月別アーカイブ: 2020年7月

シリーズ「日本の中の世界史」の書評が、『歴史学研究』に掲載されました

これまで発行のたびに逐次お知らせしてきましたシリーズ「日本の中の世界史」(全7巻、岩波書店)について、『歴史学研究』No.999(2020年8月号)に、全7巻それぞれの書評が一挙に掲載されました。一覧しますと、

南塚信吾『「連動」する世界史』―評者 石居人也
木畑洋一『帝国航路を往く』―評者 松岡昌知
小谷汪之『中島敦の朝鮮と南洋』―評者 原佑介
久保亨『日本で生まれた中国国歌』―評者 黒川伊織
油井大三郎『平和を我らに』―評者 大野光明
池田忍『手仕事の帝国日本』―評者 大沢啓徳
吉見義明『買春する帝国』―評者 嶽本新奈

です。いずれも力のこもった書評です。

なお、シリーズ完成後の執筆者たちの座談会が岩波書店のポータルサイトにて見ることが出来ます。
https://tanemaki.iwanami.co.jp/categories/838

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北海道高等学校世界史研究大会のお知らせ

2020年8月22日(土)に、第 51 回北海道高等学校世界史研究大会がオンラインで開催されます。大会の詳細は、
https://hokkaido-sekaishiken.org/blogs/blog_entries/view/14/7a7c51cf4326623f474bb64cf9888533?frame_id=20
ならびに
https://hokkaido-sekaishiken.org/wysiwyg/file/download/11/43
をご覧下さい。

参加ご希望の方は、下記のURLよりお申し込み下さい。

申し込みページ
https://forms.gle/2p78FSSVBghgjJYTA

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高大連携歴史教育研究会大会のお知らせ

2020年7月25・26日に、高大連携歴史教育研究会・第6回大会がオンラインで開催されます。大会の詳細は、
http://www.kodairen.u-ryukyu.ac.jp/new/new_106gm.html
をご覧下さい

参加ご希望の方は、下記のURLより、参加する企画(全体会・パネル)それぞれにつき、個別にお申し込み下さい。

申し込みページ
http://www.kodairen.u-ryukyu.ac.jp/new/new_106af.html

事前に申し込みをされた方に限り、ミーティングのIDおよびパスワード、ならびに配付資料を24日(深夜まで)にお知らせ致します。複数の企画にご参加いただけますが、ご面倒ではありますが、上記の通り、その場合は参加予定の企画全てに申し込みを行ってください。申し込み締切は、7月23日(木)正午です。

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「世界史の眼」No.4(2020年7月)

本年4月にスタートして以来、4番目の「世界史の眼」をお届けします。小谷汪之さんには、坂本多加雄の「国家の来歴」論を批判的に検討していただきました。南塚信吾さんには、ウオルター・ローレイの『世界の歴史』が、どのようにして芥川龍之介の短編にたどり着いたのかを探っていただいています。

小谷汪之
歴史と「来歴」―坂本多加雄の構築主義的「国家論」

南塚信吾
芥川龍之介とウオルター・ローレイ

暑い日が続き、いよいよ本格的な夏の到来です。今まで経験したことのない夏となるでしょうが、皆さま、どうぞお健やかにお過ごしください。

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歴史と「来歴」―坂本多加雄の構築主義的「国家論」
小谷汪之

はじめに

 坂本多加雄は『天皇論――象徴天皇制度と日本の来歴』(以下、『天皇論』とする)で、「国家の来歴」という言葉を用いて、明治維新以降の日本近代国家の歴史を意味づけようとした。端的にいえば、いわゆる「東京裁判史観」批判の文脈で、日本近代国家のあり方を意味づけようとしたのである。アジア・太平洋戦争(第二次世界大戦)における日本の敗北(1945年)の後、日本のA級戦犯たちが裁かれた「極東国際軍事裁判」(いわゆる「東京裁判」)は日本近代史の見方を歪め、「東京裁判史観」ともいうべき偏向した歴史観を生み出した、と批判する風潮が1990年代からとみに強まってきた。西尾幹二と藤岡信勝を中心として1997年に結成された「新しい歴史教科書をつくる会」はその一つの現れである。坂本の主張も、基本的には、このような風潮に沿うものということができるであろうが、その中では最もまともなものであろう。

1 「人の来歴」

 坂本は、「国家の来歴」について語る前提として、「人の来歴」について語っている。「国家の来歴」を「人の来歴」とのアナロジーで説明するためである。
 この「人の来歴」と歴史研究(伝記的研究)との相違について、坂本は次のようにいっている。

