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伊藤邦武、山内志朗、中島隆博、納富信留編『世界哲学史1 古代1 知恵から愛知へ』(筑摩書房、2020年)、『世界哲学史2 古代2 世界哲学の成立』(筑摩書房、2020年)
栗原麻子

 『「世界史」の世界史』(ミネルヴァ書房)で、ギリシアの世界像・世界史像についての一章を担当したご縁で、この度完結した『世界哲学史』の古代編について論評するようにおすすめいただいた。『世界哲学史』は、①世界史上の思想文化圏における「哲学史」を俯瞰し、②これまで人類が、通時代的・通文明圏的に、何を哲学の問題としてきたのかを比較し、③思想文化圏相互の影響を問う、という3つの側面を持っているように思われる。近年の潮流を新書でまとめて知り、ソフィストの活動の見直しが進んでいることなど、情報を手軽にアップトゥデートすることができる啓蒙書としても魅力的だが、ここでは、「世界哲学史」が、歴史学の「世界史」へのまなざしとどのように交錯するのかを、西洋古代史研究者による読書ノートとして書き留めておきたい。

 第1巻「知恵から愛知へ」では、哲学者ヤスパースのいう「枢軸の時代」、すなわち紀元前5世紀を中心とする数世紀間に、世界哲学上の主要な思想が同時発生的に勃興した状況が、「世界と魂」を共通テーマとして、西アジア、旧約聖書、ギリシア、インド、中国といった地域ごとに描かれる。ここではギリシア、中国、インドという3つの思想文化圏の相互交渉は、この時期には未だ控えめであるが、アショーカ王碑文や「ミリンダ王の問い」のような事例が、ヘレニズム期のインド哲学とギリシア哲学が「翻訳」によって相互に交流していたことを伝えている。大戸千之『ヘレニズムとオリエント』(ミネルヴァ書房)が論じたように、ヘレニズムがギリシア文明の波及ではなく、各地の文化との相互交渉であることは、いまや共通認識といってよい。本書が際立つのは、ヘレニズムという外的枠組に依存するのではなく、あくまでテキスト内部の解釈と「翻訳」に基づいて、体系化された思考がほかの文化圏に移植される様相を検証する点にある。第2巻「世界哲学の成立と展開」では、「善悪と超越」を共通テーマとして、ヨーロッパの思想的基盤が形成される後6世紀ごろまでが扱われる。ローマ帝国でギリシア哲学とキリスト教が交錯し、西アジアでゾロアスター教とマニ教が成立し、インドで大乗仏典が成立し、中国で「古典中国」が成立するなど、思想文化圏の姿がはっきりしてくる。この時期は、ビザンツ帝国でのキリスト教の東方拡大や、インドで成立した大乗仏教と中国の儒教との出会い、プラトン主義哲学の影響など、相互影響が顕著となり、「翻訳」を通じて哲学が「世界化」する時期として描かれ、全体として古代における思想のグローバルヒストリーとなっている。

 相互影響への注目だけでなく、「哲学史」を俯瞰し、脱西洋中心的な哲学体系を構築しようとする点でも、本書は、近年の歴史学と通じるところが大きい。本書は、神話や宗教儀礼から発展したものも含む「宇宙を含む世界の全体と私たち自身のあり方」を問う知的行為を哲学とみなす。この極めて広義の対象設定のもとでは、韻文も考察対象から排除されない。古代インドにおける世界と魂を扱う第1巻第5章では、叙事詩「マハーバーラタ」の哲学テクストも含めた、対話的な「哲学の技法」が取り上げられる。また、認識論と並んで、神学も考察対象となる。第1巻では、ヘブライズムへの目配りがなされ、第2巻では、世界を理解するための営みとしての神学が扱われる。大乗仏教も「東洋における哲学という名にふさわしい思想」である。ところが、弁論術を広義の哲学史に含めることが検討されるといった柔軟さをみせながらも、西洋哲学史の殻は固い。ヘシオドスの思想は「数学的素養」に乗っ取っていないので考察対象から除外され、キリスト教学は、窮理という意味での哲学ではないという但し書きつきで扱われる。世界を対象として哲学史を語るために、それぞれの研究領域において哲学の対象範囲をどこまで広げることが有効なのか、執筆者それぞれの判断が問われているのである。

 哲学史において哲学とは何かを問うことは、史学史において歴史とは何かを問うことに似ている。かつてギリシア史家村川堅太郎は、中国には自由な探求の学問としての歴史学が成立しなかったと述べた。それにたいして川勝義雄が、司馬遷の例を引いて反論したことはよく知られている(『中国人の歴史意識』(平凡社))。論争の焦点は、司馬遷に自発的探究心と独自の歴史意識を認めることができるのか、という点にあったが、歴史叙述についてのあまりにギリシア中心的な価値評価にも問題があった。今日、ギリシア史研究者のあいだでは、ヘロドトスによる世界像の集成やトゥキュディデスによる批判的叙述といった大歴史家の仕事とならんで、編年体で書かれた各地の年代記や金石文によるローカルな記録行為に注目が集まっている。柔軟で包括的な対象理解が、比較史的な考察を可能とするのである。哲学史も同様であろう。

 最後に、『世界哲学史』の構想は、先行する複数の哲学史をひとつに収斂することを目指しているのだろうか。おそらくそうではない。編者は、「世界哲学史」を構想するにあたって、哲学の「始まり(アルケー)」を問いなおす。それは、哲学とは何かを問うことに他ならない。「始まり」を問い直すことで、ヨーロッパ標準の哲学史の規範性を相対化し、「多元的で普遍的な「世界哲学」の起源論」を模索しようとする姿勢を見て取ることができる。『世界哲学史』の「多元性」と「普遍性」が、比較と関係性のもとに、立ち現れることになる。

 各思想文化圏に固有の「哲学史」もまた、大乗仏教成立史の批判的再検証(第2巻第5章)が示すように、それ自体がメタな分析の対象である。歴史学の場合にも、各思想圏のなかで形成されてきた史学史の系譜それ自体が批判的な検証に値する。一例を挙げるならば、羽田正は、近代歴史学の成立過程のなかで、マホメット以降の中東が「イスラーム世界」として、歴史を持たない文明を扱う東洋学のなかに投げ込まれ、すでに西洋的な世界史叙述のなかに組み込まれていたエジプト文明やメソポタミア文明、旧約聖書の世界と分断された、と指摘する。『世界哲学史』は、このような史学史上の枠組上の分断に制約されない。エジプト・メソポタミア文明からヘブライズムとヘレニズムへ至る、伝統的な地中海古代史の流れを踏襲しながらも、ギリシア哲学の影響下に、グノーシス派による二元論的なキリスト教が出現し、それがマニ教においてペルシア的な二元論と結合して、中国にまで伝播し、イスラーム化した西アジア内部で生き続けた継けたことが語られる。ミッシングリンクの復元には限界もあるが、テキストに記された思想によって文明をつなぐ手法が、説得的である。

 このように単線的でない系譜を描くことが可能となったのは、『世界哲学史』が、共通テーマによって各時代を輪切りにする構成をとっているためである。そこに、既存の世界史のストーリーから個々の事象を切り離そうとする意図を窺うことも許されよう。それは奇しくも羽田正が『新しい世界史へ: 地球市民のための構想』(岩波書店)において、世界史の再構築のために提唱した方法でもある。

 ラファエロの描く「アテナイの学堂」が西洋哲学史を体現しているとすれば、これからの『世界哲学史』は、どのような絵図を描くことになるのだろうか。『世界哲学史』の再編は、狭い意味での思想史にとどまらず、受容と伝播をめぐる現行の世界史を書き換えることにつながることが予感される。歴史学研究者の注視が必要となる所以である。

(「世界史の眼」No.14)

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紹介・書評:秋田茂・細川道久著『駒形丸事件―インド太平洋世界とイギリス帝国』(ちくま新書、2021年)
小谷汪之

 本書は、駒形丸事件というそれ自体を取れば小さな事件の中に、さまざまな地域や社会や国のつながりからなる世界史の全体像を見渡そうとする野心的な試みである。

1 駒形丸事件とは

 駒形丸事件とは、1914年、北アメリカ(カナダ)へのインド人移民希望者を乗せた駒形丸がバンクーバー港への入港を拒否され、結局、インド・カルカッタ(今日のコルカタ)にインド人船客を輸送することを余儀なくされた事件である。

 駒形丸は1890年にイギリス(グラスゴー)で建造された総トン数3058トンの貨客船で、1914年当時は日本の神栄汽船の所有であった。1914年3月、インド人実業家グルディット・シンが香港で神栄汽船と駒形丸の傭船契約を結び、カナダへのインド人移民希望者を輸送することになった。駒形丸の船長と乗員42人はすべて日本人であった。

 1914年4月、駒形丸はインド人船客165人を乗せて香港を出港、上海、門司を経由して横浜に入港した。各港で船客を受け入れ、最終的に船客は376人に達した。船客全員がインド・パンジャーブ州の出身で、そのうちシク教徒が340人であった(シク教は16世紀のパンジャーブで、ヒンドゥーの諸宗教やイスラームを融合して創始された宗教で、総本山は後出アムリトサルの「黄金寺院」)。

 5月3日、駒形丸は横浜を出港し、5月21日にはバンクーバー港外の検疫所に到着した。検疫所で燻蒸証明書が出されたので、23日、駒形丸はバンクーバー港に入港しようとした。しかし、移民局によって入港を拒否され、港外に停泊せざるをえなかった。船客、乗員は下船を認められなかった。その後、移民局との交渉が続けられ、一人の船客の入国をめぐって裁判まで行われたが、入国を認められなかった。そのため、他の船客は入国審査を拒否し、結局、駒形丸は7月23日にバンクーバーを退去することになった。駒形丸は横浜(8月15日)、神戸(8月20日)、シンガポール(9月16日)を経て、9月25日、英領インド・カルカッタ(今日のコルカタ)付近に到着した。途中、下船者などもあり船客は321人に減っていた。

 9月29日、フーグリー川を遡上した駒形丸は、カルカッタ(コルカタ)の下流20キロメートルほどのバッジ・バッジ港に停泊した。フーグリー川はガンジス川から分流してベンガル湾に注ぐ川で、カルカッタはその左岸に位置する。バッジ・バッジ港で、インド政庁は船客に対して、特別列車に乗り換えてパンジャーブに行くよう要請したが、大部分の船客はそれを拒否して、徒歩でカルカッタに向かった。しかし、5キロメートルほど行ったところで警官隊や軍に阻止され、バッジ・バッジに戻ることになった。その夜、突然、銃砲の音が響き、双方の間に衝突が発生した。この衝突と銃撃により、船客20人などが死亡、多数の負傷者も出た。船客の多くは逮捕されたが、グルディット・シンなど28人は現場から逃亡した。

 駒形丸事件にかんする本書の詳細な記述を要約すると以上のようになる。

2 駒形丸事件の世界史的背景

 本書の特徴は、この駒形丸事件を「インド太平洋世界」の広い国際関係の中に位置づけることによって、第一次世界大戦前後の時代像を描き出そうとしている点にある。

 駒形丸事件の一つの世界史的背景としては、19世紀後半から20世紀初頭の北アメリカ(アメリカ、カナダ)におけるアジア系移民排斥の動きがある。1848年、北米カリフォルニアで金鉱が発見されてゴールド・ラッシュが起こり、中国人移民が急増した。その後、1857年にはカナダ(ブリティッシュ・コロンビア)でも金鉱が発見されて、カナダへの中国人の移動が始まった。1870年代には、カナダの東海岸と西海岸をつなぐカナダ太平洋鉄道の建設が進められたが、その労働力として中国人移民は不可欠であった。しかし、1885年にカナダ太平洋鉄道が完成すると、中国人移民に対する制限措置が取られるようになった。同年7月、カナダに到着した中国人に50ドルの人頭税が課せられることになり、その額が1900年に100ドル、1903年には500ドルに引き上げられた。その後、中国人移民に代わって、日本人移民が増大したので、1908年、カナダ政府は日本政府と日本人移民を年間400人に制限する協定を結んだ。当時、イギリスは日本と日英同盟を結んでいたので、イギリスの自治領としてのカナダもこれに拘束されていたから、中国人移民に対するような一方的な政策をとることができなかったのである。インド人移民の制限には、さらに複雑な問題があった。イギリスは、「1857年インド大反乱」が終息した1858年、インドを直轄植民地とした。これによって、インド人はイギリスの「帝国臣民」として、イギリス(大英帝国)版図内を自由に移動することができるようになった。したがって、カナダ政府もインド人移民を拒否することができないはずであったが、当時、イギリスからの自立を志向していたカナダはさまざまな方法でインド人移民を制限しようとした(本書には、その過程が詳述されているが、複雑なので省略する)。駒形丸事件はこのような状況の中で起こった事件で、結局、カナダ側のインド移民制限政策が成功したということができる。

 カナダによるインド人移民排斥にはもう一つの要因があった。1900年代初頭、アメリカ東海岸のインド人の間で反英民族運動が始まり、それが西海岸のシク教徒を中心とするインド人移民労働者の間にも広がっていった。1913年には、サンフランシスコで彼らの運動組織ガダル党(Ghadar Party)が結成された(「ガダル」はアラビア語起源の言葉で、「反逆」の意)。ガダル党の組織はカナダにも広がっていったために、カナダ政府もインド人移民の動向に注意を払っていた。駒形丸の船客とガダル党の間には直接的な関係はなかったようであるが、ガダル党の中心になったのがパンジャーブ出身のシク教徒だったので、カナダ政府は駒形丸のシク教徒船客に対して厳しい対応をしたのであろう。

 このシク教徒の問題は、イギリスにとって、さらに大きな広がりを持っていた。イギリス・インド軍(Indian Army)は1914年の第一次世界大戦勃発時、約20万人の兵員で構成されていたが、その主力がパンジャーブのシク教徒だったからである。ガダル党員はインド、特にパンジャーブに潜入するとともに、武器弾薬などをインドに密輸して、イギリス・インド軍兵士に反乱を呼び掛ける活動などを行った。インドに入ったガダル党員の数は8000人に上ると推定されている。このガダル党員の動きを遠因として、1915年2月、シンガポールでイギリス・インド兵の反乱が起こった。パンジャーブ出身のムスリムの兵士800人ほどが兵営を占拠し、捕虜とされていたドイツ人兵士などを解放した。イギリスは反乱鎮圧のために日本の援助を求め、日本の軍艦二隻がシンガポールに急行した。反乱は一週間後にほぼ制圧された。

 第一次世界大戦中、イギリスはインドの戦争協力の見返りとして、戦後に大幅な自治権を認めると約束していたが、それを反故にして、インドの自治要求運動に対する弾圧を強化した。それにより、インドの反英民族運動は逆に激化し、特にイギリス・インド軍兵士を多く出したパンジャーブでは大きなデモや集会が繰り返され、一部には暴力行為も起こった。そんな中、1919年4月13日の夕方、アムリトサルのジャリヤーンワーラー・バーグ広場での集会に参加していた約二万人の大群衆に対して、ダイヤー准将率いる軍隊が無差別の発砲を行い、死者1200人、負傷者3600人を出す大惨事を引き起こした。このいわゆる「アムリトサル事件」によって、インドの反英民族運動はさらなる高揚を見せた。

3 インド史における駒形丸事件

 駒形丸事件とその世界史的背景について、日本におけるインド(南アジア)通史ではどのように扱われてきたのかを、以下の3冊を取り上げて検討してみたい。①山本達郎編『世界各国史Ⅹ インド史』(山川出版社、1960年)、②辛島昇編『新版世界各国史7 南アジア史』(山川出版社、2004年)、③長崎暢子編『世界歴史大系 南アジア史4 近代・現代』(山川出版社、2019年)の3冊である。

 ①には、駒形丸事件とシンガポールのインド兵反乱についての記述はない。ガダル党については、「北米のインド人移民・亡命者たちが祖国のパンジャーブと連絡を取って、インド各地に革命を起こそうと試みたテロリストの流れをくむ運動—北米で発行した機関誌の名をとってしばしば『ガママダル』(反乱の意)運動とよばれる—もたしかに存在した」(314頁。松井透執筆)という記述がある。ただ、インドの反英民族運動「本流」からは外れた動きという印象を受ける書き方である。①に特徴的なのは、「アムリトサル事件」について4ページにわたって極めて詳細に記述されていることである(371-374頁)。

 ②にも駒形丸事件への言及はないが、ガダル党とシンガポールのインド兵反乱については、次のような記述がある。「暴力革命派の活動も活発であった。インド人兵士が武装反乱を起こし、イギリス支配の転覆をはかるという、一八五七年の大反乱モデルにならった反乱ガダル党の計画も立てられた。この計画は一九一五年二月、政府に摘発されて国内では未遂に終わる。〔中略〕シンガポールでも一五年、反乱党の計画につながるインド兵士の反乱がおこり、イギリスは日英同盟を利用して、日本軍の援軍によってやっと鎮圧したほどであった」(379—380頁。長崎暢子執筆)。ただし、ガダル党そのものについては何の説明もないので、一般の読者にはちょっと分かりにくいであろう。②における「アムリトサル事件」の記述は、①とは対照的に極めて簡略で、数行にとどまる(386頁)。

 ③の該当箇所の執筆者は②と同じなので、記述内容だけではなく、文章そのものもほぼ同じである。ただし、②の近・現代南アジア史の部分がB6版で123頁なのに対して、③はA5版468頁全体が近・現代南アジア史である。それにもかかわらず、ガダル党、シンガポールのインド兵反乱そして「アムリトサル事件」に関する記述の量は両書で同じである。ということは、③ではこれらの出来事に関する記述の比重が極めて低下しているということである。

