書評 小川幸司・成田龍一編『世界史の考え方 シリーズ歴史総合を学ぶ①』岩波新書(新赤版)1917、2022年1月
鹿住大助

1.はじめに:本書のねらいと高校歴史教育の変更

 本書は2022年1月から刊行され始めた岩波新書の「シリーズ歴史総合を学ぶ」の第一巻である。第二巻『歴史像を伝える──「歴史叙述」と「歴史実践」』、第三巻『世界史とは何か──「歴史実践」のために』は、本稿執筆時にはまだ発行されていない。本書の「はじめに」では、「歴史認識とは、①事実の認識(歴史実証)・②事実関係の解釈(歴史解釈)・③解釈の意味の検討(歴史批評)・④探究成果の表現(歴史叙述)という一連の実践行為(歴史実践)である」と主張する。恐らく、第二巻はその副題にある「歴史叙述」について、第三巻は世界史の「歴史実践」全般に関して論じられるのだろう。本稿では第一巻の叙述のみを取り上げて論じるが、シリーズ全体を読めば、また異なる評価になるものと思われる。

 本書が対象とする読者は、高等学校学習指導要領の改訂にともない、今年から始まった「歴史総合」科目を学ぶ高校生や、それを教える高校教師だけではない。「世界史に関心をもつすべてのみなさんを読者に想定し・・・『世界史は何のために探求するのか』という問いについて、私たちと一緒に考えて」欲しいとある(「はじめに」より)。高校生に「歴史総合で理解すべきポイント」を説明したり、教師に「歴史総合授業の作り方」を指南するものではない。授業で世界史を学ぶための「問い」を例示するのではなく、「そもそも世界史はなぜ、何のために学ぶのか」という「問い」を考えさせることが主眼であるという。

 ここで、高等学校の学習指導要領改訂と「歴史総合」科目の新設について簡単に紹介しながら、本書の意図と構成を読み解いてみる。今回の改訂により、歴史科目は従来の「世界史(A・B)」必修、「日本史(A・B)」選択のカリキュラムが変わり、必修科目として「歴史総合」を全生徒が学習し、その上に選択科目の「世界史探究」「日本史探究」が置かれることになった。

 「歴史総合」では、「近現代の歴史の変化に関わる諸事象について、世界とその中における日本を広く相互的な視野から捉え、資料を活用しながら歴史の学び方を習得し、現代的な諸課題の形成に関わる近現代の歴史を考察、構想する科目」(「【地理歴史編】高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説」、123頁より)とあるように、世界や日本の現代的諸課題形成に関わる近現代の歴史を学習することになった。歴史科目だけに限ったことではないが、「世界史探究」「日本史探究」の名称が示すように、「問い」に基づいて生徒自身が歴史的事実を検討したり、解釈を導き出したりする「探究学習」が重視されているのも特徴である。

 また、「歴史総合」の内容は、大きく「A.歴史の扉」「B.近代化と私たち」「C.国際秩序の変化や大衆化と私たち」「D.グローバル化と私たち」の項目に分かれる。「・・・私たち」が項目名についているのは、それぞれの時代が生徒自身の生きる現代の諸課題にどう関わるか、考察できるようになることを意図しているからである。

 本書『世界史の考え方』は、この四つの大項目のうちB、C、Dに対応して、「Ⅰ.近代化の歴史像」「Ⅱ.国際秩序の変化と大衆化の歴史像」「Ⅲ.グローバル化の歴史像」の三部構成をとる。また、第一部は「第一章 近世から近代への移行」「第二章 近代の構造・近代の展開」からなる。そして、第二部の「第三章 帝国主義の展開」「第四章 二〇世紀と二つの世界大戦」、第三部の「第五章 現代世界と私たち」へと続く。各章では、それぞれが対象とする時間軸上において、これまでの歴史学でどのよう「問い」があったのか、それがどのように変化してきたのか、その変化によってどのような歴史像が導き出されてきたのかを考察する。

 そして本書は、これを考察するための叙述方法に特徴がある。各章では、出版された年代や、対象地域、視点や解釈の異なる三冊の著名な歴史書(「課題テキスト」)を主に取り上げて論じる。議論は「対話」の形式をとり、編者の小川幸司と成田龍一に加え、各章で一人ずつ課題テキストの著者や、解説者をゲストに呼び、一冊目・二冊目の歴史書とその「問い」が描き出す歴史像やその問題点を検討し、対象となる時代に対する歴史学の認識がどのように変化してきたのかを論じている。そして各章末には、対話の内容をまとめる「問い」が示され、歴史総合での学習を促そうとする。

