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「世界史の眼」No.3(2020年6月)

おかげさまをもちまして「世界史の眼」もNo.3を迎えました。

藤田進
新刊紹介:イスラム国暴力支配をはね返したロジャヴァ革命の記録―ミヒャエル・クナップ、アーニャ・フラッハ、エルジャン・アイボーア/山梨彰訳『女たちの中東 ロジャヴァの革命』(青土社、2020年刊)

山崎信一
論文紹介:茨木智志「歴史的展開から見た日本の世界史教育の特徴」

藤田進さんには、今年2月に翻訳が刊行された大著、ミヒャエル・クナップ他、山梨彰訳『女たちの中東 ロジャヴァの革命-民主的自治とジェンダーの平等-』(青土社、2020年)を評していただきました。青土社の本書紹介ページはこちらです。山崎は、日本における世界史教育の展開を精緻に追った茨木智志さんの論考「歴史的展開から見た日本の世界史教育の特徴」(『歴史教育史研究』17号)を紹介しています。

予断を許さないながらも、コロナウィルス感染症をめぐる状況も少しずつ落ち着いて参りました。世界史研究所は、読者の皆さまを励みに、この問題も含め、今後も多様な論考をお届けして参ります。みなさま、引き続き気をつけてお過ごし下さい。

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新刊紹介:イスラム国暴力支配をはね返したロジャヴァ革命の記録―ミヒャエル・クナップ、アーニャ・フラッハ、エルジャン・アイボーア/山梨彰訳『女たちの中東 ロジャヴァの革命』(青土社、2020年刊)
藤田進

 2011年春「シリアのアラブの春」として始まったシリアの民主化要求運動が、大国の軍事介入と「イスラム国」の凄惨な暴力がもたらした野蛮な戦争と国内外の何百万人のシリア難民の群れに覆われた「21世紀最悪の人道危機」に帰結した事態を前にして、苛酷な状況下において民主主義的なシリア社会の構築に向けた革命的な取り組みが繰り広げられていたのを伝える本が登場した。

 本書は、文化人類学者、歴史家、市民運動家のドイツ人女性たちがシリア北部のクルド人地域に出現した「ロジャヴァ革命」について現地での詳細な聞き取り調査を踏まえて共同執筆したものである。ロジャヴァ革命というクルド人による現在進行形の取り組みを、革命における女性の重要性に焦点を当てて描き出した本書は、クルド人についての内在的理解を深めさせるだけでなく、クルド人を抱えている中東諸国にとってクルド問題がいかに大きな影響を及ぼしているかを知らせしめる第一級のクルド文献である。

 ロジャヴァは、トルコ―シリア国境沿い地域のクルド人住民の多い一帯をさす地名であり、そこには多様なエスニック・グループの住民も住んでいる。シリア政府は1965年にトルコ国境沿い地域を「アラブ人ベルト」とする決定を下し、73年アサド政権は同地域のクルド人村落に隣接した41のアラブ新村をクルド人の土地を強制収容して創設し、ユーフラテス川のダム・貯水池建設で家を失ったアラブ人家族らを入植させ、土地と仕事を与える優遇政策をとった。一方土地を奪われたクルド人農民は「外国人」宣告をされ、自分の財産を持つことも、家を建てることも古い家を修理することも禁じられた。ロジャヴァはシリアの最貧困地帯とされ、「無国籍」のクルド人には身分証明書がなく、市民権を奪われて子供の出生や結婚の登録も出来ず、土地を奪われたクルド人農民の多くはシリアの大都市への出稼ぎ労働を強いられ、子供たちも学校を終えるとシリアの都市で低賃金労働者になった。バース党政権下でロジャヴァはシリアの最貧困地帯とされ、クルド人には差別政策が加えられた。

 ロジャヴァのクルド人女性の多くは市民権を拒絶されたうえ公的な生活からも排除され、伝統的社会の家父長的支配の虜とされて夫や父親に経済的に依存し、家庭内暴力も流布していた。女性の救いの道となったのは、「社会の解放は女性の解放なくしては不可能である」と説くクルド解放運動指導者でクルディスタン労働党党首アブドゥラ・オジャランが1980、90年代にシリアで主宰した草の根運動だった。それに参加した数千人のクルド人女性たちは「自らの人生に責任を持ち、自ら決定できるように努力する」という考え方を育まれ、自らの解放とすべての女性の解放のための闘いを実践しようと決意していった。女性たちは一軒ずつ訪問して家にいる女性に解放のための運動に加わるように説得して回り、草の根で女性たちの組織化をはかっていった。

