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世界史寸評
参政党の歴史観を考える(その2)―「南京事件は捏造」なのか

 2025年10月3日の『毎日新聞』デジタル版は、“「南京事件は捏造」と主張する参院議員 研究者が鳴らす警鐘とは”と題する記事を載せた。矢野大輝記者によるこの記事は、「今夏の参院選で、旧日本軍が1937年に中国・南京を占領後、捕虜や民間人を殺りくした南京事件(南京大虐殺)を「捏造(ねつぞう)」「フィクション」と主張する候補が当選した」ことを問題として取り上げたものである。

 南京事件は、日中戦争で上海を攻略した旧日本軍が、中国国民党政府の首都・南京を陥落させた1937年12月~38年3月に、南京の都市部や農村部で中国兵捕虜や住民らを殺害し、強姦などを重ねた事件を指すが、これを「捏造」とする者が当選したというのである。

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 記事によれば、8月8日に「ユーチューブ」にアップされた教育研究者の藤岡信勝氏との対談で、参院選で初当選した参政党の初鹿野(はじかの)裕樹氏=神奈川選挙区=が「南京事件は捏造」だと主張し、隣に座った参政党の神谷宗幣代表も、南京事件は「もうすっかり日本軍の罪にされて」と付け加えたという。初鹿野氏は、南京事件で殺されたという人たちの「(遺)骨もどこにあるか分からないし、証拠だという写真も全部捏造。何も証拠もないような状況で、あったと断定するにはおかしいのではないか」と言ったという。実は、初鹿野氏はX(ツイッター)でもすでに6月18日に「南京大虐殺が本当にあったと信じている人がまだいるのかと思うと残念でならない」と投稿しているという。

 初鹿野氏が南京事件を否定している根拠の一つが、南京市の人口である。上の「ユーチューブ」では、旧日本軍が侵攻した37年12月にそれは「20万人」で、2カ月後には「25万人に増えている」とし、「30万人も40万人も人が亡くなっていることはない」と主張している。さらに『毎日新聞』が初鹿野氏に送った質問状への回答では、この人口について、事件当時南京在住の外国人で組織した南京安全区国際委員会が作成した文書群「DOCUMENTS OF THE NANKING SAFETY ZONE」(39年出版)を根拠として示したという。加えて、南京事件を否定している別の根拠として、写真も「南京事件の揺るぎない証拠として認定されたものはない」し、南京事件の目撃者や1次資料について「中立性のある第三者による有効なものがない」と回答したという。その上で、「歴史教科書のほぼすべてが南京事件があったという前提で書かれていることが問題と捉えている」と指摘したという。

 記事は、日本保守党から比例代表で出馬し初当選した作家の百田尚樹氏も、南京事件について組織的、計画的な住民虐殺はなかったとしていることを、想起している。かれの著書『日本国紀』(2021年、文庫版)では「占領後に捕虜の殺害があったのは事実」で、「一部で日本兵による殺人事件や強姦(ごうかん)事件はあった」と認める一方、「民間人を大量虐殺した証拠はない」と主張している。その根拠の一つとして、同じく人口問題を取り上げて、「南京安全区国際委員会の人口調査によれば、占領される直前の南京市民は約20万人」とし、「『30万人の大虐殺』が起きたという話がありますが、これはフィクションです」と記しているというのである。

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 『毎日新聞』の記事は、このような主張に対する歴史家たちの批判をあげている。

 まず、南京事件の研究者で現代史家の秦郁彦氏は、虐殺があったと裏付ける証拠写真の特定は難しいとしつつ「(証拠)写真がないからといって南京事件がなかったとはならない」と言う。その理由として、当時の旧日本軍の戦闘詳報や外務省東亜局長が日本軍の不法行為を日記に書きとめていたことを挙げ、初鹿野氏の主張について「根拠が乏しい。ある程度の規模の民間人の虐殺があったことは否定できない」と批判したという。

 次に、同じく南京事件について研究する都留文科大学の笠原十九司(とくし)氏は、初鹿野氏と百田氏が持ち出す「人口」の根拠を、もっと実証的に「間違っている」と指摘しているという。