 「課題テキスト」以外にも関連する文献を取り上げているが、三冊のテキストは、新書や文庫版の書籍が多く、比較的手に取りやすい。本書で編者やゲストが繰り広げる対話を読むことで、間接的にこれらテキストへの理解が促されることだろう。ただし、その内容が初学者向けにも「分かりやすい」文献ばかりでは決してない。むしろ、「名著」であるがゆえに、著者が置かれていた時代状況や内容についての関連知識を持っていた方が読みやすく、また、意味を深く考察すればするほどよく理解できるようになるような文献が多い。

 以下では、各章の概要を簡単に紹介する。なお、各章で編者とゲストが展開する対話の論点は多岐にわたっており、以下は「要約」というよりは、「端折った紹介」であることをご容赦いただきたい。

2.本書の概要

 第一章では、近世から近代への移行期の歴史像を論じるため、大塚久雄『社会科学の方法』(岩波新書、1966年)と川北稔『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書、1996年)、岸本美緒『東アジアの「近世」』(山川出版社《世界史リブレット》、1998年)を取り上げている。大塚は資本主義と市民社会が同時に成立したイギリスをモデルに、各国の歴史を比較・分類して近代世界像を描いた。一方で、川北の文献では資本主義近代の歴史を、世界商品の生産・流通をコントロールし、世界システムの中核となった「支配する側」と、被植民地化されシステムの周縁に位置づけられた「支配される側」の構造化の歴史として描く。川北の議論では、現代に生じている格差の問題は、国ごとの発展段階の問題ではなく、世界規模での構造が問題となるのだ。さらに、岸本の『東アジアの「近世」』を取り上げながら、前近代の各地域の国家・経済的特色が、現在にもつながっていることが、著者である岸本の回想や解説と、編者との対話を通じて論じられる。

 第二章では、フランス革命と産業革命、1848年革命という近代史上の三つの転換点をめぐる歴史像を論じる。「課題テキスト」は遅塚忠躬『フランス革命』(岩波ジュニア新書、1997年)と、長谷川貴彦『産業革命』(山川出版社《世界史リブレット》、2012年)、良知力『向こう岸からの世界史』(未来社、1978年)である。ここでは、まずはフランス革命の捉え方をめぐって、遅塚の著書を中心に、フランス革命が「劇薬」化したことを「相対的後進性」に求めた歴史解釈を紹介する。さらに、遅塚以外の論者を取り上げながら、近代化を推し進めた革命主体や事件の層に注目するか、革命主体が生み出される状況や構造(傾向)に注目するかなどの着眼点の違い、明治維新との比較をめぐる論点を検討する。次に、長谷川の産業革命論を取り上げ、人類史上の分水嶺と評価する視点、グローバルヒストリーにおける産業革命分析の視点、推進主体としての発明家だけでなく民衆層への注目など、歴史家の視点を紹介する。さらに、長谷川も対話に登場し、1848年革命をめぐって良知の『向こう岸からの世界史』が指摘するように、支配と被支配の重層化など、単純化されえない複雑なありようを描くことが重要であると指摘される。

 第三章は、帝国主義や国民国家形成の時代におけるナショナリズムや人種論を論じた歴史が検討対象となる。本章では、江口朴郎『帝国主義と民族』(東京大学出版会、1954年)、橋川文三『黄禍物語』(筑摩書房、1976年)、貴堂嘉之『移民国家アメリカの歴史』(岩波新書、2018年)が「課題テキスト」である。江口の世界史は、大塚の歴史発展の比較分析としての世界史ではなく、世界史全体の構造分析である。その歴史像は、帝国主義と民族を軸として、各国特殊な資本主義発展や封建的な要因のあり方と、世界的な資本主義的体制とを統一して把握しようと試みる点に特徴がある。二冊目の橋川は、ヨーロッパにおける「黄禍」観念の根深さや、19世紀の黄禍論に対する中国と日本における対称的な反応の現れ方から、近代日本の特異な人種観の変遷が論じられ、アジアにおける盟主としての日本人観が作られていく過程を独自の視点で描き出している。また、対話の中で「人種」も「民族」も歴史的に形成されてきた概念であり、操作的に用いられてきたことが指摘される。その上で、貴堂との対話を通じては、「大塚久雄が描いたような資本主義と市民社会を実現した『近代』像とは異なり、奴隷制がなおも存続し、それが終了したかに見えてもなお、国民から排除する人々を『人種』という形で作り出し、その抑圧的な政治によって国民国家の統合を実現していく『近代』のありよう」を指摘する。近代の帝国主義時代にあって、国民国家とともに作り出された人種や民族の問題が、現代の人種差別や排外主義、移民への抑圧という、どこでも、誰にでも起こりうる課題につながっていることが明らかになる。

