこから関連する史資料を吟味すると良いだろう。例えば近代化と私たちであれば、冊封体制、主権国家体制、市民革命、国民国家、産業革命、資本主義、社会主義、帝国主義、ウエスタンインパクト、オリエンタリズム、グレートゲームといった概念を設定し、近代化についてこれらの概念を用いて多面的に説明できるようになるために必要な史資料を吟味する、といった具合である。第二にスライドなどのICTを効果的に活用し、板書や考査返却にかける時間を短縮することである。そうすれば問いに基づいて史資料を読み解き、対話する活動を充実しながら、概念を獲得をさせつつ、概念を通じて見る力や事実立脚性と論理整合性に基づく思考といったコンピテンシーの育成を目指すことが容易になる。第三に、問いを立てられるようになるためには、教師が模範として良質の問いを発することは勿論(前提として歴史の扉で、閉じた問いと開かれた問いなど問いの種類や階層性について予め説明すると良い)だが、同時に生徒自身が普段から不断に問いを立てるような仕掛けをすることが求められる。そのために私は単元ポートフォリオを活用し、各授業の問いに対する回答だけでなく、疑問に感じたことや更に考えたいことについての欄を設け、表現させている。そしてフィードバックとしてポートフォリオ返却時に問いの質について再度コメントしたり、疑問や考えたいことについて自分で史資料を調べ探究する(ちょこっと探究と名付けている)ことを促すことで、立問力や探究力の育成と、自ら学びを改善するという意味での主体的に学習に取り組む態度の育成につなげている。こうすれば、D(4)の頃には多くの生徒が無理なく問いを立て探求できるようになっている、というわけである。勿論生徒によって到達度は多様なため課題を抱える生徒に対して個別にファシリテートする必要はあるが、今日の高校生は想像以上にICTを活用した調べ学習慣れしているので、総合的な探究の時間や他科目とのカリキュラム・マネジメントを進めながら実践していけば、それほどハードルは高くないだろう[3]

 以上のように多くの歴史総合担当者にとって福音となるであろう本書であるが、最後にいくつかの論点を提示して結びとしたい。第一に問いについてである。教師が問いをブラッシュアップし続けることは間違いなく重要であるが、生徒自身が複数な次元の問いがあることを理解しながらより良い問いを立てられるようになっていくようにするという歴史総合の科目の性質を考慮すると、一問一答から教科書を読めば答えられるもの、史資料の読解が必要なもの、複数の史資料や概念を関連付けながら答えるもの、様々な事例があって答えが一つに定まらないもの、学説史上もまだ答えが一つに定まっていないものなど意図的に多様な問いがあってもよいだろうし、生徒の実態に応じて段階的にカスタマイズすることが求められるのではないだろうか。第二に六層構造についてである。六層構造に問題がある、ということではないし、原則的には教師が生徒の実態に応じて六層の扱いに軽重をつけることにはなるだろう。ただ、立問力の育成や、D(4)で生徒自身が歴史総合の学びを元に現代の諸課題と関連付けながら問いを立て史資料を集めて探究活動を行うことを考慮に入れるならば、事実立脚性と論理整合性に基づく歴史実証力の育成により重点を置くべきではないだろうか。すなわち、歴史実証の過程を三段階に分けている遅塚の作業工程法のほうが歴史総合にはよりマッチするのではないだろうか。第三に、第3章で史資料として取り上げられる蠣崎波響の『夷酋列像』についてである。氏は加藤公明の実践にもとづき、「アイヌは礼節を知らない野蛮人であるとするまなざしが、蠣崎の絵にはありました」という(154頁)。確かに幕府や明治政府の側にそのようなまなざしは存在したであろう。しかし、『夷酋列像』においても、そのようなまなざしが主であったと果たして言えるのだろうか。「礼節をしらない野蛮人」をあれだけ微細にまでこだわって、屈強な出で立ちで、蝦夷錦まで着せて描くのだろうか。むしろ、松前藩は、異形ではあるが威風堂々としており、蝦夷錦などの豊かな産物をもたらす存在であったアイヌを、クナシリ・メナシの戦いをでもわかるように従えおり、蝦夷地の支配に問題はないというアピールであったというのが通説だろう。そのようなアイヌへのまなざしが明治維新後の国民国家形成の文脈の中で北海道においても変容していったという文脈で、「近代化と私たち」の私たちと関連付けながら扱ったほうが良いのではないだろうか[4]。また『夷酋列像』がなぜフランスのブザンソンで発見されたのか、ということも歴史総合にとっては格好の探究テーマとなるだろう。このことについてはまた稿を改めて論じたい。以上いくつかの論点を指摘してきたが、そのことは本書の価値を否定するものでは一切ない。高校教員だけでなく、歴史総合を教える高校教員養成に関わる大学教員にとっても、地歴科教諭を目指す大学生にとっても必読の一冊である。


[1] 高大連携歴史教育会編(2021)『歴史総合Q&A』5-6頁。ただし、後述するようにこのことはコンテンツや講義式授業の否定ではない。知ることによって考えることができることは多いし、教師による適切な説明はニュースや雑誌記事と同様に史資料であるともいえるからだ。例えばニジェールの問題を高校生に考えさせる際に、基本的知識や背景の説明は史資料と同様に必要だろう。

[2] 現在刊行されている歴史総合の教科書の多くにも、章ごとの大きな問い、節ごとの小さな問い、授業内で教師が発するようなさらに小さな問いが立てられているが、その大半は教科書や史資料を読み解くことで答えられるもので、歴史叙述の理解や史資料の読解力の育成には適しているものの、いわゆるオープンエンドな問いは少ないのが現状であり、改訂に向けて議論すべきところであろう。