 笠原氏によると、南京市内に「占領前に20万人」いたという資料はなく、南京市政府の調査では占領直前の人口は50万人だったと記載されている。笠原氏は、初鹿野氏と百田氏が持ち出す「20万人」という数字は、南京安全区国際委員会で委員長を務めたドイツ人がヒトラーに宛てた手紙の中に出てくるものだが、これは市内の安全区に避難すると見込まれた人数の推計で「南京市の人口ではない」という。笠原氏は、占領2カ月後に「25万人に増えている」という主張についても否定する。旧日本軍がその頃に中国軍の敗残兵を見つけ出す目的で実施した住民登録で南京城内の住民は、安全区に20万人、その他の地域に5万人いたことを示す資料はあるが、南京市の占領直前の人口が50万人だったことを考えると「増えた」とする根拠にはならないという。

 なお、笠原氏は、その著書『南京事件』(岩波新書 1997年)において、南京事件を史実をもって跡付けており、外国人ジャーナリストや外国大使館員らが事件を報じていることも示している。さらに氏の『南京事件 新版』(岩波新書 2025年)は、関係者の証言をさらに加え、写真も載せ、そして南京事件の犠牲者の総数についてデータをもって証明している。

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 最後に『毎日新聞』の記事は、被害者数については日中の研究者で開きがあるものの、事件そのものは日本政府も認めていると指摘する。外務省はホームページに「日本政府としては、日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」との見解を掲載している。

 また、日中両国政府による「日中歴史共同研究」の日本側の報告書(10年)には「日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、及び一部の市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した」と記載されていて、死者数は、中国側の見解が「30万人以上」、日本側の研究では「20万人を上限として、4万人、2万人などさまざまな推計がなされている」としている。

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 記事の中で、笠原氏は、世界各地で戦争が今も絶えず日本でも防衛費が増額していることに触れ、「南京大虐殺の基礎知識や日本の侵略戦争がいかに残酷で無謀だったかということを知らない世代も増えてきている。デマに流されず、事実を見つめてきちんと反省しないと、日本は戦争という同じ過ちを繰り返すことになる」と述べている。記事は、戦後80年を迎え戦争の記憶が薄らぐ中、歴史研究者は「史実を見つめないと、また同じ過ちを繰り返すことになる」と「良識の府」(参議院)の担い手に警鐘を鳴らしていると、指摘している。これは「良識の府」だけの問題ではないであろう。

(南塚信吾)

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世界史寸評
「ガザ」とアメリカ歴史学会―P.マニングからのメールに思う

 わたしたちが出した『世界史の中の「ガザ戦争」』(大月書店)を、先日、アメリカのピッツバーグ大学のパトリック・マニングに届けた。マニングは、この本に国際連合の改革についての論稿を載せてくれた歴史家で、アメリカの内外で「世界史」を先導していることで知られている。

 この本をかれに送るについてはひと騒ぎがあった。9月に始め、日本からアメリカの彼に本を送ろうと郵便局へ行ったところ、この本は金額的にも本の目的としても問題ないはずであるが、いまトランプ関税の影響で通関業務が混乱していて、本がいつ着くか分からないし、無事に着くかも分からない、その場合には本は戻ってくるが、郵送料は帰ってこないと言われた。だから、1か月ぐらいは様子を見た方がいいというのであった。途方に暮れていたところ、たまたまわたしの息子が9月に末にワシントンへ仕事で行くというので、かれに本2冊を預けて、ワシントンで郵送してもらうことにした。それで無事にマニングに本が届いたのであった。

 さて、本を受け取ったマニングから早速メールで本2冊の安着を知らせてきた。そして、こう書いてきた。

  1. 本の1冊をピッツバーグ大学の世界史センターのセンター長であるラージャ・アダルRaja Adalに渡そう。かれは日本史の専門家で日本語もできる。かれに言って、日本語をできて、ガザ危機に関心を持っている人たちに、この本の事を広めてもらうつもりだ。
    ―マニングは2008年にピッツバーグ大学の世界史センターを創設した人物で、わたしもその最初の研究員として招聘され、4か月を過ごしたことがある。
  2. アメリカ歴史学会American Historical Association (AHA)の中に、ガザに関心を持って非常にアクティヴに活動している「平和と民主主義を求める歴史家集団」Historians for Peace and Democracy (HPAD)というのがあるので、そこに書簡を送って、今回の本のことを知らせ、日本語ができる歴史家たちに接触してこの本を探して読むように勧めるつもりだ。ついでに言うと、アメリカ歴史学会(AHA)は、2025年の総会においてガザでの「学校潰し」”scholasticide”についての決議を拒否していたが、最近HPADのリーダーたちに接近し、ガザに関する委員会をAHAに設けることで一致した。最近、われわれは、この重要な問題について、少しずつではあるけど、前進しているのだ。
    ―この「学校潰し」についての決議をめぐる問題というのは以下のようである。2025年1月5日にAHAの実務者会議business meetingが、「ガザでの学校潰しに反対する決議」を出していた。イスラエルがガザであらゆる教育機関を攻撃してそれを潰していたことに反対する決議である。決議はイスラエルのジェノサイドとアメリカのそれへの支援を非難するものであった。しかし、1月17日のAHA評議会はその決議を否決した。それは教育と研究というAHAの学術的な目的を規定したAHA規約の枠外にあるものだからというのであった。ところが、そのようなAHA指導部の姿勢が最近変化したというのである。マニングは2016-2017年にAHAの会長をしていたから、このようなAHAの変化にホッとしたことであろう。(詳しくは、The American Historical Association Council Betrayed its Members and the People of Gaza – Left Voice

