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世界史寸評
外から見た日本の平和:ヨハン・ガルトゥング再考
南塚信吾

 わたしたちの著した『軍事力で平和は守れるのか』(岩波書店、2023年)でも紹介したように、1959年にオスロ平和研究所を創設して「平和学」の祖と言われるヨハン・ガルトゥングは、1958年に、平和を定義して、武力紛争など「直接的暴力」を克服することによって達成される「消極的平和」と、社会構造に生じる貧困や差別などの「構造的暴力」を克服することによって達成される「積極的平和」を分けることができ、とくに後者の平和が重要になってきていると主張した(かれの積極的平和の概念は、安倍元首相の「対米追従」の積極的平和主義と用語は似ているが内容は大いに異なるものであり、ガルトゥング自身、「印象操作」だと批判している)。そのガルトゥングは、2017年に『日本人のための平和論』(ダイヤモンド社)という著書を著している。この書において、ガルトゥングは、日本における平和論が「外から」はどのように見えているのかを示してくれている。同書については、すでに法律家の大久保賢一氏らの紹介がある(ヨハン・ガルトゥング著『日本人のための平和論』を読む (hankaku-j.org))が、歴史学の面からも検討されてよいと考える。

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 ガルトゥングはまず、日本の安全保障観が「外から」どのように見えているのかを、以下のように指摘している。筆者の観点から少し断定的にまとめてみた。

  1. 日本は外からは完全にアメリカの「従属国」であり、「占領」下にある「植民地のレベル」にあると見られている。日本は「対米追従」をやめて、アメリカから「真に独立」すべきである(『日本人のための平和論』14-16、115-116、122ページ)。 
  2. 米国は日本の憲法第9条も邪魔だと考え始めている。日本国憲法は、もともと米国が統治しやすいように「押し付けた」ものだが、米国は、第9条がなくなれば、いまや変化した米国の世界戦略に日本を有効に使えると考えている(14-15ページ)。一方、「憲法9条があるために、これまで日本では現状を変えるための平和政策が生まれてこなかった。ほとんどの日本人は9条がすべて面倒を見てくれると信じ、代替案が必要などと考えもしなかった」。「いざとなったら憲法9条が守ってくれる。その発想がいまの日本を危うくしているのではないだろうか。」という(223-224ページ)。
  3. 沖縄は「琉球処分」の前に戻って、「自立」すべきである。例えば、日本の中の「特別な地位」を認められるべきである。そして、沖縄の米軍基地は全廃すべきである(40-43ページ)。
  4. すべての米軍基地を日本から撤退させればいい。日本は米軍基地などなくても安全を確保できる。米国は基地と主要兵器を各国の中心から離れた周辺に置いているが、日本ではそうではない。そういう基地がない方が創造的な平和政策が実施しやすくなる(33-35ページ)。
  5. 国を守るためには、外交努力だけでなく武力による防衛も必要である。だが、日本は攻撃的な武器を持たず、徹底して「専守防衛」を維持すべきである。とくに長距離兵器を持たないなどの原則を立てるべきである(44-53、120-121ページ)。これに関連して、原子力発電とも決別すべきである(125-128ページ)。
  6. 尖閣、北方4島などは関係各国の「共同所有・管理」にするのがよい(61-63、116-118ページ)。
  7. 中国の考え方を理解すべきである。向こうから戦争してくることはあり得ない。中国はこれまで一度も日本本土を攻撃したことがない。中国は自分の文明を他より優れていると考えて、傲慢かもしれないが攻撃的ではない。むしろ防御的である。中国はヨーロッパ諸国や米国と違って、軍事力をひっさげて広大な世界に進出したことはない。中国に日本を攻撃する意図があるとは思えない。日本人は、「私たちは彼らを攻撃したことがある。彼らは報復を計画しているに違いない。ゆえに彼らは危険だ」というパラノイアを懐いているのだ(74-80ページ)。 
  8. 北朝鮮とは「和解」のチャンスはある。日本が植民地支配と戦争中に与えた損害にたいして政府が明確な「謝罪」をし「補償」をすれば一歩前進する。「慰安婦問題」については、北朝鮮は韓国ほどヒステリックではない。「拉致問題」は日本が戦争中までに行った強制労働などへの「単純な復讐」なのである。北朝鮮の核保有は「抑止力」のためであり、国力の誇示のためである。経済制裁はまったく「逆効果」である(91-100,245-259ページ)。北朝鮮が望んでいるのは、平和条約締結、国交正常化、核なき朝鮮半島である(119ページ)。
  9. 日本は関係各国と歴史的事実を共同で確定し、「和解」を探るべきである。慰安婦問題、南京事件、真珠湾攻撃、原爆投下問題について、関係国とこれを行うべきである(101-114ページ)。
  10. 「東北アジア共同体」を構想するべきである。そこには中国、北朝鮮もメンバーにはいるべきである。諸国間の緊張・対立はアメリカを利するだけである(118-120ページ)。

 要するに、日本は「対米追従」をやめて、近隣アジア諸国と対話し、独自の外交と防衛の政策を追求すべきであるというのである。

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ガルトゥングは、以上のような指摘をしたうえで、次に、アメリカの対日政策について、以下のように言う。

  1. 米国が他国に行う軍事介入の目的は、テロとの戦いのためでも、人権や民主主義の擁護のためでもなく、覇権主義の行使であり、経済的利益の確保なのである(28ページ)。
  2. こういう覇権主義を進めるアメリカは頼れる仲間を次第に失いつつある。中南米、ヨーロッパで足場を失いつつある。そして、今や中国の挑戦を受け始めている。そういう時、「この手詰まりを打開するために日本を使おうとしている」のだ(30ページ)。
  3. 米国は日本に対し、ただ米国に守られているだけでなく、米国とともに戦闘に参加させる必要があると考えている。そのためには憲法第9条は邪魔だと考えている(14-16、36.ページ)。
  4. 日本が他国に攻められたとしても、米国が日本を助けに来るとは思えない。そのことは強く疑うべきである(36ページ)。
  5. 「核の傘」などということは信じられない。米国が日本を守るために中国と核戦争に突入するリスクを取るということは信じられないことである(36-37ページ)。
  6. いま多くの日本人は、米国に守ってもらわなければ日本の安全は守れないのではないか、そのためには「集団的自衛権」を行使して米国に協力しなければならないのではないか、日本はテロとの戦いに参加する道義的義務があるのではないか、と思っているように見受けられる。「集団的自衛権」は日本を守るどころか、日本の安全を脅かすものでしかない。それは日本をより危険な状況に陥れる。「集団的自衛権」は、全くのナンセンスであり、プロパガンダである。それは軍事同盟であり、「米国による他国攻撃に参加する権利」なのである(16-18ページ)。
  7. 中国や韓国の人々は、米国と、米国に動かされる日本の「タカ派」を恐れている。日本は、他国からは、それほど「安全な国」だとは見られていない、むしろ「危険な国」と見られていることを自覚しておく必要がある(21-23ページ)。

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 ガルトゥングが示すこのような「外から」の見方によって、われわれは自分の置かれている場所を見つめなおすことができるのではないだろうか。われわれのかなりの人は、日本は平和憲法を持っている平和な国民なのであり、さらに日米同盟によりアメリカに守られているのだと、思っているかもしれない。ガルトゥングは、「外から」見れば、それは「幻想」だというのだ。

 しかし、われわれはそれを「幻想」と言われると反発する。それは、われわれの思考があまりにもアメリカべったりになっているからではないだろうか。いったい、日本はいつからこのようにアメリカべったりになったのだろうか。