 以上のような状況は、次のように理解することができるであろう。①が書かれた段階では、まだ現地南アジアにおけるインド(南アジア)研究が十分に発達していなかったので、イギリス人研究者による英印関係史やインド国民会議派的なインド民族運動史に依拠せざるをえなかった。そのため、「アムリトサル事件」に多くのページが割かれ、ガダル党のようなインド国民会議派とは異なる路線の運動は軽視された。それに対して、②が書かれた段階になると、南アジア史の多様な側面が研究対象となり、英印関係史(国際関係史)的な記述が後景に退き、インド国民会議派以外の政治団体や社会運動にも多くの紙面が割かれるようになった。③が書かれた段階では、その傾向が一層顕著に進み、社会史、女性史、ジェンダー史などの記述が大幅に増大した。その結果、英印関係史(国際関係史)的記述の比重が極めて低下したのである。

 これら3冊のインド(南アジア)通史の性格の変化を上のようにとらえられるとすると、そこには次のような一般的な問題があるように思われる。それは、歴史研究が国家や社会の内部やさらには個人の内面にまで深く入って行けばいくほど、それらを取り巻く外部の世界への関心が希薄化していくという問題である。あるいは、歴史の研究が精緻になって行けばいくほど、全体への関心が後退する傾向といってもいいかもしれない。

 本書のような諸地域、諸社会、諸国家のあいだを結ぶつながりを重視するグローバル・ヒストリーの歴史記述は、そのような歴史研究の趨勢に対する批判となりうるであろう。しかし、同時に、一個人、一地域、一社会、一国家の歴史の中に深く沈潜しようとする歴史研究との間をどう架橋するかという課題が今後に残されているということができると思う。人々の幾重にも重層化した生活世界の最も外側の層がグローバルなつながりなのであるから。

(「世界史の眼」No.14)

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書評:アラン・テイラー著(橋川健竜訳)『先住民vs.帝国 興亡のアメリカ史—北米大陸をめぐるグローバル・ヒストリー』(ミネルヴァ書房、2020年)
伏見岳志

 本書は、北米大陸の植民地史をコンパクトに描きだした著作である。この点は、原著の題名Colonial America: A Very Short Introductionに端的に表されている。A Very Short Introductionはオックスフォード大学出版局が刊行しているシリーズであり、さまざまなテーマに関して、第1線の研究者が書いた平明で簡潔な入門書を集めている。本書もこの主旨に則って、植民地時代の北米の全体像を目配りよく、かつ簡潔に平明に記述している。

 ただし、邦訳をみると、題名が原題の直訳ではないため、北米植民地史の入門書という印象は受けない。それよりも、日本語の題名は、本書が持つ独自性を伝えることに力点をおいている。入門書とはいえ、その内容はかなり挑戦的であるからだ。

 著者の姿勢は、序章での伝統的な歴史像への批判によく示されている。伝統的な「アメリカ例外主義」的な記述では、大西洋側のヴァージニアやニューイングランドというイングランド起原を強調し、その植民者たちがヨーロッパの因習を打破し、個人主義と共和主義を太平洋側にまで押し広げていくという物語が展開される。しかし、「植民地期アメリカは、イングランド人がアメリカ人になるという単純な話よりも、はるかに大きな広がりがあった(9頁)」と著者は主張する。

 著者が特に重視するのは、多様な先住民集団である。序章の冒頭では、先住民カトーバがサウスカロライナ総督に与えた地図を分析し、カトーバにとっては、彼らこそが中心であり、植民者はその流儀を学ぶべき「周縁的な存在」であったことが指摘されている。

 「先住民を重要な存在として植民地史の中に置き直そうとする(7頁)」試みは、「大陸史」と呼ばれ、その成果によって歴史像は刷新されつつある。多様な集団から構成される先住民は、けっして「原始的で周縁的で、消えゆく」わけではなく、お互いに競いあい、植民者ともわたり合う存在である。

 先住民諸集団の相互関係や植民者との交渉を中心に植民地史を描く際に、もうひとつ視野にいれるべきは、植民者側の多様性である。イングランドの植民地が多様であることに加えて、北米に進出したヨーロッパ勢力はフランス、スペイン、オランダ、ロシアなど数多い。先住民が遭遇したのは、こうした複数のヨーロッパ勢力であるから、先住民と植民者の接触は単純な二項対立では語れない。

 したがって、本書は、アメリカ合衆国の前提としてのイングランドによる北米植民地史という枠組みを取り外し、16−18世紀にわたって展開された、諸勢力による多様な関係の束として歴史叙述を構築し直そうとする試みだといえる。合衆国を前提としないため、本書が扱う空間は拡大し、カナダやカリブ地域をも含みこんでいる。

 ただし、多様な関係性や広い空間を簡潔な一冊の書物にまとめ上げるためには、それ相応の枠組みは必要となる。著者が用意した枠組みはいくつかあるが、まず強調されるのは、先住民の環境への適応力の高さである。序章につづく第1章では、ベーリング海峡を超えて以来、先住民が各地での環境やその変動に適応した生活様式を生み出してきた長い歴史が概観される。コロンブスの交換による生態系変化や人口激減にも関わらず、先住民はその適応力を発揮する。

 では、その適応力は、北米の各地でどのように発揮されたのか、第2章〜第6章は、先住民と植民者の関係を、各ヨーロッパ勢力の進出地域ごとに描き出す。第2章はスペイン領、第3章はフランス領、第4章はイングランドのうちチェサピーク、第5章はニューイングランド、第6章はカロライナと西インドが扱われる。章の順番は、各植民地が成立した年代に基づく。なお、オランダとロシアの進出は独立した章ではなく、第7・8章のなかで扱われている。

 第2〜6章は独立した内容だが、お互いを関連付けるための工夫も多い。まず、各植民地の特色を説明するために、他の植民地との比較がおこなわれる。例えば、フランス植民地では入植者数が少ないことが、フランスとイングランドとの移民押し出し要因の強弱によって説明されている。人口データを多用している点も、各植民地の特徴や変化を比較によって把握しやすくするための配慮であろう。

 もうひとつの工夫は、各植民地の相互影響を描くことである。たとえば、第2章ではプエブロ族が、北からのアパッチ族の侵略を防がないスペイン人に失望して、1680年に反乱したことが語られる。では、アパッチが南下するのはなぜか。それは第3章を読むと、彼らがフランス人から銃を入手し、馬に乗ることで、狩猟域を広げたことが背景にある。このように、ある章の叙述について、別の章では異なる視点から理解を深める記述が随所に盛り込まれており、各植民地が連関していることが示されている。

 比較と連関に加えて、北米史をより広い空間から考察した点も本書の特徴である。最後の第7−8章では、多様なはずの北米でなぜイングランドが力を持ち、そこからアメリカ合衆国が登場するに至ったのかが説明されている。記述にあたっては、北米史研究の一大潮流であり、グローバル・ヒストリーの草分けである「大西洋史」の知見が十二分に盛り込まれている。さらに、近年進展が目覚ましい「太平洋史」も参照され、のちのハワイ併合までもが射程に収められている。北米史を、それをとりまく大洋やその向こうの世界という広いコンテクストのなかで眺めることで、帝国としてのアメリカ合衆国が成立するダイナミズムを活写したのが、この2章である。

 以上のように、本書はコンパクトでありながら、広い視野に立って、だいたんな見解を盛り込むことで、北米植民地史に新しい叙述の可能性を開いたといえる。しかも、文章は平明であり、各章は20頁前後でまとまっているため、講義でも使いやすい。実際、評者は大学1・2年生向けの授業で使用しており、日本人向けの補足は必要(例えば「ヒスパニック」の意味内容)なものの、学生にとっても読みやすいようだ。

 読みやすさは、翻訳によるところも大きい。原文に忠実でありつつ、わかりにくい箇所には単語が補う配慮がなされている。また、訳者である橋川健竜氏の解説がたいへん充実している。書評を準備するにあたり、何度か目を通したが、書くべきことは解説で網羅されているので、途方に暮れた。評者はラテンアメリカ史が専門であり、北米史の研究者には明るくないが、解説を読み、著者アラン・テイラーが重要な研究者であり、他の著作の翻訳が待望されることもよくわかった。

 最後に、ラテンアメリカ研究の視点から感想を書くと、南北アメリカ大陸でヨーロッパ諸勢力の抗争の場となったのは、北米とカリブ(沿岸地域も含む)、それからラプラタ東岸地域であろう。このうち北米とカリブの違いは、ヨーロッパ以外のアクターとしてより重要なのが、先住民かアフリカ系奴隷か、という点にある。北米でもアフリカ系は重要なテーマだが、本書では、チェサピークやカロライナの章での記述はあるものの、書物全体に占める記述は相対的に少ない。いっぽうで、先住民の捕虜に関する言及は多い。先住民とアフリカ系双方の拘束を含めた考察は、北米史理解にとっては重要であろう。翻って見ると、ラプラタ地域も抗争のなかで、先住民捕虜やアフリカ系奴隷が問題系として顕在化する。双方を共通の視座で描くことは、ラテンアメリカ史の課題でもあることに思い至った。その点でも、示唆に富む著作であった。

(「世界史の眼」No.13)

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書評:ジョン・ダーウィン(秋田茂・川村朋貴・中村武司・宗村敦子・山口育人訳)『ティムール以後 世界帝国の興亡1400-2000年』上・下(国書刊行会、2020年)
木畑洋一

 世界史認識におけるヨーロッパ中心主義を批判する声があげられはじめてから、すでに久しい。しかし、具体的な歴史叙述でその考えを説得的に示していくことは、決して容易ではない。本書は、イギリス帝国史研究を嚮導してきたイギリスの歴史家によるそのような世界史叙述の試みとして、大きな意味を持つ。

 著者ダーウィンは、第一次世界大戦直後のイギリスの対エジプト・中東政策研究から出発して、1980年代末には現在でもイギリス帝国の脱植民地化についての標準的概説とされている本を2冊上梓したことで、名前が広く知られるようになった。その彼が、あたかも満を持する形で、2010年前後に、大冊の著書を3冊立て続けに出した。その最初が本書、After Tamerlane: The Rise and Fall of Global Empires, 1400-2000 (London: Penguin, 2008, ただしアメリカ版New York: Bloomsbury Press, 2008のサブタイトルは、The Global History of Empire since 1405 )であり、次がイギリス帝国をイギリス世界システム(British World System)として再定義しつつ、その歴史を19世紀から脱植民地化期まで追った、The Empire Project: The Rise and Fall of the British World-System 1830-1970 (Cambridge: Cambridge University Press, 2009) である。さらに3冊目として、より長いタイムスパンをとって、帝国を生み出した諸力を多角的に検討した、Unfinished Empire: The Global Expansion of Britain (London, Allen Lane, 2012)が刊行された。いずれも読み応えのある書物であるが、そのなかでの白眉は本書であるといってよく、それが信頼のおける翻訳の形で日本の読者に示されたことについて、訳者たちの労を多としたい。

 本書は、「ティムール以後」というタイトルをもち、15世紀以降の世界史を、主としてユーラシア大陸における諸帝国の興亡を軸として描いた作品である。上述したように、原書のサブタイトルに示された年代はペンギン版とブルームズベリ版で異なるが、ティムールが死去したのは1405年であるため、その点の正確さを期するとすれば、起点はブルームズベリ版の年代の方になるであろう。ユーラシア大陸に広がる帝国を築こうとしたティムールがそれを成し遂げられないままに没した後の歴史を追った末に、著者は本書の最後で、この長い期間を通していえることは、ティムールに似た願望をもった存在がいたとしても、「均質なシステムや一人の絶対的支配者、あるいは特定の体系的ルールに対して、ユーラシア大陸においては抵抗が止むことはなかった」ことであると結論づけ、我々はいまなお「ティムールの影のなか」にいる、より正確にはティムールの「失敗から、なおも逃れることはできていない」と述べている(下324、以下カッコ内に本書の頁数を示す)。一見したところ分かりにくい本書のタイトルの意味、さらに本書全体の主張は、これで理解できよう。

 本書は9章から成る。第1章と第9章は序論と結論にあたり、その他の章は、次のような時代区分となっている。第2章(1620年代まで)、第3章(1620年代~1740年代)、第4章(1750年代~1830年代)、第5章(1830年代~80年代)、第6章(1880年代~1914年)、第7章(1914~1942年)、第8章(1942~2000年頃)。第7章と第8章が1942年で区切られているのは、著者が第二次世界大戦の決定的な転換点をその年に求めていることによる。これらの時期区分をめぐってもいろいろ議論はありうるが、ここではその点には立ち入らず、こうした時期区分のもとで、著者が、帝国の興亡という点を強調しながらどのような世界史像を提示しているかを、評者なりにまとめてみたい。

 本書では15世紀以降の世界が対象となるが、それまでの中世においては、ヨーロッパは中国や近東のイスラーム世界と経済的・技術的にようやく肩をならべられるようになった「成り上がり」の存在にすぎなかった(上60)。「長期の16世紀」(1480~1620年頃)にはヨーロッパの勃興がみられるものの、その影響はまだ限定的であった。アメリカ大陸でのスペインの成功にせよ、その要因は、ヨーロッパの軍事力ではなく、文化的・生物学的要因(疫病など)やアメリカ大陸側の帝國体制の脆弱性の方に求められる。そしてヨーロッパ台頭の勢いは、1740年代までの時期には失速していった。ユーラシアでは、諸帝国(オスマン帝国、イランのサファヴィー朝、ムガル帝国、中国)や徳川幕府下の日本が力をもっていたのであり、オスマン帝国やムガル帝国も、実態はよく抱かれる衰退イメージとは異なっていた。またロシアのダイナミックな拡大活動も目立っていた。

 こうした均衡状態は、18世紀後半から1830年代にかけての「ユーラシア革命」で、ヨーロッパの優位がはっきりしてくるなかで崩れていく。それは産業革命だけでは説明できず、地政学上の革命(18世紀半ばからナポレオン戦争にかけてのヨーロッパや南アジアでの戦争)、文化上の革命(ヨーロッパで、宗教への疑念や経験・実験重視の姿勢が拡がり、空間・時間への関心が高まったことなど)も考慮に入れなければならない。経済面での「大分岐」(著者は大枠でポメランツの「大分岐」論を受け入れている)と並んで、文化面でも「大分岐」が生じたのである。とはいえ、1830年代でもヨーロッパの優位はまだ限られていた。

 1830年代から80年代までは、ヨーロッパで地政学的な安定(平和)がみられるなかで、アメリカの存在感が増し、ヨーロッパは「西洋として再創造」されていった。ヨーロッパの対外活動は、ヨーロッパの拡大に強固に抵抗する現地の人々の動きの前で、「不確かな帝国」という形しかとりえなかった。中国でも、ヨーロッパ側はそこを半植民地のような状態に変えていくことはできなかった。

 1880年代以降になって、ヨーロッパの拡大はアフリカなどで加速化し、「世界史上初めて、身体的、経済的、文化的パワーの階層化が世界規模で押しつけられる」(下13)ことになった。とはいえ、分割されたアフリカにおいても、植民地国家は軽い存在でしかなかった。また中国が領土分割や経済的監督を免れたことやオスマン帝国が立ち直りを見せたことも重要である。この時期に諸大国が世界の支配権をめぐって互いに戦う意図をもっていた証拠はないものの、バルカン半島での状況にヨーロッパでの勢力均衡が対応しきれないなかで、第一次世界大戦が始まった。この大戦はいくつかの帝国の墓場となったが、ロシア革命を経たロシアでは、「党による帝国」という形をとって帝国が元に復したし、オスマン帝国後の中東でのヨーロッパの権威は表層のみにとどまることになった。1930年代になると、19世紀末よりもはるかに粗暴な帝国主義があらわれ、第二次世界大戦につながっていった。

 第二次世界大戦後、帝国と植民地支配は国際関係のなかでの正当性を失い、脱植民地化が進行した。著者は、戦後世界が冷戦の時代としてのみ描かれがちであることについて、「冷戦への流れは物語のほんの一部でしかなく、世界の多くの地域では物語の核心部分ではなかった」(下224)と論じて、脱植民地化の意味を強調し、さらに脱植民地化については、それが植民地統治の終わりということだけでなく、「領域支配と治外「権益」とを密接に結びつけつつヨーロッパが中心となって展開してきた大国秩序の解体として考えるほうがずっと意味がある」(下227)と述べる。これは著者の年来の所論であり、きわめて重要な考え方である。さらに、脱植民地化が進行するなかで、「公言されない帝国」としてアメリカとソ連が残り、1990年以降はアメリカがただ一つ世界帝国となったと著者は指摘する。そのアメリカの力は本書で取り上げられてきた15世紀以降の諸帝国が抱えた限界をこえようとしているとしつつ、将来の予言はできないとして、著者は議論を結んでいる。

 以上、評者なりにくみ取った本書の議論の流れであるが、本書自体はそれぞれの帝国についての丁寧な記述を含んでおり、内容の豊富さがこうした紹介では全く伝えられていないことはお断りしておきたい。その上で、本書を読んでの評者の感想を若干述べてみたい。

 ヨーロッパ中心的歴史像を排して近現代世界史を描くという著者の試みは、概して成功している。帝国の興亡を軸としながら15世紀以降の世界史を論じた本として評者が思い浮かべるのは、David B. Abernethy, The Dynamics of Global Dominance: European Overseas Empires, 1415-1980 (New Haven: Yale University Press, 2000)である。アバーナシーの本で起点とされている1415年は、ポルトガルが北アフリカ地中海岸のセウタを占領した年である。そのことから、またサブタイトルから分かるように、この本は、もっぱらヨーロッパが支配する帝国を対象としていた。それに対し、本書は、ユーラシアに展開した諸帝国の力、持続性、柔軟性を強調しながら、それとならぶ形で、あるいはそれに追いついていく存在としてヨーロッパの帝国を位置づけ、その相対化に成功している。また本書の主張とも通じる本として、最近邦訳された、ジェイソン・C・シャーマン(矢吹啓訳)『<弱者>の帝国 ヨーロッパ拡大の実態と新世界秩序の創造』(中央公論新社、2021年)をあげることもできるが、ヨーロッパの軍事的優位という要因を(18世紀までについては)否定しながら世界史を描こうとするシャーマンの本が、議論の枠組みの提示を急ぐあまり少々独断的にすぎる感を与えるのに対し、本書は熟達した歴史家としての著者の力量をよく示す豊かな叙述によって、新たな世界史象を提示しているのである。