[3] 以上のような私の歴史総合の実践の詳細については、2022年度の高大連携歴史教育研究会での発表を参照されたい。『高大連携歴史教育研究会会報』第11号、2023年3月、の報告資料、レジュメ編のパネル2ー②からハイパーリンクで参照できるようになっている。https://drive.google.com/drive/folders/1hf3nGL4UIgNF_4CBKEcf60LjWwan7bs7

[4] このことについては北海道立近代美術館学芸部長の五十嵐聡美および江戸東京博物館学芸員の春木晶子の研究より大きな示唆を得ている。五十嵐聡美(2020−2021)「アイヌ絵を読み解く」『朝日新聞「北の文化」』、春木晶子(2019)「《夷酋列像》と日月屏風ー多重化する肖像とその意義ー」『美術史』186など。

(「世界史の眼」No.42)

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アンドリュー・J・ロッター(川口悠子・繁沢敦子・藤田怜史訳)『原爆の世界史:開発前夜から核兵器の拡散まで』(ミネルヴァ書房、2022年)
高橋博子

 広島平和記念資料館や長崎原爆資料館は、近年の展示更新や更新計画として、8月6日、8月9日の展示に力を入れる一方で、その世界史的文脈の展示を縮小、ないし縮小する方向のようである。2019年9月、哲学者であり科学史家でもあるパリ大学(パンテオンソルボンヌ大学)のべルナデッド・べンソード=ヴァンサン名誉教授と、更新後の広島平和記念資料館を訪れた。彼女は熱心に展示を観た上で、「この資料館には“なぜ”という視点が感じられない」と筆者に語った。広島平和記念資料館では、更新前から原爆投下に至るまでの歴史的文脈については展示しており、また第二次世界大戦についての展示は不十分ながらも「軍都広島」についての展示は充実していた。しかし展示更新後、「軍都広島」の展示を大幅に縮小した。

 長崎原爆資料館もアジア・太平洋戦争についての展示をさらに縮小する可能性がある。アジアからの訪問者を意識した展示を提案していた、更新計画市民公募委員への平野伸人さんの応募論文を、長崎市の原爆被爆対策部被爆継承課長は「原爆、平和に関する意見・考えの妥当性」として「劣っている」と評価した。その理由として、「原爆による被害を中心にしてそれをありのままに展示する」のが課の方針なのだと言う(『毎日新聞』2023年7月7日、長崎県内総合欄)。広島市も長崎市も、歴史を軽視した展示に大幅に転換している。人類史にとっての原爆、世界の人々と歴史を踏まえて共に考える原爆、という視点はないのであろうか。

 核問題の議論の際や、広島・長崎の原爆資料館で歴史的な考察が軽視されていることに危機感を感じていただけに、『原爆の世界史:開発前夜から核兵器の拡散まで』が翻訳出版されたことは大変意義深いと思う。本書の原題は、Hiroshima: The World’s Bomb で、広島への原爆使用を焦点にしているが、その世界史的意味を論じている。

 本書は原爆の前史ともいうべき無差別大量虐殺、すなわち空襲による無差別爆撃と毒ガスなどの兵器開発および使用について、第1章「科学の共和国と国家」にて詳述している。

 本書で大事なところは、原爆・核兵器・ヒロシマを決して抽象化し過ぎないところである。誰がいつどのように原爆開発に関わったのか、誰がいつどのように原爆攻撃を命令したのか、誰がいつどのように原爆攻撃を実施したのか。そして、誰がいつどのように原爆による被害を受けたのか。ヴァンサン教授がヒロシマ原爆資料館に投げかけた「なぜ」。本書ではそのことを考察するための重要な研究の集大成が詳述されているのである。

 原爆投下をめぐる歴史的論争については、「原爆使用の是非」については戦略論に傾きがちであるが、本書では倫理的視点をきちんと提供している。

 さらに「第6章 日本―二発の原爆と戦争の終結」では、日本軍による南京での虐殺行為、重慶での爆撃、生物兵器の投入、毒ガス使用、「風船爆弾」、さらに特攻作戦に米側が恐れていたことに触れている。その上で、ポール・W・ティベッツ中佐などの原爆投下部隊の行動を、準備・運搬・実行を含めて、まるで目撃したかのように詳述している。しかしそれだけでは、きのこ雲を上から見た光景に過ぎない。

 ところが第6章にある「爆撃後の都市」では、ヒロシマでの惨状を、まるで目撃したかのように詳述しているのである。放射線障害についても「一見健康そうに見えた生存者たちが、何かの呪いにかかったかのように急激に体調を崩し、命を落としていったのである」と述べている。また、こうした中でも「朝鮮人」だからと広島市役所に差別的な対応をされた人物の証言なども記載されている。本章ではきのこ雲の下のさまざまな人々の体験が詳述されているのである。

 本書は2007年に出版されているので、アイリーン・ウェルサムのマンハッタン計画下での人体実験についての報道や、クリントン政権下で開催された人体実験諮問委員会の成果なども、把握できたはずである。そうした報道・研究・実態が扱われていないのは残念である。また世界の核開発に焦点を当てているため、世界の核被災者への記述もあまりない。グローバルヒストリーの中での「原爆」を扱うのであれば、グローバルヒバクシャへの視点、核の植民地主義、さらにスリーマイル原発事故やチェルノブイリ原発事故による核被災、とりわけ、残留放射線・放射性降下物・内部被曝の影響について、踏み込んだ研究・資料・証言を紹介してほしかった。