 考えるに、1950年代-70年代においては、日本はアジア諸国や社会主義圏との関係も尊重して、ある程度自分たちの行方を模索していたのではなかろうか。1955年のバンドン会議、56年の対ソ交渉、1972年の日中国交回復などを見ればわかるだろう。十分な検証が必要ではあるが、転機は1979年頃ではなかろうか。「日米同盟」という用語が使われ始めたのは、1979年ごろからである(冨田佳那「「日米同盟」言説の出現」『慶應義塾大学大学院法学研究科論文集』2019)。それが既成事実となり、大義になり、日常になる。1980年代の中曽根・レーガン時代はそうであった。そして、今やわれわれの思考はあまりにもアメリカべったりになってしまっている。政治だけでなく、文化もメディアもそうである。歴史学もそうでないといいのだが。ガルトゥングの言う事は、日本はもっと創意工夫をした外交と安全保障の政策を追求すべきだということであろう。なお、「対米従属」がもたらす諸問題については、最近出た内田樹・白井聡『新しい戦前』(朝日新書、2023年)でも論じられている。

(本論での出典は、ヨハン・ガルトゥング著 御立英史訳『日本人のための平和論』ダイヤモンド社、2017年―Johan Galtung (with Miguel Rivas-Micoud), People’s Peace: Positive Peace in East Asia & Japan’s New Role, Tuttle-Mori, 2017)

(「世界史の眼」No.46)

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世界史寸評
「広島ヴィジョン」を考える
南塚信吾

 2023年5月19日から21日のG7広島サミットが終了した。岸田首相は「歴史的な意義」を強調したが、たしかに「歴史的」に重要なメッセージを発した会であった。会が発した中心的なメッセ―ジは、「首脳宣言」と「広島ヴィジョン」であろう。

 「首脳宣言」は、『日本経済新聞』2023年5月21日に全文が掲載され、『毎日新聞』5月22日に詳しい「要旨」が掲載された。それは、現在世界が直面するほとんどすべての問題について、G7はその解決に努力すると宣言している。これは毎年のG7恒例の声明であると言ってよい。

 ほかならぬ広島からのG7のメッセージとして重視されているのが「広島ヴィジョン」である。これは被爆地広島から発せられた核問題についての「ヴィジョン」とされている。この全文は外務省のHPに英文と和訳とが載せてある。岸田首相の強調する「歴史的な意義」はまさにこの文書になければならないはずである。

 この「広島ヴィジョン」についてこれまでメディア上には、散発的にコメントがなされているが、歴史文書として改めて検討するとどうであろうか。「ヴィジョン」の文言から見て行こう。

(1) 「我々の安全保障政策は、核兵器は、それが存在する限りにおいて(for as long as they exist)、防衛目的のために役割を果たし、侵略を抑止し、並びに戦争及び威圧を防止すべき(should)との理解に基づいている。」

 この文が言いたいのは、核兵器は抑止力を持っており、平和に貢献するのだから、核兵器は持っていいのだということである。いわゆる「核抑止論」に立っているわけである。

(2) 「核兵器不拡散条約(NPT)は、国際的な核不拡散体制の礎石(cornerstone)であり、核軍縮及び原子力の平和的利用を追求するための基礎(foundation)として堅持されなければならない。」

 この文章の前半、つまり「核兵器不拡散条約は、国際的な核不拡散体制の礎石」であるという文章は、現在拡散防止条約に加盟している核保有国以外の他の国は核を持つなということである。それは、「我々は、いかなる国もあらゆる核兵器の実験的爆発又は他の核爆発を行うべきではないとの見解において断固とした態度をとっており、それを行うとのいかなる威嚇も非難」する。「我々は、まだそうしていない全ての国に対し、核兵器又は他の核爆発装置に用いるための核分裂性物質の生産に関する自発的なモラトリアムを宣言又は維持することを求める」という主張によって補強されている。

(3) 「米国、フランス及び英国が、自国の核戦力やその客観的規模に関するデータの提供を通じて、効果的かつ責任ある透明性措置を促進するために既にとってきた行動を歓迎する。我々は、まだそうしていない核兵器国がこれに倣うことを求める。」

 この文章では、米英仏は情報を公開し、透明にして核保有と核開発をしていると、自慢している。そのうえで、中国、北朝鮮、イラン、そしてロシアを批判している。「透明性問題」はほかならぬロシアと中国に対してむけられたメッセージである。とくに中国に対しては、「中国による透明性や有意義な対話を欠いた、加速している核戦力の増強は、世界及び地域の安定にとっての懸念となっている。」と指摘している。

(4) 「我々は、全ての者にとっての安全が損なわれない形で、現実的で、実践的な、責任あるアプローチを通じて達成される、核兵器のない世界という究極の目標に向けた我々のコミットメントを再確認する。」

 この文章が最も曲者である。これは文書作成者が非常に神経を使って書いた文章であろう。だから原文も見ておこう。原文はこうなっている。

 We reaffirm our commitment to the ultimate goal of a world without nuclear weapons with undiminished security for all, achieved through a realistic, pragmatic and responsible approach.

 「首脳宣言」においても、この文言は繰り返されている。

 この文章は二重の意味で、曲者である。まず第一に、「全ての者にとっての安全が損なわれない形で」という文である。訳文では核の廃絶については、「全ての者にとっての安全が損なわれない形で」とあるので、「達成される」に繋がると理解してしまうが、そうではない。核の廃絶については、「全ての者にとっての安全が損なわれない形の」(with undiminished security for all)状態としての核のない世界を目指すというのが原文である。「核兵器のない世界」は当然「全ての者にとっての安全が損なわれない形の」世界であるはずだが、なぜこういう限定を付けているのであろうか。そういう「形の」核のない世界はあり得ないのだと言わんばかりである。しかし、訳文に戻って、「全ての者にとっての安全が損なわれない形で」核の廃絶に向うということは、現在において「安全が損なわれて」いる者がいるという現実を見ないで、あるいはそこから目をそらして、将来のことを問題にするという、論点ずらしに他ならないのである。このような論法は、ごく最近のLGBT理解増進法にも見られ、最後に加えられた修正の一部に出てくる「性的指向又はジェンダーアイデンティティにかかわらず、全ての国民が安心して生活することができることとなるよう」という限定がそれである。この論法は現状保守派の定番になりつつあるようである。

 つぎに第二に、「現実的で、実践的な、責任あるアプローチ」で核のない世界に行くべきという文章である。「現実的で、実践的な、責任あるアプローチ」とはどのようなアプローチなのだろうか。核兵器不拡散条約は、「核軍縮及び原子力の平和的利用を追求するための基礎」であると、宣言は言っている。その基礎からどのように「核軍縮」に至るのであろうか。宣言は、「核兵器のない世界は、核不拡散なくして達成できない」と繰り返している。だが、これは北朝鮮とイランを批判するために使われている命題で、どのように核軍縮や核廃絶を達成するかは示されていない。宣言は、「核兵器禁止条約」には全く触れていない。同条約は「現実的で、実践的な、責任あるアプローチ」ではないというのであろう。なぜそうなのか。「現実的で、実践的な、責任あるアプローチ」などと限定して見せて、結局、核廃絶は遠い理想として、棚上げされているのである。

(5) 「我々は、・・・全ての国に対し、核兵器の実験的爆発又は他のあらゆる核爆発に関するモラトリアムを新たに宣言すること、又は既存のモラトリアムを維持することを求める。」「我々は、民生用プログラムを装った軍事用プログラムのためのプルトニウムの生産又は生産支援のいかなる試みにも反対する。」

 このように、五つの「核を持つ国」以外の国は、核実験をするな、プルトニウムを作るなと言っている。核独占の論理である。

 以上の主張は、まぎれもなく五つの「核を持つ国」の立場から論じられていると言える。日本はその神輿担ぎをしているわけである。こういうヴィジョンを広島から発した意味は何か。被爆地広島から発するのであれば、核廃絶であり、そこへの合理的な道筋であるべきである。広島は宣伝に利用されただけではないだろうか。おりから、6月21日の『朝日新聞』で、元広島市長の秋葉忠利氏は、「広島ビジョン」は「広島」を冠にしたことで、「あたかも広島全体がお墨付きを与えたかのような印象を狙っているように思える」とし、広島を「冒涜」していると批判している。