 ここでは、物語すなわち来歴を、当人が自己自身について語るものを指し、歴史については、対象となる人物やその周辺に生じた様々な出来事の相互の関係について、当人が認知していなかった要素をも考慮に入れた、厳密な因果関係の解明を目指すものを指すことにしよう。(『天皇論』28頁)

 そのうえで、「人の来歴」、すなわち「当人が自己自身について語るもの」にかんしては、「因果関係の証明や数学的論証のような厳密なものを必ずしも求める必要はないであろう。〔中略〕何よりも、本人が納得して語り、それを聞いた周りの者も、一人の人間の中で起こり得たこととして受け容れるような『筋』があればよいのである」(『天皇論』19頁)、とする。
 ある人の「来歴」とは、その人が自分の過去を振り返って、自分が今ある所にどのようにしてたどり着いたかを、ある「筋」をもって語った「物語」というわけである。そして、その「筋」はその人の将来の生き方の方向をも指し示すものとされる。
 坂本は、このようなものとしての「人の来歴」にとって、歴史研究は「極めて重要な貢献をする」として、次のようにいう。

ひとつには、まず、歴史研究は〔その人の〕来歴が言及する個々の事実の実在性を確証することで、その「真実性」を高める。次に、それは、来歴の「筋」の理解に奥行きを与える。〔中略〕すなわち、われわれの来歴の理解は、その来歴自身は触れていない様々な背景を歴史研究によって補われることで、より充実したものになるのである。また、来歴は、このように外からの歴史的な説明の補足を受けるまでもなく、自らの筋のなかに、適切な歴史的説明を様々に織り込むことで、その「信頼性」を高めることが出来るのである。(『天皇論』33‐34頁)

 「人の来歴」は、自分にとって都合のいい歴史研究の成果を取り込むことによって、「真実性」と「信頼性」を高め、補強されるというわけである。しかし、歴史研究から作用を受けて「来歴」に変化が生まれるということはない。「人の来歴」は、自分にとって都合の悪い歴史研究の成果を取り込むことはしないからである。したがって、ある人の「来歴」が変わるとしたならば、それはその当人が違う「来歴」(物語)を自分にとってより好ましいものとして受け容れた時だけであろう。
 

2 「国家の来歴」

 坂本は、このようなものとしての「人の来歴」と「国家の来歴」とを同じ文脈に置こうとする。坂本のもう一つの著書に、『日本は自らの来歴を語りうるか』というのがある。この「日本」を「国家」に置き換えれば、「国家は自らの来歴を語りうるか」ということになるわけだが、国家(日本)が自分自身について自ら語りうるわけはもちろんない。したがって、「国家の来歴」というのは、坂本なり誰かが国家の名において語ったものということでしかない。その点で、個としての人間が自らについて語る「人の来歴」と「国家の来歴」とは本質的に異なるのだが、坂本は両者の共通性の方を強調して、次のようにいっている。

来歴というものは、個人の場合においてそうであるように、国家の場合においても、過去の事実や経験を今日的観点から整理し意味づけるという点に意義を有するのである。(『天皇論』242-243頁)

 こうして、「人の来歴」と「国家の来歴」を共通項でくくれば、「国家の来歴」にも、「人の来歴」と同様に、「因果関係の証明や数学的論証のような厳密なものを必ずしも求める必要はない」ということになる。
 坂本は、「来歴」という概念を、先の戦争中に「大東亜共栄圏」のイデオローグとして「活躍」した京都学派、特に高山岩男の「系譜」という概念からヒントを得て構想したようで、この「系譜」について、次のようにいっている。京都学派の企図した「世界史の哲学」にとって、「現在と過去の双方に対して、単なる歴史研究とは異なった特有の考察の方法」が必要であった。こうした考察の方法の根底にあるのは「創造的構想力」であり、それに導かれて歴史を再構成したのが「系譜」である(『日本は自らの来歴を語りうるか』228頁)、と。そのうえで、坂本は次のようにいう。

そもそも不確実な未来に向けてわれわれの来歴を確認しようとする場合には、実証主義的な考察と並んで、「京都学派」が掲げたような「創造的構想力」に立脚する考察もまた必要とされるのではないだろうか。(『日本は自らの来歴を語りうるか』237頁)

坂本のいう「われわれの来歴」、すなわち近代日本の「国家の来歴」とは、それを語る人間が自らの「実証主義的な考察」から導き出した(帰納した)ものではなく、それとはまったく別に、「創造的構想力」によって構想したものだということである。過去から現在に続く歴史の流れの先に、未来を展望しようとするのが実証主義的歴史学の立場であるが、それだけでは「不確実な未来」を見通すことはできない。それとは、次元の異なる「創造的構想力」によって、未来を透視することが必要だというわけである。したがって、この「創造的構想力」とは何かということが問題になるが、この点について、坂本は十分な説明をしていない。

3 歴史と「来歴」はどこが、どう違うのか?