 第四章では、20世紀の世界史像について、丸山真男『日本の思想』(岩波新書、1961年)、荒井信一『空爆の歴史』(岩波新書、2008年)、内海愛子『朝鮮人BC級戦犯の記録』(勁草書房、1982年)の三冊を中心に、戦時−戦後の連続性めぐる歴史学の論点を開示する。丸山は、「戦後歴史学」と似て、近代日本における「封建遺制」を指摘し、日本の特殊性=問題を論じる。日本の近代には、前近代と、超近代が雑然と同居しているという認識に立ち、権力の核心たる天皇制が「精神的機軸」としてこの事態に対処しようとする特殊な状況を生み出す一方で、主体としての個人を生み出すことができなかったとする。二冊目の『空爆の歴史』では、20世紀の戦争を空爆の視点から考察し、それが文明/野蛮という非対称の認識を背景になされる「大量虐殺」行為であると把握する。帝国主義の植民地戦争における空襲から、第二次大戦中の日本軍の生物兵器爆弾投下、アメリカが使用した原爆の正当化、ベトナム戦争時のナパーム弾やクラスター爆弾、冷戦体制崩壊後の「空からの一方的な戦争」に至るまで、「非対称性」が背後に連続して見られることを指摘する。本章のゲストとして登場するのは永原陽子であり、内海愛子の著作を論じながら、「戦争責任」ではない、「植民地責任」の考え方を解説し、世界史の構造的問題が連続していることを指摘する。

 最後の第五章では、第二次世界大戦後を「グローバル化」の時代として、どのような歴史像が描かれてきたのかを論じる。「課題テキスト」は、中村正則『戦後史』(岩波新書、2005年)、臼杵陽『イスラエル』(岩波新書、2009年)、峯陽一『2100年の世界地図 アフラシアの時代』(岩波新書、2019年)であり、ゲストとして登場するのは二冊目の著者の臼杵である。まず、中村の『戦後史』にでは、日米関係論を軸にした内発的発展論を構想し、敗戦国が冷戦体制下でどのように歩んできたのかを描く。ただし、中東情勢の変化に対応して「戦後」が終焉に向かうなど、戦後日本の歩みを「グローバル化」の歴史像として把握する必要があると、編者の成田は指摘する。その上で、臼杵の『イスラエル』をとりあげ、「多様な内実をもつイスラエル国民を統合するためにホロコーストという歴史的経験が重視され、またテロをおこなうパレスチナ人という表象された『敵』への対決姿勢を強調することが、政権の支持基盤をつくっている」とする。臼杵自身はイスラエル国家では、その植民地主義的な国家の出発点を歴史としてどう描くかが問題となることや、イスラエル国家=「ユダヤ人の国家」ではなく、五人に一人はイスラエル国籍を取得したアラブ人であり民族と国籍でズレがある複雑な民族構成を認識しないと、イスラエル国家の性格を見誤ることになるという。最後の峯の『2100年の世界地図』は、グローバル・ヒストリーの視点に立って、2100年を予測するものである。世界の人口重心が21世紀中に「アフラシア」に移動し、現在の「私たち」が「他者」と認識する人々によって「成長」が担われるのである。近代化からグローバル化へと展開してきた世界史は、「西洋」の思想がそれを推進したのであり、世界史が提起する現在の課題も「西洋」の産物である。峯は「アフラシア」という「非西洋」における「非近代」に今後の世界史の可能性を見いだす。つまり、「未来」から見て何が「現代的諸課題」なのかを考えることでより多面的な検討が可能となるのだ。

3.おわりに:問題提起

 以上のように、本書は「歴史総合」が扱い、区分する時間軸に沿って、これまでの歴史学がどのような歴史像を提供してきたのか、それが変化してきたのかを検討し、現在地を確認している。また、近代化以降の世界史が作り出してきた現代的諸課題とは何かを、歴史像の検討を通じて示している。今年から必修科目「歴史総合」を学び始めた高校生の多くには、「課題テキスト」の著者や彼らが生きた時代についても理解しなければならず、読みこなすのが難しい書籍であるかもしれない。「歴史総合」という教科の内容を理解する・考えるためというよりは、教科の背景をよりよく理解し、教科の中で何を問うべきかを考えるための書籍であるといえよう。