 19世紀以降世界のなかでのヨーロッパの優位がみられたことについては、著者も否定せず、「大分岐」があったことを指摘している。その際、上述したように、ヨーロッパ文化とそれ以外のユーラシアの諸文化の間でも「大分岐」が生じたと論じていることが注目される。ヨーロッパ文化について著者があげているのは、懐疑論への寛容、経験と実験を尊重する姿勢、空間と時間に対する考え方の変化である。「大分岐」は、確かに世界史上の決定的な変化であり、それを経済面に限ることなく、こうした形で幅広く検討していくことは必要であろう。

 本書のなかには、評者が問題を感じる点もある。ヨーロッパが優位を占める状況が展開するなかでの帝国主義の時代を扱った部分は、評者が本書のなかで最も物足りなさを感じた箇所である。この時代の世界史を論じるなかで、アフリカ分割がもった意味をあまり強調すべきでないという指摘は、評者も自戒をこめて受け止めたいと思うものの、「アフリカ分割は(少なくとも、ヨーロッパ人にとって)平和的分割」(下39)であったという記述は、本書の主張を薄めるものにならないだろうか。ヨーロッパ列強がアフリカで作った植民地国家は軽かったとするような評価も首肯しがたく、総じてこの時代の帝国がもっていた暴力性、抑圧性が軽視されているのではないかという危惧をいだかざるをえない。

 さらに現代についての部分では、冷戦と脱植民地化の評価は上述したように説得的であるものの、1990年代以降、アメリカがただ一つ世界帝国となったという形で現状を説明していることには、疑問が残る。冷戦終結後のアメリカを帝国と呼ぶことについての疑問を評者はいろいろなところで論じてきたので、ここでは繰り返さないが、本書の原書が出版された時(それはちょうどリーマンショックの年であった)から現在までの世界の変化が、その疑問をますます強くさせているということのみは述べておきたい。またこの間に、本書が一貫して重視している中国の姿も大きく変った。もし著者が今改訂版を作るとすれば、結論部分も変るはずであり、アメリカ論も修正されるのではないかと(勝手に)思っている。

 最後に、著者がユーラシアの一角としての日本にも終始関心を寄せており、各時代における日本の説明に相当のスペースを割いていることを強調しておきたい。日本史研究者からはさまざまな注文があるだろうが、世界史のなかでの日本の位置づけとして、高等学校での新しい歴史科目「歴史総合」を教える際には、十分役立つ材料になると考えられるのである。

(「世界史の眼」No.13)

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書評 : 早尾貴紀『パレスチナ/イスラエル論』(有志舎、2020年3月)
藤田進

 早尾貴紀氏は、イスラエルの政治・文化、ユダヤ人問題等々の思想的考察を重ねてきた日本のパレスチナ・イスラエル学思想史部門を代表する研究者であり、一方現代世界をめぐる思想論争にも精力的に参加している。本書は2005年から2016年にかけて執筆した諸論文に大幅な加筆を加えて一冊にまとめたものである。

I

 2018年5月15日、半世紀以上パレスチナ占領を続けるイスラエルが建国70年を迎え、トランプ米大統領はこれを祝して在イスラエル米国大使館を首都テルアヴィヴから占領下の聖地エルサレムへ移転し、さらに19年3月25日、イスラエル占領下シリアのゴラン高原に対する「イスラエル主権」を認める公式文書に署名し、アメリカがイスラエルの軍事占領政策を公式に承認したことを世界に表明した(バイデン新大統領の登場でこの承認の行方が注目されている)。著者はこのときの心境を次のように記している。

 「いま、パレスチナ/イスラエルをめぐる問題は、直視することも放棄したくなるほどの惨状にある。パレスチナのガザ地区はイスラエルの建設したフェンスで封鎖され、物流も制御された巨大監獄と化し、パレスチナ人のデモには日常的にイスラエル軍スナイパーによる容赦ない狙撃が加えられ、東エルサレムでは理不尽な家屋破壊が遂行されている。そして、イスラエル社会内部にも国際社会にも、それを止めようとする動きは少ない。このような暴力を対岸の出来事として見るのではなく、パレスチナ/イスラエルを、日本を含む近現代世界史の文脈のなかで論じ、またそれをとおして世界と日本を問いなおすことが、いま求められている」(本書のカバー表紙の一文より)。

 やりきれなさと切迫感のなかで完成した本書は以下の構成からなる。

まえがき
第I部 国家主権とディアスポラ思想
 第一章 ディアスポラと本来性―近代的時空間の編制と国民/非国民
 第二章 バイナショナリズムの思想史的意義―国家主権の行方
 第三章 オルタナティヴな公共性に向けて―ディアスポラの力を結集する
第II部 パレスチナナ/イスラエルの表象分析
 第四章 パレスチナ/イスラエルにおける記憶の抗争―サボテンをめぐる表象
 第五章 パレスチナ/イスラエルの「壁」は何を分断しているのか―民族と国家の形を示す五つのドキュメンタリー映像
 第六章 パレスチナ/イスラエルにおける暴力とテロリズム
第III部 歴史認識
 第七章 イスラエルの占領政策におけるガザ地区の役割とサラ・ロイの仕事
 第八章 ポスト・シオニズムとポスト・オリエンタリズムの歴史的課題
 第九章 イラン・パペのシオニズム批判と歴史認識論争
あとがき

 第I部はパレスチナ/イスラエルについての「民族」や「国家」をめぐる思想史的展開を扱う思想編、第II部はドキュメンタリー映画や劇映画やモニュメント作品の表象分析を行う表象編、第III部は歴史認識論争や占領政策の歴史的展開を扱う歴史編である。

 評者の見立てによれば、本書は1990年代後半以降に輩出した著者を含む「新世代の中東研究者」の共同研究の成果と現代哲学・政治思想分野における最新の学説を支えとし、イスラエルの「新しい歴史家ニュー・ヒストリアン」イラン・パぺのイスラエル建国「正史」批判とサラ・ロイの現地調査にもとづく被占領地ガザ政治経済分析を最重要実証資料として著者自身のイスラエル体験に照らしながら、イスラエル国家のシオニズム思想とそれに基づくパレスチナ占領政策について網羅的に考察した思想書であり、イスラエルをその内側から徹底的に考察した貴重な労作である。

 著者は冒頭、「パレスチナナ/イスラエル」と/を用いている理由を、次の諸点を挙げて説明している。「一般に言われているように、パレスチナとイスラエル、アラブ人とユダヤ人は対立し衝突しているわけではない。中東にはユダヤ教徒のアラブ人(=アラビア語を話す人)も普通に存在する」。「どの地理的範囲を指して『パレスチナ』と言い、『イスラエル』と言うべきなのか、きわめて錯綜している」。「『多くが共存し混淆した文化圏』が『本来的ヨーロッパ』によって分断されたことにより両者は対立関係に立たされている」(4-10ページ)。ここに、「アラブ/ユダヤ人」という複合アイデンティティを重視する著者の姿勢があらわれており、本書はこの立場からのシオニズム考察である。考察は次の諸テーマをめぐって展開する。

⑴ ディアスポラと「本来的国民」:近代国民国家論と「ユダヤ人国家」における排除の論理とディアスポラをめぐる考察。
⑵ イスラエル建国後のバイナショナリズム:ユダヤ人人口・領土の拡大をめざすシオニスト側の議論とそれにのみこまれた「パレスチナ自治」をめぐる考察
⑶ テロリズム:アラブ側のみを「テロ」と糾弾するイスラエルの「テロ」議論の考察
⑷ 「純粋ユダヤ人」:アラブ系ユダヤ人を取り込んでユダヤ人口拡大をめざすイスラエル政策についての考察
⑸ 分離隔離壁:第二次インティファーダ以降のヨルダン川西岸占領地を取り巻く分離隔離壁構築による領土的分断および「パレスチナ人」アイデンティティ分断を企てながらパレスチナ人を「強制収容所」状態に閉じ込めて生殺与奪権を握る占領権力の「例外状況的主権行使」についての考察
⑹ 「ユダヤ人国家」内部における反シオニズム派とイスラエル建国擁護派の葛藤

 以上のようにテーマが多岐にわたるうえ様々な議論・理論を踏まえた思想的考察中心のため内容は少々難解である。筆者は⑴を中心に著者の議論を追いつつコメントを加えることにして、あとは本書に目を通す読者におまかせしたい。

II

 著者のシオニズム考察は、現代国民国家におけるディアスポラの問題を取りあげることから始まる。1990年代以降のグローバリゼーション時代において膨大な民が国境を越えて移動する現象が世界的激動因となっているのを前にして、著者は「越境的に移動する民を『ディアスポラ』と呼ぶことが人文社会科学全般に増えてきており、それにともない従来『ユダヤ人のディアスポラ』と理解されてきた用語に意味の転用が生じた」と指摘している。さらに著者は「移住者とその子孫とは『よそ者』つまり『本来的には国民でない者』として、端的に差別の対象となりがちである」という「ディアスポラ」を脅かす現実を指摘して「本来的国民」対「ディアスポラの民」の対立関係を描いたうえで、「『本来的国民』と『非本来的ディアスポラの民』を分ける『本来性』とは何か」との問いを発している。

 著者は「本来性」をめぐって、19世紀初頭の近代国民国家論者のヘーゲル(『歴史哲学講義』)や弟子のヘーゲル主義者たちの発言を検討し、次の諸点を指摘する。
 ●ヘーゲルは、宗教改革と啓蒙思想を経た後のフランス革命がヨーロッパ近代国民国家をもたらしたことを重視し「世界史においては国家を形成した民族しか問題とならない」との立場から、世界史をギリシャ世界からローマ世界、ゲルマン世界へと一直線に至るヨーロッパ近代国民国家の完成に向けた歩みとして描き、ギリシャ文化がアラブ世界を媒介して西欧世界に持ち込まれたという事実を無視した。つまり「狭い内海を共有し、現代国家間のような国境や分断のなかった(ヨーロッパを含む)中東・地中海世界」を、ヨーロッパ対中東という対立した分断の図式でとらえた。ヘーゲルは一方で、個人の理性を国家の理性と同一視して国家を絶対的空間と想定し、国民=均質な民族と規定している。国家における「均質な民族」対「その他」の関係が示唆されている。
 ●19世紀半ばにおけるヘーゲル主義思想家たちは「キリスト教ヨーロッパ世界の純粋性と自律性」を強調し、「世界のすべての民族共同体は排他的な領土を所有し国民国家を目指して発展していく。国民国家の実現を見ていない地域は未開地・後進地域として支配対象となる」と説いた。こうした発言はヨーロッパ世界内のユダヤ的要素とイスラーム的要素を否認することに影響した。当時のヨーロッパでは反ユダヤ主義が高まり、科学を装った人種主義学説が横行するなかで「縮れ毛」や「鷲鼻」を身体的特徴とするステレオタイプの「ユダヤ人種」概念が捏造された。そうした状況下において、プロイセンは「ドイツ=キリスト教国家」の立場からキリスト教徒を「本来的国民」とする一方、「ユダヤ教徒のドイツ人」は均質な民族ではないとしてユダヤ教徒国民を「本来的国民」から除外し、プロイセンは人種差別的国民国家として成立した。

 著者は以上から、現代の国民国家において「本来的国民」と「非本来的な他者」を分断する「本来性」が、19世紀近代国民国家成立期における宗教的差別を通じて生み出されたことを確認する。

 では、「ユダヤ人国家」や「ディアスポラ・ユダヤ人」はどのように成立したのか。著者はそれに関して以下を指摘する。
 ●1842年ドイツのユダヤ人解放令廃止と51年のナポレオン3世のクーデタによるヨーロッパの決定的反動化によって、国民国家における市民革命を通じてユダヤ人を解放する夢が消えたとき、ヘーゲル左派思想家のユダヤ人モーゼス・ヘスは民族主義者に転向した。当時捏造された「ユダヤ人種」がユダヤ教徒を苦しめている状況をしりめに、ヘスはこの人種概念を敢えて自らのアイデンティティとして受け入れるとともに、「ユダヤ教徒は信仰においてユダヤ教徒なのではなく、『人種としてのユダヤ人』である」との強引な解釈を打ち出した。
 ヘスは「世界中に離散しているユダヤ人種は、他のどの人種にもまして、いかなる緯度の場所の気候風土にも順応できる能力を有している」、「ユダヤ人種は自らの歴史的使命を自覚して、自らの民族としての諸権利を主張することが許される諸民族のひとつである」(『ローマとエルサレム』)と唱えて、血のつながりに基づく「ユダヤ人国家」建設(シオニズム)構想を表明した。ヘスの「ユダヤ人国家」構想は西欧列強の援助を前提としており、「ユダヤ人国家」建設は「ヨーロッパ文明世界対野蛮で未開な他者」というヘーゲルの描いた図式に則ってヨーロッパの外部に「ヨーロッパの飛び地」をつくるという西欧列強の取り組みの一環に他ならなかった。
 ●ヘスから「ディアスポラ・ユダヤ人の民族郷土への帰還」を呼びかけた19世紀末のヘルツルを経てイスラエル建国に至るまでの「ユダヤ人国家」建設運動に共通しているのは、「ヨーロッパから排除されつつもその支援を受けたシオニストがヨーロッパ文明世界の先鋒を自認し、来るべきユダヤ人国家を『アジアの野蛮への防壁』(ヘルツル『ユダヤ人国家』)とみなしてその実現を図るために、『多くが共存し混淆した文化圏』のパレスチナにおいてアラブ人を『野蛮で未開な他者』と位置づけて征服・殲滅・追放する」という内容である。シオニストがヨーロッパ帝国主義の手先となってパレスチナでの暴力的任務を果たすのと引き換えに「ユダヤ人国家」領土を獲得する取り組みの凄まじさについて、イスラエル歴史家のイラン・パペは「ヨーロッパ世界出身のシオニストらが行ったのは、できるだけ広い土地からできるだけ多くのアラブ人を殺害や追放することであり、この意図的な政策および軍事行為の総体は『民族浄化エスニック・クレンジング』である」と述べている。
 ●19世紀末のシオニズム運動の展開過程で、「ディアスポラのユダヤ人」という用語がつくりだされた。「ディアスポラ」は元来「ギリシャ人の入植活動」あるいは「戦争による離散」を意味する古代ギリシャ語であったが、東欧におけるポグロム(ユダヤ人襲撃)の嵐にユダヤ人たちがさらされているのを前にして、シオニストは「ディアスポラ」は「ディアスポラのユダヤ人(=離散状態のユダヤ人)」の意味に転用した。「ユダヤ人のディアスポラ」は「古代ユダヤ王国喪失以来土地なき民となったユダヤ人の離散状態を終わらせるためにユダヤ人国家が必要である」との論理を正当化するのに活かされ、またヨーロッパ諸国で「非本来的他者」として差別されているユダヤ人にパレスチナ移住を呼びかけるシオニズム・キャンペーンに利用された。
 1948年「ユダヤ人国家」イスラエルの誕生で、「ディアスポラのユダヤ人」とされてきた人々は「本来的なユダヤ国民」として解放されたものの、今度は占領されたパレスチナのアラブ住民が「非ユダヤ人」とされて「ディアスポラの民(=故郷を追放された移動民)」とされた。「人種」を根拠とする「ユダヤ人国家」は「他者」に対してきわめて排他的・暴力的であり、イスラエル支配の拡大とともに増えていくパレスチナ占領地住民、イスラエル国内のアラブ少数民、中東出身ユダヤ人等々多様な「ディアスポラ」に対する差別的・暴力的抑圧の凄まじさは、イスラエルル建国前後史を「民族浄化」と位置づけるイラン・パペと、占領下ガザについて「長期封鎖と度重なる軍事攻撃で経済成長も通常の社会の存続ももはや不可能で、人間としての生存が危機に瀕している」と分析するサラン・ロイの証言に明らかである。

 ヨーロッパ起源の近代国民国家が「文明的ヨーロッパ」という独善思想と「本来性」という分断論理と「ユダヤ人」という被差別対象を組み込んだ人種差別的統治制度として成立し、最悪の国民国家たる「ユダヤ人国家」をもたらしたとする著者の考察を、評者は以上のように理解した。評者はそこに多くを学んだ。

III

 本書はイスラエルおよび欧米日本側の資料・分析に依拠している。1992年12月、イスラエルがハマースのメンバーやその関係者と疑う多数のパレスチナ人をレバノン南部山岳地帯のイスラエル占領地域とレバノン軍支配域との狭間の雪に覆われた無人地帯に追放したときこの事件を、追放者たちを法も人権も及ばない場所で生存の危機に晒す「例外状態の統治」という最悪の弾圧政策の事例として取りあげている。しかし、アラブ・パレスチナ現代史を専門とする筆者にはこの位置づけは物足りない。エルサレム発行のアラブ紙「アル・クドゥス」はこの事件についてアラブ住民連帯の形成という別の側面を伝えている。