 著者はアメリカ外交史学会(SHAFR)の会長を務めたように、政治外交史の分野では信頼が厚く、本書はその研究成果が網羅されていると言って良いと思うが、社会史、や医学史の視点からは限界がある。そうであるだけに分野を超えた共同研究が急務だと思う。

 とはいえ、本書にはきのこ雲の上からの行動をきのこ雲の下から問う視点、科学者と倫理、軍事行動の非人道性への視点が重厚に描かれている。核と人間の関係を問い、改めて人類史の中での原爆、そして戦争について考察するために、本書が広く読まれることを願っている。

(「世界史の眼」No.42)

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日本では「世界史学」が必要と考えたわけ
岡崎勝世

※ 南塚信吾著『「世界史」の誕生-ヨーロッパ中心史観の淵源』(ミネルヴァ書房)は、2023年6月30日に発売されました。詳しくは、こちらをご覧ください。(編集部注)

 今般、『「世界史」の誕生』をいただいた。そのお礼のなかで「世界史学」が必要とかねてから考えていたが、本書を読んで、やっとその第一歩が記されたと感じた旨の感想を書いたところ、南塚さんから「世界史学」についての考えを書くようにとの依頼をいただく羽目になった。全く予測していなかったことなので驚きもしたが、しかし、自分の仕事を振り返る意味もあって、「一老人の繰り言」を述べさせていただくことにした。

 「世界史学」の必要性を考える契機になったのは、大学院時代に世界史非常勤講師をした体験と、埼玉大学時代にミュンヘンで行った長期研修(1990−91)での研究であった。そこから、日本の「世界史」を巡る問題の多くはその位置の特殊性から来ており、従って、「世界史」に関わって日本で生じている問題の解決には、関係分野全体を視野のうちに含む一つの研究領域を設定し、総合的に研究することが必要だろうと考えたのである。
 私が世界史の非常勤教師となった頃はちょうど学習指導要領の改訂(1970)で世界史像の転換(文化圏学習ヘの転換)があった時期で、自分が高等学校時代(1959−62)に学んだものと内容や構成が異なる世界史を教えなければならなかった。このことが、世界史とは何か、なぜ世界史像が変化するのかといった問題を考える契機となった。また教育という面からは、世界史の最初の学習指導要領(1951)から既に登場している、「歴史的思考力」の涵養という歴史教育の目標について、これは高等学校のみではなく大学に於いても重要な問題と考え、大学に移ってもいろいろ試していたことも契機となった。
 一方、こうしたこともあって世界史記述史に興味を持ち、長期研修では、ゲッティンゲン学派を開いたガッテラー、シュレーツァーらが身をもって示したキリスト教的世界史から啓蒙主義的世界史への転換について研究したのだが、ここから、西欧と日本における自国史と世界史の関係の大きな違いについても考えざるをえなくなった。古代ローマの時代に、聖書を直接的基盤とし、天地創造から「世界帝国」の時代に移り、第四の世界帝国滅亡とともに終末と最後の審判が訪れるとする、私が「普遍史(Universal History)」と呼ぶキリスト教的世界史がうまれ、以後、曲折を経て一九世紀まで書き継がれた。そこでは、「第四の帝国」をローマ帝国(中世以後は神聖ローマ帝国)とするが、「世界帝国」はその下に多数の国々を従えた覇権国家ゆえ、ローマ史の記述は、必然的にローマ支配に組み込まれた西欧の諸民族や諸国の歴史を内包するものとなっていた。この普遍史を「世俗化」して「世界史(World History」が啓蒙期に成立したが、そこではその「進歩史観」に基づき、世界史における進歩の頂点に西欧を置く形で世界史のうちに自国の位置が与えられ、さらに、同様の見解がランケの「科学的歴史学」に基づく世界史等にも引き継がれた。こうして、西欧では研究に於いても教育に於いても、自国史と世界史がいわば不可分の形で考察され展開されてきていたのである。
 日本における世界史教育について真剣に調べ始めたのはドイツからの帰国後だが、日本では西欧とは違いまず教育の場で「国史」から分離させて「万国史」が設置され、西欧の歴史教科書に依拠した、いわゆる「翻訳教科書」に依って教えられた。その後東京大学が設立されてドイツ近代歴史学が導入され、近代的な研究体制や科学としての歴史学の手法等の導入が行われた。だが世界史教育との連係は進んだとは言えず、例外的とも言えるほんのわずかな世界史の取り組みはみられたものの「三教科分立制」の時代に移ってしまい、「万国史」自体が消滅した。そして、大戦期に至ると「教授要目」が偏狭なナショナリズムを唱え、国史が東洋史も西洋史も支配する状況に陥るまでになった。私には、こうした動きは、国史と万国史の分立が孕んでいた問題と無関係ではあるまいと思われた。戦後の教育改革のなかでは東洋史と西洋史を統合して新教科「世界史」が生まれたが、その内容や構成は、戦前同様に「学習指導要領」で定めた。世界史教育はこの体制のもとで今日まで続いていることから、この間、世界史を巡る真摯な問題提起や提案、諸考察が行われてきたものの、三分科制を採用した歴史学研究体制の問題もあり、私自身が体験したようなさまざまな問題がなお未解決のままに続いていると考えざるを得なかった。
 以上のような経緯から、かかる特殊日本的な状況の由来やその問題の解決に取り組む研究にとりあえず「世界史学」の名称を与えて自分なりに考えてきたということなのだが、ただし「世界史学」については、内容を緻密に検討してきたわけではない。それは、多分、社会科歴史の教育実践の諸成果の研究と世界史記述というテーマを中心とする史学史的研究という二つの焦点を有し、それらを統合した世界史を追究していくものとなろうとぼんやりと考えた程度であり、もっぱら取り組んできたのは、ドイツ啓蒙主義歴史学や「普遍史」など西欧における世界史記述の歴史であった。しかしこれ自体もまだまだ欠陥が多く、ほんの一部を囓ったところまでしかできなかったというのが実情である。
 一方、高等学校における「世界史」に関しては、二〇一八年の「高等学校学習指導要領」が日本史と世界史を統合して「歴史総合」を設けるという大きな変革に踏み切った。そこで興味深いのは、かつて社会科歴史の一教科として「世界史」が出発した頃に立ち戻ったと錯覚しそうな取り組みが提起されていることである(今回重視されている生徒自身の「問い」と「討論」と同様、上記の世界史学習指導要領(1951)が生徒自身の問いと学びを中心とする「単元学習」を提起していたこと、さらにそこでは「古代日本国家」から現代に至る日本史も組み込んだ世界史像を提示していたこと等)。またこれとも関係しながら、岩波書店の「歴史総合を学ぶ」シリーズのように、歴史総合と世界史との連携を巡る議論も行われるようになった。上の「焦点」の一方に関しては既に現実の歩みが始まっているとも言えよう。他の「焦点」については、私は、アンソロジーのものや文化の一要素についての世界史的記述などは種々出版されるようになってきているが、しかし、上記のテーマに関する専門的研究に基づく体系的な専著はまだ現れていないと考えていた。
 そうしたなかで『「世界史」の誕生』に接して先ずわいてきたのは、私が待っていた著作がやっと現れたという思いであった。ただ、それとともに浮かんだ「世界史学」がいよいよ歩み始めたという思いは、私の夢想に基づくいささか独りよがりのものだと考えてはいる。私が世界史記述の歴史を研究の中心に置くようになったのは平成時代が始まったころのことだが、そのころはまだ雲をつかむような感じもあったことから、自分を励ます意味もあって「世界史学」を掲げるなどという発想が生まれたのかもしれない。しかし現在はこのように「励ます」必要もなく、既に現実のほうが進んで諸成果が生まれてきているということであろう。そして今後もこの動きは一層発展するであろうから、その結果、「世界史」に豊かな実りがもたらされることが大いに期待できると考えている。