 前にも引用したが、坂本は次のようにいっている。「来歴というものは、個人の場合においてそうであるように、国家の場合においても、過去の事実や経験を今日的観点から整理し意味づけるという点に意義を有する」。しかし、このことは、「来歴」だけではなく、実証的歴史研究に依拠して書かれた歴史にもあてはまる。書かれた歴史というものは、「過去の事実や経験を今日的観点から整理し意味づける」ことによって成り立つものだからである。その意味で、クローチェが言うように、すべての歴史は「現代史」なのである(カー『歴史とは何か』24‐25頁)。それでは、このようなものとしての歴史と、坂本のいう「来歴」とはどこが、どう違うのであろうか。
 書かれたものとしての歴史は、実証的歴史研究が進展して、新しい歴史的事実が発見されたり、時代の流れと共に、新しい「歴史の見方」が生まれたりすれば、それにともなって、変化し、多様化していく。逆に、歴史の書き方が変化し、多様化していけば、そのことが実証的歴史研究の方向を多様化したり、新たな「歴史の見方」を生み出したりすることにもなる。このように、実証的歴史研究と「歴史の見方」と書かれたものとしての歴史は、それらの間の相互作用を通して、つねに変化し、新しくなっていくものなのである。
 しかし、「来歴」の場合はそうではない。前にも指摘したように、「来歴」は歴史研究の成果を取り入れて、自己を補強することはあっても、歴史研究から作用を受けて変化するということはない。「来歴」は歴史研究からは独立した、まったく別個の「創造的構想力」によって構想されたものだからである。この「創造的構想力」は、もっとも広い意味では、一つの「歴史の見方」といえるであろうが、それが実証的歴史研究との間に相互作用をもたないという点で、あるべき「歴史の見方」とは異なる。「歴史の見方」は、実証的歴史研究によって、つねに再検証され、変化していくべきものだからである。
 以上の点において、「実証的歴史研究―「歴史の見方」―書かれた歴史」という関係と、「実証的歴史研究―創造的構想力―来歴」という関係は、相互にまったく異質のものということができる。

おわりに

 「東京裁判史観」批判を旗印とする人たちの多くが、関東大震災時の朝鮮人虐殺はなかったとか、南京大虐殺は虚構であるとか、実証的歴史研究の成果を頭から全面的に否定するのとは異なり、坂本多加雄は実証的歴史研究と「共存」し、その成果を利用しようとする。坂本によれば、「国家」(具体的には日本近代国家)はそれに固有の「来歴」(自分自身の物語)を持つのであり、「来歴」は歴史とは異質なものであるが、実証的歴史研究の成果に依拠することによって「真実性」や「信頼性」を高めることができるというわけである。
 坂本のいう「国家の来歴」というのは、一種の構築主義的「国家論」ということができるであろう。その点では、今日の思想状況に即応しているのであり、頭から無視したり、「非科学的」などと言って排斥したりするわけにはいかないものだと思う。

参考文献
カー、E. H.(清水幾太郎訳)『歴史とは何か』岩波新書、1962年。 
坂本多加雄『日本は自らの来歴を語りうるか』筑摩書房、1994年。
坂本多加雄『天皇論――象徴天皇制度と日本の来歴』文春学芸ライブラリー、2014年(『象徴天皇制度と日本の来歴』都市出版、1995年、を改題して、再刊)。

(「世界史の眼」No.4)

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芥川龍之介とウオルター・ローレイ
南塚信吾

 芥川龍之介は1917年(大正6年)に発表した短編『西郷隆盛』において、「ウオルタ・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話」というものに触れている。そこでは、「およそ歴史上の判断を下すに足るほど、正確な史料などと云うものは、どこにだってありはしないです。誰でもある事実の記録をするには自然と自分でディテエルの取捨選択をしながら、書いてゆく。これはしないつもりでも、事実としてするのだから仕方がない。と云う意味は、それだけもう客観的の事実から遠ざかると云う事です。・・・ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話なぞは、よくこの間の消息を語っている。あれは君も知っているでしょう。」と出てくる。(『芥川龍之介全集』2、ちくま文庫、1986年、107ページ)

