はじめに
1 「酋長の娘」
2 「敗戦日記」の中の「南洋」(1)―渡辺一夫
(以上、前号)
3 「敗戦日記」の中の「南洋」(2)―高見順
4 「文明―未開」―不変の構図
おわりに
(以上、本号)
3 「敗戦日記」の中の「南洋」(2)―高見順
敗戦後の日本社会の風潮や日本人の言動に批判的な目を向けた知識人は渡辺以外にもたくさんいる。作家の高見順もその一人で、高見の『敗戦日記』(中公文庫、2005年)からは彼の苛立ちのようなものがよく伝わってくる。
1945年10月20日、高見は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の「人権指令」(10月4日)にもとづいて釈放された「政治犯」・内野壮児の「出獄歓迎会」に出席するために、中央線の高円寺駅で下車、友人たちと待ち合わせて、内野の家に行った。一人早く退席して帰路についた高見は、戦争によって変わってしまった街並みのため道を間違えたが、何とか高円寺の駅にたどり着いた。
駅は薄暗かった。電球がないのだろう。
向側の歩廊に人だかりがしている。笑い声が挙がっている。アメリカ兵が酔ってでもいるのか、大声で何か言い、何かおかしい身振りをしている。そのまわりに、日本人が群がっている。そのなかに、若い女の駅員が二人混じっている。アメリカ兵は自分の横を指差して、女の駅員に、ここへ来いと言っている。そして何か身振りをして見せる。周囲の日本人はゲラゲラ笑い、二人の女の駅員は、あら、いやだと言ったあんばいに、二人で抱きついて、嬌態を示す。彼女等は、そうしてからかわれるのがうれしくてたまらない風であった。
別の女の駅員が近づいてきた。からかわれたいという気持を全身に出した、その様子であった。
なんともいえない恥ずかしい風景だった。この浅間しい女どもが選挙権を持つのかとおもうと慄然とした。面白がって見ている男どもも、―南洋の無智な土着民以下の低さだ。
日本は全く、底を割って見れば、その文化的低さは南洋の植民地と同じだったのだ。(『敗戦日記』382~383頁)
アメリカ兵に「嬌態を示す」日本人の女たちやそれを取り巻いて喜んでいる日本人の男たちを見た高見のやりきれないような気持ちはよく分かるが、日本人の「文化的低さ」をいうために、どうして「南洋の無智な土着民」を引き合いに出したのであろうか。
高見の『敗戦日記』の中には、もう一カ所「南洋」が出てくる。それは映画「そよかぜ」(1945年10月11日公開)を見た感想を記した箇所である。
1945年10月24日、高見は一人の友人と「国民酒場」で一杯やろうと思って、銀座に出た。しかし、「切符」が取れなかったので入店することができなかった。それで、「全線座の前へ行って、不意に映画でも見ようかという気になった」。映画は「そよかぜ」という題であった。「そよかぜ」は、敗戦後初めて製作された日本映画で、並木路子が歌った主題歌「リンゴの唄」で有名だが、知識人たちの間では、評判が悪かった。それで、「どのくらいひどいものか、ためしに見てみよう」ということになったのである。見終わった高見はその感想を次のように書いている。
いや全くひどいものだった。レヴュー劇場の三人の楽手が照明係の娘に音楽的才能のあるのを見て、これをスターに育てあげるという筋。筋も愚劣なら、映画技術も愚劣の極。いつの間に日本映画はこう退化したのだろう。
私は南方で向うの土着民の軽薄な音楽映画を見て、南方植民地の文化の低さをまざまざと見せつけられた気がしたことを思い出した。軽蔑感よりも切ない悲哀が胸を締めつけたものだ。同じ黄色人種というところから来た切なさであった。(『敗戦日記』385頁)
「そよかぜ」を見て、「南方植民地」の「土着民の軽薄な音楽映画」と共通する愚劣さを感じ、そこから日本文化も「南方植民地」の文化と同程度の低さだと思ったというわけである。