(「世界史の眼」No.41)

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書評:久保亨『戦争と社会主義を考える』(かもがわ出版、2023年)
木畑洋一

 2022年から高等学校の新たな必修科目として設置された「歴史総合」をめぐっては、その実施を助けるためにさまざまな試みがなされている。「講座:わたしたちの歴史総合」というシリーズ名のもとで、著者を含む6人の歴史家たちがめざしているのも、「歴史総合」を含む高校の歴史教育の推進である。ただ、シリーズ6冊の内、第1巻(渡辺信一郎『さまざまな歴史世界』)と第2巻(井上浩一『さまざまな国家』)は、「歴史総合」では対象とされない17世紀までの世界を扱っており、「世界史探究」という新科目に対応する本となっている。また第6巻(小路田泰直『日本史の政治哲学』)は、「日本史探究」の助けとなる本としての意味をもつ。「歴史総合」での課題に正面から取り組む性格をもっているのは、残る3冊、すなわち、第3巻(桃木至朗『「近世」としての「東アジア近代」』)、第4巻(井野瀬久美恵『「近代」とは何か』)、および第5巻にあたる本書である。

 著者の久保亨氏は、「歴史総合」誕生の背景の一つとなった、日本学術会議による「歴史基礎」という新科目の提案に深く関わった歴史家である(参照、久保亨「高校歴史教育の見直しと「歴史基礎」案」『歴史評論』781号、2015年など)。いわばこの新科目の生みの親の一人であるといってよい著者が、「歴史総合」の教育のなかで強調すべき主題として、戦争と社会主義というテーマを選んで、このシリーズの1冊にしたものと考えられる。ちなみに、「歴史総合」では、「近代化」、「大衆化」、「グローバル化」という三つの柱が設定されているが、第3巻と第4巻が「近代化」に対応するのに対し、本書は「大衆化」の部分に主として対応している。

 本書は3章から成る。第1章が第一次世界大戦を、第2章が第二次世界大戦を扱い、第3章で社会主義の問題が集中的に論じられる。

 第1章では、日本とアジアの状況に即して、第一次世界大戦とその後の世界の姿が描かれる。これ自体、「歴史総合」に関わって、きわめて重要なことと言わなければならない。第一次世界大戦は、アジアでの戦闘(ドイツ支配下の青島への日本軍の攻撃)があったとはいえ、主な戦場はヨーロッパと中東地域であった。そのため、第一次世界大戦史研究においても、また世界史教科書においても、ヨーロッパでの戦争についての叙述が軸になり、大戦期におけるアジア、日本の問題は脇に追いやられていたという感があるし、日本史の教科書でも、第一次世界大戦そのものについての議論は濃密であったとはいいがたい。第一次世界大戦史へのそのような接近姿勢は、近年、大戦開始100周年(2014年)などをきっかけにする新たな関心の高まりのなかで修正され、山室信一氏の研究(『複合戦争と総力戦の断層:日本にとっての第一次世界大戦』人文書院、2011年)などに示されるように、大戦と日本の関わりについての議論が深められてきた。本書はそうした第一次世界大戦史の一つのよい例を示しているのである。

 中国経済史を専門とする著者は、その持ち味を十分に生かしながら、大戦期の日本や中国の姿を描いた上で、大戦がもたらした民族意識の高まりが戦後どのような形をとっていったかを活写する。評者も「歴史総合」での教科書叙述の一つの鍵が第一次世界大戦の扱い方にあると思っていたので、この試みは高く評価したい。