 この短編『西郷隆盛』は、西南戦争を卒論で扱おうとする大学生と、一老人が、西郷隆盛が城山で戦死したことの真偽をめぐって対話をし、老人が、西郷がそこで死んだという決定的な証拠(史料)はないのだから、それは確定できないことであるとし、歴史はそのように史料で客観的に確定できないことが多いから、自分は歴史よりも文学を選ぶのだという話になっている。「ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話」というのは、「ウオルタア・ラレエ」が「客観的な事実」というものが何かが分からなくなって、その世界史の原稿を途中で破棄してしまったという話である。

 この話を歴史の面から考えてみると、二つのポイントがある。

 ひとつには、「正確な史料」などないのだ、「事実の記録」には人は「ディテエルの取捨選択」をするのだという記述から、この1917年の時点で、すでに歴史における史料の重要さ、その確定の難しさ、史料に入り込むバイアスということが、考慮すべきことになっていたということが知りうる。欧米の歴史学では、ランケの史料批判の方法が広がっていて、こういう考慮は当然のことになりつつあった。ただ、それを超えて「懐疑主義」的になるまでは行っていなかった。欧米の歴史学の分野では、管見の限りでは、フィッシャーの『ユニヴァーサル・ヒストリー概論』(1885年)などに、そういう「懐疑主義」にまで行く必要はないという方法論が述べられている。だが、文学や哲学の分野では、そういう「懐疑主義」はひろがっていたのかもしれない。アナトール・フランス『エピクロスの園』(1895年)のなかの「歴史」というエッセイに見られるような「歴史」への「懐疑主義」が広がり始めていたのかもしれない。『エピクロスの園』のなかの「歴史」において、アナトール・フランスは、「公平な歴史というものがあるだろうか」と問い、結局、「歴史は科学ではない。芸術である。歴史においては想像力によってしか成功できない。」と言っている(『エピクロスの園』岩波文庫、96-97)。芥川は、アナトール・フランスの影響を強く受けていたから、この『エピクロスの園』などを読んでいたとすれば、そこから懐疑主義を取り入れていたとも考えられる。芥川も、『西郷隆盛』の最後において老人に、「僕は歴史を書くにしても、嘘のない歴史なぞを書こうとは思わない。ただいかにもありそうな、美しい歴史さえ書ければ、それで満足する。」といわせている(『芥川龍之介全集』2、111ページ)。

 もうひとつは、「あれは君も知っているでしょう。」といっている点である。「あれ」というのは、「正確な史料」などはないから「ウオルタア・ラレエが一旦起した世界史の稿を廃した話」ということであろう。そうすると、当時たんにウオルタア・ラレエの名前だけでなく、またかれの『世界の歴史』だけでなく、かなり重要な内容が知られていたということになる。しかし、ウオルタア・ラレエの『世界の歴史』もそれが中途で終わったという話も、すでに日本に知られていたのかというと、管見の限りでは、見当たらない。ちなみに、ウオルタア・ラレエ自身について、当時どの程度知られていたのかを調べてみると、かれについては、夏目漱石の『倫敦塔』(1905年)という短編に出てくる。そこには、「階下の一室は昔しオルター・ロリーが幽囚の際万国史の草を記した所だと云い伝えられている。」と出てくる。だが、ここで「オルター・ロリー」がなんの説明もなく出てくるということは、すでに「オルター・ロリー」については、日本で知られていたということであろうか。ただし、漱石は、「オルター・ロリー」が万国史を途中で放棄したということは書いていない。

    * 

 さて、サー・ウオルター・ローレイは1614年に『世界の歴史』を書いている(いや途中まで書いた)1。17世紀には、神の摂理によって歴史を見るキリスト教的な「普遍史」に対し、合理主義的批判が始まってはいたが、まだその批判が対案を示せていない時代であった。そのような時代に、キリスト教の立場から書かれた世界史のひとつがこれであった。

 周知のように、ローレイは、エリザベス女王(在位1558~1603年)の廷臣で女王の寵愛を受け、イギリスの植民地政策の先頭を切っていた。しかし、かれは「スペインのスパイ」であるというので、1603年に告発され死刑の判決を受けたが、国王ジェイムズ(在位1603~25年)は最後に恩赦を与え、かれをロンドン塔に幽閉させた。かれはここに1603年から1616年までの13年間を過ごすことになる。まさにこのロンドン塔に幽閉されているときにかれは『世界の歴史』を書いたのである。1616年に釈放されてすぐにかれはギアナへ遠征に出かけたが、これもスペインとの関係を疑われて、1618年にふたたび逮捕され、裁判なしに処刑が決定され、執行された。