高見は「南方で向うの土着民の軽薄な音楽映画」を見たと書いているが、それは英領ビルマの首都だったラングーン(現、ミャンマーのヤンゴン)でのことである。
1941年11月、高見は陸軍報道班員として、「南」に派遣されることになった。12月2日、大阪港からサイゴン(現、ベトナムのホーチミン市)に向けて出発、12月8日には、船上のラジオ放送で日米開戦を知った。「折から香港の沖合いを航行中。一同厳粛な表情」と高見は書いている(「徴用生活」、『高見順日記 第一巻』勁草書房、1965年、所収、260頁)。高見らの一行は、サイゴン、カンボジアのプノンペンを経て、12月29日にはタイのバンコックに入った。バンコックからは英領ビルマ最南端のヴィクトリア・ポイント(現、ミャンマーのコータウン)に行く日本軍の参謀に随行した。その後、高見らはバンコックに戻り、そこから英領ビルマの首都ラングーンに進軍する部隊に同行したが、英領ビルマ軍に包囲され、ゴム園に逃げ込むという経験もした。1942年3月8日、日本軍はラングーンを占領し、軍政を布いた。高見のラングーンでの職務は主に映画の検閲で、高見はほとんど毎日のように多くの映画を見て、日本軍政に都合の悪いと思われる部分をカットするという作業を行っていた。ビルマ映画だけではなく、インド映画や日本映画も検閲の対象であった。
1942年9月1日の夜、「ヤンナイン・ヤンオウン」というビルマ映画を検閲した高見はその感想を次のように記している。
実にくだらない映画で、仕事ながら、腹立たしくなる(「徴用生活」384頁)。
残酷な場面を平気でうつしているのは、なにもこの映画だけのことではないが、ちょっとたまらない。
ビルマ人というのは、その民衆の大半はまだ未開の民なのだなと、そんなことを考えさせられるのだが、同時にビルマ人を、そういうところにとどめておいた英国の政策にも思いがおよぶ。
英国領の頃、ビルマは犯罪が多いので有名だった。そして英国当局は、犯罪を助長させるような(道徳的には、その頽廃を助長させるような)映画を平気で許していたのである。ビルマ人の向上というようなことは、統治上かえって有害として一向にかえりみなかったことがわかる。(「徴用生活」385~386頁)
敗戦後、映画「そよかぜ」を見た高見はラングーンでの体験を思い出し、日本人の文化程度も「南方」のビルマ人並みの低さだと感じたのである。
高見はもともとは「南」に「あこがれ」のようなものをもっていた。高見のオランダ領東インド(現在のインドネシア)旅行(1941年1~4月)の記録である「渡南遊記」には次のように書かれている。
南へ行きたいと思い出したのは、いつ頃だったろうか。私がまだ映画会社の東京発声の嘱託をやっていた時分、キャメラマンが南洋に行くという話を聞いて、一緒に行きたいといったのを覚えている。あれは昭和十二年[1937年]だったか、十三年だったか。[中略]
[連載小説]「如何なる星の下に」で一緒に仕事をはじめた[挿絵の]三雲[祥之助]君に、この私の南へのあこがれを話した。すると三雲君も行ってみようという。私は、外国の旅の経験者である三雲君と行を共にするのは心づよいと喜んだ。
南といっても、はっきり南のどこときまっているわけではなかった。すると三雲君が、安南[ベトナム]に知り合いがあるという。安南の王様の弟が絵の修業でパリへ行っていた頃、アトリエを貸してやったりして、知り合いだという。そこで二人で安南を訪ねようということになった。[中略]
するうち、仏印(註=フランス領印度支那、現在のヴェトナム[ベトナム])への進駐がはじまり、人々の眼がそこへ一斉にそそがれはじめ、ジャーナリストが行きだした。作家の仏印行を聞くようになった。そうすると、いやけがさしてきた。[中略]