 ただ、逆にヨーロッパでの大戦描写が薄まりすぎているという感がするのは、少々残念である。第1章の最後に置かれた戦争責任と戦後賠償を扱った部分では、ヨーロッパの問題が軸となっているだけに、大戦自体についても今少しヨーロッパの状況にスペースが割かれてもよかったと思われる。

 つづく第2章は第二次世界大戦を対象とするが、ここでもアジア・太平洋局面をめぐる議論が中心となる。第一次世界大戦の場合と異なり、第二次世界大戦は、ヨーロッパとアジア・太平洋とがともに主戦場となり、日本にとっての戦争の意味はいうまでもなくきわめて大きかったため、これまでの世界史教科書においても、戦争開始までの過程から戦後処理に至るまで、両方の局面はかなり均等に扱われてきた。従って、大戦をめぐってアジア・太平洋に焦点を合わせること自体の独自性は薄いが、具体的な叙述を見ると、満洲事変時の状況や南京事件の様相についての詳しい議論が目立つ他、1930年代の平和運動をめぐる分析がヨーロッパでの展開を視野に入れつつアジアでのそれを論じる形になっていて、裨益するところが大きい。またこの章でも、戦争責任と戦後賠償の問題が重視されているが、その部分では日本とヨーロッパとの比較が効果的になされている。日本の問題に常に留意しつつアジア・太平洋を視座の中心にすえた上で世界に眼を配るという、こうした姿勢こそ「歴史総合」が求めているものといえるであろう。

 このようにアジア・太平洋を軸としながら戦争を扱った二つの章から転じて、第3章で社会主義の問題が論じられるにあたっては、ロバート・オーエンから始まってヨーロッパでの思想と運動の展開が重視される。ロシア革命後に作られたソ連型社会主義とならんで、戦間期におけるイギリス(労働党政府)やフランス(人民戦線政府)の経験が取りあげられ、さらに第二次世界大戦後のこれらの国における福祉国家建設も社会主義の文脈に位置づけられているのが、印象的である。日本やアジアにおける社会主義の問題は、戦後期に入ってから本格的に扱われるが、そこでは著者の自家薬籠中の題材である中国社会主義の比重が、当然のことながら大きくなっている。その際、「プラハの春と北京の春」とか「天安門事件、東欧革命とソ連解体」といった小見出しが示すように、ヨーロッパとアジアを同時に視野におさめる試みがなされていることに注意したい。「東欧やソ連の民衆を勇気づけ、体制崩壊を引き起こした要因の一つは、中国における89年春の民主化運動であった」(192頁)といった見方は、きわめて重要である。

 次に本書全体についての感想を一つだけ述べてみたい。

 本書では、戦争と社会主義とにそれぞれ著者なりの鋭いメスが入れられているものの、戦争と社会主義の関わり方という問題については、あまり論じられていない。第1章を読んだ際、ヨーロッパの影が薄いという印象をもたらした要因の一つが、社会主義を取りあげる本であるにもかかわらず、第一次世界大戦とロシア革命、さらにはソ連型社会主義との関連がほとんど述べられていないという点であった。もちろん、その問題はすでに論じ尽くされてきていると言えるかもしれないが、評者としては、若干肩すかしをくったという感じもした。この点にも関わって、戦争と社会主義の関連について、著者は、「第一次世界大戦がロシア革命を引き起こしソ連型社会主義を生んだ過程になぞらえるならば、第二次世界大戦が東欧諸国の人民民主主義政権と中国の1949年革命をもたらし、冷戦が始まる中で東欧と北朝鮮はソ連型社会主義の国となり、朝鮮戦争が中国へもソ連型社会主義をもたらしたことになる」(164頁)と述べている。この例の内、最後の朝鮮戦争と中国の社会主義化の関係についての議論は、本書のなかでも非常に興味深かった箇所であるが、本書全体として、まさに「戦争と社会主義」という論点をもっと突き詰めていく可能性もあったのではないかと思われる。

 そのような課題は残るとしても、本書が「歴史総合」という新科目で模索する教育現場に大きな手がかりを提供する本であることは確かである。歴史学研究会編集の『世界史史料』(著者はその中心的編集委員の一人でもあった)の参照項目が随所で示されていることがきわめて有益であることも、付け加えておきたい。

(「世界史の眼」No.41)

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文献紹介:長與進『チェコスロヴァキア軍団と日本 1918-1920』(2023、教育評論社)
木村英明

 筆者(木村)は、一昨年の2021年に本ホームページ上で、林忠行氏のモノグラフ『チェコスロヴァキア軍団−ある義勇軍をめぐる世界史』(2021、岩波書店)を紹介させてもらった。同書では、1917年10月革命に続くロシアの内戦期に、反ボリシェビキ武装蜂起へと突き進んだチェコスロヴァキア軍団(以下、適宜「軍団」と略)を舞台回しに据え、入り組んだ国際情勢のなかで、1918年10月28日のチェコスロヴァキア国家樹立に至る過程が世界史的視野から辿られていた。いっぽうで、本年刊行された長與進氏による著作『チェコスロヴァキア軍団と日本 1918-1920』は、この時期の日本とチェコスロヴァキアの関係が「歴史上でいちばん近かった、という「仮説」」のもとに、両者の友誼と対峙の2年間を浩瀚な資料を読み解きつつ検証している。