 「イスラエル政府がパレスチナ人追放者たちを追放者居留地のテントに1週間分の食料・燃料だけを与えて送り込み、国内から支援物資が届かぬよう道路を閉鎖し、レバノン側の道路も閉鎖されて国際支援団体の救援物資が届かず、追放者たちは生命の危険にさらされた。しかしそのとき、谷底の追放者テントを見下ろす山岳地帯のアラブ村から夜間密かに食料が運ばれた。村はムスリムとキリスト教徒住民からなり、村はイスラエルのレバノン占領と対決するシーア派ヒズボッラーの拠点でもあり、ヒズボッラー隊員は「我々はパレスチナ人追放者たちが飢えと寒さで死んでいくのを見過ごすことはできない。村は総出で精一杯支援活動をしている」と語った。一方追放者居留地では「テント村委員会」が設置され、テントのいくつかに診療所が開設されて追放された医師たちが仲間を診察するとともに近隣村の住民たちを無料診察した。追放者居留地に一種のコミューンが形成され、追放者たちは全員一緒に故郷に戻るまでこの地を離れないと確認しあい、追放5ヶ月後にはイスラエル軍占領地の境界線までの抗議デモを繰り返すようになった。追放者たちは世界の注目を集めてほぼ一年後に家族のもとへ帰還し、イスラエルの企ては失敗した。」(「アル・クドゥス」1993年1月7日以降の報道から)。

 当時は被占領下パレスチナにおけるイスラエル占領反対抵抗闘争の第一次インティファーダが5年目を迎えていた。反占領住民総決起闘争への参加、追放先でのアラブ住民との交流・協力体制の構築を経て一年後の帰還、それに注目する国際世論の変化等々の一連の流れにおいて追放者たちをとらえれば、そこに「ディアスポラのパレスチナ人」の主体性=抵抗局面が見て取れる。

 本文中に、「・・毎回確実に一定数が射殺されているのを承知でフェンス際に人々が結集するのは、・・・「自爆テロ」ならぬ「自殺デモ」だ」と論じている箇所があるが、そうは断言できないと思う。

 著者は国民国家と「ディスポラ」に関連して次のように述べている。「『本来性』とはたかだか二世紀のあいだのイデオロギー的産物にすぎない。本来性から逸脱したディアスポラたちの存在は絶えずその事実を想起させる」。「国民国家から『本来性』を抜き去ることができるとすれば(だがどうやって?)、そのとき『国民』は『市民』にとって代わられ、住民はすべからく市民権を有することのできる『市民国家』が生まれるのかもしれない。」

 評者は、「アラブ/ユダヤ人」という複合アイデンティティを重視する著者が「ディアスポラのアラブ」により深い考察を加えることを期待したい。

(「世界史の眼」No.13)

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南塚信吾責任編集『MINERVA世界史叢書③ 国際関係史から世界史へ』ミネルヴァ書房、2020年
鹿住大助

 本書は、総論を含めて全16巻からなる「MINERVA世界史叢書」シリーズの第3巻である。シリーズ全体が巻号の順に発行されているわけではないが、本シリーズの「第Ⅰ期 世界史を組み立てる」では、『地域史と世界史(第1巻)』で世界史の空間認識・空間概念を論じ、『グローバル化の世界史(第2巻)』で時間軸上での世界の一体化の進行を論じている。本書が、19世紀半ばから検討を始めるのは、第1・2巻の内容をふまえて、一体化が完成し、地球規模で地域の概念が揺さぶられる帝国主義の時代以降の世界史を動的に描くことが念頭にあったからだと考えられる。

 19世紀半ば以降の時代とは、世界の一体化が完成に向かう時代であると同時に、この頃以降に出来上がった国民国家によってナショナル・ヒストリーが盛んに産出される時代でもある。本書が「序章」で記すとおり、この時代以降、世界史はナショナル・ヒストリーの並列、ないし寄せ集めのように考えられるようになった。本書はこの点に対して批判的であり、「関係」の視座から世界史の全体像を描き出そうとしている点に特徴がある。その「関係」も国民国家を主体とした二国間関係や複数国家間の国際関係ではない。また、描き出される全体像も、どこかの国民国家を「中心」とした静的構造からなる世界の「システム」ではない。世界史の時々の「傾向」が諸地域に「土着化」することで全体の歴史がつながりあって「連動」する、動的な世界史像の提示を目指しているのである。(※「土着化」や「連動」の概念については、南塚信吾『「連動」する世界史:19世紀世界の中の日本』岩波書店、2018年、をさらに参照されたい。)

 これは非常に困難な挑戦である。ある歴史における主体Aと主体Bとは○○関係(敵対、互恵、紛争など)にあり、それは○○という背景(社会・経済の制度や構造、思想など)があったからである、と言えば読者はイメージしやすい。ところが、本書が目指すのは、常に全体が振動したり圧力が転移したりしながら、ある面で収縮したかと思えばある面では膨張する「ゴム風船」のような全体(世界)を、風船の表面に現れる現象から描き出すことである。主体や関係、背景は、揺れ動く風船上に位置する点や線、面に過ぎない。言葉による歴史叙述で、このようなイメージを読者に与えることは容易ではない。また、読者の側も「覚悟して」読む必要があるだろう。本書の著者は、例えば近現代の日本がどのように順調に、あるいは挫折したりしながら時間軸上で線的に発展してきたのかを描こうなどとは考えていないのだから。一国の変動は風船上のある点で起こった膨張や収縮であり、風船全体の運動の一部なのである。

 なお、評者の専門は17・18世紀のフランス史であり、最近では、歴史教育や自らが大学で担当する「大学で学ぶ世界史」の授業研究をおこなうばかりで、19世紀後半以降の近現代史は門外漢である。評者には、本書が描き出す近現代世界の全体像を他書と比較したり、記述の正誤を含めた具体の点検をおこなったりして、本書を批判的に論評する能力はない。以下では、本書各章の概要を紹介し、評者なりに本書が提起する世界史像を評価することにしたい。

* * *

 本書が対象とする時代は、19世紀半ばから1980年代までである。本書は「第Ⅰ部 帝国主義の時代」「第Ⅱ部 二つの体制の時代」「第Ⅲ部 脱植民地化の時代」の三部からなる。また、各部は10の章と7つのコラムからなる。本書は、約1世紀半の時代を通史的に隙間なく埋めて繋ぐのではなく、章ごとに特定の期間や地域に焦点を当てたりしながら、複数の国や地域に絡んで展開した世界史の全体像を描こうとしている。以下、各章の概要を紹介する。

 「第1章 アヘン戦争・明治維新期の世界史:一八四〇〜九五年」では、特に清朝と朝鮮、日本を取り上げながら、19世紀半ば以降の西洋諸国によるグローバル化によって東アジアの伝統的世界が変容し、緊密な関係を持つリージョンとなったことを指摘する。海外との接触、列強との交渉過程などが折り重なり、個々の国家を超え、西洋人に対する連帯を意味する地政学的な地域概念として「アジア」が登場した。また、東アジア世界は「条約締結、領土確定、戦争、そして植民地化が始まり、強い摩擦を伴う緊密な関係に転化した」のである。

 「第2章 二つのベルリン会議の時代」では、1878年、1884-85年の二つのベルリン会議に前後する時代、ユーラシア大陸とアフリカ大陸にまたがって緊張関係が転移していく様相を論じる。ある時期のヨーロッパの相対的平和がアジアやアフリカに緊張関係をもたらしたり、その反対の事態が起こったりしたことを、英独仏露の列強による地球規模での権力政治の展開とからめて描き出している。1880年代以降を列強による「アフリカ分割」の過程としてとらえるのではなく、現地民衆による「アフリカ大反乱」の時代として位置づけるべきとした上で、列強の関心がアフリカに向かった結果として「東アジアの束の間の平穏」がもたらされ、日本が立憲君主国の体制を整えたのだとする見解は興味深い。世界の帝国主義支配体制の下でのある地域での民衆運動が、別の地域における変革(近代国家化・後発帝国主義国化)を間接的に促進したのである。

 「第3章 『一九〇〇年』の国際関係と民衆」は、「パン・アフリカ会議」の決議文で起草者のデュボイスが「20世紀の問題はカラーラインの問題」と主張した1900年、その前後の世界を論じる。本章では「カラーライン」は人種集団の境界線を意味するのみならず、民族やエスニック集団、階級、ジェンダーなど、様々な分断を含む概念として理解し、それが「一九〇〇年」の世界で国家や地域を超えて発生・移転する様相を、植民地暴力や移民と管理などの観点から明らかにしている。「一九〇〇年」の世界で発生した戦争や隔離・殲滅を含む戦時暴力が帝国主義国・植民地に連鎖することによって、人種・エスニック集団のカラーラインが世界に作り出された。同時に、「一九〇〇年」の世界では、市民権をめぐる政治の領域と、都市問題・公衆衛生問題のような社会的領域との双方で進んだカラーラインの構築が、「平時」の移民政策を通じても現れてくる。「カラー」のみならず、階級とジェンダーの対立軸も含め、一体化した世界においてカラーラインの思想と実践が学習され、移転していったのである。

 「第4章 『第一次世界大戦』期の世界史」では、世界大戦を中心に1910年代の世界を論じているが、その視点は主にはアジアにおかれる。冒頭、「アジアの歴史を論ずるときにも『第一次世界大戦』を『画期』とすることが多いが、それは画期として適当なのであろうか」と疑問を投げかける。本章によれば、「日本による一九一〇年の韓国併合はアジアにおける新しい時代を画した」のであり、これ以降「アジアの人々は日本帝国の進出と戦うという時代に入った」ことが、アジアにおける世界史上の画期であった。第一次世界大戦はヨーロッパでの戦争として始まったが、1914年に日本が参戦して中国のドイツ租借地を攻撃したのは、それ以前からの大陸進出の延長線上にある。また、ロシア革命とウィルソンの講和綱領によって世界で「民族自決」への期待が高まり、東欧や中東、アフリカ、インドで民衆運動が「連動」する。しかし、非抑圧民族にとってはその期待を裏切る結果となった。東アジアでも「連動」が起こり、戦後の1919年に三・一独立運動や五・四運動、シベリアでのゲリラ抵抗が連続したが、これも1910年以降の日本の帝国主義的進出とアジアの民衆運動という対抗関係の上で起こったものであった。

 「第5章 『一九三〇年』の国際関係と民衆」は、広野八郎の『外国航路石炭夫日記──世界恐慌下を最底辺で生きる』で描かれた1920年代末から30年にかけての出来事から始まる。広野が見たり、自ら経験したのは、世界恐慌下で苦境に立たされた労働者・民衆の生活であり、アジア・ヨーロッパ航路上で経験した帝国と植民地の関係であった。危うさを感じさせる世界が広野の前に広がっていたのである。1930年前後の世界はまさにそのような状態にあった。1920年代の「国際協調」路線は、1930年のロンドン海軍軍縮会議に結実したが、日本では海軍と右翼による既成政治打倒の動きが現れた。また、同年、ドイツ戦後賠償問題について第二回ハーグ国際会議で「ヤング案」が採択されたが、かねてから不満が大きかったドイツはナチスの拡大と再軍備に向かっていった。大不況下のアジアでは、列強による「開発」「工業化」の一方で、農民の貧困や不満が蓄積され、大小の反乱に繋がっていく。さらに、アメリカのニューディール、ドイツのナチズム、ソ連の一国社会主義、東欧の第三の道という不況への対応策が、それぞれの農民に与えた影響を論じている。

 「第6章 『一九四五年』の世界─東欧・中東・沖縄・シベリアの視点から─」では、第二次世界大戦の「終戦」に向かう1941年(大西洋憲章)から始まり、「冷戦」がユーラシア大陸全体で深まる1949年までを「1945年」の世界として扱っている。1945年のヤルタ会談ではヨーロッパの戦後処理についての合意がなされるとともに、米ソの間でソ連の対日参戦の密約が結ばれ、同時に極東の戦後処理についても基本的な合意があった。本章ではヤルタ会談直後にルーズヴェルトが中東を訪問したことに注目している。アメリカは戦後の石油資源の重要性に注目し、特にサウジアラビアとは緊密な関係を構築しようとしていた。こうして戦後の枠組みが連合国によって作り出されていった。以下、詳細な紹介は割愛するが、本章でも世界史の「連動」の観点から叙述を組み立てている。アジア諸国が日本支配から「解放」されると、中国・朝鮮をめぐって米ソの緊張が高まる。しかし、1946年にアジアの緊張関係が膠着すると、次に東欧とドイツに向かう。東欧・ドイツで「鉄のカーテン」が構築されると次には中東・バルカンに対立が向かう。このように「1945年」の世界では、米ソの対立関係の高まりがユーラシアの西から東にまたがる「連動」の中で進んだ。また、この「連動」は、中東の石油や東欧のウラン資源をめぐる利害と絡み合って起こっていることが本章を通じて指摘されている。

 「第7章 世界史における『一九五六年』─ベトナムとハンガリー─」では、1950年代半ばの冷戦の「雪解け」の延長線上で、1956年のベトナムとハンガリーで起こった出来事を論じる。ベトナムは54年のジュネーヴ協定によって一時的に南北に分断され、2年以内に統一のための総選挙実施が約束されていた。しかし、南ベトナムにはジュネーブ協定不参加のアメリカが支援するジエム政権が成立し、総選挙実施は見通せない状態になっていた。こうした中でベトナム労働党の政治局員であったレ・ズアンが1956年に「南ベトナム革命提綱」をまとめた。文書は、中ソ、および労働党中央の方針に従った「平和路線」を強調する一方で、ジエム政権打倒を目指す革命運動を南ベトナム人民が起こすというものであった。一見すると相矛盾する方向性が打ち出されたこの文書は、「精神」としてはその後の労働党の路線転換に直結し、「内容」としては当時の平和路線の拘束の強さを物語るものであったと評価している。一方、ハンガリーでは、56年のスターリン批判を受け、ハンガリー革命が起こる。改革派のナジ政府は、10月31日のソ連軍事介入決定を受けて、翌日にワルシャワ条約機構脱退とハンガリーの中立を宣言した。ナジのハンガリー中立は突発的なアイデアではなく、オーストリア中立化やソ連・ユーゴスラヴィア関係改善、平和五原則、などの流れをふまえて現れたものであった。本章では「ベトナムのレ・ズアンの試みと、ハンガリーのナジの試みは、[中略]「縄張り」の壁を高くした平和という当時の平和への挑戦的な試みとして通底するものをもっていた」と評価する。そして「1956年」は、「多くの可能性と選択肢があった時代」として世界史における意味を検討する必要があると指摘している。

 「第8章 『変化の風』のもとで─『一九六〇年』の国際関係と民衆─」は、英首相マクミランが1960年に南アフリカでおこなった「変化の風」演説が章の表題になっている。ただし、本章は「変化の風」演説が直接に示唆したアフリカ諸国・植民地の独立という変化だけを論じてはいない。コンゴやアルジェリアといったアフリカ諸国の独立は冷戦にからめとられ、60年代にはベトナムでも戦争が本格化していく。東西両陣営のイデオロギー的競合も鮮明になり、「明るい未来をもつ社会主義」イメージに対抗して、ロストウの「近代化」論が著された。さらに、60年代には核兵器が世界に拡散するのに対抗して、反核運動の連帯も広がっていく。こうした「1960年」の世界の変化と相まって、日本は日米安全保障条約の改訂をアメリカに認めさせ、後にアメリカから導入された「近代化」論の適用による経済成長路線を突き進むことになる。また、沖縄をめぐっては、核兵器搭載艦の帰港や通過を「密約」によって容認していた日本本土に対し、沖縄には日本の外交問題となることなく持ち込まれていた。安保改定も防衛地域を日本本土に限ることとし、その反対運動の連帯からも沖縄は排除されていた。日本は沖縄を「他者」として扱い、沖縄の側では植民地解放問題として沖縄問題を位置づけるという視角が生まれてくる。このように、日本の安保、沖縄問題は「1960年の世界」の中に位置づけられるのである。

 「第9章 世界史の中の『一九六八年』」では、世界的に社会運動が高揚した「1968年」の国際性と多様性を論じ、その世界史的意義を評価している。ベトナム反戦運動の国際連帯、テレビによる同時の情報共有によって世界で社会運動が高揚する一方、その目標や形態は先進国や東欧、第三世界の国ごとに文化・歴史に規定された多様性があった。その上で、「1968年」の世界史的意義を検討している。ベトナムの独立と統一の方向性を決定づけ、「植民地体制」を最終的に崩壊させただけでなく、先進国自身の「帝国性」への反省を促し、多文化主義が台頭することにつながった。「1968年」は「脱近代化」の進展において重要な意味をもつのである。また、「1968年」の運動を担った学生や知識層を「新しい変革主体」と位置づけるニューレフトが登場したこと、民衆の直接行動という直接民主主義的な方法が議会などの間接民主主義を補完するという民主主義の高度化を促したこと、「一九六八年」は政治的には「挫折した革命」であった一方で、「文化革命」として後世に影響を残したことを世界史的意義として評価している。

 「第10章 『長い一九八〇年代』の世界─社会主義の衰退とネオ・リベラル─」では、1979年の中越戦争とイラン革命を起点に、1990年代初めのソ連邦崩壊や湾岸戦争までを「長い1980年代」として扱い、その期間における出来事の「連動」関係を論じている。ベトナム戦争を前史として起こった中越戦争は、アジアナショナリズムと社会主義国に対する「信仰」を打ち砕くものであった。その影響は日本における「政界の右傾化」をもたらし、アジア重視の「全方位外交」の放棄と日米同盟路線への転換をもたらした。アメリカもアジアから後退し、アジア情勢は安定化しつつあった。しかし、次にはベトナムからイラン、中東へと焦点が移る。イラン革命は、イラン・イラク戦争とアメリカの介入をもたらしただけでなく、イスラエルと中東諸国の妥協と衝突、第二次スーダン内戦、ソ連のアフガン侵攻と「新冷戦」を生み出し、アフガン撤退後の「国際テロ」を準備することになった。社会主義拡大・イラン革命への警戒を契機として登場したネオ・リベラルは、イギリスやアメリカ、日本などで採用されただけでなく、構造調整プログラムとしてラテンアメリカやアフリカでも拡大し、これら地域におけるソ連の影響力低下をもたらした。残るユーラシアの社会主義も、アフガン侵攻後の「新冷戦」で追い込まれたソ連が「ペレストロイカ」を掲げ、経済危機から東欧諸国の「自立」「主権」を承認した結果、東欧社会主義は崩壊し、市場化・民主化の波がアジア諸国にも及んだ。最終的にソ連自体が崩壊に向かい、中東では「湾岸戦争」が起こる。社会主義イラクは消滅し、同年にソ連も崩壊したことをもって「長い1980年代」は終わる。