 実は「ヴィジョン」にはもう一つ大事な問題がある。

(6) 「我々は、全ての国に対し、次世代原子力技術の展開に関連するものを含め、原子力エネルギー、原子力科学及び原子力技術の平和的利用を促進する上で、保障措置、安全及び核セキュリティの最高水準を満たす責任を、真剣に果たすよう強く求める。」「原子力発電又は関連する平和的な原子力応用を選択するG7の国は、原子力エネルギー、原子力科学及び原子力技術の利用が、低廉な低炭素のエネルギーを提供することに貢献することを認識する。」

 「首脳宣言」においても、この文章は繰り返されている。

 この文章は核の平和利用をうたっていて、原発は低廉で、技術も向上したという理由で、原発を公然と支持する姿勢を取っている。「福島」はどこへいったのであろうか。「広島が位置する日本」には「福島」も存在する。そういう日本から発したヴィジョンであるにかかわらず、ヴィジョンは、見事に福島を無視しているのである。福島からは、ヴィジョンは福島を「冒涜」したと見えるかもしれない。

 以上の意味で、確かにこのヴィジョンは「歴史的意義」を持っている。のちの世界史を語る歴史家は、2023年5月に不思議なメッセージが広島から発せられたと記録するであろう。広島、福島そして日本の国民の多くを「冒涜」したメッセージが。

(「世界史の眼」No.40)

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太平洋戦争とパラオ現地民―中島敦にかかわる一つのエピソード―
小谷汪之

 「李陵」、「山月記」などで知られる作家、中島敦は専業作家となる以前の1941年7月から1942年3月まで、南洋庁の教科書「編修書記」として、「南洋群島」(日本の国際連盟委任統治領)に赴任していた。その間、中島は「南洋群島」の島々を巡り、その地の公学校(現地民子弟のための初等教育機関)や小学校(国民学校)を訪ねて、教員などと教科の内容について議論を重ねた。それ以外にも、中島は自らの文学的関心にしたがって、「南洋群島」の島々を訪ねた。本稿はその中で中島が現地民とかかわった一つのエピソードを取りあげる。そこには、自分とは全く関係のない列強同士の戦争(太平洋戦争)によって翻弄されるパラオ現地民の姿が浮かび上がってくる。

 1941年9月15日、中島は南洋庁のあったパラオ諸島コロール島からパラオ丸で東向し、トラック諸島(ミクロネシア連邦チューク州)、ポナペ島(ポーンペイ島)、クサイ島(コスラエ島)を経て、9月27日マーシャル諸島のヤルート環礁ジャボール島に到着した。帰路はこのコースを逆にたどり、10月6日トラック諸島夏島(トノアス島)に着いた。しかし、ここで船便や航空便に混乱が起こり、結局11月5日早朝、水上飛行機、朝潮号で夏島を出発、「〔午後〕2時、すでにパラオ本島を見る。2時20分着水。そのまま機毎、陸上に引上げらる」(中島「南洋日記」、『中島敦全集 2』ちくま文庫、291頁)。

 中島は朝潮号が引き上げられた飛行場(水上飛行機発着場)について何も書いていないが、これはコロール島の西に隣接するアラカベサン島の東北部に設営されたミュンス(ミューンズ)飛行場である。この飛行場の遺構は今日でも残されていて、幅40メートル長さ200メートルほどのコンクリートのスロープを見ることができる。中島の乗った水上飛行機、朝潮号はここに引き上げられたのである。

 本稿で取り上げるエピソードはこのミュンス飛行場にかかわるものである。中島は翌1942年1月、異色の民俗学者、土方久功に案内されて、パラオ諸島バベルダオブ島(パラオ本島)をめぐる旅に出たのであるが、その途次アイミリーキ地区のある新開村を訪れている。ただ、その時中島はその新開村とミュンス飛行場との密接な関連については知らなかったようである。

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 1942年1月17日、中島敦と土方久功はコロール島を出発、東回り(反時計回り)でバベルダオブ島を一周する旅に出た(この旅について詳しくは拙著『中島敦の朝鮮と南洋』岩波書店、2019年、178-188頁)。1月25日にはバベルダオブ島南部のアイミリーキ地区に着き、熱帯産業研究所(熱研)の「倶楽部」に泊まった。その翌日、26日にはアラカベサン島のミュンス村の移住先である新開村を訪ねることにした。中島は次のように書いている。

アラカベサン、アミアンス〔ミュンス〕部落の移住先を尋ねんと、9時頃土方氏と出発、昨日の道を逆行。如何にするも浜市に至る径を見出し得ず。新カミリアングル部落の入り口の島民の家に憩い、……爺さん(聾)に筏を出して貰いマングローブ林中の川を下る。〔中略〕30分足らずにして、浜市の小倉庫前に達し上陸。児童の案内にてアミアンス〔ミュンス〕部落に入る。頗る解りにくき路なり。移住村は今建設の途にあり。林中を伐採し到る所に枯木生木、根等を燃やしつつあり。暑きこと甚だし。切株の間を耕して、既に〔サツマ〕芋が植付けられたり。アバイ〔集会場〕及び、2、3軒の家の他、全く家屋なく、多くの家族がアバイ中に同居せり、大工4、5人、目下1軒の家を造りつつあり。朝より一同働きに出て今帰り来りて朝昼兼帯の食事中なりと。又、1時となれば皆揃って伐採に出掛くる由。(中島「南洋日記」311頁)

 中島はここでアラカベサン島、ミュンス村の人々がどうしてバベルダオブ島、アイミリーキ地区に移住して新ミュンス村を建設しているのか、その理由については何も書いていない。おそらく知らなかったのであろう。この点について、土方の方は次のように書いている。

ガラカベサン〔アラカベサン〕のミュンスの部落が、今度旧部落をそっくり日本の海軍に取りあげられてしまって、村をあげてここに引移って来ているので、そこを訪ねてみようということにして、9時頃敦ちゃんと二人で出かける。(土方「トンちゃんとの旅」、『土方久功著作集 6』三一書房、1991年、375-376頁)

 アラカベサン島のミュンス村は、もともと、中島が朝潮号で上陸したミュンス飛行場の場所にあったのである。その旧ミュンス村の土地をそっくり日本海軍に取りあげられてしまったので、やむなくバベルダオブ島のアイミリーキ地区に新ミュンス村を建設することになったということである。ただし、ミュンス飛行場はもともとは軍民共用の飛行場として1937年頃に建設されたとされているから、その建設時にミュンス村の土地がとりあげられたわけではない。1941年12月8日、太平洋戦争(日米開戦)が勃発すると日本海軍はミュンス飛行場を拡大強化して、大型水上軍用機が発着できるようにした(倉田洋二他編『パラオ歴史探訪』星和書店、2022年、114頁)。この時に旧ミュンス村の土地がそっくり日本海軍によって取りあげられたのであろう。したがって、中島と土方が訪れた1942年1月には新ミュンス村はまだ建設途上だったのである。

 1944年になると、「南洋群島」はアメリカ海軍太平洋艦隊による激しい攻撃を受けるようになった。最初に狙われたのは「南洋群島」最東端のマーシャル諸島で、1944年2月1日アメリカ軍はクェゼリン島に上陸した。クェゼリン島には日本海軍の第6根拠地隊の司令部が置かれていたのであるが、クェゼリン島を含むクェゼリン環礁は2月6日までにアメリカ軍によって完全に制圧された。マーシャル諸島を押さえたアメリカ軍は、次にマーシャル諸島の西に位置するトラック諸島(トラック環礁)を攻撃目標とした。トラック環礁は日本海軍第4艦隊の泊地であっただけではなく、当時は連合艦隊もここを泊地としていた。1944年2月17日から18日、アメリカ軍はトラック諸島、特に「夏島」に猛爆撃をかけ、日本軍に大打撃を与えた。そのため、連合艦隊はトラック諸島から撤退し、さらに西のパラオ諸島を泊地とすることになった。そのパラオ諸島も1944年3月30日から31日、アメリカ軍による大空襲を受け、アラカベサン島の海軍水上基地やミュンス飛行場など重要な軍事施設、さらにはコロール島の住宅街などほとんどすべてが破壊された。