 このように、マニングのメールからは、ガザへの関心を広めようという動きが細々と進められていること、そしてアメリカにおけるガザ問題が歴史家のあいだに竜巻を引き起こしていることを垣間見ることができるのである。

(南塚信吾)

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「世界史の眼」No.67(2025年10月)

今号では、先号より連載の小谷汪之さんの「敗戦と「南洋」―「土人」という言葉に触発されて」の(下)を掲載しています。今号にて完結です。また、東海大学の菅原未宇さんに、アンドリュー・リース(鹿住大助訳)『都市の世界史』(ミネルヴァ書房、2025年)の書評をご寄稿いただきました。

小谷汪之
敗戦と「南洋」(下)―「土人」という言葉に触発されて 

菅原未宇
書評:アンドリュー・リース著、鹿住大助訳『都市の世界史』(ミネルヴァ書房、2025年)

アンドリュー・リース(鹿住大助訳)『都市の世界史』(ミネルヴァ書房、2025年)の出版社による紹介ページは、こちらです。

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敗戦と「南洋」(下)―「土人」という言葉に触発されて
小谷汪之

はじめに
1 「酋長の娘」
2 「敗戦日記」の中の「南洋」(1)―渡辺一夫
(以上、前号)
3 「敗戦日記」の中の「南洋」(2)―高見順
4 「文明―未開」―不変の構図
おわりに
(以上、本号)

3 「敗戦日記」の中の「南洋」(2)―高見順

 敗戦後の日本社会の風潮や日本人の言動に批判的な目を向けた知識人は渡辺以外にもたくさんいる。作家の高見順もその一人で、高見の『敗戦日記』(中公文庫、2005年)からは彼の苛立ちのようなものがよく伝わってくる。

 1945年10月20日、高見は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の「人権指令」(10月4日)にもとづいて釈放された「政治犯」・内野壮児の「出獄歓迎会」に出席するために、中央線の高円寺駅で下車、友人たちと待ち合わせて、内野の家に行った。一人早く退席して帰路についた高見は、戦争によって変わってしまった街並みのため道を間違えたが、何とか高円寺の駅にたどり着いた。

 駅は薄暗かった。電球がないのだろう。
 向側の歩廊に人だかりがしている。笑い声が挙がっている。アメリカ兵が酔ってでもいるのか、大声で何か言い、何かおかしい身振りをしている。そのまわりに、日本人が群がっている。そのなかに、若い女の駅員が二人混じっている。アメリカ兵は自分の横を指差して、女の駅員に、ここへ来いと言っている。そして何か身振りをして見せる。周囲の日本人はゲラゲラ笑い、二人の女の駅員は、あら、いやだと言ったあんばいに、二人で抱きついて、嬌態を示す。彼女等は、そうしてからかわれるのがうれしくてたまらない風であった。
 別の女の駅員が近づいてきた。からかわれたいという気持を全身に出した、その様子であった。
 なんともいえない恥ずかしい風景だった。この浅間あさましい女どもが選挙権を持つのかとおもうと慄然とした。面白がって見ている男どもも、―南洋の無智な土着民以下の低さだ。   
 日本は全く、底を割って見れば、その文化的低さは南洋の植民地と同じだったのだ。(『敗戦日記』382~383頁)

 アメリカ兵に「嬌態を示す」日本人の女たちやそれを取り巻いて喜んでいる日本人の男たちを見た高見のやりきれないような気持ちはよく分かるが、日本人の「文化的低さ」をいうために、どうして「南洋の無智な土着民」を引き合いに出したのであろうか。