 著者が提示する豊富な資料のなかで、とりわけ注目に値するのは『チェコスロヴァキア日刊新聞』(以下、『日刊新聞』)である。同紙は軍団の機関紙であり、軍の移動とともに編集部もまた各地を転々としながら、全部で717号が刊行されたという。軍団の救援こそが日本によるシベリア出兵の大義名分であったにもかかわらず、軍団内部のチェコ人・スロヴァキア人の声は、これまで日本でまったくと言っていいほど紹介さていない。本国のチェコやスロヴァキアにおいてすら、軍団そのものが社会主義期に否定的評価を受けていたこともあり、この貴重な新聞の本格的研究は進んでいないという。その意味で、チェコ語、スロヴァキア語、ロシア語に堪能な著者による同紙の記事や論説の翻訳紹介と、それに基づく日本・チェコスロヴァキア両国(シベリア出兵の初動時、チェコスロヴァキア国家は未成立だが)の互いに対する眼差しの検証は、国際的に見ても高いオリジナリティーを有していると言えるだろう。

 序章と終章に挟まれた全7章からなる同書は、序章で述べられているように、「資料に語らせる」ことが基本姿勢として堅持されている。出来事をめぐる両国間の情報や評価の齟齬について、安易な憶断を排すべく叙述が抑制され、これ見よがしの謎解きが繰り広げられることはない。むしろ出来事に注がれる複数の視点が、新たに謎を深めていくケースも見られる。しかし、各章ごとに論点整理が明快になされているため、読者が混乱することはなく、結果として、平板な唯一の物語に回収されることのない、多面的、立体的な歴史の姿が浮かび上がってくる。

 取り上げられているほとんどの出来事が日本語文献に乏しく、一般には知られていないので、以下に各章の内容をサマリーしておく。

 第1章は、チェコスロヴァキア初代大統領で、当時は独立運動組織の議長を務めていたT.G.マサリクの日本滞在に焦点を当てている。1918年4月のおよそ2週間のことである。日本側の新聞報道、マサリク自身の訪日回想とその日本観、『日刊新聞』に掲載された外事警察官竹山安太郎の談話、さらにチェコ語を話す山ノ井愛太郎(この人物について、著者は第4章で集中的に取り上げている)の回想、などが比較対照されている。竹山談話からは、外国要人にたいする然るべき丁重な対応が日本側に欠けていたことが、またマサリクの言葉からは、日本そのものへの関心や敬意というより、軍団救済のために連合国一員である日本からの支持を得ておく必要があったという程度の、プラグマティックな姿勢が伺われるようだ。山ノ井が語る、シベリア出兵に関して、マサリクと田中義一参謀本部次長との密かな接触があったのかどうかについては、資料の信憑性と他の資料不足を理由に、判断が保留されている。

 また、先行研究として本章の注には、1980年代初頭に南塚信吾氏や柴宜弘氏らが立ち上げた「日本東欧関係研究会」編『日本と東欧諸国の文化交流に関する基礎的研究』所収の林忠行氏の論文が挙がっている。筆者は、著者の長與氏から、今回の著作が、同研究会が行った問題提起への、40年遅れの回答であると聞き及んでいることを付記しておく。

 第2章では、いよいよ日本軍のシベリア出兵が始まり、日本人兵士と軍団兵士が直接対面した様子が、『日刊新聞』のルポルタージュ等を通して、すなわちチェコスロヴァキア側からの印象として紹介されている。本章タイトルにもなっているオロヴャンナヤ駅での邂逅については、戸惑いを覚えるほどに日本人兵士への賞賛に溢れている(「勇敢で、忍耐強く、敏捷で、創意に満ちた日本人兵士」、「小柄だががっしりとして、真新しい制服をまとった威風堂々たる黄色い若者たち」等々)。日露戦争時の旅順港閉塞作戦の「軍国美談」までが、チェコ語で詳述されている記事には驚きを禁じ得ない。著者によれば、そこには批判や皮肉の調子は感じられないという。まずは、連合軍の一翼を担う日本軍が彼らの傍に現れたことにたいする安堵感、そして歓喜が前面化した記事内容と言っていいのかもしれない。いっぽうで、第2章の最後には、この1年半後、1920年3月の状況を分析した『日刊新聞』論説記事の内容がまとめられている。そこでは、日本によるシベリア遠征の目的がチェコスロヴァキア軍救援などではなく、極東における日本の利害関係擁護であったこと、具体的には日本の過剰人口の入植先確保、天然資源獲得、さらには対米戦争時に起こり得る海上封鎖の怖れから、日本を大陸と島を含む国家とするための拠点作りの等の思惑があったと、突き放した客観的分析がなされている。

 第3章は舞台を東京とウラジヴォストークに移し、軍団傷病兵と日本人医療団(おもに看護婦たち)の交流が、やはり新資料をもとに描かれる。東京では、築地聖路加病院に収容された傷病兵の様子を日本の新聞数紙が掲載しており、これまで累積する時の地層に埋もれていた、軍団にたいする当時の社会的関心の高さに改めて光が当てられている。プラハやブラチスラヴァの文書館に残されていた写真(傷病兵と看護婦たちの集合写真、病院で催された「チェコスロヴァキア・バザール」の様子など)が数葉挿入されていて、そこからは両者の友好関係が時を超えて伝わってくる。また『日刊新聞』は、ウラジヴォストークから東京までの旅路のルポルタージュを掲載し、日本各地の風景、人々の暮らしの姿、東京の印象などを興味深く活写していた。ウラジヴォストークの病院で働いた赤十字の日本人看護婦については、『日刊新聞』が任務を終えて帰国する看護婦たちとの別れの宴を報告する記事に加え、後にチェコで刊行された資料集から「ミツバチのように働き者で、良心的で優しかった」彼女たちについての記述が翻訳紹介されている。