 このような状況下、コロール島やアラカベサン島に駐屯していた日本軍将兵や在住日本人の多くがバベルダオブ島(パラオ本島)に退避した。しかし、それを追うようにアメリカ軍はバベルダオブ島にも激しい空爆や艦砲射撃を加えたので、バベルダオブ島には食料などの補給物資が一切入らなくなった。人口が一挙に数万人増えたうえ、食料補給を絶たれたバベルダオブ島は飢餓状態となり、軍・民多くの人々が餓死した。

 中島と土方が訪ねたアイミリーキ地区の新ミュンス村も同じような飢餓状態に陥っていたであろう。新開村だけに状況はもっと悪かったかもしれない。ただ、アラカベサン島の現在の地図を見ると、かつてのミュンス飛行場の遺構の西側道路沿いにミュンス村という表示が見える。アイミリーキ地区に移住した人々のうち少なくともその一部は、日本敗戦後アラカベサン島の旧村に戻り、村を再建したのではないかと思われる。

 ミュンス村の人びとは、日本軍によってアラカベサン島の旧ミュンス村を奪い取られ、やむなくバベルダオブ島、アイミリーキ地区に新村を建設した。しかし、その新ミュンス村もアメリカ軍の空・海からの猛爆撃やそのもとにおける飢餓状況で多くの犠牲者を出したと思われる。しかし、生き残った一部の人びとは日本の敗戦後アラカベサン島の旧村の地に戻り、村を再建したようである。このミュンス村のミニ・ヒストリーは太平洋戦争が「南洋群島」の現地民に強いた苦難の一コマということができるであろう。

「ミュンス飛行場跡」(2017年4月10日、南塚信吾氏撮影)

(「世界史の眼」No.39)

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世界史寸評
ウクライナ戦争への新たな見方
南塚信吾

 2022年10月22日、セルビア在住の旧友山崎洋氏を世界史研究所に迎えて、セルビアから見た現在のウクライナ戦争について話をしてもらう機会を得た。山崎氏は、ゾルゲの僚友であったヴーケリッチのご子息であり、さすがに情報の入手も一目置くべき所があった。氏との話で、日本のメディアなどでのウクライナ戦争についての言説には強調されない論点がいくつかあったので、それをまとめてみたい。おりから、日本でも寺島隆吉『ウクライナ戦争の正体』1,2(あすなろ社、2022年)や下斗米伸夫『プーチン戦争の論理』(集英社インターナショナル、2022年)などが、それに通底するような議論をしているので、それらを少し交えて整理してみたい。

 山崎氏が開口一番話したのは、日本のマスコミなどでのウクライナ情報がアメリカ一辺倒だということであった。ウクライナのゼレンスキーを英雄視し、プーチンを一方的に悪者扱いしているのは、驚きであるという。セルビアなどではもう少し是々非々の見方をしているというのである。そういう見方からすると、どうなるのか。

 (1) 山崎氏によれば、ウクライナ戦争は表面に現れた事象であり、実質的にはロシアとアメリカの第三次世界大戦だという。2004年の「オレンジ革命」や2014年の「マイダン革命」は、たんにウクライナ国民の民主化要求の表れと見るのではなく、そこへのアメリカの介入を見るべきである。アメリカの目標は冷戦後も残った共産主義体制の打倒である。オースティン米国防長官が、アメリカの目標はロシアの弱体化にあると述べたのは、そのことを意味している。アメリカが実質的に交戦国なのである。NATOのストルテンベルク事務総長は、NATOの加盟国が長年、装備、訓練、指揮に関してウクライナを支援してきたと言明しているではないか。こういうアメリカの対ウクライナ戦争については、キシンジャー、ブレジンスキーの役割を重視すべきである。ほぼこういう議論である。

 これに類する議論は、寺島氏や下斗米氏も行っている。とくに「マイダン革命」が問題になる。寺島氏は、アメリカの一貫した戦略の中で、今回の戦争は起きているのであり、2014年の「マイダン革命」はアメリカの仕掛けたクーデターであったという。のちにオバマ元大統領も認めているとおりである。ヌーランド前国務次官補も、アメリカが40億ドルも投じてきたと発言している。そしてその指令は当時のバイデン副大統領だったと、寺島氏は強調している。下斗米氏はもう少し慎重に多角的に議論しているが、趣旨はこれに通じている。氏はアメリカの対東欧、対ウクライナ政策を歴史的に検討し、アメリカの一貫した狙いを明らかにしている。その中で、ヌーランド発言などを確認したうえで、マイダン革命は、「米国と親NATO勢力が使嗾(しそう)した」、「クーデターまがいのマイダン革命」と位置付けている。100人以上の死者を出した2月の発砲事件についても、「ジョージア系スナイパー部隊」のやったことではないかと示唆している。

 (2) 山崎氏は、「NATOの東方拡大」について、こう指摘する。ロシアは、侵攻に先立ち、アメリカ政府に対し、「NATOの東方拡大の停止」を文書で約することを求めたが、アメリカは拒否した。バイデンが「イエス」と答えれば、戦争はなかったのではないかと。こう簡単ではなかったとは思われるが、「NATOの東方拡大」についての交渉の経過や、そこでの妥協の余地などについては、下斗米氏が詳細に検討して、クリントン政権に始まり、ブッシュJr.政権、オバマ政権が一貫して「東方拡大」を追求してきたことを明らかにしている。そこからは、米政権内部での意見の相違や、米ロの微妙なずれも明らかになっている。とくにジョージ・ケナンなどの批判などを挙げている。とりわけ、「旧ソ連」領の内部にまでNATOを拡大することに、プーチンは強く危惧していたこと、キシンジャーさえも批判していたことが指摘されている。

 (3) 山崎氏は、ウクライナ内部での「ネオ・ナチ」の力に注目している。ウクライナでナチス時代の記章やスローガンが見られるようになるのは、2014年の「マイダン革命」と呼ばれるクーデターの時からだという。「アゾフ大隊」などがそうだ。ネオ・ナチは、運動の暴力的な性格から、數に比して社会に与える影響が大きいというのである。そして、2015年のミンスク議定書は、過激派の準軍事組織とアメリカの反対によって、実現しなかったし、ゼレンスキーは和平を公約して当選し、就任後すぐにドンバスへ視察に赴いたが、過激派の武装集団に追い返され、対話はできなかったというように、過激派=ネオ・ナチの役割を強調した。「過激派の武装集団に追い返され」たという点は確認できなかったが、「ネオ・ナチ」については、寺島氏も、ネオ・ナチの「アゾフ大隊」などは2014年から登場したとしている。下斗米氏も、2014年の「マイダン革命」において、「反政府系の右派センターや「自由」など民族急進派、さらにネオ・ナチ勢力」が武力行使をして、政権を倒したとしている。また、就任当初は和平を目指したゼレンスキーがNATO加盟に舵を切ったのも、「民族右派やネオ・ナチの圧力」があったのだという。

 (4) 山崎氏は、東部ドンバスの問題に特に注目していた。いわく、2014年以後のドンバスでは、ロシア語が公用語の地位を奪われ、人口の2割を占めるロシア人は無権利状態に置かれたと感じ、ドンバスのロシア系住民の反乱がおこった。先述のように、2015年のミンスク議定書は、過激派の準軍事組織とアメリカの反対によって、実現しなかった。またゼレンスキーは就任後すぐにドンバスへ赴いたが、過激派の武装集団のために、対話はできなかったと。同じような議論は、寺島氏もしている。ドンバスへのウクライナの攻撃というのが実態で、キエフからドンバスへの攻撃は計画的であり、過激派集団によるものであり、その際、ドンバスでウクライナ軍と戦っていたのは軍人ではなく炭鉱労働者であったとしている。下斗米氏は、「マイダン革命」後、新政権が、ロシア語を公共圏から締め出したため、ウクライナ語が強制され、ロシア語話者が多い東部ドンバスの二州では親ロ派による武装反乱がおこったこと、また極右派の政権入りに、東部ロシア語話者地域の住民が猛反発して、一部は武装反乱に及んだことを指摘している。そして、下斗米氏は東部の停戦と安定化のためのミンスク合意に注目している。