 高見の『敗戦日記』の中には、もう一カ所「南洋」が出てくる。それは映画「そよかぜ」(1945年10月11日公開)を見た感想を記した箇所である。

 1945年10月24日、高見は一人の友人と「国民酒場」で一杯やろうと思って、銀座に出た。しかし、「切符」が取れなかったので入店することができなかった。それで、「全線座の前へ行って、不意に映画でも見ようかという気になった」。映画は「そよかぜ」という題であった。「そよかぜ」は、敗戦後初めて製作された日本映画で、並木路子が歌った主題歌「リンゴの唄」で有名だが、知識人たちの間では、評判が悪かった。それで、「どのくらいひどいものか、ためしに見てみよう」ということになったのである。見終わった高見はその感想を次のように書いている。

 いや全くひどいものだった。レヴュー劇場の三人の楽手が照明係の娘に音楽的才能のあるのを見て、これをスターに育てあげるという筋。筋も愚劣なら、映画技術も愚劣の極。いつの間に日本映画はこう退化したのだろう。
 私は南方で向うの土着民の軽薄な音楽映画を見て、南方植民地の文化の低さをまざまざと見せつけられた気がしたことを思い出した。軽蔑感よりも切ない悲哀が胸を締めつけたものだ。同じ黄色人種というところから来た切なさであった。(『敗戦日記』385頁)

 「そよかぜ」を見て、「南方植民地」の「土着民の軽薄な音楽映画」と共通する愚劣さを感じ、そこから日本文化も「南方植民地」の文化と同程度の低さだと思ったというわけである。

 高見は「南方で向うの土着民の軽薄な音楽映画」を見たと書いているが、それは英領ビルマの首都だったラングーン(現、ミャンマーのヤンゴン)でのことである。

 1941年11月、高見は陸軍報道班員として、「南」に派遣されることになった。12月2日、大阪港からサイゴン(現、ベトナムのホーチミン市)に向けて出発、12月8日には、船上のラジオ放送で日米開戦を知った。「折から香港の沖合いを航行中。一同厳粛な表情」と高見は書いている(「徴用生活」、『高見順日記 第一巻』勁草書房、1965年、所収、260頁)。高見らの一行は、サイゴン、カンボジアのプノンペンを経て、12月29日にはタイのバンコックに入った。バンコックからは英領ビルマ最南端のヴィクトリア・ポイント(現、ミャンマーのコータウン)に行く日本軍の参謀に随行した。その後、高見らはバンコックに戻り、そこから英領ビルマの首都ラングーンに進軍する部隊に同行したが、英領ビルマ軍に包囲され、ゴム園に逃げ込むという経験もした。1942年3月8日、日本軍はラングーンを占領し、軍政を布いた。高見のラングーンでの職務は主に映画の検閲で、高見はほとんど毎日のように多くの映画を見て、日本軍政に都合の悪いと思われる部分をカットするという作業を行っていた。ビルマ映画だけではなく、インド映画や日本映画も検閲の対象であった。

 1942年9月1日の夜、「ヤンナイン・ヤンオウン」というビルマ映画を検閲した高見はその感想を次のように記している。

 実にくだらない映画で、仕事ながら、腹立たしくなる(「徴用生活」384頁)。
 残酷な場面を平気でうつしているのは、なにもこの映画だけのことではないが、ちょっとたまらない。
 ビルマ人というのは、その民衆の大半はまだ未開の民なのだなと、そんなことを考えさせられるのだが、同時にビルマ人を、そういうところにとどめておいた英国の政策にも思いがおよぶ。
 英国領の頃、ビルマは犯罪が多いので有名だった。そして英国当局は、犯罪を助長させるような(道徳的には、その頽廃を助長させるような)映画を平気で許していたのである。ビルマ人の向上というようなことは、統治上かえって有害として一向にかえりみなかったことがわかる。(「徴用生活」385~386頁)

 敗戦後、映画「そよかぜ」を見た高見はラングーンでの体験を思い出し、日本人の文化程度も「南方」のビルマ人並みの低さだと感じたのである。

 高見はもともとは「南」に「あこがれ」のようなものをもっていた。高見のオランダ領東インド(現在のインドネシア)旅行(1941年1~4月)の記録である「渡南遊記」には次のように書かれている。