 以上、本書の10の章を概観してきた。なお、本書には「別の地域から見た全体像を提示(※序章)」するため、他に7つのコラムが収められているが、この紹介は割愛する。

* * *

 はじめに記したように、本書は「関係」の観点から、動的な世界史像を提示するものである。各章著者の叙述方法は異なるが、「1945年」や「二つのベルリン会議」など、その時代を象徴する年号や出来事を用いて諸地域が「関係」し合う中で形成される世界史の「傾向」を示し、その「傾向」を「土着化」した各国・各地域が「連動」することで新たな「関係」や「傾向」が生じる様相を描いていると言えよう。第2・4・6・10章の著者は、本書の編者である南塚信吾氏であり、序章で提示された世界史モデルをよく理解できる部分であるが、他の章もこのモデルをふまえて執筆されている。例えば、第3章では、帝国主義の戦争や隔離・殲滅を含む戦時暴力の「傾向」が、「カラーライン」による分断として各地に「土着化」し、政治・社会領域における人種・民族・ジェンダーなどの対立軸が世界中で現れてくるのである。第7章では、ベトナムとハンガリーという世界地図上では遠い地域が、「平和路線」という世界の「傾向」を、各地域の情勢に応じて「土着化」した結果、「壁を高くした平和」への挑戦としてレ・ズアンとナジの試みが生じたことが分かる。

 このようにして本書は動的な世界史像を読者に与える。その世界史像は、歴史の単線的な発展イメージでもなければ、球体の地球儀の表面上である点からある点へ向かうベクトルのような国際関係イメージでもない。世界それ自体がブヨブヨと波打ちながら活動する、歴史の時空間そのものである。このような世界史は「異様」だろうか。

 最後に、本書が提示する世界史像に刺激を受けて、考えるべき課題を二つ指摘したい。これは本書の「問題」や「欠点」ではなく、評者を含め、読者や歴史の研究者・学習者が、本書を読んだ後に自ら考えるべきことであろう。

 第一に、システム論的世界史との関係である。本書の序章では、「ナショナル・ヒストリーの寄せ集めではない世界史の方法として『世界システム論』が提起されているが、これは何らかの『中心』を設定し、それに対する『周辺』を設けるものであり、しかも全体の構成が『静態的』である」と指摘する。ウォーラーステインの「世界システム論」からイメージするのは、国際的な分業体制からなる世界である。中でも16世紀以降の資本主義的な近代世界システムであり、単純化すれば「周辺」部の原料生産・供給地から、「中心」部の先進工業地域に富が搾取され集積される階層関係のシステムである。これが唯一の世界システムとなって存在しているのが現在であり、「中心」「周辺」関係上で作用し合ったり、時代によって「中心」や「周辺」や「ヘゲモニー」が移動することはある。しかし、資本主義という構造を維持し続けようとする点ではオートポイエーシス的システムであり、構造に目を向ければ静態的に見える。また、資本主義近代から誕生した社会主義も、結果としては資本主義世界システムに包摂されていたと理解されている。

 一方で、本書が扱う約1世紀半の時代は、この社会主義が思想として誕生し、国家を形成し、さらに世界に「陣営」を形成する時代である。同時期、資本主義の構造は帝国主義のイデオロギーや暴力となって表出し、さらにはネオ・リベラルへと展開する。資本主義と社会主義の「関係」が世界に作り出した「傾向」によって、各地域の「連動」が起こる様相が本書の中に描かれている。緊張関係が次から次へと転移しながら、ある地域で均衡を生み出し、またある地域に移っていく。世界は無秩序も、唯一の世界帝国の状態も嫌い、均衡を生み出そうとしているようにも見える。このような運動は、システムに内在する自己再生・修復的な仕組みと考えるべきだろうか。あるいは、異なるシステムを生み出そうとする動きであったと理解すべきだろうか。あるいは、そもそも世界は「システム」論的に論じることができないと考えるべきだろうか。

 第二に、このような「ゴム風船」の世界史を論じることができるのは19世紀半ば以降のことなのであろうか。本書の扱う時代は、交通・通信のネットワークと技術の発達により、ヒト・モノ・情報のやり取りが活性化し、帝国主義による世界の一体化が完成する時代である。ある地域で起こった出来事は、やり取りの過程で薄められたり、変質したりすることなく、地球上の別の地域に短期間で転移する。その上で、各地域の状況に応じて「土着化」が図られる過程が存在する。

 それ以前の時代はどうだろうか。例えば、1492年のグラナダ陥落によるイベリア半島の緊張緩和は、次に地球上のどこの緊張を生み出しただろうか。コロンブスが到達した西インド諸島であれば「関係」を描きやすいだろう。一方で、東アジアにはどうか。その緊張緩和の直接的な余波は、かなり「遅れて」伝わったのであり、最初は「弱い波」であったかもしれない。

 21世紀の世界ではどうだろうか。グローバル化はかなりの強度をもって各地域の文化を「標準化」している。第9章が指摘するように、「1968年」から生み出された、社会における多様性の尊重、多文化主義という考え方も、多国籍企業によって採用されたり、過疎高齢化に悩む先進国の地方への人口還流政策やインバウンド観光振興の標語にも見られたりと、グローバルな価値として作用しているのが現状である。こうした状況にあって、21世紀の世界で「傾向」は、どの程度、各地域独自の「土着化」を引き起こすのだろうか。グローバルな「標準化」と、各地域への「土着化」の強度がある程度均衡していたのが19世紀から20世紀という時代の特徴であったのではないだろうか。

 以上のように、本書を読むと世界史への想像がかき立てられる。思い起こせば、学生時代から不勉強であった評者は、南塚氏のゼミで初めて江口朴郎の名前を知り、「ゴム風船」の話しを聞いた。最初、この世界史がよく分からず、「異様」だと感じた。システム論のように概念図でイメージしやすい歴史、『地中海』のように「大きな構想」を感じる歴史に惹かれがちであった。今でもよく理解できてはいないが、今では本書の世界史叙述に魅力を感じる。

(「世界史の眼」No.12)

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シリーズ「日本の中の世界史」後日談―『中島敦の朝鮮と南洋』―(下)
小谷汪之

はじめに

1 玉置半右衛門と玉置商会

2 渋沢栄一の「製藍会社」

3 田口卯吉の南島商会

(以上、前号)

4 南洋貿易株式会社(南貿)

5 第一次世界大戦とヤップ島

6 関根仙太郎の生年月日と生地

おわりに

(以上、本号)

4 南洋貿易株式会社(南貿)

 1890年12月、田口卯吉一行を乗せた天祐丸は「南島巡航」を終えて、品川港に帰着した。田口はその後も天祐丸で南洋交易に出ることを考えていたのであるが、士族授産金を利用した南島商会の商業活動には批判が強く、結局1891年、南島商会の全資産は東京府士族総代会に移され、南島商会は解散した。その後、東京府士族総代会は南島商会の資産を小美田利義に売却した。小美田はそれをもとに一屋いちや商会を設立して、南洋交易に乗り出した。1891年12月、一屋商会は天祐丸を再び南洋に派遣し、ポナペでは、関根仙太郎らを一屋商会の社員として採用した。

 ところが、1893年、一屋商会は清算され、その事業は1894年に設立された南洋貿易日置ひき合資会社に引き継がれた。しかし、関根はこの会社の社員にはならず、ポナペの現地人実業家、ヘンリー・ナンペイ(1862‐1927年)のもとで働くことにした。ナンペイはポナペ島キチ地区の大首長(称号はナニケン)の息子で、母方の祖父はイギリス人であった。ナンペイの父は、アメリカン・ボードがスタージェス牧師などの宣教団をポナペに派遣し、キリスト教新教の布教を始めようとしたとき、それに協力し、ナンペイ自身も若くしてアメリカに渡り、帰島後は新教の指導者として強い影響力を持つようになった。そのうえ、父から受け継いだ広大な土地を椰子林とし、コプラ(椰子の実の果肉)の生産で財を築いた。しかし、1898年、キューバ問題をめぐってスペインとアメリカの間に戦争(米西戦争)が起こると、ナンペイ一家はポナペ島の主市コロニアで幽閉された。関根仙太郎も行動を制約されたが、南洋貿易日置合資会社の長明丸に便乗して帰国し、東京のアメリカ公使館にナンペイ一家の救出を要請するなどした。米西戦争がスペインの敗北で終わると、ナンペイ一家は釈放されたが、関根はすぐにはポナペに戻らなかった。

 米西戦争に敗れて、キューバだけではなくフィリピンやグアム島も失ったスペインは南洋諸島(グアムを除くマリアナ諸島、ヤップ島、パラオ諸島、トラック諸島、ポナペ島、マーシャル諸島)の領有をあきらめて、南洋諸島をドイツに売却した。ドイツは、日本の商会や商人の活動に疑惑の目を向け、殆どの日本人を南洋諸島から追放してしまった。関根は1901年に横浜の村山捨吉によって設立された南洋貿易村山合名会社の社員になったのであるが、南洋諸島における陸上での商業活動を許されず、横浜と南洋の間を年に2回往復し、船上で取引をするという状態であった。しかし、1906年には、南洋貿易村山合名会社にポナペ島での営業が許可され、ポナペに支店が開設されて、関根が支店長になった。

 1908年、南洋貿易日置株式会社(合資会社を改組)と南洋貿易村山合名会社が合併して、その後日本の南洋貿易の担い手となる南洋貿易株式会社(南貿)が設立されると、関根は南貿ポナペ支店長となった。

 1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発、8月23日、日本は日英同盟を根拠としてドイツに宣戦布告した。日本海軍は南洋諸島に艦隊を派遣して、ドイツ領南洋諸島の占領を策した。そのうち、第一南遣枝隊(松岡静雄司令官)はマーシャル諸島ヤルート島を占領した後、ポナペ島に向かい、10月7日、第一南遣枝隊連合陸戦隊がポナペ島を占領した。その時、関根は通訳として、日本軍と現地民首長たちとの橋渡しをしただけではなく、その後の日本軍によるポナペ島統治にもかかわった。第一次世界大戦後の1925年1月、関根は南貿ヤップ支店長に転任となった。

5 第一次世界大戦とヤップ島

 本書(第一刷)刊行時には見落としていたことであるが、関根は、1925年7月、南貿ヤップ支店長として、「損害申請書(財産ノ損害)」2通を時の外務大臣、幣原喜重郎に宛てて提出している(国立公文書館アジア歴史資料センター、外務省文書、「一二八四 関根仙太郎」)。それには次のような事情があった。

 前に書いたように、第一次世界大戦が勃発すると、日本はドイツに宣戦布告した。当時、ヤップ島、パラオ諸島、ポナペ島、マーシャル諸島など南洋諸島の島々はドイツ領であったから、これらの島々にいた日本人はドイツによる迫害を受けざるを得なかった。特にヤップ島はドイツ領南洋諸島・西カロリン政庁の所在地だっただけではなく、ドイツが西太平洋に敷設した海底電信網の中心地として、極めて重要な島であった。ドイツは、1904年、オランダとの合弁のドイツ法人ドイツ・オランダ電信会社を設立、翌1905年には、ドイツ・オランダ太平洋通信網を完成させた。ヤップ島を中心として、東はグアム島(ここは1903年に開通したサンフランシスコからハワイ・ホノルルを経てフィリッピンのマニラに至るアメリカの海底電信線の中継地であった)、南はオランダ領インドネシア・セレベス(スラウェシュ)島のマナド(あるいはメナド)、西は沖縄周辺を通って中国の上海へとつながる海底電信網である。アメリカもグアムとマニラを結ぶ海底電信線に不具合が生じた場合には、グアムからヤップ島を経て上海に至るドイツの海底電信線を利用していた。1906年には、アメリカの海底電信線がマニラから上海まで延伸され、さらに、小笠原を中継地としてグアムと日本(川崎)を結ぶ海底電信線が日米共同事業(小笠原―川崎間が日本の工事分担)として完成した(以上、花岡薫『海底電線と太平洋の百年』日東出版社、1968年、79-80頁、73-76頁)。

 第一次世界大戦勃発時、ヤップ島にいた日本人は、南貿ヤップ支店長、柴田定次郎と社員6名およびドイツ・西カロリン政庁に雇われていた大工一家4人の計11人だけだったが、彼らは島外との連絡を禁止され、全員「嘗テ西班牙スペイン人ノ居宅タリシ陋屋ろうおくニ移サレ」た。その後、大工一家は妻の出産を理由として「自由ノ身」になったが、南貿社員7名は「厳重ナル監視ノ下」に置かれ続けた。パラオ諸島でも、同じように、南貿社員などがドイツ官憲によってマラカル島の外に出ることを禁じられた。しかし、「在留日本人ノ言ニ依レバ本島〔パラオ〕ニ於ケル独逸官憲ノ日本人ニ対スル態度ハ『ヤップ島』ノ如ク苛酷ナラザリシ」(国立公文書館アジア歴史資料センター、外務省文書、「一二八七 宮下重一郎」)ということである。ヤップ島の警戒は特に厳重だったということであろう。

 10月7日早朝、日本海軍第二南遣枝隊(松村龍雄司令官)の戦艦「薩摩」がヤップ島沖に姿を現すと、ドイツ側は南貿社員7名を、ヤップ島の首市コロニアの「北方約三里」(約10キロメートル)に位置する「ルヌー」の南貿分店に幽閉した。しかし、同日正午過ぎ、戦艦「薩摩」の陸戦隊がヤップ島を占領、ドイツ人たちの多くはドイツ・オランダ電信会社の施設や「仮無線電信所」を破壊したうえで、逃亡した(後に投降)。

 こうして南貿社員は解放されたが、この間、南貿ヤップ支店は大きな損害を被った。それでヤップ支店長、関根は損害の補償を求めて、「損害申請書」2通を外務大臣に提出したのである。これらの「損害申請書」は、もともとは、1920年に当時の南貿ヤップ支店長、柴田定次郎によって外務省に提出されたものであるが、何らかの理由で回答を得られなかったため、1925年1月に柴田に代わってヤップ支店長となった関根が改めて提出したのである。このうち一通の「損害申請書」によれば、日本がドイツに宣戦布告した翌日の8月24日、ドイツ人警吏が「土民兵」を指揮して、南貿ヤップ支店を襲い、「器具及備付ノ武器ヲ押収シ店舗ハ閉鎖サレ営業ヲ禁止セラレ」た。この日から10月7日に日本軍がヤップ島を占領するまでの44日間、南貿ヤップ支店は営業をすることができなかった。それで、その間の一日あたりの損害額を200円と見積もって、総額8,800円の損害補償を外務省に申請した。もう一通の「損害申請書」はドイツの軍艦コルムラン号のために押収された南貿所有の「艀ヶはしけ船」に関するもので、その間の「使用料並破損修繕費及付属品補給費」として、1,080円の損害補償を求めている(これらの補償金が実際に南貿ヤップ支店に支払われたかどうかについては、資料が残されていないため不明)。

 ヤップ島については、一つ付け加えておきたいことがある。第一次世界大戦後のパリ講和会議(1919年)において、アメリカはヤップ島の太平洋通信基地としての重要性に鑑みて、ヤップ島を国際管理下に置くことを主張した。それに対して、日本はヤップ島を日本の南洋諸島委任統治領に含めるよう主張した。この問題はワシントン会議(1921-22年)にまで持ち越され、結局1922年2月、ヤップ島を日本の委任統治領とするが、ヤップ島―グアム島間の海底電信線はアメリカに譲渡され、アメリカは海底電信線の維持、運用のために、ヤップ島に自由に出入りすることができるということで決着した(花岡『海底電線と太平洋の百年』85-86頁)。当時、ヤップ島はこれほど重視されていたのである。

6 関根仙太郎の生年月日と生地

 関根は、上述の「損害申請書」に、自己の生年月日を「明治参年〔1870年〕六月十四日」と記している。外務大臣に提出する書類に嘘は書かないであろうから、これによって関根の正確な生年月日を初めて知ることができた。この生年月日にもとづけば、関根が玉置半右衛門に従って鳥島に渡ったと考えられる1888年には、関根は数えで19歳(満では17歳か18歳)、南島商会に入社したのは1890年の5月より前であるから、その時関根は数えで21歳(満で19歳)ということになる。これは関根が前出のインタヴューの中で言っている年齢とはそれぞれ4歳違う。関根の記憶違いというには大きすぎる違いだが、何か理由があるのだろうか。それとも、関根が、極めて若い時から「南洋」とかかわって来たことを強調したくて、年齢を若い方にサバを読んだということにすぎないのだろうか(「本書」117頁の記述は関根の話にそのまま依拠しているので修正を要するが、そうすると字数が大幅に増えるため第二刷でも修正できなかった。心残りな点である)。

 関根の生地についても疑問がある。「損害申請書」に、関根は自らの本籍地を「東京市日本橋区中洲河岸拾號地、南洋貿易株式会社」と記している。関根は自己の生地につながるもともとの本籍を捨てて、南貿本社に本籍を移してしまっていたのである。本籍はどこにでも自由に移せるものであるが、これによって、関根の生地を知ることが難しくなった。そこには、もともとの本籍を隠蔽する何か特別な事情があったのであろうか(同じ1925年に、南貿パラオ支店がドイツによって被った損害の補償を求めたパラオ支店長宮下重一郎の「損害申請書」には、長野県小県郡のもともとの本籍地が記されている)。