 2011年「シリアのアラブの春」を迎えたクルド人はクルド差別政策の改善を期した。しかし、アサド独裁政権打倒のため結成された「自由シリア軍」もバース党政権に代わる新シリア政府を標榜する「シリア国民評議会」も指導部はイスラム主義者に占められており、アサド政府と同じように「シリアはアラブ人・イスラムの国家」、「クルド人は外国人」との見解に立っていた。2012年7月、クルド人運動はロジャヴァ地域をバース党政府支配と切り離して「ロジャヴァ三州」宣言に踏み切り、独自の「民主主義的自治」作り=ロジャヴァ革命をスタートさせた。

 「民主主義的自治によるコミューン体制の樹立」構想に沿って、「女性の自由」「エスニック的・宗教的多様性」「労働者階級重視」を根本とする「社会的契約」に基づいた社会作りを目ざし、シリア国家から離脱しない「非中央集権と民主主義」に基づく独自の自治が志向された。

 「民主主義的自治」は、自己防衛手段たるクルド人民防衛隊と3-4割を占める女性防衛隊を備えていた。ただしその軍事力は「社会を防衛するための治安部隊」とされており、「自己防衛」の目的は敵に攻撃の意図を諦めさせることにあるとされた。ロジャヴァは徹底した民主主義をめざし、利潤のための資本主義経済を拒否し、女性防衛部隊の多くは家父長制的な支配をきっぱりと否定した。ロジャヴァはそれ故に「イスラム国」と同盟者に攻撃された。

 2015年1月、コバニを占領したイスラム国との4カ月に及ぶ激しい戦闘で500人の人民防衛隊と女性防衛隊の戦闘員が殺され、ほとんどの家庭も殉教者を出し、都市の建物のおよそ80パーセントが破壊された後に、コバニ市も365村落のほとんども解放された。それ以後もイスラム国占領からのロジャバ諸地域の解放が続き、人民防衛隊と女性防衛隊がエスニシティの混在するロジャヴァ諸都市を防衛し差別のない自治を運営したことによって他の住民たちの支持が拡大し、アラブ人、アラム人、トルクメン人、クルド人は協力し続けることになった。2015年10月、対イスラム国共同戦線と自己統治による民主主義的シリアの樹立をめざすクルド人・アラブ人・アラム人合同の「シリア民主軍」が創設され、翌16年3月「ロジャヴァ・北部シリアの連邦制」宣言で、「非中央集権と民主主義」に基づく解放地域がロジャヴァ3州の外部にまで拡大した。

 本書が描き出した「ロジャヴァ革命」における「民主主義的自治」は、2019年以降トルコをはじめ大国の軍事的干渉によって再び潰されていく方向にあることが危惧される。

(「世界史の眼」No.3)

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論文紹介:茨木智志「歴史的展開から見た日本の世界史教育の特徴」
山崎信一

 茨木智志氏による論文「歴史的展開から見た日本の世界史教育の特徴」(『歴史教育研究』17号(2019年)、1-17頁)は、近現代、すなわち明治以降の近代的学校制度の確立期から現在までの、日本における世界史教育の歴史を扱っている。この論文は、英語に訳され、Minamizuka Shingo (ed.), World History Teaching in Asia: A Comparative Survey (Birkshire, 2019)という論集に所収されている。1 この論集は、アジア諸国の世界史教育を比較・検討したものであり、この論文は、世界史教育の国際比較を考える上でも大きな意義を持っている。

 この論文では、日本近現代の世界史教育を大きく二つの時期、すなわち第二次世界大戦前の「教育勅語」を指針とする教育の行われた時期と戦後の「教育基本法」に基づく教育の行われた時期に分け、さらにそのそれぞれに三つずつの時期区分を行い、合わせて6つの時期に分けて分析を行なっている。以下にその要点をまとめてみる。

 最初の時期は、近代学校教育の開始(1872年の「学制」発布)から、1898年頃までの時期とされている。この時期における外国史教育は、主に欧米言語から翻訳された教科書やそれをもとに日本人の手によって作られた教科書がもとになっており多様であったが、しだいに古代オリエントから19世紀欧米の発展にいたる「西洋史」教科書に収斂されてゆく。第二の時期は、1898年頃から1930年代まで、「東洋史」が提唱された結果、日本史・東洋史・西洋史に三分された歴史教育が展開した時期である。この時期には、制度として取り入れられるには至らなかったが、東洋史と西洋史を融合した世界史が提唱された。第三の時期は、1930年代から1945年の敗戦までの時期で、教育の戦時体制化の中、外国史は「国史」や「大東亜建設」に従属し資するためのものと位置づけられた。