いっそ、では蘭印[オランダ領東インド]に行こうということになった。[中略]
いざ行くとなって、あちこちに手づるを求めて紹介状を貰ったり何かすると、そのさきざきで、
「―あぶないですね」
「もうすこし待ってみたらどうです」
「一触即発の形勢ですからね―」
「とても空気が険悪で、ろくろく見物もできないらしいですよ」
そんなことを一斉にいわれた。
(「渡南遊記」、『高見順日記 第一巻』所収、56~57頁)
このように、高見は1937、38年頃には「南」に行きたいと思っていた。最初はベトナムに行くことを考えていたのだが、1940年9月、日本軍の「仏印進駐」が始まったので、ベトナム行きを断念して、オランダ領東インド(インドネシア)に行くことにした。
1941年1月27日、高見は三雲祥之助とともに、貨客船ジョホール丸で神戸港から出発した。2月4日には、パラオ諸島のコロール島に着き、コロール島や西隣のアラカベサン島の各地を見て回った。2月6日、コロール港を出て、セレベス島(スラウェシ島)のメナド(マナド)とマカッサルを経由、2月13日にジャワ島のスラバヤに到着した。スラバヤにはしばらく留まって、イスラム化したインドネシアの社会や文化を実見した。3月5日にはバリ島に行き、ヒンドゥー寺院やバリ舞踊などを見歩きながら、3月いっぱいまで滞在した。その後、ジャワ島に戻り、バタヴィア(ジャカルタ)、バンドン、ジョグジャカルタなどの町々やボロブドゥール寺院などを訪ねた。4月中旬、帰国の途に就き、ボルネオ島北岸のサンダカン(当時英領で、上陸禁止)、中国大陸のアモイ(厦門。当時ポルトガル領、上陸して見物)、台湾の高雄、基隆を経て、5月6日、神戸港に帰着した。
このオランダ領東インド(インドネシア)旅行の間、高見は知人たちに心配されたようなオランダ側からの妨害や嫌がらせに遭うことはなかったようであるが、情勢は確かに切迫していた。第二次世界大戦下の1940年5月14日、オランダ本国はドイツに降伏し、ロンドンに亡命政府が置かれていた。同年9月には、石油などの輸出をめぐって、日本とオランダ領東インド政庁との間で協議(第二次日蘭会商)が行われた。その結果、日本は1941年1月には、対日石油輸出の増量をオランダ側に認めさせた。高見らが帰国した後のことであるが、1942年3月1日には、日本軍がジャワ島に上陸し、オランダ領東インド政庁は降伏した。こうして、インドネシアは日本軍の軍政下に置かれたのである。
高見がオランダ領東インドを旅行していた時期はまさにこのような情勢の時であった。しかし、その割には、高見の「渡南遊記」からはそんな切羽詰まったようなものは感じられない。高見の「渡南遊記」は「南」に関する客観的な観察の記録といいうるようなものである。高見はオランダ領東インド滞在中も、「南」に関する英文の専門書などを広く読んでいた。だから、オランダ領東インド旅行時の高見にはステレオタイプ的な「南洋」イメージはなかったのだが、その約1年後のラングーンでの体験が高見の「南洋」観を固定的なものにしてしまったようである。
4 「文明―未開」―不変の構図
敗戦期の日記などを見ていると、欧米の進んだ文化の前に、程度の低い日本文化が敗北したという論調が目立つ。そこには、「文明―未開」という一本の階梯の上に、欧米と日本を置き、両者の間の開きに敗因を求めるという構図がうかがえる。その時、「未開」の底辺に置かれたのが「南洋」だったのである。『濹東綺譚』(1937年)などで知られる作家・永井荷風にもこういった発想が見られる。