 かれの『世界の歴史』は全部で4巻からなり、第一巻は、世界の創造、アダムとエバ、「ノアの洪水」、ノアの子孫による地球の植民と最初のネイション、政府のはじまりなどからなり、第二巻は、出エジプト、モーゼの律法、イスラエルの初代王(ダビデ、ソロモンなど)、第三巻は、ペルシア帝国、ペロポネソス戦争、ギリシアからなり、第四巻は、マケドニア王国、ポエニ戦争、マケドニアとローマの戦争で終わっていた。さらに二巻を書いて近代までを扱うはずの予定であったが、第二次マケドニア戦争のところで急に終えてしまっていた。

 それは、古い歴史から新しい歴史への「移行期」の産物であった。かれは文書に依拠しようとする一方、神の摂理をも明らかにしようとしたのである。ローレイの『世界の歴史』は、イギリスのみならずヨーロッパにおいても、時間と空間の双方において世界史というべきものが目指されるなかで、本格的な世界史としては、最も早い著作であるとしばしば言われる。ローレイの『世界の歴史』は完全に聖書に忠実な「普遍史」ではなく、キリスト教の世界からすると、ある意味では「問題作」であった。ローレイは、聖書に基づいて世界史を論じているが、すべての論点について、諸説を突き合わせており、事実上、聖書にそのまま基づく「普遍史」に深刻な疑問を呈しているのである。かれは史料を重視したから、史料をコピーさせたり、借り出したりして、書いたという。これはルネサンスを経た時代の合理的な思考の表れであり、「普遍史」の「危機」の現れでもあった。その意味で、この本は重要な意味を持っている。
 
 かれが『世界の歴史』を途中で放棄した理由はいろいろと考えられている。通説によれば、かれの後援者でかれを救い出そうと努力していた若きヘンリー皇子が1612年に没したので、ローレイは落胆し、さらに二巻を書いて近代までを扱うはずの予定を放棄してしまったといわれる。たしかにそれは、皇子に捧げられていた。しかし、他にも説があり、定説はない。

    *

 さて、このローレイの『世界の歴史』はいつどのように日本に入り、芥川らの読むところとなったのだろうか。明治期には欧米の世界史がつぎつぎと翻訳され、「万国史」などとして出版されていたが、筆者がこれまでに見た限りでは、ローレイの『世界の歴史』が紹介されたのは、アメリカのジョージ・フィッシャーの『ユニヴァーサル・ヒストリー概論』2(1885年)を通してではなかったかと考えられる。かれは1852-54年にドイツへ行って、神学を学ぶとともに、歴史研究の方法を徹底的に学んでいた。かの本は、ランケ以後のドイツ史学の方法を学びつつ書かれた世界史で、19世紀の欧米での「世界史」の形成の一つの頂点をしめしている。これは日本にも紹介され、大きな影響を与えることになる。長沢市蔵『新編万国歴史』1893年(明治26年)はその要訳であった。ランケやブルックハルトの世界史が未だ紹介されていない日本において、このフィッシャーの世界史は、19世紀末のヨーロッパでの「世界史」をその方法と構成において最も忠実に日本へ伝えたものであった。フィッシャーは、ランケにならって史料の重要さを説くが、この史料の重要性を考えるあまり、歴史に「懐疑的」になることも批判していた。

 興味深いことにここで、ウオルター・ローレイの『世界の歴史』の話が出てくるのである。ローレイがロンドン塔に幽閉されて、『世界の歴史』を執筆していたとき、牢獄の中庭で大騒ぎが起こった。かれが、その騒ぎに関係した人たちから聞いたところによると、その説明にはあまりに多くの矛盾があって、本当のところを確認することができなかった。そこで、かれは、このような狭い場所に起きている出来事さえ確定できないのだから、この広大な世界という舞台に起きていることを描くということは無駄なことではないかと考えた、というのである。それは懐疑的すぎるとフィッシャーは言うのである。

 これはひょっとしたら、芥川龍之介が『西郷隆盛』(大正6年)において述べていた話のネタなのかもしれないと思ってしまう。しめたと思って調べてみると、フィッシャーの本の抄訳である長沢市蔵『新編万国歴史』ではこの史料論のところが翻訳されていないのである。とすると、芥川は夏目漱石から学んだのだろうか。あるいは東京帝国大学文学部で学んでいるときに英語で読んだのだろうか。そこでの大塚保治の美学講義で語られていたのだろうか(小谷瑛輔氏のご教示)。さらには、かれのよく通った漱石主催の「木曜会」での話題だったのだろうか(木村英明氏のご教示)。今のところ、これは疑問のままにしておくしかない。ともかく、芥川龍之介『西郷隆盛』の中には、世界史がうごめいているのである。

1 Sir Walter Rawleigh, History of the World, London, 1614.
2 George P. Fisher, Outlines of Universal History, New York, 1885.

(「世界史の眼」No.4)

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