 山崎氏が東部ドンバスに注目するのは、ユーゴスラヴィアにおいて難しい問題であった「民族問題」ないしは「マイノリティ問題」に通じるからである。このドンバス問題に限らず、氏は、アメリカにとってかつてのユーゴ紛争は今回のウクライナ戦争の「演習場」だったのだと考えている。以上のような山崎氏の、ユーゴ的な観点からのウクライナ戦争論は、日ごろ欧米や日本での議論に疑問を感じているものには、「してやったり」という感じのものであった。

 おりしも、11月18日に、森喜朗元首相が、「ロシアのプーチン大統領だけが批判され、ゼレンスキー氏は全く何も叱られないのは、どういうことか。ゼレンスキー氏は、多くのウクライナの人たちを苦しめている」と発言し、ロシアのウクライナ侵攻に関する報道に関しても「日本のマスコミは一方に偏る。西側の報道に動かされてしまっている。欧州や米国の報道のみを使っている感じがしてならない」と指摘したと報じられている。これはさっそく批判されているが、今回の山崎氏の話からすれば、的外れではないことになる。山崎氏の発言は欧米一辺倒の見方をただすきっかけになるかもしれない。

 なお、山崎氏との対話との関係で寺島氏や下斗米氏の著書をつまみ食いしてみたが、両書は日本での欧米よりのウクライナ観を相対化するのに必読の書であることを付記しておきたい。

(「世界史の眼」No.33)

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世界史寸評
国連地図のなかのチャゴス諸島
木畑洋一

 国際連合の機関である国連地理空間情報セクション(The United Nations Geospatial Information Section、かつては国連地図セクションThe United Nations Cartographic Sectionと呼ばれた)が作っている世界地図がある。現在インターネットで見ることができるものは2020年10月のもので、以下のサイトにある。

https://www.un.org/geospatial/content/map-world

 本稿では、この地図が一般に見られる他の世界地図と違っている一つの点を紹介してみたい。それは、インド洋の真ん中にある島嶼の帰属国名である。今手元にある世界地図帳を開いてみると、チャゴス諸島(イ)、ディエゴガルシア島(イ)と書いてある。ディエゴガルシアはチャゴス諸島のなかの一つの島であるから、ディエゴガルシアを含むチャゴス諸島を領有しているのはイギリスであるということが示されているのである。これは、市販されている他のどの世界地図でも同じことである。ところが、上記のサイトを見れば分るように、国連地理空間情報セクションの作成にかかる地図では、この島嶼について、チャゴス諸島(モーリシャス)Chagos Archipelago (Mauri)と記されており、イギリスではなく、モーリシャスに帰属することになっているのである。一体どうしたのだろうか。

 ディエゴガルシアは知る人ぞ知る島であるが、それは米国の軍事基地の所在地としてきわめて重要な島だからである。そこに置かれた基地は、湾岸戦争やアフガニスタン攻撃、イラク戦争など米国が中東地域で行った戦争できわめて大きな役割を演じた。そのため、島の名前を知る人も、島の帰属国は米国であると思いがちである。しかし、実際に領有している国はイギリスであり、米国はイギリスから島を借り受けた上で、そこに基地を建設しているのである。

 イギリスはチャゴス諸島を英領インド洋地域(British Indian Ocean Territory、略称BIOT)と呼んでいるが、BIOTが作られたのは1965年であり、米国に貸与するための協定が結ばれたのは1966年のことであった。その後、米国が基地建設に着手するまでに、チャゴス諸島に住んでいた人々は、島から放逐されて、モーリシャスやセイシェル、さらにイギリスで苦しい生活を送ることを強いられてきた。

 その問題について筆者は関心をもち、その全体的経緯と、60年代の英米交渉とについてそれぞれ論文にまとめたことがある。[1] それらで扱った時期以降も含めて、チャゴス諸島問題を簡略にまとめてみれば、以下のようになる。

 1960年代初頭、冷戦下でインド洋に軍事基地を作ろうと思っていた米国は、インド洋でのイギリス領に眼をつけた。ディエゴガルシアも早くからその候補と考えられたが、問題はイギリス帝国のなかで、チャゴス諸島はモーリシャスの一部とされていたことである。当時は脱植民地化が加速化しており、モーリシャスも独立への道をたどっていたが、チャゴス諸島の帰属をそのままにしてモーリシャスの独立が実現すれば、イギリスにはその島の利用を米国に許す権限がなくなってしまう。そこで英米両国が考えたのが、モーリシャスが独立する前にチャゴス諸島をモーリシャスから切り離し、新たなイギリス領土としてしまうことであった。こうして作られたのがBIOTである。脱植民地化に全く逆行するこの措置をモーリシャスに呑ませるために、米英両国はモーリシャスにお金を支払うことにした。こうしてBIOTを作った上で、イギリスはそれを米国に貸与したのである。

 これに伴って島から放逐された人々は、20世紀が終わる頃からその不当性を司法の場で訴えてきたが、イギリスの司法プロセスのなかで途中までは勝訴した彼らの訴えは、最終的には却下されてしまった。2012年には欧州人権裁判所も彼らの提訴を受理しないという判断を下し、解決の道は行き詰まったと思われた。しかし、モーリシャス政府が、独立時のチャゴス諸島切り離しはモーリシャスの脱植民地化を不完全なものにしたとして、国連に提訴したことにより、新たな局面が生まれることになった。2017年、国連総会はその問題についての判断を国際司法裁判所に求める決議を採択、2019年2月に国際司法裁判所は、①モーリシャスからチャゴス諸島が切り離された後、1968年にモーリシャスが独立を付与されたことは、合法的な脱植民地化であったとはいえない、②イギリスがチャゴス諸島の統治を継続したことから生じた国際法のもとでの諸結果(島から放逐された人々を島に再定住させる計画をモーリシャス政府が遂行しえないという点を含む)に鑑み、イギリスはできる限り速やかにチャゴス諸島の統治を終了させる義務を負う、という見解を公表した。

 その見解を受けて、2019年5月、国連総会は、チャゴス諸島はモーリシャスに帰属すべきであるとしてイギリスによる統治の終結を求める決議を、賛成116か国、反対6か国の大差で可決した。反対に回ったのは、イギリス、米国という当事国の他にオーストラリア、イスラエル、ハンガリー、モルディヴの諸国であり、日本は棄権した56か国のなかに含まれている。その結果、翌20年に上記の国連世界地図におけるチャゴス諸島の所属表記変更が行われたのである。

 これは、チャゴス諸島をめぐる統治の現実が変化したことは意味しない。イギリスは相変わらずBIOTとしてこの島嶼を統治し、米国は重要な基地としての利用を続けている。しかし、国連が脱植民地化という世界現代史の大きな流れにいかに関わっているかということは、ここにはよく示されている。一見短期的・現実的には効力が小さいと思われる国際司法裁判所や国連総会の判断であるが、そこで改めて確認された国際的な規範の力は長期的には強いものになっていくと考えられる。ロシアのウクライナ侵攻をめぐって国連の役割に注目が集まっている現在、国連のこうした面を紹介することの意味はあるであろう。


[1] 木畑洋一「覇権交代の陰で―ディエゴガルシアと英米関係」木畑・後藤春美編『帝国の長い影―20世紀国際秩序の変容』ミネルヴァ書房、2010;Yoichi Kibata, ”Towards ‘a new Okinawa’ in the Indian Ocean: Diego Garcia and Anglo-American relations in the 1960s”, in: Antony Best, ed., Britain’s Retreat from Empire in East Asia, 1905-1980, Abingdon, Oxon: Routledge, 2017.