 南へ行きたいと思い出したのは、いつ頃だったろうか。私がまだ映画会社の東京発声の嘱託をやっていた時分、キャメラマンが南洋に行くという話を聞いて、一緒に行きたいといったのを覚えている。あれは昭和十二年[1937年]だったか、十三年だったか。[中略]
 [連載小説]「如何なる星の下に」で一緒に仕事をはじめた[挿絵の]三雲[祥之助]君に、この私の南へのあこがれを話した。すると三雲君も行ってみようという。私は、外国の旅の経験者である三雲君と行を共にするのは心づよいと喜んだ。
 南といっても、はっきり南のどこときまっているわけではなかった。すると三雲君が、安南[ベトナム]に知り合いがあるという。安南の王様の弟が絵の修業でパリへ行っていた頃、アトリエを貸してやったりして、知り合いだという。そこで二人で安南を訪ねようということになった。[中略]
 するうち、仏印(註=フランス領印度支那、現在のヴェトナム[ベトナム])への進駐がはじまり、人々の眼がそこへ一斉にそそがれはじめ、ジャーナリストが行きだした。作家の仏印行を聞くようになった。そうすると、いやけがさしてきた。[中略]
 いっそ、では蘭印[オランダ領東インド]に行こうということになった。[中略]
 いざ行くとなって、あちこちに手づるを求めて紹介状を貰ったり何かすると、そのさきざきで、
「―あぶないですね」
「もうすこし待ってみたらどうです」
「一触即発の形勢ですからね―」
「とても空気が険悪で、ろくろく見物もできないらしいですよ」
そんなことを一斉にいわれた。
(「渡南遊記」、『高見順日記 第一巻』所収、56~57頁)

 このように、高見は1937、38年頃には「南」に行きたいと思っていた。最初はベトナムに行くことを考えていたのだが、1940年9月、日本軍の「仏印進駐」が始まったので、ベトナム行きを断念して、オランダ領東インド(インドネシア)に行くことにした。

 1941年1月27日、高見は三雲祥之助とともに、貨客船ジョホール丸で神戸港から出発した。2月4日には、パラオ諸島のコロール島に着き、コロール島や西隣のアラカベサン島の各地を見て回った。2月6日、コロール港を出て、セレベス島(スラウェシ島)のメナド(マナド)とマカッサルを経由、2月13日にジャワ島のスラバヤに到着した。スラバヤにはしばらく留まって、イスラム化したインドネシアの社会や文化を実見した。3月5日にはバリ島に行き、ヒンドゥー寺院やバリ舞踊などを見歩きながら、3月いっぱいまで滞在した。その後、ジャワ島に戻り、バタヴィア(ジャカルタ)、バンドン、ジョグジャカルタなどの町々やボロブドゥール寺院などを訪ねた。4月中旬、帰国の途に就き、ボルネオ島北岸のサンダカン(当時英領で、上陸禁止)、中国大陸のアモイ(厦門。当時ポルトガル領、上陸して見物)、台湾の高雄、基隆を経て、5月6日、神戸港に帰着した。

 このオランダ領東インド(インドネシア)旅行の間、高見は知人たちに心配されたようなオランダ側からの妨害や嫌がらせに遭うことはなかったようであるが、情勢は確かに切迫していた。第二次世界大戦下の1940年5月14日、オランダ本国はドイツに降伏し、ロンドンに亡命政府が置かれていた。同年9月には、石油などの輸出をめぐって、日本とオランダ領東インド政庁との間で協議(第二次日蘭会商)が行われた。その結果、日本は1941年1月には、対日石油輸出の増量をオランダ側に認めさせた。高見らが帰国した後のことであるが、1942年3月1日には、日本軍がジャワ島に上陸し、オランダ領東インド政庁は降伏した。こうして、インドネシアは日本軍の軍政下に置かれたのである。

 高見がオランダ領東インドを旅行していた時期はまさにこのような情勢の時であった。しかし、その割には、高見の「渡南遊記」からはそんな切羽詰まったようなものは感じられない。高見の「渡南遊記」は「南」に関する客観的な観察の記録といいうるようなものである。高見はオランダ領東インド滞在中も、「南」に関する英文の専門書などを広く読んでいた。だから、オランダ領東インド旅行時の高見にはステレオタイプ的な「南洋」イメージはなかったのだが、その約1年後のラングーンでの体験が高見の「南洋」観を固定的なものにしてしまったようである。

4 「文明―未開」―不変の構図

 敗戦期の日記などを見ていると、欧米の進んだ文化の前に、程度の低い日本文化が敗北したという論調が目立つ。そこには、「文明―未開」という一本の階梯の上に、欧米と日本を置き、両者の間の開きに敗因を求めるという構図がうかがえる。その時、「未開」の底辺に置かれたのが「南洋」だったのである。『濹東綺譚』(1937年)などで知られる作家・永井荷風にもこういった発想が見られる。