〔1946 年〕四月廿八日日曜日晴、配給の煙草ますます粗惡となり今は殆喫するに堪えず、醬油には鹽氣乏しく味噌は惡臭を帶ぶ、これ亡國の兆一歩一歩顯著となりしを知らしむるものならずや、現代の日本人は戰敗を口實となし事に勤るを好まず、改善進歩の何たるかを忘るゝに至れるなり、日本の社會は根柢より堕落腐敗しはじめしなり、今は既に救ふの道なければやがては比島人〔フィリピン人〕よりも猶一層下等なる人種となるなるべし、其原因は何ぞ、日本の文教は古今を通じて皆他國より借來りしものなるが爲なるべし、支那の儒學も西洋の文化も日本人は唯その皮相を學びしに過きず、遂にこれを咀嚼すること能はざりしなり(永井荷風『斷腸亭日乗 六』岩波書店、1981年、136~137頁)。
煙草や味噌・醤油の味に対する不満から「亡國」に思い到る所などは荷風らしいといえばいえるのかもしれないが、ここに見られる日本文化の「借り物」性やそれに起因する日本社会の「堕落腐敗」の指摘は何も珍しいものではない。ただ、ここで永井が、日本人は「やがて比島人よりも猶一層下等なる人種」になってしまうだろうと、「比島人」(フィリピン人)を引き合いに出しているところにはやはりひっかかる。永井はフィリピンに行ったことはなかったのだが、文化の程度の低さというと、すぐにフィリピンを連想するという思考の回路を持っていたのである。その点では、永井も「戦後民主主義」期の多くの知識人たちと異なるところはなかったといえるであろう。
戦前、戦後を通して、日本にとって「文明」の先達は欧米であり、「未開」の底辺にあるのが「南洋」であった。敗戦を通しても、この「文明(欧米)―未開(南洋)」という思想的階梯には何の変化もなかった。しかし、敗戦によって、そこにおける日本の位置だけは変った。日本は「文明―未開」の階梯の上の方にいると思いこんでいたのだが、実はその階梯の低い位置、「南洋」に近い位置にいるのではないかという自意識が多くの知識人たちを捉えたのである。
このように、敗戦を優れた欧米文化の前における低級な日本文化の敗北と受け止めるのが「戦後知」であったとするならば、そこに生まれた「戦後民主主義」期の諸思想において、「南洋」が正当に取り扱われなかったのは不思議なことではない。「戦後民主主義」の諸思想は、「南洋」を「未開」の底辺にとどめ置くことによって、自己の後進性を自覚化し、それをバネとして日本社会の「近代化=民主化」を唱道するという構造をもつものだったからである。そして、「南洋」が「未開」の底辺に位置づけられている限り、ステレオタイプ的な「南洋の土人」像も無意識の底に生き続けることになる。大阪府警機動隊員の「土人」発言はそれが暴発的に表面に噴出したものといえるであろう。
おわりに
このような戦後日本の思想構造の中で、多くの日本人の敗戦体験や植民地体験は真摯に反芻され、意味づけられることなく、記憶の底に隠蔽されることになった。その過程で、加害の記憶は忘れられ、被害の記憶だけが怨念となって、増殖していった。しかし、西洋中心主義的で、啓蒙主義的な「戦後民主主義」期の諸思想は、その「上から目線」のゆえに、このような大衆的怨念をすくいあげる能力を本質的に欠いていた。1970年代以降一挙に顕著となった「戦後民主主義」的諸思想の凋落、落飾は、この増殖された大衆的怨念の「逆襲」によって引き起こされたということもできるであろう。
それだけではない。このような敗戦の捉え方は、日本にとっての第二次世界大戦であった「アジア・太平洋戦争」における「太平洋の戦争」(対米・英戦)だけをクローズアップして、朝鮮支配や中国への侵略など「アジアの戦争」を切り捨てることにつながっている。天皇制軍国主義のアジア侵略そのことを丸ごと否定しようとする右翼的論調がはびこっている今日、「アジア・太平洋戦争」をその総体において捉えることが求められているのである。
(「世界史の眼」No.67)