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世界史寸評
東西の狭間に落ち込むセルビア
山崎信一

 昨月来、ロシアのウクライナ侵攻のニュースが世界を駆け巡っている。メディアを賑わせる難民の大群、破壊される都市の様子など、30年前の旧ユーゴスラヴィア紛争を思い起こさせる。そうした中、世界各地で、ロシアに抗議しウクライナに連帯するデモや集会が開催される中、バルカン半島の小国セルビアでは、3月初頭にロシアを支持する大きなデモが行われ、このことは日本でも報道された。そして、こちらは報道されなかったが、ウクライナとの連帯を呼びかけるデモや集会もまた、日々開かれている。ウクライナの戦争は、セルビア社会内部の分断や亀裂を可視化し、その亀裂を深めるものとして作用しているとも言える。

 戦争に対するセルビア政府の対応も、引き裂かれるセルビア社会を反映してか、必ずしも一貫したものではない。侵攻の後、長時間の国家安全保障会議の後で出された政府声明は、ウクライナの主権と領土保全を支持する一方、ヨーロッパの国としては極めて例外的に、ロシアに対する制裁を一切行わないことを述べている。その後もこうした態度は続き、国連特別総会でのロシア非難の決議には賛成する一方、ロシアに制裁を課すことなく、通商や航空便運航は維持し続けている。

 セルビア人は、親ロシア感情の強い人々だと言われる。2019年1月にプーチン大統領がセルビアを訪問した際には、ロシアとプーチンを支持する集会に予想を超える大群衆が集まった。親ロシア感情の要因として、同じスラヴ人であり同じ東方正教の文化を共有する、伝統的なものであるといった説明が良くなされるが、これは単純すぎる見方だろう。今回の戦争に関して言えば、ロシア人もウクライナ人もともにスラヴ人であり大多数は東方正教徒である。歴史に目を向けても、確かに19世紀から第一次大戦までは、ロシア帝国が当時のセルビア王国の庇護者として振る舞ってはいた。しかしその後、セルビアがユーゴスラヴィアの一部となった後、20世紀の大半の期間においては、両者が緊密な関係にあったと言うのは無理があるだろう。むしろ、セルビア人の間に親ロシア意識が広がったのは、主として21世紀に入ってからのことであると考えられる。親ロシア感情は、実際の文化的・民族的親近感から生じているというよりは、欧米に対する反感の裏返しとして現れたものと考えるべきであろう。ユーゴスラヴィア紛争における「セルビア悪玉論」への反発、コソヴォ紛争におけるNATO軍によるセルビア各地への空爆、2008年にアルバニア人が多数派を占めるコソヴォの独立を西側各国が承認したことなどにより強まった欧米諸国への反感が、親ロシアという形をとって表出したとも考えられるのである。それに際しては、2012年から政権の座にある現ヴチッチ大統領の所属するセルビア進歩党政権により、政府系メディアなどを用いた大規模な親ロシア・キャンペーンが展開されたことも重要だろう。自らの加害を含めて過去を直視するのではなく、欧米の被害者という面を強調し、それを政府への支持に繋げようとしたとも言える。

 セルビアは、EU加盟候補国として加盟交渉を進める一方で、かつて自国領であったコソヴォの独立を認めない立場から、国連安保理で拒否権を持つロシアへの接近を進めてきた。EU圏を最大の貿易相手としながら、エネルギーはロシアに依存している。一帯一路を掲げる中国への接近も図っているが、中国との関係が、どちらかと言えば通商やインフラ投資などのドライな経済的結びつきの側面が強いのに対して、人々の親ロシア意識はかなりエモーショナルなものになっており、政権としてもそれを無視できない。セルビアでは4月初めに大統領選と議会選が予定されている。親ロシア色の強い民族主義野党と親西欧野党のウクライナ戦争をめぐる分裂もあり、現職大統領と現政権の勝利が見込まれているが、問題は、いつまでこのどっち付かずの立場を維持できるかだろう。

 東西両陣営の中間でどっち付かずの国だったと言えば、かつてセルビアもその一部であった、チトー率いる社会主義時代のユーゴスラヴィアの「非同盟外交」が想起されるかもしれない。しかし当時のユーゴスラヴィアが、第三世界の国々の間でリーダーシップを取り、積極的に「非同盟」を掲げたのに対し、残念ながらセルビアは、そうした外交的なイニシアティヴを取る意思も能力も欠いている。戦争が長期化すれば、EUからはロシア制裁への同調を強く求められることになるだろう。一方で、ロシアとの対立を深めることは、国内的にも難しい。現在のセルビアには、ひたすら戦争と対立の終結を願う以上のことはできそうにない。

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世界史寸評・投稿
ウクライナ侵攻と非武装・中立
砂山清(元ジャーナリスト)

 今回のロシアのウクライナ侵攻に関連して、「非武装・中立」ということを改めて考えさせられました。

 私の意見はとても単純です。まず、戦争だけは、どんなことがあっても絶対したくないと考えます。そのための手段は、まず中立宣言をすることです。そして戦争をしないのだから軍隊は無用とすることです。では、他国から理不尽な武力攻撃を受けたらどうするか、もちろん戦争をしないのだから、ぎりぎりの外交でその攻撃をやめさせる努力をする、それでだめなら、降伏するしかないと考えます。戦争だけは絶対したくないですから。

 それで、降伏した後は、どうするか。ここが一番難しいところです。私は、ここでガンジーやマンデラに学んで、傀儡政権に対して非暴力・不服従を貫くのがいいと考えます。これは歴史の中でインドの独立や、南アフリカの人種差別撤廃で現実に実証されていることです。このような「非武装・中立」を貫くためには、日ごろから、軍備に使うお金を援助や親善や文化的交流に使っておくことが必要です。もし、ロシア(あるいは中国?)のような理不尽な国に侵略されても、国際世論が味方になるよう、外交と情報収集にお金を使っておくわけです。

 そもそも軍備による抑止力という考え方は、論理的に矛盾していると考えます。結局戦争になった場合、今回のNATO諸国のように、大国であっても軍備ではウクライナのような国を救えないわけです。またフィンランドやスウェーデンのような国は、中立宣言をしたうえで軍備をしていますが、その軍隊は何のためにあるのか分からない状況にあります。

 「非武装・中立」は幻想だという人が多いと思いますが、現に世界にはコスタリカのように「非武装・中立」を実践している国もあります。しかも米国の裏庭と言われる中米にあってコスタリカはかなりうまくやっているのです。1949年に制定されたコスタリカ憲法は、その第12条において、「恒久制度としての軍隊は廃止する」とうたいました。1982年には、モンヘ大統領によって「中立宣言」が発せられ、1987年には、中米の紛争を平和的に解決したとして、アリアス大統領はノーベル平和賞を授与されたほどです。

 ウクライナも初めから非武装で中立の宣言をしていれば、今度の戦争はなかったと思います。その点でゼレンスキー大統領は完全に読みを誤ったと考えます。そしてこれは日本の将来の安全保障を考える時、「他山の石」になると言えるのではないだろうか。

 実際に戦争が始まってしまった今、状況は困難さを深めてしまいましたが、たとえ今からでもウクライナがロシアの言うことを受け入れ、「非武装・中立」宣言をしてはどうでしょうか。ロシアがキエフを占領、ゼレンスキー大統領を追い出し傀儡政権を作ったとしても、ウクライナ国民のロシアに対する非暴力・不服従運動がある限り(これはあると私は思う)、市街戦がなくともウクライナは「ロシアのもの」にはならないでしょう。そうなれば、プーチンは何のためにウクライナ侵攻を企てたのか、ロシア国民にも説明がつかず、ロシアの厭戦気分は高まるばかりでしょう。                     

(2022年3月4日記)

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世界史寸評
ロシア・ウクライナ戦争を考える
南塚信吾

 2022年2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵攻は、世界史という観点からみて、いろいろな問題を明らかにしていると思われる。まだメモ書き程度であるが、そのうちのいくつかを考えてみたい。

1. 戦後は「平和」だったのか?