〔1946 年〕四月廿八日日曜日晴、配給の煙草ますます粗惡となり今はほとんど喫するに堪えず、醬油には鹽氣乏しく味噌は惡臭を帶ぶ、これ亡國の兆一歩一歩顯著となりしを知らしむるものならずや、現代の日本人は戰敗を口實となし事に勤るを好まず、改善進歩の何たるかを忘るゝに至れるなり、日本の社會は根柢より堕落腐敗しはじめしなり、今は既に救ふの道なければやがては比島人〔フィリピン人〕よりも猶一層下等なる人種となるなるべし、其原因は何ぞ、日本の文教は古今を通じて皆他國より借來りしものなるが爲なるべし、支那の儒學も西洋の文化も日本人は唯その皮相を學びしに過きず、遂にこれを咀嚼すること能はざりしなり(永井荷風『斷腸亭日乗 六』岩波書店、1981年、136~137頁)。

 煙草や味噌・醤油の味に対する不満から「亡國」に思い到る所などは荷風らしいといえばいえるのかもしれないが、ここに見られる日本文化の「借り物」性やそれに起因する日本社会の「堕落腐敗」の指摘は何も珍しいものではない。ただ、ここで永井が、日本人は「やがて比島人よりも猶一層下等なる人種」になってしまうだろうと、「比島人」(フィリピン人)を引き合いに出しているところにはやはりひっかかる。永井はフィリピンに行ったことはなかったのだが、文化の程度の低さというと、すぐにフィリピンを連想するという思考の回路を持っていたのである。その点では、永井も「戦後民主主義」期の多くの知識人たちと異なるところはなかったといえるであろう。

 戦前、戦後を通して、日本にとって「文明」の先達は欧米であり、「未開」の底辺にあるのが「南洋」であった。敗戦を通しても、この「文明(欧米)―未開(南洋)」という思想的階梯には何の変化もなかった。しかし、敗戦によって、そこにおける日本の位置だけは変った。日本は「文明―未開」の階梯の上の方にいると思いこんでいたのだが、実はその階梯の低い位置、「南洋」に近い位置にいるのではないかという自意識が多くの知識人たちを捉えたのである。

 このように、敗戦を優れた欧米文化の前における低級な日本文化の敗北と受け止めるのが「戦後知」であったとするならば、そこに生まれた「戦後民主主義」期の諸思想において、「南洋」が正当に取り扱われなかったのは不思議なことではない。「戦後民主主義」の諸思想は、「南洋」を「未開」の底辺にとどめ置くことによって、自己の後進性を自覚化し、それをバネとして日本社会の「近代化=民主化」を唱道するという構造をもつものだったからである。そして、「南洋」が「未開」の底辺に位置づけられている限り、ステレオタイプ的な「南洋の土人」像も無意識の底に生き続けることになる。大阪府警機動隊員の「土人」発言はそれが暴発的に表面に噴出したものといえるであろう。

おわりに

 このような戦後日本の思想構造の中で、多くの日本人の敗戦体験や植民地体験は真摯に反芻され、意味づけられることなく、記憶の底に隠蔽されることになった。その過程で、加害の記憶は忘れられ、被害の記憶だけが怨念となって、増殖していった。しかし、西洋中心主義的で、啓蒙主義的な「戦後民主主義」期の諸思想は、その「上から目線」のゆえに、このような大衆的怨念をすくいあげる能力を本質的に欠いていた。1970年代以降一挙に顕著となった「戦後民主主義」的諸思想の凋落、落飾は、この増殖された大衆的怨念の「逆襲」によって引き起こされたということもできるであろう。

 それだけではない。このような敗戦の捉え方は、日本にとっての第二次世界大戦であった「アジア・太平洋戦争」における「太平洋の戦争」(対米・英戦)だけをクローズアップして、朝鮮支配や中国への侵略など「アジアの戦争」を切り捨てることにつながっている。天皇制軍国主義のアジア侵略そのことを丸ごと否定しようとする右翼的論調がはびこっている今日、「アジア・太平洋戦争」をその総体において捉えることが求められているのである。

(「世界史の眼」No.67)

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書評:アンドリュー・リース著、鹿住大助訳『都市の世界史』(ミネルヴァ書房、2025年)
菅原未宇

 本書は「ミネルヴァ世界史<翻訳>ライブラリー」の一書として、オクスフォード大学出版局から出版されたNew Oxford World Historyシリーズのうち2015年に刊行されたThe City: A World Historyを翻訳したものである。著者のアンドリュー・リースはアメリカの近現代ドイツ社会史、思想史、都市史研究者である。