 ところで、既に2017年には中学校の学習指導要領も改訂され、昨年度から新しい社会科が始まっている。高校の「歴史総合」や「世界史探究」で生徒が探究する世界史は、カリキュラム上でその上に位置するのである。改訂以前からも、中学校社会科の歴史的分野において世界史学習はあった。日本史が中心ではあるが、教科書の大項目では古代・中世・近世・近代・世界大戦・現代の別に、それぞれの時代の世界史(古代文明の始まり〜冷戦体制)が含まれている。中学校の社会においても「主体的・対話的で深い学び」(いわゆるアクティブ・ラーニング)が目指され、知識の詰め込みではない学習が強調されている。

 本稿のおわりに、本書の趣旨に基づき、筆者の関心から問題提起をしたい(本書に対する批判ではない)。それは「問い」の難しさについてである。本書が一貫して重視するのは歴史の「問い」である。本稿のはじめにみたように、「そもそも世界史はなぜ、何のために学ぶのか」という「問い」を考えさせることが主眼であるという。恐らく、本書が目指しているのは、生徒自身が自らこの「問い」の言葉を発し、自ら世界史を探究するようになることであろう。

 ところで、筆者が大学で担当する授業の受講者に「歴史学習とはどのような行為か」を調査したところ、「正しい知識を記憶する」や「教科書やWeb等から妥当な歴史解釈を探す」よりも、「歴史的事実を探究する」「自らの視点・解釈をもって歴史を語る」「他者と歴史を語り合う」という選択肢に強く共感しており、歴史学習は主体的な学習であると認識していた。本調査の対象となった学生は、中学・高校の学習指導要領改訂前の学生である。

 もちろん、この結果をもって全国に一般化できるわけではないが、従来の学校教育の歴史教科を通じても、学習者は歴史学習に「主体的な探究学習」のイメージを持っていたのかもしれない。それが、「受験のため」や「仕方なく」に変わる場面はどこにあるのだろうか。

 本書各章の最後には、対話のまとめとして、「『歴史総合』の授業で考えたい『歴史への問い』が例示される。例えば、第一章であれば、「①『イギリス・フランス・アメリカが歴史発展のモデルである』という歴史の見方は、どのような点をその根拠にしているだろうか。また、そうした見方の問題点は、どこにあるだろうか」などの「歴史総合」の「問い」を提示するのだ。

 この「問い」はどこで、誰に、どのように投げかけられるのだろうか。もちろん、第一には本書の読者であり、対話形式による歴史像の多面的検討という手法をとる本書の各章を読み直し、よりよく理解させるためであろう。

 もし、これが「歴史総合」の授業・クラスという場で、教師が投げかけるのであれば、生徒は一斉に第一章の記述から正解を探そうとするだろう。そして適切な箇所をなるべく早く見つけ、マーカーで線を引こうとするだろう。そのとき、生徒は、自らの行為を「問い」に対する主体的な探究だと思っておこなうのだろうか。

 一方で、もし、生徒たちに本書が教材資料として配付されていなければ、この「問い」は「正解のない問い」として認識され、これをめぐる生徒同士の対話が求められているのだ、あるいは他の教科書や副読本などから検討する材料を探すのだ、と理解し、他者との対話に参加したり、検討材料を探そうとする行動をとるだろう。「問い」に対する「正解の内容」が定まらないのであれば、クラスの中で「正解の行為をすること」が次善の策になるのだ。そのとき、生徒は、自らの行為を「問い」に対する主体的な探究だと思っておこなうのだろうか。

 授業・クラスという空間では、教師と生徒に非対称の関係性が存在する。なぜなら、教師はルールを定め、発問・説明・指示をおこない、生徒を評価するからである。それは教育という営みでは当然のことであり、だからこそ生徒の学びをつくることができる。一方で、生徒は閉じた教室空間の非対称の関係性の中で、与えられた「問い」に取り組む。「何が正解か」には非常に敏感である。教師の「問い」は関係性の中で正解行為を促すのである。

 生徒は「そもそも世界史はなぜ、何のために学ぶのか」という問いに対して主体的に探究しようとするイメージを持ちつつも、授業が進むにつれて(あるいはこれも非対称の関係性である受験が近づくにつれて)正解行為を探す学習へと変わっていないだろうか。本書各章末の具体的な「問い」を生徒自らが発して探究するような場を、大学教育を含む学校教育の現場、小−中−高−大をつらぬく歴史教育のカリキュラムにつくることが課題であると考える。

(「世界史の眼」No.28)

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