 戦後は平和だったのに、今回は70数年ぶりにそれが破られたと考えている人が多いのではないか。しかし、戦後の大きな戦争は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、スエズ戦争、中東戦争、ユーゴスラヴィア内戦、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争などいくつもあった。多くの場合、「途上国」において「北」が戦争をして、「北」自体においては戦争はなかったのである。「冷戦」終結以後に限定しても、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争などが続いているわけである。今回はその「北」で戦争がおきて、世界がショックを受けているのである(なお、1956年のハンガリーと1968年のチェコスロヴァキアの場合は軍事介入だが、戦争にはならなかった。また、アフリカやラテンアメリカではもっと多くの「内戦」と言われる戦争があり、ユーゴスラヴィアでも「内戦」があったが、「北」が直接前面に出ることはなかった)。このように、世界的に見て、戦争は地域を移しながら、絶えず続いているのである。なぜ、このような戦争が続いているのか。

2. 戦争理由について

(1) NATOの東方拡大

 今回、NATOの東方拡大への反発がロシアの開戦理由だと考えられている。もともとは米ソ「冷戦」のための同盟であったNATOが、「冷戦」後も残った。それが、旧東欧諸国やバルト三国にも拡大した。それはしだいにロシアへの牽制という意味を持つようになった。NATOの「インフラ」を持つ国ウクライナが隣接するのは、ロシアにとって脅威である。それを取り除きたいと、外交交渉は続けられていたが、成果が出ない。それゆえ武力に頼ったというわけである。しかし、NATOの東方拡大自体は、戦争目的にはならない。それにはマイノリティ問題を使う必要があった。

(2) マイノリティ問題

 国民国家の中のマイノリティが戦争と侵略のために使われた。今回はドネツクとルガンスクのロシア人問題が使われた。しかしこれは世界史上新しい事ではない。世界史的には、ナチスによるズデーテン問題、コソヴォ問題、チェチェン人、イラク・シリア・トルコのクルド人問題の利用など、いくつも上げる事ができる。

3. 新自由主義の拡大

 では、NATOの東方拡大とは何か。その背景にあるものは何か。それは新自由主義の拡大に他ならない。アメリカが主導する新自由主義の世界的支配拡大が、ヨーロッパではNATOの拡大として現れている。1980年代(レーガン、サッチャー、中曽根の時代)から目立って広がり始めた新自由主義は、90年前後には旧ソ連圏を崩壊させる重要な要因となったが、「冷戦」終結後は、東欧諸国、バルト三国、そして、アフガニスタン、イラク、リビアなどを飲み込んでいった(シリアはその間際にあり、アフガニスタンでは揺れ戻しが見られる)。その過程で、上に見たように、いくつもの戦争が次々と起きたのである。新自由主義は、経済面での規制緩和、民営化、市場化、政治的には小さな国家(軍備は別として、福祉の縮小など)や米欧型の「民主主義」など、資本の徹底した自由を支える環境を要求する。このような新自由主義の波が今回はウクライナに迫ったのである。NATOはこういう新自由主義を支える同盟なのである。それに対するロシアの反発が今回の戦争の根本原因である。この点では、ロシアに共感する国は他にも多々あり得る(だからと言って、ロシアの軍事進攻を良しとするものではない)。

4. 大国に接する小国の「リアリズム」

 1956年、ソ連の第20回党大会ののち、ポーランドとハンガリーにおいて、社会主義の改革を求めて暴動と政変が起きた。この時、ポーランドのゴムウカはソ連に改革を認めさせるために、「中立」や「複数政党制」を封印して、ソ連の軍事介入をさせなかった。一方のハンガリーのナジは、「複数政党制」のみならず、「中立」をも表明して、ソ連の軍事介入を招いた。1968年のチェコスロヴァキアにおける「プラハの春」の場合も、ドプチェクらの改革派は、下からの民衆組織の結成を認めて、ソ連などの軍事介入を招いた。大国に接する小国の指導者には、冷静な現実感覚(リアリズム)が求められる。そのよい例は、フィンランドである。ロシア、そしてソ連、またロシアという大国に隣接して、それに屈服するのでもなく、敵対するのでもなく、存在意義を認めさせてきている。ウクライナのゼレンスキーに求められるのはこうした小国のリアリズムではなかったか。一方的にNATOやEUに頼るという政策ははたしてリアリズムであったのだろうか。

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世界史寸評
歴史総合の教科書を執筆して
木畑洋一

 高等学校における2単位の必修科目として2022年度から導入される新科目歴史総合の教科書執筆に携わった者として、執筆過程で抱いた個人的感想(あくまで私個人の感想であり、教科書出版社や他の執筆者の感想を代弁するものではない)をいくつか述べてみたい。

 歴史総合は、2006年に浮上した高校世界史未履修問題などを背景としつつ、これまでの世界史と日本史を統合して、生徒たちに歴史を主体的に考えさせることを目的とした科目として発足した。日本学術会議による「歴史基礎」という科目の提唱などを経て、文部科学省がこの新科目創設について発表したのは、2016年のことであり、その後教科書作成に向けた動きが始まった。私は高等学校の世界史教科書の執筆に長年関わってきており、そろそろこうした仕事からの引き時かなと思っていたが、新科目の教科書執筆に参加しないかとの誘いを受け、結局引き受けることになった。

 そこでまず困ったのは、科目の、そして教科書の具体的コンセプトがつかみ難いことであった。分っていたのは、近現代を対象としてこれまでの世界史と日本史を融合すること、近代化、大衆化(後に「国際秩序の変化や大衆化」という表現になる)、グローバル化という主題が軸になること、生徒たちが自分自身で考えていく力を身につけていくアクティブ・ラーニングが重視されること、といった点である。しかし、それだけでは教科書作りにとりかかるには不十分であり、高等学校学習指導要領とその解説の発表が待たれた。学習指導要領が発表されたのは2018年3月末であり、解説の方は同年7月に公表された。そして大学と高校の教員から成る執筆者チームによる大童の作業が始まったのである。

 この教科書作成に際してまず大きな問題であったのは、従来の歴史教科書のスタイルである時系列を重視する通史的な叙述を基本にしていけるかどうかという点であった。すでに触れたように今回の学習指導要領では、生徒一人一人が学習している内容について主体的な問いかけをして、そうした問いかけをもとにいわゆるアクティブ・ラーニングを行うことが目指され、その材料となる史料の提示が重視されていた。その方向性をつきつめていけば、史料や問いかけを中心とした全く新しい様式の教科書を作ることも考えられたわけであるが、そうした変化は激しすぎるとして、執筆に携わった高校の先生方の間でも慎重な姿勢が強かった。そこで、基本的なスタイルとしては従来の歴史教科書に似た通史的なものとすることとしつつ、史料は多く選び、史料中心に組み立てる部分も作っていくことになった。

 教科書作成の結果を見てみれば、文部科学省の検定を通って歴史総合の教科書として使われることになった12冊のほとんどが、通史的スタイルのものになっている。大きな変化を期待していた方々からはこの点についての不満の声も聞こえてくるが、私としてはこの路線が妥当だったと考えている。

 ただし、史料は今までの歴史教科書に比べてはるかに多く掲載されることになり、本文や史料について生徒に問いかけ、さらに生徒自身の問いをも引き出していくような設問も、全体にたくさん置かれることになった。こうした史料や問いの適切さは、歴史総合の授業が実践されるなかで問われ、修正を加えられていくものと思う。

 いま一つ重大な問題であったのが、「世界史と日本史の融合」という点である。もっとも学習指導要領にはそうした文言は登場せず、「近現代の歴史の変化に関わる諸事象について、世界とその中の日本を広く相互的な視野から捉え」ることが、この科目の目的となっている。そのため、従来の科目を前提とした「世界史と日本史の融合」という表現自体がミスリーディングであり、まったく新しいものとして「歴史総合」を考えていくべきだ、という意見もある。そうした考えはもっともであるが、教科書を具体的に執筆していく上では、結局のところ、従来の世界史と日本史の教科書の中身をいかに「融合」させていくかということを考えていく他なかった。私たちの教科書は見開き2頁で一つの節としたが、同一節内で融合した叙述を行うことができる部分は限られており、多くのところで、世界史関係の節と日本史関係の節がパラレルに並ぶという構成に落ち着いたのである。ただ私としては、「融合」がもっと追求されてもよいのではないかという気持ちを抱いており、歴史総合の教科書が改訂されていくなかで将来的にそのような方向性が模索されていくことを願っている。