 しかし、それにしても、「東京市日本橋区中洲河岸拾號地、南洋貿易株式会社」という本籍地は奇妙である。本籍地は地番のみによって表示されるもののはずだが、戦前には「南洋貿易株式会社」といった会社を本籍地とすることもできたのであろうか。ちなみに、現在、皇居の地番は東京都千代田区千代田1番で、この地番を本籍地としている人はかなりいるということである。ただし、「東京都千代田区千代田1番 皇居」という本籍地はありえない。

おわりに

 「今日まで約五十年の間、倦まずうまず撓まずたゆまず、南洋貿易のぬしとして活躍している〔関根〕氏は」、「鈴木経勲氏と共に国宝的存在と云う可きであろう」と、前出のインタヴューを行った雑誌『南洋群島』の記者は書いている(『南洋資料 第四七三号、南洋群島昔話 其の一』、1頁)。しかし、鈴木経勲の経歴がほぼ明らかなのとは異なり、関根仙太郎の経歴には分からない所が多い(鈴木については、「本書」37-40、80-96頁参照)。前に書いたように、関根は1935年か36年に「南洋」から帰国し、東京下町の向島に居をかまえていたのだが、その後どうしていたのかということは、没年を含めて分かっていない。また、今のところ、生地や幼少年期を知る手がかりもない。一庶民の人生の軌跡をたどることはなかなか難しいことである。

(「世界史の眼」No.12)

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書評:松本通孝『一世界史教師として伝えたかったこと―歴史教育の「現場」から見た50年』(Mi&j企画、2020年)
日高智彦

 本書は、1967年より青山学院高等部の教師として世界史の教育と研究に携わってきた松本通孝が、半世紀以上に及ぶ取り組みの中で「伝えたかったこと」を軸に既発表論文を編集し、解題を付して一書にまとめた「自分史」である。

 構成は、以下のようになっている。

はじめに

第1章 高校生に近現代史を学ばせたい

 1節 1973年―「現代史」「現代社会」構想の立ち上げ

 2節 1980年代の歴史教育を取り巻く情勢と「近現代史教育研究会」の立ち上げ

第2章 自国中心主義に陥らないように―比較史の視点

 1節 「自国史」と「世界史」

 2節 「正答主義」をどう克服するか

第3章 日本における世界史教育の源流

 1節 万国史から世界史へ

 2節 フランス革命はどのように書かれて来たのか

第4章 生徒とのキャッチボール―生徒の歴史意識をどう育むか

 1節 授業内容・方法の工夫、史資料を授業に生かす

 2節 「世界史通信」発行の試み

第5章 「歴史総合」とこれからの歴史教育

 1節 世界史未履修問題が発した諸問題

 2節 これからの歴史教育―「歴史総合」を考える

エピローグ

松本通孝 文献リスト

 各章はおおよそ時系列順に並んでいる。各節は、既発表論文が資料として配置され、冒頭に解題が付されている。分量としては資料が本書の大部分を占めるが、必ずしも時系列順ではなく、一部省略もあり、著者の松本以外の文章もある。本文はあくまで解題の方なのである。よって本書は、著者の世界史教育論の形成・発展史としても読めるが、そのようなプロセスを経てきた著者が現在の到達点から再構成した「自分史」として読むべきであろう。

 第1章では、まだ現代史が(研究対象としても教育内容としても)重視されていなかった1960年代後半に教師となった著者が、「世界史」と「日本史」を統合した「現代史」を勤務校の必修科目として立ち上げ、それをきっかけに知り合った他校の教師たちとともに近現代史教育研究会を設立するプロセスが扱われる。『歴史学研究』370号(1971年)の特集「国家権力と歴史教育」を批判した「歴史学研究月報」136号(1971年)の論考などの資料からは、著者が「現代史」を、(A)「生徒達の歴史意識、現状認識」を出発点とし、これにはたらきかけるものとして、(B)政府の文教政策による上からの統制に対する批判として、(C)官製の研修会ではなく自主的な「他流試合」を重ねながら、構想・実践したことが理解できる。

 50年が経ち、今や学習指導要領によって「「世界史」と「日本史」を統合した「現代史」」である「歴史総合」が設置され、実施されようとしている。これに対し、上記3つの特徴をもって実践してきた「現代史」を、著者は「今から振り返っても正しかった」と、自信を持って対置しているようにみえる。後に第5章に関する評でも触れるように、たしかに著者の試みは、「歴史総合」に取り組もうとする者にとって「役に立」つだろう。ただし、著者がもっとも重視する「生徒達の歴史意識、現状認識」について、具体的にどう把握していたかは不明である。例えば、資料②(1971年)では生徒のレポートを分析しているのだが、そもそものレポート課題が現代史学習・・の受けとめを問うていることもあってか、生徒の現代史認識そのものは実はほとんど俎上に載せられていない。権力が現代史教育を直接に行おうとする状況にあって、学校における現代史教育が欠如することの危険性はそのとおりだろう。ではどう危険なのか、生徒の認識の具体的な把握と分析なしに、前例のない「現代史」で教える内容の構成はできなかったはずなのだが。資料②では、当時の生徒を「確かに何かを求めてはいるが、彼ら自身ではなかなかつかみ得ず、混とんとした状態に留まっている」と評しているが、これは若き日の著者自身のことではなかったか。

 このような著者に、第2章の時期から変化が訪れる。この章では、1982年に設立された比較史・比較歴史教育研究会に参加するなかで、この会のスローガンでもあった「自国史と世界史」という問いを自身の実践的課題に昇華していく様が扱われる。著者にとって、日本の戦争と植民地支配の捉え方が東アジア諸国において異なることを、歴史教育の国際交流の場で、生身の人間の発言として知った衝撃は大きかったようである。重要なことは、この歴史認識のちがいについて、(本章のタイトルは「自国中心主義に陥らないように」ではあるが、)歴史認識が一般的に・・・・帯びがちな自国中心主義の問題として済ませず、世界史的に形成された重層的な支配―従属関係の刻印と捉えた上で、支配者側の・・・・・歴史認識の課題と受けとめたことにあると評者は読んだ(資料⑧「歴史教育と「国民の戦争責任」」、1991年)。

 こうして、歴史認識の西洋中心主義が克服すべき課題となる。かつてフランス革命期の農村における「変革主体」を研究テーマとしていた著者が、ここでいう「変革」の西洋中心主義的な意味を問い直し、東欧史の視点から授業を再構成した。その成果が、資料⑨(「「正答主義」克服の試み」、1986年)である。「ポーランド分割とフランス革命」というテーマの実践において、ある生徒は、西欧=「華やか」で東欧=「暗くてじめじめ」という「偏見」を自ら問い直している。「正答主義」の克服というとき、その射程には、(a)ただ一つの正解を求める歴史学習への姿勢(試験のための暗記、教わることを鵜呑みにすること、教師が学びとってほしいと考える価値観の押しつけ・誘導など)だけでなく、(b)そのように身につける歴史認識が帯びている偏見や歪みと、それらに刻印される歴史的な権力的支配構造を問い直すことが含まれているのである。

 資料⑨は、「[座談会]歴史学と歴史教育のあいだ」(『歴史学研究』553号、1986年)において提起された、歴史教育における「正答主義」という論点への応答として書かれたものである。ここでの「正答主義」は、(a)の問題として論じられていた。しかし、後の1990年代半ばに、(a)の克服を目指すものとして出てきた藤岡信勝らの「歴史ディベート」は、(b)を問い直すどころか肯定するものであったことで、結局(a)の問題も克服できなかったわけである(資料⑩、2009年)。著者の実践は、「正答主義」論に(b)を立てることで、この陥穽を批判的に乗り越える可能性を先取りしていたといえよう。実は著者自身は、解題においても「正答主義」を(a)の問題として論じ続けているが、評者は著者の実践を「二重の正答主義」論として、世界史教育論史における重要な問題提起であったと受けとめている。

 第3章では、1990年代より取り組んだ、明治以降の外国史教科書の研究が扱われる。著者にとっては、自らの仕事をその「源流」にさかのぼりながら相対化する意味を持っただろう。1節の解題では、これらの研究で「伝えたかったこと」を、「その時々の政府の方針と歴史教育との関係」とし、「文教政策の意図を見抜く力を、私達教師の側が持つ必要がある」「政府主導の「正答主義」に対して、どのような距離を置くか」と問いかけている。重要な指摘である。だが、明治・大正期の外国史教科書を丹念に読み解いた諸資料からは、外国史認識がいかに自国史認識に規定されるか、すなわち、世界史を学べば自動的に自国中心主義を克服できるわけではないことなど、より多くの示唆を得ることができる。その上で、フランス革命記述の変遷を扱った2節では、「近代化」の負の側面が明らかになった現在において、革命の理念を「弱者」の側から問い直し、フランス革命の今日的意義を生徒と教師が学び合う授業案として提案している。これまでの研究の成果を実践として具体化した資料⑮・⑯(2012年)は、著者の仕事の集大成に位置するものであり、本書の白眉である。

 資料⑮・⑯に至るまでには、世界史の教育論や内容について研究するだけでなく、授業方法についても試行錯誤を繰り返してきた。第4章は、著者が「生徒達の歴史意識、現状認識」にはたらきかけようと取り組んできた授業日誌や教科通信などの試みを扱う。本章の諸資料を読むと、著者が世界史教育を、教科書などの制度的枠組みに依存することなく、生徒と「キャッチボール」しながら、ものの見方や考え方を現実の世界の動きのなかで見直す方法として構想していたことが分かる。

 その上で、「伝えたかったこと」を「「ゆとり」教育の是非」としている。「ゆとり」の名のもとに導入された各種の文教政策は、入試制度改革を伴わず、「観点別評価に見られるような教師の仕事をいたずらに増やし」、教育現場のゆとりをむしろ奪っていった。この改善なしにアクティブラーニングを謳っても、豊かな学びに結びつくことはなく、授業は画一化するのではないか。どんな授業方法がふさわしいかは、あくまで「担当教師一人ひとりが考えるべきこと」(資料⑰、2011年)であり、そのためには「教師の創意を保障するゆとり」が必要だ、と主張する。政策提言として異論はないが、仮に「ゆとり」が保障されたとして、教師が発揮する「創意」が「正答主義」を克服するとは限らないだろう。本章の諸資料は、むしろ「創意」の具体的な方向性を示唆しているように思うのだが、あくまで「保障」を主張するところが著者らしい。

 最後の第5章では、2018年の第9次学習指導要領改訂によって新設された科目「歴史総合」を中心に、これからの歴史教育の方向性について論じられる。2006年に、必修科目の「世界史」が受験対応等を理由に開設されない高校があることが問題となって以降、地理歴史科教育の改善に向けた議論が巻き起こった。著者は、これまでの研究と実践をふまえた「教師の創意を保障するゆとり」の観点から、「現在の「日本史A」「世界史A」は廃止して、世界と日本の近現代史を扱う「現代史」」の創設を説いた(資料㉑、2008年)。新設された「歴史総合」はまさにそのような科目であったが、しかし著者は、これに危惧を表明する。「近代化」「大衆化」「グローバル化」という概念で近現代史を把握しようとする方法は、政府見解を書かせる教科書検定を通じて、近代化賛美の自国中心・自国礼賛史観を従来以上にもたらしかねない、というのである(資料㉔、2017年)。

 著者の危惧には首肯できる。ただ、現実の政治状況において、「現在の「日本史A」「世界史A」は廃止して、世界と日本の近現代史を扱う「現代史」」が科目として創設されれば、ここで危惧されるようなことは、「現代史」を政府の文教政策による上からの統制に対する批判として実践してきた著者ならば、予想できたのではないか。たしかに、通史学習ではなく、「近代化」等の概念を用いて現代的な諸課題の形成と展望を学ぼうという「歴史総合」の方法は画期的ではあるが、現行科目においても追究されていて然るべきことであるし、著者自身もそのように実践してきたのではないか。例えば、本書所収の諸資料で論じられている「国民の戦争責任」や「フランス革命と「弱者」」といった視点は、「近代化」概念による歴史把握が近代化賛美の自国中心・自国礼賛史観に陥らないための切り口に他ならないだろう。著者は本書を通じて、むしろ「歴史総合」の危惧を克服する可能性を描いたのである。

 それをふまえた上で、「自分史」の結びに、今後の歴史教育への危惧を述べていることの意味を受けとめたい。エピローグの冒頭、2015年に卒業生から届いた「自分たちが高校の頃に歴史の進歩として習ったいろいろなことや価値観が、最近はいとも簡単に次々に否定されてきているように感じます」との旨の年賀状が紹介される。この「(元)生徒達の歴史意識、現状認識」を受けとめるがゆえに、「現代史」で追究してきた、「今から振り返っても正しかった」とする「価値観」が、「歴史総合」において「否定され」る危惧を検討せざるを得なかった、ということではないか。それは、著者が今なお「(元)生徒達(=「市民」)の歴史意識、現状認識」と「キャッチボール」しながら、世界史教育について考えを問い直し続けていることを意味する。「世界史教師」とは職業名ではなくそのような存在のことを指し、「現場」とは制度的枠組みではなく「キャッチボール」にある―これこそ著者が、「一世界史教師として伝えたかったこと」だったように思われる。

 著者は、先の年賀状をきっかけとして、卒業生有志との「世界と日本の歴史を共に学ぶ読書会活動」を続けているという。今後も、末永くお元気で、「現場」からの声を発信していただきたい。

(「世界史の眼」No.11)

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シリーズ「日本の中の世界史」後日談―『中島敦の朝鮮と南洋』―(上)
小谷汪之

はじめに

1 玉置半右衛門と玉置商会

2 渋沢栄一の「製藍会社」

3 田口卯吉の南島商会

(以上、本号)

4 南洋貿易株式会社(南貿)

5 第一次世界大戦とヤップ島

6 関根仙太郎の生年月日と生地

おわりに

(以上、次号)

はじめに

 シリーズ「日本の中の世界史」の一冊として刊行された小著『中島敦の朝鮮と南洋』(岩波書店、2019年。以下、「本書」とする)にかかわって、一つ心残りなことがある。それは、「本書」の本筋からはちょっと外れるが、関根仙太郎という人物の経歴にかんすることである。本書の第二刷を出した時には問題の所在に気づいていたのであるが、第二刷での修正という制約のために直しきることができなかった。

 関根仙太郎は明治時代の中頃に「南洋」に渡り、50年近くを「南洋」に生きてきた。彼は、1935(昭和10)年か36年に、最終的に日本に帰国したものと思われるが、その関根を、雑誌『南洋群島』の記者が東京「向島寺島なる氏の寓居」に訪ねて、インタヴューを行った。その冒頭で、関根は次のように語っている(以下、引用文中の〔 〕は引用者による補足。漢字には、適宜ルビを付した)。

 私は十五の歳に、玉置半右衛門たまおきはんえもんと云う人に従って鳥島へ渡りました。玉置氏は東京府からこの鳥島を二十箇年間無償で借り受け、信天鳥アホウドリの巣から羽毛を採取し、それを欧州に輸出していたものです。その仕事を手伝って居る中に、翌年小笠原島の母島に移る事になり、そこでは藍の会社で働いていましたが、丁度その頃東京に南洋で貿易をする会社が出来、しかもそれには、かねて知っていた依岡省三氏が関係している事を聞いて急いで帰朝、その会社へ入れて貰った様なわけです。この時私は十七の歳でした。(関根仙太郎「南洋群島の五十年を語る」『南洋群島』3巻、3、4号〔1937年〕。『南洋資料 第473号、南洋群島昔話 其の一』〔1944年〕に再録。同書、1頁)

 この関根の話の中には、1890年前後(明治20年前後)の日本における「南進」のさまざまな動きが凝縮された形で詰まっていて、きわめて興味深い。ただ、「本書」刊行後に見ることのできた一資料に照らしてみると、関根のいっている自分の年齢には疑問がある。

1 玉置半右衛門と玉置商会

 関根仙太郎は、「十五の歳に、玉置半右衛門たまおきはんえもんと云う人に従って鳥島に渡り」、アホウドリの羽毛の採集に従事した、といっている。この「玉置半右衛門たまおきはんえもんと云う人」は小笠原諸島、鳥島(伊豆諸島の鳥島)、沖縄の南大東島など、日本南方の島々の「開発」に主導的な役割を果たした人物としてよく知られている。

 玉置半右衛門は1838年、八丈島に生まれ、大工をしていたが、1861年、徳川幕府が小笠原開拓民を募集した際、それに応募して、小笠原に渡った。しかし、翌年、生麦事件が起こってイギリスとの対立が激化したため、幕府はイギリスが触手を伸ばしていた小笠原諸島の開拓を断念し、玉置も小笠原から退去した。その10数年後の1876(明治9)年、明治政府は小笠原諸島の領有を諸国に通告し、開拓民を小笠原に送った。その時、玉置も小笠原に渡り、内務省小笠原出張所仮庁舎建築などの公共事業を請け負うなどした。しかし、その後、小笠原出張所との関係が悪化したこともあって、玉置はアホウドリの捕殺に着手した。アホウドリの羽毛が欧米で高値で売れることに目をつけたのである。ところが、小笠原にはアホウドリがあまり飛来しなかったので、次に玉置はアホウドリが大量に飛来する鳥島に狙いをつけた(アホウドリの羽毛は横浜の外国商社を通して欧米に輸出されていた)。

 1880年代の日本では、初期的な「南進論」が盛んになっていて、その先駆者の一人に横尾東作(1839-1903年)という人物がいた。横尾は仙台藩士で、はじめ儒学を学び、後に英学を修めた。幕末の政争の中では、語学力を生かして幕府側の外交工作の一端を担い、最後は、榎本武揚の下、函館五稜郭で「官軍」と戦った。