 続く第4章は、上記のような日本とチェコスロヴァキアの蜜月期に、「初めてチェコ語を学んだ日本人」として随所に姿を垣間見せる山ノ井愛太郎をめぐる謎を扱っている。『日刊新聞』から2編の山ノ井に関するルポルタージュが紹介されていて、そこでは彼を「東京の親チェコ派」と称している。さらに、軍団兵であった作家オルドジフ・ゼメクの回想録も引かれている。ゼメクが京橋区にあった山ノ井の家を訪ねる具体的なくだりはとても印象的で、チェコ好きな日本人好青年とチェコ人の、この時代には稀有であった個人的交流が描写されていた。

 しかしながら、著者がチェコ外務省文書館で発見した、初代駐日チェコ公使カレル・ペルグレルの報告書は、まったく別の山ノ井像について語っている。それによれば、山ノ井はまったく信頼できない人物であり、日本外務省に雇われた情報提供者(諜報員?)である旨が記載されているという。その後の昭和期における山ノ井の経歴もはっきりしない。第1章で触れられた、『田中義一傳記』中にある、田中とマサリクの密会、両者を通訳した山ノ井の逸話の真偽についても、著者は判断を保留している。章末尾には、都立松沢病院に入院していた山ノ井の晩年の姿が、1955年の朝日新聞の記事を引用しつつ触れられている。

 第5章は、「交流美談」のクライマックスを飾る、ヘフロン号事件の概要を叙述する。1919年8月にウラジヴォストークを出航した軍団の帰国輸送団第8便へフロン号が、福岡県白鳥灯台付近で座礁し、船の修理期間中に、盛んな民間交流が行われたという。これについては、日本側にもチェコ側にも文献が少なく、双方にほとんど知られていない出来事だったそうだ。乗員870人は、初め門司に運ばれた。プラハの文書館所蔵の写真が4枚掲載されており、門司の女性たちや子供たちを含む日本人と軍団兵士が、互いに入り混じって楽しげにレンズに収まる姿は、まさに本章タイトル通り、「交流美談の頂点」を思わせる。その後、兵船の修理のために、兵士たちは門司から神戸に居を移した。『日刊新聞』のルポルタージュ記事は、坐礁から門司上陸、神戸への移動について記している。それによれば、門司港からの出航に際しては、数百人の住民、何千人の学童が別れの挨拶に、チェコ語で「ナズダル」と叫び、兵士たちは日本語で「バンザイ」を唱えた。神戸においても、神戸市民が市内見物や自宅へと兵士を招いて、草の根的な交流が続いた。奈良への招待旅行も企画された。軍団兵士はこのような好意あふれるもてなしにたいして、音楽やソコル体操などを市民に披露して応えたという。サッカーの試合も日本人学生との間で行われ、6試合中4回、軍団兵士側が勝利したと『日刊新聞』は伝えている。10月末の出航まで、この熱い友好関係は続いたようである。また、この章の補論として、全部で36便に及んだという軍団の帰国輸送船団について、船名、乗員数、出航日と到着日(到着地も含む)が整理されていて、研究者にとって非常に有益な情報提供となっている。

 第6章と第7章では、両国の友好関係が描かれたこれまでの章とは、180度様相を異にする出来事が取り上げられている。1920年4月に、満州西部のハイラル駅で日本軍とチェコスロヴァキア軍団が衝突したとされる、いわゆるハイラル事件である。前年末以降、コルチャーク体制の崩壊、ボリシェヴィキ勢力の拡大、日本軍が後押しするセミョーノフ反革命政権と軍団の軋轢というように、急展開を遂げたシベリアの状況は、両軍の関係をネガティヴな方向へと導いていった。事件のきっかけは、ハイラル駅で日本軍が逮捕したロシア人鉄道員の押送に反対するロシア人群集、そしてロシア人に味方した中国軍と日本軍の間で起こった短時間の戦闘だった。その際に、軍団所有の装甲列車オルリークから、日本軍に向けて銃撃があったとする日本側とそれを否定する軍団側の間で、緊迫した対峙が生じた。著者は、まず日本側の新聞各紙の報道と陸軍参謀本部による公式記録を示す。新聞報道には、感情的な言葉で軍団を誹謗する調子が目につく(「文明を衒うチェック軍にして、過激派、支那兵、馬賊以下の残虐を敢えてせり」等)。報道も参謀本部記録も、軍団側から日本軍への銃撃を事実と認定している。いっぽうで、『日刊新聞』の記事(著者はこの事件に関する記事を16編確認している)とプラハの軍事歴史文書館に残る文書は、軍団からの銃撃を否認している(「チェコスロヴァキア軍は、中立を守るようにという命令に従って、軍用列車内に留まり、戦闘に参加しなかった」(『日刊新聞』)、「オルリーク、小銃、機関銃、砲からも、あるいは手榴弾による一つの攻撃もなされなかった」(文書館所蔵、オルリーク司令官の調書)等)。

 示された資料からは、双方で2名ずつの死者を出したこの事件の全体の流れについて、双方で大きな食い違いがなく、相違点は軍団側からの銃撃の有無に絞られることが分かる。

 ハイラル事件の結果、軍団の戦闘単位として重要かつシンボル的な存在でもあった装甲列車オルリークを、一時的に日本軍が接収した。第7章は、このオルリークをめぐる両軍の対立に焦点が当てられている。当初は日本軍の要求に従った現場の軍団側であったが、軍団司令官シロヴィー将軍の言にあるように「「オルリーク」の名前は、すべてのチェコスロヴァキア軍兵士を励まして、力付けるものの一つ」(『日刊新聞』)であったため、この接収に憤ったウラジヴォストークの軍団司令部は直ちに奪還に動いた。同じくウラジヴォストークの日本軍司令部の司令官大井大将に対して、軍団司令部は強硬に返還を要求した。日本側に談判に赴いたチェコ人少佐の回想録によれば、チェコスロヴァキア軍は実力による装甲列車奪還を試みるかもしれないこと、事件についての報告を連合国に提出すること、と日本側が予期しなかった「脅し」を突きつけたという。大井大将はオルリークの返還を了承するが、その決定に対して国内の日本軍内部で強い反発が起こった事実にも言及されている。