 第1章「初期都市の起源と位置」の冒頭で著者は、歴史上長きにわたり相対的に少数の人口を擁したに過ぎない都市が、社会に深い影響を与え、人類史の決定要因となってきたと述べ、都市の世界史を語る意義を示す。最初期の都市は紀元前4000年紀半ば、都市形成の前提条件である余剰食糧の生産地域から近く、水利に恵まれたメソポタミアに出現した。次いでその影響を受けながら、それぞれ異なる特徴を有した都市がエジプト、インダス渓谷に建設された。独自の都市化が起こった中国では、紀元前3000年頃に都市の出現が見られ、紀元前500年頃までに、人口10万人超の都市が少なくとも四つ存在するという、同時代の他地域では見られない状況を呈した。中央アメリカにおいても都市ネットワークの建設が確認できるが、そのほかのほとんどの地域において都市はまだまれな現象であった。

 第2章「大都市」では、紀元前500年から紀元300年にかけて都市文明の繁栄を見た地中海沿岸都市が主として論じられる。中でも、政治制度や建築、文化の面で独創性を示したアテネ、ヘレニズム世界の文化的中心となったアレクサンドリア、世界史上最初の巨大都市といえるローマについて考察がなされた。ローマ人の手で、帝国内の各地にローマ同様の公共建築を備えた都市が築かれたこと、同時代にはそのほか、パータリプトラや長安、洛陽といった王国の首都が、ギリシア・ローマの影響圏の外に発達したことも記される。

 第3章「衰退と発展」では、西欧が西ローマ帝国の崩壊による都市の衰退とその後の再発展を経験する4世紀から15世紀までの世界各地の都市の展開を跡付ける。当該時期前半、11世紀までのヨーロッパにおいて都市の活力を牽引したのはビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルであった。アジアとヨーロッパ、地中海と黒海を結ぶ国際商業網の要に位置したことが、その繁栄の鍵であった。同様に、首都という政治的地位と大陸間貿易の経路という地理的条件によって発達を遂げたのは、8世紀後半にアッバース朝カリフによって築かれたバグダードである。中国では行政中心地を主な核として都市網が形成され、長安、南京、大都といった時の帝国の首都がその頂点に位置した。アメリカ大陸においては、14世紀にアステカ帝国の首都として建設されたテノチティトランが、15世紀末までに西半球最大の都市に発展した。これら大国の首都として整備された都市と異なり、当該時期後半に再発展を遂げた西欧都市は、個人の居住選択の結果出現したという特徴があった。そのほか日本、カンボジア、西アフリカで都市の発生が見られた。

 第4章「首都、文化、植民地化、革命」は、16世紀から18世紀までの都市を検討対象とする。近世ヨーロッパでは、政治的中央集権化の結果、首都の急拡大が見られ、とりわけ北西部において急速に都市化が進展した。アジアでは、進出してきたヨーロッパ人との交易も部分的には寄与したが、多くはそれぞれの地域内の要因により都市化が進展し、例えば大名による城下町の建設によって日本における都市部の人口割合は増大した。中でも行政の中心地たる江戸は文化的消費の中心地としても繁栄を極めた。他方、アメリカ大陸においてはヨーロッパ人による植民都市建設が都市化を主導した。中でも18世紀第四四半期に英語圏で二番目の大都市となったフィラデルフィアは、公共圏の成立を背景にアメリカ独立運動の主たる原動力となった。社会的格差などの問題を孕みつつ巨大都市となったパリとロンドンにおいてはすでに同様の公共圏の発達が生じており、アメリカ独立に力づけられた人々は、パリでは革命を成し遂げ、ロンドンでは急進主義組織の活動を通じて民主主義の拡散を図った。

 第5章「工業化時代における都市の成長とその結果」は、世界大戦勃発までの長い19世紀の都市について考察する。新たな国民国家の樹立による行政の中央集権化と産業革命の結果、都市への人口集中が生じた。工場での高生産性を担保するのは蒸気機関という新たな動力源や機械の導入だけではなく、多数の労働者の工場近くへの居住でもあったからだ。機械化された輸送手段の登場は農村から都市への移住も促すことになった。過密に伴う公衆衛生上および道徳上の懸念から、都市環境の改良を目指した民間団体による事業が活発化した一方、権限強化された地方自治体の主導で、19世紀半ばから20世紀初めにかけてヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で衛生面を中心にインフラ整備が進められた。加えて、百貨店やミュージックホールなどの文化的インフラが大衆消費市場の力で生み出され、これらは都市の魅力、都市生活への愛着を強化することになった。