 横尾はその後さまざまな職に就いたが、1887(明治20)年、当時逓信大臣だった榎本武揚の支援を受けて、硫黄島の探検に乗り出した。船は逓信省灯台巡視船の明治丸を使わせてもらった。この硫黄島探検には当時の東京府知事、高崎五六の他、依岡省三、鈴木経勲つねのりなど多くの「南進論者」が同行した。この時、玉置半右衛門とその配下12人は、鳥島で下船することを条件として乗船を認められた。11月1日、横浜港を出港した明治丸は、5日に鳥島に到着し、玉置らはここで下船した。約100日分の食料や資材を携行したということであるから、最初から鳥島に長期に滞在するつもりだったのである。その目的はアホウドリを捕殺して、羽毛を採集することであった。

 他方、明治丸は11月10日に硫黄島に到着したが、とても植民できる所ではないとして、直ちに横浜港に帰ることになった。途中、鳥島で玉置半右衛門らを乗船させるはずであったが、波が高く、接近が困難だったため、彼らを鳥島に「置き去り」にしたまま横浜に帰港した。12月15日、東京府は玉置らの救援のために、船を鳥島に派遣したが、その船で帰京したのは玉置他一名のみで、残りの11人は鳥島に残って、アホウドリの捕殺を続けた。

 翌1888年、玉置は「鳥島拝借御願書」を東京府に提出し、3月、内務省から鳥島の10年間無償「貸渡」を認められた。同年、玉置は56人の人夫を鳥島に送り込み、アホウドリの捕殺を本格化させた(以上、平岡昭利『アホウドリを追った日本人』岩波新書、2015年、10-20頁)。

 以上のような経緯を考えると、関根仙太郎は、1887年に鳥島に残留した11人のうちの一人だったのかもしれないが、おそらくは1888年に鳥島に送り込まれた56人の人夫たちのうちの一人だったのであろう。この時、関根は15歳だったといっているが、これは数えの年齢だと思われるので、満年齢で言えば13歳か14歳ということになる。「本書」(第一刷)刊行時にはあまり気にならなかったが、今思えば、いくら明治中期とはいえ、これはちょっと若すぎるように感じられる。

 関根は、翌年にはもう、鳥島から小笠原に移ったのだが、その理由について、関根自身は何も語っていない。推測するに、アホウドリの捕殺という仕事に嫌気がさしたからではないかと思われる。アホウドリの捕殺は、すぐには飛び立つことのできないアホウドリを棍棒で撲殺するという野蛮な方法で行われていたからである。それに、鳥島におけるアホウドリの捕殺は出稼ぎ労働によっていたから、年に3分の1の人夫が交代するほど島への出入りは激しかったということである(平岡昭利『アホウドリと「帝国」日本の拡大』明石書店、2012年、77頁)。

 玉置半右衛門は、この後、一年間に約40万羽のアホウドリを鳥島で捕殺しつづけ、1902年の鳥島大噴火によって人夫120余名が全滅するまでに、総計約600万羽を捕殺した(鳥島大噴火の時、玉置一家は東京に住んでいて無事であった)。1933年には、アホウドリの捕殺が禁止されたが、それまでに、鳥島では総計約1000万羽のアホウドリが捕殺されたとされている。そのために、鳥島のアホウドリは絶滅寸前にまで至った(平岡『アホウドリを追った日本人』、22頁)。玉置半右衛門による鳥島の「開発」とはこのようなものだったのである。

 1900年、玉置は沖縄県の無人島、南大東島の開拓に乗り出した。沖縄県から30年間の開拓許可を受けた玉置は、八丈島の島民たちを中心に人夫を募集し、23人を南大東島に派遣した。派遣団の団長は当時玉置の大番頭だった依岡省三であった。人夫たちは玉置商会の小作人としてサトウキビ栽培に従事したり、製糖場の労務についたりした。その後、玉置は、島中にサトウキビ運搬用のトロッコ網を張り巡らし、病院や商店や学校を設立するなど、島が独立の経済単位(アウタルキー)をなすようにした。島だけで通用する貨幣(玉置貨幣)の発行も行い、島内のすべての勘定をこれによって行わせた。このように、玉置商会の経営方法は開拓民たちの生活を全的に支配する「封建的」なもので、南大東島は「玉置王国」と称せられるほどであった。

 1910年、玉置半右衛門が死去すると、その3人の息子たちが玉置商会の事業を継承したが、経営不振に陥り、1916年には南大東島における事業を東洋精糖に売却した。

2 渋沢栄一の「製藍会社」

 関根仙太郎は、前出のインタヴューで、鳥島から「小笠原島の母島に移る事になり、そこでは藍の会社で働いていました」と言っているが、この「藍の会社」というのは渋沢栄一が設立した「製藍会社」のことである。明治期、日本の藍生産はインド産の藍、いわゆるインディゴに押されて衰退していた(徳島県を中心として栽培されていた藍はいわゆる蓼藍たであいで、タデ科イヌタデ属の一年生草本)。インディゴに対抗するために、小笠原の藍(山藍。トウダイグサ科の多年生草本)に最初に目をつけたのは竹内万二郎という人物で、竹内は実際に小笠原で「山藍」の「開墾」(植栽)に着手したが、中途で挫折した。この竹内の「書記」であった今川粛という人物が小笠原藍作の見込みについて詳細な調査を行い、その復興を渋沢栄一に計った。それに応えた渋沢は、1888(明治21)年3月、「製藍会社」の「創立」を東京府に願い出て、4月に認可された。「同社の目的は日本藍製造の改良を図るが為に小笠原島産藍の蕃殖を其第一着手とし併せて其製藍を販売する」ことにあった。「製藍会社」は資本金10万円の株式会社で、一株100円であったが、株式は一般には公開されず、株主の多くは渋沢の知友であった(『靑淵先生六十年史 第二巻』龍門社、1900年、199頁;『渋沢栄一伝記資料 第十五巻』渋沢栄一伝記資料刊行会、1957年、316-317頁)。

 「製藍会社」が何時から実際に小笠原で「山藍」の「開墾」(植栽)を始めたのかはよく分からないが、関根仙太郎は1889年には小笠原に移り、「製藍会社」で働くようになったのである。今川粛の調査によれば、当時小笠原の「山藍」の植栽地は父島に5町7反歩、母島に1反歩余りだったという(『靑淵先生六十年史 第二巻』、200頁)。関根が母島に行ったのは、母島における「山藍」の植栽地を拡げる仕事に従事するためだったのであろう。

 しかし、「製藍会社」は「着手後〔旱魃や暴風雨など〕数多の困難に遭遇し」、「到底前途の見込立たざるを以て明治二十五〔1892〕年八月二日の〔株主〕総会に於て解散を決議」した。その間に「製藍会社」が「開墾」した土地は「四十八町歩余」であった(『靑淵先生六十年史 第二巻』、204-205頁)。

3 田口卯吉の南島商会

 こうして、渋沢栄一の「製藍会社」は5年足らずで解散したのであるが、関根仙太郎はそれ以前に、「東京に南洋で貿易をする会社」ができたことを聞き、「製藍会社」を辞めて、東京に戻り、「その会社へ入れて貰った」。この「南洋で貿易をする会社」というのは、田口卯吉が1890(明治23)年に設立した「南島商会」のことである。

 1889年末、「南進論者」であった田口卯吉は当時の東京府知事、高崎五六から、東京府に交付されていた士族授産金を利用して、小笠原諸島の開発に当たってほしいという依頼を受けた。田口は一度は断ったが、小笠原開発ではなく、「南洋諸島経略」に当たるということで依頼を受諾した。翌1890年、田口は東京府に交付された士族授産金のうちの約45,000円(『本書』38頁で、4,500円としたのは誤りであった)を元手に、南島商会を設立し、90トンほどのスクーナー型帆船天祐丸を購入して、「南島巡航」に出ることになった。5月15日、天祐丸は横浜港を出港、「南洋」に向かった。天祐丸には、田口の他に、船長の宮岡百蔵、書記役の鈴木経勲など15名が乗り込んでいた。関根仙太郎もそのうちの一人で、この時、関根は17歳であったと語っている。これも満年齢にすれば15歳か16歳ということになり、今思えば、はるばると未知の「南洋」まで行くにしては、ちょっと若すぎるように感じられる。

 天祐丸は当時スペイン統治下にあったグアム島、ヤップ島、パラオ諸島を経て、ポナペ島(現、ミクロネシア連邦ポーンペイ州)に到着した。田口らはポナペに一か月ほど留まり、交易に従事した。ポナペ島には南洋交易拡大の可能性があると判断した田口は、ポナペに南島商会の支店を置くこととした。この時、関根仙太郎は他の二人と共にポナペ支店員に任命され、ポナペに残ることになった。これが関根の長い南洋生活の始まりであった。

 このように、関根仙太郎はわずか3年ほどの間に、玉置半右衛門のアホウドリ羽毛採集事業所(後の玉置商会)、渋沢栄一の「製藍会社」、田口卯吉の南島商会と、当時の「南進」の動きを代表する会社を渡り歩いて、「南洋」とのかかわりを深めていったのである。

(次号に続く)

(「世界史の眼」No.11)

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経済学の巨人、リュエフとケインズから学ぶ―現代史のなかの経済理論―
権上康男

はじめに

  主要諸国における経済関連の公的歴史文書は今日、大半が20世紀末まで閲覧できる。しかしこれらの文書を利用した歴史研究は未だ部分的にしか進んでいない。そのために欧米先進諸国の現代経済史は、経済理論史を下敷きにして、次のようなイメージで捉えられていると言ってよかろう。まず、両大戦間期にケインズ主義が徐々に影響力を拡大する。第二次世界大戦後にこの理論に適合的な、戦時体制を多かれ少なかれ継承した、組織された経済社会が形成される。ケインズ主義はしかし、1970年代の長期不況を経て市場機能の強化を説くマネタリズムにその地位を譲る。最後に、マネタリズムと変動相場制に媒介されて経済のグローバル化が進み、経済社会は各種規制の緩和によって著しく柔軟なものへと改造される。

 このような、英語圏で生まれた経済理論に則して図式化された20世紀史の理解は、言うまでもなく歴史研究の必要を満たすものではない。本稿では、この図式から漏れた重要と思われる史実を掘り起こすとともに、経済理論と時代とのかかわりを問うことにしたい[1]

 とりあげるのは2人の理論家ジャック・リュエフ(1896-1978)とジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)である。ほぼ同じ時代を生きたリュエフとケインズは、一方はフランス、他方はイギリスという異なる文化圏を背景にもち、しかもアプローチも主張も互いに正反対であった。2人は経済、社会、政治を一体のものとして扱うことのできた、事実上最後の政治経済学者でもあった。ケインズは経済学に革命を起こしたと言われるように、着想の斬新さにおいてきわだっていた。一方のリュエフは、古典派から新古典派へとつづく経済学の古典理論に忠実であった。とはいえ、彼は単なる保守的な経済理論家ではない。彼には革新的な一面もあった。たとえば、1938年に大陸欧州の自由主義者たちとともに新自由主義(ネオ・リベラリズム)を立ち上げている。

 リュエフの名は大陸欧州諸国以外ではあまり知られていないが、20世紀を代表する経済学の巨人、ひいては知の巨人とも言える存在であった。彼はケインズと同じく、エリート財務官僚として職業生活をスタートさせている。しかしケインズとは違い、財務官僚としてのキャリアを全うしている。彼は官僚としての顔の他に、経済学者、哲学者、大学教授、EEC司法裁判所判事という4つの顔をもち、浩瀚な6巻本の著作全集を残している。主著は経済学と社会学にまたがる基礎理論に捧げられた2巻本の大著『社会秩序』(1945)である。

1. 価格メカニズムによる調整は、是とすべきか、非とすべきか 

 リュエフは国際連盟事務局に出向中の1928年秋に、ケインズとともにジュネーヴの国際高等研究院に招かれ、公開講演を行うとともに2人で議論を戦わせている。彼は当時34歳であった。その3年前に、イギリスで失業者が異常に多いのは失業保険制度に原因があるとする衝撃的な論文を発表し、彼の名はヨーロッパ中に知られていた。一方のケインズは、気鋭の革新的な経済学者として名声を博していた。この2人を、高等研究院の院長で産業革命史研究の大家ポール・マントゥーが対決させたのである。

 リュエフはロンドン駐在財務官の時代にもロンドンおよびケンブリッジで講演を行い、会場に来ていたケインズと論争している。1931年には、ケインズの求めに応じて『エコノミック・ジャーナル』誌(以下、JEと略称)に寄稿し、ケインズと激論を交わしている。

 第二次世界大戦が終結し戦後復興が始まると、西側諸国はケインズ主義一色に染まった。ケインズは1936年に『雇用、利子および貨幣の一般理論』(略称『一般理論』)を出版していた。この著作で展開された理論が、長期のデフレと大戦で経済が縮小均衡に陥っていた西側諸国の政策当局者たちの眼に、経済的繁栄と社会平和をもたらす救世主として映ったのである。1946年に、リュエフは時流に抗い、『一般理論』を全面的に批判した論文「一般理論にあらざる『一般理論』」を発表する。ただしケインズはその前年に没していた。

 リュエフとケインズの論争は価格メカニズムよる調整をめぐるもので、経済理論レヴェルのものであった。経済学の古典理論によれば、価格が自由に変動することによって調整がなされ、経済は均衡する。ケインズはこの古典理論を否定し、市場経済には、財政・金融面からの公権力の介入が必要であると主張する。これにたいしてリュエフは、自らの理論研究にとどまらず、前出の失業についての実証研究、およびフランスを中心とする西欧諸国の国際収支についての同じく実証研究にもとづいて、価格メカニズムはさまざまな障害を乗り越えて厳格に機能していると主張して、一歩も譲らなかった。

 リュエフはケインズによる理論構築にも重大な問題があると言う。たとえば『一般理論』においては、有名な流動性選好仮説以外にも、中央銀行が通貨の流通量を決めている、国内市場が各所でブロックされているなど、いくつかの暗黙の了解事項が存在する、と。もとより仮説や前提を設けることに合理的根拠があるなら問題はない。だが、合理的根拠がなければ理論の信頼性は失われる。リュエフによれば、ケインズが設定した仮説や前提にはそうした根拠がない。それゆえ彼は「『一般理論』は一般理論の名に値しない」と言い切る。ちなみに、ケインズと親しかったロンドン大学LSEのフリードリヒ・フォン・ハイエクも、後年(1966)に『一般理論』に重大な欠陥があることに早くから気づいていたと証言し、ケインズのこの著作を、「時事論説を『一般理論』と称した」と批判している。

 では、なぜケインズは強引と思える仮説や前提を多用したのか。リュエフのケンブリッジ講演を聴いたケインズが1931年5月20日付でリュエフに送った書簡のなかに、この疑問を解く手掛かりがある。ケインズはこの書簡で、リュエフの講演を理論面で高く評価した後にこうつづけている。「私が思うに、あなたは、諸構造はそれ自体で元の構造に調整されるとしていますが、私はこう考えます。あなたが当てにしている柔軟性は空想であり、われわれは柔軟性を当てにせずに機能し得る装置を構築しなければならない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、と」(傍点は引用者)。この言葉を敷衍すれば、ケインズは自らが構築しようとする理論に合わせて仮説や前提を設定した可能性も、あながち否定できない。

 歴史研究の側から見て興味深いのは、2人の主張が新しい時代への強烈な、しかも相互に異なる危機意識と不可分な関係にあったことである。先のJE 誌上の論争において、経済理論の範囲を逸脱した批判の応酬が行われている。リュエフはケインズをこう批判する。市場の管理という発想は「自由主義経済」と「管理経済」のいずれを選択するかという問題にかかわっており、「経済理論の観点よりも政治的観点から見てきわめて重要である」。なぜなら、それは「共産主義に似た『組織経済』の実践に必然的に向かう」からである。やや唐突と思われるので、別の視点から言い換えてみよう。市場経済においては、無数の経済単位(個人、企業、行政機関など)が価格の変動に日々刻々、反応して自由に行動する。その結果として調整がなされ、均衡が成立する。市場を管理することは、そうした自由な行動を制限するということであり、その行き着く先は権威主義経済=権威主義国家である。

 この批判にケインズはこう反論する。価格メカニズムによる調整は社会のさまざまなカテゴリー、なかでも最大多数を占める労働者に痛みを与える。それゆえ「不可能とは言わないまでも政治的、人道的に困難である」。さらに、リュエフが調整の好事例としてフランスの金本位制復帰にあげたのを捉えて、激しい言葉で応酬する。戦後フランスの混乱ぶりを見れば「調整が円滑に行われた好事例などとはとても言えない。自身がフランス人であるリュエフ氏が豌豆の鞘を剥くように容易なことを証明するのに、フランスの戦後史を引用するとは、何と物忘れの酷いことよ!」。しかしケインズは、「共産主義に似た『組織経済』の実践に必然的に向かう」という、自らに向けられた批判には沈黙している。

 2人の間で争われていたのは調整の是非である。ケインズは調整が政治と人道の両面から見て困難であるとし、既存の制度や慣行を変更しなくて済むシステム、すなわち公権力によって管理された市場経済の構築を選択する。しかしリュエフによれば、調整がなされず、経済の不均衡が放置された社会は存続できない。仮に調整を財政・金融政策によって先延ばしするなら、経済は危機に見舞われる。それさえ無視して調整をさらに先延ばしすれば、最終的に市場の暴力によって調整が強行される。それゆえ介入を可能な限り控えて経済を日常的なミクロ・レヴェルの調整に委ねるべきだと、彼は言う。