 第7章後半では、ハイラル事件をめぐって行われた、日本・中国・チェコスロヴァキアによる三者調査委員会の議論が、日本側とチェコ側の資料に基づいて並置されている。それらによれば、チェコスロヴァキア軍が軍事衝突に関与したのか否かは水掛け論に終始した。著者は、「現段階までの調査と研究によれば、ハイラルでの4月11日の銃撃戦は、偶発的な遭遇線であった可能性が高い。この事件は間違いなく軍団と日本軍の関係を悪化させたが、両軍の間でこれ以上の軍事紛争は起こらなかった」と総括している。

 終章には、現在、カトリック府中墓地に埋葬されている軍団兵士5名について、葬儀の様子を伝える当時の日本の報道と、チェコスロヴァキアの資料から突き止めた兵士たち個々の来歴があげられている。また著者自身が、チェコスロヴァキア独立記念日に合わせて、日本人研究者や在京チェコ大使館関係者と墓参に訪れた秋の一日が回想されている。チェコスロヴァキア軍団と日本のシベリア出兵を通じて触れ合いを深めたこの時期こそ、日本とチェコスロヴァキア両国の関係が「歴史上でいちばん近かった」、とする著者の仮説にとって、日本の地に埋もれることになった軍団兵士の存在は、何よりも雄弁な証左の一つであるだろう。

 著者は、『チェコスロヴァキア日刊新聞』の翻訳を長年に渡り続けていると聞く。同紙は、革命に続くロシア内戦の諸問題、第一次世界大戦後の新秩序形成への動き、さらに日本軍部の大陸進出の野望など、歴史の大変動期に関わる情報が、独立運動を展開していた中欧の小ネイションの目線から記録された、世界史研究者にとってたいへん意義のある資料である。翻訳の完成、出版が待たれる。

(「世界史の眼」No.40)

                                    

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論考紹介:小川幸司「書評:南塚信吾責任編集『国際関係史から世界史へ』」(『西洋史学』274号)
山崎信一

 2022年に刊行された『西洋史学』274号に、小川幸司氏による『国際関係史から世界史へ』に対する書評が掲載された。小川氏は長年にわたり、歴史教育、とりわけ高等学校における世界史教育に携わってきており、それに関する著作も多い。また2021年より刊行されている『岩波講座 世界歴史』(第三期)の編集委員を務めているほか、2023年6月には、岩波新書から、「シリーズ 歴史総合を学ぶ」の一冊として『世界史とは何か−「歴史実践」のために』を刊行している。

 歴史教育と歴史研究が別のものとして存在するのではない点が指摘されて既に久しく、さまざまな形で議論が展開されるようになっている。とりわけ、「世界史」という枠組みを設定することは、日本においては歴史教育において先行したこともあり、むしろ世界史教育が世界史研究を牽引してきた側面もあるのかもしれない。また、小川氏の述べるように、高等学校のカリキュラム変更(「歴史総合」、「世界史探究」の導入)が、世界史を各国史の総和として描くのではなく、その構成原理を検討する必要を強いているという側面もあるだろう。この書評は、歴史研究と歴史教育のそれぞれの関心が同じ方向性を持つことを確認させるものでもあり、ここに簡単に紹介を試みたい。

 小川氏は『国際関係史から世界史へ』の方法論に関して、非常に明解にまとめている。各国史の「並列」ではない、「脱ナショナル・ヒストリーの世界史」のため、連動と関係を重視する中で立ち現れる二つの観点を挙げている。一つは、世界史の垂直軸とも言える、世界史の「傾向」に対する諸地域の反発や受容による「土着化」の動き(小川氏は「傾向」の観点と呼んでいる)であり、もう一つが、世界史の水平軸にあたる、ある地域の緊張の高まりが別の地域の緊張の緩みをもたらすといった、諸地域の有機的なつながり(小川氏による「力学」の観点)である。このうち、「傾向」の観点に関して、小川氏は、ヨーロッパ中心史観に陥らないことの重要性を確認した上で、「土着化」だけにとどまらない「連鎖」のあり方にも視野を向けることを論じている。「傾向」の観点に関しては、その多様なあり方の分析が本論考の主要な部分ともなっている。具体的に挙げられているのは三つの点である。第一は、主権国家体制の東アジアにおける受容(対象書第1章)に関してであり、第二は、支配と被支配の権力関係の動向(対象書第4章、第6章)であり、第三は、「カラーライン」やジェンダー対抗軸といったさまざまな対抗軸の世界的な出現(対象書第3章、第9章)である。さらに、対象書に扱われていない「傾向」を補うものとして、同じ「MINERVA世界史叢書」シリーズの他の巻の存在が挙げられている。

 小川氏は全体として『国際関係史から世界史へ』に高い評価を与えている。それは、氏の歴史教育者としての課題や関心に応える点が多いが故でもあるだろう。特に、小川氏の指摘する、世界史教育において抜け落ちがちのアフリカ史、ラテンアメリカ史、東南アジア史、オセアニア史などの重要性や、世界史に「民衆の歴史」を組み込むべきことなどは、世界史教育全体の課題でもあるものだろう。小川氏の書評により、世界史研究の進むべき方向も、より明確になったと思われる。

(「世界史の眼」No.40)

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