 次に、「世界史と日本史の融合」という問題に関わって、歴史総合における時代区分の問題に触れておきたい。歴史総合では、全体を三つに区切る大項目それぞれの主題として、前述したように「近代化」「国際秩序の変化や大衆化」「グローバル化」が提示され、各大項目が扱う時期が次のように設定された。

  近代化:18世紀から20世紀初頭まで
  国際秩序の変化や大衆化:第一次世界大戦から第二次世界大戦後の1950年代初頭まで
  グローバル化:1950年代から現在まで

 これらにまつわる論点はいろいろあるが、ここで問題としたいのは、それぞれの始点と終点の設定の仕方である。

 まず近代化部分が18世紀から論じ始められるということは、世界史を軸としていると言うことができる。学習指導要領では、「産業革命と国民国家の形成」が重視されているが、「二重革命の時代」に着目するにせよ、近年議論となっているヨーロッパとアジアの間の「大分岐」論に着目するにせよ(私たちの教科書ではこの「大分岐」論を盛り込んだ)、18世紀は世界史的に見た場合の変化の起点であると考えられる。日本の状況はそうした大きな変化のなかに位置づけられるのである。

 次の大項目は第一次世界大戦から始まることになっているが、これも世界史を軸とした区分、より正確にはヨーロッパ史を軸とした区分である。私は、第一次世界大戦の世界史の転換期とすることの問題点について、ホブズボームの「短い20世紀」論批判という形で論じたことがあるので、ここでは繰り返さない。ただ、日本にとって(さらにアジアにとって)の第一次世界大戦がかつて考えられていたよりも重要であったことは近年いろいろと論じられており、世界のなかでの日本という問題を考える際に、第一次世界大戦がよい素材となることは確かであろう。

 大項目区分をめぐって私が一番問題であると感じたのは、「国際秩序の変化や大衆化」という大項目と「グローバル化」の大項目とが、1950年代初めで区切られていることである。これについて、学習指導要領の解説では、一方で「1940年代後半から1950年代初頭までの時代については、国際秩序の形成の基本理念や、福祉面での国家の積極的な介入の方向性などの連続性に着目し、第二次世界大戦の勃発から一つの中項目として構成した」と、世界史的要因からの理由付けを行いつつ、同時に、「平和条約と日本の独立」という点を強調している。これについては、「世界とその中の日本」への眼差しを養おうとする歴史総合の目的との関連で、第二次世界大戦後、日本が国際社会に復帰することになった時期が大項目区分の中心的目安とされたのではないかと思わざるをえない。指導要領解説が強調する連続性は確かにあるものの、世界史的に見れば、戦後改革、冷戦、脱植民地化のいずれについても重要な画期は第二次世界大戦の終結時期であり、日本についても、この区分では戦後改革の意味が相対化されてしまう可能性がある。

 このようなことをいろいろ考えながら執筆に参加した歴史総合教科書は、すでに高等学校での採択決定も終わり、もうしばらくすると使われ始める。教室現場からの声がまたれるところである。

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世界史寸評
ホブズボーム伝翻訳余滴
木畑洋一

 このほど(発売は本稿公開の数日後になるが)、リチャード・J. エヴァンズ『エリック・ホブズボーム 歴史の中の人生』上・下(岩波書店、2021年)という本を邦訳した。原書は800頁近くあり、非常に細かなこと(たとえば、ホブズボームが子供の頃急死した父が埋葬されたウィーンの墓地の墓石番号)まで書き込まれた伝記である。イギリス帝国史や国際関係史の気鋭の研究者5人との共訳で、よいチームワークのもと、翻訳作業を始めてからほぼ予定通りの2年間で刊行できた。本書に書かれていることの内、特に印象に残った点のいくつかは「訳者あとがき」に書いておいたので、ここではそれ以外で世界史に関わる問題を三つほど記してみたい。

 ホブズボームの仕事は、ヨーロッパ中心主義的であると言われることがよくある。筆者自身も、彼の「短い20世紀」論を批判して「長い20世紀」論を提唱する際に、それを中心的な根拠とした。とはいえ、彼の視野はヨーロッパに限られていたわけでは決してない。とりわけ、ラテンアメリカについて彼は強い関心を抱いており、一時期、彼は世界のなかで社会革命をめざす「人々の目覚め」がもっとも進んでいるのはラテンアメリカであると考えていた。それに対応して、ラテンアメリカの側ではとりわけブラジルにおいて、彼への関心、彼についての評価がめざましかった。ブラジルで彼の著作がきわめてよく売れたことはその指標である。たとえば、『資本の時代』は9万6千冊の売り上げがあり、『極端な時代』(邦題『20世紀の歴史』)は実に26万5千冊売れたいう(著作の出版、販売事情についての説明の詳しさも本伝記の特色である)。ホブズボームとラテンアメリカの関係について、筆者も漠然としたイメージはもっていたものの、ここまでとは考えたこともなく、これは本書に接して最も驚いた点の一つであった。

 次は、ホブズボームとアフリカの関係である。ホブズボームには『面白い時代 20世紀の人生』(邦題『わが20世紀・面白い時代』)という自伝があるが、そのなかでごく簡単な言及(「1938年にチュニジアとアルジェリアへの研修旅行に行くことができた」)ですまされている旅についての記述も興味深かった。ケンブリッジ大学在学中の1938年夏にホブズボームは調査旅行のための助成金をもらって、これら2か国(いずれもフランスの統治下にあった)の農業実態調査に出かけたのである。「数冊のノート」を埋め尽くす情報を収集することになるこの旅行を著者はかなり詳細に描いた上で、この旅が「財産を奪われた農村の貧しい人々に関心を抱いた最初の兆し」であったかもしれないと推測している。

 この調査旅行をホブズボーム自身重視していたことは、翌1939年に大学院での研究テーマを決めるにあたり、「前の年にすでに進めていた研究作業を踏まえた仏領北アフリカについての博士論文の研究構想を提出」した点にも示されている。しかし、すぐ後に軍務につくことになったため、彼はその研究にとりかかれなかった。実際に博士論文の準備を始めたのは戦後になってからであり、その時には「すでに結婚していたこともあり、長期間外国に出かけてしまうべきではない」と彼は感じた。そのためにイギリス国内で史料調査ができるテーマ(フェビアン協会の研究)を選んだのである。著者が指摘するように、アフリカへのホブズボームの関心は希薄なままに終わってしまったが、もしも彼の研究活動が仏領北アフリカ研究から出発していたら、北アフリカとサハラ以南のアフリカは大きく異なるとはいえ、アフリカとの彼の関わりや彼の描く世界像に変化が起こったかどうか、問いかけてみたくなる。

 ホブズボームの関心の中心にあったヨーロッパについては、ホロコーストに対する彼の姿勢が非常に気になった。自身ユダヤ人であり、親戚のなかにはアウシュヴィッツで殺された人もいたにもかかわらず、彼はホロコーストを正面から論じようとはしなかったのである。アメリカの歴史家アルノ・メイヤーが、『なぜ天国は暗黒にならなかったのか』というヨーロッパ史の文脈のなかにホロコーストを据えた本の原稿を彼に送ってコメントを求めた際、「この問題に向き合うことは心情的に非常に困難」とメイヤーに答えている。また、この伝記の読み所の一つは、『極端な時代』のフランス語訳遅延をめぐる顛末であるが、それに関わる部分では、フランスの歴史家ピエール・ノラがホブズボームの友人に対して、この本でアウシュヴィッツは一度しか取りあげられていないと指摘した、ということが述べられている。その友人も、ホブズボームはホロコーストについて「まるで関心を持っていない」と感じていたという。著者は、ホブズボームのように「巨視的かつグローバルな視野をもつ者にとって、ユダヤ人は(中略)戦争における犠牲者のごく一握りにしかすぎなかった」というこの友人の言葉を引くのみで、この問題についてのそれ以上の議論を控えているが、考えさせられる点であることは確かである。

 その他にも本書で気づく話題は数多いが、それらを頭の片隅に置きながら、ホブズボームの著作(幸いその多くは邦訳されている)をあれこれ読み返してみるのも一興であろう。

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