 第二次世界大戦後、日本の教育制度は根底から変化した。その最初の時期は、1945年の敗戦から1955年頃にかけての時期で、教科としての社会科の成立と、科目として東洋史と西洋史に代わって世界史(1949年より実施)が導入された時期であり、世界史教育が開始されるという転機となった時期である。世界史の導入は突然のものであり、また東洋史や西洋史のような学問的背景があるわけでもなかったことから、社会科教育の一環として、単元学習や生徒の自主的な学習を重視した世界史教育のあり方がさまざまに模索された時期でもあった。戦後の第二の時期は、1955年頃から1989年頃までであり、世界史は生徒の学習を促すものから、暗記すべき事項の羅列の色彩を強めた。また、学習指導要領が文部省告示として規定力を強めた。途中1978年の学習指導要領では、ヨーロッパ中心史観の克服も意図されたが限界もあった。またこの時期に、世界史教育者の中から、定型化する世界史にあらがい、世界史とは何かを問う実践が模索された点も重要である。戦後の第三の時期は、1990年代以後の時期となる。1989年の学習指導要領改訂により、高等学校の社会科が解体され、地理歴史科の必修科目として世界史が位置づけられた。

 この論文には、多くの興味深い点がある。まず、外国史教育と世界史教育は同じものではないという点、そして「世界史」という枠組みが、第二次世界大戦後の歴史教育の中である種唐突に始まった点、そしてそれ故に、多くの教育者がそのあり方を試行錯誤しながら模索してきた点である。学問分野としては、戦後においても戦前以来の日本史・東洋史・西洋史の三分が一般的であり、世界史をまず形作ろうとしたのは歴史教育に携わる人々であり、その成果の上に現在着実に広がりつつある世界史研究も位置するのだろう。また、外国史教育・世界史教育が、戦前から現在まで、多くの政治的介入にさらされてきたという点にも気づかされる。それは、自由民権運動抑圧のための小学校からの外国史学習の削除から始まり、1930年代に頂点に達した。そして戦後においても、教科書検定強化や高校社会科の解体などの形で継続してみられている。

 著者は、論文中で「自国史教育と世界史教育は一種の緊張関係にある」と述べている。戦前の外国史教育が自国史教育に従属したものとなっていったことへの反省が、戦後の世界史教育のひとつの出発点であり、いずれの社会においても、自国史教育を行わないという選択肢がない以上、世界史が自国史を相対化する視点を提供し続けることは、今後においても重要であろうと思われる。図らずも、最新の学習指導要領改訂においては、高等学校の世界史が必修でなくなり、代わって日本史と世界史をいわば融合した新科目「歴史総合」が必修科目として位置付けられた。また、学習指導要領において歴史総合の目標として「我が国の歴史に対する愛情」を深めるとあげられたことは議論と批判を呼んだ。日本の近現代には、言うまでもなく大きな「負の歴史」が存在している。そして、それを「負の歴史」として理解する上でも、自国史に従属しない世界史の提供する視点が重要なはずである。

1 World History Teaching in Asiaは、2010年に始まった共同作業の成果である。当時アジア世界史学会の会長をしていた南塚が、アジア各国の研究者に呼び掛けて、賛同してくれた人たちで、開始した。参加してくれたのは、日本から茨城智志(上越教育大学)、吉峰茂樹(北海道有朋高校)、韓国からはSunjoo Kang (Gyeongin National University of Education)、中国はZhang Weiwei(Nankai University)とYang Biao(East China Normal University)、ベトナムはTa Thi Thuy(Institute of History)、シンガポールはSim Yong Huei とChelva Rajah (National Institute of Education)、フィリピンのFrancis Alvarez Gealogo(Ateneo de Manila University)、インドネシアのAgus Suwignyo(Gadjah Mada University)、Satyanarayana Adapa(Osmania University)の皆さんであった。途中で、東京において一回、フィリピンのセブで一回の研究会をおこない、アジア世界史学会のシンガポール大会で中間報告を行ったりして、2017年に原稿を集め、その後、Patrick Manning(ピッツバーグ大学)教授のもとでネイテイヴ・チェックをしてもらって、原稿を完成した。2018年に入稿し、校正段階で、Manning教授らの助言をもらった。また、この間、世界史研究所は、原稿の収集、整理、校閲などで粘り強い作業を続けた。本書は以上のみなさんの協力・助力の産物である。(南塚信吾)

(「世界史の眼」No.3)

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