2. 国際通貨制度の政治経済学―至上命令と化したデフレの回避

 19世紀末に金本位制が主要諸国に普及したことにより、国際金本位制と呼ばれる非公式の国際通貨制度が成立した。この制度は第一次世界大戦を契機に消滅し、以後、再建されることがなかった。国際通貨制度は世界経済の基盤となるものであるが、そのあり方をめぐってもリュエフとケインズは真っ向から対立した。

 問題の淵源は第一次世界大戦にある。この大戦を通じて世界の金がアメリカ一国に集中し、他の諸国には通貨発行に必要な金の確保が難しくなった。アメリカがドルを大幅に切り上げれば金本位制のメカニズムにより金がアメリカから流出し、問題は解決する。だがその場合にはアメリカ経済がデフレに陥る。デフレを回避しつつ、国際通貨制度を再建するために考案されたのが金為替本位制である。この通貨制度は金と交換が可能な新旧2つの大国の通貨(ドルとポンド)を準備として各国が自国の通貨を発行する制度である。この制度の普及を主導したのはイギリスである。大戦後のイギリスにはもはや経済大国の面影はなかった。しかし他の諸国がポンドを準備として用い、イングランド銀行が金の国際的移動を「中央銀行間協力」の名のもとに管理できるなら、イギリスは基軸通貨国になることができる。金為替本位制はアメリカだけでなくイギリスにとっても都合のよい制度だったのである。

 このような大戦後の状況にすばやく反応したのがケインズである。彼は1920年代初頭から、金本位制への復帰はデフレを招くとして、通貨発行を金から切り離すべきだとする「修正金本位制」の側に立って論陣を張った。これにたいしてフランス政府は、イギリスが採用した国際通貨戦略(金為替本位制、金移動の国際管理)を「帝国主義」であるとして強く反発した。リュエフはこのフランスの主張―すなわち「通貨正統主義」―を、財務官僚と経済理論家の二重の資格で理論面から根拠づける役割を果たしていた。

 第二次世界大戦後も世界の金はアメリカに集中した。問題の構図は第一次世界大戦後と変わらず、再建された国際通貨制度も超大国アメリカの国民通貨ドルを基軸とする金為替本位制(いわゆる「ブレトンウッズ体制」)となった。この通貨制度は、デフレの回避とアメリカによる通貨覇権の掌握という経済的ならびに政治的要請を満たすものである。

 ところで金為替本位制には2つの重大な問題が伏在していた。第一に、第一次世界大戦後の復興が進み、仏、独、日のような主要諸国がドルやポンドを金と交換するようになれば、基軸通貨国の金準備が減少し金為替本位制は立ち行かなくなる。実際、1928年にフランスが金本位制復帰を宣言すると、イギリスからフランスへ金が流出し、ポンドが危機に陥った。イギリスはフランスに金の放出を迫っただけでなく金融制度の改革をも要求したが、フランスはいずれの要求にも応じなかった。「中央銀行間協力」は画餅に帰したのである。イギリスは結局、1931年に金本位制を離脱し、これを契機にデフレが世界に波及することになる。

 第二次世界大戦後にも同じことが繰り返された。主要な欧州諸国の中央銀行は1960年代に入ると、金の備蓄を始める。例外は安全保障上の理由からアメリカと事を構えるわけにいかない西ドイツ(および日本)だけであった。アメリカからの金の流出は増えつづけ、やがてドルならびに国際通貨制度が危機に瀕することになる。

 金為替本位制に伏在する第二の問題はこの制度がインフレ体質だったことにある。リュエフは1930年代初頭に、金為替本位制に特有のメカニズムが市場経済の自動調整を妨げてインフレを惹起し、国際通貨制度を崩壊に導くことに気づき、論文に発表していた。そのメカニズムとは、ごく簡単に言えばこうである。金為替本位制のもとでは、基軸通貨国の通貨(ポンド、ドル)は信用によって他の諸国に移転し、最終的にその地の中央銀行の準備に繰り入れられる。当該中央銀行は、この外貨を即座に流出元のロンドンないしニューヨークに送り、その地の銀行に預金する。それは預金収入を得るためである。それゆえ、流出した通貨は事実上、流出元にとどまったままである。その間に、流出先の銀行でも、流出元の銀行でも、通貨(預金通貨)が乗数的に発行される。問題の通貨はくり返し何度でも貸し出すことができるから、世界規模で通貨の発行増が生じる。金為替本位制は「本質的にインフレ的」なのであり、大恐慌前夜のブームには金為替本位制も一役かっていた、とリュエフは言う。

 1950年代末に復興を終えた主要諸国が通貨の交換性を回復すると、アメリカからこれら諸国へ大量のドルが流出し、世界にインフレの兆しが現れる。それと併行してアメリカからの金の流出も増える。状況は大恐慌前夜に酷似していた。事態を放置すればアメリカはドルと金との交換を停止せざるを得なくなる。この時、リュエフは金為替本位制に特有のメカニズムを講演や論文で説明し、金為替本位制を廃止して金本位制に戻さなければ世界経済は崩壊すると警鐘を鳴らした。彼の危機論は国際社会に大きな波紋を呼んだ。リュエフは次々と欧米の主要都市に講演に招かれ、彼の講演原稿はすべて世界の有力紙に掲載された。彼は時の人となったのである。

 しかし、アメリカの財務・通貨当局者たちによる危機の診断はリュエフと違い、楽観的であった。彼らによれば、ドル危機の原因はアメリカの国際収支の不均衡にある。アメリカが対外支払いを削減し、国外から資金の流入を図れば、危機は短期間で克服できる。ただし、その場合には在外ドルが減り、国際流動性(国際決済用の金融資産)が減少する。将来、発展途上国が工業化し、成長するようになれば国際流動性の不足が生じる。それゆえ国際協力によって予め新たな国際流動性を創設しておく必要がある。この議論は、経済成長には追加的な貨幣が必要だとするケインズの信用理論を国際領域に拡大適用したものだと言われる。

 リュエフもアメリカ側の立論にケインズの影があるのを見逃さなかった。彼は理論と実証の両面からこう厳しく批判する。アメリカの誤りは国際収支のメカニズムと金為替本位制のメカニズムを正しく理解していないことにある。数量データは、アメリカでも国際収支の自動均衡メカニズムが厳格に働いていることを示している。それなのに国際収支の不均衡が常態化しているのは、金為替本位制のメカニズムに、すなわちドルが信用を介して国外に大量に流出していることに原因がある。金為替本位制を廃止しない限りドル危機は解決しない。

 アメリカ政府と西欧諸国政府の双方の専門家たちは、リュエフによる診断と対処法を無視した。わずかに大統領シャルル・ドゴールがリュエフに同調し、1965年2月、世界に向けて金本位制復帰を呼びかける声明を発表しただけである。だがドゴールも、国際的孤立を怖れて自らの声明に固執しなかった。かくてリュエフは孤立無援であった。とはいえ各種の情報源によれば、リュエフを支持する経済専門家は必ずしも少なくなかった。フランス大統領府だけでなくアメリカ政府の高官たちにも、また国際決済銀行の上級職員たちにも、リュエフの議論に共感する者がいた。リュエフの分析によれば、通貨覇権の維持に執着する超大国アメリカの世論とアメリカ政府に配慮し、彼らは自らの意見を公にできなかったのだという。

 リュエフによる危機の診断の当否は措くとして、その後の歴史に照らすなら、アメリカ政府の主張には分がなかった。同政府は結局ドル危機を自らの手で解決できず、1970年代初頭に金/ドルの交換制停止に追い込まれ、世界経済は長期にわたり深刻な混乱と不況に見舞われる。リュエフの預言は的中したのである。この一事は、歴史が形成される過程で経済理論(リュエフによれば「科学」)と、社会や政治がそれぞれどのような役割を演じるのかを、また両者の間に生じる齟齬が歴史に特有のダイナミズムをもたらすことを物語っている。

3. 自由主義の再定義と新自由主義の理論

 「長期的にみると、われわれはみな死んでしまう」―これはケインズが『貨幣改革論』(1923)のなかで用いたフレーズである。市場が均衡を回復するまで手をこまねいて待つわけにいかない、自由主義も経済学も短期の問題にこそ応えられねばならない、というのが言葉の含意である。まさに20世紀に登場した新しい課題の核心を言い当てた名言である。

 リュエフをはじめとする自由主義者たちがケインズの提起した課題に取り組むのは、第二次世界大戦前夜の1938年のことである。この年の秋にパリで、アメリカのコラムニスト、ウオルター・リップマンを迎えて国際シンポジウムが開かれた。出席者は仏、独、墺の有力な自由主義者たち26人である。5日に及ぶシンポジウムの主要な目的は、自由主義を再定義し、ケインズ的課題に応えられるようにすることにあった。当時の大陸欧州諸国に許された選択肢は事実上、ファシズムと社会主義しかなく、自由主義はまさに風前の灯であった。短期の問題に応えられない限り自由主義に未来はない―これがシンポジウムの出席者たちに共通する認識であった。討議の末に再定義された自由主義は、やがて「新自由主義」の名称で、大陸欧州諸国において市民権を獲得する。この新しいタイプの自由主義の誕生を理論面で支えたのはリュエフである。

 シンポジウムでは、自由主義は国家の介入、なかでも社会領域への介入を排除するものではない、とする点で出席者たちの意見は容易に一致した。それは当時流布していた夜警国家論で知られる19世紀の素朴な自由主義の否定を意味する。しかし問題は単純ではない。国家が介入すれば生活水準の向上に必要な効用の最大化が望めなくなる。では、国家の介入と効用の最大化との折り合いをどうつけるべきか。討議の過程でさまざまな意見が出されたものの、具体的な解決法を提示するまでには至らなかった。翌1939年に(新)自由主義者たちの国際的な結節点としてパリに「自由主義刷新国際研究センター」が創設される。具体的な解決法の検討はこのセンターの第一回セミナーにおけるリュエフの講演に持ち越された。

 リュエフはこの講演で独創的な新自由主義の理論を公にする。それは次の4項目に集約できる。①自由主義の本質は最大効用の実現ではなく、価格メカニズムが機能することにある。②自由主義のもとでも国家の介入は可能であるが、介入は価格メカニズムと両立するものでなければならず、また均衡財政の範囲内に抑えられねばならない。均衡財政の維持が必要なのは、財政赤字によってインフレが発生すれば介入の効果が失われるからである。こうした限定付きの介入は「自由主義的介入」と呼ばれる。③具体的な介入のあり方は経済理論(科学)から導かれた選択肢のなかから、民意を体現する政策当局が選ぶ。④自由主義者と多様な社会カテゴリー、なかでも労働者たちとの対話は可能である。むしろ対話は積極的に行うべきである。ちなみに、セミナーの会場には社会党系労働組合の指導者たちが出席していたが、彼らはリュエフが定式化した新自由主義を受け入れる意向を表明した。

 リュエフの新自由主義理論は第二次世界大戦後にさらに深められる。この深化した理論によれば、(新)自由主義は自然発生的なものではない。それは人間が長期の歴史を通じて漸進的に獲得してきたものであり、法制度によって守られるべきものなのである。リュエフは1958年の論文で、ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』の冒頭の一節を引用し、新自由主義についてこう記している。「人は自由なものとして生まれた。ところが、いたるところで鎖につながれている」。自由をルソーのように理解すれば、失われた自由を取り戻すには、人から自由を奪った障害物を取り除くだけでよい。だが新自由主義者はそうは考えない。自由は数千年の歴史を経て徐々に獲得されたものであり、自由は常に失われる危険にさらされている。「ルソーとは反対に、人は鎖に繋がれて誕生したのであり、人を鎖から解き放せるのは諸制度の進歩だけである」。新自由主義はまさしく「制度自由主義」なのである。

 大陸欧州では第二次世界大戦後に欧州石炭鉄鋼共同体と欧州経済共同体が創設された。欧州共同体は、すでに1928年に、リュエフ自身が構想していたものである。リュエフはこの共同体こそが制度自由主義としての新自由主義を具現するものであると言う。その理由を彼はこう説明する。2つの共同体の基盤をなすのは「共同市場」である。人、物、資本が国境を越えて自由に移動できるこの市場は、自由主義が目標とする完全な市場である。ただし、共同市場は閣僚理事会(石炭鉄鋼共同体の場合には最高機関)、委員会、裁判所という国家に似た諸制度と、それを運用するための法規類によって支えられている。

 かくて1938年のシンポジウムとリュエフによって定式化された新自由主義は、20世紀末にアメリカを介して普及した新自由主義とは異なる。それには3つの大きな特徴がある。第一に、最大効用の実現を絶対視せず、市場経済と社会との折り合いを重視する。ドイツではこのタイプの新自由主義を「社会的市場経済と呼び、またEUの基本法であるリスボン条約(2007)には「社会的市場経済」がEUの社会理念として規定されているが、その根拠はここにある。第二に、国家の介入を財政均衡の範囲内で容認する(介入自由主義、反インフレ主義)。第三に、自由を法制度の枠組みのなかに位置づけて保証する(制度自由主義)。

展望―グローバル化と21世紀の経済

 以上に紹介した諸事実は、英語圏で出版された文献類からすっぽり抜け落ちている。今日、一般に流布している情報には大きな偏りがあると見なければならない。こうした偏りを正す作業はひとえに歴史研究者の手に委ねられていると言えよう。

 ところで、リュエフ最晩年の1970年代に長期不況が発生する。これ以降、経済面から見た世界は大きく変貌する。国際通貨制度が変動相場制へ移行し、資本の国際移動が活発化する。資本の国際移動はやがて「金融自由化」の名のもとに制度化される。これにともない対外直接投資が急増し、発展途上国の工業化と旧社会主義国の市場経済化が進む。その結果、地球規模に広がる市場経済が存在感を増し、新たに「グローバル市場」、「グローバル経済」という用語が市民権を獲得する。有力な企業の多くが企業戦略の要にグローバル市場におけるシェア拡大を据えるようになるからである。グローバル市場を支配するルールは、市場原理主義とも言えるタイプの自由主義、「ジャングルの自由」に似た制度不在の自由である。

 国民国家の内部では、グローバル化する経済に経済社会を適応させるために国有部門の民営化、雇用・労働規制の緩和、法人税の引下げなどが実施される。この動きと軌を一にして経済のサーヴィス化や情報通信技術の発展と普及が進む。国家が果たしてきた所得の再分配機能は著しく低下し、所得格差や地域間格差が拡大する。かつて肯定的な評価をともなって語られた福祉国家も完全雇用も死語となる。一方、こうした新たな諸条件のもとでエネルギーや天然資源の消費が爆発的に増え、地球環境の破壊が加速する。ケインズやリュエフが活躍した国民国家と職業団体の黄金時代は完全に過去のものとなったかに見える。

 この間に経済学の中心はアメリカに移り、数学を重視する、多分に技術論に偏った経済学が主流となる。このために、21世紀の経済社会が直面している課題に正面から対峙し、独創的な処方箋を提示した政治経済学者は、筆者の知る限り現れていない。

 とはいえ政治経済学の伝統はEU諸国において生きつづけている。その根拠はEUが共同市場と単一通貨圏(ユーロ圏)を基盤にしていることにある。いずれも国家相互間ならびに国民相互間の「共同」や「協力」が基盤になっており、その社会理念は前述したように新自由主義(社会的市場経済)である。つまり、EUは変動相場制と「ジャングルの自由」の支配するグローバル経済への、いわばアンチテーゼなのである。

 このEUでは2007-08年の世界金融危機の後に、域内の金融部門にたいする監督と監視を強化するための機構改革が実施された。この機構改革の基礎になったのはジャック・ドゥ・ラロジエールを長とする作業班が作成した報告書である。ラロジエールは1970年代半ば-90年代初頭に、フランス財務省国庫局長、IMF専務理事、フランス銀行総裁を歴任した人物である。この報告書が作成された翌年に、筆者はラロジエールから聞き取り調査を行った。その折、彼はいかにも残念そうに次のように述懐した。

 フランス政府はブレトンウッズ体制崩壊後の国際通貨制度をめぐり、長期間アメリカ政府と秘密交渉を行った。交渉の場でフランスは、制度を柔軟なものに変えるにしても、一定のルールを設けてそれをIMFに監視させるべきだと主張した。これにたいしてマネタリズムで理論武装したアメリカ政府は、為替相場を自由に変動させれば各国に最適の成長が保証される、よって国際的な監視機関は不要であると主張し、譲らなかった。結局、アメリカに押し切られて変動相場制が公認され、IMFは無力化されてしまった。しかし変動相場制移行後の現実は、アメリカの説明とは裏腹に矛盾と混乱に満ちたものであった。

 ラロジエールは口には出さなかったものの、IMFが無力化されていなければ、世界の通貨・金融秩序は一定の規律のもとに置かれ、危機が発生しても酷いものにはならなかったはずだ、との思いがあったようである。グローバル経済の管理という発想は先年、来日してメディアを賑わせた『21世紀の資本』の著者トマ・ピケティにも見られる。自由は法制度のもとでのみ意味をもつというリュエフの考え方は、EUに、そしてまたフランスの識者たちによって確実に受け継がれているのである。

 最後に一点を確認しておこう。たしかに経済面から見た世界はここ40年間で大きく変化したし、マクロ経済の管理技術も洗練されたものになった。しかし変化は現象面にとどまり本質には及んでいない。経済は市場経済のままであり、市場経済に固有の矛盾は排除できないからである。それだけに、市場経済の何たるかに政治経済学の側から深く切り込んだリュエフとケインズ、この2人が直接・間接に戦わせた古典的論争は今日なお色褪せてはいない。


[1] この小論は拙著『自由主義経済の真実―リュエフとケインズ』(知泉書館、近刊予定)を、歴史研究者向けに圧縮して示したものである。典拠についてはこの単著の関係箇所を参照されたい。

(「世界史の眼」No.10)

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