 第6章「植民都市」は、第5章と同時期の帝国主義支配下に置かれた地域の都市について論じる。ヨーロッパ列強の直接的支配が及んだ南アジア、東アジア、東南アジア、アフリカの都市は、支配権力を象徴する公共建築物の存在といった共通点を持ちつつ、住民のほとんどがヨーロッパ人の場合と、非白人である場合(その多くが植民地化以前に歴史を持つ古い都市)とで、設計や政治制度などの点で異なる特徴を有することになった。後者においては、同時代のヨーロッパでは許容されなくなりつつあった非民主的な統治が行われた。権威主義的体制の下で公衆衛生の改善はあまり進まなかったが、こうした試みの中で西洋人と地元民の居住地を分離する人種隔離政策が提案され、いくつかの都市でそれが実行に移されていく。いずれにせよ宗主国の支配の確立、維持のための拠点として都市が重要な役割を果たし、ヨーロッパの都市、植民地の都市、後背地の間で以前にも増して緊密な関係が形成されることになったが、そのネットワークは帝国主義の打倒を目指す運動にも力を与えることになった。

 第7章「破壊と再建」は、世界大戦勃発から戦後復興期にかけての都市について検討する。総力戦による困難に直面し不満を抱えた人々を懐柔し秩序を維持するため、国家や自治体は以前にも増して社会への介入を強めた。しかしペトログラードでは革命が勃発し、その後の内戦を経て生まれたソヴィエト連邦の領域では、急速な工業化とそれに伴う都市化が進んだ。アメリカの都市などの例外を除き、第二次世界大戦がもたらす暴力と無秩序は、それまでの戦争と比べてもはるかに壊滅的な被害を都市居住者に与えることになった。戦後、西側東側問わず、都市部の再建が政府の最重要課題として推進されていく。

 第8章「一九五〇年以降の都市の衰退と成長」は、20世紀後半から今世紀初頭にかけての都市の変遷を跡付ける。この時期、脱工業化と都市郊外化により衰退する都市が欧米で見られた一方、都市化が急速に進展したアジアやアフリカで、上海やラゴスといった巨大都市が出現した。この要因は公衆衛生の改善による自然増と農村から都市への人口移動であり、後者は教育を通じた若者の啓発やマスメディアを通じた都市生活の喧伝によって促されていた。また、摩天楼の建設も都市居住者の急拡大を可能にした。これら開発途上国の都市を中心に、スラムや大気汚染などの課題が今なお山積しているが、他方、都市はそうした問題の解決が模索され未来が形作られる場でもあると締めくくられる。

 以上概観してきたが、評者の考える本書の意義は、同時代の世界史的状況の中に各地の都市形成や発展を位置付けているという点にある。例えば、紀元前3世紀に35万人ほどの住民を擁したパータリプトラが同時代のローマと同程度の規模だったと述べる(p. 42)一方、その後紀元2世紀までに後者の人口は少なくとも70万人に達し、世界史における最初の巨大都市となったという評価を与える(pp. 33-34)。このように本書は随所で様々な都市の推計人口を示しつつ共時的、通時的な比較を提示しており、評者のように個別都市の実証研究を行っている者の目を開いてくれるように思われる。

 ただ本書が、シリーズの巻頭言で掲げられるヨーロッパ中心的な発展段階の叙述ではない新しい世界史叙述の試みとなっているかどうかと問われると、その点はやや心許なく感じた。例えば章別編成について、第3章からは明らかであるが、西洋史の時代区分を踏襲しているように思われる。その結果、15世紀末までに都市化が進んだ中国の都市人口はヨーロッパのそれよりも多く、1800年当時、北京は恐らく世界最大の都市であった(p. 81)と指摘しながら、第3章、第4章でのそれぞれ分散した言及に留まり、大都から北京への都市発展の筋道立った叙述が提示されないという憾みが残る。ほかにも、植民都市を考察する第6章において(前後の章では日本の事例が考察されているにもかかわらず)、大日本帝国の植民地ないし居留地についての言及は皆無であるが、仮にそうした議論が加わっていれば、この章でもっぱら対象となっているヨーロッパ列強による植民都市のあり方を相対化する叙述になり得たのではなかろうか。

 もっとも、たとえ上述の指摘が妥当だとしても、都市を主題とする世界史叙述を日本語で世に問うた本書の価値は揺らぐものではない。都市史研究者はもちろん、日本史と世界史の共時性に関心を持つ教育者にも一読をお勧めする。

(「世界史の眼」No.67)

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